鈴木しづ子句抄――雑誌発表句・未発表句を中心にしたやぶちゃん琴線句集
ブログで完成したしづ子の全句からのオリジナル選句鑑賞を「鈴木しづ子句抄――雑誌発表句・未発表句を中心にしたやぶちゃん琴線句集」として、やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇に同縦書版とともに公開した。
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ブログで完成したしづ子の全句からのオリジナル選句鑑賞を「鈴木しづ子句抄――雑誌発表句・未発表句を中心にしたやぶちゃん琴線句集」として、やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇に同縦書版とともに公開した。
「新編鎌倉志卷之八」の本文テクスト化を終了した。序文や跋などが残るが、これを以て一年余の作業に一つの区切りがついた。始めた時は、母はまだ生きていた。母が天に召されて、この作業の只中に僕の世界は変わってしまった。だから、僕には忘れ難いテクストである。ただ、「巻之一」と「卷之二」には――正に母のALSの急性期であったから――殆んど注を附していない。これからその注作業に入ろうと思っている。
傾くやいつさい了へし雪の墓
――しづさん……これは今の僕であったねえ……
川村蘭太氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の中に判読可能な大きさで画像が示されている句稿が二枚ある。これを見ると、少なくともこの句稿の場合、激しい推敲の後を留めたもの(普通の投句に見られる清書がなされていないもの)であることが分かる。川村氏はこれを用いて、しづ子の作句上の特徴である『連作作法』を明らかにされている。川村氏の言う『連作作法』とは、『最初に得たイメージを連鎖させることによって、自身のテーマを摑んでゆく方法で』、『テーマの確証が固まってくると、しづ子は俄にその主題に埋没し出』し、『彼女はテーマに埋没することによって描くべき人物になり切ってゆく』のだと語られ、その例をこの二枚の原稿画像を用いて解説なさっておられる。
ただ、ここには私にはやや解せない部分がある。それは三五六頁の書き出しに『最初のイメージを想起させる句』として掲げられた、いわばここで連作作法を説明するプロトタイプの句として、「満月の夜にて女體の恥ずるなり」が示されているのだが、続けて読んでゆくと、この句は「17」よりも前の句稿にあるように書かれているのである(三五七頁冒頭に『これでこの句は完了したのかと思うと、一七枚目には』とあることから明白)。ところが、更に読み進め、また、掲げられた画像を視認してみると、「18」枚目になってまた、先に川村氏が説明したのと全く同じ推敲訂正抹消を施した「満月の夜にて女體の恥ずるなり」が再び現れるのである。同じ推敲訂正末梢を施したものが再度現れることはあり得ないとは言えないが、失礼乍ら私は、ここには叙述上の何らかの錯綜があるのではないかと感じている。
それはそれとして、私は、本プロジェクトの最後に、この画像として視認出来るしづ子の生原稿を私なりの方法で読み取り、活字で再現したい願望に駆られたのである(「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」巻末の「鈴木しづ子 全句」にある句群は推敲の跡を示していない。しづ子の推敲過程への興味は川村氏ならずともそそられるものがある。また、その願望以外に、失礼ながら「全句」では例えばこの最初の句の下五を「搖らぎかふ」と誤読――これは草書体の「な」を「ふ」と誤読したとしか思われない。そして実は「鈴木しづ子 全句」の他の箇所にも全く同様と推測される誤読としか思われないものが散見されるのである――している。また「全句」では、本文で川村氏がちゃんと読んでおられる「祈」の字が「■」で判読不能となっている等々、どうも川村氏ではない編集者によると思われる判読部分に多くの疑義があるのである)。以下、その作業を、せめてもの私の最後の、しづ子への謝意として終わりとしたいのである。
●大量投句稿日附不明二十枚の内 ノンブル「17」句稿
17[やぶちゃん注:右上に。通常便箋。左右の端の罫は、やや太く且つ上下もやや長い。句は基本一枚の便箋に一行空きで八句書かれており、その間に推敲跡がある。]
臥して見る白木蓮の搖らぎかな
花過ぎの木蓮の葉の靑みけり
足早に樹蔭を過ぐる手の包み
[やぶちゃん注:次の句は激しい推敲の跡がある。画像が小さいので抹消文字の判読は難しいが、推敲過程を私なりの読みで推測しながら示すと、まず最初に、
木蓮の白花をもちし樹蔭なり
と書いたもの全体を波線一本で抹消し、右に一字下げて少し小さく、
花過ぎの白木蓮の茂りかな
と記した上で、更にその下五「茂りかな」を途中で捻じれた一本線で抹消し、左側の空行の「もちし」の「ち」の高さの所に同じ大きさの字で、
木の茂り
と書いて、二行前の「白木蓮の」の「の」の下と曲線で繫げている。従って、次の句が最終推敲句となる。]
花過ぎの白木蓮の木の茂り
[やぶちゃん注:従って、この句の推敲過程は、
木蓮の白花をもちし樹蔭なり
↓
花過ぎの白木蓮の茂りかな
↓
花過ぎの白木蓮の木の茂り
となる。]
[やぶちゃん注:次の句は、本来、以下の記載がしづ子のものである。]
滿月の夜は女體もて祈り遂ぐ
[やぶちゃん注:ところが不思議なことに、この句は「全句」のあるべき当該箇所に所収してない。そして、この句稿には鉛筆による書き込みが多数ある。以下、その鉛筆書きを説明する。
まず句の頭に「の」の字状の記号と
その下に「レ」字型の記号が重ねて二つ
存在する。
そして、
「滿」をぐりぐりと消して右に「まん」
とあり、
「夜は」の「は」をぐりぐりと消して右に「ぞ」
と書き、
「祈り」の「祈」の横に「いの」
と書く。
ところが鉛筆による書き込みはそれで終わらずに、
句全体に曲線を持った一本線で削除線
が延びて、
「遂」の字から逆Vの字型に下部に線
が引かれて、その中に、右側、
判読不明の丸に左に落ちる鍵型の不思議な記号
が、そしてその下に、
「?」を〇で囲ったような記号
を配し、その左に、
「〇レ」のような記号
を頭にした、
まん月の夜の
と記してあって、その更に左に(写真では一部の判読が難しいが川村氏の判読を参考にすれば)、
いのりぞ女體もて
とある。これをそのまま続けて表記すれば、
まん月の夜のいのりぞ女體もて
と読める。
しかし乍ら、これは鉛筆であり、頭の「レ」の記号(明らかに選句の圏点)を見ても、しづ子の書き入れではなく、本文で川村氏も指摘されている通り、巨湫の斧正による句と見て間違いない。従って、しづ子の句としては、あくまで最初に示した「滿月の夜は女體もて祈り遂ぐ」のみが「全句」として採用されなければならない。]
[やぶちゃん注:次の句も激しい推敲の跡がある。まず最初に、
滿月の夜こそ女體のけがれなし
と記し、恐らくまず、「こそ」を二重線で消去してその右に、
にて
と記した。ところがその後に気に入らなくなったしづ子は、残りの「滿月の夜」「女體のけがれなし」の部分に波線を引いて末梢、左の空行部分に、少し小さな字で、
滿月の夜のいとなみの女人の手
と直した。しかし、下五がやはり気に入らず、「女人の手」を一本線で消去、今度は右の空行部分に、
女體の手
と書いて、「いとなみの」の下と曲線で繋げて、以下の句を決定稿としているものと思われる。]
滿月の夜のいとなみの女體の手
[やぶちゃん注:則ち、この句の推敲過程は、
滿月の夜こそ女體のけがれなし
↓
滿月の夜にて女體のけがれなし
↓
滿月の夜のいとなみの女人の手
↓
滿月の夜のいとなみの女體の手
となる。]
傳説の満月の夜の捧げもの
滿月の夜はいけにへの女體焚くと
●大量投句稿日附不明二十枚の内 ノンブル「18」句稿
18[やぶちゃん注:右上に。通常便箋。以下、17に同じ。]
滿月の夜は祈りの手ほどかざる
[やぶちゃん注:元は、
滿月の夜は祈りの手摑みしままに
とあったものを、下五字余り七音を波線で消去、「ほどかざる」と右に訂したものである。]
女體にて月のみ前に恥づるなし
[やぶちゃん注:頭に巨湫によると思われる鉛筆の「レ」点一つあり。この句は元の、
月み前女體捧げて惜しむなし
を総て波線で消去、その右側にやや小さな字で表記の句を書いている。]
滿月の夜にて捧げむ女體かな
[やぶちゃん注:頭に巨湫によると思われる鉛筆の「レ」点一つあり。この句は元の、
滿月の夜こそ捧げむ女體かな
とした「こそ」を二重線で消去、右側に「にて」としたものである。]
女體にて滿月の夜の火を捧ぐ
[やぶちゃん注:元は、
滿月の夜こそ女體の恥づるなし
であった。次に、まず「こそ」に二重線を引き、右側に「にて」として、
滿月の夜にて女體の恥づるなし
としたが、気に入らず、「にて」を更に一本線で消去した上で「滿月の夜」「女體の恥づるなり」をも波線で消去して、冒頭の句を決定稿としたものと思われる。]
滿月の夜に女體に祈りはなし
萬綠の岩に足立ち髮を梳く
ローレライの乙女とおもふ萬綠に
綠蔭におのが歌ごゑ翳らしむ
[やぶちゃん注:この句、頭に巨湫によると思われる鉛筆の「レ」点二つあり。]
これを以て、私の鈴木しづ子全句からの琴線句抄出を終了する。
最後に――
我々に鈴木しづ子の全貌を伝えて下さった川村蘭太氏に改めて心より感謝する――
そして――
しづへ――
愛を込めて――“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!
きょうだいの性異なれる緑雨かな
拭う雨東京の土踏むことなし
書くときと身近にたもつ蠅叩き
五月雨の流れどおしの木木の虜
万緑や腰おろすべき石さがす
「五月雨の」の「木木の虜」はママ。「膚」の誤植。ここだけは総て底本通りの表記で示した。『きのうみ』昭和三十八(一九六三)年六月号しづ子詐称投句全掲載句の再録(「拭ぐう」の「ぐ」がなくなり、「萬」が「万」になっている)であるが、ともかくも、これが最後の巨湫による、本当の最後のしづ子詐称投句ということになる。『俳句苑』は巨湫が関わった同系組織の短詩系結社の転載総合俳句誌といったもので、この『俳句苑』は第二次の再開創刊号にあたる(巨湫は主宰ではなく編集長であった)。――これが最後となったのは――巨湫は本号発刊直前に脳軟化症で倒れ――そして、この昭和三十九(一九六四)年七月二十三日に――亡くなったためである――ともかくも巨湫は――確信犯でしづ子を騙った詐称投句を――死ぬまで貫徹したと言えるのである――
花舗(はなみせ)へ橋越えてゆく梅雨の降り
午後よりは齒醫者へ通う梅雨の照り
炎日の草が吹かるる縣境
短か夜のゆめの白さや水まくら
風鈴や枕に伏してしくしく沸く
最終句の「沸く」はママ。「涕く」の誤植。総て現存する大量投句稿の、最も古い昭和二十六(一九五一)年六月八日附句稿から採られたものである。総てを投句稿の正表記(私の恣意的な旧字化をしていない底本のままの意)で示す。
花舗へ橋越えてゆく梅雨の降り
午後よりは歯醫者へ通ふ梅雨の照り
炎日の草が吹かるる縣界
短夜の夢の白さや水枕
風鈴や枕に伏してしくしく涕く
「花舗」の読みは元にはない。これらも同句稿の連続する十六句の中から採られた五句である。因みに、最後の句は『指環』に所収する句である。
――そしてこれが――鈴木しづ子の『きのうみ・樹海』での詐称掲載の――最後となった――
蟻をあわれとおもうことよりおのれをば
蟻のごとおのれの危機に聡とかりせば
とりいだせし扇風機にも過去嚴と
とりいだせし扇風機にも戀哀われ
とりいだせし扇風機にて人はなし
総て昭和二十七(一九五二)年七月二日附大量投句稿から。但し、次の三句は表記が異なり、
蟻をあわれとおもふことよりおのれをば
蟻の如おのれの危機に聡かりせば
次の句はてにをはが異なる。
とりいだせし扇風機にて戀哀われ
なお、これらの選句されたものの原稿は殆ど同一の句稿紙から採られたもので、九句の連続した句稿からこれら五句が選ばれている。
濃靑の葉のため息にて雫りけり
高かき葉の隔日に照る梅雨なりけり
蟻の體にジユッと當てたる煙草の火
梅雨の燈や海を渡たれば近づく駿
梅雨寒むの點もらぬ煙草唇はさむ
前の注で私が「……しかし……」と言った理由は、以下の句の出所からである。
・第一句「濃靑の」(「濃靑」は「こあを」と読む)は第二句集『指環』に所収している句である。但し、これまで『樹海』その他の誌上に掲載されたことはない。しかし、十一年前とはいえ、厳然たる句集の既出句である。
・第二句「高かき葉の」は昭和二十六(一九五一)年『樹海』八月号既掲載句。但し、先行句は不自然な送り仮名「か」はない。
・第三句「蟻の體に」も昭和二十六(一九五一)年『樹海』八月号既掲載句。但し、先行句は歴史的仮名遣いに則り、「ジユツ」で拗音化されていない。
・第四句は、底本編者注もあるが、「駿」は「驛」の誤植で、現存する大量投句稿の、最も古い昭和二十六(一九五一)年六月八日附句稿から採られたものである。但し、句稿では、
梅雨の燈や海を渡れば近づく驛
と、「渡」に奇妙な送り仮名「た」は、ない。
・第五句「梅雨寒むの」も同じく昭和二十六(一九五一)年六月八日附句稿から採られたものだが、これは
梅雨寒むの點さぬ煙草唇はさむ
であり、斧正が入っている。しかしここでも奇妙な送り仮名「も」が入っていることの方が気になる。
以上の内、少なくとも昔からの「樹海」同人にとっては最初の三句は既知の旧句である。特に『樹海』を手に取り、また、部外者でもしづ子を少しでも知る者なら「蟻の體にジユッと當てたる煙草の火」を知らぬ者はなかったはずだ。少なくともしづ子を知っている「樹海」同人であったなら、この号で巨湫がしづ子を詐称していることを、どんな馬鹿でも見抜くであろう。――前号とこの号との二か月の間で、もしかすると巨湫は、「樹海」同人の鋭い誰かからか暗に詐称を指摘されて(それも、あの如何にもな選評が仇となって)、自分の犯罪がバレたことを知ったのかも知れない。――ともかくもこれで、巨湫は遂に詐称を公的に認めてしまったことに他ならない、と私は思う。――その呵責が、無意識的に元の句を変則的に変えるおかしな送り仮名になって表れたのではないか? いや、巨湫にとって詐称は――もうどうでもいいことであったのかも知れない……
きょうだいの性異なれる綠雨かな
拭ぐう雨東京の土踏むことなし
書くときも身近かにたもつ蠅叩き
五月雨や流れどおしの木木の膚
萬綠や腰おろすべき石さがす
この時、『樹海』は『きのうみ・樹海』と改称し、通算五十号を数えている。さて、掲載句は総て現存する大量投句稿の、最も古い昭和二十六(一九五一)年六月八日附句稿から採られている。但し、「拭ぐう雨」と「五月雨や」の二句は、投句稿では、
拭う汗東京の土踏むことなし
五月雨の流れどおしの木木の膚
である。後者の斧正は格助詞「の」の畳み掛けを切れ字で断つ方が断然よく、穏当であり正しい(「ぐ」の、この後にも似たように見られる気持ちの悪い送り仮名はいただけないが)。しかし、前者は私から見ると、たとえ師であっても斧正としては全く認められない『操作』である――いや――いいか、どうせ詐称しているんだから、ね……。
そして――この掲載には巨湫の最後の芝居と謎かけがなされている――
まず、川村蘭太氏の「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の本文(三九四頁)によれば、この詐称投句に虚偽の選評を施し、
ひさかた振りのしづ子さん。俳句のルール(みちすじ)を踏まえている。――象徴――てんでゆるぎもありません「格はいく第五詩格旧十七音詩」(乗摘象徴発想)として推します
とあるとする。『「格はいく第五詩格旧十七音詩」(乗摘象徴発想)』とはよく分からないが、恐らく巨湫が「樹海」同人の中で展開した彼の独自の俳論のセオリーの一種であろう。それにしても、ここまで確信犯で詐称を厚塗りする巨湫は、何か見ていて傷ましい気がしてくる。
更に「謎」である。それは、この掲載の作者の住所を示す位置に(底本では一句目「きょうだいの」の後に編者注で示されるが、「鈴木しづ子」という名前がその句の下(若しくは後)に示されてある、その下の位置か?)ある。
狭河
である。謎の地名である、この謎の「狭河」の探訪は「しづ子 娼婦と呼ばれた俳人を追って」の最終章をお読み戴きたい。
――それにしても――巨湫が四年の沈黙を破ってまたしても確信犯の詐称を再開した、その採録投句稿が、例の異様な大量投句稿の最初の日附であることに着目したい。――巨湫はまたしても確信犯でゼロ座標からしづ子投句を始めようとしたのではなかったか? 彼は性懲りもなく――またゼロから詐称を始めたのではなかったか?!……しかし……
挑まれてわが甲虫たたかへり
如何樣にしても甲虫たたかはず
甲虫を女童(おんなわらべ)のせつに欲る
しづ子の好きな「欲る」という動詞を以て終わり……この後、凡そ四年、しづ子の句は『樹海』から姿を消す―……
蟬籠提げ兄に蹤きゆくうたがはず
炎暑の地罐がころがる誰も除かず
やがて蟻つどひくるらむ棄てし菓子
「蟬籠提げ」兄妹の蟬取りの嘱目吟であろう――あろうが――私には少女のしづ子と――少年の巨湫がそこに見える――
體を入れてコスモスを折る驛柵のひま
月下にて驛柵のひま次第に粗き
銀漢の定かならねば滿たされず
手袋の五指を握る凍でゆまじ
儀禮的に手袋をはづせしなり
首をめぐりてマフラの端を背と胸に
底本では「月下にて」の後に編者により『再掲載』の注記がある。これは昭和三十三(一九五八)年十一月号の誤植を受けてのものと思われるが、そうした気の使い方にも、私は巨湫の微妙な心のあるゆらぎのようなものを逆に感じるのである。
蟬鳴くなか生煮えの菜に塩をふる
月下にて駿柵のひま次第に粗き
詩稿すべて裂きてすてしより落着く
底本、二句目の後に編者により『「駅柵」の誤植』という注記がある。「蟬鳴くなか」の句、何故か一読忘れ難い。
歩をとめて見るまでもなく銀河あり
因みに、ここで私はしづ子と接続する。この月の十五日に私は生まれているのである――
「……銀河を渡ってゆく嬰児(みどりご)が……しづさん、見えますか? あれが……私です……」
傾くやいつさい了へし雪の墓
――フリードリヒの絵を髣髴とさせる寂寥の画面――
このあたり柿美しく子は早熟
秋の夜の醬油こぼせしひとりごと
ひとの顏野分の中に現れぬ
へだつればいつさい喜劇石榴咲く
ひつそりと彌生の晝を覺めにけり
「へだつれば」と「ひつそりと」の句は大量句稿中の昭和二十七(一九五二)年二月十二日附句稿に認められ、前者は、
經だたればいっさい喜劇柘榴咲く
の句形で、珍しく軽い巨湫による斧正が入っている。
からたち
照る月を夫となすかけがへあらぬ
人形に添寢をさせる蒲團かく
炎え出でし梅雨の光りの永からず
楓の葉に梅雨颱風あつさり過ぐ
渦潮の春日のもとの厚みかな
躬を寄せていぶり炭をば見分けむと
なぜか汗が哀れでならぬ書きつつに
「渦潮の」と「躬を寄せて」の二句は――特に伝統俳句の観点から見れば――如何にも渋い名吟と私には映る。少なくとも地に足の着いたしっかりとした句である。
