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2012/02/12

宇野浩二 芥川龍之介 三~(3)

 芥川がいくつか残した遺書のようなもののなかに、『或旧友へ送る手記』というのがある。この『或旧友』は久米正雄であるという事になっている。
 さて、その『或旧友へ送る手記』のなかに、つぎのようなところがある。

 僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描〔ゑが〕いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。
……僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯死と遊んでゐる。この先〔さき〕の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「……」は宇野による「或舊友へ送る手記」本文中核部(リンク先は私の同テキスト)の省略を示す。]

 聞くところによるとこの『或旧友に送る手記』を、当日、(つまり、昭和二年七月二十四日、)あつまった友人がじゅんじゅんに読んでいた時、だれも、かれも、『マインレンデル』という人を知らないので、マインレンデルとは、どういう人であろう、と頸をひねった、という。(この事ははまちがっていた。というのは、小島政二郎の『七月二十四日』という文章のなかに、まったく違うことが書いてあるからである。が、こういう風〔ふう〕に書かないと、この文章がすすまないから、このままにしておく。)
 ところで『芥川龍之介研究』という題で数人の人たちが座談会の形で語りあった時の速記を元にしたものが私の手もとにあって、そのなかに『マインレンデルについて』というのがあるから、それよって私の述べたいと思うことを書いてみよう。(なお、その座談会の顔ぶれは、廣津、久米、その他である。)
 まず、必要なところだけ、抜きながら、うつしてみよう。

 廣津。遺書の中にマインレンデルを読んだつてあるが、マインレンデルの本があるのだらうか、僕はどうかと思ふな。メチニコフの『人生論』の中あたりから借りて来たのではないかと思ふが、どんなものかしら。僕はメチニコフの『人生論』を読んで、その名を記憶してゐたが。ショウペンハウエルの弟子で、ショウペンハウエルの厭世思想のために自殺する青年が輩出したので、ショウペンハウエルはたまりかねて、自殺は不道徳だといふんだ。すると、三十歳の若きマインレンデルが、「しかし先生」といつて自分で自殺してしまふんだが、僕は『人生論』の中に面白く書いてあつたので、それで知つてゐるんだが、芥川もその辺の知識ではないかと思ふんだが、どんなものかな。
 久米。誰かがしきりにさがしたやうだつたが、……高橋邦太郎か誰かが……。
 廣津。あの時は恒藤氏が何か翌日しらべて来たのだといふ事を聞いたよ。マインレンデルの書があるなら、それを知りたいんだが、僕はどうかと思ふな。
 久米。恒藤などは自分はここまで知つてゐるといつてゐるくらゐだから、困らせようなんといふ気はなかつたんぢやないか。
 廣津。困らせるといふのぢやないけれども、マインレンデルの書いたものはないかと思ふ。困らせてやらうといふのは、つまり、皆がちよつとそれを見て困つたことなんで、結果の問題なんだね、……
[やぶちゃん注:「メチニコフの『人生論』」とは、一九〇八年のノーベル生理学・医学賞を受賞したロシア生まれのフランスの生物学者Илья Ильич Мечников(イリヤ・イリイッチ・メチニコフ Ilya Ilyich Mechnikov 一八四五年~一九一六年)白血球の食菌作用を始めとした免疫系の先駆的研究者として知られるが、彼の「人生論」の中の第二部第八章にマインレンデルの哲学について概説されており、後掲される森鷗外も同書を参照していることが明らかになっている。「高橋邦太郎」(明治三十一(一八九八)年~昭和五十九(一九八四)年)は仏文学者・翻訳家・元NHK職員。「恒藤」は芥川龍之介の盟友で法哲学者恒藤恭。]

 この二人の問答だけではよく、意味がわからないけれど、芥川が『或旧友に送る手記』のなかに、殊更に『マインレンデル』などという当時の文学者たちが知らなかった名をつかったのは、この『或旧友へ送る手記』をよんだ人たちが、マインレンデルとはどういう人であろう、と、かならず、頸をひねるにちがいない、頸をひねらせてやろう、(困らせてやろう、)という気持ちがあったのではないか、と、いう程の意味であろう。
 それから、廣津が、「マインレンデルの本があるのだらうか、」とか、「芥川もその辺の知識ではないかと思ふんだが、どんなものかしら、」とか、いっているのは、芥川は、本当に、マインレンデルの本をよんでいたのであろうか、という意味にとれる。それは、私も、この『或旧友へ送る手記』のなかの先きに引いたところ(つまり、「僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である、」とか、「マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに……」とか、「この先の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう」とか、いうの)を読んでみても、表現が何となくアヤフヤで、やはり、芥川は本当にマインレンデルの書いていたものを読んでいたのかしら、という気になるのである。
 ここで、『世界文芸辞典』[中央公論社昭和十二年十月発行編輯者吉江喬松]でしらべてみると、

