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2012/01/07

新編鎌倉志卷之七 慈恩寺詩序 教え子の援助により注釈完成

昨日、「新編鎌倉志卷之七」の「慈恩寺詩序」で僕の教え子から大々的に力を借りて注釈を完成した。以下に示して、謝意を表する。

   慈恩寺詩序
天地之間、維元氣之結之融、突而爲山、呀而爲谷、然觀遊之與乎人者、或奧而坳、窪而邃、増之有樹之茂石之藂、蓊鬱膏薈蔚、宜乎幽人之所盤旋、樂而不返者爲得之、或曠而軼、雲雨出林莽、増之有臺而崇、閣而延、天爲之高、地爲之闢、宜乎英邁之士、出乎萬類遊乎物之始、卒歳優游者爲得之、蓋天作之、地成之、皆高明幽貞之具於是乎在、相之治、直東北之交、岡連谷盤、突而起、坳而窪、其曰華谷、兼奧與曠而有之、寺額慈恩、初桂堂聞公、開而基之、大年椿公、繼而輪之奐之、公不入州府三十年、終于山、山之峭壁斗絶克肖、其攢巒迤邐、有堂宇列焉、廊廡簷牙、廻且啄、浮圖層出、淸泰摩尼之殿、白花禪悦之構、龕室千軀像設、森列厥徒、栖心禪誦、石之詭環、水之渟滀、而怪木奇卉、紅紛緑駭、不徒席几而爲耳目之玩也、所謂天墜地出、以授乎人歟、京師名德、以不遂登臨之美爲歎、詩以詠之、極詞於幽遐瑰詭、以往來其懷、山水之秀益々以彰、慕而題之者安可已乎、嗟蘭亭之遭右軍、盛跡粹然、後續者洗林澗之媿歟、詩凡若干首、寺之主永貞叟、刻而掲之、請紀其首、庶列名而有榮耀焉、應永戊戌、暮之春、九華山人釋聖瑞序(〔)按ずるに聖瑞は、圓覺寺の前住一曇なり。(〕)
[やぶちゃん注:「聖瑞」一曇聖瑞(いちどんしょうずい 生没年未詳)室町時代の臨済僧・常陸国法雲寺の復庵宗己そうきの法嗣。円覚寺や京都南禅寺住持となる。詩文にも優れ、著作に「幽貞集」がある。九華山人は別号。以下、影印の訓点に従って書き下した「慈恩寺詩序」を示す。難読字が多いので私の読みを( )でルビした。

   慈恩寺の詩の序
天地の間は、維れ元氣の結の融、突として山と爲り、呀として谷と爲る。然れども觀遊の人に與(アヅ)かる者の、或は奧にして坳、窪(ワ)にして邃。之を増すに樹の茂・石の藂(ソウ)有(り)、蓊鬱薈蔚(ヲウウツワイウツ)たり、宜べなり、幽人の盤旋する所ろ、樂(しみ)て返らざる者、之を得(た)りと爲ること、或は曠(クワウ)にして軼(イツ)。雲雨、林莽より出(づ)。之を増すに臺にして崇(タカ)く有(り)、閣にして延く、天、之が爲に高く、地、之が爲に闢(ヒロ)く、宜べなり、英邁の士、萬類を出でゝ物の始(め)に遊び、歳を卒(ヲ)(ふ)るまで優游する者、之を得(た)りと爲ること、蓋し天、之を作り、地、之を成す。皆、高明幽貞の具、是に於て在り。相の治、東北の交ひに直(アタ)(り)て、岡連(な)り、谷盤(マル)く、突として起り、坳にして窪、其れを華谷ハナガヤツと曰(ふ)。奧と曠とを兼(ね)て之有り。寺、慈恩と額す。初め桂堂聞公、開(き)て之を基し、大年椿(ダイネンチン)公、繼(ぎ)て之を輪し之を奐(クワン)す。公、州府に入らざること三十年、山に終ふ。山の峭壁、斗絶克(ヨ)く肖たり。其の攢巒迤邐(サンランイリ)たる、堂宇の列なる有り、廊廡簷牙(ラウブエンガ)、廻(り)て且つ啄み、浮圖(フト)層出す。淸泰摩尼の殿、白花禪悦の構、龕室千軀像設(け)たり。森列せる厥(ハジメ)の徒、心を禪誦に栖ましむ。石の詭環し、水の渟滀(テイチク)して、怪木奇卉、紅、紛し、緑、駭(オドロ)く。徒だに席几にして耳目の玩と爲るのみなり。謂は所(る)、天、墜し、地、出して、以(て)人に授(か)るか。京師の名德、登臨の美を遂げざるを以て歎と爲し、詩以て之を詠じ、詞を幽遐瑰詭(イウカカイキ)に極めて、以(て)其の懷に往來す。山水の秀、益々以(て)彰はる。慕(ひ)て之に題する者、安んぞ已むべけんや。嗟アヽ蘭亭の右軍に遭へる、盛跡粹然たり。後に續く者、林澗の媿はぢを洗んか。詩凡そ若干首、寺の主永貞叟、刻(し)て之を掲げ、請(し)て其の首(ハジ)めに紀せしむ。庶(ネガハ)くは名を列して榮耀有らんことを。應永戊戌、暮の春、九華山人釋の聖瑞序す。

