宇野浩二 芥川龍之介 四~(1)
四
誰〔たれ〕であったか、(小島政二郎であったか、誰であったか、忘れたが、――ある人が、――)芥川の小説には、人の死ぬ事を述べたものが多い、殊に小説の最後に、(あるいは、最後の方に、)人が死ぬところが多い、と、なにか、それに意味があるように、いった。もっとも、これは、芥川があのような死〔し〕に方をしてから間〔ま〕もなくの時分であったから、いくらか敏感な人たちに、そのように思われたのであろう。
しかし、私は、そのような事は、別〔べつ〕に大〔たい〕した意味などあるのではない、たまたま、芥川がとりあつかった小説の題材が、そのような事に、(つまり、人がよく死んだり、小説の最後に、⦅あるいは、最後の方に、⦆人が死んだり、する事に、)なったのである、と思うのである。
芥川の初期の短篇に『ひよつとこ』というのがある。(芥川の全集のなかの別冊のうちにおさめられてある年譜によると、この『ひよつとこ』は、大正三年の四月号の「帝国文学」に発表されたが、書いたのはその前の年の十二月である。そうして、処女作は、大正三年の四月に書いて、第三次「新思潮」に発表した『老年』である。)
[やぶちゃん注:「『ひよつとこ』は、大正三年の四月号の「帝国文学」に発表された」は誤り。「ひよつとこ」の発表は大正四(一九一五)年四月号『帝国文学』(脱稿時期は作品末に『(三年一二月)』というクレジットがある。但し、これは原稿の『(三○年一二月)』を編集者が訂したもの。リンク先の私のテクスト注を参照)。「処女作は、大正三年の四月に書いて、第三次「新思潮」に発表した『老年』である」発表は大正三(一九一四)年五月一日。]
さて、『ひよつとこ』は、花見時〔はなみどき〕に、隅田川を上〔のぼ〕る花見の船(伝馬船)の上〔うえ〕で、塩吹面舞〔ひっとこまい〕をおどる事のすきな山村平吉が、得意の踊りをおどっているうちに、脳溢血をおこして、船の中に、ころがりおちて、死んでしまう、というような話を、独得のしゃれた、気どった、文章で、得意の揶揄と皮肉をまぜて、書いたものである。ところで、この小説の最後に、平吉が、ほとんど意識がなくなってから、「面を……面をとつてくれ……面を、」と、かすかな声で、いったので、傍にいた者が手拭と面をはずしてやるところがあって、そのあとに、作者は、
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しかし面の下にあつた平吉の顔はもう、ふだんの平吉の顔ではなくなつてゐた。小鼻が落ちて、唇の色が変つて、白くなつた額には、油汗が流れてゐる。一眼〔ひとめ〕見たのでは、誰でも之〔これ〕が、あの愛嬌のある、へうきんな、話のうまい、平吉だと思ふものはない。たゞ変らないのは、つんと口とがらしながら、とぼけた顔を胴の間〔ま〕の赤毛布〔あかげつと〕の上に仰向〔あふむ〕けて、静に平吉を見上げてゐる、さつきのひよつとこの面ばかりである。
と、書いて、この小説を、結〔むす〕んでいる。
[やぶちゃん注:「ひよつとこ」は初出稿と全集所収の決定稿では大きく異なる。後の作品集『煙草と惡魔』に所収された際に大きな改稿が行われている。宇野の本文は全集の決定稿の掉尾の段落総てである。その違いはリンク先の私のテクストを参照されたい。]
これだけ読めは、実に気味がわるい、ある種の批評家などは、「鬼気がせまる、」などという。
が、私は、(私も、)ちょいとそう思うけれど、結局、そう思わない。ただ、かぞえ年〔どし〕二十三歳の青年がこういう小説を書いたことを思うと、ぞっとする。それは、私のような鈍な生〔う〕まれの者は、この年頃〔としごろ〕の時分は、呑気〔のんき〕であったから、こんな事を思うのかもしれない。しかし、また、私はこうも考えるのである、
たった二十三歳の青年が、このあんまりうまくない小説に、このような気のきいた結末を作〔つく〕ったのであるから、これはなみなみの才能ではない、と。