 マインレンデル Philipp Mainländer(1841―1876) 本名 Philipp Batz. ショーペンハウエルの学徒。その説に依れば、宇宙の救民は盲目的意志であり、人間に於ても此の意志が根底をなす。意志は常に要求に動かされ常に欠乏を持つ。欠乏は苦である。意志は絶えず苦に依って動かされ苦を予想する。従つて人生も亦苦である。世界過程は神の力が分裂し次第に弱くなり遂に消滅するに至る過程であり、一切の個体は相互に戦ひ力を弱め遂に破滅によつてその目的を達する。其故に自殺は許され、寧ろ讃美さるべきものであるとなし、彼自身も自殺を実行した。
[やぶちゃん注:ウィキの英語版“Philipp Mainländer” (日本語版はない)で写真を見る事が出来る。]

 とある。これならずいぶんはっきりしていて、誰にもわかるが、私には、芥川は、どうも、これぐらいの事も、知らなかったのではないか、(のではないか、)と、思われるのである。ところが、やはり、その頃、芥川がマインレンデルの存在を知ったのは、鷗外の『妄想』からであろう、と断じた人があった。そういった人は誰であるかまったく覚えていないが、私はこの人の説に同感する。『妄想』のなかに、つぎのようなところがあるからである。

 その頃自分はPhilipp Mainlaender〔フイリツプ マインレンデル〕が事を聞いて、その男の書いた救抜の哲学を読んで見た。
 此男はHartmann〔ハルトマン〕の迷〔まよひ〕の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆〔みな〕迷〔まよひ〕だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面〔おもて〕を背〔そむ〕ける。次いで死の廻〔まは〕りに大きい圏〔けん〕を画〔ゑが〕いて、震慄しながら歩〔ある〕いてゐる。その圏が漸く小〔ちひさ〕くなつて、とうとう疲れた腕を死の項〔うなじ〕に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。
 さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。
[やぶちゃん注:冒頭「その頃」は、原文は「この頃」。因みに宇野浩二は「妄想」のこの章の最後にある以下の鷗外の批評を省略している。『自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬〔しようけい〕」も無い。/死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。』という二段落である。]

 これはさきに引用したものよりずっとわかりよく、マインレンデルの事がまずすっかりわかる。(これは私事であるが、この小説が明治四十三年の三月と四月に「三田文学」に出た時、私は、実に愛読した。)
 さて、芥川がマインレンデルの存在を知ったのは、鷗外の『妄想』からであろう、といった人の説に私が同感するのは、ここ引いた文章だけでもわかるであろう。しかし、また、芥川がこういうマインレンデルの考えに同感したかどうか。これは疑問である。
 しかし、いずれにしても、芥川が、『或旧友へ送る手記』にマインレンデルという名をつかって、死後、この手記をよむ人たちに、この事だけでも、なやましてやろう、と考えた、とすれば、私のような者でさえ、私なりに、骨を折らせられたのであるから、この手記が、死後、すぐに、幾人かの人びとに頸をひねらせたか、と思えば、芥川は死後で、そのたくらんだ事(かりに『タクランダ事』とすれば)に成功した、という事になる。とすれば、芥川は、それで本意をとげた、という事になるであろう。しかし、私は、そこまでは、考えたくない、考えないのである。
 それから、これもまったく別の話であるが、あの関東に大地震があってから数日後、芥川に逢うと、芥川は、真剣な顔をして、「君、ある権威のある学者の話だが、東京湾も、今に陥没する、ということだよ、」と、なにか内証話でもするように、いった事がある。私は、今、この事を思い出して、芥川が、本当にこういう事を信じていたか、こういう事を云って、人を脅かすつもりであったか、わからないのである。
 いずれにしても、あの『れげんだ・おうれあ』の一件の事を述べた時に書いたように、私は、芥川は、いろいろなイタズラはしたけれど、何〔なん〕というかなしい人であったか、と、これを書きながら、思うのである。すると、何度もおなじ事をいうようであるけれど、実際、涙ぐましくなってくるのである。
 廣津は、「芥川は、死ぬ時、兜のなかに香を入れておくような心がけの男であったなあ……やっぱり、芥川は、ういやつであったなあ……」と、云った。

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