鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月十五日附句稿五百四十六句より(4) 北海道追懐句群十七句
石狩の林檎をかじりをはりたり
死に難しかくもしたたる蝦夷の夏
北海の浪のしぶきや夏の航
蝦夷の地へこころ走るや山邊の燈
生きるべし蝦夷はまつたき夏みどり
北海を渡るこの體ぞ胸熱し
折り待てる鈴蘭萎ふこともなし
逆卷ける浪に投げけり一莖を
海渡る髮にかざせし鈴蘭かな
鈴蘭やわが二十代けんらんと
石狩の夕燒けに染む十指かな
陸見え來指に落とせし煙草の火
旅の體に蝦夷の夕燒け濃かりけり
旅果てり蝦夷の角卷見ることなく
夕べ濃きひと日の蝦夷を離りたり
樺太は識らず夏めく白夜かな
石炭の蝦夷に來て泊つ靑菜汁
北海道追懐句群。しづ子は実は北海道に住んだことがある。しかしそれは大正一四(一九二五)年、しづ子六歳の時のことで、これらはその遙か四半世紀も前の回想吟なのである。あなたは六歳の記憶をこれだけのパワーを以て詠えますか? 私には出来ない。
「折り待てる」の句の「萎ふ」は「しなふ」であろうが、通常は「しなぶ」で「しなびる」の意である。
「鈴蘭や」の句は、北海道の追懐ではなく前句の「鈴蘭」に触発された感懐句であろうが、連続性を認めて採った。
「陸見え來」や「夕べ濃き」の句柄は不思議である。これはあたかも大人になった、若しくは句稿を投じた近々に一日だけ北海道を訪れたかのような句柄である。夢想句かも知れないし、事実、実はしづ子はこの頃、何らかの理由で北海道を再訪していたのかも知れない。謎である。一つだけ、私が気になることがある。それはこの前の年、昭和二十六(一九五一)年に黒澤明監督の「白痴」――ドストエフスキイの「白痴」を北海道に移して脚色――が公開されている点である。しづ子はこの映画を見て、この想像を絶したタイム・スリップの大ジャンプ句群を美事に成し遂げたのではなかったろうか? さすれば、私は、私の大好きな原節子演じる美しい角巻姿(以下の注を参照)の那須妙子に、しづ子はシンクロニティしたはずである。これらの一見、現在形北海道実景句は、悲劇のヒロイン那須妙子――ナスターシャになったしづ子の演技ではなかったか?――と夢想するのである。
「旅果てり」の句の「見ることなく」は底本では「見ることふく」であるが、草書体「な」の誤読と判断して訂した。「角卷」とは「かくまき」と読み、北国で女性が外出する際に身に纏った防寒着の名称である。サイト「北海道人」の「角巻ものがたり」によれば、『大きめの四角い毛織物で、三角に折って背中から羽織るように着た。ショールとも違う、すっぽりと体が入るくらいの大きさで、色は茶や赤、紺などさまざま。四角形のふちには房があり、歩くとさらさら揺れた』。このファッションは明治期から現われ、昭和三十年代には姿を消したとあり、『この角巻は、北海道だけの風俗ではなく、東北地方や北陸地方など、北国に広くひろがった冬の風物詩だった。』ルーツは赤ゲットにあり、『女性にとってみれば、ショールやマントのようにまとえ、和服でも洋服でも合わせることができ、しかも断然に温かい角巻は、実用性とファッション性を兼ね備えたものだった』とあり、この記者は『かつて母の角巻に包まれて幸せだった子供たちの姿も、もう見ることはできない』と結んでおられる。――角巻――如何にもしづ子に似合いそうではないか――
川村蘭太氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」によれば、しづ子の父俊雄の渡道は、大正末から昭和初年で、陸軍のシベリア測量班としての出兵のための訓練を受けるためであったと推定されている。『俊雄は、家族に自分の勇姿を見せたかったのだろう』とあり、『家族で棲む北海道。叔母の朝子も祖母たちもしづ子の手を握って、北海の風景に見とれていたのだろうか。鈴木家にとって、それは一番の至福の時であった。』しかし、川村氏は続けて言う。『しづ子が当時の子供時代に戻ってこの俳句を詠んでいる。家族の前から姿を消す覚悟の上で作句している。哀れである。巨湫もかつての恋人も知らない、家族との思い出である。』――しづ子の人生の楽園は、もう二十五年以上も前の霧の彼方へ、とっくに消えていたのであった――
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