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2012/03/31

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (13)

    白馬

 

  私の馬は白馬だ、

  初めは栗毛だつたが。

  夜でも晝でも旅をして

  歩いて行くのが大好きだ。

 

  旅した道は大變だ

  半分だけを語つてみても。

  アダムを花園で乘せた、

  彼が天から落ちた日に。

 

  バビロンの野では、

  賞牌目あてに驅けたが、

  ハンニンバル大王に

  その翌日は狩り立てられた。

 

  それからは狐狩の時に

  またしても狩り立てられた。

  その時ネブカトネザルは

  牛の姿で草を食べてゐた。

 

 

  THE WHITE HORSE

 

  My horse he is white,

  Though at first he was bay,

  And he took great delight

  In travelling by night

  And by day.

 

  His travels were great

  If I could but half of them tell,

  He was rode in the garden by Adam,

  The day that he fell.

 

  On Babylon plains

  He ran with speed for the plate,

  He was hunted next day

  By Hannibal the great.

 

  After that he was hunted

  In the chase of a fox,

  When Nebuchadnezzar ate grass,

  In the shape of an ox.

 

[やぶちゃん注:原詩は最初の一連が御覧の通り、五行である。

「栗毛」黄褐色の毛で覆われる毛色。我々がイメージする一般的なサラブレッドは「鹿毛(かげ)」と言って長毛(鬣(たてがみ)や尻尾)と四肢が黒色を帯びるが、栗毛ではそれがなく、全身が黄褐色である。但し、原文は“bay”で、これは「鹿毛」のことである。栗毛なら“chestnut”である。不審。

「バビロン」は紀元前のメソポタミア地方の古代都市で、バグダードの南方、ユーフラテス川河畔にあった。ハンニバルが生きた時代はセレウコス朝であるが、ここは超時空で(「翌日」は翌日ではない)、バビロンの栄華の時代の設定であろう。

「賞牌」は「しゃうはい(しょうはい)」と読み、競技の入賞者などに賞として与えるメダル。のこと。但し、ここは競馬であるから、“plate”は近代競馬の賞杯である「金(銀)盃」を意味していよう。

「ハンニバル」Hannibal Barca(ハンニバル・バルカ B.C.247年頃~B.C.183年か182年頃)はカルタゴの将軍。第二次ポエニ戦争でローマ軍に大勝したが、のちにローマの武将スキピオに敗れ、小アジアに亡命、自殺した。

「ハンニンバル大王に/その翌日は狩り立てられた」原文“He was hunted next day/  By Hannibal the great.”で、これは「翌日は狩りに駆り出された/ハンニバル大王様の御騎乗で」という意味である。この訳ではまるでハンニバルに生捕りにされそうになった、という誤読をしてしまう。

「ネブカドネザル」は古代メソポタミアの王の名で、四人の王がこの名を持つが、単に“Nebuchadnezzar”と記す場合はネブカドネザル2世(B.C.604年~B.C.562年)の新バビロニアの王を指す。いずれにせよ、この四人の王は総てハンニバルの時代より遥かに昔であるから、この狂詩の支離滅裂さの真骨頂である。但し、これはネブガドネザルが後世転生して牛(雄牛)となっていた、とも解釈は可能である。ともかくも「その時ネブカトネザルは/牛の姿で草を食べてゐた」という章句には、戯言以外の何らかのネブカトネザルに纏わる民間伝承が隠されているのかも知れないが、調べ切れなかった。識者の御教授を乞うものである。

最後に。ちょいと私も定型狂詩っぽくオリジナルに訳してみたい気になった。

 

    白馬(あおうま)

 

  おいらの馬は白馬(あおうま)よ、

  ところがどっこい昔は鹿毛(かげ)よ――

  奴(きゃつ)の好みは

  昼夜を継ぎ

  驅けるわ、驅ける、その驅り――

 

  奴(きゃつ)が走った、どえらい路程、

  その半分も語れねえ――

  昔を言やあ、園エデン、御先祖アダムを乗せ申し、

  堕天、韋駄天、それも奴(きゃつ)――

 

  バビロンの、その野辺の競馬場、

  金杯目あてに驅け抜けて――

  さて翌日は狩りに出る、

  騎(の)るは大殿(おおとの)ハンニバル――

 

  次に控えし奴(きゃつ)の狩り、

  そいつは狐を追う修行――

  さてもその時、ネブカドネザル、

  草を食んでる雄牛で御座い――

 

おあとがよろしいようで――]

 

 

 

 次の句では、ノアと箱船にはひつたり、モーゼを乘せて紅海を横切つたりした事があつた。それから――

 

  やつと運が向いて來て

  エヂプトではパラオの傍に居て、

  王を乘せては堂堂と

  花やかなナイルの岸を練つたものだ。

 

  サウル王と居た時は

  艱難辛苦を共にした。

  ダビテの傍に居た時は

  ダビテがゴリアテを殺した。

 

 

  We are told in the next verses of his going into the ark with Noah, of Moses riding him through the Red Sea; then

 

  He was with king Pharaoh in Egypt

  When fortune did smile,

  And he rode him stately along

  The gay banks of the Nile.

 

  He was with king Saul and all

  His troubles went through,

 He was with king David the day

  That Goliath he slew.

 

[やぶちゃん注:「パラオ」“Pharaoh”はファラオ、古代エジプトの君主の称号。

「サウル」は、旧約聖書「サムエル記」に登場する、紀元前10世紀頃のイスラエル王国最初の王。以下、ウィキサウル」から引用する。ユダヤの指導者にして預言者であったサムエルの神託によって王として選ばれた『サウルは息子ヨナタンや家臣たちと共にイスラエルを率いて、ペリシテ人や周辺民族と勇敢に戦った。しかしアマレク人との戦いで「アマレク人とその属するものを一切滅ぼせ」という神の命令に従わなかったため、神の心は彼から離れた』『神の声を伝えていたサムエルもこれ以降サウルに会うことはなかった。サムエルはサウルをあきらめ、神の言葉によってひそかにエッサイの子ダビデに油を注いだ。ダビデはペリシテの勇者ゴリアテ(次注参照)を討って有名になり、竪琴の名手としてサウルに仕えたが、サウルはダビデの人気をねたんで命を狙った。ダビデは逃れ、何度もサウルを殺害するチャンスを得たが、「神の選んだ人に手をかけられない」といってサウルに手を触れなかった』。『ダビデの立琴によってサウルから悪霊が出て行』ったが、後、『サウルはペリシテ軍との戦いの中で、ギルボア山で息子たちと共に追い詰められ、剣の上に身を投げて死んだ』とも、『「重傷だったサウルに頼まれて家臣がとどめをさした」との異なる伝承もある』。『サウルとヨナタンの遺骨は、次の王となったダビデによって、ベニヤミンの地ツェラの父の墓に葬られ』、『サウル王の四男のイシュ・ボシェテがただ一人生き残り、将軍アブネルに支持されて、マハナイムでサウル王朝第2代目の王になった。イシュ・ボシェテが暗殺されるとサウル王朝は滅亡して、ダビデ王朝が始まった』とある。

「ゴリアテ」は(以下、ウィキゴリアテ」から引用)『旧約聖書の「サムエル記」に登場するペリシテ人の巨人兵士。身長は6キュビト半』『(約2.9メートル)、身にまとっていた銅の小札かたびら(鎧)は5000シェケル』『(約57キログラム)、槍の鉄の刃は600シェケル』『(約6.8キログラム)あったという。サウル王治下のイスラエル王国の兵士と対峙し、彼らの神を嘲ったが、羊飼いの少年であったダビデが投石器から放った石を額に受けて昏倒し、自らの剣で首を刎ねられた』。

私の定型狂詩オリジナル訳。

 

  頃はエジプト、ファラオと一緒、

  運命の、女神がにっこり、笑みをかけ――

  王を騎上に堂堂と、

  花のナイルの岸うねる――

 

  サウルの王といた時にゃ、

  艱難辛苦をなめ尽くし――

  ダビテの王といた時にや、

  ゴリアテ殺した日にもいた――

 

おあとがよろしいようで――]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (12)

 それから、老人はなみはづれた英語の惡詩を謠つてくれたから私は書き留めたが、今寫してみると、頗る首尾一貫しないものである。此の詩を老人達は吟唱曲のやうに繰り返してゐるが、特に韻の不規則な行に來ると、彼等はそれを無理に朗吟風の型にして本當に樂しんでゐるやうであつた。その老人は吟唱しながら身體をくねくねと動かし續けてゐた。それが吟唱にふさはしく、板についてゐるやうであつた。

Then he gave us an extraordinary English doggerel rhyme which I took down, though it seems singularly incoherent when written out at length. These rhymes are repeated by the old men as a sort of chant, and when a line comes that is more than usually irregular they seem to take a real delight in forcing it into the mould of the recitative. All the time he was chanting the old man kept up a kind of snakelike movement in his body, which seemed to fit the chant and make it part of him.

[やぶちゃん注:「惡詩」“doggerel”は「狂詩」のこと。滑稽な内容を旨としたもの。但しこの後に示される「白馬」“THE WHITE HORSE”という詩を見ると、これは所謂、自由形式で民族的や叙事的な内容を表わした古形の朗誦用「狂詩曲」(ラプソディー)であると言ってよい。
「吟唱曲のように」“a sort of chant”。キリスト教の典礼聖歌のような感じの歌い方。同じフレーズを唱和して歌う。
「朗吟風の型」“the mould of the recitative”レシタティーボの型。叙事詩や歌物語の中で叙述や会話の部分に用いられる朗読調の歌唱部分。オペラやオラトリオなどに見られるように、歌い方に一定の類似性や定型がある。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (11)

 その後で、もう一つ同じやうな妖精騎手の話をした。それは彼が一シリングだけ殘して、全財産を失くした紳士に逢ひ、その人にその一シリングをくれと願つた。紳士はそれを與へると、その妖精騎手――小さな赤顏の男――彼のために競馬に出て、賭金が倍になる時に、信號に赤いハンカチを振つて、その紳士を金持にした。

After that he told me another story of the same sort about a fairy rider, who met a gentleman that was after losing all his fortune but a shilling, and begged the shilling of him. The gentleman gave him the shilling, and the fairy rider--a little red man--rode a horse for him in a race, waving a red handkerchief to him as a signal when he was to double the stakes, and made him a rich man.

[やぶちゃん注:原文では行空けはないが、独立させた。
「妖精騎手」原文も“fairy rider”であるが、謂いは、妖精のような超常的な能力を持った名騎手という謂いであろう。
「小さな赤顏の男」原文は確かに“a little red man”であるが、これは「小兵の赤毛の男」であろう。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (10)

 私はまた南島に來て居る。そして驚くほど色色の物語や歌を知つて居る老人たちに出逢つた。それもよく愛蘭土語と英語の兩方で知つてゐる最後の人たちなのである。今日はその一人の家へ、愛蘭土語を書ける土地の學者を連れて立寄つた。そしていくつかを書き留め、他は聞いておいた。此處に老人が、その本筋に熱中して行く前、最初に話した一つの物語がある。それは書き留めなかつたが、意味は次のやうであつた。――

 チャリー・ランバートといふ一人の男が居た。彼が競馬で乘る馬は、どれも一番になるのがきまりであつた。
 その國の人たちは遂に怒つてしまつて、今後、彼は競馬に出てはならぬこと、若し出たらば、見つけた者は彼を撃つ權利があるといふ法律ができた。それから後、國のその地方から英國へ行つた一人の紳士があつた。或る日、英國の人たちと話をして居る時、愛蘭土の馬が最良だと云つた。英國人は英國の馬が最良だと云ひ、終に競馬をやらうといふことになり、英國の馬がやつ來て、愛蘭土の馬と競走することになつた。紳士はその競馬に、全財産を賭けた。
 さて彼は愛蘭土に歸ると、チャリー・ランバートの處へ行き、馬に乘つてくれないかと賴んだ。チャリーは乘りたくないと云つて、紳士に自分の身に迫る危險を話した。そこで紳士は全財産を賭けた次第を話すと、終にチャリーは競馬の行はれる場所と時日を聞いたので、紳士はそれを教へた。
 「その當日に、此處から競馬場まで沿道七哩毎に、手綱と鞍をつけた馬を、おいて下さい。」
 ランバートは云つた。「さうしたら、其處へ行きませう。」
 紳士が行つてしまふと、チャリーは着物を脱いて、寢床にはひつた。それから醫者を呼びに遣り、醫者が來たと聞くと、熱のために脈搏が高いと思はせようと腕を振り廻はし初めた。
 醫者はその脈搏を感じ、明日また來るまで安靜にしてゐるやうにと命じた。
 次の日も同じやうな状態で、競馬の日まで此のやうだつた。その日の朝、醫者が重態だと思つ たほど、チャリーは激しく脈を打たせた。
 「チャリー、これから私は競馬に行かうと思ふ。」彼は云つた。「だが、今晩歸つて來たら、また來て診て上げよう。私が來るまで大事にしてゐなさい。」
 醫者が行つてしまふと直ぐに、チャリーは床から跳び起きて、馬に乘つた。そして第一の馬が待つてゐる處までで七哩行き、それからその馬で七哩行き、また他の馬で七哩行き、遂に競馬場まで來た。
 彼は紳士の馬に乘つて、競馬に勝つた。
 群集は大勢見物して居た。彼がやつて來るのを見た時、皆んなチャリー・ランバートだ、若しさうでないなら惡魔だと云つた。何故なら、そんな乘り方のできる者がほかにある筈はなかつたし、足が馬から離れてしまつてゐたが、彼はいつもさうだつたからである。
 競馬が濟むと、彼は待つてゐた馬に乘り、その馬で七哩行き、また次の處で七哩、自分の馬で七哩乘つて家に歸ると、着物を脱ぎ捨て、寢床に横になつた。
 暫くして、醫者が歸つて來て、素晴らしい競馬を見て來たと云つた。
 翌日、馬に乘つた男はチャリー・ランバートだと、人人は言ひ出した。調べられたが、醫者がチャリーは病氣で寢てゐて、競馬の前にも後にも自分が診察したことを誓つたので、例の紳士は財産が助かつたのであつた。

I am in the south island again, and I have come upon some old men with a wonderful variety of stories and songs, the last, fairly often, both in English and Irish, I went round to the house of one of them to-day, with a native scholar who can write Irish, and we took down a certain number, and heard others. Here is one of the tales the old man told us at first before he had warmed to his subject. I did not take it down, but it ran in this way:--
There was a man of the name of Charley Lambert, and every horse he would ride in a race he would come in the first.
The people in the country were angry with him at last, and this law was made, that he should ride no more at races, and if he rode, any one who saw him would have the right to shoot him. After that there was a gentleman from that part of the country over in England, and he was talking one day with the people there, and he said that the horses of Ireland were the best horses. The English said it was the English horses were the best, and at last they said there should be a race, and the English horses would come over and race against the horses of Ireland, and the gentleman put all his money on that race.
Well, when he came back to Ireland he went to Charley Lambert, and asked him to ride on his horse. Charley said he would not ride, and told the gentleman the danger he'd be in. Then the gentleman told him the way he had put all his property on the horse, and at last Charley asked where the races were to be, and the hour and the day. The gentleman told him.
'Let you put a horse with a bridle and saddle on it every seven miles along the road from here to the racecourse on that day,' said Lambert, 'and I'll be in it.'
When the gentleman was gone, Charley stripped off his clothes and got into his bed. Then he sent for the doctor, and when he heard him coming he began throwing about his arms the way the doctor would think his pulse was up with the fever.
The doctor felt his pulse and told him to stay quiet till the next day, when he would see him again.
The next day it was the same thing, and so on till the day of the races. That morning Charley had his pulse beating so hard the doctor thought bad of him.
'I'm going to the races now, Charley,' said he, 'but I'll come in and see you again when I'll be coming back in the evening, and let you be very careful and quiet till you see me.'
As soon as he had gone Charley leapt up out of bed and got on his horse, and rode seven miles to where the first horse was waiting for him. Then he rode that horse seven miles, and another horse seven miles more, till he came to the racecourse.
He rode on the gentleman's horse and he won the race.
There were great crowds looking on, and when they saw him coming in they said it was Charley Lambert, or the devil was in it, for there was no one else could bring in a horse the way he did, for the leg was after being knocked off of the horse and he came in all the same.
When the race was over, he got up on the horse was waiting for him, and away with him for seven miles. Then he rode the other horse seven miles, and his own horse seven miles, and when he got home he threw off his clothes and lay down on his bed.
After a while the doctor came back and said it was a great race they were after having.
The next day the people were saying it was Charley Lambert was the man who rode the horse. An inquiry was held, and the doctor swore that Charley was ill in his bed, and he had seen him before the race and after it, so the gentleman saved his fortune.

[やぶちゃん注:「私はまた南島に來て居る。そして驚くほど色色の物語や歌を知つて居る老人たちに出逢つた。それもよく愛蘭土語と英語の兩方で知つてゐる最後の人たちなのである。」原文は“I am in the south island again, and I have come upon some old men with a wonderful variety of stories and songs, the last, fairly often, both in English and Irish,”であるが、この「それもよく愛蘭土語と英語の兩方で知つてゐる最後の人たちなのである。」の「最後の人」というのは一読おかしい気がする。「古伝承や歌を古いゲール語と英語で語れる最後の人々」という意味でとれないとは言えないが、やはりそうした「最後の」と言い切る(言い切れる)のは、最早、そうした人が彼等以外にはいないという意味になり、断定に過ぎるからであり、現実的な謂いとは言い難い。問題は挿入句である“the last”で、これは実は “stories and songs”の「最後のもの」「後者の方の」という指示代名詞で、この後半部は「特に後者の『歌』については、かなりしばしば、アイルランド語と英語の両方で知っている人たちなのである。」という意味なのではあるまいか。栩木氏もそのように訳しておられる。
「土地の學者」“native scholar”。「學者」というのは、ここまでの島の描写からはそぐわない。所謂、アラン島の人の中でも多少の教養を持った「郷土史研究家」といった感じであろう。
「七哩」11キロメートル強。
「何故なら、そんな乘り方のできる者がほかにある筈はなかつたし、足が馬から離れてしまつてゐたが、彼はいつもさうだつたからである。」“for there was no one else could bring in a horse the way he did, for the leg was after being knocked off of the horse and he came in all the same.”。私には英文の後半部がよく分からないが、姉崎氏の訳は少なくとも辻褄の合う日本語ではある。則ち、馬を疾走させる際に、乗った騎手の足が馬の体から殆んど浮いたように見えるのが名騎手チャーリー・ランバートの騎乗の一番の特徴だったから、という謂いである。但し、栩木氏は全く異なった訳をなさっている。氏の2005年みすず書房刊の「アラン島」をお読みあれかし。なお、イェーツによるこの部分の挿絵と思われる“An Island Horseman”を見ると、仰天することに、その騎乗方法は跨るタイプではなく、腰掛けるような横座りである。そうして、その騎手の両足は馬の左手にすっくと伸ばされて文字通り、「足が馬から離れてしまつてゐ」るように見えるのは偶然か?]

An_island_horseman

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (9)

 今朝、ひどい嵐であつた。私は斷崖に登つて行き、打ち上げられた海草の番をする人のために建てた小舍にゐた。その後間もなく、羊の番をしてゐた一人の少年が、西の方から來て、長い間話をした。

 彼は先づ、先日起つた事件に就いて私が聞き得た最初のまとまつた話をしてくれた。それは、若者が南島へ行く途中で溺死した事件である。

 「南島から來た數人の男がね、」彼は云つた。「此の島へ渡つて來て馬を數匹買ひ、それを漁船に積んで渡らうとした。馬を海岸まで曳いて行くために、一艘のカラハを持つて行かうとした。一人の若者が自分が行くと云ふので、その男に繩をやり、漁船の後へ附けて曳いて行くことになつた。瀨の中へさしかかつた時、風が出て來た。カラハの中の男は漁船に引張られるので、波に乘るやうに向を變へることが出來ないで、水が一杯にはひり出した。

 漁船の人達はそれを見て、どうしてよいかわからず、あれよあれよと叫び初めた。一人の男が繩を持つてゐる男に「繩を放してしまへ、さうしなけりや、舟をひつくり返してしまふぞ」と呶鳴つた。

 そこで繩を持つてゐた男が、それを水の上に投げたが、カラハはもう水が半分はひり、櫂は一本しかなかつたのであらう。それから一つ波が來て、船は見てゐる前で沈んで行き、若者はそこら中を泳ぎ出した。若者を救はうと、漁船は帆を下ろした。そして下ろしてしまつた時には、餘り遠くへ來過ぎたので、また帆を擧げて、彼の方へ戻つて來た。彼は波の中を泳ぎに泳いだが、船が再び彼に近づくまでに三度目に沈んで、それつきり姿は見えなくなつてしまつた。」

 誰か彼の死後出逢つた人があるかと私は聞いた。

 「そんな人はない。」彼は云つた。「併し妙な話があるよ。その日、彼が海に行く前、犬が來て岩の上に坐り、彼の傍で鳴き出した。馬が船卸臺に來た時、一人のお婆さんが、以前に溺死した息子が、その中の一匹に乘つてゐるのを見た。お婆さんはその見たことを云はずにゐると、その男は目分の馬を最初に取り、その次にその馬を取つて、それから出かけて行つて、溺れたのさ。二日たつてから、私はこんな夢を見た。それは彼が「キヨーン・ギャネ」(砂の岬)で發見されて、原の家へ運ばれて、革草鞋を脱せられて、それを乾すために釘に掛けたといふ夢だつた。後で彼が見つかつたのは、あなたは聞いたでせうが其處だつたのです。」

 「お前さん連は犬の鳴聲を聞くと、いつも怖いかね?」私は云つた。

 「いやだね。」彼は答へた。「岩の上で天の方を見て鳴いてるのをよく見かけるでせう。あれは全くいやだね。牡雞か牝雞が家の中で何かを壞はすと誰かが死ぬといふので、あれもいやだね。此の間、此の下の家に始終住んでゐた人が、此の冬死ぬちよつと前に、そのお内儀さんの牡雞が喧嘩を初めたことがあつた。二羽とも料理臺へ跳び上つて、ランプのガラスを倒して、それを床に落して壞した。お内儀さんはその後で、自分の牡雞を捕へて殺したが、もう一羽の牡雞は隣りの家のだつたので、殺せなかつたのさ。それから旦那が病氣になつて、とうとう死んだのだよ。」

 私は島で妖精の音樂を聞いたことがあるかと尋ねた。

 「此の間、子供たちが學校で、そんなことを話してゐるのを聞いたよ。」彼は云つた。「その兄弟たちがよその伯父さんと、二週前の或る朝、牡雞のまだ鳴かないうちに、漁に出かけたさうだ。その人達が「砂の岬」の近くに降りて來ると、音樂が聞こえた。それが妖精の音樂だつたさうだ。また別の話だが、或る時、三人の男が夜、カラハで出かけた。すると大きな船がこつちの方へやつて來る。みんな驚いて逃げようとしたが、ずんずん近づいて來て、とうとう一人の男が、そつちへ向いて十字を切ると、それつきり見えなくなつたさうだ。」

 彼はまた次の問に答へて話し續けた。

 「よく妖精にさらはれる人があるよ。一年前に死んだ若者があつたが、彼はその兄弟の寢てる家の窓へ始終やつて來て、夜中にその人達と話をした。彼はその暫く前に結婚してゐたのだが、夜になると、土地を自分の息子に約束しておかなかつたのは、殘念だとか、その土地は息子に行くべきだとかいふことを口癖のやうに云つた。また或る時は牝馬のこと、その蹄のこと、それにはかせる蹄鐵のことを話すこともあつた。少し前に、パッチ・ルアはその男がブローガ・オルダ(革の長靴)をはいて、新しい着物を着て、道を行くのを見た。また二人の男は彼に別の處で逢つた。」

 「あの崖の絶壁が見えるでせう?」それから暫く間をおいて、下の方の或る場所を指しながら彼は云ひ續けた。「妖精達がボール遊びをするのはあすこです。朝來ると、足跡があり、線を引くための三つの石や、ボールを跳ねさす大きな石がある。子供たちが時時、その三つの石を取り除けておくが、いつも朝になると、また戻つて來てゐる。此の間、その土地を持つてゐる人が、大きな石まで取り除けて、それを轉がして、崖の下へ落しておいたが、それでも朝には又もとの所へ戻つてゐた。」

 

 

There was a great storm this morning, and I went up on the cliff to sit in the shanty they have made there for the men who watch for wrack. Soon afterwards a boy, who was out minding sheep, came up from the west, and we had a long talk.

He began by giving me the first connected account I have had of the accident that happened some time ago, when the young man was drowned on his way to the south island.

'Some men from the south island,' he said, 'came over and bought some horses on this island, and they put them in a hooker to take across. They wanted a curagh to go with them to tow the horses on to the strand, and a young man said he would go, and they could give him a rope and tow him behind the hooker. When they were out in the sound a wind came down on them, and the man in the curagh couldn't turn her to meet the waves, because the hooker was pulling her and she began filling up with water.

'When the men in the hooker saw it they began crying out one thing and another thing without knowing what to do. One man called out to the man who was holding the rope: "Let go the rope now, or you'll swamp her."

'And the man with the rope threw it out on the water, and the curagh half-filled already, and I think only one oar in her. A wave came into her then, and she went down before them, and the young man began swimming about; then they let fall the sails in the hooker the way they could pick him up. And when they had them down they were too far off, and they pulled the sails up again the way they could tack back to him. He was there in the water swimming round, and swimming round, and before they got up with him again he sank the third time, and they didn't see any more of him.'

I asked if anyone had seen him on the island since he was dead.

'They have not,' he said, 'but there were queer things in it. Before he went out on the sea that day his dog came up and sat beside him on the rocks, and began crying. When the horses were coming down to the slip an old woman saw her son, that was drowned a while ago, riding on one of them, She didn't say what she was after seeing, and this man caught the horse, he caught his own horse first, and then he caught this one, and after that he went out and was drowned. Two days after I dreamed they found him on the Ceann gaine (the Sandy Head) and carried him up to the house on the plain, and took his pampooties off him and hung them up on a nail to dry. It was there they found him afterwards as you'll have heard them say.'

'Are you always afraid when you hear a dog crying?' I said.

'We don't like it,' he answered; 'you will often see them on the top of the rocks looking up into the heavens, and they crying. We don't like it at all, and we don't like a cock or hen to break anything in the house, for we know then some one will be going away. A while before the man who used to live in that cottage below died in the winter, the cock belonging to his wife began to fight with another cock. The two of them flew up on the dresser and knocked the glass of the lamp off it, and it fell on the floor and was broken. The woman caught her cock after that and killed it, but she could not kill the other cock, for it was belonging to the man who lived in the next house. Then himself got a sickness and died after that.'

I asked him if he ever heard the fairy music on the island.

'I heard some of the boys talking in the school a while ago,' he said, 'and they were saying that their brothers and another man went out fishing a morning, two weeks ago, before the cock crew. When they were down near the Sandy Head they heard music near them, and it was the fairies were in it. I've heard of other things too. One time three men were out at night in a curagh, and they saw a big ship coming down on them. They were frightened at it, and they tried to get away, but it came on nearer them, till one of the men turned round and made the sign of the cross, and then they didn't see it any more.'

Then he went on in answer to another question:

'We do often see the people who do be away with them. There was a young man died a year ago, and he used to come to the window of the house where his brothers slept, and be talking to them in the night. He was married a while before that, and he used to be saying in the night he was sorry he had not promised the land to his son, and that it was to him it should go. Another time he was saying something about a mare, about her hoofs, or the shoes they should put on her. A little while ago Patch Ruadh saw him going down the road with brogaarda (leather boots) on him and a new suit. Then two men saw him in another place.

'Do you see that straight wall of cliff?' he went on a few minutes later, pointing to a place below us. 'It is there the fairies do be playing ball in the night, and you can see the marks of their heels when you come in the morning, and three stones they have to mark the line, and another big stone they hop the ball on. It's often the boys have put away the three stones, and they will always be back again in the morning, and a while since the man who owns the land took the big stone itself and rolled it down and threw it over the cliff, yet in the morning it was back in its place before him.'

 

[やぶちゃん注:この溺死した若者というのは、先に埋葬シーンが描かれた若者であろう。ここは怪異伝承の記載として素晴らしく、また面白い。

「私は斷崖に登つて行き、打ち上げられた海草の番をする人のために建てた小舍にゐた。」原文は“I went up on the cliff to sit in the shanty they have made there for the men who watch for wrack.”。“shanty”は「掘立小屋」(“they”とあるから、そうした小屋蛾が複数あるのであろう)。“wrack”で、これには「難破船・漂着物・残骸」の意の外に「漂着した海草・ちぎれ雲」の意がある。栩木氏はここを『難破船の破片などが島へ漂着するのを見張るため』と訳されている。漁村ではしばしばこうした物見台があるから、これは如何にも自然な訳ではある。しかし、姉崎氏の訳が誤訳かと言えば、そうともとれない。実際にこれらは海藻灰(ケルプ灰)として商品にする材料でもあり、恐らくはその時期になると、打ち上がった海藻は代々採取の場所が各家で決められていて、その掟を破ってこっそり他人の所有権のある海藻を不法に取る者が出ないように、例えば、村の中のグループ単位で順にここで見張りをすると考えれば、しっくりくる(寧ろ複数あるのはその可能性を示唆するとも言えるかも知れない)。いずれにせよ、そこは海難の際の物見台の役割もしていようから、何れの訳もおかしくはない。但し、栩木氏は“shanty”を『石積みの風除け椅子』と訳されておられ、これは氏の2005年みすず書房刊の「アラン島」の「訳者あとがき」で明らかにされているが、所謂、現在、正に島で「シングの椅子」(カヒール・シング)と呼ばれている場所を同定地としておられるからである。そこに載る氏が撮った「シングの椅子」の写真のキャプションに、『ほぼ円形の石積みのシェルターの内部に入ると、こじんまりと居心地がよく、崖上にあるので眺望絶佳』とある。さすれば、栩木氏は現地でここを見、恐らくそこで誰かからこの「椅子」(岩小屋)の機能を説明されたものと思われ、その点からはやはり、これは海事用・海難用の物見のための岩小屋と理解するのが妥当であろうと思われる。因みにかつてアランを旅した時、私は残念なことにここを訪ねていない。

「馬を海岸まで曳いて行くために、一艘のカラハを持つて行かうとした。」原文は“They wanted a curagh to go with them to tow the horses on to the strand”。これは今までに何度も描写されているように、アラン諸島では海岸や港近くが浅いために、大型の船は入港出来ず、しばしば出て来る小型のカラハで人や荷を運搬する。南島(イニシーア島)に着いた際、そのように馬を陸揚げするために、このカラハが必要なのである。

「一人の若者が自分が行くと云ふので、その男に繩をやり、漁船の後へ附けて曳いて行くことになつた。」空のカラハを曳航することは、恐らく勝手に波に動かされるために出来ないのであろう。そこで縄で漁船と結んだ上、カラハを操舵するために一人の若者が乗った、という意味である。

「繩を放してしまへ、さうしなけりや、舟をひつくり返してしまふぞ」瀬戸の荒波と複雑な流れが、漁船と曳航するカラハの一体性を阻害し、カラハが木の葉のように弄ばれて、ローリングやピッチングを繰り返して、転覆の危険性が高まったため、曳航索を放してカラハを自立させた方が、安定するからである。しかし既に浸水しており、しかも漕ぐために必要な一対の櫂も恐らく流されて一本しかなく、操舵不能に陥り、横波を喰らって転覆したのである。

「船が再び彼に近づくまでに三度目に沈んで」言わずもがなであるが、船が再び彼に近づいていく途中、沈んでは海面に首を出し、出しては沈むというのを二度繰り返したのを彼らは見た。が、三度目は沈んだまま、「それつきり姿は見えなくなつてしまつた。」という意味である。

「誰か彼の死後出逢つた人があるかと私は聞いた」という部分は、面白い。もしかすると、島では、死後、ある程度の時間が経過しないと、霊体は顕在化しないと考えられているのかもしれないことを示唆しているようにも読めるからである。

「併し妙な話があるよ。」以下の少年の語る怪異譚は以下の三つの部分から成り、三番目がこの手の当時の都市伝説としては極めて特異である。何故なら、話者の少年自身の体験談だからである。

①「その日、彼が海に行く前、犬が來て岩の上に坐り、彼の傍で鳴き出した。」“Before he went out on the sea that day his dog came up and sat beside him on the rocks, and began crying.”。その事故が起こった日、この若者が海へ出て行く直前、彼の飼っている犬が、普段は決してそんなことはしないのに、岩の上に立っていた彼の側へやってきて坐ると、しきりに吠え出した事実。この犬の遠吠えを不吉とする伝承は続く少年の語りで、一般的なものであることが示される。これはヨーロッパに限らず、本邦でも犬の遠吠えを不吉とする伝承は一般的にあり、例えば福岡などでは野犬が遠吠えをすると翌日に村から死人が出るという。

②「馬が船卸臺に來た時、一人のお婆さんが、以前に溺死した息子が、その中の一匹に乘つてゐるのを見た。お婆さんはその見たことを云はずにゐると、その男は目分の馬を最初に取り、その次にその馬を取つて、それから出かけて行つて、溺れたのさ。」“When the horses were coming down to the slip an old woman saw her son, that was drowned a while ago, riding on one of them, She didn't say what she was after seeing, and this man caught the horse, he caught his own horse first, and then he caught this one, and after that he went out and was drowned.”。イニシーアへ送る候補の馬が港の船卸台のところまで運ばれてきた時、そこに居た一人の老婆が、少し前に溺死した彼女の息子が、その中の一匹の馬に跨っているのを一瞬見た(ように思ったのであろう)。彼女は縁起でもないからそのことを黙っていたのだけれども、見ていると、その若者は馬を選び出すのに、まず彼の持ち馬を最初に選び、二番目にさっき彼女の死んだ息子が騎っていた馬を、若者は選んだ。そうして海へ出て行って溺れた、という事実。これは老婆によって語られた後日譚であろうから、本怪異譚の中でも後から付随したものであろう。

③「二日たつてから、私はこんな夢を見た。それは彼が「キヨーン・ギャネ」(砂の岬)で發見されて、原の家へ運ばれて、革草鞋を脱せられて、それを乾すために釘に掛けたといふ夢だつた。後で彼が見つかつたのは、あなたは聞いたでせうが其處だつたのです。」“Two days after I dreamed they found him on the Ceann gaine (the Sandy Head) and carried him up to the house on the plain, and took his pampooties off him and hung them up on a nail to dry. It was there they found him afterwards as you'll have heard them say.”。これが本話の極め付けだ。私、則ち話者である少年のオリジナルな怪異譚なのだ。非常にいい。私のオリジナルな邦訳を試みてみる。

「……それから、ですね……彼が行方不明になって、二日後のことなんですけど……僕、不思議な夢を見たんです……その夢は――

……彼の遺体が『砂の岬』にうち揚がっているのが見つかるんです……

……そうして……その遺体は野っ原の彼の家(うち)へと運ばれて行って……

……そうして……画面がアップになって……遺体から革草鞋が脱がされ……

……そうして……それが梁に打ち込まれた一本の大釘にぶら下げられて……

……そうして……それがぶらんぶらんと揺れながら……雫を垂らしながら……乾かされてる……

――っていう、もの凄くリアルな夢だったんです……で……ねえ、シングさん……シングさんは、もう聴いてるでしょうが……それよりずうっと後になって……彼の遺体が揚がったのは……『砂の岬』……だったんですよ……」

Ceann gaine”の“Ceann ”はネット上のネィティヴの発音を聴くと「キャン」と聴こえる。栩木氏は「キヤン・ガニヤウ」とルビされている(「キャン・ガニャウ」か)。この『砂の岬』は恐らく砂浜海岸のある岬ではなく砂洲か砂嘴ではないかと思われる。また「原の家」“the house on the plain”というのは、実は私は民俗社会の村の中の呼び名(特に同姓の多い村)にしばしば見られる(例:「川曲りの~」「北浜の~」)、地形を以て呼称する固有の地所名ではないかと推測している。

「牡雞か牝雞が家の中で何かを壞はすと誰かが死ぬ」というのは、これは直観であるが、西洋では一般的なものなのかも知れない。タルコフスキイの「鏡」で、そうした映像があり、そこに私は言いようのない不吉さを感じた。本邦ではニワトリが夜間に鬨を挙げると凶事や変事が起こるという伝承は広く知られるが、「家の中で何かを壞はすと」というシチュエーションのジンクスは、私は聞いたことがない。もしあるようならばここに掲げたい。識者の御教授を乞うものである。

「或る時、三人の男が夜、カラハで出かけた。すると大きな船がこつちの方へやつて來る。みんな驚いて逃げようとしたが、ずんずん近づいて來て、とうとう一人の男が、そつちへ向いて十字を切ると、それつきり見えなくなつたさうだ。」これは洋の東西を問わず存在する。幽霊船や本邦では船幽霊の一形態として知られる。

「パッチ・ルア」原文“Patch Ruadh”。ゲール語の“Ruadh”は英語の“red”であるから、「赤毛のパッチ」という綽名である。“Patch”は正式な名で、普通は通称の“Pat”「パット」で呼ばれる。

「ブローガ・オルダ(革の長靴)」“brogaarda (leather boots)”。栩木氏は『ブローガ・アーダ』と音写されている。

「線を引くための三つの石」原文“three stones they have to mark the line”。しかし日本語としてはちょっと奇妙だ。これは彼等独特のボール・ゲームの競技場のラインとしての「境界を示すための三つの置き石」であろう。

「妖精達がボール遊びをする」については、ミユシャ氏のHP「妖精辞典 夜明けの妖精詩」に、“Ganconer”・ゲール語“Gean-cannah”・英語“The Love Talker”・和名「ガンコナー/言い寄り魔/恋を語る人(ラヴ・トーカー)」というアイルランドの妖精を挙げて、この『ガンコナー達は、普通の[群をなす妖精達(トルーピング・フェアリーズ)]と全く同じ様に多勢で現れ、湖の底の町に住み、ボールを投げて遊び、人間の牛を盗んでは、その後に丸太を残していく』とあるから、妖精たちは一般にボール遊びが好きらしい。]

退職せり――私の総ての教え子たちに感謝します――

小生は本日を以て55歳で早期勧奨退職を致し、完全なる野人と相成った。

足の不具合な妻と父、また私自身も7年前に折った右腕の後遺症が発症して、曰く言い難い微妙な三人家族であるが、

三人四脚+元気一匹(ビーグル犬アリス)

で残る人生を楽しく歩まんとす。

――私の総ての教え子たちにここに感謝の意を表します――

以後は私のHPとブログが、私の好きな学びのフィールドとなる。

――向後とも宜しく御附き合いの程、お願い申し上げます――

   2012年3月31日 藪野直史

(追伸:たかだか55で離職する者が偉そうなことを申し上げるのも烏滸がましく、離任式には出席致しません。御来駕はもとより花卉その他もどうか御無用に願います。なお、既に生花を戴いているかつての教え子のIさんには心より感謝しております。「ありがとう!」。)

2012/03/30

もう俺を

先生とは呼ぶな/呼べない

だから

僕は君らと

同じ だ

いや

僕は君ら程には知的でない

その代り

僕は

君らと同等には愚劣に「ヘン」だ

いや

同等以上に最下劣に「ヘン」だ

これはテツテ的に真実なんだ

だから さ

一緒に

お前も俺も

とことん――魂のアナキスト――たろうでは、ないか!!!

俺が愛したのは

生徒としての君らではない

人間としての君らである

そこに恋愛感情があったことは

言うまでもない

それを

君らが拒否するなら

それはそれでよい

しかし

それでも

僕は君らを

確かに――愛している

それは

誰にも断罪出来ない

何故か?

それは僕が僕であるための存在証明(レゾン・デ・トール)だからに決まってるじゃないか!!!

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (8)

 此處の人達はお互ひ同志にもまた子供達にも親切であるが、動物の苦痛には冷淡で、また人が 苦しんでゐても危險でない時は、その苦痛に同情しない。女の子が齒痛で顏を曲げて泣き喚いてゐるのに、母宗は爐の向う側でその子を指しながら、その有樣を面白がるかのやうに、笑つてゐるのを時時見た。

 二三日前、マッキンレー大統領の死に就いて語つた時、私は暗殺者を殺すアメリカ式の方法を説明した。すると大の男が、大統領を殺した者はどの位の時間で死ぬだらうかと聞いた。

 「お前さんの指を彈くくらゐの間にさ。」 私は云つた。

 「なにも」その男は云つた。「電線などでやらなくても、同じやうに首は絞められるだらうがなア。王樣や大統領のやうな人を殺す奴は、自分も殺されることはわかつてゐる筈だから、樂に死ねば儲け物をさせるだけだ。三週間もかかつて死ぬのが當り前だ。さうすれば世の中に、そんなことをする奴は段段となくなるだらう。」

 人人が汽船を待つてゐる時、般卸臺で二匹の犬が喧嘩をすると、みんな面白がつて、激しい嚙み合ひを續けさせようとあらゆることをする。

 驢馬が動き出さないやうに、頭その蹄に縛りつけるのは、非常な苦痛を起させる仕方に違ひない。又いつか、或る家へ行つた時、其處にゐる女たちがみん膝をついて、生きた鴨や鵞鳥の羽根をむしってゐるのを見たことがあつた。

 苦痛のある時、人はその感情を隱したり、抑へようとしたりしない。或る爺さんは、此の冬病氣であつたが、「頭の痛かつた時」その唸り聲が、道の何處まで聞こえたかを教へようと云つて、私を案内した事があつた。

 

 

Although these people are kindly towards each other and to their children, they have no feeling for the sufferings of animals, and little sympathy for pain when the person who feels it is not in danger. I have sometimes seen a girl writhing and howling with toothache while her mother sat at the other side of the fireplace pointing at her and laughing at her as if amused by the sight.

A few days ago, when we had been talking of the death of President McKinley, I explained the American way of killing murderers, and a man asked me how long the man who killed the President would be dying.

'While you'd be snapping your fingers,' I said.

'Well,' said the man, 'they might as well hang him so, and not be bothering themselves with all them wires. A man who would kill a King or a President knows he has to die for it, and it's only giving him the thing he bargained for if he dies easy. It would be right he should be three weeks dying, and there'd be fewer of those things done in the world.'

If two dogs fight at the slip when we are waiting for the steamer, the men are delighted and do all they can to keep up the fury of the battle.

They tie down donkeys' heads to their hoofs to keep them from straying, in a way that must cause horrible pain, and sometimes when I go into a cottage I find all the women of the place down on their knees plucking the feathers from live ducks and geese.

When the people are in pain themselves they make no attempt to hide or control their feelings. An old man who was ill in the winter took me out the other day to show me how far down the road they could hear him yelling 'the time he had a pain in his head.'

 

[やぶちゃん注:「マッキンレー大統領」“President McKinley” ウィリアム・マッキンリー・ジュニア(“William McKinley, Jr.” 1897年~1901年)は第25代アメリカ合衆国大統領。最後の南北戦争従軍経験のある大統領であり、19世紀最後にして20世紀最初の大統領でもある。マッキンリー大統領ニューヨーク州バッファローのテンプル・オブ・ミュージックで、開催されていたパン・アメリカン博覧会に出席した1901年9月6日、無政府主義者“Leon Czolgosz”(レオン・チョルゴッシュ)に2度銃撃され、狙撃から6日後に容態が急変し、9月14日に死亡した(副大統領セオドア・ルーズベルトが大統領職を継ぐ)。マッキンリーは暗殺されたアメリカ合衆国大統領四人のうちの三人目に当たる。チョルゴッシュの裁判は9日後の9月23日に始まり、弁護士は精神異常を示唆したが、陪審員は一時間半の審議で有罪を評決、926日に殺人について有罪が宣告されて1029日に電気椅子による死刑が執行された。今回のシングのアラン帰還はチョルゴッシュの裁判の始まる直前であるから、死刑の話は推測の段階である(以上はウィキウィリアム・マッキンリー及びマッキンリー大統領暗殺事件を参照した)。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (7)

 今朝、起きると、家の人達は皆彌撒に出かけてしまつて、戸は外から鍵がかけられてあつた。

 それで明るくするために戸を開けることが出來なかつた。

 こんな小さな家に、たつた一人でゐることになつたらと、妙に考へながら、私は殆んど一時間近くを、火の傍に坐つてゐた。此の家の人達と此處に坐りつけてゐるために、此の部屋がたつた一人人で住んで仕事をすることが出來る場所とは、以前決して考へたことがなかつた。棰木や壁の白さがぼんやり見える位の明るさが煙突からはひつて來る中に、私は暫く待ちながら、何とも云はれない悲しい氣特になつて來た。と云ふのは、此の世界の表面にある小さな片隅にも、またその中に住んでゐる人たちにも、私たちには永久に窺ひ知ることの出來ない平和と尊嚴を持つてゐると思つたからであつた。

 うつらうつらしてゐるうちに、お婆さんが非常に迫(せ)き込んではひつて來て、私と若い坊さんに茶を入れた。その坊さんは、お婆さんの後少したつて、雨としぶきに濡れながらはひつて來たのである。

 此の中の島と南島を受け持つ副牧師は、骨が折れてまた危險な任務を持つて居る。土曜日の夜――海が穩かな時はいつでも――此の島か或はイニシールにやつて來て、日曜の朝の彌撒を重な仕事とする。それから、食事せずに他の島へ渡り、再び彌撒をする。それゆゑ、二同の渡航に時時荒れて危險な海に出逢つたりして、アランモアに歸る前、急いで食事するのが、正午頃になる。

 二週間前の日曜のこと、私が煙草を吹かしながら日のあたる宿の外で休んでゐると、大そう親切さうで愛橋のある副牧師が、濡れて疲れて、最初の食事を取りにやつて來た。暫く私の方を見ゐて、それから頭を振つた。

 「ねえ、」彼は云つた。「あなたは今朝聖書をお讀みになりましたか?」

 私は讀まないと答へた。

 「おや、さうですか、シングさん、」彼は續けて云つた。「あなたがもし天國へ行くやうなら、私たちはひどく笑はれる事でせう。」

 

 

When I got up this morning I found that the people had gone to Mass and latched the kitchen door from the outside, so that I could not open it to give myself light.

I sat for nearly an hour beside the fire with a curious feeling that I should be quite alone in this little cottage. I am so used to sitting here with the people that I have never felt the room before as a place where any man might live and work by himself. After a while as I waited, with just light enough from the chimney to let me see the rafters and the greyness of the walls, I became indescribably mournful, for I felt that this little corner on the face of the world, and the people who live in it, have a peace and dignity from which we are shut for ever.

While I was dreaming, the old woman came in in a great hurry and made tea for me and the young priest, who followed her a little later drenched with rain and spray.

The curate who has charge of the middle and south islands has a wearisome and dangerous task. He comes to this island or Inishere on Saturday night--whenever the sea is calm enough--and has Mass the first thing on Sunday morning. Then he goes down fasting and is rowed across to the other island and has Mass again, so that it is about midday when he gets a hurried breakfast before he sets off again for Aranmore, meeting often on both passages a rough and perilous sea.

A couple of Sundays ago I was lying outside the cottage in the sunshine smoking my pipe, when the curate, a man of the greatest kindliness and humour, came up, wet and worn out, to have his first meal. He looked at me for a moment and then shook his head.

'Tell me,' he said, 'did you read your Bible this morning?'

I answered that I had not done so.

'Well, begod, Mr. Synge,' he went on, 'if you ever go to Heaven, you'll have a great laugh at us.'

 

[やぶちゃん注:「と云ふのは、此の世界の表面にある小さな片隅にも、またその中に住んでゐる人たちにも、私たちには永久に窺ひ知ることの出來ない平和と尊嚴を持つてゐると思つたからであつた。」原文は“for I felt that this little corner on the face of the world, and the people who live in it, have a peace and dignity from which we are shut for ever.”。日本語がおかしい。主格なしで「~にも、……にも、――持つてゐる」と続くからである。しかし逆に、その不自然さにこそ気付けば、この訳文の意図は英文がなくてもそこそこ推定で汲むことが出来るのである。宿の狭隘で殆んど奈落の地獄のような暗闇に閉じ込められたシングは、「この世界という広大な地球表面の、そのまた小っぽけなアラン島という片隅には――また、その島の片隅に肩寄せ合って住んでいる人たちには――永久に窺い知ることの出来ない純な平和とまことの尊厳が確かに生きていて――しかしそこから私たち文明界の異邦人は、所詮、遮断されているという感懐であった」というのである。

「大そう親切さうで愛橋のある副牧師」は直前の「副牧師」と同一人物であろう。「同じ副牧師」と入れたい。]

2012/03/29

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(5)

 例の小穴の『二つの絵』のなかに、芥川が、自分で死をえらんだ一〔ひ〕と月〔つき〕ほど前に、小穴を浅草の茶屋につれて行って、小穴に「芸者E」を紹介するところがある。「芸者K」とは、小亀という芸者で、私もこの女をよく知っている事は、前にちょっと書いたか、と思う。書いた文章のなかに、つぎのような事を書いている。

 芸者Eを見せた以前、ホテル事件の後幾何〔いくばく〕の日も経過してゐないうちに、一日〔いちにち〕少〔すこ〕し歩〔ある〕かうと夕方の下宿から自分を彼が誘つた。

「もうこれで自分の知つてゐる女の一〔ひ〕ととほりは君に紹介してしまつたし、もう云つておく事もないし、すると、……」

 下宿の外に出てからかう云ひ出した彼の心は、何気〔なにげ〕なしのやうに、各自一〔ひと〕つの性格を持つた人々ではあるが、比較的周囲の近くからの女、例へば、K夫人、S夫人、S子、Kのおかみさんといつたやうに、彼のいふ賢い女の名を数へた。

 この文章の終りの方の、S夫人は例の謎の女であり、S子はせい子であり、Kのおかみさんは『小町園』のおかみさんである事は、想像がつくが、K夫人だけは私に見当がつかない。さて、ここで、ついでに述べると、さきの座談会の記事の中〔なか〕で、久米が「軽井沢で逢つてゐる女の人」と云っているのは、私の臆測ではあるが、アイルランドの文学の翻訳を幾つかした、松村みね子ではないか。

[やぶちゃん注:「芸者Eを見せた以前、ホテル事件の後」「芸者Eを見せた」は小穴を連れて谷中の新原家墓参をし、浅草料亭「春日」に行って愛妓子亀と別れを告げた昭和二(一九二七)年六月二十五日、「ホテル事件」先立つ同年四月十六日(七日とも)に平松麻素子との帝国ホテルでの心中未遂を指す。

「比較的周囲の近くからの女、例へば、K夫人、S夫人、S子、Kのおかみさんといつたやうに、彼のいふ賢い女の名を数へた」という小穴の「K夫人」は片山廣子、「S夫人」はひとまず佐野花子、「S子」はひとまず平松麻素子、「Kのおかみさん」『小町園』の女将野々口豊と考える。「S夫人」は一見、秀しげ子と思ったが、既に自死を決した芥川龍之介が「彼のいふ賢い女」にいっかな彼女を挙げることはあり得ないと思われ、すると小穴が直接は知らない(既にこの頃は佐野夫妻とは疎遠にはなっていたものの)過去に愛した既婚女性を挙げたとしも私はおかしくはないと思うのである。「S子」は「ますこ」の「す」のSで、彼女は未婚であるから「子」としておかしくなく、この羅列の中に、直前に自殺未遂まで企てた身近であった平松麻素子が入らない方が不自然だからである。宇野の言う「小林せい子」は先に述べた通り、あり得ないと私は判断する。]

[やぶちゃん注:以下の「後記」は底本では全体が一字下げ。]

(後記-芥川が、大正十四年の八月二十五日に、軽井沢から、小穴隆一にあてた手紙のなかに、「……軽井沢はすでに人稀に、秋冷の気動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日帰る筈、片山女史も二三日中に帰る筈、」という文句がある。ここで、愚鈍な私は、本文のなかで、「K夫人だけは見当がつかない、」と書いたが、このK夫人は、臆測すれば、片山ひろ子ではないか、と気がついたのである。片山ひろ子は、歌人で、翻訳する時に「松村みね子」という筆名を使ったのである。さて、臆測をもう一そう逞しゅうすると、堀 辰雄の処女作『聖家族』に出てくる「細木〔さいき〕といふ未亡人」は、片山ひろ子のような人を、小説に都合のよいように、使ったのではないか、とまで思われるのである。片山ひろ子の『軽井沢にて』のなかに、「影もなく白き路かな信濃なる追分のみちのわかれめに来つ」、「われら三人影もおとさぬ日中〔につちゆう〕に立つて清水のながれを見てをる」などという歌がある。)

[やぶちゃん注:『芥川が、大正十四年の八月二十五日に、軽井沢から、小穴隆一にあてた手紙のなかに、「……軽井沢はすでに人稀に、秋冷の気動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日帰る筈、片山女史も二三日中に帰る筈、」という文句がある。』この書簡を書いた時こそ、芥川龍之介は切ない廣子への恋情を苦渋の中で断ち切ろうとしていたのである。やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注を是非、参照されたい。

「堀 辰雄の処女作『聖家族』に出てくる「細木〔さいき〕といふ未亡人」は、片山ひろ子のような人を、小説に都合のよいように、使ったのではないか」よく知られているように言わずもがな、その通りである。私の「聖家族〈限定初版本やぶちゃん版バーチャル復刻版〉」でお読み戴ければ幸いである。

「軽井沢にて」の以下の短歌は、片山廣子の昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」の「日中」に初出し、後、第二歌集『野に住みて』(昭和二十九(一九五四)年)の「輕井澤にありて」にも採録された。但し、「日中」のルビは歴史的仮名遣ならば「につちう」が正しい。]

 私がこう云うのは、室生犀星の、たしか、『青い猿』という、その中に芥川らしい人物の出てくる、長篇小説のなかに、軽井沢のホテルで松村みね子が出てくる所があるので、せんだって室生に逢った時、その話をすると、室生は、「芥川は、松村さんと一しょにコオヒイなど飲むと目立つのでね、……と、云ったよ、」と、云ったからである。しかし、松村みね子は、本名を片山広子といって、佐佐木信綱に師事しながら、

  をとこたち

  煙草のけむりを吹きにけり

  いつの代とわかぬ山里〔やまざと〕のまひるま

などという歌をよむ人であるが、明治十一年に東京の麻布で生まれているから、芥川より十四五も年上〔としうえ〕である。といって、芥川がしたしくしていた、春日とよも、芥川より十〔とお〕以上も年上〔としうえ〕であるから、芥川は松村みね子ともしたしく附き合っていたのであろう。

[やぶちゃん注:「をとこたち」の短歌も片山廣子の昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」の「日中」に初出し、後、第二歌集『野に住みて』(昭和二十九(一九五四)年の「輕井澤にありて」にも採録されたもの。但し、何れもこのような三行分かち書きではない。私のテクストを参照。

「春日とよ」本名、柏原トヨ(明治十四(一八八一)年~昭和三十七(一九六二)年)は既出の料亭「春日」の女将、後に小唄春日派初代家元。函館生。先に芥川がちらりと述べているように、イギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、三歳の時に父は帰国、母と上京して十六歳で浅草の芸者となる。大正十(一九二一)年に浅草の料亭「春日」の女将となった。その後、小唄演奏家として知られるようになり、昭和三(一九二八)年、小唄春日流を創立した。]

 ここで、右に上〔あ〕げた女人たちの顔を芥川の好〔この〕んだ二〔ふた〕つの型に、しいて、わけてみると、つぎのようになる。

 芥川夫人、『小町園』夫人、松村みね子――以上の人たちは、はっきり、古典型であり、春日とよは古典型にちかく、小亀は古典型六分半浪曼型三分半であり、謎の女とせい子とはあまりパッとしない浪曼型であろう。

 ところで芥川は、小穴に、気質、顔つき、皮膚の色、爪の色まで、「江戸の名残〔なご〕をつたへた最も芸者らしい芸者である、」とまで褒めている、小亀を、大正十四年の秋の或る日、私と一しょに浅草の或る茶屋に行った帰り道で、今のさきまで其の茶屋で二人が逢っていた、小亀を、道をあるきながら、いきなり、私に、「君〔きみ〕、小亀をやろうか、」と、云った。

私は、これを聞いて、芥川は小亀がかなり好〔す〕きらしいな、と思った。

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(4)

 芥川の『或阿呆の一生』のなかに女の事を書いているところが七箇所ぐらいある。そうして、その中〔なか〕に、「彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光りの中にゐるやうだつた、」という文句が二箇所も、(『月』と『スパルタ式訓練』とに、)出てくる、それから「彼女の顔は不相変〔あいかわらず〕月の光の中〔なか〕にゐるやうだつた」(『雨』)というのもある。つまり、三つとも殆んど同じ文句である。それで、例の『芥川龍之介研究』(座談会)でも、それが問題になっている。それで、そこを次ぎに抜き書きしよう。

久米。『或阿呆の一生』の中に女が三人か四人出てくるだらう……

 廣津。だけど、あのホテルを出て後悔するかと聞く女……お月様〔つきさま〕のやうだと書いてある女……しかし、あれはどうもお月様の感じが全然ないからね。

 久米。あれはまた違ふんだ。君の云つてるのは気違ひの娘といふ方だらう。遺書の中にある女は、――スプリング・ボオドに使はうといふのはまた違ふんだ。僕に『す』とまではいふんだが、それから先きはどうしても云はん。……白蓮がよく知つてゐる。『あの方にはお気の毒しました……』と僕が知つてゐるやうに云ふんだが、どうもわからん。……それから、もう一人の女は廣津が今いつたのは京都だらうと思ふ。

 廣津。お月様といふのは、鎌倉の方面だらう。

 川端。月光のやうな感じがするといふこと、あれは二度も三度も書いてゐる。

 廣津。さうして、後悔するかしないかといふ、あれがどうもわからんがね。

 久米。聞いてみればわかるだらう。×××××××、軽井沢で逢つてゐる女の人は×××××××、それから、向うの人力車からすれちがつて、春の山が見えるといふのは、京都の××××お妾ぢやないかと思ふ、ちよつとそんな惚気〔のろけ〕を云つたことがあつた。

 廣津。君と菊池君と宇野と僕が上野の山下で飯を食はうと云つて、芥川のステッキを見つけて、それで、芥川芥川とどなつた事があつたね。

 久米。あれは『おいねさん』窪川いね子だよ。

 廣津。さうぢやない、その時、大丸髷が唐紙〔からかみ〕の向うにちよつと見えて、いいえ、芥川さん見えてをりません、……それで、四畳半へわれわれ押しこめられて、座敷のあくのを待たされた。

 徳田[註―秋声先生]。その大丸髷といふのは誰ですか。

 廣津。それは大抵わかつてゐるのだけれど、君は、(久米氏に、)よく知つてゐる、鎌倉だよ。宇野だけが知つてゐる。……宇野に何度聞いても云はない。

[やぶちゃん注:これを読むと、芥川龍之介を廻る女性関係のゴシップが憶測から連鎖して如何に錯綜していたかがよく分かる。以下、長くなるが宇野の叙述に先行して整理したい(宇野の叙述には誤りもあるので)。

まず、久米の言う『あれはまた違ふんだ』という〈月光の女複数説〉――後文で宇野が「芥川は、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないか」と述べる見解は――基本的に正しい。芥川が複数の女性を、それもかなり長いスパンの中での複数の恋した女性を「月光の女」と呼んでいる(少なくとも「或阿呆の一生」の中で)ことは最早、間違いない事実である。而して、それが誤解の連鎖を生んでいることも事実であるが、私はそれを何ら問題としないのである。何故なら芥川龍之介は小説家だからだ。「或阿呆の一生」は芥川龍之介の辿り着いた最後のオリジナルな稀有の独特な告白形式の立派な小説である。但し、芥川龍之介は少なくとも、それぞれの瞬間での「月光の女」は現存在として実在の人物を名指すことが出来るようには書いている(後述しているように宇野は性格上、「月光の女」は架空の理想像、『絵空事』として拡散させ、個別に指し示せない存在――というよりそのような価値を認めない傾向がある。いや、それはそれで芥川龍之介の女性観を捉える上では意義のあるものではあると私も認めるし、これから私が示すようにそれを実名を挙げて名指すことに意味があるかどうかも私自身、実は一面、疑問を持ってはいる)。ともかく〈月光の女〉の候補と、それを詠んだ章句を線で(一対一ではないが)結ぶことは可能だということである。但し、「或阿呆の一生」中の〈月光の女〉は複数の異なった時系列の女性をわざとダブ(トリプ)らせて描いていると思われ、また、後に示される定型詩の場合も、私は、芥川は〈昔の月光の女〉を詠んだものを、〈その時点での月光の女〉に対して、完全に若しくは部分的に巧みにリサイクルしてリユースして用いていると考えている。あたかも芥川龍之介の小説の多くに種本が存在するように、である。そして私はそれも問題にしない。我々の愛情は常に新鮮で一度きりのオリジナルで――あろうはずが――ない、と私は考えているからである。――愛の表現を永遠にデフォルメし続け、素朴な感情を粉飾し続けることなんぞが出来る輩の方こそ、私には救い難い「噓」がある――と言いたいのである。

以下、この座談で挙がっている女性を確認してみよう。但し、間違ってはいけないのは、芥川龍之介がここに挙がっている女性と総て特別な関係を持っていたという事実の提示ではないので注意されたい。

「気違ひの娘」歌人秀しげ子(明治二十三(一八九〇)年~?)。既婚者。夫は帝国劇場電気部主任技師秀文逸。既出の、遺書にも登場するファム・ファータルである。

「スプリング・ボオドに使はうといふの」「僕に『す』とまではいふ」「白蓮がよく知つてゐる」妻芥川文の幼馴染み平松麻素子。「白蓮」は歌人柳原白蓮のことで、平松は彼女と親しくしていた。未婚。彼女とは実際に帝国ホテルで自殺未遂をしているが、彼女は寧ろ、妻文の意志で自殺を志向していた芥川の一種の相談相手兼監視役としての存在が強い。「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の、

 彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」

 彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。

は彼女であると考えられる。但し、廣津の言う「ホテルを出て後悔するかと聞く女」、則ち、「二十三 彼女」の、

 或廣場の前は暮れかかつてゐた。彼はやや熱のある體(からだ)にこの廣場を歩いて行つた。大きいビルデイングは幾棟もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。

 彼は道ばたに足を止め、彼女の來るのを待つことにした。五分ばかりたつた後(のち)、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。が、彼の顏を見ると、「疲れたわ」と言つて頰笑んだりした。彼等は肩を並べながら、薄明い廣場を歩いて行つた。それは彼等には始めてだつた。彼は彼女と一しよにゐる爲には何を捨てても善(よ)い氣もちだつた。

 彼等の自動車に乘つた後、彼女はぢつと彼の顏を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言つた。彼女の顏はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。

は、必ずしも(という留保で)麻素子とは捉えられないというのが、今の私の印象ではある。

「京都」「京都の××××お妾」この久米の言う女性は私には不詳であるが、これは実は次の野々口豊と同一人物である可能性が高いように私は思っている(二〇〇六年彩流社刊の高宮檀「芥川龍之介を愛した女性」に京都での野々口豊との遭遇の可能性が考証されている)。

「鎌倉の方面」「大丸髷」「鎌倉だよ。宇野だけが知つてゐる」野々口豊(明治二十五(一八九二)年~昭和五十(一九七五)年)。既婚者。直後に示される如く、夫野々口光之助の営む鎌倉にあった料亭小町園の女将である。後に宇野も語る大正十五・昭和元(一九二六)年の暮れから翌年二日にかけての「小さな家出」の相手であり、相応に龍之介からの恋情は深いものがあった。

「×××××××、軽井沢で逢つてゐる女の人は×××××××」歌人にしてアイルランド文学者片山廣子(松村みね子)。「越し人」である。既婚であるが、晩年の芥川龍之介が恋心を寄せた時は既に未亡人であった。私は個人的に晩年の芥川龍之介が真に恋した相手は彼女であったと思っている。それについては私のHPの芥川龍之介及び片山廣子のテクスト注やブログ・カテゴリ「片山廣子」を参照されたい。

「『おいねさん』窪川いね子」既出の後の作家佐田稲子(明治三十七(一九〇四)年~平成十(一九九八)年)。料理屋の女中だった頃(大正九(一九二〇)年頃)からの馴染みであり、自殺の三日前に自殺未遂の経験を芥川龍之介から問われたりもしているが、彼女とは恋愛関係にはなかった。

また、芥川龍之介が〈月光の女〉と若き日に直に呼称した可能性が極めて高い女性として、

横須賀海軍機関学校時代の同僚で物理学教授であった佐野慶造の妻で歌人の佐野花子(明治二十八(一八九五)年~昭和三十六(一九六一)年)

がいる事実は挙げておく必要がある。〈月光の女〉としての彼女について、私は過去に自身のブログの「月光の女」芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察」『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』などで考察を重ねてきた。そちらも是非、参照されたい(但し、概ね、芥川龍之介の研究者は佐野花子のそれを一種の受身の恋愛妄想として捉え、眼中に置いていない。妄想や思い込みは多分にあるものの、彼女のことを芥川も愛していたと私は踏んでいる)。

最後に言い添えておくと、直接に〈月光の女〉との関連はないものの、

芥川の恋愛観・人生観に大きな影響を及ぼした失恋(芥川家の反対による)相手吉田弥生(明治二十五(一八九二)年~昭和四十八(一九七三)年)

や、二十一歳頃のものと思われる龍之介のラブ・レターが現存する、

彼女に先行する初恋の相手とされる新原家の女中であった吉村ちよ(明治二十九(一八九六)年~昭和四(一九二九)年)

などは龍之介の思春期の致命的とも言える女性観形成に非常に重要な人物である。

既出の小亀などの芸妓などを除外すると、他には、

大正十四(一九二五)年頃から翌年二月頃まで日本文学の個人教授を芥川がしていた南条勝代(詳細資料なし)

という女性などが少し気にはなる。が、逆に、宇野の話の既出部分で仄めかされる(若しくは取り上げられている)作家岡本かの子や、谷崎潤一郎の最初の妻千代の妹で谷崎の「痴人の愛」のナオミのモデルとされる小林せい子(小林勢以子)などは、失礼ながら、芥川の恋愛対象の外延からは大きく外れていると私は思っている。]

 この最後の『大丸髷』の一件について、前に少し書いたのを抹削したので、つぎに述べよう。

 やはり、大正十年か十一年頃であったか、たしか、秋のはじめ(まだ残暑)の頃の或る日の夕方、菊池が先頭に立って、久米、廣津、私の四人が、下谷の同朋町の何〔なん〕とかいう大阪料理を食べさせる家にはいって行くと、四人のうちの誰かが「あッ、芥川が、」と云った。さきに述べた、真鍮の鳳凰の頭のついたステッキが玄関のタタキの隅に立てかけられてあったからである。

 そこで、私たちが、いわず語らず、「芥川がこの内〔うち〕にいる、」というような好奇心をいだきながら、二階にあがって行くと、階段をあがったところの右側の部屋に、ちらと、大丸髷の女がむこうむきに坐〔すわ〕っている後姿〔うしろすがた〕が、見えた。咄嗟に、私は、はッと思った。後姿だけで、(今は、もう、はっきり、書こう、)それが、鎌倉の『小町園』のお上〔かみ〕である事がわかったからである。

 私が、はッと思った途端に、唐紙がすうっと締まった。

 やがて、奥の座敷に通〔とお〕されたので、私が、久米にむかって、「あれは……」と云いかけると、久米が、「フウン、」といったような顔をしたので、私は、すぐ、心のなかで、『あの女に久米は気がつかなかったらしいな、』と思ったので、あとの言葉を呑みこんでしまった。

 そこで、久米は、そのまま、だまってしまったが、菊池は、あの甲〔かん〕だかい声で、何度〔なんど〕も、私に、「あれは、誰だ、誰だ、」と聞いたが、私は「後姿だから、見当がつかない、それに、すぐ、唐紙がしまってしまったから、」と、答えた。

 つまり、『大丸髷』の一件とはこれだけの話である、なぜなら、私はその後、芥川に何度か逢ったが、芥川がその時の事を何〔なに〕もいわなかったから、私もその時の事は吹呿〔おくび〕にも出さなかったからである。

 ところで、さきの座談会であるが、あの記事だけで見れは、芥川という男は、遺書の中〔なか〕にまでお歴歴の人人〔ひとびと〕を迷わせるような事を書いた、という事にはなるけれど、あの中で廣津や久米もちょっと指摘しているように、「月の光りの中にゐるやうな女」とは、結局、芥川の『絵空事〔えそらごと〕』であるのである。

