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2012/01/31

鈴木しづ子 三十四歳 『樹海』昭和三十(一九五五)年一月号しづ子詐称投句全掲載句

 わがことをひとびと言ふや麥の秋

 麥秋やつねききながらおのがこと

 知人なしやがて花もつ櫻の木

 坐すや膝年賀のふみのひとつなく

 つよからぬ體臭の衣すらも脱ぐ

 ただ墓が穹のましたにならぶのみ

 この句群は不思議にいい。それはまさにこの時期にあって――先の前年九月と十月の二号続きの巨湫に私物化された「しづ子」の後では――殊によい。私が当寺の『樹海』同人なら、まさにこの句群に、しづ子は投句を続けている、しづ子節は健在だ、と間違いなく思うであろう。しかし、それも巨湫の完全犯罪なのか。――そうして――確かにしづ子の眼は――死を見据えている――

2012/01/30

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(15)

 空は晴れ渡つて暖く照らし、全島を耀かしい寶石の如く光らせ、海と空をば蒼い輝かしい光で充たしてゐる。
 私は岩の上に足を投げ出さうとやつて來た。前には北島の緣が黑ずんで見え、右手には餘りの靑さに眺められない位なゴルウェー灣が、左手には大西洋が、脚の下には切り立つた斷崖があり、頭の上には無數の鷗が翼で白い卷雲を作つて、追ひつ追はれつ飛んでゐる。
 冠鳥の巣が何處か近くにあるらしく、年取つたのが一羽、頭の上、四十ヤード位の高さから手の届くまで近く、石のやうに絶えず落ちて來ては、私を追ひ立ようとしている。
 をさ鳥は時々鯖を追つて、急に飛び下りながら、瀨戸の彼方此方を飛んでゐる。もつと沖の方にはキルロナンを出て西の方の深海に夜釣に出かける漁船の一隊が見える。
 此處に何時間も休んでゐると、私も斷崖の野外遊戲に入り交つて、鵜や烏の仲間入りをしてゐるやうな氣がする。
 多くの鳥は未開人の虛榮心を以つて私の目前で、これ見よがしに私の姿の見えてゐる間は、不思議な圓を描いてゐるが、私が行つてしまふと、岩の突出しに戻る。或る者は驚くほど巧妙に、長い時間を羽搏(はばた)き一つせずに、優美な姿をありありと浮かべて、餘り自分の巧さに夢中になつて、時時他の鳥と衝突する。そしてその後で亂暴な嘲りの聲が次いてどつと起る。彼等の言葉はゲール語より容易しい。私は答へる事は出來なくても、その叫び聲の大方はわかるやうな気がする。彼等にはガーガー聲の中に、不思議な效果となつて上げる一つの物悲しい音色がある。その音色を彼等は譯の分からない一種の哀音となして、崖沿ひにそれからそれへと傳へて行く。恰かも彼等は暫く、霧の恐ろしさを憶ひ出したかのやうに。
 東の方、低い一面の岩の上には、赤や灰色の多くの人が忙しさうに働いてゐるのが見える。昨夜の慘めさから今日の輝かしさへ、極りなく變化する此の島の氣候は、藝術家や一種の精神状態によくある悲喜交々する氣分に類似したものを此處の人たちに植ゑ付けたやうである。とは云ふものの、島の本當の精神は或る文句の音調か、古い歌の斷片に於いてのみつかみ得るに過ぎない。何故なら、概して人人は一緒に腰掛けて、汐の事、魚の事、コニマラに於ける海草灰の値段の事などを盡きる事なく話してゐるからである。

It has cleared, and the sun is shining with a luminous warmth that makes the whole island glisten with the splendor of a gem, and fills the sea and sky with a radiance of blue light.
I have come out to lie on the rocks where I have the black edge of the north island in front of me, Galway Bay, too blue almost to look at, on my right, the Atlantic on my left, a perpendicular cliff under my ankles, and over me innumerable gulls that chase each other in a white cirrus of wings.
A nest of hooded crows is somewhere near me, and one of the old birds is trying to drive me away by letting itself fall like a stone every few moments, from about forty yards above me to within reach of my hand.
Gannets are passing up and down above the sound, swooping at times after a mackerel, and further off I can see the whole fleet of hookers coming out from Kilronan for a night's fishing in the deep water to the west.
As I lie here hour after hour, I seem to enter into the wild pastimes of the cliff, and to become a companion of the cormorants and crows.
Many of the birds display themselves before me with the vanity of barbarians, performing in strange evolutions as long as I am in sight, and returning to their ledge of rock when I am gone. Some are wonderfully expert, and cut graceful figures for an inconceivable time without a flap of their wings, growing so absorbed in their own dexterity that they often collide with one another in their flight, an incident always followed by a wild outburst of abuse. Their language is easier than Gaelic, and I seem to understand the greater part of their cries, though I am not able to answer. There is one plaintive note which they take up in the middle of their usual babble with extraordinary effect, and pass on from one to another along the cliff with a sort of an inarticulate wail, as if they remembered for an instant the horror of the mist.
On the low sheets of rock to the east I can see a number of red and grey figures hurrying about their work. The continual passing in this island between the misery of last night and the splendor of to-day, seems to create an affinity between the moods of these people and the moods of varying rapture and dismay that are frequent in artists, and in certain forms of alienation. Yet it is only in the intonation of a few sentences or some old fragment of melody that I catch the real spirit of the island, for in general the men sit together and talk with endless iteration of the tides and fish, and of the price of kelp in Connemara.

[やぶちゃん注:「冠烏」“hooded crows”はスズメ目カラス科ハイイロガラス(ズキンガラス)Corvus cornix のこと。ハシボソガラスCorvus corone の亜種とされる。ウラル山脈以西のロシアや東ヨーロッパ・北部ヨーロッパに広く棲息する。体長約50cmで雑食性、灰色の体に黒ずんだ濃紺の頭・胸と濃青色の翼を持つ。通常は高木の梢に営巣する。
「四十ヤード」約36m 強。
「をさ鳥」“Gannets”。オサドリはカツオドリの別名で、元は小笠原方言とする記載が多い。通常なら英名のこれは確かに和名のペリカン目カツオドリ科カツオドリSula leucogaster を指すのであるが、この「カツオドリ」を逆に調べてみると、英名では“Brown Booby”となっており、やや同定に躊躇する。逆に英語の“Gannet”を調べると、同じカツオドリ科のシロカツオドリMorus bassanusに“Northern Gannet”の英名が与えられている。シロカツオドリの繁殖地域は北大西洋で、現在の主な繁殖地としてアラン島に近いアイルランド南西端がドットされており、また、海を見下ろす崖や小さな岩塊の多い島に大きな集団営巣地を形成することからも、「シロカツオドリ」が有力な正式同定候補となるように思われる。
「海草灰」原文の“kelp”は、通常ならば大型のコンブ類の生体を指すが、ここでは姉崎氏の訳したように海藻を燻して灰にしたものを指している。これはコンブの他、アラメ・カジメ・ホンダワラなどを含む広範な褐藻類を天日干しにした上で、更にそれを蒸し焼きにして作った灰で、当時は農業用のカリウム肥料や西洋人に欠乏しがちなヨードを精製するための原料にした。後にその粗製シーンが描写される。但し、姉崎氏の「海草灰」という訳語は海洋生物愛好家の私にはいただけない。「海草」は水棲種子植物を指し、植物分類学上のケルプ類=海産藻類とは全く異なるからである。]

2012/01/29

「曽根崎心中」夢

昨日僕は「曽根崎心中」の夢を見たのである――

僕は德兵衛なのである……しかし勿論、むくつけき生の僕ではない人形の徳兵衛であるからして安堵されよ――

而して、それに遣い手はいない――

人形が自律的に動くのだ――

生玉社前の段に始まって天満屋の段まで――

僕はお初の足首で首を掻っ切る――

明りを消そうとするお初を僕は階段下からアオリで見た――

階段を堕ちるお初――

その横顔のアップ――

アアッ! そこで目が覚めてしまった!……

そんな夢が見られるもんかって?

見られるんだな! これが!

僕は栗崎碧の浄瑠璃人形を用いた稀有の映画「曽根崎心中」をロードショーで見てるからさ――

あれは今思えば――

凄い映画だったんだな――

――吉田玉男に吉田蓑助

――太夫は九代目竹本綱大夫に豊竹呂大夫

――三味は鶴沢清治

――おまけに主遣いも含めて総てが黒子、天満屋のセットを除いて、ロケだぜ! それも夜の天神森の(あの吉田玉男が蚊に刺されて閉口したというんだ!)!――

ああ……もう一度、見たい……え?……勿論、あの映画も、だけど……僕の「夢」の続きを……さ……

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(14)

 吹きまくる霧の一週間は終つたが、私は妙に流し者の淋しい氣持になつた。殆んど毎日島の中を歩き廻つたが、濕つた岩の群と細長い波と荒れ狂ふ波の騒ぎの外には何も見る事は出來ない。
 スレート質の石灰岩はその上に滴る水で黑ずみ、どちらを向いても、狹い間に重り合ひ捲き合ひしてゐる同じやうな暗澹たる心のつきまとひ、石垣の荒い岩目に叫び咽ぶ同じやうな悲しい音ばかりである。
 初め、人人は周圍の荒涼たる有樣に對しては氣も留めないでゐるが、數日たつと彼等の聲は茶の間でも滅入ってしまひ、豚や牛のことを果しなく話てゐるのが、化け物屋敷で話してゐる人たちの囁き聲のやうに低くなる。

A week of sweeping fogs has passed over and given me a strange sense of exile and desolation. I walk round the island nearly every day, yet I can see nothing anywhere but a mass of wet rock, a strip of surf, and then a tumult of waves.
The slaty limestone has grown black with the water that is dripping on it, and wherever I turn there is the same grey obsession twining and wreathing itself among the narrow fields, and the same wail from the wind that shrieks and whistles in the loose rubble of the walls.
At first the people do not give much attention to the wilderness that is round them, but after a few days their voices sink in the kitchen, and their endless talk of pigs and cattle falls to the whisper of men who are telling stories in a haunted house.

[やぶちゃん注:「妙に流し者の淋しい氣持」“strange sense of exile and desolation”。“exile”の「流し者」は「流刑に処せられた者」という意味で、“desolation”は「荒蕪地・荒寥地方」であるから、「荒涼たる地の自然と流刑者の人事といった異様な寂寥の気持ち」といったニュアンスであろう。私は本節の姉崎氏の畳み掛けた有機的な荒々しい日本語表現が好きだ。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(13)

 かういふ話には、彼はいつも一人稱で話す。描かれる場面の中へ實際、自分が出て來るやうに細かい描寫をしながら。
 此の話の初めに、彼はその時、ダブリンへ行く途中で自分のもてた事を長長と語り、市中の目拔の町の金持の人たちに逢ひに行つた話をした。

In stories of this kind he always speaks in the first person, with minute details to show that he was actually present at the scenes that are described.
At the beginning of this story he gave me a long account of what had made him be on his way to Dublin on that occasion, and told me about all the rich people he was going to see in the finest streets of the city.

[やぶちゃん注:「彼はその時、ダブリンへ行く途中で自分のもてた事を長長と語り」という訳は如何にもさもありなんと感じさせる面白い訳であるが、原文を見る限り、前文の「細かい描寫」“minute details”を受けており、単に「彼はこの話の際にも、そのさわりの部分で、彼がダブリンへ向かうこととなった理由について長々と話をし」というパット爺さんの退屈な前振りを言っているように思われる。
「市中の目拔の町の金持の人たちに逢ひに行つた話をした」は、「ダブリン市内の目抜き通りで彼が出逢った、あらゆる金持ち連中一人ひとりについて、まことにご丁寧に私に説教したもうた」といった意味であろう。これも同様に聴くシングが幾分、内心閉口したことを皮肉っての表現のように思われる。]

新編鎌倉志卷之八 六浦

「新編鎌倉志卷之八」は六浦に入った。今回は国立国会図書館のデジタルライブラリーの画像にも世話になった。

序でに瓢箪から駒で、参考にしている「江戸名所図会」の「六浦」の項に誤りを見つけた。「鎌倉九代記」(=「鎌倉管領九代記」=「鎌倉公方九代記」)を「北条九代記」としているのである。また、その筑摩版の編者割注も書名の誤りを指摘しておらず、不親切、正直言うと僕には不幸中の幸いでしかない結果オーライの誤りにしか見えないのである。

こんな重箱の隅を突くようなと言われるかも知れない発見でも(僕にとっては決して些末な問題ではないと感じられるのだが)、一つ一つ自分なりに点検して鮮やかに分かってみると――実に面白い。

――「知」の遊びは――やっぱり面白い。

宇野浩二 芥川龍之介 三~(1)

今回は、大きな注記が幾つもあるため、注を施した語句の当該段落末に注記を配した。僕としては未電子化テクストも含む、かなりオリジナリティを発揮出来た注が書けたと内心自負している。今回のパートはやや長いが、よろしければお読みあれ。

 

 

     三

 

 下諏訪は、諏訪湖の東北岸にあり、旧中仙道〔きゅうなかせんどう〕の一駅であり、甲州街道と伊那街道の分岐点にあたり、和田峠の麓にある。と、こう書くと、書く私がいうまでもなく、固苦〔かたくる〕しいが、下諏訪は、このような所であるから、今もそうであろうが、その頃は、殊に古風な町であった。しかし、また、この町は、その時分は、長野県内で製糸場もっとも多い諏訪湖北の四箇町村の一〔ひと〕つであったから、下諏訪の駅前の通りの片側には、繭〔まゆ〕をいれてある、窗〔まど〕のたくさんある、白壁の倉が、四〔よっ〕つ五〔いつ〕つ、ならんでいた。
 さて、私たちが、その時、この下諏訪の駅についたのは、昼〔ひる〕すぎであったが、プラットフォオムにおりると、二人とも、殆んど一しょに、「おお、これは、」と、呻〔うめ〕くように、云った。『これは、』といったのは、『これは寒い、』という意味である。
 そう云ったきりで、二人は、無言で、足を早めて、あるせ出した。ところが、芥川は、改札口を二三歩〔ぽ〕出〔で〕ると、「ウ、ウ、」というような声を出して、立ちどまった。そうして、胴ぶるいしながら、もう一度、
「ウ、ウ、」と、いって、こんどは、怒〔おこ〕ったような声で、
「じっに寒いね、……君〔きみ〕、これは、ひどい町〔まち〕だね、……どこに、温泉が、あるんだ、」と、芥川は、いった。
「……ここは、温泉は、上〔うえ〕の方〔ほう〕に、あるんだ、……この町の一ばん高いところにあるんだ、しかし、あまり遠くないから、歩こう、」と、私は、わざとおちついた調子で、云いながら、芥川の返事を待たずにあるきだした。
 すると、芥川は私と競争するようにすたすたと、歩きはじめた。
 停車場の前のせまい広場をぬけると、細い、でこぼこの道が、はじめだらだら坂であった町が、しだいに急になってくる。その坂道の両側に、両側の家家の前に、溝川がある。それらの家家はみすぼらしくて古〔ふる〕びている。風はすこしもないが、いくら早く歩いても、体〔からだ〕じゅうが、寒いのをとおりこして、冷〔つめ〕たい。息をきらしながら無言で歩きつづけていた芥川が、突然、「ほお、ここに、郵便局があるね、」と、いった。青いペンキぬりのドアがついているので、目についたのであろう。やがて、その道が、二〔ふた〕つにわかれて、さらに急な坂道になる。その急な坂道を半町〔ちょう〕ほど上〔のぼ〕ると、つきあたりになって、広い道に出る。温泉宿は、この急な坂道の上の方〔ほう〕の両側にあり、その広い道の両側にある。そうして、この広い道を左の方にゆけば、中仙道で、和田峠に出〔い〕で、右の方にゆけば、すく諏訪神社の下社〔しもしゃ〕がある。私が一年ほど前とまった万屋〔よろずや〕は、その急な坂をのぼりきったつきあたりにあった。
 ところが、やっと万屋の二階の座敷におちついたが、ゆめ子をよぶには、日のみじかい時であったが、時間が早すぎた。そこで、部屋のまん中〔なか〕の火燵に、私たちは、さしむかいに、はいってみたが、日が暮れるまで時間をつぶすのに困ってしまった。すると、芥川が、例のごとく、いきなり、
「君、土屋文明が、諏訪高等女学校の校長をしている筈だから、電話をかけてみて、いたら、たずねて行って、案内かたがた、おごらしてやろう、行かないか、」と、いった。
「……行くけど、土屋文明って、歌人だろう、……君は、さすがに、いろいろな人を知ってるね。」
「だって、土屋は、僕らのやった『新思潮』の同人だよ、……土屋は、われわれ――つまり、僕、菊池、久米、など――より、五六年も前に名を出したよ、君〔きみ〕、その点、歌人は、いったいに、名をあげるのが早いね、……しかし、あんまり早く名をあげるのもヨシアシだね、(と、ここで、芥川は、ちょいと、例の一流の笑い方〔かた〕をした、)……しかし、いずれにしても、ちょっと逢ってみたい。」
 ところが、宿屋の番頭をよんで、諏訪高等女学校に電話をかけてくれ、というと、諏訪高等女学校は、下諏訪でなく、上諏訪にあるという事であった、それで、せっかく思いついた土屋文明を訪問する事も、『おじゃん』になってしまった。
 土屋のところへ行かないときまると、二人とも急に眠くなってきた。そこで、温泉にはいってから、私たちは、火燵をはさんで、寝ることにした。
 その火燵の両側に蒲団をしいて、女中が部屋を出てゆくと、芥川は、私の方をむいて、例のように、いきなり、
「……君〔きみ〕、あの女中は、蒲団をしきながら、君に、しきりに、色目〔いろめ〕をつかっていたよ、」といった。
 その女中は、大柄〔おおがら〕で、背〔せ〕もたかく、顔も大きく、鼻は低〔ひく〕かったが、目が大きく、ちょっと目をひく女であった。(その女中は越後の小千谷〔おぢや〕の生まれである。)
「……君は、あいかわらず、目が早いね、……君は、あんな女がすきか。」
「いや、僕は、大きな女は、きらいだ、……もっとも、例外もあるがね、」と、云いながら、芥川は、にやりと、笑った。
 さて、私は、蒲団の中〔なか〕にもぐつてから、ふだんなら一分〔ぷん〕か二分〔ふん〕で寝ついてしまうのであるが、この時は妙に眠れなかった。それは、芥川が、「ぜひ逢わしてくれよ、君のあの小説の女主人公を見たいよ、」といった、そのゆめ子が、普通にいう美人ではなかったからである、いや、『美人』の部にはいらなかったからである。それで、芥川が、あの芥川流の目で、ゆめ子を見て、どのような事をいうか、(というより、どのように思うか、)と心にかかったからである、芥川にゆめ子を見せるのがきまりがわるくなってきたからである、はては、芥川をこんな所につれて来たことを後悔する気になったからである。――私も、まだ若かったのである。前にかいたように、その年〔とし〕、芥川は、かぞえ年〔どし〕、二十九歳であり、私は、三十歳であった。
 私は、そのゆめ子をモデルにした小説のなかに、「芸者ゆめ子はその時二十一歳であつた。顔はいくらかしやくれ顔で、色は黒いかと思はれる、お世辞にも美人とはいひにくいが、顔をしじゆう俯〔うつむ〕きかげんにしてゐる、口数はすくない、髪は、すこし癖があるので、ゆひたての時でも、島田の髷がいつでもこころもち投げやつたやうに見えるのさへ気にいつたことであつた。鼻筋がうすく、鼻ぜんたいが顔のわりに小さすぎ、口もとが少〔すこ〕し不〔ふ〕つり合〔あ〕ひにふくれてゐて、目にたつ二三本の金歯のほかに、二三本の味噌歯〔みそっぱ〕さへある、つまり、反歯〔そっぱ〕なのであるが、さういふところさへ気にいるのである、」という一節がある。しかし、これは、小説(しかも、あまい小説)であるから、もとより、絵空事〔えそらごと〕である。『絵空事〔えそらごと〕』とは、いうまでもなく、「絵に作意をくわえ実物を姿致あるように書きなす」という程の意味である。『古今著聞集』のなかに、「ありのままの寸法に書き候はば、見所〔みどころ〕なきものに候ふ故に、絵空事とは申すことにて候ふ」とあるけれど、今は、『絵空事』などといってはいられない、なぜなら、その小説においてはずいぶん絵空事をつかうけれど、実生活のあるところにおいては、その道〔みち〕の『猛者〔もさ〕』である芥川が、あのときどき三角に見える、するどい光りをはなつ、目をもって、「ありのまま」のゆめ子を見る事になったのである。――と、こんな事をおもえば、私は、おちおち、寝られないのである。しかし、そのうちに、私は、眠りいってしまった。
[やぶちゃん注:「姿致」は容貌挙止動作。「姿致ある」で美景美貌にして優雅にして趣のあることを言う。「『古今著聞集』のなかに……」以下の引用は、同書の巻第十一画図の大系本番号三九六の「鳥羽僧正、侍法師の繪を難じ、法師の所説に承伏の事」の一節。「鳥獣戯画絵巻」等の作者と伝えられる画僧鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の弟子の侍法師は僧正にも引けを取らない達筆であった。僧正は幾分の嫉妬もあってか、ある時、彼の描いた絵の中に相手に突き刺した短刀が背中に柄を握った拳ごと突き出ているのを見つけ、これ瑕疵と幸いに、こんなことは誇張した言説としては言うが、「あるべくもなき事なり。かくほどの心ばせにては、繪かくべからず」と咎めた。その法師は居ずまいを正すと、僧正のさらに畳み掛けた叱責をものともせず、「さも候はず。古き上手どもの書きて候おそくづの繪などを御覧も候へ。その物の寸法は分に過ぎて大きに書きて候ふ事、いかでかまことにはさは候べき。ありのままの寸法にかきて候はば、見所なきものに候ふゆゑに、繪そらごととは申すことにて候。君のあそばされて候ふものの中にも、かかる事はおほくこそ候ふらめ」と臆することなく答えた。僧正はこの真理の表明には黙るほかなかったという。この「おそくづの繪」とは「偃息図」(おんそくづ:寝て休む絵図。)の転訛したもので、男女の交合を描いた春画のことである。宇野は前話の「ハリカタ」をも受けてこの話柄を展開しているのである。上手い。]
 やがて、越後の女中におこされた時は、すでにあかりがつき、火燵の上の台の上には夕方の食事の用意もしてあった。そこで、私たちは、さっそく、火燵をはさんで、食事をしながらも、芥川は、なにかおちつかない様子で、たえず目をきらきらさせていた。
 食事がちょうどおわった頃に、しずかに襖のあく音がした。ゆめ子は、「こんばんは、……」とほとんど聞きとれないような声でいって、座敷の入口にすわって、両手をついて、頭〔あたま〕をさげた。それから、しずかに顔あげて、私がいたのを見ると、
「あらッ、おめずらしい、……」と、いいながら、立ちあがって、火燵の方に近〔ちか〕づいて来た。
 そこで、私が、紹介するつもりで、火燵に当ったままで、芥川を指さしながら、「この……」といいかけると、芥川は、いきなり、火燵から出て、すこしはなれて坐〔すわ〕っているゆめ子の方にむかって、宿屋の丹前姿〔たんぜんすがた〕のままで、ちゃんと、端坐〔たんざ〕して、両手を畳の上について、丁寧に頭〔あたま〕をさげてから、あらたまった声で、
「……お名前は、かねて、……宇野の小説で……それで、……」と、いった。
 ゆめ子は、ちょっと妙な顔をしたが、やがて、少し顔を赤らめた。それから、だまって、癖〔くせ〕で、うつむきがちに、坐〔すわ〕っていた。
 芥川は、ふだん、その家の家人〔かじん〕の悪口〔わるくち〕を、かなり辛辣な悪口を、いっていても、その家を訪問した時は、玄関の部屋にあがると、すぐ、端坐して、そこの家人にむかって両手を畳の上について、丁寧に頭〔あたま〕をさげて、挨拶する癖があった。それは、むろん、私の家に来た時も、いつも、そうであった。であるから、どこの家行っても、そうであったにちがいない。この事について、岡本かの子は、ある小説のなかで、「浅いぬれ縁に麻川氏〔芥川のこと〕は両手をばさりと置いて叮嚀にお辞儀した。仕つけの好〔よ〕い子供のやうなやうなお辞儀だ、」と述べているが、この見方ははっきりまちがっている。これは、芥川の、好みであり、趣味であるのだ。――
[やぶちゃん注:「岡本かの子は、ある小説のなかで、……」は「鶴は病みき」の冒頭、主人公の「鎌倉日記」の引用の一節で、芥川龍之介をモデルとした麻川と初めて挨拶するシーンである。以下に引用する(引用は筑摩全集類聚版別巻を用いたが、恣意的に正字に直した)。
 某日。――主人が東京から來たので、麻川氏はこちらの部屋へ挨拶に來た。庭續きの芝生の上を、草履で一歩一歩いんぎんに踏み坊ちやんのやうな番頭さんのような一人の男を連れて居た。淺いぬれ緣に麻川氏は兩手をばさりと置いて叮嚀にお辞儀をした。仕つけの好い子供のやうなお辞儀だ。お辞儀のリズムにつれて長髪が颯〔さつ〕と額にかかるのを氏は一々掻き上げる。一藝に達した男同志――それにいくらか氣持のふくみもあるやうな――初對面を私は名優の舞臺の顏合せを見るやうに默って見て居た。
宇野の引用は古文にしろ、現代文にしろ、表記や漢字使用がかなり正確で、引用に際しては、記憶に頼らず(一見すると彼の書き方は記憶に頼ったもののようにしか見えないが)、出来る限りの原本確認をしているものと思われる。]
 さて、ゆめ子が来ても、ゆめ子は無口な質〔たち〕であり、私も、ひさしぶりでゆめ子に逢ってみても、別〔べつ〕にこれという話もなく、ふだん饒舌の芥川も、この時はただ、ときどき、ゆめ子の方を、じろじろと、見るだけでほとんど物をいわなかった。
 ところが、芥川と私が、なにか、ぽつりぽつりと、話をして、それが、ちょっととぎれた時、めずらしく、上諏訪のナニガシ劇場で、活動写真をやっている、という話をした。
 すると、芥川は、すぐ、はずんだ声で、
「行こう、」と、いった。
「行こう、」と、いって、私は、立ちあがった。
「君〔きみ〕も行きませんか、」と、芥川は、つづけて、ゆめ子の方を見ながら、いった。
「……お供いたしましょう、」と、ゆめ子は、立ちあがって、私の方を吾がら、「ちょっと、家〔うち〕にかえって、支度〔したく〕してまいります、」と、いって、部屋を、出て行った。
 ゆめ子の姿が座敷の外〔そと〕に消えると、芥川は、私の方にむかって、
「僕たちも、すぐ、支度をしようか、……なかなかいいじやないか、……僕は、ああいう型〔タイプ〕の顔がすきだよ、」と、いった。
 その時、はるか下〔した〕の方〔ほう〕で、(私たちのあてがわれた部屋は二階であったから、下〔した〕の玄関の前あたりで、)コチ、コチ、コチ、というような、堅〔かた〕い、音が、小刻〔こきざ〕みに、連続的に、した。そうして、その昔は、しだいに、遠ざかって行った。
「……気味がわるい音だね、あれは、なんの音だ。」
「……ゆめ子の足音だよ、……君の『お株〔かぶ〕』をとっていうと、蕪村の『待つ人のあしおと遠き落葉かな』の、あの足音だよ。……しかし、あれは、落葉でなく、道がこおっているから、あんな音がするんだよ。…主の辺〔へん〕では、今日〔きょう〕は、寒いとか、冷〔つめ〕たいとか、いうことを、今日は凍〔し〕みる、というよ。『しみる』というのは、『こおる』という意味だよ。……ここは、軽井沢をのぞくと、信州で、一ばん寒くて冷〔つめ〕たい所だそうだ、……君〔きみ〕、これから、――むろん、自動車だが、――上諏訪〔かみすわ〕まで、出かける勇気があるか、」と、私は、芥川のまねをして、嫌がらせをいってみた。
 しかし、芥川は、言下に、
「むろん、行くよ、……君〔きみ〕早く支度をしたまい、…自動車は、ぼく、その卓上電話、帳場にかけて、たのむから、……」と、せかせかした調子で、いった。
 私は、支度をしながら、ふと、今〔いま〕さき、芥川が、「いいじゃないか、……僕は、ああいう型〔タイプ〕の顔がすきだよ、」といったことを、思い出した。そこで、私は、著物をきかえながら、芥川に、話しかけた。
「……僕は、君のすきな女を二三人ほど知っているが、……ね、芥川、君は、二〔ふ〕た通〔とお〕りの型の女が、すきだね、つまり、ちゃんとした、典型的な、瓜核〔うりざね〕顔の女と、すこし形〔かたち〕のくずれた、たとえば、古今集の中〔なか〕にある、あの『さそふ水あらばいなんとぞ思ふ』とでもいうような顔をした女と、――君のすきなのは、この二〔ふた〕つの型だよ、……しかし、どちらかといえば、君はデッサンのくずれた型の方が、すきだよ。……僕は、あまり、ちゃんとした、典型的の方は、このまないね。……それから、僕が、かりに、ロマン派とすると、君は、なかなか、実行派のようなところもあるね。……」
「ふん、……」
 そこへ、すうッと、襖があいて、簡単なよそ行きの支度をした、ゆめ子が、はいって来た。それとほとんど同時に卓上電話のベルがなりひびいた。自動車が来たのである。
[やぶちゃん注:「古今集の中にある、あの『さそふ水あらばいなんとぞ思ふ』……」は、「古今和歌集」(国歌大観番号九三八)の小野小町の歌、
   文屋康秀が三河の掾〔ぞう〕になりて、
県見〔あがたみ〕にはえいでたたじやと、
   いひやれりける返り事によめる
わびぬれば身をうき草の根をたえてさそふ水あらばいなむとぞ思ふ
を指す。三河国国司となって下向することとなった旧知の六歌仙の一人文屋康秀が「一緒に田舎の物見遊山に出掛けられませぬか」と戯れたのに対する返歌で、
――もう年も経て侘しく暮らししておりましたから……「浮き」草の根が絶えたように、おが身を「憂し」と思うておりましたところでございますから……誘うところの水があれば、浮き草の根が切れて水に流れて漂うごと……私も誘って下さるお方のあるのなら……ともに都を出て行かんと思うておりまする……
といった意味である。後の小野小町の零落回国流浪伝説のルーツとされ、宇野はそこに年増女の妖艶なちょっと崩れた、メンタルに危ない感じを表現したのであろう。宇野の言は美事に芥川の恋愛感情に於けるアンビバレツを言い当てている。後の「越し人」片山廣子は、そうした後者の中でも究極の例外的美神であったのだと、私は思うのである。]
 二階から玄関におりると、一度〔ど〕に、身をきるような冷たさを、感じた。
 自動車にのる時、芥川は、運転手に、湖水は右側だ、と聞くと、すぐ、私の方をむいて、「君、さきにのりたまえ、」といい、私のあとから、ゆめ子をのせ、自分は、最後に、乗りこんだ。
 やがて、自動車は、走りだした。下諏訪の町をはずれると、ずうッと、上諏訪の町にはいるまで、道は、湖水に、そうている。田舎の幌〔ほろ〕のボロ自動車であったから、やぶれた幌のすき間〔ま〕から、冷たい氷のような風が、容赦〔ようしゃ〕なく、吹きこんでくる。ふと、気がつくと、自動車に乗りしなに、芥川が、運転手に、湖水が右側であることを、聞いておいて、私を、ていさいよく、先きに乗せたのは、自分が左側にのりたいためであったのだ。
 ところで、自動車にのってからまもなく、ゆめ子の体〔からだ〕が、どういうわけか、私の体を、押しはじめて、それが、しだいに、ひどくなってきた。はじめのうちは、寒さと冷たさのために、体をおしつけてくるのであろう、とぐらいに、私は、思っていた。ところが、ゆめ子が私を押してくるのがひどくなるとともに、自動車にのってから妙にしゃべりはじめた芥川の饒舌がはげしくなってゆくのに、私は、ふと、気がついた。
 しかし、その時の芥川の『おしゃべり』は、あまり取りとめがなかったので、殆んどまったく覚えていないが、唯、「……僕の尊敬している島木赤彦の故郷は、たしかこの辺〔へん〕だ、高木村というんだ、おい、宇野、『雪ふれば山よりくだる小鳥おほし障子のそとに日ねもす聞ゆ』――どうだ、こういう歌は、茂吉でも、よめないね、……」というような事だけが、記憶に、残っている。
[やぶちゃん注:「島木赤彦の故郷は、たしかこの辺だ、……」島木赤彦(明治九(一八七六)年~大十五(一九二六)年)は長野県諏訪郡上諏訪村角間(現在の諏訪市元町)に旧諏訪藩士の子として生まれ、後に同郡下諏訪町高木村(現在の西高木)に住した。「雪降れば」の短歌は大正九(一九二〇)年刊の第三歌集『氷魚』に所収するもの。]
 が、それ以上に記憶にのこっているのは、ゆめ子は決してそういう事をする人〔ひと〕ではない、と思っていたのが、ゆめ子が、はじめ私を押しはじめ、それがしだいにひどくなったのは、芥川が、しだいしだいに、ゆめ子に、体〔からだ〕を寄〔よ〕せつけだしたから、とわかった事であった。
 ところで、この、自動車の中で、芥川がゆめ子を押したのは、いま述べたとおり、記憶によって、後〔あと〕で、さとったのであるけれど、ナニガシ劇場にはいってからは、私は、その場で、芥川の芥川流の『やり方〔かた〕』を、見たのであった。
 ナニガシ劇場は、名はいかめしいけれど、ときどき、田舎まわりの役者が、三日〔みっか〕か五日〔いつか〕ぐらい、出演する、古風な芝居小屋である。それで、むかしの劇場のように、平土間〔ひらどま〕とか、桟敷〔さじき〕とかがあって、それらには『桝〔ます〕』があった。そうして、それぞれの『桝』の中には、まんなかに、櫓火燵〔やぐらごたつ〕、がおいてあり、その櫓火燵には蒲団がかけてあり、その櫓火燵のまわりには座蒲団がしいてある。
 私たち三人は、その櫓火燵を、三方から、かこんで、火燵にあたりながら、活動写真を見た。
 芥川は、ナニガシ劇場にはいってからも、一人〔ひとり〕で、はしゃいでいた。たとえば、写真の切れ目ごとに、例の鼻にかかる声で、「君、火燵にあたりながら活動写真を見る、また、楽しからずや、というのは、どうだ、」とか、「ほうぼうを持ちまわった、雨の降るような、ふるびた写真は、かえって、グロテスクなところがあって、いいね、」とか、いうのである。
 私は、もともと、火燵がきらいであったから、はじめから、あまり、火燵のなかに、手をいれなかった。芥川も、さきにいったように、ちょっと行儀のよい男であったから、やはり、あまり火燵の中に手をいれなかった。しかし、ひどい冷え性であり、うまれた時から火燵にしたしむ国でそだった、ゆめ子は、はじめからしまいまで、火燵に、手をいれどおしであった。
 ところで、その劇場の中でも、私が一番なやまされたのは、宿屋を出てからの芥川の『おしゃべり』であった。が、それも、相手〔あいて〕にしないことにきめてからは、なれてしまった。ところが、それとともに、ふと、気がついたのは、桝〔ます〕にはいってからは、芥川が、妙なおしゃべりをする時、かならず、火燵の中に、手を、入れる事であった、そうして、それは、きっと、場内が、暗くなる時であった。それで、それに気がついた時、さすがの私も、ははあ、芥川は、この火燵のなかで、……と、さとったのである。
 ――ここまで書いてきて、私は、不意に、ハカバカしい気がしてきた。それは、これまで私が向きになって述べてきた事は、(すなわち、あの『生駒』の一件も、あの『張型』の一件も、このゆめ子との自動車や劇場の中〔なか〕での振〔ふ〕る舞〔ま〕いも、)みな、芥川の一片〔いっぺん〕の好奇心(ともう一〔ひと〕つのもの)の現〔あらわ〕れで、『跡〔あと〕は野となれ山となれ』の観〔かん〕もあり、『後足〔あとあし〕で砂をかける』ような形〔かたち〕もあるからである。もしそうであるとすれば、私は芥川に「シテヤラレタ」事になるのである。
 しかし、また、芥川が、あの『好奇心』を、ちょいと満〔み〕たしただけで止〔や〕めずに、どこまでも進めて行くような人であったら、と、私は、切〔せつ〕に、思うのである。それは、芥川の多くの小説が、やはり、『好奇心』をちょいと満〔み〕たしたようなところもあるからである。(こういう事と話はまったくちがうが、芥川が、ある時、例のにやにや笑いをしながら、「君なら感づいたかもしれないが、あの『枯野抄』に出てくるいろいろな人物は、漱石門下だよ、」と、いったことがある。)
 ところで、さきに述べた芥川の『好奇心』のことを書いた時、ふと、(これも『好奇心』とは別の話であるが、)思い出したのは、S女史の事である。S女史とは、小穴隆一が、『二つの絵』という文章のなかで、たいへん気にして書いている女であり、芥川のかかりつけの医師であり、親友の一人であった、下島 勲が、『訂しておきたいこと』という文章のなかで、「問題のS子夫人については、私は稍や徹底的に追求もし、(情事の状況まで、)話し合ひもしたもので、……」と書き、十数年前に、岡本かの子が、『鶴は病みき』のなかに書き、近頃、(といって、一昨年と昨年、)滝井や廣津が小説に書いた、謎の謎子の事である。――この謎の謎子の事は、後に、くわしく書くつもりであるが、この謎の謎子その他の事をおもえば、芥川という人は実に気が弱かった。この気が弱いという事は芥川のもっとも大きな欠点の一〔ひと〕つであった。(気が弱い、といえば、それぞれ、ちがった形で、菊池も、久米も、気の弱い人である、と、私は、思う。)
[やぶちゃん注:「S女史」「S子夫人」「謎の謎子」は勿論、芥川の愛人にしてストーカーであった歌人秀しげ子のことである。]
 さて、芥川は、さきに引いた、十二月二十四日に、佐佐木にあてた便りの中に、『白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ来し』と、これだけ、書いて、そのあとに、「二伸 但し宇野僕二人この地にゐる事公表しないでくれ給へ」と書いている。これは、いったい、何〔なん〕であろう。芥川は、この便りを出した二日前の晩に、佐佐木と一しょに生駒山の中腹の妙な茶屋にとまっているではないか。そうして、佐佐木はおそらく芥川と私が行動を共にしている事を知っている筈ではないか。しかし、私は芥川のこういう事を、単に『児戯に等〔ひと〕し』などとは、思わないのである、思いたくないのである。私は、こういう芥川をかんがえると、まったく涙ぐましくなるのである。
 また、小穴の『二つの絵』の中に、こういう、(つぎのような、)一節があることを、私は、思うのである。

(昔諏訪から帰った田端にてである。)「諏訪に〇〇〇といふ芸者がゐるが、これは宇野の女だが、君その頼むから諏訪に行つて、君がこれを何〔な〕んとか横取〔よこど〕りしてくれまいか。金〔かね〕は自分がいくらでも出すよ。」
[やぶちゃん注:本作の後に再合本単行本化されたものと思われる昭和三十一(一九五六)年刊行の「二つの繪」(宇野が言うのは、『中央公論』に連載されたとする先行する同名の原「二つの繪」である)の「宇野浩二」では、以下のように記されている。
「諏訪にゆめ子といふ(宇野の小説のヒロインとなった人、)藝者がゐるが、これは宇野の女だが、君、その賴むから諏訪に行つて、君がそれをなんとか横取りしてくれまいか、金は僕がいくらでも出すよ。」
とある。因みに、この昭和三十一(一九五六)年版「二つの繪」のこの直前の芥川の会話には、芥川が諏訪で宇野の机に宇野宛の秀しげ子(『〇〇〇子』『(□夫人)』と伏字となっているものの一目瞭然)の手紙があり、宇野としげ子が関係を持っていたと告白した記載が載る(秀しげ子と南部修太郎との三角関係は周知であるが、これは驚天動地の記載で、後に宇野は厳にこれを否定している。とすれば小穴の記載は嘘か勘違いである、そもそもこの小穴の文章自体が、次で宇野も言うように表現が捻じれて意味がとりにくく、日本語としては重度の悪文に属するものである)。この小穴の「宇野浩二」は後文を見ると、この宇野浩二の「芥川龍之介」を読んで、改稿されたものであることが分かる。]

 この小穴の『二つの絵』は、

 あはれとは見よ
 自分は裟婆にゐてよし人に鞭打たれてゐようとも君のやうに、死んで焼かれた後の□□□を、「芥川さんの聡明にあやかる。」とて×××種類のフアンは一人も持つてゐない。それをわづかに、幸福として生きてゐる者だ。
        昭和七年秋 隆一
[やぶちゃん注:この『序(のようなもの)』(以下の宇野の言)は、後の昭和三十一(一九五六)年版の「二つの繪」には(ざっと見たところでは)見当たらない。伏字は類推が出来ない。『中央公論』に連載されたとするプロトタイプ「二つの繪」をお持ちの方、この表記でよろしいか、また伏字の推定が出来る方、是非とも御教授を乞うものである。【二〇一七年二月追記】これは小穴隆一の後の「鯨のお詣り」の方の「二つの繪」の冒頭であった。

という序(のようなもの)を読んでも察せられるように、一種かわった文章であるばかりでなく、意味のわからないようなところや、わざとわからなく書いたように思われるところや、いろいろで、「中央公論」に連載ちゅうに、読者に、ふしぎな好奇心をいだかせたものであるから、ここに引用したものも、半分ぐらい筆者の創作のようにも思われるが、……
 ところで、話は、また、かわるが、私は、昭和十年頃、飛騨の高山に行く途中、十五年ぶりぐらいで、上諏訪に寄った時、ゆめ子が上諏訪にこして来ていたことを知ったので、町の料理屋でゆめ子と食事をしながら、いろいろな話を、とりとめなく、しているうちに、ふと、芥川がふいに死んだ話が、出た。その時、ゆめ子が、ふと漏らした言葉から、私が、鎌をかけるつもりなどでなく、「芥川の手紙も取ってある、」と聞くと、ゆめ子は、ただ、「……ええ、」と、云った。しかし、その時は、そのままで、わかれた。
 ところが、その時から、また、十四五年後〔のち〕(昭和二十三年)の秋、私は、富士見に行った時、上諏訪に三晩〔みばん〕ほどとまったので、ふと、思いたって、ゆめ子を、たずねた。その時は、ゆめ子は、もう芸者をやめて、二階を人に貸して、一人〔ひとり〕で、くらしていた。二人〔ふたり〕の子をなくし母に死にわかれたからである。私がはじめてゆめ子に逢った時、ゆめ子は、かぞえ年〔どし〕、二十一歳であったが、その時は、五十歳になっていた。その時、私は、やっと、ゆめ子に、大正九年の十一月の末頃、芥川がゆめ子に出した手紙を、見せてもらった。
 その手紙は、ぜんたいが赤い色の、(紅〔べに〕にちかい赤い色の、)巻き紙に、書かれてあった。そうして、その手紙の中〔なか〕に書かれてある事は、ただ、私と一しょに諏訪に行った時の礼状のようなものであるが、その中〔なか〕には、「あんな楽しいことはありませんでした、」とか、「僕はこの世界にあなたのやうな人がゐるとは、……」とか、「僕はただあなたが僕のそばにすわつてゐて、ときどき茶をたててくださるだけで満足です、」とか、いうような、うれしがらせのような、文句が、はいっていた。
 しかし、おもしろいのは、この中〔なか〕の、「茶をたてる」というのは、私が、抹茶がすきで、その前の年あたりにゆめ子を女主人公にして書いた小説のなかに、よくゆめ子に茶をたててもらった、という事を、書いたので、芥川が、それを応用しているところである。それから、おなじ手紙のなかに、「この手紙を出すことは宇野が知つてをります、」という文句があるが、これは、まったく、私のあずかり知らぬところであり、嘘である。
[やぶちゃん注:実はこの書簡は旧岩波版全集に所収している(旧全集書簡番号八一二)。本名は原とみ、本文では宇野は自作の『ゆめ子もの』(「人心」「一と踊」「心中」等)に合わせてあくまで「ゆめ子」と表記しているが、本当の源氏名は「鮎子」であった。以下に、活字化する。大正九(一九二〇)年十一月二十八日附、原とみ宛である。

 

拜啓
先日中はいろいろ御世話になりありがたく御礼申上げます 今夕宇野と無事歸京しました 他事ながら御安心下さい
なたの御世話になつた三日間は今度の旅行中最も愉快な三日間です これは御せいじぢやありません實際あなたのやうな利巧な人は今の世の中にはまれなのです 正直に白状すると私は少し惚れました もつと正直に白状すると余程惚れたかもしれません氣まりが惡いから宇野には少し惚れたと云つて置きました それでも顏が赤くなつた位ですから可笑しかつたら澤山笑つて下さい
その内にもつとゆつくり十日でも一月でも龜屋ホテルの三階にころがつてゐたい氣がします ああなたは唯側にゐて御茶の面倒さへ見て下さればよろしい いけませんか どうもいけなさそうな氣がするため、汽車へ乘つてからも時々ふさぎました これも可笑しかつたら御遠慮なく御笑ひ下さい
こんなことを書いてゐると切がありませんから この位で筆を置きます さやうなら
   十一月廿八日   芥 川 龍 之 介
  鮎 子 樣 粧次
 二伸 いろは單歌「ほ」の字は「骨折り損のくたびれ儲け」です 今日汽車の中で思ひつきました
            龍 之 介 拜

 