しかし、また、おなじ小説のなかにある、
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Janusと云ふ神様には、首が二つある。どつちがほんとうの首だか知つてゐる者は誰もいない。平吉もその通〔とほ〕りである。
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などというところを読むと、私は、芥川は、すでに、こんな時分から、(どこで学〔まな〕んだのか、持ち前のものであるか、)こういうマヤカシの文句を、使いはじめていたのか、と、驚歎するとともに大〔おお〕いにアキレもしたのであった。
[やぶちゃん注:「Janus」ヤーヌス又はヤヌスと読む。ローマ神話の門戸神。前後二つの顔を持つ。境界神であることから一年の堺に存在する一月を司る神として、英語の January の語源ともなった。]
マヤカシといえば、『往生絵巻』のおわりの方の、五位の入道が、「阿弥陀仏よや。おおい。おおい、」と叫びながら、西へ、西へ、と駈〔か〕けつけた末に、海辺の松の枯れ木の梢の上にのぼり、そこで餓〔う〕え死〔じ〕にするところがあるが、それを見た老いたる法師が、葬〔とぶろ〕うてやろう、と思って、その屍骸を見て、「や、これはどうぢや。この法師の屍骸の口には、まつ白〔しろ〕な蓮華〔れんげ〕が開いてゐるぞ。さう云へば此処〔ここ〕へ来た時から、異香いかうも漂うてはゐた容子〔ようす〕ぢや」というところなども、私は、やはり、芥川一流〔いちりゅう〕のマヤカシの文句である、と思うのである。
ところが、私ずっと前に愛読したことのある、宮本顕治の『敗北の文学(芥川龍之介氏の文学いついて)』の中で宮本は、この『往生絵巻』について、「この『往生絵巻』はユウモラアスな形式の下〔もと〕に、笑ひ切れない求道者の姿を書いている。正宗白鳥氏は、この作品の結末はまつ白な蓮華の咲く非現実的な描写を捉へて、芥川氏がリアルに徹することの出来なかった人だといふことの例証としてゐる。勿論、我々は別の意味で氏が現実を深く認識しなかつたことを批判する。けれどもかうした偏狭な自然主義的批判は永久に、作品の本質を理解し得るものではない。作者は『五位の入道』を愛してゐる。憐愍を越えて、まじめに愛してゐるのだ。蓮華の花を咲かす事は氏の『遊び』ではない。枯木の梢に死んだ求道者に、心から詩的な頌辞を最後に手向けてゐるのである、」と述べている。
この宮本の『往生絵巻』にたいする意見は私がさき述べた事とほとんど反対である。しかし、私は、ここに引いた宮本の文章をよんで、感動した、一面に芥川の文学を否定しながら、他面ではかくのごとく、芥川の文学を、よかれあしかれ、ふかく理解し、(いくらかまやかされているところがあるが、)芥川の文学に引かれている、宮本の情熱に、私は、感動したのである。そうして、ついでに書けば、私は、宮本の『敗北の文学』のなかの
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……プロレタリアートの戦列に伍して、プロレタリアの道を踏まうとしてゐるインテリゲンチャの書棚に、×の新聞と共に、芥川氏の『侏儒の言葉』が置かれてゐないと誰が断言し得よう。曾〔か〕つて私は、自己の持ち場に帰つてゐるインテリゲンチャ出の一人の闘士が、一夜腹立しさうに語つたことをおぼえてゐる。「駄目だ! 芥川の『遺書』が、――『西方の人』が、妙に今晩は、美しく、懐しく感じられるのだ。」
彼のみではない。青野季吉氏も「芥川氏の生涯とその死とは、私の心をとらへて離さないものがある。……私たちは芥川氏を批判することは出来る。だが、芥川氏を捨てて顧みないことは出来ない。自分の中にも、芥川氏があり、芥川氏の死があるからである、」と云つてゐる。そして又、林房雄氏が芥川氏の死によつて、虚無的な気持ちを掻き立てられ、中野重治氏が芥川氏を「大層かはいさう」に思ふのは、氏の中に感じる我れ我れ自身の残体のためであらう。