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(3)

 さきに、芥川が私を案内した所は、たべ物屋が六分で特別な所が四分、と書いたが、その『特別な所』とは、その頃、芥川ばかりでなく、多くの物ずきな人が、それからそれと、聞きつたえ、云いつたえ、して、そっと、出かけて行った、かくれた家である。

 いつの世にも、『ものずきな人』と、いう者は数多〔あまた〕あるものである。されば、『西鶴俗つれづれ』の中にも、「さりとは至りたる物ずき」という文句があり、『狭衣物語』のなかにも、「いと花やかに物ごのみしたまふ御本性にて」というような文句があるのである。

[やぶちゃん注:「西鶴俗つれづれ」は、西鶴の死後二年後の元禄八(一六九五)年版行の遺稿集。

「『狭衣物語』のなかにも、「いと花やかに物ごのみしたまふ御本性にて」というような文句がある」は「狭衣物語」巻三の冒頭部、洞院の上が、自分の老後の不安もあり、養女今姫君の入内を、夫の堀川の関白大殿〔おほいどの〕に依頼する段に現れる。

まこと、かの大殿御方にかしづかれ給ふ今姫君は、二十にもややあまり給ふままに、いとをかしけげにねびまさり給ふを、母上いとはなやかに物このみし給ふ御本性にて、齋宮〔いつきのみや〕の御ありさま見たてまつり給ふもいとうらやしく、行すゑの心細さも年月にそえてはおぼししらるれば、「この君をかくまで取り寄せつとなららば、おなじくは人なみなみにもてなして、かくさまざまにもてかしづきたまふ御方々のくさはひにもせむかし」など、せちに「人に劣らじ」の御心おきてにて、内裏〔うち〕參りのことなどおぼしよりにけり。

洞院の上は「いとはなやかに物このみし給ふ御本性にて」(何事にも派手好みであられて何より目立つことのお好きな性質〔たち〕であらせられたによって)の意。「齋宮」は狭衣の母。「くさはひ」は「種輩」か。同じ仲間。洞院の負けず嫌いで派手好みな性格が示されるところである。]

 芥川は、この、「至りたる物ずき」の一人〔ひとり〕であった。

私が芥川につれて行かれた『かくれた家』は、下谷の西町の閻魔堂の前の露地の中にもあり、本郷の根津権現神社の境内の炭薪屋であり、小石川の伝通院のちかくの裏町のしもた屋であり、四谷の荒木町のちかくの谷底のような町の中にもあり、その他、いたる所にあった。

[やぶちゃん注:「下谷の西町の閻魔堂」は現在の東上野から下谷辺りにあった旧地名に下谷西町がある。ここにはかつて天台宗薬王山善養寺があり、この寺の閻魔像が江戸の三大閻魔の一つに数えられたことからこう称したが、寺地が鉄道用地となったために、大正三(一九一四)年に寺は西巣鴨に移転している。これはその後のことと思われる。]

 ある日、ある時、芥川と一しょに町をあるいていると、突然、芥川が、「君、僕のゆく所へつきあってくれないか、」と私に云った。「どこだ。」「だから、今いったじゃないか、僕のゆく所だよ。」

 そこで、私は、だまって、芥川より半歩ぐらいおくれて、芥川とおなじように、早足であるいた。こういう時は、ふだんお喋〔しゃべ〕りの芥川が、啞〔おうし〕のように無口になった。

 御徒町〔おかちまち〕の交叉点を横ぎって、すでに日のくれた、うす暗〔ぐら〕い、ごみごみした、町を、横町〔よこちょう〕から横町へと、早足にあるきながら、私は、ふと、芥川という男は、ふしぎな男である、が、また、至極〔しごく〕おもしろい男であると思った。そうして、ときどき、道ゆく荒〔あら〕くれた人に突〔つ〕きあたられたり、方方〔ほうぼう〕で臭〔くさ〕やの乾物〔ひもの〕を焼いている臭いになやまされたり、しながら、いつか、芥川の気もちと私の気もちは一〔ひと〕つになってしまったようであった。

 が、やがて、芥川が、ふるびた閻魔堂の前で立ちどまり、ちょいと小首〔こくび〕をひねってから、すぐ私の方〔ほう〕にむかって、腭をふって合〔あ〕い図〔ず〕をしてから、その向〔む〕かいの、やはり、ふるびた格子づくりの家の中〔なか〕に、つかつかと、はいって行ったので、私は、なにか、勝手〔かって〕がちがうような気がした。が、仕方〔しかた〕ないので、芥川の後〔うしろ〕から中〔なか〕にはいると、「ごめんください、」と云う芥川の声で奥から出てきた六十あまりの老婆が、芥川の顔を見るなり、「まあ、どうなすったんです、ずいぶん、お見かぎりですねえ、」と云った。

 これが芥川が『特別の家』につれて行ったはじめである。特別の家とは、いろいろな女が、呼ばれると、ごく内証〔ないしょう〕で、内証の『ハタラキ』をするために、そっと来〔く〕る家の事である。

[やぶちゃん注:これは所謂、「隠し町」、私娼窟である。因みに、江戸の下谷や浅草は天明(一七八一~一七八九)の末まで素人風の最下級の私娼がいた場所として知られ、彼女たちは「蹴転ばし」「けころ」と呼ばれた。]

 私は、もちろん、この老婆の顔つきと言葉によって、すぐ「ははアン、」と、覚〔さと〕った。

 ところで、私などをこういう『特別の家』に案内するのはよいとして、先日、ある会で、こういう芥川の『物ずき』の話がさかんに出て、その時、その席にいた、芥川を尊敬している、佐佐木茂索が、若年の頃、四谷の荒木町のちかくの谷底のような町の中にある『特別の家』に連れて行かれかかった、という話をしたので、魂〔たま〕げたことがあった。

 ある日、昼〔ひる〕すぎに、佐佐木が芥川の後〔あと〕から、四谷の或る停留所で、電車をおりて、一町〔ちょう〕ほどあるいて行くと、むこうから吉井 勇、里見 弴、田中純[註―大正八九年頃、吉井、里見、久米、田中の、四人で、「人間」という同人誌を出した後に、同人以外の人の作品ものせるようになった。すなわちこれは「人間」の同人たちである。]の三人があるいて来たので、芥川が、「やあ、」と声をかけた、すると、その三人のうちの一人が、「君たちは、これから、『あそこ』へ行くんだろう、おれたちは『あそこ』からの帰りだよ、」と云った。それを聞いた温厚で内気であった、佐佐木は、かすかに感づいていた事ではあったが、びつくり仰天した、そこで、目的の『特別の家』に行くのに細い道をいくつも曲〔まが〕ったので、その幾つ目かのまがり角で、佐佐木は「三十六計〔けい〕逃ぐるに如〔し〕かず」と、芥川を、撒〔ま〕いたのである。(「逃ぐべき時に逃ぐるが、兵法中、第一の上策なり」という事を三十になるやならずで心得ていたからこそ、佐佐木は、今日〔こんにち〕の大〔だい〕をなしたのである。)

 

 大正十一年の春の頃であったか、私が、ある日、省線の牛込見附の駅で、ほそい腰かけに腰をかけて、電車のくるのを待っていると、すぐそばに腰をかけていた、いちょう返しの若い女が、膝の上にひろげて読んでいる本が、何〔なん〕と、ストリンドベルヒの、『痴人の告白』であったから、私は、はっと驚いて、その女の横顔を見ると、その女は、川路歌子であったから、思わず、「あッ、」と、声をたてた。すると、その声に、歌子も、目をまるくして私のほうを見て、「まあ、」と小〔ちい〕さい声で、叫んだ。

 私がはじめて川路歌子を知ったのは、川路歌子が、たしか、美術劇場[註―大正四五年頃、秋田雨雀、楠山正雄を看板にして、鍋井克之、その他の美術学生がおこした新劇団で、高田 保も片岡鉄兵も関係した]で、秋田雨雀の『埋れた春』[ウェデキントの『春の目ざめ』風のものである]に、少女の役で、出た時であった。その頃、誰かが、私に、「あの女優は、若いけれど、おもしろいところがあるよ、川路柳虹をすきになったので、『川路』という名にした、という話だから、」と、云った。

 その次ぎに、私が、歌子に逢ったのは、たしか、大正四年の十二月の中頃、西片町に住んでいた時分で、ある晩、今の兵科大学の前のへんをあるいていた時、歌子が佐藤春夫と所帯道具をわけあって持ちながらあるいて来た時である。そうして、その時、私は、佐藤に誘われるままに、追分に近い東片町の露地の中にあった佐藤の新居に、行った。その時、春夫と歌子が話した事を、私は、ふしぎに、いろいろ覚えているが、その中〔なか〕の一〔ひと〕つだけをここに書くと、歌子が、なにかの話のついでに、「あたし、川でも、溝でも、水を見ると、おしっこをしたくなる、」と、云った事である。私が、わざわざ、こういう尾籠〔びろう〕な話を書いたのは、この言葉は、「生きている」と思ったからである。(この歌子は、佐藤の傑作であり、大正の文学の中の傑作である、『田園の憂鬱』の女主人公、E・Y女史である。)

[やぶちゃん注:「西片町」「追分」「東片町」すべて現在の文京区駒込の旧町名。]

 さて、私が、この歌子と、牛込見附のプラットフォオムの腰かけで、逢ったのは、前に述べたように、大正十一年の春の頃であるから、歌子が二十四五歳の時分であろう。その時、私が、「ずいぶんしばらく……今、何をしているの、」と聞くと、歌子は、その私の言葉がおわらぬうちに、「芝浦で芸者をしています、」と、云った。

 その歌子に偶然あった事を、四五日後に、芥川に逢った時、はなすと、芥川は、すぐ、「君、そのうち、芝浦へ行こうか、」と、云った。

 そうして、それから、また、四五日後〔のち〕に芥川は、私をたずねて来て、座につくと、いきなり、(ほかのことは何〔なに〕もいわないで、)「これから、芝浦に行こう、」と、云った。

 ところが、芝浦の或る茶屋にあがって、出てきた女中に、こうこういう芸者がいないか、いたら、呼んでくれ、と云うと、その話はすぐ女中に通じたが、女中は、「その人なら、おりますけど、毎晩、大酒をのんで、いつも、ぐでんぐでんに酔っています、……それに、二三日前から、頭〔あたま〕が痛いと云って休んでいます、」と、云った。

 そこで、仕方がないので、女中にまかして、かわりの芸者を呼ぶことにした。それで、まもなく、芸者が二人〔ふたり〕あらわれた。その二人の芸者を相手に無駄話をしているうち芥川が話の切れ目に、私の耳のそばで、「あのふとっている芸者、ぼくの女房に似てるよ、」とささやいた。

 そのふとっている芸者は、面長〔おもなが〕で、目鼻立ちもちゃんとそろっていたが、いわゆる色気〔いろけ〕がなかった。

 私は、その頃はまだ芥川夫人を知らなかったが、このふとった芸者の顔を見ると、すぐ、これは、芥川の好〔す〕きな女の顔の型〔タイプ〕の一つである、と思った。

 この事は前に述べたかもしれないが、芥川のすきな女の顔は、簡単にいうと、はっきり二つの型にわけることができる。その一〔ひと〕つは、たいてい、面長〔おもなが〕の、目鼻立ちのそろった、古風な、顔であり、他の一つは、やはり、面長〔おもなが〕の、(面長でないのもあるが、)たとい美人であるとしても幾らか欠点のある、(器量はそれほどではないが男ずきのする顔、といわれるような、)顔である。そうして、それを、便宜のために、一つを古典的な顔とし、他の一〔ひと〕つを浪曼的な顔としておく。そうして、もう一つわかりよくするために述べると九条武子、赤坂の万竜[註―谷崎潤一郎の『青春物語』の中に写真まで出ている名妓で、潤一郎の友人の恒川の夫人になった人]ぽん太[註―斎藤茂吉の『三筋町界隈』に書かれてある、これも、名妓で、後、鹿島三河子として踊りの師匠になった。これも茂吉の『不断経』のなかに、写真まで出ている]などがその古典的な顔のそれぞれ代表的なものの一つであり、イギリスのラファエル前派の画家であり詩人である、ダンデ・ガフブリエル・ロゼッティの、名画、『ベアトリイチェの死』、『牧場の楽女』、その他に描かれている女などがその浪曼的な顔の代表的なものの一つであろう。

[やぶちゃん注:「赤坂の万竜」は本名、田向静(明治二十七(一八九四)年~昭和四十八(1973)年)。七歳で東京赤坂花街の芸妓置屋春本の養女となり、お酌(半玉)を経て芸妓になった。明治末頃、「日本一の美人」と謳われ、当時人気を博した芸妓。参照したウィキ龍」に写真が載る。

「ぽん太」本名、鹿島ゑ津子(明治十三(一八八〇)年~大正十四(一九一五)年)。宇野が言うのは新橋玉の家の名妓初代ぽん太。今紀文鹿島屋清兵衛がこれを落籍するも、後に清兵衛は没落、それでも踊・寄席に出ては家計を支え、世に貞女ぽんたと称されたという。森鷗外の「百物語」はこの御大尽時代の清兵衛がモデルであるとされ、尾崎紅葉や齋藤茂吉も彼女に魅せられた。歌人茂吉の大正三年の歌集『あらたま』に、

  かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび

とあり、芥川龍之介の大正六(一九一七)年十二月一日附書簡(旧全集書簡番号三五六 池崎忠孝様宛葉書)に、

 

  Que m’importe que tu sois sage

  Sois belle et sois triste.

  C. Baudelaie

 

  徂く春の人の名問へばぽん太とぞ

 

    その人の舞へるに

  行けや春とうと入れたる足拍子

 

    その人のわが上を問へるに

  暮るるらむ春はさびしき法師にも

 

  われとわが睫毛見てあり暮るる春

 

    一九一七年日本の詩人思を日本の校書に寄するの句を録す。

 

とある。最初はボードレールの「悲しき恋歌」。「悪の華」所収のこの詩句は、「どんなにお前が貞淑であろうと、それが何になる? ただ美しくあれ! 悲しくあれ!」といった意味である。「徂く春」は「往く春」と同義。季節の移ろいと共に、さすがその面影に射している「ぽん太」の老いをも言う。中田雅敏氏は一九八八年近代文藝社刊「俳人芥川龍之介 書簡俳句の展開」に「ぽん太」について以下の解説をされている。『明治二十四年新橋玉の家から雛妓おしゃくとして出、はやくから嬌名を馳せていたが、一時落籍され座敷に出なかった。再び高座に上ったのは大正七年頃という。いつも洗い髪のようにさっぱりした髪型でほんのりと色気をただよわせていたという。』更に、次の「行けや春」の句については、福原麟太郎の次の文を引用されており、『北州は踊の方ではむつかしいものになっているようだがぽん太は何の苦もなくさらっと踊ってみせた。それが実に美しかった。浮世の垢をすべて洗い落としたような爽やかな踊りで、踊りはああでなくてはならない。』(出典未詳)。「北州」は「ほくしゅう」と読み、清元の曲名である。「北州千載歳壽」で「ほくしゅうせんざいのことぶき」と読む。蜀山人の作詞で、「北州」とは江戸の北、吉原を指す。遊廓吉原の年中行事と風物を詠んだ佳品の名曲。「校書」は芸妓(以上はやぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句の当該句注を一部加筆省略して用いた)。ブログに萬龍とともに本名「谷田恵津」で写真が載る。]

 さて、芥川は、その芝浦の茶屋から帰る道で、例のごとくお喋りをつづけたが、そのうちに、ふと、真面目な調子で、声をひくめて、

君〔きみ〕、さっきの、あの、ふとった芸者のような顔をした女は、人の細君〔さいくん〕になったら、良妻になるよ、」と、云った。

「……君も、むろん、知っているように、オットオ・ワイニンゲルは、女を母婦型と娼婦型にわけているが、……君、だいたい、良妻の亭主は浮気者で、悪妻になやんでいる男は、かえって、その反対のところがあるね、……田中 純などの話では、直木の細君は悪妻だそうだが、そういうと、直木は実に堅いところがあるからね。……君などは……」

「おれを浮気者というんだろう、僕は浮気者とすれば、……浮気者だが、……君、僕は、『心』の浮気者だよ。……」

「ふうむ。……」

[やぶちゃん注:「オットオ・ワイニンゲル」オーストリアのユダヤ系哲学者Otto Weininger(オットー・ヴァイニンガー 18801903)。カントやショーペンハウエルの影響下、一個の人間の中に共存する男性性と女性性に着目した『性の形而上学』を唱え、1903年にその集大成というべき名著「性と性格」を完成した後、最も敬愛したベートヴェン終焉の館でピストル自殺した。23歳。なお、この最後の部分、私は、

《そうして続けて芥川は》「……君も、むろん、知っているように、オットオ・ワイエンゲルは、女を母婦型と娼婦型にわけているが、……君、だいたい、良妻の亭主は浮気者で、悪妻になやんでいる男は、かえって、その反対のところがあるね、……田中 純などの話では、直木の細君は悪妻だそうだが、そういうと、直木は実に堅いところがあるからね。……君などは……」《と続けたので、私[=宇野]は、》

「おれを浮気者というんだろう、僕は浮気者とすれば、……浮気者だが、……君、僕は、『心』の浮気者だよ。……」《と答えた。芥川は、》

「ふうむ。……」《と呟いた。》

と読む。順列から言うと、一見、そうではなく、宇野がワイニンゲルを語り、芥川が『心』の浮気者だと答えているように読めるが、「良妻」を受けたワイニンゲルの饒舌は明らかに同じ芥川の口吻である。宇野はこの頃、正式な婚姻をせず、芸妓や愛人と複数の関係を持ってはいるが、何より「『心』の浮気者」というニュアンスは芥川よりも宇野らしく私には感じられるからである。何より、ワインンゲルは「河童」で芥川龍之介の影の濃いトックの心霊の霊界での交流人物として『予の交友は古今東西に亙り、三百人を下らざるべし。その著名なるものを擧ぐれば、クライスト、マインレンデル、ワイニンゲル、……』と挙げられてもいる。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (6)

 若者は葬られた。その葬式は、私がかつて見たうちで最も奇妙な光景であつた。朝早くから、その家へ行く人達を見かけた。併し私が老人と一緒に午後の最中に行つた時もまだ戸口の前には棺が置いてあつて、家族の男や女の人がその周りに立ち、人の大勢ゐる中で棺をたたいたり、その上にもたれて泣唱を歌つたりしてゐた。それから少したつて、皆は跪いて、最後の所感を云つた。それから死者の從兄弟達が――家族の者は何も手につかないほど悲しみにしをれてゐたから――二本の櫂、幾本かの繩を用意して、棺をくくりつけ、行列は初まつた。お婆さん等は棺の直ぐ後に隨いて行き、私は偶然にも、その丁度後、第一番目の男達の中にゐることになつた。墓場へ行く道は惡く、東の方へ向つて坂になつてゐる。女達の群は私の前を下りて行く。その赤い着物を着、赤いぺティコートを被る、丁度後から見えるが、その頭に腰帶を卷いてゐる樣は、不思議な效果を出してゐた。それにまた白い棺や一樣な色彩は全く僧院のやうな落着きを加へるのであつた。

 前に述べたことのある葬式の時には、何處にも早い羊齒が生えてゐたが、今度は、それに代つて墓場には、枯草や枯蕨が一面に生えてゐた。また今度は、八十の老人ではなく、成人したばかりの若者を葬りに來たのであるから、人人の悲しみはその性質が違つてゐた。從つて、泣唱は一部分、形式的の性質を失ひ、若者の家族の思ひ思ひの激しい悲しみを表はして歌はれた。

 棺がこれから、掘られようとする墓の近くに置かれると、岩の中の茨ら二つの長い枝が切られ、岩の上に棺の長さと幅が印された。それから男達は仕事を初め、石や土の薄い層を除いたり、新しい棺を下ろす場所にある古い棺を壞はしたりした。澤山の黑くなつた板や骨のかけらが土と共に堀り出されると、一つの頭蓋骨が上がり、墓石の上に置かれた。すると直ぐに、死者の母親であるお婆さんがそれを取り上げて、一人で持つて行つた。彼女は坐つてそれを――彼女の本當の母親の頭蓋骨であつた――膝の上に置き、激しい悲しみで泣唱と號泣を初めた。

 腐つた土の山が墓の近くに段々と高くなると、それから嫌な嗅ひが立ち初めたので、男たちは何度も二つの茨の棒で穴の大きさを計りながら仕事を急いだ。穴が充分に深くなると、お婆さんは立ち上つて、棺へ戻つて來て、頭蓋骨を左手に持ち、茨の棒で棺をたたき初めた。此の最後の悲しみの一時は最も慘めなものであつた。若い女たちは悲しみのため、憔悴して石の間に伏すやうにしてゐた。それでも、時時つと立ち上つて、立派な態度で棺の板をたたいてゐた。若い男たちも憔悴して、泣唱の悲しさのために絶えず聲を嗄らしてゐた。

 用意が萬端出來上ると、白布は棺から取り除かれ、その場所へ下ろされた。すると一人の爺さんが、聖水のはひつてゐる木の器と蕨の一束を取り上げた。皆の頭の上に水を振りかける間、人人は周りに群つてゐた。彼等はしきりに成るべく多くを貰はうと思つてゐるらしく、婆さんは幾度も滑稽な聲で叫んでゐた。――

 「タラム・プレイォン・エレ・オー・ムールティーン」(ムールティーン、私にもう一滴ください)。

 墓が半分ほど、埋まると、私は寄波近くに海豹が二匹追ひかけ合つてゐるのを眺めながら、北の方へぶらぶら出かけた。明るさの薄れかかる頃、「砂の岬」へ着くと、よく知つてゐる幾人かの男が、地引網のやうなもので魚を捕へてゐるのに出逢つた。それは仲仲手間取る仕事であつた。長い間、私は砂の上に坐つて、網が張られてはまた八人の男が一緒にかけ聲を合はせて、そろそろ手繰るのを見てゐた。

 彼等は私に話しかけた。私が腹がすいてゐると思つたらしく、少しの密釀酒とパンをくれた。さうやつてゐるうちも、死の宣告を受けてゐる人と語つてゐるやうな氣がして仕方がなかつた。此の人達も數年たてば、海に溺れて裸かのまま岩に打ち上げられるか、または自分の家で死ぬかであらう。そして今、私が墓地へ行つて見て來たばかりの恐ろしい光景で葬られるのであらう。

 

 

The young man has been buried, and his funeral was one of the strangest scenes I have met with. People could be seen going down to his house from early in the day, yet when I went there with the old man about the middle of the afternoon, the coffin was still lying in front of the door, with the men and women of the family standing round beating it, and keening over it, in a great crowd of people. A little later every one knelt down and a last prayer was said. Then the cousins of the dead man got ready two oars and some pieces of rope--the men of his own family seemed too broken with grief to know what they were doing--the coffin was tied up, and the procession began. The old woman walked close behind the coffin, and I happened to take a place just after them, among the first of the men. The rough lane to the graveyard slopes away towards the east, and the crowd of women going down before me in their red dresses, cloaked with red pethcoats, with the waistband that is held round the head just seen from behind, had a strange effect, to which the white coffin and the unity of colour gave a nearly cloistral quietness.

This time the graveyard was filled with withered grass and bracken instead of the early ferns that were to be seen everywhere at the other funeral I have spoken of, and the grief of the people was of a different kind, as they had come to bury a young man who had died in his first manhood, instead of an old woman of eighty. For this reason the keen lost a part of its formal nature, and was recited as the expression of intense personal grief by the young men and women of the man's own family.

When the coffin had been laid down, near the grave that was to be opened, two long switches were cut out from the brambles among the rocks, and the length and breadth of the coffin were marked on them. Then the men began their work, clearing off stones and thin layers of earth, and breaking up an old coffin that was in the place into which the new one had to be lowered. When a number of blackened boards and pieces of bone had been thrown up with the clay, a skull was lifted out, and placed upon a gravestone. Immediately the old woman, the mother of the dead man, took it up in her hands, and carried it away by herself. Then she sat down and put it in her lap--it was the skull of her own mother--and began keening and shrieking over it with the wildest lamentation.

As the pile of mouldering clay got higher beside the grave a heavy smell began to rise from it, and the men hurried with their work, measuring the hole repeatedly with the two rods of bramble. When it was nearly deep enough the old woman got up and came back to the coffin, and began to beat on it, holding the skull in her left hand. This last moment of grief was the most terrible of all. The young women were nearly lying among the stones, worn out with their passion of grief, yet raising themselves every few moments to beat with magnificent gestures on the boards of the coffin. The young men were worn out also, and their voices cracked continually in the wail of the keen.

When everything was ready the sheet was unpinned from the coffin, and it was lowered into its place. Then an old man took a wooden vessel with holy water in it, and a wisp of bracken, and the people crowded round him while he splashed the water over them. They seemed eager to get as much of it as possible, more than one old woman crying out with a humorous voice--

'Tabhair dham braon eile, a Mhourteen.' ('Give me another drop, Martin.')

When the grave was half filled in, I wandered round towards the north watching two seals that were chasing each other near the surf. I reached the Sandy Head as the light began to fail, and found some of the men I knew best fishing there with a sort of dragnet. It is a tedious process, and I sat for a long time on the sand watching the net being put out, and then drawn in again by eight men working together with a slow rhythmical movement.

As they talked to me and gave me a little poteen and a little bread when they thought I was hungry, I could not help feeling that I was talking with men who were under a judgment of death. I knew that every one of them would be drowned in the sea in a few years and battered naked on the rocks, or would die in his own cottage and be buried with another fearful scene in the graveyard I had come from.

 

[やぶちゃん注:若いシングは深い悲哀の感染から激しく感傷的になりながらも、野辺の送りから墓掘り、先祖の遺骨の扱いから埋葬と聖水散布に至るまで、非常に緻密にその葬送儀礼を描出して美事である。これは実に稀有のアランに於ける葬送の一部始終のドキュメントなのである。ラストのアザラシの描写から、墓地を下った海辺の地引網のロケーションもコーダとして絶妙である。

「前に述べたことのある葬式の時」とは「第一部」のちょうど中盤に描かれた老婆の葬儀であるから、1898年の五月下旬か六月上旬のことであった。今回は1901年の九月下旬か十月頭の情景である。

「前に述べたことのある葬式の時には、何處にも早い羊齒が生えてゐたが、今度は、それに代つて墓場には、枯草や枯蕨が一面に生えてゐた。」原文は“This time the graveyard was filled with withered grass and bracken instead of the early ferns that were to be seen everywhere at the other funeral I have spoken of,”。ちょっと気になるのは「枯蕨」の部分で、これは“early ferns”、第一部の当該部の描写の“bordered with a pale fringe of early bracken”「早蕨の青く緣取つた平らな墓石」と、まだ葉の開いていない新芽だったものが、今は季節も季節、すっかり開いて濃い青緑のシダとなっていることを言っていよう。「枯蕨」ではない(寒冷なアランとは言え、ワラビが枯れるには少し時期が早いと私には思われる)。栩木氏も『枯れ草と丈高いシダの茂み』と訳されておられる。ここはシングが先の大往生の老婆と若者を意識的に対比させている。そうした対照性を引き立ているものとして、この――莟の「早蕨」――と――開き切った「羊齒」――とは対峙して機能しなくてはならない。

「穴が充分に深くなると、お婆さんは立ち上つて、棺へ戻つて來て、頭蓋骨を左手に持ち、茨の棒で棺をたたき初めた。」“When it was nearly deep enough the old woman got up and came back to the coffin, and began to beat on it, holding the skull in her left hand.”この儀式は、名を呼んだり、着衣を屋根に登ってはためかせるといった死者の再生儀礼を想起させる。叩くことによって蘇生を促す古式である。若しくは魂の抜けた骸に邪悪な悪霊が侵入しないようにするためのやはり古式の葬送儀礼とも取れる。識者の御教授を乞う。このシーンの映像は私には鬼気迫るというよりも、死を悼む、いや「メメント・モリ」(死を忘るべからず)のシンボルとして激しく胸を打つ。

「婆さんは幾度も滑稽な聲で叫んでゐた」原文は“more than one old woman crying out with a humorous voice”。この「婆さんは」は、「会葬者の中にいた一人の老婆などは」としたい。何故なら姉崎氏は、直前で“the old woman, the mother of the dead man,”を――この若者の母を――「死者の母親である婆さん」と訳しているからである(ここは栩木氏の『死んだ若者の老いた母親』がよい/でなくてはだめである)。誤読する可能性は低いかも知れないが(いや、私は三十年前に読んだ時に誤読した)、やはりまずいと思う。

『「タラム・ブレイォン・エレ・オー・ムールティーン」(ムールティーン、私にもう一滴ください)。』“'Tabhair dham braon eile, a Mhourteen.' ('Give me another drop, Martin.')”。「ムールティーン」は「マーチン」でアイルランド系に多い名であるが、ここが「聖水」であることやその名から、後にシングが発表する戯曲「聖者の泉」を連想させる(主人公の男の名は“Martin”である。リンク先は私の片山廣子(松村みね子)訳「聖者の泉」)。栩木氏は音写して『トゥール・ゴム・ブリーン・エラ・ア・ヴァーチーン』しておられる。姉崎氏の音写は最初の二つの単語“Tabhair dham”を連声音にしておられるようである。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (5)

 今夜、爺さんは昔本土で聞いた話をしてくれた。――

 

 或る若い女が居て、一人の子供を持つてゐた。間もなく、その女は死んだので、翌日それを葬つた。その晩、もう一人の女――家のおかみさん――がその子供を膝に載せ、爐の傍に腰掛け、コップから牛乳を飮ませてゐた。すると葬つたばかりの女が戸を開けて、家にはひつて來た。彼女は爐の方へ行き、椅子を取りお内儀きんの前に腰掛けた。それから手を差出して、子供を膝の上に取り乳を與へた。暫くして子供を搖籠の中に置き、料理臺の所へ行つて、牛乳や馬鈴薯を取つて食べ、そして出て行つてしまつた。お内儀さんは驚いて、その事を夫の歸つて來た時告げ、また二人の若者に告げた。皆んな明日の晩は家に居て、彼女が來たら、捉へようと云つた。彼女は翌日の晩も來て、子供に乳房を與へ、料理臺の方へ行かうと立ち上つた所を、主人が捉へたが主人は床に倒れてしまつた。すると二人の若者がそれを捉へて、放さないやうにした。そこで、彼女の物語つた所に依れば、妖精に連れられて行き、その晩は、妖精と共に食物を食べてゐなかつたが、子供の處へ歸られるやうに妖精達は彼女を放した。そして妖精の全部はイーヘ・ホウナ[十一月一日に行はれる愛蘭土の祭で、その宵祭の意、此夜は一年中で幽靈や魔女の最も多く出歩くものと信ぜられる]に、國のその地方を立ち去るだらうこと、その四五百人が馬に騎つて行くであらうこと、彼女自身は或る若者の後に白馬に騎つてゐることを話した。そして彼女はその晩、妖精達が橋を渡るから、その橋まで來て、その袂で待つてゐてくれと賴んだ。さうすれば自分の通る時、自分と若者に何か投げられるやうに、馬をゆるめるであらう。そして自分達が地面に落ちれば、助かるだらうと語つた。

 かう云つて、彼女は行つてしまつた。男達はイーヘ・ホウナに行つて、彼女を取り戻した。

 彼女はその後、四の子を産み、遂に死んだ。初め葬つたの最女ではなく、妖精が彼女の代りに何か古い着物でもおいたのであらう。

 

 「そんな事は信ぜられないと云ふ人がある。」お婆さんは云つた。「だが不思議といふものはあるもので、そんな人達には、云ひたいやうに云はせておくさ。此の間のことだが、下の村で、或る女がその子供と寢床にはひつた。暫く眠らないでゐると、何者か窓の所へ來て、聲を聞いたやうであつた。その聲はかう云つた。――

 『これから、眠り通す時が來た。』

 子供の死んでゐたのは、その朝だつた。島でこんな風な死に方をする人は多いのです。」

 

 

This evening the old man told me a story he had heard long ago on the mainland:--

There was a young woman, he said, and she had a child. In a little time the woman died and they buried her the day after. That night another woman--a woman of the family--was sitting by the fire with the child on her lap, giving milk to it out of a cup. Then the woman they were after burying opened the door, and came into the house. She went over to the fire, and she took a stool and sat down before the other woman. Then she put out her hand and took the child on her lap, and gave it her breast. After that she put the child in the cradle and went over to the dresser and took milk and potatoes off it, and ate them. Then she went out. The other woman was frightened, and she told the man of the house when he came back, and two young men. They said they would be there the next night, and if she came back they would catch hold of her. She came the next night and gave the child her breast, and when she got up to go to the dresser, the man of the house caught hold of her, but he fell down on the floor. Then the two young men caught hold of her and they held her. She told them she was away with the fairies, and they could not keep her that night, though she was eating no food with the fairies, the way she might be able to come back to her child. Then she told them they would all be leaving that part of the country on the Oidhche Shamhna, and that there would be four or five hundred of them riding on horses, and herself would be on a grey horse, riding behind a young man. And she told them to go down to a bridge they would be crossing that night, and to wait at the head of it, and when she would be coming up she would slow the horse and they would be able to throw something on her and on the young man, and they would fall over on the ground and be saved.

She went away then, and on the Oidhche Shamhna the men went down and got her back. She had four children after that, and in the end she died.

It was not herself they buried at all the first time, but some old thing the fairies put in her place.

 

'There are people who say they don't believe in these things,' said the old woman, 'but there are strange things, let them say what they will. There was a woman went to bed at the lower village a while ago, and her child along with her. For a time they did not sleep, and then something came to the window, and they heard a voice and this is what it said--

"It is time to sleep from this out."

'In the morning the child was dead, and indeed it is many get their death that way on the island.'

 

[やぶちゃん注:一連の話であるので纏めて採った。

ここに語られる話は蘇生譚として、細部がよく描かれている興味深い民俗伝承である。冒頭部分で思い出すのは本邦の妊娠中若しくは出産時に死んでしまった女性が妖怪化した姑獲鳥(うぶめ)であるが、これは「本草綱目」などに所収する中国起源の妖鳥伝説と習合しており、一部の伝承によれば、この怪鳥は地上に降り立って赤子を抱いた女性に化けては道行く人に子を背負ってくれと懇願し、それを恐れて逃げる者には祟りをなし――悪寒と高熱に襲われて死に至る――こともあるとする。この部分、妙に直前のチフスに罹患した若い既婚の女の死の予感と連動して不気味である。

「爺さん」は、この時の(恐らくは第三部までと同じ定宿の)民家の主人である。

「そこで、彼女の物語つた所に依れば、妖精に連れられて行き、その晩は、妖精と共に食物を食べてゐなかつたが、子供の處へ歸られるやうに妖精達は彼女を放した。」原文は“She told them she was away with the fairies, and they could not keep her that night, though she was eating no food with the fairies, the way she might be able to come back to her child.”で、文脈に捩じれがあるように思われる。これは素直に順に訳せばよいのではなかろうか。

「そこで、彼女の物語つた所に依れば、」彼女は死んだのではなく、「妖精に連れられて行」ったのだということを語り、その晩」も彼女は、長くここには居られないのだと言い、しかし未だに「妖精と共に」彼らの「食物を食べて」は「ゐな」いから、こうしてこの現世、「子供の處へ歸」ってこられるのだ、と語った。

という意味であろう。中間部の「妖精と共に食物を食べてゐなかつた」というところが「古事記」のイサナキの黄泉国訪問で妻イサナキが「黄泉戸喫」の話をする(異界の食物を口にすることで世界が遮断・変異する)シーンを想起させて興味深い。

「イーヘ・ホウナ[十一月一日に行はれる愛蘭土の祭で、その宵祭の意、此夜は一年中で幽靈や魔女の最も多く出歩くものと信ぜられる]」“Oidhche Shamhna”は「1031日の晩という日附でお分かり頂けると思うが、所謂、“Halloween, Hallowe'en”(ハロウィン)のことである。“Oidhche”が「夜」、“Shamhna”が「ハロウィン」の意。以下、ウィキの「ハロウィン」から引用しておく。本来は『ケルト人の行う収穫感謝祭が、他民族の間にも行事として浸透していったものとされて』おり、ヨーロッパを起源とする民族行事で、毎年に行われる。いる。『ケルト人は、自然崇拝からケルト系キリスト教を経てカトリックへと改宗していった』が、『カトリックでは111日を諸聖人の日(万聖節)としているが、この行事はその前晩にあたることから、後に諸聖人の日の旧称"All Hallows"eve(前夜祭)、Hallowseveが訛って、Halloweenと呼ばれるようになった。そもそもキリスト教の教えと、魑魅魍魎が跋扈するハロウィンの世界は相容れるものではなく、聖と俗との習合がハロウィンという名称のみに痕跡を残している』。なお、ネット上のネイティヴの発音を聴くと「イーハ・ハウナ」と聴こえる。

「白馬」原文は“a grey horse”であるが、これは所謂「葦毛」の馬で、元は灰色でも年をとるに連れて見た目は白と変わらなくなるので訳としては問題ない。

「そして彼女はその晩、妖精達が橋を渡るから、その橋まで來て、その袂で待つてゐてくれと賴んだ。さうすれば自分の通る時、自分と若者に何か投げられるやうに、馬をゆるめるであらう。そして自分達が地面に落ちれば、助かるだらうと語つた。」まずは異界との境界である(従って異界からの帰還のルートともなる)端としての「橋」、霊界との通路である水に関わる「橋」が特異点として描出される。更に「何か投げられる」ことによって妖精世界からの帰還に可能であるという謂いが、例えばイサナキの呪的逃走の成功と近似する。ここで投げられたものが何であったかが語られていないのが如何にも惜しい。しかもこの「自分達が地面に落ちれば、助かるだらう」という部分にも何かが隠されているようだ。女の帰還には「若者」が一緒に地面に落ちる必要があるからである。面白い。実に面白い。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (4)

 私が何度も話したことのある若い既婚の女が熱病で死にかけてゐる――チブスださうである。

 ――それでその夫と兄弟たちは海が荒れてゐるにもかかはらず、北島から醫者と坊さんを呼びに、カラハで出かけた。

 此の人達の出立した後、私は砦の丘から長い間、眺めてゐた。風と雨は瀨戸の中へ押し寄せ、波の中をしぶきを立てて苦鬪してゐるその小さな黑いカラハのほかには、舟影も人影も見えなかつた。風が少し收まると私の足下の東の方で人が槌を打つてゐる音が聞こえた。二三週間前、溺死した靑年の死體が今朝岸邊に着き、その友達が、死んだ男の家の庭で、一日中棺を造るのに忙しいのであつた。

 少したつと、カラハは霧の中に姿を消した。寒さと慘めさに身ぶるひしながら、私は宿に歸つて來た。

 お婆さんは火の傍で、泣唱をしてゐた。

 「私は若者の居た家まで待つて來た。」彼女は云つた。「其處から出て來る匂ひのため、私は中へはひれなかつた。頭は全くないさうだが、海に三週間もひたつて居れば、それは無理もない事だね。此の島の者は誰も彼も、こんな危い目や悲しい目に逢はねばならないのかね?」

 私は、カラハは坊さんを乘せて直ぐ戻つて來るだらうかと尋ねた。

 「直ぐ戻つて來なけりや、今夜は戻つて來ないでせう。」彼女は云つた。「今、風が出た。恐らく此の二三日は此の島へカラハは來ないでせう。氣が急(せ)いてゐるのに、何時溺れ死ぬかも知れない危險にある人達を思ふと、可哀さうぢやないかね?」

 それから、私は、女はどうしたかと尋ねた。

 「あの女は、もう大方駄目だらう。」お婆さんは云つた。「明日の朝までは持つまい。棺を造る板がないので、此の下にゐる男が、まだ生きてゐるその母親の葬式のために、此の二年間持つてゐる板を借りたいと云つてゐる。熱を出してゐる女がもう二人と、三つにもならない子供が一人ゐるさうだ。神樣何卒、私達をお惠み下さい!」

 私はまた海を眺めに出かけた。併し日はとつぷりと暮れて、疾風は砦の丘の上に吠えてゐた。

 私は道を下りて行き、靑年の死んだ家で、泣唱の聲を聞いた。もつと行つて最近チブスにやられた家の戸口の騷騷しいのを見た。それから雨を冒して宿に歸つて來て、お婆さんやかみさんと一緒に爐を圍んで、夜の更けるまで島人の不幸を話し合つた。

 

 

A young married woman I used often to talk with is dying of a fever--typhus I am told--and her husband and brothers have gone off in a curagh to get the doctor and the priest from the north island, though the sea is rough.

I watched them from the Dun for a long time after they had started. Wind and rain were driving through the sound, and I could see no boats or people anywhere except this one black curagh splashing and struggling through the waves. When the wind fell a little I could hear people hammering below me to the east. The body of a young man who was drowned a few weeks ago came ashore this morning, and his friends have been busy all day making a coffin in the yard of the house where he lived.

After a while the curagh went out of sight into the mist, and I came down to the cottage shuddering with cold and misery.

The old woman was keening by the fire.

'I have been to the house where the young man is,' she said, 'but I couldn't go to the door with the air was coming out of it. They say his head isn't on him at all, and indeed it isn't any wonder and he three weeks in the sea. Isn't it great danger and sorrow is over every one on this island?"

I asked her if the curagh would soon be coming back with the priest. 'It will not be coming soon or at all to-night,' she said. 'The wind has gone up now, and there will come no curagh to this island for maybe two days or three. And wasn't it a cruel thing to see the haste was on them, and they in danger all the time to be drowned themselves?'

Then I asked her how the woman was doing.

'She's nearly lost,' said the old woman; 'she won't be alive at all tomorrow morning. They have no boards to make her a coffin, and they'll want to borrow the boards that a man below has had this two years to bury his mother, and she alive still. I heard them saying there are two more women with the fever, and a child that's not three. The Lord have mercy on us all!'

I went out again to look over the sea, but night had fallen and the hurricane was howling over the Dun. I walked down the lane and heard the keening in the house where the young man was. Further on I could see a stir about the door of the cottage that had been last struck by typhus. Then I turned back again in the teeth of the rain, and sat over the fire with the old man and woman talking of the sorrows of the people till it was late in the night.

 

[やぶちゃん注:本章は「アラン島」の中でも、モノクロームの、深く昏い、文字通り「死」の臭いのする箇所である。棺作りの釘を打つ音が虚空に響いて一読、忘れ難い。

「チブス」原文は“fever--typhus”。“Typhus”(窒扶斯・チブス・チフス)は高熱や発疹を伴う細菌感染症の一群を言い、異なった以下の三種を総称する。①サルモネラ菌の一種チフス菌“Salmonella enterica serovar Typhi”に経口感染することによって発症する「腸チフス」。腹胸部のバラ疹が特徴。通常の英語表記“typhoid fever”。抗菌薬がなかった当時の致死率は、主に調出血や腸穿孔による1020%。②サルモネラ菌の一種パラチフスA菌 “Salmonella enterica serovar Paratyphi A”に経口感染することによって発症する「パラチフス」。致死率は腸チフスに比して低く5%程度。通常の英語表記“paratyphoid fever”。③主にコロモジラミやアタマジラミが媒介する発疹チフス・リケッチア“Rickettsia prowazekii”に感染することによって発症する「発疹チフス」。体幹部の丘疹から広がる全身性発疹が特徴。致死率は1060%(10歳未満の小児では死亡は稀であるが、加齢により上昇、50歳以上の高齢者では治療不全の場合は60%を越える)。通常の英語表記“typhus”。この場合のアランの「チブス」は致死率が高いから、①か③の何れかであるが、古くは③の「発疹チフス」が“typhus”であった。原文の“fever--typhus”は①の腸チフスの英語名“typhoid fever”に最も似るが、英文の風土病記事などを検索すると、③の発疹チフスを“Endemic Typhus Fever”と記している記事を見かけるので同定し得ない。但し、私には③のベクター感染では①よりも高く、深刻な島内でのパンデミックが予想されるように思われるので、一応、腸チフスでとっておく。因みに、1898年を一回目とする、この四度目のシングのアラン帰還は1901年9月21日から1019日(栩木伸明氏訳2005年みすず書房刊の「アラン島」の「あとがき」による)であるが、漱石の「こゝろ」の「先生」の両親は腸チフスのために相次いで亡くなっている。私の推定するその没年は明治281895)年頃である(私のろ」マニアックスの『●「先生」の時系列の推定年表』を参照のこと)。]

2012/03/28

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (3)

 今日、天氣は荒模樣であつたが、午後の初めのうちは、コニマラから泥炭を積んで來る漁船は充分はひつて來られる位に、海は靜かであつた。尤もそれが波止場に泊つてゐる間は、うねりが大きいので、人は海の上を見乘りしてゐて、大きなのが來る度に、船が波に樂に乘やうに錨索を弛めなければならなかつたが。

 船の中には、二人の男がゐるばかりだつた。空(から)になつてゐると、錨索をたぐり込んだり、帆を擧げたりするのが面倒で、また港外へ出る前に岩に吹きつけられないやうにするのも面倒だつた。

 直ぐ後で激しい夕立が來たので、私は泥炭の積み重ねの下へ幾人かの人達と一緒にもぐり込んだ。此の人達は馬を積んでやつて來る他の漁船を待つて立つてゐた。彼等は昨晩の喧嘩のこと、その騷騷しかつたことを語り出して笑つた。

 「くだらないことから一番ひどい喧嘩がおつ始まつたんだ。」隣りにゐた老人が云つた。「ムルティーンか誰かが六十年前、濱でナイフで殺し合つた喧嘩の話をあんたにしたことはなかつたかね?」

 「聞かなかつたね。」 私は云つた。

 「さて、」彼は云つた。「皆んなが海草刈に出かけようとしてゐた。或る男が出かける前に、ナイフを砥石で研いでゐた。一人の子供が茶の間にはひつて來て、その男に云つた。――

 『何んのためにナイフを研いでゐるの?』

 『お前のお父さんを殺ためだ。』その男は云つた。彼等はいつも仲のよい友達だつた。子供は家に歸つて、父親にナイフを砥いで殺さうとしてゐる男があると云つた。

 『畜生!』父親は云つた。『彼奴がナイフを持つて行くなら、俺も持つて行くぞ。』

 それから彼はナイフを研ぎ、皆んなは濱へ下りて行つた。それから二人は互ひにナイフのこと揄揶(からか)ひ出したが、それが因(もと)で大聲を上げ出し、間もなく、十人の男がナイフを持つて入り亂れ、仲仲果てしがつかず、逐にその中の五人が殺された。

 翌日葬ひをして、みんなが歸つて來ると、みんなの目についたのは、事を起した子供が相手の男の子供と仲よく遊んでゐるところであつた。二人の父親はどちらも墓場の中に埋められてゐるのに。」

 彼が語り止めると、一陣の風が來て、近くの乾いた海草の束を私たちの頭上高く、吹き上げた。

 今一人の老人が語り出した。

 「大風の吹いたことがあつた。」彼は云つた。「忘れもしない、南島に、石垣の角に向つた圍ひの中に羊毛を澤山持つてゐた男があつた。その男が丁度羊毛を洗つたり、乾したり、裏返したり、梳(くしけず)られるやうに綺麗にしたりしてゐた。すると風が吹いて來て、羊毛がすつかり石垣の上へ吹き上げられ、その男は大手を擴げて止めようとした。今一人の男がそれを見た。

 『惑魔にでもあたまを治して貰へ!』彼は云つた。『その風にはお前はかなはねえぞ。』

 『よし惡魔がゐるなら、』相手の男は云つた。『おれが捕へてやる。』

 さう云つたためかどうかは知らないが、それから全部の羊毛が彼の頭の上を越して、島中到る所に吹き飛んだが、後でかみさんがやつて來て紡がうとすると、その量には少しも損はなかつたかのやうに、要るだけのものがすつかりあつた。」

 「それには、もつと話があるのだ。」今一人の男が口を出した。「と云ふのは、その前の晩、或る女が此の島の西のはづれで、えらい光景を見た。それは此の島と南島で少し以前に死んだ人が全部ゐて、互ひに話し合つてゐるのを見たのだ。その晩は隣島から一人の男が來てゐて、その男はさつきの女が見た物について話すの聞いてゐた。翌日その男は南島へ歸つたが、恐らくカラハの中は一人きりだつたのだらう。隣島の近くへ來ると、崖で釣をしてゐる人を見かけた。その人が彼に呼びかけた。――

 『早く急いで行つて、おツ母の密釀酒を匿せと云へよ。』――母親は密釀酒を賣るのが商賣だつた――『丁度今、此の島ではこれまで見たこともないほど大勢の巡査と郷士の人が、岩の上を通つて行くのを見たんだ』。丁度その時が、上の方で、さつきの男が丘の下の羊毛を持つて行かれた時だつたが、巡査などは一人も島にはゐなかつた。」

 それから少したつと、老人連は行つてしまつて、幾人かの二十代の靑年たちが私と一緒に殘つた。此の人達は私にいろいろな事を話した。一人は、私が嘗つて醉拂つた事があるかと聞いたり、また或る者は此の島から嫁を貰ふべきだと云つたりした。島には美人がゐて、よく肥つた娘なら、丈夫で、澤山の子を産み、金を浪費しないと云つた。

 馬船が岸に着くと、蟹の罠籠について遠くにゐた一艘のカラハが、大急ぎではひつて來た。それから一人の男が船から降りて砂丘を登つて行つて、一人の娘の子と逢つた。娘の子は晴着の一束を持つて來のであつた。男は砂の上で、それに着替へ、漁船の方へ出かけ、馬を返しにコニマラの方へ向つて出立した。

 

 

The weather has been rough, but early this afternoon the sea was calm enough for a hooker to come in with turf from Connemara, though while she was at the pier the roll was so great that the men had to keep a watch on the waves and loosen the cable whenever a large one was coming in, so that she might ease up with the water.

There were only two men on board, and when she was empty they had some trouble in dragging in the cables, hoisting the sails, and getting out of the harbour before they could be blown on the rocks.

A heavy shower came on soon afterwards, and I lay down under a stack of turf with some people who were standing about, to wait for another hooker that was coming in with horses. They began talking and laughing about the dispute last night and the noise made at it.

'The worst fights do be made here over nothing,' said an old man next me. 'Did Mourteen or any of them on the big island ever tell you of the fight they had there threescore years ago when they were killing each other with knives out on the strand?'

'They never told me,' I said.

'Well,' said he, 'they were going down to cut weed, and a man was sharpening his knife on a stone before he went. A young boy came into the kitchen, and he said to the man--"What are you sharpening that knife for?"

"To kill your father with," said the man, and they the best of friends all the time. The young boy went back to his house and told his father there was a man sharpening a knife to kill him.

"Bedad," said the father, "if he has a knife I'll have one, too."

'He sharpened his knife after that, and they went down to the strand. Then the two men began making fun about their knives, and from that they began raising their voices, and it wasn't long before there were ten men fighting with their knives, and they never stopped till there were five of them dead.

'They buried them the day after, and when they were coming home, what did they see but the boy who began the work playing about with the son of the other man, and their two fathers down in their graves.'

When he stopped, a gust of wind came and blew up a bundle of dry seaweed that was near us, right over our heads.

Another old man began to talk.

'That was a great wind,' he said. 'I remember one time there was a man in the south island who had a lot of wool up in shelter against the corner of a wall. He was after washing it, and drying it, and turning it, and he had it all nice and clean the way they could card it. Then a wind came down and the wool began blowing all over the wall. The man was throwing out his arms on it and trying to stop it, and another man saw him.

"The devil mend your head!" says he, "the like of that wind is too strong for you."

"If the devil himself is in it," said the other man, "I'll hold on to it while I can."

'Then whether it was because of the word or not I don't know, but the whole of the wool went up over his head and blew all over the island, yet, when his wife came to spin afterwards she had all they expected, as if that lot was not lost on them at all.'

'There was more than that in it,' said another man, 'for the night before a woman had a great sight out to the west in this island, and saw all the people that were dead a while back in this island and the south island, and they all talking with each other. There was a man over from the other island that night, and he heard the woman talking of what she had seen. The next day he went back to the south island, and I think he was alone in the curagh. As soon as he came near the other island he saw a man fishing from the cliffs, and this man called out to him--"Make haste now and go up and tell your mother to hide the poteen"--his mother used to sell poteen--"for I'm after seeing the biggest party of peelers and yeomanry passing by on the rocks was ever seen on the island." It was at that time the wool was taken with the other man above, under the hill, and no peelers in the island at all.'

A little after that the old men went away, and I was left with some young men between twenty and thirty, who talked to me of different things. One of them asked me if ever I was drunk, and another told me I would be right to marry a girl out of this island, for they were nice women in it, fine fat girls, who would be strong, and have plenty of children, and not be wasting my money on me.

When the horses were coming ashore a curagh that was far out after lobster-pots came hurrying in, and a man out of her ran up the sandhills to meet a little girl who was coming down with a bundle of Sunday clothes. He changed them on the sand and then went out to the hooker, and went off to Connemara to bring back his horses.

 

[やぶちゃん注:原文では、行空けなしで次の段落と繋がっているが、底本に準ずる。

「船の中には、二人の男がゐるばかりだつた。空(から)になつてゐると、錨索をたぐり込んだり、帆を擧げたりするのが面倒で、また港外へ出る前に岩に吹きつけられないやうにするのも面倒だつた。」はやや分かり難い。これは前段の「コニマラから泥炭を積んで來る漁船」が港で碇泊し、そして出て行くさまを波止場から、シングが観察しているのである。その船には「二人の男」しか乗船しておらず、船は泥炭を下ろした結果、「空(から)になつ」て軽くなったために、先に述べたような「大きな」「うねりが」来ると、「錨索をたぐり込んだり、帆を擧げたりするのが」二人では如何にも大変そうに見え、またその空船を「港外へ出」す際にも、岩礁にぶちあたらないよう、操船するのも、二人では如何にも大変なのが見て取れた、という意味である。

「郷士」原文“yeomanry”。イギリスでは古くから市民が“militia”(ミリシア:民兵。)を組織することが公的に認められていたが、特に“Yeoman”(ヨーマン:イングランドの富農層である独立自営農民。)は“yeomanry”「ヨーマンリー」と称される義勇騎兵部隊を組織して国家の軍事活動に協力していた。1854年のクリミア戦争勃発によって、イギリス陸軍は常備軍の深刻な兵力不足に見舞われ、その後のフランスとの対立やイタリア統一戦争などの軍事的需要が高まり、大規模な予備軍組織の要請が高まり、1859年、陸軍省管轄下の義勇軍“Volunteer Force”が創設された。参照したウィキの「国防義勇軍」によれば、『州知事の認可により部隊が設立され、平時には市民生活のかたわら一定の訓練を行い、有事には自弁で武装して動員されて常備軍同様の給与と軍法の適用を受けるものとされた。当初は小規模な部隊が乱立したが、次第に効率的な大隊規模に統一され、1862年には歩兵220個大隊など兵力16万人を数えた。実戦出動の経験もあり、1899年に起きた第二次ボーア戦争がその最後の事例となった』とある。従って、ここは時代背景から国防義勇騎兵隊の一団と訳すべきところか。――そんなことよりも――この話柄の前段から、私には「大勢の巡査と郷士の」一団が、あたかも「ヨハネの黙示録」の邪悪にして亡ぼされる(だってアランの貧農の正義の羊毛も、アランの母さんの密造酒も守られるんだからね)地獄の悪魔の軍団のように見えてくる面白さではないかと思うのであるが、如何?

「蟹の罠籠」原文は“lobster-pots”。これはよろしくない。何故なら、ロブスターは「蟹」ではないからである。敢えて言うならエビそれもザリガニの仲間である。甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目ザリガニ下目アカザエビ科アカザエビ亜科ロブスター属Homarus で、本種は分布域からヨーロピアン・ロブスターHomarus gammarus と考えてよい。

「馬船が岸に着くと、蟹の罠籠について遠くにゐた一艘のカラハが、大急ぎではひつて來た。それから一人の男が船から降りて砂丘を登つて行つて、一人の娘の子と逢つた。娘の子は晴着の一束を持つて來たのであつた。男は砂の上で、それに着替へ、漁船の方へ出かけ、馬を返しにコニマラの方へ向つて出立した。」という最終段落“When the horses were coming ashore a curagh that was far out after lobster-pots came hurrying in, and a man out of her ran up the sandhills to meet a little girl who was coming down with a bundle of Sunday clothes. He changed them on the sand and then went out to the hooker, and went off to Connemara to bring back his horses.”は、失礼ながら姉崎氏自身分かって訳されているようには思われないのである(但し、私も一部よく分からないのであるが)。まず、馬を積んだ船がやっと入港した丁度その時、“hurrying in”(波止場に大急ぎで)帰ってくるカラハがあったが、それはロブスター獲りのための籠を仕掛けに朝早くに出た漁師のカラハであった。何故、「大急ぎ」なのか? 自分の娘が用意して持ってきた“Sunday clothes”(日曜のミサ用の晴れ着)に着替えるためであり、この「馬を積んだ船」に乗ってコネマラへ向かうためである。何のための「晴れ着」か?――そこが今一つ、分からないのであるが――彼はその馬を積んで入港した船に乗り、どうも“his horses”彼の馬(この一回目の便ではもたらされていない馬。それも複数である)を、コネマラまで直接引き取りに行く“bring back”(連れて戻る)ために――その際に元の馬主と逢うための晴れ着か、それとももっと純粋に新しい栄えある名馬たちを受け取る晴れの日のためにか、分からないのであるが――正装をしているようなのである。複数の馬を正装で引き取りに行くこの漁師は、島でも相当な金持ちなのか? 英語の苦手な私にはその程度までしか推理出来ない。識者の御教授を乞うものである。]

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(2)


…‥さて帰り支度をして梯子段をおり、芥川が便所の方に行きかけると、意外にも階下の廊下で向〔むか〕うから女をつれて、これも食事ををへて玄関の方へ出て来たのは南部修太郎で、しかも同伴の女性は、芥川の情人Hだつた。
[やぶちゃん注:「H」は秀しげ子。私の推測であるが、実質上はこの時には芥川はしげ子を既に嫌悪しており、少なくとも芥川の方からの積極的な不倫関係は疎遠になっていたものと思われる。]

 これは村松梢風の『芥川龍之介』のなかの一節であり、この食事をしたところは『中華亭』である。
 ここに村松が『H』であらわしている女性を、小穴は、『S』として、つぎのように書いている。
*                                             
 S。高利貸の娘、芸者の娘、劇場の電気技師の妻、閨秀歌人、これが彼女の黒色影像〔シルエット〕であつた。
……さうしてただ一葉〔いちえふ〕の書簡箋の数行のなかに、確かに、(南部修太郎と一人〔ひとり〕の女〔ひと〕Sを自分自身では全くその事を知らずして××してゐた。それを恥ぢて自決をする。)と読んだのではあるが、(此の自分に渡〔わた〕された遺書で最初のものは後に彼にかへした。)次ぎに、南部修太郎が消えて宇野浩二の名が現れてゐた、と書かうとする自分には、非常な錯覚による支障を齎〔もた〕らすのである。
――ここに、二つの話が死者によつて僕に残されてゐる。(昔、宇野と一緒に諏訪に行つてゐた時である。)「一日〔いちにち〕、宇野の机の上に見覚えのある手紙があつたので、自分はそれを未〔いま〕だに恥づかしい事には思つてゐるのだが、それをそつと開〔あ〕けてみたら、実にたがはず、その筆者がSであつて、Sと宇野の間のことを、はじめて自分はその時知つて非常に驚いた。君、Sはそのやうな女なんだ。」以下省略。

 これと同じような事を、村松も、『芥川龍之介』のなかで、つぎのように述べている。

……諏訪は宇野の第二の故郷みたいな土地だつた。その土地にゐた間に、ある日、宇野の下宿で彼の机の上に見覚えのある筆蹟の手紙があるのを見て開〔あ〕けてみると、筆者はHだつた。Hは宇野とも関係があつたのだ。この時は流石の芥川も憮然となつた。このやうな放浪癖を有するHではあつたが、Hが生んだ男の子は甚だしく芥川に似てゐたので、最後まで彼は此の事を悩みの種にしてゐたといふ事だ。

 この村松の文章は小穴の文章から取ったものにちがいないが、その小穴の文章が、さきに引いたものだけでもわかるように、晦渋で、妙に気を持たせるようなところがある。それに、この謎の女と私とが関係があったなどという事はまったくマチガイであり、また、私はこの謎の女から手紙などもらった事は一度もない。それから、小穴の文章にあるように、もし芥川が本当に「宇野の机の上に見覚えのある筆蹟の手紙があつた」と云ったのなら、私は、かりに芥川が生きているとしたら、その芥川に、「いくら君が人をからかう事に興味をもっているにしても、君を信頼している小穴に、あんな作〔つく〕り事〔ごと〕をいうのは、あんまりひどいじゃないか、」と詰〔なじ〕りたい。
 その芥川の云った事を真〔ま〕にうけて、小穴は、芥川の思い出を述べた『二つの絵』という文章のなかで、『S女史』について十ペイジ以上も書いているので、この二三年のあいだに、このS女の事を、滝井孝作が、『純潔』という小説のなかで、S夫人という名で書き、廣津和郎が、『彼女』という小説に、彼女という代名詞で、S女史の若い時分の事を書き、村松梢風が、さきに述ベた、『芥川籠之介』のなかで、Hという名で書いている。そこへ、私が、この文章の中〔なか〕で、謎の女という事にして、S女史らしいものをちょいと書いた。そこで、そのS女史が、私と、偶然、町で逢った時、それらの小説の話などをして、私に、こぼした。
 そこで、私が、そのS女史といわれる女の人に、「……そういえば、僕は、あなたとあまりお附〔つ〕き合〔あ〕いをした事はない、だから、あなたから手紙などもらった事はないでしょう、」と云うと、相手の女は、「……あたしも書いたおばえはございませんが、何〔なん〕でも、あたしの名で、鍋井さんがお出しになった、と……」と云った。
 これには私もあいた口がふさがらなかった、鍋井は、芥川に一度も逢った事がない筈であり、また、かりに親友からこういう手紙の代筆など頼まれても、絶対に書かない男であるからである。
 そこで、「この文章をよむ人よ、」と私は云う、芥川に関する事は、小穴のような聡明なる人が書いても、村松のごとき賢明なる伝記者が述べても、このような、はなはだしい、マチガイがあるのであるから、私のごとき鈍物〔どんぶつ〕が述べる事は、(引用文のほかは、)ことごとくマチガイにちがいない、よって、「この文章をよむ人よ、私が、これまでだらだらと述べてきた事も、これから述べる事も、マチガイだらけにちがいないですから、了承するとともに、なにとぞ、御容赦〔ごようしゃ〕ねがいあげます。」
[やぶちゃん注:「あたしの名で、鍋井さんがお出しになった」という秀しげ子の証言の意味が分からない。「鍋井」は前出の洋画家鍋井克之であり、宇野は「鍋井は、芥川に一度も逢った事がない筈であり、また、かりに親友からこういう手紙の代筆など頼まれても、絶対に書かない男」だと言い、ではその鍋井が『しげ子の名を騙って宇野に手紙を出した意図』は何なのか、翻って見れば『宇野は何故、その詐称された手紙を貰った記憶がないのか』(但しこれは、宇野がその後に重い精神病に罹患した事実による記憶の欠落という説明は可能ではある)、そもそもこの時、『このしげ子の告白を聞いた宇野はそれをどう解釈したのか、宇野にとって全くの解釈不能なら、なぜしげ子にそこを突っ込んで聞かなかったのか』さえも示されていない。況や、宇野はしげ子との冤罪の一件に対して(断っておくが「しげ子」に対してではなく、あくまでこの小穴を震源地とすると断定してよい宇野の受けたとばっちりに対してである)憤慨しているにも拘わらず、『どうしてそこで突っ込んで語らないのか?』というところで、この宇野の文章でさえ――正しく「謎の謎」――ではないか、ということである。]

2012/03/25

随分 御機嫌よう

明日より名古屋の義母を見舞いに行く――では随分、御機嫌よう――

告別   宮澤賢治

三八四

 

告別   宮澤賢治   

 

      一九二五、一〇、二五、

 

 

おまへのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴つてゐたかを
おそらくおまへはわかつてゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無數の順列を
はつきり知つて自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の樂人たちが
幼齡弦や鍵器をとつて
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この國にある皮革の鼓器と
竹でつくつた管とをとつた
けれどもちやうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもつてゐるものは
町と村との一萬人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかつたが、
おれは四月はもう學校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失つて
ふたたび囘復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多數をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無數の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを嚙んで歌ふのだ
もしも樂器がなかつたら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいつぱいの
光でできたパイプオルガンを彈くがいゝ

 

(「心象スケツチ 春と修羅」第二集より)

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~ (1)

 

 

     十

 

 前に「芥川は、私をたずねてくると、二分の一か三分の一ぐらいの割りで、私をつれだして、私をどこかへ案内した。そうして、芥川と私と一しょに行ったのは殆んど坐〔すわ〕る所であり、そのすわる所の三分の二はたべ物屋である、」と書いたが、それは少〔すこ〕しまちがいで、十分の六ぐらいがたべ物屋で、十分の四ぐらいは特別の家であった、と訂正しておく。

 

 さて、ある日、芥川は、上野の公園をおりて、『山下〔やました〕』と云われるところの、今の永藤〔ながふじ〕パン屋のある辺〔へん〕の、一間半〔けんはん〕ぐらいの間口〔まぐち〕の牛肉屋に、私を案内した。一間半ぐらいの狭い間口で、たしか、三階建〔だ〕てであったから、その家は、両側の家から挾まれ押しつけられて、痩〔や〕せ細ったように見えた。

 

 芥川は、その家にはいる前に、ちょっと立ちどまって、例の独得の微笑を頰にうかべながら、「どうだ、おもしろい家〔うち〕だろう、」と、自慢するように、云った。それから、その家の二階の座敷におちつくと、芥川は、「この内は、東京で一番うまい肉屋だよ。……それから、この家〔うち〕は、この四畳〔じょう〕半の部屋が大きい方〔ほう〕で、ほかには四畳半と三畳しかないんだよ、……おもしろいだろう、」と、また、自慢するように云って、にやにや笑った。(しかし、私は、その肉屋が、はたして、東京一のうまい家〔うち〕かどうか、疑わしく思った、そうして、芥川は、むしろ、この細長い家に芥川流の興味をもっているのではないか、と思った。)

 

 その細長い家の牛屋に行ってから半月〔はんつき〕ほど後、芥川は、こんどは、「今日〔きょう〕は、鰻を、くいに行こう、」と云って、京橋で電車をおりて、左の方へあるき出〔だ〕した。そうして、あるきながら、「これから行く『小松』(たしか『小松』と云った)という鰻屋は、東京で一番うまい家だが、長いあいだ待たすのでも、有名なんだ、だから、僕は、一人でゆく時は、本をよんで待っているんだ、……本をよんで鰻の焼けるのを待っているんだよ、君〔きみ〕……この前ひとりで行った時は君のすきな、アアサア・シモンズの“Studies in Seven Arts〔スタッデイイズ イン セブン アアツ〕”を持って行ったんだが、あの本の中〔なか〕で一ばん長い『リヒヤルト・ワグネルの観念』を読んでしまっても、まだ鰻を持ってこないんだ、それで、そのつぎに長い『ロダン』を読んでいると、『ロダン』を半分ぐらい読んでいる時に、やっと持って来たよ、……君、『ワグネル』は八十ペイジぐらいで、『ロダン』は三十ペイジぐらいだから、百十五ペイジ分〔ぶん〕ぐらい待たされた事になるんだ、……君、そのくらいの覚悟をしなければ、今日〔きょう〕の鰻は食えないんだから、今から覚悟をしときたまえごと、云った。『小松』は、しもた屋のような、地味〔じみ〕な構〔かま〕えの、小〔ちい〕さな、家であった。その『小松』の二階の小さな座敷で、鰻の焼けてくるのを待っている間〔あいだ〕に、私が、シモンズの、詩は、もとより、文芸評論を、このんで、読んでいるのに、いくらか反感を持っていた芥川が、持ち前のからかう気もちもあって、「……僕は、シモンズの、『シンボリスト・ムウヴメント』も、『ロマンティック・ムウヴメント』も、おもしろいとは思うけれど、あの気取ったような文章が気になるし、……」と云った。「かりに気どっているとしても、さすがにああいう詩を作った人だけに、あの文章はうまいじゃないか、……それに、流暢だし、……」と私がいうと、芥川は、それには答えないで、「……『フィギュアアズ・セヴュラル・センテュリイズ』の中にはいっているものでも、おもしろいのもあるけど、呆気〔あっけ〕ないのが随分〔すいぶん〕あるじゃないか、……それに、すこし穏健すぎるところもある、……」と、云った。「しかし、『ヸョン』を「ヸヨンは最初のモダン・ポエトであった、」などというのは、論の当否は別として、穏健どころか、ずいぶん思いきった論法じゃないか。」「しかし、あの本の中では僕は、『エレオノラ・デュウゼ』を取るね。」「あれは、あの本じゃないよ、『セブン・アアツ』の中だ、……あれは、おもしろいが、君ごのみだね、……、……君はデュウゼみたいな女優がすきだろう。……もっとも、僕も、サラ・ベルナアルより、デュウゼの方がすきだな、ダンヌンチヨが夢中になったのも、無理はない、と思うね。」(後記――『小松』は『小満津』か。) 