宇野が指摘する「この手紙を出すことは宇野が知つてをります」という嘘は書かれていない。「氣まりが惡いから宇野には少し惚れたと云つて置きました」の勘違か、これをそのような意味で嘘といったのであろうが、私にはこれは問題視するような虚偽記載とは感じられないが、如何? なお、この書簡によって本文の旅館名「万屋」は仮名で、実は「龜屋」であることが分かる。……にしても……芥川のラブ・レターは実に巧みではないか。]
 ついでに、もう一〔ひと〕つ述べると、芥川は、私の『我が日我が夢』という諏訪を題材にした小説を六篇あつめた連作の本の序文の一ばん後〔あと〕につぎのように、書いている。

 最後に僕の述べたいのは僕も亦一度宇野君と一しよにこの本の中の女主人公――
夢子に会〔あ〕つてゐることである。夢子は実際宇野君の抒情詩を体現したのに近い女だつた。僕はこの悪文を作りながら、甲斐の駒ケ嶽に下りた雪やもう散りかゝつた紅葉と一しよに夢子を伴つた数年前の宇野浩二君を思ひ出してゐる。
[やぶちゃん注:本作は現在までに電子テクスト化されていないので、ここに全文を示す。底本は岩波版旧全集を用いた。

 

「我が日我が夢」の序   芥川龍之介

 

 宇野浩二君の「我が日我が夢」に序するのに當り、先づ僕の述べたいのは君の諧謔的抒情詩の解されてゐないことである。宇野君はいつも笑ひ聲に滿ちた筆を走らせてゐる爲に往々戲作者などと混同され易い。しかし君の諧謔的抒情詩は君以前にはなかつたものである。(恐らくは又君以後にもないこととであらう。)宇野君はいつか君自身の抒情詩を輕蔑する口ぶりを洩らしてゐた。勿論君の輕蔑するか否かは自由であるのに違ひない。けれどもかう云ふ特色は確かに宇野君以前には誰も持つてゐない特色である。讀者はこの本の中に度々常談にぶつかるであらう。同時に常談の後ろにある戀愛家の歎聲にもぶつかるであらう。
 それから僕の述べたいのは宇野君の文藝的地位である。君はこの譜諺的抒情詩の爲に所謂「文藝の本道」を踏んでゐないやうに見られ易い。僕は所謂「文藝の本道」とは何であるかを疑つてゐる。が、たとひ宇野君は所謂「文藝の本道」を外れてゐたとしても、それは君の患ひとするに足りない。「正にして雅ならざるもの」よりも「正ならずして雅なるもの」を高位に置いて顧みなかつた芥舟學畫編の作者の見識は文藝の上にも通用するであらう。僕は宇野君の「正なること」よりも「雅なること」を進んで行けば善いと思つてゐる。
 最後に僕の述べたいのは僕も亦一度宇野君と一しよにこの本の中の女主人公夢子に會つてゐることである。夢子は實際宇野君の抒情詩を體現したのに近い女だつた。僕はこの惡文を作りながら甲斐の駒ケ嶽に下りた雪やもう散りかかつた紅葉と一しよに夢子を伴つた數年前の宇野浩二君を思ひ出してゐる。宇野君は未だにあの時代の元氣を持つてゐるかも知れない。しかし僕はいつの間にかすつかり無精になつてしまつた。「夢子」は女主人公の名だつたばかりではない。或は又僕等の夢の人間に落ちたものだつたのであらう。 (昭和二年五月七日)
底本後記によれば、本作は昭和二(一九二七)年六月発行の『文藝春秋』に掲載され(後に「文藝的な、餘りに文藝的な」の「十」となる「二人の紅毛畫家」が続けて掲載されている)、後の芥川自死の直後である昭和二年八月十日に新潮社から刊行された宇野浩二著『我が日・我が夢』に「序」として収められた。「芥舟學畫編」は「かいしゅうがくがへん」と読み、清代中期の画家沈宗騫(しんそうけん)が一七八一年に刊行した画論書である。因みに、芥川龍之介はこの文章を認めた時にはとうに自死を決意していた。本文の末尾には遺書などに現れる共通した末期の眼の雰囲気が如実に表れているのが見て取れる。]

 これは、昭和二年五月七日の日づけになっているから、芥川が世を捨てた二〔ふ〕た月〔つき〕半ほど前に書いたものである。それはそれとして、この時分までに私がゆめ子と一しょにあるいたのは、下諏訪の諏訪神社秋社の境内を横ぎり、南側の石段をおり、万屋の間だけである、しかも、その時、ゆめ子は、二歳〔ふたつ〕になる子を抱〔だ〕いていたのである。それが、海抜八千四百七十八尺の、「甲斐の駒ケ嶽に下りた雪やもう散りかゝつた紅葉と一しよに……」という事になるのであるから、話にもなにもならぬのである。しかし、おなじような事を幾度も述べるようであるが、芥川は、『話にならぬ話』を小説にしたのである。それから、ついでにいえば、芥川は、創造の才能がとぼしかったけれど、平安朝時代の物語(たとえば、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、その他)から、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』、『地獄変』、『往生絵巻』、その他を、江戸時代を背景にして、『枯野抄』、『或日の大石内蔵助』、『戯作三昧』、その他を、明治の開化期を背景にして、『開化の殺人』、『舞踏会』、『お富の貞操』、その他を、キリスタンの文学を元にして、いくつかのキリスタン物を、工夫し、作り出す、というような才能には、実にめぐまれていた。そうして、それが、小説のヨシアシは、別として、芥川の押しも押されもせぬ才能であり、これが芥川の小説が生前から死後二十四五年になる今日〔こんにち〕まで、多くの人に読まれている所以であろう。(しかし、なにか『種〔たね〕』⦅つまり、平安朝の話、その他⦆がなけれは、書けなかったようなところが、芥川の致命傷にちかいものであった、なぜなら、芥川はそういう種をつかいつくしてしまって、⦅それだけではないけれど、⦆いきづまってしまったからである。)

2012/01/28

鈴木しづ子 三十四歳 『樹海』昭和二十九(一九五四)年十月号しづ子詐称投句全掲載句

岐阜駅未明

 春雪やへだて觸るるお師の胸

 曉星や師ならぬ人とし膽む希ひ

 春雪やあはれまぎれぬ星とひとつ

 つむ春雪その白ら胸を裂かむとす

 總べてはすべてあかつき裂きて積む春雪

 白ら雪に還し申さむ曉の星

 申さずに積む春雪の白かりき

 前号に続く確信犯である。尚且つ、これらの句は明らかに例の昭和二十七(一九五二)年二月四日零時の岐阜駅での巨湫としづ子の邂逅を詠んだものであるのだが、精査したわけではないけれども、大量投句稿の中にはなかったように思われるのである。これらの句の感懐は――まさしく、自ら自身の白い胸に爪を立てて血飛沫を白雪に飛ばさんばかりの「熱情」に満ちている。――これらは巨湫が秘かに自身の死とともに葬ったと思われる失われた投句稿から出た稀有の迸りであり、しづ子の巨湫へ宛てた秘められた愛の句群の断片のように私には思われるのである――
 いや……それにしても……しづ子の失踪から早二年……失踪以降、巨湫がしづ子の居場所を知っていたのかどうか……知らなかった、とすれば……しづ子は失踪以後の『樹海』を読むことはなかったと思う……私はしづ子は失踪以降……失踪しているはずの自分の句が投句されている『樹海』を……手にしなかったのではないかと考えているのである……そうして……そうしてこうした続けられる巨湫の詐称犯罪を何らかの形で知ったとしても……しづ子にとって何の関心も不満も憤激もなかったであろうと……私は思うのである……しづ子は、巨湫や『樹海』や俳壇という複数の共同正犯になる「しづ子伝説」捏造という特別背任の文芸犯罪社会とは……最早、全く無縁な世界に遮断されてあったように……感ぜられるのである……

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(12)

 或る日、私はゴルウェーからダブリンへ歩いてゐた。途中で日が暮れて、まだ町まで十哩もあるので、何處か夜を過す處を探してゐた。するとひどく雨が降り出し、私は歩き疲れたので、道の向う側に屋根のない家らしいものが見えたので、壁が雨除けになるだらうと思つて中にはひつた。
 四邊(あたり)を見廻はすと、二パーチ〔約五間半〕ぐらゐ先の木立の間に一つの燈火が見えた。どんな家であらうと此處よりはましだと思つて、塀を越えてその家まで行き、窓から中を覘いて見た。
 一人の死人がテーブルの上に寢てゐて、蠟燭が點(とも)り、一人の女がそれを見守つてゐた。それを見た時はびつくりしたが、雨がひどく降つてゐるので、「死人は何もしやしない」と獨言を云ひながら、戸を叩くと、その女が來て戸を開けた。
 「今晩は、お内儀さん」と私は云ふ。
 「今晩は、旅の衆。」と女は云ふ。「雨の中にゐないで、おはひりなさい。」
 そこでその女は私を中に入れ、亭主に死なれてお通夜をしてゐるところだと云つた。
 「だが、お前さん、喉が乾いてゐるでせう。」彼女は云ふ。「客間にいらつしやい。」
 そこで私を客間につれて行き――ちよつと立派な家だつた――そしてコップをソーサーに載せ、甘さうな砂糖とパンを添へて、テーブルの上に出した。
 お茶がすんだので、私は、死人のゐる茶の間に戻つて來た。彼女はテーブルから立派な新しいパイプにアルコールを一滴垂らして、私にくれた。
 「お前さん、」彼女は云ふ。「この人と二人きりになつたら怖かありませんか?」
 「ちつとも怖かありませんよ、お内儀さん。」私は云ふ。「死人は何もしやしません。」
 すると彼女は亭主の亡くなつた事を近所の人に知らせに行きたいと云つて、出て行き、外から鍵をかけた。
 私は煙草を一服吸つて椅子にもたれ、もう一服テーブルから取つて、――さうさう、今あなたがしてゐるやうに――椅子の凭(よ)つかかりに手を持たせかけて、それを吸ひながら、死人の方を見てゐると、死人は私のやうに大きな目を開けて、こつちを見た。
 「お前さん、怖がらなくてもいいよ。」その死人が云ふ。「私は決して死んでるのぢやないのだ。此處へ來て助け起してくれ、譯を話して上げるから。」
 よしとばかり、私は立つて行き、敷布を取つてやつた。すると彼は綺麗なシャツを着て、立派なフランネルのズボンをはいてゐた。
 彼は起き上つて、云ふには――
 「私は惡い女房を持つたんでね、お前さん。彼奴の振舞を見とどけてくれようと、死んだ眞似をしてるところだ。」
 それから女をやつつける爲の二本の手頃な棒切れを取つて來て、それを両脇において、また死んだやうに長長と横になつた。
 半時間もたつと彼の妻は歸つて來たが、若い男が一緒に來た。さうしてその男に茶を出し、疲れてゐるだらうから寢室に行つて寢たらよいと云つた。
 若者ははひて行き、女は死人の傍に腰掛て見守つてゐた。少したつと彼女は立ち上つて、云ふには、「お前さん、私はちよつと寢室に行つて燈(あかり)を消して來ます。あの若い人はもう寢つてしまつたらうから。」彼女は寢室にはひつて行つたが、それきり出て來なかつた。
 すると死人は起ち上つて二本の棒を押つ取り、今一本を私に渡した。私たちがはひつて行くと、女の頭は男の腕にかかへられて寢てゐるのを見た。
 死人は棒切れで男に一撃を喰はした。血は迸つて、廊下まではねた。
 それでおしまひ。

One day I was travelling on foot from Galway to Dublin, and the darkness came on me and I ten miles from the town I was wanting to pass the night in. Then a hard rain began to fall and I was tired walking, so when I saw a sort of a house with no roof on it up against the road, I got in the way the walls would give me shelter.
As I was looking round I saw a light in some trees two perches off, and thinking any sort of a house would be better than where I was, I got over a wall and went up to the house to look in at the window.
I saw a dead man laid on a table, and candles lighted, and a woman watching him. I was frightened when I saw him, but it was raining hard, and I said to myself, if he was dead he couldn't hurt me. Then I knocked on the door and the woman came and opened it.
'Good evening, ma'am,' says I.
'Good evening kindly, stranger,' says she, 'Come in out of the rain.' Then she took me in and told me her husband was after dying on her, and she was watching him that night.
'But it's thirsty you'll be, stranger,' says she, 'Come into the parlour.' Then she took me into the parlour--and it was a fine clean house--and she put a cup, with a saucer under it, on the table before me with fine sugar and bread.
When I'd had a cup of tea I went back into the kitchen where the dead man was lying, and she gave me a fine new pipe off the table with a drop of spirits.
'Stranger,' says she, 'would you be afeard to be alone with himself?'
'Not a bit in the world, ma'am,' says I; 'he that's dead can do no hurt,' Then she said she wanted to go over and tell the neighbours the way her husband was after dying on her, and she went out and locked the door behind her.
I smoked one pipe, and I leaned out and took another off the table. I was smoking it with my hand on the back of my chair--the way you are yourself this minute, God bless you--and I looking on the dead man, when he opened his eyes as wide as myself and looked at me.
'Don't be afraid, stranger,' said the dead man; 'I'm not dead at all in the world. Come here and help me up and I'll tell you all about it.'
Well, I went up and took the sheet off of him, and I saw that he had a fine clean shirt on his body, and fine flannel drawers.
He sat up then, and says he--
'I've got a bad wife, stranger, and I let on to be dead the way I'd catch her goings on.'
Then he got two fine sticks he had to keep down his wife, and he put them at each side of his body, and he laid himself out again as if he was dead.
In half an hour his wife came back and a young man along with her. Well, she gave him his tea, and she told him he was tired, and he would do right to go and lie down in the bedroom.
The young man went in and the woman sat down to watch by the dead man. A while after she got up and 'Stranger,' says she, 'I'm going in to get the candle out of the room; I'm thinking the young man will be asleep by this time.' She went into the bedroom, but the divil a bit of her came back.
Then the dead man got up, and he took one stick, and he gave the other to myself. We went in and saw them lying together with her head on his arm.
The dead man hit him a blow with the stick so that the blood out of him leapt up and hit the gallery.
That is my story.

[やぶちゃん注:「二パーチ」“perch”はイギリスの距離単位。1パーチは約5.03mであるから凡そ十メートル。
「彼女はテーブルから立派な新しいパイプにアルコールを一滴垂らして、私にくれた。」原文は“and she gave me a fine new pipe off the table with a drop of spirits.”。葉巻にウィスキーを湿らせたり、煙草の葉にスピリッツをまぶして吸うことは、習慣として存在し、私もやったことがある。従って私はこの訳を別段、不思議に思わなかったが、ここを栩木氏はパイプ煙草に加えて、『ウィスキーも一杯くれましてな。』と訳しておられる。確かに、この後、雨に降り込まれて冷えた旅人(パット爺さん)をこのような通夜の場に残して、妻が出かけるということを考えれば、これは一杯の酒の方がしっくりくるとは思う。
「廊下まではねた」原文は“hit the gallery”。これを栩木氏は『ランプの火屋(ほや)受けにまでかかったのでした』と訳しておられる。通常のネットの辞書では見当たらないが、研究社の「リーダーズ+プラス」の“gallery”の最後の5番目の意味に「ランプのほや受け」とあった。所謂、ガラス製のホヤを受け、更にそれをオイルの壺と接続する部分の、装飾を施した金物である。映像としては、断然、このランプのほや受けに飛び散る血糊のアップの方がいい。

なお、言わずもがなであるが、このパット爺さんの話は後のシングの初期戯曲“In the Shadow of the Glen”(「谷間の影」1903年)の素材となった。]

霜柱

そういえば……昨日の朝はひどく寒かった……職場へ通う道すがら――今の僕の職場は田圃を前にした田園風景の中にある――その植込みの土の露出したところに威勢よく伸び上がった勇ましい霜柱を……久し振りに見た……

……僕は……思わず、その植込みの下の霜柱を……踏みつけた……何度も何度も……

……パリパリザクザクッ……

……乾いた音とともに……四十数年前の、小学生の頃、通学路の霜柱をみんなで踏んで遊んだのを……思い出した……

新編鎌倉志卷之八 朝比奈切通しを越えて

「新編鎌倉志卷之八」は朝比奈切通しを越えて、六浦へと向かう。朝比奈切通しの注記はこの数日で三度書き直し、追加してある。今朝は「鼻欠地蔵」と「光伝寺」について、「江戸名所図会」の図版を示したのが新味である。江戸末期の、不思議に懐かしい匂いが絵から漂ってくる。……僕は……こんな景色の中に生きたかった……

2012/01/27

鈴木しづ子 三十四歳 『樹海』昭和二十九(一九五四)年九月号しづ子詐称投句全掲載句

香ぐはひ

 香ぐはふ梅くちにのぼりしひとつこと

 なしをへし文の重みぞ香ぐはふ梅

 雪つけど觸るるべからずお師の眉

 師が手とつむ春雪とすべもなし

 香ぐはふ梅かぐはふ體(み)ぬちことひとつ

 蹴る春雪こころいちづに在りし吾が

 體(み)ほとりの梅ぞかぐはふととせかな

 風花やむかしのおのれ殘すなし

 すべてこと師にぞしたがふ香ぐはふ梅

 三句目は、『樹海』昭和二十八(一九五三)年四月号しづ子詐称投句の、

 雪つけど觸るるべからず御師の眉

の「御」を「お」に変えて、例外的に再掲されたものである。通常の俳誌の投句選句ではあり得ないことである。詐称している巨湫にしてみれば、これは詐称投句を大疑わせる大きな証左となろう。尚且つ、この九句は巨湫によって組み立てられたと考えられる、「しづ子」の秘めた(いや、もはや赤裸々に露呈された)巨湫自身への恋愛感情を核心としていることを、読者は容易に感じ得たはずである。巨湫はもうどこかで詐称を確信犯として、意識しなくなっていたようにも思われる。そうして見た時、この連作の標題「香ぐはひ」というのは、言わずもがな(と私には感じられる)例の「まぐはひ」という語――しづ子独特の詩語――をも連想させるではないか――梅の香ぐはひ――それは巨湫としづ子の――魂の交接であった――

2012/01/26

過去4ヶ月の僕のブログに来た人のフレーズ ベスト10

1 離魂記 書き下し文
92アクセス

2 離魂記 書き下し
79アクセス

3 筋萎縮性側索硬化症
75アクセス

4 筋萎縮性側索硬化症 ブログ
74アクセス

5 山本幡男
71アクセス

6 筋萎縮性側索硬化症ブログ
66アクセス

7 フタゴムシ
53アクセス

8 宮沢トシ
49アクセス

9 間取り こころ 夏目漱石
48アクセス

10 尾形亀之助
46アクセス

「離魂記」と「こころ」は特異点――どこぞの大学生か高校生のレポートに僕の駄文や図がこっそり盗まれて載っているとすれば――これは面白いね――♪ふふふ♪

“Here's looking at you, kid!”

“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!

2012/01/23

マンションに女性2遺体…姉病死、障害の妹凍死

マンションに女性2遺体…姉病死、障害の妹凍死(読売新聞 - 01月23日 14:36)
 札幌市白石区のマンション室内で20日、女性2人の遺体が発見された。
 北海道警札幌白石署は、この部屋に住む姉妹とみて身元の特定を進めているが、妹には知的障害があり、22日の解剖結果などによると、姉が昨年12月下旬に脳内血腫で病死し、残された妹は自力で生活が出来ず、今月中旬までに餓死同然で凍死したとみられている。
 道警幹部によると、死亡したのは、佐野湖末枝(こずえ)さん(42)と恵さん(40)とみられている。
 発見時、姉とみられる遺体はフリースの上にジャンパーを着るなど、室内と思えないほど厚着をしていた。妹とみられる遺体は膝まで布団を掛けてベッドに横たわっていた。極度にやせ細り、胃の中は空っぽだった。

これが――我々の「現実」でなくて何であろう――二人の姉妹に――心から哀悼の意を表する――

宇野浩二 芥川龍之介 二~(6)

 さて、京都から下諏訪での道中は、これも、ほとんど記憶がない。ただ、中央線の汽車にのりかえるために、名喜で汽車からおりた時は、朝の四時頃あったから、私たちが時間をつぶすために駅の前の広場に出た時は、空〔そら〕はまだ暗く、はるかに見える町に、明〔あ〕かりが、ついていた、それが、いかにも、侘〔わ〕びしげに、さむざむしく、眺められた事だけは、はっきり覚えている。
 ところが、その中央線は、(正〔ただ〕しくいえば、中央本線は、)名古屋の方からいうと、坂下あたりから宗賀へんまでは、汽車の線路とふるい木曾街道がほとんど並行して通〔とお〕っているから、所によると、汽車の窓のすぐ下〔した〕に木曾街道がのぞまれる。それで、汽車の沿道の両側にそびえている木曾谷はことごとく紅葉に色どられていた筈であるが、それもほとんど記憶にない。しかし、芥川が、十一月二十四日に、下諏訪から下島勲にあてて出した絵葉書のなかに、「京阪より名古屋へ出て木曾の紅葉を見て当地へ来ました」と書いているところを見れば、さすがに、芥川は、木曾谷の見事〔みごと〕な紅葉を見のがしてはいなかったのである。ところが、また、さきに引いた、十一月二十二日に、芥川が、京都から、江口 渙にあてて出した、(私と寄〔よ〕せ書〔が〕きとなっている、私の覚えのない、)絵葉書のなかに、『峡中に向ふ馬頭や初時雨』というような句を書いたり、また、おなじ日に、京都から、小穴隆一あてに出した、やはり、絵葉書のなかに、「大阪道頓堀の café にゐたら川向うの家の物干に猿が一匹這つてゐましたその上に昼のお月様がありました歌か句になりませんか」というような文句を書いたり、しているのを読むと、私は、ちょいと頸〔くび〕をひねりたくなるのである。それは、簡単にいえば、「『峡中に向ふ馬頭や初時雨』などという句は、うまくないばかりでなく、実感がなく、「木曾の紅葉を見て……」などというのは、べつに木曾の紅葉を見なくても、書ける文句であるからだ。それから、あの二日ほどしかいなかった間〔あいだ〕に、芥川が、いつ、道頓堀のカフェエに、出かけたか、そうして、あの時分の道頓掘には、café は、戎橋と太左衛門橋のあいだにしかなかったから、その café から道頓堀川をへだてて見える家といえば、宗右衛門町の茶屋(二三軒の料理屋をのぞくと)ばかりであるから、あるいは、それら町茶屋の一軒の家が飼っていた猿が、(芥川のようなイタズラずきの猿であって、)偶然、物干を散歩していたのであろうか、しかし客商売の家では、『まねく猫』をよろこぶように、猿は、『去る』というので、きらう、と聞いているが、――しかし、いずれにしても、「大阪道頓堀の café にゐたら川向うの家の物干に猿が一匹這つてゐました」といい、それに、「その上に昼のお月様がありました」などというのは、(このような穿鑿〔せんさく〕だてをすれば、もし生きていたら、芥川に、頭〔あたま〕から、笑われるにちがいない、と、ふと、思って、しいて考えなおしてみれば、これは、)芥川の、独得の、巧妙な、酒落〔しゃれ〕であり、芥川流〔りゅう〕の文学の一〔ひと〕つの『あらわれ』と見てもよい。また、「その上に昼のお月様がありました」というのは、島崎藤村の小説のなかにしばしば出てくる「月は空〔そら〕にあった」という文句を、私は、思い出す。これは、もとより、小説と私信のちがいであるけれど、こじつけるようであるが、芥川龍之介と島崎藤村の文学と気質のちがいをよくあらわしている。
 ところで、この時の諏訪ゆきは、私は、まえに述べたように、いわゆる現実的な題材をなるべくロマン的に書いた小説の女主人公にしたモデルに逢いに行くのであるから、まず純真な気もちを持っていたが、芥川は、ほとんどまったく反対で、好奇心が六分、いたずらとからかい気分が三分、というくらいの割り合いであった。
 今から一年ちかく前、(つまり昭和二十五年の八月頃、)私は、二十七八年ほど前から妙な事から近づきになった、元〔もと〕の大蔵次官、長沼弘毅から、ひさしぶりで目にかかりたく、ナン月ナン日の午後五時、ナニガシ町の『ソレガシ』〔東京でも有名な料亭の一つ〕に、「万障くりあはしておいでくださいませんか、」という手紙を、もらった。そうして、その手紙のなかには、「この席は私の友人がまうけてくれたのですが、私がとつたのと同じやうな気もちで、どうぞ、御遠慮なく、……なほ、当日は江戸川乱歩氏もおいでになる筈です、」と書いてあった。
 そこで、私は、すぐ承知の返事をだして、ナン月ナン日の午後五時すぎに、その『ソレガシ』に、行った。すると、すでに、その長沼の友人も、長沼も、江戸川も、私のとおされた座敷のなかで、細長い食卓の両側に、それぞれの席に、ついていた。私が、おくれた詫びをのべながら、江戸川のとなりの座につくと、すぐ長沼に紹介された、長沼の友人は、おもいがけなく、水野成夫であった。私が、ここで、「おもいがけなく」と書いたのは、その長沼の友人は、私が、今か十五六年前に、五六時間つぶして、ほとんど一気〔いっき〕に、読了したアナトオル・フランスの『神々は渇く』の訳者が、水野成夫であり、その時から一〔ひ〕と月〔つき〕ほど前に、私が、私のふしぎな親友、辰野 隆と、ある所で、夕食を共にした時、辰野が、ときどき、私を除〔の〕け者〔もの〕にして、そばにいるお雪という女中と、なんどか、「……コクサクパルプ、……コクサクパルプ……」という言葉を口にしていた、その時は私には「コクサクパルプ」と耳なれない言葉がなんの事かまったくわからなかったところの、わかってみれば「国策パルプ」株式会社の副社長の水野成夫であったからである。
 さでその水野が、長沼や江戸川を相手にいろいろさまざまの探偵小説やその作家たちの話にちょっと夢中〔むちゅう〕の形〔かたち〕でしゃべっていたのがとぎれた時、突然、私の方にむかって、私のことをおもいだすと、すぐ、「芥川さんの『秋風やもみあげ長き宇野浩二』という句を、思いだします、」と、いった。
 そこで、私は、こんな話をそらすために、俳句に薀蓄のふかい長沼に、「この句はまずいでしょう、」というと、長沼は、言下に、「まずいですなあ、」といった。
 この『秋風やもみあげ長き宇野浩二』という句は、芥川が、中央線の汽車が木曾の谷あいを走りつづけている時、その汽車のなかで、私の方をむいて、例の笑いを日と頰にうかべながら、私に、よんで聞かせたものである。つまり、このような句でも、また、さきに引いた、十一月の二十四日に、諏訪から、佐佐木茂索にあてた書翰のなかにある『白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ来し』などという作〔つく〕り事〔ごと〕のような歌でも、みな、この時の芥川の諏訪ゆきの半分ふざけたような気もちの一端〔いったん〕が、あらわれているのである。(ここで、私は、かりに生きているとして、芥川よ、「君がときどき持ちだした、万葉集のなかに、『しろたへににほふまつちの山川にわが馬なづむ家恋ふらしも』というのがあるね、」と、いってみたい。)
 それはそれとして、この十一月二十二日に芥川が大阪と京都から出した三枚の絵葉書は、どこで買ったのか、東京からわざわざ持ってきたのか、万年筆を持ったのを見たことのない芥川がこれらの便〔たよ〕りを何〔なに〕で書いたのか、いずれにしても、こういうところに芥川の独得の早業〔はやわざ〕があるのであろうか。芥川は、私の知るかぎり、創作のことは別として、女性の事その他については、『続世継』にある、「早業をさへならびなくしたまひければ」、とあるような、『太平記』にある、「早業は江都が勁捷にも超えたれば、」というような、『早業』の名手〔めいしゅ〕であった。

[やぶちゃん注:「坂下」は岐阜県中津川市坂下。中央本線の岐阜県側の最終駅坂下駅がある。
「宗賀」は「そうが」と読む。長野県塩尻市大字宗賀。中央本線の駅では洗馬(せば)駅と日出塩が宗賀地区に含まれる。
「長沼弘毅」(ながぬまこうき 明治三十九(一九〇六)年~昭和五十二(一九七七)年)は大蔵官僚・実業家・文芸評論家。本作が発表される二年前の昭和二四(一九四九)年の池田勇人内閣時代、大蔵省を退官している。後に日本コロムビア会長。シャーロキアンで、当時、1934年に創立された「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」唯一人の日本人会員であり、江戸川乱歩賞選考委員を第一回から第十四回まで務めた推理小説好きとして知られる。
「水野成夫」(みずのしげお 明治三十二(一八九九)年~昭和四十七(一九七二)年)は実業家。ウィキの「水野成夫」によれば、池田勇人政権下の「財界四天王」の一人で「マスコミ三冠王」と呼ばれた。フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長にして元経済団体連合会理事。元共産党員であったが、昭和十三(一九三八)年に検挙され、その転向直後、『新聞紙からインキを抜いて再生紙を作るというアイデアを陸軍に持ち込』んで、まんまと軍部に取り入り、同年、日清紡績社長であった『宮島清次郎を社長に迎えて国策パルプを設立させた』後、同社の『全額出資で別会社・大日本再生製紙』を創業、昭和二十(一九四五)年には同社を国策パルプに合併させて、昭和二十三(一九四八)年は常務取締役となり、昭和二十六(一九五一)年に社長、昭和四十五(一九六〇)年には会長に就任した。かくして彼は戦後の政財界に強い影響力を持つことになり、昭和三十一(一九五六)年には『民間会社組織に改組された文化放送の社長に就任した。これを契機にマスコミ各社の社長に就任する。文化放送では「良心的」とされるドラマ番組や探訪番組の打ち切り・娯楽番組中心への編成変え、保守財界人の宣伝、政府批判番組の禁止、反対者の配転、労働組合潰しなどを進めた。「財界のマスコミ対策のチャンピオン」とまで評され』た。翌昭和三十二(一九五七)年には経団連理事に就任、『ニッポン放送の鹿内信隆と共にフジテレビジョンを設立し、同社初代社長に就任』するや、翌年には今度は『産業経済新聞社(産経新聞)を買収して社長に就任』、在京メディアを実質的に掌握して「マスコミ三冠王」の名を恣にし、後のフジ・サンケイ・グループ『の土台を築いた。水野のマスコミへの進出は、財界のマスコミ対策とも言われ、ジャーナリズムからは「財界の送ったエース」と書き立てられた。新聞社の経営に普通の会社の経営方針を持ち込んだものと言われ、通常の編集、販売、広告の順番を逆にしてまず広告主を見つけることを最優先課題とした。また、労働組合を味方に取り込むために、産経新聞労組と「平和維持協定」を締結し(この結果、組合は日本新聞労働組合連合より脱退)、役員、職制、職場代表による再建推進協議会設置など労使一体による体制を構築した。このような水野のやり方は合理化に伴う配転・解雇などを生み「産経残酷物語」「水野天皇制」と言われた』。昭和四十(一九六五)年には産経新聞社会長に就任している。因みに彼は東大法学部出身で、戦前は『翻訳家・フランス文学者としても大いにその才能を発揮し、特に日本におけるアナトール・フランスの紹介に大いに功績があ』り、本文でも挙げられている「神々は渇く」は特に名訳とされてベストセラーとなった。『翻訳に当たってはフランス文学者の辰野隆の紹介で辰野の弟子に当たる渡辺一夫と出会い、翻訳上、不明な点がある時は、渡辺の教えを請い正確を期した。また、この時期、尾崎士郎、尾崎一雄、今日出海、林房雄などとの交友を持つに至った』と波乱万丈、勝組の立身出世伝として華々しい記載となっている。
「しろたへににほふまつちの山川にわが馬なづむ家恋ふらしも」巻七の一一九二番歌。作者不詳。
白栲ににほふ真土(まつち)の山川(やまかは)に我が馬なづむ家恋ふらしも
美しく匂い立つ真土山……その山川の傍らに私の馬が歩みを止めてしまった……これはきっと――妻が私を恋しがっているからであろうよ……
「続世継」は「今鏡」の異名。同書五十二の「雁がね」に九条民部卿四郎の話として、騎馬による渡渉で馬が倒れたが、鞍の上に瞬時に立って濡れなかったという「早業」の事跡として現れる。
「勁捷」は「けいしょう」と読み、素早いさま。これは「太平記巻二」の「南都北嶺行幸事」に現れる。「江都」は前漢の江都易王劉非。七尺の屏風を飛び越える俊敏さの持ち主であったと伝える。]

鈴木しづ子 三十四歳 『樹海』昭和二十九(一九五四)年八月号しづ子詐称投句全掲載句

穗草

 夏涸れの橋つくふや稻葉川

 塔下なる疾風の麥明日は刈る

 穗草吹く匂ひを人とおもひけり

 星霽れのしんしんと濃き樹蔭ゆく

 叔母の戀情噺笑ふにもあらず氷柱照る

 「夏涸れの」は不審。前掲したようにこれは日附不明の大量投句稿にあるが、そこでは、

 夏枯れの橋をつくらふ稻葉川

音数律から見ても『樹海』の誤植であろうと思われるがママ注記もない。これはそのまま表記しておいた。なお、やはり前の昭和二十七(一九五二)年九月二日附句稿で掲げた通り、この「稻葉川」はしづ子にとって意味深長な固有名詞なのである。巨湫がそれをここで敢えて出したこともやはり巨湫にとっても意味深長なのである。
 「穗草吹く」は底本「隠草吹く」。これでは標題の意味が分からぬ。「隠草」では意味も分からぬ(私は不学にして「隠草」という、この如何にもいい風雅な熟語を知らない)。『樹海』の誤植なのか、しかしママ注記もない。こちらは私の独断で勝手に訂した。
 「叔母」は岐阜在住であった歌人の山田朝子(旧姓鈴木)。その句柄はしかし、絶対零度である。しづ子と叔母との関係は社会的立場及び親族内でのしがらみへの意識の相違による相互不理解と、「アララギ」の正統派と「しづ子伝説」の観念世界のギャップからか、既に冷えきっていた。それが正に低温吸着して肌がべろりと剥けるように、美事に詠まれた句である。
 なお、ここまでで気が付くことが一つある。
――三月号の最終句は、
 爐火の燃え祕むるこころの喪さながら
次の五月号の巻頭句は、
 強からぬ爐の燃えゆきを一日とす
その掉尾は、
 堕りし雪の碎け散りなむ崖の底
次の六月号の巻頭句は、
 掌に握る鍵温し雪しまくなか
その掉尾は、
 風過ぎし穗草匂ふや人あらぬ
そして次の本八月号の冒頭標題は
「穗草」
である。
 これは確信犯の連鎖である。巨湫は何かを考えていた――少なくとも漫然と――しづ子の投句を詐称するためだけに掲載していたのではないことは確かだ。しづ子の失踪の景色は、もしかするとその巨湫の選句の中にこそ、宿命的に暗示的ながら、ぼんやりと姿を現してくるのかも――知れない

2012/01/22

鈴木しづ子 三十四歳 『樹海』昭和二十九(一九五四)年六月号しづ子詐称投句全掲載句

こころぎめ

 掌に握る鍵温し雪しまくなか

 秋葵咲きつぐことやここぎめ

 風過ぎし穗草匂ふや人あらぬ

 「しまく」「繞く」で、取り巻く、取り囲むの意。コスモスは長い期間、開花が続く。「穗草」は穂の出る草や秋に穂花を出している草を指す季語であるが、一般には稲の穂や芒の穂を指すことが多い。ここは後者であろう。

乱舞する雪の中で――

群生し風に揺れるコスモスの中で――

尾花の独特の匂う銀波うねりの中で――

しづ子はいつも――

独りである――

そうしてそこでしづ子は――

必ず埋み火のような心で人知れず一人――

決意をするのだ――

これからも――永遠に――しづ子ひとり――と

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(11)

 赤ん坊は齒が生えつつあるので、此の數日間、泣いてゐる。母が市に行つたので牛乳で養はれ、時時それが酸つぱかつたり、餘計に飲まされたりするらしい。
 併し今朝は大へん機嫌が惡かつたので、家の人たちは村に乳母を探しにやり、間もなく東の方へ少し行つた處に住んでゐる若い女が來て、赤ん坊に天然の食物をまたやるやうになつた。
 それから數時間たつて、私はパット爺さんと話さうと思つて茶の間にはひつて行くと、また違つた女が同じやうな親切な役を務めてゐたが、今度は妙にむづかしい顏をした女であつた。
 パット爺さんは一人の不貞な妻の話をした。それはこれから述べるが、その後でその女と道德上の口論を初めた。話を聞きにやつて來た若者たちはそれを面白がつて聞いてゐたが、生憎ゲール語で早口に言はれたので、私にはその要點の大略さへつかめなかつた。
 此の老人はいつも妙に滅入つた口調で自分の病氣の事や自分で近づきつつあるものと感じてゐる死の事などを語るが、北の島のムールティーン爺さんを思ひ出すやうな諧謔を時時弄する。今日、怪奇な二錢人形がお婆さんのゐる近くの床に落ちてゐた。それを爺さんは拾ひ上げ、お婆さんの顏と見較べるやうに眺めた。それからそれをさし上げて、「お内儀さん、こんなものを持ち出したのはお前さんかね?」と云つた。
 これからが彼の物語である。――

The baby is teething, and has been crying for several days. Since his mother went to the fair they have been feeding him with cow's milk, often slightly sour, and giving him, I think, more than he requires.
This morning, however, he seemed so unwell they sent out to look for a foster-mother in the village, and before long a young woman, who lives a little way to the east, came in and restored him to his natural food.
A few hours later, when I came into the kitchen to talk to old Pat, another woman performed the same kindly office, this time a person with a curiously whimsical expression.
Pat told me a story of an unfaithful wife, which I will give further down, and then broke into a moral dispute with the visitor, which caused immense delight to some young men who had come down to listen to the story. Unfortunately it was carried on so rapidly in Gaelic that I lost most of the points.
This old man talks usually in a mournful tone about his ill-health, and his death, which he feels to be approaching, yet he has occasional touches of humor that remind me of old Mourteen on the north island. To-day a grotesque twopenny doll was lying on the floor near the old woman. He picked it up and examined it as if comparing it with her. Then he held it up: 'Is it you is after bringing that thing into the world,' he said, 'woman of the house?'
Here is the story:--

[やぶちゃん注:「今度は妙にむづかしい顏をした女であつた」原文は“this time a person with a curiously whimsical expression.”。“whimsical”というのは「気まぐれな。むら気のある。酔狂な」が原義で、そこから「変な。妙な。滑稽な。」の意を派生する。この後の不貞な女の話とそこからパット爺さんとこの女が道徳的な議論を展開することを考えると、この女性の印象が「気難しい」感じの顔で、「頑なで保守的な」女性であったとは、私には思われない。寧ろ、普通の若い母親の印象とは違った「気まぐれでむらっ気のある」、「一種独特な雰囲気を持った」顔つきの女であったのではなかったか? 次の話で不貞な女とされる色気のあるタイプに寧ろ属する女性であったからこそ、議論になったとするべきであろう。栩木氏はこの部分を『この女がへんに色っぽい表情をしているのが目についた』と訳されており、私にはこちらの方が如何にも腑に落ちたのであるが、如何?
「怪奇な二錢人形」原文は“grotesque twopenny doll”であるが、後で「お内儀さん、こんなものを持ち出したのはお前さんかね?」という台詞があるからといって、何か意味ありげな宗教的な依代なわけでは毛頭あるまい。赤ん坊のために買ったものであるが、表情や造作が、奇妙で笑いをさそうような、いい加減にデフォルメされたように見える、如何にもな安物の人形であることを言うのであろう。すると、後の「お内儀さん、こんなものを持ち出したのはお前さんかね?」という台詞も、違ったニュアンスで読める。原文は“'Is it you is after bringing that thing into the world,' he said, 'woman of the house?'”である。パット爺さんは「諧謔を時時弄する」のであるから、『「今になって、この世にこんな奴をもたらしちまったのは、あんた」彼は言った、「女将さんかい?」』、即ち、『女将さん、この子は、お前さんが産んじまった哀れな子かね?』という意味であろう。栩木氏も『おや、奥さん、この子はあんたが産んだ子かいな。』と訳しておられる。]

最終巻 新編鎌倉志卷之八 テクスト化始動

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」で最終巻「新編鎌倉志卷之八」テクスト化を開始した。昨年の1月2日にテクスト化に入った時には、水平線に陸の蔭も見えなかった。影印による訓読を追加し、注釈が面白くなった昨年初夏でも、完成は数年先かなと考えていた――それが思いの外、遂に最終巻に至ったのである――粛々とやろう――

宇野浩二 芥川龍之介 二~(5)

 その日[大正九年の十一月二十三日]の晩、私たちが、新京極のナニガシ劇場を出て、暗〔くら〕い底冷〔そこび〕えのする寒い夜〔よる〕の町を、いそぎ足にあるいて、七条の停車場についたのは、十時半であった。上りの汽車が出るまで二十分ぐらいあったので、私たちはその二十分ほどの時間をもてあました、いや、もてあます、というより、閉口した。夜〔よる〕も十一時ともなれば、あのだだっ広〔びろ〕い七条の停車場の前の広場は真暗〔まっくら〕であり、もとより、土産物〔みやげもの〕を売る商店などは皆ほとんど戸〔と〕をしめており、ただ二三軒の宿屋の入口から明かりがさしているだけである。その広場をいくら足ばやにあるいてみても、待合室の隅〔すみ〕の方に体〔からだ〕をゆすりながら立っていても、顔がいたくなるような寒さをおぼえ、足の裏から冷〔つめ〕たさが体〔からだ〕に凍〔し〕みとおるような気がしたからである。
 ところで、これだけの記憶があって、さきに引いた芥川の全集の書翰篇に出ているような、この日、江口 渙にあてて、絵葉書に、芥川と寄せ書きをした覚えなどはまったくないのである。まして、京都のどこでそういう寄せ書きをしたかというような記憶はまったくないのである。ところが、ただ一〔ひと〕つ、妙な記憶が、ふしぎに、残っているのである。それはこういう話である。
 京都の、どこであったか、(たぶん私たちが一服した新京極の喫茶店であったかと思うが、それもうろ覚えである、)芥川が、なにかの話のとぎれた時、ちょっときまりのわるそうな顔をしながら、
「君〔きみ〕、コレ、ぼくの家にもって帰って、もし見つかったら困るから、あずかっといてぐれないか、」と、ここで、例のニヤニヤ笑いをしながら、「なんなら、どうだ、君も、ひとつ、コレを、『しよう』してみたら、――もっとも、『しよう』というのは、『使い用』の『しよう』と『試み用』の『しよう』と、その二〔ふた〕つの意味を、かねてだよ、」と、云った。
「……だって、さっき、君は、『ソレ』をつかって、失敗して、『ちょいと吾妹〔わぎも〕が悲鳴をあげた』などと、云ったじゃないか。」
「吾妹〔わぎも〕といえば、万葉集の、『秋の宿に濡れつつをればいやしけどわぎもが宿し思ほゆるかも』、『わぎも子がゑめるまよびき面影〔おもかげ〕にかかりてもとな思ほゆるかも』、などという歌は、じつに好もしいじゃないか。」
「……ふん、……が、僕は、そんなゴマカシには乗らないよ……しかし、『ソレ』は、あずかってやろう、但し、云っとくが、僕は、『コンナモノ』は、つかわないよ。」
この芥川が『コレ』といって私にわたしたものは、あの、前にのべた、四目屋〔よつめや〕と宮川町の一件と新京極の喫茶店で芥川と私がかわした妙な問答を思い出してくださらば、敏感な読者には、(いや、いかなる鈍感な読者でも、)直〔ただ〕ちに、想像できるであろう、それは、即〔すなは〕ち、一ばん大きな指サックの五倍くらいの大きさの張型(『ハリカタ』)である。(ところで、私は、この時、芥川からあずかった『張型』を、どこにしまったか、⦅袂〔たもと〕のなかに入れたか、紙入れの中〔なか〕にしまったか、⦆自分の家にもって帰って、どこにしまったか、まったく忘れてしまった、それゆえ、あの時の由緒〔ゆいしょ〕ある『ハリカタ』は行方不明〔ゆくえふめい〕となってしまったのである、閑話休題。)

2012/01/21

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(10)

 此の島の砦の丘(ダン)[やぶちゃん注:「砦の丘」に「ダン」のルビ。]即ち異教徒の城砦の最大の一つが、私の宿から手のとどくほど近くにある。私は卵や鹽豚の御馳走の後、石の上で、うつらうつら煙草を吹かしに、よく其處へ登る。村の人は私の此の習慣を知つて、或る者は始終ぶらぶら上つて來ては、私が近頃受取つた新聞に何か變つた事あるかと聞いたり、アメリカの事に就いて質問したりする。誰も來なければ、フィル・ボルグ族〔愛蘭土に於ける傳説上の古代民族の一つ〕の触つた石を、開けた本の重しにして、太陽のぬくみの中でいい氣持で何時間も眠る。此の二三日、私は此の丸い石垣の上に殆んど棲んでゐる。その譯は、計算がはづれたのか、泥炭がなくなり、乾した牛糞――島で普通の燃料――で火をつないだので抽煙が私の部屋に洩れはひり、机の上にも寢床の上にも靑い層となつて溜まつてしまつたからである。
 幸ひなことには天氣がよいので、日向で日を暮す事が出來る。此の石垣の頂から見渡すと、殆んど四方の海が見え、北と南の方は遙かに延びて遠い山脈へ續く。私の足下、東の方には島の人家のある一つの區域が見え、其處には赤い色の人影が小屋の邊をうろついてゐて、時時、きれぎれに話聲や古い島の歌が聞こえて來る。

One of the largest Duns, or pagan forts, on the islands, is within a stone's throw of my cottage, and I often stroll up there after a dinner of eggs or salt pork, to smoke drowsily on the stones. The neighbours know my habit, and not infrequently some one wanders up to ask what news there is in the last paper I have received, or to make inquiries about the American war. If no one comes I prop my book open with stones touched by the Fir-bolgs, and sleep for hours in the delicious warmth of the sun. The last few days I have almost lived on the round walls, for, by some miscalculation, our turf has come to an end, and the fires are kept up with dried cow-dung--a common fuel on the island--the smoke from which filters through into my room and lies in blue layers above my table and bed.
Fortunately the weather is fine, and I can spend my days in the sunshine. When I look round from the top of these walls I can see the sea on nearly every side, stretching away to distant ranges of mountains on the north and south. Underneath me to the east there is the one inhabited district of the island, where I can see red figures moving about the cottages, sending up an occasional fragment of conversation or of old island melodies.

