「新編鎌倉志卷之七」の鰹
「新編鎌倉志卷之七」は妙本寺を経て、田代観音堂・延命寺・教恩寺・逆川・辻町・辻の薬師・乱橋・材木座までやってきた。材木座は藪野家の実家でもあるので近親感がいや増すのであるが、ここで漁村であることからカツオのことを記している。ここのところ、何事にも怒らないようにしているから、今回、「徒然草」の引用でわざと切れた。すっきりした。更に調べてみたところが、実にあの芭蕉の友人素堂の名句や芭蕉の句がこの「新編鎌倉志」の執筆と完全にシンクロナイズしていたことを発見し、今度は何故だか訳もなく嬉しくなってしまった。以下に引用しておく。
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〇材木座 材木座ザイモクザは、亂橋ミダレバシの南の濵ハマまでの漁村を云ふ。里民魚を捕トりて業ワザとす。【徒然草】に、鎌倉の海に竪魚カツヲと云魚ウヲは、彼の境には左右なき物にて、もてなすものなりとあり。今も鎌倉の名物也。是より由比の濵ハマへ出て左へ行ユけば、飯島イヒシマの道右へ行ユけば鶴が岡の大鳥居の邊へ出るなり。
[やぶちゃん注:「もてなすものなりとあり」の部分は底本では「もてなすもの也と有」であるが影印本で訂した。以下に「徒然草」第百十九段を引用しておく。
鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境さかひには、双さうなきものにて、このごろもてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申しはべりしは、「この魚、おのれら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づることはべらざりき。頭かしらは、下部しもべも食はず、切りて捨てはべりしものなり」と申しき。か樣やうの物も、世の末になれば、上樣かみざままでも入りたつわざにこそはべるなり。
多田鉄之助「たべもの日本史」(一九七二年新人物往来社刊)には、当時、下種とされた鰹が鎌倉武士に好まれたのは「カツヲ」が「勝男」通ずるからとある。にしてもだ! 私はカツオが大好きで、たたきなら大蒜さえあれば一尾一人で食い尽くせるほどだ! 従って兼好のこの一文だけは永遠に許せないぞ! 糞坊主が!
なお、本書「新編鎌倉志」の元となった光圀自身の来鎌は延宝二(一六七四)年、その後に本書が完成印行されたのが貞亨二(一六八五)年であるが、山口素堂が材木座海岸で詠んだとされる名吟、
目には靑葉山ほととぎす初鰹
は延宝六(一六七八)年の作、また芭蕉の知られた、
鎌倉を生きて出でけん初鰹
は元禄五(一六九二)年の作、更に、蕉門十哲の一人其角には、
まな板に小判一枚初がつを
の句があることからも分かる通り、正にこの光圀の時代には将軍家へも献上され、通人は鎌倉で揚がった初鰹を舟通いでわざわざ鎌倉にやってきて、一尾一両で買うのをお洒落としたのであった。これらの句をここに並べてみると、実に「いいね!」
「大鳥居」は現在の一の鳥居のこと。]
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