 

 ふしぎな事に、私は、芥川に本を借りた事は一度もないが、めずらしく、私が芥川に本を貸した事がある。それは、ある日、芥川が、私の家に来た時、「……君、シモンズの、何とかいう、イタリイの紀行文のようなものと、パリの何〔なん〕とかいう随筆か評論のようなものがあったね、あれを、持ってる、持ってたら、貸してくれないか、」と云ったからである。『イタリイの紀行文のようなもの』とは“City of Italy”のことであり、『パリの何とか』とは、“Colour Studies in Paris”のことである。そうして、『パリの……』の中には、『モンマルトゥルとラティン区』とか『パリとパウル・ヴェルレエヌの覚書〔おぼえがき〕』とか、いう文章がはいっている筈なので、私は、この二冊の本を貸す時、「これも、おもしろいから、読んでみたまい、」と云って、ヴァンス・トムソンの“French Portraits”を添えた。この本には、マラルメ、ヴェルレエヌ、カテュウル・マンデス、ジャン・モレアス、レニエ、メリル、その他のフランスの詩人のほかに、ベルギイの、ヴェルハアレン、マアテルリンク、ロオデンハッハ、その他の詩人たちの事を、それらの詩人の詩を引用しながら、おもしろおかしく、書いてあるからである。

 

 ところで、芥川は、それから数日後に、それらの三冊の本をかえしに来て、「君のいうとおり、みなおもしろかったが、僕には『マウリス・バレスと利己主義』が一番おもしろかった、それから、あの本の中にある、いろいろな詩人をかいた、ヴァロットンの漫画のうまいのにはおどろいたな、ちょいと通俗味のあるのが気になるが、……」と云った。「……僕は、やっぱり、はじめの方〔ほう〕の『ヴェルレエヌの印象』と『ステファン・マラルメ』が圧巻だと思う、」と私は云った。

 

 ところが、それから一〔ひ〕と月〔つき〕ほど後、芥川は、私をたずねて来て、いつものように、文学談を一〔ひ〕と頻〔しき〕りしてから、「君、出ないか、」と云った。そこで、表〔おもて〕に出ると、芥川は、電車の停留場の方へあるく道で、「今日〔きょう〕はうまい日本料理を食おうか、」と半分ひとり言〔ごと〕のようにいって、その日は、日本橋の『中華亭』という贅沢〔ぜいたく〕な日本料理屋に、私を、案内した。

 

電車をおりた時はすでに日が暮れていた。白木屋の横の狭い露地をはいった時、私は、両側にさまざまなたべ物屋がならんでいるのを見て、ははあ、ここが有名な『食傷新道〔しょくしょうじんみち〕』だな、と覚〔さと〕った。私より一歩〔いっぽ〕ばかり先きをあるいていた芥川は、その食傷新道の中程の右側の、墨で『中華亭』と書いた行燈の出ている家の中〔なか〕に、さっさと、はいって行った。

 

 さて、その『中華亭』の二階の座敷で、二人が、高級の日本科理をたべながら、何〔なに〕かの話に夢中〔むちゅう〕になっていた最中〔さいちゅう〕に芥川が、突然、

 

 「君〔きみ〕、トムソンは『養鷄法』の本を出しているよ、」と、云った。

 

 これは、ヴァンス・トムソンという、日本ではまったく無名の、名を忘れてしまっていた時分であるから、私は、はじめ、ちょっと何〔なん〕の事かわからなかったが、すぐ、トムソンは私のふだん愛読している『フレンチ・ポオトレエツ』の著者であることに気がついて、何〔なん〕ともいえぬイヤアな気した。が、すぐ例の芥川の『嫌〔いや〕がらせ』だ、と気がついたので、又〔また〕かとは思ったけれど、私は、咄嗟に、

 

「それは、ちがう、同名異人だよ、」と、すこし強い調子で、いった。

 

すると、芥川は、私がはじめて見る、きまりのわるそうな、しょげた、顏をして、それには答えずに、聞きとれないような低い声で、

 

「どうも、この家〔うち〕は、僕には、『鬼門〔きもん〕』だ、」と、云った。 

 

[やぶちゃん注:「アアサア・シモンズ」アーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons 一八六五年~一九四五年)はイギリスの詩人・文芸批評家・雑誌編集者。以下、ウィキの「アーサー・シモンズ」から引用する(数字を漢数字化した)。『十七歳でロバート・ブラウニング作品批評を』『発表、ブラウニング協会の会員とな』り、一八八〇~一八九〇年代には『時代を代表する複数の文芸雑誌に文学、舞台、美術、音楽と多岐にわたる芸術分野に関する批評、エッセイを執筆する一方』、“Days and Nights”(一八八九年)、“Silhouettes”(一八九二)、“London Nights”(一八九七)といった『詩集もたてつづけに発表している』。一八九六年には『文芸編集シモンズ、美術編集オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)という組み合わせで、芸術と文学の融合を目指した定期刊行物The Savoyを発行』、『その斬新かつ国際色豊かな執筆陣と内容は「前衛的な」と呼ぶにふさわしい内容であった』。『一八九九年、文芸批評代表作のひとつThe Symbolist Movement in Literature』(「象徴主義の文学運動」)を発表、これは『フランス、ベルギーですでに萌芽していた新しい文学運動をいち早く英語圏に紹介した批評集として』、エリオット、エズラ・パウンド、ジョイスといった『二十世紀のモダニズム作家達にも多大な影響を与えた』。『日本でも大正期の象徴派詩人に多大な影響を与えたことで知られる』。本邦での最初の邦訳は岩野泡鳴訳の「表象派の文学運動」(大正二(一九一三)年)であった。『ジプシーの生活に憧れ、外国語に堪能で旅を愛したシモンズは、数多くの旅行記も発表して』おり、“Cities”(一九〇三年)、この芥川との会話の中にも登場する“Cities in Italy”(一九〇七)などがある。『印象派詩人と評されることの多いシモンズらしい、眼に映る光景を個人の心象風景とともに色鮮やかに綴るスタイルは、同時に文学や美術の批評家としての側面も伺える独自の魅力を有している』。

 

「ヸョン」は十五世紀フランスの放蕩詩人フランソワ・ヴィヨン(François Villon 一四三一年?~一四六三年以後?)中世最大の詩人にしてシモンズの言うように最初の近代詩人とも称される。

 

「エレオノラ・デュウゼ」はイタリアの舞台女優エレオノーラ・ドゥーゼ(Eleonora Duse 、一八五八年~一九二四年)。ダンヌンツィオの戯曲やサラ・ベルナールの当たり役をイタリア語で演じてひのき舞台に出る。以下のウィキの「エレオノーラ・ドゥーゼ」によると(アラビア数字を漢数字に変更した)、『一八九五年に彼女はダヌンツィオの元を訪れ、共働して仕事に取り組んでゆくうちに二人のあいだにはロマンスが芽生えていった。しかし、ダヌンツィオが『死都』 ("La Città morta") の主役をドゥーゼではなくサラ・ベルナールに与えたため二人は猛烈な大喧嘩をし、ドゥーゼはダヌンツィオとの関係に終止符を打った。ダヌンツィオが彼女のために書いた戯曲は四本残された』。『名声が高まりゆくのを歓迎したサラ・ベルナールの外交的な性格とは対照的に、ドゥーゼは内向的かつ個人主義的で、芸術家肌の演技によってしか自己を語ろうとはしなかった。この好対照の二人は、長年にわたるライバルであった。この二人がロンドンで数日と間を置かずに同じ戯曲を上演したことがあるが、両方を観劇する機会を得た人物の一人にバーナード・ショーがいる。ショーはドゥーゼの方を高く買い、伝記作家のF. Winwarにも引用された断固たる賛辞を曲げなかった』。『ドゥーゼの伝記作家F.Winwarは、ドゥーゼはほとんど化粧をしなかったが「道徳的な装いをまとっていた。言い換えれば、自分の性格に潜む内的な衝動や悲しみや喜びが、自分の体を表現のための媒体として用いるがままにさせておき、それはしばしば彼女自身の健康を損なうほどであった」』と記している。『感情を伝達するために既成の表現法を用いていたそれまでの俳優に対して、ドゥーゼは先駆者として新しい表現を生み出した。彼女が「自己の滅却」と呼んでいた技法で、自分の描き出そうとする登場人物の内面に心を通じ合わせ、表現を自ずから湧き起こらせるというもので』、『一九〇九年に一度引退しているが、一九二一年にはアメリカとヨーロッパで契約を結んで舞台に復帰している』。後掲される南部修太郎と秀しげ子の邂逅事件大正十(一九二一)年九月二十四日よりも優位に後であることが判っているから、この会話時、デユウゼはカム・バックしていた。

 

「サラ・ベルナアル」サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年)はフランスの舞台女優。ウィキの「サラ・ベルナール」によれば(アラビア数字を漢数字に変更した)。一八六二年に満二二歳でデビュー『一八七〇年代にヨーロッパの舞台で名声を得ると、間もなく需要の多い全ヨーロッパとアメリカでも名声を得た。彼女は間もなく真面目な演劇の女優としての才能も現し、「聖なるサラ」との名を博した。恐らくは十九世紀の最も有名な女優』と言える。『一九一四年、レジオンドヌール勲章を授与され』たが、一九〇五年に上演中の舞台で右脚を負傷、一九一五年には『右脚を切断し、数ヶ月の間車椅子に座ったままだった。それでも彼女は、木製の義足を必要としたにもかかわらず、仕事を続けた』という。

 

「ダンヌンチヨ」ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 1863年~1938年)はイタリアの詩人・作家・劇作家。彼の文学は『その高い独創性、力強さおよびデカダンスが高く評価されていたし、同時代の全ヨーロッパ文壇、また後世のイタリア作家たちに多大の影響を与えた』が、国家主義者としてイタリア・ファシスト運動の先駆者でもあったため、彼の世紀末の印象的な『作品群は現在では忘れ去られつつある感がある』(引用は参考にしたウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」より)。

 

「小満津」が正しい。食通大路魯山人の「魯山人の食卓」に鰻の上手い店の一つとして紹介されている。京橋にあったが後に閉店、ブランクを経て、現在、高円寺に場所を変えて再開している。

 

「ヴァンス・トムソン」ヴァンス・トンプソン(Vance Thompson 一八六三年~一九二五年)はアメリカの文芸評論家・小説家・詩人。一九〇〇年に刊行された“French Portraits: Being Appreciations of the Writers of Young France”はヨーロッパ・サンボリスムを解析した彼の代表的な評論。

 

「カテュウル・マンデス」カチュール・マンデス(Catulle Mendès 一八四一年~一九〇九年)はフランスの詩人・評論家。フランス初期のワグネリアンの一人として知られ、バイエルン王ルートヴィヒ二世とワーグナーを描いた長編小説“Le Roi vierge”(「童貞王」)』(一八八〇年)がある。

 

「ジャン・モレアス」(Jean Moréas 一八五六年~一九一〇年)、一八八六年に“Le
Symbolisme
”(「象徴主義宣言」)を起草した詩人。上田敏の「海潮音」に「賦〔かぞへうた〕」が載る。

 

「メリル」スチュアート・メリル(Stuart Merrill 一八六三年~一九一五年)はアメリカ出身の詩人。1890年よりフランスに移ってサンボリスムの理論家の一人となる。代表作に“Pastels in prose”(「散文によるパステル画」一八九〇年刊)、“Les Quatres Saisons”(「四季」一九〇〇年刊)。

 

「ヴェルハアレン」エミール・ベルハーレン(Émile Verhaeren 一八五五年~一九一六年)はフランス語で執筆活動をしたベルギーの詩人。当初はフランドルの自然を讃えた自然主義的抒情詩を創っていたが、一八八八年から九〇年にかけて出版した「夕暮」「壊滅」「黒い炬火〔たいまつ〕」の三部作の詩集では死と幻想のサンボリスムへと沈潜した。後には社会主義的傾向へと傾いた。

 

「ロオデンハッハ」ジョルジュ・ローデンバッハ(Georges Rodenbach 一八五五年~一八九八年)はベルギーの詩人・小説家。私の愛読書である幻想文学の金字塔「死都ブリュージュ」の作者。

 

「マウリス・バレス」モーリス・バレス(Maurice Barrès 一八六二年~一九二三年)はフランスの小説家・ジャーナリスト。ウィキモーリス・バレスによれば、『ナショナリズムや反ユダヤ主義などの視点による政治的発言でも知られ、フランスにおけるファシズムの思想形成に大きな役割を果たした』とあり、『政治思想では対照的なアナトール・フランスと人気を競』って、二十世紀前半のフランス知識人階級に影響を与える。代表作は観念小説三部作「自我礼拝」であるが、『日本では政治的立場の為か訳書が少なく、人気は余りない』とある。

 

「ヴァロットン」は恐らくスイス生まれの画家フェリックス・ヴァロトン(Felix Vallotton 一八六五年~一九二五年)。1882年にパリに出、ナビ派の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した。ルナールの「ん」の印象的な挿絵は彼が描いている(リンク先は私のテクストでヴァロトンの挿絵もある)。

 

「中華亭」不詳。日本料理でこの名前、識者の御教授を乞う。

 

「食傷新道」現在の中央区日本橋一丁目附近、今は完全な高層ビル街に変貌して往時の印象は全くない。前注に記した白木屋は後に東急百貨店となり、更にその跡地に現在は「コレド日本橋ビル」がある。このコレドと、左側にある西川ビルの間の今や何の変哲もない細い通りが、「白木屋の横町」「木原店」と呼ばれ、左右共に美味の評判高い小飲食店が目白押しに建ち並んでいた。ここは江戸時代、文字通り通一丁目として、江戸で最も繁華な場所で、明治のこの頃は未だその面影が残っており、東京一の飲食店街として浅草上野よりも知られた通りであった。俗に「食傷通り」、ここで宇野が言うように「食傷新道」などとも呼ばれた。

 

「トムソンは『養鷄法』の本を出しているよ」確認は出来なかったが、ヴァンス・トンプソンの英語版のウィキを見ると、食生活関連の叙述を残していることが知られており、彼がこうした著作を書いていないとは言えない。

 

「どうも、この家は、僕には、『鬼門』だ」は次の段で明らかになる。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (2)

 私は村人の興味をつなぐ何か新しい物をと思つて、今年はヴァイオリンを携へて來た。彼等に幾つかの曲を彈いた。併し私のわかる限りでは、現代の音樂はその珍しさのために、熱心には聞くがわからないらしい。愛蘭土の歌「アイリーン・オルーン」[可愛いゝアイリーンの意]のやうな物をより多く喜び、「ブラック・ローグ」――島で知られてゐる――のやうな舞踏曲を彈く時のみ、その調子の意味が彼等にしつくり來るらしい。昨夜、私は島の方方から他の目的で集まつて來た大勢の人達のために演奏した。

 六時頃、學校の先生の家へ行く途中で、西の方の道の下にある家の近くで一人の女と一人の男が激しく言ひ合つてゐる聲が聞こえた。それを聞いてゐる間に、幾人かの女が石垣の後からこれも聞きに下りて來た。そして私に語つたが、その爭つてゐた人達は近しい親戚の人で隣同志に住んでゐて、次の日は又もと通りの仲よしになるのだが、些細なことから時時口論するさうである。

 聲が餘り激しいので、何か間違ひでも起るかと思つたが、そんな事はないと女達は笑つてゐた。それから一寸中休みとなつたので、遂に終つたやうだと私が云ふと、

 「終つたのですつて!」一人の女が云つた。「まだ本當に初まつてないのですよ。まだふざけてゐるだけなのです。」

 日沒後で、非常に寒かつた。それで私は家の中にはひり、彼等と別れた。

 一時間の後、爺さんが宿から來て、幾人かの少年と「ファル・リーオンタ」(網の男――少年達に網繕ひを教へるアランモアの若い男)が上の家に來てゐて、私が歸つて音樂をすれば踊りたいといふことを告げに彼をよこしたと云つた。

 私は直ぐに出かけた。外氣にあたつたと思ふと、喧嘩がまだ西の方で、前より一層激しく行はれてゐるのを聞いた。此のしらせが島中に傳はつて、男女の可愛いい子供連中まで丁度競馬場へ行くやうに、一生懸命に喧嘩の現場の方へ道を驅けて行つた。

 私は宿の戸口で一寸立止つて、罵る聲が島の靜けさを通して折重つて起るのに耳傾けた。それから茶の間にはひつて行き、少年達が私の音樂をしきりに待つてゐるので、ヴァイオリンの調子を合はせ初めた。最初立つて彈かうと思つたが、弓を上へ押すと棰木からぶら下つてゐる鹽魚や雨合羽に觸はるので、邪魔にならないやうに、隅のテーブルの上に座を占め、臺を持つてゐなかつたので、音譜を一人の男に支へて貰つた。最初、皆を馴染ますために、また土間と頭の上の藁屋根との間の反響の少い部屋の效果に慣れるために、フランスの曲を彈いた。それから「ブラック・ローダ」を彈き初めた。すると直ぐに、煙突の下の腰掛から背の高い男が躍り出して、獨特な確かさで而かも優しみのある伊達な身振で、茶の間を飛び廻り出した。

 革草鞋の輕いために、此の島の踊りは本土では見たこともないほど、輕快でまた敏捷である。また人の純樸なために、歩調に巧まない奔放さを入れることが出來る。これは、人が自意識を持つてゐる處では不可能なことである。

 併し速度が激しかつたので、私の練習してない指ではついて行くのに骨が折れ、また演じられてゐる事を見ようと少しの注意をそらす事も出來なかつた。彈き終ると、戸口の處が騷騷しくなつた。喧嘩を見に行つた連中が全部茶の間の中へぞろぞろはひつて來たのである。彼等は壁の周りに列を作り、女達や娘の子は例の如くぎつしりとかたまつて扉の近くに中腰にしやがんだ。

 私は今一つの舞踏曲――「バディ起きよ」――を彈き初めた。すると「ファル・リーオンタ」と最初の踊り手が一緒になつて、はひつて來た人たちの前で興奮したやうに、前よりも一層早く且つ優美に、それをやり通した。それから「小さいロージャー」と呼ばれる老人が外にゐると誰云ふともなく云ひ出した。その人は昔島一番の踊り手であつたさうである。

 彼は年を取つて踊れないと云つて、長い間はひるのを拒んだが、遂にくどき落されて、中に入り、私の向ひ側に席を占めた。彼を踊らせるにはなかなか時間がかかつたが、踊つた時は大喝采を博した。併し、踊つたのは一寸の間に過ぎなかつた。彼は私の本にあるやうな舞踏曲は知らないと云つた。また知らない音樂に合はせて踊りたくはないと云つた。皆がもう一度と彼を促した時、私の方を向いた。

 「ジョン、『ラリー・グロガン』を持つてかるかね? 愉快な曲だがね。」と震へる英語で云つた。

 私は持つてゐなかつたので、若い人たちがもう一度、「ブラック・ローグ」に合はせて踊つた。

 それから集りは散會した。口論は下の家で、まだやつてゐる。人人はどんなになつたかと、氣をもんでゐた。

 十時頃、或る若者が來て、喧嘩は納まつたと知らせた。

 「これで四時間やつたんだからね。」彼は云つた。「草臥れてしまつてるよ。草臥れる筈だあね。何しろあのがなり立てる聲を聞くよりは、豚殺(ぶたごろし)の聲を聞いた方がどのくらゐましだか知れないからね。」

 踊つたり騷いだりした後なので、私たちは興奮して眠れなかつた。それで長い間、炭火の燃えさしを取圍んで坐りながら、蠟燭の燈の傍で話をしたり、煙草をふかしたりしてゐた。

 話は普通の音樂のことから、妖精の音樂のことに移つて行き、私のいくつかの話が終つた後で、次のやうな話を彼等はした。――

 

 或る日、村の向うの端に住んでゐた一人の男が鉄砲を手に入れて、小さな砦の丘近くのしげみの中に兎を探しに出かけた。一匹の兎が木の下に立つてゐるのを見て、それを撃たうと、鐵砲を取り上げたが、丁度狙ひを定めた時、頭の上で音樂のやうな物を聞いたので、空を見上げた。兎はと見返ると影も形も見えなかつた。

 その男はその後を追つて行くと、音樂がまた聞こえた。

 それで石垣見上げると、一匹の兎がその傍に坐つて、笛のやうなものを口に當てて、二本の指でそれを吹いてゐた。

 

「どんな兎だつたかね?」話が終ると、お婆さんが聞いた。「どうしたつて、それは本當の兎の筈はないだらう。パット・ディレイン爺さんがいつも云つてたのを憶ひ出すがね。あの人が或る時崖の上に行つたのさ。すると、板石の下の穴の中に、一匹の大きな兎が坐つてゐるのを見たさうだ。連れの男を呼んで、杖の先に鈎を附け、それを穴の中へさし込んだ。するとこんな聲で呼びかけた者があつた。――

 『ああ、ファドリック、鈎で私を傷つけるなよ!』

 「パットはひどい惡戲者(いたづらもの)つたよ。」爺さんは云つた。「よく杖の先に角を柄のやうにつけてゐたのを憶えてるだらう? 或る日坊さんがやつて來て、パットに云ふには、――

 『パット、お前の杖に附いてるのは惡魔の角ぢやないかね?』

 『何んだかよくは知りませんがね。』パットは言云つた。『これが惡魔の角なら、あんたも生れて生まれてから飮んでるのは惡魔の乳だし、あんたの食つてるのは惡魔の肉だし、あんたのパンに附けるのは惡魔のバターです。何しろ、こんな角は國中のどんな年取つた牝年の頭にもくつ附いてゐますからね。』」

 

 

 

This year I have brought my fiddle with me so that I may have something new to keep up the interest of the people. I have played for them several tunes, but as far as I can judge they do not feel modern music, though they listen eagerly from curiosity. Irish airs like 'Eileen Aroon' please them better, but it is only when I play some jig like the 'Black Rogue'--which is known on the island--that they seem to respond to the full meaning of the notes. Last night I played for a large crowd, which had come together for another purpose from all parts of the island.

About six o'clock I was going into the schoolmaster's house, and I heard a fierce wrangle going on between a man and a woman near the cottages to the west, that lie below the road. While I was listening to them several women came down to listen also from behind the wall, and told me that the people who were fighting were near relations who lived side by side and often quarrelled about trifles, though they were as good friends as ever the next day. The voices sounded so enraged that I thought mischief would come of it, but the women laughed at the idea. Then a lull came, and I said that they seemed to have finished at last.

'Finished!' said one of the women; 'sure they haven't rightly begun. It's only playing they are yet.'

It was just after sunset and the evening was bitterly cold, so I went into the house and left them.

An hour later the old man came down from my cottage to say that some of the lads and the 'fear lionta' ('the man of the nets'--a young man from Aranmor who is teaching net-mending to the boys) were up at the house, and had sent him down to tell me they would like to dance, if I would come up and play for them.

I went out at once, and as soon as I came into the air I heard the dispute going on still to the west more violently than ever. The news of it had gone about the island, and little bands of girls and boys were running along the lanes towards the scene of the quarrel as eagerly as if they were going to a racecourse. I stopped for a few minutes at the door of our cottage to listen to the volume of abuse that was rising across the stillness of the island. Then I went into the kitchen and began tuning the fiddle, as the boys were impatient for my music. At first I tried to play standing, but on the upward stroke my bow came in contact with the salt-fish and oil-skins that hung from the rafters, so I settled myself at last on a table in the corner, where I was out of the way, and got one of the people to hold up my music before me, as I had no stand. I played a French melody first, to get myself used to the people and the qualities of the room, which has little resonance between the earth floor and the thatch overhead. Then I struck up the 'Black Rogue,' and in a moment a tall man bounded out from his stool under the chimney and began flying round the kitchen with peculiarly sure and graceful bravado.

The lightness of the pampooties seems to make the dancing on this island lighter and swifter than anything I have seen on the mainland, and the simplicity of the men enables them to throw a naïve extravagance into their steps that is impossible in places where the people are self-conscious.

The speed, however, was so violent that I had some difficulty in keeping up, as my fingers were not in practice, and I could not take off more than a small part of my attention to watch what was going on. When I finished I heard a commotion at the door, and the whole body of people who had gone down to watch the quarrel filed into the kitchen and arranged themselves around the walls, the women and girls, as is usual, forming themselves in one compact mass crouching on their heels near the door.

I struck up another dance--'Paddy get up'--and the 'fear lionta' and the first dancer went through it together, with additional rapidity and grace, as they were excited by the presence of the people who had come in. Then word went round that an old man, known as Little Roger, was outside, and they told me he was once the best dancer on the island.

For a long time he refused to come in, for he said he was too old to dance, but at last he was persuaded, and the people brought him in and gave him a stool opposite me. It was some time longer before he would take his turn, and when he did so, though he was met with great clapping of hands, he only danced for a few moments. He did not know the dances in my book, he said, and did not care to dance to music he was not familiar with. When the people pressed him again he looked across to me.

'John,' he said, in shaking English, 'have you got "Larry Grogan," for it is an agreeable air?'

I had not, so some of the young men danced again to the 'Black Rogue,' and then the party broke up. The altercation was still going on at the cottage below us, and the people were anxious to see what was coming of it.

About ten o'clock a young man came in and told us that the fight was over.

'They have been at it for four hours,' he said, 'and now they're tired.

Indeed it is time they were, for you'd rather be listening to a man killing a pig than to the noise they were letting out of them.'

After the dancing and excitement we were too stirred up to be sleepy, so we sat for a long time round the embers of the turf, talking and smoking by the light of the candle.

From ordinary music we came to talk of the music of the fairies, and they told me this story, when I had told them some stories of my own:--

A man who lives in the other end of the village got his gun one day and went out to look for rabbits in a thicket near the small Dun. He saw a rabbit sitting up under a tree, and he lifted his gun to take aim at it, but just as he had it covered he heard a kind of music over his head, and he looked up into the sky. When he looked back for the rabbit, not a bit of it was to be seen.

He went on after that, and he heard the music again.

Then he looked over a wall, and he saw a rabbit sitting up by the wall with a sort of flute in its mouth, and it playing on it with its two fingers!

 

 

 

'What sort of rabbit was that?' said the old woman when they had finished. 'How could that be a right rabbit? I remember old Pat Dirane used to be telling us he was once out on the cliffs, and he saw a big rabbit sitting down in a hole under a flagstone. He called a man who was with him, and they put a hook on the end of a stick and ran it down into the hole. Then a voice called up to them--

"Ah, Phaddrick, don't hurt me with the hook!"

'Pat was a great rogue,' said the old man. 'Maybe you remember the bits of horns he had like handles on the end of his sticks? Well, one day there was a priest over and he said to Pat--"Is it the devil's horns you have on your sticks, Pat?" "I don't rightly know" said Pat, "but if it is, it's the devil's milk you've been drinking, since you've been able to drink, and the devil's flesh you've been eating and the devil's butter you've been putting on your bread, for I've seen the like of them horns on every old cow through the country." '

 

[やぶちゃん注:本パートは妖精譚を挟み、有意な行空けが底本及び原文にもあるが、全体が一つのシークエンスとなっているので纏めて採った。

「ヴァイオリン」原文は“fiddle”。以下、ウィキの「フィドル」から引用する。『フィドル(英語 fiddle, ドイツ語 Fiedel)は弓を用いて演奏する擦弦楽器のうち、ヴァイオリンを指す名称である。主にフォークミュージック、民族音楽で使われるヴァイオリンを指す。一方、英語のViolinの俗語でFiddleが使われることがあり、この場合、クラシックで使われるヴァイオリンにも使われる』。『元々イタリアで生まれたとされるヴァイオリンという言葉は、イタリア語から派生した言葉であり、フィドルは英語である』。『ヴァイオリンとフィドルの構造はまったく一緒だが、次の言葉が両者の違いを良く示している。「ヴァイオリンは歌う、しかしフィドルは踊る」「フィドルにビールをこぼしてもだれも泣くものはいない」』。『ソロの演奏が多い。また、二挺のフィドル演奏は多くの北アメリカ、スカンジナビア地方、アイルランド(アイリッシュスタイル)で見られる。フィドルの演奏は、巨大な民族及びフォークミュージックの伝統によって形作られ、各々が特色のある音を持っている』。なお、シングのヴァイオリンを甘く見てはいけない。シングは1888年にトリニティ・カレッジに入学後は主に音楽を学び、1892年に卒業後はプロの音楽家を目指してドイツへ留学しているのである。

「アイリーン・オルーン」“Eileen Aroon”十四世紀に生まれたアイルランド民謡の甘い恋歌であるが、かのバロックの巨匠ヘンデルが絶賛したという。「You tube」などで聴くことが出来る。

「ブラック・ロウグ」“Black Rogue”の“Rogue”は、親しみを込めた「しょうがない奴・悪戯っ子・腕白小僧」、古風に「悪漢・ごろつき・詐欺師」、「浮浪者」、群れを離れた「はぐれもの・はみ出し者」と言った、ある意味、アイルランド人好みのキャラクターを示す語である。それにダメ押しの「黒」であるから、「悪たれ餓鬼んちょ黒っ子」といった感じか。やはり「You tube」などで聴くことが出来る。所謂、典型的な陽性のアイルランド・ジグである。

「バディ起きよ」“Paddy get up”。不詳。私が見つけた「You tube」の“Irish Arsenal Song 'By Jesus said Paddy'”とは別物か。これは軍歌らしく、バーで酔った男連中が只管、シャウトしているばかりで、踊りを合わせられそうなものではない。

「ラリー・グロガン」“Larry Grogan”。不詳。人名である。参考までに、後に、アイルランド共和国軍(IRA)に属し、アイルランド共和党の活動家となった政治家にラリー・グローガン(Labhras Gruagain 1899年~1979年)なる人物がいる。

「ファドリック」原文は“Phaddrick”。これは通称「パット」爺さんの本名である。アイルランドの聖人パトリキウスにちなんでアイルランド人に多い男性名であるが、通常は“Patrick”「パトリック」と綴る。極めて特異で、これで検索をかけると正にシングの「アラン島」のこの台詞がごっそり検索にかかってしまう。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (1)

   第 四 部

 

 此の群島へ二度旅をすれば二度とも變つたことに出遇ふ。今朝、私は五時少し過ぎ、灣の上には星が輝いて空氣の冷い中を汽船で出發した。多くのクラダの漁夫達は港から程遠くない處で夜通し釣に出てゐた。そして彼等は汽船のことを考へずに、恐らく考へることを好まずに、その通る道筋の海峽の中へ網を張つてゐた。出發の直前、運轉手が彼等を警告するために再三、汽笛を鳴らした。鳴らしながら、こんな事を云つた。――

 「皆さん、今、灣の中へ出て行くと、素晴らしい祈り聲を聞きますよ。」

 少し行くと漁夫の持つてゐる泥炭の火が、波間に見えつ隱れつするのが見え出し、恕つてゐる聲がかすかに聞こえ出した。そのうち大きな漁船の形が闇の中に現はれて來た。甲板に立つてゐる三人の人影が、こちらに向つて、航路を變へてくれと吠えるやうに呶鳴つてゐた。船長は海峽近くに砂洲があるので、脇へそれるのを恐れた。それで機關を止めて網の上をそれを害せぬやうに、靜かに通り過ぎる。船の直ぐ近くを通りながら、船頭達が甲板にゐるのがよく見える。一人は赤い泥炭の鉢を手に持ち、罵る聲ははつきりと聞こえた。それはゲール語の言葉數の多い呪詛から英語で知つてゐる簡單な怨言へ、絶えず變化した。物を云ひながら恕りに身をくねらし、悶えてゐるのが、海の小波の上に次第に明くなり初める光を背景にしてよく見えた。それから直ぐ後も、また幾人かの共に叫ぶ聲が前の方に起り初めたが、薄れ行く星影、曉の靜けさに妙なとり合はせであつた。

 その先でも多くの小船に出逢つたが、海峽に網を張つてゐなかつたので、何んとも云はずに通してくれた。それから夜は、寒い時雨と共に明けて行つて、その時雨は、波の谷を面白い透明と明るさで充たす太陽の第一閃の中に金色に變つた。

 

 

NO TWO JOURNEYS to these islands are alike. This morning I sailed with the steamer a little after five o'clock in a cold night air, with the stars shining on the bay. A number of Claddagh fishermen had been out all night fishing not far from the harbour, and without thinking, or perhaps caring to think, of the steamer, they had put out their nets in the channel where she was to pass. Just before we started the mate sounded the steam whistle repeatedly to give them warning, saying as he did so--'If you were out now in the bay, gentlemen, you'd hear some fine prayers being said.'

When we had gone a little way we began to see the light from the turf fires carried by the fishermen flickering on the water, and to hear a faint noise of angry voices. Then the outline of a large fishing-boat came in sight through the darkness, with the forms of three men who stood on the course. The captain feared to turn aside, as there are sandbanks near the channel, so the engines were stopped and we glided over the nets without doing them harm. As we passed close to the boat the crew could be seen plainly on the deck, one of them holding the bucket of red turf, and their abuse could be distinctly heard. It changed continually, from profuse Gaelic maledictions to the simpler curses they know in English. As they spoke they could be seen writhing and twisting themselves with passion against the light which was beginning to turn on the ripple of the sea. Soon afterwards another set of voices began in front of us, breaking out in strange contrast with the dwindling stars and the silence of the dawn.

Further on we passed many boats that let us go by without a word, as their nets were not in the channel. Then day came on rapidly with cold showers that turned golden in the first rays from the sun, filling the troughs of the sea with curious transparencies and light.

 

[やぶちゃん注:「クラダ」原文“Claddagh”。はゴールウェイ西部海岸地域の呼称。ゲール語“An Cladach”は「石の多い浜」の意。アイルランド最古の漁村の一つであったが、現在はゴールウェイの最高級居住区に変貌してしまった。愛・友情・忠誠のシンボルとされる冠のついたハートを二つの手が握るクラダ・リングはここのクラダの伝統工芸品である(以上はウィキクラダ」を参照した)。]

ジョン・ミリングトン・シング 姉崎正見訳 アラン島 第三部 全

「心朽窩 新館」に『ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部』(ウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵 附やぶちゃん注)を公開した。

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (13) 第三部 了

 わし等はダブリンの波止場で、一人の男があちこち歩きながら、何んにも云はずに、こつちを眺めてゐるのを見た。するとその男はヨットの方へやつて來た。

 「あんた方はアランから來たんですか?」と聞いた。

 「さうです」とわし等は云つた。

 「私と一緒にお出でなさい。」 彼は云つた。

 「何故です?」わし等は云つた。

 すると彼はシングさんからの使だと云ふので、わし等は彼と一緒に行つた。シングさんはわし等を茶の間に通して、ウィスキーをーぱいづつ皆んなに振舞ひ、わしは子供だつたから――と云つてもわしはその時だつて、今だつて二人分を飮んでも、何ともないが――コップに半分くれた。暫く茶の間に居て、一人の男が行かうと云ふので、わしはシングさんに一言も挨拶をせずに行くのはいけないと云つた。すると女中が上に上つて行つて、下に呼んで貰つた。そしてまたウィスキーのコップを貰ひ、わしには、船乘にならうとしてゐて、又それが讀めると云ふので、愛蘭土語の本を一册くれた。

 わしはその後三十年間、一言だつて愛蘭土語を聞かなかつたが、此處へ歸つて來て島の誰にも負けずに、又それ以上に愛蘭土語を話せたのは、シングさんとその本のお蔭なのだ。

 

 彼の話から推して、彼は此の餘り知られてゐない言葉をよく知つてゐると云ふので、他の普通の船乘に對して優越感を持ち、それが彼の全性格へ影響し、又それが生活に於ける興味の中心になつてしまつたと私に考へられた。

 或る航海の時、仲間の水夫の中に、學校にゐて、ギリシア語を習つたことを時時鼻にかける者がゐた。それでこんな事件が起つた。――

 

 或る晩、喧嘩をした。わしは彼に口先のやうにギリシア語の本が讀めるのかと聞いてみた。

 「讀めるさ。」 彼は云つた。

 「そんなら、讀んで見ろ。」 わしはさう云つて、函から愛蘭土語の本を取り出して渡した。

 「ギリシア語を知つてるなら、これを讀んで見ろ。」 わしは云つた。

 彼はそれを取つて、と見かう見してゐたが、さつぱりわからない。

 「おや、ギリシア語は忘れちやつたぞ。」 彼は云つた。

 そこで本を取り返して、わしは云つた。――

 「それはお前さんが昔習つたギリシア語ぢやないんだ。此の本には、ギリシア語は一言も書いてない。だからわからないのさ。」

 

 また彼は航海中に、ただ一度だけ愛蘭土語を話すのを聞いたといふ話をした。

 

 或る晩、わしはニューヨークで他の男たちと街を歩いてゐると、酒屋の入口の前で二人の女が愛蘭土語で喧嘩をしてゐるのに出違つた。

 「何んたる寢言だらう?」一人の男が云つた。

 「あれは寢言ぢやない。」 わしは云つた。

 「ぢや何んだい?」彼は云つた。

 「愛蘭土語さ。」 わしは云つた。

 それからわしはその女達の方へ行つた。あんたも御承知の通り、愛蘭土語ほど人を慰め和らげるものはない。わしが女達に物を云ひかけると、直ぐにつかみ合ひも惡口も止めて、二匹の羊のやうにおとなしくなつた。

 それから、その女達はわしに中にはひつて、一杯やらないかと愛蘭土語で云ふので、わしは連れと別れる事が出來ないと云つた。

 「その人たちも連れて來なさい。」と女達は云つた。

 そこでわし等は皆んなして一杯やつた。

 

 私たちが話してゐると、他の男がそつとはひつて來て、パイプを銜へながら片隅に腰掛けた。

 雨は激しくなつて來て、鐵板の屋根の音で、私たちの聲は殆んど聞こえなかつた。

 爺さんは海上の經驗談やまた嘗つて訪れた土地の經驗談を話し續けた。

 「若しわしが生涯を再び繰り返すとしても、」彼は云つた。「これより他の生き方はない。わしはあらゆる處を訪れ、あらゆるものを見た。生涯の中で醉拂つたことはないけれども、盃を手にすることは決して恐れない。また金のためにトランプをやつたことはないけれども、わしはトランプの名人だつた。」

 「金のためにトランプをしなけりや面白味はない。」 片隅にゐた男が云つた。

 「金のためにトランプをしても、わしは駄目だ。」爺さんは云つた。「何故つて、始終負けてばかりゐたからさ。負けてばかりゐて、トランプをしたつて、何んにもなりやしない。」

 それから、話は愛蘭土語のこと、及びそれで書かれた本のことに移つて行つた。

 彼はムーアの「愛蘭土のしらべ」[Thomos Moore は愛蘭土の詩人、その詩集「Irish Melodies」は最も有名である]のマックヘール大僧正譯を英語と愛蘭土語の兩方で、その全體を讀みながら、嚴しく鋭く批評し初めた。それから彼自身の作つた譯を見せた。

 「飜譯が詩の言葉に伴つた音律を傳へないなら、それは飜譯ぢやない。」彼は云つた。「わしの譯には英語にない韻脚或は音節は一つも見つからないだらう。而かも言葉の意味は餘す所なく傳へ、足りない處はない。マックヘール大僧正の譯は一番つまらないものだ。」

 彼が引用した詩の句よりすると、その判斷は全く正しいやうであつた。たとへ間違つてゐるとしても、こんなつまらない船乘乃至夜番が忽ち昂奮して作詩法といふ稍々微妙な問題やゲール語のやうな古い言葉の細かい區別に關して、名高い高僧にして且つ學者なる人を批評しようとすることを思ふと、面白いことであつた。

 彼の秀いでた智慧や細かい觀察にもかかはらず、その推理は中世風であつた。

 私は此の島に於ける愛蘭土語の將來に就いて、彼の意見を聞いてみた。

 「それは決して亡び果てる事はありません。」彼は云つた。「何故つて、馬鈴薯畑の少しでもなければ、此處の家族たちは暮らして行けず、而かも其處で話す言葉は皆愛蘭土語ばかりを使つてゐるのだから。その人達は新しい船――漁船――を操る時は英語を使ふが、カラハを操る時は愛蘭土語を使ふ方が多い。畑では愛蘭土語ばかりだ。それは決して亡びはしません。非常に衰へたと見え出す時も、また不死鳥のやうにその死灰から甦るでせう。」

 「そしてゲーリック聯盟は?」私は聞いた。

 「ゲーリック聯盟! それは此處へもやつて來た。その設立者も、書記も、會合も演説も。そして支部が發會され、五週間半[やぶちゃん注:「五週間半」の頭右手にポイント落ちの「*」が附いている。]の間に澤山の愛蘭土語が教へられたぢやありませんか!」

 「此處で愛蘭土語を教へて、何する積りだらう?」隅の男が云つた。「我我は愛蘭土語を充分知つてゐるぢやないか?」

 「知つてやしない。」爺さんは云つた。「アランで英語を使はずに九百九十九まで數へ上げることの出來る者は、わしの外に一人だつてありやしない。」

 夜も更けて行き、雨は暫く小降りになつたので、私は秋の夜更けの深い闇の中を、手探りしながら宿へ歸つて行つた。

 

 これは數年前に書かれたといふことを考へててもらひたい(原著者註)。

[やぶちゃん注:この註は、底本では全体がポイント落ち。]

 

 

We saw a man walking about on the quay in Dublin, and looking at us without saying a word. Then he came down to the yacht. 'Are you the men from Aran?' said he.

'We are,' said we.

'You're to come with me so,' said he. 'Why?' said we.

Then he told us it was Mr. Synge had sent him and we went with him. Mr. Synge brought us into his kitchen and gave the men a glass of whisky all round, and a half-glass to me because I was a boy--though at that time and to this day I can drink as much as two men and not be the worse of it. We were some time in the kitchen, then one of the men said we should be going. I said it would not be right to go without saying a word to Mr. Synge. Then the servant-girl went up and brought him down, and he gave us another glass of whisky, and he gave me a book in Irish because I was going to sea, and I was able to read in the Irish.

I owe it to Mr. Synge and that book that when I came back here, after not hearing a word of Irish for thirty years, I had as good Irish, or maybe better Irish, than any person on the island.

 

 

I could see all through his talk that the sense of superiority which his scholarship in this little-known language gave him above the ordinary seaman, had influenced his whole personality and been the central interest of his life.

On one voyage he had a fellow-sailor who often boasted that he had been at school and learned Greek, and this incident took place:--

One night we had a quarrel, and I asked him could he read a Greek book with all his talk of it.

'I can so,' said he.

'We'll see that,' said I.

Then I got the Irish book out of my chest, and I gave it into his hand.

'Read that to me,' said I, 'if you know Greek.'

He took it, and he looked at it this way, and that way, and not a bit of him could make it out.

'Bedad, I've forgotten my Greek,' said he.

'You're telling a lie,' said I. 'I'm not,' said he; 'it's the divil a bit I can read it.'

Then I took the book back into my hand, and said to him--'It's the sorra a word of Greek you ever knew in your life, for there's not a word of Greek in that book, and not a bit of you knew.'

 

 

He told me another story of the only time he had heard Irish spoken during his voyages:--

One night I was in New York, walking in the streets with some other men, and we came upon two women quarrelling in Irish at the door of a public-house.

'What's that jargon?' said one of the men.

'It's no jargon,' said I.

'What is it?' said he.

'It's Irish,' said I.

Then I went up to them, and you know, sir, there is no language like the Irish for soothing and quieting. The moment I spoke to them they stopped scratching and swearing and stood there as quiet as two lambs.

Then they asked me in Irish if I wouldn't come in and have a drink, and I said I couldn't leave my mates.

'Bring them too,' said they.

Then we all had a drop together.

 

 

While we were talking another man had slipped in and sat down in the corner with his pipe, and the rain had become so heavy we could hardly hear our voices over the noise on the iron roof.

The old man went on telling of his experiences at sea and the places he had been to.

'If I had my life to live over again,' he said, 'there's no other way I'd spend it. I went in and out everywhere and saw everything. I was never afraid to take my glass, though I was never drunk in my life, and I was a great player of cards though I never played for money'

'There's no diversion at all in cards if you don't play for money' said the man in the corner.

'There was no use in my playing for money' said the old man, 'for I'd always lose, and what's the use in playing if you always lose?'

Then our conversation branched off to the Irish language and the books written in it.

He began to criticise Archbishop MacHale's version of Moore's Irish Melodies with great severity and acuteness, citing whole poems both in the English and Irish, and then giving versions that he had made himself.

'A translation is no translation,' he said, 'unless it will give you the music of a poem along with the words of it. In my translation you won't find a foot or a syllable that's not in the English, yet I've put down all his words mean, and nothing but it. Archbishop MacHale's work is a most miserable production.'

From the verses he cited his judgment seemed perfectly justified, and even if he was wrong, it is interesting to note that this poor sailor and night-watchman was ready to rise up and criticise an eminent dignitary and scholar on rather delicate points of versification and the finer distinctions between old words of Gaelic.

In spite of his singular intelligence and minute observation his reasoning was medieval.

I asked him what he thought about the future of the language on these islands.

'It can never die out,' said he, 'because there's no family in the place can live without a bit of a field for potatoes, and they have only the Irish words for all that they do in the fields. They sail their new boats--their hookers--in English, but they sail a curagh oftener in Irish, and in the fields they have the Irish alone. It can never die out, and when the people begin to see it fallen very low, it will rise up again like the phoenix from its own ashes.'

'And the Gaelic League?' I asked him.

'The Gaelic League! Didn't they come down here with their organisers and their secretaries, and their meetings and their speechifyings, and start a branch of it, and teach a power of Irish for five weeks and a half!" [a]

'What do we want here with their teaching Irish?' said the man in the corner; 'haven't we Irish enough?'

'You have not,' said the old man; 'there's not a soul in Aran can count up to nine hundred and ninety-nine without using an English word but myself.'

It was getting late, and the rain had lessened for a moment, so I groped my way back to the inn through the intense darkness of a late autumn night.

 

 [a] This was written, it should be remembered, some years ago.

 

[やぶちゃん注:第三部は、島から心情的には去りかねているシングを見透かしたように、天候が悪化し、涙雨を降らせる。私は個人的にはこの第三部の終わり方が最も印象的で好きだ。

「何んたる寢言だらう?」“What's that jargon?”。“jargon”(ジャーゴン)とは仲間うちにだけ通じる特殊用語、符牒。専門用語や職業用語も指し、転じて、「訳の分からない意味不明の言葉」を言う。アメリカで英語を母語とする人間が初めて純粋にゲール語の喧嘩(静かな会話ではない)を聴いたとすれば、構文法は元より、単語の共通性も皆無であるから、単なる符牒や内輪のスラングと感じたとは思えない。「何だ!? あの訳の分からん奇天烈な言葉は!?」といった感じであろう。

Thomos Moore は愛蘭土の詩人、その詩集「Irish Melodies」は最も有名である」アイルランドの叙情詩人トーマス・ムーア(1779年~1852年)の採集した、この「アイルランド歌曲集」にある「名残のばら」“The Last Rose of Summer”は1805年に当時二十六歳のムーアがアイルランド南東部“Kilkenny”(キルケニー)近郊の“Jenkinstown Park”(ジェンキンスタウン・パーク)滞在中に作詞したとされ、本邦では菊に読み替えられて、有名な童謡「庭の千草」として歌われている。

『彼はムーアの「愛蘭土のしらべ」のマックヘール大僧正譯を英語と愛蘭土語の兩方で、その全體を讀みながら、嚴しく鋭く批評し初めた。それから彼自身の作つた譯を見せた。』 原文は“He began to criticise Archbishop MacHale's version of Moore's Irish Melodies with great severity and acuteness, citing whole poems both in the English and Irish, and then giving versions that he had made himself.”であるが、言わずもがな乍ら、これら――ムーアの“Irish Melodies”英語で書かれた詩と、それをマックヘール大僧正がゲール語に訳したそれ、さらに同じ詩を老人がオリジナルにゲール語に訳したもの――総てを、このみすぼらしいトタン屋根の雨音の響く中で、暗誦しているのである。シークエンスから本を開いてと誤読する可能性は低いが、やはり邦訳としては、せめて『彼はムーアの「愛蘭土のしらべ」のマックヘール大僧正譯を英語と愛蘭土語の兩方で、その全體を《暗誦し》ながら、嚴しく鋭く批評し初めた。それから彼自身の作つた譯を《諳んじて》見せた。』としたい。

「マックヘール大僧正」“Archbishop MacHale”(ゲール語 Seán Mac Héil 1791年~1881年)アイルランドのローマ・カトリック大司教で、ゲール語で説教を行い、アイルランド独立運動の旗手でもあった。

「ゲーリック聯盟! それは此處へもやつて來た。その設立者も、書記も、會合も演説も。そして支部が發會され、五週間半[やぶちゃん注:「五週間半」の頭右手にポイント落ちの「*」が附いている。]の間に澤山の愛蘭土語が教へられたぢやありませんか!」の「*」は、原文を見るとこの老人の台詞の外の末尾に付されている。従って「五週間半の間に澤山の愛蘭土語が教へられたぢやありませんか!」に限定した注ではなく、この老人の台詞全体への注である。シングがこの三度目にアランに帰ったのが1900年、本書の出版は1907年で、ゲール語連盟の設立は直近の1893年、その中心人物であり、1938年に初代アイルランド大統領になった“Douglas Hyde”(ゲール語 Dubhghlas de hÍde ダグラス・ハイド 1860年~1949年)が、本格的なゲール語復興運動を起すには、まだまだ時間がかかった。因みに、ウィキアイルランドによれば、現代のアイルランド国内にあっては、アイルランド語保護地区である“Gaeltacht”(ゲールタハト)を除く『ほとんどの地域においては義務教育終了後、または就職後には忘れ去られ、使われなくなってしまうことが多い』とし、『多くのアイルランド国民にとって、アイルランド語はラテン語学習同様、非常に退屈なものである。英語化が進行していく過程においては、辺境の言語、貧者の言語、劣等者の言語とさえみなされていたアイルランド語であるが、今日あえてこれを話すのはむしろ、やや気取った人間だという偏見さえある』。『アイルランド政府は様々な保護策を採っており、ゲールタハトのネイティブなアイルランド語話者の家庭には、その土地に居住し続けることを条件に政府から補助金などが支給されている。しかし、英語がアイルランドの優勢言語であり、英語に長けていない者は社会的に不利な立場にあるという現実から、アイルランド語を母語とする親も子供の将来を考え、子供にはあえて英語で話しかける傾向にある』。『このような状況から、西部の一部の海岸地域に点在するゲールタハトを除いては、アイルランドの日常生活においてアイルランド語の会話はほとんど聞かれないのが実情である。またゲールタハトも人口過疎の僻地に偏っており、比較的話者が多いと思われる唯一の都市(シティ)は西部のゴールウェイのみである』と記す。この現状をシングやこの老人が知ったら――さて、どう思うであろう――]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (12)

 今朝は汽船が着くかどうか少し怪しかつたほど、風が強かつた。それで、半日をマイケルと一緒に、水平線を眺めながらぶらぶら歩いて過した。

 遂に斷念した時、汽船が遙か北の方に姿を見せた。汽船は波の最も高い處で追風を受けねばならぬので、そちらの方を通るのであつた。

 私は宿から荷物を取り出し、マイケルや爺さんと一緒に船卸臺の方へ出かけ、此處彼處へさよならを云ひに立寄つた。

 外の風にもかかはらず船卸臺の所の海は池のやうに靜かであつた。船が南島に寄つてゐる間、そこらに立つてゐる人達は、私がまた彼等に逢ひに來る時には結婚してゐるかどうかを、これを最後と問題にしてゐた。それから私たちは漕ぎ出して行つて、列の中に位置を占めた。汐が激しく流れてゐたので、汽船は岸から相當離れて止つた。その舷側のよい位置を占めるためには長い競爭をするやうになつた。一生懸命にやつたが、私たちの方は餘り成功しなかつた。それで甲板へ上るために、うねりで曲り、ぐらぐら搖れるカラハを二つ越えて、攀ぢ上らねばならなかつた。

 見知り顏の人を大勢乘せてゐるカラハが私を連れずに、船卸臺の方へ引返して行くのを見るのは妙な感じがしたが、瀨戸のうねりは直ぐに、私の注意をその方へそらした。船には南島で逢つた幾人かの人が乘つてゐた。また澤山のゴルウェーから歸りがけの人もゐた。此の人達は朝渡つて來る途中海の一所で大暴れに逢つたと語つてゐた。

 土曜日の例として、船はキルロナンに下ろす小麥や黑ビールの澤山の荷を積んでゐた。そして汐が波止場に船を浮ばせないうちに、四時近くなつたので、ゴルウェ一に渡るのは少し怪しく思はれた。

 午後が下るにつれて、風は吹き募つて來た。夕方の薄明りの中を下りて行くと、荷物はまだすつかりは下ろされてゐず、船長は盛んになる強風を衝いて行くのを心配してゐるのであつた。彼が最後の決定を下すまでには時間がかかつた。私たちは、厚い雲が頭の上を飛び、風が石垣に吠えてゐる村を行つたり來たりした。終に彼は翌日用があるかどうかを知らうとゴルウェ一に電報を打つた。その返事を待つため、私たちは酒場にはひつた。

 茶の間には、爐の兩側に長い列を作つてぎつしりと、人が一杯に坐つてゐた。粗野な顏をしてゐるが美しい一人の娘の子が爐邊に膝をついて男達と大聲に話してゐた。また幾人かのイニシマーンの土地の人は身汚く醉つて扉に凭れてゐた。茶の間の奧には酒飮場が設けてあり、その傍の奧の間のやうな處では、老人達が幾人かトランプをしてゐた。頭の上のむき出しの垂木には、炭や煙草の煙が一杯であつた。

 これは他の島の女達に非常に恐れられてゐる場所である。此處で、男達は金を懷にして長尻し、遂によろめく足取りで外へ出て、瀨戸で命を墜してしまふのである。男たちが毎晩毎晩安いウィスキーや黑ビールを飮み、漁のこと、海草灰のこと、煉獄の苦しみのことを繰り返し繰り返し語りながら坐つてゐる此の簡單な遊び場に、空(から)のカラハや汐のまにまに浮かんでゐる裸かの死體の背景がなければ、何かしら殆んど不調和なものがあらう。

 ウィスキーを飮み終ると、船は留まるかも知れないといふ聲が起つた。

 やつとの事で荷物を汽船から出した。そしてそれを、小麥粉の袋、石油の罐の名状すべからざるほどごたごたした中で、揉み合ひ押し合ひしてゐる女達や驢馬の群を押し分けて運び上げた。

 宿に着くと、お婆さんの機嫌は大へんよかつた。暫く茶の間の爐で話しながら時間を費した。それから暗い道を手探りして港へ引返した。其處では、最初私が島へ來た時に逢つた網繕ひの爺さんが夜番をしてゐると聞いたからであつた。

 波止場は眞暗で、恐ろしい嵐が吹いてゐた。彼がゐるだらうと思つた小さな事務所には誰もゐないので、ランターンの燈で動いてゐる人影の方へ、手探りしてまた進んで行つた。

 それは爺さんであつた。挨拶して私の名を云ふと直ぐに憶ひ出した。暫くの間、ランターンの用意をしてゐて、それから私をその事務所――波止場で進行中の仕事の請負師のため、建てた板と生子鐵板の只の小屋--に連れて行つてくれた。

 私たちが燈の所に來た時、私は、寒さ除けに途方もなく何枚も襟卷をしてゐる彼の頭を見た。その顏には今でも、多分に賢さうな所があるが、此の前逢つた時よりは餘程年取つて見えた。

 彼は四五十年前、船給仕となつて、初めて島を離れた時、ダブリンで私の親戚に逢ひに行つた顚末を語り出した。

 彼は例の如く詳しく話した。――

 

 

The wind was so high this morning that there was some doubt whether the steamer would arrive, and I spent half the day wandering about with Michael watching the horizon.

At last, when we had given her up, she came in sight far away to the north, where she had gone to have the wind with her where the sea was at its highest.

I got my baggage from the cottage and set off for the slip with Michael and the old man, turning into a cottage here and there to say good-bye.

In spite of the wind outside, the sea at the slip was as calm as a pool. The men who were standing about while the steamer was at the south island wondered for the last time whether I would be married when I came back to see them. Then we pulled out and took our place in the line. As the tide was running hard the steamer stopped a certain distance from the shore, and gave us a long race for good places at her side. In the struggle we did not come off well, so I had to clamber across two curaghs, twisting and fumbling with the roll, in order to get on board.

It seemed strange to see the curaghs full of well-known faces turning back to the slip without me, but the roll in the sound soon took off my attention. Some men were on board whom I had seen on the south island, and a good many Kilronan people on their way home from Galway, who told me that in one part of their passage in the morning they had come in for heavy seas.

As is usual on Saturday, the steamer had a large cargo of flour and porter to discharge at Kilronan, and, as it was nearly four o'clock before the tide could float her at the pier, I felt some doubt about our passage to Galway.

The wind increased as the afternoon went on, and when I came down in the twilight I found that the cargo was not yet all unladen, and that the captain feared to face the gale that was rising. It was some time before he came to a final decision, and we walked backwards and forwards from the village with heavy clouds flying overhead and the wind howling in the walls. At last he telegraphed to Galway to know if he was wanted the next day, and we went into a public-house to wait for the reply.

The kitchen was filled with men sitting closely on long forms ranged in lines at each side of the fire. A wild-looking but beautiful girl was kneeling on the hearth talking loudly to the men, and a few natives of Inishmaan were hanging about the door, miserably drunk. At the end of the kitchen the bar was arranged, with a sort of alcove beside it, where some older men were playing cards. Overhead there were the open rafters, filled with turf and tobacco smoke.

This is the haunt so much dreaded by the women of the other islands, where the men linger with their money till they go out at last with reeling steps and are lost in the sound. Without this background of empty curaghs, and bodies floating naked with the tide, there would be something almost absurd about the dissipation of this simple place where men sit, evening after evening, drinking bad whisky and porter, and talking with endless repetition of fishing, and kelp, and of the sorrows of purgatory.

When we had finished our whiskey word came that the boat might remain.

With some difficulty I got my bags out of the steamer and carried them up through the crowd of women and donkeys that were still struggling on the quay in an inconceivable medley of flour-bags and cases of petroleum. When I reached the inn the old woman was in great good humour, and I spent some time talking by the kitchen fire. Then I groped my way back to the harbour, where, I was told, the old net-mender, who came to see me on my first visit to the islands, was spending the night as watchman.

It was quite dark on the pier, and a terrible gale was blowing. There was no one in the little office where I expected to find him, so I groped my way further on towards a figure I saw moving with a lantern.

It was the old man, and he remembered me at once when I hailed him and told him who I was. He spent some time arranging one of his lanterns, and then he took me back to his office--a mere shed of planks and corrugated iron, put up for the contractor of some work which is in progress on the pier.

When we reached the light I saw that his head was rolled up in an extraordinary collection of mufflers to keep him from the cold, and that his face was much older than when I saw him before, though still full of intelligence.

He began to tell how he had gone to see a relative of mine in Dublin when he first left the island as a cabin-boy, between forty and fifty years ago.

He told his story with the usual detail:--

 

[やぶちゃん注:原文では、以下、文章が続いているが、ここで一区切りとする。

「夕方の薄明りの中を下りて行くと、荷物はまだすつかりは下ろされてゐず、」原文は“and when I came down in the twilight I found that the cargo was not yet all unladen,”なのであるが、これは一見、船倉に降りたら、という感じに読めるのであるが、そうではなく、実はこの直後にシングはこのゴルウェー行の船から一度、最終寄港地であるアランモア島に上陸していて、船着場と「風が石垣に吠えてゐる」キルロナンの「村」との間「を行つたり來たりし」ているのである。どこかに汽船から一度、島へ戻るシーンが描かれていないと不自然である。すると“came down”がそれらしく見えてくる。これは汽船(は当然船端が高いから降りることになるし、正に船を「降りる」とも言うのだから)から「降りて」、船卸台までカラハで戻ってみると、そこには汽船からイニシマーンに送られた降ろされるべき荷物さえ「まだすつかりは下ろされて」いなかったことが判った、ということではあるまいか? 因みに栩木氏もここを『宵闇が迫る頃、ようすを見に埠頭へ戻ってみたのだが、』と意訳されている。

「やつとの事で荷物を汽船から出した。そしてそれを、小麥粉の袋、石油の罐の名状すべからざるほどごたごたした中で、揉み合ひ押し合ひしてゐる女達や驢馬の群を押し分けて運び上げた。」原文は“With some difficulty I got my bags out of the steamer and carried them up through the crowd of women and donkeys that were still struggling on the quay in an inconceivable medley of flour-bags and cases of petroleum.”であるから、前注と同様、ここには省略がある。汽船から降ろし、カラハで運び、そして「小麥粉の袋、石油の罐の名状すべからざるほどごたごたした」波止場の船卸台の混乱の「中で、揉み合ひ押し合ひしてゐる女達や驢馬の群を押し分け」つつ、やっと荷物を再度島へ(船卸台から上方のパブへと)「運び上げた」のである。

「何かしら殆んど不調和なものがあらう。」これは、男たちの泥酔と乱痴気騒ぎと馬鹿っ話が毎晩毎晩展開されるこの胡散臭いパブの壁の向こうに、「空のカラハや汐のまにまに浮かんでゐる裸かの死體」という厳然たる恐ろしい死の影が漂っていなかったなら、これはもう「何かとんでもなく阿呆臭い馬鹿げたものにしか感じられないであろう」、それほどこのパブの見た目の雰囲気は常軌を逸した下劣さに満ちている、という意味である。

「最初私が島へ來た時に逢つた網繕ひの爺さん」この「最初」とはシングがアラン島へ初めてやって来た時のことを指す。則ち、第一部の頭で、

   *

 今夜、一人の老人が私を訪ねて來た。彼は四十三年前、暫く此の島にゐた私の親戚を知つてゐると云つた。

 「お前さんが船からやつて來る時、私は波止場の石垣の下で網を繕つてゐた。」と彼は云つた。「シングと云ふ名の人が、若し此の世界に出かけて來るとすれば、あの人こそ其の人だらうと、その時預言を云つた。」

 彼は、少年時代を終らないうちに船員となつて、此の島を離れた時から此處に行はれた變遷を妙に短いが品位のある言葉で慨き續けた。

 「私は歸つて來て、」と彼は云つた。「妹と一軒の家に住んだが、島は前とは全然變り、現在居る人から私は何のお蔭も蒙らないし、又彼等も私から何の得(とく)を受けようともしない。」

 さういつた話からすると、此の男は一種獨特の己惚(うぬぼれ)と空想の世界に立て籠り、網繕ひの業に超然として、他人から尊敬と面白半分な同情とで見られてゐるらしい。

   *

と語られた人物である。この作品構成の呼応の美事さは言うに言われぬ素晴らしさを持っていると私は思う。

「生子鐵板」は「なまこてつぱん」と読む。原文は“corrugated iron”トタン板。波板鉄板。正確には“corrugated galvanised iron”で亜鉛鍍金鋼板の中でも建築資材用として使われるものを指す。亜鉛鉄板とか形状からなまこ板とも言う。

「船給仕」“cabin-boy”。客船の船客を接待するボーイ。これも最早、「キャビン・ボーイ」の方が通りがよい。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (11)

 此の島の女達は未だ因習に捉はれてゐず、パリーやニューヨークの女に獨持と思はれる自由な特色を幾らか持つてゐる。

 彼女たちの多くは裝飾的興味以上の物を持つには餘りに滿足しきつて居り、あまりにがつちりして居るが、また面白い個性を持つた女もある。

 今年は私は大へんおもしろい一人の娘を知るやうになつた。彼女は二三日前から茶の間で、お婆さんの紡(いと)車で糸を紡いでゐる。彼女の初めた朝、私は目の覺めた時から、彼女の一語一語を物靜かに舌だるく云ふ微妙な調子を聞いた。

 それに似たものを私はドイツの女やポーランドの女の聲に聞いたことがあるが、女よりも遙かに單純な動物的感情から離れてゐる男――少くとも歐州の男――とか、或ひは佛語・英語のやうな弱い喉音の言葉を使ふ人とかには、日常の會話で、こんな不明瞭な調を出すことは出來ないであらう。

 彼女は女がよくやるやうに示小詞を重ねたり、文章法を滑稽に無視して、形容詞を繰り返へしたりして、彼女のゲール語で惡戲(いたづら)をやり續ける。彼女が來てゐる間、話は茶の間で盡きることがない。今日彼女はドイツのことをいろいろ私に聞いた。それは、彼女の姉妹の一人が數年前ドイツ人とアメリカで結婚して、その人は彼女を立派な「コパル・グロス」(白馬)に乘せたりして大事にしてくれるので、此の娘もそんな風にして島の賤役から逃れようと思つてゐるらしかつた。

 今夜は私が爐邊の椅子に腰掛ける最後の晩である。私は、別れの挨拶をしにやつて來た村人達と長い間話しをした。彼等は頭を低い腰掛に載せ、足を泥炭の燃え差しの方へ伸ばし、床の上に横になつた。お婆さんは爐と反對の側に居て、さつきの娘は誰彼となく話したり冗談を云つたりして、紡車の前に立つてゐた。彼女は、私が歸つたら持參金の澤山ある金持の女と結婚し、その女が死んだらまた此處へ來て、彼女を第二の妻として迎へてくれと云つた。

 此の人達の話ほど、純樸でまた愛嬌のあるのを聞いた事がない。今夜は妻といふものに就いて議論が出たが、彼等が女に於いて見る最大の長所は多産的で澤山の子供を産むことにあるやうであつた。島では子供に依つて金儲は出來ないが、此の一つの心の持ち方は此處の人達とパリーの人達との大いなる相違を現はしてゐる。

 島では、あから樣な性の本能も弱い事はないが、それは家族愛の本能に從屬してゐるので、無手法になる事は滅多にない。此處の生活はまだ殆んど家長制度の段階にあるので、野蠻人の本能的な生活から遙かに離れてゐると同樣に、空想的な戀の情緒にも緣が遠い。

 

 

The women of this island are before conventionality, and share some of the liberal features that are thought peculiar to the women of Paris and New York.

Many of them are too contented and too sturdy to have more than a decorative interest, but there are others full of curious individuality.

This year I have got to know a wonderfully humorous girl, who has been spinning in the kitchen for the last few days with the old woman's spinning-wheel. The morning she began I heard her exquisite intonation almost before I awoke, brooding and cooing over every syllable she uttered.

I have heard something similar in the voices of German and Polish women, but I do not think men--at least European men--who are always further than women from the simple, animal emotions, or any speakers who use languages with weak gutturals, like French or English, can produce this inarticulate chant in their ordinary talk.

She plays continual tricks with her Gaelic in the way girls are fond of, piling up diminutives and repeating adjectives with a humorous scorn of syntax. While she is here the talk never stops in the kitchen. To-day she has been asking me many questions about Germany, for it seems one of her sisters married a German husband in America some years ago, who kept her in great comfort, with a fine 'capull glas' ('grey horse') to ride on, and this girl has decided to escape in the same way from the drudgery of the island.

This was my last evening on my stool in the chimney corner, and I had a long talk with some neighbours who came in to bid me prosperity, and lay about on the floor with their heads on low stools and their feet stretched out to the embers of the turf. The old woman was at the other side of the fire, and the girl I have spoken of was standing at her spinning-wheel, talking and joking with every one. She says when I go away now I am to marry a rich wife with plenty of money, and if she dies on me I am to come back here and marry herself for my second wife.