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と述べているところを、何度目かで、読んで、心うたれた。それは、宮本が、こう書いたのは、「この作家の中をかけめぐつた末期の嵐の中に、自分の古傷の呻きを聞く故に、それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだらう、」と思い、芥川の文学を再批判するため述べたのではあるが、ここ引いた一節は、おなじ世紀末の息を吸った私の心を、殊に、間道せるのである。(さて、記憶が例のようにまちがっているかもしれないが、)この時、「改造」で、この宮本のすぐれた論文が一等になり、小林秀雄の『様様なる意匠』が二等当選した。芥川の作品を、武田麟太郎や、こと小林多喜二などが、愛読していたことは聞き知っていたが、左翼の闘士たちの中にも、愛読していた者があった、という事を、もし、芥川が、あの世で、知ったら、ナンというであらうか、というような愚かな空想を、私は、したのであった。
さて、亨えに述べた「マヤカシ」について再〔ふたた〕びいうと、前の章に書いた、『れげんだ・おうれあ』の話も、マインレソデルの一件も、やはり、芥川一流のマヤカシであろう。そうして、かりにこの私の偏見が半分ぐらいあたっているとすれば、芥川は実に人を食〔く〕った男であった、という事になる。正〔まさ〕にそのとおりで、芥川は、人をくうようなところもたしかにあった、が、それ以上に他人が想像もつかないような気の弱いところが多分にあった。それから、文壇で、高い地位をしめながら、はなやかな流行児になりながら、芥川は、あれはど、いわゆる左顧右眄〔さこうべん〕し、自分の作品の批評などを、ひどく気にする人であった。
芥川の第一短篇集『羅生門』が出たのは、大正六年の五月である。この年、芥川は、かぞえ年〔どし〕、二十六歳であった。その頃の芥川の親友の一人であった、江口 渙が『芥川龍之介論』の最初に、
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数多い新作家の中で芥川君ぐらゐ鮮〔あざや〕かに頭角をあらはした者はない。志賀直哉、里見弴の二氏とならんで真に文壇近来の壮観である。芥川君が今度その創作第一集『羅生門』を出した。それを機会に私は聯〔いささ〕か同君の作品を是非してみたい。
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と述べている。
ところが、私のおぼろげな記憶によれは、右の三人のうちで、年〔とし〕でいえば最年長者である、志賀直哉はいつとなく文壇にみとめられ、世に出てからは『うますぎる』というような評判を得た、里見 弴もしだいしだいに文壇にみとめられるようになったのである。ところが、芥川は、バイロンが、『チャイルド・ハロルヅ・ビルダリメイジ』が公刊された時、「一朝〔いつてう〕目ざむれば忽ち聞人〔ぶんじん〕たりき」という程ではなかったけれど、それに稍〔やや〕ちかいところがあった。
[やぶちゃん注:バイロンは一八一二年に二十四歳で刊行した小説“Childe Harold's Pilgrimage”(「チャイルド・ハロルドの巡礼」)のベストセラーで一躍、時代の寵児となった。]
バイロンといえば、谷崎潤一郎が、『青春物語』のなかに、「バイロン卿の例を引くのも烏滸がましいが、由来私は最も花々しく文壇へ出た一人であるとされてゐる。しかし、それでも世間に認められるやうになつたのは、翌明治四十三年の三月『新思潮』[註―第二次]が廃刊した後、六月の『スバル』に『少年』を書き、七月(?)の同誌に『幇間』を書いた前後からだつた。その時分になつて、鷗外先生や上田敏先生が『麒鱗』や『幇間』を褒めて下すつたといふ噂が、ポツポツ私の耳に這入〔はひ〕つた、」と述べている。つまり、谷崎潤一郎さえ、「バイロン卿の例を引くのも烏滸がましいが、……」といったあとに、「それでも世間に認られるやうになつたのは、……」と述懐しているのである。
