宇野浩二 芥川龍之介 二~(6)
さて、京都から下諏訪での道中は、これも、ほとんど記憶がない。ただ、中央線の汽車にのりかえるために、名喜で汽車からおりた時は、朝の四時頃あったから、私たちが時間をつぶすために駅の前の広場に出た時は、空〔そら〕はまだ暗く、はるかに見える町に、明〔あ〕かりが、ついていた、それが、いかにも、侘〔わ〕びしげに、さむざむしく、眺められた事だけは、はっきり覚えている。
ところが、その中央線は、(正〔ただ〕しくいえば、中央本線は、)名古屋の方からいうと、坂下あたりから宗賀へんまでは、汽車の線路とふるい木曾街道がほとんど並行して通〔とお〕っているから、所によると、汽車の窓のすぐ下〔した〕に木曾街道がのぞまれる。それで、汽車の沿道の両側にそびえている木曾谷はことごとく紅葉に色どられていた筈であるが、それもほとんど記憶にない。しかし、芥川が、十一月二十四日に、下諏訪から下島勲にあてて出した絵葉書のなかに、「京阪より名古屋へ出て木曾の紅葉を見て当地へ来ました」と書いているところを見れば、さすがに、芥川は、木曾谷の見事〔みごと〕な紅葉を見のがしてはいなかったのである。ところが、また、さきに引いた、十一月二十二日に、芥川が、京都から、江口 渙にあてて出した、(私と寄〔よ〕せ書〔が〕きとなっている、私の覚えのない、)絵葉書のなかに、『峡中に向ふ馬頭や初時雨』というような句を書いたり、また、おなじ日に、京都から、小穴隆一あてに出した、やはり、絵葉書のなかに、「大阪道頓堀の café にゐたら川向うの家の物干に猿が一匹這つてゐましたその上に昼のお月様がありました歌か句になりませんか」というような文句を書いたり、しているのを読むと、私は、ちょいと頸〔くび〕をひねりたくなるのである。それは、簡単にいえば、「『峡中に向ふ馬頭や初時雨』などという句は、うまくないばかりでなく、実感がなく、「木曾の紅葉を見て……」などというのは、べつに木曾の紅葉を見なくても、書ける文句であるからだ。それから、あの二日ほどしかいなかった間〔あいだ〕に、芥川が、いつ、道頓堀のカフェエに、出かけたか、そうして、あの時分の道頓掘には、café は、戎橋と太左衛門橋のあいだにしかなかったから、その café から道頓堀川をへだてて見える家といえば、宗右衛門町の茶屋(二三軒の料理屋をのぞくと)ばかりであるから、あるいは、それら町茶屋の一軒の家が飼っていた猿が、(芥川のようなイタズラずきの猿であって、)偶然、物干を散歩していたのであろうか、しかし客商売の家では、『まねく猫』をよろこぶように、猿は、『去る』というので、きらう、と聞いているが、――しかし、いずれにしても、「大阪道頓堀の café にゐたら川向うの家の物干に猿が一匹這つてゐました」といい、それに、「その上に昼のお月様がありました」などというのは、(このような穿鑿〔せんさく〕だてをすれば、もし生きていたら、芥川に、頭〔あたま〕から、笑われるにちがいない、と、ふと、思って、しいて考えなおしてみれば、これは、)芥川の、独得の、巧妙な、酒落〔しゃれ〕であり、芥川流〔りゅう〕の文学の一〔ひと〕つの『あらわれ』と見てもよい。また、「その上に昼のお月様がありました」というのは、島崎藤村の小説のなかにしばしば出てくる「月は空〔そら〕にあった」という文句を、私は、思い出す。これは、もとより、小説と私信のちがいであるけれど、こじつけるようであるが、芥川龍之介と島崎藤村の文学と気質のちがいをよくあらわしている。
ところで、この時の諏訪ゆきは、私は、まえに述べたように、いわゆる現実的な題材をなるべくロマン的に書いた小説の女主人公にしたモデルに逢いに行くのであるから、まず純真な気もちを持っていたが、芥川は、ほとんどまったく反対で、好奇心が六分、いたずらとからかい気分が三分、というくらいの割り合いであった。
今から一年ちかく前、(つまり昭和二十五年の八月頃、)私は、二十七八年ほど前から妙な事から近づきになった、元〔もと〕の大蔵次官、長沼弘毅から、ひさしぶりで目にかかりたく、ナン月ナン日の午後五時、ナニガシ町の『ソレガシ』〔東京でも有名な料亭の一つ〕に、「万障くりあはしておいでくださいませんか、」という手紙を、もらった。そうして、その手紙のなかには、「この席は私の友人がまうけてくれたのですが、私がとつたのと同じやうな気もちで、どうぞ、御遠慮なく、……なほ、当日は江戸川乱歩氏もおいでになる筈です、」と書いてあった。