I have never heard talk so simple and so attractive as the talk of these people. This evening they began disputing about their wives, and it appeared that the greatest merit they see in a woman is that she should be fruitful and bring them many children. As no money can be earned by children on the island this one attitude shows the immense difference between these people and the people of Paris.

The direct sexual instincts are not weak on the island, but they are so subordinated to the instincts of the family that they rarely lead to irregularity. The life here is still at an almost patriarchal stage, and the people are nearly as far from the romantic moods of love as they are from the impulsive life of the savage.

 

[やぶちゃん注:原文では、以下、文章が続いているが、やはり内容的には切るべきである。

「此の島の女達は未だ因習に捉はれてゐず、パリーやニューヨークの女に獨持と思はれる自由な特色を幾らか持つてゐる。」 “The women of this island are before conventionality, and share some of the liberal features that are thought peculiar to the women of Paris and New York.”の前の部分は、この島の女たちの感性が、誠に稀有なことに、歴史的な「制度としての因襲」によって縛られる以前の段階に踏みとどまっていることを言っている。そして「にも拘らず」(と逆接風に)、知的で先進的な「パリーやニューヨークの女に獨持と思」われがちな、リベラルな特徴部分をも持ち合わせているのだ、という意味である。

「彼女たちの多くは裝飾的興味以上の物を持つには餘りに滿足しきつて居り、あまりにがつちりして居るが、また面白い個性を持つた女もある。」失礼ながら、この前半は日本語としては悪文である。原文は“Many of them are too contented and too sturdy to have more than a decorative interest, but there are others full of curious individuality.”であるが、これは「彼女たちの多くが、ここでここの女として生きることに満足しきっていて、加えてとてつもなくがっしりとして丈夫であるから――失礼ながら私には、アラン島というこの魅力的な世界を、見た眼で美しく装い飾る存在という以上の関心は、彼女たちに持つことは出来ないのであるが――しかし」また中にはすこぶる魅力的な「面白い個性を持つた女もある」という謂いであろう。栩木氏もそうしたコンセプトで訳されておられる。この部分は続く後半も、シングにしてはかなり踏み込んだ島の女についての叙述がなされている。紳士にして少年性を持ったシングは、アランの女たちを傷つけないように遠回しに(というより飽くまで民俗学的な謂いに包んで)表現しているという気が私にはする。

「不明瞭な調」「調」は「しらべ」と読ませていよう。原文は“this inarticulate chant”で、これは「この不明瞭な詠唱」の謂いである。これはこの女のゲール語の会話が、喋っているのか歌っているのかちょっと分からないような独特の音楽的なある種の調べを持っていることを意味している。

「示小詞」“diminutive”は文法用語の「指小辞」のこと。ある語について、それよりもさらに小さい意を示したり、親愛の情を表したりする接尾語のこと。例えば英語の“-ie”“-kin”“-let”“-ling”、ドイツ語の“-lein”“-chen”など。

「……大事にしてくれるので、此の娘もそんな風にして……」この日本語はやはり違和感がある。「大事にしてくれるのだと言った。その口ぶりからはどうも此の娘もそんな風にして……」としたい。

「島では子供に依つて金儲は出來ないが」これは、子供を有意な労働力と認識して、専ら子供に労働をさせて金を稼がせることは出来ないという意味である。アランにはそんな賃金を払ってくれる仕事も何もないという意味もあろうが、それ以上にアランの人々(厳密にはイニシマーンの人々)には、伝統的な家父長制による縛りはあるものの(しかし前出する第一部に出た「谷間の影」「西部の人気者」のモデルとなった話を見ると、それも決して強靭なものとは思われない)、子供を単純に労働力と見、彼らの収益を親が簒奪することを当然とするような親子関係はやや希薄であることをも言っているように思われる。マイケルもそうだが、若者の多くは島を出て働いているが、彼らが親の主たる生計維持者であるようには、私には必ずしも読めないのである。

「無手法に」は「むてつぱふに(むてっぽうに)」と読む。]

2012/03/24

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (10)

 私は再び、イニシマーンに戻つて來た。今度の渡航は良い天候であつた。朝早くから、太陽は空一杯に輝き渡り、正午にカラハで迎へに來たマイケルと、他の二人の男と共に出發した時は、殆んど夏の日であつた。
 風は都合よく吹いたので、帆を擧げ、マイケルは舟尾にゐて櫂で舵を取り、一方私は他の男と共に漕いだ。
 私たちはよく食ひ、よく飮んだ。そして此の突然の夏の再來に段段と刺戟されて來て、夢のやうな充ち足りたよい氣持になり、青く輝く海を越えて我が聲も響けとばかり、嬉しさに思はず大聲を立てた。
 丁度南島の人達にならつてゐるやうに、此のイニシマーンの男たちも外界に對して妙に昔ながらの同感に心を動かすやうである。彼等の氣持は今日の天氣具合に驚くほどよく合ひ、またその古いゲール語は貴い單純さに充ちてゐるので、私は船を西へ廻はし、彼等と共に永久に漕いでゐたかつた。
 私は、數日中にパリーに歸つて本や寢臺を賣り、それからまた、此の西の島島にゐる人たちのやうに強健で單純になるために戻つて來るつもりだと彼等に話した。
 私たちの感激が鎭まつた頃、マイケルは將に坊さんの置いて行つた鐵砲があり、島へ戻つて來るまで使ふことを許されてゐると云つた。家にはもうーつの鐵砲と白鼬が一匹あるから、歸つたら直ぐに兎狩に連れて行かうと彼は云つた。
 その日、少し遲くなつて出かけた。マイケルは私が立派な射撃をやつてほしいと熱心なのには私は殆んど笑ひたくなるほど可笑しかつた。
 私たちは白鼬を二つの平らな裸岩の間の裂目に匿して、待つてゐた。間もなく、足下に驅けて來る足音を聞いたと思ふと、一匹の兎が、足下の穴から一目散に宙へ飛び上り、二三尺向うの石垣の方へ逃げて行つた。私は鐵砲を摑み上げて、撃つた。
 マイケルは岩を騷け上りながら、私の肘の所で、「ブーイル・テゥ・エ」(中つたよ)と大聲で叫んだ。私は仕留めたのである。
 それから一時間の間に、私たちは七八匹を撃つたので、マイケルは非常に喜んだ。若し私がまづかつたら、島から逃げ出さねばならなかつたであらう。島の人たちは私を輕蔑したであらう。
 撃つことの出來ない「ドゥイネ・ウァソル」(旦那)は此の獵人の子孫である人たちから背教者よりもだめな墮落した人間と思はれるのである。

I have come over again to Inishmaan, and this time I had fine weather for my passage. The air was full of luminous sunshine from the early morning, and it was almost a summer's day when I set sail at noon with Michael and two other men who had come over for me in a curagh.
The wind was in our favour, so the sail was put up and Michael sat in the stem to steer with an oar while I rowed with the others.
We had had a good dinner and drink and were wrought up by this sudden revival of summer to a dreamy voluptuous gaiety, that made us shout with exultation to hear our voices passing out across the blue twinkling of the sea.
Even after the people of the south island, these men of Inishmaan seemed to be moved by strange archaic sympathies with the world. Their mood accorded itself with wonderful fineness to the suggestions of the day, and their ancient Gaelic seemed so full of divine simplicity that I would have liked to turn the prow to the west and row with them for ever.
I told them I was going back to Paris in a few days to sell my books and my bed, and that then I was coming back to grow as strong and simple as they were among the islands of the west.
When our excitement sobered down, Michael told me that one of the priests had left his gun at our cottage and given me leave to use it till he returned to the island. There was another gun and a ferret in the house also, and he said that as soon as we got home he was going to take me out fowling on rabbits.
A little later in the day we set off, and I nearly laughed to see Michael's eagerness that I should turn out a good shot.
We put the ferret down in a crevice between two bare sheets of rock, and waited. In a few minutes we heard rushing paws underneath us, then a rabbit shot up straight into the air from the crevice at our feet and set off for a wall that was a few feet away. I threw up the gun and fired.
'Buail tu é,' screamed Michael at my elbow as he ran up the rock. I had killed it.
We shot seven or eight more in the next hour, and Michael was immensely pleased. If I had done badly I think I should have had to leave the islands. The people would have despised me. A 'duine uasal' who cannot shoot seems to these descendants of hunters a fallen type who is worse than an apostate.

[やぶちゃん注:原文では、以下、文章が続いているが、内容的には切るべきである。
「丁度南島の人達にならつてゐるやうに、此のイニシマーンの男たちも外界に對して妙に昔ながらの同感に心を動かすやうである。」原文は“Even after the people of the south island, these men of Inishmaan seemed to be moved by strange archaic sympathies with the world.”。これは誤訳の類と言っていいような気がする。日本語は「~のやうに、……も――」という完全な順接の複文になっているが、そもそも日本語として読んでいて文脈上、矛盾が感じられるからだ。前段でイニシーアの島民の悪い意味での近代化による陰鬱傾向を一貫して批判してきたシングが、その「南島の人達に」「イニシマーンの男たち」が「ならつてゐる」などと言うはずが、ない。この“Even”は「全く」の意味ではあるまいか。「ああしたどこか陰気な南島の人々と接した後では、全くも以って、このイニシマーンの男たちが実に素直に外界に対する不思議な、昔ながらの共感によって心を働かしているようにしみじみと感じられるのである。」という意味であろう。私は、強調された、逆接的な日本語として訳さないとおかしいと感じる。このシークエンスは久々にまばゆい陽光とシングの大好きなイニシマーンの人々との魂の美しい交感の場面であるだけに、この瑕疵は痛い。
「白鼬」は「しろいたち」と読む。原文は“ferret”で、今や「フェレット」で通用する。食肉目(ネコ目)イタチ科イタチ亜科イタチ属ヨーロッパケナガイタチ亜種 Mustela putorius furo。ヨーロッパではフェレットは古くから家畜とされており、フェレットにウサギなどの獲物を巣穴から追い出させて狩るという狩猟法で、現在でも残っている。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (9)

 此の島の民謠を歌ふ風は極めて荒つぽいものである。今日、東の方の村はづれで、妙な男と一緒になつて、海の方の岩の上までぶらぶら歩いて行つた。一緒に居る間に、冬の時雨が來て、私たちは疎らな石垣の下の蕨の中に蹲踞(しやが)んだ。例の如き話題が濟むと、彼は私に歌が好きかと聞いて、その手並みを示すべく歌ひ初めた。
 節は前に此の邊の島島で聞いたものとよく似てゐた――音律をつけるために高い音と低い音の後に休止を置く、抑揚のない歌であつた。併し鼻にかかつた耳觸りな聲で歌ふのは殆んどやりきれなかつた。歌ひ振りは、その全體として私がかつてパリーからディエプまで旅行した時、三等車の中で東洋人の一行から聞いた歌を憶ひ出させた。併し此の島人は聲をもつと廣い範圍に操つた。
 彼の發音は喉に掠れて聞こえなくなる。はつきり自分の云ふことをわからせようと、風の音に負けずに私の耳もとで叫んだが、それは或る若者が海へ行つて多くの冐險をする運命を物語つた長たらしい民話とだけ見當をつけられたに過ぎなかつた。英語の航海用語が、その船中生活を描くために始終使つてあるが、それが出て來ると、此の男は辻褄が合はなくなると思ふのであらう、暫く止めて、私を指で突いたりして、船首の三角帆、中檣帆、第一斜檣などを説明した。ところが、私にそれ等は一番よくわかる個所であつた。再び場面がダブリンに移ると、「ウィスキーの盃」・「酒屋」といふやうなものに就いて英語で話した。
 時雨が終ると、海から僅かに離れて童の中に隠れた妙な洞穴を見せてくれた。歸り途で、私の何處へいつても出逢ふ三つの質問をした。――私が金持であるか、結婚してゐるか、此の島より貧しい所を他所で見た事があるか。
 私が結婚してゐないと聞くと、彼は、私が夏歸つて來たら、「スプリー・モール・オグス・ゴ・ラル・レイディース」(大きな酒宴と澤山の婦人)のあるクレア郡の温泉場(スパ)にカラハで一緒に行かうと勸めた。
 此の人と一緒にゐるのが私には何んだかいやであつた。私は親切に心を廣くしてゐるのであつたが、彼は私が嫌つてゐると思つたらしい。夜また逢ふ約束をしたので云ふに云はれないいやな束縛で重い足を引きずりながらその場所へ行つたが、彼は影も形も見せなかつた。
 此の男は大方呑兵衞で、密造酒販賣人であるらしく、又確かに貧乏人に違ひなかつたが、私が嫌つてゐると感じたので、一シリングを貰ふ機會を拒んだのは此の男特有の氣質である。彼は妙に強情と憂鬱の交つた顏をしてゐた。大方その素質のために、島の評判がよくなく――友達から同情を得る事のない人の不安な氣持で、此處に住んでゐるのであらう。

The mode of reciting ballads in this island is singularly harsh. I fell in with a curious man to-day beyond the east village, and we wandered out on the rocks towards the sea. A wintry shower came on while we were together, and we crouched down in the bracken, under a loose wall. When we had gone through the usual topics he asked me if I was fond of songs, and began singing to show what he could do.
The music was much like what I have heard before on the islands--a monotonous chant with pauses on the high and low notes to mark the rhythm; but the harsh nasal tone in which he sang was almost intolerable. His performance reminded me in general effect of a chant I once heard from a party of Orientals I was travelling with in a third-class carriage from Paris to Dieppe, but the islander ran his voice over a much wider range.
His pronunciation was lost in the rasping of his throat, and, though he shrieked into my ear to make sure that I understood him above the howling of the wind, I could only make out that it was an endless ballad telling the fortune of a young man who went to sea, and had many adventures. The English nautical terms were employed continually in describing his life on the ship, but the man seemed to feel that they were not in their place, and stopped short when one of them occurred to give me a poke with his finger and explain gib, topsail, and bowsprit, which were for me the most intelligible features of the poem. Again, when the scene changed to Dublin, 'glass of whiskey,' 'public-house,' and such things were in English.
When the shower was over he showed me a curious cave hidden among the cliffs, a short distance from the sea. On our way back he asked me the three questions I am met with on every side--whether I am a rich man, whether I am married, and whether I have ever seen a poorer place than these islands.
When he heard that I was not married he urged me to come back in the summer so that he might take me over in a curagh to the Spa in County Glare, where there is 'spree mor agus go leor ladies' ('a big spree and plenty of ladies').
Something about the man repelled me while I was with him, and though I was cordial and liberal he seemed to feel that I abhorred him. We arranged to meet again in the evening, but when I dragged myself with an inexplicable loathing to the place of meeting, there was no trace of him.
It is characteristic that this man, who is probably a drunkard and shebeener and certainly in penury, refused the chance of a shilling because he felt that I did not like him. He had a curiously mixed expression of hardness and melancholy. Probably his character has given him a bad reputation on the island, and he lives here with the restlessness of a man who has no sympathy with his companions.

[やぶちゃん注:「民謠」原文は“ballads”。民謡・バラード。民間伝承の物語詩に節をつけた歌謡。短いスタンザ(連)から成り、リフレインが多い。
「ディエプ」“Dieppe”(ディエップ)はフランスのオート=ノルマンディー地域圏にあるセーヌ=マリティーム県のコミューン(フランス固有の地方自治体)。イギリス海峡に面した港町。
「辻褄が合はなくなると思ふ」言うまでもないが、ゲール語で語るアイルランド固有のバラードであるはずであるから、そこに英語が入り込むのはおかしいのである。
「船首の三角帆」原文“gib”。機械用語で、凹字形をした楔(くさび)、若しくはその楔で留める、締めるという意味。また別に、雄のサケの繁殖期及びその後に現われる下顎の鉤状の湾曲もかく言う。もしも“gibe”ならば“jibe”“gybe”と同義の海事用語で、ジャイブの意となる。ジャイブとは縦帆の向きが変わることで、動詞としては、縦帆を一方の舷から反対の舷に急反転させて船の進路を変える、船が追い風を受けて走る際に縦帆や帆桁が反対側の舷側に向きを変える動作を「ジャイブする」という。姉崎氏はこの意味で採ったものと考えられる。後の二つの海事用語を考えると、確かに「ジャイブ」のことのように思われる。
「中檣帆」は「ちゅうしょうほ」又は「ちゅうしょはん」と読む。原文“topsail”。トップスル。帆船でマストの中段に張られた帆を言う。
「第一斜檣」「斜檣」は「しゃしょう」と読む。原文“bowsprit”。船首斜檣、やり出し、バウスプリット。帆船の船首に突き出しているマスト状の丸太材を言う。
『「スプリー・モール・オグス・ゴ・ラル・レイディース」(大きな酒宴と澤山の婦人)のある』原文は“where there is 'spree mor agus go leor ladies' ('a big spree and plenty of ladies').”。姉崎氏の訳はゲール語でこのような名を持つスパ(高級鉱泉保養施設)のように訳されているが(そのような誤読をするように訳されているが)、これは「とんでもないどんちゃん騒ぎ(オーギー)と数多の接待の御婦人方が待っている」といった意味である。
「クレア郡」原文は“County Glare”となっているが、これはCの誤植であろう。クレア州(“County Clare” ゲール語“Contae an Chláir”)。アラン諸島の東、ゴルウェー灣の南側にある。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (8)

 私は二三日前から、南島へ來てゐる。例の如く、渡航は惠まれなかつた。
 その朝笑氣がよく、冬の初めの雨の降る前によくある獨特な妙に靜かな澄んだ日となる兆があつた。夜が明けかかつた時から、空は一面の白雲に蔽はれ、あらゆる物音も一つ一つ靜かな灣の上を渡つて響いて來ると思へるまで、全くの靜けさであつた。靑い煙は輪を描いて村の上に立上つてゐた。遙か沖合、水平線の上には、雨雲がちぎれちぎれに重く懸つてゐた。私たちはその日、朝早く出發したが、海は遠くからは靜かに見えたが、岸を離れて行くと、西南から來る相當なうねりに逢つた。
 瀨戸の眞中近くで、船首で漕いでゐた男がその櫂栓を壞したので、普通のカラハの操作はむつかしくなつた。なにしろ三人漕のカラハなので、若し海がこれ以上荒れたら、甚だ危險な目に出逢ふことになるであらう。進行がのろかつたので、私たちが岸に着かないうちに、風に乘つて雲がどんどんやつて來て、大粒の雨が降り出した。灰色の世界の中を黑いカラハは靜かに進んで行くと雨は靜かに降りそそぐので、私は我我が世界の凡ゆる不思議や美しさを經驗しようと殘して置いた短い瞬間を無限の悲哀を以つて實感するやうな氣持になつた。
 南島の船着場は、西北方の立派な砂濱にできてゐる。此の岩の途切れは村人にとつて大いに役に立つ。併し、濡れた砂の道はその上に近頃建てられたいやな漁夫の家が何軒かあつて、はつきりしない天氣の時は、特に淋しく見える。
 上陸した時は、汐が退いてゐたので、カラハをただ濱に上げただけで、小さなホテルへ上つて行つた。一つの部屋で税の集金人が仕事をしてゐた。四邊に大勢の男たちや子供たちが待つてゐて、私たちが戸口に立つて旅館の主人と話をしてゐる間、こちらを見つめてゐた。
 私たちは一杯飮んでしまふと、非常に行手を急いでゐる男たちと一緒に私は海の方へ下りて行つた。櫂栓を取換へるのに少し時を費し、風はまだ吹き募つてゐたが、彼等は出かけた。多くの漁夫達が出立を見にやつて來た。私は彼等の言葉や氣分を他の島で經險したそれと較べてみたくて仕方がなかつたので、カラハの姿が見えなくなつた後も長い間立つて、愛蘭土語で話をした。
 中には今まで聞いた事もないほど明瞭に、愛蘭土語を話す者さへゐたが、言葉は同一のやうであつた。併し體の形、服裝、一般的の性質には可成りの差異があつたやうである。此の島の住民は隣島の住民より進歩してゐて、社會は段段と各階級を造りつつある、即ち富裕な者、一生懸命に働かねばならぬ者、全くの貧乏で貯蓄のない者である。此の區別は中の島にも現はれてゐるが、住民に影響する程ではなく、彼等の中にはまだ完全な平等がある。
 少したつて、汽船の姿が見え出し、沖に碇泊した。カラハが出かけてしまつてゐる間、人々の中に襤褸を着て滑稽味のある型の幾人かの男達がゐた。かつては斯かる人達が愛蘭土の本當の百姓を代表してゐたのであらう。雨は激しく降つてゐた。霧を通して外を眺めてゐると、これ等の人達の中で、甚だ不恰好な頓智のある一人の男が擧げてゐる甲高い笑ひ聲には、何んだかぞつとするやうなところがあつた。
 遂に彼は上衣の端で目を拭き「タ・メ・モラヴ」(私は殺される)と、獨り呻りながら村の方へ去つたが、遂に誰かに呼び止められた。すると粗野な酒落や冗談をまたとばして笑ひ出したが、それには何か言葉以上の意味がありさうであつた。
 中の島には、奇妙な諧謔、時には野生の諧謔もあるが、こんな半ば肉慾的な陶醉の笑ひ方はない。恐らく此の人達は世を嘲らうとする前に、あちらでは知られてない内奧の不幸を感ずるに違ひない。その窪んだ額、高い頰骨、反抗的な目を持つた此の不思議な人達は歐洲の邊境の僅かな土地に住む古風な型を代表してゐるやうに見える。そして其處で、彼等は野生の冗談や笑ひに依つてのみ僅かにその淋しさとやるせなさを表現し得るのである。

I have come over for a few days to the south island, and, as usual, my voyage was not favourable.
The morning was fine, and seemed to promise one of the peculiarly hushed, pellucid days that occur sometimes before rain in early winter. From the first gleam of dawn the sky was covered with white cloud, and the tranquillity was so complete that every sound seemed to float away by itself across the silence of the bay. Lines of blue smoke were going up in spirals over the village, and further off heavy fragments of rain-cloud were lying on the horizon. We started early in the day, and, although the sea looked calm from a distance, we met a considerable roll coming from the south-west when we got out from the shore.
Near the middle of the sound the man who was rowing in the bow broke his oar-pin, and the proper management of the canoe became a matter of some difficulty. We had only a three-oared curagh, and if the sea had gone much higher we should have run a good deal of danger. Our progress was so slow that clouds came up with a rise in the wind before we reached the shore, and rain began to fall in large single drops. The black curagh working slowly through this world of grey, and the soft hissing of the rain gave me one of the moods in which we realise with immense distress the short moment we have left us to experience all the wonder and beauty of the world.
The approach to the south island is made at a fine sandy beach on the north-west. This interval in the rocks is of great service to the people, but the tract of wet sand with a few hideous fishermen's houses, lately built on it, looks singularly desolate in broken weather.
The tide was going out when we landed, so we merely stranded the curagh and went up to the little hotel. The cess-collector was at work in one of the rooms, and there were a number of men and boys waiting about, who stared at us while we stood at the door and talked to the proprietor.
When we had had our drink I went down to the sea with my men, who were in a hurry to be off. Some time was spent in replacing the oar-pin, and then they set out, though the wind was still increasing. A good many fishermen came down to see the start, and long after the curagh was out of sight I stood and talked with them in Irish, as I was anxious to compare their language and temperament with what I knew of the other island.
The language seems to be identical, though some of these men speak rather more distinctly than any Irish speakers I have yet heard. In physical type, dress, and general character, however, there seems to be a considerable difference. The people on this island are more advanced than their neighbours, and the families here are gradually forming into different ranks, made up of the well-to-do, the struggling, and the quite poor and thriftless. These distinctions are present in the middle island also, but over there they have had no effect on the people, among whom there is still absolute equality.
A little later the steamer came in sight and lay to in the offing. While the curaghs were being put out I noticed in the crowd several men of the ragged, humorous type that was once thought to represent the real peasant of Ireland. Rain was now falling heavily, and as we looked out through the fog there was something nearly appalling in the shrieks of laughter kept up by one of these individuals, a man of extraordinary ugliness and wit.
At last he moved off toward the houses, wiping his eyes with the tail of his coat and moaning to himself 'Tá mé marbh,' ('I'm killed'), till some one stopped him and he began again pouring out a medley of rude puns and jokes that meant more than they said.
There is quaint humour, and sometimes wild humour, on the middle island, but never this half-sensual ecstasy of laughter. Perhaps a man must have a sense of intimate misery, not known there, before he can set himself to jeer and mock at the world. These strange men with receding foreheads, high cheekbones, and ungovernable eyes seem to represent some old type found on these few acres at the extreme border of Europe, where it is only in wild jests and laughter that they can express their loneliness and desolation.

[やぶちゃん注:「灰色の世界の中を黑いカラハは靜かに進んで行くと雨は靜かに降りそそぐので、私は我我が世界の凡ゆる不思議や美しさを經驗しようと殘して置いた短い瞬間を無限の悲哀を以つて實感するやうな氣持になつた。」原文は“The black curagh working slowly through this world of grey, and the soft hissing of the rain gave me one of the moods in which we realise with immense distress the short moment we have left us to experience all the wonder and beauty of the world.”。後半が極めて生硬で意味が取れない。“moods”は複数形であるから、「不機嫌」、ネガティヴな傾向への気持ちの沈潜を意味する。「灰色の世界の中を黑いカラハは靜かに進んで行く」……そして……私に「雨は靜かに降りそそぐ」……そんな眼前の重く陰鬱な景色が……私をある一つの暗く沈んだ思念へと導いてゆく――それは、私たちが私たちのために「世界の凡ゆる不思議や美しさを經驗しようと殘して置いた」時間、その時間が如何に短いものであるかということを――私はこの瞬間に「無限の悲哀を以つて實感」したのであった、という意味であろう。
「近頃建てられたいやな漁夫の家」とは、如何にも近代的な、アランの自然の景観にそぐわない「いやな」感じのする漁師の家、という意味であろう。
「遂に誰かに呼び止められた」“till some one stopped him”。「遂に」は日本語としておかしい。「ふと誰かに呼び止められた。」でよい。
「それには何か言葉以上の意味がありさうであつた」とあるが、彼がつぶやく「タ・メ・モラヴ」(私は殺される)]にしても――これは今まで読んでこられた方は第一部のパット爺さんの妖精に攫われた娘の話を思い出されるであろう。『また或る夜、愛蘭土語で「オー・ウォホイル・ソ・メー・モラヴ」(ああ、お母さん、殺される)といふ叫び聲を彼は聞いたが、朝になつてその家の塀に血がついてゐて、そこから程遠からぬ處に、その家の子供は死んでゐた。』という例の話である――私はこの男のこの言葉は、偶然の一致では、ないと思う。それは「死」を言上げすることで、逆に死を遠ざける効果を持つ。「ぞつとする」「甲高い笑ひ聲」は死を忌避するための非日常的ポーズなのである。だからここで呼び止められた彼が飛ばした「粗野な酒落や冗談」と、その後の不気味な「半ば肉慾的な陶醉の笑ひ」は、恐らく民俗的な言霊を内包した呪言なのである。シングの中の原初的無意識がそれに直感的に気づいたから、彼は「ぞつと」し、また「それには何か言葉以上の意味がありさう」だと感じたのである。但し、それをシングが完全なプロトタイプとしては判断していないところが微妙で複雑なのである。次の段落にそれが示されている。則ち、確かにこの男の「何か言葉以上の意味」を持った「粗野な酒落や冗談」やそれに付随する不気味な「半ば肉慾的な陶醉の笑ひ」はアランの昔の百姓の古形に属する――だが、イニシマーン島の、近代思想に殆んど犯されていない純朴なプロトタイプと比較した時、イニシーアのこの男は、明らかに近代文明のカルチャー・ショックをその感性がネガティヴに受けて、イニシマーンの島民に「は知られてない内奧の不幸を感ずる」ようになってしまっているのである。「その窪んだ額、高い頰骨、反抗的な目を持つた此の不思議な人達は」「古風な型を代表してゐるやうに見える」けれども、純粋に古形ではない、文明にレイプされて「野生の冗談や笑ひに依つてのみ僅かにその淋しさとやるせなさを表現」するしかない、ある種の哀れみさえ感じさせるまでに零落している、とシングは語るのである。換言すれば「歐洲の邊境の僅かな土地」という卑屈な認識をイニシーアの島民は持ってしまっている(恐らくアランモアはもっとえげつなく近代化されてしまっている)のに対して、シングの愛するイニシマーンの人々は誰もが美しい魂の古形をしっかりと保存している、と言っているのである。]

2012/03/23

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (7)

 今日、私は船卸臺へ行つた時、キルロナンから來た豚の仲買が、英國の市場へ船に積んで持つて行く廿匹ほどの豚を連れてゐるのを見た。
 汽船が近づいて來ると、その豚の群全部が船卸臺に移され、カラハは海近く運んで來られた。
 それから豚は順順に捕へられ、横樣に投げ出された。その間に豚の脚は、運ぶ時のために繩の尾を殘して、一重結びに縛られた。
 受ける痛みは大したものでもなささうであつたが、其奴等は目をつぶつて全く人間のやうな聲で叫び、遂にその聲は何かを訴へるやうに、段段激しくなつて行つたので、ただ眺めてゐた男女達も興奮して騷ぎ出した。豚は順を待ちながら口から泡を吹き、互ひに嚙み合ひをしてゐた。
 少し經つてから、中休みが來た。船卸臺全部は啜り泣く豚の群で一杯になつた。その群の中に、怖がつてゐる女が所所に交り、しやがんで特に好きな豚を靜かにさせようと、撫でてゐた。その間に、カラハは下ろされた。
 それからまた泣き聲が初まつた。それは、豚が運び出され、帆布を傷めないやうに、脚の周りに胴着を附けられてそれぞれの場所に置かされる間ぢゆうであつた。それ等は何處へ行くのか知つてゐかのやうに見えた。船緣に動物ながらぐつたりとして、私の方を眺めてゐるのを見ると、私は此の啜り泣いてゐる動物の肉を食つてゐたのかと思ひ、ぞつとした。最後のカラハが出て行つてしまふと、船卸臺の上は私と女子供の一團と、海の方を眺めて坐つてゐる年取つた牡豚とだけになつた。
 女たちは非常に興奮してゐた。私が話しかけようとすると、私の周りにどつと集まつて來て、私の結婚してないのを理由にひやかし初め、喚き初めた。一度に大勢が叫び立てて、而かも早口なので何を云つてゐるのかわからないが、夫の留守を幸に、その惡口を一齊に云ひ立ててゐるのだと見當をつけた。これを聞いてゐた或る男の子たちは笑ひこけて、海草の中へ轉んだ。また若い娘たちは氣まり惡さうに、顏を赤くして、波をじつと見下ろしてゐた。
 暫くの間、私は狼狼してしまつた。物を云はうと思つても、こちらの云ふことを聞かすことが出來なかつた。それで船卸臺の上に腰掛けて、寫眞の袋を取り出した。すると忽ち、通常の氣持で、犇き合つて來る一團の人に私はすつかり取り圍まれた。
 カラハが戻つて來ると、――その中の一艘は波の上に大へんな恰好で、蜻蛉返りを打つて浮かんでゐた大きな茶の間用テーブルを引張つてゐた、――キャニゥィエ(行商人)が來たと云ふ聲が起つた。
 上陸すると、彼は直ぐに店を開いて、娘たちや若い女たちに安物のナイフや寶石をたくさん賣りつけた。彼は愛蘭土語を話さなかつたが、値の掛引が、取卷いてゐる大勢の人たちを非常に面白がらせた。
 幾人かの女たちは英語を知らないと云つてゐるくせに、氣に向いた時には、苦もなく云ひたい事を通じさせてゐるのを見て、私は驚いた。
 「此の指環はあんまり高いです。」或る女はゲール語の構造法を使ひながら云つた。「もつと少い金にしなさい、さうしたら女の子は皆んな買ふでせう。」
 寶石の次には安物の宗教畫――いやな油繪風石版畫(オレオグラフ)――を見せたが、買手はあまりなかつた。此處へ來る行商人の多くはドイツ人かポーランド人ださうだが、私は此の人とは直接に話す機會はなかつた。

Today when I went down to the slip I found a pig-jobber from Kilronan with about twenty pigs that were to be shipped for the English market.
When the steamer was getting near, the whole drove was moved down on the slip and the curaghs were carried out close to the sea. Then each beast was caught in its turn and thrown on its side, while its legs were hitched together in a single knot, with a tag of rope remaining, by which it could be carried.
Probably the pain inflicted was not great, yet the animals shut their eyes and shrieked with almost human intonations, till the suggestion of the noise became so intense that the men and women who were merely looking on grew wild with excitement, and the pigs waiting their turn foamed at the mouth and tore each other with their teeth.
After a while there was a pause. The whole slip was covered with a mass of sobbing animals, with here and there a terrified woman crouching among the bodies, and patting some special favourite to keep it quiet while the curaghs were being launched.
Then the screaming began again while the pigs were carried out and laid in their places, with a waistcoat tied round their feet to keep them from damaging the canvas. They seemed to know where they were going, and looked up at me over the gunnel with an ignoble desperation that made me shudder to think that I had eaten of this whimpering flesh. When the last curagh went out I was left on the slip with a band of women and children, and one old boar who sat looking out over the sea.
The women were over-excited, and when I tried to talk to them they crowded round me and began jeering and shrieking at me because I am not married. A dozen screamed at a time, and so rapidly that I could not understand all that they were saying, yet I was able to make out that they were taking advantage of the absence of their husbands to give me the full volume of their contempt. Some little boys who were listening threw themselves down, writhing with laughter among the seaweed, and the young girls grew red with embarrassment and stared down into the surf.
For a moment I was in confusion. I tried to speak to them, but I could not make myself heard, so I sat down on the slip and drew out my wallet of photographs. In an instant I had the whole band clambering round me, in their ordinary mood.
When the curaghs came back--one of them towing a large kitchen table that stood itself up on the waves and then turned somersaults in an extraordinary manner--word went round that the ceannuighe (pedlar) was arriving.
He opened his wares on the slip as soon as he landed, and sold a quantity of cheap knives and jewellery to the girls and the younger women. He spoke no Irish, and the bargaining gave immense amusement to the crowd that collected round him.
I was surprised to notice that several women who professed to know no English could make themselves understood without difficulty when it pleased them.
'The rings is too dear at you, sir,' said one girl using the Gaelic construction; 'let you put less money on them and all the girls will be buying.'
After the jewellery' he displayed some cheap religious pictures--abominable oleographs--but I did not see many buyers.
I am told that most of the pedlars who come here are Germans or Poles, but I did not have occasion to speak with this man by himself.

[やぶちゃん注:「カラハは海近く運んで來られた。」“the curaghs were carried out close to the sea.”とは、舟卸臺より上に引き上げられていたカラハが、豚を汽船に移送するために、海面近くまで降ろされることを言っている。
「怖がつてゐる女」“a terrified woman”。女たちは、豚のパニックに感染して、テンションが異様に昂まっている。その中でも特に気持ちが動転して、凝っとしていられないヒステリー気質の女性を指している。
「年取つた牡豚」“one old boar”。“boar”は去勢していない雄豚の意。種豚である(食肉用の去勢した雄豚は“hog”という)。
「夫の留守を幸に、その惡口を一齊に云ひ立ててゐるのだと見當をつけた。」原文は“yet I was able to make out that they were taking advantage of the absence of their husbands to give me the full volume of their contempt.”であるが、まず姉崎氏の訳では「その悪口」の「その」が彼らの夫を指していることになり、これは私は誤りであると思う。“their contempt”とは、私は彼らがシング個人へ向けた「聞くに堪えないえげつない物言い」(その内実は分からぬにせよ)を指しているものと思うのである。例えば栩木氏もこれを『僕に最大限の侮辱をぶつけているらしい』と訳しておられることから、姉崎氏の誤訳と考えるのである。ただ私は「惡口」も「侮辱」もピンとこないである。これは直前で「私の結婚してないのを理由にひやかし初め、喚き初めた」ことから分かるように、定められたパートナーを持たない若者シングへの、ある種の性的な揶揄なのである。「夫の留守を幸」、更に豚パニックでエクサイトしてテンション揚がりっぱなしの女たちがするそれは、とても夫のいる前では恥ずかしくて口に出来ないようなセクシャルな毒や誘惑を含んだ話柄なのであり、だからこそ「これを聞いてゐた或る男の子たちは笑ひこけて、海草の中へ轉」げまわるのであり、「また若い娘たちは氣まり惡さうに、顏を赤くして」、『……あの人たちの言っていること、私には分からないわ、そんなの、興味ないわ……』、という困惑と含羞から、あらぬ彼方の「波をじつと見下ろしてゐ」るのである。だから私は、ここは「夫の留守を幸」、私に対して、秘めごとに関わるようなえげつない物言い「を一齊に云ひ立ててゐるのだと見當をつけた。」と意訳したいのである。ここは民俗的な描写としてすこぶる面白いシークエンスである。シングがもう少しゲール語を解していて、その語句や言い回しをここに残していてくれたら、もっと素晴らしかったのだが……。
「その中の一艘は波の上に大へんな恰好で、蜻蛉返りを打つて浮かんでゐた大きな茶の間用テーブルを引張つてゐた、」“one of them towing a large kitchen table that stood itself up on the waves and then turned somersaults in an extraordinary manner”。このテーブルは、恐らく汽船から離れた時には、カラハの後の何らかの筏のようなものの上に正常な形で置かれていたのであろうが、波に揉まれてその筏か牽引用のアタッチメントのようなものが損壊し、テーブルがもんどりうって――逆さま(足を上にして)になり――しかし深く沈潜することなく、奇体に脚を海から突き出して運ばれた一部始終を一文で述べたものと私は解釈する。
「キャニゥィエ(行商人)」“ceannuighe (pedlar)”の“ceannuighe”はゲール語と思われる。“pedlar”は“peddler”とも綴り、行商人・麻薬密売人の外、噂などを好んで言い触らす輩の意など、余りよいイメージの言葉ではない。如何にも怪しげな行商人に相応しい単語だ。
「ゲール語の構造法」ゲール語の構文法では、英語のようなSVOではなく、動詞を最初に持ってくるVSO型を取る。
「いやな油繪風石版畫(オレオグラフ)」“abominable oleographs”。“abominable”は恐らく恐ろしく下手な、という意味で用いている。如何にもキッチュでお粗末な、お定まりのキリスト教の聖画を描いた、コテコテの油絵風に彩色した石板画であることを言っている。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (6)

 今日、夕方遲くなつて、漕手の外に二人のお婆さんを乘せた三挺擢のカラハが、大きいうねりの中を上陸しょうとするのを見た。此の人達はインニシールから來たのである。忽ちのうちに寄波の線内數ヤードの所へ漕いで來て、其處で轉囘し、舳先を海の方へ向けて止つた。その間に、波は次々その下を通り拔けて、船卸臺の殘部に碎けた。五分經ち、十分經つたが、彼等は未だに擢を水にひたしながら待ち、首を肩越に後へ向けてゐた。

 彼等は斷念して、島の風下の方へ漕ぎ廻らなければならないだらうと、私は思ひかけた。するとその時、カラハは突然生き物のやうに變つた。水煙の中を驅りながら、跳びながら、舳先は再び船卸臺の方へ向けられた。到着しないうちに船首にゐた男がくるつと向を變へたと思ふ間に、劍の閃きのやうに二つの白い脚が舳先を越えて出で、次の波の來ないうちに、カラハを危險から曳き出した。

 此の男たちの咄嗟の協同した動作は、訓練があるのではないが、波が彼等に與へた教育である事がよくわかる。カラハが無事にはひると、二人のお婆さんはその息子の脊をかりて、寄波や滑り易い海草の中を連れて來られた。

 こんな變り易い天氣に、カラハが出れば必ず危險な目に逢ふが、事故は稀で、殆んどきまつて飮酒に起因するらしい。昨年、私が此處へ來てから、四人の男が大島から歸る途中、溺死した。

 最初のは南島のカラハで、酒にしたたか醉つた二人の男を乘せて出かけた。翌日の晩、帆を半分かけ、濡れもせず、壞れもせずに此の島へ打ち上げられたが、中には誰も居なかつた。

 もつと最近では、此の島から出かけたカラハで、飮酒で危險になつてゐる三人の男を乘せてゐたが、歸る途中で轉覆した。汽船が近くにゐたので、二人は助けられたが、三人目までには及ばなかつた。

 さてドニゴールの岸に、一人の男が打ち上げられた。その男は一つの革草鞋をつけ、縞のシャツを着、そのポケットの一つには財布と煙草入があつた。 三日の間、此處の人達は此の男の身元を確かめようとしてゐた。或る人は此の島の男だと考へ、また或る人は南島から來た異に人相書がよく合つてゐると考へた。今晩、舟卸臺から歸る途中、此の島から行つて溺れた男の母親に逢つたが、まだ海の方を眺めて泣いてゐた。彼女は南島から來た人を止めては、あちらではどんな風に考へられてゐるかと、こわごわ小聲で尋ねてゐた。

 夕方遲く、私が或る家に居た時、死んだ男の妹が子供を連れて雨の中をやつて來て、屆いた噂話を長い間してゐた。彼女はその着物の事、財布の體裁やそれを買つた處について、覺えてゐるだけを考へ合はせてゐた。また煙草入や靴下についても同じやうにしてゐた。終にそれが兄の物である事に、少しの疑ひもないやうであつた。

 「あゝ!」と彼女は云つた。「マイクの物に違ひない。神樣、どうぞあの人を淸らかに葬り下さいますやうに。」

 それから、彼女は祕かに泣唱を初めた。黄色い髮の毛は雨に濡れて首にくつついてゐた。子供に乳を飮ませながら扉の傍に坐つてゐる所は、島の女の生活の典型であるかのやうに見えた。

 暫くの間、人人は何も云はずに坐つてゐた。子供の乳を吸ふ音、庭に降り注ぐ雨の音、一隅に寢てゐる豚の鼾のほかには、何の音も聞こえなかつた。それから一人の男が、新しいボートが南島に送られた事などを話し出したが、話はいつも同じ話題に戻るのであつた。

 一人の男の死は、直接の肉親の者以外のすべての者にとつては一つの些細な破滅であるらしい。よく不慮な災難が起つて、父親と上の息子の二人が一緒に死ぬといふやうなことがある。またどうかして、家族の働き手全部が死ぬといふやうなこともある。

 二三年前、今でも島で使つてゐる木の器――小さな桶のやうな――を作るのが、商賣であつた家の三人の男が一緒に大島に行つた。歸り途で皆溺死したので、小さな桶を造る技(わざ)が同時に、少くとも此の島では絶えてしまつた。尤も、その後も此の技(わざ)は今でも北島と南島には僅かに殘つてゐるが。

 去年の冬起つたもう一つの破滅は、祝祭日の慣例に一つの奇妙な興趣を添へた。祝祭日の晩に、男たちが漁に出るのは習慣ではないらしい。ところが、去年の十二月の或る夜、幾人かの男たちが、翌朝早く釣を初めようと思つて、漕ぎ出して、漁船の中で寢た。

 すると朝近くなり、恐ろしい嵐が吹き起り、幾艘かの漁船は、その船員たちを乘せたまま碇泊地から吹き流されて難船した。波が高かつたので、救助の手段を試みることも出來ず、男たちは溺死したのであつた。

 「ああ!」此の話をしてくれた男は言つた。「これから祝祭日に、男たちが二度と海へ出かけることは當分なくなるだらう。その嵐は、その冬を通じて、港にまでとどいた、たつた一度きりのものだつた。これには何か譯があつたのだらう。」

 

 

Late this evening I saw a three-oared curagh with two old women in her besides the rowers, landing at the slip through a heavy roll. They were coming from Inishere, and they rowed up quickly enough till they were within a few yards of the surf-line, where they spun round and waited with the prow towards the sea, while wave after wave passed underneath them and broke on the remains of the slip. Five minutes passed; ten minutes; and still they waited with the oars just paddling in the water, and their heads turned over their shoulders.

I was beginning to think that they would have to give up and row round to the lee side of the island, when the curagh seemed suddenly to turn into a living thing. The prow was again towards the slip, leaping and hurling itself through the spray. Before it touched, the man in the bow wheeled round, two white legs came out over the prow like the flash of a sword, and before the next wave arrived he had dragged the curagh out of danger.

This sudden and united action in men without discipline shows well the education that the waves have given them. When the curagh was in safety the two old women were carried up through the surf and slippery seaweed on the backs of their sons.

In this broken weather a curagh cannot go out without danger, yet accidents are rare and seem to be nearly always caused by drink, Since I was here last year four men have been drowned on their way home from the large island. First a curagh belonging to the south island which put off with two men in her heavy with drink, came to shore here the next evening dry and uninjured, with the sail half set, and no one in her.

More recently a curagh from this island with three men, who were the worse for drink, was upset on its way home. The steamer was not far off, and saved two of the men, but could not reach the third.

Now a man has been washed ashore in Donegal with one pampooty on him, and a striped shirt with a purse in one of the pockets, and a box for tobacco.

For three days the people have been trying to fix his identity. Some think it is the man from this island, others think that the man from the south answers the description more exactly. To-night as we were returning from the slip we met the mother of the man who was drowned from this island, still weeping and looking out over the sea. She stopped the people who had come over from the south island to ask them with a terrified whisper what is thought over there.

Later in the evening, when I was sitting in one of the cottages, the sister of the dead man came in through the rain with her infant, and there was a long talk about the rumours that had come in. She pieced together all she could remember about his clothes, and what his purse was like, and where he had got it, and the same for his tobacco box, and his stockings. In the end there seemed little doubt that it was her brother.

'Ah!' she said, 'It's Mike sure enough, and please God they'll give him a decent burial.'

Then she began to keen slowly to herself. She had loose yellow hair plastered round her head with the rain, and as she sat by the door sucking her infant, she seemed like a type of the women's life upon the islands.

For a while the people sat silent, and one could hear nothing but the lips of the infant, the rain hissing in the yard, and the breathing of four pigs that lay sleeping in one corner. Then one of the men began to talk about the new boats that have been sent to the south island, and the conversation went back to its usual round of topics.

The loss of one man seems a slight catastrophe to all except the immediate relatives. Often when an accident happens a father is lost with his two eldest sons, or in some other way all the active men of a household die together.

A few years ago three men of a family that used to make the wooden vessels--like tiny barrels--that are still used among the people, went to the big island together. They were drowned on their way home, and the art of making these little barrels died with them, at least on Inishmaan, though it still lingers in the north and south islands.

Another catastrophe that took place last winter gave a curious zest to the observance of holy days. It seems that it is not the custom for the men to go out fishing on the evening of a holy day, but one night last December some men, who wished to begin fishing early the next morning, rowed out to sleep in their hookers.

Towards morning a terrible storm rose, and several hookers with their crews on board were blown from their moorings and wrecked. The sea was so high that no attempt at rescue could be made, and the men were drowned.

'Ah!' said the man who told me the story, 'I'm thinking it will be a long time before men will go out again on a holy day. That storm was the only storm that reached into the harbour the whole winter, and I'm thinking there was something in it.'

 

[やぶちゃん注:「ドニゴールの海岸」“ashore in Donegal”はイニシマーンにある海岸の固有地名であるが、同名でアイルランド北西部の州があり、このドニゴール (ゲール語“Dún na nGall”)とは、「外国人の砦」(アイルランド人にとっての「外国人」でヴァイキングを指す)に由来するという。

「此の島から行つて溺れた男の母親」原文は“the mother of the man who was drowned from this island”。確かに海で消えた(可能性が高い)のだから、“drown”(溺れる・溺死する)と用いているのであろうが、後の「死んだ男の妹」“the sister of the dead man”も合わせて、シングの書き方自体が上手くない。これではネタバレしているのと同じである。ここは私は意訳(“drown”には「音が消える」の意があり、これは消息が絶えることだ。また“dead man”は必ずしも「死んだ男」と訳さねばならないわけではない。「消滅した男」の意味もある)をしても、「此の島からアランモアへ行って帰る折りに行方知れずとなってしまったイニシマーンの男の母親」、「さっきの消息不明のイニシマーンの男の妹」としたいのである。

「暫くの間、人人は何も云はずに坐つてゐた。子供の乳を吸ふ音、庭に降り注ぐ雨の音、一隅に寢てゐる豚の鼾のほかには、何の音も聞こえなかつた。それから一人の男が、新しいボートが南島に送られた事などを話し出したが、話はいつも同じ話題に戻るのであつた。」原文“For a while the people sat silent, and one could hear nothing but the lips of the infant, the rain hissing in the yard, and the breathing of four pigs that lay sleeping in one corner. Then one of the men began to talk about the new boats that have been sent to the south island, and the conversation went back to its usual round of topics.”。ここは「アラン島」の中でも映像的に(SEからも)頗る印象的なシークエンスである。細かいことを言うと、原文では「四匹の豚」である。また、最後の姉崎氏の訳は誤読される虞がある。叙情的な読みをする人は「いつも同じ話題」とは、「死んだ男」の話題という風に読みがちであろうが、ここは次の段落の冒頭に示される通り、「一人の男の死は、直接の肉親の者以外のすべての者にとつては一つの些細な破滅で」しかないのであり、小さな声から普通の声へと移り変わる彼らの話の内容は、もう「死んだ男」の話題ではなく、普段の日常的な話柄へと変じていたことを指しているのである。そうした画面全体(向こうでは、相変わらず男の妹が赤ん坊に乳をやりながら死んだ兄を悼む泣唱を奏でている)を撮る監督シングは、正しくタルコフスキイの先駆者である。

「去年の冬起つたもう一つの破滅は、祝祭日の慣例に一つの奇妙な興趣を添へた。」原文“Another catastrophe that took place last winter gave a curious zest to the observance of holy days.”。最後が生硬。「奇妙な興趣を添へた」は「妙に熱烈な信心の習慣を添えた」、則ち、祝日には仕事をしてはならない、すればろくなことはない、命をも落とすのだ、という頑ななまでのジンクスが広く信じられるようになった、ということである。直後に述べているように、日本のお盆の殺生禁断と同様に、アラン島でも祝祭日には漁に出ることは、恐らく日本的な禁忌というよりも、習慣として祝祭日は安息するもの、と考えられていたのであろうが、この事故をきっかけに「何か譯があつた」→「祝祭日」→多くの島民がそうした禁忌を熱心に信じ始める、という経過を描いているのである。]

宇野浩二 芥川龍之介 九~(4)

 私が芥川を訪問した度数と芥川が私をたずねて来た度数をくらべると、比較にならぬほど、芥川が私をたずねてくる度数の方が多かった。そうして、芥川は、私をたずねてくると、二分の一か三分の一ぐらいの割りで、私をつれだして、私をどこかへ案内した。そうして、芥川と私と一しょに行ったのは殆んど坐〔すわ〕る所であり、そのすわる所の三分の二はたべ物屋である。そうして、行くのは芥川と私と二人だけである。それで、まず、その『二人だけ』の例外から書きはじめよう。それは、不忍池のほとりの、『清凌亭』という小ぢんまりした日本料理店である。
 この『清凌亭』にはじめて行ったのは芥川である。一度か二度そこに行ってから、芥川は、(ひどく気の弱いところもある芥川は、)一人でゆくのがキマリわるくなる理由ができて、友だちを連れて行くようになったのである。
 私がはじめて芥川につれられて『清凌亭』に行った時、芥川のほかに、どういう連れがいたか、私は、まるで覚えていない。(芥川が、『清凌亭』に一人でゆくのがキマリわるくなったのは、そこにつとめている、十七八歳の女中が、ちょいと好きになったのである。その女中とは後の窪川いね子である。)
[やぶちゃん注:「窪川いね子」は作家佐田稲子のこと。]
 私がその上野の桜木町の家に住むようになったのは、その家の裏(その家と背中あわせ) の家に住んでいた、江口 渙の世話で、その家を借りるようになったからである。江口は、ちょっと見ると、恐〔こわ〕そうな顔をしている上に、人なみはずれて声が大きいので、気の荒い人のように見えるが、その反対で、気はいたってやさしく、感情にもろい人である。それで、江口は、私よりも年〔とし〕が四〔よっ〕つぐらい上〔うえ〕であるからでもあるが、私よりもずっと前から、菊池、芥川、久米、佐藤春夫、広島晃甫、川路柳虹、その他と、したしい友だちである。中でも、その頃の、江口と芥川、佐藤と江口、江口と菊池などの友情の厚さは、涙ぐましい程である。まったく『好漢』というのは江口のような人をいうのであろう。その江口が、やはり、芥川につれられて、いつのまにか、『清凌亭』に連れて行かれた事を、くわしく、『芥川龍之介とおいねさん』という文章に、書いている。
 それによると、江口は、久米正雄、菊池 寛、小島政二郎、の三人と、芥川につれられて、『清凌亭』に、行っている。それは大正九年の春である。その時、芥川は、上野展覧会を見たかえりに、江口、菊池、久米、小島、と、ぶらぶらと、上野の山を山下の方へ、あるきながら、突然、江口に、「君、これから一〔ひと〕つ好いところに連れて行ってやろうか、」と、いって、江口を、その『清凌亭』に、連れて行ったのである。
 菊池と久米は、その洗で、芥川に、すでに、何度か、『清凌亭』に、連れて行かれていたのである。
 さて、その時、窪川いね子は、前に述べたように、諺にいう『鬼も十八、番茶も出花』という、十七八歳であり、色白く、豊頰で、眉は濃く、目が大きく、鼻は尋常で、ただ口がやや大きかったが、それも、笑うと、大きな白い歯が見えるので、愛敬になった。それに、髪は銀杏がえしで、(島田の時もあった、)あらい縞〔しま〕のお召〔めし〕をき、(銘仙の時もあった、)それに黒繻子の襟をかけ、はでなお召の前垂〔まえだれ〕をかけていたから、まったく下町〔したまち〕の娘であり、あどけない娘であった。
[やぶちゃん注:「お召し」は御召縮緬のこと。縦横に絹の練糸を用い、横糸に強く縒〔よ〕りをかけて織った高級縮緬。縞縮緬とも。名前は第十一代将軍徳川家斉が好んで着たことに由来。
「銘仙」は、秩父・伊勢崎・足利地方で織られた先染めの平織りの絹織物。
「黒繻子」は「くろしゅす」と読む、黒光沢の繻子織(縦横五本以上からなる密度の高い、光沢の強い織物。サテン)。]
 芥川が、そういう娘のような女中に、署名した自分の本をおくった、というのは、芥川が、世をはかなく思い、みずから命を絶とうとまで考えるようになった理由の一〔ひと〕つの中〔なか〕に、芥川が不義のような事をした一人のナゾの女(前に『謎の謎子』と書いた)があった、という噂が、芥川としたしかった人たちにまで、本当のように、つたわっている。そうして、その時の元になったのは、小穴隆一の『二つの絵』のなかの『S-』という文章である。(このナゾの女は私も面識はあるが、このナゾの女については、後〔のち〕に、くわしく書くつもりである。)
 さて、このナゾの女は女流歌人といわれているが、私は、このナゾの女が何という雑誌に歌を出したか、を知らないから、このナゾの女の歌を、よんだ事はない。芥川がこのナゾの女にはじめて逢ったのは大正八年の六月十日で、岩野泡鳴が主宰していた、十日会に出席した時である。
 十日会とは、毎月十日に、万世橋の駅の二階の「みかど」という西洋料理店で、岩野泡鳴を中心として、その時分の若い作家や詩人や歌人や画家などが、集まって、雑談をする会合で、毎月十日に開かれるので、『十日会』というのである。
 芥川は、その六月十日の日録のなかに、ただ、「……十日会へ行く。始めてなり。岩野泡鳴氏と一元描写論[註―泡鳴の発明した新論]をやる、」と書いているだけであるが、その時、会場で、はじめて、ナゾの女を見かけて、すぐ傍〔そば〕にいた、おなじ十日会の会員廣津和郎[註―廣津は、芥川よりさきにこの会員になっていた]の肩をたたき、その女の方をかげで指さして、「おい、僕を紹介してくれ、」と、廣津に、たのんだのでナゾの女は、二十四五歳ぐらいであったろうか。
[やぶちゃん注:「一元描写論」岩野泡鳴が主張した小説描写論。作中に作者の視点を担う人物を必ず設定し、すべてはその人物の目を通して観察され描写されてこそ、小説は真の人生を描くことが可能となるという、田山花袋の平面描写論への反論として展開された。
「二十四五歳ぐらいであったろうか」秀しげ子は明治二十三(一八九〇)年八月二十日生まれであるから、大正八(一九一九)年六月当時は満で既に二十八歳である。以下の「廣津」の説明でも示されるように、当時の彼女は見た目、かなり若く見えた。]
 廣津は、その女を、「目鼻立ちは当り前であり、飛び抜けて美人とは云へない、いはば十人並〔じふにんなみ〕の器量ではあつたが、小作〔こづく〕りの体〔からだ〕つきは年〔とし〕よりは若く見え、小〔こ〕ぢんまりした顔の中に怜悧な目がよく動き、ちよいと上唇の出た口つきが一種魅惑的であつた、」と述べ、江口は、「……彼女は妖婦ではなかつた。フラッパアでもなかつた。又男性に対して積極的に誘惑の手を差しのべる女でもなかつた。その上いはゆる美人型の美人でもなかつた。無論きれいではあつた。だが、そのきれいさは、むしろ清楚な消極的なきれいさだつた。それでゐて、都会的に洗練されたしとやかさの中に驚くほどこまやかな魅力を多量に持つてゐた。凡そ彼女に好感を寄せる男性に対しては彼女も亦同様な好感を持つて迎へることが出来る女性であつた。その上“How to play a love scene”といふことを好〔よ〕く理解してゐて、しかもそれをあまり露骨に演じなかつた女性であつた、」と書いている。
[やぶちゃん注:「フラッパア」フラッパーとは大正から昭和初期の、正に一九二〇年代に普及した流行語で、「お転婆娘」の意。英語の“flapper”(ばたつくもの・ばたばたする状態)が元で、既存の道徳観などに捉われない女性に対して「おてんば娘」という意味で使われた。但し、当時はボーイッシュや先進的ニュアンスよりも主に批判的軽蔑的で、不良少女の言い換えの感が強かった。
「How to play a love scene」「恋路の手解き」「恋愛処方箋」といった意味。]
 右の二人の云い方は、それぞれ、このナゾの女の特徴のようなものを、さすがに、よく現している。ところで、私は、このナゾの女は、しいて云えば、瘠せ型で、すらりとした体〔からだ〕つきではあるが、私が逢った場合は、都会的なところはあるとしても垢ぬけしたところがあるようでなく、黒人〔くろうと〕じみたところがありながらやはり垢ぬけがしていない、もし魅惑的なところがあるとすれば、細い目でときどき相手の顔をジロリと上〔うわめ〕目に見る事ぐらいである、しかし、それは、スイタらしいところもあればイヤらしいところもあった。
 ところで、芥川は、このナゾの女にも、やはり、署名した自分の本を、おくっているのである。
 これには、なにか、魂胆が、あるのであろうか、ないのであろうか、私には、大した魂胆はないように思われるのである。
 話はまったく変るが、もう十五六年も前の事であろうか。私ははじめて安倍能成に逢った時の事をときどき思い出すのである。安倍がまだ朝鮮の京城大学の教授をしていた頃である。その頃、安倍が、たしか、暑中休暇で東京に帰って来た時、安倍の甥の、小山書店の主人の、小山久二郎に紹介してもらって、はじめて安倍に逢ったのである。
 私(あるいは私たち)が二十歳の文学書生時代に、安倍能成は、新進の評論家として、はなばなしく、活動した。おなじ頃、阿部次郎も、やはり、新進の評論家として、もてはやされた。そうして、この二人は、ほんの少しではあるが、書くものが幾らか似ている上に、おなじ『アベ』であるから、私たちは、それを区別するために、能成の方を『アンバイ』とよび、次郎の方を『アべ』と称した。ところで、書かれている事は別にして、『アンバイ』の文章は、滋味はあるが、地味であり、『アべ』の文章は、わかりよい上に、一種の調子がついていたので、一般には、(『三太郎の日記』などというものがあるので、)非常にうけた。が、その反対に、一部には、「能成の方が、……」というものも可なりあった。私は、もとより、『アンバイ』組の方であった。
 さて、その日の夕方、銀座の裏(つまり、西銀座)の細い町の小〔ちい〕さな日本料理星の二階の一〔ひ〕と間〔ま〕で、私は、小山と一しょに、安倍を、待った。その部屋は、二階の角にあって、夏の事であるから、障子などはまったくはまってなかったので、すぐ外〔そと〕に梯子段の下〔お〕り口が、見えた。
 やがて、その梯子段の下の方から、重い足音がしてきたので、その方を窺がうと、まず、斑白〔はんぱく〕のもしゃもしゃの頭〔あたま〕の毛らしいものが、見えてきた。それが安倍能成であった。
 さて、その晩、その日本料理屋を出ると、安倍が、「……こんどは、僕……」といって、小山と私を、とおりかかるタクシに乗せて、日本橋の呉服橋のちかくの、かなり大きな茶屋に、案内した。とおされた二階の座敷もひろかった。長方形で十五畳〔じょう〕ぐらいの部屋であった。
 やがて、つぎつぎと部屋にはいって来た老若の芸者たちは、みな、安倍を知っていて、「まあ、先生、しばらく、……」と、口口に、いった。それに答えて、安倍は、「やあ、」と云っただけであった。が、その声をたてない笑い顔には何〔なん〕ともいえぬ味〔あじ〕わいがあった。ただ、それだけで、安倍は、それからは、芸者たちを相手に、ぽつりぽつりと、普通の平凡な話をするだけであった。しかし、それから、しばらくすると、安倍は、さまざまの唄を、うたった。しかし、そのさまざまの唄は、安倍が、決して、一人で、うたわなかった。そのかわり、長唄でも、清元でも、常磐津〔ときわず〕でも、小唄でも、安倍は、その芸者がうたえば、(あるいは、かたれば、)一秒ほどおくれて、何でも、うたい、何でも、かたった。
 そこで、私が、あとで、「ふしぎな事をやりますね、が、実にうまいですね、」と、いうと、西洋古代中世哲学史、その他の著者であり、オイケンの『大思想家の人生観』その他の訳者である、安倍は、持ち前のゆったりした口調で、「僕は附ける[註―ひたと合わす、というほどの意味]名人です、」と、いった。
[やぶちゃん注:「オイケン」ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken, 一八四六年~一九二六年)はノーベル文学賞を受賞したドイツの哲学者。安倍訳の「大思想家の人生観」は昭和二(一九二七)年刊。]
 そうして、また、安倍は、芸者たちが、ライオン先生[註―頭の毛からつけたらしい]と呼ぼうが、何といおうが、すこしも頓著〔とんぢゃく〕せず、五十歳ぐらいの芸者とも、十六七ぐらいの舞妓とも、おなじような事を、おなじ口調で、話した。もとより、色気〔いろけ〕というようなものは殆んど感じられない。
 さて、安倍は、(日本橋だけでなく、新橋、その他の芸者にも、)すこしでも知っている芸者たちに、ときどき、旅さきから、『たより』を出す事がある。そうして、変っているのは、その時はかならず芸者の本名を書く。「あの先生は、あたしたちの本名を一ペんお聞きになったら、決してお忘れにならない、」と、安倍を知っている芸者は、みんな、そういうのである。むかし来栖三郎と相愛の仲であった或る芸者が、芸者をやめて、今、名古屋のちかくの四日市で、菓子屋をしている。その四日市の元芸者が、数年前に、「安倍先生からおたよりいただきました、」と、私に、いった事がある。
[やぶちゃん注:「来栖三郎」(くるすさぶろう 明治十九(一八八六)年~昭和二十九(一九五四)年)外交官。ペルー公使やベルギー大使を歴任後、昭和十四(一九三九)年、駐ドイツ特命全権大使となり、翌年の日独伊三国同盟調印では大使として署名している。但し、実際の彼は戦争回避のための親米主張派であった。]
 ところで、かくのごとく、悪例のごとく、ながながと、安倍能成のわたくし事を、書いたのは、芥川が、むかし、『清凌亭』のおいねさんや、謎の謎子、その他に、署名した自分の本を、おくったのは、安倍能成が、ときどき、芸者に、『たより』を出すのと、形はちがうが、ちょいと同じような種類のものではないであろうか、と、ふと、思ったからである。
 また、余談であるが、ある時、辰野 隆が、私に、なにかの話のついでに、「安倍能成は男に惚れられるところがあるねえ……」と。いった。

宇野浩二 芥川龍之介 九~(3)

 いつ頃の事であったか、(大正十一二年頃であったか、)広島晃甫が、突然、たずねて発て、広島の癖で、座につくと、すぐ、芥川のところに、唐の三彩の壺があるらしいが、「それを見たい、すぐ、つれて行ってくれないか、」と、いった。
[やぶちゃん注:「広島晃甫」画家。「一」で既出。]
 広島は、極端な無口で、『遠慮』という事を少しも知らぬ男として友人間に知られている程であったから、私は、もう夜の八時頃であったが、さっそく、広島をつれて、芥川を、たずねた。しかし、芥川は、こころよく、私たちをむかえて、私が広島の希望をつたえると、「ふン、」といったが、すぐ、つぎの間に行って、片手で持てるくらいの、三彩の壺を、持ってきた。
 そこで、広島は、だまって、芥川の手からその三彩の壺を、うけとり、しばらく、矯〔た〕めつ眇〔すが〕めつ、眺めていたが、やがて、「しッ、」といって、芥川の膝の前に、おいた。「しッ、」というのは、「しッ、」というように聞こえるので、広島は、「ありがとう、」という時も、「しっけい、」という時も、自分ではそう云っているつもりであるらしいのに、それが、人には、「あッ、」と聞こえたり、「しッ、」と聞こえたり、するのである。
ところで、芥川は、私がハラハラしているのに、それにはあまり気にとめなかったらしいが、だまって、その三彩の壺を、部屋の隅〔すみ〕に、おいた。そうして、それから、すぐ、立ちあがって、床の間の下〔した〕の戸棚の中から、二つの軸をとりだし、まず、その一つをひろげて、壁にかかっている掛け物の上に、かけてから、芥川は、私たちの方を、(おもに広島の方を、)見ながら、「これは、どうです、」と、いった。
 ところが、それは、広島の好〔す〕きそうな、宗達風の、風景画であったが、広島は、こんどは、一〔ひ〕と目〔め〕見て、首を横にふりながら、「うン、」と、いった。
すると、芥川は、ちょいと苦笑してから、すぐ、その掛け物を取りはずして、別の軸を、するすると、そのあとに、かけた。それは、小〔ち〕さな、長方形を構にした、大きさで、殆んどその紙面いっぱいに、牛を、(牛だけを、)かいたものであったが、一と目見て、私のような者でも、「はッ、」と思っただけに、広島は、その牛の絵が見えると殆んど一しょに、うなるように、「うン、」といった。すると、芥川は、すかさず、私と広島の方を、見くらべるように、眺めながら、
「これは、いいでしょう、」といった。
「うン。」
「これは、僕が見ても、いい。」
 そこで、芥川は、例のニヤニヤ笑いをしながら、
「これは、巧芸画だよ、進呈しようか、」と、私の方をむいて、いった。
[やぶちゃん注:「巧芸画」横山大観が大塚巧藝社(創業大正八(一九一九)年)と大正中期に開発した書画の複製品。原作の可能な限りの再現を目的とし、原作と同じかそれに近い材料・素材を用いて、作業工程もある程度まで再現、プロの画家によって、同質の顔料と手彩色を施した精密複製画を言う。]
 その時、女中が、下〔した〕から、菓子皿をのせた盆を持って、あがって来た。
 そこで、菓子をたべたり、煙草をすったりしながら雑談しているうちに、座がくつろいで来た。
 座がくつろぎ、気もちがくつろぐと、芥川は、しだいに、おしゃべりになった。しぜん、話がはずんでくる。その話がはずんでいるうちに、芥川が、広島に、「あなたが、五六年前の文展に出された、たしか、『夕月』という絵は、ペルシャのミニイアテュウル[註―小画あるいは豆画というほどの意味]から来たのではないか、と思いますが……」というと、広島は、例の云いしぶるような口調で、「……そ、そう、……ミニイアテュウル、……ペルシャ、……サラセン、……」と、いった。
 そこで、私が、側から、
「君は、実に物おばえのいい男だなあ、」というと、
「ふん、」というような返事をしてから、芥川は、目尻に例のうす笑いをうかべながら、「……そうだ、僕の珍蔵している物を見せようか、」と、いいのこして、下〔した〕へおりて行った。
 やがて、あがって来た芥川は、こんどは、ちょいとニコニコしながら、両手で白い細長い瀬戸物の人形のような物を大事そうにかかえて、元〔もと〕の座にすわると、それを、机の上に、そっと、おいた。
「まりや観音〔かんのん〕だよ。」
『まりや観音(摩利耶観音)』とは、徳川時代に、キリスト教が禁止されてから、長崎で、聖母のマリヤを、観音に見たてて、崇拝し信仰したもので、殊に長崎の丸山の遊女たちに信仰された、といわれている。ところで、ここで、芥川が、「まりや観音だよ、」といったのは、たしか、観音の像になずらえてマリヤの像にした瀬戸物で、その像には気のつかないところに十字架の形がついている。
 さて、そのマリヤ観音像を、「どうだ、」というような顔をして、芥川に、見せられた時は、私は、もとより、物に動じても殆んど顔や声にあらわさない広島も、おもわず、はっと、目を見はった。そこで、私が、
「これは、うらやましいね、」というと、
「シッケイしてきたんだよ、」と、芥川は、例のニヤニヤ笑いをしながら、しゃあしゃあとして、いった。
「ぼくも失敬しにゆこうかな。」
「もうないよ。」
 ところで、芥川の『長崎日録』を見ると、