それを、芥川は、「新思潮」(註―第四次)に発表した『鼻』が、はしなくも、夏目漱石に、賞讃されたために、たちまち、その名声があがったのであるから、バイロンの「一朝目ざむれば……」の十分の一ぐらいの状態になり気もちになったにちがいない。されば、いかに聡明な人であったとはいえ、かぞえ年〔どし〕、二十五歳の青年である。まして、「『ええ、わたしは何でもえらい学者になりたいのです。下界の事から天上の事まで窮〔きは〕めまして、自然と学問とに通じたいと存じます。』「フアウストの中の学生はかうメフィストフェレスに語つてゐる。この言葉はそのまま学生時代の信輔にも当て嵌まる心もちだつた。尤も彼のなりたいものは必〔かならず〕しも学者とは限らなかつた。それは純粋の学者よりも寧ろ学者に近いものだつた。或〔あるひ〕は藝術家に近いものだつた、」(『大導寺信輔』のうち)というような野心を学生時代から持っていた青年である、蓋し天狗になったのも無理ではないのである。
[やぶちゃん注:『大導寺信輔』は正確には『大導寺信輔の半生』。]
その天狗になっているところへ、出世作となった『鼻』が、漱石門下の鈴木三重吉にもみとめられ、あらためて、三重吉の主宰していた「新小説」の五月号に掲載される事になった。そこで天狗は、ますます調子にのり、その年〔とし〕のうちに、『孤独地獄』、『父』、『虱』、『酒虫』、『野呂松人形』、『仙人』、『芋粥』、『猿』、『半巾』、『煙草と悪魔』、などを発表し、更に、その翌年(つまり、六年)には一月から六月までの間〔あいだ〕に、『運』、『尾形了斎覚え書』、その他、七篇の小説を書いた。しかも、そのうちの四篇は、その時分の文壇の登竜門といわれ檜舞台〔ひのきぶたい〕と称せられた、「中央公論」に出たのである。これには、文壇の人たちは、もとより、一般世間の人たちも、目を見はった、それには、作者が二十五、六歳の青年である、というような好奇心もあったが。いずれにしても、これは『日の出の勢〔いきおい〕』であった。しかし、また、この調子にのりすぎた事はその後〔のち〕しだいに芥川をくるしめる元〔もと〕になった。(前にも述べたかと思うが、志賀直哉や谷崎潤一郎などは決して調子にのらなかった。)
さて、調子にのり、調子にのせられた、芥川は、ますます調子の波にのって、大正六年の六月に、さき上〔あ〕げた、大正五年と大正六年の上半期の小説のうちから、十四篇をえらんで、第一短篇集『羅生門』を、出版した。その上〔うえ〕、その年の六月二十七日に、『羅生門の会』(つまり、『羅生門』の出版記念会)が、日本橋の『鴻の巣』で、開かれた。(菊池寛は、これを、出版記念会の始まりであるといったが、その当否は別として、この『羅生門』の出版記念会は、私の知るかぎり、もっとも劃期的なものであり、もっとも花やかなものであった。)『鴻の巣』などといっても、今〔いま〕の人はたいてい知らないであろう。久保万太郎が、『明治四十四五年』という文章のなかに、
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鴻の巣といへば、当時、「スバル」「白樺」の新〔あたら〕しい文学者たちのより合場所として知られてゐた。高村光太郎、木下杢太郎、北原白秋、吉井勇、里見弴、萱野二十一の諸君が始終そこに出入してゐた。いふならば、そこに足をふみ入れるといふことが、すでに、新しい芸術の香気に触れるといふことにわれわれにすればなつた。
[やぶちゃん注:「萱野二十一」は「かやのはたかず」と読み、劇作家郡虎彦の初期ペンネーム。]