[やぶちゃん注:「砦の丘(ダン)」原文“Duns”。ここはゲール語で“Dun Conor”(ドゥン・コナー)と呼ばれる城砦で、有名なイニシュモア島の巨大な砦“Dun Aonghasa”(ドゥン・エーンガス)に次ぐ大きな、西暦一世紀頃の城築とされるものである。この城の名はシングが言うように、伝説上の「フィル・ボルグ族」の族長であったエーンガスの弟コナーに因むものである。アラン諸島随一の美景の地で、シングは特にこの砦を好み、その“Dun Beag”(ドゥン・ビョグ)という砦の近くの断崖に腰を下ろしては瞑想に耽っていたと伝えられ、現在、その場所の石は“Cathaoir Synge”(カハー・シング)「シングの椅子」と呼ばれている。この小さな章はそうしたシングの心からの憩いの瞬間を伝える風と海と唄声のソネットのように私には聴こえる。]

鈴木しづ子 三十四歳 『樹海』昭和二十九(一九五四)年五月号しづ子詐称投句全掲載句

崖の底

 強からぬ爐の燃えゆきを一日とす

 風の頭輕く叩く握り拳の手

 手をおくや對ふ人なき月夜の餉

 惜しむなきいのちをさらす月の前

 月光と死とかかはりのあらざるも

 堕りし雪の碎け散りなむ崖の底

 ――選句する巨湫の中に大きな変化が起こっている気がする――どれも、選句する巨湫の側に――ある何やらん不思議な「覚悟」がある――則ち「選句」という作業が、不可思議な――あるしづ子の実相を剔抉しているのだ――そこには二句目のような現実のリアルな実像を挟んで、美事である……私は選句のという行為の「創造性」に今更ながら、気づいたことを告白しておきたい――この憎い「崖の底」という標題も含めて――途轍もなく――素晴らしい――

新編鎌倉志卷之七 全テクスト化注釈完了

 「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「新編鎌倉志卷之七」の全テクスト化と注釈を完了した。最後に、僕にしか出来ない注釈を附すことが出来たのは――内心、快哉を叫んでいる――よかったら――その企みをお読みあれ――但し、その意味が分かるのは――この世にたった一人しかいないのだがね……

2012/01/19

新編鎌倉志巻之七 遂に知らない場所へ

「新編鎌倉志卷之七」を海宝院まで更新。遂にここに至って僕が行ったことない場所が出現した。

2012/01/18

僕の四月

僕は決めた――僕の自由な人生の――最初のターゲットは「誓いの休暇」――これで決まり――誰にも文句は言わせないぜ!

鈴木しづ子 三十四歳 『樹海』昭和二十九(一九五四)年三月号しづ子詐称投句全掲載句

隠るる如

 萬綠の流れ激ぎちこゑを載す

 月明の棚に身を凭せ刻過ごす

 隠るる如月の片蔭みちをゆく

 爐火のまへこの白肌ぞ孤りなる

 爐火の燃え祕むるこころの喪さながら

 癪だけれど……この五句の撰は美事である――五句全体のソリッドな感覚も素晴らしい。流石は巨湫だ――というより――巨湫は確かにしづ子を愛していた――それだけが分かれば――相愛の二人にもう――僕らは文句は言えないのだ……

2012/01/17

鈴木しづ子 三十四歳 『樹海』昭和二十九(一九五四)年二月号しづ子詐称投句全掲載句

ふたたび

 凍蝶に蹤きてさすらひはじまれり

 わが不幸東京に見し冬の蝶

 玻璃の面の蛾のはばたきを人と思ふ

 まん月の夜のいのりぞ女體もて

 巨湫よ――何が「ふたたび」だ――お前の中でのみしづ子が復活するとでも言いたいのか?――それがお前の愚劣な犯罪であることを――強迫神経症の如く忘れるためか――そこではしづ子は既に死んでいて――凍蝶や蛾となって――お前を「ふたたび」訪れるとでもおめでたく思ってでもいたのか?……お前が抱いた――いや――誠、抱きたいと思ったが抱けなかった――しづ子が――

宇野浩二 芥川龍之介 二~(4)

 ここで、私は、念のために、と思って、芥川龍之介全集の第七巻(書翰篇)の大正九年十二月の二十日へんのところを、ひらいてみて、おどろいた、(というより驚歎した。)つぎのようなものがあるからである。

 宇野耕右衛門先生にお守りをされてゐるまあボクも面白かつた。
  峡中に向ふ馬頭や初時雨

 これは、「三月二十二日京都から。絵端書へ宇野浩二寄書、江口渙宛」となっているが、どういうわけか、私に、まったく覚えがない。(『宇野耕右衛門』とは、私のその頃の小説に『耕右衛門の改名』というのがあるからである。)

 大阪道頓堀のcaféにゐたら川向うの家の物干に猿が一匹這つてゐましたその上に昼のお 月様がありました歌か句になりませんか        頓首 

これは、「十二月二十二日京都から。絵端書、小穴隆一宛」とあり、葉書の文面のおもてに「京都駅にて 芥川龍之介」とある。

 今日一日時雨の中に宇野浩二先生と京都の町を歩きまはりました一軒紙のれんを青竹にとほした饅頭屋がありましたあなたと一しよならあひつて饅頭を食ひたいと思ひました

 これは、「十一月二十二日京都から。絵端書、小沢忠兵衛宛」となっていた。小沢忠兵衛とは、小沢碧堂という俳人で、芥川の『夜来の花』という本に、字を書いている。(この碧堂のかいた『夜来の花』を、版にする前に、芥川が、自慢そうに、見せたことがあるが、私には、うまいかまずいか、サツパリわからなかった。)

  白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ来し
    二伸
 但し宇野僕二人この地にゐる事公表しないでくれ給へ

 これは、「十一月二十四日諏訪から。佐佐木茂索宛」となっている。(この事については、後に、くわしく述べる。)
 以上の絵葉書を、今、よんで、芥川が、私と行動を共にしながら、いつ、京都のどこで、あるいは、京都の駅のどこで、こういう便りを書いたか、これは、私のまったく知らない間のことであるから、やはり、芥川は、『早業』の名人、ということになるか。しかし、また『早業』をしそこなうようなところも、多分に、あった。それから、……

2012/01/16

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(9)

 此の灰色の雲と海の間で幾週間か暮した事のない者には、女の赤い着物が、殊に今朝のやうにたくさん群がつてゐるのを目に止める樂しさはわからないであらう。
 若い牛が、近日中に開かれる本土の市場へ船積される筈だと聞いた。それで夜明け少し前、私はそれを見ようと波止揚へ下りて行つた。
 灣は催してゐる雨氣に灰色に蔽はれてゐたが、雲の、うすさに海の上には銀のやうな明るさがあり、コニマラの山山には常ならぬ靑さが濃かつた。
 私が砂山を越えて行くと、灰色の帆をかけた漁船が滑るやうに靜かに漕ぎ出して行つたり、また波止場へ向つて進んで來たりしてゐた。赤毛の牛の群が、岩と海の境目にある縁の長い草の道でもつて目新しい色の調和を作りながら、大概は女に追はれて方方から集まつて來つつあつた。
 波止場その物も牡牛と大勢の人で混み合つてゐた。群集の中にあたりの者たちに威張つてゐるらしい普通の人とは違つた一人の娘が居た。彼女の妙な恰好をした鼻柱や狭い頰は妖精のやうな顏を思はせたが、髮の毛と皮膚の美しさは獨特の魅力であつた。
 空(から)の漁船が横付けになつても、まだその甲板は波止場の面より数呎低かつた。それで牛は大騒ぎして檣頭から綱で吊り下ろされた。或る牛は持主を殆んど海へ引張り込まんばかりに猛然と逃げようとしたが、彼等は驚くべき巧妙さでそれを取扱ひ、何の間違ひも起さなかつた。
 屋根のない船艙に若い牛を立たせ得るだけぎつしり詰めると、持主は女房や姉妹たちと甲板に飛び下りて出發し初めた。此の女房や姉妹たちは、ゴルウェーで男達の濫費を防ぐ爲に附いて行くのである。直ぐその後で、老いぼれてヨロヨロした一般の漁船がコニマラから泥炭を積んで波止場の方へやつて來た。荷卸をやつてゐる間に、男達がすつかり波止場の縁に腰かけて、持主が怒つて氣が荒くなるまでに木材の腐つてゐる事をとやかく云つた。
 さてボートが波止場に來られなくなつた程汐が退いたので、場所を東南の細長い砂地に移し、其處で殘りの牛は寄波の中を船へ積み込まれた。漁船は岸から八十ヤードぐらゐの所に碇泊し、カラハが牛を引張つて漕ぎ去り漕ぎ戻つた。各々の牡牛は順順に捕へられ、革の吊帶を體に廻はされた。その吊帶で牛は船の上に引き揚げられるのである。今一つの綱が角に結ばれて、カラハの艫にゐる人に渡される。それから年は寄波の中へ無理に下ろされ、餘り長く苦しませないやうにして波の深みから出された。少し泳ぐやうになると、漁船の方へ牽いて行き、半ば溺れた状態で船の中へ引き揚げられた。
 砂地では自由がきくので、激しい反抗心を起すらしく、中には危險な取組を冒してやつと捕へられる牛もあつた。最初の一遍で成功するとは限らず、私は三歳の牛が角で二人の男をつり上げ、もう一人を角で五十ヤードも砂地を引きずつて、やつと鎭められたのを見た。
 こんな仕事のなされてゐる間中、お内儀さんたちや子供たちの群は岸の縁に集まつて、ひやかしとも賞讃ともつかない事を叫び續ける。
 家に歸つてみると、此處のお婆さんの娘も本土へ行つた女の一人で、その九ケ月位の赤ん坊はお婆さんに預けられてあつた。
 はひつて行くと、お婆さんは晩飯の用意に忙しく、此の時間にいつもやつて來るパット・ディレイン爺さんが搖加藍を搖つてゐた。その搖藍はみすぼらしい柳細工で、下に搖框(ゆりわく)の役をする滑りの惡い二つの木がつけてある。部屋ゐる間中、とてつもなく亂暴に床の上でバタンバタンする音が聞こえてゐた。赤ん坊は目を醒ますと床の上を這ひ廻る。するとお婆さんは節の非常に面白い、譯のわからない色色な子守歌を歌ふ。
 此の家にゐるもう一人の娘もまた市に行つたので、お婆さんが私と赤ん坊の兩人、おまけに爐邊の穴にゐる一群のひよこまでも世話をしなければならなくなつた。茶を賴んだ時や、お婆さんが水汲みに行つた時は、私が搖藍をゆすぶる番になつた。

No one who has not lived for weeks among these grey clouds and seas can realise the joy with which the eye rests on the red dresses of the women, especially when a number of them are to be found together, as happened early this morning.
I heard that the young cattle were to be shipped for a fair on the mainland, which is to take place in a few days, and I went down on the pier, a little after dawn, to watch them.
The bay was shrouded in the greys of coming rain, yet the thinness of the cloud threw a silvery light on the sea, and an unusual depth of blue to the mountains of Connemara.
As I was going across the sandhills one dun-sailed hooker glided slowly out to begin her voyage, and another beat up to the pier. Troops of red cattle, driven mostly by the women, were coming up from several directions, forming, with the green of the long tract of grass that separates the sea from the rocks, a new unity of colour.
The pier itself was crowded with bullocks and a great number of the people. I noticed one extraordinary girl in the throng who seemed to exert an authority on all who came near her. Her curiously-formed nostrils and narrow chin gave her a witch-like expression, yet the beauty of her hair and skin made her singularly attractive.
When the empty hooker was made fast its deck was still many feet below the level of the pier, so the animals were slung down by a rope from the mast-head, with much struggling and confusion. Some of them made wild efforts to escape, nearly carrying their owners with them into the sea, but they were handled with wonderful dexterity, and there was no mishap.
When the open hold was filled with young cattle, packed as tightly as they could stand, the owners with their wives or sisters, who go with them to prevent extravagance in Galway, jumped down on the deck, and the voyage was begun. Immediately afterwards a rickety old hooker beat up with turf from Connemara, and while she was unlading all the men sat along the edge of the pier and made remarks upon the rottenness of her timber till the owners grew wild with rage.
The tide was now too low for more boats to come to the pier, so a move was made to a strip of sand towards the south-east, where the rest of the cattle were shipped through the surf. Here the hooker was anchored about eighty yards from the shore, and a curagh was rowed round to tow out the animals. Each bullock was caught in its turn and girded with a sling of rope by which it could be hoisted on board. Another rope was fastened to the horns and passed out to a man in the stem of the curagh. Then the animal was forced down through the surf and out of its depth before it had much time to struggle. Once fairly swimming, it was towed out to the hooker and dragged on board in a half-drowned condition.
The freedom of the sand seemed to give a stronger spirit of revolt, and some of the animals were only caught after a dangerous struggle. The first attempt was not always successful, and I saw one three-year-old lift two men with his horns, and drag another fifty yards along the sand by his tail before he was subdued.
While this work was going on a crowd of girls and women collected on the edge of the cliff and kept shouting down a confused babble of satire and praise.
When I came back to the cottage I found that among the women who had gone to the mainland was a daughter of the old woman's, and that her baby of about nine months had been left in the care of its grandmother.
As I came in she was busy getting ready my dinner, and old Pat Dirane, who usually comes at this hour, was rocking the cradle. It is made of clumsy wicker-work, with two pieces of rough wood fastened underneath to serve as rockers, and all the time I am in my room I can hear it bumping on the floor with extraordinary violence. When the baby is awake it sprawls on the floor, and the old woman sings it a variety of inarticulate lullabies that have much musical charm.
Another daughter, who lives at home, has gone to the fair also, so the old woman has both the baby and myself to take care of as well as a crowd of chickens that live in a hole beside the fire, Often when I want tea, or when the old woman goes for water, I have to take my own turn at rocking the cradle.

新編鎌倉志卷之七 名越切通

「新編鎌倉志卷之七」を名越切通まで更新。二十の頃の思い出を注で附した。懐かしい思い出を――

2012/01/15

ぼくらの町は川っぷち 西六郷少年少女合唱団

ぼくらの町は川っぷち 西六郷少年少女合唱団

……この曲はね……彼らの歌声でなければ聴く価値がないんだ……そこにあるのは……昭和30年代に生まれた僕らの――高度経済成長と科学技術成長の彼方にバラ色の未来を見ていられた(確かに見ていた――その少年の自分を僕は否定しない)――素朴な耀ける未来の希望の歌だったのだ……

年老いた、そして3・11を経、最愛の母を失った僕には……今……これが人類の滅亡のエンディングにかかるべき哀しい曲に思えてならない……

しかも――それでも僕は――この曲を――永遠に愛する――

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(8)

 マイケルと外出すると、後からついて行けないほど足が早いので、石灰岩に多くある端の尖つた風化石で靴をズタズタにしてしまふ。
 宿の人たちは昨夜それに就いて相談して、結局一足の革草鞋を私に作つてくれる事になつた。それを今日は岩の中で履いてゐる。
 それは生の牛の革から出來ただけの物で、外側に毛があり、釣糸の両端を以つて爪先の上と踵の周りとで編み合はされ、糸はぐるつと廻つて足の甲の上で結ばれてある。
 夜脱いだ時は、それを水桶の中に入れておく。革を硬いままにしておくと足や靴下を切るからである。同じ理由で、足を常に濕(し)めらせておく爲に、人人は晝間、時時波の中にはひる。
 初め私は、長靴を履く時に自然にするやうに、踵に身體の重みをかけて、かなり傷をした。併し、数時間後には普通の歩き方を覺えて、島の何處へでも案内人について行けるやうになつた。
 北の方の、崖下の或る處では、殆んど一哩近くも普通の歩き方では一歩も歩けず、岩から岩へ飛び歩くのである。此處でも私は爪先を自然に使ふのがわかつた。と云ふのは、行手のどんな小さな穴へでも、一生懸命に足先でしがみついて跳ぶことがわかつたからである。そして餘り緊張した爲に足の筋肉全體が痛んだ。
 歐洲にある重い長靴の無い事が此島の人たちに野獸のやうな素早い歩き方を保存させ、また一方に於て、彼等の一般的に簡素な生活は肉體上の他のいろいろな點に於いて完成を與へた。彼等の生活の樣式は、その四圍に住んでゐる動物の巣や穴より以上に手の込んだ物に從つて営まれてゐるのでなく、或る意味に於いて、彼等は、野生の馬が駄馬や馬車馬よりは寧ろ完全に育てられた馬に似てゐると同じやうに、勞働者や職人よりは――我我の上流の比較的立派な型に――自然の理想に適ふまでに手をかけて育てられた人人に近いやうに見えるる、これと同じやうな自然發達の種族は、恐らく半ば文化の開けた國に珍らしくないのである。併し此處では、野生的動物の性質の中に際立つて、古代社會の純良な物の片影が交つてゐる。
 私がマイケルと散歩してゐる間に、屢々時間を聞きに來る者がある。しかし、さういつた人達は時刻といふ物の約束をぼんやりと理解する以上に充分近代的の時間といふものに慣れてゐない。
 私の時計では何時と云つても承知せず、日暮れまでどの位あるかと聞く。
 此の島で甚だ妙な事は、一般に時間は風の方向と関係してゐると思つてゐる。殆んどどの家もそんな風に建てられ、向き合つて二つの戸があり、風の當らない方の戸は、家の中に明りを採る爲に一日中開いたままになつてゐる。風が北から吹けば南の戸が開いて居り、茶の間の床の上を戸柱の蔭が横に動いて行くので、時間がわかる。ところが、風が南に變ると、直ぐに北の方の戸があいて、簡單な日時計を作る事さへ知らない人たちは困惑する。
 此の戸口の仕組はまた今一つの面白い結果を生ずる。村の往來の片側は、どこの戸口も開いたままになつて、女たちが敷居の上に腰かけたりしてゐるのに、他の方の側の戸口は皆しまつて、人の住んでゐる気配も見えない事がよくある。風が變ると、その瞬間に凡ての物が反對になつてしまふ。一時間の散歩の後歸つてみると、何もかも道の片側から他の側へ移り變つてゐるやうな事が屢々ある。
 此の家では戸口が變ると茶の間の樣子ががらつと變つて、庭や小路の眺められる輝かしいまで明るい茶の間は、雄大な海を見わたす薄暗い穴倉のやうになる。
 北風の吹く日には、お婆さんはどうにか時間通りに私の食事を作るが、さうでない日には六時のお茶を三時に作る事がある。それを斷はると、三時間も炭火にとろとろ煮て、また六時になつて、充分温かいかどうかを非常に心配しながら持つて來る。
 爺さんは、私が去る時には時計を送つてもらひたいと云ふ。私の贈つた物が何か家の中にあると、私のことを忘れないだらうし、時計は他の物のやうに重寶ではなくとも、それを見ればいつでも私を想ひ出すだらう、と彼は云ふ。
 一般に正確な時刻を知らない爲に、人人は規則正しい食事をする事が出來ない。
 家の人は晩は一緒に食事をするらしい。また時には朝も、夜明け少し後、皆が仕事に思ひ思ひに出かける前に一緒に食事をする事がある。併し晝間は、腹がすけばいつでも、ただ茶を一杯飲んだり、パンを一片食つたり、或ひは芋を食べたりするだけである。
 外で働いてゐる者は不思議にあまり食べない。マイケルは時時何も食べないで八九時間も芋畑の草取りをして、外にゐる事がある。歸つて來て手製のパンの幾片かを食べるが、それでいつ誘つても私と一緒に出かけて、島を何時間でも歩き廻るやうに用意が出來てゐる。
 彼等は鹽豚・鹽肴のほかには動物質の食物は取らない。お婆さんは生の肉を食べると、大病になると云ふ。
 茶や砂糖や小麥が一般に用ひられるやうになつたのは數年前からの事で、その前は鹽肴が今日より以上に食事の重要品であつた。それで皮膚病が、今は此の島にも少くなつたが、以前には隨分多かつたさうである。

Michael walks so fast when I am out with him that I cannot pick my steps, and the sharp-edged fossils which abound in the limestone have cut my shoes to pieces.
The family held a consultation on them last night, and in the end it was decided to make me a pair of pampooties, which I have been wearing to-day among the rocks.
They consist simply of a piece of raw cowskin, with the hair outside, laced over the toe and round the heel with two ends of fishing-line that work round and are tied above the instep.
In the evening, when they are taken off, they are placed in a basin of water, as the rough hide cuts the foot and stocking if it is allowed to harden. For the same reason the people often step into the surf during the day, so that their feet are continually moist.
At first I threw my weight upon my heels, as one does naturally in a boot, and was a good deal bruised, but after a few hours I learned the natural walk of man, and could follow my guide in any portion of the island.
In one district below the cliffs, towards the north, one goes for nearly a mile jumping from one rock to another without a single ordinary step; and here I realized that toes have a natural use, for I found myself jumping towards any tiny crevice in the rock before me, and clinging with an eager grip in which all the muscles of my feet ached from their exertion.
The absence of the heavy boot of Europe has preserved to these people the agile walk of the wild animal, while the general simplicity of their lives has given them many other points of physical perfection. Their way of life has never been acted on by anything much more artificial than the nests and burrows of the creatures that live round them, and they seem, in a certain sense, to approach more nearly to the finer types of our aristocracies--who are bred artificially to a natural ideal--than to the labourer or citizen, as the wild horse resembles the thoroughbred rather than the hack or cart-horse. Tribes of the same natural development are, perhaps, frequent in half-civilized countries, but here a touch of the refinement of old societies is blended, with singular effect, among the qualities of the wild animal.
While I am walking with Michael some one often comes to me to ask the time of day. Few of the people, however, are sufficiently used to modern time to understand in more than a vague way the convention of the hours, and when I tell them what o'clock it is by my watch they are not satisfied, and ask how long is left them before the twilight.
The general knowledge of time on the island depends, curiously enough, on the direction of the wind. Nearly all the cottages are built, like this one, with two doors opposite each other, the more sheltered of which lies open all day to give light to the interior. If the wind is northerly the south door is opened, and the shadow of the door-post moving across the kitchen floor indicates the hour; as soon, however, as the wind changes to the south the other door is opened, and the people, who never think of putting up a primitive dial, are at a loss.
This system of doorways has another curious result. It usually happens that all the doors on one side of the village pathway are lying open with women sitting about on the thresholds, while on the other side the doors are shut and there is no sign of life. The moment the wind changes everything is reversed, and sometimes when I come back to the village after an hour's walk there seems to have been a general flight from one side of the way to the other.
In my own cottage the change of the doors alters the whole tone of the kitchen, turning it from a brilliantly-lighted room looking out on a yard and laneway to a sombre cell with a superb view of the sea.
When the wind is from the north the old woman manages my meals with fair regularity; but on the other days she often makes my tea at three o'clock instead of six. If I refuse it she puts it down to simmer for three hours in the turf, and then brings it in at six o'clock full of anxiety to know if it is warm enough.
The old man is suggesting that I should send him a clock when I go away. He'd like to have something from me in the house, he says, the way they wouldn't forget me, and wouldn't a clock be as handy as another thing, and they'd be thinking of me whenever they'd look on its face.
The general ignorance of any precise hours in the day makes it impossible for the people to have regular meals.
They seem to eat together in the evening, and sometimes in the morning, a little after dawn, before they scatter for their work, but during the day they simply drink a cup of tea and eat a piece of bread, or some potatoes, whenever they are hungry.
For men who live in the open air they eat strangely little. Often when Michael has been out weeding potatoes for eight or nine hours without food, he comes in and eats a few slices of home-made bread, and then he is ready to go out with me and wander for hours about the island.
They use no animal food except a little bacon and salt fish. The old woman says she would be very ill if she ate fresh meat.
Some years ago, before tea, sugar, and flour had come into general use, salt fish was much more the staple article of diet than at present, and, I am told, skin diseases were very common, though they are now rare on the islands.

[やぶちゃん注:「完全に育てられた馬」原文“thoroughbred”。言うまでもなく、英国原産種にアラビア馬その他を交配して改良・育成した競走馬のことで、現代ではそのまま「サラブレッド」と訳した方がすんなり意味が落ちる。
「彼等の生活の樣式は、その四圍に住んでゐる動物の巣や穴より以上に手の込んだ物に從つて営まれてゐるのでなく」及び「しかし、さういつた人達は時刻といふ物の約束をぼんやりと理解する以上に充分近代的の時間といふものに慣れてゐない。」の訳語は「以上に」の部分を「以上には」とした方が今の日本語としては分かりよい。則ち、『彼らの生活の様式は自然界の動物の本能的な営巣に従っており、それ以上の、我々が言うところの「近代的な知性」によって営まれた「文明的生活」とは無縁で』、『彼らの時間概念は一日の大まかな自然現象としての変化をぼんやりと理解する程度のものであって、それ以上の、我々が言うところの「近代的な概念」によって縛られた「絶対的時間」には慣れていない』のである、と言っているのである。
「さうでない日には六時のお茶を三時に作る事がある。」原文は“she often makes my tea at three o'clock instead of six.”で確かに“tea”であるが、これは前文で“my meals”を「食事」と訳しており、それを受けての文であるから、これはお婆さんの作る(失礼ながら)大したことのない粗末な「夕食」が、所謂、イングランドの習慣である午後五時頃に紅茶とともに摂る、ディナーを事前に補うところの軽食“afternoon[five-o'clock]tea”(夕食が軽い場合には肉料理附きで“high[meat]tea”と言う)のように感ぜられたことからの“tea”なのではなかろうか。訳としては夕餉をでいいのではないか? 但し、もしかすると実際にこのお婆さんは“afternoon tea”の後、ちゃんとディナーかサパーを出していたのかも知れない。お婆さんの名誉のために附言しておく。
「爺さん」ここまで登場していなかったが、これはどうもシングが泊まっているこの屋の主、「お婆さん」の夫と思われる。]

鈴木しづ子 三十三歳 『樹海』昭和二十八(一九五三)年五・六月号しづ子詐称投句全掲載句

 美濃は好し冬は水辺の歸り花

 人間の貌に似てきし老いたる犬

 鳰を見るひとにをしふることもなく

 この徑の行き盡くまでの蓬とも

 本号の選句は明らかに前号までの選句と異なる。しづ子の句は孤愁と死の影を暗示させるものが多いことは事実だが、先の子らを詠唱した作に見るように、その中には小春日のような温もりの句を見出すことは決して困難ではない。勿論、数句を採るにそこに共通のコンセプトを持たせようとするのは、巨湫に限らぬ普通の選句者の教育的立場でもあろう。にしても――である。前号の優しい母性の眼差しを一変させて、語彙も映像もすっかりモノクロームの愁と死のモンタージュに変えたこの選句はどうだ。
 そうして――実はこの後、翌昭和二十九(一九五四)年二月号刊行までの、七ヶ月に亙ってしづ子の句は『樹海』に掲載されないのである。――
 なお、特にこれ以降の『樹海』に見るように巨湫は詐称投句群に総標題を附し始める。これは今に始まったことではないが、それが顕著になる。しかし私には、これは共時的に投句されたものを掲載しているのではないという真実を隠蔽するための姑息な手段にしか見えないのである。

宇野浩二 芥川龍之介 二~(3)

芥川と宇野が剣劇を見て下諏訪行の夜行を待つ――その剣劇を見るところまで、三パートをまとめて公開する。ここで紹介されている宇野の撮ったという芥川龍之介のシルエット・ポートレイト――見てみたいものだが……誰か御存じないか……

 さて、私たちは、下諏訪に昼頃〔ひるごろ〕につきたい、と思ったので、その喫茶店で、『時間表』をかりて、その晩の十一時何分〔なんぷん〕かの汽車にのることにきめた。
 やがて、私たちは、その喫茶店を出て、ぽつぽつ人どおりの出だした新京極の通りを、南の方へ、あるいて行った。あるきながら、ふと、左側の劇場看板を、見ると、その頃さかんに流行し出した剣劇の看板のはしに、私は、中田正造、小笠原茂夫、という名を見出〔みい〕だした。私は、小笠原は、沢田正二郎に紹介されて、知っていた。それと一しょに、小笠原が、本職より、文学がすきであった事を、私は、思い出した。
 そこで、私が、その剣劇の看板を指しながら、芥川に、その事を、いって、「昼の間は、京都の町を、ぶらぶら、あるいて、晩は、汽車に乗るまでの時間つぶしに、この芝居を、見ようか、」と、いうと、芥川は、すく「それがいい、それがいい、」と、いった。
 そこで、私たちは、新富の通りを穿抜けたところを右にまがり、烏丸通り右へまがって、高島屋[百貨店]に、はいった。高島屋にはいったのは、偶然、その前をとおりかかったからでもあるが、広島晃甫から、高島屋の美術部長にあてた紹介状を、もらっている事を、思い出したからである。しかし、高島星の中にはいると、芥川も、私も、「美術部長などにあっても、つまらないね、」と、いいあって、時間つぶしに、二階にあがったり、三階をまわったり、した。
 ところが、その三階で、冬物売り場というところを、ぶらぶら、あるいていた時、私の目が、毛皮部の売り場の隅に、兎の毛皮を裏につけた小さい、『ちゃんちゃんこ』に、とまった。明日の昼すぎに逢うことになっている、下諏訪の、私が自分の小説の女主人公にした、ゆめ子〔私の小説に出る女の名〕の子(二歳〔ふたつ〕ぐらいの赤ん坊)に、その『ちゃんちゃんこ』を、おくりたい、と思ったからである。そうして、私は、それを思いたつと、すぐ、芥川にも、あの生駒の女に、ナニか、おくることを、すすめよう、と、かんがえた。
 そこで、けっきょく、私は、その『ちゃんちゃんこ』を、諏訪の女におくることにし、芥川は、生騎の女に、ショウルを、おくることにした。(ショウルは、私が、芥川に、すすめたのである。ついでに書けば、ショウルは金参拾円であり、『ちゃんちゃんこ』は金拾八円であった。)

[やぶちゃん注:「中田正造、小笠原茂夫、という名を見出だした。私は、小笠原は、沢田正二郎に紹介されて、知っていた」沢田正二郎は大正から昭和初期にかけて爆発的人気を博した剣劇俳優で劇団「新国劇」座長。中田正造と小笠原茂夫は同劇団団員であったが、沢田のワンマン経営に異議を唱えて脱退、ここで宇野と芥川が京都を訪れた直前の大正九(一九二〇)年九月に劇団「新声劇」に入団しているから、この劇場の看板は「新声劇」の公演である。この「新声劇」は元は大阪道頓堀弁天座を根拠地とした辻野良一らの新派劇団であったが、中田らの入団によって剣劇団に様変わりし、「新国劇」とともに一大剣劇流行の時代を担うこととなった。]

 それから、私たちは、日の暮れる前あたりまで、京都のどの辺を、あるいたか、その記憶が、私に、ほとんど、まったく、ないのである。(その間に、時雨〔しぐれ〕にあったことだけ、ふしぎに、おぼえている。)ところが、今、その写真は手もとにないが、芥川が、先斗町あたりの加茂川の岸で、加茂川の方を眺めている、その芥川の、横むきの、腰から上のシルエット(silhouette――このフランス語を、辞書で、しらべると『黒色半面影像』というのがある)のようにとれた写真、があったのを、おぼえている。これは、私がうつしたのであるが、その写真の芥川は、黒色の、鍔〔つば〕のひろい、(むかしの宣教師のかぶっていたような、)帽子をかぶっていて、洋服は、たぶん、黒色であり、ネクタイも、黒色であったが、この芥川の横むきの姿は、アアサア・シモンズのようにも、見え、ちょっと、アルテュゥル・ランボオを、思わせるようなところもある。
 小島政二郎の『眼中の人』というおもしろい小説のなかに、

 「ゆうべ見せて戴〔いただ〕いた写其のなんとか云ふ方〔かた〕ね、ああいふの、芸術家らしくつていいわ。」[註――これは、主人公の妻の言葉]
  ゆうべ見せた写真? ああ、あれはフランスの象徴詩人マラルメを論じた本の巻頭に載つてゐた著者フランシス・グリヤアソンの肖像だつた。それは芥川龍之介に似た美男子で、文壇ゴシップの伝へるところによれば、芥川の髪の形は、このグリヤアソン・スタイルの模倣とまで云はれてゐるその原型だつた。

 というところがあるが、私の愛蔵している、グリヤアソンの“Parisian Portraits”という本の巻頭のグリヤアソンの写真は、ほんとうに、若き日の芥川に似ている、それは、ここに、それを写真版として、入れたい程である。
 (芥川と、アアサア・シモンズ、その他については、後に述べるつもりである。)

[やぶちゃん注:「フランシス・グリヤアソン」Francis Grierson(フランシス・グリーアスン 1848~1927)作曲家にしてピアニスト、文芸評論家のイギリス人(幼少期に米国移住)。著作に近代ヨーロッパ文学と神秘主義思想を論じた“Modern Mysticism”(1899)などがある。]

 

 さて、その日の夕方、私は、芥川と一しょに、新京極のナニガシ劇場の楽屋に、小笠原茂夫を、訪間した。
 その時、小笠原は、もう鬘をかぶるばかりに、頭をきちんと手拭でまき、顔もすっかり舞台に出る扮装をしていたが、私たちの顔を見ると、
「きたない所です、」と、いいながら、弟子に座蒲団を出させながら、きまりわるそうな顔をした。
 そこで、私が、芥川を紹介してから、(汽車に乗るまでの時間つぶしなどという事はいわないで、)芝居を見せてもらいたいというと、
「たいへんな芝居ですが、……」と、小笠原は、頭をかきながら、「しかし、せっかくおいでくだすったのですから、まあ、どんなバカげた事をやっているか、を、見ていただきましょう、」
と、云った。
 それから、私たちは、舞台裏から、桟敷の一隅に、案内された。芥川は、剣劇だらけの絵のかいてある番組を見ながら、
「なるほど、小笠原は、芝居より、文学がすきらしいね、」といった。
「文学などがすきだから、小笠原は、沢田みたいに、俳優としては、出世しないよ。」
 やがて、幕があいた。見ると、どこかの屋敷の前で、数人の侍〔さむらい〕が斬りあっている。すると、やがて、その屋敷の中から、火事がおこって、舞台が一そう混乱する。その時、さッと、花道の入り口の揚げ幕のあく音がして、そこから、火消し姿の小笠原が、片手に鳶口を、かまえるような恰好をして、持ちながら、バタバタと、花道を、駆けてとおった。
「なるほど、さっき、小笠原君がいったとおり、たいへんな芝居だね、」と私がいうと、
「小笠原の足は、君、細〔ほそ〕すぎるね、」と芥川が云った。

[やぶちゃん注:『芥川は、剣劇だらけの絵のかいてある番組を見ながら、/「なるほど、小笠原は、芝居より、文学がすきらしいね、」といった。/「文学などがすきだから、小笠原は、沢田みたいに、俳優としては、出世しないよ。」』という部分は、省略された部分に小笠原と芥川たちの文学談義があったとしても、文脈から見ると芥川が小笠原が組んだ剣劇の外題を見て、それらが単なる浄瑠璃や歌舞伎のみならず、広範な古典や近代文学の知識に基づいて創作されたものであることを読み解いたからではなかろうか。だからこそ、二番目の芥川の台詞『そんなに文学に色気を持って脚本作りに肩入れしていると、俳優としての演技は散漫で疎かにならざるを得ない。だから出世はしない』といった推理を展開しているように私には読める。実際、芥川龍之介が生前、しばしば見せた辛口の劇評はどれも非常に鋭いものである。特に私は「足の細さ」に着目する芥川に同感する。歌舞伎や剣劇の荒事や武辺物にあっては、如何に二枚目で所作が上手くても、実際、足の細い(細く見えてしまう)俳優は、舞台では結局大成しないと私も実感するからである。]

宇野浩二 芥川龍之介 二~(2)

前文に続き、性具の話が登場するので未成年者は自己責任でお読みあれ。

 芥川と一しょに、宮川町の茶屋を出て、四条大橋をわたり、ひろい四条通りを、ぶらぶらあるいて、烏丸通りに出て、六角堂の横をとおり、それから、右にまがって、姉小路通りを、本能寺のある辺で、左にまがって、新京極まで来た頃は、ちょうど十時頃であった。宮川町の茶屋を出た時分は、肌〔はだ〕さむかったが、新京極まで来たときは、あるいたからでもあるが、かすかに汗ばむほどであった。『小春日和』というのであろう。
 新京極の盛〔さか〕り場の、まがり角〔かど〕の、まん中〔なか〕へんをあるいていた時、芥川が、例のごとく、突然、「おい、『鳶一羽空に輪を描〔か〕く小春かな』というのは、ちょいといいだろう、月並〔つきなみ〕だけど……」と、いった。
「まさか、君の句じゃないだろう。」
「フン、星路――ホシのミチ、『ミチ』は『道路』の『路』だ。……ボンクラ俳人だ、……ちょっと疲れたね、このへんで、一服しようか。」
 ちょうど右側に喫茶店があったので、私たちは、足をひきずりながら、中に、はいった。
 新京極は、戦前の東京でいえば、浅草のような所であり、大阪でいうと、道頓堀と千日前を一しょにしたような所である。こういう盛り場の午前十時頃は、町ぜんたいが、妙に白茶〔しらちゃ〕けた色をしている。そうして、両側の劇場も寄席も、たいてい、木戸が、しまっている。こういう光景は、天気がよいほど、かえって、閑散に見え、味気〔あじき〕なく感じられる。
 私たちがはいった喫茶店も、やはり、閑散であり、味気なく感じられた。そうして、私たちの気もちも、やはり、何〔なん〕となく、味気なく、ものうかった。しかし、ほかに客がいなかったので、くつろいだ感じもした。
 それから、ふと気がつくと、夜中〔よなか〕にあのように苦〔くる〕しんだ、(出〔で〕そうで出〔で〕ないので苦しみ、用をたすとき、たまらない痛みを感じた、)あの不思議な症状が、しだいしだいに、うすらぎ、その喫茶店で便所に行った時は、まったく普通の状態になっていた。いつのまにか、普通の状態になっていたので、あの不思議な症状〔しょうじょう〕がなおっていたのが、気がつかなかったのである。それに気がつくと、私は、急に愉快な気もちになったので、芥川に、昨夜〔ゆうべ〕、その事で、困った話をした。
「……つまり、小便をすると、初めのうちは、出はじめる時から、出てしまうまで、痛みとおし、それが、つぎには、出はじめる時から中途〔ちゅうと〕まで、痛みとおし、……夜どおし、まったく、困ったよ、……それが、その中途まで痛いのが、その痛い期間がすこしずつ少なくなって、今はそれが、すっかり、知らぬ間に、なおってしまったんだ。……僕は、まだ、アノ病気にかかった事はないが、夜中〔よなか〕じゅう、そういう症状になって……しかも、君〔きみ〕、ひどかった時は、……一時〔いちじ〕は、『大〔だい〕』も『小〔しょう〕』も、一しょだったから、つらくもあったが、なさけなかったよ。……それがそういう症状になったのが、しだいに、なおり、今になって、ケロリとなおってしまうなんて、……どういうんだろう、」と、私は、いった。
 私が、こんな話を、なおったうれしさもあって、たてつづけに、しやべっている間、芥川は、私の話の途中で、ときどき、ニヤニヤ笑いを頰にうかべていたが、私の話がおわるのとほとんど同時に、
「君は、『アポロン』を、定量の三倍ぐらい、のんだろう、」と、すばりと、いった。
「君は、どうして、知ってるんだ。」
「おれも、やった事があるからだ。」
「あれを定量以上にのむと、どうして、あんな状態になるんだ。」
「摂護腺を異常に刺戟したからだよ、三倍ぐらいでよかったよ、五倍ぐらいアレをのんでいたら、君は、今頃〔いまごろ〕、僕と話〔はなし〕をするどころか、冷〔つめ〕たくなっていたかもしれないよ。」
 そこで、私が、こういう『クスリ』を定量の二倍でも三倍でも、のめ、と、すすめたのは、菊池である、と、昨日〔きのう〕の堀江の薬局の一件の話をすると、
「そんなら、菊池も、昨夜〔ゆうべ〕は、君とおなじような症状に、悩まされたかもしれないよ。菊池は、前に、不眠症にかかっている、というので、名古屋へ講演旅行に行った時だ、――僕が、ジアアルをやると、一錠か、せいぜい、二錠でいい、と、いったのを、七錠ものんで、死にかかった事があるんだ。菊池は、どんな薬でも、定量以上にのむほど、きくと思うような男だからなあ、」と、芥川は、いって、例の茶目〔ちゃめ〕らしい笑い方した。
「ところで、昨夜〔ゆうべ〕、君の部屋の方で、夜中〔よなか〕に、アツツ、というような声が、聞こえたが、あの、アツツというのは、何だ。」
「あれか、……」と、芥川は、苦笑しながら、いった。「あれは、君、『ハリカタ』にいれた湯が熱〔あつ〕すぎたので、ちょいと吾妹〔わぎも〕が悲鳴〔ひめい〕をあげたんだよ。……あれは、しくじったよ、僕も、あれには、まいったね。」

[やぶちゃん注:「アノ病気」淋病。淋菌性尿道炎は尿道の強い炎症によって尿道内腔が狭窄し、激しい痛みと同時に尿の勢いが著しく落ちる。
「摂護腺」前立腺の旧称。
「君は、今頃、僕と話をするどころか、冷たくなっていたかもしれないよ」とあるが、例えば現在、最も知られる勃起不全治療薬であるバイアグラ(これは商品名で薬剤としてはシルデナフィルが正しい)の場合だと、心臓病治療に用いるニトログリセリン等の硝酸塩系薬剤と同様の薬理作用を持つため、副作用として血圧の急激且つ大幅な低下、心臓への酸素供給不全による狭心発作が認められ、適切な治療を施さない場合には死亡することもある(以上はウィキの「シルデナフィル」に拠った)。
「名古屋へ講演旅行に行った時だ、――」ここには宇野のとんでもない錯誤がある。本文中の現在時制は、
大正九(一九二〇)年十一月二十二日
である。ところがここに記される以下の菊池の事件は、
大正十一(一九二二)年一月二十八日
の出来事なのである。この場面で芥川が宇野に語れるはずはないのである。因みに、この事件を纏めておくと、同年、一月二十七日、名古屋の夫人会主催で講演を頼まれた芥川と菊池寛、小島政二郎が東京を出立、翌日、二十八日に椙山女学校にて講演(芥川龍之介は「形式と内容」という演題で講演)、講演後、芥川は不眠症状を訴える菊池に自分のジャールを与えた(菊池と芥川は別々なホテルに宿泊)。夜、菊池は定量二錠のところを4錠飲むも眠くならず、更に三錠を嚥下、計七錠を服用してしまった。その後、菊池は二日二晩昏睡状態に陥り、その後(嚥下から四五日後)も意識混濁や奇矯な言動をとったことが、菊池寛の「芥川について」(但し、鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」のコラム資料引用による)に記されている。そこで菊池は『その時の芥川の話では十錠以上は危険だといふ事だつたから、僕は危く三錠の差で助かつたわけである』と記している。
「ジアアル」は「ジャール」「ジアール」等とも表記され、後に芥川龍之介がヴェロナールと共に自死に用いたとされる、(恐らく)ヴェロナールと同じバルビツール酸系の睡眠導入剤。商品名であろう(何故かいくら調べても綴りが出てこないので同定出来ないでいる。識者は御教授を願う)。但し、私は芥川が使用した薬物はそれらではないと考えている。]

2012/01/14

鈴木しづ子 三十三歳 『樹海』昭和二十八(一九五三)年四月号しづ子詐称投句全掲載句

 人の子の劇觀て歸る牡丹雪

 雪の日の辯論大會少年好し

 繪のこと言ふいとしきものよかがよふ雪

 子ならずとも春雪を來しかがやく眸

 雪中の親しみくるは知らざる犬

 雪つけど觸るるべからず御師の眉

 前に述べた如く、最初の三句が子らを詠んだもの、四句目は自分の眸の中に子らの童心を見ており、五句目は見知らぬ野良犬に向けるしづ子の優しい眼である。……そして……そして巨湫は、大胆にも昭和二十七(一九五二)年二月十二日句稿から、あの同年二月四日の岐阜駅での、しづ子との数分の再会の一瞬のスカルプティング・イン・タイムの――それもかなり危うい句を……敢えて選んでいる。――あんた、やるね……巨湫さん、よ……

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(7)

