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2011/12/14

鈴木しづ子 三十二歳 昭和二十七(一九五二)年四月十五日附句稿二百十七句より(10) 七句

 國ごころ花の蘇枋は濃かりけり

 蘇枋咲き封建ごころつづくなり

 自由欲し花の蘇枋は降りて咲き

 日本といふ國なつてはをらずきぼしの芽

 蘇枋濃しむかし還るか國ごころ

 蘇枋濃し共産ごころも一つの思

 ややこしき政治なるかな蘇枋濃し

 底本では「蘇栃」とあるが、しづ子自身の誤記か底本の誤植かは分からないが、「蘇枋」の誤り(「蘇栃」と書く植物はない)。私の判断ですべて訂した。「蘇枋」は「すはう(すおう)」で、バラ目マメ(ジャケツイバラ)科ジャケツイバラ亜科ジャケツイバラ属スオウ Caesalpinia sappan 若しくは同ハナズオウ属ハナズオウ Cercis chinensis こと。四月、葉が出る前に黄や桃・赤紫・白色の小さな蝶形の花が固まって咲く。「濃し」とあるから後者のハナズオウ赤紫のものかと思われる。花言葉は「豊かな生涯」。
 これらの珍しく強い政治性を孕んだしづ子の社会性俳句は、この句稿の日附から、警察予備隊から保安隊への再編の時期との関連を強く感じさせる。以下、ウィキの「警察予備隊」によれば、この日附の十三日後の昭和二十七(一九五二)年四月二十八日、サンフランシスコ講和条約が発効し、ポツダム命令は原則一八〇日以内に失効するはずであったが、ポツダム命令に含まれた警察予備隊令については同年五月二十七日の改正によって「当分の間、法律としての効力を有する」ものとされた。しかし政府は、軍事力を保有する法的根拠の明確化と体制整備を図るために海上警備隊を統合する保安庁構想の下に保安庁法を成立させ、同年八月一日に保安庁を発足、『警察予備隊は後の防衛省の内部部局に相当する「本部」、陸上幕僚監部に相当する「総隊」、陸上自衛隊に相当する「管区隊以下の部隊等」に分けられ、本部と総隊はそれぞれ保安庁内部部局と第一幕僚監部への移行と同時に廃止されたが、部隊等は』『警察予備隊」の名称のまま保安庁の下部組織として』数か月存続、同年十月十五日、後の自衛隊となる保安隊が発足することになる。なお、若い読者のために言っておくと、日本共産党は戦後、「人民の軍隊」による自国防衛の必要性を訴え、一九八〇年代までは、アメリカに従属した自衛隊を解消した上で、改憲をも視野に入れた自衛組織による武装中立策をとっており、非武装や護憲ではなかったし、昭和三十(一九五五)年七月の第六回全国協議会(六全協)で武装闘争路線の放棄を決議するまでは、中国革命に倣った社会主義革命のための武装闘争を長い間、綱領としていた。このサンフランシスコ講和条約によって一九五〇年から続いていたレッドパージは解除されたが、公職追放や解職・免職となった人々の殆どは現職復帰は出来なかった。

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