今日、以前からやりたかった浦沢直樹の「プルートゥ」の「ノース2号の巻」を、一時間かけて近代文学の講座(僕の今の学校は単位制総合高校で普通科にはないオリジナルな講座がある。おまけに3年生が自由登校になって個人授業が一気に増えた)を受けている高校二年生の女子と作品構成や伏線を指摘しながら一緒に「読んだ」。
彼女は一回読んだことがあるとのことだったが……
二人で読み終わって……
彼女も僕も二人とも……
泣いていた……
こんな「授業」は……
僕の教師生活で……
最初で最後……
東京のからたち芽吹く頃と思ふ
すべて星月ひかりの甍おく
鵙鳴くや沼に棄て來し戀ひとつ
そびらにて春の霜の葉吹かるるか
おのおのの葉のいのちささげて月に光らふ
三句目――鵙鳴くや沼に棄て來し戀ひとつ――SEもロケーションも完璧――泉鏡花の「沼夫人」だ――私好みの句である――
魂の旅をするのも――いいもんだぞ――
(教え子へ)
四
誰〔たれ〕であったか、(小島政二郎であったか、誰であったか、忘れたが、――ある人が、――)芥川の小説には、人の死ぬ事を述べたものが多い、殊に小説の最後に、(あるいは、最後の方に、)人が死ぬところが多い、と、なにか、それに意味があるように、いった。もっとも、これは、芥川があのような死〔し〕に方をしてから間〔ま〕もなくの時分であったから、いくらか敏感な人たちに、そのように思われたのであろう。
しかし、私は、そのような事は、別〔べつ〕に大〔たい〕した意味などあるのではない、たまたま、芥川がとりあつかった小説の題材が、そのような事に、(つまり、人がよく死んだり、小説の最後に、⦅あるいは、最後の方に、⦆人が死んだり、する事に、)なったのである、と思うのである。
芥川の初期の短篇に『ひよつとこ』というのがある。(芥川の全集のなかの別冊のうちにおさめられてある年譜によると、この『ひよつとこ』は、大正三年の四月号の「帝国文学」に発表されたが、書いたのはその前の年の十二月である。そうして、処女作は、大正三年の四月に書いて、第三次「新思潮」に発表した『老年』である。)
[やぶちゃん注:「『ひよつとこ』は、大正三年の四月号の「帝国文学」に発表された」は誤り。「ひよつとこ」の発表は大正四(一九一五)年四月号『帝国文学』(脱稿時期は作品末に『(三年一二月)』というクレジットがある。但し、これは原稿の『(三○年一二月)』を編集者が訂したもの。リンク先の私のテクスト注を参照)。「処女作は、大正三年の四月に書いて、第三次「新思潮」に発表した『老年』である」発表は大正三(一九一四)年五月一日。]
さて、『ひよつとこ』は、花見時〔はなみどき〕に、隅田川を上〔のぼ〕る花見の船(伝馬船)の上〔うえ〕で、塩吹面舞〔ひっとこまい〕をおどる事のすきな山村平吉が、得意の踊りをおどっているうちに、脳溢血をおこして、船の中に、ころがりおちて、死んでしまう、というような話を、独得のしゃれた、気どった、文章で、得意の揶揄と皮肉をまぜて、書いたものである。ところで、この小説の最後に、平吉が、ほとんど意識がなくなってから、「面を……面をとつてくれ……面を、」と、かすかな声で、いったので、傍にいた者が手拭と面をはずしてやるところがあって、そのあとに、作者は、
*
しかし面の下にあつた平吉の顔はもう、ふだんの平吉の顔ではなくなつてゐた。小鼻が落ちて、唇の色が変つて、白くなつた額には、油汗が流れてゐる。一眼〔ひとめ〕見たのでは、誰でも之〔これ〕が、あの愛嬌のある、へうきんな、話のうまい、平吉だと思ふものはない。たゞ変らないのは、つんと口とがらしながら、とぼけた顔を胴の間〔ま〕の赤毛布〔あかげつと〕の上に仰向〔あふむ〕けて、静に平吉を見上げてゐる、さつきのひよつとこの面ばかりである。
と、書いて、この小説を、結〔むす〕んでいる。
[やぶちゃん注:「ひよつとこ」は初出稿と全集所収の決定稿では大きく異なる。後の作品集『煙草と惡魔』に所収された際に大きな改稿が行われている。宇野の本文は全集の決定稿の掉尾の段落総てである。その違いはリンク先の私のテクストを参照されたい。]
これだけ読めは、実に気味がわるい、ある種の批評家などは、「鬼気がせまる、」などという。
が、私は、(私も、)ちょいとそう思うけれど、結局、そう思わない。ただ、かぞえ年〔どし〕二十三歳の青年がこういう小説を書いたことを思うと、ぞっとする。それは、私のような鈍な生〔う〕まれの者は、この年頃〔としごろ〕の時分は、呑気〔のんき〕であったから、こんな事を思うのかもしれない。しかし、また、私はこうも考えるのである、
たった二十三歳の青年が、このあんまりうまくない小説に、このような気のきいた結末を作〔つく〕ったのであるから、これはなみなみの才能ではない、と。
しかし、また、おなじ小説のなかにある、
*
Janusと云ふ神様には、首が二つある。どつちがほんとうの首だか知つてゐる者は誰もいない。平吉もその通〔とほ〕りである。
*
などというところを読むと、私は、芥川は、すでに、こんな時分から、(どこで学〔まな〕んだのか、持ち前のものであるか、)こういうマヤカシの文句を、使いはじめていたのか、と、驚歎するとともに大〔おお〕いにアキレもしたのであった。
[やぶちゃん注:「Janus」ヤーヌス又はヤヌスと読む。ローマ神話の門戸神。前後二つの顔を持つ。境界神であることから一年の堺に存在する一月を司る神として、英語の January の語源ともなった。]
マヤカシといえば、『往生絵巻』のおわりの方の、五位の入道が、「阿弥陀仏よや。おおい。おおい、」と叫びながら、西へ、西へ、と駈〔か〕けつけた末に、海辺の松の枯れ木の梢の上にのぼり、そこで餓〔う〕え死〔じ〕にするところがあるが、それを見た老いたる法師が、葬〔とぶろ〕うてやろう、と思って、その屍骸を見て、「や、これはどうぢや。この法師の屍骸の口には、まつ白〔しろ〕な蓮華〔れんげ〕が開いてゐるぞ。さう云へば此処〔ここ〕へ来た時から、異香いかうも漂うてはゐた容子〔ようす〕ぢや」というところなども、私は、やはり、芥川一流〔いちりゅう〕のマヤカシの文句である、と思うのである。
ところが、私ずっと前に愛読したことのある、宮本顕治の『敗北の文学(芥川龍之介氏の文学いついて)』の中で宮本は、この『往生絵巻』について、「この『往生絵巻』はユウモラアスな形式の下〔もと〕に、笑ひ切れない求道者の姿を書いている。正宗白鳥氏は、この作品の結末はまつ白な蓮華の咲く非現実的な描写を捉へて、芥川氏がリアルに徹することの出来なかった人だといふことの例証としてゐる。勿論、我々は別の意味で氏が現実を深く認識しなかつたことを批判する。けれどもかうした偏狭な自然主義的批判は永久に、作品の本質を理解し得るものではない。作者は『五位の入道』を愛してゐる。憐愍を越えて、まじめに愛してゐるのだ。蓮華の花を咲かす事は氏の『遊び』ではない。枯木の梢に死んだ求道者に、心から詩的な頌辞を最後に手向けてゐるのである、」と述べている。
この宮本の『往生絵巻』にたいする意見は私がさき述べた事とほとんど反対である。しかし、私は、ここに引いた宮本の文章をよんで、感動した、一面に芥川の文学を否定しながら、他面ではかくのごとく、芥川の文学を、よかれあしかれ、ふかく理解し、(いくらかまやかされているところがあるが、)芥川の文学に引かれている、宮本の情熱に、私は、感動したのである。そうして、ついでに書けば、私は、宮本の『敗北の文学』のなかの
*
……プロレタリアートの戦列に伍して、プロレタリアの道を踏まうとしてゐるインテリゲンチャの書棚に、×の新聞と共に、芥川氏の『侏儒の言葉』が置かれてゐないと誰が断言し得よう。曾〔か〕つて私は、自己の持ち場に帰つてゐるインテリゲンチャ出の一人の闘士が、一夜腹立しさうに語つたことをおぼえてゐる。「駄目だ! 芥川の『遺書』が、――『西方の人』が、妙に今晩は、美しく、懐しく感じられるのだ。」
彼のみではない。青野季吉氏も「芥川氏の生涯とその死とは、私の心をとらへて離さないものがある。……私たちは芥川氏を批判することは出来る。だが、芥川氏を捨てて顧みないことは出来ない。自分の中にも、芥川氏があり、芥川氏の死があるからである、」と云つてゐる。そして又、林房雄氏が芥川氏の死によつて、虚無的な気持ちを掻き立てられ、中野重治氏が芥川氏を「大層かはいさう」に思ふのは、氏の中に感じる我れ我れ自身の残体のためであらう。
*
と述べているところを、何度目かで、読んで、心うたれた。それは、宮本が、こう書いたのは、「この作家の中をかけめぐつた末期の嵐の中に、自分の古傷の呻きを聞く故に、それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだらう、」と思い、芥川の文学を再批判するため述べたのではあるが、ここ引いた一節は、おなじ世紀末の息を吸った私の心を、殊に、間道せるのである。(さて、記憶が例のようにまちがっているかもしれないが、)この時、「改造」で、この宮本のすぐれた論文が一等になり、小林秀雄の『様様なる意匠』が二等当選した。芥川の作品を、武田麟太郎や、こと小林多喜二などが、愛読していたことは聞き知っていたが、左翼の闘士たちの中にも、愛読していた者があった、という事を、もし、芥川が、あの世で、知ったら、ナンというであらうか、というような愚かな空想を、私は、したのであった。
さて、亨えに述べた「マヤカシ」について再〔ふたた〕びいうと、前の章に書いた、『れげんだ・おうれあ』の話も、マインレソデルの一件も、やはり、芥川一流のマヤカシであろう。そうして、かりにこの私の偏見が半分ぐらいあたっているとすれば、芥川は実に人を食〔く〕った男であった、という事になる。正〔まさ〕にそのとおりで、芥川は、人をくうようなところもたしかにあった、が、それ以上に他人が想像もつかないような気の弱いところが多分にあった。それから、文壇で、高い地位をしめながら、はなやかな流行児になりながら、芥川は、あれはど、いわゆる左顧右眄〔さこうべん〕し、自分の作品の批評などを、ひどく気にする人であった。
芥川の第一短篇集『羅生門』が出たのは、大正六年の五月である。この年、芥川は、かぞえ年〔どし〕、二十六歳であった。その頃の芥川の親友の一人であった、江口 渙が『芥川龍之介論』の最初に、
*
数多い新作家の中で芥川君ぐらゐ鮮〔あざや〕かに頭角をあらはした者はない。志賀直哉、里見弴の二氏とならんで真に文壇近来の壮観である。芥川君が今度その創作第一集『羅生門』を出した。それを機会に私は聯〔いささ〕か同君の作品を是非してみたい。
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と述べている。
ところが、私のおぼろげな記憶によれは、右の三人のうちで、年〔とし〕でいえば最年長者である、志賀直哉はいつとなく文壇にみとめられ、世に出てからは『うますぎる』というような評判を得た、里見 弴もしだいしだいに文壇にみとめられるようになったのである。ところが、芥川は、バイロンが、『チャイルド・ハロルヅ・ビルダリメイジ』が公刊された時、「一朝〔いつてう〕目ざむれば忽ち聞人〔ぶんじん〕たりき」という程ではなかったけれど、それに稍〔やや〕ちかいところがあった。
[やぶちゃん注:バイロンは一八一二年に二十四歳で刊行した小説“Childe Harold's Pilgrimage”(「チャイルド・ハロルドの巡礼」)のベストセラーで一躍、時代の寵児となった。]
バイロンといえば、谷崎潤一郎が、『青春物語』のなかに、「バイロン卿の例を引くのも烏滸がましいが、由来私は最も花々しく文壇へ出た一人であるとされてゐる。しかし、それでも世間に認められるやうになつたのは、翌明治四十三年の三月『新思潮』[註―第二次]が廃刊した後、六月の『スバル』に『少年』を書き、七月(?)の同誌に『幇間』を書いた前後からだつた。その時分になつて、鷗外先生や上田敏先生が『麒鱗』や『幇間』を褒めて下すつたといふ噂が、ポツポツ私の耳に這入〔はひ〕つた、」と述べている。つまり、谷崎潤一郎さえ、「バイロン卿の例を引くのも烏滸がましいが、……」といったあとに、「それでも世間に認られるやうになつたのは、……」と述懐しているのである。
それを、芥川は、「新思潮」(註―第四次)に発表した『鼻』が、はしなくも、夏目漱石に、賞讃されたために、たちまち、その名声があがったのであるから、バイロンの「一朝目ざむれば……」の十分の一ぐらいの状態になり気もちになったにちがいない。されば、いかに聡明な人であったとはいえ、かぞえ年〔どし〕、二十五歳の青年である。まして、「『ええ、わたしは何でもえらい学者になりたいのです。下界の事から天上の事まで窮〔きは〕めまして、自然と学問とに通じたいと存じます。』「フアウストの中の学生はかうメフィストフェレスに語つてゐる。この言葉はそのまま学生時代の信輔にも当て嵌まる心もちだつた。尤も彼のなりたいものは必〔かならず〕しも学者とは限らなかつた。それは純粋の学者よりも寧ろ学者に近いものだつた。或〔あるひ〕は藝術家に近いものだつた、」(『大導寺信輔』のうち)というような野心を学生時代から持っていた青年である、蓋し天狗になったのも無理ではないのである。
[やぶちゃん注:『大導寺信輔』は正確には『大導寺信輔の半生』。]
その天狗になっているところへ、出世作となった『鼻』が、漱石門下の鈴木三重吉にもみとめられ、あらためて、三重吉の主宰していた「新小説」の五月号に掲載される事になった。そこで天狗は、ますます調子にのり、その年〔とし〕のうちに、『孤独地獄』、『父』、『虱』、『酒虫』、『野呂松人形』、『仙人』、『芋粥』、『猿』、『半巾』、『煙草と悪魔』、などを発表し、更に、その翌年(つまり、六年)には一月から六月までの間〔あいだ〕に、『運』、『尾形了斎覚え書』、その他、七篇の小説を書いた。しかも、そのうちの四篇は、その時分の文壇の登竜門といわれ檜舞台〔ひのきぶたい〕と称せられた、「中央公論」に出たのである。これには、文壇の人たちは、もとより、一般世間の人たちも、目を見はった、それには、作者が二十五、六歳の青年である、というような好奇心もあったが。いずれにしても、これは『日の出の勢〔いきおい〕』であった。しかし、また、この調子にのりすぎた事はその後〔のち〕しだいに芥川をくるしめる元〔もと〕になった。(前にも述べたかと思うが、志賀直哉や谷崎潤一郎などは決して調子にのらなかった。)
さて、調子にのり、調子にのせられた、芥川は、ますます調子の波にのって、大正六年の六月に、さき上〔あ〕げた、大正五年と大正六年の上半期の小説のうちから、十四篇をえらんで、第一短篇集『羅生門』を、出版した。その上〔うえ〕、その年の六月二十七日に、『羅生門の会』(つまり、『羅生門』の出版記念会)が、日本橋の『鴻の巣』で、開かれた。(菊池寛は、これを、出版記念会の始まりであるといったが、その当否は別として、この『羅生門』の出版記念会は、私の知るかぎり、もっとも劃期的なものであり、もっとも花やかなものであった。)『鴻の巣』などといっても、今〔いま〕の人はたいてい知らないであろう。久保万太郎が、『明治四十四五年』という文章のなかに、
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鴻の巣といへば、当時、「スバル」「白樺」の新〔あたら〕しい文学者たちのより合場所として知られてゐた。高村光太郎、木下杢太郎、北原白秋、吉井勇、里見弴、萱野二十一の諸君が始終そこに出入してゐた。いふならば、そこに足をふみ入れるといふことが、すでに、新しい芸術の香気に触れるといふことにわれわれにすればなつた。
[やぶちゃん注:「萱野二十一」は「かやのはたかず」と読み、劇作家郡虎彦の初期ペンネーム。]
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と述べている。しかし、その頃、私などがよく行った、(もっとも、久保田、水上滝太郎、小泉信三、その他も、行ったらしく、佐藤春夫、平塚明子、尾竹紅吉[今の富本憲吉夫人]その他も、行った、)コオヒイ一杯金五銭、ドオナツ一箇金五銭、というような、カフェエパウリスタなどとくらぶれば、『鴻の巣』は超高級の西洋料理店である。『羅生門』の出版記念会は、その『鴻の巣』で、もよおされたのである。そうして、その会の世話役は江口 渙と佐藤春夫がつとめた。
[やぶちゃん注:「平塚明子」は平塚らいてうの本名「明」。「はる・はるこ」と読む。「尾竹紅吉」(明治二十六(一八九三)年~昭和四十一(一九六六)年)は一般には「おたけこうきち」と読まれているが、本来は「べによし」と読む女流画家・婦人運動家尾竹一枝の画号。日本画家尾竹越堂長女。明治四十五(一九一二)年に青鞜社に入社、平塚らいてうの愛弟子として雑誌『青鞜』の表紙を担当した。青鞜退社後の大正三(一九一四)年、陶芸家富本憲吉と結婚する。ペン・ネーム富本一枝で婦人雑誌などに評論・随筆を発表する。戦後に憲吉と離別、出版事業に活躍、後年は童話なども書いた。「カフェエパウリスタ」は芥川龍之介の「彼 第二」にも登場する。京橋区南鍋町二丁目(現在の中央区西銀座六丁目)にあったカフェで、女給を置かず、直輸入のブラジル・コーヒーを飲ませるカフェとして知られ、文士の常連も多かったという(リンク先の私のテクスト注を参照されたい)。]
大正六年の六月六日に、芥川は、鎌倉から、江口と佐藤にあてて、つぎのような手紙を、書いている。
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羅生門の会は少々恐縮ですがやつて下されば難有〔ありがた〕く思ひます文壇の士で本を送つたのは森田 鈴木 小宮 阿部 安倍 和辻 久保田 秦 谷崎 後藤 野上 山宮 日夏 山本の諸君です
但〔ただし〕廿二日(金曜ですぜ土曜は廿三日でさあ)かへれません廿四日の日曜なら徴兵検査の為〔ため〕かへるので甚〔はなはだ〕都合がよろしいその夜か夕方ではどうですか場所と時間はきまり次第田端の方へ[やぶちゃん注:下線は底本では「〇」傍点。]御一報下さい江口君の新聞[註―六月十日に、やはり、鎌倉から、江口にあてた手紙のなかに、「羅生門論をおかきだつたらその新聞を私の所へ送つて下さい願ひます」とあるから、江口が『羅生門論』を出した新聞、という意味]も田端へねがひます
六月十六日 龍
江口 渙
両大人
佐藤春夫
[やぶちゃん注:底本では江口と佐藤の名は併記で間は空いていない。因みに、芥川龍之介は前年十二月一日附で横須賀の海軍機関学校教授嘱託(英語学)に就任、同じ十二月に塚本文と婚約もしている。]
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この手紙はおもしろい、先輩の名をならべて、『諸君』と、肩で風をきっているようなところがあり、「羅生門の会は少々恐縮ですが……」とか、「江口君の新聞も……」とか、いうふうに、肩をすぼめているところがあるからである。
