鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十四日附句稿百五十七句より(5) 五句
駐留軍キャムプへかよふ棗の實
タイプ打って必死の夏を過ごしけり
タイプ打つWに當つる汗の指
夏葉吹き英文タイプにミス多く
タイプでは生活たたず棗嚙む
しづ子が岐阜へ来たのは昭和二十四(一九四九)年であるから、その後の二年間の夏の時期に、しづ子は進駐軍のキャンプでタイピストとして働いていたことがあるか、働こうとして米軍基地でタイプを習っていたことが、これらの句から推定される。川村氏は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の二七〇頁で、ケリーとの交際の中でその機会を得たのかも知れないが、しづ子が米軍基地に勤務した形跡は見当たらず、しづ子がかつて『女子大学の入試に失敗したように、その夢もまた果たせなかったのかもしれない。この句が、ダンサーになる以前のものか、その後の句なのかは定かではない。だが哀れな心境ではある』と記されている。特に「タイプ打つWに當つる汗の指」は、しづ子の真骨頂であるカメラのアップが素晴らしい私の大好きな句で、二〇〇九年八月河出書房新社刊の『KAWADE道の手帖』の「鈴木しづ子」のエッセイで俳人の土肥あき子氏がこの句を鑑賞し、『浮遊した双手をわが身に引き寄せるように、タイプライターの上で悪戦苦闘するしづ子』の映像を語り、『しづ子の人生にもっとも大きな影を背負った、運命の指がそこにある』と語られている。この「Wを打てば」という文章、しづ子への評の中でも頗る名品であると私は思う。
« 鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十四日附句稿百五十七句より(4) 二句 | トップページ | 鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年六月二十四日附句稿百五十七句より(6) 萬緑の岩に腰をきトマト喰めり »