そこで、私は、すぐ承知の返事をだして、ナン月ナン日の午後五時すぎに、その『ソレガシ』に、行った。すると、すでに、その長沼の友人も、長沼も、江戸川も、私のとおされた座敷のなかで、細長い食卓の両側に、それぞれの席に、ついていた。私が、おくれた詫びをのべながら、江戸川のとなりの座につくと、すぐ長沼に紹介された、長沼の友人は、おもいがけなく、水野成夫であった。私が、ここで、「おもいがけなく」と書いたのは、その長沼の友人は、私が、今か十五六年前に、五六時間つぶして、ほとんど一気〔いっき〕に、読了したアナトオル・フランスの『神々は渇く』の訳者が、水野成夫であり、その時から一〔ひ〕と月〔つき〕ほど前に、私が、私のふしぎな親友、辰野 隆と、ある所で、夕食を共にした時、辰野が、ときどき、私を除〔の〕け者〔もの〕にして、そばにいるお雪という女中と、なんどか、「……コクサクパルプ、……コクサクパルプ……」という言葉を口にしていた、その時は私には「コクサクパルプ」と耳なれない言葉がなんの事かまったくわからなかったところの、わかってみれば「国策パルプ」株式会社の副社長の水野成夫であったからである。
さでその水野が、長沼や江戸川を相手にいろいろさまざまの探偵小説やその作家たちの話にちょっと夢中〔むちゅう〕の形〔かたち〕でしゃべっていたのがとぎれた時、突然、私の方にむかって、私のことをおもいだすと、すぐ、「芥川さんの『秋風やもみあげ長き宇野浩二』という句を、思いだします、」と、いった。
そこで、私は、こんな話をそらすために、俳句に薀蓄のふかい長沼に、「この句はまずいでしょう、」というと、長沼は、言下に、「まずいですなあ、」といった。
この『秋風やもみあげ長き宇野浩二』という句は、芥川が、中央線の汽車が木曾の谷あいを走りつづけている時、その汽車のなかで、私の方をむいて、例の笑いを日と頰にうかべながら、私に、よんで聞かせたものである。つまり、このような句でも、また、さきに引いた、十一月の二十四日に、諏訪から、佐佐木茂索にあてた書翰のなかにある『白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ来し』などという作〔つく〕り事〔ごと〕のような歌でも、みな、この時の芥川の諏訪ゆきの半分ふざけたような気もちの一端〔いったん〕が、あらわれているのである。(ここで、私は、かりに生きているとして、芥川よ、「君がときどき持ちだした、万葉集のなかに、『しろたへににほふまつちの山川にわが馬なづむ家恋ふらしも』というのがあるね、」と、いってみたい。)
それはそれとして、この十一月二十二日に芥川が大阪と京都から出した三枚の絵葉書は、どこで買ったのか、東京からわざわざ持ってきたのか、万年筆を持ったのを見たことのない芥川がこれらの便〔たよ〕りを何〔なに〕で書いたのか、いずれにしても、こういうところに芥川の独得の早業〔はやわざ〕があるのであろうか。芥川は、私の知るかぎり、創作のことは別として、女性の事その他については、『続世継』にある、「早業をさへならびなくしたまひければ」、とあるような、『太平記』にある、「早業は江都が勁捷にも超えたれば、」というような、『早業』の名手〔めいしゅ〕であった。
[やぶちゃん注:「坂下」は岐阜県中津川市坂下。中央本線の岐阜県側の最終駅坂下駅がある。
「宗賀」は「そうが」と読む。長野県塩尻市大字宗賀。中央本線の駅では洗馬(せば)駅と日出塩が宗賀地区に含まれる。
「長沼弘毅」(ながぬまこうき 明治三十九(一九〇六)年~昭和五十二(一九七七)年)は大蔵官僚・実業家・文芸評論家。本作が発表される二年前の昭和二四(一九四九)年の池田勇人内閣時代、大蔵省を退官している。後に日本コロムビア会長。シャーロキアンで、当時、1934年に創立された「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」唯一人の日本人会員であり、江戸川乱歩賞選考委員を第一回から第十四回まで務めた推理小説好きとして知られる。