ところで、この『羅生門』の出版記念会には、どれだけの人に案内状を出したか知らないが、出席した人が案外すくなかったようである。それは、七八年前に、私が、この『羅生門』の出版記念会の会場をうつした写真を見た記憶によると、細長いテエプルの両側に、十人か十二三人ぐらいいるだけで、空席があった程であったからだ。そうして、それらの人たちの中〔なか〕で、私の知っている顔は、谷崎潤一郎、江口 渙、佐藤春夫、久米正雄、加能作次郎[註―その頃「文章世界」の編集長]、もう一人〔ひとり〕誰〔たれ〕か、だけであった。しかし、佐藤春夫が、芥川が死んだ翌年(つまり、昭和三年)の七月[つまり芥川が死んでからちょうど一年目]に、『芥川龍之介を憶ふ』という文章のなかで、『羅生門』の出版記念会の事を、つぎのように書いている。
[やぶちゃん注:「どれだけの人に案内状を出したか知らないが、出席した人が案外すくなかったようである」新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、約五十名への案内状が送付されている。また、ここには宇野の大きな記憶違いがある。まず出席者は江口の記録によって二十三名とされ、実際に写真でも同数が確認出来る。また、宇野が当然知っていると思われる松岡譲・和辻哲郎・小宮豊隆・赤木桁平・豊島与志雄・有島生馬・滝田樗陰・田村俊子の顔が(私でさえも)視認出来る。]
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……この家の主人は文学者を愛好してゐたので、それに花の多い季節で、卓上にはどつさりスイトピーや薔薇などが盛られてあつた。自分は迚〔とて〕も希望のない自分の文学的生徒を考へ乍ら、颯爽として席の中心にゐる芥川を幸福だと思つた。会の終に此の家の主人が稍々〔やや〕大きな画帳を持ち出して芥川に記念の揮毫を求めた、芥川は「本是山中之人〔もとこれさんちゆうのひと〕」の五字六朝まがひの余り上手でない字で書いた。……
*
芥川と佐藤は、同〔おな〕い年〔どし〕であるから、この出版記念会のあった時は、かぞえ年〔どし〕、二十六歳であった。もっとも、この文章は、佐藤が、三十七歳の年〔とし〕に書いたものであるが、この文章を書きながら、十年まえを追想すれば、佐藤の心は、まったく、感慨無量であったにちがいない。大正六年といえば、すでに四五年も前から、佐藤は、「スバル」その他に詩を出していたが、その年〔とし〕の五月に、傑作『田園の憂鬱』の第一稿『病〔や〕める薔薇〔さうび〕』を「黒潮」という雑誌に発表しただけであり、芥川は、さきに述べたように、二十篇ぐらいの小説を書いて、すでに鬱然たる大家であり、花形作家であった。それで、その時分の二人をよく知っている私は、出版記念会の席上で佐藤春夫が「迚も希望のない自分の文学的生涯」をかなしみながら、「颯爽とし席の中心にゐる」芥川をうらやんでいる姿を、身も心も浮きたつ筈であるべき芥川の、『鴻の巣』の主人に出された画帳に『本是山中人』というような文句を書く、五分刈〔ごぶが〕りの頭〔あたま〕を、白い詰め襟のような白い夏服をきている、底にそこはかとない憂いをたたえている顔を、思いうかべて、たのしかるべき事を書きながら、なぜか、心がうかぬのである。しかし、ふと、大正六年といえば、佐藤が、(佐藤は、その四五年前から、「三田文学」、「スバル」、その他に、巧みな気のきいた詩や小品を、出していたが、)その年〔とし〕の五月に、傑作作『田園の憂鬱』の第一稿『病〔や〕める薔薇〔さうび〕』を「黒潮」に発表した年であることを、私は、思い出した。そうして、私の記憶つがいでなければ、『病める薔薇』という題の横に、たしか、三上於菟吉に献ず、という言葉があって、そのまた横に、
O Rose, thou art sick
The invisible worm.
That fries in the night
In the howling storm;
という、ウィリアム・ブレイクの“Songs of Experience”、(『経験の歌』)のなかの“The Sick
Rose”の一節(あるいは全体)が引かれてあった。
[やぶちゃん注:私はこの初出を現認したことがないので、ここに記された事実について語ることは出来ない。「田園の憂鬱」がブレイクの本詩に基づき、作中で「おお、薔薇、汝病めり!」と繰り返されることは周知の事実である。但し、私の所有する、後に単行本化された「田園の憂鬱」では、巻頭にエドガー・アラン・ポーの以下の詩が配されている。
I dwelt alone
In a world of moan,
And my soul was stagnant tide.
Edgar Allan poe
私は、呻吟〔しんぎん〕の世界で
ひとりで住んで居た。
私の靈は澱〔よど〕み腐れた潮であつた。
エドガア アラン ポオ
初出誌をお持ちの方は是非、宇野の叙述が正しいかどうか、是非、御教授願いたい。]
“The Sick Rose”――『病める薔薇』――これだけでも、私の胸はおどった、それは私がブレイクの詩をふだん愛読していたからでもあるが。(ついでに書けば、私がブレイクの詩を愛読するようになったのは、柳宗悦の『ヰリアム・ブレイク』[註―大正十三年十二月発行、この本を出した洛陽堂は「白樺」を出した本屋である]を読んでからである。私は、これを、はじめて「白樺」に出た時、読んだのであるが、そのころ二十一二歳であった私は、この文章の書き出しの「永遠のべエトオヴェンが、その形骸を地に棄てた年――同じ千八百二十七年に又一人の絶大な芸術家が永く天に帰つていつた。夏八月十二日である、」というところを読んだだけでもう感激してしまった。)
さて、その時「黒潮」に発表されたのは、後に出された『田園の憂鬱』の三分の一ぐらいで、その最初の方である、これも、
*
その家が、今、彼の目の前へ現れて来た。
初めのうちは、大変な元気で砂ぼこりを上げながら、主人の後〔あと〕になり前になりして、飛びまはり纏はりついて居た彼の二疋の犬が、やうやう柔順になつて、彼のうしろに、二疋並んで、そろそろ随〔つ〕いて来るやうになつた頃である。高い木立〔こだち〕の下〔した〕を、路がぐつと大きく曲つた時に、
「ああやつと来ましたよ」
*
という書き出しを読んだだけで、私は、「これは、」と、目を見はった、この清新な表現にいたく心をうたれたからである。そうして、それにつられて、この小説を読みおわった時、私は、谷崎潤一郎の小説をはじめて読んだ時より、芥川龍之介の最初の小説をいくつか読んだ時より、作品のよしあしは別として、この小説にもっとも新味を感じた。それで、その翌年(つまり、大正七年)の九月、この小説が『田園の憂鬱』となって、「中外」という雑誌に出た時は、それを読んで、誇張していえば、驚歎した。私は、この小説の出ている「中外」を、その頃、赤坂の表町の伯父の家に寄寓していた、廣津から、借りて、本郷の弓町まで帰る電車の中で、乗りかえ場所の須田町の電車の停留場に立ちながら、この小説をむさぼるように読みつづけた。そうして、一気によみおわり、その翌日、廣津のところへその雑誌をかえしに行った、それは感心したことを報告するためでもあった。また、ついでに述べると、その弓町の下宿屋で、貸本屋でかりた永井荷風の『腕くらべ』にも感心して、私は、さっそく廣津を訪問して、自分ながら生意気〔なまいき〕な文学青年であったと思うが、「荷風がはじめて小説らしいもの書いたよ、読んでみたまい、」と、いったものである。
ここで、悪例の長い寄り路を元〔もと〕にもどすと、佐藤が『羅生門』の出版記念会に出た頃は、『病める薔薇』を書いたばかりの時で、都会の重圧と喧騒にくるしみ文学的の悩〔なや〕みにも堪えかねて、武蔵野の南の端〔はし〕の田舎にわびずまいをしていた時分あろうか、そこから引き上げて都会の片隅に住んでいた頃であろうか、とにかく、そういう時であったから、颯爽として見えた芥川が、佐藤に、幸福そうに思われたのか。いずれにしても、私は、この『羅生門』の出版記念会に主客として出席した芥川の姿と世話役として出席した佐藤の姿とを、心の目にうかべると、今〔いま〕の私には、「迚も希望のない自分の文学的生涯」を考えていた、という佐藤には、心の底には、気の張りがあり、ナニクソ、というような気がまえあり、颯爽としているように見えた芥川の心の底には、なにか、そこはかとなき、暗い、不安な、気もちがあったのではないか、と思われるのである。これは、また、持たぬ者の強みであり、持つ者の弱みである。そうして、その時、二十六歳であった佐藤には空想する余地があり、二十六歳であった芥川には空想する余地がなかった。それで、これは私の臆測ではあるが、『羅生門』の会の席上では、かえって佐藤や江口やその他の人たちがはしゃぎ、『羅生門』の扉に、「君看双眼色〔きみみよさうがんのいろ〕、不語似無愁〔かたらざればうれひなきににたり〕」と書いた芥川がかえって沈んでいたのではないであろうか、と。
[やぶちゃん注:「君看双眼色、不語似無愁」は白隱禅師「槐安國語」にあり、「禅林句集」にも引かれる。芥川龍之介の作品集『羅生門』扉に記されており、晩年の「三つの窓」の「2 三人」の作品末尾にも現れる。]
家に歸ると、パット爺さんが來てゐて、晩飯の後に長い物語をしてくれた。――
*
Old Pat was in the house when I arrived, and he told a long story after supper:--
昔、森の中に後家さんが一人息子と一緒に住んでゐた。息子は毎朝、森に薪木を拾ひに出かけた。或る日、地面に寢ろんでゐると、牛が後に殘していつた物の上に蠅が一杯飛んでゐるのを見た。彼は斧を取つて、それを打つと、一匹も餘さずに打てた。
その晩、息子は母親に向ひ、たかつてゐた蠅を一撃で殺すことが出來たから幸福を求めに世の中へ出かけるのによい時と思はれると云ひ、明朝持つて行けるやうに菓子を三つ作つてくれと賴んだ。
翌日、その三つの菓子を袋に入れて、夜が明けると直ぐ出立した。そして十時ごろ三つの菓子のうち一つを食べた。
おひるになるとまた腹がすいたので、二つ目を食べ、夕方三つ目を食べた。その後で、一人の男に出逢つたら、その男は何處へ行くのかと聞いた。
「生計(くらし)を立てられる處を探しに行きます」と若者は答へた。
「私について來い。」その男は云つた。「ぢや今夜は、納屋に寢なさい、明日お前に何が出來るかを見るために、仕事を與へよう。」
翌朝、その百姓は彼を連れ出し、牛を見せて、此の牛を丘で草を食べさせるために外へ出し、誰も牛乳を取りに來ないやうに、よく番をしてをれと云ひつけた。若者は牛を野原に連れ出し、日が暑くなると、仰向けに寢て空を眺めてゐた。暫くすると西北の方に一つの黒い點が見え、それが近づくに従ひ段段大きくなり、遂に一人の恐ろしい巨人となつてやつて來た。
彼は立ち上つて、両腕で巨人の脚をしつかりと抱へた。そして動けないやうに、くるぶしを下にして堅い地面にたたきつけた。すると巨人は何も悪い事はしないからと云ひ、魔法の棒を渡し、岩を叩くと美しい黑馬と劍と立派な服が出ると教へた。
若者は岩を叩くと、見てゐる間に岩が開いて、一匹の美しい黑馬と巨人の劍と服が目の前に出た。彼は劍だけを取つて、それを一振りして巨人の首を打ち落した。それからその劍を岩に戻して、再び牛の處へ行き、百姓の處へそれ等を連れ歸つた。
乳を搾ると、澤山の乳が牛から出た。そこで百姓は、他の牧童は年を連れ歸つて一滴も乳が出なかつたが、丘で何か見かけなかつたかと尋ねた。若者は何も見かけなかつたと答へた。
次の日、また牛を連れて出かけた。日が暑くなると仰向けに寢た。すると少し經つて、西北の方に一つの黑い點が見え、それが近づいて來るに從ひ段段大きくなり、遂に一人の巨人が彼の方へやつて來て、襲ひかからうとした。
「貴樣はおれの兄貴を殺したな。さあ、貴樣をのしちまふまではおかないぞ」と巨人は云つた。
若者は彼の方へ進んで行つて、両腕でその脚を抱へ、くるぶしを下にして巨人を大地にたたきつけた。
それから棒で岩を叩き、劍を取り出し、巨人の首を切り落した。
その晩、百姓は牛に前の晩より二倍の乳のあるのがわかつた。そこで何か見かけなかつたかと尋ねた。若者は何も見かけなかつたと答へた。
第三日目には三番目の巨人が來て、「貴樣はおれの二人の兄貴を殺した。さあ來い、貴樣をのしちまふまではおかないぞ」と言つた。
そこで此の巨人をも前の二人をやつつけたやうにやつつけた。その晩は、乳が牛の乳房から道に溢れるほど澤山出た。
次の日、百姓は若者を呼び、今日は牛を牛舍に繫いでおいてもよい。美しい王女が、若し助ける者がなかつたら、大魚に食はれてしまふといふ大へん面白い見物(みもの)があるから、と告げた。併し若者はそんな見物(みもの)は面白くないと云つて、牛を連れて丘へ行つた。例の岩へ來た時、棒で叩き、服を出してそれを着、劍を出して將軍のやうにそれを佩き、黑馬に跨がつて、疾風のやうに馬を驅けらし、遂に美しい王女が海岸で金の椅子に膝掛けて、大魚を待つてゐる處まで來た。
鯨より大きく脊に二つの翼のある大魚が海から現はれると、若者は波の中に躍り込んで劍でそれを打ち、その翼の一つを切り取つた。海の中はその流れ出た血で眞赤になり、遂に大魚は泳ぎ去つて、若者は岸に殘された。
それから馬をめぐらして、疾風のやうに馬を驅けらし、遂に岩の處まで來て服を脱ぎ、巨人の劍と黑馬と一緒にもとの岩の中にしまひ、牛を追つて農場に歸つた。
百姓は彼の前に來て、今日お前は未だ嘗つてない大した不思議を見損なつた。それは或る貴公子が立沢な服をつけて來て、大魚の翼の一つを切り取つた事だがと云つた。
「これからも二朝續いて、王女は同じ運命に逢ふ」と百姓は云つた。「行つてそれを見物したらよからう。」
併し若者は行きたくないと云つた。
次の朝、牛を連れて出かけ、岩から劍と服と黑馬とを取り出して、疾風のやうに馬を驅けらし、王女が海岸で金の椅子に腰掛けてゐる處まで來た。人が彼の來るのを見た時、前日に見た男と同じかどうか、大いに怪んだ。王女は彼を呼んで、跪いて禮をするやうに命じた。彼が跪いてゐた時、王女は鋏でその頭の後から一房の髮の毛を切り取り、着物の中に隠した。
それから大魚が海から現はれると、彼は波の中に躍り入り、そのもう一つの翼を切り落した。海は流れ出る血ですつかり眞赤になつたが、それは遂に皆を後に殘して逃げた。
その晩、百姓は彼の前に來て、お前は非常な不思議を見損なつた。明日は行つてみるかと聞いた。若者は行きたくないと云つた。
三日目、再び彼は黑馬に騎り、王女が金の椅子に腰掛けて大魚を待つてゐる處へ來た。大魚が海から現はれると、若者はそれを目がけて進んで行き、口を開けて食べようとするのを何度も何度も、口の中を刺して、遂に劍で頸を突き通したので、大魚は腹を上にして死んだ。
そこで、彼は疾風の如くに馬を驅けらし、服と劍と黑馬を岩の中にしまひ、牛を追つて家へ歸つた。
百姓は彼の前に來て、三旦間、婚禮の大宴會が催され、三日日には王女が大魚を殺した男を見つけたら、その男と結婚するだらうと告げた。
大宴會は催され、力持の男たちが集まつて來て、大魚を殺したのは自分だと云つた。
併し三日目に若者は服をつけ、將軍のやうに劍を佩き、黑馬に騎つて、疾風のやうに馬を驅けらしその宮殿に來た。
王女は彼は見ると、呼び入れて前に跪かせ、そしてその頭の後を見ると彼女自身の手で切取つた一房の髮の毛の跡があつた。王女は彼を王樣に引き合はせ、そして二人は結婚し、若者は領地全部を貰つた。
それでおしまひ。
*
There was once a widow living among the woods, and her only son living along with her. He went out every morning through the trees to get sticks, and one day as he was lying on the ground he saw a swarm of flies flying over what the cow leaves behind her. He took up his sickle and hit one blow at them, and hit that hard he left no single one of them living.
That evening he said to his mother that it was time he was going out into the world to seek his fortune, for he was able to destroy a whole swarm of flies at one blow, and he asked her to make him three cakes the way he might take them with him in the morning.
He started the next day a while after the dawn, with his three cakes in his wallet, and he ate one of them near ten o'clock.
He got hungry again by midday and ate the second, and when night was coming on him he ate the third. After that he met a man on the road who asked him where he was going.
'I'm looking for some place where I can work for my living,' said the young man.
'Come with me,' said the other man, 'and sleep to-night in the barn, and I'll give you work to-morrow to see what you're able for.'
The next morning the farmer brought him out and showed him his cows and told him to take them out to graze on the hills, and to keep good watch that no one should come near them to milk them. The young man drove out the cows into the fields, and when the heat of the day came on he lay down on his back and looked up into the sky. A while after he saw a black spot in the north-west, and it grew larger and nearer till he saw a great giant coming towards him.
