宇野浩二 芥川龍之介 二~(4)
ここで、私は、念のために、と思って、芥川龍之介全集の第七巻(書翰篇)の大正九年十二月の二十日へんのところを、ひらいてみて、おどろいた、(というより驚歎した。)つぎのようなものがあるからである。
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宇野耕右衛門先生にお守りをされてゐるまあボクも面白かつた。
峡中に向ふ馬頭や初時雨
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これは、「三月二十二日京都から。絵端書へ宇野浩二寄書、江口渙宛」となっているが、どういうわけか、私に、まったく覚えがない。(『宇野耕右衛門』とは、私のその頃の小説に『耕右衛門の改名』というのがあるからである。)
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大阪道頓堀のcaféにゐたら川向うの家の物干に猿が一匹這つてゐましたその上に昼のお 月様がありました歌か句になりませんか 頓首
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これは、「十二月二十二日京都から。絵端書、小穴隆一宛」とあり、葉書の文面のおもてに「京都駅にて 芥川龍之介」とある。
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今日一日時雨の中に宇野浩二先生と京都の町を歩きまはりました一軒紙のれんを青竹にとほした饅頭屋がありましたあなたと一しよならあひつて饅頭を食ひたいと思ひました
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これは、「十一月二十二日京都から。絵端書、小沢忠兵衛宛」となっていた。小沢忠兵衛とは、小沢碧堂という俳人で、芥川の『夜来の花』という本に、字を書いている。(この碧堂のかいた『夜来の花』を、版にする前に、芥川が、自慢そうに、見せたことがあるが、私には、うまいかまずいか、サツパリわからなかった。)
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白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ来し
二伸
但し宇野僕二人この地にゐる事公表しないでくれ給へ
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これは、「十一月二十四日諏訪から。佐佐木茂索宛」となっている。(この事については、後に、くわしく述べる。)
以上の絵葉書を、今、よんで、芥川が、私と行動を共にしながら、いつ、京都のどこで、あるいは、京都の駅のどこで、こういう便りを書いたか、これは、私のまったく知らない間のことであるから、やはり、芥川は、『早業』の名人、ということになるか。しかし、また『早業』をしそこなうようなところも、多分に、あった。それから、……
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