 クレア郡に二人の百姓がゐた。一人は息子を持ち、もう一人の立派な金持の方は一人の娘を持つてゐた。
 若者はその娘を妻に貰ひたかつた。父は彼にあのやうな女を貰ふには金が澤山要るだらうが、よいと思ふならやつてみよと云つた。
 「やつてみませう」と若者は云つた。
 彼は金のありつたけを袋につめた。さうしてもう一人の百姓の所へ行つて、その前に金を投げ出した。
 「たつたそれだけか?」と娘の父は云つた。
 「これだけです。」 オーコナーは云つた。(若者の名はオーコナーであつた。)
 「それではとても娘と釣り合はない。」 父親が云つた。
 「試してみませう。」 オーコナーは云つた。
 そこで、片方には娘を、もう片方には金を、秤の上に載せて量つた。娘の方がどつかりと地面に落ちたので、オーコナーは袋をとつて往來へ出た。
 歩いて行くと、一人の小男が居て、壁にもたれて立つてゐる所へ來た。
 「袋を持つて何處へ行く?」小男が云つた。
 「家へ行くのです。」 オーコナーが云つた。
 「金が要るのぢやないか」小男が云つた。
 「その通りです。」 オーコナーが云つた。
 「要るだけお前に遣らう。」小男は云つた。「かう云ふ約束をしよう。一二年たつたら遣つた金を返してくれ。返さなかつたら、お前の肉を五ポンド切り取つて貰ふぞ。」
 二人の間にそんな約束が出來た。その男はオーコナーに金の袋を與へ、彼はそれを持ち歸つて娘と結婚した。
 彼等は金持になり、クレアの絶壁に妻の爲に大きな屋敷を建て、荒海を直ぐ眺められる窓を付けた。
 或る日、彼は妻と登つて行き、荒海を眺めてゐると、一艘の船が岩に乘り上げ、帆もかけてないのを見た。それは岩の上で難破してゐたので、茶と立派な絹が積み込んであつた。
 オーコナーとその妻は難破船を見に下りて行き、夫人は絹を見ると、それで着物が作りたいと云つた。
 彼等は水夫たちから絹を買つた。船長がその代金を貰ひに來た時、オーコナーは一緒に晩飯を食べに來るやうに言つた。皆んな澤山御馳走を食ひ、その後で酒を飲んで、船長は醉つた。酒盛りの最中に一本の手紙がオーコナーに來た。それは友達の死んだ通知で、彼は長い旅に出かけなければならなかつた。支度をしてゐると、船長は彼の傍へ來た。
 「あなたは奥さんが好きですか?」船長は聞いた。
 「好きです。」 オーコナーは答へた。
 「あなたが旅に出てゐる間、どんな男も奥さんに近づかなかつたら二十ギニ賭けませんか?」
 「賭けませう。」 オーコナーはさう言つて、出かけた。
 屋敷の近くの道傍でつまらない物を賣つてゐる婆が居た。オーコナーの夫人は彼女を自分の部屋に上らせ、大きな箱の中で寢ることを許した。船長は道傍の婆の所へ行つた。
 「いくら出せばお前の箱の中で一晩私を寢かしてくれるか?」と聞いた。
 「いくら貰つてもそんな事は駄目です。」と婆は云つた。
 「十ギニ?」
 「駄目です。」
 「十二ギニ?」
 「駄目です。」
 「十五ギニ?」
 「それならよろしい。」
 そこで婆はその金を貰ひ、船長を箱の中に隠した。夜になるとオーコナ一夫人は部屋にはひつて來た。船長が箱の穴から見てゐると、彼女は三つの指環を拔き、それを頭の上の爐棚のやうになつた板の上に置き、それから肌着のほか皆着物を脱いで、床にはひつた。
 彼女が寢込んでしまふと、船長は早速箱から出て來て、蠟燭に火を點(とも)して明るくした。そして音を立てないやうに、また惡い事をする爲でもなく、夫人の寢てゐる寝藁の方へ近づいて、板の上から二つの指環を取り、灯を消してまた箱の中にはひつた。

 爺さんは一寸休んだ。すると、話の間に茶の間が一杯になるまで集まつて來てゐた男女の口から救はれた重い溜息が洩れた。
 船長が箱から出て來るあたりから、英語を知らないらしい女たちも、糸を紡ぐ手を止めて、その先を聞かうと息を凝らしてゐた。
 爺さんは續けた――

 オーコナーが歸つて來ると、船長は彼に逢つて、一晩奥さんの部屋にはひつたことがあると云つて、二つの指環を渡した。
 オーコナーは賭の二十ギニを出した。それから屋敷へ上つて、窓から荒海を眺めようと妻を連れ出し、眺めてゐる間に彼女を後から突くと、彼女は崖の上から海の中へ落ちた。
 一人のお婆さんが岸に居て、落ちるのを見てゐた。波の中にはひつて行き、づぶぬれになり狂人のやうになつてゐる夫人を引き上げ、濡れた着物を脱がせ、自分の襤褸を着せた。
 オーコナーは妻を窓から突き落すと、陸の方へ逃げた。
 暫くして夫人はオーコナーを探しに出かけ、国中を長い間あちこち歩いてゐるうち、彼は畑で六十人の人たちと一緒に刈入れをしてゐると云ふ噂を耳にした。
 彼女はその畑にやつて來て、はひらうとしたが門番が門を開けてくれない。その時、畑の持主が通りかかつたので、譯を話して中にはひつた。彼女の夫は其處で刈入れをしてゐたが、彼女を知らないのか、目もくれない。そこで持主に夫を教へて、出して貰ひ、一緒に出かけた。
 夫人は馬の居る道へ連れて來て、二人は馬に騎つて立ち去つた。
 オーコナーが嘗つて小男に逢つた處へ来ると、その男が目の前に居た。
 「私の金を持つて來たのか?」その男が聞く。
 「さうぢやありません。」 オーコナーは答へた。
 「そんなら、お前の身體の肉を切り取つて、支拂つて貰ひたい」と云ふ。
 皆んな家の中にはひると、ナイフが出され、白い綺麗な布がテーブルに敷かれ、オーコナーはその布の上に寢かされた。
 そこで小男が小槍で將に突き刺さうとした時、オーコナ一夫人は云つた。
 「肉を五ポンド取ると、あなたは約束したのですか?」
 「その通りだ。」
 「血の滴(したた)りも約束したのですか?」
 「いや、血は。」と男は云つた。
 「肉は切り取つてもよござんす。」オーコナー夫人は云つた。
 「併し、一滴たりとも血を流したら、私はあなたをこれで撃ち殺します。」 さういつて夫人はピストルを男の顏へつきつけた。
 小男は逃げて行き、それきり行方がわからなかつた。
 二人は屋敷へ歸ると、大宴會を開き、船長や婆や、オーコナー夫人を海から引き上げた婆さんを招待した。
 皆んな充分食べてしまふと、先づオーコナー夫人は銘銘の物語をしてくれと云つた。さうして彼女は海から救はれた事、夫を見付けた事を語つた。
 するとお婆さんは、濡れて狂人のやうになつてゐるオーコナー夫人を見付けて家に連れ歸り、自分の襤褸を着せた話をした。
 夫人は船長に話をしてくれと願つたが、彼はどうしても話したくないと云つた。すると彼女はポケットからピストルを出してテーブルの端に置き、自分の話をしない者は撃つぞと云つた。
 そこで船長は、箱の中にはひり、彼女には少しも手を觸れずに寢臺の所まで行つて、指環を盗んだ次第を物語つた。
 すると婦人はピストルを取つて婆を撃ち貫き、崖の上から海の中へ抛り込んだ。
 それでおしまひ。

 此の大西洋の濕つた岩に住んでゐる文盲の人の口から歐洲的な聯想の豐かな物語を聞くのは、不思議な感じを私に起させた。
 此の貞淑な妻の話は、我我をシムベリン(沙翁の劇の名)を通り越して、アルノ河の陽光のほとりに誘ひ、フロレンスから愛の物語をしに出かける陽氣な人達の處へつれて行く。また我我をマイン河畔ブュールツブルヒの低い葡萄棚へつれて行く。其處は中世に、「ルブレヒト・フォン・ヴュールツブルヒ作の二人の商人と貞淑な妻」といふ同じやうな物語が語られた處である。
 今一つの肉五ポンドに関する部分はペルシアとエヂプトから「ジュスタ・ロマノルム」の物語やフロレンスの公證人なるセル・ヂォヴァンニの「小説ペコローネ」へかけて今でも廣く流布されてゐる。
 此の二つの話の現在一つに合體した物は既にゲール族の中にある。またキャンベルの「西部ハイランドの民間説話」の中にも稍々それに似た話がある。

There were two farmers in County Clare. One had a son, and the other, a fine rich man, had a daughter.
The young man was wishing to marry the girl, and his father told him to try and get her if he thought well, though a power of gold would be wanting to get the like of her.
'I will try,' said the young man.
He put all his gold into a bag. Then he went over to the other farm, and threw in the gold in front of him.
'Is that all gold?' said the father of the girl.
'All gold,' said O'Conor (the young man's name was O'Conor).
'It will not weigh down my daughter,' said the father.
'We'll see that,' said O'Conor.
Then they put them in the scales, the daughter in one side and the gold in the other. The girl went down against the ground, so O'Conor took his bag and went out on the road.
As he was going along he came to where there was a little man, and he standing with his back against the wall.
'Where are you going with the bag?' said the little man. 'Going home,' said O'Conor.
"Is it gold you might be wanting?' said the man. 'It is, surely,' said O'Conor.
'I'll give you what you are wanting,' said the man, 'and we can bargain in this way--you'll pay me back in a year the gold I give you, or you'll pay me with five pounds cut off your own flesh.'
That bargain was made between them. The man gave a bag of gold to O'Conor, and he went back with it, and was married to the young woman.
They were rich people, and he built her a grand castle on the cliffs of Clare, with a window that looked out straight over the wild ocean.
One day when he went up with his wife to look out over the wild ocean, he saw a ship coming in on the rocks, and no sails on her at all. She was wrecked on the rocks, and it was tea that was in her, and fine silk.
O'Conor and his wife went down to look at the wreck, and when the lady O'Conor saw the silk she said she wished a dress of it.
They got the silk from the sailors, and when the Captain came up to get the money for it, O'Conor asked him to come again and take his dinner with them. They had a grand dinner, and they drank after it, and the Captain was tipsy. While they were still drinking, a letter came to O'Conor, and it was in the letter that a friend of his was dead, and that he would have to go away on a long journey. As he was getting ready the Captain came to him.
'Are you fond of your wife?' said the Captain.
'I am fond of her,' said O'Conor.
'Will you make me a bet of twenty guineas no man comes near her while you'll be away on the journey?' said the Captain.
'I will bet it,' said O'Conor; and he went away.
There was an old hag who sold small things on the road near the castle, and the lady O'Conor allowed her to sleep up in her room in a big box. The Captain went down on the road to the old hag.
'For how much will you let me sleep one night in your box?' said the Captain.
'For no money at all would I do such a thing,' said the hag.
'For ten guineas?' said the Captain.
'Not for ten guineas,' said the hag.
'For twelve guineas?' said the Captain.
'Not for twelve guineas,' said the hag.
'For fifteen guineas?' said the Captain.
'For fifteen I will do it,' said the hag.
Then she took him up and hid him in the box. When night came the lady O'Conor walked up into her room, and the Captain watched her through a hole that was in the box. He saw her take off her two rings and put them on a kind of a board that was over her head like a chimney-piece, and take off her clothes, except her shift, and go up into her bed.
As soon as she was asleep the Captain came out of his box, and he had some means of making a light, for he lit the candle. He went over to the bed where she was sleeping without disturbing her at all, or doing any bad thing, and he took the two rings off the board, and blew out the light, and went down again into the box.

He paused for a moment, and a deep sigh of relief rose from the men and women who had crowded in while the story was going on, till the kitchen was filled with people.
As the Captain was coming out of his box the girls, who had appeared to know no English, stopped their spinning and held their breath with expectation.
The old man went on--
When O'Conor came back the Captain met him, and told him that he had been a night in his wife's room, and gave him the two rings. O'Conor gave him the twenty guineas of the bet. Then he went up into the castle, and he took his wife up to look out of the window over the wild ocean. While she was looking he pushed her from behind, and she fell down over the cliff into the sea.
An old woman was on the shore, and she saw her falling. She went down then to the surf and pulled her out all wet and in great disorder, and she took the wet clothes off her, and put on some old rags belonging to herself.
When O'Conor had pushed his wife from the window he went away into the land.
After a while the lady O'Conor went out searching for him, and when she had gone here and there a long time in the country, she heard that he was reaping in a field with sixty men.
She came to the field and she wanted to go in, but the gate-man would not open the gate for her. Then the owner came by, and she told him her story. He brought her in, and her husband was there, reaping, but he never gave any sign of knowing her. She showed him to the owner, and he made the man come out and go with his wife.
Then the lady O'Conor took him out on the road where there were horses, and they rode away.
When they came to the place where O'Conor had met the little man, he was there on the road before them.
'Have you my gold on you?' said the man.
'I have not,' said O'Conor.
'Then you'll pay me the flesh off your body,' said the man. They went into a house, and a knife was brought, and a clean white cloth was put on the table, and O'Conor was put upon the cloth.
Then the little man was going to strike the lancet into him, when says lady O'Conor--
'Have you bargained for five pounds of flesh?'
'For five pounds of flesh,' said the man.
'Have you bargained for any drop of his blood?' said lady O'Conor.
'For no blood,' said the man.
'Cut out the flesh,' said lady O'Conor, 'but if you spill one drop of his blood I'll put that through you.' And she put a pistol to his head.
The little man went away and they saw no more of him.
When they got home to their castle they made a great supper, and they invited the Captain and the old hag, and the old woman that had pulled the lady O'Conor out of the sea.
After they had eaten well the lady O'Conor began, and she said they would all tell their stories. Then she told how she had been saved from the sea, and how she had found her husband.
Then the old woman told her story; the way she had found the lady O'Conor wet, and in great disorder, and had brought her in and put on her some old rags of her own.
The lady O'Conor asked the Captain for his story; but he said they would get no story from him. Then she took her pistol out of her pocket, and she put it on the edge of the table, and she said that any one that would not tell his story would get a bullet into him.
Then the Captain told the way he had got into the box, and come over to her bed without touching her at all, and had taken away the rings.
Then the lady O'Conor took the pistol and shot the hag through the body, and they threw her over the cliff into the sea.
That is my story.

It gave me a strange feeling of wonder to hear this illiterate native of a wet rock in the Atlantic telling a story that is so full of European associations.
The incident of the faithful wife takes us beyond Cymbeline to the sunshine on the Arno, and the gay company who went out from Florence to tell narratives of love. It takes us again to the low vineyards of Wurzburg on the Main, where the same tale was told in the middle ages, of the 'Two Merchants and the Faithful Wife of Ruprecht von Wurzburg.'
The other portion, dealing with the pound of flesh, has a still wider distribution, reaching from Persia and Egypt to the Gesta Rornanorum, and the Pecorone of Ser Giovanni, a Florentine notary.
The present union of the two tales has already been found among the Gaels, and there is a somewhat similar version in Campbell's Popular Tales of the Western Highlands.

[やぶちゃん注:「クレア郡」“County Clare”。アイルランドのクレア州。アラン諸島を望むゴールウェイ湾南の本土、マンスター地方の州名。
「オーコナーの夫人は彼女を自分の部屋に上らせ、大きな箱の中で寢ることを許した。」原文は“and the lady O'Conor allowed her to sleep up in her room in a big box.”であるが、気になるのは、この訳ではこの夫が長の留守をすることとなった時点で「許した」と読めてしまうことである。しかし、これは、そうした雑貨商を営む身寄りのない老婆を可哀相に思って、以前からオーコナー夫人は、夜は彼女の部屋の大きな櫃を寝床にすることを許していた、という風に読まないとおかしいように思われる。栩木伸明氏訳「アラン島」でもそのように訳されてある。
「爐棚のやうになつた板の上」原文は“on a kind of a board that was over her head like a chimney-piece”。“chimney-piece”は“mantelpiece”マントルピース、暖炉のことだから、如何にも迂遠な表現である。これは実際にはマントルピースではなく、それに似たような形状の当時の特殊な部屋装飾であることをパット爺さんは暗に言わんとしているように思われる。
「船長が箱から出て來るあたりから、英語を知らないらしい女たちも、糸を紡ぐ手を止めて、その先を聞かうと息を凝らしてゐた。」は“As the Captain was coming out of his box the girls, who had appeared to know no English, stopped their spinning and held their breath with expectation.”であるが、「英語を知らないらしい女たち」が「ほつとし」「息を凝らして」「その先を聞かうと」していたというのは訳としては不自然である。“had appeared to know no English”は、そのちょっと前にシングが話しかけても、『英語はまるで分からないかのような素振りを見せていた女たちも』、の意であろう。突然やって来た若き異邦人シングへの、素朴なアランの女たちの、そのはにかみが伝わってくるシーンだ。
「陸の方へ逃げた。」原文の“he went away into the land.”を逐語的に訳してはいるが、如何か? 妻に裏切られたと思った失意と絶望によって自暴自棄となったオーコナーは、衝動的に『内陸の奥の方へと、彷徨い出でて、城を去ってしまった。』と訳したいところである。
「彼女を知らないのか、目もくれない。」原文“but he never gave any sign of knowing her.”。「彼女を知らないのか」では、日本語としては、単純な仮定疑問文として、本当に彼女のことをもう忘れてしまっているのか、という意味にも(寧ろ積極的にそのように)とれてしまう。そうではあるまい。ここは寧ろ、彼女が裏切ったと信じ込んで絶望し、やけのやんぱちで一介の雇われの農奴に身をやつしてしまっているから、『しかし彼は、彼女のことを知っているというこれっぽちの素振りをもいっかな見せずにいる』という意味であろう。
「シムベリン」“Cymbeline”は古ケルト時代のブリテン王シンベリンの娘イモージェン“Imogen”と愛人ポステュマス“Posthumus”に纏わるシェイクスピアの戯曲。1611年頃には上演されたと推測されている。作中、シンベリンによってイモージェンと引き裂かれて追放されたポステュマスはイタリアに行き(本文の「アルノ河」や「フロレンス」(=フィレンツェ)というイタリア風の陽気な喜劇コンセプトへのシングの連想展開は、このシーンに引っ掛けてあるものと思われる)、そこで知り逢ったヤーキモーなる人物とイモージェンの貞節について賭けをする。ヤーキモーはブリテンに向かうと大きな鞄の中に潜んでイモージェンの部屋に侵入、秘かにイモージェンの胸の痣と部屋の造作とを偸み見てイタリアに帰還すると、ポステュマスにイモージェンを美事に落としたと嘘をつく。絶望したポステュマスはブリテンに残してきた下男にイモージェン殺害を命ずるという、本話前半部と極めて類似したシーンがある(本注はウィキの「シンベリン」を参考にした)。
「マイン河畔ブュールツブルヒ」“Wurzburg on the Main”後の中世伝承譚の方は「ルブレヒト・フォン・ヴュールツブルヒ作の二人の商人と貞淑な妻」“'Two Merchants and the Faithful Wife of Ruprecht von Wurzburg.'”と訳されているから「ブュールツブルヒ」は「ヴュールツブルヒ」の誤植であろう。現在はヴュルツブルクと表記される。
「ジュスタ・ロマノルム」“Gesta Rornanorum”は13世紀から14世紀にかけて編纂されたラテン語民話集。Charles Swan英訳本(安川晃他編注)「ゲスタ・ロマノールム Gesta Romanorum ローマ人達の行状記」が1992年に弓プレスから出版されている。
『フロレンスの公證人なるセル・ヂォヴァンニの「小説ペコローネ」』原文“the Pecorone of Ser Giovanni, a Florentine notary.”。中世イタリアのジョヴァンニ・フィオレンティーノ“Giovanni Fiorentino”(“ser”が頭につくが“Fiorentino”自体が「フィレンツェの」の意であり、何らかの冠称のようである)が書いた「デカメロン」風の物語集“Il Pecorone”「イル・ペコローネ」(「愚か者」の意)。前の「ゲスタ・ロマノールム」とともに、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」の種本とされており、その四日目第一話に本話と共通した例の人肉の裁きの話が載る。
『キャンベルの「西部ハイランドの民間説話」』ケルト民俗学の権威であったJohn Francis Campbell(1821~1885)が1860年から1862年にかけて刊行した民間説話集。ゲール語からの翻訳採録。]

新編鎌倉志卷之七 蛇ヶ谷――娘への嫉妬故に指が蛇になった女――

「新編鎌倉志卷之七」の蛇ヶ谷を更新、かなりオリジナルことが注で出来たと思う。鴨長明の「発心集」からの引用は、早稲田大学古典籍総合データベースの画像視認によってテクスト化を行った。娘子連れの年増女が若い夫を娘に譲るも実の娘への嫉妬から両手の親指が蛇のなってしまった女の話である。「げに恐ろしき……執念じゃのう……」素人でも読み易い古文である。お読みあれ。

2012/01/13

鈴木しづ子 三十三歳 『樹海』昭和二十八(一九五三)年三月号しづ子詐称投句全掲載句

 しばらくはのぼるにまかす熱き湯氣

 仲間はずれの大人の如きふところ手

 雪の飛驒より來りし牛のつぶらな眼

 この夜の爐火アンネンポルカ愉しく聽く

 柿は美(よ)し封建ごころ亦強く

 「しばらくは」の句は「のぼるにまかす」の表現の面白さなのであろうが、この句は例えば前掲した『指環』所収の「對決やじんじん昇る器の蒸氣」(初出『樹海』昭和二十三(一九四八)年四月号)の後に並べてこそ組写真としてのシーンの面白さが出るのであって、これだけでは最早、喉をやられた風邪ひきが空気を湿らせているみたような愚鈍な景であり、巨湫の選句ポリシーを、私は疑う。
 二句目の「ふところ手」をしているのは子供であるが、実は大量投句稿には子供を詠んだ句が想像を絶するほどに多い。伝説のしづ子とは全く異なる母なるしづ子の目線を私はそこに見る(それは何句か既に取り上げてもいる)。今後のしづ子の考察は、未発表の『しづ子伝説如何にもな危険がアブナい句の発掘』ではなく、まず何よりそうした子らを詠唱した等身大のしづ子の母性的優しさから始めるべきであるように私は感じている(次号の選句も同様)。

新編鎌倉志卷之七 慈恩寺詩全篇 終了

今日只今、「新編鎌倉志卷之七」の「慈恩寺詩」全篇を書き下しと注を附して公開した。なかなか手強かったが、何とか自分で納得の行けるものとはなった。不明な箇所には御教授を乞う注記を附してある。よろしくお願いしたい。

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(6)

 今朝、愛蘭土語を私に教へてゐる靑年のマイケルと島を散歩しようと出かけた時、宿の方へ向つて行く一人の老人に出逢つた。彼は本土から來たと見えるみすぼらしい黑い着物を着て、遠くから見れば人間よりは一層蜘蛛に見えるほどにリューマチスのため體が曲つてゐた。
 マイケルはあれはあちらの島でムールティーン爺さんが話した物語師のパット・ディレイン爺さんであると語つた。その人は偶然にも私を訪ねて來るらしいので、引返したかつたが、マイケルは聞かなかつた。
 「我我が歸つたら火の側に居るでせう」と彼は云つた。「心配はありませんよ。これから少しづつ話す時は充分あるでせう。」
 彼の云つた通りであつた。それから何時聞かの後、私が茶の間の方へ下りて行つた時、パット爺さんは炭の爐で目をしばたたかせながら、爐の側にまだ居た。
 彼は非常に器用にまた流暢に英語を話す。これは彼が若い時、收穫の爲英國の田舍に數ケ月働きに行つてゐた爲に違ひない。
 二三の型の如き挨拶の後、彼はオールド・ヒン(即ち、インフルエンザ)にやられて蹇(あしなへ)になり、それ以來リューマチスを加へて惱んでゐる事を語つた。
 お婆さんが私の食事を作つてゐる間、彼は私に物語が好きかどうかを尋ねて、若しゲール語に附いて行けるならよいがと云ひ足しながら、英語で一つの物語をしようと云つた。そして語り始めた。――

When I was going out this morning to walk round the island with Michael, the boy who is teaching me Irish, I met an old man making his way down to the cottage. He was dressed in miserable black clothes which seemed to have come from the mainland, and was so bent with rheumatism that, at a little distance, he looked more like a spider than a human being.
Michael told me it was Pat Dirane, the story-teller old Mourteen had spoken of on the other island. I wished to turn back, as he appeared to be on his way to visit me, but Michael would not hear of it.
'He will be sitting by the fire when we come in,' he said; 'let you not be afraid, there will be time enough to be talking to him by and by.'
He was right. As I came down into the kitchen some hours later old Pat was still in the chimney-corner, blinking with the turf smoke.
He spoke English with remarkable aptness and fluency, due, I believe, to the months he spent in the English provinces working at the harvest when he was a young man.
After a few formal compliments he told me how he had been crippled by an attack of the 'old hin' (i.e. the influenza), and had been complaining ever since in addition to his rheumatism.
While the old woman was cooking my dinner he asked me if I liked stories, and offered to tell one in English, though he added, it would be much better if I could follow the Gaelic. Then he began:--

[やぶちゃん注:「それから何時聞かの後、私が茶の間の方へ下りて行つた時、パット爺さんは炭の爐で目をしばたたかせながら、爐の側にまだ居た。」は若干気になる。原文は“As I came down into the kitchen some hours later old Pat was still in the chimney-corner, blinking with the turf smoke.”で、“came down”とある。ところが既に読者には分かっている通り、彼の宿は平屋である。これは冒頭前文の“I met an old man making his way down to the cottage.”を受けるものであろう。則ち、シングとマイケルは島巡りをするために、宿からある小道を伝って登って行った。そのルートとは異なった宿へ下る小道をパット爺さんは降りてきたのであった。シングが「数時間の後」の島巡りを終えて、「下り道を降りて」、宿の、その茶の間へと入った時、パット爺さんは「炭の爐で目をしばたたかせながら、爐の側にまだ居た」ということであろう。この間合いが、アランの神話へと導かれる前哨として美事、と私は思うのである。「オールド・ヒン(即ち、インフルエンザ)」原文“'old hin' (i.e. the influenza)”。“hin”が分からない。栩木伸明氏訳2005年みすず書房刊の「アラン島」では、『めんどりバーバ』(ルビに『インフルエンザ』)という不思議な訳がなされていた。それを凝っと見ながら――成程!――と合点した。“hin”は“hen”(雌鶏)のパット爺さんの訛なのだ。栩木氏の「バーバ」は「雌鶏の御婆ちゃん」の意ではあるまいか?――それにしても、どうしてインフルエンザをこう呼ぶのだろう。まさか、鳥インフルエンザじゃあなかろうし、くしゃみの声とか、くしゃみをしたときの動作からの老いた雌鶏の連想だろうか?]

鈴木しづ子 三十三歳 『樹海』昭和二十八(一九五三)年二月号しづ子詐称投句全掲載句

 紫陽花の門の裡なる祝ごと

 悲劇はこの世だけでいいスクリーンの白雪

 光る星以外の星も凍てにけり

 この土地の雪に馴染まず牛鳴けり
[やぶちゃん字注:中七は底本では「雪に駒染まず」。ママ注記はないが、如何にもおかしい「馴染まず」(なじまず)の誤植ではないかと感じ、調べたところ、案の定、一月二日附投句稿にあり、「馴」とある。訂した。]

 雪つけてゆびきりの指幼なしをさなし

 二句目「悲劇はこの世だけでいいスクリーンの白雪」はしづ子の句としては、二冊の句集未収録句ながら、しばしば引用される句である。私は一読の直感であるが、これはマーヴィン・ルロイ監督ヴィヴィアン・リーとロバート・テイラー主演の「哀愁」“Waterloo Bridge”ではあるまいかと感じている。本映画は1940年製作のアメリカ映画であるが、本邦での公開は昭和二十四(一九四九)年三月である。あの映画のコンセプトは不思議に兵士ケリーとの恋に落ちたしづ子及び娼婦俳人などと呼ばれた「しづ子伝説」と妙に合致する作品なのである。私の好きなヴィヴィアン・リーとしづ子――何よりこの組み合わせが私を惹きつける……

2012/01/11

怒り

とあるサブカルチャーを素材とした『学術論文』を読んだ。そこで僕が知ったことは『学術論文』であるためには、総ての引用が正しく明記されていることだと知った。僕はそれだけでアカデミズムの馬鹿馬鹿しさがよく分かった。何故なら、引用が明記されれていれば、愚劣邸能な文章であっても、それは『学術論文』となるのだという、とんでもない逆説を暴露しているからである。

そんな地平に立っているから、アカデミズムは真理に到達出来ないんじゃないか! ド阿呆が!

――いや、翻って考えれば『ジャーナリズム』なるものの欺瞞性もたっぷり分かるじゃないか! 真のジャーナリズムが育たないのは、ジャーナリストが実は『真実を語っている』と思わせるマジックに終止しているからではないのか?――「お前ら知らないだろ? 教えてやろうか? だからお前ら、莫迦なんだ」的言い方でしか語れない「民衆の教師」――彼らは「教師」ではない――いや――僕もそうでなかったとは言わない――

――しかし――じゃあ、本当のジャーナリストはどこにいるんだ?

――俳句は創作者だけがいて鑑賞者がいないというのと同じだ――どこにも「共有」する「生」の存在がない――幻の中で雅びに自慰する――そんな『似非ジャーナリスト』ばかりがいる、こんな世界――ゲーデルの言った「不完全性定理」そのもののこの世は――こんな人類は――滅んで――よい――

誰か――出てこい!

――もっと『僕のように』斜に構えない、真のジャーナリストよ!

そうしないと君を含む人類は明日にも――滅ぶ――いいや、だからさ、僕は滅んだ方がいいと――言っているのだがね ♪ふふふ♪

2012/01/09

鈴木しづ子 三十三歳 『樹海』昭和二十八(一九五三)年一月号しづ子詐称投句全掲載句

 百合瘦せてむかしながらの壕ほとり

 旺んなる爐火を見てゐるうちに眠し

 まつすぐに生ひて辛夷は蕾むなり

 蛇にして全身をもて遁れゆけり

 靑嵐北へながるる美濃の鳥

 ――巨湫先生、遅すぎますよ――「蛇にして」は名吟です――いや――先生――「北へながるる美濃の鳥」――やっぱりしづ子は――「北」へ――渡って行ったのですね?

浅川マキ グッド・バイ

こうなったら――これも紹介せずんばおくまい――

「グッド・バイ」

浅川マキ作詞

板橋文夫作曲

サックスの泣きが凄い――かすれたマキの泣きが――たまんないんだ……

僕の衝撃

先週の金曜日――仕事で江ノ島に行き――弁天橋のおでん屋が一軒の残らず消えていたこと――

これはもう――僕の青春が完全に吹き消されたということだった――

……君と行った……あの店景色は……もう、ないんだ……

浅川マキ 青鬼のブルース

以前に書いた――実は――ずっと前から見つけてた――でも誰にも教えたくなかった僕がいた――それも「今夜で終わり」――

浅川マキ“Blue Spirit Blues”「青鬼のブルース」

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(5)

 私は遂にイニシマーンの小さな家に落着いた。私の部屋の方へ開いてゐる茶の間から、絶えずゲール語の單調な聲がはひつて來る。
 今朝早く、此の家の男が四挺櫂のカラハ――即ち、四人の漕手が居て、銘銘が二本づつ使へるやうに両側に四つの櫂があるカラハ――で私を迎へに來た。そして正午少し前出立した。
 人間が初めて海に乘り出して以來、原始人に使はれた型の粗末な布のカヌーに乘つて、文明から逃れ出てゐると思ふと、私には云ひ知れぬ滿足の一時であつた。
 我我は、常に碇泊してゐる老朽船(ハルク)の處で、中の島の魚の鹽漬を造る準備の爲、暫く立止らねばならなかつた。聲の屆くまでに接近すると、こちらの船頭達は、一月前までフランスにゐた人を乘せてゐると、大聲に叫んだ。
 再び出發した時は、小さな帆を船首に揚げて、瀨戸横斷の途に就いた。その跳ぶやうな動搖はボートの重い進行とは餘程違つてゐた。
 帆はただ補助として用ひるに過ぎず、帆を揚げた後も男たちは漕ぎ續ける。そして漕手は四つの横渡しの腰掛を占めてゐるので、私は船尾のカンバスの上、掩はれた木の骨組の框(わく)の上に横はつた。その骨組は下を波が通り過ぎる度に傾いたり、震へたりする。
 出かけた時、四月の朝は晴れ渡つて蒼いキラキラする波がカヌーをその中で押しやつてくれるやうであつたが、島に近づくにつれて、行手の岩の後から雷雨が起つて靜かな大西洋の氣分を一時かき交ぜた。
 我我は小さな波止場から上陸した。其處から、アランモアに於けると同じやうに、粗末な路が小さな畑と一面の裸岩の間をねけて、村まで續いてゐる。船頭の中で最も年下の息子の十七歳ぐらゐの男の子は私の教師となり、また道案内人となる筈であるが、此男の子が波止場で私を待つてゐて、家まで案内してくれた。一方、男たちはカラハを片付け、私の荷物を提げてゆるゆる後から附いて來た。
 私の部屋は家の一端にあつて、板張の床下と天井、互ひに向き合つた二つの窓がある。また茶の間には土間とむき出しの棰木があり、向き合つて二つの戸が戸外へ開くやうについてゐるが、窓はない。その奥に茶の間の半分ほどの廣さの二つの小さな部屋があるが、こ心れには一つづつの窓がある。
 私は大抵の時を茶の間で過す積りだが、其處だけでも多くの美しさがあり、特色がある。爐の周りの椅子に腰掛けて集まる女たちの赤い着物は東洋的な豐かな色彩を出し、また泥炭の煙で軟かい茶褐色に彩られた壁は床下の灰色の土と色のよい配合を作る。いろいろの釣道具、網、男の雨合羽などが壁やむき出しの棰木に懸り、頭の上、草葺の屋根の下には革草鞋を造る剥いだままの年の皮がある。
 此の群島のあらゆる品物には殆んど個性的な特色がある。その特色は藝術を全然知らない簡素な生活に、中世生活の藝術的美しさのやうな物を加へる。カラハ、紡車(いとぐるま)、今でも多く土器代りに用ひられる小さな木製の桶、手製の搖籠、牛乳攪拌器、籠などに多分の個性がある。そしてこれ等は此處にある普通の材料で出來てはゐるが、或る程度まで此の島だけの物であるから、住民とその四圍を繋ぐ自然の連鎖として存在するやうである。
 着物の質素と一樣さは又他の方面で、郷土色に美しさを加へる。女は赤いペティコート〔婦人或は子供の着る上着、普通腰の邊より下袴が下がる。〕や茜で染めた島の羊毛のジャケツを着て、その上に普通格子縞の襟卷を胸に卷いて、背中で結ぶ。雨の日には、顔の周りに腰帶をして、もう一つのペティコートを頭からかぶる。若ければ、ゴルウェーで着るやうな重い襟卷を使ふ。時には他の纏物をする。私が夕立の最中到着した時、數人の女が男の胴着を體の周りにボタンで締めて着てゐるのを見た。裾は餘り膝の下まで届かず、皆用意して持つてゐる濃い紺色の靴下を履いて、逞しい足を見せてゐる。
 男は三つの色物を着る、即ち無地の羊毛、紺色の羊毛、無地と紺色の羊毛を互ひ違ひに織り交ぜた灰色のフランネルである。アランモアでは、多くの若い男は普通の漁夫の着るジャージー・ジャケツを用ひるが、此の島ではただ二人だけしか見かけなかつた。
 フランネルは安いので――女たちが家の羊の毛から絲を造り、それをキルロナンで一ヤード四ペンスで織子が織るので――、男達は何枚も胴着を着、羊毛のズボンを重ねて穿くらしい。大抵の者は私の着物の輕いのに驚く。波止場で一寸口をきいた老人は私が岸に來ると「私の少しの着物」で寒くはなからうかと尋ねた。
 茶の間で着物から水しぶきを乾かしてゐると、私の歩いて來るのを見た數人の人たちは、大抵敷居の所で、「今日は、ようこそ」と云ふやうな挨拶の言葉を、小聲で云ひながら、私と話さうとはひつて來た。
 此の家のお婆さんの丁寧なのは非常に人の心を惹く、彼女の云ふ事は――英語を話さないので――大部分解らなかつたが、如何にもしとやかに客を年齡に應じて、或ひは椅子へ或ひは床机へと案内して、英語の會話につり込ませるまで二言三言を言つてゐるのだと見られた。
 暫く私の來たことが興味の中心になつて、はひつて來る人たちはしきりに私と話したがる。
 或る者は普通の百姓よりずづと正確にその考へを發表し、また或る者は絶えずゲール語の訛を出して、現代の愛蘭土語には中性名詞がないので、itの代りにsheか或はheを使ふ。
 中には不思議にも単語を多く知つてゐる者もあるが、また英語の極く普通の言葉だけしか知らず、意味を表はすのに勢ひ巧妙な工夫をしなければならない者もある。我我の話し得る話題の中では戰爭を好むらしく、アメリカとスペインの戦爭は非常な興味を起させた。どの家族にも大西洋を渡らねばならなかつた者を親戚に持ち、また合衆國から來る小麥と燒豚を食べてゐるので、若しアメリカに何か起つたら暮らせなくなるだらうと云ふ漠然たる恐怖を持つてゐた。
 外國語も亦好む話題であつて、二國語を使ふ彼等は、いろいろ違つた言葉で表現したり考へたりするのは如何なる意義があるかに就いて正しい考へを持つてゐる。此の島で知る外国人の多くは言語學者であるから、彼等は言語の研究、殊にゲール語の研究が外の世界でやつてゐる重な仕事であると勢ひ思ひ込んでゐる。
 「私はフランス人にも、デンマーク人にも、ドイツ人にも逢つたことがある。」と一人の男が云つた。「その人たちは愛蘭土語の本をどつさり持つてゐて、我我よりもよく讀む。此の頃、世界で、金持でゲール語を研究してない人はないですよ。」
 或る時は、簡単な文章の佛語を私に要求する。暫くその音調を聞いてゐると、大概の者は見事な正確さで眞似する事が出來た。

I am settled at last on Inishmaan in a small cottage with a continual drone of Gaelic coming from the kitchen that opens into my room.
Early this morning the man of the house came over for me with a four-oared curagh--that is, a curagh with four rowers and four oars on either side, as each man uses two--and we set off a little before noon.
It gave me a moment of exquisite satisfaction to find myself moving away from civilisation in this rude canvas canoe of a model that has served primitive races since men first went to sea.
We had to stop for a moment at a hulk that is anchored in the bay, to make some arrangement for the fish-curing of the middle island, and my crew called out as soon as we were within earshot that they had a man with them who had been in France a month from this day.
When we started again, a small sail was run up in the bow, and we set off across the sound with a leaping oscillation that had no resemblance to the heavy movement of a boat.
The sail is only used as an aid, so the men continued to row after it had gone up, and as they occupied the four cross-seats I lay on the canvas at the stern and the frame of slender laths, which bent and quivered as the waves passed under them.
When we set off it was a brilliant morning of April, and the green, glittering waves seemed to toss the canoe among themselves, yet as we drew nearer this island a sudden thunderstorm broke out behind the rocks we were approaching, and lent a momentary tumult to this still vein of the Atlantic.
We landed at a small pier, from which a rude track leads up to the village between small fields and bare sheets of rock like those in Aranmor. The youngest son of my boatman, a boy of about seventeen, who is to be my teacher and guide, was waiting for me at the pier and guided me to his house, while the men settled the curagh and followed slowly with my baggage.
My room is at one end of the cottage, with a boarded floor and ceiling, and two windows opposite each other. Then there is the kitchen with earth floor and open rafters, and two doors opposite each other opening into the open air, but no windows. Beyond it there are two small rooms of half the width of the kitchen with one window apiece.
The kitchen itself, where I will spend most of my time, is full of beauty and distinction. The red dresses of the women who cluster round the fire on their stools give a glow of almost Eastern richness, and the walls have been toned by the turf-smoke to a soft brown that blends with the grey earth-colour of the floor. Many sorts of fishing-tackle, and the nets and oil-skins of the men, are hung upon the walls or among the open rafters; and right overhead, under the thatch, there is a whole cowskin from which they make pampooties.
Every article on these islands has an almost personal character, which gives this simple life, where all art is unknown, something of the artistic beauty of medieval life. The curaghs and spinning-wheels, the tiny wooden barrels that are still much used in the place of earthenware, the home-made cradles, churns, and baskets, are all full of individuality, and being made from materials that are common here, yet to some extent peculiar to the island, they seem to exist as a natural link between the people and the world that is about them.
The simplicity and unity of the dress increases in another way the local air of beauty. The women wear red petticoats and jackets of the island wool stained with madder, to which they usually add a plaid shawl twisted round their chests and tied at their back. When it rains they throw another petticoat over their heads with the waistband round their faces, or, if they are young, they use a heavy shawl like those worn in Galway. Occasionally other wraps are worn, and during the thunderstorm I arrived in I saw several girls with men's waistcoats buttoned round their bodies. Their skirts do not come much below the knee, and show their powerful legs in the heavy indigo stockings with which they are all provided.
The men wear three colours: the natural wool, indigo, and a grey flannel that is woven of alternate threads of indigo and the natural wool. In Aranmor many of the younger men have adopted the usual fisherman's jersey, but I have only seen one on this island.
As flannel is cheap--the women spin the yarn from the wool of their own sheep, and it is then woven by a weaver in Kilronan for fourpence a yard--the men seem to wear an indefinite number of waistcoats and woollen drawers one over the other. They are usually surprised at the lightness of my own dress, and one old man I spoke to for a minute on the pier, when I came ashore, asked me if I was not cold with 'my little clothes.'
As I sat in the kitchen to dry the spray from my coat, several men who had seen me walking up came in to me to talk to me, usually murmuring on the threshold, 'The blessing of God on this place,' or some similar words.
The courtesy of the old woman of the house is singularly attractive, and though I could not understand much of what she said--she has no English--I could see with how much grace she motioned each visitor to a chair, or stool, according to his age, and said a few words to him till he drifted into our English conversation.
For the moment my own arrival is the chief subject of interest, and the men who come in are eager to talk to me.
Some of them express themselves more correctly than the ordinary peasant, others use the Gaelic idioms continually and substitute 'he' or 'she' for 'it,' as the neuter pronoun is not found in modern Irish.
A few of the men have a curiously full vocabulary, others know only the commonest words in English, and are driven to ingenious devices to express their meaning. Of all the subjects we can talk of war seems their favourite, and the conflict between America and Spain is causing a great deal of excitement. Nearly all the families have relations who have had to cross the Atlantic, and all eat of the flour and bacon that is brought from the United States, so they have a vague fear that 'if anything happened to America,' their own island would cease to be habitable.
Foreign languages are another favourite topic, and as these men are bilingual they have a fair notion of what it means to speak and think in many different idioms. Most of the strangers they see on the islands are philological students, and the people have been led to conclude that linguistic studies, particularly Gaelic studies, are the chief occupation of the outside world.
'I have seen Frenchmen, and Danes, and Germans,' said one man, 'and there does be a power a Irish books along with them, and they reading them better than ourselves. Believe me there are few rich men now in the world who are not studying the Gaelic.'
They sometimes ask me the French for simple phrases, and when they have listened to the intonation for a moment, most of them are able to reproduce it with admirable precision.