He got up on his feet and he caught the giant round the legs with his two arms, and he drove him down into the hard ground above his ankles, the way he was not able to free himself. Then the giant told him to do him no hurt, and gave him his magic rod, and told him to strike on the rock, and he would find his beautiful black horse, and his sword, and his fine suit.
The young man struck the rock and it opened before him, and he found the beautiful black horse, and the giant's sword and the suit lying before him. He took out the sword alone, and he struck one blow with it and struck off the giant's head. Then he put back the sword into the rock, and went out again to his cattle, till it was time to drive them home to the farmer.
When they came to milk the cows they found a power of milk in them, and the farmer asked the young man if he had seen nothing out on the hills, for the other cow-boys had been bringing home the cows with no drop of milk in them. And the young man said he had seen nothing.
The next day he went out again with the cows. He lay down on his back in the heat of the day, and after a while he saw a black spot in the north-west, and it grew larger and nearer, till he saw it was a great giant coming to attack him.
'You killed my brother,' said the giant; 'come here, till I make a garter of your body.'
The young man went to him and caught him by the legs and drove him down into the hard ground up to his ankles.
Then he hit the rod against the rock, and took out the sword and struck off the giant's head.
That evening the farmer found twice as much milk in the cows as the evening before, and he asked the young man if he had seen anything. The young man said that he had seen nothing.
The third day the third giant came to him and said, 'You have killed my two brothers; come here, till I make a garter of your body.'
And he did with this giant as he had done with the other two, and that evening there was so much milk in the cows it was dropping out of their udders on the pathway.
The next day the farmer called him and told him he might leave the cows in the stalls that day, for there was a great curiosity to be seen, namely, a beautiful king's daughter that was to be eaten by a great fish, if there was no one in it that could save her. But the young man said such a sight was all one to him, and he went out with the cows on to the hills. When he came to the rocks he hit them with his rod and brought out the suit and put it on him, and brought out the sword and strapped it on his side, like an officer, and he got on the black horse and rode faster than the wind till he came to where the beautiful king's daughter was sitting on the shore in a golden chair, waiting for the great fish.
When the great fish came in on the sea, bigger than a whale, with two wings on the back of it, the young man went down into the surf and struck at it with his sword and cut off one of its wings. All the sea turned red with the bleeding out of it, till it swam away and left the young man on the shore.
Then he turned his horse and rode faster than the wind till he came to the rocks, and he took the suit off him and put it back in the rocks, with the giant's sword and the black horse, and drove the cows down to the farm.
The man came out before him and said he had missed the greatest wonder ever was, and that a noble person was after coming down with a fine suit on him and cutting off one of the wings from the great fish.
'And there'll be the same necessity on her for two mornings more,' said the farmer, 'and you'd do right to come and look on it.'
But the young man said he would not come.
The next morning he went out with his cows, and he took the sword and the suit and the black horse out of the rock, and he rode faster than the wind till he came where the king's daughter was sitting on the shore. When the people saw him coming there was great wonder on them to know if it was the same man they had seen the day before. The king's daughter called out to him to come and kneel before her, and when he kneeled down she took her scissors and cut off a lock of hair from the back of his head and hid it in her clothes.
Then the great worm came in from the sea, and he went down into the surf and cut the other wing off from it. All the sea turned red with the bleeding out of it, till it swam away and left them.
That evening the farmer came out before him and told him of the great wonder he had missed, and asked him would he go the next day and look on it. The young man said he would not go.
The third day he came again on the black horse to where the king's daughter was sitting on a golden chair waiting for the great worm. When it came in from the sea the young man went down before it, and every time it opened its mouth to eat him, he struck into its mouth, till his sword went out through its neck, and it rolled back and died.
Then he rode off faster than the wind, and he put the suit and the sword and the black horse into the rock, and drove home the cows.
The farmer was there before him and he told him that there was to be a great marriage feast held for three days, and on the third day the king's daughter would be married to the man that killed the great worm, if they were able to find him.
A great feast was held, and men of great strength came and said it was themselves were after killing the great worm.
But on the third day the young man put on the suit, and strapped the sword to his side like an officer, and got on the black horse and rode faster than the wind, till he came to the palace.
The king's daughter saw him, and she brought him in and made him kneel down before her. Then she looked at the back of his head and saw the place where she had cut off the lock with her own hand. She led him in to the king, and they were married, and the young man was given all the estate.
That is my story.
[やぶちゃん注:アイルランド口承の豊穣の牝牛(Glas Gaibhnennグラス・ガヴナン)、神聖数3、アイルランド先住民族の形象化ともされる巨人(彼等Fomoireフォモール一族は戦いに敗れて後に海の怪物ロックランとなったともされる。巨人定番の足元の秘密の弱点もしっかり出現)、アーサー王伝説のExcaliburエクスカリバーを髣髴とさせる剣、岩礁に囚われた姫と翼を持った海の怪物(化け鯨)とその救済という英雄ペルセウスと王女アンドロメダ型の神話などなど、比較神話学的には頗る面白い内容である。]
方丈記
菊の葉に鎭まりがたき吹雪かな
人の子に慕はれゐたり枯野中
夕燒の失せし地をゆく乳母車
月明の眞中に在りて煽げる火
雪の日の講義續くや方丈記
ここまで付き合って下さっておられる読者には言わずもがな――標題の最終句は、しづ子の高等女学校時代の淡き秘やかな初恋の相手であった国語教師の古文の授業である。巨湫の標題附けは実に上手い。最後の句に辿り着くまで、前の四句は「方丈記」に描かれた貧困と天変地異や火事に荒廃した末法の京の都を髣髴とさせるように選ばれているように思われるのだ。いや、私は巨湫の恣意的選句は絶対にそれを意識していた、と思うのである。
寒濤の欲らばこの身をあたふべく
人の言うべなふべきか柿の花
虫鳴く中洋服簞笥まつすぐ立つ
――私は時々、しづ子の句を詠んでいると、マルセル・デュシャンの作品を見ているような錯覚を感ずることがある――最後の――虫鳴く中――SE――洋服簞笥――フレッシュ・ウィドゥ――真新しい未亡人――まつすぐ立つ――
ここ美濃に封建の麥靑みたり
星とぶやいつさい棄ててはばかるなし
ちらつく雪吉と引きたる紙は仕舞ふ
夏雨やいっぱい叩く葉のおもて
ここではまた美濃に来た頃に戻っている。底本で漫然と読んでいると、前号の句がすぐ右にあるために、それらの前号の句が秘密の暴露でも何でもない岐阜行の、岐阜での日常的嘱目吟のように見えるかも知れない。しかし、前号とは実は半年もブランクがある。そこに連環らしきものを感じる方が、実は不自然である。そもそも岐阜では「北陸線」はおかしい。そしてそうした錯視効果は、言わずもがな、選句者自身が確信犯で行なってもいるのだ――巨湫はしづ子のジグソー・パズルのピースを用いて実は、読者に、しづ子の句の意味する絵とは別な絵を見せているのだと私は思う――
たがひ汽車並行つづく雪の中
雪の汽車つづけきて岐る
ただ凍むのみ北陸線を待つ人ら
離れては雪中の居となりにけり
発表号と句の季節が近く、四句はまごうかたなき強力な組み写真、連作である。にもかかわらず巨湫は標題を附していない。「雪」「北陸線」「雪中の居」――これは僕にはしづ子失踪の――そのギミー・シェルターの暗号であるように思われるのである――
足凍てし嬰兒は涕くにこゑもたず
一冬の枯藻みかへることもなし
雨おち來簷したかこふ竿の衣
對ふ屋に雨吹きつくる竹葉かな
三句目「衣」は「きぬ」と読むのであろう。どの句も盤石にして佳品である。しづ子の俳句の基本は、昔々のとっくのとう、とっくのとうの大昔に――出来ていたのだ。
それにしても、ずっと不審なのだが――失踪以前の大量投句稿の句でさえ発表形と原稿に殆んど全く変化がないのは何故だろう? 師匠の朱が全くと言っていい程入っていないのはどうしてだろう? 僕も「層雲」にいた頃にやられて憤慨した経験があるが、俳句結社では元の句が想像出来ない程、朱を入れる師匠が多いのに、だ――
ついでに失礼乍ら――彼女が師と慕った巨湫の――彼の、人口に膾炙した代表句を四句挙げろ――と言われて挙げられる人間が、今、何人いるんだろう?
「新編鎌倉志卷之八」の称名寺を終了した。「江戸名所図会」の絵を大幅に追加し、注もこだわった。お暇な折りにお楽しみあれ。絵を見ているだけでも、楽しい。
本日の10:49:48に、アルバム「一人の妻帯者である僕によって忘れられた僕の古い写真帖、さえも」の「原民喜 碑銘」を、Yahoo検索で検索フレーズ「碑銘 原民喜」で訪問されたあなたが、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、350000人目でした。今後とも宜しくお付き合いの程。
たった今、ブログ350000アクセス記念として「心朽窩 新館」に「みんなの怪談集――私の最後の教え子の手になる都市伝説――」を公開した。御世辞抜きでなかなかみんないい出来なのだ。是非、お読みあれ。
……以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のやうに極(きまり)が惡かつたものだが、近頃は知らないといふ事が、それ程の恥でないやうに見え出したものだから、つい無理にも本を讀んで見やうといふ元氣が出なくなつたのでせう。まあ早く云へば老い込んだのです……
「新編鎌倉志卷之八」は称名寺金沢八木の一つ、「西湖梅」――これが母の名聖子と音通だから……それもあろう。西湖梅はまだ終わらぬ。「梅花無尽蔵」にもう少し、こだわりたい。
親父殿――
僕の好きな赤飯、ありがとう。しっかり食ったぜ。美味かった!
妻へ――
的矢の牡蠣、自分で剥いて十個、蒸し焼きで十個。これを至福と言わずして何を僕の至福と云はんや!
55歳のゾロ目だぁな――こいつぁ春から、アッ――縁起が、いいわい!
