南極観測船「宗谷」夢
僕は氷結した海に接岸する南極観測船「宗谷」に友人と二人で乗り組む。名古屋港の「宗谷」のように、展示室になっているのであるが、そこには「遊星からの物体X」のような、布のような卵のようなパイルのような多様な不定形の生物の冷凍保存体が無数にあり、それが密閉されたアクリルの棟の中で、凍ったままにはためいたり、膨張したり、振動したりしている。一部屋がタロとジロに割り当てられているのだが、そこにはやはり完全冷凍になって、かつチワワ大に収縮した実物のタロとジロが、氷結した室の壁面にいて、我々にクンクンと鳴くのである――とその時、大地震が起こって、「宗谷」が大きく30度近くピッチングする――僕は舫いが離れたのを実感した――僕と友人は、最早、この得体の知れない氷結した「宗谷」とともに『さまよえる日本人』となるのだ――と覚悟した――
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という夢を今朝見て、「宗谷」を調べて、こんな僕の安っぽい夢に出ていいような船でないことを初めて知った。「宗谷」は戦前にソ連の発注で作られ、後に日本海軍の軍艦となった事実をである。以下にウィキの「宗谷」を参照にして纏めたものを示して、「宗谷」の歴史に心からの敬意を示したい。
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現在の「宗谷」は、実はソビエト連邦通商代表部から耐氷型貨物船として日本に発注され、1938年(昭和13年)2月16日にソ連船ボロチャエベツ(Volochaevets)として進水するものの、戦争によって引き渡しが行われず、「地領丸」として竣工した。当時としては珍しいソナーが装備されていたため、大日本帝国海軍が購入、1940年(昭和15年)2月20日、正規の軍艦として入籍、海軍艦政本部により「宗谷」と改名された。8㎝単装高角砲1門・25㎜連装機銃を装備した砕氷軍艦として横須賀鎮守府部隊付属となった。北樺太の調査を初期任務としてこなし、後、サイパン島への調査を行った。1941年12月8日、横須賀で日米開戦の報を受け、トラック・ラバウルなどの南方での測量作業に従事、1942年のミッドウェー海戦には上陸部隊輸送船団の一隻として参加、同年8月にはラバウル第8艦隊に所属した。同年8月7日からガダルカナル島の戦いが始まり、海軍陸戦隊を載せた「宗谷」はツラギ島奪還に向かう。同年8月8日、作戦中止命令により「宗谷」はラバウルを経てトラック基地に帰還。戦局悪化後はガダルカナル島撤退に使用された。トラック島では空襲の回避行動中に座礁、米軍機1機を撃墜するも9名が戦死、総員退艦命令が出たが、満ち潮と共に宗谷は奇跡的に脱出に成功した。しかし当時の艦長天谷嘉重大佐は責任を感じ、1944年(昭和19年)12月16日に拳銃で自殺している。1945年(昭和20年)6月26日、「宗谷」を含む第126船団は船越湾大釜崎沖を航行中、米潜水艦「パーチェ」からの雷撃を受ける。「宗谷」は爆雷で反撃、パーチェに損害を与えて撃退した。終戦時、「宗谷」は北海道室蘭港に所在、終戦後は主に小樽―樺太間を往復して、引揚者を本土へと運んだ。1956年(昭和31年)11月8日 国際地球観測年に伴う南極観測のための南極観測船「宗谷」となり、1957年(昭和32年)1月29日、「宗谷」の乗り組んだ第1次南極地域観測隊がオングル島に昭和基地を建設したのであった。
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