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と述べている。しかし、その頃、私などがよく行った、(もっとも、久保田、水上滝太郎、小泉信三、その他も、行ったらしく、佐藤春夫、平塚明子、尾竹紅吉[今の富本憲吉夫人]その他も、行った、)コオヒイ一杯金五銭、ドオナツ一箇金五銭、というような、カフェエパウリスタなどとくらぶれば、『鴻の巣』は超高級の西洋料理店である。『羅生門』の出版記念会は、その『鴻の巣』で、もよおされたのである。そうして、その会の世話役は江口 渙と佐藤春夫がつとめた。
[やぶちゃん注:「平塚明子」は平塚らいてうの本名「明」。「はる・はるこ」と読む。「尾竹紅吉」(明治二十六(一八九三)年~昭和四十一(一九六六)年)は一般には「おたけこうきち」と読まれているが、本来は「べによし」と読む女流画家・婦人運動家尾竹一枝の画号。日本画家尾竹越堂長女。明治四十五(一九一二)年に青鞜社に入社、平塚らいてうの愛弟子として雑誌『青鞜』の表紙を担当した。青鞜退社後の大正三(一九一四)年、陶芸家富本憲吉と結婚する。ペン・ネーム富本一枝で婦人雑誌などに評論・随筆を発表する。戦後に憲吉と離別、出版事業に活躍、後年は童話なども書いた。「カフェエパウリスタ」は芥川龍之介の「彼 第二」にも登場する。京橋区南鍋町二丁目(現在の中央区西銀座六丁目)にあったカフェで、女給を置かず、直輸入のブラジル・コーヒーを飲ませるカフェとして知られ、文士の常連も多かったという(リンク先の私のテクスト注を参照されたい)。]
大正六年の六月六日に、芥川は、鎌倉から、江口と佐藤にあてて、つぎのような手紙を、書いている。
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羅生門の会は少々恐縮ですがやつて下されば難有〔ありがた〕く思ひます文壇の士で本を送つたのは森田 鈴木 小宮 阿部 安倍 和辻 久保田 秦 谷崎 後藤 野上 山宮 日夏 山本の諸君です
但〔ただし〕廿二日(金曜ですぜ土曜は廿三日でさあ)かへれません廿四日の日曜なら徴兵検査の為〔ため〕かへるので甚〔はなはだ〕都合がよろしいその夜か夕方ではどうですか場所と時間はきまり次第田端の方へ[やぶちゃん注:下線は底本では「〇」傍点。]御一報下さい江口君の新聞[註―六月十日に、やはり、鎌倉から、江口にあてた手紙のなかに、「羅生門論をおかきだつたらその新聞を私の所へ送つて下さい願ひます」とあるから、江口が『羅生門論』を出した新聞、という意味]も田端へねがひます
六月十六日 龍
江口 渙
両大人
佐藤春夫
[やぶちゃん注:底本では江口と佐藤の名は併記で間は空いていない。因みに、芥川龍之介は前年十二月一日附で横須賀の海軍機関学校教授嘱託(英語学)に就任、同じ十二月に塚本文と婚約もしている。]
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この手紙はおもしろい、先輩の名をならべて、『諸君』と、肩で風をきっているようなところがあり、「羅生門の会は少々恐縮ですが……」とか、「江口君の新聞も……」とか、いうふうに、肩をすぼめているところがあるからである。
ところで、この『羅生門』の出版記念会には、どれだけの人に案内状を出したか知らないが、出席した人が案外すくなかったようである。それは、七八年前に、私が、この『羅生門』の出版記念会の会場をうつした写真を見た記憶によると、細長いテエプルの両側に、十人か十二三人ぐらいいるだけで、空席があった程であったからだ。そうして、それらの人たちの中〔なか〕で、私の知っている顔は、谷崎潤一郎、江口 渙、佐藤春夫、久米正雄、加能作次郎[註―その頃「文章世界」の編集長]、もう一人〔ひとり〕誰〔たれ〕か、だけであった。しかし、佐藤春夫が、芥川が死んだ翌年(つまり、昭和三年)の七月[つまり芥川が死んでからちょうど一年目]に、『芥川龍之介を憶ふ』という文章のなかで、『羅生門』の出版記念会の事を、つぎのように書いている。