何てこった……愛するタルコフスキイより、生き永らえてしまったではないか……
現在、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、349304アクセス
350000アクセス記念テクストは――僕の最後の教え子たちに協力して貰うことにする――高校三年生の書いた都市伝説――である――結構、イケルぜ――乞御期待――
僕もそろそろ君らが僕を愛さなかったように僕も君らを愛さないと言明する時が来たようだ――それでも僕は君らではない君らを愛そうとする覚悟はあるのだが――それが意味があるのか――はたまた――全くの無駄であるのかどうか――それも実は問題ではない――アラン――僕は転んだ君=僕を救ってくれる牧師を――やはり愛するだろう――しかし――それは寂しいシチュエーションなのだ――僕はあの牧師を愛するが、彼の愛する神を僕はもう愛することは――ない――僕は――永遠に如何なる神をも「神」として――信じない――それは僕自身を含めてだ――アラン――歩こう、預言者……僕と二人だけで……手を……組んで……二人っきりで……
午後になつて、陽が出て來た。私はキルロナンへ行くため、船を漕ぎ出して貰つた。
漕ぐ人たちは波止場近くの岬の沖を廻つてカラハを持つて來る途中、暗礁にあてた。そして水を澤山入れたまま岸へ來た。彼等は坊さんに持つて行く馬鈴薯の袋からズックを引裂き、穴に栓をした。それで大西洋と我我の間には、破れた布一枚あるだけで出立したのである。
數百ヤード毎に、漕手の一人は止つて、水を渫(さら)ひ出さなければならなかつたが、穴は大きくならなかつた。
瀨戸を横切つて半分ほど來た處で、こちらへやつて來る一艘の帆を張つたカラハに出逢つた。
ゲール語で叫び交はしてゐたが、それは私に手紙と煙草の一包みを持つて來たのだといふことがわかつた。我々はうねりと共に、出來るだけ近くすり寄つて、荷物はしぶきに濡れて、私の方へ投げられた。
イニシマーンに於ける數週間の後では、キルロナンは盛んな活動の中心地のやうに見えた。此の大きい島の半ば文明化された漁夫たちは、此處の生活の單純さを輕蔑する傾向がある。私が上陸した時、傍に立つてゐた或る者は、見物するに相應しい漁もなくて一體何をして暮してゐるかと、私に尋ねた。
旅館の老人夫婦と話しに一寸立寄り、それから村の他の處を訪ねるために、出かけた。
タ方遅く、私は北の方の道に沿うて散歩に出かけた。その道では、祝祭日にキルロナンへ集る遠い村の人たちが、三々五々群を爲して、移動家庭となつて來るのに出逢つた。
女たちや娘たちは、男の連れがゐない時は大概私をからかつて行く。
「疲れたんですか?」と一人の娘は云つた。私は東の方へ歸る前、時間をつぶすために、のろのろ歩いてゐた。
「なあに、さうぢやないよ、娘さん。私は淋しいのだ。」と私はゲール語で返事をした。
「これ私の妹よ。腕を貸して上げるでせう。」
こんな調子であつた。これ等の女たちは不斷はおとなしいが、祭日の晴着を着て襟卷をして、二三人一緒になると、都會の女たちのやうにはしやいで氣紛れになる。
七時頃、キルロナンへ戻り、私は入江近くの酒場から船頭たちを追ひ立てた。彼等の無頓着はいつもの事であるが、カラハの中に漏口のある事も、また櫂栓〔櫂を船緣に固定するための釘〕の失くなつてゐる事も氣づかず、足下に段段と深くなる水溜りを持ちながら、途方もないのろい速度で瀨戸横斷の途についた。
島の上には見事な夕燒が懸かり、遅れたのが却つて嬉しかつた。振り向くと、岩の鋭い切先の後には金色の靄があり、太陽の殘照が長く引いて、櫂に依つて殘される泡を寶石にしてゐた。
みんな黑ビールを飲んで、常ならず口數が多くなり、見て來た物を私に指し示したり、時時漕ぐのを止めて、波から跳ねる鯖の油ぽい匂を私に注意したりした。
彼等は取り立ての一行が明日の朝、島へ來るのだと告げ、私に長長と彼等がその年に儲けた事、費した事、また家賃に就いての心配を語つた。
「家賃は貧乏人にとつては實に辛い。」その中の一人が云つた。「今度我我は拂はなかつたんだ。そこで皆んなに令状を突きつけて來たんだ。今度は家賃を拂はなくちやならぬ。それから令状に對してもうんと取られる。大方の役人は、その礼状で自分の、女中や下男に一年分支拂ふ位の金は充分貰ふのだらう。」
私はその後で、此の島は誰の物なのかと尋ねた。
「なあに、」彼等は云つた。「何とか孃の物だと聞いてゐたが、その女はもう死んだ。」
太陽が菱形の金色の光芒のやうに海に沈むと、寒さが激しくなつて來た。男たちは彼等同志で話し出し、私は話の緒がなくなつたので、半ば夢見心地に、周りの蒼い油のやうな海や、村を越えて立つてゐる島の低い斷崖などを眺めながら、横になつた。村の炊煙の環はコノール砦の丘(ダン)の輸廓をとりまいてゐた。[やぶちゃん注:「砦の丘」に「ダン」のルビ。]
*
the afternoon the sun came out and I was rowed over for a visit to Kilronan.
As my men were bringing round the curagh to take me off a headland near the pier, they struck a sunken rock, and came ashore shipping a quantity of water, They plugged the hole with a piece of sacking torn from a bag of potatoes they were taking over for the priest, and we set off with nothing but a piece of torn canvas between us and the Atlantic.
Every few hundred yards one of the rowers had to stop and bail, but the hole did not increase.
When we were about half way across the sound we met a curagh coming towards us with its sails set. After some shouting in Gaelic, I learned that they had a packet of letters and tobacco for myself. We sidled up as near as was possible with the roll, and my goods were thrown to me wet with spray.
After my weeks in Inishmaan, Kilronan seemed an imposing centre of activity. The half-civilized fishermen of the larger island are inclined to despise the simplicity of the life here, and some of them who were standing about when I landed asked me how at all I passed my time with no decent fishing to be looking at.
I turned in for a moment to talk to the old couple in the hotel, and then moved on to pay some other visits in the village.
Later in the evening I walked out along the northern road, where I met many of the natives of the outlying villages, who had come down to Kilronan for the Holy Day, and were now wandering home in scattered groups.
The women and girls, when they had no men with them, usually tried to make fun with me.
'Is it tired you are, stranger?' said one girl. I was walking very slowly, to pass the time before my return to the east.
'Bedad, it is not, little girl,' I answered in Gaelic, 'It is lonely I am.'
'Here is my little sister, stranger, who will give you her arm.'
And so it went. Quiet as these women are on ordinary occasions, when two or three of them are gathered together in their holiday petti-coats and shawls, they are as wild and capricious as the women who live in towns.
About seven o'clock I got back to Kilronan, and beat up my crew from the public-houses near the bay. With their usual carelessness they had not seen to the leak in the curagh, nor to an oar that was losing the brace that holds it to the toll-pin, and we moved off across the sound at an absurd pace with a deepening pool at our feet.
A superb evening light was lying over the island, which made me rejoice at our delay. Looking back there was a golden haze behind the sharp edges of the rock, and a long wake from the sun, which was making jewels of the bubbling left by the oars.
The men had had their share of porter and were unusually voluble, pointing out things to me that I had already seen, and stopping now and then to make me notice the oily smell of mackerel that was rising from the waves.
They told me that an evicting party is coming to the island tomorrow morning, and gave me a long account of what they make and spend in a year and of their trouble with the rent.
'The rent is hard enough for a poor man,' said one of them, 'but this time we didn't pay, and they're after serving processes on every one of us. A man will have to pay his rent now, and a power of money with it for the process, and I'm thinking the agent will have money enough out of them processes to pay for his servant-girl and his man all the year.'
I asked afterwards who the island belonged to.
'Bedad,' they said, 'we've always heard it belonged to Miss - and she is dead.'
When the sun passed like a lozenge of gold flame into the sea the cold became intense. Then the men began to talk among themselves, and losing the thread, I lay half in a dream looking at the pale oily sea about us, and the low cliffs of the island sloping up past the village with its wreath of smoke to the outline of Dun Conor.
[やぶちゃん注:「家賃」原文“rent”。土地貸借料。地代のこと。18世紀中頃からアラン島はキルデア県のディグビー一族が島の地主となったが、彼ら一族は島には殆んど居住することなく定期的な定額地代を徴収し、貧しかった多くの島民が地代を払えずに強制的な立ち退きを余儀なくされていたという。19世紀になると慢性的な主食のジャガイモの供給不足に陥り、大数の島民が国外への移民を選んだ(因みに島の人口は1841 年で3,521人、1976 年で 1,496 人、2010年現在は1,300人)。ディグビー・セント・ローレンス一族が島の所有権を売り渡し、彼らが自分達の土地としてそこに住めるようになったのは、実にシングが訪れた後の凡そ20年後、1922年のことであった(以上はアイルランド現地旅行会社“ewe tours”のHPの「アラン島の歴史」を主に参照させて頂いた。]
今日は祝祭日(ホリデー)〔聖人の死を祭る教會の祭日〕である。人人が彌撤(みさ)に行つてゐる間、私は砦の丘(ダン)[やぶちゃん注:「砦の丘」に「ダン」のルビ。]へ休みに上つた。
今朝は、日曜によくあるやうに、不思議な靜寂が全島を襲つて、兩側の海も禮拜堂のやうな靜けさに充たされてゐる。
此處にある一つの風景は、不思議な力を以つて灰色の光を含んだ雲のある事をはっきりと感じさせる。風もなく、又これといふ光もない。アランモアは鏡の上に眠つてゐるやうである。そしてコニマラの山山は、その前に横たはる灣の廣さの見當がつき難いほど近く見え、灣は今朝、湖に時時見るやうな獨特な表情をしてゐる。
此の草も木も生えず、動物も住まない岩の上では、季節はいつも同じである。此の六月の日も何んとなく、枯葉のそよぎが聞こえるかと思ふほどに秋の氣が充ち充ちてゐる。
禮拜堂からは、先づ最初に男たちの一團が出で、それから續いて女たちの一團が出る。男たちは往來に立ちもとほつて話してゐる間に、女たちは門前で別れ、四方に急ぎ散つて行く。
沈默は破られ、ゲール語の幽かな聲が、恰も海を越えて來る如く、遠くから聞こえる。
*
It is a Holy Day, and I have come up to sit on the Dun while the people are at Mass.
A strange tranquility has come over the island this morning, as happens sometimes on Sunday, filling the two circles of sea and sky with the quiet of a church.
The one landscape that is here lends itself with singular power to this suggestion of grey luminous cloud. There is no wind, and no definite light. Aranmor seems to sleep upon a mirror, and the hills of Connemara look so near that I am troubled by the width of the bay that lies before them, touched this morning with individual expression one sees sometimes in a lake.
On these rocks, where there is no growth of vegetable or animal life, all the seasons are the same, and this June day is so full of autumn that I listen unconsciously for the rustle of dead leaves.
The first group of men are coming out of the chapel, followed by a crowd of women, who divide at the gate and troop off in different directions, while the men linger on the road to gossip.
The silence is broken; I can hear far off, as if over water, a faint murmur of Gaelic.
[やぶちゃん注:「男たちは往來に立ちもとほつて話してゐる間に、」原文“while the men linger on the road to gossip.”。「もとほる」は記紀歌謡に登場する古語で「歩き回る・徘徊する」の意である。「男たちが路上に溜まり込んで、世間話に花を咲かせている間に、」の意。]
「或る百姓が收穫は駄目になるし、牛は死んでしまふし、大へん困つてゐた。或る晩、妻に明日の朝までに小麥の新しい立派な袋を作つてくれと云つた。それが出來ると、それを持つて、夜明けを待たないで出發した。
その頃、妖精に連れて行かれた紳士がゐて、妖精の中で大將になり、夜明けと夕方に、白馬に騎つて行くのを人人はよく見かけた。
件の男は、いつも大將に逢ふ處に行き、かれが馬に乘つて通りかかつた時、大へん困つてゐるから、小麥粉を二百五十ほど貸してもらひたいと願つた。
大將は妖精たちを小麥の藏つてある岩穴から呼び出し、望むだけをその男に與へるやうに命じた。そして一年經つたらまた此處へ來て、金を拂つてくれと云つて、馬に乘つて行つてしまつた。
男は家に歸り、その期日を紙に書き留めた。そして翌年のその日に、又もとの所へ行つて、大將に支拂つた。」
此の話を終つた時、爺さんは、妖精は國中の産物全體の十分の一を持つてゐて、それを岩の中に藏つておくのだと云つた。
*
'A farmer was in great distress as his crops had failed, and his cow had died on him. One night he told his wife to make him a fine new sack for flour before the next morning; and when it was finished he started off with it before the dawn.
'At that time there was a gentleman who had been taken by the fairies, and made an officer among them, and it was often people would see him and him riding on a white horse at dawn and in the evening.
'The poor man went down to the place where they used to see the officer, and when he came by on his horse, he asked the loan of two hundred and a half of flour, for he was in great want.
'The officer called the fairies out of a hole in the rocks where they stored their wheat, and told them to give the poor man what he was asking. Then he told him to come back and pay him in a year, and rode away.
'When the poor man got home he wrote down the day on a piece of paper, and that day year he came back and paid the officer.'
When he had ended his story the old man told me that the fairies have a tenth of all the produce of the country, and make stores of it in the rocks.
[やぶちゃん注:老婆心ながら、「藏つて」は「しまつて」と訓じる。]
パット・ディレイン爺さんは毎日私の處へ話しにやつて來る。私は時時話を彼の妖精の経験談に向ける。
爺さんは、妖精をたくさん島の方方で、殊に船卸臺の北、砂地の處で見たさうである。脊の高さは一ヤード位で、巡査(ピーラー)のやうな帽子を顏を隠すやうにかぶつてゐた。或る時は夕方、丁度船卸臺の眞上でボール遊びをやつてゐるのを見た。朝や夜中過には、妖精に惡戲(いたづら)されるといけないから、其處は通つてはいけないと云つた。
彼は妖精にさらはれた二人の女を見た。一人は既婚の婦人で、今一人は娘であつた。婦人は塀際に立つてゐた。爺さんは北の方を向きながら、私に丁寧にその場所を説明してくれた。
また或る夜、愛蘭土語で「オー・ウォホイル・ソ・メー・モラヴ」(ああ、お母さん、殺される)といふ叫び聲を彼は聞いたが、朝になつてその家の塀に血がついてゐて、そこから程遠からぬ處に、その家の子供は死んでゐた。
昨日、彼は私を脇へつれて行き、まだ誰にも云はなかつた祕密を教へてやると云つた。
「先の鋭い針を取つて、」彼は云つた。「それをあなたの着物の襟裏にさしとくと、どんな妖精だつてどうすることもできないものだ。」
鐵は未開人にとつて共通の護符であるが、此の場合は先の極く鋭いと云ふ觀念も加はり、また恐らくブリタニーに共通の民間信仰として、仕事の器具を神聖視する感じも出てゐるのであらう。
妖精は他の郡よりも比較的メオ郡に多くゐるが、ゴルウェーの或る地方をも好み、次の話も其處で行はれた。
*
Old Pat Dirane continues to come up every day to talk to me, and at times I turn the conversation to his experiences of the fairies.
He has seen a good many of them, he says, in different parts of the island, especially in the sandy districts north of the slip. They are about a yard high with caps like the 'peelers' pulled down over their faces. On one occasion he saw them playing ball in the evening just above the slip, and he says I must avoid that place in the morning or after nightfall for fear they might do me mischief.
He has seen two women who were 'away' with them, one a young married woman, the other a girl. The woman was standing by a wall, at a spot he described to me with great care, looking out towards the north
Another night he heard a voice crying out in Irish, 'mháthair tá mé marbh' ('O mother, I'm killed'), and in the morning there was blood on the wall of his house, and a child in a house not far off was dead.
Yesterday he took me aside, and said he would tell me a secret he had never yet told to any person in the world.
'Take a sharp needle,' he said, 'and stick it in under the collar of your coat, and not one of them will be able to have power on you.'
Iron is a common talisman with barbarians, but in this case the idea of exquisite sharpness was probably present also, and, perhaps, some feeling for the sanctity of the instrument of toil, a folk-belief that is common in Brittany.
The fairies are more numerous in Mayo than in any other county, though they are fond of certain districts in Galway, where the following story is said to have taken place.