「水野成夫」(みずのしげお 明治三十二(一八九九)年~昭和四十七(一九七二)年)は実業家。ウィキの「水野成夫」によれば、池田勇人政権下の「財界四天王」の一人で「マスコミ三冠王」と呼ばれた。フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長にして元経済団体連合会理事。元共産党員であったが、昭和十三(一九三八)年に検挙され、その転向直後、『新聞紙からインキを抜いて再生紙を作るというアイデアを陸軍に持ち込』んで、まんまと軍部に取り入り、同年、日清紡績社長であった『宮島清次郎を社長に迎えて国策パルプを設立させた』後、同社の『全額出資で別会社・大日本再生製紙』を創業、昭和二十(一九四五)年には同社を国策パルプに合併させて、昭和二十三(一九四八)年は常務取締役となり、昭和二十六(一九五一)年に社長、昭和四十五(一九六〇)年には会長に就任した。かくして彼は戦後の政財界に強い影響力を持つことになり、昭和三十一(一九五六)年には『民間会社組織に改組された文化放送の社長に就任した。これを契機にマスコミ各社の社長に就任する。文化放送では「良心的」とされるドラマ番組や探訪番組の打ち切り・娯楽番組中心への編成変え、保守財界人の宣伝、政府批判番組の禁止、反対者の配転、労働組合潰しなどを進めた。「財界のマスコミ対策のチャンピオン」とまで評され』た。翌昭和三十二(一九五七)年には経団連理事に就任、『ニッポン放送の鹿内信隆と共にフジテレビジョンを設立し、同社初代社長に就任』するや、翌年には今度は『産業経済新聞社(産経新聞)を買収して社長に就任』、在京メディアを実質的に掌握して「マスコミ三冠王」の名を恣にし、後のフジ・サンケイ・グループ『の土台を築いた。水野のマスコミへの進出は、財界のマスコミ対策とも言われ、ジャーナリズムからは「財界の送ったエース」と書き立てられた。新聞社の経営に普通の会社の経営方針を持ち込んだものと言われ、通常の編集、販売、広告の順番を逆にしてまず広告主を見つけることを最優先課題とした。また、労働組合を味方に取り込むために、産経新聞労組と「平和維持協定」を締結し(この結果、組合は日本新聞労働組合連合より脱退)、役員、職制、職場代表による再建推進協議会設置など労使一体による体制を構築した。このような水野のやり方は合理化に伴う配転・解雇などを生み「産経残酷物語」「水野天皇制」と言われた』。昭和四十(一九六五)年には産経新聞社会長に就任している。因みに彼は東大法学部出身で、戦前は『翻訳家・フランス文学者としても大いにその才能を発揮し、特に日本におけるアナトール・フランスの紹介に大いに功績があ』り、本文でも挙げられている「神々は渇く」は特に名訳とされてベストセラーとなった。『翻訳に当たってはフランス文学者の辰野隆の紹介で辰野の弟子に当たる渡辺一夫と出会い、翻訳上、不明な点がある時は、渡辺の教えを請い正確を期した。また、この時期、尾崎士郎、尾崎一雄、今日出海、林房雄などとの交友を持つに至った』と波乱万丈、勝組の立身出世伝として華々しい記載となっている。
「しろたへににほふまつちの山川にわが馬なづむ家恋ふらしも」巻七の一一九二番歌。作者不詳。
白栲ににほふ真土(まつち)の山川(やまかは)に我が馬なづむ家恋ふらしも
美しく匂い立つ真土山……その山川の傍らに私の馬が歩みを止めてしまった……これはきっと――妻が私を恋しがっているからであろうよ……
「続世継」は「今鏡」の異名。同書五十二の「雁がね」に九条民部卿四郎の話として、騎馬による渡渉で馬が倒れたが、鞍の上に瞬時に立って濡れなかったという「早業」の事跡として現れる。
「勁捷」は「けいしょう」と読み、素早いさま。これは「太平記巻二」の「南都北嶺行幸事」に現れる。「江都」は前漢の江都易王劉非。七尺の屏風を飛び越える俊敏さの持ち主であったと伝える。]
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