「元氣の結の融」は天地の間にあって万物生成の根本となる精気が結ばれたり融けたりすることで現象することを言う。
「呀」は恐らく「ガ」と読んで、谷の空虚なさまを言う。
「坳」は「アウ(オウ)」又は「エウ(ヨウ)」で、窪んだ所。
「邃」は奥深い、の意であるから、ここは「奥」深く凹(「坳」)であって、凹(「窪」)であって而して奥深く遠い、という意であろう。多変数関数論の「凸」の反対みたような形而上学的な謂いか。
「藂」は「叢」に同じく、群がること。
「蓊鬱薈蔚」「蓊鬱」「薈蔚」もともに草や木が盛んに茂っているさま。
「幽人」隠者。
「盤旋」「ハンセン」若しくは「バンセン」で回遊する、経巡ること。
「曠にして軼」明白にして優れている、の謂いか。
「延く」は「ひく」ではあるまい。「ながく」(長く)か「とほく」(遠く)であろう。
「高明幽貞」高潔なる隠者のことか。「易経」の九二の『道を履むこと担担たり。幽人貞にして吉なり。象に曰く、幽人貞にして吉なりとは、中自ら乱れざれば也。』に基づくと思われる。
「大年椿公」曹洞宗の名僧大年祥椿だいねんしょうちん(永享六(一四三四)年~永正十(一五一三)年)。
「之を輪し之を奐す」「輪奐」は建物が壮大で華麗なことであるから、寺院の盛隆させたことを言う。
「山の峭壁、斗絶克(ヨ)く肖たり」とは、慈恩寺を囲む山の屹立した様は、ここがまさに俗界と断固として隔絶している様に似ている、という意味であろう。
「攢巒迤邐(サンランイリ)たる」の「攢巒」は群がっている山々、「迤邐」はゆったりとしている様。
「廊廡簷牙」「廊廡」は堂の前の左右に延びた回廊。「簷牙」鋭い牙のように軒先に突き出た軒の端。
「浮圖」僧侶。
「淸泰摩尼」は総てを叶えてくれる如意宝珠の意。
「石の詭環し、水の渟滀(テイチク)して」「詭環」不詳。「渟滀」は水が留まり溜まる、水が湛えられるの意であり、転じて学問の広く深いことを言うが、前者の「詭環」はどうもよい意味ではとれそうもない(正しからざる方途を以て石が水を遡る意ではなかろうか)。識者の御教授を乞う。
「幽遐瑰詭」幽かに遠く、何とも奇異な雰囲気で、という謂いか。しっくりとこない。識者の御教授を乞う。
「蘭亭の右軍に遭へる」名筆とされる右軍将軍王義之の「蘭亭序」は、義之が三五三年、名士を自身の別荘に招き、その中の蘭亭で曲水の宴を催したが、その際、酔いに任せて作られた詩集序文の草稿が「蘭亭序」であった。ここは「唐宋八家文」に所収する柳宗元の「邕州馬退山茅亭記」冒頭に基づいている。以下に示す。