[やぶちゃん注:「一ヤード位」90センチメートル強。
「巡査(ピーラー)」“peelers”。これは個人名に由来する珍しい古語英語である。英国の政治家であったSir Robert Peel(サー・ロバート・ピール 1788~1850)はウェリントン内閣内相を務めた1829年、首都警察法を通過させたが、これによりロンドンの新制警官が彼の名の愛称「ボビー」と呼ばれるようになり、後に英国全土の警官の呼称となった。また、これ以前に彼はアイルランド相に任命されてアイルランド警察を創設した際、当地の警官が彼の姓に引っ掛けて“peeler”と呼ばれたのであった(朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」による)。
「オー・ウォホイル・ソ・メー・モラヴ」原文はアイルランド語で“mháthair tá mé marbh”。栩木氏の訳では『ア・ウアハル・ター・メー・マラヴ』というルビが振られている。最後の“marbh”はネイティヴの発音を聴く限りでは、私には「マァラルゥ」と聴こえる。
「ブリタニー」原文“Brittany”。これは“Bretagne”で、フランス北西端の大西洋に突き出たブルターニュ半島を中心としたブルターニュ地方。ドーバー海峡を挟んでイギリスと接する。地名は五世紀頃、ケルト人がブリタニア、現在のイギリスから移住しここを開拓したことに由来し、先史時代のメンヒル・ドルメンといった巨石文化も齎された、ケルト系文化や民族が色濃く残る、フランスでも特異な地域である。
「メオ郡」“Mayo”。メイヨー州。アイルランド北西部、神話にもしばしば登場するコノート地方にある大きな州。]
「新編鎌倉志卷之八」は最後の大寺院、称名寺に入った。
此處では夏の間、食べさせる草がないので、六月から九月にかけて、全部の馬はコニマラの山の中の草地に送り出される。
その船積み運搬は、牛の場合よりも一層むづかしくさへある。多くはコニマラ産の野生の小馬で、力が強くて臆病なので、狭い波止場では取扱ひに骨が折れる。また一方、船の中でも間に合ふ場所が少いので、それ等を安全に立たせるのが容易な事ではない。取扱ひの仕事は、前に牛の場合に云つたのと同樣あるが、騒はもつと激しく、一匹の馬が波止場から押し出されて、無事にその納まる場所に納つてしまふまで、嵐のやうに起るゲール語は形容が出來ない。二十人の若い男、年とつた男たちが、その間ぢう、譯も分らずに罵つたり、勵したりしつつ、亢奮して喚き叫ぶ。
併し此のやうな原始的な騒ぎは別として、男たちの器用さや、力強さを見るのにこれまでになくよい機會であつた。私は、特に今朝荷を積んで北島からやつて來た漁船の船頭に目を止めた。馬が帆柱の頂きから搖れながら下つてゐる時、自分一人の重さでそれを持ち堪へて、而も熱狂の最中にありながら、面白さうに平靜を保つてゐた。或る時は大き牝馬が他の馬の脊の上に横樣に落ちかかつて來て、そこら中を蹴る。すると、小馬に害を與へまいと男たちが飛び下りて來るので、船艙はセントー〔神話の半神半馬〕たちが一塊となつて暴れ狂ふまでになる。先に入れられた馬の脊中は、時時その上に下りて來る他の馬の蹄でひどく切られる事がある。その他は大した害もないらしい。それ等は市に行くのではないから、どんな状態で陸上げされようと別に構はない。
島には一つの轡と一つの鞍があるだけである。これは日曜のお勤めをした時、教會から波止場まで騎つて来る坊さんが使ふ。
島の人たちは二筋の手綱と一木の棒切れだけで馬に騎り、大きな島では、無鐵砲な驅足で騎り廻はす事もある。馬は普通荷籠を背負つてゐるので、人は馬の肩骨の上に横騎りをし、荷籠が空(から)な時はその位置で、何んにもつかまる物なしに全速力で飛ばす。
アランモアでは、キルロナンから西の方へ荷籠を付けて行く一隊に、私はよく逢つた。彼等の見えて來るずつと前から、蹄の音が聞こえて來る。すると彼等は唯一の止め手綱である細い索を全然無用視して、頭を前の方に突き出し、疾風のやうな速さで角を曲つてやつて來る。大概、前後五六尺の距離をおいて一列となつて來るが、車がないので間違ひの起る心配は少い。
時時、男と女が合乘りしてゐる事がある。此の場合、男は普通の位置に坐り、女はその後に坐り、男の腰をつかまへてゐる。
*
All the horses from this island are put out on grass among the hills of Connemara from June to the end of September, as there is no grazing here during the summer.
Their shipping and transport is even more difficult than that of the homed cattle. Most of them are wild Connemara ponies, and their great strength and timidity make them hard to handle on the narrow pier, while in the hooker itself it is not easy to get them safely on their feet in the small space that is available. They are dealt with in the same way as for the bullocks I have spoken of already, but the excitement becomes much more intense, and the storm of Gaelic that rises the moment a horse is shoved from the pier, till it is safely in its place, is indescribable. Twenty boys and men howl and scream with agitation, cursing and exhorting, without knowing, most of the time, what they are saying.
Apart, however, from this primitive babble, the dexterity and power of the men are displayed to more advantage than in anything I have seen hitherto. I noticed particularly the owner of a hooker from the north island that was loaded this morning. He seemed able to hold up a horse by his single weight when it was swinging from the masthead, and preserved a humorous calm even in moments of the wildest excitement. Sometimes a large mare would come down sideways on the backs of the other horses, and kick there till the hold seemed to be filled with a mass of struggling centaurs, for the men themselves often leap down to try and save the foals from injury. The backs of the horses put in first are often a good deal cut by the shoes of the others that arrive on top of them, but otherwise they do not seem to be much the worse, and as they are not on their way to a fair, it is not of much consequence in what condition they come to land.
There is only one bit and saddle in the island, which are used by the priest, who rides from the chapel to the pier when he has held the service on Sunday.
The islanders themselves ride with a simple halter and a stick, yet sometimes travel, at least in the larger island, at a desperate gallop. As the horses usually have panniers, the rider sits sideways over the withers, and if the panniers are empty they go at full speed in this position without anything to hold to.
More than once in Aranmor I met a party going out west with empty panniers from Kilronan. Long before they came in sight I could hear a clatter of hoofs, and then a whirl of horses would come round a corner at full gallop with their heads out, utterly indifferent to the slender halter that is their only check. They generally travel in single file with a few yards between them, and as there is no traffic there is little fear of an accident.
Sometimes a woman and a man ride together, but in this case the man sits in the usual position, and the woman sits sideways behind him, and holds him round the waist.
[やぶちゃん注:「セントーたちが一塊となつて暴れ狂ふ」“a mass of struggling centaurs”本作中でも最も印象的で劇的なシークエンスである。馬と人が一体となって、そこにかのセントウル(ケンタウルス)の、原初の神々の饗宴が再現されるのである。「無鐵砲な驅足」“a desperate gallop”は無茶苦茶なギャロップ(馬術の全速力)の意。]
徑
郭公や旅了らむとしつつなほ
この徑や人にあはざるいぬふぐり
この二句、芭蕉の
憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥
この道やゆく人なしに秋の暮れ
の名句二句を美事にインスパイアしている。特に私は後者の「いぬふぐり」の小花の美しいアップが気に入っている。この二句はしづ子の代表句として残されるべき句であると、本気で思っている。
芥川がいくつか残した遺書のようなもののなかに、『或旧友へ送る手記』というのがある。この『或旧友』は久米正雄であるという事になっている。
さて、その『或旧友へ送る手記』のなかに、つぎのようなところがある。
*
僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描〔ゑが〕いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。
……僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯死と遊んでゐる。この先〔さき〕の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「……」は宇野による「或舊友へ送る手記」本文中核部(リンク先は私の同テキスト)の省略を示す。]
*
聞くところによるとこの『或旧友に送る手記』を、当日、(つまり、昭和二年七月二十四日、)あつまった友人がじゅんじゅんに読んでいた時、だれも、かれも、『マインレンデル』という人を知らないので、マインレンデルとは、どういう人であろう、と頸をひねった、という。(この事ははまちがっていた。というのは、小島政二郎の『七月二十四日』という文章のなかに、まったく違うことが書いてあるからである。が、こういう風〔ふう〕に書かないと、この文章がすすまないから、このままにしておく。)
ところで『芥川龍之介研究』という題で数人の人たちが座談会の形で語りあった時の速記を元にしたものが私の手もとにあって、そのなかに『マインレンデルについて』というのがあるから、それよって私の述べたいと思うことを書いてみよう。(なお、その座談会の顔ぶれは、廣津、久米、その他である。)
まず、必要なところだけ、抜きながら、うつしてみよう。
*
廣津。遺書の中にマインレンデルを読んだつてあるが、マインレンデルの本があるのだらうか、僕はどうかと思ふな。メチニコフの『人生論』の中あたりから借りて来たのではないかと思ふが、どんなものかしら。僕はメチニコフの『人生論』を読んで、その名を記憶してゐたが。ショウペンハウエルの弟子で、ショウペンハウエルの厭世思想のために自殺する青年が輩出したので、ショウペンハウエルはたまりかねて、自殺は不道徳だといふんだ。すると、三十歳の若きマインレンデルが、「しかし先生」といつて自分で自殺してしまふんだが、僕は『人生論』の中に面白く書いてあつたので、それで知つてゐるんだが、芥川もその辺の知識ではないかと思ふんだが、どんなものかな。
久米。誰かがしきりにさがしたやうだつたが、……高橋邦太郎か誰かが……。
廣津。あの時は恒藤氏が何か翌日しらべて来たのだといふ事を聞いたよ。マインレンデルの書があるなら、それを知りたいんだが、僕はどうかと思ふな。
久米。恒藤などは自分はここまで知つてゐるといつてゐるくらゐだから、困らせようなんといふ気はなかつたんぢやないか。
廣津。困らせるといふのぢやないけれども、マインレンデルの書いたものはないかと思ふ。困らせてやらうといふのは、つまり、皆がちよつとそれを見て困つたことなんで、結果の問題なんだね、……
[やぶちゃん注:「メチニコフの『人生論』」とは、一九〇八年のノーベル生理学・医学賞を受賞したロシア生まれのフランスの生物学者Илья Ильич Мечников(イリヤ・イリイッチ・メチニコフ Ilya Ilyich Mechnikov 一八四五年~一九一六年)白血球の食菌作用を始めとした免疫系の先駆的研究者として知られるが、彼の「人生論」の中の第二部第八章にマインレンデルの哲学について概説されており、後掲される森鷗外も同書を参照していることが明らかになっている。「高橋邦太郎」(明治三十一(一八九八)年~昭和五十九(一九八四)年)は仏文学者・翻訳家・元NHK職員。「恒藤」は芥川龍之介の盟友で法哲学者恒藤恭。]
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この二人の問答だけではよく、意味がわからないけれど、芥川が『或旧友に送る手記』のなかに、殊更に『マインレンデル』などという当時の文学者たちが知らなかった名をつかったのは、この『或旧友へ送る手記』をよんだ人たちが、マインレンデルとはどういう人であろう、と、かならず、頸をひねるにちがいない、頸をひねらせてやろう、(困らせてやろう、)という気持ちがあったのではないか、と、いう程の意味であろう。
それから、廣津が、「マインレンデルの本があるのだらうか、」とか、「芥川もその辺の知識ではないかと思ふんだが、どんなものかしら、」とか、いっているのは、芥川は、本当に、マインレンデルの本をよんでいたのであろうか、という意味にとれる。それは、私も、この『或旧友へ送る手記』のなかの先きに引いたところ(つまり、「僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である、」とか、「マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに……」とか、「この先の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう」とか、いうの)を読んでみても、表現が何となくアヤフヤで、やはり、芥川は本当にマインレンデルの書いていたものを読んでいたのかしら、という気になるのである。
ここで、『世界文芸辞典』[中央公論社昭和十二年十月発行編輯者吉江喬松]でしらべてみると、
*
マインレンデル Philipp Mainländer(1841―1876) 本名 Philipp Batz. ショーペンハウエルの学徒。その説に依れば、宇宙の救民は盲目的意志であり、人間に於ても此の意志が根底をなす。意志は常に要求に動かされ常に欠乏を持つ。欠乏は苦である。意志は絶えず苦に依って動かされ苦を予想する。従つて人生も亦苦である。世界過程は神の力が分裂し次第に弱くなり遂に消滅するに至る過程であり、一切の個体は相互に戦ひ力を弱め遂に破滅によつてその目的を達する。其故に自殺は許され、寧ろ讃美さるべきものであるとなし、彼自身も自殺を実行した。
[やぶちゃん注:ウィキの英語版“Philipp Mainländer” (日本語版はない)で写真を見る事が出来る。]
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とある。これならずいぶんはっきりしていて、誰にもわかるが、私には、芥川は、どうも、これぐらいの事も、知らなかったのではないか、(のではないか、)と、思われるのである。ところが、やはり、その頃、芥川がマインレンデルの存在を知ったのは、鷗外の『妄想』からであろう、と断じた人があった。そういった人は誰であるかまったく覚えていないが、私はこの人の説に同感する。『妄想』のなかに、つぎのようなところがあるからである。
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その頃自分はPhilipp Mainlaender〔フイリツプ マインレンデル〕が事を聞いて、その男の書いた救抜の哲学を読んで見た。
此男はHartmann〔ハルトマン〕の迷〔まよひ〕の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆〔みな〕迷〔まよひ〕だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面〔おもて〕を背〔そむ〕ける。次いで死の廻〔まは〕りに大きい圏〔けん〕を画〔ゑが〕いて、震慄しながら歩〔ある〕いてゐる。その圏が漸く小〔ちひさ〕くなつて、とうとう疲れた腕を死の項〔うなじ〕に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。
さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。
[やぶちゃん注:冒頭「その頃」は、原文は「この頃」。因みに宇野浩二は「妄想」のこの章の最後にある以下の鷗外の批評を省略している。『自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬〔しようけい〕」も無い。/死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。』という二段落である。]
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これはさきに引用したものよりずっとわかりよく、マインレンデルの事がまずすっかりわかる。(これは私事であるが、この小説が明治四十三年の三月と四月に「三田文学」に出た時、私は、実に愛読した。)
さて、芥川がマインレンデルの存在を知ったのは、鷗外の『妄想』からであろう、といった人の説に私が同感するのは、ここ引いた文章だけでもわかるであろう。しかし、また、芥川がこういうマインレンデルの考えに同感したかどうか。これは疑問である。
しかし、いずれにしても、芥川が、『或旧友へ送る手記』にマインレンデルという名をつかって、死後、この手記をよむ人たちに、この事だけでも、なやましてやろう、と考えた、とすれば、私のような者でさえ、私なりに、骨を折らせられたのであるから、この手記が、死後、すぐに、幾人かの人びとに頸をひねらせたか、と思えば、芥川は死後で、そのたくらんだ事(かりに『タクランダ事』とすれば)に成功した、という事になる。とすれば、芥川は、それで本意をとげた、という事になるであろう。しかし、私は、そこまでは、考えたくない、考えないのである。
それから、これもまったく別の話であるが、あの関東に大地震があってから数日後、芥川に逢うと、芥川は、真剣な顔をして、「君、ある権威のある学者の話だが、東京湾も、今に陥没する、ということだよ、」と、なにか内証話でもするように、いった事がある。私は、今、この事を思い出して、芥川が、本当にこういう事を信じていたか、こういう事を云って、人を脅かすつもりであったか、わからないのである。
いずれにしても、あの『れげんだ・おうれあ』の一件の事を述べた時に書いたように、私は、芥川は、いろいろなイタズラはしたけれど、何〔なん〕というかなしい人であったか、と、これを書きながら、思うのである。すると、何度もおなじ事をいうようであるけれど、実際、涙ぐましくなってくるのである。
廣津は、「芥川は、死ぬ時、兜のなかに香を入れておくような心がけの男であったなあ……やっぱり、芥川は、ういやつであったなあ……」と、云った。
春の夜の膚をつぼめし衣うち
竹吹き葉擲つにひとしき怒り起つ
人の言百里を越えて怒り起つ
花すでに美濃は風起つ水ほとり
この選句には標題がなく、尚且つ底本には『(一般欄)』とある。これは俳誌の同人欄(通常、毎号の掲載が保障される)ではない、格下の一般読者投句欄の謂いであろうか。この号でのこの巨湫の処置には(底本で『(一般欄)』注記があるのはこの号だけである)、何か特殊な意味が隠されているように思われる。巨湫が選んだ三句の句柄も、身「うち」に内向していた激しい「怒り」遂に屹立して「起」ち、それが頬を切る、花を散らす鋭い春一番の疾「風」となって外界へ解き放たれているような、独特の心理的な螺旋状の情念のエネルギを感じさせるものである。――巨湫に何かあったのか――もしくは――巨湫にしづ子に関わる何らかの知らせが齎されたのか――
春
焜爐据ふ春あかつきの土の上
春が來て砂面の枯藻焚かれけり
吹きやみの深まる昏らみ燈しけり
三句とも、静謐なタルコフスキイ的な画面で、大いに惹かれる。標題の年齢を、六月九日のしづ子の誕生日を過ぎたので満年齢で三十五歳とした。
露散る
ひとり行きひとり歸りぬ木曾の水
露散るや嫌ひつづくるおのが詩
後者の「詩」は「うた」と読ませるのであろう。
母
母が名を洗ひ濡らすや墓石の面
夫戀ひの母が一世や土の苔
幸ちうすくおのれに似かよふ母が貌に
かつては製圖工すそ曳けば紅し
――私の顔は真ん中に鏡を立てると――右の対称は母になり――左の対称は父になる――因みに――私の両親は従兄妹である――
此の間、此の家の男たちは新しい畑を造つた。僅かばかり土のある處が、庭の塀際と、もう一つはキャベツ畑の隅にあつた。爺さんと一番上の息子が、金鑛で働いてゐる人のやうに細心に土を掘り出し、マイケルがそれを荷籠に入れて――此の島には車といふものがないので――地所の圍はれた一角にある平たい岩の上に運び、其處で砂と海草を混ぜて石の上に一面に擴げた。
馬鈴薯の栽培は島では大概こんな畑でなされる。――その爲には可成りの金を拂つて。 ――そして季節が全く日照りの時、よい收穫の望みは殆んど常に外れる。
雨がないのは今日で九日である。太陽の熱さはまだひどくはないが、人人は非常に心配してゐる。
日照りはまた水の缺乏の原因となる。島のこちら側にもいくつかの泉はあるが、それも少し遠くから来るに過ぎず、暑い日は當にする事が出来ない。此の家へ水を支給するのは女の手一つで水桶に入れて運ばれる。直ぐに汲めば、味は大して嫌でもないが、時時やられるやうに、桶に何時間も溜めて置かれては嗅ひも色もまた味も堪らない。洗濯の水もまた不足する。そんな時、海の緣を歩いてゐると、ペティコートをたくし上げて、退汐(ひきしほ)の後の水溜りの中で、いそぎんちやくや蟹のゐる中に立つてフランネルを洗つてゐる女によく出會ふ。大西洋の水際を背景として海草に緣取られた中に立つてゐるその赤い胴着と白い先細りの足は、彼女たちを熱帯の海鳥のやうに美しく見せる。併しマイケルは、それが見えると少し機嫌が惡くなるので、私はぢつと立つて眺めてゐる事が出來ない。洗濯に海水を用ふる此の習慣は、島でリューマチスの多い原因となる。何故なら鹽が着物に溜まり、着物を常にしめつぽくさせるからである。
島の人たちはかういふ乾燥期を利用してケルプ灰を燃し初め、全島は灰色の煙の渦の中に横たはる。今年は、住民が市價の不安定の爲に氣乘がしないのと、利益が確かでない製造の仕事に從事しようとしないので、澤山は出來ないであらう。
一頓のケルプ灰を造るのに要する勞働は大したものである。海草を秋と冬の嵐の後で岩から集め、天気の好い日に乾かし、一山にして積み、六月の初めまでそのままにしておく。
それから海岸で、脊の低い窯で燃す。これは十二時間乃二十四時間の続け樣の激しい勞働である。だが此處の島民は餘り取扱ひが上手でなく、必要以上を燃し過ぎて取れる灰の一部分を駄目にする。
窯は燃えたケルプ灰の二噸位を入れ得るが、それが一杯になると、ゆるく石で蓋をして冷しておく。二三日たつと中の物は石灰岩のやうに硬くなる。それを鐵梃(かなてこ)で打ち砕いてから、カラハに積んで、キルロナンへ運ぶ。其處で、その含む沃度の量を檢査して、その量に應じて金が拂はれる。以前、良いケルプ灰一頓につき七ポンドとれるのが常であつたが、今ではたいがい四ポンドにも達しない。
アランでは、製造がまた面白い。クリーム色の濃い煙を吐き出してゐる焰に緣取られた低い窯は、その煙つた中に立ち働く赤や灰色の着物の勞働者の一團や、ペティーコートを着て飲み物を持つて來る子供たち女たちと共に、東洋の繪のやうな多種なまた多樣を光景を造る。
男たちは或る意味で、島の名物と思つてゐて、自慢顏にその仕事を私に見せてくれる。一人の男が、昨日私に云ふには、「あなたは、今日までこんな仕事をきつと見なかつたでせう?」
「なるほど」私は答へた。「見た事がなかつた。」
「おやおや、それでは」と彼は云つた。「あなたはフランスやドイツや法王を見たくせに、イニシマーンに來るまでケルプ灰を造つてゐる人を見なかつたとは、不思議なことだ。」
*
The other day the men of this house made a new field. There was a slight bank of earth under the wall of the yard, and another in the corner of the cabbage garden. The old man and his eldest son dug out the clay, with the care of men working in a gold-mine, and Michael packed it in panniers--there are no wheeled vehicles on this island--for transport to a flat rock in a sheltered corner of their holding, where it was mixed with sand and seaweed and spread out in a layer upon the stone.