 五月十六日
  與茂平[註―渡辺庫輔]と大音寺〔だいおんじ〕、清水寺〔きよみずでら〕等〔とう〕を見る。今日天晴、遙かに鯨凧〔くじらだこ〕の飛揚するあり。帰途まりや観音一体を得〔う〕、古色頗〔すこぶ〕る愛すべし。

とある。が、これ、亦〔また〕、誠にしゃあしゃあとしているかの如くに見える。
 さて、その夜〔よる〕、かえり道で、広島は、例の云いしぶるような口調であるが、あの芥川の三彩は、あまりきれい過ぎるので、康熙のものではないか、と思う、康熙の物は西洋人がよろこぶけれど、……という意味の事を、私に、はなした。
[やぶちゃん注:以下、「後記」は底本では全体が一字下げ。]
(後記-筑摩書房版の『芥川龍之介』(日本文学アルバム叢書のうち)の中の『手に入れたマリア観音』という題の写真の説明のうち、大正八年[註―二十八歳の年]五月と十一年五月に、彼は二度長崎に遊んでいる。そこで、永見徳太郎、渡辺庫輔〔くらすけ〕、蒲原春夫等を知り、『日本の聖母の寺』――大浦の天主堂、『観音』等を見物している。彼の愛蔵した『マリア観音』は当地で渡辺と共に、「多少の冒険をおかして手に入れたもの」とある。ところで、『マリア観音』を芥川が「多少の冒険をおかして」手に入れたのは、大正十一年の五月に長崎に行った時のことであろう。それは、私が、昭和二十九年の十一月中頃に長崎に行って、渡辺庫輔の案内で、大浦の天主堂を見物に行った時、その『マリア観音』入手の顚末を渡辺に聞くと、渡辺は、例の微笑をしながら、「……あの時、芥川さんが、あの観音さんを私に手ばやくわたしながら『クラスケ、これを……』と云って、浴衣〔ゆかた〕をきていた私のふところに捩じこまれていたのです……」と云ったからである。ところで、大正十一年の五月二十日の日記に「払暁〔ふつげう〕、與茂平〔よもへい〕(渡辺のこと)、春夫の二人と『日本の聖母の寺』に至る、弥撤〔ミサ〕の礼拝式に列せん為なり。松ヶ枝橋〔まつがえばし〕を過ぐる頃、未〔いま〕だ天に星光あり、」とあるから、芥川が『マリア観音』を「シッケイ」したのは五月二十日の夜明け頃ということになる。それから、五月十五日の日記のなかに、「今日〔こんにち〕暑気盛夏の如し、」とあるから、渡辺庫輔が、私に、五月(実は二十日であるのに)に「浴衣をきていた」のが噓でないこともわかるのである。
[やぶちゃん注:「永見徳太郎」(ながみとくたろう 明治二十三(一八九〇)年~昭和二十五(一九五〇)年)は実業家・作家・美術研究家。長崎で家業の倉庫業を営みつつ、俳句・小説などを書いた。南蛮美術・写真の蒐集研究でも知られる。
「渡辺庫輔」(明治三十四(一九〇一)年~昭和三十八(一九六三)年)は作家・長崎郷土史家。芥川が嘱望し、最も目をかけた弟子の一人である。
「蒲原春夫」(かもはら・はるお 明治三十三(一九〇〇)年~昭和三十五(一九六〇)年)は作家・郷土史研究家。長崎県出身。長崎を舞台としたキリシタン小説を発表、大正十一(一九二二)年、渡辺庫輔とともに上京、芥川に師事した。]
 それから、おなじ本のおなじペイジの中に、芥川が、やはり、大正十一年の五月に、長崎の茶屋(『鶴の家』)に書きのこしたちょいと有名な『河童屏風』の写真が出ている。この『河童屏風』について、たしか、青野季吉が、あの銀屏風が、年月〔としつき〕を経て、銀がいくらか黒くなり、銀色が沈んでいるので、あの気味のわるい河童〔カッパ〕の絵が一そう気味わるく見える、という意味のことを云った。まったく青野の云うとおり、私は、『鶴の家』であの屏風を見たとき、その凄みと気味わるさに、正視できなかった、目をおおいたくなった。あの河童は、私が見たかぎりでは、どの人がかいた河童(十数疋の河童)のどれにも似ていない、他の人のかいた河童どもはたいてい何か趣きがあり幾らかの愛敬〔あいきょう〕もあり諧謔もある。ところが、この屏風の河童には、何の趣きもなく、愛敬もなく、諧謔もない、唯ただ凄さと気味わるさがあるだけである。猶この銀屏風の、右半双〔そう〕には、「橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆるかぶろ(禿)のあたま」という歌を三行に書き、その横に少し下げて少し小さい字で「お若さんの為に」と書き、その横にずっと下げてもう少し小さい字で「我鬼酔筆」と書いてある。(お若とはその頃の長崎の芸者照菊の本名である。)芥川は、その時、呼ばれた茶屋にあらわれた四五人の芸者のなかで、この照菊に一ばん興味を持っていたらしい。『長崎日録』のなかで、芥川は、「戯れに照菊に与ふ、」として、『萱艸〔くわんぞう〕も咲いたばつてん別れかな』という句を照菊に寄せている。この照菊は、今は、本名の杉本わかとなり、『鶴の家』のおかみになっているが、今は五十を半〔なか〕ば過ぎているであろう。が、私は、去年(昭和二十九年)の秋、この人に逢ったが、今でもまず美しく、大へん失礼な言葉であるが、この人はどこか芥川未亡人に似ているところがあるようにも思われた。それから、例の『河童屏風』は、私には、一分と眺めてはいられなかった、まったく青野の云うように、無気味で、実にもの凄くて、殆んど正視できなかった。そこで、卑しいことを云うと、芥川の書いたものなら大抵ほしいけれど、この屏風は……この屏風は、今の持ち主がもし私とおなじ思いをいだいているとすれば、東京の博物館にでも納めてはどうであろう。)
[やぶちゃん注:『河童屏風』(正しくは「水虎晩帰之図」と言う)についての宇野の感想には激しく反論する(但し、誰もが観賞出来る博物館等への寄贈云々は支持するし、実際に現在は長崎歴史文化博物館の所蔵となっている)。河童は零落した神であり、本来は人の尻子玉を抜いて死に至らせる立派な恐るべき妖怪である。更に零落させられて滑稽諧謔のみに堕した河童は真の河童にあらず(芥川の「河童」の登場する連中でさえ、実は我々人間から見てひどく不気味なものとして描かれている)。――私なら喜んで言い値で買う。]
 ところで、『長崎日録』は大正十一年であるが、大正十二年の『澄江堂日録』の六月六日、というところを読むと、芥川は、つぎのような事を、書いている。

 蒲原[註―蒲原春夫]君に枇杷を貰ふ。午後、永日荘〔えいじつさう〕にペルシャの古陶を観る。価〔あたひ〕高うして購〔あがな〕ふべからず。

 ところが芥川龍之介全集の月報の第四号[註―昭和三年三月]を見ると、その中に、「遺愛の一つ」として、タテ四寸三分五厘四毛というギリシャの壺の写真が出ている。もとより、写真であるから、よくわからないけれど、もし本当のギリシャの壺であるならば、まったく大〔たい〕したものである。それに、これは、さきに書いたように、芥川の「遺愛の一つ」として、親友であった小穴が、えらんだのであるから、本物であろう。ところで、ここで、どうしても不思議なのは、芥川がはっきり「僕の家に伝はつた紫檀」のペン皿と書いているのを、小穴が、さきの月報のなかで、やはり、「遺愛の一つ」として選んで出している、ペン皿の説明に、「竹材、本是云々の文字は菅白雲さんの書であらうが、刻上〔きざみあ〕げた人は僕知らぬ。故人のペン皿はこれ、」と書いている事である。それは、写真で見ても、芥川が書いているとおり、窪んだ中に、「本是云々」という菅虎雄の字が刻んであり、外には、やはり、細木伊兵衛が刻んだ、という「素人の手に成つたらしい岩や水」が刻んであるから、小穴が「遺愛の一つ」として写真で出したペン皿と、芥川が『ペン皿』という文章で書いているペン皿は、同じ物にちがいないのであるが、ちがうのは『竹』と『紫檀』であるから、これは、たいへんな違いである。(芥川の事を誰よりもよく知っている筈の小穴にも、こういうマチガイがあるのであるから、私のこの『思い出すままに』などという文章はマチガイだらけにちがいない。たびたび断るようであるが、やはり、この事をくりかえし断っておく。)

宇野浩二 芥川龍之介 九~(2)

 さきにくどいほど書いた、ゴオゴリの胸像(テラコッタ)をかりに骨董とすれば、芥川は、ある人たちが考えるほど、骨董という物にさほど興味をもっていなかったように、私は、思う。ただ、芥川の身辺にある物であれば、何〔なん〕でもない物が、ツマラない物でも、由緒〔ゆいしょ〕ありげに見え、味〔あじ〕わいがあるように思われたのではないか。それは、芥川よりたった二〔ふた〕つ年下〔としした〕の、小島政二郎、佐佐木茂索、というような、なみなみならぬ利発で利口な人でさえ、芥川の事では、あとで苦笑させられたような事がしばしばあったのではないか、と、私には、臆測されるからである。それから、更に臆測をたくましゅうすれば、芥川は、骨董(あるいは、それに類した物)を、無料、ではなくても、案外、手軽に、また、俗なことをいえは、安く、手に入れていたのではないか、と思われる節〔ふし〕もあるからである。

 芥川が死ぬまで住んでいた家は、その頃は、東京市外田端町で、市電の動坂から行っても、省線の田端から行っても、かなり遠く、どちらから行っても、長い坂道があり、さて、やっと近くまで行けば、入り組んだ細い道で、その細い道をいくつかまがったところの角〔かど〕で、その角に門があった。そうして、その門をはいって、石畳〔いしだたみ〕を一間〔けん〕ぐらい踏んでゆくと、目のあらい格子戸〔こうしど〕のはまった入り口がある。そうして、時によると、その格子の横桟に、今の言葉でいえは、A5判より少し大きいぐらいの大きさの紙が白い紐でしばりつけてあって、その紙に、『忙中謝客』という字を、『忙 中』『謝 客』とならべて、しゃれた書体で、墨で書いてある。ところが、近づいて、よく見ると、その左側の『謝 客』のよこに、うすい墨色〔すみいろ〕でくずした字で、「おやぢにあらずせがれなり」と書いてある。つまり、この「せがれ」を芥川龍之介とすれば、「おやぢ」は、龍之介の養父の、芥川道章であろう。これは、何〔なん〕と、珍〔ちん〕な札〔ふだ〕ではないか。しかし、これは、今、かんがえると、(いや、そのとき見ても、)おもしろき札である。しかし、また、このような『珍中〔ちんちゅう〕の珍〔ちん〕』ともいうべき札を、所もあろうに、入り口に、かけているところが、やはり、芥川であり、また、こういう光景は、芥川の小説を思わせもして、おもしろいではないか。ところで、年月〔としつき〕を経て、往事〔おうじ〕を回想しながら、このような呑気〔のんき〕らしい事を書いているけれど、三十にもならないうちに鬱然たる大家になり、同時代の数多〔あまた〕のすぐれた作家のなかでもっとも花やかに見えた、芥川龍之介を、さきに述べたように、電車をおりてからかなり遠い道をあるいて、やっと、たどりついて、たずねていったところで、奥ぶかく見える家の入り口で、この『忙中謝客』の札を見れば、気のよわい文学青年なれば、(あるいは、文学青年でなくても、)おおげさにいえば、芥川龍之介という人間が、後光〔ごこう〕でもあって、奥の院〔いん〕におさまっているような人物と思われて、しばし、茫然としたであろう。

 芥川の書斎(をかねた客間)は、この入り口をはいった玄関の部屋の斜め上ぐらいのところにあった。部屋は八畳〔じょう〕か十畳ぐらいである。廊下からその部屋にはいると、右手に、まん中に柱があって、その柱の手前は一間と三尺ぐらいの、たしか、板の間〔ま〕で、その向〔むこ〕うに二枚の小〔ちい〕さな障子のはまった小窓があった。そうして、その小窓の前に、二〔ふた〕つの本棚がならんでいて、その三尺ぐらいの二つの本棚には、二つともたぶん四〔よ〕ならびに、和本が横につんである。その本棚は、たしか、三段で、一ばん下〔した〕だけが広かった。さて、中央の長のむかって右側は、床〔とこ〕の間〔ま〕であるが、この床の間は、下〔した〕の方〔ほう〕が二尺〔しゃく〕ぐらいの高さの戸棚になっていて、その上〔うえ〕は、やはり、和本らしいものが、横にならべて、五六冊か十冊ぐらいずつ、積〔つ〕み重〔かさ〕ねてあった。が、その中〔なか〕には、帙〔ちつ〕に入れたものなどもあり、ふるい陶器でも入れてあるらしい茶色の箱などもあった。それから、壁には、誰かの手紙か原稿からしいものを表装したものが掛けてあり、壁の隅に掛け物の巻いたのが二三本たてかけてあった。

 さて、真中〔まんなか〕の柱から五六尺はなれたところに、紫檀〔したん〕の机がすえてあって、芥川は、いつも、その机の前に、すわっていた。そうして、その机の横に小〔ちい〕さい長火鉢がおいてあったので、私は、芥川をたずねると、その長火鉢の横に、すわる事になっていた。

 芥川は、大正五年(かぞえ年〔どし〕、二十五歳の年)の秋、『芋粥』を書いて、はじめて、一枚四十銭の原稿料をとったが、それでは一人前の生活ができないので、その年の十二月に、海軍機関学校の教官になった。(その年の十二月九日〔ここのか〕に、漱石が、死んだ。)ところが、それから一年ほど後〔のち〕に、六十円の月俸が百円にあがり、原稿料も一枚二円前後になったので、「これらを合〔あは〕せればどうにか家計を営〔いとな〕めると思ひ、前から結婚する筈だつた友だちの姪と結婚した。僕の紫檀の古机〔ふるづくゑ〕はその時夏目先生の奥さんから祝つて頂〔いただ〕いたものである。机の寸法は竪三尺、横四尺、高さ一尺五寸位であらう。木の枯れてゐなかつたせゐか、今[註―大正十五年]では板の合〔あは〕せ目〔め〕などに多少の狂ひを生じてゐる、」と、芥川が、書いている。それから、おなじ文章のなかで、芥川は、「小さい長火鉢を買つたのもやはり僕の結婚した時である。これはたつた五円だつた。しかし抽斗〔ひきだし〕の具合〔ぐあひ〕などは値段よりも上等に出来あがつてゐる、」と、述べている。これで見ると、紫檀の机は無料であり、小さき長火鉢は金五円である。いずれにしても、これだけでも、いかに、芥川が、物もちのよい男であったかが、わかるであろう。

[やぶちゃん注:以上の引用は芥川龍之介が大正十五(一九二六)年一月発行の雑誌『サンデー毎日』に掲載した「身のまはり」から。以下の複数の引用も同じ(リンク先は私のテクスト)。]

 それから、私が、芥川のところに行くと、いつも、机の上に、妙に私の目をひく物があった。それは、私のすわっている方からいえば、机の上の一ばん手前においてある、凝〔こ〕りに凝った、ペン皿である。これは、私のような無骨〔ぶこつ〕な者には殆んど不用な物であるから、目に立ったのであろうが、万年筆をきらって、ふだん、ペン(Gペン)を使っていた、芥川の自慢の物らしかったからでもある。芥川は、そのペン皿について、つぎのように、書いている。

 夏目先生はペン皿の代りに煎茶の茶箕を使つてゐられた。僕は早速その智慧を学んで、僕の家に伝はつた紫檀の茶箕をペン皿にした。(先生のペン皿は竹だつた。)これは香以〔かうい〕[細木香以は、幕末の江戸の一代の通人で、新橋の山城河岸の酒屋であったが、豪遊を事としたが、「年四十露に気のつく花野哉」とよんで店を継母にわたし、妻のふさと子の慶次郎をつれて、浅草の馬道の猿寺に移った。この香以の姉の子が芥川の養母である。芥川の『孤独地獄』は香以を題材にしたものであるが、森 鷗外の『細木香以』はすぐれた小説である。大方の人に一読をすすめる]の妹婿に当たる細木伊兵衛のつくつたものである。僕は鎌倉に住んでゐた頃、菅虎雄先生に字を書いて頂〔いただ〕きこの茶箕の窪んだ中へ「本是山中人愛説山中話〔もとこれさんちゆうのひととくことをあいすさんちゆうのわ〕」と刻ませることにした。茶箕の外〔そと〕には伊兵衛自身がいかにも素人〔しろうと〕の手に成つたらしい岩や水を刻んでゐる。といふと風流に聞えるが、生来〔しやうらい〕の無精〔ぶしやう〕のために埃〔ほこり〕やインクにまみれたまま、時には「本是山中人」さへ逆〔さか〕さまになつてゐるのである。

[やぶちゃん注:「茶箕」は「ちやみ(ちゃみ)」と読み、煎茶の殻・塵を取り除く箕である(最近では靴べらのような形をした茶筒から茶葉を掬う道具を指しているが)。

「浅草の馬道の猿寺」は、鷗外の「細木香以」に書かれたものの転載であるが、「猿寺」というと現在、東京都中野区上高田にある臨済宗松源寺で、この寺は江戸期には牛込通寺町にあったものの、「浅草の馬道」ではない。識者の御教授を乞う。

「本是山中人愛説山中話」は、特にその初句を芥川は好んで揮毫した。中国の禅僧蒙庵岳の「鼓山蒙庵岳禪師四首」の一首「本是山中人 愛説山中話 五月賣松風 人間恐無價」から採ったもの。]

 この文章のはじめの方の(先生のペン皿は竹だつた。)とあるのを読むと、(僕のペン皿は紫檀ですよ、)というようにもとれない事もない。

 それから、このペン皿の前に、(ペン皿でなく、硯がおいてあったかもしれないが、なにぷん二十六七年か三十年ぐらい前の記憶であるから、記憶がアヤフヤである、)やはり、凝った硯屏〔けんびょう〕がおいてあった。この硯屏は、私のような無知な者が見ても、見事〔みごと〕なものであったが、この青磁の硯屏も、こんど、必要があって、芥川の全集をとりどりに読みかえしてみると、これも、団子坂の骨董屋で、室生犀星が、見つけてきて、「売らずに置けといつて置いたからね、二三日中〔にちうち〕にとつて来なさい。もし出かける暇がなけりや、使でも何でもやりなさい、」といったので、十五円ぐらいで、買った物である。すなわち、これでわかるように、紫檀の茶箕のペン皿は無料であり、青磁の硯屏は金十五円である。

僕は

今日の今日まで僕は好き勝手にしてきた――

だから――

僕は今日の今日まで僕が好き勝手にしてきたことの償いを――

明日から(しかしやはり)好き勝手に償おうと思う――

だからこその――

歸去來(かへりな)ん いざ 田園 將に蕪(あ)れんとす 胡(なん)ぞ歸らざる――

2012/03/22

歸去來兮 田園將蕪胡不歸

歸去來兮 田園將蕪胡不歸

教師 狂師 最後の日に

……「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇はないから。」

 鐵冠子はかう言ふ内に、もう歩き出してゐましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、

「おお、幸、今思ひ出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持つてゐる。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好(い)い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」と、さも愉快さうにつけ加へました。

芥川龍之介「杜子春」終章)

2012/03/21

亡くしたものは……

先日の佐渡島で、僕は僕が唯一自分で選んで買った――僕の身に着けているものは悉く母か妻が買ったものなのだが――正にアランのイニシュマーン島で買ったマフラーを――亡くした――

僕が人生で亡くしたものは――一体、何だったのだろう……

亡くしたものより――得たものの方が――ずっとずっと多いのに――僕らはいつも――亡くしたものしか考えず、そして、亡くしたことをただただ哀しむという――芥川龍之介が「枯野抄」で解剖したような――愚かな生きものなのかも――知れないね……

ともかく――これで一つの終わりは――否応なく――やって来る――

では諸君――まずは、随分、御機嫌よう――

――そして――

また――何時か――何處かで……

宇野浩二 芥川龍之介 九~(1)

     九

 この前の回の中で、芥川が木蘇 穀から印章を買うことを述べたが、その年月を忘れたので書かなかった。ところが、芥川の全集の書翰篇のうちの、つぎにうつす手紙をよんでそれが大正十一年の三月下旬であることがわかった。
[やぶちゃん注:「大正十一年の三月下旬」三月二十六日。岩波旧全集書簡番号一〇〇九。]

 拝啓 この頃左の印を得ました鳳鳴岐は読めるのですがもう一つのは読めないのです何哉ですか教へて頂けれは幸甚です又小さい印の中細長い○日○石とか云ふ○印の中も教へて頂ければ幸甚です

こう書いたあとに、その字のよめない印が縦〔たて〕に六〔むっ〕つ押してある。そうして、そのあとに、「作者は皆蔵六です 頓首 香取先生」とある。香取とは香取秀真である。

 その後無恙〔つつがなく〕御消光の事と存候さてこの頃石印両三顆手に入れ候につき御鑑裁を経たく存居侯へども近々御来駕下さるまじく候や当方より参上致す可〔べ〕きの所何分にも煉瓦程の石印につき途中難渋に候間手前勝手を申上ぐる次第に御座候[下略]
[やぶちゃん注:これは大正十一(一九二二)年三月二十六日佐佐木忠一宛。岩波旧全集書簡番号一〇一〇。佐佐木忠一は佐佐木茂索の兄で、骨董屋を経営していた。]

 この二つの手紙のうちの、前の香取にあてた中の印の読み方は、(ここにその印を押したのを木版にして出せば判断はつくが、)『鳳鳴岐』は『鳳鳴岐山』であり、『何哉』は『鉞哉』であり、『○日○石』は『終日弄石』である。いずれにしても、これらの手紙をよむと、芥川が、木蘇からゆずりうけた印を自分の物にして、いかに喜び得意になったかが、うかがわれ、私も、これを知って、その印について間接の世話をした事を思い出して、うれしい気がするのである。
[やぶちゃん注:「鉞」は音「エツ」、訓で「まさかり」。鮮やかな斧正や王権を象徴する。]
 なお、香取秀真は、子規門人のふるい歌人であり、工芸(殊に鋳金)の大家である。芥川が、大〔だい〕きらいな犬をおっばらうために常用していた、といわれる、籐〔とう〕のステッキの頭〔あたま〕についていた、たしか、真鍮の、鳳凰の頭は、香取が造ったものである。こういうステッキはまったく珍しいものであったから、このステッキがいかなる場所においてあっても、その近くにかならず芥川がいる事がわかった。(十数年前に或る百貨店で物故作家の遺品展覧会があった時、あのステッキが出ていたが、あれは今だれが持っているのであろう。ところで、そのステッキ物語があるが、それは後に述べることにしよう。)
 ところで、芥川は、さきに述べたような手紙を書いた日から五日後〔いつかのち〕に、小説の題材に必要な事を聞きただす、という用事だけで、塚本八洲[註―芥川の夫人の弟]に、手紙を書いているのである。つまり、芥川はその手紙の中に、

㈠明治元年五月十四日(上野戦争の前日)はやはり雨天だつたでせうか
㈡雨天でないにしてもあの時分は雨降りつづきだつたやうに書いてありますが、上野界隈の町人たちが田舎の方へ落ちるのにはどう云ふ服装をしてゐたでせう? 殊に私の知りたいのは足拵へです足駄、草鞋、結ひ付け草履、裸足、等の中〔うち〕どれが一番多かつたでせう?
㈢上野界隈、今日〔こんにち〕で云へば伊藤松坂あたりから三橋へかけた町家の人々は遅くも戦争の前日には避難した事と思ひますがこれは間違ひありますまいか? 念の為〔ため〕に伺ひたいのです皆面倒な質問ですがどうかよろしく御返事下さいかう云ふ点が判然しないと来月の小説にとりかゝれないのです
[やぶちゃん注:三月三十一日附。岩波旧全集書簡番号一〇一一。]

と書いて、この手紙をあてた、塚本に、「「御祖母様に伺つた上〔うへ〕二三日中〔ちゅう〕に御返事下さい、」とたのんでいるのである。
 ここに、芥川が、「来月の小説」と書いているのは、『お富の貞操』である。そこで、『お富の貞操』を読みなおしてみると、「戸をしめ切つた家の中は勿論午過〔ひるす〕ぎでもまつ暗だつた。人音も全然聞えなかつた。唯耳にはひるものは連日の雨の音ばかりだつた。雨は見えない屋根の上へ時々〔ときどき〕急に降りそそいでは、何時〔いつ〕か又中空〔なかぞら〕へ遠のいて行つた、」[★やぶちゃん注:「連日の雨」に「ヽ」点があるがこれは宇野によるものである。以下の傍点も同じ。]というところと、「手織木綿の一重物に、小倉の帯しか……」[★やぶちゃん注:「手織木綿の一重物」に「ヽ」点。]というところと、「素裸足に大黒傘を……」[★やぶちゃん注:「素裸足」に「ヽ」点。]というところぐらいが、塚本の祖母に教えられた事を使っているだけで、他はことごとく芥川の空想(あるいは創作)である。してみると、『お宮の貞操』はすぐれた小説ではないけれど、雨降りの描写や殊に猫の描写などは、さすがに、水際〔みずぎわ〕だっている。(『花舞台霞猿曳〔はなぶたいかすみのさるひき〕』のなかに、「見れば見る程、くつきりと、水際の立つよい男」という文句があるが、)芥川の幾つかの小説には、まったく水際だった作品がある。
[やぶちゃん注:「花舞台霞猿曳」は江戸後期の歌舞伎。四世中村重助作の所作事で、天保九(一八三八)年、江戸市村座にて初演された。狂言「靱猿」に基づく。]
 芥川の小説を、このごろ、あまりよく云わない人が多いが、(かく云う私もときどきそう思う事もあるが、)芥川のさきにも、芥川のあとにも、芥川が書いたような、水際だった小説を、(よかれあしかれ、)作〔つく〕った人はないのではないか。ついでに褒〔ほ〕めていえは、私がさきに述べたように、芥川は、空想の才能はあまりなかったとしても、(いや、相当にあったけれども、)それを十分〔じゅうぶん〕におぎなう、独得の、無類の、心にくいような、文学的才能は、多分に、持っていたのである。
[やぶちゃん注:最後の宇野の逆説的な謂いは分かり難い。ここは「芥川は、空想の才能はあまりなかったとしても――いや、相当にあったけれども、それを作品にあからさまに発揮することを芥川は感性として好まなかったために、空想の才能の煌めきを感じさせる芥川の作品は少ないのだが――そこに起因する種の物足りなさを十分におぎなうに足る独得の、無類の、心にくいような、稀有の『物語作家〔ストーリー・テラー〕』としての文学的才能は、多分に持っていたのである。」といった意味で私は採る。但し、私は同時代の作家たちに比べて芥川龍之介の作品に空想が欠けている、とは思っていないことを付け加えておきたい。]

2012/03/20

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (5)

 マイケルは晝間は忙しいので、私は毎日來て、愛蘭土語を讀んでくれる一人の男の子を得た。
 その子は十五歳位で、非常に賢く、私たちの讀む言葉や物語に本當の好意を持つてくれる。
 或る晩、私に二時間、本を讀んでくれた時、疲れたかと尋ねた。
 「疲れたつて?」彼は答へた、「本を讀んで疲れることなんかありやしない。」
 數年前まで、こんな知的傾向の少年達は年寄りの人達と一所に坐つて、その物語を覺えたものであらうが、今はこんな少年達は、ダブリンから來る愛蘭土語の本や新聞に心を向ける。
 私たちの讀む大抵の物語には、英語と愛蘭土語の兩方が竝べてあるが、少し曖昧な章句になると、彼は英語の方を臨き見してゐるのを見かける。併しお前は愛蘭土語より英語の方がよくわかると私が云ふと、彼は憤慨した。彼は多分、英語よりも地方的な愛蘭土語の方がよくわかり、又印刷されると、愛蘭土語よりも英語の方がよくわかるのであらう。何故なら、印刷された愛蘭土語には彼のわからない地方的な形がよく出て來るからである。
 二三日前、彼がダグラス・ハイド[Douglas Hide. 愛蘭土文藝復興の指導者の一人、同國の詩や傳説を集めて、その國語を以て書くことを努めた人]の「爐邊にて」[Beside the Fire]の中の傳説を讀んでゐると、譯の中で、彼の目に觸れた所があつた。
 「英譯に一つ間違ひがある。」と云ひ、一寸躊躇した後で、「golden chair としないで gold chair としてある」と云つた。
 私は、gold watches (金側時計)、gold pins (金の針)と云ふのだと教へた。
 「何故さういふのかなあ。」彼は云つた。「golden chairの方がずつと綺麗なのに。」
 初歩の學習が言葉の形式と共に思想までも、研究しようとする批評的精神の萌(きざし)を彼に與へたことを考へると面白いことである。
 或る日、私は紐繫ぎの奇術に言ひ及んだ。
 「貴方が紐を繫ぐ筈がない。そんなことは云はないで下さい。」彼は云つた。「どんな風にして私たちを瞞したんだか知らないが、あの紐を繫いだのでは毛頭ないんだ。」
 また或る日、一緒に居たが、煖爐の燃えが惡かつた。私は風道を作るため、その前に新聞紙を當てがつたが、餘り效果がなかつた。少年は何んとも云はなかつたが、私を馬鹿だと思つてゐたのであらう。
 翌日、非常に迫(せ)きこんでやつて來た。
 「爐に新聞紙を當てがつてやつてみた。」彼は云つた。「そしたら盛んに燃えた。貴方がやつてゐるのを見た時、全く駄目だとは思はなかつたが、先生(學校の先生)の家で爐で紙を當てがつたら、よく燃え上つた。それから紙の端をゆるめて頭を突込んでみたら、冷い風が煙突へ吹き上つてゐた。全く頭を吸ひ込まれさうになる程に。」
 私たちは殆んど喧嘩をする所であつた。何故なら、土地の手織の方が島の原始的な生活を聯想さすので、遙かに彼に似合ふのであつたが、彼はそれを嫌つて、ゴルウェー産の晴着で、寫眞を撮つてくれと云ふからであつた。彼の鋭い氣性をもつて、苟くも世の中に踏み出すならば、やり通すことが出來るだらう。
 彼は始終考へてばかりゐる。
 或る日、島の人たちの名前は、國では大へん可笑しくはないかと聞いた。
 私は少しも可笑しくはないと答へた。
 「さうかね。」彼は云つた。「島では貴方の名前は大そう可笑しい。私たちの名前も國では、多分大そう可笑しいだらうと思つた。」
 これは或る意味で道理がある。名前は此處で全く普通であるが、その名前は近代の姓氏法とは全く違つた方法を用ひてゐる。
 子供が島の中を歩き出すと、村の人は彼をその洗禮名(クリスチァン・ネーム)で呼び、父の洗禮名(クリスチァン・ネーム)を後につける。
 それでも充分に、いひ表はされない時は、その父の通り名――綽名かその父の名――が附け加へられる。
 父の名が借りられない場合があるが、その時は、母の洗禮名(クリスチァン・ネーム)が通り名として用ひられる。
 此の宿の近くの或る婆さんは「ペギーン」と云はれるが、その息子は「パッチ・ペギーン」、「シォーン・ペギーン」等である。
 時時、姓が愛蘭土式に用ひられるが、彼等同志で愛蘭土語を話してゐる時、「マック」(Mac)を上につけて用ひてゐるのを聞いた事がない。恐らく姓の考へは彼等にとつて餘り新し過ぎ、私の氣がつかない時に、時時使ふぐらゐなものであらう。
 或る時は、その髮の毛の色から名附けられる。それでシォーン・ルア(赤毛のジョン)があり、その子供は「ムールティーン・シォーン・ルア」等である。
 また或る人は「アン・イスガル」(漁夫)、その子供は「モーリャ・アン・イスガル」(漁夫の娘、メァリ)等として知られてゐる。
 學校の先生が私に云つたが、朝、名簿を讀み上げる時、公けの名前の後では、子供たちが皆一緒に小聲で土地風の名前を繰り返す。するとその子供が返事をする。例へば先生が「パトリック・オフラハティ」と呼ぶと、子供たちは「パッチ・シォーン・ダルグ」と云ふやうな名前を小聲で云ふ。すると子供が返事をする。
 此の島へ來る人も多く同じやうに取扱はれる。近頃フランス人のゲール語研究家が島に來たが、常に「アン・サガート・ルア」(赤毛の坊さん)、或は「アン・サガート・フランカハ(フランス人の坊さん)と呼ばれ、決して名前では呼ばれない。
 若し島の人が、名前だけで通る場合には、それだけが用ひられる。私は「エーモン[エドモンドの愛蘭土名]と呼ばれる男を知つてゐる。島で他にも「エドモンド」といふ男があるかも知れないが、その場合には大概通常な綽名とか通り名とを持つてゐるのであらう。
 他の國、例へば現代のギリシアのやうに、名前が幾分似寄つてゐる所では、その職業がその人を表はす最も普通の方法であるが、皆同じ職業を持つてゐる此處では、此の方法は役に立たない。

As Michael is busy in the daytime, I have got a boy to come up and read Irish to me every afternoon. He is about fifteen, and is singularly intelligent, with a real sympathy for the language and the stories we read.
One evening when he had been reading to me for two hours, I asked him if he was tired.
'Tired?' he said, 'sure you wouldn't ever be tired reading!'
A few years ago this predisposition for intellectual things would have made him sit with old people and learn their stories, but now boys like him turn to books and to papers in Irish that are sent them from Dublin.
In most of the stories we read, where the English and Irish are printed side by side, I see him looking across to the English in passages that are a little obscure, though he is indignant if I say that he knows English better than Irish. Probably he knows the local Irish better than English, and printed English better than printed Irish, as the latter has frequent dialectic forms he does not know.
A few days ago when he was reading a folk-tale from Douglas Hyde's Beside the Fire, something caught his eye in the translation.
'There's a mistake in the English,' he said, after a moment's hesitation, 'he's put "gold chair" instead of "golden chair."
I pointed out that we speak of gold watches and gold pins.
'And why wouldn't we?' he said; 'but "golden chair" would be much nicer.'
It is curious to see how his rudimentary culture has given him the beginning of a critical spirit that occupies itself with the form of language as well as with ideas.
One day I alluded to my trick of joining string.
'You can't join a string, don't be saying it,' he said; 'I don't know what way you're after fooling us, but you didn't join that string, not a bit of you.'
Another day when he was with me the fire burned low and I held up a newspaper before it to make a draught. It did not answer very well, and though the boy said nothing I saw he thought me a fool.
The next day he ran up in great excitement.
'I'm after trying the paper over the fire,' he said, 'and it burned grand. Didn't I think, when I seen you doing it there was no good in it at all, but I put a paper over the master's (the school-master's) fire and it flamed up. Then I pulled back the corner of the paper and I ran my head in, and believe me, there was a big cold wind blowing up the chimney that would sweep the head from you.'
We nearly quarrelled because he wanted me to take his photograph in his Sunday clothes from Galway, instead of his native homespuns that become him far better, though he does not like them as they seem to connect him with the primitive life of the island. With his keen temperament, he may go far if he can ever step out into the world.
He is constantly thinking.
One day he asked me if there was great wonder on their names out in the country.
I said there was no wonder on them at all.
'Well,' he said, 'there is great wonder on your name in the island, and I was thinking maybe there would be great wonder on our names out in the country.'
In a sense he is right. Though the names here are ordinary enough, they are used in a way that differs altogether from the modern system of surnames.
When a child begins to wander about the island, the neighbours speak of it by its Christian name, followed by the Christian name of its father. If this is not enough to identify it, the father's epithet--whether it is a nickname or the name of his own father--is added.
Sometimes when the father's name does not lend itself, the mother's Christian name is adopted as epithet for the children.
An old woman near this cottage is called 'Peggeen,' and her sons are 'Patch Pheggeen,' 'Seaghan Pheggeen,' etc.
Occasionally the surname is employed in its Irish form, but I have not heard them using the 'Mac' prefix when speaking Irish among themselves; perhaps the idea of a surname which it gives is too modern for them, perhaps they do use it at times that I have not noticed.
Sometimes a man is named from the colour of his hair. There is thus a Seaghan Ruadh (Red John), and his children are 'Mourteen Seaghan Ruadh,' etc.
Another man is known as 'an iasgaire' ('the fisher'), and his children are 'Maire an iasgaire' ('Mary daughter of the fisher'), and so on.
The schoolmaster tells me that when he reads out the roll in the morning the children repeat the local name all together in a whisper after each official name, and then the child answers. If he calls, for instance, 'Patrick O'Flaharty,' the children murmur, 'Patch Seaghan Dearg' or some such name, and the boy answers.
People who come to the island are treated in much the same way. A French Gaelic student was in the islands recently, and he is always spoken of as 'An Saggart Ruadh' ('the red priest') or as 'An Saggart Francach' ('the French priest'), but never by his name.
If an islander's name alone is enough to distinguish him it is used by itself, and I know one man who is spoken of as Eamonn. There may be other Edmunds on the island, but if so they have probably good nicknames or epithets of their own.
In other countries where the names are in a somewhat similar condition, as in modern Greece, the man's calling is usually one of the most common means of distinguishing him, but in this place, where all have the same calling, this means is not available.

[やぶちゃん注:「私たちの讀む言葉や物語に本當の好意を持つてくれる。」原文“with a real sympathy for the language and the stories we read.”。日本語でも注意深く読めば間違えないのであるが、この「私たちの讀む言葉や物語」「私たち」はシングとこの少年であり、「言葉や物語」とは、ゲール語やゲール語で書かれたケルト系の伝承を指している。
「ダグラス・ハイド[Douglas Hide. 愛蘭土文藝復興の指導者の一人、同國の詩や傳説を集めて、その國語を以て書くことを努めた人]古代ゲール語学者、ゲール語連盟・アイルランド民俗学協会(“the Folklore of Ireland Society”)の設立者にして後の初代アイルランド共和国大統領Douglas Hyde(Dubhighlas de Hide 1860年~1949年)。第二部の「コンノートの戀歌」“Love Songs of Connaught”(「コナハトの恋愛歌集」)の注参照。
『「爐邊にて」[Beside the Fire]』同上部に既出。ダグラス・ハイドによるアイルランド民話や伝承の民俗学的集成。1910年刊。
「golden chair としないで gold chair としてある」は、『「金で出来た椅子」とせず、「金色をした椅子」とある。これ、如何?』という不服である。
「私は、gold watches (金側時計)、gold pins (金の針)と云ふのだと教へた」は、『怎(そも)、真鍮なれど金メッキなれど、これ、「金時計」「金の留め金」と言うが如し』というシングの返答である。この辺り、禅問答のようで私には頗る面白いのである。「golden chairの方がずつと綺麗なのに。」という少年に、私は一本!
「初歩の學習が言葉の形式と共に思想までも、研究しようとする批評的精神の萌(きざし)を彼に與へたことを考へると面白いことである。」原文は“It is curious to see how his rudimentary culture has given him the beginning of a critical spirit that occupies itself with the form of language as well as with ideas.”であるが、この「思想までも」というのは、寧ろ、次の「紐繫ぎ」の奇術への少年の懐疑の部分を指している。しかし、姉崎氏の訳ではそこが伝わり難くなっている。栩木氏はそこがはっきりと分かるように、言葉の形式(形態)と思想(観念)を分割して、『彼の初歩的な教養がこんなふうに批判精神をめばえさせせているのは興味深いが、批判の矛先は言語の形態だけでなく観念にも及んでいる。』と、非常に上手く訳しておられる。
「紙の端をゆるめて頭を突込んでみたら」は、「よく燃え上がった炉の火口全体に宛がっていた新聞の端に少し隙間を作って、試みに自分の頭部を近づけて見たら」という意味であろう。
「私たちは殆んど喧嘩をする所であつた。……」原文は“We nearly quarrelled because he wanted me to take his photograph in his Sunday clothes from Galway, instead of his native homespuns that become him far better, though he does not like them as they seem to connect him with the primitive life of the island.”と長いので姉崎氏は主文の主述を頭に持ってきたのであろうが、これも日本語としてはかなり不親切な印象を与える。その内容は前を受けるのではなく、後の写真の件を受けるということが読み終わらないと分からないからである。意訳しても、ここは前に「また、ある時のこと、……」と頭に附けるだけで、それは解消されるはずだ。栩木氏はこの主述部分を日本語として、巧みに後に持ってきて、原文通りの一文で訳しておられる。分かり易い非常によい訳であると思う。
「近代の姓氏法」原文は“the modern system of surnames”で、これは所謂、相手を当時のヨーロッパで汎用されていた人を呼称・呼名する場合の方法・使用名についての習慣やマナーの謂いである。
「父の名が借りられない場合があるが、その時は、母の洗禮名(クリスチァン・ネーム)が通り名として用ひられる。」原文は“Sometimes when the father's name does not lend itself, the mother's Christian name is adopted as epithet for the children.”。ここはやや訳が雑である。まず「父の名が借りられない場合がある」というのが父がいないとか、私生児で使用出来ないという誤読を生む。ここは同名異人が多いことから、父名のみでは識別が不能である場合を言っているものと思われ、その場合は「母の洗禮名(クリスチァン・ネーム)」を「通り名として用ひられる」のではなく、「母の洗禮名(クリスチァン・ネーム)」に“epithet”(この語には確かに「通り名」の意もあるが、「形容詞的に」の意があり、ここはそれであろう。栩木氏もそれを採用されている)――則ち、父の洗礼名に、更に形容詞的に「母の洗禮名(クリスチァン・ネーム)を」添えたものが付加される、の意でとるべきであろう。
「ペギーン」“Peggeen”という名は、後のシングの名作にして問題作“The Playboy of the Western World”「西部の人気者」(1907年)のヒロインの名である。彼女は本名は“Margaret Flaherty”(マーガレット・フラハルティ)だが、通称“Pegeen Mike”(ペギーン・マイク)である(舞台となる酒場の主人である彼の父は“Michael James Flaherty”(マイケル・ジェイムズ・フラハルティ)である)。因みに、ゲール語の“Peggeen”は“pearl”(真珠)の意である。
「(Mac)」言わずもがなであるが、“Mac-”は“son of”(~の息子)の意の接頭語で、アイルランド及びスコットランド系の姓の頭に見られるのだが、その姓名命名法の古形であるアランでは逆に用いられることがないのではないか、とシングは言っているのである(断定は出来ないから、段落末では留保はしている)。
『「アン・イスガル」(漁夫)』原文“an iasgaire' ('the fisher')”。栩木氏は『アン・チャスカラ』と音写されている。
『「モーリャ・アン・イスガル」(漁夫の娘、メァリ)』原文“'Maire an iasgaire' ('Mary daughter of the fisher')”。栩木氏は『モーラ・アニャスカラ』と音写されている。
「パッチ・シォーン・ダルグ」原文“Patch Seaghan Dearg”。栩木氏は『パッツィ・ショーン・デャルグ』と音写されている。
「サガート」原文“Saggart”。ゲール語で「司祭の家」という意味らしい。栩木氏は「神父」と訳されており、「サガーチ」と音写されている。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (4)

 秋の季節には、ライ麥扱(こ)きが男達や子供達に課せられる仕事の一つである。麥の束は裸岩の上に集められ、その各々互ひにもたせ合はせて立てかけてある二つの石の上で別別に打たれる。
 一つの畑から、翌年の種を取るのに必要以上の麥は取れないほど、土地は甚だ瘦せてゐるので、ライ麥の植ゑ付は屋根葺に使ふ藁を取るためのみに行はれる。
 穀草の山は麥扱(こ)きの柵から、又は畑へ、驢馬に積まれて運ばれる。それゆゑ、此の季節には、金色の藁の小さな尖塔の下から馬勒(ばろく)のしてない黑い頭部を覘かせてゐる驢馬に到る所で出逢ふ。
 麥扱(こ)きが行はれてゐる間、息子や娘たちがあれやこれやの物を持つて入れ代り立ち代りやつて來て、遂に岩の上には小人數の集りが出來、また海へ行く途中の人も誰彼となく立ち止まつて、一二時間話して行く、それで此の仕事は夏の海草灰焚きの時のやうに、和氣藹々たる物がある。
 麥扱(こ)きが終ると藁は家まで運ばれ、物置か或は時時茶の間の隅などに高く積まれ、家の中に生生とした色彩が新たに一つ加はる。
 二三日前、島で最も綺麗な子供たちのゐる家へ行つたが、十四歳位の一番上の娘が出て來て、戸口の傍の積藁の上にどつかと坐つた。日光が彼女とライ麥の一所に當つて、彼女の姿や赤い着物は、その下の藁と共に網や雨合羽を背景とした面白い浮彫のやうであり、また自然に勝れた調和と色彩のある繪のやうであつた。
 此の宿で、屋板葺――毎年爲される――が丁度行はれてゐる。繩綯ひは天氣の變り易い時、一方は小路で一方は茶の間で、行はれる。此の仕事には通常二人の男が一緒に坐り、一人は重い木の棒で藁を叩き、他は繩を造る。此の繩の重な部分は男の子或は女の子によつて、これに使ふために特別に作られた曲つた木片で綯はれる。
 雨の日、屋内で仕事をしなければならない時は、繩を綯ふ人は段段と後退さりして、家の外へ出て、終には道を横切り或る時は一つ二つの畑を越える事もある。葺藁に密な網目を張るためには、各々が約五十ヤード位の非常に長い物を必要とする。村の家の半ばが此の仕事をしてゐる最中は、道は奇觀を呈する。綯はれつつある繩は、暗い戸口の何れかの側から出て、畑まで曲りくねつてゐる。人はその中を拾ひ歩んで行かなければならない。
 大きな繩の玉が五つ六つ出來上ると、屋根葺の一隊が組織せられ、彼等は朝の夜明け前に、その家へやつて來る。そして仕事は普通その日のうちに終つてしまふほど、精出して初められる。
 島に於いて共同してやる凡ての仕事と同じく、此の屋根葺も一種のお祭りと思はれてゐる。屋根に手がつけられた時から終りまで、どつと笑ふ聲、しやべる聲が續く。そして葺替へしてゐる家の主人は傭主ではなく、主人(あるじ)役であるから、一緒に働いてくれる人を犒ふために、大いに骨を折る。
 此の宿の屋根が葺かれた日、大きなテーブルが私の部屋から茶の間の方へ持ち出され、御馳走付のお茶が二三時間毎に出された。道を通りがかつた人は多く茶の間へ立寄つて、しやべり聲は絶え間がなかつた。一度私が窓の處へ來た時、マイケルが破風の頂きから、私の天文學の講義の受け賣りをやつてゐるのを聞いた。併し彼等の話題は大概は島の事に關してゐた。
 此の人達の智慧があり、愛嬌のあるのは、多く勞働の分離が無いためであるらしく、また從つて各人が多方面に發達するためでもあるらしい。各人のいろいろの知識や熟練には、可成り旺盛な精神力を必要とするからである。各自は二國語を使ふことが出來る。彼は熟練した漁夫で、なみはづれた度胸と機敏さを以つて、カラハを操る。彼は簡單な耕作を爲し、海草灰を焚き、革草鞋を拵へ、網を繕ひ、家を建て、屋取を葺き、また搖籠や棺桶を造ることが出來る。その仕事が四季と共に變はる。これは謂はば同じ仕事を常にしてゐる人にありがちな倦怠を防ぐことになる。海上生活の危險は彼に原始時代の狩人の機敏さを教へ、カラハに乘つて釣をして過す長い夜は、藝術を友として生活する人に獨特と思はれる或る感情を彼に植ゑ付ける。

In the autumn season the threshing of the rye is one of the many tasks that fall to the men and boys. The sheaves are collected on a bare rock, and then each is beaten separately on a couple of stones placed on end one against the other. The land is so poor that a field hardly produces more grain than is needed for seed the following year, so the rye-growing is carried on merely for the straw, which is used for thatching.
The stooks are carried to and from the threshing fields, piled on donkeys that one meets everywhere at this season, with their black, unbridled heads just visible beneath a pinnacle of golden straw.
While the threshing is going on sons and daughters keep turning up with one thing and another till there is a little crowd on the rocks, and any one who is passing stops for an hour or two to talk on his way to the sea, so that, like the kelp-burning in the summer-time, this work is full of sociability.
When the threshing is over the straw is taken up to the cottages and piled up in an outhouse, or more often in a corner of the kitchen, where it brings a new liveliness of colour.
A few days ago when I was visiting a cottage where there are the most beautiful children on the island, the eldest daughter, a girl of about fourteen, went and sat down on a heap of straw by the doorway. A ray of sunlight fell on her and on a portion of the rye, giving her figure and red dress with the straw under it a curious relief against the nets and oilskins, and forming a natural picture of exquisite harmony and colour.
In our own cottage the thatching--it is done every year--has just been carried out. The rope-twisting was done partly in the lane, partly in the kitchen when the weather was uncertain. Two men usually sit together at this work, one of them hammering the straw with a heavy block of wood, the other forming the rope, the main body of which is twisted by a boy or girl with a bent stick specially formed for this employment.
In wet weather, when the work must be done indoors, the person who is twisting recedes gradually out of the door, across the lane, and sometimes across a field or two beyond it. A great length is needed to form the close network which is spread over the thatch, as each piece measures about fifty yards. When this work is in progress in half the cottages of the village, the road has a curious look, and one has to pick one's steps through a maze of twisting ropes that pass from the dark doorways on either side into the fields.
When four or five immense balls of rope have been completed, a thatching party is arranged, and before dawn some morning they come down to the house, and the work is taken in hand with such energy that it is usually ended within the day.
Like all work that is done in common on the island, the thatching is regarded as a sort of festival. From the moment a roof is taken in hand there is a whirl of laughter and talk till it is ended, and, as the man whose house is being covered is a host instead of an employer, he lays himself out to please the men who work with him.
The day our own house was thatched the large table was taken into the kitchen from my room, and high teas were given every few hours. Most of the people who came along the road turned down into the kitchen for a few minutes, and the talking was incessant. Once when I went into the window I heard Michael retailing my astronomical lectures from the apex of the gable, but usually their topics have to do with the affairs of the island.
It is likely that much of the intelligence and charm of these people is due to the absence of any division of labour, and to the correspondingly wide development of each individual, whose varied knowledge and skill necessitates a considerable activity of mind. Each man can speak two languages. He is a skilled fisherman, and can manage a curagh with extraordinary nerve and dexterity He can farm simply, burn kelp, cut out pampooties, mend nets, build and thatch a house, and make a cradle or a coffin. His work changes with the seasons in a way that keeps him free from the dullness that comes to people who have always the same occupation. The danger of his life on the sea gives him the alertness of the primitive hunter, and the long nights he spends fishing in his curagh bring him some of the emotions that are thought peculiar to men who have lived with the arts.

[やぶちゃん注:「馬勒(ばろく)のしていない」原文“unbridled”。「馬勒」は馬具用語で、手綱をつけるために馬の頭部に耳から口にかけた皮のマスク状のものを言う。
「繩綯ひは天氣の變り易い時、一方は小路で一方は茶の間で、行はれる」「一方は」は「或は」とするべきところ。天気が良ければ小路で、悪ければ茶の間で、の意。
「綯はれる」は「なはれる」と読む。「縄をなう」の「綯(な)う」である。
「約五十ヤード位」凡そ45.7m。
「人はその中を拾ひ歩んで行かなければならない」縄だらけの道を縄を踏まないようにぬって歩かねばならない、ということ。
「犒ふ」は「ねぎらふ」と読む。「労(ねぎら)う」である。本邦でもかつての民俗社会の村落の茅葺の吹き替えは村民総出で行ない、アラン島のようにそれは一種の祭儀(本邦で用いられる茅は霊力を持ったものと信じられた)でもあった。
「彼は熟練した漁夫で、……」確かに“he”が用いられているが、以下、段落の最後まで「彼」は「此の人達」「各人」を代表する、アランの「男」としての“he”である。邦訳では「彼等」と訳す方が分かりがよい。
「海上生活の危險は彼に原始時代の狩人の機敏さを教へ、カラハに乘つて釣をして過す長い夜は、藝術を友として生活する人に獨特と思はれる或る感情を彼に植ゑ付ける。」原文“The danger of his life on the sea gives him the alertness of the primitive hunter, and the long nights he spends fishing in his curagh bring him some of the emotions that are thought peculiar to men who have lived with the arts.”。この訳の後半はやや生硬である。『また、カラハに乗って釣りをして過ごす夜長には、芸術に生きる風流人士特有と思われている、ある種独特な繊細なる情緒を彼等にもたらす。』といった意味である。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (3)

 此の人たちは自然と超自然の區別をつけない。

 今日の午後――島の人達の間によく面白い話の交はされる日曜であつた――雨が降つたので、私は村人の中でも比較的進歩した人の多く集まる、學校の先生の茶の間へ行つた。私は彼等の漁業や耕作の風習はよく知らず、話を續けてゆけば、必ず私の云ふことが彼等にわからなくなる事柄に來るし、また寫眞の珍しさも段段とうすれて來たので、私が仲間入りをして彼等が期待してゐるらしい慰み事をするのが少しむづかしくなつた。今日は簡單な體操の藝當や手品師の奇術を見せたが、大いに喜ばれた。

 「ねえ、もし、」終つた時、一人のお婆さんは云つた。「そんな事はその土地の魔術使から教はつたのかね?」

 奇術の一つは、村の人が切つた紐を繫ぐやうに見せるのであつたが、完全に成功したと見えて、一人の男はそれを持つて一隅に行き、繫いだと見える所を手に赤い筋が出來るまで引張つてゐた。

 それから私にそれを返した。

 「おやおや、」と彼は云つた。「こんな不思議なことはまだ見た事がない。お前さんの繫いだ所は少し細くなつてゐるが、もと通り丈夫だ。」

 若い方の幾人かの人は疑はしげに見えたが、ライ麥が燕麥になつたのを見た年取つた方の人達は魔術をあつさり信じてしまつて、「ドゥイネ・ウァソル」(旦那)は魔術使のやるやうな事が出來る譯だと別に驚いた樣子もなかつた。

 私は此の人たちと交つてから、新らしい理念の理解されない所には、いつも奇蹟は澤山あると云ふ事を實感してゐる。此の群島だけでも、神祕の密使を立てるほど奇蹟は毎年隨分起る。ライ麥が燕麥になつたり、嵐が取立ての役人を近づかしめないやうに吹き起つたり、又離れ島に獨りゐる牝年が子を産んだりするやうな種類の事はあたりまへの事である。

 不思議とは稀に起る出來事で、雷雨とか虹のやうなものであるが、異る所はそれよりも少し稀で珍しいと云ふことである。私が散歩してゐて、時時村人の誰かと言葉を交はすことがある。そんな時、ダブリンから新聞が來たと云ふと、彼等は私に聞く。――

 「そして、近頃、一體何か非常な不思議がありますか?」

 私の熟練の藝當が終つた時、島の最も若くて素早い者でも私のした事が出來ないのを知つて驚いた。教へようと、一生懸命に彼等の手足を引張りながら氣がついたが、その動作の樂で美しいのは、實際よりずつと身輕に思はせてゐるのであつた。あの斷崖の間や大西洋の中でカラハに乘つてゐる所は、輕さうで小さく見えても、私たちのやうに着物を着て普通の部屋で見ると、彼等の多くは身體がどつしりとして、力強さうに見える。

 少したつと、流石に島の代表的の踊り手である一人の男は起ち上つて、鮭跳びをしたり ――顏を下にして平たく伏して宙に高く跳び上るのである――その他幾つかの非常に素早い藝當を演(や)つて見せたりした。併し彼は若くなかつたから、私たちは踊らせる事が出來なかつた。

 私の奇術の評判は島中に擴がつたので、今夜は此處の茶の間で又やらなければならなかつた。きつと此の藝當は此處、代代傳はり覺えられるに違ひない。島の人たちは物を云ひ表はすのに、比喩をあまり知らないから、外來者の目星しい何かを捉へて、後の話にそれを用ひる。

 それで、最近數年間、立派な指環をはめてゐる人の事を云ふ時に、「あの人は、島のお客であつた、何何夫人のやうに美しい指環をはめてゐる」と云ふ。

 

 

These people make no distinction between the natural and the supernatural.

This afternoon--it was Sunday, when there is usually some interesting talk among the islanders--it rained, so I went into the schoolmaster's kitchen, which is a good deal frequented by the more advanced among the people. I know so little of their ways of fishing and farming that I do not find it easy to keep up our talk without reaching matters where they cannot follow me, and since the novelty of my photographs has passed off I have some difficulty in giving them the entertainment they seem to expect from my company. To-day I showed them some simple gymnastic feats and conjurer's tricks, which gave them great amusement.

'Tell us now,' said an old woman when I had finished, 'didn't you learn those things from the witches that do be out in the country?'

In one of the tricks I seemed to join a piece of string which was cut by the people, and the illusion was so complete that I saw one man going off with it into a corner and pulling at the apparent joining till he sank red furrows round his hands.

Then he brought it back to me.

'Bedad,' he said, 'this is the greatest wonder ever I seen. The cord is a taste thinner where you joined it but as strong as ever it was.'

A few of the younger men looked doubtful, but the older people, who have watched the rye turning into oats, seemed to accept the magic frankly, and did not show any surprise that 'a duine uasal' (a noble person) should be able to do like the witches.

My intercourse with these people has made me realise that miracles must abound wherever the new conception of law is not understood. On these islands alone miracles enough happen every year to equip a divine emissary Rye is turned into oats, storms are raised to keep evictors from the shore, cows that are isolated on lonely rocks bring forth calves, and other things of the same kind are common.

The wonder is a rare expected event, like the thunderstorm or the rainbow, except that it is a little rarer and a little more wonderful. Often, when I am walking and get into conversation with some of the people, and tell them that I have received a paper from Dublin, they ask me--'And is there any great wonder in the world at this time?'

When I had finished my feats of dexterity, I was surprised to find that none of the islanders, even the youngest and most agile, could do what I did. As I pulled their limbs about in my effort to teach them, I felt that the ease and beauty of their movements has made me think them lighter than they really are. Seen in their curaghs between these cliffs and the Atlantic, they appear lithe and small, but if they were dressed as we are and seen in an ordinary room, many of them would seem heavily and powerfully made.

One man, however, the champion dancer of the island, got up after a while and displayed the salmon leap--lying flat on his face and then springing up, horizontally, high in the air--and some other feats of extraordinary agility, but he is not young and we could not get him to dance.

In the evening I had to repeat my tricks here in the kitchen, for the fame of them had spread over the island.

No doubt these feats will be remembered here for generations. The people have so few images for description that they seize on anything that is remarkable in their visitors and use it afterwards in their talk.

For the last few years when they are speaking of any one with fine rings they say: 'She had beautiful rings on her fingers like Lady--,' a visitor to the island.

 

[やぶちゃん注:「ドゥイネ・ウァソル」(旦那)」“'a duine uasal' (a noble person)”。「一人の高潔なる御方」という尊敬を含んだ呼称。ネット上の発音サイトで聴いたものを音写すると「ドウィナ・ウォソル」と聴こえる。栩木氏は「ディニャ・ウァサル」(表記は「デイニヤ・ウアサル」)とルビを振られている。時に「ア」は発音しない(若しくは後の単語の発音に吸収される)のだろうか? 姉崎・栩木両氏とも、ない。識者の御教授を乞う。

「鮭跳び」原文“salmon leap”。サケが遡上する際のジャンピングに似ているからであろう。実は“sal-”は「跳びかかる」で、“salmon”は跳びかかる魚の意が語源らしい。

『それで、最近數年間、立派な指環をはめてゐる人の事を云ふ時に、「あの人は、島のお客であつた、何何夫人のやうに美しい指環をはめてゐる」と云ふ。』原文は“For the last few years when they are speaking of any one with fine rings they say: 'She had beautiful rings on her fingers like Lady--,' a visitor to the island.”。“a visitor to the island”は会話文の外に出ているから、『例えばこの数年の間、彼らが立派な指環を嵌めている誰彼について話す際には、「あの人は指に何何夫人みたような美しい指環をはめてるね、」と言うのだが――この「何々夫人」とは、その実、何年も前に島をちょいと訪れたお客の名に過ぎないのである――。』というニュアンスである。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (2)

 今年はマイケルは晝間は忙しい。併し今は、秋の月があり、夜の大方を、灣の方を眺めながら島を歩き廻つて過した。灣には雲の蔭が、黒と金の面白い綾模樣を投げてゐた。今夜、村を通つて歸る途中、お祭り騒ぎが一軒の稍々小さな家から洩れて來た。マイケルに聞くと、若い男女が、一年中の此の頃に、遊戲をやつてゐるのださうであつた。私もその仲間入りをしたかつたが、彼等の娯みを邪魔しては惡いと思つた。道の兩側にちらほら家のかたまつてある處を再び通りながら、私がフランスやバヴァリヤ邊を旅行した時、夜、折折通つた處を憶ひ出した。其處は再び目醒めるとは思はれないまでに、靜かな蒼い夜の幕に包まれてゐた處であつた。

 後で、私たちは砦の丘に登つた。マイケルは手の屆くほど近くに住みながら其處へ眞夜中に登つた事はなかつたさうである。その場所は、島の頂上に、先史時代の石は光茫のやうに浮き出して、その光の中に、思ひかけない壯觀を呈してゐた。私たちは幽かな黄色い屋根を見下し、又その向うにキラキラ輝いてゐる岩や靜かな灣を眺めながら、石垣の頂上を暫く彷徨つた。マイケルは四圍の自然の美を氣付いてをりながら、それを決して直接語らない。私たちは重に星や月の運行の事ばかりを長い間ゲール語で話しながら、多くの宵を散歩した。

 

 

This year Michael is busy in the daytime, but at present there is a harvest moon, and we spend most of the evening wandering about the island, looking out over the bay where the shadows of the clouds throw strange patterns of gold and black. As we were returning through the village this evening a tumult of revelry broke out from one of the smaller cottages, and Michael said it was the young boys and girls who have sport at this time of the year. I would have liked to join them, but feared to embarrass their amusement. When we passed on again the groups of scattered cottages on each side of the way reminded me of places I have sometimes passed when travelling at night in France or Bavaria, places that seemed so enshrined in the blue silence of night one could not believe they would reawaken.

Afterwards we went up on the Dun, where Michael said he had never been before after nightfall, though he lives within a stone's-throw. The place gains unexpected grandeur in this light, standing out like a corona of prehistoric stone upon the summit of the island. We walked round the top of the wall for some time looking down on the faint yellow roofs, with the rocks glittering beyond them, and the silence of the bay. Though Michael is sensible of the beauty of the nature round him, he never speaks of it directly, and many of our evening walks are occupied with long Gaelic discourses about the movements of the stars and moon.

 

[やぶちゃん注:「お祭り騒ぎ」原文は“a tumult of revelry”で、“tumult ”も“revelry”も騒ぎであるから、正に飲めや歌えのどんちゃん騒ぎという意味である。これは例えば現在、大西洋に近い西海岸の村“Lisdoonvarna”リスドゥーンバーナで行われてい“Matchmaking Festival”(マッチメイキング・フェスティバル:お見合い・縁結び祭り)と呼ばれているものと同類の祭りである。マッチメイキング・フェスティバルはアイルランド政府観光庁の記事によれば、毎年9月から6週間に渡って行われる。昼の各所でのダンスパーティーに始まり、ホテルやパブでの生演奏が朝まで賑わい、実際に仲人役がおり、国外の旅行者など多くの男女の仲を取り持つ。二百年も前からアイルランドに伝わる最も古形の伝統的な祭りの一つである、とある。恐らくこれはローマ神話のフローラ祭などに起源を持つ民間信仰で、若い男女が夕刻から森の中に入って日の出までそれぞれに二人で過し、翌朝、花輪などを作って帰って村を飾るという儀式で、その間は無礼講の野合が許された(アンドレイ・タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」の中で美事な再現が行われている。必見!)。本邦でもこうした祭りはかつて普通に存在した。古くは陰暦九月一日に行われて八朔祭とも呼ばれ、夜、男女が神社の鎮守の森に集って自由に関係を持ったのである。万葉の「歌垣(かがい)」の伝統である。姉崎氏の訳ではちょっと分かり難いが「道の兩側にちらほら家のかたまつてある處を再び通りながら、私がフランスやバヴァリヤ邊を旅行した時、夜、折折通つた處を憶ひ出した。其處は再び目醒めるとは思はれないまでに、靜かな蒼い夜の幕に包まれてゐた處であつた。」(原文“When we passed on again the groups of scattered cottages on each side of the way reminded me of places I have sometimes passed when travelling at night in France or Bavaria, places that seemed so enshrined in the blue silence of night one could not believe they would reawaken.”)では、「再び」なのである。則ち、直前のどんちゃん騒ぎから時間が経過して「再び」同じ場所を通っているのである。このシングのさりげない対照的な描写は、実はその「祭り」の一部始終を画像の中に描き切っていることに気付いて戴きたいのである。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (1)

   第 三 部

 

 私がパリーに居る間、マイケルから一本の手紙が來た。それは英語であつた。

 

親愛なる友よ、――此の前、手紙を戴いてから、あなたは御丈夫なことと思ひます。あれ以來何度もあなたのことを思ひます。また將來もあなたのことを忘れないでせう。

 私は三月初めに二週間ばかり家に籠つてゐました。インフルエンザで大へん惡かつたのでしたが、隨分養生をしました。

 今年の初めから、私はよい賃銀を取るやうになりました。辛くはないのですが、やつて行けるかどうか案ぜられます。私は木挽工場で働いてゐるので、木材を賣つて金を儲けたり、その帳付けをしたりしてゐます。

 一週間に二三囘、家から手紙やらニュースやらを貰つてゐます。皆無事です。またあなたの島のお友達の事を云へば、皆同じく無事です。

 あなたはダブリンで私の友達の何何さんや、その他これ等紳士淑女の誰かにお逢ひになりましたか?