〇原文
夫美不自美、因人而彰。蘭亭也。不遭右軍、則清湍脩竹、蕪沒於空山矣。是亭也、闢介閩嶺、佳境罕到、不書所作、使盛跡鬱堙、是貽林澗之媿、故志之。

〇やぶちゃん+教え子による書き下し文
 夫れ、美は自ら美ならず、人に彰せらるるに因る。蘭亭や、右軍に遭はずば、則ち淸湍脩竹の空山に蕪没するのみ。是の亭や、僻介閩嶺、佳境に到ること罕にして、作す所を書かずんば、盛跡をして鬱堙せしむ。是れ、林澗の愧を貽す。故に之を志す。

〇やぶちゃん+教え子による語注
・「淸湍脩竹」は「せいたんしうちく(せいたんしゅうちく)」と読む。
・「蕪没」は「ぶぼつ」と読む。 埋もれるの意。
・「僻介閩嶺」は「へきかいびんれい」と読んで、僻地の峰々。介は界と同義か。閩は福建一帯の古称で中原に対比しての蔑称であるが、ここでは文明の中心から遠く離れた地方というほどの意であろう。
・「罕」は「かん」と読み、稀の意。
・「盛跡」景勝の地。
・「鬱堙」は「うついん」と読む。「堙」は「湮」の同じい。「隠」の同音同義。隠滅すること。
・「貽す」は「のこす」と訓じ、「遺」と同音同義で、残すの意。
・「林澗」は「りんかん」で「澗」は谷。山林の中の窪んだ土地を指す。
・「志す」は「あらはす」と訓じる。

〇やぶちゃん+教え子による勝手自在現代語訳
 そもそも、美はそれ自体として美であるのではなく、人に賞せらるることによって初めて美として我らが前に立ち現れてくるものなのである。あの「蘭亭序」を見るがよい。王右軍に行き逢わなかったなら、清く激しい水の流れや美事にすっくと伸びた竹も、人影なき深山に埋もれて誰一人としてそれを知る者はなかったであろう。自然の美とは、かく、名筆名文によってのみ初めて存在すると言ってよいのである。――さればこそ――正にこの馬退山茅亭である。そもそも僻地の山間にあっては、眺めの素晴らしい土地に到ることは、これ、稀なことである。その稀有の馬退山茅亭美景の感動を今、書き残さなければ、この稀に見る景勝の地の存在を誰にも知られずにあたら埋もれさせてしまうことになる。これは自然の持つ美に対する屈辱であり、極めて遺憾なことである。そこで私、柳宗元がこれを書き残すこととした。

以上の、訓読・語注・現代語訳には私の初代の教え子にして秘蔵っ子の愛弟子、中国語に堪能な杉崎知喜君の協力を得た。彼の柳宗元の説に関わっての大変興味深い感想を引用して、謝意を表したい。

『柳先生の主旨とは少し異なりますが、私は次のようなことを強く感じます。何か一点人工の手を加えると、大自然全体が瞬時にして鑑賞すべき風景、しかも気の遠くなるような文化の蓄積を背負った一幅の画になってしまうのが、中華文明の特徴ですね。例えば険しい崖に漢詩を掘り込むと、いきなり中華文明における名勝(泰山、赤壁などもそうでしょうか)に早変わりするように。人文世界に取り込まれて初めて自然は文人が愛でるべき対象になる、といっては言いすぎでしょうか。もし鎌倉が中国人の街だったら、稲村ガ崎の断崖に「湘南観止」とかなんとか大きな字を彫り込んでしまったことでしょう(討幕軍の稲村ガ崎越えにちなんだ文句にしたかもしれません)。崖に字を彫り込まなくても、文章で詠みこんでしまえば、これと同じことなのかもしれません。今回柳先生の文章に接して、去年広西の柳州への小旅行で柳侯祠に参拝したことを懐かしく思い出しました。』

「盛跡粹然」同前。『使盛跡鬱堙』から採った。王義之のその名墨跡は混じりっ気なく、蘭亭の景を映して美事な出来栄えの謂いであろう。
「林澗の媿はぢを洗んか。」「媿」は「愧」「恥」に同じい。「洗んか」は「すすがんか」と読みたい。同前。後半『是亭也、闢介閩嶺、佳境罕到、不書所作、使盛跡鬱堙、是貽林澗之媿、故志之。』に基づき、不学乍ら推測するに、詩文に詠まれず、空しく林間の恥としてあったこの慈恩寺の景を、我らが雪がんとするか、の意であろうか。
「應永戊戌」応永二十五(一四一八)年。]

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