Most of the potato-growing of the island is carried on in fields of this sort--for which the people pay a considerable rent--and if the season is at all dry, their hope of a fair crop is nearly always disappointed.
It is now nine days since rain has fallen, and the people are filled with anxiety, although the sun has not yet been hot enough to do harm.
The drought is also causing a scarcity of water. There are a few springs on this side of the island, but they come only from a little distance, and in hot weather are not to be relied on. The supply for this house is carried up in a water-barrel by one of the women. If it is drawn off at once it is not very nauseous, but if it has lain, as it often does, for some hours in the barrel, the smell, colour, and taste are unendurable. The water for washing is also coming short, and as I walk round the edges of the sea, I often come on a girl with her petticoats tucked up round her, standing in a pool left by the tide and washing her flannels among the sea-anemones and crabs. Their red bodices and white tapering legs make them as beautiful as tropical sea-birds, as they stand in a frame of seaweeds against the brink of the Atlantic. Michael, however, is a little uneasy when they are in sight, and I cannot pause to watch them. This habit of using the sea water for washing causes a good deal of rheumatism on the island, for the salt lies in the clothes and keeps them continually moist.
The people have taken advantage of this dry moment to begin the burning of the kelp, and all the islands are lying in a volume of grey smoke. There will not be a very large quantity this year, as the people are discouraged by the uncertainty of the market, and do not care to undertake the task of manufacture without a certainty of profit.
The work needed to form a ton of kelp is considerable. The seaweed is collected from the rocks after the storms of autumn and winter, dried on fine days, and then made up into a rick, where it is left till the beginning of June.
It is then burnt in low kilns on the shore, an affair that takes from twelve to twenty-four hours of continuous hard work, though I understand the people here do not manage well and spoil a portion of what they produce by burning it more than is required.
The kiln holds about two tons of molten kelp, and when full it is loosely covered with stones, and left to cool. In a few days the substance is as hard as the limestone, and has to be broken with crowbars before it can be placed in curaghs for transport to Kilronan, where it is tested to determine the amount of iodine contained, and paid for accordingly. In former years good kelp would bring seven pounds a ton, now four pounds are not always reached.
In Aran even manufacture is of interest. The low flame-edged kiln, sending out dense clouds of creamy smoke, with a band of red and grey clothed workers moving in the haze, and usually some petticoated boys and women who come down with drink, forms a scene with as much variety and colour as any picture from the East.
The men feel in a certain sense the distinction of their island, and show me their work with pride. One of them said to me yesterday, 'I'm thinking you never saw the like of this work before this day?'
'That is true,' I answered, 'I never did.'
'Bedad, then,' he said, 'isn't it a great wonder that you've seen France and Germany, and the Holy Father, and never seen a man making kelp till you come to Inishmaan.'
[やぶちゃん注:「リューマチス」現在の知見ではリウマチは自己免疫疾患が原因と考えられている。リウマチ患者にはDR4というタンパク質で作られたHLA遺伝子保持者が健常者に比べて多いという事実が分かっており、このHLA―DR4遺伝子が免疫システムに何らかの異常を起こしている可能性が指摘されていて、遺伝因子による発症も否定出来ないとされている。
「ペティーコートを着て飲み物を持つて來る子供たち女たちと共に」の部分を、栩木氏は『そこへ、妖精にさらわれないようペチコートを着せられた男の子たちや女たちが飲み物を持ってくる。』と訳しておられる。原文は“and usually some petticoated boys and women who come down with drink,”であるから、現地での着衣の民俗を踏まえた意訳と思われるが、極めて興味深い。]
何処だろう、ここは――知らない首都の衛星都市の丘陵の駅の春――そのすぐ向こうに昭和新山のミニチュアのような禿山がある――僕その複線の反対側の電車に乗っているのだが――開かない窓から見ていると数メートルしかないその丘の上から濛々たる黒煙が噴き出し――あっという間に血のような粘度の極めて高いしかし高温の溶岩流が溢れ出し――僕は車窓を両手で叩きながら、向こう側のホームにいる通勤客に危険を知らせようとする――窓は開かない――その内に僕の電車は何事もなかったかのように駅を出て行く――僕は叫び続ける――でも――向かいのホームでは何人もの人が、普通に電車を待っているのだ――その後ろには赤黒い飴の塊のような溶岩が――迫っているというのに――
僕は大声で叫んでいる
――それを「僕」は去って行く電車の外で――絶望して眺めていた――
*
一昨日の夢だ。
「新編鎌倉志卷之八」は龍華寺に入った。行ったことがない寺を記述し、注するのがこんなに困難だとは思わなかった。これはこれで、しかし面白いぞ。
去って行く後ろ姿を――見る者は――誰(たれ)もいないのです――だから怒ってもしょうがないのです――僕たちはすっきりと消えてゆくのです――それが僕たちの義務であり、権利なのだと――僕は思うのです
昨日逢った二人へ贈ります――
くちびるに歌を Hab' ein Lied auf den Lippen
この曲は……歌詞が分からぬても……何故か……ドイツ語の主旋律を聴いただけで……涙が止まらなく……なるのです……
"Hab' Sonne im Herzen"
Hab' Sonne im Herzen, obs stürmt oder schneit
Ob der Himmel voll Wolken, die Erd voller Streit.
Hab' Sonne im Herzen, dann komme was mag,
das leuchtet voll Licht dir den dunkelsten Tag.
Hab' ein Lied auf den Lippen mit fröhlichem Klang
und macht auch des Alltags Gedränge dich bang!
Hab' ein Lied auf den Lippen, dann komme was mag,
das hilft dir verwinden den einsamsten Tag!
Hab' ein Wort auch für andre in Sorg' und in Pein,
und sag, was dich selber so frohgemut lässt sein:
Hab' ein Lied auf den Lippen, verlier nie den Mut,
hab' Sonne im Herzen, und alles wird gut.
*
ツェーザル・フライシュレンの祈り
心に太陽を持て
心に太陽を持て
あらしが吹こうが、雪がふろうが、
天には雲、
地には争いが絶えなかろうが!
心に太陽を持て
そうすりゃ、何がこようと平気じゃないか!
どんな暗い日だって
それが明るくしてくれる!
くちびるに歌を持て
ほがらかな調子で。
毎日の苦労に
よし心配が絶えなくとも!
くちびるに歌を持て
そうすりゃ、何がこようと平気じゃないか!
どんなさびしい日だって
それが元気にしてくれる!
他人のためにも、ことばを持て
なやみ、苦しんでいる他人のためにも。
そうして、なんでこんなにほがらかでいられるのか、
それをこう話してやるのだ!
くちびるに歌を持て
勇気を失うな。
心に太陽を持て
そうすりゃ、なんだってふっ飛んでしまう!
山本有三 『心に太陽を持て』 初版本訳
*
心に太陽を持て
心に太陽を持て。
あらしが ふこうと、
ふぶきが こようと、
天には黒くも、
地には争いが絶えなかろうと、
いつも、心に太陽を持て。
唇に歌を持て、
軽く、ほがらかに。
自分のつとめ、
自分のくらしに、
よしや苦労が絶えなかろうと、
いつも、くちびるに歌を持て。
苦しんでいる人、
なやんでいる人には、
こう、はげましてやろう。
「勇気を失うな。
くちびるに歌を持て。
心に太陽を持て。」
山本有三『心に太陽を持て』改定訳
「新編鎌倉志卷之八」は瀬戸橋から照天姫松に辿り着いた。参考転載した「江戸名所図会」の瀬戸橋の二枚連続の絵は、瀬戸の潮の満ち引きや周囲の市井のいろいろなものの音(ね)が聴こえてくる、素晴らしい出来である。是非、ご覧あれ。
レチタテーィヴォを男女合唱の男性を抑制した極めて幽かなハミング形で これを前後に挟む 例えばこんな(あくまで「こんな」)やつ
歌唱部はテルツ少年合唱団から招聘し、テッテ的に日本語のイントネーションで歌ってもらうことを教え込む(バリトンもソプラノもだめなんだ、職業歌手の安定的な「力量」をもった声はこの曲に、実は「全く合わない」のだ)。
その歌詞も「十全に」理解した少年に――たった独りで唄ってもらう――
勿論、たった一人選ぶなら、
ピアノは舘野泉氏以外には考えられない――舘野さん――弾いて呉れませんか?
――これで――聴きたいんだ、僕は
やっぱり僕のパウエルだ――馬鹿どもの観客に笑みながら――決して鍵盤を見ないんだ――僕は君を永遠に――愛す――
Bud Powell Round Midnight
このエリックのフルート映像――見なきゃ――100000000年損する――ぜ――
若いと思っている輩は愚劣である
そもそもが我々の生は脳生理学的にも20年を境に老化するしかないとされる
僕もどこかでそれを忘れていた
愚劣なマッカーサーの言は、だからしかし、永遠に正しい
“Old soldiers never die; they just fade away.”
「老兵は死なず、ただ去りゆくのみ」
しかし――だ――
この彼が引用した軍歌は――こう続くことも知っておけ――
Old soldiers never die, never die, never die,
Old soldiers never die.
They just fade away.
Young soldiers wish they would,
wish they would, wish they would,
Young soldiers wish they would,
Wish they'd fade away.