 私は間もなくアメリカへ行かうと思ひますが、私が無事なら來年までは待たないでせう。

 お互ひに丈夫で機嫌よく再びお逢ひ出來る事を望んでゐます。

 も早、お別れを言ふところに來ました。さよなら。ですが、永久にではなく。早く返事を下さい。――ゴルウェーの友より。

  返事を何卒早く。

 

 もう一つの手紙の方は、やや飾つた心持である。

 

 親愛なるS樣、――私は前ら寸暇を得て、一筆さし上げようと思つてゐました。

 先日、お手紙を戴いてから、あなたは至極健在でいらつしやる事と思ひます。

 今あなたは生れ故郷の言葉を習ひに、此處へ來る時期が來たやうに思はれます。二週間前、此の島に盛んなフェス[愛蘭土の昔よりの祭で、此の日は演劇、音楽ダンス等が行はれる]がありました。南島から非常に澤山の參集者がありましたが、北島からはさう多くはありませんでした。

 私の従兄弟二人が此の家に三週間或はそれ以上ゐましたが、今は歸りました。それで、若しあなたがいらつしやるなら場所があります。いらつしやる前に手紙を下さい。私たちは一つ骨折つて、出來るだけ面倒をみませう。

 私は今、二ケ月ばかり家にゐます。働いてゐた工場が燒けましたから。その後、ダブリンに行きましたが、比の都會は私の健康によくありませんでした。――敬愛する貴方の友より。

 

 此の手紙を受けて直ぐ、私はマイケルに、そちらへ戻るつもりだと云ふ手紙を出した。今度、私は船が直接に中の島へ行く日を選んだ。船卸臺の外側に二列に竝で待つてゐるカラハの間へ舟が進んで行くと、私はマイケルがまたも島の着物を着て、カラハの一つを漕いでゐるのを見かけた。

 彼は認めた合圖はしなかつたが、船に横付けになると直ぐに、甲板に攀ぢ上つて來て、私の居る船橋までまっしぐらにやつて來た。

 「ヴ・フイル・テゥ・ゴ・モイ?(御機嫌如何です?)」彼は云つた。「貴方の荷物は何處ですか?」

 彼のカラハは汽船の船首に近い惡い場所にかかつてゐたので、カラハが船側にあたつて搖れたり傾いたりするなかを、私は小麥の袋や自分の鞄の上の可成り高い所から吊り下ろされた。

 本船から離れると、マイケルに手紙を受取つたかどうかを聞いた。

 「いいえ」彼は云つた。「影も形も見ません。ですが、大概來週屆くでせう。」

 船卸臺の一部が冬の間に、流されてしまつたので、私たちはその左側の方の岩の中へ、歸つて來つつある他のカラハと共に順を待つて、上陸しなければならなかつた。

 上陸すると直ぐに人人が歡迎の挨拶を云ひに集まつて來て、私を取り圍んだ。握手をしながら、此の冬遠くへ旅行して、澤山の不思議を見なかつたかと尋ねた。そして終りには例の如く今、世界では大きな戰爭があるかと聞いた。

 此の人たちのゲール語の挨拶を聞き、此の人たちの中に私を一人殘して汽船の出て行くのを見ると、私は嬉しさに戰くのを覺えた。その日は天氣がよく、空は澄み、海は石灰岩の向うに輝いてゐた。遙かに大島の斷崖やコンノートの山山のうすい霧はまだ夏の如き幻想を私に起させた。

 一人の小さな男の子が私の來たことをお婆さんに知らせに遣らされた。私たちは話しながら、その後を鞄を持つてついて行つた。

 私の方の土産話がすつかりなくなると、彼等は自分の方のを語り出した。此の夏、澤山の――四五人の――外國人が、その中には一人のフランスの僧侶も交つて、此の島にゐたこと、馬鈴薯は出來が惡かつたが、ライ麥は日照の來る一週間の前までは、出來がよくなりかけてゐたこと、それから、燕麥に變つたことなどを語つた。

 「お前さんが、若し私たちの事をよく知らないなら、」語り手の一人の男が云つた。「私たちは嘘を云つてゐると思ふだらうが、毛頭噓ぢやない。それはずんずん伸びた。さうだ、膝ぐらゐの高さになつたね。それから燕麥になつた。そんなやうな事はウィクロー郡では見かけなかつたかね?」

 宿では何もかも、もとのままであつた。お婆さんの機嫌と滿足はマイケルのゐるために、もと通りになつてゐた。私は椅子に腰を下し、炭火の端でパイプに火をつけながら、また來てよかつたと、嬉しさに聲を立てんばかりであつた。

 

 

LETTER HAS come from Michael while I am in Paris. It is in English.

 

MY DEAR FRIEND,--I hope that you are in good health since I have heard from you before, its many a time I do think of you since and it was not forgetting you I was for the future.

I was at home in the beginning of March for a fortnight and was very bad with the Influence, but I took good care of myself.

I am getting good wages from the first of this year, and I am afraid I won't be able to stand with it, although it is not hard, I am working in a saw-mills and getting the money for the wood and keeping an account of it.

I am getting a letter and some news from home two or three times a week, and they are all well in health, and your friends in the island as well as if I mentioned them.

Did you see any of my friends in Dublin Mr.--or any of those gentlemen or gentlewomen.

I think I soon try America but not until next year if I am alive.

I hope we might meet again in good and pleasant health.

It is now time to come to a conclusion, good-bye and not for ever, write soon--I am your friend in Galway.

Write soon dear friend.

 

 

Another letter in a more rhetorical mood.

 

MY DEAR MR. S.,--I am for a long time trying to spare a little time for to write a few words to you.

Hoping that you are still considering good and pleasant health since I got a letter from you before.

I see now that your time is coming round to come to this place to learn your native language. There was a great Feis in this island two weeks ago, and there was a very large attendance from the South island, and not very many from the North.

Two cousins of my own have been in this house for three weeks or beyond it, but now they are gone, and there is a place for you if you wish to come, and you can write before you and we'll try and manage you as well as we can.

I am at home now for about two months, for the mill was burnt where I was at work. After that I was in Dublin, but I did not get my health in that city.--Mise le mor mheas ort a chara.

 

 

Soon after I received this letter I wrote to Michael to say that I was going back to them. This time I chose a day when the steamer went direct to the middle island, and as we came up between the two lines of curaghs that were waiting outside the slip, I saw Michael, dressed once more in his island clothes, rowing in one of them.

He made no sign of recognition, but as soon as they could get alongside he clambered on board and came straight up on the bridge to where I was.

'Bh-fuil tu go maith?' ('Are you well?') he said. 'Where is your bag?'

His curagh had got a bad place near the bow of the steamer, so I was slung down from a considerable height on top of some sacks of flour and my own bag, while the curagh swayed and battered itself against the side.

When we were clear I asked Michael if he had got my letter.

'Ah no,' he said, 'not a sight of it, but maybe it will come next week.'

Part of the slip had been washed away during the winter, so we had to land to the left of it, among the rocks, taking our turn with the other curaghs that were coming in.

As soon as I was on shore the men crowded round me to bid me welcome, asking me as they shook hands if I had travelled far in the winter, and seen many wonders, ending, as usual, with the inquiry if there was much war at present in the world.

It gave me a thrill of delight to hear their Gaelic blessings, and to see the steamer moving away, leaving me quite alone among them. The day was fine with a clear sky, and the sea was glittering beyond the limestone. Further off a light haze on the cliffs of the larger island, and on the Connaught hills, gave me the illusion that it was still summer.

A little boy was sent off to tell the old woman that I was coming, and we followed slowly, talking and carrying the baggage.

When I had exhausted my news they told me theirs. A power of strangers--four or five--a French priest among them, had been on the island in the summer; the potatoes were bad, but the rye had begun well, till a dry week came and then it had turned into oats.

'If you didn't know us so well,' said the man who was talking, 'you'd think it was a lie we were telling, but the sorrow a lie is in it. It grew straight and well till it was high as your knee, then it turned into oats. Did ever you see the like of that in County Wicklow?'

In the cottage everything was as usual, but Michael's presence has brought back the old woman's humour and contentment. As I sat down on my stool and lit my pipe with the corner of a sod, I could have cried out with the feeling of festivity that this return procured me.

 

[やぶちゃん注:栩木伸明氏訳2005年みすず書房刊の「アラン島」の「あとがき」によれば、シングの三度目のアラン訪問は1900年9月15日から1014日である。

「フェス[愛蘭土の昔よりの祭で、此の日は演劇、音楽ダンス等が行はれる]」原文“a great Feis”。ゲール語の発音は「フェシュ」に近い。伝統的なゲール語の総合文化祭で、姉崎氏の注にあるように、ダンス・コンテストをメインとして、音楽・演劇などの芸術祭と各種スポーツなどの競技が行われる。英語のウィキを見る限りでは、開催日は限定されていないようである。現在、恐らくこの祭典から生まれたものとして、アイルランド最大の芸術祭としてヨーロッパでも有名なゴールウェイ芸術祭(“The Galway Arts Festival”・ゲール語“Féile Ealaíon na Gaillimhe”)が毎年七月に行われているが、これは1978年に始まる新しいもので、七月では投函されたであろうマイケルの手紙の日時ともずれるように思われる。

「――敬愛する貴方の友より。」原文はゲール語で“--Mise le mor mheas ort a chara.”。栩木氏は「ミシヤ・ラ・モール・ヴアス・オルト・ア・ハラ」のルビを振られている(拗音はルビのため確認出来ないので、そのまま写した)。

「ヴ・フイル・テゥ・ゴ・モイ?(御機嫌如何です?)」“Bh-fuil tu go maith?”。栩木氏の音写は「ヴィル・トゥー・ゴ・マイ」とされている。

「ライ麥は日照の來る一週間の前までは、出來がよくなりかけてゐたこと、それから、燕麥に變つた」とあるが、勿論、イネ科ライムギSecale cereale がイネ科カラスムギ属エンバクAvena sativa になることはあり得ない。彼らには失礼だが、エンバクは元来、ライムギ栽培時の雑草であったから、普段よりも伸びの早かったエンバクを希望的にライムギと誤認したものか?

「世界では大きな戰爭があるか」1900年当時は6月21日、義和団の乱が発生、清がイギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの八ヶ国に宣戦布告、シングがアランに帰る直前の8月14日に連合軍は北京攻略を開始、翌日、北京は陥落した。義和団の鎮圧から北京議定書によって翌1901年9月7日に終結を見た。但し、アメリカに移住した親族が多いアランの人々にとっては、前年から燻っていた米比戦争(べいひせんそう 1899年~1913年:アメリカ合衆国とアメリカが併合しようとしたフィリピンとの間で勃発した戦争)の方が心痛の関心事であったと思われる。当時の戦況は既にアメリカに優位で対ゲリラ戦となっており、正にシングが島に着く直近、9月13日にはプラン・ルパの戦い、9月17日にもマビタクの戦いがあった。最終的にはフィリピン第一共和国が崩壊し、フィリピンは植民地化された。因みに、やはりシングが渡島する一週間前9月8日に一人の日本人が大日本帝国文部省留学生としてロンドンに向けて横浜を出航している。――夏目漱石、その人であった。]

宇野浩二 芥川龍之介 八

      八

 

 この前の章のなかで、芥川とはじめて顔をあわした時の事を述べたので、こんどは、私がはじめて芥川を見た(というより瞥見した)時のことを、書いてみよう。この事は、ずっと前に、書いたことがあるけれど、それはもう三十年ぐらい前であるから、重複してもよいと思い、また、わたくし事〔ごと〕であるが、私の記念にもなるので、述べることにする。

 たしか大正七年の十二月の末である。私は、その頃、牛込の神楽坂の都館〔みやこかん〕という下宿屋に、住んでいた。その下宿屋は、肴町の停留所をおりて、坂の下〔した〕の方へ半町の半分ぐらい行ったところを右にあがった坂の途中にあった。

[やぶちゃん注:「肴町」は現在の神楽坂五丁目。「坂の下」は一般名詞というより、「神楽坂下」という固有名詞として用いていよう。]

 その十二月の末の夕方の七時ごろ、私は、歳暮〔せいぼ〕の売り出しなどで雑沓〔ざっとう〕している狭い町を、なにか急の用事があったのか、大いそぎで、人ごみの間〔あいだ〕を、縫うように、くぐり抜けるように、あるいた、南の方へ。私は、その頃、二十八にもなりながら、一介〔いっかい〕の無名の文学書生であった。しかし、その時、私は、自分だけは自信のある『蔵の中』を書きあげ、しかもそれが三四箇〔か〕月のちに発表されることにきまり、さらに自信のある『苦の世界』も三分の一ほど書いていた。それで、長い間〔あいだ〕、小説を書こう書こう、と思いながら、ふとした過〔あやま〕ちのために出来〔でき〕なかったのが、ようやく芽を出しかけ、前途にほのかな明〔あ〕かりが見えはじめていたので、まだ貧しくはあったが、私の心ははずんでいた。それで、心のはずんでいた私は、道の真中〔まんなか〕を、足もかるく、おそらく肩で風をきって、脇目もふらずに、あるいていたにちがいない。ところが、どういう拍子であったか、一間〔けん〕ほどはなれた、道の片側を反対の方向に、一人〔ひとり〕の洋装の男が、これも、燕のような早さで、すっすっと、通〔とお〕りすぎるのが、ゆきかう人の群〔む〕れをすかして、ちらと私の目をひいた。そうして、それが、咄嗟に、芥川だな、と、私に、わかったのである。

 ところが、その頃、私は、まだ、芥川を、知らなかったばかりでなく、見たこともなかった。そうして、芥川の顔は、ただ、雑誌の口絵に出たのを、見ただけであるが、それも、その時分まで、雑誌に出たのは、本棚の前に腰をかけている、それも、ぼんやりした、写真だけである。しかも、その写真は、私の記憶ちがいでなければ、着物をきていた。ところが、そんな不鮮明な写真しか見ていないのに、その写真とまったくちがった風〔ふう〕をしているのに、私は、実物(らしい物)を見た時、はっきり、芥川にちがいない、と、直覚した。

 その時、黒い、瘠〔や〕せた体〔からだ〕にぴったりついた、洋服をきた、長身の、芥川が、半身をやや前の方に傾〔かたむ〕きかげんにして、真直〔まっす〕ぐに、あるいて行く恰好は、年〔とし〕の暮れの町の目まぐるしく人の往〔ゆ〕き来〔き〕する中〔なか〕にも、きわめて印象的に、私に、見えたのである。(それは、その数年前に、近代劇協会[註―上山草人が主宰し、伊庭 孝が助けた新劇団で、一時は島村抱月の芸術座と対抗した]で出した『ファウスト』で、伊庭 孝が扮した、黒装束をした、メフィストフェレスを、思わせた。)ところで、その時、私は、早足にあるきながらも、ちらりと、その黒服の男の方を、見た。と、その男も、いそぎ足にあるきながら、私の方を、ちらりと、見たような気がするのである、なぜなら、その男の青白く光る日が、(というよりその男の目から出る青白い光りが、)ぎろりと、私を、射るような気がしたからである。(しかし、これは、私の自惚〔うぬぼれ〕であって、もしかすると、私のすぐそばを美しい人が通〔とお〕っていて、その方〔ほう〕に流し目をしていたのかもしれないが、……)

[やぶちゃん注:「伊庭 孝」(明治二十(一八八七)年~昭和十二(一九三七)年)は俳優・音楽評論家・演出家。大正元(一九一二)年に上山草人らと近代劇協会を設立(旗揚げ公演はイプセンの「ヘッダ・ガブラー」)、翌大正二(一九一三)年三月二十七日から三十一日に、宇野が語っている近代劇協会第二回公演上山草人演出になるグノーのオペラ「ファウスト」を帝国劇場で上演している。大正五(一九一六)年に舞踊家高木徳子と後に「浅草オペラ」と呼ばれることになるオペラ興行を立ち上げ、その後、藤原義江や田谷力三らとともにその全盛期を打ち立てた功労者である。後にラジオ放送での歌劇や音楽評論で活躍した。]

 しかし、その時の印象は、(もし、それが、芥川であったら、)芥川も、また、歳暮の町の群集をうるさく思って、町の片側を、なるべく人を避けるように、通〔とお〕ってゆくらしく、その、いそぎ足にあるく、かたむいた棒のような姿は、写真や絵で見た、異国の詩人、アアサア・シモンズか、ウィリアム・バトゥラア・イェエツか、ジャン・アルテュゥル・ランボオか、――そういう人たちの様子に似ているように見えて、(俗な言葉でいえば、何〔なん〕とも意気に見えて、生意気なところもあったが、)私は、はなはだ感心したことであった。

[やぶちゃん注:「シモンズ」は以前にも注したが、「十」の芥川との会話で詳述されるところで再注する。彼が最初に挙がっているのは、後に宇野自身が述べるように彼の大好きな作家であったからである。]

 

 さて、芥川、といえば、どういう訳〔わけ〕か、『鵠沼〔くげぬま〕』という言葉が、私の頭〔あたま〕に、うかぶ。そう思う、東家〔あずまや〕は、それを思い出すと、里見、久米、芥川、佐佐木茂索、江口、中村武羅夫、大杉 栄、小林せい子、その他の人びとの事を思い出す、その東家である。

 私がはじめて鵠沼の東家に行ったのは、大正九年の三月ごろで、その時は仕事をするために出かけたのであるが、それからは、習慣のようになって、仕事が七分ほど遊びが三分ぐらいの割りで、行くと、一週間あるいは半月ぐらい滞在するのが常であった。

 ところで、その、書いてみたいと思う、東家は、大正十年の三月ごろの事で、この時の事は、十年ぐらい前に書いて、『文学の三十年』という本の中に、入れたが、あらためて述べてみたくなったのである、それは、さきに名を上〔あ〕げた人たちが、別別〔べつべつ〕に出かけたのが一緒になったり、おなじ頃に一緒に滞在したり、したので、いろいろな事があったからでもある、その上、プロレタリア文学に専心するようになった、江口と、ずっと後〔のち〕に、プロレタリア文学が跋扈〔ばっこ〕して、芸術派といわれた若い作家たちが圧倒され気味〔ぎみ〕になったのを憤慨して、『花園を荒らす者は誰だ』というような論文を書いた、中村武羅夫とが、東家から半町以内の所に、住んでいたり、無政府主義者といわれた、大杉 栄と、後〔のち〕にブルジョア作家と軽蔑された、里見 弴、久米正雄、芥川龍之介、宇野浩二、その他が、おなじ部屋で、談笑したり、したからでもある。(もっとも、大杉は、幸徳秋水や白柳秀湖[白柳は、明治から大正はじめかけて、相当な社会主義者であった]と交際したり、過激な文章をかいて筆禍をこうむったり、例の『赤旗事件』などにも連坐したり、したが、根は、極端な自由主義者であり、芸術家でもあり、人情ぶかい人でもあった。)

[やぶちゃん注:「赤旗事件」明治四十一(一九〇八)年六月二十二日に発生した社会主義者弾圧事件。前年三月、封建的家族制度を批判した「父母を蹴れ」を平民新聞に寄稿した山口孤剣が新聞紙条例違反の罪に問われて禁錮刑に処せられていたが、この六月十八日に出獄、その出獄歓迎会が東京府東京市神田区錦町(現在の東京都千代田区神田錦町)にあった映画館(元は貸ホールでもあった)錦輝館(きんきかん)」で社会主義者数十名が集って行われた。以下、ウィキの「赤旗事件」によると、歓迎会自体は発起人の、山口に先んじて出獄していた平民新聞編集者の石川三四郎による開会の辞から始まった。続いて西川光次郎(日本初の社会主義政党「社会民主党」の結成発起人の一人)と堺利彦が挨拶した後に余興となり、夕刻には終了したが、『散会間際に、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎ら硬派の一団は、突如赤地に白の文字で「無政府共産」「社会革命」「SOCIALISM」などと書かれた旗』を翻して『革命歌を歌い始めた』。『石川はこれを制止しようとしたが、硬派は従わず、「無政府主義万歳」などと絶叫しながら錦輝館を飛び出した。歓迎会開催に当たり現場で待機していた警官隊は、街頭に現れた硬派の面々を認めるや駆け寄って赤旗を奪おうとし、これを拒んだ彼らともみ合』いとなり、『格闘の末、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎、佐藤悟、徳永保之助、森岡栄治、百瀬晋のほか、女性4名(大須賀里子、管野スガ、小暮礼子、神川松子)が検挙され、またこれを止めに入った堺と山川も同じく検挙された』事件を言う。判決は大杉の重禁錮二年六ヶ月罰金二十五円を筆頭に予想に反した重刑が下された。『荒畑ら当事者がのちに明かしたところによれば、赤旗を翻したのは軟派に対する示威行動に過ぎなかった』のだが、その『判決は、大した罰を受けるとは考えていなかった彼らの楽観を裏切る内容であった』。事件発生から五日後の六月二十七日には西園寺公望首相は辞意を表明、七月四日、内閣は総辞職した。『表向きは健康上の問題によるとされたが、山縣有朋が「事件は社会主義者に対する融和の結果発生した。これは西園寺内閣の失策である」と奏上したのが直接の原因といわれている』。この当時、幸徳秋水はたまたま『郷里の高知県にいたため難を逃れたが、事件を知るや直ちに上京し、勢力の建て直しに奔走した。この結果、無政府主義者やそれに近い者が社会運動の主流派を占めるに至った』。次いで成立した第二次桂内閣は社会主義者への取締りを強化したが、これが逆に拍車をかけ、明治四十三(一九一〇)年の大逆事件へと発展することとなった、とある。]

 さて、この東家に偶然あつまった連中は、毎日、ほとんど仕事をしないで遊んで、くらした。(そうして、遊んでいなかったのは、神経衰弱とかをなおすために、といって、東家の表〔おもて〕の二階の部屋に陣取って、バアネットの『小公子』と『小公女』を翻訳していた、佐佐木茂索だけであった。その頃、佐佐木は、かぞえ年〔どし〕、二十八歳であったが、年よりふけて見えたけれど、色白く眉目〔びもく〕秀麗な青年であった。しかし、一人〔ひとり〕、はなれた部屋にこもって、その秀麗な顔を緊張させ、口を斜めに堅〔かた〕く結〔むす〕んで、適当な訳語を案じているところを、ときどき、私は、見て、あの茂索が、と感心した、それは、その真剣な顔つきにも打〔う〕たれたのであるが、おなじ宿にとまっている友だちが、その部屋から、その有〔あ〕り様〔さま〕も見えず、それらの人たちのはしゃぐ声は聞こえなくても、それを感じない筈のない敏感な佐佐木が、じっと辛抱している、その辛抱づよさに、一そう心を打たれたのであった。そうして、あの若さで、あの忍耐が、……と、今〔いま〕の私は、思うのである。)

 ところで、その時の私たちの『あそび』というのは、その頃はやった「表現と理解」[註―字にかくと、しかめつらしいが、実は無邪気なバカバカしい遊戯であるから、解説したいが、省く]とか、まだ麻雀などなかった時分であったから、「花歌留多」[あるいは「花あわせ」]とか、等、等、等である。

[やぶちゃん注:「表現と理解」不詳。識者の御教授を乞う。私の直感だが、これは所謂、「天狗俳諧」や、シュールレアリストのやった“cadavre exquis”ではなかろうか? 因みに“cadavre exquis”とは「美しき屍体」「優雅な屍体」等と訳されるもので、私の好きな画家イヴ・タンギーが発明したとされる遊び。複数の参加者が一つの文章やデッサンを、各人が別個に(他の若しくは先の又は前後の)製作者の存在や内容・描画を伏せておいて共同で製作する、一種のパフォーマンス・自動描法(オートマティスム)の一つである。名の由来はタンギーらの最初の試みの際に偶然生じた文、“Le cadavre – exquis – boira – le vin – nouveau”(「優美な―屍体は―新しい―酒を―呑むだろう」)に基づく。)]

 さて、花歌留多は、徳川時代に、西洋伝来のカルタが禁止されたので、そのかわりに、案出されたものであるから、麻雀などとは比較にならぬはど、多くの人になじまれたので、徳川時代のことは知らないが、(『栄華物語』のなかに、「花合〔はなあはせ〕、菊の宴など、をかしき事を好ませたまひて……」というのがあるが、)明治から大正にかけて、民衆娯楽の一〔ひと〕つになっていた。しぜんその頃は、文学者のなかにも、「花」を好む人が、かなり誇り多かった。(滝井孝作の『博打〔ばくち〕』[昭和二年四月]のなかに、「自分は遊び事に熱中するたちで、茲〔ここ〕半月ばかり花や麻雀で仕事ができなかつた、……」というところがある。)

[やぶちゃん注:ここで宇野が「栄華物語」(本引用は同作の第三十七巻「けぶりの後」の一節)のなかに「花合」という語がある、と述べているが、この「花合」というのは花札とは全く異なるもので、これは「物合〔ものあは〕せ」の一種である。「物合せ」とは多くの人が集まって右方・左方二手に分かれてそれぞれの組になる示す対象の優劣を争う遊びである。「花合せ」はそのように二手に分かれ、それぞれ花を出し合って比べた上(一般には花の小枝を庭の遣水や池端に立てた)、通常は、その花に因んだオリジナルな和歌などを詠んで優劣を競った遊戯で「花競〔はなくら〕べ」「花軍〔はないくさ〕」などとも言った。勝負は勿論あるが、引き分けもあり、「持〔じ〕」と呼称した。花は主に桜であったが、「紅梅合せ」・「女郎花合せ」・「菊合せ」(「栄花物語」の「菊の宴」はこれかも知れない)・「撫子合せ」・「菊合せ」などがあった。また、「草合せ」というのもあって「紅葉合せ」・「菖蒲の根合せ」(根の長さを競う)、更に凝ったものでは「前栽〔せんざい〕)合せ」といって盆に植込みや箱庭のような盆景を作り、実物や工芸細工の虫やミニチュアの飾りを配したりして、そこに植えられた草花や装飾に関わる歌題を決めて、それらを詠んだ和歌をそれぞれの決められた位置に書き添えて配し、勝負を競ったりした。

「菊の宴」は重陽の節句の祝宴のこと。]

 さて、東家では、この「花」は、いつも、大杉の部屋で、もよおされた、大杉の部屋は、二階の八畳〔じょう〕で、誰の部屋よりも、ひろびろとしていたからである。その大杉の座敷からは、目の下〔した〕に、東家の庭が、見おろされた。その庭は全体が芝生で、その芝生の真中へんに池があって、その池のほとりに亭〔ちん〕があった。それで、庭ぜんたいが箱庭のように見えた。さて、その亭は、小〔ちい〕さい家になっていたので、入り口もあり、縁もあり、全体が四畳〔じょう〕半ぐらいの部屋になっていた。そうして、その部屋には、いつも、二人〔ふたり〕の男がいて、その二人〔ふたり〕の男は、障子があけてあるので、ときどき、大杉の座敷を、じろじろと、見あげた。それは大杉を尾行〔びこう〕する刑事である。したがって、大杉はその二階の座敷にいれば、二人の刑事は、安心して、その亭の部屋で、休息できるわけであつた。それで、大杉は、私たちと花歌留多をしている時、ときどき、目に微笑をうかべて、その亭の方を見ながら、「あそこに番人がいるから、安心だよ、」と、いった。(ところで、芥川は、ときどき、東京に帰ったからでもあるが、たまたま、大杉の部屋に、はいって来ても、花歌留多は一度もした事はない。)

[やぶちゃん注:「亭〔ちん〕」は唐音。池亭。四阿〔あずまや〕。

「大杉栄」宇野の記憶通り、このシークエンスが大正十(一九二一)年三月頃とすると、大杉はこの一月にコミンテルンからの資金援助でアナキスト・ボルシェヴィキ(アナ・ボル)共同機関紙として第二次の『労働運動』を刊行しているが、二月に腸チフスを悪化させ入院している。鵠沼東屋での静養が、その予後の養生と考えるとしっくりくる。]

 

 さて、今、さきに上〔あ〕げた『文学の三十年』を取り出して、開いてみると、その日絵に、私が、その時、東家でとった写真が二〔ふた〕つ、東家でない家でとった写真が二つ、――と、あわせて、四〔よっ〕つの写真が出ている。そうして、その四つの写真の解説が本のしまいに出ている。むろん、その解説は、私が、書いたものである。それを、便宜のために、左にうつしながら、解説の補遺と訂正をしよう。

 むかって右のガラス障子を背景にして、いかにも写真に取られるところらしい恰好をして、ならんでいる、二人の青年は、右が佐佐木茂索(二十八歳)で、左が芥川龍之介(三十歳)である。

 補遺――佐佐木も芥川も着物を着ている。芥川は、両手袖の中にかくし、膝をまげているが、ほとんど正面を見ている、そうして、かすかに歯を出している。佐佐木は、右の方にちょっと反〔そ〕りかえり、左でを籐椅子〔とういす〕の背によせかけ、手の甲だけ出している、トルコ帽のようなものをかぶっている。そうして、佐佐木の方が年上〔としうえ〕のように見える。よく見ると、御両人は籐〔とう〕の寝椅子にいささか行儀〔ぎょうぎ〕わるくならんで腰をかけているらしい。

 むかって左の、庭園の中〔なか〕で、これも、いかにも、写真に取られるかまえをしている、二人〔ふたり〕の人物は、右が里見、左が佐佐木、とだけ説明しておく方が無事であろう。ところで、この庭園は、東家ではなく、どうも、他の家の庭園であったような気がするが、なにぶん二十年ほど前の、あまり大切な事でない、記憶であるから、その「他の家」が如何〔いか〕なる家であったかを丸〔まる〕で忘れてしまった。見る人、諒焉。

[やぶちゃん注:「諒焉」返り点で返って、「焉〔これ〕を諒せよ」と読む。]

 補遺訂正――「他の家」とは、むろん、東家でなく、鎌倉の、当世の流行の言葉でいえば、avec 専門の家である。但し、この家に、御両人は、avec などではなく、とまったのであろう。

 この二〔ふた〕つの改まっていないようで改まっている写真の下の、これ亦、改まっていないようで改まっている、食卓をかこんでいる図は、場所はやはり東家の座敷で、人物は、むかって右から、芥川、せい子[当時の谷崎潤一郎夫人の令妹]、宇野、里見、久米、である。

 解説の附加――五人とも宿屋のそろいの丹前をきているが、それぞれとりどりに写真にとられる姿勢をしているところに、興味がある。芥川は、右腕で頰杖をつき、斜め横むきで、写真器のある方を見ている。すこし不機嫌らしい顔をしている。せい子嬢は、正面をむいて、かすかに笑顔〔えがお〕をしている、ほんの少〔すこ〕し色っぽい顔をしている、里見は、やはり、横むきで、ちょいと頰笑〔ほほえ〕みながら箸を鉢につっこんでいる、(が、それが、いかにも箸を突っこんでいる恰好〔かっこう〕をして見せている、という風〔ふう〕に見える、)半身だけしか写〔うつ〕っていない久米は、首をすこし無理にまげて、やはり、写真器のある辺〔へん〕を、にらむように見ている。さて、私(つまり、宇野)はについては、解説に、こう(つぎのように)書いてある、「宇野だけが、食卓から少〔すこ〕しはなれて、かしこまっている形など、客観的に見て、何〔なに〕か珍〔ちん〕である。しかし、これは私(宇野)が、写真器をうつす仕掛〔しか〕けにしておいて、自動停整器をかけておいて、後〔あと〕で仲間〔なかま〕いりしたので、こういう形〔かたち〕になったのである。」――この解説は、十年ほど前に、私が書いたものであるが、せい子と里見のあいだに、食卓から少しはなれて、ちょこなんと坐〔すわ〕って、真正面〔ましょめん〕をむいている私は、客観的に見て、(客観的に見なくても、)きわめておめでたい顔をしている。もっとも、これは、私ばかりでなく、他の四人の顏も、みな、遊んでいる、これは、四海波〔なみ〕しずかな、天下太平〔たいへい〕な、大正の世のせいばかりではなく、この時この鵠沼の東家に滞在していた人たちは、ここでは、仕事などほとんど忘れて、呑気〔のんき〕にあそびくらしていたからである。(大杉と私は、ときどき、宿の女中と相撲〔すもう〕をとった、という事によって、女中たちにもっとも人気があった、これをもって、他は「推して知るべし」である。)

 さて、この食卓の図の下の右側は、やはり、鵜沼の、江口の家の座敷の縁側で、おなじ頃うつしたもので、むかって右から、佐佐木茂索、谷崎精二、江口、江口の側〔そば〕にいる子供は誰の子か不明。そうして、江口だけが粗末な丹前をきているのは、谷崎と佐佐木が、東家から、江口を訪問した時であろう。

 解説の補遺――粗末な丹前をきた江口と粗末な二重廻〔にじゅうまわし〕し(鳶合羽〔とんびがっぱ〕ともいう)をきた佐佐木が江口と窮屈〔きゅうくつ〕そうに体〔からだ〕をおしつけあって縁側に腰をかけている、ふだん恐〔こわ〕いように見える江口の顔が、ほのかに笑っているので、柔和に見え、日〔ひ〕がさしてまぶしかったのか、佐佐木が二十五度ぐらいに首をかたむけ、その佐佐木と江口の顔のあいだに、やはり、粗末な二重廻しをきた谷崎が、腕ぐみをして、半身を出している。江口は両手を膝の辺でかるく組んでいるが、佐佐木は、両手を着物の袖からだらりと出し、右の手に持っているステッキを斜めにつき、着物の裾と二重廻しの裾がすこし広がっているので、聊〔いささ〕かだらしなく見える、この時、佐佐木はよほど疲れていたらしい。(ここで、余計な事を、承知で述べると、このとき粗末な二重廻しをきていた二人が、二十七八年のちに、一人が早稲田大学の文学部長になり、他の一人が文藝春秋新社の社長になろう、とは、それは、西洋流にいえば、神だけが知っていたかもしれない。)

[やぶちゃん注:所謂、シャーロック・ホームズのスタイルで知られるインバネス(“Inverness coat”)のことである。肩から体を蔽う袖なしのオーバー・コートで、京都の「風俗博物館」の「日本服飾史 資料」の「山高帽、二重廻しのマント」によれば、本邦には十六世紀後半ポルトガル人宣教師らの外套として齎され、ポルトガル語の“Capa”から「合羽」と当字された。明治七(一八七四)年頃に外国軍人の外套を模して、陸海軍の将校用外套や警察・消防の防寒用制服とされた。一般には『洋服だけでなく和服用にも用い出され、和洋混交の新しい姿として重用された。特に半円形のマントを和服用に改良を加え、身の部分を袖なしに作り、マントを重ねたものが「とんび」「二重廻し」「インバネス」と呼ばれて一般の男子の防寒用のオーバーとされた』。大正・昭和を通じて『特に和服用として多く使用されたが、戦後は殆どその姿を消した』とある。]

 最後に、これらの写真を見て、ふと、気がついたのは、ふさふさした髪の毛を真中からわけて耳のへんまで垂らしている芥川の顔は、『ドリアン・グレイの画像』の作者、オスカア・ワイルドをおもわせ、佐佐木の鼻下に目にたつ細長い口髭をはやしている事である。これを見て、ふたたび、余計な口をきくと、「文藝春秋」の増刊の「炉辺読本」[昭和二十六年十二月五日発行]の口絵に、尾崎士郎、田村秋子、徳川夢声、越路吹雪、石黒敬七、一万田尚登、吉屋信子、宇野浩二、の若年の頃と現在の写真を出して、『彼は昔の彼ならず』という題をつけているが、その中〔なか〕に佐佐木茂索を漏らしたのは、『抜群〔ばつぐん〕』といわれる、「文藝春秋」の編輯者の手おちであろう、諺にいう『智者も千慮に一失あり』とはかくの如き事〔ごと〕をいうのであろうか、閑話休題。

[やぶちゃん注:「田村秋子」(明治三十八(一九〇五)年~昭和五十八(一九八三)年)は新劇女優。築地小劇場・築地座・文学座名誉座員。この頃は舞台復帰した直後で、前年の昭和二十五(一九五〇)年にはイプセンの「ヘッダ・ガブラー」でヘッダを演じている。

「石黒敬七」(明治三十(一八九七)年~昭和四十九(一九七四)年)は講道館所属の柔道家・随筆家。ヨーロッパや中近東など海外での柔道普及に尽くした。昭和二十四年からNHKのラジオ番組「とんち教室」のレギュラーとして出演、人気を博した。

「一万田尚登」一萬田尚登(いちまだひさと 明治二十六(一八九三)年~昭和五十九(一九八四)年)は日本銀行総裁・衆議院議員(五期)・大蔵大臣(四回)などを歴任。当時は日銀総裁であったが、この数ヶ月前の昭和二十六(一九五一)年九月のサンフランシスコ講和会議では、全権委員として吉田茂とともにサンフランシスコ平和条約の署名を行っている。]

 ところで、旧著の口絵の解説などをもちだしたのは、鵠沼の東家に、その頃、集まった人たちの動静を述べるには骨がおれる上に余程の枚数がいるので、手をぬいて、その一端を述べるためであった。

 さて、この東家にいた連中〔れんじゅう〕のなかの『花』の特にすきな人たちは、東家のちかくに住んでいた、中村武羅夫の家に、しばしば、出かけた。ところが、その人たちは、中村の『花』のやり方〔かた〕が、手堅〔てがた〕くて、大きく勝たないが、決して負ける事がないので、感じがわるい、といって、ときどき、こぼしながら、しかし、その人たちは、やはり、中村の家に、出かけた。

 ところで、私は、『花』にはあまり興味がなかったので、その連中と中村の家に行ったことは一度もなかったが、ある時、用事があって、中村をたずねた時、めずらしい人に逢った、木蘇 穀という人である。木蘇は、私たちと同年ぐらいであったが、初志を得ないで、西洋の小説の翻訳などを、ほそぼそと、していた。これには、その頃(大正十年ごろ)の翻訳ばやりの有り様を、ちょっと、書いておかないと、一般の読者にわからない、と思うので、――その頃、翻訳の本をほとんど一手〔いって〕に出していたのは新潮社である。その新潮社で、その頃、『世界文芸全集』というのを出していて、その広告を見ると、「約一百巻の予定――空前の大叢書也」とあるが、実際に出したのはその半分ぐらいであったか、と思う。そうして、出したものは、『ボヴァリイ夫人』、『ヸルヘルム・マイステル』、『赤と黒』、『従妹ベット』、その他、大部のものでは、『戦争と平和』、『アンナ・カレエニナ』、『レ・ミゼラブル』、『ジャン・クリストフ』、その他、で、訳者は、中村星湖、米川正夫、原 久一郎、豊島與志雄、佐々木孝丸、その他で、この『その他』の中には、廣津和郎、阿部次郎、江馬 修、などもいるが、他は無名といってもよい人たちである。そうして、その無名といってもよい人たちの中〔なか〕に、『従妹ベット』を翻訳した、布施延雄という男があるが、この布施は、早稲田で、私の同級生で、英語がよく出来たので、バルザックのほかにも、ツルゲエネフ、パルビュス、メリメ、その他翻訳をした。木蘇は、この布施としたしくしていたが、布施ほど語学ができなかった上に、ひっこみ思案の人であったから、翻訳をしても、代訳であったらしく、木蘇の名で出た和訳の本は一二冊であった。

[やぶちゃん注:「木蘇 穀」(きそこく 生没年未詳)は編集者・翻訳家・作家。辻潤から英語を習い、後に『万朝報』記者となり、国家社会主義を唱えた哲学者高畠素之などとも関係があった。個人のブログ「漁書日誌ver.β」の「余震の趣味展」の記事によれば、今東光が『文壇三大醜男』と呼び、谷崎潤一郎「人面疽」のモデルとも言われる、とある(谷崎の書生のようなことを彼はしていたらしい)。「後家ごろし」等、通俗推理小説の創作も手掛けているが、現在は忘れられた作家である。

「従妹ベット」はバルザックの『人間喜劇』シリーズの代表作の一つ。

「中村星湖」(明治十七(一八八四)年~昭和四十九(一九七四)年)翻訳家・小説家。『早稲田文学』記者、戦後、山梨学院短大教授。ここに出たフロベール「ボバリー夫人」は彼の翻訳の代表作。

「原 久一郎」(はらひさいちろう 明治二十三(一八九〇)年~昭和四十六(一九七一)年)はトルストイの翻訳家として知られるロシア文学者。昭和十一(一九三六)年から十五(一九四〇)年に個人訳「大トルストイ全集」を完成させた。。東京外国語大学名誉教授。ロシア文学者として知られる原卓也は彼の息子である。

「佐々木孝丸」(明治三十一(一八九八)年~昭和六十一(一九八六)年)は俳優・翻訳家・作家・演出家。戦前は左翼系演劇に参加、落合三郎のペン・ネームでプロレタリア戯曲集を書き、フランス文学の翻訳をも手掛けた。ここに出る「赤と黒」(落合三郎名義)は彼のその代表作。また「インターナショナル」の日本語訳詞は彼の手にある。熱心なエスペランティストとしても知られ、私にとっては東宝特撮映画でお馴染みのバイ・プレーヤーである。

「江馬 修」(えましゅう/えまなかし 明治二十二(一八八九)年~昭和五十(一九七五)年)は作家。田山花袋の書生となり、夏目漱石門下の阿部次郎らと交遊を結び、大正五(一九一六)年の長編「受難者」がベスト・セラーとなる。関東大震災を契機として社会主義に傾き、『戦旗』派のプロレタリア作家として活動する。戦中から戦後にかけて、長編「山の民」を執筆、文化大革命の中華人民共和国に渡り、現地では最も有名な日本人作家として知られた(以上は、主にウィキの「江馬修」によった)。

「布施延雄」(明治二十五(一八九二)年~?)翻訳家。エドガー・アラン・ポオの作品集「全譯 橢圓形の肖像」(「楕円形の肖像」。大正八(一九一九)年。「ベレニス」「エレオノラ」「モレラ」等を含む作品集の全訳)、バルビュス「地獄」(大正十(一九二一)年で本邦に於けるバルビュスの初訳)、ツルゲーネフ「貴族の家」(現在の「貴族の巣」。大正十一(一九二二)年訳)、ウィリアム・モリス「無何有郷だより」(昭和四(一九二九)年訳)、メリメ「カルメン」(昭和十(一九三五)年訳)、など、多くの翻訳をものしている。]

 さて、私が、中村の家で、木蘇に邂逅したのは、その頃、木蘇も、鵠沼に、住んでいて、ときどき、木蘇は、特殊の用事で、中村を、たずねて来たからである。(木蘇は、翻訳の仕事で、中村と知り合い類を中村に買ってもらう事である。そうして、その書画の類は木蘇の父の遺産であった。木蘇の父は木蘇岐山という有名な漢学者である。

[やぶちゃん注:「木蘇岐山」(?~大正五(一九一六)年)漢詩人。美濃国出身。東本願寺派僧の子。若き日は勤王派として活動したらしい。「大阪毎日新聞」詩(漢詩)欄を担当し、関西詩壇を指導したこともある。宇野が鵠沼の東屋で出逢ったこのシークエンスは、先の記述から大正九~十年頃であるから、岐山の死後四~五年ということになる。]

 それを誰からか聞いた私は、その書画がちょいとほしくなったので、ある日、木蘇をたずねた。すると、木蘇は気の毒そうな顔をして、目ぼしい物はみな中村が取ってしまって、これだけしか残っていない、といって、奥から、二幅の書〔しょ〕を出して来た。そうして、木蘇は、その二幅を私の膝の前において、小〔ちい〕さい声で、「梧竹と楊守敬です、……僕の親父〔おやじ〕は、楊守敬としたしくしていたらしいのです、それで、……」と、いった。

[やぶちゃん注:「梧竹」は中林梧竹(文政十(一八二七)年~大正二(一九一三)年)のこと。明治の三筆と称せられた書家の一人。肥前国小城藩(現・佐賀県小城市)生。その特徴は絵画的で、実際に水墨画も描いた。

「楊守敬」(Yáng Shŏu jìng 道光一四(一八三九)年~民国四(一九一五)年)清末の学者。湖北省宜都生。訓金石学に通じ、欧陽詢の書風を受け継ぐ能書家としても知られた。明治十三(一八八〇)年、初代駐日公使何如璋〔かじょしょう〕の随行員として来日、大陸では既に散逸した古典籍の収集に勤しむ傍ら、書家巌谷一六〔いわやいちろく〕や日下部鳴鶴〔くさかべめいかく〕らに北魏の書を伝えて、本邦近代書道史に大きな影響を与えた。明治十七(一八八四)年帰国、晩年は上海に寓居、書を売って生計を立てたという。]

 私は、それだけ聞いて、「失敬ですが、……」と、いって、木蘇のいうままに、三拾円で、その二幅の書を、木蘇に、譲〔ゆず〕ってもらった。

 ところが、私がこの二幅の書を木蘇から買った翌日、二三日〔にち〕東京にかえっていた芥川が、また、東家にやって来たので、さっそく、芥川に、その二幅の書を見せながら、私は、

「……木蘇君は、もっといい物をたくさん持っていたらしいのだが、その中〔なか〕のもっともいい物を、はじめに、中村君が、買ってしまったらしいんだ、……だから、これは、君〔きみ〕、その、売れ残りだよ、……」と、いった。

 すると、芥川は、私の話がおわらないうちに、目をかがやかしながら、

「君〔きみ〕、すぐ、その木蘇という人のうちへ、案内しでくれたまい、」と、云った。

 そこで、私が、すぐ、芥川を、木蘇のところへ、連れて行くと、木蘇は、ちょっと悲しそうな顔をして、書画の類はもう一幅ものこっていない、と、いった。

 すると、芥川は『地〔じ〕だんだ』ふむような情〔なさけ〕なさそうな、顔をした。

 温厚な木蘇は、その芥川の顔を見て、しばらく、途方にくれていたが、やがて、芥川の顔をうかがうように見ながら、

「印章なら大分ありますが、……」と、云った。

「え、印章、」と、芥川は、めずらしく顔色をかえて、(平凡な形容をつかうと、愁眉〔しゅうび〕をひらいたような顔をして、)飛びつくように、いった。

 そこで、木蘇は、奥の方〔ほう〕へ行って、引き出〔だ〕しを、そのまま、持って来た。

 すると、芥川は、たちまち、私が傍〔そば〕にいるのを忘れたように、その引き出しの中〔なか〕から、大小の印形を、一〔ひと〕つ一〔ひと〕つ、丁寧に、取り出して、「ほお、」とか、「これは、」とか、いちいち、感歎の言葉を、放〔はな〕っていた。しかし、私は、印章というようなものに殆〔ほと〕んど興味がなく、しぜん、芥川と木蘇が、それらの物について、何かしきりに話している事もほとんど全くわからなかったが、そのあいだに、しばしば、『蔵六〔ぞうろく〕』という名が、くりかえされたので、それだけが耳についた。

 さて、芥川は、それらの印形の中〔なか〕から、気にいった物を、五〔いつ〕つ六〔むっ〕つ、木蘇から、ゆずりうけるところと、私の方にむかって、「やあ、失敬、さあ、おいとましようか、」と、いった。

 ところで、芥川の死後に『印譜』が刊行されたが、それには十〔とお〕おさめられていて、その十〔とお〕の中には、芥川の家厳芥川道章の作一〔ひと〕つ、芥川の親友の小沢仲丙[俳人の小沢碧童のこと]の作一つ、他に鋳銅が一つ、陶印が一つ、その他(『仙箭楼居』と刻まれたもの)一つ、――それらの五〔いつ〕つのほかは、(他の五つは、)みな、蔵六浜村 袞の作である。

[やぶちゃん注:「蔵六浜村 袞」は恐らく篆刻家五世浜村蔵六(慶応二(一八六六)年~明治四十二(一九〇九)年)であろうか。初世蔵六以来の最大の印人と称された名工である(但し四世浜村蔵六門人で養子)。襲名は明治二十七(一八九四)年で、各地を遊歴後、二度にわたって清に渡中し、政治家康有為・篆刻家徐三庚・書家で篆刻家としても知られた呉昌碩らと親交を結んで、奥義を学んだ。犬養毅や幸田露伴など多くの名士が彼の印を好んだ。但し、彼の名は「裕」、字が「有孚」、別号「無咎道人」「彫虫窟主人」、通称も「立平」で、「袞」は見当たらない。ただ「袞」はよく見ると(上)が「谷」に、(下)が「衣」に似ていて、「裕」の字に通ずる気もする(事蹟部分はウィキの「五世浜村蔵六(五世)の記載を参照した)。]

 それで、これはまったく私の臆測であるが、この五つの蔵六の作と『仙箭楼居』と刻まれてあるのと合わせて六つの蔵六の作を、芥川が木蘇から、買ったものとすれば、芥川の印章の重なものは、木蘇穀の父の木蘇岐山の所蔵した物である、という事なるのである。そうして、それらの物のうちで、『印譜』の一番はじめに出ている『鳳鳴岐山』は、その大きさといい、その風格といい、私のような者が見ても、蔵六浜村袞の傑作の一つではないか、と思うほど、すぐれた篆刻である。(これは、先の色が出なくても、せめて写真版にしても出したいぐらいである。)

 木蘇 穀が、この芥川の『印譜』を見て、「芥川さんはひどい人だ、」といったそうであるが、死んでしまった芥川には、この木蘇の言葉は、もとより、つたわらない。

[やぶちゃん注:「芥川さんはひどい人だ」という台詞は――他人の印でありながら、自分のオリジナルのように死後の印譜で示させた点(印譜配布の指示は遺書(菊池宛)の中に書かれている)、心情的には、木蘇氏が呟くのは、倫理的な意味に於いては、分からないではない――が――論理的には、おかしい気がする――だったら、売るな、と言いたい、のだ――木蘇氏は、死んだ後には自分の元に返すべきだ、とでも、思ったものかも知れないが、「ゆずりうける」という語は、ただで贈った、というわけではあるまい。そんなに返して欲しければ、芥川家に行って、言を尽くして、買い戻すべし――と、私は言いたい。何だか、私が、宇野のような語り口に、なった。]

 

 さて、つぎに述べる事も、十五六年まえに、書いたけれど、それを書かないと、この文章の筋が通らないから、――

 この印章の一件があってから、十日ぐらい後〔のち〕であったか、ある日、芥川が、少〔すこ〕しあわただしい様子をして、私を、たずねて来た。そうして、座につくのと殆んど同時に、

「今日〔きょう〕は、いつか、君が、鵠沼で買った、あれを見せてもらいに来たんだがね、……」と、いった。

 その芥川の『あれ』というのは、私が木蘇から買った、あの、二幅の書である。そうして、その二幅の書とは、前に述べたように、一つは梧竹の書であり、他は楊守敬の書であるから、私が、その二幅の書を出して、見せると、芥川は、その二つの軸を、ひろげて、いかにも慣〔な〕れた見方で、しばらくながめていた。が、すぐ、楊守敬は、維新の時分に日本に来たが、書がうまいので有名である、殊に、「君、これは、楊守敬としても、出来〔でき〕のいい方だよ、……それに、この詩も、ちょいと、うまいよ、」と、芥川は、いった。そうして、そう云いおわると、芥川は、すぐ、梧竹の書の方を見て、「やっぱり梧竹はいいな、」と、いった。

(後記――『楊守敬』について、私は、何も知らない。ここに書いた芥川の「維新の時分に日本に来たが、書がうまいので有名である、」というのも芥川流の云い方としか思われない。ところが、森 鷗外の『澀江抽斎』の(その二)の終りの方に、楊守敬の名が出ているのを、私は、発見した。そこのところをうつしてみよう。「……これ(抽斎の『経籍訪古志』)は抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園と分担して書いたものであるが、これを上梓することは出来なかつた。そのうち支那公使館にゐた楊守敬が其写本を手に入れ、それを姚子梁が公使徐承祖に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させる、」と、これを見ると、芥川が、楊守敬が「書がうまいので有名である、」というのは、やはり、例の芥川流の云い方であり、それが面白い、と、私は、思うのである。)

[やぶちゃん注:「経籍訪古志」は弘前藩侍医にして稀代の考証家渋江抽斎(文化二(一八〇五)年~安政五(一八五八)年:伊沢蘭軒に師事。)が森立之とともに編んだ、奈良平安まで遡ったあらゆる分野に亙る漢籍の善本解題目録。近代の書誌目録学の中でも稀有の快挙とされる。

「森枳園」(もりきえん)は森立之(もりりっし/もりたつゆき 文化四(一八〇七)年~明治十八(一八八五)年)のこと。備後国(現・広島県)福山藩医。伊沢蘭軒に師事、渋江抽斎と親交、後に幕府医学館講師として「医心方」を校訂、維新後は文部省勤務。

「姚子梁」(ようしりょう 生没年未詳)。楊守敬と同じく駐日公使随行員と思われるが、初代何如璋・第二代黎庶昌〔れいしょしょう〕・第三代徐承祖のいずれの随員かは不明。

「徐承祖」(じょしょうそ 一八四二年~一九〇九年?)は清国第三代駐日公使(公使在日一八八四年~一八八八年)。徐承祖の序本邦の「経籍訪古志」は清国上海で光緒十一(一八八五)年に公刊を見た。その際、森立之が校訂を行った旨、鷗外の「渋江抽斎」には引用部に続いて『徐承祖が序文を書いて刊行させることになつた。その時幸に森がまだ生存してゐて、校正したのである』と続く。]

 私は、その芥川の云い方を聞いて、どうも、梧竹より楊守敬の方がいい、という意味にとれたので、芥川の気質をいくらか心得ている私は、『ははア、これは……』と思ったので、

「君に、こっちを進呈しようか、」と、梧竹の書の方を指さして、云ってみた。

 すると、はたして、芥川は、かすかににやりと笑って、

「これ、もらっていいか、ありがとう、じや、もらうよ、」と、いった。

 ところで、私は、その時は、ただ、それだけの考えで、芥川に、梧竹の書をあたえたのであるが、ずっと後〔あと〕で、私が取っておいた、楊守敬の書が、

   山路只通樵客江邸半是漁家

   秋水磯辺落雁夕陽影裏飛鴉

     岐山仁兄方家正  宜都 楊守敬

とあるのを見て、『岐山』は、前に述べたように、木蘇岐山であるから、このような書は、岐山でなければ、掛けておけない、という事になると、ふと、考えた、そうして、もし、この私の臆測があたっていれば、芥川のすばやい目は、この書を見た時、すぐこの『岐山仁兄』が目につき(それが芥川の気に入らなかった理由の一つであったのだ。

[やぶちゃん注:書を自己流で書き下してみる。

   山路〔やまじ〕 只だ樵客〔しょうかく〕を通し

   江邨〔こうとん〕 半ばは是れ漁家〔ぎょか〕

   秋水磯辺〔しゅうすいきへん〕の落雁

   夕陽影裏〔せきようようり〕の飛鴉〔ひあ〕

     岐山仁兄方家正  宜都 楊守敬

「夕陽影裏」は、夕陽の中に、の意であるが、全体に禅語の「森羅影裏藏身」(「森羅影裏に身を藏す」)、天地万物と総ての現象の中にこそ――「夕陽の中を飛ぶ鴉」、その一匹の黒き鴉の飛ぶ景の中にこそ――まことは深く潜んでいる、の意を掛けているものと思われる。「仁兄方家正」は総て敬称であろう。「宜都」は楊守敬の出身地。]

 しかし、私は、こういう事は、ずっと後〔あと〕になってから、気がついたのであるが、こういう事(つまり、梧竹の書の事)などをきれいに忘れた時分に、(その一件があってから半年ほど後〔のち〕、)ある日、芥川が、私の家の二階の客間に通〔とお〕ると、すぐ、無造作〔むぞうさ〕に新聞紙につつんだものを解〔と〕いて、一尺ぐらいの高さのブロンズの胸像を取り出し、それをテエブルの上において、例の少し鼻にかかる声で、

「これは進呈しよう、」と云った。

 それは、長い髪の毛を左わけにした柔和な人相の男の胸像である。そうして、その胸像の変〔かわ〕っているのは、その胸像の台が羽根ペンを添えた二冊の書物を台にしている事である。

 それで、私が、それを見て、ちょっとの間、呆気にとられていると、芥川は、それを右手で取り上げて、

「……わかるだろう、これ、君に、ゴオゴリだよ、この胸の下に書いてあるロシア語は、N.V.GOGOL と読むんだそうだ。今そこの、日暮里の、田村松魚[註―田村俊子の夫]の家で見つけたんだ、うん、松魚は、元はちょいとした小説家だが、今は、小説家を廃業して、骨董屋になってるんだ、……これ、たぶんロシア人が、国に帰る時、売って行ったんだ、と思うが……」と、ここで、芥川は、持ち前の微笑を目にうかべて、その胸像の底を私に見せながら、「見たまえ、これ、ブロンズのように見えるだろう、がテラコッタだよ、……ところが、テラコッタというものはイタリイが本場だ、それが不思議じゃないか、これはまちがいなくロシアのゴオゴリだからね、」といって、私の目を、うかがうように見た。

[やぶちゃん注:「この胸の下に書いてあるロシア語は、N.V.GOGOL と読むんだそうだ」ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリのロシア語表記は“Николай Васильевич Гоголь”。英語表記では“Nikolai Vasilievich Gogol”となる。

「テラコッタ」“terracotta”イタリア語で「焼いた土」の意。粘土を素焼きにして作った塑像。]

 

 さて、芥川からゴオゴリの胸像をもらってから、数日後であったか、数箇月であったか、私は、ふと、あのゴオゴリの胸像は、「あ、そうか、あの梧竹の書に対する返礼であったのだ、」と気がついた。そうして、返礼と思わせないために、わざと無造作に、新聞紙に、つつんで来たが、実は、わざわざ、自分の家〔うち〕から、大事〔だいじ〕にしていた物を、持ってきたのではないか、と、私は、思った。無造作に持ってきたのは、芥川の持ち前と都会人らしい細〔こま〕かい気質のあらわれであり、返礼にきたのは、芥川の礼儀ずきと義理がたさをあらわしている。そうして、私は、「なるほど、芥川らしいな、」と思って、感心した。

 ところが、芥川がなくなってから五年ほど後(つまり、昭和七年頃)の在る日、諏訪三郎[註―この人は、たぶん、大正の末年頃の四五年のあいだ、「婦人公論」の名記者であった]が、たずねて来た時、私が、なにかの話のついでに、座敷のすみの台の上においてあった、ゴオゴリの胸像を見せながら、諏訪に、ここに書いたような話をすると、諏訪は、話の切れ目毎〔ごと〕に、うなずく癖があって、頻りにうなずきながら、私の話をおもしろそうに、聞いていた。ところが、その翌日、ある雑誌に、諏訪は『文学上の信念』という題で、私をたずねた時の事を、書いていたが、その中〔なか〕に、つぎのような一節があった。

……もう一〔ひと〕つのブロンズの胸像というのは、[註―これは、胸像ではなく、首だけであるが、大杉 栄のブロンズの首で、おなじ座敷の別の所においてあったもの]私は、嘗てこの品を芥川龍之介氏の書斎で見たことがあった。たしか宇野さんは芥川さんから貰ひうけたのであらう。本二冊つみかさねた上〔うへ〕に立てるゴオゴリである。私はさっきからブロンズと呼んでゐたが、実は、ブロンズではなく、テラコッタである。

「君、これは土〔つち〕だぜ。」芥川さんもかう云つて私に見せられたことがあつたが、[中略]宇野さんも、「ブロンズのやうだらう。しかし、これ、土だよ、」とわざわざそのゴオゴリの胸像を逆〔さか〕さにして、見せてくだすつた。

 これを読んで、私は、自分の想像があたっていたので、いささか得意な気がした。が、すぐ、諏訪が、すでに、芥川の書斎で、そのブロンズのように見える胸像がテラコッタである事まで、聞き知りながら、いい気になってしゃべっている私の話を、何〔なに〕くわぬ顔をして、聞いていたのだ、と、気がつくと、私は、心の中〔なか〕で、真赤〔まっか〕になった。いや、私の事などは、どうでもよい。おなじ文章の中〔なか〕で、諏訪は、「君、これは土だぜ、」という言葉だけで、芥川の高い鼻をさえ、折っているではないか。これを見れば、『腕』のある記者は、芥川のような抜け目のない秀抜な作家をさえ観察する『目』をも、持っている、という事なる。天下太平であった、といわれる、大正時代の記者でさえ、(しかも、諏訪のような温厚な人さえ、)かくのごとき観察眼を持っていたのであるから、近頃の、(つまり、『戦後』の、)記者たちは、(腕のない人でも、)エッキス光線のごとき観察眼をもっているかもしれない。そこで、「寄稿家諸氏よ、」と私は叫びたい、「近頃の記者にめったに心ゆるすな。」閑話休題。

[やぶちゃん注:「諏訪三郎」(明治二十九(一八九六)年~昭和四十九(一九七四)年)は編集者・小説家。本名、半沢成二。『中央公論』『婦人公論』の記者を経、新感覚派の『文藝時代』同人として創刊に参加、小説「郊外の貧しき街より」「ビルヂング棲息者」「大地の朝」など。

「これは、胸像ではなく、……」は日本語としては、やや説明不足。『もう一つの、というこの前で語っているブロンズの胸像というのは、これは、胸像ではなく、……』という意味。]

2012/03/19

ジョン・ミリングトン・シング著 姉崎正見訳 アラン島 第二部 ウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵 附やぶちゃん注

「心朽窩 新館」に『ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部』(ウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵 附やぶちゃん注)を公開した。

母の一周忌に――

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (12) 第二部 完

 私はアランを立つた。汽船は普通以上に重く荷を積んでゐたので、キルロナンを出帆したのは四時過であつた。

 私は、一瞬時言ひ難い苦痛を以つて、再び三つの低い岩島が海の中へ沒するのを見た。晴れた夕方であつたので、灣に出ると、太陽は極光のやうにイニシマーンの斷崖の鋒に懸かつてゐた。

 少したつと燦爛たる光は空に行き亙り、海やコニマラの山山の靑さを描き出した。

 全く暗くなつてしまふと、寒さは激しくなつて來た。海の上をただ一艘だけ道を進んで行く淋しい船の上を私は歩き廻つた。乘客は私だけで、一人の舵取りの少年のほか、全部の船員は暖い機關室の中で押し合つてゐた。

 三時間たつても、誰も動かなかつた。般はのろいし、舷側の寒い海の物悲しい音は全く堪へられなかつた。やがてゴルウェーの燈火が見え出した。そして船が徐ろに波止場に近づくにつれて、船員たちの姿が現はれた。

 さて岸に上つてみると、私の荷物を汽車まで運んでくれる人を見つけるのに困つた。暗闇の中にやつと一人の男を見つけて、荷物を背負はせると、その男は醉拂ひであつた。私の財産もろ共に波止場の外へ轉がらないやうに氣をつけるのに苦勞した。彼は町へ出る近道に連れて行くと云つたが、壞れた建物のがらくたや船の殘骸の眞只中に來た時、彼は荷物を地面に投げ出して、その上に坐つた。

 「旦那、こいつあ、ばかに重いなあ。」彼は云つた。「此の中には金がはひつてるんだらう。」

 「金は一文もはひつてないよ。本だけだ。」私はゲール語で答へた。

 「べダッド・イス・モール・アン・スルーアェ(ちえツ、そいつあ惜しかつた)。」彼は云つた。「金がはひつてたら、今夜、一緒にゴルウェーで馬鹿騷ぎして遊べるのだがなあ。」

 半時間もかかつて、もう一度荷物を背負はせ、やつと町の方へ歩き出した。

 曉遲くなつて、マイケルを訪ねるために、波止揚の方へ下りて行つた。彼の宿を取つてゐる狹い横丁に入ると、誰かが陰になつて私の後をつけて來るやうである。立ち止まつて彼の家の番號を探さうとしてゐると、私の直ぐ傍で、イニシマーン語の「フォルティエ」(いらつしやい)と云ふのを聞いた。

 それはマイケルであつた。

 「往來であなたを見かけましたが、」彼は云つた。「人中で話しかけるのが恥かしかつたので、後をつけて來たのです。私を覺えていらつしやるかどうかみようと。」

 私たちは一緒に引返して、彼が宿へ歸らなければならない時まで町を散歩した。彼は昔の純朴さや機敏さで、相變らずであつた。併し此處の仕事が合はないので、滿足してゐない。

 今夜は、ダブリンのパーネル記念祭[Ponell,Charles Stewart184691)愛蘭土の自治運動の爲活動した政治家。十月六日は丁度その命日で、記念祭が行はれる。]の宵祭で、町は眞夜中に出發する汽車を待つてゐる旅客で混み合つてゐた。マイケルと別れると、私はホテルに暫く時を費し、それから鐡道の方へぶらぶら歩いて行つた。

 歩廊(プラットホーム)では、物凄い群集があらゆる熱狂振りを見せて、汽車の周りに波うつてゐた。此の時ほど、コンノートの半野生的な素質をよく見た機會はなかつた。此の有象無象の群集の熱狂は、私がローマやパリーの大暴民の中で感じたものより激しかつたやうに思へた。

 歩廊に、島から來た幾人かの人がゐた。私はその人たちと三等車に乘り込んだ。一行の中の一人の女は姪を連れてゐたが、その人はコンノートから來た若い娘で、私の傍に腰掛けた。車の向う側に、愛蘭土語で話してゐた幾人かの老人連がをり、また水夫であつた一人の若い男がゐた。

 列車が動き出すと、歩廊に物凄い歡呼の聲や叫び聲が擧り、汽車の中でさへ、男女の金切り聲を上げる者、歌を唱ふ者、仕切り壁を杖で叩く者で騷ぎは激しい。いくつかの驛で、酒場へ驅け込む突貫があつたり、行くにつれて騷ぎは愈々大きくなつた。

 バリンスローでは數人の兵士が歩廊にゐて席を探してゐた。此の中の一人と私たちの仕切りにゐた水夫が口論を初め、扉がぱツと開いた瞬間に、仕切りの中はよろめく軍服や杖で一杯になつた。一寸の間騷いだ後、仲なほりが出來、兵士たちは出て行つた。兵士たちが出て行くと、連れの女たちの一團が、非常な怒りに惡口を吐きながら、露はな頭や腕を戸口へさし入れた。

 少したつて、汽車が動き出すと、その女たちは狂氣のやうな泣き聲を擧げた。私は外をのぞいた。カンテラの燈に、むき出しの腕を振り上げ喚き叫んでゐる嘗つて見た事もないやうな物凄い顏や人影をちらつと見た。

 夜が更けると、次の車で、女たちは大聲を上げ出した。停車場に汽車が止まつた時、卑猥な歌の言葉が聞こえた。

 私たちの仕切りの中では水夫が皆を寢かせようとしない。夜中ぢゆう、滑稽味のある事、或ひは卑しげな事をしやべつたが、荒つぽい氣性をかくしながら、常に非常な雄辯であつた。

 黑い上衣を着てゐた隅の老人たちは何か家傳の古物らしい物を持つてゐて、夜中ぢゆうひそひそとゲール語で話してゐた。私の傍の娘は、少したつとはにかみを捨てて、ダブリンに近づくにつれて夜明けの中に見え初めて來た田舍の地形を私にあれこれと指ささせた。彼女は木の影や、――木はコンノートには少いのである――曉の光を映し初めた堀割を喜んだ。私が何か新らしい影を教へてやる度毎に、彼女はあどけない喜びで叫んだ。――

 「ああ、綺麗だこと。だけど見えないわ。」

 此の私の傍の有樣は、背後で仕切り壁を搖がす亂暴さと奇妙な對照であつた。西部愛蘭土の全精神は、その妙な氣荒さや愼み深さと共に、此の一つの汽車に乘つて、東部の今は亡き政治家に最後の敬意を捧げるために、動いてゐるやうに思へた。

 

 

I have left Aran. The steamer had a more than usually heavy cargo, and it was after four o'clock when we sailed from Kilronan.

Again I saw the three low rocks sink down into the sea with a moment of inconceivable distress. It was a clear evening, and as we came out into the bay the sun stood like an aureole behind the cliffs of Inishmaan. A little later a brilliant glow came over the sky, throwing out the blue of the sea and of the hills of Connemara.

When it was quite dark, the cold became intense, and I wandered about the lonely vessel that seemed to be making her own way across the sea. I was the only passenger, and all the crew, except one boy who was steering, were huddled together in the warmth of the engine-room.

Three hours passed, and no one stirred. The slowness of the vessel and the lamentation of the cold sea about her sides became almost unendurable. Then the lights of Galway came in sight, and the crew appeared as we beat up slowly to the quay.

Once on shore I had some difficulty in finding any one to carry my baggage to the railway. When I found a man in the darkness and got my bag on his shoulders, he turned out to be drunk, and I had trouble to keep him from rolling from the wharf with all my possessions. He professed to be taking me by a short cut into the town, but when we were in the middle of a waste of broken buildings and skeletons of ships he threw my bag on the ground and sat down on it.

'It's real heavy she is, your honour,' he said; 'I'm thinking it's gold there will be in it.'

'Divil a hap'worth is there in it at all but books,' I answered him in Gaelic.

'Bedad, is mor an truaghé' ('It's a big pity'), he said; 'if it was gold was in it it's the thundering spree we'd have together this night in Galway.'

In about half an hour I got my luggage once more on his back, and we made our way into the city.

Later in the evening I went down towards the quay to look for Michael. As I turned into the narrow street where he lodges, some one seemed to be following me in the shadow, and when I stopped to find the number of his house I heard the 'Failte' (Welcome) of Inishmaan pronounced close to me.

It was Michael.

'I saw you in the street,' he said, 'but I was ashamed to speak to you in the middle of the people, so I followed you the way I'd see if you'd remember me.'

We turned back together and walked about the town till he had to go to his lodgings. He was still just the same, with all his old simplicity and shrewdness; but the work he has here does not agree with him, and he is not contented.

It was the eve of the Parnell celebration in Dublin, and the town was full of excursionists waiting for a train which was to start at midnight. When Michael left me I spent some time in an hotel, and then wandered down to the railway.