[やぶちゃん注:「掩はれた木の骨組の框(わく)」原文は“frame of slender laths”。カラハの特殊な構造を述べているようである。細く薄く削いだ木片を組み合わせて船尾のフレーム部分が成形されているものと思われる。
「棰木」は「たるき」と読む。垂木。
「英語の會話につり込ませるまで二言三言を言つてゐるのだと見られた。」この訳文は文字通り“drift”(意味)が分からない。原文を見ると、“and said a few words to him till he drifted into our English conversation.”で、この“him”は直前の“visitor”を指し、『私を訪ねてきた幾分かは英語を喋れる男たちが私との英語の会話に入る前、その彼らにこのお婆さんが、二言三言、ゲール語で声をかけているその雰囲気を見る限り、彼女が丁寧で非常に人の心を惹くものを持った女性であることが感じられる』ということであろう。ここではシング自身も、このお婆さんの訛の強いゲール語は分からないのであって、いわばその雰囲気からお婆さんの人柄を体感しているということではなかろうか。
「アメリカとスペインの戦爭」一八九八年四月に勃発した米西戦争のこと。シングが最初にアラン島を訪問したのは同年五月十日から六月二十五日までであったから、文字通り、アップ・トゥ・デイトな関心事であった。結果的には八月にスペインの敗北で終結し、カリブ海及び太平洋のスペイン旧植民地の管理権はアメリカへ移った。
「燒豚」原文は“bacon”であるから今の感覚では違和感がある。ベーコンは塩漬けの豚肉を燻製にしたものであり、焼豚は豚肉を炙り焼きや煮込んだもので製法も異なる。本書が刊行された昭和十二(一九三七)年ではベーコンは一般的な日本語としては通じ難かったということか。]

宇野浩二 芥川龍之介 二 ~ (1)

複数のプロジェクトの同時進行であるため、一遍に大部のテクスト化が出来ないため、行空きのある部分までのパート公開を行う。宇野浩二「芥川龍之介」更新を楽しみにされている方、悪しからず。ゆっくらと読みましょう。今回は僕の注も附しました。かなりセクシャルな内容ですから、未成年の方は自己責任で。

    二

 京都についたのは、夜〔よる〕の七時頃であった。私たちは、駅から、すく先斗町〔ぽんとちょう〕へ、むかった。その前の日、さきに述べたように、堀江の茶屋で、広島晃甫にあった時、京都で一〔ひ〕と晩とまる話をすると、広島が、そんなら、京都の先斗町の『なにがし』という茶庭に「ぼくが、さきに行ってるから、そこへ来〔こ〕ないか、加茂川の岸にあるから、眺めもいいし、感じがいいから、……君たちがとまるように、いっておくから、」と、云ったからである。その先斗町の方へ、私たちは、しだいに、いそぎ足になって、あるきつづけた。あるきながら、「今晩は、しずかに寝られるね、……堀江の川は、掘割〔ほりわり〕で、にごっていて、きたないけど、加茂川は、…」と、芥川が、いった。
 先斗町は、加茂川の、西側の、三条と四条のあいだで、東側の祇園町〔ぎおんまち〕と対して、京都で一流の色町である。近松門左衛門の『長町女腹切〔ながまちおんなのはらきり〕』のなかに「名は堅〔かた〕く、人は和〔やはら〕ぐ石垣町、前には恋の底深き、淵に浮身〔うきみ〕を、ぽんと町〔ちやう〕」という文句がある。
 ところが、その先斗町の『なにがし』という茶屋をたずねると、奥の方から、二十二三の、背〔せ〕のすらりとした、色の白い、見目〔みめ〕のうつくしい、芸者が、出てきて、私たちの顔を見ると、いきなり、「まあ、先生……」と、ちょっと呆〔あき〕れたような顔をして、いった。
 私は、ふと、その女の顔に、どこか、見おぼえがあるような気がしたので、何となしに、「やあ」と、応じた。
  すると、その芸者は、また、いきなり、「こないだは、汽車のなかで、……」と、云ってから、すぐ「……菊池先生〔せんせ〕は、お行儀〔ぎょうぎ〕、わるおすな。パンを、ムシャムシャ、たべはって、その屑〔くず〕を、肥〔こ〕えたお膝の上〔うえ〕へ、ポロポロ…‥」とか、「……あの隅〔すみ〕の方〔ほう〕で、どなたはんとも、口をきかんと、腕ぐみしたまま、むつッとしておいでやした方〔かた〕は、どなたどすね、」とか、たてつづけに、しやべった。
 これには、二人〔ふたり〕とも、呆気〔あっけ〕にとられて、ちょっとの間〔あいだ〕、ポカンとしていたが、これで、この女が、京都から大阪までの汽車のなかで、私たちと反対の側の、羽左衛門たちとはなれた隅の方に、つつましく腰をかけていた、あの『黒人〔くろうと〕』らしい女のうちの一人〔ひとり〕であったことが、わかった。そこで、私が、その女の『おしゃべり』のすむのを待って、広島が来ているか、と聞くと、女は、急に、ふしぎそうな顔をして、「えッ、……広島先生〔せんせ〕は、一〔ひと〕と月〔つき〕ぐらい前から、……」と、いった。すると、芥川は、女の話を、それだけ、聞くと、私の方〔ほう〕をむいて、「じや、ほかへ行こうか、」と、いった。「行こう、」と、私が、いうとともに、私たちは、さっさと、その茶屋を、出た。
 せまい先斗町を南のほうへあるきながら、私が、無言で私の半歩ほど前を早足にあるいて行く芥川に、「どこか、とまるとこ、知ってる、……どんな宿屋でもいいよ、」と、いうと、芥川は、しだいに足を早めてあるきながら、ちょいと私の方〔ほう〕をふりむいて、「宮川町へ行こう、」と、いった。そうして、その云〔い〕い方〔かた〕は芥川としては、めずらしく、押しつけがましいところがあった。
 宮川町とは、先斗町を通〔とお〕りぬけて、四条大橋をわたり、すく右にまがって、加茂川にそうて南の方へ行ったところにある、かなり大きな茶屋町である。しかし、ここは、笹町や先斗町の芸者が出入りするように茶屋に遊女が出入りするところに、特徴があり、一部の人にしたしまれた。それで、私は、芥川に、おもいがけなく、「宮川町に行こう、」といわれた時は、一瞬、『オヤ、』と、思ったが、すぐ『ままよ、』と、思いなおして、ますますいそぎ足になる芥川のあとを追うように、早足で、あるきつづけた。
 ところが、芥川は、四条橋をわたってから、すぐ右へまがらずに、まっすぐに、南座の前をとおり、縄手通〔なわてどお〕りを横ぎり、祇園新地を東の方へ、すすんで行った。そうして、縄手通りから半町〔はんちょう〕ほど行った四〔よ〕つ辻〔つじ〕の右の手前の角〔かど〕の、軒〔のき〕につるした赤い細長〔ほそなが〕い提燈〔ちょうちん〕とうす暗〔ぐら〕い陳列窓に妙な特徴のある、うすぐらい、何〔なん〕ともいえぬ異様な感じのする、家のなかに、芥川は、つかつかと、はいって行った。
『都の手ぶり』のなかに、「佐佐木の家の幕じるしかと思ふばかりなる紋[四つ目の紋]附けたる軒あり、茶鬻〔ひさ〕ぐにや、長命・帆柱など、金字にだみたる札を掛けたり、」とあり、また、『古朽木』のなかに、「四目屋〔よつめや〕が薬じゃ、目出度き名を持ちながら、上下〔かみしも〕著〔き〕鼻の先へは出されぬも、をかしく、」とあるのは、江戸の両国橋のあたりにあった、長命丸などという、風紀に触〔ふ〕れるような事をおこす元〔もと〕になる、『クスリ』や弄具などを売る、四目屋という、家のことである。
「佐佐木の家の幕じるしかと思ふばかりなる紋[四つ目の紋]附けたる軒あり」江戸両国米沢町二丁目にあった四つ目屋忠兵衛店のこと。性具・媚薬を商う日本最古のアダルト・ショップとして知られる店である。近江源氏佐々木氏の四つ目結(四角の中に小さな一つ小さな白抜の□を配した「一つ目結」を方形に四つ並べたもの)を家紋とした。明治中期までは存続していたらしい。
「長命」「帆柱」とは、四目屋名代の秘薬「長命丸」と「帆柱丸」で、どちらも房中用強精剤。前者は射精を遅らせる塗布薬、後者は勃起促進か勃起持続剤であろう。
「だみたる」の「だみ」は「だむ」で、マ行四段活用の動詞。 「彩色する・彩る」又は「金箔・銀箔を張る」の意。
『古朽木』は江戸の狂歌師で戯作者であった朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ 享保二十(一七三五)年~文化十(一八一三)年)が安永九(一七八〇)年に恋川春町画で版行した滑稽本。]
 今、芥川が、つかつかと、こそこそと、はいって行ったのは、それとおなじ名の、おなじような物をうる、『四目屋』という家であった。芥川は、その家で、自分は、張型(『ハリカタ』)というものを買い、私には、「君〔きみ〕は、大〔おお〕いに刺戟させる必要がありそうだから、……」と、いって、『アポロン』という薬を買うことをすすめた。『張型』は、茶色のゴムで、形は懐中電燈の形〔かたち〕であるが、大きさは懐中電燈の半分ぐらいである。(しかし、芥川は、その翌日の昼頃〔ひるごろ〕、新京極の喫茶店の隅〔すみ〕で、それを私に見せながら、「これに湯を入れると、この倍ぐらいになるよ、」といった。)
それから、『アポロン』は、茜草〔あかねそう〕の類〔たぐい〕の樹皮から採取したものを錠剤にしたものである。(『犬筑波集』のなかに、「あづまぢの誰〔た〕が娘とか契〔ちぎ〕らん⦅といふ句に⦆あふ坂山を越ゆるはりかた」という歌がある。)
 さて、四日屋を出ると、芥川は、無言で、道をいそいだ。これは、十月も二十日〔はつか〕をすぎた京都の夜〔よる〕は、じつと一〔ひ〕と所〔ところ〕に立っていると、寒冷の気が足の蓑から体中〔からだじゅう〕にしみとおるような気がするからでもある。
 やがて、宮川町に来た。
 宮川町の茶屋は、どの家も、三階だてで、しかも、一階も、二階も、三階も、みな、細目〔ほそめ〕の格子〔こうし〕づくりである。そうして、それらの家家は、両側に、すき間〔ま〕なしに、たっている。それに、町幅〔まちはば〕は五六間〔けん〕であったから、私は、宮川町に足を一歩〔ぽ〕いれた時、北から南へまっすぐに通〔とお〕っているその五六間の幅の道の両側に、一階、二階、三階、と、それぞれの高さの、細目の格子が、両側に、一枚の塀のように、ずっとつづいているのを見て、思わず、あッ、と、心のなかで、叫んで、立ちどまった。一〔ひ〕と口〔くち〕にいうと、それは、ありふれた形容であるが、壮観であった。
 こういう宮川町を、そのずっと前からであるが、私は、しじゅう、芥川より半歩〔はんぽ〕ぐらいずつおくれて、芥川にひきずられるように、あるきつづけた。と、芥川は、宮川町にさしかかってから半町の半分ほども行かないうちに、右側の一軒の茶屋の格子戸をあけて、すばやく、中〔なか〕に、はいった。しぜん、私も、芥川のあとから、つづいた。はいった途端、中は真暗〔まっくら〕であったが、すぐ、ほのかに、明〔あ〕かりがさし、すうっと入り口の障子があくとともに、仲居〔なかい〕の姿が、あらわれた。
 三階の部屋にとおされると、すぐ窗〔まど〕をあけて、「おお、さむ、」と、いって、あわてて窗をしめた芥川は、「……君、この家も加茂川ぞいだけど、おなじ加茂川を東から眺めるにしても、祇園とここでは、……」といって、ちょっと例の皮肉な微笑をしながら、首をちぢめた。
 やがて、三十分ぐらいしてから、二人の女が、三分ほどのちがいで、前後して、あらわれた。それから、しばらくすると、さきの仲居が、部屋にはいって来た。そうして、その仲居は、芥川のそばに行って、なにか小さい声で芥川と話しあっていたが、やがて、「では、」というようなことをいって、部屋を出ていった。すると、こんどは、芥川が、私のそばに来て、私の耳もとで、「君、わすれないで、さっきの『クスリ』を、のめよ、」と、いった。それから、芥川は部屋の隅の方でちょこなんと坐〔すわ〕っている二人〔ふたり〕の女のうちの瘠〔や〕せた女の方にむかって、「おい、ゆこうか、」と、いうと一しょに、立ちあがった。そうして、芥川は、私の方をむいて、「じゃ、しっけ、」と、いいのこして、さっさと、部屋を、出ていった。すると、やせた女は、あとに残された者になんの挨拶もしないで、芥川のあとを追うように、これも、さっさと、出ていった。
 私は、芥川が、なにか早業〔はやわざ〕のよう事をして、消えうせてしまったような形があったので、にわかに、無聊〔ぶりょう〕を、感じた。が、すこし気もちがおちついてくると、今さき、芥川が、部屋を出しなに、「さっきの『クスリ』をのめよ、」といったことを、ふと、思い出して、ちょっとイヤアな気がしたが、すぐ、いかにも芥川のいいそうな事だな、と、思った。と、こんどは、ちょっとほほえましい気がした。すると、こんどは、ふと、前の日に、堀江で、菊池と町を散歩して、薬屋によった時、菊池が、胃の薬と、『アポロン』に似た薬を買ったので、私が、「そんな『クスリ』、あんまり、きかないだろう、」というと、菊池が、すく例のカン高〔だか〕い声で、癖〔くせ〕の目をクシャクシャさせながら、「きかなかったら、定量の二倍でも三倍でも、のんだらいいんだよ、」と云ったことを、私は、思い出した。
 それを、ふと、思い出して、私は、その晩、女が用をたしに行っているあいだに、『アポロン』を、定量の三倍ぐらい、のんだ。
 さて、芥川の選択によって私にのこされた女は、芥川の女とはなにからなにまで反対で、背のひくい、まるまると太〔ふと〕った、女であった。
 そればかりではない。いつか夜がふけて、いよいよ床〔とこ〕にはいる段になった時、その女は私がなにも聞かないのに、わたし(即ち、その女)は新潟うまれであるから、夏は、もとより、寒〔かん〕ちゅうでも、ハダカで、寝る習慣になっているから、あんた(つまり、私)も、ハダカになりなさい、と、真面目〔まじめ〕に、いうのである、(いや強要するのである。)
 ところが、その床にはいろうとする頃から、話がゲビて恐縮であるが、私は、異様に、尿意をもよおすのを、感じだした。『異様』とは、便所に行っても出ない、出ないから部屋にかえる、部屋にもどると、すぐ、また、尿意をもよおす、というほどの意味である。
 ところが、その便所が、一階の一〔ひと〕つ下〔した〕(つまり、地下室のようなところ)にあるのである。『地下室のようなところ』とは、その茶屋は、加茂川の岸にたっていたから、往来〔おうらい〕(つまり、表〔おもて〕)から見れば、三階であるが、川(つまり、裏)から見ると、一階の下に、また、一階の三分の二ぐらいあいた所〔ところ〕があるので、そこが物置〔ものおき〕と便所になっているのである。そこで、私は、私のあてがわれた三階の部屋から便所にゆくには、四階分〔よんかいぶん〕の階段をおりなければならぬのである。であるから、部置から、便所にゆき、便所から、部屋にかえるのに、八つの階段をのぼりおりしなければならぬのである。その上、そういう異様な状態になっていたので、便所にはいっている時間がながい。しかも、それが十一月二十日すぎの夜中〔よなか〕の行動である。
 ところで、そう長く便所にもいられない上に、便所にいる間〔あいだ〕は体〔からだ〕がこおるような思いをするので、這〔は〕いながら三階の部屋にもどると、越後の女が引きとめる。その越後の女は、その体格のごとく、力もつよいので、一たん部屋にかえってつかまえられると、いくら尿意をもよおしても、ふりはなすのに、二分ぐらいはかかる。ところが、その二分の間に、廊下を一つへだてた部屋から、ときどき「あツツ」という声やおかしそうに笑う声が、夜がふけて、あたりがシインとしているので、かすかな時もあるが、わりにはっきり聞えることもあった。
 さて、何時頃〔なんじごろ〕であったろうか、私は、地下室の便所から、一階へ、二階へ、と、這いながら、あがってきたが、三階のあの部屋にはいるのがイヤになったので、二階のいくつかの部屋のなかの一つの部屋の唐紙〔からかみ〕をそっとあけると、人の寝ていない床〔とこ〕がしいてあったので、私は、ほっとして、その寝床の中に、もぐりこんだ。
 それから、その床の中〔なか〕で、何時間〔なんじかん〕ぐらい眠ったであろうか。その床の中にもぎぐりこんだのが、おそらく、夜中〔よなか〕の二時か三時頃〔ごろ〕あろうから、目をさましたのは、朝の六時か七時頃あるから、四時間ほど眠ったのであろう。
 め目をさまして、地下室の便所にはいった時、ふと、窓ガラスをすかして、見ると、すぐ目の下に(といって、斜〔なな〕めに二間〔けん〕ほど下〔した〕の方〔ほう〕を)加茂川の水が、(正〔ただ〕しくいうと、琵琶湖疏水の水が、)冷たい色をして、はげしい勢〔いきお〕いで、ながれている。
 しかしその時は、まだ夜あけ前であったが、もう一度蒲団にもぐって、そのつぎに便所にはいった時は、疏水のむこうに、ひろい水のない、ほとんど砂石ばかりの、加茂川の川原〔かわら〕が、眺められた。そうして、それらの風景は、まったく、さむざむとした、冬景色であった。

鈴木しづ子 三十三歳 『樹海』昭和二十七(一九五二)年十二月号しづ子詐称投句全掲載句

 しづ子の失踪を、最終投句稿の日附昭和二十七(一九五二)年九月末日と措定し、ここ以降、最後の昭和三十九(一九六四)年七月号『俳句苑』までの実に四十一冊、凡そ十二年間
――但し、途中、
昭和二十八(一九五三)年七月号から翌昭和二十九(一九五四)年一月号まで
昭和三十(一九五五)年十二月号から翌昭和三十一(一九五六)年四月号まで
昭和三十二(一九五七)年三月号から翌昭和三十三(一九五八)年八月号まで
昭和三十四(一九五九)年二月号から六月号まで
昭和三十四(一九五九)年十月号から昭和三十八(一九六三)年五月号まで
の『樹海』(後に『きのうみ』に改題)には掲載句がない五ヶ月以上に及ぶ有意なブランクがあり(その間にも一~三ヶ月のブランクは何度もある)、更に「きのうみ」昭和三十八(一九六三)年十月号に掲載されてから最後の『俳句苑』昭和三十九(一九六四)年七月号掲載の間も八ヶ月のブランクがある――
にも及ぶ掲載句を、私は巨湫による『しづ子詐称投句』と呼称することにする。詐称である以上、どの投句稿からのものであるかは、全集でも出版される過程で(そのような企画があるかないかは別として)、全句が自ずとデータベース化されて明らかになるであろう。私は目視によって行っており、時間もかかるし、見落としも出て来る。その労はこれ以降は、今の私にとってあまり価値を認めていない。投句稿にあるものもあり、ないものもあるやに感ぜられるが、淡々と示したい。但し、これがそれらの『樹海』その他を精査された川村氏の編集権を犯すものとならないように、簡単な評は附していきたいと思う。

 殊に佳き星をとらへてまぶしめり

 男あり鉢卷をして靑田中

 蚊遣りの蚊ひとたび堕ちて起ちゆけり

 佇ちてあれば柳絮とびゆく水の上

 髮梳けばふるさとのごと雪降れり

 しづ子の実際の生誕地は東京市神田区(現在の千代田区)三河町である。しかし雪を詠み込んだ最終句の「ふるさと」はそこではない。巨湫によって組み合わされたものであるから前句との関連を問題にするのは意味がないとも言われようが私は「柳絮」が気になる。日本で柳の綿毛が舞うのが見られるのは、大陸からの柳の移入種が多い、北海道である。しづ子の中にあの、大正一四(一九二五)年、しづ子六歳の時、家族と住んだ一時の団欒の幸せな一瞬が、しづ子をして北海道を「ふるさと」と呼ばしめているのではあるまいか。

鈴木しづ子 三十三歳 『樹海』昭和二十七(一九五二)年十月号全掲載句

――以降、我々が見るものは巨湫によって仮構された存在しないしづ子『投句』である。但し、この十月号について言えば締切が八月末日であるとしてぎりぎりしづ子の投句時期内に入るが、選句された句は既に見てきたものと同じく、古い投句稿等から引かれており、その固有性を私は認識しない。――これ以降、我々は巨湫の俳句誌上稀に見る投句詐称史を見ることになる。私はこの『巨湫の犯罪』を最後まで漏らさず見届けたいと思う。

 花の穹感激もなく雲流れ(四月十五日附)

 くわりん咲くいづれは失せるべきわが手 (五月六日附)

 手をとりて踊るルンバの螢光燈(五月六日附)

 五月なり山羊は圍はれつつ育ち(五月六日附)

 新緑の木曾の急流橋くぐれり(五月六日附)

 はつなつや川面ながるる水の泡(六月十五日附)

 河越の電車に在りぬ雲の朱け(五月六日附)

 風鈴や醉へば唄うてつねのこと(六月十五日附)

 遠山や五月の竿に衣ほす(六月十五日附)

 生くるべし蝦夷はまつたき夏みどり(六月十五日附)

 なお、次号『樹海』昭和二十七(一九五二)年十一月号の掲載句五句は総て昭和二十七(一九五二)年九月三日『読売新聞』夕刊文化欄「新人抄」に『雲間の陽』として載った五句と完全に同じものであるから省略する。

2012/01/08

鈴木しづ子 大量投句稿の日附不明百六十四句最終句 遊郭へ此の道つづく月の照り

 遊郭へ此の道つづく月の照り

 不明句のランダムの中なんだから、この句に殊更な感懐を感ずる必要はないのでしょう……が……しづさん……あなたらしい「最後の句」ではありませんか……

鈴木しづ子 大量投句稿の日附不明百六十四句より 三十八句

 貨車過ぎの搖れの名殘りや秋櫻

 夏枯れの橋をつくらふ稻葉川

 夕燒けや土面水をく一ところ

 穗草ふく匂ひを人とおもいけり

 人とあるおもひに坐すや穗草吹く

 ■の歯に古知野の風にわたりけり

[やぶちゃん注:古知野町は、愛知県丹羽郡の旧町名。現在の江南市中心部。]

 傳説はいふ滿月の夜のいけにへを

 犬を抱く混血のりや虹の下

 夏がきて混血のるに父のなし

 爐火のまへての白肌ぞ孤りなる

 祕めてあればこころ喪に似て爐火燃ゆる

 叔母の戀情噺笑ふにもあらず氷柱照る

 戀ごころ少年にありや冬すみれ

 凍蝶の翅ひといろの白さかな

 わが不幸記憶の蝶の失せしより

 わが不幸離京の蝶のことさら黄

 思慮なくも海へ去りけり冬の蝶

 人死なせしかの雪溪も雪崩をらむ

 死の谷といはるるところ夏薊

 瀧形りに雪墜りつぐや對ふ崖

 寒夜飲む藥に致死量思ひけり

 百姓の暴君の似て甘藷を掘る

 戀過ぎの猫うづくまる祠そと

 少女の指花の椿を祕そかに祈る

 花吹雪過去と畫する一線あり

 滿月の夜のいとなみの女體の手

 女體にて滿月の夜の火を捧ぐ

 ローレライの乙女とおもふ萬緑に

 夜を泳ぐ人魚とおもふ妖めきに

 月に泳ぐこの世のいのちおもはざり

 暗黑の沖へ沖へと泳ぎて死なむ

 きたるべき滿月の夜と決めしなり

 滿月の夜を泳ぎてゆきし還るなし

 雪溪に死なむいのちともおもふ

 この世への訣別の手に月光りぬ

 月光と死とかかはりのあらざるも

 柿の種投ぐるや風の城ヶ島

 戀情や冬甘日藍の重み掌に

[やぶちゃん注:「冬甘日藍」は恐らく、「冬甘藍」で冬キャベツのことであろうと思われる。]

2012/01/07

新編鎌倉志卷之七 慈恩寺詩序 教え子の援助により注釈完成

昨日、「新編鎌倉志卷之七」の「慈恩寺詩序」で僕の教え子から大々的に力を借りて注釈を完成した。以下に示して、謝意を表する。

   慈恩寺詩序
天地之間、維元氣之結之融、突而爲山、呀而爲谷、然觀遊之與乎人者、或奧而坳、窪而邃、増之有樹之茂石之藂、蓊鬱膏薈蔚、宜乎幽人之所盤旋、樂而不返者爲得之、或曠而軼、雲雨出林莽、増之有臺而崇、閣而延、天爲之高、地爲之闢、宜乎英邁之士、出乎萬類遊乎物之始、卒歳優游者爲得之、蓋天作之、地成之、皆高明幽貞之具於是乎在、相之治、直東北之交、岡連谷盤、突而起、坳而窪、其曰華谷、兼奧與曠而有之、寺額慈恩、初桂堂聞公、開而基之、大年椿公、繼而輪之奐之、公不入州府三十年、終于山、山之峭壁斗絶克肖、其攢巒迤邐、有堂宇列焉、廊廡簷牙、廻且啄、浮圖層出、淸泰摩尼之殿、白花禪悦之構、龕室千軀像設、森列厥徒、栖心禪誦、石之詭環、水之渟滀、而怪木奇卉、紅紛緑駭、不徒席几而爲耳目之玩也、所謂天墜地出、以授乎人歟、京師名德、以不遂登臨之美爲歎、詩以詠之、極詞於幽遐瑰詭、以往來其懷、山水之秀益々以彰、慕而題之者安可已乎、嗟蘭亭之遭右軍、盛跡粹然、後續者洗林澗之媿歟、詩凡若干首、寺之主永貞叟、刻而掲之、請紀其首、庶列名而有榮耀焉、應永戊戌、暮之春、九華山人釋聖瑞序(〔)按ずるに聖瑞は、圓覺寺の前住一曇なり。(〕)
[やぶちゃん注:「聖瑞」一曇聖瑞(いちどんしょうずい 生没年未詳)室町時代の臨済僧・常陸国法雲寺の復庵宗己そうきの法嗣。円覚寺や京都南禅寺住持となる。詩文にも優れ、著作に「幽貞集」がある。九華山人は別号。以下、影印の訓点に従って書き下した「慈恩寺詩序」を示す。難読字が多いので私の読みを( )でルビした。

   慈恩寺の詩の序
天地の間は、維れ元氣の結の融、突として山と爲り、呀として谷と爲る。然れども觀遊の人に與(アヅ)かる者の、或は奧にして坳、窪(ワ)にして邃。之を増すに樹の茂・石の藂(ソウ)有(り)、蓊鬱薈蔚(ヲウウツワイウツ)たり、宜べなり、幽人の盤旋する所ろ、樂(しみ)て返らざる者、之を得(た)りと爲ること、或は曠(クワウ)にして軼(イツ)。雲雨、林莽より出(づ)。之を増すに臺にして崇(タカ)く有(り)、閣にして延く、天、之が爲に高く、地、之が爲に闢(ヒロ)く、宜べなり、英邁の士、萬類を出でゝ物の始(め)に遊び、歳を卒(ヲ)(ふ)るまで優游する者、之を得(た)りと爲ること、蓋し天、之を作り、地、之を成す。皆、高明幽貞の具、是に於て在り。相の治、東北の交ひに直(アタ)(り)て、岡連(な)り、谷盤(マル)く、突として起り、坳にして窪、其れを華谷ハナガヤツと曰(ふ)。奧と曠とを兼(ね)て之有り。寺、慈恩と額す。初め桂堂聞公、開(き)て之を基し、大年椿(ダイネンチン)公、繼(ぎ)て之を輪し之を奐(クワン)す。公、州府に入らざること三十年、山に終ふ。山の峭壁、斗絶克(ヨ)く肖たり。其の攢巒迤邐(サンランイリ)たる、堂宇の列なる有り、廊廡簷牙(ラウブエンガ)、廻(り)て且つ啄み、浮圖(フト)層出す。淸泰摩尼の殿、白花禪悦の構、龕室千軀像設(け)たり。森列せる厥(ハジメ)の徒、心を禪誦に栖ましむ。石の詭環し、水の渟滀(テイチク)して、怪木奇卉、紅、紛し、緑、駭(オドロ)く。徒だに席几にして耳目の玩と爲るのみなり。謂は所(る)、天、墜し、地、出して、以(て)人に授(か)るか。京師の名德、登臨の美を遂げざるを以て歎と爲し、詩以て之を詠じ、詞を幽遐瑰詭(イウカカイキ)に極めて、以(て)其の懷に往來す。山水の秀、益々以(て)彰はる。慕(ひ)て之に題する者、安んぞ已むべけんや。嗟アヽ蘭亭の右軍に遭へる、盛跡粹然たり。後に續く者、林澗の媿はぢを洗んか。詩凡そ若干首、寺の主永貞叟、刻(し)て之を掲げ、請(し)て其の首(ハジ)めに紀せしむ。庶(ネガハ)くは名を列して榮耀有らんことを。應永戊戌、暮の春、九華山人釋の聖瑞序す。

「元氣の結の融」は天地の間にあって万物生成の根本となる精気が結ばれたり融けたりすることで現象することを言う。
「呀」は恐らく「ガ」と読んで、谷の空虚なさまを言う。
「坳」は「アウ(オウ)」又は「エウ(ヨウ)」で、窪んだ所。
「邃」は奥深い、の意であるから、ここは「奥」深く凹(「坳」)であって、凹(「窪」)であって而して奥深く遠い、という意であろう。多変数関数論の「凸」の反対みたような形而上学的な謂いか。
「藂」は「叢」に同じく、群がること。
「蓊鬱薈蔚」「蓊鬱」「薈蔚」もともに草や木が盛んに茂っているさま。
「幽人」隠者。
「盤旋」「ハンセン」若しくは「バンセン」で回遊する、経巡ること。
「曠にして軼」明白にして優れている、の謂いか。
「延く」は「ひく」ではあるまい。「ながく」(長く)か「とほく」(遠く)であろう。
「高明幽貞」高潔なる隠者のことか。「易経」の九二の『道を履むこと担担たり。幽人貞にして吉なり。象に曰く、幽人貞にして吉なりとは、中自ら乱れざれば也。』に基づくと思われる。
「大年椿公」曹洞宗の名僧大年祥椿だいねんしょうちん(永享六(一四三四)年~永正十(一五一三)年)。
「之を輪し之を奐す」「輪奐」は建物が壮大で華麗なことであるから、寺院の盛隆させたことを言う。
「山の峭壁、斗絶克(ヨ)く肖たり」とは、慈恩寺を囲む山の屹立した様は、ここがまさに俗界と断固として隔絶している様に似ている、という意味であろう。
「攢巒迤邐(サンランイリ)たる」の「攢巒」は群がっている山々、「迤邐」はゆったりとしている様。
「廊廡簷牙」「廊廡」は堂の前の左右に延びた回廊。「簷牙」鋭い牙のように軒先に突き出た軒の端。
「浮圖」僧侶。
「淸泰摩尼」は総てを叶えてくれる如意宝珠の意。
「石の詭環し、水の渟滀(テイチク)して」「詭環」不詳。「渟滀」は水が留まり溜まる、水が湛えられるの意であり、転じて学問の広く深いことを言うが、前者の「詭環」はどうもよい意味ではとれそうもない(正しからざる方途を以て石が水を遡る意ではなかろうか)。識者の御教授を乞う。
「幽遐瑰詭」幽かに遠く、何とも奇異な雰囲気で、という謂いか。しっくりとこない。識者の御教授を乞う。
「蘭亭の右軍に遭へる」名筆とされる右軍将軍王義之の「蘭亭序」は、義之が三五三年、名士を自身の別荘に招き、その中の蘭亭で曲水の宴を催したが、その際、酔いに任せて作られた詩集序文の草稿が「蘭亭序」であった。ここは「唐宋八家文」に所収する柳宗元の「邕州馬退山茅亭記」冒頭に基づいている。以下に示す。

〇原文
夫美不自美、因人而彰。蘭亭也。不遭右軍、則清湍脩竹、蕪沒於空山矣。是亭也、闢介閩嶺、佳境罕到、不書所作、使盛跡鬱堙、是貽林澗之媿、故志之。

〇やぶちゃん+教え子による書き下し文
 夫れ、美は自ら美ならず、人に彰せらるるに因る。蘭亭や、右軍に遭はずば、則ち淸湍脩竹の空山に蕪没するのみ。是の亭や、僻介閩嶺、佳境に到ること罕にして、作す所を書かずんば、盛跡をして鬱堙せしむ。是れ、林澗の愧を貽す。故に之を志す。

〇やぶちゃん+教え子による語注
・「淸湍脩竹」は「せいたんしうちく(せいたんしゅうちく)」と読む。
・「蕪没」は「ぶぼつ」と読む。 埋もれるの意。
・「僻介閩嶺」は「へきかいびんれい」と読んで、僻地の峰々。介は界と同義か。閩は福建一帯の古称で中原に対比しての蔑称であるが、ここでは文明の中心から遠く離れた地方というほどの意であろう。
・「罕」は「かん」と読み、稀の意。
・「盛跡」景勝の地。
・「鬱堙」は「うついん」と読む。「堙」は「湮」の同じい。「隠」の同音同義。隠滅すること。
・「貽す」は「のこす」と訓じ、「遺」と同音同義で、残すの意。
・「林澗」は「りんかん」で「澗」は谷。山林の中の窪んだ土地を指す。
・「志す」は「あらはす」と訓じる。

〇やぶちゃん+教え子による勝手自在現代語訳
 そもそも、美はそれ自体として美であるのではなく、人に賞せらるることによって初めて美として我らが前に立ち現れてくるものなのである。あの「蘭亭序」を見るがよい。王右軍に行き逢わなかったなら、清く激しい水の流れや美事にすっくと伸びた竹も、人影なき深山に埋もれて誰一人としてそれを知る者はなかったであろう。自然の美とは、かく、名筆名文によってのみ初めて存在すると言ってよいのである。――さればこそ――正にこの馬退山茅亭である。そもそも僻地の山間にあっては、眺めの素晴らしい土地に到ることは、これ、稀なことである。その稀有の馬退山茅亭美景の感動を今、書き残さなければ、この稀に見る景勝の地の存在を誰にも知られずにあたら埋もれさせてしまうことになる。これは自然の持つ美に対する屈辱であり、極めて遺憾なことである。そこで私、柳宗元がこれを書き残すこととした。

以上の、訓読・語注・現代語訳には私の初代の教え子にして秘蔵っ子の愛弟子、中国語に堪能な杉崎知喜君の協力を得た。彼の柳宗元の説に関わっての大変興味深い感想を引用して、謝意を表したい。

『柳先生の主旨とは少し異なりますが、私は次のようなことを強く感じます。何か一点人工の手を加えると、大自然全体が瞬時にして鑑賞すべき風景、しかも気の遠くなるような文化の蓄積を背負った一幅の画になってしまうのが、中華文明の特徴ですね。例えば険しい崖に漢詩を掘り込むと、いきなり中華文明における名勝(泰山、赤壁などもそうでしょうか)に早変わりするように。人文世界に取り込まれて初めて自然は文人が愛でるべき対象になる、といっては言いすぎでしょうか。もし鎌倉が中国人の街だったら、稲村ガ崎の断崖に「湘南観止」とかなんとか大きな字を彫り込んでしまったことでしょう(討幕軍の稲村ガ崎越えにちなんだ文句にしたかもしれません)。崖に字を彫り込まなくても、文章で詠みこんでしまえば、これと同じことなのかもしれません。今回柳先生の文章に接して、去年広西の柳州への小旅行で柳侯祠に参拝したことを懐かしく思い出しました。』

「盛跡粹然」同前。『使盛跡鬱堙』から採った。王義之のその名墨跡は混じりっ気なく、蘭亭の景を映して美事な出来栄えの謂いであろう。
「林澗の媿はぢを洗んか。」「媿」は「愧」「恥」に同じい。「洗んか」は「すすがんか」と読みたい。同前。後半『是亭也、闢介閩嶺、佳境罕到、不書所作、使盛跡鬱堙、是貽林澗之媿、故志之。』に基づき、不学乍ら推測するに、詩文に詠まれず、空しく林間の恥としてあったこの慈恩寺の景を、我らが雪がんとするか、の意であろうか。
「應永戊戌」応永二十五(一四一八)年。]

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年九月九日附最終投句稿四十句全句

 遂にやってきてしまった。――現存し、期日の明白な、しづ子の最後の投句稿である。――ここは総てを底本の表記そのままに掲載する。――この投句稿を最後として、鈴木しづ子は永遠に我々の前から姿を消した。――鈴木しづ子――現在まで、行方不明――今、二〇一二年一月七日現在、生きておられれば、九十二歳になられるはずである……

 簷に葉に二百十のしづかな雨

 降るになく吹くにあらざる危日の葉

[やぶちゃん注:「危日」とは九耀(すくよう)で言う何事にも危険が伴う日のことか。その手のページには、旅行は不適であるが、逆に人から勧誘や社交運は活発となり、吉運を呼び込めるとあり、会合や繁華な場に身を置くのは吉とされるらしい。但し、本来が凶の傾向を持つことから、対人トラブル・事故・負傷・行き違い・擦れ違い等に注意せよ、とある。それとは別に妊娠危険日を女性の隠語でこうも言うらしい。一応、記しておく。]

 吹きとほす危日ちかづく竹■葉

 炊ぐ飯二百十日も過ぎにけり

 一匹の蟲鳴きつづく晝の雨

 魚焼きて一日ごもりの秋の雨

 ひらくとき秋の日傘となりにけり

 擦れちがふとき片蔭をゆづられし

 秋の陽に双つ腕を焼かしめて

 秋の雨夕べのごとくこづかなる

 堤防を崩せしほどの梅雨出水

 暁より梅雨の濁流橋くぐる

 泳ぐよに蜻蛉いできし雨のあと

 吾にいたりて■木の家係崩れたり

 颱風のありし地上に蚯蚓死す

 緑の下にまで秋風があふれゐて

 秋風裡手にもてあそぶマッチの箱

 つゆ草を踏まじとおもふ草の中

 やうやくに暑さうすらぐのぼり蔦

 青蔦の葉のいつぱいの西日かな

 をりをりはおもはせぶりな雲間の陽

 數を教ふどんぐりをもて一つとし

 捉へきし蟬を与へて泣くをなだむ

 わが坐せば簾むかふの秋の風

 秋めく風姉は虚栄に走りけり

[やぶちゃん注:この「姉」とはしづ子を指し、措定される妹は堅実な生を全うした実妹正子(しづ子は彼女の年齢を詐称したと考えられている)のことを念頭に置くものであろう。]

 姉妹あり秋の落日けんらんと

 小説中つねに嬌るは姉娘

 小説においても嬌るは姉娘

 死にぎわの蟻が必死に軀を廻す

 風ゆれの葉に一匹の蟻を■し

 秋燈下にて消しゴムをさがしをり

 秋風裡萬年筆にイレワ缺く

[やぶちゃん注:これは万年筆のインク補充のための着脱部分に入っていた、恐らく金属の輪っかがなくなっていることを詠んでいるように私には感じられる。]

 とほければ團扇を取りてもらふ

 るの裸身金魚のごとしたゆまざる

[やぶちゃん注:「るの裸身」は不審。「この裸身」「かの裸身」「その裸身」「ゐの裸身」又は「ゑの裸身」か。句としては「この」でありたい。]

 差出されし朱け色きるき団扇の板

[やぶちゃん注:「きるき」は誤読であろう。「しるき」か。]

 みづ色の団扇をつかふ人とゐる

 眠るともなく団扇をつかふともなく

 ひと夏の裏みこまひたり

[やぶちゃん注:「裏みこまひたり」は不審。「裹みしまひたり」ではなかろうか?]

 夏逝くや朱色きつき団扇の板

 豪雨とはいへざるまでも標格の雨

 [やぶちゃん注:掉尾の句。「標格」不詳。地名ではなさそうである。失礼ながら誤読か。原本が見たい。]

……しづさん……あなたは最後の最後まで……謎を残して去ってゆくのですね……でも、私は……川村氏のようには、「もういいよ」というあなたの声が聴こえません……私はあなたを探し続けます……

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年九月九日附句稿三十句より 四句

 死ぬことをときに懼るや薄荷草

 腕時計ばかりは賣らじ赤まんま

 自殺者の手記のなかなる星のこと

 蟲しじに書きゆく便り遺書めく

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年九月五日附句稿五十四句より 秋風の有刺鐵線比内の地

 秋風の有刺鐵線比内の地

 また出て来た。「比内」は固有名詞であろう。であれば秋田県大館市比内町しかない。――そしてやはり、新潟に近い。「有刺鉄線」が分からない。当時の比内に米軍基地があったことは確認出来ないでいる。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年九月五日附句稿五十四句より 莫迦のような暮しつづくや土の苔

 莫迦のような暮しつづくや土の苔

鈴木しづ子 三十三歳 『樹海』昭和二十七(一九五二)年八・九月号掲載句全七句

 これがしづ子の真の投句の掲載最終号の『樹海』である。しかし実際には巨湫の選句は直近の投句稿からは選んでいないから、これを『しづ子の真の投句の掲載最終号』とすること自体には余り意味はないと思うが、取り敢えず現象的事実として押さえておこう。句の後の括弧書きがあるものは例によって私が調べた投句稿所載のものである。後の五句は現存する投句稿には見出せなかったが、「雪降りをり県庁はいま正午にて」は昭和二十六(一九五一)年十二月十九日の投句稿に「寒月をのぼらしめたり惰性の生」という感懐類型句が見える。

 揃えて脱げばスリツパ赤し降誕祭           (一月 二日附)

 こころの疵からだの疵さむざむと在る玻璃の疵     (一月十一日附)

 緑蔭の樹に凭しやすし凭れば歌ふ

 夏の雲ゆく戰爭花嫁といふことば

 紫雲英田に立てば山脈高からず

 寒月照る着々と死を近づきしめ

 雪降りをり県庁はいま正午にて

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(4)

 到着した日に逢つた半盲の老人、即ち私の教師に心惹かれたにも關らず、私はイニシマーンに移る事にきめた。其處ではゲール語がもつと一般的に使はれ、その生活は、恐らく歐洲に殘つてゐる中で最も原始的な處である。
 此の最後の日の一日中、私は半盲の案内人と、島の東部或ひは西北部に多くある古蹟を見物しながら過した。
 出かける時、我我の道連れ――ムールティーン爺さんは時鳥と田雲雀の道連れの様だと云つた――を笑つてゐる一團の娘の中に、際立つて精神的な表情をしてゐる美しい瓜實顏の女を私は見とめた。そんな顏は西部愛蘭土の女の或る型に著しいのである。此の日、後で老人は妖精とそれに騙された女の話を續けざまにしたが、島で信じられてゐる野蠻な神話と女の不思議な美しさの間に、関係がありさうに思へた。
 正午ごろ一軒の廢屋の近くに休んでゐると、二人の綺麗な男の子が來て、傍に坐つた。ムールティーン爺さんは子供たちに、廢屋になつた譯、住んでゐた人の事を尋ねた。
 「或る金持の百姓が前に建てた。」と彼等は云つた。「だが、二年の後に妖精の群に追ひ立てられてしまつた。」
 子供たちは、今でも完全に殘つてゐる古い蜂の巣状の家の一つを訪ねる爲に、北の方へかなりの道を我我について來た。我我は四つん這ひになつてはひり、内部の眞暗な中で立ち上つた時、ムールティーン爺さんは俗気臭いをかしな空想を考へ、若し彼が靑年であつて、若い女とはひつて來たら、どんな事になつたらうと語り出した。
 それから彼は床下の眞ん中に坐つて、昔の愛蘭土の詩を誦し始めた。その音調の美しい純粋さは、意味はよく解らなかつたが、私に涕を催させた。
 歸る途中、彼は妖精に就いてカトリック教的な話を聞かせてくれた。
 悪魔が鏡で自分の姿を見た時、神と同じであると息つた。それで天主は彼とその家來の天使全部を天界から追ひ出した。天主が彼等を「つまみ出してゐる」最中、大天使が天主に彼等の或る者の赦しを願つた。それで墜落しつつあつた者は今でも空中に住んで、船を難破させたり、世の中に災害を起したりする力を持つてゐる。
 それから話は神學の退屈な事柄に分れてゆき、かつて坊さんから聞いた愛蘭土語の説教や祈禱を長長と繰り返し初めた。
 少し行くと、スレート葺の家へ來た。私は彼處に誰が住んでゐたのかと聞いた。
 「學校の女の先生の樣な人」と彼は答へ、それからその年取つた顔を皺寄らせて、ちらりと異教的ないたづら氣を見せた。
 「旦那、」と彼は云つた。「その中へはひつて、彼女に接吻したらよかつたらう。」
 此の村から二哩ばかり行つた所で、カハル・オールウィン(美しき四人の人)と云ふ教會の廢墟と、その近くの盲目と癲癇によく效くので有名な靈泉を見物しに立寄つた。
 我我がその泉の近くに腰掛けてゐると、道傍の家から一人の非常に年とつた老人が出て來て、泉の有名になつた譯を話した。
 「スライゴの或る女が、生れながら盲目の息子を持つてゐた。或る晩、息子の目によく效く泉が、或る島の中にあると云ふ夢を見た。その朝、息子に話すと、或る老人が、彼女の夢にみたのはアランだと教へてくれた。
 彼女は息子をゴルウェーの濱沿ひに連れて來て、カラハ〔アランで土人の乘る小船、木の骨組に麻布又は牛皮を張つて造る〕に乘つて出かけ、此の下に少し入江になつて見えるでせう。あすこに上陸した。
 その女は當時私の父であつた家に歩いて來た。そして何を探してゐるかを話した。
 私の父は、その夢と同じやうな處がある事を云つて、道案内に子供を遣ると云つた。
 『少しも、それには及びません。其處はみんな夢で見て知つてゐるのですもの。』と彼女は云つた。
 そこで子供と共に出かけ、その泉まで歩いて來て、跪いて祈りを初めた。それから水の方に手を差し伸べて、それを子供の目に當て、觸つたと思ふと、子供は『あッお母さん、美しい花を御覧!』と叫んだ。」
 その後でムールティーンは密釀酒の酒盛りや若い時にした喧嘩のことをくはしく話した。それからサムソンに次いで力持であつたダーミッド〔愛蘭土の神話の勇者〕の話、及び島の東方にあるダーミッドとグレーン〔同じ神話の中の女王で、ダーミッドを誘惑したと傳へられる〕の寝床に就いての話となつた。ダーミッドはドルドイ僧に、火のついたシャツを着せられて、殺されたと云つた、――これは野天學校〔愛蘭土の臨時野外學校〕の先生の民謠の「學問」に依るのではないが、ダーミッドとヘルクレスの傳説とを結びつけ得る神話の斷片であらう。
 それから我我はイニシマーンに就いて話した。
 「あすこに、お前さんの話相手になる爺さんが居るだらう」と彼は云つた。「そして、妖精の話をする。だがあの人は此の十年間、二本の杖を賴りに歩いてゐる。若い時は四本足で、その後二本足で、それから年を取ると三本足で歩く者を知つてゐるかね?」
 私は答を與へた。
 「おお、旦那、」彼は云つた。「お前さんは利巧だ。神の惠みよ、お前さんの上に。さうだ、私は今三本足、あすこの爺さんは四本足に戻つた。でもどつちの態(ざま)がよいかわかつたもんぢやないあの爺さんは目が見えるが、私は年よりの盲人だからね。」

ln spite of the charm of my teacher, the old blind man I met the day of my arrival, I have decided to move on to Inishmaan, where Gaelic is more generally used, and the life is perhaps the most primitive that is left in Europe.
I spent all this last day with my blind guide, looking at the antiquities that abound in the west or north-west of the island.
As we set out I noticed among the groups of girls who smiled at our fellowship--old Mourteen says we are like the cuckoo with its pipit--a beautiful oval face with the singularly spiritual expression that is so marked in one type of the West Ireland women. Later in the day, as the old man talked continually of the fairies and the women they have taken, it seemed that there was a possible link between the wild mythology that is accepted on the islands and the strange beauty of the women.
At midday we rested near the ruins of a house, and two beautiful boys came up and sat near us. Old Mourteen asked them why the house was in ruins, and who had lived in it.
'A rich farmer built it a while since,' they said, 'but after two years he was driven away by the fairy host.'
The boys came on with us some distance to the north to visit one of the ancient beehive dwellings that is still in perfect preservation. When we crawled in on our hands and knees, and stood up in the gloom of the interior, old Mourteen took a freak of earthly humour and began telling what he would have done if he could have come in there when he was a young man and a young girl along with him.
Then he sat down in the middle of the floor and began to recite old Irish poetry, with an exquisite purity of intonation that brought tears to my eyes though I understood but little of the meaning.
On our way home he gave me the Catholic theory of the fairies.
When Lucifer saw himself in the glass he thought himself equal with God. Then the Lord threw him out of Heaven, and all the angels that belonged to him. While He was 'chucking them out,' an archangel asked Him to spare some of them, and those that were falling are in the air still, and have power to wreck ships, and to work evil in the world.
From this he wandered off into tedious matters of theology, and repeated many long prayers and sermons in Irish that he had heard from the priests.
A little further on we came to a slated house, and I asked him who was living in it.
'A kind of a schoolmistress,' he said; then his old face puckered with a gleam of pagan malice.
'Ah, master,' he said, 'wouldn't it be fine to be in there, and to be kissing her?'
A couple of miles from this village we turned aside to look at an old ruined church of the Ceathair Aluinn (The Four Beautiful Persons), and a holy well near it that is famous for cures of blindness and epilepsy.
As we sat near the well a very old man came up from a cottage near the road, and told me how it had become famous.
'A woman of Sligo had a son who was born blind, and one night she dreamed that she saw an island with a blessed well in it that could cure her son. She told her dream in the morning, and an old man said it was of Aran she was after dreaming.
'She brought her son down by the coast of Galway, and came out in a curagh, and landed below where you see a bit of a cove.
'She walked up then to the house of my father--God rest his soul--and she told them what she was looking for.
'My father said that there was a well like what she had dreamed of, and that he would send a boy along with her to show her the way.
"There's no need, at all," said she; "haven't I seen it all in my dream?"
'Then she went out with the child and walked up to this well, and she kneeled down and began saying her prayers. Then she put her hand out for the water, and put it on his eyes, and the moment it touched him he called out: "O mother, look at the pretty flowers!"
After that Mourteen described the feats of poteen drinking and fighting that he did in his youth, and went on to talk of Diarmid, who was the strongest man after Samson, and of one of the beds of Diarmid and Grainne, which is on the east of the island. He says that Diarmid was killed by the druids, who put a burning shirt on him,--a fragment of mythology that may connect Diarmid with the legend of Hercules, if it is not due to the 'learning' in some hedge-school master's ballad.
Then we talked about Inishmaan.
'You'll have an old man to talk with you over there,' he said, 'and tell you stories of the fairies, but he's walking about with two sticks under him this ten year. Did ever you hear what it is goes on four legs when it is young, and on two legs after that, and on three legs when it does be old?'
I gave him the answer.
'Ah, master,' he said, 'you're a cute one, and the blessing of God be on you. Well, I'm on three legs this minute, but the old man beyond is back on four; I don't know if I'm better than the way he is; he's got his sight and I'm only an old dark man.'