*
僕は兵士になったこともなく なりたいとも思わない
問題はしかし――
生者にとって……まともな生きる者にとって……
死は目的ではないが不忌避な確かな未来完了である――
という事実であろう――
では、また
さて、芥川は、前から少〔すこ〕しずつ述べたように、そういう事やする事に、ときどき、人を迷わせる事があるように、書く事にさえ人を迷わせるような事が、しばしば、ある。これは、芥川自身がたくまないのに、そういう事もあるけれど、それをはっきり意識してやる事もあるのである。
それらの中〔なか〕の二〔ふた〕つの事件について述べよう。
その一つは、『奉教人の死』の一件である。
『奉教人の死』は、二十五六枚の短篇ではあるが、芥川の数おおいキリスタン物のなかで、まず最初の作であり、すぐれた小説の一〔ひと〕つである。しかし、この悪文をよむ人は、この小説が大正七年の作であることを、頭〔あたま〕にいれていただきたい。そこで、この小説について述べると、まず、「……これは或年〔あるとし〕御降誕の祭の夜、その『えけれしや』の戸口に、餓ゑ疲れてうち伏し居〔を〕つたを、参詣の奉教人衆が介抱し、それより伴天連〔ばてれん〕の憐みにて、寺中〔じちゅう〕に養はれることになつたげでござるが、……」というような、まず才気のある、文体にも、その時分の一部の読者は、目をみはった。それに、種〔たね〕のある事は知らないから、極めて変化のある異様な物語にも、この小説は、おおげさにいえば、その頃の一部の読者の度胆をぬいたのである、(いや、年わかくて高名になった芥川は、読者の度胆をぬくつもりで、書いたのであろう。)そうして、芥川は、更に調子にのって、この小説のおわりの方に、「予が所蔵に関〔かか〕る、長崎耶蘇会出版の一書、題して『れげんだ・おうれあ』と云ふ。蓋し、「LEGENDA AUREA〔レゲンダ・アウレア〕の意なり。……体裁は上下二巻、美濃紙摺草体交〔みのがみずりさうたいまじ〕り平仮名文にして、印刷甚だしく鮮明を欠き、活字なりや否やを明〔あきらか〕にせず。上巻の扉には、羅甸字〔ラテンじ〕にて書名を横書〔よこがき〕し……」などと書いている。この『奉教人の死』は、この『れげんだ・おうれあ』の下巻の第二章に依る、と書いている。
ところで、この時分はキリスタン研究の草分け時代であったから、専門の学者たちは、キリスタン関係のめずらしい本を、血眼〔ちまなこ〕になってさがしまわり、裕福な人たちは、千金をかけても、とあさりまわっていた。こういう時であったから、この芥川の『奉数人の死』の元になった『れげんだ・おうれあ』とはどのような本であろう、と、たちまち、専門家たちの注意をひいた。その中で、この『れげんだ・おうれあ』に、うっかり、興味を待ったのは、碩学、内田魯庵であった。魯庵は、その時分の事を、ずっと後に、『れげんだ・おうれあ』という文章のなかで、つぎのように述べている。
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恁〔か〕ういふ最中に現れたのが芥川君の『奉教人の死』であつた。篇末著者が所蔵の切支丹本『れげんだ・おうれあ』から材を取つたといふ記事を見た切支丹党は恰もメシヤの再臨を聞いたやうなショックに打たれた。今思ふと馬鹿々々しいが、何しろドコかにマダ世に知られない切支丹本が秘襲されてゐてイツかは世に出る時が必ず有るに違ひないと信じ切つてゐた最中だから『れげんだ・おうれあ』なぞといふツイぞ聞いた事のない書名を少しも疑はずに逆上〔のぼせあが〕つたので、アトになつてこそいろいろ疑問も生じたが、之〔これ〕を聞いた瞬間は疑ふ余地もなく夢中になってしまつた。それまで芥川君とは面識もなく書信も通じた事さへなかつたのだが、恁うなつては矢も楯もたまらず、即時に飛札を芥川氏の寓居の鎌倉へ飛ばして『れげんだ・おうれあ』の内見を申しこんだ。
中一日おいて折返して来た返事をワクワクしながら取る手も遅しと封を切ると、サラサラと書流した文句は、右は全く出鱈目の小説にて候。思はずアツと声を上げて暫らく茫然してしまつた間抜けさ加減……
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この年、内田は五十二歳であり、芥川は二十七歳である。が、年〔とし〕などはどうでもよい。私は結果からいうのではないが、大袈裟にいうと、この『れげんだ・おうれあ』の一件は、ある意味で、芥川の一世一代の失敗の一つである、と思う。その理由は簡単に述べられないから別に書くとして、たとえば、何でもない事のようであるが、大正七年九月二十二日に、芥川が、鎌倉から小島政二郎にあてた手紙のなかに、「『奉教人の死』の『二』はね内田魯庵氏が手紙をくれたのは久米から御聞きでせう所が今日東京にゐると東洋精芸株式会社とかの社長さんが二百円か三百円で譲つくれつて来たには驚きました随分気の早い人がゐるものですね出たらめだつてつたら呆れて帰りました、」と書いている。芥川が、小説を作るために、『れげんだ・おうれあ』という世にない本をあるように書く事は決してわるいことではない。しかし小説で、世にない本をあるように書いたために、矢も楯もたまにあると思って、「欠も楯もたまら」ない思いで手紙を出した真面目な好学の徒、(しかも先輩である、)内田魯庵に一杯くわした事を、おもしろがって、久米に報告したり、けっきょく無邪気な会社の社長にもー杯くわした事を、手をうつように、よろこんだり、その上それらの事を小島に報告してホクソエんだり、した事は、その事を知った時は、私は、なんともいえぬイヤアな気がしたが、しかし、こういう事に、(こういうイタズラに、)興をおぼえる(としたら、)芥川を、今になって、思うと、私は、なんという理由なしに、失礼な言葉ではあるが、なんともいえぬ悲しさと哀れさのようなものを、しみじみと、感じるのである。
[やぶちゃん注:「奉教人の死」について、実は芥川は二度我々を騙している――これには実は種本が存在し、それは明治二十七(一八九四)年秀英社刊の斯定筌(スタインシェン Michael Steiche)の「聖人伝」所収の「聖マリナ」であること(原典は私の電子テクスト『斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人傳」より「聖マリナ」』で読むことが出来る)――のであるが、それでも尚且つ私は(私は勿論、宇野が綴っている魯庵や某好事家社長の話も知っている)、ここで宇野のように芥川龍之介に対して『イヤアな気』は全くしない、ということだけは表明しておきたい。文芸、いや芸術によって構築された世界の内包と外延はテクストのみに留まるものではない。いや、「奉教人の死」のストーリーのどんでん返しは作品の中にのみ留まるものではないのである――これらのすべての総体が『芥川龍之介の稀有の名作「奉教人の死」という現象そのもの』なのである、ときっぱりと言明するものである。]
鹿
雄の鹿のたちてうごかず形り固く
雄鹿たつ吾れに背きてほど遠く
雄の鹿のこころ深げに形りにたつ
水飲みに鹿下りてくるおなじみち
すこし水飲みて足りつつ鹿驅くる
前号の「近江の葉」の京都を読んでいると、あたかもそのまま奈良に向かったしづ子の穏やかな羈旅吟のようにアリバイが作られていはしないか。読者を巧妙に騙す巨湫マジックである。
「新編鎌倉志卷之八」は現在の金沢八景にある瀬戸明神まで更新した。鎌倉から離れたので、僕の知見の守備範囲から出てしまって注が大変なのだが、多くのネット記載を参考にさせて頂いていて、僕の疑問に思う所は拘って注している。また、「江戸名所図会」の長谷川雪旦の微細にして美麗なる絵図を挿入して、ビジュアル的にはかなりいい感じに仕上がりつつある。
今朝、彌撒(みさ)の後で一人の婆さんの葬式があつた。彼女は隣の家に棲んでゐた。午前には何度もかすかな泣唱の聲を聞いた。私は合葬者の邪魔に爲るかと思つて通夜(つや)には行かず、昨晩中、庭できこえてゐた槌の音を聞いてゐた。その庭では、ぶらぶらして集まつて居る人たちの中で最も近しい親類の者がゆつくりと棺桶を造つてゐた。今日、葬式の時間の前、邁に立つてゐる幾人かの人たちに密釀酒が振舞はれ、部屋に居た私へも裾分けが持つて來られた。それから棺桶はゆるく帆布で蔽はれて運び出され、上の方を結んだ三本の棒で地面近くに支へられた。島の東方低い方へ行くにつれて、殆んど凡ての男たちと凡ての年取つたお婆さんたちが、頭からペティコートを着て出て來ては行列に加はつた。
墓が掘られてゐる間、女たちは早蕨の青く緣取つた平らな墓石の間に坐つて激しい泣唱即ち死者の爲の泣き叫びを初めた。お婆さんたちは代る代る朗吟の音頭を取つて、身體を前後に搖り、額を目の前の石の方に曲げながら、暫く深い悲しみに醉つてゐるやうであつた。さうしながら啜り泣きの歌聲を繰り返し繰り返して、死者に呼びかけてゐた。
また墓地の周りには別の皺のよつた婆さんたちがぐるつと取り卷き、赤いペティコートの下から目ばかり出して、同じやうな調子で身體を搖り動かしながら、伴奏のやうに皆んなに附けられて、譯の分らない歌を歌つてゐた。
その朝、天気はよかつたが、棺を下ろす頃、頭の上で雷が鳴り、雹が蕨の中ヘ音立てて落ちた。
イニシマーンに居ると、人と自然の共鳴をどうしても信ずるやうになる。折も折、お婆さんたちの聲より大きく雷が莊嚴な死の轟きを立てた時に、傍に居た人人の顏は感激に緊張し引き釣つてゐるのを私は見た。
棺が墓に納まり、雷がクレアの丘を越えて過ぎ去つた時には、泣唱は前よりも盛んになつた。
此の泣唱の悲しみは、一人の八十を越えた女の死に對する個人的な悲しみではなく、此の島のあらゆる人たちの何處かにひそんでゐる激情の全部であるやうに思はれる。此の悲痛の叫びの中に、人人の心の奧の意識は暫し表面に現はれ、波と風とで戰ふ宇宙に面と向ひつつ孤立を感ずる人たちの氣持を表はしてゐるやうである。彼等は不斷無口であるが、死を前にすると、無頓着と忍耐に見えてゐたものは忘れられ、彼等の凡てが定められた恐ろしい運命の前に、いたましい絶望で泣き叫ぶのである。
棺を蔽ふ前、-人の老婆が墓の傍に跪いて、死者の爲に簡單な祈禱を繰り返した。
此の贖罪の言葉と、異教的な絶望の叫びにまだ嗄れてゐる聲で唱へるカトリック教的信仰の言葉には、一つの皮肉があつた。
墓の少し向うには、屋根のない教會跡の壁蔭に坐りながら、泣唱を歌つてゐる婆さんたちの一列が見えた。彼等はまだ悲しみの爲にすゝり泣き、身體を震はせてゐたが、此の世の恐ろしさを紛らす日常のありなし事を再び語り出してゐた。
皆んな墓地から出てしまひ、二人の男が棺を中へ下ろすための壁の穴を塞いでしまふと、我我は、何やかや語りつつ、また冗談を云ひつつ、恰かも舟卸臺(ポートスリップ)〔海面に向かつて傾斜せる石造或ひはコンクリート造りの斜面〕から、或ひは波止場から歸る時のやうに、村の方へ歸つた。
一人の男は、或る葬式で行はれた密釀酒の酒盛りの話をした。
「此のあひだ」と彼は云つた。「酒盛りの最中に、二人の男が墓地で仆れた。その日は醫者を呼びに行く事が出來ないほど海が荒れてゐた。そしてその中の一人はそれつきり生氣つかずに、その晩死んでしまつた。」
*
After Mass this morning an old woman was buried. She lived in the cottage next mine, and more than once before noon I heard a faint echo of-the keen. I did not go to the wake for fear my presence might jar upon the mourners, but all last evening I could hear the strokes of a hammer in the yard, where, in the middle of a little crowd of idlers, the next of kin laboured slowly at the coffin. To-day, before the hour for the funeral, poteen was served to a number of men who stood about upon the road, and a portion was brought to me in my room. Then the coffin was carried out sewn loosely in sailcloth, and held near the ground by three cross-poles lashed upon the top. As we moved down to the low eastern portion of the island, nearly all the men, and all the oldest women, wearing petticoats over their heads, came out and joined in the procession.
While the grave was being opened the women sat down among the flat tombstones, bordered with a pale fringe of early bracken, and began the wild keen, or crying for the dead. Each old woman, as she took her turn in the leading recitative, seemed possessed for the moment with a profound ecstasy of grief, swaying to and fro, and bending her forehead to the stone before her, while she called out to the dead with a perpetually recurring chant of sobs.
All round the graveyard other wrinkled women, looking out from under the deep red petticoats that cloaked them, rocked themselves with the same rhythm, and intoned the inarticulate chant that is sustained by all as an accompaniment.
The morning had been beautifully fine, but as they lowered the coffin into the grave, thunder rumbled overhead and hailstones hissed among the bracken.
In Inishmaan one is forced to believe in a sympathy between man and nature, and at this moment when the thunder sounded a death-peal of extraordinary grandeur above the voices of the women, I could see the faces near me stiff and drawn with emotion.
When the coffin was in the grave, and the thunder had rolled away across the hills of Clare, the keen broke out again more passionately than before.
This grief of the keen is no personal complaint for the death of one woman over eighty years, but seems to contain the whole passionate rage that lurks somewhere in every native of the island. In this cry of pain the inner consciousness of the people seems to lay itself bare for an instant, and to reveal the mood of beings who feel their isolation in the face of a universe that wars on them with winds and seas. They are usually silent, but in the presence of death all outward show of indifference or patience is forgotten, and they shriek with pitiable despair before the horror of the fate to which they are all doomed.
Before they covered the coffin an old man kneeled down by the grave and repeated a simple prayer for the dead.
There was an irony in these words of atonement and Catholic belief spoken by voices that were still hoarse with the cries of pagan desperation.
A little beyond the grave I saw a line of old women who had recited in the keen sitting in the shadow of a wall beside the roofless shell of the church. They were still sobbing and shaken with grief, yet they were beginning to talk again of the daily trifles that veil from them the terror of the world.
When we had all come out of the graveyard, and two men had rebuilt the hole in the wall through which the coffin had been carried in, we walked back to the village, talking of anything, and joking of anything, as if merely coming from the boat-slip, or the pier.
One man told me of the poteen drinking that takes place at some funerals.
'A while since,' he said, 'there were two men fell down in the graveyard while the drink was on them. The sea was rough that day, the way no one could go to bring the doctor, and one of the men never woke again, and found death that night.'
[やぶちゃん注:「泣唱」“keen”この語は、アイルランドの習俗で、死者に対して哀しみを表すために歌われる泣き叫びを伴った悲歌(エレジー)を指す。なお、ここは原文では“a faint echo of-the keen”(キーンの幽かな響き)とあるが、この“of-the”が不審である。これは一見、ハイフンに見えるが、私はこれをダッシュではないかと考えている。則ち、私はこれを、「断定し難いキーンのようなもの」として聴いたシングの気持ちを表明するものとして捉えてみたいのである。それは遠くから聴こえてくる波や風や――若しくは妖精の啜り泣きのようなものとして、シングには聴こえた。キーンであることは分かっている――分かってはいるものの――でも――そうではない――このアラン島の自然の中の――「ある不思議な声」として――シングに聴こえた「声」だったのではあるまいか?
「通夜」原文“wake”。通常の英語では目覚めている、寝ずにいる、という動詞であるが、アイルランド方言では動詞としては「死者を取り囲んで通夜をする」、名詞としてはアイルランドに於ける「通夜」を意味する特別な意を持つ。
「早蕨」“early bracken”はシダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビPteridium aquilinum の若芽。
「お婆さんたちは代る代る朗吟の音頭を取つて」原文は“Each old woman, as she took her turn in the leading recitative”。これはキーンの始まりに特徴的な語りを重視した(哀悼の意を表明する)叙唱めいた、定型的な触りの悲痛な語りを言うのであろう。
「此の贖罪の言葉と、異教的な絶望の叫びにまだ嗄れてゐる聲で唱へるカトリック教的信仰の言葉には、一つの皮肉があつた。」というのは、キーンを主体としたケルト信仰の葬送儀礼の中に、突如、カトリックの「贖罪」の「祈禱」が行われるということが、排他的で保守的なカトリックの立場から考えれば如何にも皮肉な様相を呈している、というシングの「皮肉」な表現である。
「その中の一人はそれつきり生氣つかずに、その晩死んでしまつた」という叙述からは、彼らの密造酒“poteen”(ポチーン:アイリッシュ・ウィスキー)の中には、メチルや毒性のある香り付けを添加したような危険なものがあったのではないかということを疑わせる記述ではある。]
これが日記なのね、
このひとは幾つになるの。
も ひとりいらつしやるわね。
また ひとり出て來たわね。
一たい 何人いらつしやるの。
これ みんなあなたのお人、
わたくし もうかへるわよ
あきれちやつた。
(『昨日いらしつて下さい』より)
芥川龍之介の「奉教人の死」は僕の去年からの新しい『僕だけの/僕にしか出来ない』ライフ・ワークだったのだ……そのために僕は相応に覚悟の努力重ねてきたつもりだ……自慰的自己満足の朗読なんかじゃあ、ないんだ……しかし今日、最後の(恐らく教師としての)その朗読をすることとなった……数人の生徒が聴いてくれていたのが嬉しい(それは紙をめくる音で分かったよ)……でもね……僕はこれを母一人を相手に、したかったのだ……それが僕の確かな仕事だったはずだった……それだけが……確かに僕の……たった一回こっきりの……悔いのない朗読になったはずだったのに……僕は母に……母だけに……この僕にしか出来ない……そうだ! はっきり言おう! これはね! 僕の! 僕だけのオリジナルの! 『確かな』特別な朗読なのだ! 誰にも させない 真似出来ない――僕だけの――「奉教人の死」――それを……語りたかったのに……な……母さん……母さん……この僕の朗読を聴いてもらえなかったのは……僕には……心底、残念なんだ、母さん……
だから――ここには書かない――出て来た彼女にだけ――ひっそりと教えた……
僕は一ヶ月前にやっと入手した金城哲夫の沖縄芝居の脚本集を、今日、ほぼ読み終えた(「ほぼ」としたのは最後の一作「原家の太良」が台詞全部がウチナーグチで書かれていて読みあぐんでいるからである)。
そこにあの局長の事件だ……
僕らヤマトンチュは――今の日本政府も――金ちゃんが描いた薩摩や明治政府がやってきたのと全く変わらない、愚劣な仕儀を――琉球沖縄に強いているのだね、金ちゃん――僕は今やっと、ウチナーの歴史の哀しみの、そのとば口に立てた気がしています……
近江の葉
脚組むやおほかたの驛雪をつく
吹くすそやつまさき滲みる膳所の雲
一樣に外套黑し旅長く
湖冷えの吹かるるばかり近江の葉
よべ雪のあともなかりし近江の葉
雪冷えのつまさきおろす京都かな
しづ子の句としては極めて稀なソリッドな、しかもスラーのようにブレイクの殆んどない旋律の稀有の羈旅吟を構成している。しかし、その結果として「脚組むや」という冒頭の一句の初五以外には、しづ子らしさが感じられない。しづ子の句と言われなければ、「なるほど、悪くないね」で、暫くすると思い出せなくなる(少なくとも私には)「実に纏まった、それらしい」句群である。