A wild crowd was on the platform, surging round the train in every stage of intoxication. It gave me a better instance than I had yet seen of the half-savage temperament of Connaught. The tension of human excitement seemed greater in this insignificant crowd than anything I have felt among enormous mobs in Rome or Paris.

There were a few people from the islands on the platform, and I got in along with them to a third-class carriage. One of the women of the party had her niece with her, a young girl from Connaught who was put beside me; at the other end of the carriage there were some old men who were talking Irish, and a young man who had been a sailor.

When the train started there were wild cheers and cries on the platform, and in the train itself the noise was intense; men and women shrieking and singing and beating their sticks on the partitions. At several stations there was a rush to the bar, so the excitement increased as we proceeded.

At Ballinasloe there were some soldiers on the platform looking for places. The sailor in our compartment had a dispute with one of them, and in an instant the door was flung open and the compartment was filled with reeling uniforms and sticks. Peace was made after a moment of uproar and the soldiers got out, but as they did so a pack of their women followers thrust their bare heads and arms into the doorway, cursing and blaspheming with extraordinary rage.

As the train moved away a moment later, these women set up a frantic lamentation. I looked out and caught a glimpse of the wildest heads and figures I have ever seen, shrieking and screaming and waving their naked arms in the light of the lanterns.

As the night went on girls began crying out in the carriage next us, and I could hear the words of obscene songs when the train stopped at a station.

In our own compartment the sailor would allow no one to sleep, and talked all night with sometimes a touch of wit or brutality and always with a beautiful fluency with wild temperament behind it.

The old men in the corner, dressed in black coats that had something of the antiquity of heirlooms, talked all night among themselves in Gaelic. The young girl beside me lost her shyness after a while, and let me point out the features of the country that were beginning to appear through the dawn as we drew nearer Dublin. She was delighted with the shadows of the trees--trees are rare in Connaught--and with the canal, which was beginning to reflect the morning light. Every time I showed her some new shadow she cried out with naïve excitement--

'Oh, it's lovely, but I can't see it.'

This presence at my side contrasted curiously with the brutality that shook the barrier behind us. The whole spirit of the west of Ireland, with its strange wildness and reserve, seemed moving in this single train to pay a last homage to the dead statesman of the east.

 

[やぶちゃん注:『「旦那、こいつあ、ばかに重いなあ。」彼は云つた。「此の中には金がはひつてるんだらう。」』原文は“'It's real heavy she is, your honour,' he said; 'I'm thinking it's gold there will be in it.'”。私としては『「旦那――この娘っこは、まあ、ばかに重いなぁ。」と彼は言った、「こん中は――金――と睨んだね。」』と訳したい。人称代名詞の誤用は既出。

「べダッド・イス・モール・アン・スルーアェ(ちえツ、そいつあ惜しかつた)。」原文は“'Bedad, is mor an truaghé' ('It's a big pity'),”。“bedad”は“begad”と同じで、“by God”の婉曲口語表現。やや罵りを含んで、「ちぇ」「とんでもない」「まぁ」。これは英語で、以下がゲール語になる。最後の単語の綴りに含まれる“truagh”は、ゲール語で“poor, wretched, sad, miserable, pitiful, woeful.”を表す形容詞である。ここは“miserable”が相応しいか。“is mor an”は自動翻訳機にかけると「素晴らしい」と訳される。「ちぇッ! そりゃ、素敵に惜しいね。」といった一種の逆説的誇張表現か。識者の御教授を乞う。なお、栩木氏はゲール語部分を音写して「シュ・モール・アン・トゥルア・エー」とされている。

「イニシマーン語の」原文は“Inishmaan pronounced”。「イニシマーンで発音される」、だからイニシマーン訛りのゲール語のことである。

『「フォルティエ」(いらつしやい)』原文“'Failte' (Welcome)”。ゲール語で「ようこそ」「いらっしゃい」の意。一般には“Cead Mile Failte”(ケード・ミル・フォルチャ)と言う。音写は「フォルチャ」「フォルチュ」「フォルーチャ」などと記される。

「人中で話しかけるのが恥かしかつたので、後をつけて來たのです。私を覺えていらつしやるかどうかみようと。」何故、マイケルは「人中で話しかけるのが恥かしかつた」のか? 勿論、マイケルの優しい人柄(相手にとって意外な場所で声をかけて吃驚させてはいけないという配慮)もあるが、直前のイニシマーン訛りの“Failte”から察するに、彼は自分の英語の発音に自信がないのかも知れない。少なくとも、公共の場で英語を話すのは気が引けたのではあるまいか? 更に、その後に「後をつけて」「私を覺えていらつしやるかどうかみようと」思ったというところからは、逆に人気のないところで遠慮せずに、シングにゲール語、それも確信犯のイニシマーン訛りのそれで声をかけて、それで私と分かるかどうかを試してみようという、茶目っ気もあるように思われる。

「パーネル記念祭」姉崎氏の注にある通り、アイルランド独立運動の政治指導者、アイルランド国民党党首チャールズ・スチュワート・パーネルの命日を以て彼の業績の記念とする日。アイルランド自治法の提案や、プロテスタントの地主による大地主制からカトリックの小作農の土地所有を認めさせる国土法を成立させた。女性スキャンダルによって惜しくも失脚したが、イギリスの首相ウィリアム・グラッドストンは自分が会った人物の中で最も非凡であったと述べている(以上はウィキの「チャールズ・スチュワート・パーネル」を参照した)。

「大暴民」原文は“enormous mobs”。桁外れの大群衆。「暴」はちょっときつ過ぎる。

「酒場へ驅け込む突貫があつたり」原文は“there was a rush to the bar”で、要は短い停車時間の間を惜しんで、バーに突進するように駆け込んでは数杯を煽ることを言っている。

「バリンスロー」“Ballinasloe”。音写は「バリナスロー」が正しい。ゲール語では“Béal Átha na Slua”(ベル・オーハ・ナ・スルア:「人込みの瀬の口」の意)古代よりこの町は人の集まる場所であった)。ゴールウェイ州の東端にある町。アイルランド中西部に位置する。古くはシャノン川の支流サック川の合流点として運河による水運の町として栄え、ダブリン―ゴールウェイ間の鉄道路線が町を通り、今も交通の要所である(以上はウィキの「バリナスロー」を参照した)。

「連れの女たちの一團が、非常な怒りに惡口を吐きながら、露はな頭や腕を戸口へさし入れた」以下の、この「女たち」の騒擾は、パーネル記念祭の宵祭のハレの雰囲気を語るのだが、しかしどうもそれだけではあるまい、という気もする。この女たちが憤激しているのは兵士たちと一緒に客車に載れなかったからと思われるが(兵士たちも乗れなかったようにはとれない。ホームで罵声を飛ばすのはあくまでこの「女たち」だけである)、定員をオーバーしてはいたのであろうが、譲り合えない程の超満員であったとも思われないのである。彼女は数人の兵士の、その「連れ」である。私は、この「女たち」が特別な職業の女(売春婦)であったことを匂わせてもいるような気がするのである(それは次のシーンの隣りのコンパートメントの女の嬌声――これは、この「女たち」の中で何人かの乗れた「女たち」の声ではないか――また、停車した駅で響いてくる「卑猥な歌」が、それを暗示させるように私には思えるのである。識者の御教授を乞う。

「だけど見えないわ。」という娘の台詞は、恐らく長身のシングが指差して教える早暁の彼方の景色を、「だけど私には、よく見えなくてよ。」と言っているのであろう。]

母 一周忌

母の一周忌。

献体していた母の遺骨が多磨霊園の慶応大学医学部の墓所へ収められた旨、先週金曜日に通知が来た(土曜日には文部科学大臣公印が押された巨大な感謝状も届いていた)。

一周忌に合わせて母の遺骨も安住の地を得た。

改めて、皆さんの生前の母との御厚誼、有り難く存じます。

母テレジア聖子の永遠の魂の安息を御祈念下さいますれば、恩幸、これに過ぎたるは御座居ません。

   2012年3月19日  唯至ルカ

2012/03/17

島へ

友に誘われてこれより佐渡へ渡る――

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (11)

 ムールティーン爺さんは再び私の相手になつてゐる。そして今度は私も彼の愛蘭土語を大部分了解する事が出來る。
 今日、彼はクロッグハウス、即ち蜂の巣状の家の遺跡を見せに連れて行つてくれた。それは島の中央の脊近くに殘つてゐる。それを見物した後で、我々は秋の陽光と枯れかけた花の香で充ちてゐる小さな野の一隅に横になつた。その間、爺さんは、一時間以上もかかつて、私に長い傳説を語つた。
 彼は目が見えないので、私は遠慮なしに彼の顏をぢつと眺められる。やがて、その顏の表情のために聞くのを忘れてしまふ。私は、乘つてゐる有史以前の石疊から、話の古代の有樣を想像しながら、日なたに夢みごこちで横になつてゐた。彼の話が意味のない段落――それは話の中でよくやる――に來ると、彼の顏は子供らしい夢中さに生き生きと輝き、私は我に歸つて彼の樂しさうに早口にしやべる間中、ぢつと傾聽した。「彼等は道を見つけて、私は溝を見つけた。彼等は溺れて、私は救はれた。今夜、私にとつてどうでもよいなら、明夜、彼等にとつてはどうでもよくなかつた。だが、その通りでなかつたとすると、彼等は古い奧齒一本を失つたに過ぎない。」――ざつとこんな意味のないお喋舌であつた。
 私は彼が震へて上れない低い石垣の上へ時時彼を持ち上げてやりながら――こんな風に調子を合はせて――彼の云ふ通りの道を家の方へと導いて行く時、彼の常に取上げて飽きない話題――私の結婚觀――に彼は會話を持つて來た。
 島の頂上に達した時、彼は大西洋の海原に脊を向けて立ち止まつた。
 「旦那、内密(ないしよ)だが」彼は初めた。「お前さんはこれまで若い娘のことを思つたことはありませんかね? 私の若い時は、娘さへ見れば結婚したくて仕樣がなかつた。」
 「ああ、ムールティーン」私は答へた。「そんなことを私に尋ねるなんてをかしいよ。一體私を何んと考へてゐるのだ?」
 「なあに、旦那、私はお前さんも今に結婚するのだと思つたよ。まあ私の云ふことを聞きなさい。結婚しない男などは牡の老ぼれ驢馬と同じだよ。姉の家へ行つたり、兄の家へ行つたり、あつちへ行つては少し食べ、こつちへ來ては少し食べ、そして自分の家を持たない。まるで岩の間をうろうろしてる牡の老ぼれ驢馬のやうなものだね。」

Old Mourteen is keeping me company again, and I am now able to understand the greater part of his Irish.
He took me out to-day to show me the remains of some cloghauns, or beehive dwellings, that are left near the central ridge of the island. After I had looked at them we lay down in the corner of a little field, filled with the autumn sunshine and the odour of withering flowers, while he told me a long folk-tale which took more than an hour to narrate.
He is so blind that I can gaze at him without discourtesy, and after a while the expression of his face made me forget to listen, and I lay dreamily in the sunshine letting the antique formulas of the story blend with the suggestions from the prehistoric masonry I lay on. The glow of childish transport that came over him when he reached the nonsense ending--so common in these tales--recalled me to myself, and I listened attentively while he gabbled with delighted haste: 'They found the path and I found the puddle. They were drowned and I was found. If it's all one to me tonight, it wasn't all one to them the next night. Yet, if it wasn't itself, not a thing did they lose but an old back tooth '--or some such gibberish.
As I led him home through the paths he described to me--it is thus we get along--lifting him at times over the low walls he is too shaky to climb, he brought the conversation to the topic they are never weary of--my views on marriage.
He stopped as we reached the summit of the island, with the stretch of the Atlantic just visible behind him.
'Whisper, noble person,' he began, 'do you never be thinking on the young girls? The time I was a young man, the devil a one of them could I look on without wishing to marry her.'
'Ah, Mourteen,' I answered, 'it's a great wonder you'd be asking me. What at all do you think of me yourself?'
'Bedad, noble person, I'm thinking it's soon you'll be getting married. Listen to what I'm telling you: a man who is not married is no better than an old jackass. He goes into his sister's house, and into his brother's house; he eats a bit in this place and a bit in another place, but he has no home for himself like an old jackass straying on the rocks.'

[やぶちゃん注:「クロッグハウス、即ち蜂の巣状の家の遺跡」原文は“the remains of some cloghauns, or beehive dwellings,”。後半は第一部冒頭にも出てきた“beehive-like roofs”と同じである。“cloghaun”という一般名詞は検索では見当たらない(アイルランドのホテル名や橋の名としてはある)。栩木氏は「石積み住居群」と訳され、「クロッハン」(原本では「クロツハン」)とルビを振られておられる。“clogh”という文字列はゲール語で“cloch”と綴るが(アイルランドの町名から分かる)、この単語は「石」の意である。“-haun”は全くの直感でしかないが、これは“home”の語源である中世英語“hom”、その元である古英語“hām”等と関係があるか? 識者の御教授を乞う。
「私は遠慮なしに彼の顏をぢつと眺められる」原文は“He is so blind that I can gaze at him without discourtesy”。「遠慮なしに」は「不躾に」「不作法にも」の意となる。ネット上の記事によると、イギリスの社会心理学者アージルの調査によれば、現代でも通常、人が一対一で会話をする際に相手の目や顔に視線を向けるのは、会話の全時間の内、30%からせいぜい60 %で、会話中にひたすら相手を見つめ続けている場合、それは「話の内容」ではなく、「その人自身」に対して特別な好意を持っていると考えられる(ひいては相手にそう取られかねない)らしい。従って、ここは当時のヨーロッパ社会にあっても、目上の人の顔を凝っと見て話を聞くことがかなり失礼なことを受けての、シングの謂いと考えてよい。
「お喋舌」は「おしゃべり」。
「老ぼれ驢馬」“an old jackass”。“jackass”には「馬鹿・間抜け」の意が含まれる。]

2012/03/16

宇野浩二 芥川龍之介 七

     七

 

 私が芥川ともっともしげしげ往き来したのは大正九年から十一年頃までの間〔あいだ〕である。

 その頃、芥川の家は田端の丘の上の方(駅にちかい方)にあり、私の家は上野の桜木町の鶯谷にちかい方にあった。それで、私が芥川をたずねるのは、藍染〔あいぞめ〕橋の停留場まであるいて、動坂下で電車をおりて、それから坂をあがるのが道順であり、芥川が私の家にくるのは、やはり、普通にいえは、この道版である。しかし、時によると、わざわざ、電車にのって、坂をおりたり坂をあがったりするより、上の方を、ほとんど一直線に、あるいて行く事もあった。

 芥川は、くると、いつも、私の家の玄関の三畳の部屋のすみに、ちゃんと正座して、家の者に、実に丁寧に挨拶をした。萩原朔太郎が、この事について、つぎのように書いている。

 私が田端に住んでゐる時、或る日突然、長髪痩軀の人がたづねて来た。「僕は芥川です、初めまして。」さう云つて、丁寧にお辞儀をされた。自分は前から、室生君と共に氏をたづねる約束になつてゐたので、この突然の訪問に対し、いささか恐縮して丁寧に礼をした。しかし一層恐縮したことには、自分が顔をあげた時に、尚依然として訪問者の頭が畳についてゐた。自分はあわててお辞儀のツギ足しをした。

[やぶちゃん注:「萩原朔太郎が、この事について、つぎのように書いている」は、萩原朔太郎「芥川龍之介の死」の「4」章にある(リンク先は私のテキスト)。]

 しかし、これは自〔みずか〕ら野人と称する、あの、萩原であるから、おどろいたので、こういうのは、ただ芥川の習慣で、芥川自身は丁寧とも何とも思っていないのである。

 丁寧といえは、芥川が、夜、私の家に来て、遅くなって帰る時は、私は、たいてい、大通りの四つ角まで、芥川を送って行った。その大通りの角で、芥川が、私の家からよんだ車に乗るからである。その車に乗りしなに、芥川は、かならず、「御馳走になるよ、」と、いった。この「御馳走になるよ、」という芥川の言葉は今でも私の耳にのこり、そういって、ひょいと車にのる芥川の姿は今でも私の目にのこっている。

 芥川は私を方方に案内した、待合、たべ物産、その他、あやしき所など、等、等、等。

 

 浅草に、(馬道の東の方に、)『春日〔かすが〕』という待合があった。この『春日』のお上は、後に春日派の小唄の師匠になって、待合をやめてから、桜木町の私の家のそばに、大きな家を借りて、小唄の師匠になり、今では、小唄の師匠として、その名を知られている。その桜木町の『春日』の家には、毎日、午後になると、車に乗って、芸者が、十人以上も、ならいに来た。

[やぶちゃん注:「『春日』という待合」芥川は自死の直前の昭和二(一九二七)年六月二十五日に、友人小穴隆一とともに谷中の新原家の墓参をした後、この春日に行って馴染みの芸者であった小亀に別れを告げている。]

 この『春日』に、芥川は、私をつれて行った事がある。芥川は、はじめての所に私を案内する時、そのゆくさきの家(料理屋など)の由来をくわしく説明する事もあるが、いきなり、だまって私を案内する事もしばしばあった。待合とかあやしき所などは、案内する前も、案内してからも、芥川は、その家について、説明をしたことは一度もない。ただ、はじめて、私を『春日』につれて行った時、家の中にはいる前であったか、家の中にはいってからであったか、いずれにしても、その『春日』の奥座敷の辺から、おもわず耳を立てるような、うつくしい、すきとおった、声で、語る常磐津〔ときわず〕が、聞こえた。私が、おもわず、「実にうまいね、実によくとおる声だね、こんな常磐津、僕は、聞いたことがない、」というと、芥川は、例のニヤリとする笑いをうかべながら、「ここのお上〔かみ〕だよ、あの声は、日本人の喉〔のど〕からは出ないよ、あれは、間子〔あいのこ〕の喉だよ、つまり西洋人の喉だよ、」と、いった。私が、そこで、「君は、実に、いろいろな人を知ってるね、」というと、芥川は、すぐ、「あの女の亭主が僕の友だちだよ、」と、いった。

 

『春日』には、その後、芥川につれられて、一度も行ったことがないが、その後、芥川は、『春日』のちかくの、別の待合に、私を、案内した。その待合は、『春日』を一流とすれば、三流以下であった。が、その三流待合には、芥川は、その後、私を、しばしば、つれて行ったばかりでなく、ほかの人たちをも、誘った。その中に、徳田秋声も、いた。

 その三流待合に、芥川が、私ばかりでなくほかの人たちも案内したのは、その家にはハダカ踊りをする女が来たからである。芸者たちはそのハダカ踊りの女たちを眉をひそめて軽蔑していた。

 そのハダカ踊りの女たちをかかえていたのは、パンタライ社といった。そうして、そのパンタライ社を経営していたのは、ナントカという詩人であった。(芥川は、もしかすると、そのナントカという詩人を知っていたのかもしれない。)

[やぶちゃん注:「パンタライ社を経営していたのは、ナントカという詩人であった」「ナントカという詩人」はダダイスト辻潤(明治十七(一八八四)年~昭和十九(一九四四)年)のことであろう。但し、この出張ストリップは浅草区馬道一丁目九番地で黒瀬春吉(大正期の労働同盟会会長)が経営した「パンタライ社」のお座敷ダンス営業を指し、この黒瀬が新たに「ジプシイ喜歌劇団享楽座」を創った際、近くで尺八教授などをしていた辻が、同座の一員となったと「辻潤年譜」にはある。黒瀬を詩人とは呼ばないと思われるので、辻潤ととっておく。]

 パンタライ社の女たちは、その時分としてはめずらしい、洋装をしていて、その三流待合にくる時は、車にのって来た。そうして、その事の足をおく場所に、みな、ポオタブルをのせて来た。

 その女たちは、(もっとも、いつも、一人であるから、その女は、)座敷にはいると、ちょいとお辞儀をしてから、すく座敷の隅においたポオタブルの蓋をあけ、その上にレコオドをのせ、ハンドルをまわした。ハンドルをまわしおわると、その女は、すぐ、前だけかくした、ハダカになった。もっとも、腰に幾筋もの縄のさがった帯をまいていた。ポオタブルが音楽を奏しはじめると、その女は、座敷の中央に、小走りに、出て、その音楽にあわして、簡単な踊りをおどるのである、おどると、その腰に巻いた帯にさがっている幾筋かの縄も、おどるのである。それを見ながら、徳田秋声が、あのかすれたような声の笑い方をしながら、手をたたいた、その秋声の手をたたく姿は今も私の目に残っている。秋声は庶民を題材にした小説を書いた人だけに、すこしも気どらず、さばけた人であった。

 このパンタライ社について中戸川吉二が妙な事を書いているのを見つけたから、それを読みながら、私の悪癖を出して、ちょいと、ここで、寄り路をしよう。

[やぶちゃん注:「中戸川吉二」(明治二十九(一八九六)年~昭和十七(一九四二)年)は小説家・評論家。里見弴に師事、代表作に「イボタの虫」がある。]

 中戸川は、[いいわけ―中戸川吉二を知らない人が多いと思うから、中戸川について、書くと]その頃としては、芥川のように人目をひかなかったが、わりに年少にして文壇に出たが、どういう訳〔わけ〕か、(その訳はだいたい想像はつくが、ここではそれを述べることを遠慮する、)思いきりよく、やはり、年少の時分に、文壇から退いてしまった。中戸川は、親友の一人であった、牧野信一は性質も作風もまったく違っていた。中戸川が文壇に出た頃は、中戸川が師事していた、里見 弴が、吉井勇、久米正雄、田中純、とともに、「人間」[註――同人雑誌の形で出したが、後に同人以外の人の作品も出した]を出した頃で、さかんに花柳の巷に出没した頃であったから、年少の中戸川は、それにかぶれ、里見たちが、その時分、芸者を『キモノ』、赤坂を『セキハン』、などという妙な隠語をつかった事まで、まねをした。そうして、また、中戸川は、五つ六つも年上〔としうえ〕の先輩は、もとより、師である里見をも『君〔くん〕』という癖があった。(もっとも、これは、芥川にもあった。)――これだけの事をを述べておいて、さきに書いた、中戸川の『芥川との関係』という文章の中から、パンタライ社の出てくるところを、つぎにうつそう。

……錦水[註―築地の一流料理屋の名]を出てから又浅草までのし、さる旗亭で夜更まで飲みかつ談じたのであつたが、その晩三四名あらはれたキモノの中に〇〇[註―これは、後に書く文章に出るからいう、〇〇とは小亀という芸者なり]と云ふスマアトな中年増〔ちゅうどしま〕がゐた。この妓が芥川にコツだつたが、御当人は知つてゐたかしら。[宇野曰く―御当人は知っていた]なんでも其の頃、パンタライシャに凝つて芥川君が、よく浅草へ通ふといふ話は聞いてゐたが、〇〇にあふ機会もなかつたらしい。

 この中戸川の手紙に善かれてある事は、本当らしい事もあるが、まちがっている事もある。その事は、ずっと後に書くこの文章に出てくるから、ここでは、はぶく。

 さて、その頃から三十年も後に、パンクライ社のごとくほんの一部の人に見せるというような姑息な事はしないで、ストリップガアル[ハダカにした女]と称して、そのストリップガアルを数十人も帝国劇場に進出させて、満都の子女を熱狂させた、芥川の親友の一人であった、秦 豊吉が、もし、(『もし』である、)この文章をよめば、あの秦もふかしぎな苦笑をするであろう。その秦のところへ、芥川が、大正六年の九月に、一中節 新曲『恋路の八景』なるものを作って、手紙を出しているのである。その中に、「君が堅田〔かただ〕の文〔ふみ〕だよりああなんとせう帰帆〔きはん〕もしらできぬぎぬのはやき矢ばせの起きわかれねみだれ髪のふじ額〔びたひ〕、」という文句がある。芥川は、自分で、一中節もいくらか語ったようである。思えば、芥川は、深くはないけれど、多才な男であった。閑話休題。

[やぶちゃん注:「秦 豊吉」(明治二十五(一八九二)年~昭和三十一(一九五六)年)は、翻訳家・演出家・実業家。七代目松本幸四郎の甥。東京帝国大学法科大学卒業後、三菱商事(後に三菱合資会社)に勤務する傍ら、ゲーテ「ファウスト」などのドイツ文学の翻訳を行い、昭和四(一九二九)年刊行のレマルクの「西部戦線異状なし」の翻訳はベストセラーとなった。昭和八(一九三三)年に東京宝塚劇場に転職、昭和十五(一九四〇)年には同社社長となった(同年より株式会社後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)社長も兼務(昭和二十八(一九五三)年迄同社会長)。敗戦後直後に戦犯指定を受けるも、昭和二十二(一九四七)年から東京帝都座に於いて日本初のストリップ・ショーを上演、成功を収めた。昭和二十五(一九五〇)年には帝国劇場社長国産ミュージカルの興業で成功を収める。後、日本劇場社長時代に小林一三に買収され、東宝社長となった(以上はウィキの「秦豊吉」によった)。

「その秦のところへ、芥川が、大正六年の九月に、一中節 新曲『恋路の八景』なるものを作って、手紙を出しているのである」この書簡年月は誤り。大正六(一九一七)年五月一日附である(旧全集書簡番号二八五・鎌倉より)。以下に引用する。標題中の「新曲」は底本ではポイント落ち横書き、庵点の前の「シテ」などもポイント落ちで右寄りである。底本はベタで記されているが、謡が変わる部分で改行を施して読み易くした。書信の前に行空けも施した。文末「まて」はママ。二伸と三伸は底本では全体が二字下げ。

 

 一中節

     新曲戀路の八景   宇治紫川

シテ〽心なき身にもあはれはしみじみと

ツレ〽たつな秋風面影の何時か夢にも三井寺や入りあひつぐる鐘の聲

シテ〽まづあれをばごらんぜよ神代〔かみよ〕以來の戀の路

ツレ〽瀨田の夕照〔せきせう〕いまここにぽつと上氣のしをらしさかざす屏風の袖さへも女ごころの

三下り〽花薄〔すすき〕根ざしほかたき石山や

合ノ手〽鳰のうきねの身ながらも

ナヲス〽あだに粟津のせいらんとほんにせはしいころびねの

合ノ手シテツレ〽あらしははれてびとしぐれぬれて逢ふ夜はねて唐崎の

コトウタ〽松もとにふく風ならで琴柱におつる鴈がねは

ツレ〽君が堅田の文だよりああなんとせう歸帆〔きはん〕もしらできぬぎぬのはやき矢ばせの起きわかれねみだれ髪のふじ額〔びたひ〕比良の暮雪をさながらにかはせどつきぬ初枕うるほしかりける次第なり

 

論文をかき了つて新曲をつくる愉味御高察下され度候この曲澁くして餘情ありまことに江戸趣味の極まれるものと存候御高覽の上は久米へも御序の節御見せ下さる可く小生一世一代の作と云ふばかりにてもその位の價値は可有之と愚考仕候まづはとりあヘず新曲御披露まて

    五月一日   芥川龍之介

   秦豊吉樣

二伸例の件小生の知人の宅に子供が生れし爲その人に催促するわけにもゆかず目下一向發展致さず候

三伸「歸帆も知らで」は惡の如くに候へどこは文政頃より江戸にポピユラアなる地口の一つに候へば用ひ候註釋まで 勿々

 

この宇治紫川というペン・ネームは、芥川家の一中節の師匠であった宇治紫山をもじったものである。関口安義「世界文学としての芥川龍之介」によれば、この新曲は初代菅野序遊〔じょゆう〕作曲・桜田左交作詞の「吉原八景」にかなり似た歌詞であるとする。ということはその三味線で謡えるということであろう。因みに、同書では本書簡を大正五(一九一六)年とする。新全集で修正されたものか。新全集を私は所持していないので悪しからず。――にしても渋い――大正五年とすれば、実に大学卒業の年、芥川は未だ満二十四歳である。]

 

 さて、さきに述べたように、私は芥川にいろいろさまざまな所に案内されたが、私が、芥川にたのまれて、案内した所もある、その一つは浅草の金竜館である。

 その頃、浅草の金竜館の楽屋に高田 保がいたのである。

[やぶちゃん注:「高田 保」(明治二十八(一八九五)年~昭和二十七(一九五二)年)は劇作家・随筆家。早稲田大学英文科卒。大学時代に宇野浩二と知り合っている。映画雑誌記者を経て、浅草オペラの代表格「金龍館」文芸部に入った。大正十一(一九二二)年に帝国劇場の戯曲懸賞に応募した「案山子」が入選、昭和四(一九二九)年には丸山定夫や山本安英が結成した新築地劇団に加わるも、翌昭和五(一九三〇)年には検挙されて転向、昭和八(一九三三)年には『東京日日新聞』へ入社(同期に大宅壮一)するが、昭和十三(一九三八)年に退社して新国劇の脚色家兼演出家として活躍した。戦後は昭和二十三(一九四八)年から『東京日日新聞』に随筆「ブラリひょうたん」を連載、軽妙な文体で、鋭い時事批評を展開、『昭和の斎藤緑雨』と称せられた(以上は主にウィキの「高田保」によった)。]

 その頃の或る日の昼頃、芥川が、私の所に、小林せい子と一しょにたずねて来て、例のごとく、いきなり、「君、金竜館につれて行ってくれないか、金竜館の楽屋に、」と、いうた。

 小林せい子とは、その時分の谷崎潤一郎の夫人(今の佐藤春夫の夫人)の妹である。そうして、佐藤春夫が『蒲団きてあるく姿やせい子嬢』とうたったように、――せい子は、はでな服装をし、はでな行動をする事がすきであるらしかった。それから、芥川が、大正六年の八月十五日に、秦 豊吉にあてた手紙のなかに、「……それから君、久米へ勢以子〔せいこ〕と小生との関係につき怪〔け〕しからぬ事を申された由勢以子女史も嫁入前の体〔からだ〕殊に昨今は縁談もある容子なれば爾今右様の事一切口外無用に願ひたし」と書いている、その勢以子が、この小林せい子である。

 ところで、これを書きながら、ふしぎに思われるのは、芥川が、どうして、私と高田 保とがしたしい事を知っていたのか、高田 保が金竜館の楽屋にいることを知っていたのか、である。

その高田 保が、『浅草オペラ時代』という文章のはじめに、こういう事(つぎのような事)を書いている。

 君の学歴はと訊かれて、浅草の金竜館だと答へたことがあつた。大正震災のすこし前の二三年の間あそこの楽屋に住んでゐたことがあつた。住むといふのは妙ないひ方だといはれるだらうが、事実あそこに寝泊〔ねとま〕りしてゐたのでさういふより外はない。若気〔わかげ〕の至りで……

 まことに、高田のいうとおり、その頃(あの頃)は、芥川も、私も、これから書く、せい子も、たれも、かれも、みな「若気の至り」であったのだ。

 さてその若気(と血気)の至りで、芥川とせい子と私は、私の桜木町の家を出て、美術学校と音楽学校の間をとおり、それから、図書館の前をすぎて、博物館の前をとおり、浅草の六区まであるいて行ったのである。

 その図書館の前をあるきながら、せい子は、誰にいうともなく、(いや、芥川にか、私にか、)「兄の潤一郎は、菊池さんの小説のことを、あれは大道演説のようなものだ、と、いっています、」と、いった。

 私は、金竜館にはすでにしばしば出かけて、そこで、『カルメン』、『トラヴイアタ』、『ファウスト』、『アイイダ』、『リゴレット』、その他を見て、大いに楽しんでいた。ところが、芥川は、その時、そのような歌劇など見ないで、「金竜館の楽屋を!」と、いったのである、これは、芥川の希望であったか、せい子の願いであったのか、たぶん、二人ともの好みであろう。

[やぶちゃん注:「トラヴィアタ」はヴェルディのオペラ「椿姫」の原題。原題“La traviata”(ラ・トラヴィアータ)はイタリア語で「道を踏み外した女」の意で、現在、本邦ではアレクサンドル・デュマ(小デュマ)の原作小説“La Dame aux camelias”(フランス語で「椿の花の貴婦人」)からの意訳で専ら「椿姫」のタイトルで呼ばれる。]

 さて、高田 保は、私たちをむかえると、さすがに高田 保である、私たちを、すぐ、女優たちの楽屋(大部屋)に案内した。

 その文字どおり大部屋の中の四方にずらりと鏡台がならび、その数多の鏡台の前で、女優たち肌脱ぎになって化粧をしていた。私は、その大部屋の中に、ほとんど足の踏み所もないほど、赤や紫の衣裳などがまきちらされたように氾濫しているような有〔あ〕り様〔さま〕に、大形〔おうぎょう〕にいうと、目がくらむような気がし、部屋一ぱいにみなぎっている女と化粧品がはき出すにおいに噎〔む〕せかえるような思いをして、一刻もはやくその部屋を逃げだしたいような気がした。ところが、せい子嬢は、平然として、いちいち、その化粧をしている女優たちのうしろに、立ちどまり、二〔ふ〕た言〔こと〕めには、「兄の潤一郎は……兄の潤一郎は、……」と、いったり、その時分の一ばん人気女優であった女優のそばに行くと、その側〔かたわら〕にしゃがんで、「へえ、あんたが、相良〔さがら〕愛子さん……」などと、いったり、した。

[やぶちゃん注:「相良愛子」(明治三十九(一九〇六)年~?)は女優。本名は内海愛子。先に掲げられた浅草金竜館の舞台「アイーダ」は彼女の代表作。]

 これには、私も、まったく辟易したので、私は、しじゅう、せい子嬢から二三歩〔ぽ〕もはなれたところを、あるいた。そうして、辟易したのは、私ばかりでなく、舞台に出れば傍若無人〔ぼうじゃくぶじん〕のように振〔ふ〕る舞〔ま〕っている歌劇女優たちでさえ、せい子嬢の言行には、恐れをなしたように、辟易し、目をそばだてていた。

 ところが、芥川は、その間〔あいだ〕、しじゆう、せい子嬢のそばにいて、せい子の方を見たり、相手の女優を見たり、しながら、例のにやにや笑いをしていた。もっとも、『にやにや』とは、「曖昧な」とか、「意味ありげに、冷〔ひや〕やかに笑いを含む」とか、いうほどの意味であるが、芥川のこの時の笑い顔は、ただ好奇心をいだいているようにも見え、はなはだ興味をもっているようにも見え、えたいの知れないところがあった。それから、あの特徴のある、すこし大きい、唇の分あつい、口が、この時は、殊に、異様に見えた、もっとも、それは、ふだんより、唇の色が一そう赤く見えたせいかもしれないが。

 

 ところで、前に、「私が、芥川にたのまれて、案内した所もある。その一〔ひと〕つは浅草の金竜館である、」と述べたが、これでは芥川をときどき金竜館に案内したように思われるかもしれないので、ことわっておくが、芥川が私に「金竜館につれて行ってくれないか、」といったのはこの時が一度だけであって、その後〔のち〕、芥川は金竜館に行った事はまったくないらしい。

 されば、芥川が、金竜館に行った、という事は、金竜館の楽屋に、一度だけ、行った、という事になるのである。                                 

 さて、ここで、私が、やはり、「若気の至り」で、一時〔いちじ〕、金竜館オペラに夢中〔むちゅう〕になり、ロッシイニの『セヴィリヤの理髪師』、ヴェルディの『リゴレット』、『ラ・トラヴィアタ』、グノオの『ファウスト』、ビゼエの『カルメン』、マスネエの『マノン』、などと、さわぎまわり、それらの舞台稽古まで見に行った頃の事を、書きたいのであるが、これは、今いったように、芥川とまったく関係のない事であるから、やめて、つぎに、芥川に、さまぎまのたべ物屋に案内されたり、いかがわしき、あやしき、家につれて行かれたり、した事を述べよう。こう書くと、芥川ばかりが『わるい子』になって、私が『いい子』になるような事になるから、私が芥川をそそのかしたような事もあったことを、書いてみよう。(そそのかす、といえば、『源氏物語』に、「……まゐりたまはんことをそそのかしきこゆれば……という文句があり、例の近松門左衛門の『生玉〔いくたま〕心中』にも、「……人の小息子そそのかし、悪道に引き入れるの……」などという文句もある。)

[やぶちゃん注:「マスネエの『マノン』」オペラ好きには言わずもがななのであろうが、私はオペラが嫌いなので、分からないから注しておく。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍したフランスの作曲家ジュール・マスネのオペラ“Manon”。一八八四年初演。一七世紀のフランスの作家アベ・プレヴォーの著名な小説「マノン・レスコー」に基づくもの。

「まゐりたまはんことをそそのかししきこゆれば」は「源氏物語」の「桐壷」の中段、桐壷の更衣の死後、若君(光)が祖母母北の方へ宿下がりしているシーンである。以下に引用する。

……若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど、「かく忌ま忌ましき身添ひたてまつらむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり。

以下に私の訳を示す。

……若君に宮中からおつき申し上げて下って参った若き女房たちなどは、若君の母更衣の逝去の悲しきことは言うまでもないことで御座いますものの、宮中での雅びな日常に慣れてしまっておりますから、下った里方の暮しぶりがひどく寂しく感じられて、ありがたき帝の御様子なんども、ふと思い浮かび申し上げるにつけても、

「はよう、御参内なさいますように」

といったようなことを若君にお勧め申し上げるのですが、母北の方様は、

「……このように娘に先立たれ、死穢に触れた不吉な身でありながら、若君におつき添い申し上ぐることも、まこと、何かと悪しき人の噂の種ともなりましょうし……かと申して……しばしの間も御尊顔を拝し申さずにおるということは……これ、全くもって気がきでは御座らぬ……」

とご案じ申し上げなさって、先の帝の御言葉に対して命婦にお答え申し上げたようには、そうそうすっきりあっさりとは御参内させ申し上げなさらないので御座いましたのじゃ。

母北の方の、孫(光)への複雑な母性の逡巡が描かれるところである。――それにしても宇野はしばしば芥川の衒学趣味を批判する割に、宇野自身がこういう如何にもな衒学的引用をしばしばするのは、ちょっと面白い。「芥川龍之介」だから、わざと芥川を気取ってでもいるつもりなのだろうか。]

宇野浩二 芥川龍之介 六

     六

 

 芥川と私が友だちになる前に、妙な事件がおこった。その事は、ずっと前に書いたが、あらためて、ここで、述べないと、肝腎の話がすすめられないから、つぎに書く。
 大正八年の五月頃であった。私は、その年〔とし〕の四月に、処女作といわれている『蔵の中』を発表しただけであるから、その頃は、まだ、はっきり新進作家として見とめられていなかった。それで、小説を書き出す二三年前から、『くらし』のために書いていた童話も片手間〔かたてま〕に書いていたので、日本の各地の口碑や伝説などを集めた本を読むことがあった。そういう本のなかに、鼻が高くなって困った男の話が出ていたので、それは五行〔ぎょう〕か六行のものであったが、私は、それを種にして、一つの童話を書いた。それは、あるイタズラずきの男が、ある時、重宝な小槌を手にいれた、重宝な、といっても、その小槌をふりながら、口の中〔なか〕で、「あの人の鼻たかくなれ、」といえば、その人の鼻がいくらでも高くなり、反対に、低くなれ、といえば、そのとおりになる、と、唯それだけのものであるが、その男は、その小槌をもちいて、いろいろな人にためして、イタズラをしたが、それにも飽きて、その小槌で自分の鼻を高くしてみようと思いたつ、ところが、それを、庭で、あおむきに寝ながら、調子にのって、やったので、とうとう鼻が雲の中にはいってしまう、そのうちに、突然、鼻のさきの方がちくりちくりと痛みだしたので、うとうとしていたその男が、びっくりして、目をさまし、あわてて、無茶苦茶〔むちゃくちゃ〕に、小槌をふりながら、「おれの鼻、ひくくなれ、ひくくなれ、」と、口の中で、となえると、どういうわけか、自分のからだが、地べたをはなれ、しだいしだいに、空〔そら〕の方へ、うきあがっていった、「これは一たいどうしたわけかといふと、その男の鼻はいつのまにか天までとどいてゐたので、それが天〔あま〕の川の川上〔かはかみ〕の、たなばた川といふ川をつきぬけたのです。すると、ちやうど、そのたなばた川で、橋をかける工事中〔ちゅう〕だつたので、突然、川の中からぬツと突き出てきた、えたいのしれない柱に、天の人びとは一時〔いちじ〕はびつくりしましたが、天の人びとは、地上のその男よりもつとイタヅラずきだつたとみえて、これは、さいはひ、橋杙〔はしぐひ〕には、もつてこいだ、といつて、それに穴をあけて、横桁〔よこげた〕をさしこみました。その男が遠くの鼻のさきに痛みを感じたのはその時でした。ですから、『おれの鼻みじかくなれ、』と、口の中で、となへながら、小槌をふればふるほど、からだが空の方へうきあがつてゆくわけです。そのうちに、にはかに空〔そら〕がくもり、雷〔かみなり〕がなりだして、はげしい夕立〔ゆふだち〕がふつてきました。その中をその男のからだはますます空〔そら〕の方へあがつてゆきました。は、手がかじかんで、小槌を、おとしました。ですから、その男は、雨がふつても、風が吹いても天にもとどかず、地にもとどまらず、空中〔くうちゅう〕に、宙〔ちゅう〕ぶらりんになつてゐるさうです、」というような筋である。
 私はこの童話を作ってから、自分ながら、これはちょっとおもしろいと思ったので、その二三の友だちに話すと、そのなかで廣津と鍋井克之が、それはおもしろいから、童話の雑誌に出さないで、普通の雑誌に出したら、といった。それで、鍋井が顧問のようになっていた、解放社[註―この解放社の社長は鍋井や私と中学の同窓であった]から出している「解放」に出すことにした。それで、私は、ふと、思いついて、この童話の主人公を龍介という名にし、『龍介の天上』という題にし、ついでに、『たなばた川』を『あくた川』とかえる事にした。これは、いうまでもなく、芥川の出世作『鼻』をおもいだし、芥川をからかってみたくなったのである。それに、芥川も、ずっと前に、『MENURA ZOILI』という小説(のような小説)のなかで、メンスラ・ゾイリという芸術の価値を測定する『価値測定器』で、まず、久米の『銀貨』と自分の『煙管』をはかっておいて、「『しかし、その測定器の評価が、確〔たしか〕だと云ふ事は、どうして、きめるのです。』『それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパッサンの「女の一生」でも載〔の〕せて見れば、すぐ針が最高価値を指しますからな。』」と書いて、間接に、『女の一生』を翻訳した、廣津をからかっているから、むこうはれっきとした小説であり、こちらはこどもだましの童話のようなものであるから、と思ったからである。
[やぶちゃん注:「龍介の天上」は大正八(一九一九)年十一月号『解放』に掲載されたが、「大阪国際児童文学館」のこちらのページを見ると、ここでは宇野が語っていない、『初出にはラメエ、デタの「日本童謡集」の翻訳であると付記あり』という意外な記載(この話が英訳本の和訳翻案であったと言っていること)が確認出来る。……しかし、……原著者の名は引っ繰り返せば、これ、「デタ」「ラメエ」というフェイクであることは、言うまでもないのである。]
 ところが、この『龍介の天上』が発表されてからまもなく、あう人あう人が、私にちかいうちに、『宇野浩二撲滅号』という雑誌が出るそうである、そうして、その音頭取〔おんどとり〕は芥川龍之介だそうである、そうして、その雑誌は、「文章世界」だとか、「新潮」だとか、「秀才文壇」だとか、つたえる人によって、まちまちであった。私は、当時三十九歳の青年であったが、そんな事はまったく信じられなかった。ところが、改造社の社長であった、山本実彦さえ、その頃のある日、その事をつたえながら、「しつかりやりなさい、私はできるだけ後押ししますから、」といったが、「もしそんな事があったら、まだ無名の僕が得しますから、……が、そんなこと噓ですよ、」と、私は、いった。
 そうして、それは、私がいったとおり、まったくの流言であった。
 さて、私がはじめて芥川と顔をあわしたのは、大正九年の、たしか、七月頃、江口 渙の短篇集『赤い矢帆』の出版記念会が、万世橋の二階の「みかど」という西洋料理店であった。(この「みかど」はその頃の文学者の会合のよく行〔おこな〕われたところである。)この会の発起人であり世話役であったのは、たしか、芥川である。芥川は、その前の前の年(つまり、大正六年)の六月に開かれた、自分の『羅生門』の出版記念会、江口の世話あったので、その礼のつもりであったのだ。芥川にはこういう物堅い実に謹直なところがあった。これは芥川の友人たちにとって忘れがたい美徳であった。(これを書きながら、またまた、私情をのべると、私は涙ぐむのである。私の目から涙がながれるのである。ああ、芥川は、よい人であった、感情のこまかい人であった。深切な男であった。昨日も、廣津がいった。芥川が死んだ時だけは悲しかった、あの朝、銀座であった、吉井 勇も、やはり、悲しい、といった、と。)
 さて、その『赤い矢帆』の会では、長いテエブルの向う前に人びとが腰をかけた、江口が正座に、江口の右横に芥川が、江口のむかいに廣津が、廣津の左横に私が、それぞれ、席についていた。そのテエプルにむかいあって腰かけていた人たちは、おもいおもいに、雑談をしていた。といって、話をするのは、となり同士か、せいぜい一つおいた隣の人であった。私は、そういう会になれていなかったので、たいてい、となりの廣津とばかり、話をしていた。と、突然、むこう側の三人目の席の方から、
「宇野君、……僕が君を撲滅する主唱者になるって噂があったんだってね、おどろいたよ、僕は、それを聞いて……」と、芥川が、いった。
「……もし、それが、本当だったら、君なら、相手にとって、不足はないよ、」と私がこたえた。
 これが、つまり、私が芥川とはじめて逢った時の思い出である。

宇野浩二 芥川龍之介 五

     五

 この文章を書こうと思いたった時は、よもや、このように長くなろうとは、思わなかった。予想もしなかった。そうして、これから書きつづけるのであるが、これまでも、書いているうちに、それからそれと、あとからあとから、芥川について、いろいろな事が、思いだされるので、これからさきの見当がつかなくなった、(いや、ほぼ見当はついているけれど、いずれにしても、)こんな文章を書きだしたのを、今は、すこし後悔している。(無住法師の著〔あらわ〕した『沙石集』のなかに、「後悔さきに立たぬ事を弁〔わきま〕へざること誠におろかなるかな」という文句がある。)しかし、また、「乗りかかった船」という諺もあり、滝亭鯉丈の『花暦八笑人〔はなごよみはっしょうじん〕』の中にも、「ちよつ、どうするものか、乗りかかつた船だ、出かけよう、出かけよう、」という文句もある。そこで、おろかな私も、自分で自分を鞭うちながら、「出かけよう、出かけよう、」と、かけ声をかけながら、のろのろした筆をすすめよう。「鞭うつや又も時雨の牛ぐるま」(『俳諧新選(蘭春)』)
 さて、この文章をはじめて書き出したのは、七月二十三日であるから、一年中でもっとも暑いといわれる『大暑〔たいしょ〕』の頃であったが、今、この文章を書いている、十一月二十七日は、東京でも、早朝には、地上には一面に霜におおわれ、所によってはうすい氷がはり、六時頃は私の部屋も二度〔ど〕ぐらいであった。この分では、もう三四日〔さんよっか〕もたって、十二月になれば、北の方の山山の頂〔いただき〕は雪におおわれるであろう。
 十二月といえば、私には、忘れられない思い出がある。
[やぶちゃん注:「滝亭鯉丈」(りゅうていりじょう ?~天保十二(一八四一)年)は江戸後期の滑稽本作家。「たきてい」とも読む。本名、池田八右衛門。代表作「花暦八笑人」(文政三(一八二〇)年~嘉永二(一八四九)年刊)は能楽(のうらく)仲間(遊び好きののらくら友達)八人の遊興を描く茶番狂言の嚆矢。
「俳諧新選」江戸中期の京都俳壇の長老三宅嘯山(しょうざん 享保三(一七一八)年~享和元(一八〇一)年)が安永二(一七七三)年に版行した当代俳句選集。この蘭春なる者の句は、恐らく「十訓抄」に載る楊梅大納言顕雅卿〔やまもものだいなごんあきまさきょう〕の言い間違いの話に基づくか。
楊梅大納言顯雅卿は、若くよりいみじく言失〔ごんしつ〕をぞしたまひける。神無月のころ、ある宮ばらに參りて、御簾(みす)の外にて女房たちと物語りせられけるに、時雨のさとしければ、供なる雜色〔ざふしき〕をよびて、「車の降るに時雨さし入れよ」とのたまひけるを、「車軸とかやにや。恐ろしや」とて、御簾の内笑ひあはれけり。(後略)
「さとしければ」は「さつとしければ」で、さっと降ってきたので、の意。貴人の牛車の牛を鞭打って急がすのは実景ではあるが、この句の面白さは実は、この逸話の連想からあたかも時雨を鞭打つとする諧謔味ではあるまいか。識者の御教授を乞う。]

昭和十七年の十二月のはじめから、昭和十八年の二月の中頃までの間に、私は、一週間か十日ぐらいの間〔あいだ〕をおいて、五度〔ど〕、大阪にゆき、大阪を根城〔ねじろ〕にして、その度〔たび〕に、三日〔みっか〕か四日〔よっか〕、毎日、大阪から電車で大和の各地をまわった。これは、ある出版社から、『大和路』(あるいは『大和めぐり』)というものを書くことを、たのまれたからである。大和の各地とは、奈良、橿原あたり、法隆寺あたり、西の京、(つまり、薬師寺、唐招提寺、その他、)佐保路、(つまり、佐保川、諸御陵墓、興福院、不退寺、法華寺、その他、)吉野あたり、多武峯〔とうのみね〕、初瀬、室生寺、山の辺の道、(つまり三輪〔みわ〕、纏向〔まきむく〕、山辺の里、石上〔いそのかみ〕、その他、)である。
 さて、その大和めぐりをした時のことである。その昭和十七年の十二月の中頃であったか、その時は、長谷寺〔はせでら〕から室生寺にまわるつもりで、大阪の上本町六丁目から電車に乗ったのであるが、どういう訳であったか、途中で、私は、電車をおりた。乗りかえのために下りたのか、それとも、なにかの都合〔つごう〕で下ろされたのか、まったく覚えていないが、私はそのみすぼらしい停留場でおりた事を、その時も、今も、よかった、(ありがたかった、)と思っている。
 その狭い停留場のプラットフォオムに立って、ふと、気がつくと、そこが『耳成〔みみなし〕』という停留場であり、そのプラットフォオムの北側のすぐ目の下と思われるほど近くに、まったく三角〔さんかく〕の形〔かたち〕をしている耳成山が小〔こ〕じんまりとそびえていたからである。『古今和歌集』のなかに、「耳なしの山のくちなし得てしがな思ひの色の下染〔したぞめ〕にせむ」とよまれている耳成山が、全山緑の木立につつまれている耳成山が、草も木も枯れはてた、満目荒涼とした野の中〔なか〕に、出現していたからである。それから、やっと掛けられるような狭〔せま〕い腰かけのついている板壁の上に、昭和十八年の新年号の「中央公論」の広告が出ていたからである。そうして、それも、長方形の紙に、木版で、ただ二行〔ぎょう〕に長編小説、『東方の門』島崎藤村、『細雪』谷崎潤一郎、と、筆で書かれた字で、すられてあったからである。そうして、しかも、それが、はるか東の方〔かた〕に三輪山が望まれる、寒駅のプラットフォオムの待合室の板壁に、張られてあるのである。それは、文学を愛する程の者ならば、誰か感激せざらんや、という光景ではないか。
[やぶちゃん注:「耳なしの山のくちなしえてしがな思ひの色の下染にせむ」は「古今和歌集」一〇二六番歌。「耳なし山」は耳成山で、現在の奈良県橿原市木原町にある。山と呼称するが上円下方墳で、古代大君の御陵と伝わる。この「耳なし」は「口なし」から「梔子」を引き出す。「くちなし」梔子。アカネ目アカネ科クチナシ属 Gardenia jasminoides。古くから乾燥させた果実を黄色着色料として用いた。「梔子」は「口なし」で、これは「耳なし」と相まって「誰にも(私の秘めた恋は)知られないだろう」の意を掛けることになる。「下染め」は染色の際に二種以上の染料を用いて染める時、初めの染料で染める工程を言う。本染めの発色を良くするためのプレの染色である。「思ひの色」の「ひ」は 「火」色・「緋」色を掛けて、鮮やかな恋の情熱の赤い色に心を染め上げるために、まずは発色が冴える梔子で下染めをしよう、というのである。「えてしがな」は「得(動・ア行下二段・連用)て(完了(確述)・助動詞「つ」・連用)しが(願望・終助詞「しか」の中古以降の濁音化)な(感動・間投助詞)」で「~してしまいたいものだなあ」の意。
〇やぶちゃん現代語訳
耳成山の梔子の実が欲しい――それでもって――私の心を――誰にも知られぬあの人への思いで染めるための下染めにしたいものだ……]
  藤村が、『東方の門』を書き出した頃は、あの戦争がますますはげしくなる時分であった。それで、その頃すでに七十一歳であった藤村は、『東方の門を出すに就いて』という文章のなかで、「戦争が長引けは長引くほど時局はますます重大性を加へて来た。こんなはげしい渦の中に立つて、筆とることは一層身にしみるばかりでなく、今の自分の老弱に思ひ到れば実に何事も容易でない、」と、述べている。これは非常な決心である。はたして、藤村は、この『東方の門』を、昭和十八年に、「中央公論」の、一月号、四月号、九月号、十月号、と、出したが、十月号のは、第三章の五が完結しないままのが出た。つまり、藤村は、第三章の五を、「松雲が東京へ来て聞きつけたのも、この時代の跫音〔あしおと〕である。和尚が耳にした狭い範囲だけでも、」という所まで書いて倒れたのである。そうして、藤村は昭和十八年の八月二十二日の夜のあけぬ前、七十二歳で、永眠したのである。これは、よくある事のように思われるかもしれないが、実に大した事である。(わたくし事ではあるが、私は、いつか、島崎藤村については、心ゆくばかり、書いみたい、と思っている。)
 谷崎潤一郎が『細雪』を書き出したのも、いうまでもなく、やはり、戦争がいよいよあげしくなった頃である。そうして、この小説は、たし一〔ひ〕と月〔つき〕おきに、「中央公論」に、出す予定であった。ところが、これは、たしか、このようなはげしい時局のおりに、こういう有閑階級の有閑な事を書くとは、……というような理由で、当局から、書きつづける事を、禁止された。ところが、谷崎潤一郎は、雑誌に発表できなくなっても、『細雪』を書きつづけたのである。そうして、その上巻を書きあげて、昭和十九年の七月に、非売品として、二百部印刷して、これと思う人に、『細雪』の上巻を寄贈したのである。いうまでもなく、昭和十九年といえは、戦争の状態がますますはげしくなり空襲がいよいよはげしくなった時分である。それを、谷崎が、空襲を避けながら、『細雪』を書きつづけた、という事は、何〔なん〕といってよいか、これ後世にのこすべき語種〔かたりぐさ〕である。これには、私など、頭がさがる思いがするのである。

 芥川の『或阿呆の一生』のうちの『譃』という章のなかに、「しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な譃に充ち満ちてゐた。殊に『新生』に至つては、――彼は『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた、」という一節がある。『新生』の主人公とは、いうまでもなく、島崎藤村である。たいへん常識的な云い方であるが、芥川ほどの聡明な人が、遺稿のなかに、こういう事を書くとは、と、私は、思うのである。それとともに、芥川には、あの『新生』に書かれてある一件が、遺稿の中にまで書くほど、気になったのではないか、気になって、気になって、仕方がなかったのではないか、とも、私は、思うのである。(この事については、別にくわしく述べる。)それから、また、藤村には、芥川がまったく持っていなかった、底の知れない辛抱づよさがあり、並大抵〔なみたいてい〕でないシブトサがあり、おどろくべき図太さがあった。そうして、藤村は、また、あらゆる同時代の作家の作品を見とめていなかったようなところもある。

 芥川の『あの頃の自分の事』という文章のうちの帝国劇場の喫煙室の事を述べた一節のなかに、「そこの入口〔いりぐち〕に、黒い背広の下へ赤いチョッキを着た、背〔せ〕の低い人が佇〔たたず〕んで、袴〔はかま〕羽織〔はおり〕の連れと一しよに金口の煙草を吸つてゐた。久米はその人の姿を見ると、我々〔われわれ〕の耳へ口をつけるやうにして、『谷崎潤一郎だぜ』と教へてくれた、」というところがあるが、谷崎潤一郎は、芥川の学生時代の文学の目標のようなものであり、作家になってからの芥川には、競争相手のようなものであった。もっとも、作家になってからの芥川には、競争相手のような者は無数にあったけれど。
 それについて、ずっと前に引いた、『芥川龍之介研究』の座談会の筆記のうちの『文学上の競争者は?』という題のがあるから、それを、つぎに、うつしてみよう。

 久米。佐藤君の前で云つてはをかしいが、彼[註―芥川]の文学上の競争相手ともいふべきものは、実際は佐藤春夫君だつたらしいね。
 中村[註―武羅夫]。私はこのあひだ里見さんぢやなかつたかといふ話を聞いたが、……
久米。それは恐らく間違ひでせう。佐藤君を卒業することは彼は或る程度まで念願してゐた。いろいろな人と対立的な位置に立たされることは不愉快であつたらしいが、尊敬しながら克服しようといふ事もした。おしまひの時分になつて、双方の位置がおちついてから初めてさういふ気もちがなくなつたらしいので、僕にもさう云つてゐた。佐藤だけは鎬〔しのぎ〕をけづつたといふ意味を何〔なに〕か別の言葉でいつてゐた。僕はそれを信じてゐる。君だつて、いくらか感じてゐたらう。
 佐藤。気がつかぬではなかつたね。
 廣津。さういふゴシップはあつたね。これは佐藤君を前において云ふんだが、やはり二枚目役者のアセリだね。さういふ感じがあるね。
 杉山[註―平助]。非常に老成人でゐながら、最後まで大人になりきれなかつたといふ……
 廣津。さういふ風にはいへるね。今まで四十男だと思つて話してゐたのに、立ちあがつたら足袋〔たび〕が七文〔もん〕半だつたといふ、さういふ感じは非常にあつた。しかし、それもこれも引つくるめて、ある時はイヤダといふ気もちがしたけれど、全体をひつくるめてだん、だん考へてみると、非常に愛情を感じる。……たいていの事はわかつてゐて、しかもわかりきつた上〔うへ〕で、やはり、ちよつとかはゆいといふ感じ……なぜといふに、嘘をついてしまつてから、それで 負けたと思つてゐる男なんだ。決してごまかし通〔とほ〕すことのできない、その癖いへばつい誇張してしまふし、人と話せば相手を負かしてしまふし、それで、自分は勝つたと思つてゐない、思へないのだ。実にわびしい性格なんだね。
[やぶちゃん注:「杉山平助」(明治二十八(一八九五)年~昭和二十一(一九四六)年)は評論家。生田長江に認められ、自由主義的な論客、毒舌評論家として知られた。昭和六(一九三一)年からは『東京朝日新聞』に氷川烈のペン・ネームでコラムを執筆するなどしたが、日中戦争が勃発した昭和十二(一九三七)年頃から右傾化した。
「七文半」一文は約二・四センチであるから、十八センチ。就学前児童の足の大きさである。]

 私は、ここに引いたところを、以前から、何度もよんだが、ここで話をしている久米と廣津は、もとより、性格その他はちがうけれど、共に、人間の微妙な気もちなど隈なくわかる人であるから、ここに述べられている久米と廣津の意見は、人としての芥川の、芸術家としての芥川の、かくれた長所と短所を、かなりするどく突きながら、底に芥川にたいする深い深い愛情をもっていることが忍ばれるので、読むたびに、なんともいえぬ奥ゆかしい気がして、私は、いつも、心をうたれるのである。そうして、私は、持つべきものは友だちである、と思い、友だちというものは実にいいなあ、と感じるのである。世のなかに友だちほどよいものはないなあ、と感じるのである。

 一般に芥川の小説のあるものには鬼気を感じるといわれているが、私は、そうは思わない、『鬼気』さえ、時によると、芥川の作り物のような誇張のような気がするからである。久米の話によると、芥川は、大学生時代から、時代物を書いている時分から、いかなる本をよんでも、文章の間〔あいだ〕にみなぎる鬼気(あるいはそれに似たもの)を拾い出すことに骨を折っていた、という事であるが、それと同じように、芥川は、ある場合は、一〔ひと〕つの小説をつくる時に、何〔なん〕とかして、ひとつ、鬼気を出してやろう、と苦心したにちがいない。

 何時頃の話だか、わからない。北支那の市から市を渡〔わた〕つて歩〔ある〕く野天〔のでん〕の見世物師に、李小二と云ふ男があつた。鼠に芝居をさせるのを商売にしてゐる男である。鼠を入れて置く嚢〔ふくろ〕が一つ、衣裳や仮面をしまつて置く笥〔はこ〕が一つ、それから、舞台の役をする小〔ちひ〕さな屋台〔やたい〕のやうな物が一つ――その外には、何も持つてゐない。

 これは『仙人』という小説の書き出しである。もっとも、この一節には、鬼気という程のものは現れていないが、しかし、この小説には、(全体をよめば、)やはり、鬼気のようなものを狙〔ねら〕ったようなところがたしかにある。しかし、いうまでもなく、作者が本当に鬼気を感じて書いているのと、作者が鬼気に興味を持って書いているのとでは、いかに筆さきで巧妙に書いてあっても、それは、まったく違う。筆さきだけで書いたものは、一応は読む人を感服させるが、迫〔せま〕ってくるものがない。それから、この小説には、アナトオル・フランスと森鷗外の書き方をまねたようなところがあり、この小説が支那のふるい本のなかの話を焼きなおしたものである事もはっきりわかる。それから、これが大学生時代の二十四歳の年に書かれた小説か、と思われるほど、この小説には、気どった、いやに凝った、衒学的な、ところがある。そうして、この小説をよめば、芥川が、その頃から、すでに、いかに、生意気な青年であったかが、わかって、それが、また、おもしろいところもあるが、……しかし、これらの事は芥川の初期の幾つかの小説に共通する欠点(とあるいは長所か)である。そうして、それらの欠点(とあるいは長所)が既にこの小説(『仙人』)に、はっきり、すっかり、出ているのである。(『雀育まで踊り忘れず』というか、『三〔みつ〕ご子の魂百まで』というか。)

 あらゆる神の属性中、最も神の為〔ため〕に同情するのは神には自殺の出来ないことである。

 これは、芥川の『侏儒の言葉』のなかの一節であるが、大正十四五年頃に書いたものであろうか。『侏儒の言葉』のなかにはずいぶん否味〔いやみ〕な警句のような文句が出てくるが、この言葉は、(芥川の最後をかんがえれば、)文字どおり真剣であり、悲壮な感じさえするではないか。                                          
 さて、芥川の後期(大正十三四年から晩年まで)の小説のなかには、前期の作品の中〔なか〕に見られない、真剣な、読む人の心にせまるような、作品が幾つかある。(それらの作品については後に述べる。)ところが、芥川の初期の小説は……
 芥川たちまち高名にしたのは、しかし、初期の小説である。しかし、その初期の小説の多くは、題材が変っているので、ちょっとはおもしろいけれど、いわば、みな、小話〔こばなし〕である。(その頃、むやみに『ナントカナントカの話』、というような題の小説が流行した。たとえば、その時分の菊池の小説に、『恩を返す話』、『大島の出来る話』、などというのがある。)それで、私は、その頃の芥川の小説を、(菊池の小説も、)みな、小話〔こばなし〕小説である、といって、芥川を大いに憤慨させた事がある。しかし、芥川がいくら憤慨しても、芥川の初期の小説は、一〔ひ〕と口〔くち〕にいうと、たいてい、小話小説か物語小説かである。しかし、それで、芥川の小説がわりに多くの人に、受けたのである、もてはやされたのである。
 ところで、芥川は、外国の作家では、トルストイ、チェエホフ、ストリンドベルヒ、アナトオル・フランス、メリメ、ボオドレエル、ゲエテ、ポオ、などに、傾倒していた、といわれているが、それは、(フランスとメリメは別として、)傾倒していた、というより、例の読書癖で、手あたり次第〔しだい〕に読んだものの中〔なか〕でもっとも念をいれて読んだもの、といった方が適当であろう。もし、『鬼気』などという事で、芥川の小説が、ほんとうに、ストリンドベルヒの小説のようになったり、ポオの小説になったり、していたら、芥川は決してあのような流行作家にならなかったであろう。
 一〔ひ〕と口〔くち〕にいうと、鬼気は芥川の好みであったのだ。そのように、王朝の話も、キリスタンの話も、その他、みな、芥川の好みであったのだ。好みで書かれてあったので、芥川の初期の小説は、どのような悲惨な残酷な事が述べられてあっても、それはそれとして、おもしろく読まれたので、多くの人にしたしまれたのである。(小説の質〔たち〕はちがうが、谷崎潤一郎の初期の小説にもこれいくらか似たところがある。この事については別にあらためて書くつもりである。)
 芥川の初期の小説の中の、たとえば、『羅生門』、『孤独地獄』、『虱』、『尾形了斎覚え書』、『偸盗』、『地獄変』その他は、もとより、題材はそれぞれ違うが、みな、気もちのわるい話ばかりである。常識的なことをいえば、これらの小説をよんだ人のなかには、このような小説をかく人はどのような陰気なしかつめらしい顔をした人であろう、と想像するかもしれない。ところで、これらの小説は芥川が二十四歳から二十七歳までの間〔あいだ〕に書いたものであるから、私が、かりに、これらの小説を、二十八歳の年に読んだ、とすれば、私も、また、こんな小説を書く男は、おそらく、苦虫〔にがむし〕をかみつぶしたような顔をした、物体〔もったい〕ぶった、男であろう、と、想像したであろう。
 しかし、もし、私が、こんな想像をしていたとすれば、いうまでもなく、この想像はまったくはずれていたのである。

2012/03/14

最後の授業

今日、最後の授業を終えた――

最後は「近代文学を学ぼう」の講座で――僕の最後の教え子は男子一人女子十一人計十二人幸いにして全員出席――

外題は例の――芥川龍之介「奉教人の死」の段――演じます太夫藪野唯至太夫――

出来は?――そうさな、まだまだ稽古が足りぬわい――「ろおれんぞ」は女ぢや――のところで図らずも落涙致いてしもうた――まあ、75点というところか――

それでも――僕にしてみれば僕の最後には相応しい演目とはなったのである……

芥川龍之介に――十二人の最後の教え子に――そうして――僕の33年の総ての教え子に――心より感謝する――

2012/03/13

宇野浩二 芥川龍之介 四~(3)

 芥川は、大正七年の一月に、芥川の作品には昔のことを書いたものが多いが、それはどういう訳であるか、と聞かれたのに対して答えた『昔』という文章のなかで、つぎのように述べている。

……今僕が或テエマを捉へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現する為〔ため〕には、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日〔こんにち〕この日本に起つた事としては書きこなし悪〔にく〕い、もし強〔しひ〕て書けば、多くの場合不自然の感を読者に起〔おこ〕させて、その結果折角のテエマまでも犬死〔いぬじに〕をさせる事になつてしまふ。所でこの困難を除〔のぞ〕く手段には「今日この日本に起つた事としては書きこなし悪い」と云ふ語が示してゐるやうに、昔か(未来は稀であらう)日本以外の土地か或は昔日本以外の土地から起〔おこ〕つた事とするより外〔ほか〕はない。

 しかし、これは、強弁である、虚勢である、後からしいてつけた理窟である。しかし、また、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『十訓抄』、『聊斎志異』、その他の中から、一〔ひと〕つの話をより出した、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』、その他のような、物語風の短篇は、何といっても、芥川の独創である。『芋粥』も、『今昔物語』にも、『宇治拾遺物語』にも、出ている、簡単な挿話(あるい笑話)であるが、あれらをあのような短篇に作り出したのは、よしあしは別に、芥川の発明で芥川のすぐれた才能の賜物〔たまもの〕である。そうして、その芥川のたぐい稀な才能とは、まえに書いた、美辞麗句の文章と、細工のこまかい表現と、(『細工は流流〔りゅうりゅう〕仕上〔しあ〕げを御覧〔ごろう〕じろ』と鼻にかけるような細工のこまかい流麗な文章と、)その作品の中の随所にあらわれている、これこそ芥川独得の、皮肉と諷刺と機智である。