[やぶちゃん注:「田雲雀」は「たひばり」と読む。原文“pipit”。スズメ目セキレイ科タヒバリAnthus pinoletta のこと。正式な英名は“Water Pipit”で、彼らはカッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギスCuculus poliocephalus の托卵相手である(カッコウ目カッコウ科とホトトギス目ホトトギス科は同じである)。

「野蠻な神話」原文“wild mythology”。『粗野な神話』、『生(き)のままの神話』ぐらいな訳の方がいい感じがする。

「ムールティーン爺さんは俗気臭いをかしな空想を考へ」原文“old Mourteen took a freak of earthly humour”で、訳文はやや生硬な印象を受ける。『ムールティーン老師は若い頃のちょっとしたいたずらっ気を発揮して』ぐらいの感じであろう。

「坊さん」“priests”。カトリック教会の司祭たち。

「學校の女の先生の樣な人」“'A kind of a schoolmistress,'”『まあ、言うたら、女子(おなご)先生みたような人じゃ』という台詞。

「カハル・オールウィン(美しき四人の人)」原文の“Ceathair Aluinn”はゲール語で“Ceathair”は4、“Aluinn”は美しい、の意。但し“Ceathair”はネット上のネイティヴの発音では「カハル」ではなく「エタフェル」と言うように聴こえる。

以下の盲人を開明させる聖なる泉の話は、後にシングが発表する戯曲「聖者の泉」を髣髴とさせる(リンク先は私の片山廣子(松村みね子)訳「聖者の泉」)。そういえば、あの主人公の男の名は“Martin”――マーチン、この老人の名は“Mourteen”、ムールティーン=マーチーンである。

「その女は當時私の父であつた家に歩いて來た。」ちょっと妙な日本語だなと思って原文を見ると、“She walked up then to the house of my father--God rest his soul--”となっており、これは敬虔なカトリック教徒の習慣が出た直接話法をそのままに写したことが分かった。則ち、死者のことを口にする時のマナーとして、「その亡き人の魂に神の御恵みを!」と添えたのである。だからここは『彼女が私のその頃の父――おぉ、安らかにねむり給え!――の家へとやって来て』といった台詞となる。

「密釀酒」原文は“poteen”ゲール語で非合法に蒸留したアイリッシュ・ウイスキーのこと。ポーティン。

「ドルドイ僧」が「ドルイド僧」の錯字。“the druids”が古代ケルト人のドルイド教の神官。聖樹信仰を核に、霊魂不滅・輪廻を中心教義とし、占星術を始めとする各種の占術を駆使した。

『――これは野天學校〔愛蘭土の臨時野外學校〕の先生の民謠の「學問」に依るのではないが、ダーミッドとヘルクレスの傳説とを結びつけ得る神話の断片であらう。』もやや分かり難い。原文は“--a fragment of mythology that may connect Diarmid with the legend of Hercules, if it is not due to the 'learning' in some hedge-school master's ballad.”であるが、訳の後半は問題がない。問題は“if it is not due to the 'learning' in some hedge-school master's ballad.”の部分である。まず、“hedge-school master”『アイルランドの臨時野外学校の先生』である。このヘッジ・スクールというのは、十八世紀初頭から十九世紀前半にかけて、アイルランド全土に広がった非合法の民衆教育組織で、垣根の陰に隠れて教師と子らが集って学校活動が行われたことに由来し、教区聖職者を中心に代書業・測量師等などを副業とした多彩な教師が運営し、そうした貧しい子らの親が授業料を支払って運営されていた独特の民間教育機関である。ペイ・スクールとも言う。このヘッジ・スクールがアイルランドの教育向上に大いに貢献したことは言うまでもない。但し、いわばそうした非公認の「先生」の中には、「先生」とは言うものの大した学識もない、“'learning'”、カッコ書きの 『(にわかハッタリの)学問』の持ち主もいたであろう(今の教師にも私を含めてゴマンといる)。そうした『にわか学問』によってデッチ上げられた“ballad”、バラッド、『民間伝承の物語詩』に“if it is not due to”『基づくものでないないとすれば』という意味であろう。則ち、ここは『――これはダーミッドとヘルクレス伝説とを結びつけ得る神話の断片であろう――但し、これがどこぞのヘッジ・スクールの大先生の「にわか学問」が発祥のバラードによるものでなかったとすれば、の話である。』というピリッと皮肉を込めた附言なのである。]

殴られ土下座をした白洲次郎

僕は「日本一カッコいい男」「真のリベラリスト」「プリンシプル」白洲次郎がどうにも好きになれないでいる。いや、それどころか、柴田哲孝著「下山事件 最後の証言」の犯行グループと思しき連中と一緒に写真に映っているように、彼はあの下山謀殺にも深く関わっているんではないかとさえ僕は疑っているぐらいだ。それがかのドラマ以来、如何にもな讃えられようではないか。ウィキなんぞでも褒めっぱなしだ。ところが先日、そんな僕の不快感を払拭し、溜飲の下がる思いがした記事を読んだ。批評社の社評雑誌『Niche(ニッチ)』27号(2012年1月1日)の副田護氏の「ある参謀将校の告白」の「戦時中の知識人たち」の末尾の方にそれはあった。これは1995年秋に大本営陸軍部(参謀本部)参謀将校某中佐参謀へのインタビュー(名前は伏せられており、この後に亡くなっているとある)である。以下に該当箇所を引用させて頂く。

 
 最後に知識人と言えるかどうかわかりませんが、白洲次郎についてお話ししましょう。昨今、「マッカーサーにNOと言ったただひとりの日本人」「軽井沢ゴルフクラブから田中角栄を追い出した」などと、英雄扱いされていますが、私の知る限り、白洲と言う男は度胸もなにもない「腰抜け」でした。
 昭和十九年の秋口だったか、負け戦続きのころです。私は何人かの同僚と小料理屋で酒を呑んでいました。突然、廊下から怒鳴り声が響き、同時に誰かが殴られたようでした。襖を開けて出てみると、仁王立ちになった参謀将校がいて、長身の男が頬を押え泣きながら土下座して謝っています。
 参謀将校は広島幼年学校で私の先輩であり、陸大では専科のK・H中佐でした。H中佐をなだめていたのが樋口季一郎中将、襖越しに室内を覗くと、辰巳栄一中将がいます。H中佐に、なにがあったのですか、と聞きましたら、長身の男は辰巳中将に徴兵逃れを依頼し、そのお礼で一席設けていたとのことでした。
 当時、徴兵逃れなど珍しくもありません。どこの町内にも一人や二人いて、徴兵された留守宅の女性たちと生臭い噂をふりまいていたものです。徴兵逃れだけでしたら舌打ちのひとつで済んだものを、この長身の男は大声で「こんな戦争、始めたやつの顔が見たい。馬鹿じゃないか」と放言し、たまたま廊下を通りかかったH中佐に張り倒されたというのが顛末でした。
 辰巳中将と英国留学時代に親しかったというその男は白洲次郎と聞きました。あのおどおどした土下座姿を見た私には、マッカーサーにNOと言ったことは伝説伝聞の類で信用できません。関係者何人かから、白洲にそんな度胸があるはずもない、フィクションだという話も聞いております。軽井沢ゴルフクラブから田中角栄元結理を追い出したのは、身の安全が保障されていたからでしょう。白洲次郎について「権威に屈さず、プリンシプルを重んじ、筋を通す」と評されます。私は、辰巳中将という虎の威を借りて徴兵逃れした上に思いあがった暴言を吐き、一参謀将校に張り倒されると泣いて許しを乞うていた男に、この評価は絵空事のように思えてなりません。

ブログ340000アクセス記念 下島勲 芥川龍之介氏のこと + 片岡鉄兵 作家としての芥川氏

ブログ340000アクセス記念として「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に下島勲「芥川龍之介氏のこと」及び片岡鉄兵「作家としての芥川氏」を公開した。下島勲は芥川の主治医で、彼の死亡診断書を書いた医師である。井上井月の研究家であり、俳人でもあった。芥川龍之介辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。

新編鎌倉志卷之六 江ノ島 福石・杉山和一墓・碑石・聖天島・鵜島等写真追加

「新編鎌倉志卷之六」の江ノ島の福石・杉山和一墓・碑石・聖天島・鵜島等に昨日、昼飯の時間を惜しんで走り回って撮った写真を追加した。

母の形見の携帯(僕はこの自分の携帯の電話番号を知らない)で撮ったものでが、碑石の文字等は薄っすらではあるが見え、携帯の割にはうまく撮れていると思う。カメラを持って来ればよかったと思ったが、よく考えると、そもそもが僕のツァイスじゃ、こんな接写は不可能だった。

昨日人権の研修会とやらで学んだこと

頭数動員の人権研究会で丸一日江ノ島に缶詰になって無数の教師の語りを聴いて学んだこと――

(1)僕を含めて教師というものは、如何に気持ちよくマスターベーションをするかを教習する者なのであるが、それが如何に聴くものにとって退屈で不快であるかを全く理解しない連中であるということ。

(2)午前中の講演者の『教師は五十を過ぎて転勤すると、「こいつ使えるのかいな」と必ず嫌がられるもんなんです』という言葉に大いに合点したこと。

以上。

但し、昼休みに与えられた一時間で「新編鎌倉志卷之六」に載せる写真が――携帯なので解析度が低いのが難ではあるが――撮れたことは大いに価値があった。

340000アクセス突破

2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、現在、340252。これより記念テクスト作業に取り掛かる。

2012/01/06

僕は

きっと臭いぜ

そうして

いつも

昏い

だから

やめなよ

僕と居るのは

2012/01/05

累計アクセス数339833

明日は仕事で日がな一日江ノ島に出張だ。現在、累計アクセス数339833。明日には340000アクセスを突破しそうだが、記念テクストは明後日かな――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年九月三日『読売新聞』夕刊文化欄「新人抄」掲載句『雲間の陽』全五句

 炎天下首輪くひこむ犬の首 (七月二十四日附)

 靑蔦のきらめきを壁となし (六月 十六日附)

 橋わたる七夕さまの夜の電車 (七月二十四日附)

 腋毛濃しさんさんと湧く雲間の陽 (六月 十五日附)

 緑蔭に揃ひの椅子を薦めらる(日附不明投句稿)

 これはしづ子の投句によるものではない。川村氏によれば、掲載記事のしづ子肩書は『樹海・同人』となっており、『新聞社との句稿の受け渡しも、すべて松村巨湫経由で行われた』(「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」三八五頁)とある。さすればこの選句も巨湫によるものであると考えてよい。但し、この選句自体は、私にはどれもかなり共感出来るものである。

――それにしてもこの掲載は如何なる経緯によるものか。しづ子が望んだとは私には考えられない。とすれば巨湫しか考えられない。全くたまたま『話題の伝説の俳人しづ子』を興味本位でターゲットとした文化欄編集者が巨湫に話を持ち込んだに過ぎないのか、それを巨湫がしづ子を『引き留めるための最後の手段』となるとでも思ったものか。しかし――しづ子はこの十二日後の投句稿を最後に失踪してしまうのである――私は逆に、この『読売新聞』夕刊文化欄「新人抄」掲載という事実は、しづ子自身にとっては俳句を見限る大きな一つの「事件」ではなかったか、これが失踪にしづ子を駆り立てた、最後のスプリング・ボードではなかったか――と私は疑うのである。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年九月二日附句稿百十句より(2) 十九句

 薊吹き死期が近づく筆の冴え

 秋の草の吹かるるこの世惜しむなし

 死して吾に殘すものなし鳳仙花

 わがからだ失せしののちの鳳仙花

 秋めきの雲を詠みしを最后とす

 秋の雲ゆくおも子はあ鈴木しづ子之墓

 秋の雲いづれは失せるべきからだ

 星美しき夜の一遍の愛の詩

 夏休み了らむとして得し病

 この秋と生命限りし棕梠葉かな

 死ぬまいぞ鏡の貌の汗の玉

 雪被く明治大正昭和の墓碑

 わが墓碑は誰がてに成らむ雪めく空

 秋ぞきたる吾が上にこそ自由はあり

 梅雨土砂降り日本人たることを忌みにけり

 雪めく空生きるることは華やかに

 意のままに二十七年夏氷

 意のままにわが過去帳に白紙なし

 風凪て星天の下河流る

 ……しづさん……もう、いいんだよ……言わなくたって……六十年後の今も「しづ子」は圧倒的な伝説の中に孤独な女王として君臨している……どんな「女」も……しづさん……あなたには勝てないのさ……永遠に「二十七」で……永遠に「娼婦と呼ばれて」……そうして永遠に私のようにあなたを恋い焦がれる男が……居続けるのだから……しづさん……

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年九月二日附句稿百十句より(1) 二句

 稻葉川ほとりの草の旱の陽

 わが村の稻葉川てふ涼しき名

 これは明らかに固有名詞である。「稻葉川」とはどこか。ネット上で検索する中で、めぼしいところは以下の三つ。
・大分県竹田市稲葉川(大野川に合流)
・兵庫県日豊岡市高町稲葉川(円山川に合流)
・新潟県長岡市稲葉川(信濃川水系)
但し、兵庫県の稲葉川は「いなんばがわ」と読むようである。新潟……
 ……新潟……川村蘭太氏「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の最終章「エピローグ 巨湫の遺した謎を追って」で、氏は巨湫がしづ子が突如、昭和三十八(一九六三)年に改題された『きのうみ・樹海』にしづ子の句を投句されたかのように掲載し出した、その雑誌に示されたしづ子の投句先住所『狭河』(県名も市名も示されていないという)を手掛かりに、しづ子の所在を追っておられるのであるが――詳細は当該書をお読み戴きたい――川村氏がそのラスト・シーンで立ったのは……新潟の……とある河畔であった……

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年九月一日附句稿五十四句より 四句

 トランクを提げてつまづく枯野中

 脚本を書いてみようか枯野すすむ

 現の世も夕燒小燒のうたきこゆ

 文學の末部の俳句マツチ擦る

 既にしてしづ子の失踪は決定(けつじょう)している――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年八月三十日附句稿五十五句より(3) 古橋広之進三句

 端居して盡くることなき古橋論

 古橋敗れたり町に散らばる店舗の燈

 古橋敗れたり團扇の風をつと強め

 これこそが、あの汗ばんだ夏の、饐えたゴミ箱の漂ってくる、正真正銘の「ALWAYS 三丁目の夕日」の映像ではないか!
 昭和二十四(一九四九)年八月に招待された、ロサンゼルスでの全米選手権で世界新記録を樹立し、現地で「フジヤマのトビウオ」“The Flying Fish of Fujiyama”と呼ばれて戦後日本人の大きな希望の燈となった古橋広之進は、この昭和二十七(一九五二)年七月十九日から八月三日までフィンランドのヘルシンキで開催されたヘルシンキ・オリンピックに出場したが、既に選手としてのピークを過ぎていたことや体調の不良が祟って、四百メートル自由形八位に終わった。参照したウィキの「古橋広之進」によれば、『この時、実況を担当したNHKの飯田次男アナウンサーが涙声で「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展は有り得なかったのであります。古橋に有難うを言ってあげて下さい」と述べたことがあった。帰国中の船内では自殺まで考えていたという』とある。――「盡くることなき古橋論」を展開する人――「古橋敗れたり」の現実をラジオで体感した人々の落胆が点綴される――「町に散らばる店舗の燈」に――敗れた瞬間、その時、日本中の人々が、「つと強め」て団扇をバタつかせた――私はこの時、まだ生を享けていないが――私には確かにその情景と匂いと思いが確かに伝わってくるのである――この句によって――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年八月三十日附句稿五十五句より(2) いつか地球は滅ぶと言へり渦卷くぜんまい

 いつか地球は滅ぶと言へり渦卷くぜんまい

 シュールな、いい句じゃないか!――いいや、これは遙か以前に書かれたウルトラセブンの「第四惑星の悪夢」(脚本:川崎高(実相寺昭雄のペンネーム)・上原正三 監督:実相寺昭雄 特殊技術:高野宏一じゃないか!――何、リキんでるんだ? って? そりゃ、こんな句を見れば、エキサイトしますさ、だって私は未だに特撮オタクなんですから。これから大真面目に特撮評論を書こうと思っているね――あんたが笑うならウルトラセブンに感激して宇宙飛行士になった誰彼もあんたにとっては私と同類の大馬鹿者ってことだわな――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年八月三十日附句稿五十五句より(2) 空飛ぶ円盤二句/天文少年二句

 夏の夜や少年が見し「空飛ぶ円盤」

 空飛ぶ円盤見てこと告げむと駈けて來たり

 夏の夜の天文學の本をかかへ

 夏の夜の少年が言ふ天文學

 空飛ぶ円盤を詠み込んだ俳句の嚆矢として掲げたい。尚且つ、この句はそれを奇を衒う語彙として使用しているのでもない点で、おそらく稀有の美しい――星空の下(もと)の少年としづ子の――「空飛ぶ円盤」俳句である。
UFO史の中では、この前年一九五一年八月にアメリカで起きたラボック・ライト事件が知られる。テキサス州ラボックで全翼機(V字)型の未確認飛行物体やV字型に複数のライトが点灯した物体が目撃され、青年がそのブーメラン状の光源を写真に収めた。同様の物体は同時期ニューメキシコ州アルバカーキなどでも目撃され、二十六日早朝にはその目撃の後にワシントン州防空レーダーがUFOを捕捉、F-86セイバーがスクランブル発進している。当時は正に「空飛ぶ円盤」・宇宙人の到来・地球への来訪や侵略といった都市伝説が大ブレイクする直前であった。例えばウエストバージニア州ブラクストン郡フラットウッズで赤い発光体が目撃され、少年七人が森の中でおぞましいモンスターに襲われる本格的な最初の第三種接近遭遇事件として知られるフラットウッズ事件は、実にこの投句の直後の九月十二日のことなのである。因みにウェルズの「宇宙戦争」のジョージ・パルによる映画の公開はこの翌年、一九五三年である。――何、リキんでるんだ? って? そりゃ、こんな句を見れば、エキサイトしますさ、だって私は十代の頃、UFOの研究をしていたんですから。大真面目にね――三島由紀夫も「空飛ぶ円盤」、大好きだったんですぜ――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年八月三十日附句稿五十五句より(1) 餉のあとのととのひなるや法師蟬

 餉のあとのととのひなるや法師蟬

 これはしづ子の未発表の「たかが」一句であるが、私にはしかし並々ならぬ力量を感じさせる一句である。

2012/01/04

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年八月三十日附句稿百一句より 三句

 競泳に負けて歸れる徑の草

 競泳に負けて歸りて少年無口なり

 たくましくして水泳の黑パンツ

 知れる少年の競泳の敗北連作九句から。いいシチュエーションなのに今一つ。私は読みながら、西東三鬼の昭和十一年の名作「算術の少年しのび泣けり夏 」を超えるあなたの一句を望んでいたのに。でも――きっとそれは――あなたが女――母性を持った女――だからなのかも知れないね――ふと見ると、次の句稿(八月三十一日附)の冒頭にも「水泳にひたすら託す少年の夢」「皆泳ぎを得意とするや飯を喰む」と詠んでおられる――よく読むと、あなたの句には少年の内外を総て包む愛が、確かにあるものね――三鬼のそれは、泣く少年を固定カメラでじっくりと撮ろうという、カメラマンの、監督の、実は「芸術」を伝家の宝刀とする理不尽なもの――なのかも知れないね――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年八月二十九日附句稿百八句より(2) ふつふつと湧きてやまざる素顏の行

 ふつふつと湧きてやまざる素顏の行

 私が何度も言ってきたことだ――しづ子にとって――この投句は、平然としたしづ子の生(なま)の「素顏の」正しく「行」(ぎょう)なのだ――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年八月二十九日附句稿百八句より(1) 自死暗示二十句

 夏を過しつ死といふことがめあてにて

 いつでも死ねるグラヂオラスは咲きのぼり

 死ぬるべきの藥ぞ箱裏む

 劇藥の劇と銘うち暑氣極む

 こん致死量の吾にあやまたさることを

 歩一歩死へ近づき暑氣極む

 秋たちぬ情死希いしことはむかし

 雪はげし共に死すべく誓ひしことし

 人死して降りしきるなり牡丹雪

 雪霏々と愛は濃くなるばかりなり

 雪霏々と吾らが一人死なせけり

 吾らが愛雪くれないの染まむほど

 雪こんこんおのが致死量まがふなし

 月涼したんたんとして死を待てば

 死にどこおろここゑがくや月に雲

 ひつそりと死なむコスモス地を匍ひ

 おのが死してのちの世を想ふ

 死に神誘ふにあらず月澄みて

 秋燈下粉末白く毒含む

 夏らんらんいつでも死ねる藥を持ち

 表記の不審なものもあるがすべてママである。
 ……しづさん……もういいでしょう……この頃から、巨湫はすっかりあなたが自死するかも知れないと思っていますよ……実際に彼は『樹海』同人の主だった者に、あなたの自殺の可能性を仄めかしてもいますから……しかし、ね……私は……しづさん……あなたは自殺なんかしていないね……それは私の願望なんぞを遙かに超えたものとして……不思議な確信に近い実感として……今もある、のですよ……

新編鎌倉志卷之七 安養院 花ヶ谷

「新編鎌倉志卷之七」は安養院から花ヶ谷の慈恩寺跡へと参ったが、この後、久々の十ページを越える漢詩文「慈恩寺詩序」が待ち構えている。少々時間がかかりそうだ。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年八月二十四日附句稿五十五句より(2) 九(十)句

 犬の屍のがつと血を吐く炎暑の地

 狙った感じだが下五の響きとイメージが私には今一つ弱い気がする。

 カルメンは煙草女工わたしは紡績女工ニツキ嚙む

 新涼の紡績會社の門くぐる

 しづ子が紡績女工であったという事実はない。この句はそうした事実を云々する材料というより、自身を「ノラ」を越えて、カルメンに比している部分にこそしづ子の真骨頂を詠むべきである。前句はもう自由律の長律に近い。

 天とほくキヤレン颱風をそれにけり

 美しく颱風をいふ女人の名

 国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所のHPの「川について知る」の中に「台風の名前は外国人女性!?」という頁があり、そこに、現在は一般に発生順で番号を振って呼称する(近年は実際にはすべてに名前が付けられているが、通常のメディアでは全く使用されていない)のにかつてはどうして英語名で台風が呼ばれたのかという点について述べており、それは昭和二十二(一九四七)年から昭和二十七(一九五二)年までの六年間、日本がアメリカの占領下にあったため、アメリカ本土のハリケーンに倣って、日本の台風に女性の英語名を付けることが『強要されていた』とあり、この間に発生したカスリーン(一九四七)・アイオン(一九四八)・キティ(一九四九)・ジェーン(一九五〇)・ルース(一九五一)などの『台風名は番号ではなく、英語名が正式名』なのだとある。私は『強要されていた』というのには、正直、吃驚している。これは公機関の記事である。

 標札てふものもちこことなしちらつく雪

 祭幟はためくこころうつろなる刻に

 祭幟抗ふ如くはためけり白露や若ければこそ死を希ふ

 前の二句は明らかな破調を狙った新傾向である。三句目はママ。「祭幟」は「まつりばた」と読んでいるか。三句目はその極限の思い切った長吟かと期待したのだけれど、よくみるとこれは「祭幟抗ふ如くはためけり」「白露や若ければこそ死を希ふ」で完全定型である。ちょっと残念。

 白露や人を追ひ死すこともよく

 「人」はケリーであろうが……しづさん……そう、「あの人」を苛めてはいけませんよ……

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年八月二十四日附句稿五十五句より(1) 二句

 劇藥の劇と銘うちまがふなし

 密封する藥を持ちいつでも死ねる

 劇薬を抽斗の奥に仕舞い込んだしづ子――それを透視するしづ子――その連作五句から。
 最初の句は当然の如く、巨湫との謎の感応(秘められた官能というべきかも知れない)句
   明星に思ひ返せどまがふなし
と響き合うように作られている。思い出さずにはおかせない、といった風に……こんなものを句稿として送られた巨湫はたまったものではないな……
――そうか? たまったものではないのは当然だ!
――たまったものではなかろうということをしづ子は十全に知っていて――
――しづ子は確信犯でこれを投句しているのだ――
――これを送られるべき――これを是が非でも当然読まねばならない義務が巨湫の側にあったからこそ――
――しづ子は――
――後妻との凡庸な生活人をぬくぬくと生きる巨湫にとって道義的に許されざる――
――選句されるべくもない赤裸々な自死志向句を詠み、送りつけたのではなかったか?……
――いや――それも恩讐の彼方であった――
――しづ子の句は今や――公案への答えである――
――幻の人生そのものを捨象するための――
――たかが/されど俳句――なのであった――

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年八月十八日附句稿十四句より ひと在らぬ半ば開きの氷庫の扉

 ひと在らぬ半ば開きの氷庫の扉

 ケリーとの愛の巣の思い出の品――タルコフスキイの「鏡」の1ショットである――

 さて、ここに現在、川村氏の所持する大量投句稿に紛れ込んでいた一通の巨湫宛のしづ子書簡がある。川村氏は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の中でそれが写真入りで紹介されているが、そこには以下のように記されている(写真画像から改行も再現してテクスト化した)。

 曆の上ではもう立秋になりましたが、
毎日あつい日がつづいてをります。
ご氣元[やぶちゃん注:ママ。]如何でいらつしやいますか。
 本年中に家をかはることになりさう
ですが、只今のところ、よその[やぶちゃん字注:「他」と書いて末梢。]県に行
くのか、またこの那加町内でかはるのか、
未だはつきりいたしません。かはり
ましたら何れにいたしましても
ご通知申上げます故、それ迠は
お手殘[やぶちゃん注:ママ。]下さいませぬよう。
 御身体お大切に。
 八月九日        しづ子
巨湫先生

川村氏は封筒の消印が判読不能であるが、差出先から、この投句稿の九日前の昭和二十七年八月九日と推測されている。「お手殘」は「お手紙」の誤記と考えられるから、ここでしづ子は巨湫からの来信さえも遂に遮断したことが判明する。しづ子の失踪の毅然たる準備は着々と確実に進められていたことが分かるのである。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月三十一日附句稿十句より 螢狩のありし地上に螢死す

 螢狩のありし地上に螢死す

2012/01/03

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二十七日附句稿百三十七句より(2) 五句

 石光りて炎熱の地に一物なし

 見事なる蟬の一つを兄に欲る

 誇らかに蟬を示せる弟の前

 炎日の宙に指もて渦を描き

 炎晝の町にて方角失へり

 どれもハレーション気味の映像が素晴らしい。最後の句は句稿掉尾。

新編鎌倉志卷之七 正覚寺・名越 そして 謎のゲジ穴

「新編鎌倉志卷之七」は正覚寺と名越を更新。特に正覚寺の三浦導寸城跡の隧道の注でリンクさせた廃道研究家平沼義之のHP「山さ行がねが~」は実に素晴らしい。画像を見るだけでもゾクゾクワクワクしてくること請け合いだ。「謎のゲジ穴」をご覧あれ!

宇野浩二 芥川龍之介 一ノ三

     一ノ三

 さて、その日[大正九年の十一月二十二日]の夕方、さきに述べたように、芥川と私が、他の連中〔れんじゅう〕とわかれて、京都にゆくことになっていたので、直木は、私たちをもてなすつもりであったか、「……汽車の時間は十分〔じゅうぶん〕に間〔ま〕にあいますから、文楽にゆきませんか、里見さんも、一しょに行く、と、云ってらっしやいますから、……」と、いった。

 この時分は、文楽座は、平野町〔ひらのまち〕の御霊神社〔ごりょうじんじや〕の境内〔けいだい〕にあったので、俗に『御霊文楽』といった。そうして、文楽座は、この御霊神社の境内にあった頃が、一番はなやかな時代であった。
 ところで、この御霊神社のなかの文楽座は、大正十五年の十一月二十九日の朝、火災のために、焼けてしまった。名作『文楽物語』の著者、三宅周太郎が、この火災について、「見方によつては、『国宝』とも、大阪の『宝』ともすべき、幾多の古き風雅優美の人形を焼失してしまつた。勿論、それらのよき『頭』[舅、娘、老女形、新造、鬼一、孔明、文七、源太、みなで、十七種の『頭』ろいう程の意味]は、再び作らうとしても、今の世ではどんな方法をもつても作り得ない名品ぞろひである。その時、文楽座の焼土を見て、こつちの一〔ひと〕かたまり、向うの一〔ひと〕かたまりの、座方、太夫、人形つかひが、その一かたまりづつゐて、みな、おなじやうに、泣きあつてゐた、といふのは、満更に誇張ではあるまい、と思ふ、」と、述べている。
 私は少年の頃(といって、十六七歳の頃から、)この『御霊楽』で、不世出の名人といわれた、摂津大掾、三代越路太夫、その他の浄瑠璃〔じょうるり〕を、聞き、名人、広助、吉兵衛、その他の三味線を、聞き、また先代、玉造、紋十郎、玉助、その他、というような、名人のつかう、さまざまの人形も、しばしば、見た。

 さて、その日の夕方、町幅のせまい平野町の、御霊神社の前で、自動車をおりて、小〔ちい〕さな社殿の横をとおり、小ぢんまりした劇場の前に、出た。(『小ぢんまりした劇場』とは、この劇場に登場するのは人形と人形つかいだけであるから、普通の劇場の舞台の三分の二ぐらい⦅こんど新築された東京の歌舞伎座の三分の一ほど⦆であり、二階は中二階〔ちゅうにかい〕[普通の二階より低く、平屋よりやや高くかまえた二階]の構造であるから、劇場の『雛形〔ひながた〕』の観あったからである。)
 ところで、私は、その時、うすぐらい平土間〔ひらどま〕の後〔うしろ〕のほうの枡〔ます〕[劇場で見物人をすわらせるように、四角な枡のような形にしきったところ]に五六人の連中と一しょに坐〔すわ〕った事と、その平土間には四分〔ぶ〕どおりぐらいしか『入り』がなかったので、平土間ぜんたいが、(いや、文楽座の客席ぜんたいが、)いやに、がらんとしていて、うすぐらくて、陰気に見えた事と、――そのくらいの記憶しかないのである。しかも、その五六人の連中のなかに女〔ひとり〕が一人いたことをおぼえていながら、その女が誰であったか、その連中がだれだれであったか、という事さえ、おぼえていない。が、その連中は、まえに述べたように、里見、芥川、直木、私、の四人であったことは略〔ほぼ〕たしかで、女は、その頃の直木(前に書いたように、その頃は植村)の愛人であった、堀江の太芸者〔ふとげいしゃ〕、豆枝〔まめし〕であった。豆枝は、そのころ、十七八歳であったが、ふとっていた上に、背〔せ〕が五尺二寸ぐらいであったから、大柄〔おおがら〕な女であった。(もとより、太芸者は、浄瑠璃をかたるのが専門であったから、たいてい、恰幅〔かつぷく〕がよかった。私は、それを知っていたので、豆枝をはじめて見た時から、『なるほど』と思っていたが、)そんな事を知らない芥川は、私の耳のそばで、「……豆枝は、植村にまけないはど、無口だから、おもしろいね、……相撲〔すもう〕をとったら、植村は、負けるね、」と、いった。
 ところで、この時の私の『文楽座』の思い出は、これだけであるが、里見の『芥川の追悼』という文章のなかに「植村宋一に案内されて、吾々〔われわれ〕みんなで文楽に行つた。そこへ行くまで、私はどこかでひどく飲んでゐたものとみえて、はたの聴衆に迷惑をかけるほどの酔態を現した由、これは後に植村に聞いて恐縮したが、つれの芥川君といひ、宇野君といひ、さういふことは恐らくや毛虫より嫌ひにちがひないから、その日の私は、二人にずゐぶんうとまれたらうと、それは無理なく思つでゐる。そこを出てから、梅田[註―大阪駅のこと]まで二人を送つて行き、プラットフォオムで、またもや、大はしやぎにはしやぎ出して、そこらを踊りまはり、遂には二人の一路平安を祈るのだと云つて、機関車のそばに立つて、三拝九拝してゐた由、これも植村の話、」というところがある。
 これを読んでも、私には、里見が、酩酊していたために、文楽座で「はたの聴衆に迷惑をかけ」たことなど、まったく記憶していない。それから、私は、葛西善蔵、三上於菟吉、ふるくは、今井白楊、その他、強酒の人たちとつきあったが、その人たちがいくら泥酔しても、うとんだ事はほとんどない。さて、大阪駅のプラットフォオムの一件であるが、この時の事は、うろおぼえであるが、今でも、わりに、はっきり記憶にのこっている場面がある。これは、プラットフォオムで、若かりし里見 弴が、いかにも、楽しそうな、おもしろそうな、邪気のない、顔をして、おどった恰好である。誇張していえば、その時の里見の姿は『天真爛漫』そのものであった。私は、(私も、)それにつられて、里見と両手をとりあって、それを上〔あ〕げたり下〔さ〕げたりした。それは、すこしはなれてその里見の一等俳優のような振舞〔ふるまい〕をながめながら、酒をすこしも飲まぬ私も、酔い心地〔ごこち〕になったのであろうか、「……もう少〔すこ〕し背が高いと、いいのだがなあ、ほんとに惜しいなア、」と、いった。いってから、その時は、本当にそう思ったのであるが、先輩にたいして失礼なことをいったことを、いたく後悔した。さて、その時、里見が、あの文章のなかに書いているように、いくらかよろけながら『三拝九拝』したことを、私は、はっきり、おぼえている。しかし「機関車のそば」ではない。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二十七日附句稿百三十七句より(1) 冷夏にて空襲の夢を見る

 冷夏にて空襲の夢を見る

 これはしづ子の中でも新傾向若しくは自由律の、しづ子にして珍しいその短律と断じてよく、そのような句としても総ての語彙とその衝突が慄然として成功している。私なら本句をしづ子の自由律代表句として残したい。

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(3)

 今夜、一人の老人が私を訪ねて來た。彼は四十三年前、暫く此の島にゐた私の親戚を知つてゐると云つた。
 「お前さんが船からやつて來る時、私は波止場の石垣の下で網を繕つてゐた。」と彼は云つた。 「シングと云ふ名の人が、若し此の世界に出かけて來るとすれば、あの人こそ其の人だらうと、その時預言を云つた。」
 彼は、少年時代を終らないうちに船員となつて、此の島を離れた時から此處に行はれた變遷を妙に短いが品位のある言葉で慨き續けた。
 「私は歸つて來て、」と彼は云つた。「妹と一軒の家に住んだが、島は前とは全然變り、現在居る人から私は何のお蔭も蒙らないし、又彼等も私から何の得(とく)を受けようともしない。」
 さういつた話からすると、此の男は一種獨特の己惚(うぬぼれ)と空想の世界に立て籠り、網繕ひの業に超然として、他人から尊敬と面白半分な同情とで見られてゐるらしい。
 少したつて、茶の間の方へ下りて行くと二人の男がゐた。此の人たちは中の島〔イニシマーン〕から來て、此の島で日が暮れたのである。彼等は此處の人達より純撲で、恐らくより興味ある型の人であらう。念入りな英語で砦の丘(ダン)の歴史「バリモートの書」「ケルスの書〔共に同名の愛蘭土の町の名を取つた古文書〕、その他平生云ひ慣はしてゐるらしい昔の寫本に就いて語つた。[やぶちゃん注:「ダン」のルビは「砦の丘」三文字に附されている。]

This evening an old man came to see me, and said he had known a relative of mine who passed some time on this island forty-three years ago.
'I was standing under the pier-wall mending nets,' he said, 'when you came off the steamer, and I said to myself in that moment, if there is a man of the name of Synge left walking the world, it is that man yonder will be he.'
He went on to complain in curiously simple yet dignified language of the changes that have taken place here since he left the island to go to sea before the end of his childhood.
'I have come back,' he said, 'to live in a bit of a house with my sister. The island is not the same at all to what it was. It is little good I can get from the people who are in it now, and anything I have to give them they don't care to have.'
From what I hear this man seems to have shut himself up in a world of individual conceits and theories, and to live aloof at his trade of net-mending, regarded by the other islanders with respect and half-ironical sympathy.
A little later when I went down to the kitchen I found two men from Inishmaan who had been benighted on the island. They seemed a simpler and perhaps a more interesting type than the people here, and talked with careful English about the history of the Duns, and the Book of Ballymote, and the Book of Kells, and other ancient MSS., with the names of which they seemed familiar.

[やぶちゃん注:「シングと云ふ名の人が、若し此の世界に出かけて來るとすれば」原文は“if there is a man of the name of Synge left walking the world”。この訳は「此の世界に出かけて來る」がやや奇異で、「此の世界」をアラン島と取るか、若しくは特殊な宗教観からある別な世界からこの現実世界へやって来るという意味になるが、それを伝えるには如何にも苦しい訳である。寧ろ、“walk the world”は、“walk”の古語としての意を受けた、世を渡る、この世に生きるの謂いで、『もしシングという名の、今もこの世の中に生き残っている人がいるというなら』という意味であろう。『「バリモートの書」「ケルスの書」』“Book of Ballymote, and the Book of Kells”いずれもアイルランド文学の至宝。前者は14世紀の写本でケルトの神話を語るもので、アイルランドのスライゴ州バリモートに由来する。後者は紀元後700~800年にかけて制作された、4種の福音書によるイエス・キリストの生涯を華麗な文字で綴った初期キリスト教芸術の重宝で、ミーズ州ケルズに由来する。現在は「ケルズ」と表記するのが一般的。「昔の寫本」原文“ancient MSS.”。“MSS.”は“manuscript”(マニュスクリプト)の省略形で手稿・写本のこと。]

2012/01/02

宇野浩二 芥川龍之介  一ノ二

      一ノ二

   『ことわり』
 本文にかかる前に――
 この文章の『まえがき』のなかで、「これから述べようとする事は、もとより、私のたよりない記憶で、書くのであるから、これから、たどたどと、述べてゆくうちに、つぎつぎと、出てくる事柄に、おもいちがいやまちがいが多くある事、名前を出す人たちに、とんでもない事やまちがった事をかいたために、すくなからぬ御迷惑を、かけることを、(いや、かけるにちがいないことを、)前もって、おことわりをし、おわびを申しあげておく、」と、書き、「これから述べようとする事は、もとより、私のはかない記憶をたどりながら、書くのであるから、まずしい頭〔あたま〕からたぐりだす、あやふやな、思い出……というような事を、述べた。
 ところが、今から一週間ほど前に、まえの文章(『一』)のおわりの方〔ほう〕の『生駒山』の段のことについて、(その他の事について、)
[やぶちゃん注:以下の手紙引用は底本では全体が二字下げ。以下、このように引用されている前後には底本にはない「*」を附して読み易くする。以下、この注は略す。]

……生駒へ直木の案内で行つたのは、菊池、久米、田中 純[直木と同級でありながら、里見、久米などと特にしたしく、「人間」(里見、吉井、久米、などが出した一種の同人雑誌)の同人]も一緒です。それは、主潮社の講演会、堀江の茶屋、生駒、みな、小生も同行してゐるから確実です。
 生駒では深夜に菊池が大きな声を出したといふ珍聞もあります。

という文句のはいっている手紙をくれた人があった。
 つまり、ここにうつした一節だけによっても、いかに、私のこの文章(『芥川龍之介』)が、まちがった事をかいているか、デタラメなものであるか、いかに、私の『記憶』というものがアヤフヤなものであるか、ということを、証拠だてられた事になるのである。
 しかも、まだ、『一』の半分(あるいは三分の一ぐらい)しか述べていないうちに、このような、まちがった事をかき、このように、記憶のアヤフヤなことを、暴露〔ばくろ〕されたのであるから、これから、私が、なお、懲りずまに、書きつづける事は、ほとんど、すべてが、まちがった事であり、アヤフヤな『記憶』であり、その『記憶』もまちがいだらけになるのは、必定〔ひつじょう〕であろう。この事を、かさねて、ことわっておく。
[やぶちゃん注:「懲りずまに」は副詞で、前の失敗に懲りもせず、性懲りもなく、の意。「ま」は、ある状態にあるの意を添える接尾語。]
 いずれにしても、あのような文章をよんで、あのように、深切に、忠告をしてくれた人があったことは、私には、なによりも、ありがたい。そこで、私は、その深切な人に、ここで、ふかき感謝の意を、表したい。
 ところで、私が、まえの文章で、生駒に行ったのは、芥川と久米と私だけのように、書いたのを、『それはちがいます、』と、あらわに、いわないで、そのほかに、菊池も、田中純も、一しょであった、というような含〔ふく〕みのある云い方〔かた〕をしてから、「それは、主潮社の講演会、堀江の茶屋、生駒、みな、小生も同行してゐるから確実です、」と、ちくと、急所を、おさえ、すぐ調子をかえて、「生駒では深夜に菊池が大きな声を出したといふ珍聞もあります、」と、いうような、味〔あじ〕のある、(私などがとうてい足下〔あしもと〕にもおよばないような、)文句を述べて、ちょいと目尻にシワをよせ、ちよっと口をななめにゆがめて、微笑する、というような、心〔こころ〕にくいところのある、隅〔すみ〕におけない、男は、いずこの、いかなる、人物であるか。
 それは、ちょっとコセコセしたところもあり、気が弱いようなところもあるけれど、なみなみならぬ苦労人であり、一〔ひ〕と癖〔くせ〕(つまり、どこか凡ならぬところの)ある、一人物〔いちじんぶつ〕である。それは、文藝春秋新社の社長、佐佐木茂索である。(ところで、佐佐木が「主潮社の講演会、堀江の茶屋、生駒、」に、私たちと同行したのは、二十七歳の年〔とし〕である。といって、その年〔とし〕、芥川は、二十九歳であり、里見と菊池は、三十三歳であり、久米と直木と私は、三十歳であった。――しかし、この年、佐佐木は、たしか、三篇の小説を発表しており、三四年のちに、一二年のあいだに、佳作を矢つぎ早〔ばや〕に、発表しているところを見ると、その時、二十七歳の佐佐木は、心〔こころ〕の底に、文学にたいする鬱勃たる思いを、いだいていたにちがいない。)
 さて、佐佐木は、菊池が社長であった時分〔じぶん〕の文藝春秋社の専務取締役であったが、実際は文藝春秋社をほとんど一人〔ひとり〕できりまわしていたような観〔かん〕があった、が、今の文藝春秋新社ができてからは、一人〔ひとり〕で社長と専務取締役をかねているように思われる。ところで、文藝春秋社の専務取締役であった頃の佐佐木は、(十年以上もおなじ役をしていたためであろうか、)りっぱな肘かけ椅子などにおさまっていると、時とすると、かえって、不敵な、(勢〔いきお〕いのあたりがたい、)社長のように見えることがあったけれど、こんどの、五階だての、宏荘〔こうそう〕な、ビルディングの、四階の、社長室の窓ぎわにちかいテエブルの前に座をしめている、佐佐木は、私がその部屋にはいった時だけかもしれないが、表面は居心地〔いごこち〕よさそうに見えることもあるけれど、しばしば、その反対のように見えることがあるのである。いや、そればかりではない。その顔にも、その姿にも、かすかに、憂鬱のおもむきが、ただようているように思われる時さえあるのである。私などが、今〔いま〕さら、いうまでもなく、だいたい、社長とか取締役とかいう者には、太腹〔ふとっぱら〕であり、決断力があり、ふとい神経の持ち主〔ぬし〕であり、計算がこまかい、という事が、必要であるらしい、ついでにいえば、『文学』などわかることは禁物〔きんもつ〕である。ところが、佐佐木は、計算は細〔こま〕かいらしいが、決断力はあまりなさそうであり、もとより、太腹ではなく、神経はほそ過〔す〕ぎる方〔ほう〕である。それに、佐佐木は、気もちのいたって織細な人である。(たいへん卑俗な言葉であるが、)俗に、女をくどくのに『一、押し、二、金〔かね〕、三、男〔おとこ〕』という諺がある。この卑俗な諺をもじると、佐佐木は、かりに金〔かね〕は大〔おお〕いにあるとしても、『三、男、』の方〔ほう〕であり、佐佐木が師として尊敬した、芥川も、やはり、『三、男、』の組〔くみ〕であるが、芥川には、いくらか、(いや、かなり、)『押し』のつよいところがあった。しかし、いずれにしても、当世〔とうせい〕では、男前〔おとこまえ〕がよい事だけでは、活動写真の俳優でさえ、しだいに、通用しなくなってきた。そうして、芥川のような鬼才さえ、男前〔おとこまえ〕がよかった、という事が、(これは、もとより、『譬〔たと〕え』ではあるが、)かえって、『わざわい』となったのである。西鶴の『日本永代蔵』のなかに、「みめは果報の一つ」という文句があるが、その果報が徒〔あだ〕になることもある。また、「見目〔みめ〕のよい子は早く死ぬ」という諺もある。
 さて、佐佐木が、『女の手紙』『或る男の方に』などという短篇を発表したのは、大正七年であるから、私などがまだ小説を発表できなかった頃ある。(『おぢいさんとおばあさんの話』というちょっと気のきいた短篇は、大正七年の作か、大正八年の作か。)ところで、佐佐木は、それから、大正八年には、たぶん、小説を一篇も、発表せず、大正九年にも、たしか、『女の手紙と手』というのを一篇だけ出し、大正、十年、十一年、十二年、と、三年のあいだにも、『ある死・次の死』、『翅鳥』、『或日歩く』、その他、五篇ぐらい発表したが、それらの中〔なか〕で、これは、と思われるものが、ここに題名をあげた三篇ぐらいである。これらの佐佐木の小説は、一〔ひ〕と口〔くち〕にいうと、表現(あるいは文章)が妙に凝〔こ〕っていて、(表現に気をつかいすぎるほど凝っているのが目につき、)しぜん、気がきいていて、間〔ま〕がぬけたところなど殆〔ほと〕んどないが、思いつきのようなところがあり、手軽〔てがる〕なところがある。それが、後年の『兄との関係』などになると、文章などにむやみに気をつかわなくなり、作品の木目〔きめ〕も、しだいに、こまかくなり、深くはないが、人間味が出てくるようになった。しかし、さきに述べた、大正、七、八、九、年頃の作品は、いくら、気がきいていても、たくみに出来〔でき〕ていても、どこか、ものたりない、借り物のような、感じがあつた。これが、読者である私を、安心させなかったのである。そうして、これを、作者(佐佐木)のために誰〔たれ〕よりも、佐佐木の友人たちよりも、もっとも、親身〔しんみ〕になって、心から、心配したのは芥川であった。
 さて、私は、こんど、必要があって、芥川龍之介全集のなかの第七巻(書翰篇)の一部をよみかえした時、大正八九年頃に、芥川が佐佐木にあてた数通の書翰をよんで、感動し、感激した。あの、儀礼の多い、魂胆〔こんたん〕(つまり、たくらみ)の多い、わざとらしい諧謔の多い、ある点で芥川の俗物らしい一面さえ、ところどころに、あらわれている言葉の多い、一千一百四十一通の書翰のなかで、極言すれば、真実と友情と情熱をもって書かれているのは、その佐佐木にあてた数通の書翰だけである。そのなかの、例になるようなものを、一〔ひと〕つ二〔ふた〕つ、抜き書きしてみよう。(後記――これはまったく過言で、芥川の一千一百四十一通の書翰の中には真実に充ちた⦅本音を吐いた⦆書翰が随分ある事を後で知った。)