[やぶちゃん注:「どれだけの人に案内状を出したか知らないが、出席した人が案外すくなかったようである」新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、約五十名への案内状が送付されている。また、ここには宇野の大きな記憶違いがある。まず出席者は江口の記録によって二十三名とされ、実際に写真でも同数が確認出来る。また、宇野が当然知っていると思われる松岡譲・和辻哲郎・小宮豊隆・赤木桁平・豊島与志雄・有島生馬・滝田樗陰・田村俊子の顔が(私でさえも)視認出来る。]
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……この家の主人は文学者を愛好してゐたので、それに花の多い季節で、卓上にはどつさりスイトピーや薔薇などが盛られてあつた。自分は迚〔とて〕も希望のない自分の文学的生徒を考へ乍ら、颯爽として席の中心にゐる芥川を幸福だと思つた。会の終に此の家の主人が稍々〔やや〕大きな画帳を持ち出して芥川に記念の揮毫を求めた、芥川は「本是山中之人〔もとこれさんちゆうのひと〕」の五字六朝まがひの余り上手でない字で書いた。……
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芥川と佐藤は、同〔おな〕い年〔どし〕であるから、この出版記念会のあった時は、かぞえ年〔どし〕、二十六歳であった。もっとも、この文章は、佐藤が、三十七歳の年〔とし〕に書いたものであるが、この文章を書きながら、十年まえを追想すれば、佐藤の心は、まったく、感慨無量であったにちがいない。大正六年といえば、すでに四五年も前から、佐藤は、「スバル」その他に詩を出していたが、その年〔とし〕の五月に、傑作『田園の憂鬱』の第一稿『病〔や〕める薔薇〔さうび〕』を「黒潮」という雑誌に発表しただけであり、芥川は、さきに述べたように、二十篇ぐらいの小説を書いて、すでに鬱然たる大家であり、花形作家であった。それで、その時分の二人をよく知っている私は、出版記念会の席上で佐藤春夫が「迚も希望のない自分の文学的生涯」をかなしみながら、「颯爽とし席の中心にゐる」芥川をうらやんでいる姿を、身も心も浮きたつ筈であるべき芥川の、『鴻の巣』の主人に出された画帳に『本是山中人』というような文句を書く、五分刈〔ごぶが〕りの頭〔あたま〕を、白い詰め襟のような白い夏服をきている、底にそこはかとない憂いをたたえている顔を、思いうかべて、たのしかるべき事を書きながら、なぜか、心がうかぬのである。しかし、ふと、大正六年といえば、佐藤が、(佐藤は、その四五年前から、「三田文学」、「スバル」、その他に、巧みな気のきいた詩や小品を、出していたが、)その年〔とし〕の五月に、傑作作『田園の憂鬱』の第一稿『病〔や〕める薔薇〔さうび〕』を「黒潮」に発表した年であることを、私は、思い出した。そうして、私の記憶つがいでなければ、『病める薔薇』という題の横に、たしか、三上於菟吉に献ず、という言葉があって、そのまた横に、
O Rose, thou art sick
The invisible worm.
That fries in the night
In the howling storm;
という、ウィリアム・ブレイクの“Songs of Experience”、(『経験の歌』)のなかの“The Sick
Rose”の一節(あるいは全体)が引かれてあった。
[やぶちゃん注:私はこの初出を現認したことがないので、ここに記された事実について語ることは出来ない。「田園の憂鬱」がブレイクの本詩に基づき、作中で「おお、薔薇、汝病めり!」と繰り返されることは周知の事実である。但し、私の所有する、後に単行本化された「田園の憂鬱」では、巻頭にエドガー・アラン・ポーの以下の詩が配されている。
I dwelt alone
In a world of moan,
And my soul was stagnant tide.