……書き飛ばす稽古なんぞする事勿〔なか〕れ如何〔いか〕にあせつて見た所で君〔きみ〕善く一夜にして牛込天神町よりヤスナヤポリヤナへ転居する事を得ん僕は尻を落ちつける工夫〔くふう〕を積まんとす蓋〔けだ〕し書き飛ばす稽古をしてもう懲〔こ〕り懲りしたればなり君幸〔さいはひ〕に僕の愚を再〔ふたたび〕する勿れ私〔ひそか〕に思ふ君の短〔たん〕は伸び難〔がた〕きにあらずして伸び易〔やす〕きにあり書き飛ばす稽古なぞした日にはこの短遂に補〔おぎな〕ふの日無からんとす[中略]……佐佐茂索は常に佐佐木茂索たらざる可〔べ〕からず佐佐木茂索たる可からんには一拳石を積んで山と成〔な〕す程根気を持つ事肝腎なりあせる可らず怠る可らず僕自身この根気の必要を感ずる事今の如く切〔せつ〕なるは非〔あら〕ざるなりされば将〔まさ〕に君に望む書き飛ばす稽古なんぞしちやいかんすると君の天分が荒〔すさ〕む惧〔おそれ〕がある
[やぶちゃん注:以下の注は先の芥川龍之介書簡の「牛込天神町」の下にある割注であるが、読みにくくなるので、ここへ移した。]
[註―この書翰は大正八年十二月二十九日づけであるが、佐佐木は、この時分から、大正十三年ごろまで、この牛込天神町の家に、住んでいたのであろうか。牧野信一が、中戸川吉二に招かれて、小田原から上京したのが、大正十二年の十月で、その時、この佐佐木の家のすぐ近所に住み、朝に晩に、レコオドをかけたり、ダンスをしたり、して、佐佐木をなやました、という、ことを、私は聞いたことがある。しかし、その年、(つまり、大正十三年、)牧野は、佐佐木より、二つ下で、二十九歳であったが、すでに「新小説」、「新潮」、「中央公論」などに小説を発表し、『父を売る子』という短篇集を出していた]

 ここに引いた文章だけでほぼしられるように、これは、佐佐木が芥川に出した手紙のなかに、「書き飛ばす稽古」をしている、というような文句を述べたのに対する、芥川の返事の手紙であるらしい。私は。この手紙をよみながら、『書き飛ばす稽古』という文句が、いかにも佐佐木らしい(佐佐木独得)の文句である、と思って、ほほえませられ、その佐佐木の手紙に対して返事(このような文章の返事)をかく芥川の顔が、まざまざと、目にうかんで、私には、何〔なん〕ともいえぬ懐〔なつ〕かしい気がするのである。しかし、芥川が、佐佐木にたいして、その短所を、「伸び易き」ところにあり、と指摘し、「根気を持つ事」を、すすめ、自分が、書き飛ばしていることを「懲り懲り」している、と述べているところは、実に平凡な事であるけれど、その時分の、佐佐木が、いかに、文学に対して、むきであったか、その佐佐木の一途〔いちず〕な心にうごかされたのか、芥川が、めったに他人には明〔あ〕かさない事を、ここで漏らしている事などに私は、いたく、心をひかれたのである。
 佐佐木は、大正十一年には、『麗日』、『商売』『或日歩く』、[これはちょっと面白い作であった、と私は、うろおぼえに、おぼえている]などを、書きながら、大正十二年には、(この年〔とし〕の前半、南部修太郎が、乱作と思われるほど、たしか、六七篇の小説を発表しているのに、)『水いらず』一篇しか発表せず、それが、大正十三年には、たぶん、『選挙立会人』、『おしやべり』、[これはちょっとおもしろい、但し、「ちょっと」である]『靦慚』[いまどき、(いや、大正十三年でも)このようなむつかしい熟語を知っている者があろうか。私は『字源』をひいて、これは『宋真宗文』から出た言葉で『テンザン』とよみ、「はじて顔を赤くする」という意味であることを知った。これは、芥川などの好みであるが、これは、わるい『このみ』であり、わるい癖である][やぶちゃん注:『宋真宗文』とは北宋の第三代皇帝真宗の文「進眞君事迹表(眞君の事迹を進むるの表)」の中に「勉從勤請、良積靦慙(勉めて勤請に從ひ、良〔まこと〕に靦慙を積む」とあることを指す。]、『赴くまま』、『三つの死に目』、『王城の従兄』、『夢ほどの話』、『莫迦な話』[この『莫迦』という言葉も変な『このみ』である]、『曠日』、と、九篇も、書いているが、おなじ年の十一月に、『自嘲一番』[これは中戸川吉二が社長になり、牧野信一が編輯人になった「随筆」という雑誌に出たものであるから随筆であろう]というものを、発表している。ところで、さきに引いた芥川の手紙は、前にのべたように、十二月二十九日の日づけであるから、佐佐木は、年の瀬がちかくなって、芥川に手紙をかいて、『自嘲一番』して、「書き飛ばす稽古」をしている、というような事を、書いたのであろうか。いや、いや、ちょいと『自嘲』もしたであろうが、佐佐木は、それで、自分を投げ出してしまうような男ではない。
 ここで、さきの芥川の手紙を、もう一度、念をいれて、読んでみると、「書き飛ばす稽古をしてもう懲り懲りした」とあるのは、調子は軽〔かる〕いように見えるが、これは、芥川の本音〔ほんね〕であったのだ。大正五年の二月、つまり、かぞえ年〔どし〕、二十五歳の年〔とし〕の二月、「新思潮」に、『鼻』を発表し、それを漱石が激賞したために、たちまち、流行作家になった、芥川は、さすがに、調子にのってしまった。まず、二月の「新思潮」[その頃は、あまり知られなかった同人雑誌]に出た『鼻』が、五月に、「新小説」に、そのまま、載〔の〕せられた。それで、その年、[つまり大正五年]芥川は、『鼻』のほかに、小説を、十一篇も書き、その翌年[つまり大正六年]には、十三篇も、書き、その中の三篇が、その頃、文壇の登竜門といわれ、その雑誌に作品が出れば、第一流の作家の候補者になる、といわれた、「中央公論」に、出た。おそらく、二十六歳で、その頃の「中央公論」に、一年のうちに、三度、作品を発表したのは、芥川だけであろう。その上、その年の六月に、最初の短篇集『羅生門』が、出た。これでは、芥川でなくても、たいていの人は、有頂天になるであろう。一般に、谷崎潤一郎が文壇に出た時をもっともはなはなしかったように、いわれるが、(それはそのとおりであるが、)芥川の方が、どういうわけか、文壇に出方〔でかた〕が、なにか、颯爽していた。芥川には、なにか、そういう『得〔とく〕』のようなものがあった。しかし、また芥川は、その『得』のようなもので、『得』以上の『損』をしたところがあった。(さきに、谷崎をヒキアイに出したが、谷崎は、はなばなしく文壇に登場しても、かるがるしく、調子にのらないようなところがあった、したがって、決して『書き飛ばす稽古』などしなかった。)さて、芥川は、大正七年には、小説を、十篇書き、この年、(大正八年、)には、小説を、十三篇も、書いた上に、翻訳まで、二篇も、雑誌に、出した。これだけでもわかるように、極言すれば、芥川は、佐佐木の手紙のなかに、『書き飛ばす稽古』をしている、という文句を見たとき、ドキッとしたにちがいないのである。――ここまで書いてきて、私は、芥川が、(二十八歳の芥川が、)この手紙のなかで、悲鳴〔ひめい〕をあげているような気がして、心が痛くなるのをおぼえるのである。
 さて、ここで、寄〔よ〕り路〔みち〕した文章を、元〔もと〕にもどして、べつの手紙を、抜き書きしてみよう。

 君の手紙を読んだ
 あてがなければ書けないと云ふのは尤〔もつとも〕だと思ふ。しかし君の場合はあてがない訣〔わけ〕ぢやない。僕は何時〔いつ〕でも君として恥〔はづか〕しくないやうな作品が出来たら中央公論へも持ちこむと云つてゐるのだ。翅鳥や此間〔このあいだ〕の題のきまらない小説[『ある死・次の死』か]でも新小説とか何とか云ふ所なら何時でも持ちこんで上〔あ〕げて好い。そんな事には遠慮なくもつと僕を利用すべきだ。
 しかし実際問題を離れての話だが、君に今最も必要なものは専念に仕事をすべき心もちの修業ではないか。[中略]翅鳥やあの題のきまらない小説は実際君自身の云ふやうな短時間の中〔うち〕に出来たかどうかそれは問ふ必要はない。しかし、あれらの作品にはどうも一気に書き流したやうな力の弱さが感ぜられる。筆鋒森然と云ふ言葉とは反対な心もちが感ぜられる。
 ああ云ふ心もちをなくなす事が(作品の上から)――ああいふ書き流しをしない事が(仕事の上から)少〔すくな〕くとも君を成長させる第一歩ではならうか。[中略]
 序〔ついで〕ながら云ふが僕は此処〔ここ〕一二年が君の一生に可成大切な時期になつてゐるのではないかと思ふ。如何にこの時期を切り抜けるかと云ふ事が君の将来を支配する大問題なのではないかと思ふ。僕は君の作品を推薦するだけの役には立つ。小島や滝井も能動的に或は或〔あるひ〕は反動的に君を刺戟する事は出来るかも知れない。しかし大事を決定するのは飽くまでも君自身の動き方一〔ひと〕つだ。……[中略]君は坂の中途の車が動き出したと云ふ。車の動いてゐる事は自力かも知れない。しかしそれならもう一歩〔ぽ〕進めてその自力の動き方を正〔ただ〕しい方向に持続さすべきだ。さもなければ君は滅ぶ。

 さて、こうして、抜き書きをして、読んでみると、芥川の手紙は、理論は井然〔せいぜん〕としており、文章も納得〔なっとく〕ゆくように書かれてある。しかし、私が、前に、「真実と友情と情熱をもって書かれている」と述べたのは半分ぐらいまちがっていないが、ただ、『もっとも』である、と感じさせるだけで、どうも、もう一〔ひと〕つ、迫〔せま〕ってくるものがないのが気になるのである。口でだけで物を云って、手を出すところがないからである。これは、芥川のその時分の小説が、(いや、芥川の作品の大部分の作品が、)たいてい、おもしろい物語〔ものがたり〕で「筋に変化があり、語り方〔かた〕が上手〔じょうず〕であるために、気がつかないけれど、それらの作品に登場する人物たちが、形はちゃんとしていながら、血が通〔かよ〕っていないのと、通〔つう〕じるところがある。それから、『いいまわし』の巧〔たく〕みな事では、もとより、芥川ほどではないが、佐佐木も、なかなか、うまいところがある。そのほんの一例は、この芥川の手紙の中に引用されている、「坂の中途の車が動き出した」などという文句である。芥川が、大正九年の一月十九日に、森 鷗外に出した手紙に、「友人佐佐木茂索氏を御紹介申上げます 氏は天真堂と云ふ古玩をあきなふ店の御主人でその天真堂の命名を先生に願つた事があるさうですから……」という一節がある。この頃、佐佐木は、時事新報の文芸欄の編輯者をしていたが、この手紙にあるように、『天真堂』の主人もしていたらしい。――大正十年の八月、私は、佐佐木と京都に一と晩とまった時、佐佐木と、鞍馬山に、のぼった事がある。それは、佐佐木の名作『兄との関係』に書かれてある、佐佐木の兄を、佐佐木が訪問するのに、私が佐佐木にたのんで同行したのであった。鞍馬山にのぼり鞍馬寺を見るのに興味があったからである。鞍馬山にのぼるには、今は鞍馬鉄道があるが、その頃は、出町柳〔でまちやなぎ〕ら鞍馬寺まで、二里あまり、山道を、のぼらなければならなかった。佐佐木の兄の家は、道よりだいぶ高くなっている鞍馬寺の山門の手前の右側で、山中の家にしては、風雅なかまえであった。その家のひろい玄関の部屋に、私は、今、ふと、骨董や古玩なども、かざられてあったように、思い出したのである。佐佐木の兄は、ちょっと無骨〔ぶこつ〕に見えるが、ちゃんとした奥ゆきのある、風雅をこのむ人のように思われた。もしそうであるなら、佐佐木が風雅を好むらしいのは、兄に似ているのであろう。ところで、芥川は、殊に、風雅をこのみ過ぎるところがあった、そのために、多分に、文人気質をもっていた。しかし、芥川は、私には、ほとんど文人気質を、見せなかった。
 さて、芥川が、まえに抜き書きした手紙のなかで、「翅鳥や此間の題のきまらない小説でも新小説とか何とか云ふ所なら何時でも持ちこんで上げて好い。そんな事には遠慮なく……」とまで書いているのが、その後、佐佐木の小説が、「新潮」、「新小説」、「人間」、その他に、出たところを見ると、その効果がいくらか現〔あらわ〕れたように思われるけれど、それが一年に三篇か四篇であったのは、けっきょく、佐佐木は、芥川の期待に添わなかった、という事になる。これは、一たい、どういうわけであるか。それは、佐佐木が、新聞社の仕事をもっていたためでもあり、それ以上の事情があった、としても、やはり、佐佐木の気質のためにちがいない。しかし、『兄との関係』をかいた時分(一、二年のあいだ)の佐佐木の小説の中〔なか〕には、今〔いま〕よんでも、同時代の同じ年輩の作家の小説とくらべると、それらの作家の持っていない、心にくいほど上手〔じょうず〕な小説があり、書き方〔かた〕に何〔なん〕ともいえぬ旨〔うま〕さがある。しかし、なにか、肝腎のものが足りないところがあった。(しかし、それは、性質はちがうが、芥川にも、あった。)
 昭和十年の十月に出た「文壇出世作全集」のなかにおさめた『兄との関係』の附記のなかに、佐佐木は、「……仮〔かり〕に『おぢいさんとおばあさんの話』以後を第一期とすると、ここに出した『兄との関係』は第二期の始まりだらう。この時分は本当に熱心に書くつもりであつたのだから。そして『魚の心』あたりから第三期で、『困つた人達』は中休みで、今後また書き始めるとしたら、それが第四期となるだらう」と、書いている。ここで、私は、「親愛なる佐佐木よ、」と、よびかけよう。世に『六十の手習』、『八十の手習』、という句がある。しかし、三十の半〔なか〕ばにならないうちに、立派〔りっぱ〕に『手習』をし、その上手〔じょうず〕の域にまで達したのではないか。もとより、手習は、質〔たち〕のよしあしにかかわらず、怠らなければ、年〔とし〕をとればとるほど、上達する、もとより、六十にちかい君〔きみ〕は、三十の君ではない、人一倍感受性のつよい君は、第三期で「中休み」した君は、第二期の頃の気もちにかえり、そこで、思いきって、第四期に進むべきである。そうしたら、君に誰よりも望みをかけた芥川は、生きていれば、『佐佐木君、大いにやれよ、』と、いいながら、目に涙を一ぱいためて、君の手を握るであろう。――と、こういう光景を思いうかべると、『佐佐木君、ぼくも、うれしいよ、』――こう書きながら、さきの君の手紙を、もう一度、とりだして、最後の『今年の暑さは澄江堂が死んだ年〔とし〕以来の暑さです、』とあるのを読み、私は、今更ながら、君が芥川によせる親愛の深さに、目頭〔めがしら〕のあつくなるのを、おぼえるのである。「佐佐木よ、その芥川のためにも、ふたたび、久〔ひさ〕しぶりで、小説をかくために、筆をとれよ、」と。
 ここで、おもわず、長く長くなった『ことわり』の文章を、おわる。
   『ことわり』(完了)

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(2)

 雨が上つたので、私は島とその住民たちに眞實の初のお目見得をした。
 私はキラニー――アランモアの最も貧しい村――を通り拔けて、南西へ海の中に伸びてゐる砂山の長い頸まで出かけた。其處で草の上に坐ると、コニマラの山には雲が霽れて、しばらくの間靑く起伏する前景は、遠くの山山を背景として、私にローマ近くの田舎を想ひ出させた。その時一艘の漁船(フツカー)の薄黑い上檣帆(トツプ・セール)が砂山の緑の上をすれすれに過ぎて、海のあるのを示した。
 尚行くと、一人の子供と男が隣村から下りて來て、私に話かけた。今度は英語が不完全ながら通用した。私が此の島には樹(ツリー)があるかと尋ねると、彼等はあわててゲール語で相談を始め、それからその男が「樹(ツリー)」とは「叢林(ブツシユ)」のことかと聞いた。それなら東の方の奥まつた低地にいくらかあると云つた。
 彼等は私をつれて、此の島とイニシマーン――群島の中央の島――を隔ててゐる瀨戸まで行つて、二つの絶壁の間に大西洋から打ち寄せてゐるうねりを見せてくれた。
 イニシマーンには愛蘭土語を習ひに來てゐる人が幾人か滯在してゐるさうで、男の子は島の中央に圓く藁の帶の樣に並んでゐる小屋の列を指した。その人たちはそこに住んでゐるのである。そこは殆んど人の住めさうな處とは思へなかつた。靑い物は何も見えず、人のゐるけはひといつては、その蜂の巣の樣な屋根とその上に空の際に屹立した一つの砦の丘(ダン)〔愛蘭土に於いて古代民族の造つた城砦、或は建物の遺跡[やぶちゃん注:「ダン」のルビは「砦の丘」三文字に附されている。]〕を除いては何もなかつた。
 やがてその道連れが行つてしまふと、ほかの二人の子供が私の直ぐ後からついて來た。たうとう私は振り向いて話をさせた。彼等は先づ自分たちの貧しい事を話し、それからその中の一人が云つた――
 「あなたはホテルで一週間に十シリングも拂ふのでせう?」
 「もつと。」 私は答へた。
 「十二シリング?」
 「もつと。」
 「十五シリング?」
 「まだ、もつと。」
 それで彼等は引き下つて、それ以上聞かなかつた。私が彼等の好奇心を止める爲に嘘をついてゐると思つたのか、私の富に恐れてそれ以上續け得なかつたのか知らないが。
 キラニーを再び通つてゐると、アメリカに二十年居たと云ふ男に出逢つた。彼はアメリカで健康を害して戻つて來たのだが、餘程以前に英語を忘れてしまつたと見えて、云ふ事が殆んどわからなかつた。見るからに希望もなく、不潔で、喘息氣味であつたが、二三百ヤードもー緒に歩いて行くと、立ち止つて銅貨をくれと云つた。私は持ち合はせてなかつたので煙草をやつた。すると彼は小屋の方へ歸つて居った。
 彼が行つてしまふと、代りに二人の小さい娘の子がついて來たので、今度は彼等に話させた。
 彼等は優しさのこもつた非常に微妙な異國的な抑揚で話し、夏になると、ladies and gentlemins(御婦人や旦那さんたち)を近所の名所へ案内して、バンプーティーズ(まだ鞣さない牛皮で造つた一種のスリッパ或は草鞋)や岩の中に澤山ある孔雀齒朶を賣りつける話を、歌のやうな調子で話した。
 さてキルロナンに歸つて來て別れようとすると、二人の娘の子は自分達の履いてゐるバンプーティーズ即ち革草鞋の穴を見せて新しいのを買ふ代償を私にくれと云つた。私は財布が空だと云ふと、彼等は小聲で挨拶をして向うむいて波止場の方へ下りて行つた。
 此の歸り道は非常にきれいだつた。愛蘭土にのみ、而かも雨後に限つて見られる烈しい島嶼的な明るさが、海にも空にもあらゆる漣波〔さざなみ〕を描き出し、入江の向うには山山のあらゆる皺襞〔ひだ〕を描き出してゐた。

 

 

The rain has cleared off, and I have had my first real introduction to the island and its people.
I went out through Killeany--the poorest village in Aranmor--to a long neck of sandhill that runs out into the sea towards the south-west. As I lay there on the grass the clouds lifted from the Connemara mountains and, for a moment, the green undulating foreground, backed in the distance by a mass of hills, reminded me of the country near Rome. Then the dun top-sail of a hooker swept above the edge of the sandhill and revealed the presence of the sea.
As I moved on a boy and a man came down from the next village to talk to me, and I found that here, at least, English was imperfectly understood. When I asked them if there were any trees in the island they held a hurried consultation in Gaelic, and then the man asked if 'tree' meant the same thing as 'bush,' for if so there were a few in sheltered hollows to the east.
They walked on with me to the sound which separates this island from Inishmaan--the middle island of the group--and showed me the roll from the Atlantic running up between two walls of cliff.
They told me that several men had stayed on Inishmaan to learn Irish, and the boy pointed out a line of hovels where they had lodged running like a belt of straw round the middle of the island. The place looked hardly fit for habitation. There was no green to be seen, and no sign of the people except these beehive-like roofs, and the outline of a Dun that stood out above them against the edge of the sky.
After a while my companions went away and two other boys came and walked at my heels, till I turned and made them talk to me. They spoke at first of their poverty, and then one of them said--'I dare say you do have to pay ten shillings a week in the hotel?' 'More,' I answered.
'Twelve?'
'More.'
'Fifteen?'
'More still.'
Then he drew back and did not question me any further, either thinking that I had lied to check his curiosity, or too awed by my riches to continue.
Repassing Killeany I was joined by a man who had spent twenty years in America, where he had lost his health and then returned, so long ago that he had forgotten English and could hardly make me understand him. He seemed hopeless, dirty and asthmatic, and after going with me for a few hundred yards he stopped and asked for coppers. I had none left, so I gave him a fill of tobacco, and he went back to his hovel.
When he was gone, two little girls took their place behind me and I drew them in turn into conversation.
They spoke with a delicate exotic intonation that was full of charm, and told me with a sort of chant how they guide 'ladies and gintlemins' in the summer to all that is worth seeing in their neighbourhood, and sell them pampooties and maidenhair ferns, which are common among the rocks.
We were now in Kilronan, and as we parted they showed me holes in their own pampooties, or cowskin sandals, and asked me the price of new ones. I told them that my purse was empty, and then with a few quaint words of blessing they turned away from me and went down to the pier.
All this walk back had been extraordinarily fine. The intense insular clearness one sees only in Ireland, and after rain, was throwing out every ripple in the sea and sky, and every crevice in the hills beyond the bay.

 

[やぶちゃん注:「イニシマーンには愛蘭土語を習ひに來てゐる人が幾人か滯在してゐるさうで、男の子は島の中央に圓く藁の帶の樣に並んでゐる小屋の列を指した。その人たちはそこに住んでゐるのである。」の部分は、そうした人々が現にそこに住んでいるとしか読めないのであるが、続く文章を読む限り、どうもそうではなく、嘗て滞在していた、というニュアンスを感じる。原文は“They told me that several men had stayed on Inishmaan to learn Irish, and the boy pointed out a line of hovels where they had lodged running like a belt of straw round the middle of the island.”で“several men had stayed”“they had lodged”と過去完了であるし、「その人たちはそこに住んでゐるのである。」に相当する独立文はない。訳者は後半部分であまりにも荒涼たる石積みの小屋で人は住めそうにない、人の気配はない、しかし、いるらしいと判断したものか。また、後文で彼らの訛が強烈で性人称なども区別しないとあるから、筆者はここも彼らの謂いの時制上のそうした特異性を出そうとしたものかも知れない。しかしやはり続く描写の人影もない荒涼感からは、ここは素直に例えば『イニシマーンにはアイルランド語を習いに来た人が幾人か滞在していたそうで、男の子は、その人たちが住んでいたという島の中央に円く藁の帯の様に並んでいる小屋の列を指した。しかし、そこは殆んど人の住めそうな処とは思えなかった。……』とシンプルに続けて読みたくなるところである。「孔雀齒朶」“maidenhair ferns”シダ植物門シダ目ホウライシダ科ホウライシダ属ホウライシダAdiantum capillus-veneris 若しくはクジャクシダAdiantum pedatum かその近縁種と思われる。一応、現在の“maidenhair ferns”は正式には前者の英名である(但し、植生域からはこれに同定するのはやや疑問か)。この属の種には現在でも観葉植物として高い価値を持つものが多い。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(1)

  第 一 部

 私はアランモア〔アランの三島中最北に位する島〕にゐる。泥炭の火にあたり、部屋の下の小さな酒場から聞こえて來るゲール語の話し聲に耳傾けながら。
 アランに來る汽船は潮時を見てやつて來る。私たちが深い霧に蔽はれたゴルウェーの波止場を見捨てたのは今朝六時であつた。
 最初は右の方、波と霧の動く間に低い丘の連りが見えてゐたが、行くに從つてその影もなくなり、ただ索具にまつはる霧と小さな泡の渦卷のほか何も見えなくなつてしまつた。
 乗客は少かつた。袋の中にゆるく小豚を縛りつけてやつて來た二人の男。首をすつぽりと襟卷に包んで船室に坐つてゐた三四人の少女。キルロナンの波止場を修繕に行く一人の大工、此の人は歩きまはつたり、私と話をしたりした。
 三時間ばかりすると、アランが見え出した。先づ最初に荒涼たる岩が霧の中に海から盛り立つて現はれ、それから近づくに從つて、水上警察署や村が現はれて來た。
 それから少し後、私は島の立派な道路に沿うて、両側の低い石垣越しに裸岩の僅かな平い畑地をのぞき込みながら歩いてゐた。私はこんな荒涼たる樣をかつて見たことがなかつた。灰色の水の溢れは、到る所で石灰岩の上を洗つて、時時道を激湍となしてゐた。それは、絶えず低い丘や岩の凹みの上をうねうねしたり、或ひは馬鈴薯畑や草原の間を通つて、隠れ場となつた隅の方へ失せ去つてゐた。雲が霽れる度ごとに、右手の下の方には海の端が見え、左手には高く島の裸かの隆起が見えた。たまに淋しい禮拜堂や學校の前を通つたり、また上に十字架がついて、祀つてある人の靈魂のために祈りをしてくれと銘を彫つてある石柱の列の前を通つたりもした。
 人にはあまり逢はなかつた。ただ時時、キルロナンへ行く背の高い娘たちの群が通り過ぎて、樂しさうないぶかりの気持で私に呼びかけて、ゴルウェーの訛とはかなり違つた聞き馴れぬ抑揚の英語を話した。雨も寒さも物ともせず、彼女たちは元氣に笑ひ、ゲール語で大いにしやべりながら、私の傍を騒け過ぎて行き、濡れた岩の群を前より一層荒涼たらしめた。
 正午少し過ぎて歸つて來る途中、一人の半盲の老人が私にゲール語で話しかけたが、大體からいつて、私はその方言の夥多と流暢に驚いた。
 午後も雨が降り續いたので、私は此の宿にゐて、霧の中を數人の男がコニマラ〔愛蘭土本島、ゴルウェー州にある町〕から泥炭を積んで來た(フツカー)〔愛蘭土及びイギリス西南岸で用ひられる一本マストの漁船〕から荷を下ろしてゐるのを眺めたり、脚長豚が波間に遊んでゐるのを眺めたりしてゐた。部屋の下の酒場から漁夫が出入りする度に、壞れた窓ガラスから彼等の多くが今でも使つてゐるゲール語が聞こえて來た。尤もゲール語は此の村の若い人たちの間で、次第に使はれなくなつたやうだが。
 宿の婆さんが會話の教師を見付けてくれると約束してあつたが、少したつと、階段の上に足を引き摺る音がして、今朝話しかけた半盲の老人が部屋の中へ手探りではひつて來た。
 彼を爐の所まで連れて行き、私たちは何時間も話した。彼はピートリもサー・ウィリアム・ワイルドも、その他現代の考古學者を知つてゐると云つた。それから、フィンク博士やペダーソン博士に愛蘭土語を教へた事もあれば、アメリカのカーティン氏に昔話を聞かした事もあると云つた。中年を少し過ぎて彼は崖から落ち、その時以來視力を失ひ、手や首が震へるやうになつたのであつた。
 話してゐる時に、彼は火の上にのしかかり、震へながら目をつぶつてゐるが、顏は云ふに云はれぬやさしみがあつて、機智や惡意のこもつた話をする時は愉快の絶頂に達して輝き出し、宗教や妖精の事を話す時は暗く淋しくなつてしまつた。
 彼は自分の力量と才能にも、自分の話す話が世界中のどの話よりもすぐれてゐることにも大きな自信を持つてゐた。話がカーティン氏の事になつた時、その人はアメリカでアランの物語を本にして、それを賣つて五百ポンド儲けたと云つた。
 「それから、どうしたと思いますか?」彼は續けた。「私の話でうんと金を儲けた後、今度は自分で話を作つて本を書いた。そしてそれを出したのですが、半ペンスだつて儲かりませんや。どうです?」
 その後、彼は一人の子供が妖精にとられた話をした。
 或る日、近所の女が通つてゐた。道ばたで彼女が其奴を見た時、「まあ綺麗な子供」と云つた。
 その子の母親が、「神さまお惠みください」と云はうとすると、聲が喉につかへて出なかつた。少したつてその子供の頸に傷のあるのに氣づいた。三日三晩、家の中が騒がしかつた。
 「私は夜分シャツを着ないのです。」と彼は云つた。「でも家の騒ぎを聞くと、裸か同然で床から飛び起きて、燈(あかり)つけたが、なんにもありませんでした。」
 すると一人の啞がやつて棺に釘を打ちつける手眞似をした。
 次の日は種芋に花が一杯咲いて、子供は母親にアメリカへ行くと云つた。
 その晩子供は死んだ。「全くですよ、妖精に取られたのです。」と老人は云つた。
 彼が歸つて行くと、小さい跣足の女の子が泥炭と火を起す鞴(ふいご)を持つて來た。その火は夜ぢう保(も)つた。
 その女の子ははにかみやあつたが、話し好きで、立派な愛蘭土語が話せるとか、學校で愛蘭土語を教はつてゐるとか、此處では大人の女でも本土に足を踏み入れたことのない者が澤山あるのに、自分はゴルウェーに二度も行つたことがあるとか話した。


Part I

I AM IN Aranmor, sitting over a turf fire, listening to a murmur of Gaelic that is rising from a little public-house under my room.
The steamer which comes to Aran sails according to the tide, and it was six o'clock this morning when we left the quay of Galway in a dense shroud of mist.
A low line of shore was visible at first on the right between the movement of the waves and fog, but when we came further it was lost sight of, and nothing could be seen but the mist curling in the rigging, and a small circle of foam.
There were few passengers; a couple of men going out with young pigs tied loosely in sacking, three or four young girls who sat in the cabin with their heads completely twisted in their shawls, and a builder, on his way to repair the pier at Kilronan, who walked up and down and talked with me.
In about three hours Aran came in sight. A dreary rock appeared at first sloping up from the sea into the fog; then, as we drew nearer, a coast-guard station and the village.
A little later I was wandering out along the one good roadway of the island, looking over low walls on either side into small flat fields of naked rock. I have seen nothing so desolate. Grey floods of water were sweeping everywhere upon the limestone, making at limes a wild torrent of the road, which twined continually over low hills and cavities in the rock or passed between a few small fields of potatoes or grass hidden away in corners that had shelter. Whenever the cloud lifted I could see the edge of the sea below me on the right, and the naked ridge of the island above me on the other side. Occasionally I passed a lonely chapel or schoolhouse, or a line of stone pillars with crosses above them and inscriptions asking a prayer for the soul of the person they commemorated.
I met few people; but here and there a band of tall girls passed me on their way to Kilronan, and called out to me with humorous wonder, speaking English with a slight foreign intonation that differed a good deal from the brogue of Galway. The rain and cold seemed to have no influence on their vitality and as they hurried past me with eager laughter and great talking in Gaelic, they left the wet masses of rock more desolate than before.
A little after midday when I was coming back one old half-blind man spoke to me in Gaelic, but, in general, I was surprised at the abundance and fluency of the foreign tongue.
In the afternoon the rain continued, so I sat here in the inn looking out through the mist at a few men who were unlading hookers that had come in with turf from Connemara, and at the long-legged pigs that were playing in the surf. As the fishermen came in and out of the public-house underneath my room, I could hear through the broken panes that a number of them still used the Gaelic, though it seems to be falling out of use among the younger people of this village.
The old woman of the house had promised to get me a teacher of the language, and after a while I heard a shuffling on the stairs, and the old dark man I had spoken to in the morning groped his way into the room.
I brought him over to the fire, and we talked for many hours. He told me that he had known Petrie and Sir William Wilde, and many living antiquarians, and had taught Irish to Dr. Finck and Dr. Pedersen, and given stories to Mr. Curtin of America. A little after middle age he had fallen over a cliff, and since then he had had little eyesight, and a trembling of his hands and head.
As we talked he sat huddled together over the fire, shaking and blind, yet his face was indescribably pliant, lighting up with an ecstasy of humour when he told me anything that had a point of wit or malice, and growing sombre and desolate again when he spoke of religion or the fairies.
He had great confidence in his own powers and talent, and in the superiority of his stories over all other stories in the world. When we were speaking of Mr. Curtin, he told me that this gentleman had brought out a volume of his Aran stories in America, and made five hundred pounds by the sale of them.
'And what do you think he did then?' he continued; 'he wrote a book of his own stories after making that lot of money with mine. And he brought them out, and the divil a half-penny did he get for them. Would you believe that?'
Afterwards he told me how one of his children had been taken by the fairies.
One day a neighbor was passing, and she said, when she saw it on the road, 'That's a fine child.'
Its mother tried to say 'God bless it,' but something choked the words in her throat.
A while later they found a wound on its neck, and for three nights the house was filled with noises.
'I never wear a shirt at night,' he said, 'but I got up out of my bed, all naked as I was, when I heard the noises in the house, and lighted a light, but there was nothing in it.'
Then a dummy came and made signs of hammering nails in a coffin. The next day the seed potatoes were full of blood, and the child told his mother that he was going to America.
That night it died, and 'Believe me,' said the old man, 'the fairies were in it.'
When he went away, a little bare-footed girl was sent up with turf and the bellows to make a fire that would last for the evening.
She was shy, yet eager to talk, and told me that she had good spoken Irish, and was learning to read it in the school, and that she had been twice to Galway, though there are many grown women in the place who have never set a foot upon the mainland.

[やぶちゃん注:「脚長豚」原文“long-legged pigs”はそういう豚の品種ではないと思われる。所謂、子ブタや若い豚ではなく、親豚のことであろう。「彼は一人の子供が妖精にとられた話をした。」ちょっとわかりにくいが、後のシャツの附言部分から、以下の、妖精に攫われた子供というのはこの話し手の老人の子であり、この「母親」とは彼の妻であることが分かる。]

書き初め 新編鎌倉志卷之七 和賀江島 小坪村――マッチョな朝比奈義秀、カッコエエなあ!

書き初めの「新編鎌倉志卷之七」は和賀江島と小坪村。小坪村では僕の大好きな朝比奈義秀の、鮫獲りと相撲のシーンを「吾妻鏡」から引用した。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二十四日附句稿百五十八句より(6) 祕して言はずわがクローバーの四つの葉

 祕して言はずわがクローバーの四つの葉

 花言葉では通常の三つ葉のクローバーの一枚の葉には「希望」「信仰」「愛情」の意味があるとされ、特に四つ葉のクローバーには人口に膾炙するように「幸福」の意が込められる。川村氏は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の三五三~三五四頁で、この句を特に取り上げてしづ子の謎に迫っておられる。詳細は当該書をお読み戴きたいが、元『樹海』同人であった矢澤尾上(おのえ)氏は、その評論「俳人・鈴木しづ子――その知られざる生涯と作品」(『俳句研究』昭和六十二(一九八七)年八月号)で、自身が『指環』特装本限定三十部の第一冊を所蔵していること、それがもと巨湫の所蔵本であったこと、氏に巨湫から形見として渡されたこと、そして、その見返しには『この一冊はしづ子さんの所有だったのです。「まがふなし」もしづ子さんのもとめにより私がかきました』という添え書きがなされていることなどを述べられている(「まがふなし」は『樹海』昭和二十五(一九五〇)年十一月号に載った、しづ子の「明星に思ひ返へせどまごふなし」を指す)。ところが、その巨湫遺愛の『指環』には、『デパートの包紙で丁寧に上覆いされている』『四ツ葉のクローバーがはさ』み込まれてある、とある。川村氏はこの事実と本句から、しづ子自殺説への否定的見解を展開されている。氏は『この<クローバー>の句には、大きな謎が隠されている。直訳すれば、しづ子は巨湫に、この<四つの葉>に託した意味を、<秘して言はず>に別れていることになる』と語られる。そしてクローバーの花言葉を示し、普通に考えるならば、しづ子は『これらの花言葉総ての願いを巨湫に託した』、それは言わずもがなのはずの『師巨湫への愛』だとするならば、しかし『であれば彼女は何も巨湫に対して秘密にすることはない』はずである。だのに敢えてここで「祕して言はず」と詠んだのは何故か? 川村氏は言う。ここには言わずもがなではない、『そうではない二人だけの暗黙の何かが』潜ませてあり、それは正に『しづ子自身に向けての思いではなかったのか。その意味を知っているからこそ、巨湫はこの四つ葉を大切に保管していたのではなかろうか』。そこから更に氏は花言葉の「信仰」に着目、しづ子の失踪の彼方に、尼僧となったしづ子の姿を措定されておられる。その当否は当該書をお読みになったあなたが判断されたいが、私もしづ子は自殺していないという立場に立つ点に於いて、川村氏に同感であり、この句の孕んだ「希望」の秘密が、一本の葦として私自身にも強く意識されるのである。
――「希望」「信仰」「愛情」そして「幸福」――
――昨年の秋、私はアリスを散歩させながら、必死になって四つ葉のクローバーを探した――そうして見つけたそれを病床の母に贈った――母は最期の日まで――病床に押し花にしたそれを飾っていた……

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二十四日附句稿百五十八句より(5) 鐵臭や故郷はとほき春の雷

 鐵臭や故郷はとほき春の雷

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二十四日附句稿百五十八句より(4) 動物詠九句

 金魚の屍迅き流れの川に葬る

 近よれば幼き貌の冷やし馬

 絶望にも徹し切れざる飛燕かな

 蛇にして全身をもて遁れゆけり

 跼み癖つねに地上の蟻殺す

 蝙蝠を見し夜不吉に爪を切る

 我が苦惱馬臭はげしき炎天下

 炎晝の鳩降り下る石疊

 蟬鳴く中見せ物小舍の紙はためき

 「跼み癖」は「かがみぐせ」と読む。これらはしづ子の好むクロース・アップ手法がどれも効果的に利いた佳品である。特に私は「蛇にして全身をもて遁れゆけり」の厳しい描写力と無駄のない語彙選びに打たれる。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二十四日附句稿百五十八句より(3) 二句

 炎天下鐵條網の端し崩れ

 炎天下首輪くひこむ犬の首

 これはもう遙かに森山大道に先んじている。

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二十四日附句稿百五十八句より(2) 螢三句

 その一つ吾に近づく螢の火

 螢火のあまたの中に佇ちつくす

 螢火の失せしを探す母戀ふ如

鈴木しづ子 三十三歳 昭和二十七(一九五二)年七月二十四日附句稿百五十八句より(1) 迎え火二句

 迎え火のほむらをかばふ掌の圍ひ

 迎え火の燃えて盡きしにかがまれる

 「迎え火」の「え」はママ。私は昨夏、初めて母の迎え火をした。このしづ子の姿は私自身である。

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」 緒言

アラン島

    緒  言

 アラン島の地理は甚だ簡單であるが、これに就き一言する必要があらう。それは三つの島から成る。即ち、アランモア、北の島、長さ約九哩。次に、イニシマーン、中央の島、さしわたし約三哩半、形はほぼ圓形。さうして南の畠なるイニシール――愛蘭土語で東の島の意――は中央の島に似てゐるが、稍々小さい。それ等はゴルウェーから約三十哩離れ、その灣の中央に横はる。併し南方では、クレア郡の斷崖から、また北方では、コニマラの一角から程遠くはない。
 アランモアの主要村キルロナンは繁華區域役所〔愛蘭土に於いて一八一九年移民に依つて起る借地問題を解決するために創設された役所〕に依つて發展した漁業のために大いに變革が行はれ、今では愛蘭土西岸の漁村と大した差違がなくなつてゐる。他の二島はそれより原始的であるが、其處にも變革は行はれつつある。併し本文中ではそれに就いて論及するほどの必要は感じられなかつた。
 以下のページで、私は此の群島に於ける私の生活と、私の遭遇した事柄のありのままを述べ、何物をも創作せず、また本質的なものは何物をも變更しないで置いた。併し、私の語る人人に就いては、その名前を變へたり、引用した手紙を變へたり、また地理的・家族例の關係を變更したりして、成るべくその實體を現はさないやうにした。私は、全然彼等のためにならないやうな事は云はなかつたが、それでも斯く假装を施したのは、彼等の厚意や友情を餘りに露骨に取扱つたといふ感じを假初(かりそめ)にも彼等に懷かせないためである。彼等の厚意や友情に對して、私は口では云ひ盡せないほどに感謝してゐるのではあるが。

     Author's Forword

The geography of the Aran Islands is very simple, yet it may need a word to itself. There are three islands: Aranmor, the north island, about nine miles long; Inishmaan, the middle island, about three miles and a half across, and nearly round in form; and the south island, Inishere--in Irish, east island,--like the middle island but slightly smaller. They lie about thirty miles from Galway, up the centre of the bay, but they are not far from the cliffs of County Clare, on the south, or the corner of Connemara on the north.
Kilronan, the principal village on Aranmor, has been so much changed by the fishing industry, developed there by the Congested Districts Board, that it has now very little to distinguish it from any fishing village on the west coast of Ireland. The other islands are more primitive, but even on them many changes are being made, that it was not worth while to deal with in the text.
In the pages that follow I have given a direct account of my life on the islands, and of what I met with among them, inventing nothing, and changing nothing that is essential. As far as possible, however, I have disguised the identity of the people I speak of, by making changes in their names, and in the letters I quote, and by altering some local and family relationships. I have had nothing to say about them that was not wholly in their favour, but I have made this disguise to keep them from ever feeling that a too direct use had been made of their kindness, and friendship, for which I am more grateful than it is easy to say.

[やぶちゃん注:「繁華區域役所〔愛蘭土に於いて一八一九年移民に依つて起る借地問題を解決するために創設された役所〕」とあるが、この姉崎氏の割注の「一八一九年」は「一八九一年」の誤植であろう。原文“Congested Districts Board”は正確には“Congested Districts Board for Ireland”で、これは時のソールズベリー内閣のスコットランド長官であった保守党政治家アーサー・バルフォア(1848~1930)の肝煎りで創設された一種の社会改良団体で、アイルランドの貧困層の特に婦人の雇用促進などを図ったもの(後に首相となるが、彼はアイルランド自治権拡大要求には反対であった)。ネット上では「アイルランド密集地区委員会」などと訳されている。貧困地域を対象としたシステムであるから「繁華」という訳語は違和感がある。]

宇野浩二 芥川龍之介 「まえがき」及び「一」 附やぶちゃん冒頭注

芥州龍之介   宇野浩二

[やぶちゃん注:芥川龍之介の盟友宇野浩二の渾身の大作「芥川龍之介」は昭和二十六(一九五一)年九月から同二十七(一九五二)年十一月までの『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載され、後に手を加えて同二十八年五月に文藝春秋新社から刊行された。底本は中央公論社昭和五十(一九七五)年刊の文庫版上・下巻を用いた。ブログ版では読みは〔 〕で当該字の後に示したが、拗音の同ポイントについては私の判断で小文字を採用している。本文中の割注のような( )によるポイント落ちの筆者の解説が入るのは、[ ]で同ポイントで示した。当初はこれは筆者とは別な編集者が挿入した疑いを持ったが、幾つかの箇所から筆者でなければ書けない内容であることが分かったので、省略しなかった。後日、私のオリジナルな注も附す予定である。]

芥川龍之介
  ――思い出すままに――

     まえがき

 芥川龍之介――と、こういう、ものものしい、題をつけたが、この文章は、芥川龍之介のことを、思い出すままに、述べるつもりで、書くのであるから、これまでに私が芥川について書いた文章と重複するところがかなりある、(いや、重複するところばかり、)というようなものになるにちがいない。
 この事を、まず、はじめに、おことわりしておく。
 それから、この文章は、もとより、評伝でも評論でもなく、私が芥川とつきあった短かい間〔あいだ〕の、私が、見、聞き、知った、芥川について、その思い出を、主として、書きたい、と思っているのであり、そうして、その思い出も、わざとノオトなどをとらないで、おもいだすままに、あれ、これ、と書つづる、というような方法をとりたい、と思うので、思い出すままに述べる事柄の年月〔としつき〕があとさきになったり、それぞれの話がとりとめのないものになったり、するにちがいない。
 こういう事も、ついでに、おことわりしておく。
 それから、このような、はかない、あてどのない、とおい昔の事を、たよりない記憶で、書くのであるから、これから、たどたどと述べてゆくうちに、つぎつぎと出てくる事柄に、思いちがいやまちがいが多くある事、名を出す人たちに、とんでもない事やまちがった事を書いたために、すくなからぬ御迷惑をかけるかもしれないことを、(かけるにちがいないことを、)前もって、おことわりし、おわびを申しあげておく。
 それから、最後に、これから述べようとする事は、もとより、私のはかない記憶をたどりながら書くのであるから、まずしい頭〔あたま〕からくりだす、あやふやな思い出が、なくなってしまったら、おわらねばならぬ事を、おことわりしておく。

 さて、今日(七月二十三日)は、亡友、葛西善蔵の祥月命日であり、明日〔あす〕(七月二十四日)は、亡友、芥川龍之介の祥月命日である。葛西は、昭和三年七月二十三日、東京府下世田ケ谷町三宿〔みしゅく〕の寓居で、この世を去り、芥川は、昭和二年七月二十日、東京市外滝野川田端の自宅で、この世を捨てた。――こう書く私は、文字どおり、感慨無量である。

 葛西は、芥川の『歯車』をよんで、「芥川ははじめて小説らしい小説をかいた、」といったが、(といって、葛西が、芥川の『歯車』以前の小説を、どのくらい読んでいたかは、わからないけれど、)芥川は、志賀直哉の作品は別として、葛西の小説はかなり認〔みと〕めていた。

     一

 私は、芥川を思い出すと、いつも、やさしい人であった、深切な人であった、しみじみした人であった、いとしい人であった、さびしい人であった、と、ただ、それだけが、頭〔あたま〕に、うかんでくるのである。それで、私には、芥川は、なつかしい気がするのである、時〔とき〕には、なつかしくてたまらない気がするのである。

 私が芥川と一しょに旅行したのはただ二度である。ところが、その二度とも大阪に行ったことをはっきり覚えていながら、大正九年の十一月の下旬に、直木三十五にさそわれて、里見、久米、菊池、その他と、大阪まで行き、それから、芥川と二人で、京都から、名古屋にまわり、諏訪に行った時の事は、よく、(些細の事まで、)おぼえているのに、もう一つの旅(二度目の旅)の思い出は、ただ、芥川と一しょに大阪に行った、という程〔ほど〕の記憶しかないのである。
 ただ、『二度目』という記憶があるのは、(といって、うろおぼえではあるが、)たしか、大正十三年の二月の中頃であったか、ある日、芥川が、私の家に、あそびに、(というより、はなしに、)来たとき、なにかの話〔はなし〕がとぎれた時、とつぜん、「……大阪イ一しょに行かないか、ぼく……」と、いった。そこで、私が、ちょっと考えてから、「ゆきたいけれど、……金がないから、……」というと、芥川は、すぐ、「金なら、心配は、いらないよ、」といいながら、あの、目尻に、二三本〔ぼん〕のしわをよせ、目にたつところに大きな歯が一本〔ぽん〕かけている少し大きな口を細目〔ほそめ〕にひらいて笑う、独得の、おどけたような、あかるい、笑い方をした。
 それだけで私は、すく「そんなら、行こう、」と、約束をした。
 今、その時の事をおもうと、(これも、また、まちがっているかもしれないが、)その時、芥川は、たしか、支那に行くことになっていて、それを、紀行文に、書く条件で、たのまれた、大阪毎日新聞社の、(その頃、学芸部長であった、)薄田泣菫にあうために、大阪にゆく用事があったので、私を、その『道づれ』にえらんだのである。それから、金の心配はいらない、といったのは、泣菫に、支那ゆきのうちあわせに行ったついでに、前借をたのんで、相当の金をうけとるつもりであったのだ。

 薄田泣菫といえば、私が、若年の頃、(十七八歳の時分に、)愛読した、第一詩集『暮笛集』の巻頭の、『詩のなやみ』の最初の、
 遅日〔ちじつ〕巷〔ちまた〕の塵〔ちり〕にゆき
 力〔ちから〕ある句〔く〕にくるしみぬ
 詩〔し〕はわたつみの真珠狩〔しんじゅがり〕
というのを、今でも、暗記しているほど、私の、青春の、あこがれの、詩人である。
 これは、私〔わたくし〕ばかりではない。ある時、ある会で、辰野 隆と久保田万太郎のちかくの席にすわった時、私が、なにかの話のきれめに、ふと、泣菫の詩のことを、述べると、その話がおわらぬうちに、辰野が、あの有名な『公孫樹下〔こうそんじゅか〕にたちて』のはじめの、
 ああ日〔ひ〕は彼方〔かなた〕、伊太利〔イタリア〕の
 七〔なな〕つの丘の古跡〔ふるあと〕や、
  円〔まろ〕き柱に照りはえて、
  石床〔いしゆか〕しろき回廊〔わたどの〕の
と、癖〔くせ〕の、口を長方形にひらき、目をランランとかがやかせながら、情熱をこめ、唾をとばしながら、朗誦しはじめた。(私は、その辰野の姿を見ながら、その辰野の朗誦を聞きながら、ひそかに、涙をながさんばかりに、感激した。ああ、論をすれば、しばしば、はげしい敵になる、辰野よ、……と、これを書きながら、私は、また、感激を、あらたにするのである。)
 ところが、辰野が、
  きざはし狭〔せば〕に居〔ゐ〕ぐらせる……
と、つづけているのに、いきなり、久保田が、そばから、ひきとるように、
  青地〔あをぢ〕襤褸〔つづれ〕の乞食〔かたゐ〕らが、
  月〔つき〕を経〔へ〕て来〔こ〕む降誕祭〔クリスマス〕
  市〔いち〕の施物〔せもつ〕を夢みつつ……
と、肩をゆすりながら、鼻の穴をふくらませながら、夢中〔むちゅう〕になって、朗誦しはじめた。すると、辰野が、また、……と、書きつづければ、はてしがないのである。
 そのうちに、辰野と久保田が合唱しだした。ここらで、私も、夢中になって、
  ここ美作〔みまさか〕の高原〔たかはら〕や、
  国のさかひの那義山〔なぎせん〕の
  谿〔たに〕にこもれる初嵐〔はつあらし〕
  ひと日〔ひ〕高〔たか〕みの朝戸出〔あさとで〕に、
  遠〔とほ〕く銀杏〔いてふ〕のかげを見て……
と、やりたいところであるが、遺憾なるかな、私には、胸にあまる感激だけがあって、声に出せないのである。

 さて、芥川と私は、大阪につくと、すく毎日新聞社に、薄田泣菫をたずねた。
 私は大正九年の秋の頃、東京日日新聞と大阪毎日新聞の夕刊に、『高い山から』という中篇小説を連載し、大正十年の春の頃やはり、東京日日新聞と大阪毎日新聞の夕刊に、『恋愛三昧』[『恋愛合戦』という長編小説の下巻になる]を連載したとき、泣菫から、しばしば、依頼や催促の手紙をもらったこともあるので、その挨拶をかねても、泣菫に、あいたかったからである。
 ところが、私が泣菫にはじめて逢って、いきなり、うけた印象は、こちらからお辞儀をしても、ただ、目をパチクリさせて、上半身を前にちょっとかたむけただけで、わずかな時間であったが、はじめからしまいまで、端然とした形〔かたち〕をほとんどくずさなかったので、実に行儀ただしい人のように見えた事である。それで、毎日新聞社を出てから、すぐ芥川に、その事を、いうと、芥川は、いつも、いたずらをしたり、皮肉をいったり、する時に、してみせる、笑い顔をしながら、「きみ、知らなかったのか、…あれは、脊椎カリエスで、ギプスを、はめているからだよ、名づけて、『維摩端然居士』というのだ、」と、くすッ、と聞こえる、笑い声を、たてた。
 ところで、この時の芥川との旅行は、たぶん、大阪だけで、一と晩ぐらい、とまって、帰京した、(と思う。)

 さて、私が芥川と一緒に最初に旅行した時の話は、すでに、二三度〔ど〕書いたが、こんど、これから、書いてみたいのは、前に書かなかった、(というより、書けなかった、)いろいろさまざまの事どもである。
 ところで、それを述べるには、読む人たちが退屈しイヤになる以上に、書く私もイヤでたまらないのであるが、重複するのを承知で、前に二三度も書いたことを、くりかえし、書かねば、話の筋がとおらない。それで、イヤでたまらないのを辛抱しながら、これから、はじめることにしよう。
 さて、その時、私たちが、(その時は、直木のほかに、芥川、菊池、田中 純、私、の四人が、)東京駅から、午後六時の汽車で、立ったのを、大正九年の十一月十九日、とすると二十日の夜は、大阪の堀江の茶屋に、とまり、二十一日の晩は、芥川と私と久米は、生駒〔いこま〕山麓の妙な茶屋に、とまり、二十二日の夜は、芥川と私は、京都の鴨川の岸の珍〔ちん〕な茶屋にとまり、二十三日の晩は、芥川と私は、下諏訪の宿屋に、とまった、という事になる。それから、里見と久米は、二十日の午後十二時頃に東京駅を出る汽車に、のりこんだ。
 ところで、二十一日の朝の五時ごろに、私たちは、京都で、おりた。大阪に行く筈であるのを、京都でおりたのは、直木が、だまって、汽車をおりたからである。これは、田中をのぞいて、芥川も、菊池も、私も、この旅行に出る三日まえに、直木(その時分は植村宋一)を、はじめて、知ったので、それに、その時の旅行は一さい直木まかせであったから、その時の行動は、かりに、私たちを羊とすれば、直木は、羊たちをみちびく、羊犬(つまり、シイプ・ドッグ)であった。
 それで、ふかい霧のたちこめている、早朝の、京都の町を、七条の駅の前から、三十三間堂のそばを通〔とお〕って、東山〔ひがしやま〕のほうへ、黙黙〔もくもく〕として、あるいて行く直木のあとから、芥川も、菊池も、私も、ほとんど無言で、あるいた。
 やがて、東山公園の『わらんぢや』に、はいった。『わらんぢや』は、大根の「ふろふき」[大根をゆでて、そのあつい間に、味噌をつけてたべるもの]を名物とする家であるが、かえってそれがゲテのうまさがあるのと、たしか、早朝だけ開業しているのとで、名代〔なだい〕の家である。その『わらんぢや』で食事をするあいだも、『わらんぢや』を出てからも、直木は、やはり、一〔ひ〕と言〔こと〕も、口を、きかなかった。(口をきかない、といえば、これも、前に、書いたことがあるが、東京駅の二等待合室で、芥川と顔をあわした時、両方がはじめて口をきいたのは、「君は、植村を、知ってるの、」「いや、こないだ、たのみにきた時、はじめてだ、」という言葉であった。それから、汽車のなかで、寝台車の中の喫煙室に通じるほそい廊下で、芥川とゆきあった時、芥川が、「きみ、植村って、こっちから、話しをしたら、ものをいうよ、」と、いった。それだけである。)
 さて、『わらんぢや』を出てからも、直木は、やはり、だまって、あるきつづけた。やがて、知恩院のそばも通り、南禅寺の門の前もすぎた。「ものはいわないけど、植村は、実に足の達者〔たっしゃ〕な男だね、」と、芥川が、いった。そのうちに、聖護院〔しょうごいん〕の前をとおり、それから、寺町の通りに出て、しばらくあるいたところで鎰屋〔かぎや〕の二階にあがった。(鎰屋は、ずっと後に、梶井基次郎が、名作『檸檬〔れもん〕』のなかにも、書いているように、その頃の京都にしばらくでも滞在した人には、おくゆかしい、なつかしい、喫茶店である。)しかし、鎰屋の二階にあがって、一服した時は、私たちは、へとへとになり、みな、いくらか、不機嫌になって、口をきく元気〔げんき〕さえ、なくなった。
 ところが、直木は、ひとり、平気な顔をして、鎰屋を出ると、また、さっさと、あるきだした。私たちは、足をひきずりながら、直木のあとに、つづいた。直木は、私たちが、一二歩おくれてあるいていても、一間〔けん〕ぐらいはなれてあるいていても、すこしもかまわずに、おなじあるき方〔かた〕であるいていた。やがて、あの古風な七条の停車場の建〔た〕て物〔もの〕が、見えだした時、芥川が、例の鼻声のような低い声で、
 「……今日〔きょう〕は、二里ちかく、あるかされたね。……きみ、植村という男は、一種〔しゅ〕の不死身〔ふじみ〕だね、」
  すると、その時、突然、私たちより半間〔はんげん〕ぐらいおくれて、のろのろと、あるいてくる、菊池が、「……ぼくは、腹がすいた……」と、もちまえのカン高〔だか〕い声で、(ちょっと情なさそうに聞こえる声で、)いった。
「こういう時に、空腹をうったえる菊池ひろしは、きみ、一種の猛者〔もさ〕だね、」と芥川が私に、云った。
(芥川は、私の記憶では、『キクチ』と姓〔せい〕だけを、云う時のほかは、かならず『キクチ・ヒロシ』と、いった、これが、本当の読〔よ〕み方〔かた〕である、と、いわんばかりに。)

 京都駅で、大阪に行くために、私たちが汽車にのったのは、午前十時頃であった。
 京都から大阪までのあいだの二等車のなかは閑散であった。その時分の二等車は、今〔いま〕の都電や省線の電車のように、車の両側に座席がついていて、その座席もふかくクッションもやわらかく、座席と座席のあいだの通路もひろかった。
 さて、汽車の中〔なか〕がすいていたので、私たち五人の連中〔れんぢゅう〕は、すこしずつはなれて、腰をかけた。私たちが腰かけたのは河内〔かわち〕の国のほうの側〔かわ〕であったが、その反対の側には、汽車のすすんで行く方〔ほう〕の隅〔すみ〕に、市村羽左衛門[十五世羽左衛門]と五十あまりの女が、席を、しめ、反対の隅〔すみ〕のほうに近い席に、『くろうと』らしい女が二人つつましく、腰を、かけていた。
「……汽車にのる前に、ぼくは見たんだが、羽左衛門は、まだ五十前だろうが、顔ぜんたい縮緬皺〔ちりめんじわ〕だね、あれは、白粉〔おしろい〕のせいだよ、」と私がいうと、
「色の黒いのも、白粉のせいだよ、」と芥川がいった。
 その時、ふと、見ると、羽左衛門も、そのつれの女も、座席の上にすわって、窓の外〔そと〕をながめながら、なにか、しきりに話しあっていた。
「……あのつれの女は、細君じゃないね、」と私が云うと、
「林家〔はやしや〕のおかみだよ、」と芥川がいった。
「きみは、妙なことまで、知ってるね。……ところで、こっちの隅にいる女は、芸者だろうが、ちょいとキレイだね。」
「君はじつに目〔め〕がはやいね。」
「そういう君は、僕より早く見ていたかもしれないから、どっちが早いか、わからないよ。」
 私たちがこういうくだらない話をしていた時、(いや、その前から、)座席のほとんどまん中〔なか〕へんに腰をかけていた、菊池は、直木が、いつのまにか、どこかで、買ってきた、パンやかき餅〔もち〕を、ムシャムシャと、たべていた。が、それから、いつのまにか、座席の上〔うえ〕に、横になり、腕枕をして、寝てしまった。
 こちらから見ると、足をのばして寝ている、菊池のむこう側〔がわ〕に、田中が本をよんだり目をつぶったりしている、その田中のむこうに、(座席の隅〔すみ〕にちかい方で、)直木が、京都から大阪まで、一時間あまりのあいだ、腕ぐみをしたまま、端然と、腰をかけていた。

 やがて、大阪駅につき、改札口を出たところで、直木が、自動車をよんだので、私たちは、すぐ、自動車にのった。(まだ自動車のめずらしい項であった。)その自動車で、私たちは、堀江の茶屋に、案内された。(堀江は、大阪の島之内にあるが、土地が不便なところで、色町としては二流であるけれど、義太夫の巧みな芸者がいるので、知られていた。その義太夫のできる芸者を太芸者〔ふとげいしゃ〕といった。これは、義太夫の三味線は太棹〔ふとざお〕[棹のふといこと。それで、普通の三味線を『ほそ』という]であることから因〔ちな〕んだものである。)
 さて、私たちがその堀江の茶屋についたとき、里見と久米が、そこに来ていたか、あとから来たか、――その記憶がまったくない。ただ、その日の夕方に、中之島の公会堂で、もよおされた、文芸講演会に、里見も、久米も、出なかった事を、はっきり、おぼえている。そうして、その講演会も、菊池が、『文芸と人生』という題で、田中が、ツルゲエネフについて、直木が、たしか、『ロシアの前衛作家』という題で、主として、ロオブシンについて、講演したことを、おぼえているだけで、芥川がどういう講演をしたかは、ほとんど覚えていないのである。と、書いたが、今、ふと、思い出したが、芥川は、会場の裏のほうの講演者の控室〔ひかえしつ〕のなかで、「……僕は、準備もなにもしていないから、『偶感』という題にしてください、」といった。さて、芥川は、演壇にのぼると、四五日前までは、名前も知らなかった、人も知らなかった、植村宋一という人間に、ふらふらと、大阪三界まで、つれてこられ、その上〔うえ〕、このような演壇に、さらし者にされた、……「もっとも、『晒〔さら〕し者〔もの〕』といっても、晒しの刑に処せられた罪人などではありません、」と、いって、芥川は、横むきに、あるきだした、『どうです、ちょいと、おもしろいでしょう、』と、いわんばかりに。それから、もう一つ前おきの話をしてから、芥川は、「諸君は、漱石先生の『トリストラム・シャソデエ』という文章を、読んだことがありましょう、……なかったら、うちに帰って、読んでください、」というような事を、いってから、「その『トリストラム・シャンデエ』というのは、英国の十八世紀の中頃に、ロオレンス・スタアンという『坊さん』の作〔つく〕った、大長篇小説の題名であるが、この小説は、型やぶりで、奔放で、無軌道で、……作家が人をくっているようなところは、(「今晩、この公会堂の講演者の控室まで来ていながら、講演に出ない、宇野浩二先生と、ちょいと似ていますが、」)この小説(『トリストラム・シャンデエ』)が、第三巻のおわりに至って、はじめて主人公があらわれる、というような脱線ぶりをしめすところなどは、宇野などの到底およばないところであります、…‥」と、いって、芥川は、また、横むきに、瞑想するような恰好で、あるきだした。
 しかし、これは、しいてほめて云えば、一等俳優の『おもむき』があった。この時、芥川は、かぞえ年〔どし〕、二十九歳であったが、すでに、よかれあしかれ、『孤独地獄』、『芋粥』、『地獄変』、『奉教人の死』、『秋』、その他を書いていたから、鬱然たる大家であった。

 その日の晩、堀江の茶屋で、私たちのためにもよおされた歓迎会は、実に盛大であった。いりかわりたちかわり、盛装した芸者が、あらわれた。
 その宴会には、東京から行った私たちのほかに、見しらぬ人が五六人もいた。その見しらぬ五六人とは、直木に紹介されて、矢野橋村、福岡青嵐、その他の、大阪在住の、日本画家であることを、知った。そうして、それらの人たちは、主潮社という、美術家の団体の同人であり、その主潮社の社主が、矢野橋村であり、矢野と直木が親友であることなどもわかってきた。
 私たちの中〔なか〕では、里見と久米と田中が飲み手であるから、この三人がみな酒のみの主潮社の六人を相手に、さかんに、飲んでいた。酒の飲めない直木は、あいかわらず、無言で腕ぐみをして、すわっていた。
 そのあいだにも、芸者が、めまぐるしいほど、いりかわり、たちかわり、あらわれるが、一人〔ひとり〕の芸者は、たいてい、五分ばかり、席にいるだけで、帰ってゆくので、一時間ぐらいのあいだに、数十人の芸者が、出たりはいったりする。「われわれは、酒はのまないから、酔わないけど、芸者に、ようね、」と、芥川が、いう。「そんなことをいいながら、ずいぶん熱心に見てるじゃないか。」「観察してるんだよ。なかなかシャンもいるよ。」「夜目遠目〔よめとおめ〕ということもあるよ。」「いや、あの、矢野のそばにすわっているのは、そばで見ても……」
 私と芥川がこんなたわいのない事をいっているあいだに、私たちのそばに来て、「菊池先生、どこにいやはります、」と、聞く芸者が、何人〔なんにん〕も何人〔なんにん〕も、いた。これは、菊池のはじめての新聞小説、『真珠夫人』が、大阪毎日新聞に連載ちゅうであった上に、芝居になって、道頓堀の浪花座に、上演されていたからである。「菊池より、浪花座で、『真珠夫人』を見た方〔ほう〕がいいよ、」と私がいうと、「あて、もう、二へんも、『真珠夫人』みましたさかい……」「菊池センセ、どこにいやはりまんねん、」と、うるさく、聞いた。
 こういう妙な会話をしていた時、ふと、菊池の方を、見ると、福岡青嵐のそばで、酒の飲めない菊池が、大きな膝をちゃんとあわし、その膝の上にふとい両手をついて、十六七の芸者にむかって、ほそい目を、一そう細〔ほそ〕め、しばたたきながら、なにか、しきりに、話しかけていた。私が、それを見て、芥川に、「あの、菊池君のよこに坐っている女は、半年〔はんとし〕ぐらい前に、舞子になった、というぐらいのところだね、……丸顔だが、ゴムマリ、というような感じだね、」と、いうと、芥川は、すぐ「あれは、菊池が、くどいてるところだよ、なにか、カナしいね、」と、いった。
 そのとき、時間はあまり遅くなかったが、宴会の席が、すこし乱れてきて、たえがたくなったので、私は、誰〔たれ〕にもいわずに、座敷からはなれた、表通〔おもてどお〕りに面した、六畳〔じょう〕の部屋に行って、そこに床〔とこ〕をとってもらった。床にはいっても、宴のさわぎは、そこまで、ひびいてきた。そうして、そのさわぎのきれ目に、表通りを往〔ゆ〕き来〔き〕する人の声や足音が、妙に、耳についた。
 しばらくすると、やはり、酒席にたえられなくなったらしい芥川が、私の寝ている部屋に、はいって来た。そうして、私の枕もとにすわりながら、芥川は、
「絵かきというものは、かなわんね。(芥川は、『気にいらぬ』ことも、『たまらない』ことも、一さい、『かなわん』という言葉を、つかった。)僕は、日本画家も、ずいぶん、知っているが、主潮社の連中は、みな、神経が、棒のように、ふといね。……君〔きみ〕、主潮社というのは、なんだろう、」と、例のからかうような口調で、いった。
「さあ、僕も、よく、知らないが、……去年の夏ごろ、『主潮』という雑誌を、舟木重信君から、おくってもらって、読んだことがあるが、どこか変っているので、おぼえているが、小説は、青野季吉の『姉』という自然主義風の短篇とか、舟木重信の『給仕のたこ』という、これは、ちょっと、新鮮なものだったが、短篇が、一冊に、一篇ずつ、載っているだけだが、加藤一夫の、ロオブシンの、『嘗て起こらなかつた事』の翻訳とか、宮島新三郎の、アルツィバアセフの、『最後の一線』の翻訳とか、そういう長篇を、五六十枚ずつ、連載してあったのは、めずらしいだろう――つまり、その『主潮』という雑誌と、(四六判の雑誌だ、)あの画家連〔れん〕の主潮社とは、元は、おなじだ、と、思うんだ、」と私がいうと、
「ふふん、そんなら、あの講演会の費用も、われわれにくれた講演料の百円も、今晩の宴会費も、みな、主潮社のタイショウの、矢野が、出したんだよ。…ああいう日本画家は、artistじゃなくて、artisanだよ。‥…植村という男は、なかなか、ヤリテだね、そうして、あの男は、artistだよ、」と、芥川がいった。
 このような話を芥川と私がしていた時、廊下のそとから、西洋流に、障子を、コツコツと、たたく音がしたので、こちらから、「どうぞ」と、いうと、直木が、のっそりと、はいって来て、私たちの側〔そば〕にすわると、すぐ、
「この家は、さわがしくて、うるさいでしょうから、しずかな所へ、案内しましょう、どうぞ、支度〔したく〕を、してください、」と、いった。
 妙な事をいう、とは、思ったが、私は、床〔とこ〕を出て、支度をし、芥川も支度をした。そうして、「では、行きましょう、」という直木のあとについて、私たちは、その茶屋を、出た。
 ところが、すぐ近くだ、と思ったのが、自動車にのせられ、上本町六丁目にゆき、そこから、奈良ゆきの電車にのせられ、生駒〔いこま〕駅でおろされた。そのあいだ、三人とも、ずっと、無言であった。
 生駒山は、海抜は二千尺ぐらいであるが、金剛山脈の北部を占〔し〕める生駒山脈の主峰であり、河内と大和の境にそびえる山である。二千六百年の昔、勇敢な神武天皇も越えられなかった、という伝説の山である。大阪から真東〔まひがし〕にある奈良まで行く電車がなかなか出来〔でき〕なかったのは、この大きな生駒山を東西に抜けるトンネルが容易にできなかったからである。数年の歳月と巨額の金額をついやし十数人の人の命を犠牲にして、やっと、トンネルを通じたのは、その大正九年の秋の頃であった。(これはまちがっているかもしれないが、)このトンネルを通〔とお〕すために無理な金をこしらえて、岩下清周[小林一三はこの人にみとめられた]は牢に入れられた。
 ところが、このトンネルが出来たために、これまで大阪から頂上までのぼるのにほとんど半日ぐらいかかったのが、三十分ぐらいで登〔のぼ〕れるようになった。
 この生駒山の山腹の東側に、『生駒聖天〔いこましょうてん〕』として名高い宝山寺がある。この宝山寺は、延宝六年、中興の開山、宝山律師が刻んだ、不動明王が本尊であるが、その上に、『歓喜天』を安置してからは、「霊験いやちこ」というので、近畿地方のある人たちは熱狂的に信心した。その『霊験』とは、「隣近所〔となりきんじょ〕七軒の財産が自分のものになり、自分から後の七代の財産を自分のものにする」という真に空〔そら〕おそろしき霊験である。
 ところが、その宝山寺にまいるために、生駒駅から宝山寺までケエブル・カアが出来〔でき〕た。そうして、ケエブル・カアができるとともに、そのケエブル・カアの停車場の横から、ケエブル・カアの通じる坂にそうた道に、アイマイな茶屋が十数軒あらわれ、そのアイマイ茶屋のために、アィマイ芸者が五十人ちかく集まって来た。
 直木が、「しずかな所」と称して、芥川と私を案内したのは、このケエブル・カアの停車場のちかくの、ちょっとした茶屋であった。
 ところが、その日の午前に、京都の町を二時間ちかく、あるかされ、夕方には、講演をさせられた、(私は、講演はしなかったけれど、やはり、疲れた、)芥川と私は、その茶屋のしずかな部屋にとおされた時は、文字どおり、ヘトヘトになってしまった。そうして、芥川と私は、べつべつの部屋で、寝ることになったが、その時になって、ふと、気がつくと、直木は、もう、その家〔うち〕のどこにも、いなかった。(それは、ずっと後に、わかったのであるが、直本には、堀江に、豆枝〔まめし〕という、太芸者〔ふとげいしゃ〕の愛人があり、矢野にも、おなじ堀江に、後〔のち〕に矢野夫人になった、ナニガシという、太芸者の愛人があったのである。)
 つまり、芥川と私は、生駒山中〔さんちゅう〕の妙な茶屋に、オイテケボリに、されたのである。
 しかし、(といって、)私は、芥川がどの部屋に寝ているか、知らないし、芥川も、自分の寝る部屋にはいってしまえば、私のことなども、忘れてしまったであろう。

 十一月の二十一日の夜ふけの生駒山中は、火鉢が一〔ひと〕つぐらいあっても、戸をしめきっても、寒い。
 それで、私は、寝床の中〔なか〕にはいってからも、寒さと冷〔つめ〕たさのために、ちょっとの間〔あいだ〕眠れなかつた。しかし、私は、十年ほど前に、廣津和郎と一しょに旅行した時、いつも、寝床にはいると、すぐ、寝てしまうので、翌朝になってから、廣津に、よく、「にくらしくなる、」と、いわれたものである。
 ところで、私は、その晩も、三分ぐらいで、眠ってしまったが、それから、なにほどの時間がたってからであろうか、ふと、肩のあたりが寒いので、目をさますと、いつのまにはいったのか、一人の白い顔の(とだけしかわからない)若い女が、私と背中〔せなか〕あわせに、寝ている。しかし、「ハ、こういう家〔うち〕かな、」と、思っただけで、私は、すぐ、眠ってしまった。
 その翌朝、はやく、私は、女が、ハデな著物〔きもの〕(白と紅〔べに〕にちかい赤い色が目にたったから、長襦袢であったろう)を殆んどきてしまって、寝床のよこに、立っているのを、かすかに覚えているだけで、すぐ、寝いってしまった。
 そうして、そのつぎに目がさめた時は、昨夜〔ゆうべ〕ねた時のとおり、私は、自分ひとり、寝ていたことを、発見した。そこで、ちょいと心ぼそくなったので、芥川の寝ている部屋をきいて、その部屋の襖を、表(おもて)から、コツコツ、たたきながら、
「……おい、もう、起きたか、はいってもいい、」と、私は、わざと、すこし大きな声でいった。
 すると、中〔なか〕で返事〔へんじ〕をする前に、クスクス笑っている声がしたので、私が咄嗟〔とっさ〕に、二人らしいな、と、思った瞬間に、
「…‥はいってもいいよ、」と、わりにちゃんとした声で、芥川が、いう声がした。
 そこで、遠慮なく、わざと快活に、襖をあけて、中にはいると、正面〔しょうめん〕に、壁にそうてしいた寝床に、蒲団を肩のへんまでかぶって、横むきに寝ていた、女の顔が、まず、見えた。
 その女は、目鼻だちはととのっているが、丸い顔で、平面〔ひらおもて〕で、なにもかも小〔ちい〕さいので、貧相〔ひんそう〕に見えた、それに、髪も平凡な銀杏〔いちょう〕がえしであったから、こういう所にいる女のようには見えず、いたって平凡な感じのする女であった。
 ところで、芥川は、丹前をきて、その女の寝床と、三尺ぐらいはなれて、並行に、肘枕をして、むこう向きに、横になっていたので、私が部屋にはいった時は、長い髪の毛の頭〔あたま〕だけ見えたが、すぐ起きあがって、私のほうを見て、ほんのすこしキマリのわるそうな顔をして、ちょいと笑い顔をして、
「やあ、」と云った。

 この生駒山中に行った時の写真が四五枚ある。(この時の旅行に、私は、写真の雑誌や本を出している、ある本屋から、もらった、イイストマン・コダックという、低級であるが、どんな素人〔しろうと〕がつかってもかならず写〔うつ〕る、写真を持って行ったので、二十枚ちかく写真をとった。久米もおなじ写真器を持ってきていた。)さて、その時の写真のなかに、その平面〔ひらおもて〕の小〔ちい〕さい顔の女が、蒲団を肩までかむって、正面をむき、その前に、私が、腹ばいになって、横むきに、顎〔あご〕を両手でささえ、その前に、(写真では一ばん下〔した〕の左の隅〔すみ〕に、)芥川の、むこう向いている、一見しでも特徴のある、ふさふさした髪の毛の頭〔あたま〕だけが見える写真がある。これは、長方形を横にして取ったものであるから、その長方形のむかって左よりに、上から、前むきの顔、その斜め右下に、横むきの顔、その斜め左下に、むこう向きの頭〔あたま〕、――と、この三つのものが、ざっと、上から下に、ならんでいるのであるから、ずいぶん、不細工〔ぶさいく〕な写真であり、だらしのない場面である。しかし、この写真を、その時から数年後に、廣津に、見せると、廣津は、癖の、ちょっと口をまげてわらう笑い方〔かた〕をして、「ほお、これは、なかなか、オモシロイね、珍写真だね、」と、云った。
 それから、やはり生駒でとった写真のなかに、久米と私が、べつべつであるが、おなじ柄〔がら〕の縞の丹前をきて、坂の途中で、蛇の目の傘を、だてに、肩にかけて、正面をきっているポオズの写真がある。このポオズは、『五人男』などといって、たぶん、久米が、考案したのであろう。
 ところが、この久米と私のきている丹前の柄と芥川があの部屋のなかで著〔き〕ていた丹前の柄がおなじであるところを見ると、久米も、あの妙な茶屋に、とまったにちがいない。しかし、久米が、いつのまに、あの妙な茶屋に、きて、とまったのか、私は、まったく知らない。しぜん、久米が、あの妙な茶屋で、どういう行動をとったかも、私は、まったく知らないのである。
 それから、まったく覚えていないのは、芥川と私が、どうして、あの妙な茶屋を出て、大阪の堀江の茶屋に帰ったか、である。
 しかし、また、覚えている事もある。
 あの、平面〔ひらおもて〕の、目鼻だちも小〔ちい〕さく体〔からだ〕も小〔ちい〕さい、女が帰ってしまって、芥川と私がしばしボンヤリしていた時、「ごめんやす、」といって、その茶屋のおかみさんが、はいって来た。そうして、おかみさんは、私にむかって、「あんたはんよんべ[『昨夜』という意味]、女子〔おなご〕はん、寝さしといただけで、かえしなはったんか、」と、いった。そこで、私が「そうだ、」というと、「ほんなら、花代〔はなだい〕いりまへん、」と、それだけ、云って、おかみさんは、さっさと部屋を出て行った。
 おかみさんの足音が廊下のそとに消えると、芥川は、例の皮肉な笑い方をしながら、
「珍〔ちん〕な計算だね。……ところで、ここの勘定、どうしよう、」と、いった。
「こんどは、一さい、植村が、やってるんだから、ほっとこう。」
「そうだ、こんなところへ、無断で、つれて来たんだからなあ。」

 その日の昼〔ひる〕すぎ、直木は、例のごとく、だまって、私たちを、自動車にのせて、公会堂に、つれて行った。公会堂の前で自動車をおりると、前の日の夕方、『文芸大講演会』とかいたビラがはってあった跡〔あと〕に、『主潮社大展覧会』と書いたビラがはってある上に、おなじことを書いた、白、青、赤、その他の、幟が、数本、入り口の両側、その他、いたる所に、立ててあるのが、目をひいた。それを見ると、芥川は、私の耳のそはに、口をよせて、
「チンドン屋が、休憩しているようだね、」と、いった。
 さて、会場の中〔なか〕にはいると、昨夜、だらしなく酩酊して、調子はずれの声で、端唄〔はうた〕をうたったり、義太夫をかたったり、むやみに手をたたいたり、して、さんざん私たち(酒の飲めない者)をなやました、画家たちが、今日〔きょう〕は、紋つきの羽織をき、仙台平の袴などをつけ、別人のような顔をして、会場内を、あちこちと、なにか、人をさがすような顔つきをしながら、あるいていた。それを見ると、芥川は、また、私の耳のそばで、
「アサマシイね、あれは、買い手を、物色〔ぶっしょく〕しているんだよ、」と、云った。
「そのアサマシイ連中から、植村が、一さいの費用を出してもらっている、とすると、僕らも、アサマシイ、という事になるね、」と、私が、いった。

 公会堂から、また、自動車で、堀江の茶屋に、帰ってくると、みな、自分の家にでも戻ったような気がして、二階の広間で、足を投げだしたり、寝そべったり、アグラをかいたり、くつろいだ気もちになった。
 ところが、私と芥川は、皆とわかれて、その日の晩は、京都にとまり、その翌日、京都から名古屋に出て、名古屋から、中央線にのりかえて、下諏訪に行くことになっていた。わざわざ、中央線にのりかえて、下諏訪による事になったのは、私が、その頃、『人心』、『一と踊』、『心中』その他の小説に、下諏訪を舞台にして、その町のゆめ子という芸者を、片恋いの女として、絵空事〔えそらごと〕にした、それらの小説がいくらか評判になっていたので、いたって(人一倍)好奇心のつよい、芥川が、「ひとつ、その女を、どんな女か、見てやろう、」と、思って、私に、諏訪に行くことをすすめ、「僕も、君のかく、『山国の温泉町』を見たいし、ゆめ子女史の顔を見たいから、一しょに行きたいんだ、」と、いささか、芥川流〔りゅう〕の、煽動をしたからである。そうして、私も、その女を、見たくなったからである。
 それから、途中で、京都によるのは、大阪から諏訪まで行くには、大阪を夜たつ、とすれば、どうしても、途中で、一泊しなければならなかったからである。それに、堀江の茶屋に私をたずねて来た、広島晃甫[その前の年に、はじめて文展に出品して特選になった変り者の画家で、廣津の近著『同時代の作家たち』の口絵の写真に、芥川、私、菊池のよこにすわっている半分かくれて見えない人物である。なお、あの写真は堀江の茶屋で、大阪毎日新聞社の写真班がとったもの]が、「京都にゆくなら先斗〔ぽんと〕町に、僕のよく知っているお茶屋ある、……僕は、君たちが行く晩、そのお茶屋で、待っているから、」と、云ったからである。
 さて、私たちが、公会堂から、帰って、堀江の茶屋の二階で、くつろぎながら、四方山〔よもやま〕の話をしていた時、下〔した〕から、二人の仲居〔なかい〕[東京でいう女中のこと]が、ウンウンいいながら、一人は、菓子を一ぱい盛〔も〕った盆を、他の一人は、果物を山のようにつんだ盆を、持って、あがって来た。それを見た、階段の下り口の一はん近くにいた、直木が、
「そんなもの、注文しないよ、」と、云った。
「いえ、おくり物だす。」
「だれに。」
「芥川先生。」
「えッ、」と、芥川が、めずらしく、ちょっと顔色をかえて、云った。
「べッピンさんだっせ。」
「なに、べッピン、」と、菊池が、例のカン高〔だか〕い声で、叫んだ。
 その時、私は、はッと、思いあたった。「が、それにしても‥…」と、思った。
 しかし、私は、用をたすような顔をして、下〔した〕に、おりて行った。そうして、梯子段の下に、妙な顔をして立っていた、仲居に、
「僕の知っている人だ、今、おくり物を持って来た人は。……どこにいるんだ、」と、私が聞くと、
「玄関で、待ってはります、」と女中が云った。
 私は、いくらか胸をおどらしながら、玄関の方へ、早足に、あるいて行った。
 と、玄関のタタキのすみに、ちょっと見えないようなところに、あの生駒の女が、顔が見えないほど、うつむいて、立っていた。

2012/01/01

ジョン・ミリングトン・シング著 姉崎正見訳「アラン島」 序文 野上豊一郎 及び やぶちゃん冒頭注

まず、僕の冒頭注及び既に著作権の消滅している野上豊一郎氏の『「アラン島」について』を僕のプロジェクトのプレとして公開する。

アラン島 ジョン・ミリングトン・シング著 姉崎正見訳

[やぶちゃん注:アイルランドの劇作家にして詩人であったジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge 1871年~1909年)は、1898年から1902年にかけて4度、アイルランド島の西のゴールウェイ湾に浮かぶアラン諸島を訪れた。後に愛情に満ちた筆致でこの島に残るアイルランドの古形的民俗と人々の生活を活写したのが本作である(一冊に纏められた出版は1907年)。底本は一九三七年刊岩波文庫版を用いた。姉崎正見氏は東大附属図書館司書で昭和36(1961)年11月現職で逝去されている。従って著作権法五十一条により亡くなった翌年の1962年1月1日起算50年で、著作権保護期間は2010年1月1日までとなる。姉崎氏の没年については昨年年初に岩波書店に電話で直接確認をとってあるが、ネット上の記載でも確認が出来るので間違いない。冒頭に配された野上豊一郎の『「アラン島」について』も野上は昭和二十五(一九五〇)年二月に逝去されているので、同じく著作権は消滅している。訳者によるポイント落ちの( )による割注は本文同ポイントで〔 〕示し、ルビはブログ版では( )で表示し、一部の踊り字は正字や「々」で示した。行空けのあるパートごとに、訳文の後に原文を付した。原文は“Intenet Sacred Text Archive”所収の“The Aran Islands by J. M. Synge”のものを用いた。後日、私のオリジナルな注も附す予定であるが、ブログ版では大きな疑問点のみの注に留めた。]

アラン島 シング作 姉崎正見譯

「アラン島」について

 「アラン島」(The Aran Islands)はシングの戯曲を讀む人にとつて、興味ある貴重な文獻である。何となれば、イェーツも言つたやうに、シングの藝術の本質を形づくる永遠な高貴なものは、彼がアラン群島のそこここに寄寓して、土地の人たちから古い物語を聞き、それを目の前に見る現實の生活と比較することに依つて體得したものであり、讀者にその製作経過を感じさせないでは措かない素材がその中には豐富に盛られてあるから。
 「アラン島」は、同時にまた、シングの戯曲を讀まない人にとつても、一つの興味多い讀物であることを失はない。何となれば、そこには世界の他のどこにも殆ど見られなくなつた傳統ある原始生活がまだ見られてあつたし、その生活の中にはひり込んで、同情と批判を以つて觀察した天才文人の忠實な記録でそれはあるから。
 實際アランの岩島はシングに依つて生かされ、シングはまたアランを踏まへて彼の藝術を完成したのであつた。
 シングにアランへ行けと忠告したのはイェーツであつた。それは一八九九年、シング二十八歳の時であつた。その七年前、シングはダブリン大學を出て、音樂者にならうと思つてドイツへ行き、作家に轉向しようと思つてフランスへ行き、フランスに三年ほどゐてイタリアヘ行き、捜すものを求め得ないでアイルランドに歸り、イェーツに逢ふ前年、一八九八年、アラン島に最初の訪問を試みて、またフランスへ行き、パリで先輩イェーツに逢ふと、イェーツはシングの天才を生かすにはラシーヌの幽靈を突き放して(當時シングはラシーヌに傾倒してゐたので)郷國の漁民の生活の中へ歸るのが一番だと感じ、それをシングに忠告したのであつた。シングはイェーツの忠告に従つてアランの生活を研究し、それを物にして遂にシェイクスピア以來の劇詩人と言はれるほどの製作をして、一九〇九年、三十八歳で孤獨の生涯を終つた。
 シングは純眞で、内気で、禁慾的で、さうして皮肉屋であつた。言語には殊に敏感で、近代詩の外にヘブライ語と固有アイルランド語をも知つてゐた。彼自身の書くものに彼自身獨自の表現を作り出すことにも成功した。それは彼の描いた性格の多くと共に、アランの漁民の生活觀察から得たものであつた。
 私の若い友人姉崎正見君の飜譯が、さういつたシングの特長を生かさうとすることに周到な注意と努力の拂はれてあるのは推賞に値する。
   昭和十二年二月   野上豊一郎

2012年 新企画2大プロジェクト始動

2012年の僕の二つの大きなプロジェクトを数時間後の1月2日よりブログ上に起動する。

一つは、

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」の全原文附全テクスト化

である。

今一つは、芥川龍之介の盟友であった宇野浩二が全霊を傾けて記した龍之介へのオード

宇野浩二「芥川龍之介」の全テクスト化

である。

姉崎正見氏(昭和36(1961)年11月逝去)及び宇野浩二氏(昭和36(1961)9月逝去)の著作権は本日24:00を以て消滅する。僕は、正しくそれに合わせて始動したい。

まずはブログでのゆっくらとした更新となるが、将来的には勿論、HPに正式にアップし、僕のオリジナルな注をも附す所存である。

これが「僕という存在」の「新しい始まり」でもある。

乞御期待!!!

ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び 一茶

 

ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び 一茶

喪中ながら、あなたにだけ、こっそり囁こうか――「おめでと!」――

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