Edgar Allan poe
私は、呻吟〔しんぎん〕の世界で
ひとりで住んで居た。
私の靈は澱〔よど〕み腐れた潮であつた。
エドガア アラン ポオ
初出誌をお持ちの方は是非、宇野の叙述が正しいかどうか、是非、御教授願いたい。]
“The Sick Rose”――『病める薔薇』――これだけでも、私の胸はおどった、それは私がブレイクの詩をふだん愛読していたからでもあるが。(ついでに書けば、私がブレイクの詩を愛読するようになったのは、柳宗悦の『ヰリアム・ブレイク』[註―大正十三年十二月発行、この本を出した洛陽堂は「白樺」を出した本屋である]を読んでからである。私は、これを、はじめて「白樺」に出た時、読んだのであるが、そのころ二十一二歳であった私は、この文章の書き出しの「永遠のべエトオヴェンが、その形骸を地に棄てた年――同じ千八百二十七年に又一人の絶大な芸術家が永く天に帰つていつた。夏八月十二日である、」というところを読んだだけでもう感激してしまった。)
さて、その時「黒潮」に発表されたのは、後に出された『田園の憂鬱』の三分の一ぐらいで、その最初の方である、これも、
*
その家が、今、彼の目の前へ現れて来た。
初めのうちは、大変な元気で砂ぼこりを上げながら、主人の後〔あと〕になり前になりして、飛びまはり纏はりついて居た彼の二疋の犬が、やうやう柔順になつて、彼のうしろに、二疋並んで、そろそろ随〔つ〕いて来るやうになつた頃である。高い木立〔こだち〕の下〔した〕を、路がぐつと大きく曲つた時に、
「ああやつと来ましたよ」
*
という書き出しを読んだだけで、私は、「これは、」と、目を見はった、この清新な表現にいたく心をうたれたからである。そうして、それにつられて、この小説を読みおわった時、私は、谷崎潤一郎の小説をはじめて読んだ時より、芥川龍之介の最初の小説をいくつか読んだ時より、作品のよしあしは別として、この小説にもっとも新味を感じた。それで、その翌年(つまり、大正七年)の九月、この小説が『田園の憂鬱』となって、「中外」という雑誌に出た時は、それを読んで、誇張していえば、驚歎した。私は、この小説の出ている「中外」を、その頃、赤坂の表町の伯父の家に寄寓していた、廣津から、借りて、本郷の弓町まで帰る電車の中で、乗りかえ場所の須田町の電車の停留場に立ちながら、この小説をむさぼるように読みつづけた。そうして、一気によみおわり、その翌日、廣津のところへその雑誌をかえしに行った、それは感心したことを報告するためでもあった。また、ついでに述べると、その弓町の下宿屋で、貸本屋でかりた永井荷風の『腕くらべ』にも感心して、私は、さっそく廣津を訪問して、自分ながら生意気〔なまいき〕な文学青年であったと思うが、「荷風がはじめて小説らしいもの書いたよ、読んでみたまい、」と、いったものである。
ここで、悪例の長い寄り路を元〔もと〕にもどすと、佐藤が『羅生門』の出版記念会に出た頃は、『病める薔薇』を書いたばかりの時で、都会の重圧と喧騒にくるしみ文学的の悩〔なや〕みにも堪えかねて、武蔵野の南の端〔はし〕の田舎にわびずまいをしていた時分あろうか、そこから引き上げて都会の片隅に住んでいた頃であろうか、とにかく、そういう時であったから、颯爽として見えた芥川が、佐藤に、幸福そうに思われたのか。いずれにしても、私は、この『羅生門』の出版記念会に主客として出席した芥川の姿と世話役として出席した佐藤の姿とを、心の目にうかべると、今〔いま〕の私には、「迚も希望のない自分の文学的生涯」を考えていた、という佐藤には、心の底には、気の張りがあり、ナニクソ、というような気がまえあり、颯爽としているように見えた芥川の心の底には、なにか、そこはかとなき、暗い、不安な、気もちがあったのではないか、と思われるのである。これは、また、持たぬ者の強みであり、持つ者の弱みである。そうして、その時、二十六歳であった佐藤には空想する余地があり、二十六歳であった芥川には空想する余地がなかった。それで、これは私の臆測ではあるが、『羅生門』の会の席上では、かえって佐藤や江口やその他の人たちがはしゃぎ、『羅生門』の扉に、「君看双眼色〔きみみよさうがんのいろ〕、不語似無愁〔かたらざればうれひなきににたり〕」と書いた芥川がかえって沈んでいたのではないであろうか、と。
[やぶちゃん注:「君看双眼色、不語似無愁」は白隱禅師「槐安國語」にあり、「禅林句集」にも引かれる。芥川龍之介の作品集『羅生門』扉に記されており、晩年の「三つの窓」の「2 三人」の作品末尾にも現れる。]