 されば、『鼻』を発表し、つづいて、『芋粥』を出した頃の芥川は、人気〔にんき〕の出花〔でばな〕の、若手作家の、なにもかも、颯爽たるところがあった。どこへ行っても、『鼻』と『芋粥』をほめる声が聞こえるような観さえあった。

 しかし、さきに引いた芥川のテエマという言葉をここに持ち出すと、『鼻』と『芋粥』のテエマは、兩方とも、理想(あるいは空想)は理想(あるいは空想)であるうちが花という程の意味である。とすると芥川や(殊に)菊池が愛読したアイルランドの劇作家シングの『聖者の泉』(“The Well of the Saints”――『霊験』という題で翻案された)とまったく同じ趣向である。

[やぶちゃん注:「アイルランドの劇作家シングの『聖者の泉』(“The Well of the Saints”――『霊験』という題で翻案された)」とあるが、この「翻案」された『霊験』なる作品は、菊池寛の作ではなく(文脈上、そのように読めてしまう)坪内逍遥の作品で、舞台は安土桃山時代の武蔵国とし、草鞋や草履を編んで生計を立てている盲目の夫婦が主人公で、村人たちによって二人は大変な器量良しと思い込んでいるところへ、開眼の法力を持った上人が訪れる、というシングの「聖者の泉」の完璧なインスパイア作品であるが、逍遙の作中のみならず、近代以降の西洋劇の国劇翻案の中でも白眉とされている作品である(リンク先は私の松村みね子(片山廣子)訳の同テキスト)。]

 ここで、又、趣向といえは『芋粥』、の主人公の五位と、アカアキイ・アカアキヰッチが似ているところがある事である。それは、例えば、同僚から、しじゅう、翻弄され、「その鼻と口髭と、烏帽子〔えぼし〕と水干とを、品隲〔ひんしつ〕され、」わるい悪戯をされる『芋粥』の主人公五位、さまざまな文学者から、「さんざん嘲弄されたり、揶揄されたり、」する終身九等官、アカアキイ・アカアキヰッチを思わせるところがあるからである。

[やぶちゃん注:「アカアキイ・アカアキヰッチ」は「外套」の主人公“Акакий Акакиевич Башмачкин”。音写すると「アカーキィ・アカーキエウィッチ・バシマチキン」である(因みに実藤正義氏の「ロシア語一“語”一会」の「第8回 所有形容詞(物主形容詞)③」によれば、“Акакий”はギリシャ語の「純朴な」という意の語に由来し、従って父称名も同じであるから「純朴な父をもつ純朴な男」という意味になる。更に“Башмачкин”は「靴(主に女性用)」を意味する“башмак”の指小形で、“под башмаком”『とすれば「誰々のいいなりになる」ということなので、「うだつのあがらない小心な男」というほどの意味で使ったのではないか』と推測されている)。現在、「芋粥」はその導入部や主人公五位の設定に、明らかに「外套」(芥川龍之介は英訳で読んでいた)の影響があることが知られており、ネット上でも影響関係を分析した論文を閲覧出来るが、宇野のこの指摘(「毛利先生」との類似も含めて)は、正にその嚆矢なのである。

『「その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲され、」』の原文は厳密には「彼等は、この五位の面前で、その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲して飽きる事を知らなかつた。」で受身形ではない。逆に、直前の「翻弄され」の方は同段落冒頭に「所が、同僚の侍たちになると、進んで、彼を飜弄しやうとした」という他動詞形で現れる。「品隲」は「品騭」とも書き、品定めのこと。

『さまざまな文学者から、「さんざん嘲弄されたり、揶揄されたり、」』これは「外套」では、アカーキィ個人に対するものではなく、新聞小説や評論を書く当時の作家・評論家(ライター)の愚弄と嘲笑の格好の餌食となっていた九等官という当時の賤吏階級、という文脈で語られている部分である。]

 それから、又〔また〕、「過去に於て黒かつたと云ふ事実を危く忘却させる位、文字どほり蒼然たる古色を帯びた」モオニング・コオトをきて生徒たちに笑いをこらえさせる、という『毛利先生』の主人公は、「仕立屋〔したてや〕がすぐれた腕をあらはさなかつたために、そのつぎあてた切れが大きすぎて、みにくい恰好につくられた」外套をきている、やはり、『外套』の主人公のアカアキイ・アカアキヰッチと似ているからである。

[やぶちゃん注:「毛利先生」の私の注附正字正仮名テクストはここにある。]

 ところで、これまで芥川の趣向の取り方についていろいろ述べてきたが、これは、(もとより小説と歌とでは違うけれど、)歌にもそれにはほんの少し似た例がある。その歌の方で一つの例をあげると、たとえば、源実朝の

  大海の磯もとどろに寄する波われて砕けてさけて散るかも

という歌は、万葉集のなかの

  伊勢の海磯もとどろに寄する波かしこき人に恋ひ渡るかも

  聞きしより物を思へばわが胸はわれて摧けて鋭心もなし

  大海のいそもとゆすり立つ波のよらむ[よせむ]と思へる浜のさやけく

などといくらか似ている。こういうのは、歌の方では『本歌取』というのであるが、この実朝の歌は、かりに本歌取という事になるとしても、この歌をよめは、豪快な天然の現象をながめて感動している実朝の感動が胸をゆするような韻律となってよむ者の心をうつところ、やはり、押しも押されもせぬ、源実朝の歌である。

[やぶちゃん注:「伊勢の海……」は、「万葉集」巻四の第六〇〇番歌で、作者は笠女郎〔かさのいらつめ〕。大伴家持との相聞歌である。「聞きしより……」は巻十二の第二八九四番歌。作者未詳。「鋭心」は「とごころ」と読む。「利心」とも書き、しっかりした心持ちを言う。「大海の……」は巻七の第一二〇一番歌であるが、宇野の表記は一般的でない。以下に示す。

  大海の水底〔みなそこ〕響〔とよ〕み立つ波の寄らむと思へる礒〔いそ〕のさやけさ

作者未詳。]

 そこで、さきに述べたように、歌と小説とではまったく違うけれど、芥川の『鼻』の元になったのは、『今昔物語』の巻二十二に出ている原稿紙[四百字づめ]で四枚たらずの簡単な挿話(あるいは笑話)であるが、それをあのような、まず、手のこんだ、物語に作ったのであるから、やはり、これは、芥川の独得の才能が発明した、という事になるのである。

『鼻』は、岩城準太郎が解説しているように禅智内供が、邪魔になる長い鼻を治療して年来の望みをとげた満足の気もち、さて、人間なみの鼻になったために却って人びとに笑われて後悔する気もち、それから、元のとおりの長い鼻になってほっとした気もち、――この三つの気もちを、芥川独得の皮肉と諧謔とをまぜて、機智のゆたかな、気のきいた、しやれた、心にくいような一種の名文で、書いたものである。そうして、

――かうなれば、もう誰も哂〔わら〕ふものはないにちがひない。

内供は心の中でかう自分に囁〔ささや〕いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

と結〔むす〕んでいる。

[やぶちゃん注:「岩城準太郎」(明治十一(一八七八)年~昭和三十二(一九五七)年)は国文学者。奈良女女子高等師範学校教授。明治三十九(一九〇六)年に表した「明治文学史」は本邦初の体系的な近代文学史とされる。]

 これをかりに『芸』とすれば、これは、実に、あざやかな、水際〔みずぎわ〕だった、芸である。

 それから、『芋粥』も、やはり、『今昔物語』の巻二十六の話を元〔もと〕にしたものであるが、これも、『今昔物語』の話は、敦賀〔つるが〕の豪族の、藤原利仁の豪著な生活の有様〔ありさま〕を述べる事を主としているが、芥川の『芋粥』では、五位が、どうかして芋粥を腹一ばいたべたい、と念願していたのが、芋粥のたき方〔かた〕があまり大〔おお〕がかりなのと、その饗応があまり大袈裟〔おおげさ〕であったので、閉口した、という事になっている。が、この『芋粥』の最後の

……晴れてはゐても、敦賀の朝は、身にしみるやうに、風が寒い。五位は慌〔あわ〕てゝ、鼻をおさへると同時に銀〔しろがね〕の提〔ひさげ〕に向つて大きな嚔した。

というところを読むと、『鼻』も、『芋粥』も同じ手である、と思えば、芥川の才能が、派手ではあるが、あまり底が深くないことがわかる。

[やぶちゃん注:「提」本来は、銀や錫製で出来た、鉉〔つる〕と注ぎ口の附いた小鍋形の銚子を言うが、「芋粥」に登場するそれは、『それから、一時間の後、五位は利仁や舅の有仁)と共に、朝飯の膳に向つた。前にあるのは、銀の提の一斗ばかりはいるのに、なみなみと海の如くたたへた、恐るべき芋粥である。』と描写されるから、かなり大振りの鍋様のものである。]

 しかし、また、芥川が、他の人の作品から趣向をとりながら、それをまったく自分が作った作品のようにしてしまうところは、いわゆる『家の芸』というべきものであろう。それは、どこかから趣向を取ってあっても、一般の人たちには、なかなか見やぶれない、というような上手になっているからである。

 ところが、芥川が師として尊敬している、夏目漱石は、趣向の取り方においては、芥川に輪をかけたようなところがあった。しかし、漱石が趣向をとった本は、私の知っているのでは、二つあって、両方とも、外国の昔の作者の本で、あまり人に読まれていないものであるから、わりに多くの人に知られていないようである。

 その作者とは、一人は、ドイツの十八世紀の、後期ロマン派の作家、アマデクス・ホフマンであり、他の一人は、イギリスの十八世紀の、詩人であり作家ある、ジョオジ・メレディスである。

 漱石が、はじめて筋らしいを仕組んだ小説といわれる、『虞美人草』は、野上豊一郎の解説によれば、漱石が、教職を捨て、朝日新聞社にはいって、自由の身になって、京都に遊び、嵐山に行ったり、比叡山に上〔のぼ〕ったり、した時の事が、素材の一部になっているけれど、「作者[註―漱石]はメレディスの小説を愛読してゐた。京都滞在中、筆者[註―野上]に送つた葉書にも、『僕少々小説を読んで是から小説を作らんとする所なり、所謂人工的インスピレエションに取りかかる、』とありて、『花食まば鶯の糞も赤からん』の句が記してあつた、」と述べているが、誰か(人は忘れたが、信用できる人)が、『虞美人草』の荒筋は、メレディスの『我意の人』(“The Egoist”)とほとんどまったく同じであるばかりでなく、あの小説に出てくる、紫の女といわれる藤尾、哲学者の甲野さん、外交官志望の宗近さん、その他も、そのメレディスの『我意の人』[註―これはたしか平田禿木の訳名]に出てくる人物たちと同じ型の人間である、と書いていたのを、読んだことがある。私は早稲田大学の英文学科に籍をおいていた時、英語学の教授法の名人といわれる、増田藤之助という先生の、この“Egoist”の講義に二三度出たが、一時間のあいだに、四五行か十行ぐらいしか、その講義がすすまなかった。それは、(これはまちがいかもしれないが、漱石さえ、わからないところがあって、平田禿木に聞いた、という程であるから、)私などに読める筈がない。それに、この小説の日本訳もとうとう読む機会がなかったから、漱石の『虞美人草』の荒筋とメレディスの『我意の人』の荒筋が似ているかどうかは知る由もないが、さすがに漱石である、『虞美人草』はまったく漱石の小説であるから。 

 ところで、漱石の『吾輩は猫である』の終りの方に、

……猫と生れて人の世に住む事もはや二年越しになる。自分では是程の見識家はまたとあるまいと思うて居たが、先達てカーテル、ムルと云ふ見ず知らずの同族が突然大気燄を揚げたのでので、一寸吃驚〔ちよっとびっくり〕した。よくよく聞いて見たら、実は百年前に死んだのだが、不図した好奇心から……

というところがある。

 この『カーテル・ムル』というのは、つまり、ドストイェフスキイを、その構成的手法で、驚歎させた、という、ホフマンの『牡猫ムルの人生観』の中で活動する猫の名である。そうして、この小説は、その荒筋を一と口に述べると、科学と文学とに深い造詣を持ちながら、世をすねて暮らしている、屋根裏の哲人、アブラハム先生の生活を、アブラハム先生にひろわれた牡猫のムルが、観察し描写したものであるから、漱石も、また、ドストイェフスキイ同様に、この『牡猫ムルの人生観』の構成的手法に驚歎(はしなくても、ちょいと感心)して、『吾輩は猫である』の趣向を立てた、と見ても大〔たい〕したまちがいではない、と、私は、思うのである。聞くところによると、はじめ、作者の漱石が『猫伝』という題をつけたのを、俳句の大家であり雑誌の経営の才能の多分にある、漱石の友人、高浜虚子が、この小説の最初の一節をとって、『吾輩は猫である』としては、とすすめたので、この題になったのである。

 私は、この『牡猫ムルの人生観』は、日本語の翻訳で読んだが、あるところなど、この小説と『吾輩は猫である』とには、ところどころに、(ほんのところどころにではあるが、)ほとんど同じような長い一節があるけれど、やっぱり、『吾輩は猫である』は、『吾輩は猫である』であって、『牡猫ムルの人生観』と根元的にちがうところがある。それは、漱石などとちがって、ホフマンは、生来、異常な幻想力をそなえ、奇矯な生活をいとなんでいたから、一般に『悪魔のホフマン』とか『お化のホフマン』とか、いわれているけれど、単なる怪談作者ではなく、怪奇な話の形式によって、ホフマン自身が感じたとおりの、自然に対する深奥な驚異、人間の運命的な苦悩を描いている。

 それで、これも、簡単にいうと、ホフマンの猫が、妖怪めいた、ばけ物のような、猫であり、したがって、その観察も、深く、怪しく、陰気な小説であるが、漱石の猫は、数多の読者が御承知のごとく、陽気で、楽天的で、そのいう皮肉も人の顔をしかめさせるような深刻なところがないので、大衆の読者にしたしまれ、ホフマンの猫はその反対である。(ついでにいえば、芥川の数数の怪奇な⦅怪奇めいた⦆小説も、谷崎潤一郎の同じような作品も、作者がホフマンのような人間とはほとんど正反対であるから、怪奇も、妖気も、人にせまるような凄みがなく、読者をおもしろがらせるところに、この二人の作家の小説が多くの人に読まれるところがあるのである。)

 ところで、漱石の場合は他の作家とかなり違うところがあるようである。漱石は、『吾輩は猫である』や『坊ちやん』(ついでにいえば、私は、漱石の小説の中では、しいていえば、この二つの小説と『草枕』をもっとも高く買うのである、)その『吾輩は猫である』や『坊ちやん』などを読むと、たいへん陽気な人のように思われるけれど、実際は、かなり陰気なところ、ひどく気むずかしいところ、時としては、気ちがいになるのを恐れた、と文章では、真面目らしく書いている、芥川より、漱石は、時としては、気ちがいめいた事をする時があるようである。(その事は何かの作品に書いている。)

 そうして、芥川は、(晩年をのぞいて、)実生活の方では、かなり陽気なところがあり、人がおもしろがる色色な所へは、たいてい、出かけ、また、そういう色色な所を知っていた。(私は、そういう芥川にかなり接しているので、それらの事は、稍くわしく、述べるつもりである。が、こんどは、おもわず、芥川の作品について、述べすぎたので、書けなかったのを、誠に残念に思っている。)

深き井戸の底へ向かって叫ぶ――

お義母さん――!

お義母さん――!

お義母さん――!

2012/03/12

病理博物学的現実

義母がMRSAに罹患した。彼女はアルツハイマーと重度の心不全――BNP25000!――である。僕の周囲はあらゆる博物学的な病気の集積を示している。これが確かに「人間」そのものの実態を越えた実体である。僕は――だから何も言う必要を感じない……でも……文学的には言いたいのだ……母さん、義母さんをもう少し、守ってあげてね……

2012/03/11

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (10)

 私はまた北島に來て、特殊な感じを以つて瀨戸越しに斷崖の方を眺めてゐる。南の方に見えるあの小屋の中で、大昔の詩や傳説にある不思議な生活をしてゐる人たちが澤山住んでゐようとはどうしても思へない。その人たちと較べて、此の島の繁榮から起る墮落は甚だ慨かはしいことである。あちらの人たちの鳥や花も共に持つ魅力は、こちらでは儲けに熱中してゐる人の心配に代つてゐる。顏は同じやうでも、目や顏付が違ふ。此處では子供でさへイニシマーンの人にない現代的の特徴を何となく持つてゐるやうに見える。
 私の中の島からの航海はひどかつた。朝非常に荒れてゐたので、普通の事情ならば渡る計畫はしなかつたのであるが、教區僧――イニシマーンに駐在してゐる――の處へ來たカラハで渡る準備がしてあつたので、後へ退きたくなかつた。
 その朝外へ出て、いつものやうに斷崖の上に登つた。出逢つた數人の男は、私が出かけようとしてゐることを云ふと、首を振つて瀨戸は汐のためにカラハが渡れるかどうかを怪しんだ。
 宿の方へ戻つて行く時、南の島から今丁度渡つて來た副牧師を見かけたが、嘗つて經驗した事のない惡い航海をしたのであつた。  「
 汐は二時には變る筈であつた。その後は風や波は同じ方向からやつて來るので、海もいくらか靜まるだらうと思はれた。午前中、私たちは茶の間に腰掛けてゐた。人人は絶えずほひつて來て、船は出したものかどうか、海の何處が最も荒れてゐるかと彼等の意見を云ひに來た。
 遂に出かけることに決め、石垣に吠える風交りに雨の降りしきる中を、私は波止場に向つて出發した。一緒に行く筈であつた學校の先生と僧侶は、私が村を通つて行くと、出て來て渡らない方がよいと忠告してくれた。併し船頭たちは海の方へ進んで行くし、私はその後を追つた方がよいと考へた。家の一番上の息子も一緒に來てゐる。わかりきつた危險があるなら、私よりも汐の事はよく知つてゐる爺さんが、息子をよこす事はないだらうと考へた。
 船頭たちは、村の下の高い石垣の下で私を待つてゐた。私たちは共共に進んで行つた。島がこんなに荒れはてて見えた事は未だかつてなかつた。降りしきる雨を通して、黑ずんだ岩越しに波の荒狂つてゐる灣の方を眺めると、云ひ知れぬ心細さが私を襲つて來た。
 爺さんは恐怖の利益に就いて彼の意見を私に與へてくれた。
 「海を怖がらない男は直ぐ溺れるだらう。」彼は云つた。「何故つて、出か【け】てはならない日に出かけて行くからね。だが、こちとらは海を怖がるんだ。だから、こちとらは、たまに溺れるばかりさ。」
 近所の人たちの小人數の群が、私を見送りに下の方に集つてゐた。砂丘を越える時、風よりも高く聲を出さうと、互ひに叫び合はなければならなかつた。
 船頭たちはカラハを運び下ろして來て、波止場の風下に立ち、紐のある帽子を被つたり、合羽を着たりした。
 彼等が櫂の緊紐、櫂栓[櫂を船緣に固定せしめる釘]その他カラハの中の色色な物を檢査する事は、これまでに見た事もないほど丁寧であつた。それから私の鞄が吊り入れられ、支度が出來た。船頭四人のほかに此の島へ渡りたいといふ一人の男が、私たちと共に行かうとしてゐた。彼が船首に這ひ上らうとすると、一人の老人が群の中から進み出た。
 「その男を連れて行くな。」彼は云つた。「先週、クレアに連れて行つたが、皆んなすんでの所で溺れる所だつた。此の間はイニシールに行つたが、カラハのあばら三枚を壞して戻つて來た。此の三つの島にとつてこんな不吉な男はありやしない。」
 「畜生! 何云つてやがるんだい。」とその男は答へた。
 私たちは出發した。カラハは四人漕で、船尾はその男に殘すやうに、私には最後の席があてがはれた。その男は船尾の船緣にある特別の櫂栓で、他の櫂と直角に動く櫂で舵を取つた。
 百ヤードぐらゐ行つた頃、船首に帆を一枚擧げた。それで速さが著しく加はつた。
 驟雨は過ぎ、風は鎭まつたが、大きな素晴らしくキラキラする波が私たちの方向の眞横に落ちかかつてゐた。
 舵取りが急に櫂を引いて船を廻はす度に、船首は高く上つて、それから次の谷へザンブとばかり飛沫を上げながら、落ち込んで行つた。此のやうであつたから、船尾も代る代る投げ上げられ、櫂を放して兩手で船緣にしがみ付いてゐる舵取と私は共に海の上高く上げられた。
 波が去つて、もとの方向にかへり、遮二無二數ヤードを漕ぐと、また同じやうな動作を繰り返へさなければならなかつた。やつとのことで瀨戸へ出て行くと、違つた種類の波に逢ひ初めた。それは或る距離の間に他の波よりぬきん出て高く見えた。
 その波の一つが見え出すと、最初の努力はその範圍内から一生懸命に出ることであつた。舵取りはゲール語で「シゥーアル、シゥーアル」(走れ走れ)と呼び出した。時時、その群が恐ろしい速さでこちらへ押寄せて來ると、その聲は金切り聲となつた。すると漕手までそれに合はせて叫んだ。そして波が後の方へ過ぎて行くか、船緣にどつと碎けるまで、カラハは暴れ狂ふ獸が跳んだり震へたりするやうであつた。
 此の波と競走してゐる時こそ主な危險のある時であつた。波を避けられたら、さうする方がよいのであるが、若し逃げようとしてゐる間に追ひつかれて舟の横腹にぶつけられたら、沈沒は必然であつた。舵取りは此の役目に張切つて震へてゐるのがよくわかつた。何故なら、若し彼の判斷に誤りがあつたら、私たちは顚覆したであらうから。
 私たちは一度、危機一髮を逃れた。一つの波は他の波より遙かに高いやうに見えた。例の如く激しい努力の一瞬時があつた。それも無駄であつた。忽ち波はこちらへ襲ひかかつて來るやうに見えた。舵取りは憤然と叫び聲を上げながら、それを迎へようと櫂で舳先を向けるのに一生懸命であつた。波が周りに碎け、迸り流れた時、彼は殆んど成功した。私は恰かも結んだ繩で背中を打たれたかのやうに感じた。白い泡は私の膝や目の邊りに沸(たぎ)り流れた。カラハは暫く搖れたり震へたりして高く上り、それから無事に谷の中へ落ちて行つた。
 カラハが間にはさまれ、もとの狀態に戻るひまがない程にいくつかの波が一緒に密集してやつて來た時、何度も危險な作業をやつたけれども、その時が最も危い時であつた。騎手や泳ぎ手の命が時にはその兩手にあるやうに、私たちの命もその男たちの手腕と勇氣に任せてあつた。そしてこの爭鬪の興奮は餘り激しかつたので、怖いと思ふひまもなかつた。
 私は渡船の樂しみを味つた。男たちの動作で傾いたり震へたりする此の淺い布の槽(ふね)の中に深く乘つて、汽船の中で知つたよりも遙かに親しく波の壯觀と威力に感心した。

I am in the north island again, looking out with a singular sensation to the cliffs across the sound. It is hard to believe that those hovels I can just see in the south are filled with people whose lives have the strange quality that is found in the oldest poetry and legend. Compared with them the falling off that has come with the increased prosperity of this island is full of discouragement. The charm which the people over there share with the birds and flowers has been replaced here by the anxiety of men who are eager for gain. The eyes and expression are different, though the faces are the same, and even the children here seem to have an indefinable modern quality that is absent from the men of Inishmaan.
My voyage from the middle island was wild. The morning was so stormy, that in ordinary circumstances I would not have attempted the passage, but as I had arranged to travel with a curagh that was coming over for the Parish Priest--who is to hold stations on Inishmaan--I did not like to draw back.
I went out in the morning and walked up the cliffs as usual. Several men I fell in with shook their heads when I told them I was going away, and said they doubted if a curagh could cross the sound with the sea that was in it.
When I went back to the cottage I found the Curate had just come across from the south island, and had had a worse passage than any he had yet experienced.
The tide was to turn at two o'clock, and after that it was thought the sea would be calmer, as the wind and the waves would be running from the same point. We sat about in the kitchen all the morning, with men coming in every few minutes to give their opinion whether the passage should be attempted, and at what points the sea was likely to be at its worst.
At last it was decided we should go, and I started for the pier in a wild shower of rain with the wind howling in the walls. The schoolmaster and a priest who was to have gone with me came out as I was passing through the village and advised me not to make the passage; but my crew had gone on towards the sea, and I thought it better to go after them. The eldest son of the family was coming with me, and I considered that the old man, who knew the waves better than I did, would not send out his son if there was more than reasonable danger.
I found my crew waiting for me under a high wall below the village, and we went on together. The island had never seemed so desolate. Looking out over the black limestone through the driving rain to the gulf of struggling waves, an indescribable feeling of dejection came over me.
The old man gave me his view of the use of fear.
'A man who is not afraid of the sea will soon be drowned,' he said, 'for he will be going out on a day he shouldn't. But we do be afraid of the sea, and we do only be drownded now and again.'
A little crowd of neighbours had collected lower down to see me off, and as we crossed the sandhills we had to shout to each other to be heard above the wind.
The crew carried down the curagh and then stood under the lee of the pier tying on their hats with strings and drawing on their oilskins.
They tested the braces of the oars, and the oarpins, and everything in the curagh with a care I had not seen them give to anything, then my bag was lifted in, and we were ready. Besides the four men of the crew a man was going with us who wanted a passage to this island. As he was scrambling into the bow, an old man stood forward from the crowd.
'Don't take that man with you,' he said. 'Last week they were taking him to Clare and the whole lot of them were near drownded. Another day he went to Inisheer and they broke three ribs of the curagh, and they coming back. There is not the like of him for ill-luck in the three islands.'
'The divil choke your old gob,' said the man, 'you will be talking.'
We set off. It was a four-oared curagh, and I was given the last seat so as to leave the stern for the man who was steering with an oar, worked at right angles to the others by an extra thole-pin in the stern gunnel.
When we had gone about a hundred yards they ran up a bit of a sail in the bow and the pace became extraordinarily rapid.
The shower had passed over and the wind had fallen, but large, magnificently brilliant waves were rolling down on us at right angles to our course.
Every instant the steersman whirled us round with a sudden stroke of his oar, the prow reared up and then fell into the next furrow with a crash, throwing up masses of spray. As it did so, the stern in its turn was thrown up, and both the steersman, who let go his oar and clung with both hands to the gunnel, and myself, were lifted high up above the sea.
The wave passed, we regained our course and rowed violently for a few yards, then the same manoeuvre had to be repeated. As we worked out into the sound we began to meet another class of waves, that could be seen for some distance towering above the rest.
When one of these came in sight, the first effort was to get beyond its reach. The steersman began crying out in Gaelic, 'Siubhal, siubhal' ('Run, run'), and sometimes, when the mass was gliding towards us with horrible speed, his voice rose to a shriek. Then the rowers themselves took up the cry, and the curagh seemed to leap and quiver with the frantic terror of a beast till the wave passed behind it or fell with a crash beside the stern.
It was in this racing with the waves that our chief danger lay. If the wave could be avoided, it was better to do so, but if it overtook us while we were trying to escape, and caught us on the broadside, our destruction was certain. I could see the steersman quivering with the excitement of his task, for any error in his judgment would have swamped us.
We had one narrow escape. A wave appeared high above the rest, and there was the usual moment of intense exertion. It was of no use, and in an instant the wave seemed to be hurling itself upon us. With a yell of rage the steersman struggled with his oar to bring our prow to meet it. He had almost succeeded, when there was a crash and rush of water round us. I felt as if I had been struck upon the back with knotted ropes. White foam gurgled round my knees and eyes. The curagh reared up, swaying and trembling for a moment, and then fell safely into the furrow.
This was our worst moment, though more than once, when several waves came so closely together that we had no time to regain control of the canoe between them, we had some dangerous work. Our lives depended upon the skill and courage of the men, as the life of the rider or swimmer is often in his own hands, and the excitement was too great to allow time for fear.
I enjoyed the passage. Down in this shallow trough of canvas that bent and trembled with the motion of the men, I had a far more intimate feeling of the glory and power of the waves than I have ever known in a steamer.

[やぶちゃん注:「南の方に見えるあの小屋の中で、大昔の詩や傳説にある不思議な生活をしてゐる人たちが澤山住んでゐようとはどうしても思へない。」原文は“It is hard to believe that those hovels I can just see in the south are filled with people whose lives have the strange quality that is found in the oldest poetry and legend.”で、「どうしても思へない」が意味をとり難くしている。ここは、既にアランモア島に渡ったシングが対岸のイニシマーン島の景色を眺めていると、『今、「南の方に見えるあの小屋の中」に、「大昔の詩や傳説にある」ような「不思議な生活をしてゐる人たちが」現に「澤山住んでゐ」るという事実は、私には信じ難いことに思えた』という意味である。
「あちらの人たちの鳥や花も共に持つ魅力」原文“The charm which the people over there share with the birds and flowers”。やはりやや生硬である。「あちらのイニシマーン島の人々が、(アニミスティックに)鳥や花とともに世界を共有していることの魅力」のことである。
「教區僧」“the Parish Priest”は教区を統括する司祭。
「後へ退きたくなかつた」分かり難い。“-I did not like to draw back”であるから、相乗りさせてもらう約束を既にしており、カラハの出航準備もなされている以上、礼儀として断って「先延ばしはしたくなかった」という意味で、そこにはもしかすると続く文を読んでいると、「今更、尻込みしたくはなかった」、「尻込みしたとは思われたくなかった」というシングの内心のやや意固地なニュアンスも含むのかも知れない。
「副牧師」“the Curate”は助任司祭。先の“the Parish Priest”の助手か。
「櫂の緊紐、櫂栓」原文“the braces of the oars, and the oarpins”。「緊紐」は「キンチュウ」と海事用語っぽく音読しているか、若しくは「しばりひも」と訓じているかは不明。“brace”は海事用語で「ブレース」「転桁索(てんこうさく)・操桁索(そうこうさく)」等と言う、本来は帆桁(ほげた)の端に取り付けられたロープで帆の向きを変えるのに用いられるものを言うが、ここでは“of the oars”とあるから、櫂(オール)を流されないように保守するために次の「櫂栓」に結び付けるロープを言っているものと思われる。このロープは古くは革紐(“tropos”とか“tropoter”)と呼ばれたようである。「櫂栓」は「カイセン」と読む。“oarpin”は“oar pin”の合成語か。舟ばたの穴に挿した櫓臍・櫂座、則ち、オールを支えるための支柱、船縁のU字形のオール受けの切れ込みのようなものを指して言う。通常は“tholepin”、単に“thole”(スォウル)と言う。
『「畜生! 何云つてやがるんだい。」とその男は答へた。』は原文では“'The divil choke your old gob,' said the man, 'you will be talking.'”で、これは売り言葉に買い言葉の応酬で、『「悪魔がてめえの腐りかけたその口を永遠に塞いじまうぜ!」、その男は言った、「これ以上、てめえがその好き勝手な喋くりを続けるんなら、な。」』といった感じか。時に、この不吉な男は結局、どうしたのだろう。私は迷信深い漁師なら、この荒れ模様でもあり、この男の乗船を拒否した気がするのだ。実際、この後のシークエンスでは彼は描かれていない。姉崎氏は次の部分で「私たちは出發した。カラハは四人漕で、船尾はその男に殘すやうに、私には最後の席があてがはれた。その男は船尾の船緣にある特別の櫂栓で、他の櫂と直角に動く櫂で舵を取つた。」と、「その男」というのがあたかもこの「不吉な男」であるかのように訳されている(私にはそうとしか読めない)が、これはおかしい。この部分はこのカラハは四人漕ぎで、漕ぎ手(「船頭」)が四人いたことは前に書いてあるからである(因みに男がもしカラハに乗船していた場合は漕ぎ手四人+シング+不吉な男で計六名になる)。従って、この部分の意味は、『その「カラハは四人漕で」あったが(イェイツの挿絵を参照されたい)、普通なら四人が総て、カラハの中に横に渡した四箇所の座席に座って漕ぐのであるが、今回は四人目の漕ぎ手が船尾の座席には座らずに、私にその「最後の席があてがはれた。」但し、私は漕ぐわけではない。「その」四人目の「男は船尾の船緣にある特別の櫂栓で、他の櫂と」異なり、「直角に動く櫂で舵を取」る役をそこ(船尾)で受け持った。』という意味であろう。もし「不吉な男」が乗船していたとすれば、最初に彼がした通り、「船首」に蹲っていたとしか考えられないのである。しかし、であればシングは、この後にやって来る恐ろしいまでのピッチングのシーンで、自分や舵取りと同じように対になったリズムで『海の上高く上られ』る、この「不吉な男」を描写しないはずがない、と私は思うのである。彼はやはり乗っていないのではなかろうか? 如何?
「迸り」は「ほとばしり」と読む。]

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ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (9)

 ゲーリック聯盟の支部は、私の此の前の訪問以來、此處に開かれてゐる。毎日曜の午後、三人の女の子が女の會合の初まると云ふ合圖のよく響く手鈴を鳴らしながら、村を通つて行く。――此處では時刻が認められてゐないから、時間を決めても無益であらう。
 その後直ぐに、幾組もの少女たち――五歳から廿五歳までのあらゆる年齡の少女たち――が眞赤な晴着のペティコートを着て續々と校舍の方へ行き初める。これ等の若い女たちがゲール語をただ何となく尊敬してゐるといふ他に何等の理由もなく、自由な午後を自ら進んで綴字法といふ骨の折れる勉強に費すと云ふことは注意すべきことである。さういつた尊敬は、大部分近頃の訪問者たちの影響に依るのは事實であるが、彼等がさういつた影響を痛切に感じてゐる事實は、それだけで興味あることである。
 現在の言語運動の影響がなかつたもつと昔の時代は、ゲール語に對する特別な愛着があつたとは思へない。彼等は、子供に出世する能力を與へるために、出來る時はいつでも英語で話をする。青年たちでさへ私にこんなことを云ふことがある。――
 「あなたはむづかしい英語ができます。私も本當にあなたのやうになりたいです。」
 言葉のことに關しては、女は大いに保守的な役目を持つ。彼女たちは學校で、或は兩親から英語を少し教はつたが、此の島生れの人以外と話す機會が滅多にない。それで外國語の知識は依然として初歩のままである。此の家でも、豚や犬に物を云ふ時か、或は女の子が英語の手紙を讀む時以外に、女から英語を一言も聞いたことがない。併しもつと積極的な性格を持つてゐる女は、明かに同じ境遇にありながら、非常な流暢さに達することが屢々ある。例へば此處へ時時、訪ねて來る宿の婆さんの一人の親戚のやうな場合である。
 私が時時、立ち寄つてみる男の學校では、子供たちの英語の知識に感心させられる。尤も彼等は自分たち同志では、常に愛蘭土語で話すが。學校そのものはひどく吹き曝らしの中にある不愉快な建物である。朝、寒い日には、子供たちは泥炭の一片を書物と一緒に結び付けて登校する。それは火をよく保たせるための割當である。併し、やがて現代的の設備が施されるに違ひない。

A branch of the Gaelic League has been started here since my last visit, and every Sunday afternoon three little girls walk through the village ringing a shrill hand-bell, as a signal that the women's meeting is to be held,--here it would be useless to fix an hour, as the hours are not recognized.
Soon afterwards bands of girls--of all ages from five to twenty-five--begin to troop down to the schoolhouse in their reddest Sunday petticoats. It is remarkable that these young women are willing to spend their one afternoon of freedom in laborious studies of orthography for no reason but a vague reverence for the Gaelic. It is true that they owe this reverence, or most of it, to the influence of some recent visitors, yet the fact that they feel such an influence so keenly is itself of interest.
In the older generation that did not come under the influence of the recent language movement, I do not see any particular affection for Gaelic. Whenever they are able, they speak English to their children, to render them more capable of making their way in life. Even the young men sometimes say to me--
'There's very hard English on you, and I wish to God I had the like of it.'
The women are the great conservative force in this matter of the language. They learn a little English in school and from their parents, but they rarely have occasion to speak with any one who is not a native of the islands, so their knowledge of the foreign tongue remains rudimentary. In my cottage I have never heard a word of English from the women except when they were speaking to the pigs or to the dogs, or when the girl was reading a letter in English. Women, however, with a more assertive temperament, who have had, apparently, the same opportunities, often attain a considerable fluency, as is the case with one, a relative of the old woman of the house, who often visits here.
In the boys' school, where I sometimes look in, the children surprise me by their knowledge of English, though they always speak in Irish among themselves. The school itself is a comfortless building in a terribly bleak position. In cold weather the children arrive in the morning with a sod of turf tied up with their books, a simple toll which keeps the fire well supplied, yet, I believe, a more modern method is soon to be introduced.

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (8)

 これ等の男女はどことなく私から妙にかけ離れてゐるやうである。彼等とても私と同じやうな、また動物と同じやうな感動を持つてゐる。然るに、私は彼等と話すことの澤山ある時でも、山の霧の中で私の傍で悲しげに吠える犬に向つてゐると同じやうに話しかけることが出來ない。
 彼等と一時間も表にゐると、得體の知れない想像が突然浮んで來て、それからまた彼等にも私にも親しみのある漠然たる感動が突然起つて來るのを感ぜずにはゐられない。或る時は、私は此の島を申し分のない家庭または安息所と思ふこともあるが、また或る時は、自分は此の人たちの中で無宿人(やどなし)だと思ふこともある。彼等が私に共鳴する以上に私は彼等に共鳴することが出來る。彼等の中を歩いてゐる時、彼等は私に好意を示す時もあるが、私を嘲弄する時もある。だが決して私が何をしてゐるかを了解しない。
 夕方時時、一人の少女に逢ふ。その少女はまだ十五六にもならないが、或る點では此處で逢つた誰よりも自覺的に發達してゐる。彼女は生涯の或る期間を本土で暮らした。そしてゴルウェーで見た幻滅は彼女の想像をひがませてしまつた。
 爐邊で向き合はせに腰掛けてゐる時、彼女の聲は同じ文句の中で、或は子供のやうな調子に、或は悲しみに疲れた古い民族の沈んだ調子に變るのを私は聞く。或る時は彼女は單なる百姓であるが、或る時は有史以前の幻滅感を以つて世界をぢつと眺めてゐるやうである。その灰色がかつた碧い目の表情には、雲や海の希望のないあらゆる外部の姿を宿してゐる。
 私たちの會話は常にまとまりがない。或る晩、本土の或る町に就いて語つた。
 「ああ、をかしな處だわ。」彼女は云つた。「あんな處に住みたくないわ。本當にをかしな處だわ。でも、をかしくない處つてあるかしら。」
 また他の晩は現在島に居る人のこと、また訪ねて來る人のことを語つた。
 「お父さん――死んぢやつたわ、」彼女は云つた。「親切な人だつたけれど、をかしな人だつたわ。坊さんもをかしな人たちばかりだわ。をかしくない人つてあるかしら。」
 それから長い間、默つてゐた後で、彼女にも不思議であり、私にも不思議であるに相違ないことを語るかのやうに眞顏になつて、自分は男の子が大へん好きだと云つた。
 此のやうにしばしば子供らしい無邪氣なありのままの話をしながら、彼女は常に感情的に熱心に、まちがつてない事を愛嬌よく言はうとする。
 或る晩、彼女が、普通の爐のある宿の脇部屋で、火をつけようとしてゐるのを見かけた。私は手傳ひをしようと中にはひつて、風道を作るには爐の口に紙をかう當てがふのだと、彼女の全く知らなかつた方法を教へた。それからパリーでは、人に邪魔されないやうにただ獨りで暮らし、自分で火を起す人がゐるといふ話をした。彼女は泥炭を見詰めながら、床下に脊を丸くして坐つてゐたが、その話を聞くと驚いたやうに顏を上げた。
 「その人たちは私に似てゐるわ。」彼女は云つた。「誰だつてそんなことを考へたくなるわ。」
 同情の下に、二人の間にはまだ溝のあるのを感じる。
 「ねえ、」と彼女は、今晩私が彼女と別れようとする時、口籠つて云つた。「あなたは今に地獄へ行くと思ふわ。」
 時時、或る家の茶の間でも彼女に逢ふ。其處には日が暮れると若い男たちがトランプをしに行く。そして女の子もこつそり行つてはそれに加はる。そんな時、彼女の目は蠟燭の光に輝き、顏は青春の最初の喜びで紅潮して、毎晩、炭火に當りながらのらくらしてゐる彼女とは見えないまでになる。

In some ways these men and women seem strangely far away from me. They have the same emotions that I have, and the animals have, yet I cannot talk to them when there is much to say, more than to the dog that whines beside me in a mountain fog.
There is hardly an hour I am with them that I do not feel the shock of some inconceivable idea, and then again the shock of some vague emotion that is familiar to them and to me. On some days I feel this island as a perfect home and resting place; on other days I feel that I am a waif among the people. I can feel more with them than they can feel with me, and while I wander among them, they like me sometimes, and laugh at me sometimes, yet never know what I am doing.
In the evenings I sometimes meet with a girl who is not yet half through her teens, yet seems in some ways more consciously developed than any one else that I have met here. She has passed part of her life on the mainland, and the disillusion she found in Galway has coloured her imagination.
As we sit on stools on either side of the fire I hear her voice going backwards and forwards in the same sentence from the gaiety of a child to the plaintive intonation of an old race that is worn with sorrow. At one moment she is a simple peasant, at another she seems to be looking out at the world with a sense of prehistoric disillusion and to sum up in the expression of her grey-blue eyes the whole external despondency of the clouds and sea.
Our conversation is usually disjointed. One evening we talked of a town on the mainland.
'Ah, it's a queer place,' she said: 'I wouldn't choose to live in it. It's a queer place, and indeed I don't know the place that isn't.'
Another evening we talked of the people who live on the island or come to visit it.
'Father is gone,' she said; 'he was a kind man but a queer man. Priests is queer people, and I don't know who isn't.'
Then after a long pause she told me with seriousness, as if speaking of a thing that surprised herself, and should surprise me, that she was very fond of the boys.
In our talk, which is sometimes full of the innocent realism of childhood, she is always pathetically eager to say the right thing and be engaging.
One evening I found her trying to light a fire in the little side room of her cottage, where there is an ordinary fireplace. I went in to help her and showed her how to hold up a paper before the mouth of the chimney to make a draught, a method she had never seen. Then I told her of men who live alone in Paris and make their own fires that they may have no one to bother them. She was sitting in a heap on the floor staring into the turf, and as I finished she looked up with surprise.
'They're like me so,' she said; 'would anyone have thought that!'
Below the sympathy we feel there is still a chasm between us.
'Musha,' she muttered as I was leaving her this evening, 'I think it's to hell you'll be going by and by.'
Occasionally I meet her also in the kitchen where young men go to play cards after dark and a few girls slip in to share the amusement. At such times her eyes shine in the light of the candles, and her cheeks flush with the first tumult of youth, till she hardly seems the same girl who sits every evening droning to herself over the turf.

[やぶちゃん注:「アラン島」の中でも魅力に満ちた登場人物(シングと少女)がくっきりと見える印象的なシークエンスである。
「然るに、私は彼等と話すことの澤山ある時でも、山の霧の中で私の傍で悲しげに吠える犬に向つてゐると同じやうに話しかけることが出來ない。」原文は“yet I cannot talk to them when there is much to say, more than to the dog that whines beside me in a mountain fog.”で、ここは「然るに、私は彼等と話すことの澤山ある時でも、山の霧の中で私の傍で悲しげに吠える犬に向つてゐると同じ『程度にしか』話しかけることが出來ない。」としないと日本語としては通じない。
「無宿人(やどなし)」原文は“waif”で、確かに直前の“a perfect home and resting place”からは、宿無しであろうが、この単語は他にも放浪者・浮浪児・宿無し・持主不明の拾得物・捨てられた若しくは迷い込んだペット・漂着物と言った謂いがあり、私は「(安息を得ることも、真に親しい愛情をかけられることもないと自ら感じる、異邦からの)漂泊者」や“déraciné”「デラシネ(浮草)」と言ったニュアンスを強く感じる。
「お父さん――死んぢやつたわ、」は原文“'Father is gone,'”であるが、これは続く“'he was a kind man but a queer man. Priests is queer people, and I don't know who isn't.'”という彼女の台詞の“Priest”(司祭・聖職者)との連関から、“Father”は「父」ではなく「神父」であることが分かる。またこれが「現在島に居る人のこと、また訪ねて來る人のことを語つた」内容であるからには、“is gone,”を「死んぢやつたわ、」と訳すのは如何か? この教区での勤めを終えて島から去って行った神父のことであろう。
「彼女は常に感情的に熱心に、まちがつてない事を愛嬌よく言はうとする。」は原文は“she is always pathetically eager to say the right thing and be engaging.”であるが、やはりやや日本語としては「まちがつてない」のだが、如何せん、意味がとり難い。「彼女は常に――感動的と言ってもいいほど――頻りに――正しく且つ魅力的な言い方をしようと努めている。」といった感じであろう。
「風道」“draught”。「かざみち」と読んでいよう。火おこしのための空気の通り道。
「同情の下に、二人の間にはまだ溝のあるのを感じる」理由は直前だけでなく、次の少女の「地獄」の発言をも受けての謂いであろう。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (7)

 馬は此の二三日來、コニマラに於ける夏の馬草食ひから歸りつつある。それは去年、牛が船積みされた砂濱に陸上げされる。私は今朝早く、その波の中に到着するのを見に下りて行つた。漁船は岸から少し離れて碇泊してゐたが、叫んだり、繩で叩いたりしてゐる男たちに取圍まれた一匹の馬が船緣に立つてゐるのが見えた。やがて、馬が海中に飛び込むと、カラハの中で待つてゐた幾人かの男は端索で馬を捕へて、寄波から二十ヤード以内の所まで引張つて行つた。それからカラハは漁船へ戻つて行き、馬はひとりで陸の方へ向つて進んで來るやうに後に殘された。

 私が立つてゐると、一人の男が私の所へやつて來て、いつものやうに挨拶をした後で尋ねた――

 「旦那、此の頃どこかで戰爭があるかね?」

 私はトランスヴァールに何か騷動があるらしいと云つたが、次の馬が波に近づいて來たので、歩を移して、その人と別れた。

 それから後、波止場まで海の緣を歩いて行つた。其處には最近、澤山の泥炭が運び込まれてあつた。それは通常、暫くの間、砂山の上に積み置かれ、それから籠に入れられ、島の驢馬或は馬の脊に吊られた籠に入れられて家へ運び上げられる。

 此の數週間、村人はそれに忙しく、村から波止場へ行く道は、後から驢馬を追つて行く子供、或は籠の空(から)の時はそれに乘つて驅ける子供たちの赤いペティコートの行列で埋まつてゐる。

 

 

The horses have been coming back for the last few days from their summer's grazing in Connemara. They are landed at the sandy beach where the cattle were shipped last year, and I went down early this morning to watch their arrival through the waves. The hooker was anchored at some distance from the shore, but I could see a horse standing at the gunnel surrounded by men shouting and flipping at it with bits of rope. In a moment it jumped over into the sea, and some men, who were waiting for it in a curagh, caught it by the halter and towed it to within twenty yards of the surf. Then the curagh turned back to the hooker, and the horse was left to make its own way to the land.

As I was standing about a man came up to me and asked after the usual salutations:--

'Is there any war in the world at this time, noble person?' I told him something of the excitement in the Transvaal, and then another horse came near the waves and I passed on and left him.

Afterwards I walked round the edge of the sea to the pier, where a quantity of turf has recently been brought in. It is usually left for some time stacked on the sandhills, and then carried up to the cottages in panniers slung on donkeys or any horses that are on the island.

They have been busy with it the last few weeks, and the track from the village to the pier has been filled with lines of red-petticoated boys driving their donkeys before them, or cantering down on their backs when the panniers are empty.

 

[やぶちゃん注:底本では次の段落と繋がっているが、原文では行空けがあるので、ここで切った。

「二十ヤード」1yardは約0.9mであるから、凡そ18m。

「端索」は「はづな」と読ませているものと思われる。原文は“bits of rope”。馬の馬の轡(くつわ)に付けた引綱、端綱(はづな)のことである。

「トランスヴァールに何か騷動があるらしい」シングの第二回目のアラン島訪問は栩木氏によれば、1899912日から107日であるから、これはイギリスとオランダ系ボーア人(アフリカーナー)が南アフリカに於ける植民地化を争った“Boer War”第二次ボーア戦争勃発直近のキナ臭さを言っている。「トランスヴァール」はトランスヴァール共和国のことで、当時、現在の南アフリカ共和国北部にあるヴァール川北方に存在した1852年ボーア人によって建国された国家で、首都はプレトリア。第二次ボーア戦争(Second Boer War)は独立ボーア人共和国であったオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国と大英帝国の間に18991011日から1902531日の間に発生した。長期の激戦の末に二共和国は敗北、大英帝国に吸収された(以上はウィキの「ボーア戦争」を参照した)。

「次の馬が波に近づいて來たので」原文は“and then another horse came near the waves”で、確かに「波」であるがどうもしっくりこない。“wave”は古語及び詩語で[the (s)]の形で》水・川・湖・海全般を表すので、ここは波がうち寄せる「波打ち際」と訳した方がよかろう。直後のシーンを見てもそうとしか読めない。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (6)

 マイケルから愛蘭土語の手紙が來た。それを文字通りに譯してみよう。

 親愛なる旦那樣、――あなたが汽船で出かけた時、私の父の家の方へ向はれたと聞き、此の手紙を喜びと誇りを以つて書きます。立派なゲーリック聯盟が出來ませうから、あなたは淋しくないだらうと思ひます。そして非常に勉強なさるでせう。

 朝から晩まで、あなた自身の他誰も一緒に歩く人がないでせう。大へんお氣の毒です。

 私の母、三人の兄弟、姉妹はどんな風にしてゐますか、色白のマイケルや、あの赤ん坊やお婆さん、ローリーを忘れないで下さい。私はすべての友達や親類の人たちを忘れかけてゐます。――御機嫌よく……

 

 皆の名を擧げて家族の人たちを賴んだ後で、忘れ勝ちを自ら責めてゐるのはをかしい。察するところ、彼は初期の懷郷病が癒えて來て、獨立した安泰を肉親への反逆と考へたらしい。

 手紙が私に持つて來られた時、マイケルの友達が一人茶の間に居た。私が讀み終へると、彼は老人の望みによつて、それを聲高に讀み上げた。最後の文に來た時、彼は一寸躊躇して全然それを省いた。

 此の青年はその所有の「コンノートの戀歌」といふ一本を私の所へ持つて來てゐたのである。私はその中のどれかを讀んでくれ、成るべくなら歌つてくれと云つた。その内の二つを讀んでもらつて見ると、その内の多くはお婆さんの子供の時から知つてゐるものであつた。尤も彼女の知つてゐるのは本に書いてあるのとは時時ちがつてゐたが。彼女は羊毛を染めてゐる藍壺の傍の爐邊の椅子に腰掛けて、體を搖すぶつてゐた。そして靑年が讀み終へると、彼女は再びそれを取り上げて、憂鬱や歡喜を聲に籠めながら、微妙な音樂的な節で歌ふのであつた。それは、非常に深遠な詩にこもつてゐるあらゆる抑揚を聲に附けるやうであつた。

 ランプは暗く點(とも)つてゐた。恐ろしい嵐はまた島に叫び渡つた。此處に此の男女たちの中に交つて、此の世で最も古い情熱の籠つた鄙びた美しい詩を聞くのは、夢のやうに思はれた。

 

 

An Irish letter has come to me from Michael. I will translate it literally.

DEAR NOBLE PERSON,--I write this letter with joy and pride that you found the way to the house of my father the day you were on the steamship. I am thinking there will not be loneliness on you, for there will be the fine beautiful Gaelic League and you will be learning powerfully.

I am thinking there is no one in life walking with you now but your own self from morning till night, and great is the pity.

What way are my mother and my three brothers and my sisters, and do not forget white Michael, and the poor little child and the old grey woman, and Rory. I am getting a forgetfulness on all my friends and kindred.--I am your friend ...

 

It is curious how he accuses himself of forgetfulness after asking for all his family by name. I suppose the first home-sickness is wearing away and he looks on his independent wellbeing as a treason towards his kindred.

One of his friends was in the kitchen when the letter was brought to me, and, by the old man's wish, he read it out loud as soon as I had finished it. When he came to the last sentence he hesitated for a moment, and then omitted it altogether.

This young man had come up to bring me a copy of the 'Love Songs of Connaught,' which he possesses, and I persuaded him to read, or rather chant me some of them. When he had read a couple I found that the old woman knew many of them from her childhood, though her version was often not the same as what was in the book. She was rocking herself on a stool in the chimney corner beside a pot of indigo, in which she was dyeing wool, and several times when the young man finished a poem she took it up again and recited the verses with exquisite musical intonation, putting a wistfulness and passion into her voice that seemed to give it all the cadences that are sought in the profoundest poetry.

The lamp had burned low, and another terrible gale was howling and shrieking over the island. It seemed like a dream that I should be sitting here among these men and women listening to this rude and beautiful poetry that is filled with the oldest passions of the world.

 

[やぶちゃん注:「立派なゲーリック聯盟が出來ませうから」少し後に出て来るが、イニシマーン島には既にゲール語連盟の支部が置かれている。それを指す。

「コンノートの戀歌」“Love Songs of Connaught”(「コナハトの恋愛歌集」)は、古代ゲール語学者、ゲール語連盟・アイルランド民俗学協会(“the Folklore of Ireland Society”)の設立者にして後の初代アイルランド共和国大統領Douglas HydeDubhighlas de Hide ダグラス・ハイド 1860年~1949年)が1893年に出版したもの。ゲール語の民話民謡を収録、英訳をつけたもので、アイルランド文芸復興運動に於ける画期的な作品とされる。菱川英一「Oireachtas na Gaeilge エラハタス・ナ・ゲールゲ」(アイルランド語の全国祭典)の概説の中には、イェーツが同書に付された英語訳に対して、'the coming of a new power into language'「新しい力が言語に到来した」と述べた、という記載がある。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (5)

 雨が降つてゐたのに、草草鞋で濡れた道を歩いたので、私は風邪を引いて熱が出た。
 嵐は恐ろしく吹いてゐる。若し私に何か重大な事が起つたなら、私は此處で死んで、本土で誰も知らないうちに箱に釘付けにされ、濡れた岩穴の墓地の中へ下ろされ度い。
 二日前、南島から一艘のカラハがやつて來た。――あちらには圍はれた入江があるので、こちらは天候に妨げられてゐる時も出かけられる――。それは醫者を探しに來たらしい。その後、彼等は歸ることが出來ないほど荒れて、恐ろしい海を東南に向つて歸つて行くのを見たのはやつと今朝であつた。
 漕手の他に二人の人――大方坊さんと醫者――の乘つてゐる四挺櫂のカラハが眞先に行き、その後に南島から來た三挺櫂のカラハがついて行つた。それはもつと危險な目に會つた。こんな天氣の時、醫者を探しに來る時には坊さんも連れて行く。若し後で必要な時、坊さんを呼びに行けるかどうかわからないから。
 概して、病氣は少ない。お産の時、女は慣れた助手がなくても仲間同志で時時どうにか處理する。大概の場合、うまく行くが、時に手遲れになつて、坊さんと醫者を呼びにカラハが大急ぎで出される事がある。
 去年、此處に幾日か居た赤ん坊は今此處に落付いてゐる。お婆さんが息子のゐなくなつた淋しさを紛らすために此の子を養子にしたらしい。
 その子はまだゲール語の二つ三つをやつと話せる位だが、今は立派に成長してゐる。その惡戲(いたづら)の十八番(おはこ)は、棒を持つて戸の後に立つてゐて、ひよつこりはひって來る放ち飼ひの豚や鷄を待ちかまへ、そして急に出て、それを追ひかける事である。茶の間にはまた二匹の猫がゐるが、それをまた譯分らずに虐待する。
 お婆さんが私の部屋へ爐の泥炭を持つてはひつて來る時はいつでも、彼はその後から、芝土を兩方の小脇に抱へておごそかにはひつて來て、それを爐の後に大事に置き、それから長いペティコートをぞろぞろ引きずつて、角を廻つて急いで出て行く。
 彼は家より外へ出る事はないから、島に於ける公の名をまだ貰つてゐない。併し家では通常「マイケリーン・ペッグ」(即ち、小さいマイケルちやん)と呼ばれる。
 時時ぶたれることがあるが、大概の場合、お婆さんが砦の丘に棲んで長くない子供を食ふ「出齒の鬼婆」の話をして、その子の機嫌をなほす。彼は一日の半ばを冷い馬鈴薯を食べたり、濃い茶を飮んだりしてゐるが、至つて丈夫である。

I have been walking through the wet lanes in my pampooties in spite of the rain, and I have brought on a feverish cold.
The wind is terrific. If anything serious should happen to me I might die here and be nailed in my box, and shoved down into a wet crevice in the graveyard before any one could know it on the mainland.
Two days ago a curagh passed from the south island--they can go out when we are weather-bound because of a sheltered cove in their island--it was thought in search of the Doctor. It became too rough afterwards to make the return journey, and it was only this morning we saw them repassing towards the south-east in a terrible sea.
A four-oared curagh with two men in her besides the rowers--probably the Priest and the Doctor--went first, followed by the three-oared curagh from the south island, which ran more danger. Often when they go for the Doctor in weather like this, they bring the Priest also, as they do not know if it will be possible to go for him if he is needed later.
As a rule there is little illness, and the women often manage their confinements among themselves without any trained assistance. In most cases all goes well, but at times a curagh is sent off in desperate haste for the Priest and the Doctor when it is too late.
The baby that spent some days here last year is now established in the house; I suppose the old woman has adopted him to console herself for the loss of her own sons.
He is now a well-grown child, though not yet able to say more than a few words of Gaelic. His favourite amusement is to stand behind the door with a stick, waiting for any wandering pig or hen that may chance to come in, and then to dash out and pursue them. There are two young kittens in the kitchen also, which he ill-treats, without meaning to do them harm.
Whenever the old woman comes into my room with turf for the fire, he walks in solemnly behind her with a sod under each arm, deposits them on the back of the fire with great care, and then flies off round the corner with his long petticoats trailing behind him.
He has not yet received any official name on the island, as he has not left the fireside, but in the house they usually speak of him as 'Michaeleen beug' (i.e. 'little small-Michael').
Now and then he is slapped, but for the most part the old woman keeps him in order with stories of 'the long-toothed hag,' that lives in the Dun and eats children who are not good. He spends half his day eating cold potatoes and drinking very strong tea, yet seems in perfect health.

[やぶちゃん注:「草草鞋」“pampooties”第一部で既出。『まだ鞣さない牛皮で造つた一種のスリッパ或は草鞋』と割注があった。
「醫者を探しに來る時には坊さんも連れて行く」――Priest and the Doctor――これは笑話でも冗談でもない。これがアランの自然の厳然たる掟なのだ。]

2012/03/10

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (4)

 今まで二十四時間、嵐が吹いてゐた。併し私は、髮の毛が鹽で硬張つてしまふまで、斷崖の上をさまよつた。大きな水しぶきの塊が斷崖の下から舞ひ上つて來て、或る時は風と一緒になり、岸から可成り離れた處まで渦卷きながら飛んで來て落ちる。そのどれかが私の上に落ちて來るのに逢ふと、泡の白い霰に包まれて目も見えず、暫く打ち伏してゐなければならなかつた。

 波は非常に大きく、一つの並はづれて大きなのが來ると見た時、目を打たれた瞬間に、私は本能的に身を交はして隱れた程であつた。

 二三時間後、海の果てしない變化と混亂で心は搔き亂されて、初めの爽快は全くの落膽に變つた。

 島の西南隅で、私は大勢の人が海草を搔き集めてゐるのに出逢つた。海草は今、岩に一面に附いてゐる。それは男たちの手で寄波から搔き集められ、それから若い女の一團の手で斷崖の突き出しまで運ばれる。

 此の女たちは普通の裝(なり)の上に、滲み出す海水を受けるため、肩に生の羊の皮を着てゐた。口唇に鹽をかたまらせ、髮に海草を纏つてゐるのは妙に野生的で、海豹のやうに見えた。

 それから後の散歩の間、たいしやく鴫の一群と岩の中に棲んでゐる田雲雀の他は何も生物に逢はなかつた。

 日沒頃、雲は散つて、嵐は疾風と變つた。瀬戸には眞白な飛沫を面白さうに上げながら、大波が西から押し寄せ、その上には紫色の雲が横に長く棚引いてゐた。また灣には一杯に緑の波が荒れ狂ひ、東の方には鮮かな紫と緋の色に染まつた「十二の針(トヱルブ・ピンズ)」[アランの北方、ゴルゥエー郡にある最高の山]があつた。

 此の語らざる偉大な力の世界からの暗示は大きかつた。そして風の鎭まつた眞夜中の今、私は尚感激に震へ紅潮してゐる。

 

 

There has been a storm for the last twenty-four hours, and I have been wandering on the cliffs till my hair is stiff with salt. Immense masses of spray were flying up from the base of the cliff, and were caught at times by the wind and whirled away to fall at some distance from the shore. When one of these happened to fall on me, I had to crouch down for an instant, wrapped and blinded by a white hail of foam.

The waves were so enormous that when I saw one more than usually large coming towards me, I turned instinctively to hide myself, as one blinks when struck upon the eyes.

After a few hours the mind grows bewildered with the endless change and struggle of the sea, and an utter despondency replaces the first moment of exhilaration.

At the south-west corner of the island I came upon a number of people gathering the seaweed that is now thick on the rocks. It was raked from the surf by the men, and then carried up to the brow of the cliff by a party of young girls.

In addition to their ordinary clothing these girls wore a raw sheepskin on their shoulders, to catch the oozing sea-water, and they looked strangely wild and seal-like with the salt caked upon their lips and wreaths of seaweed in their hair.

For the rest of my walk I saw no living thing but one flock of curlews, and a few pipits hiding among the stones.

About the sunset the clouds broke and the storm turned to a hurricane. Bars of purple cloud stretched across the sound where immense waves were rolling from the west, wreathed with snowy phantasies of spray. Then there was the bay full of green delirium, and the Twelve Pins touched with mauve and scarlet in the east.

The suggestion from this world of inarticulate power was immense, and now at midnight, when the wind is abating, I am still trembling and flushed with exultation.

 

[やぶちゃん注:「泡の白い霰」原文“a white hail of foam”。これは強烈な「波の花」のことである。私は冬の能登で体験したことがある。しばしば言われるような幻想的なイメージを私は持たない。強烈な体感温度(強風になるほど発生率は高まる)はそこに住む者には苛酷な生活の一齣である。

「海豹のやうに見えた」“seal-like”。「海豹」はアザラシ。

「たいしやく鴫」原文は“curlews”。チドリ目シギ科ダイシャクシギ Numenius arquata。和名は大きく下に反ったくちばしに由来。本邦にも主に春と秋の渡りの途中で旅鳥として立ち寄り、一部はそのまま越冬する。全長60cm程度。長い脚と嘴が特徴で、頭から翼までの羽毛は褐色の細かい斑模様だが、後半身は白っぽい(以上はウィキの「ダイシャクシギ」を参照した)。

「田雲雀」原文は“pipits”。スズメ目セキレイ科タヒバリ Anthus pinoletta。本邦には冬鳥として本州以南に渡来する。全長16cm程度。冬羽は頭部から背面上面が灰褐色、翼と尾が黒褐色。喉から体下面は黄白色で眉斑(びはん:眼の上にあって眉毛のように見える模様。)とアイリングは淡色。他のセキレイ類と同じく尾を上下によく振る(以上はウィキの「タヒバリ」を参照した)。

「十二の針(トヱルブ・ピンズ)」“Twelve Pins”(ゲール語“Na Beanna Beola”)。ゴルウェー州コレマラ国立公園内にあるベネビオラ山。少なくとも12のピークが遠望出来る山塊ということか。]

私がこの一年思っていたこと

国家生成神話のイサナキとイサナミの神話の最も許し難いことは何か?

簡単だ――イサナキがイサナミを裏切ることだ――

裏切らなければ「世界」が現出しないのであれば――

俺には――「世界」など――いらぬ――

愛している人間を嫌いになることは――出来ない――

ということである――

俺は馬鹿か? じゃあ――

愛する者を裏切ることを平気の平左のお前こそが人間の本体だと――

鮮やかに認めるがいいさ――

人類はそれで速やかに滅亡する……それでよい……

私がこの一年考えていたこと

原子力発電の是非

沖繩普天間基地移転の是非

この二つを憲法改変投票以前に(僕はずーっと以前からそれに賛同している。但し「改正」とは口が裂けても言わないがな!)国民投票で問え!!!

それに対して――『民主の国』アメリカは何も言えない――

原発をやめ、米軍に日本から出てってもらうには――簡単なんだよ――国民投票をやろうじゃないか!

だからさ――さっさとやろうぜ――当たり前のことを――ね――

あとはどこの馬鹿が首相をやろうと――「そんなの関係ねえ」――どっかのドアホウ元幕僚長と同じ云いは――厭だけどな――

俺はそうすればすんなり昔から好きなアナーキストというわけさ――

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (3)

 今年見る島の生活は一層暗黑である。太陽は滅多に照らず。來る日も來る日も、冷い西南の風は霰交りの時雨や厚い雲の群れを伴つて、斷崖を越えて吹き荒ぶ。
 島に居る息子たちは、可成穏やかな日はいつも朝の三時頃から釣に出てゐる。それでも魚が多くないので、儲けがない。
 老人も長い釣竿や撒き餌を持つて釣に行くが、これは更に不漁である。
 天氣が全く惡くなると、漁はやめてしまつて、老人も息子たちも雨の中を馬鈴薯掘りに出て行く。女たちは時時、彼等の手助けをするが、不斷の仕事は牛の世話をしたり、家に居て糸を紡いだりする事である。
 今年は家の中が何んとなく活氣がない。三人の息子がゐないからである。マイケルは本土へ、昨年キルロナンで働いてゐたもう一人の息子は合衆國へ行つてしまつた。
 昨日、マイケルから母親へ宛てて手紙が來た。それは英語で書いてあつた。愛蘭土語で讀み書きの出來るのは家では彼一人だけであつたからである。私は部屋に居ながら、それが徐ろに拾ひ讀まれ、翻譯されてゐるのを聞いてゐた。少したつて、お婆さんはそれを讀んでくれと、私の處へ持つて來た。
 マイケルは最初に仕事の事、貰つてゐる賃金の事を云ひ、それから或る晩、街を歩ゐてゐて、往來で上を仰いで、此の島の「砂の岬」の夜は如何に雄大であらうと、一人想ひ出したと云ひ、――淋しくまた悲しく感じたためではないと附け加へてあつた。終りの方で、日曜の朝、私と逢つた有樣を傳説もどきの誇大さで長長と述べ、そして「私たちは二三時間、實に愉快に話しましたよ。」とあつた。私が彼にやつたナイフに就いて書き、島では誰も「こんなのを見た者はなかつた」ほど立派であつたとあつた。
 此間はアメリカに居る息子から手紙が來た。それには、腕に一寸怪我をしたが、又よくなつた こと、ニューヨークを去つて、二三百哩奧の方へ行かうとしてゐることが書いてあつた。
 お婆さんはその後で一晩中、襟卷を頭から被つて、つつましく泣唱をしながら、爐邊の椅子に腰掛けてゐた。アメリカは遠いとは云つても結局、大西洋の向ふ岸に過ぎないと彼女は思つてゐたやうである。併し今、鐵道の話とか、海のない内地の都會の話とか彼女に了解の出來ない事を聞くと、自分の息子は永久に行つてしまつたと、しみじみ思へるのである。彼女は、去年しばしば家の後の石垣に腰掛けては、息子の乘つて働いてゐる漁船がキルロナンを出て、瀨戸に迫つて來るのをぢつと眺めてゐるのが常であつたとか、またそのやうにして皆出て來ると、いつもどんな仲間があつたかを、彼女はよく私に語つた。
 母親の感情は島では非常に強く、それがため女たちは苦痛の一生を與へられる。息子たちは成長して丁年になつたと思ふと居なくなるか、或は此處で海上の絶えざる危險の中で生活する。娘たちもまた出て行つてしまふか、或は大きくなればやがてその順番に彼女たちを苦しめる子供を育てるために、その青春時代に疲れ果てる。

This year I see a darker side of life in the islands. The sun seldom shines, and day after day a cold south-western wind blows over the cliffs, bringing up showers of hail and dense masses of cloud.
The sons who are at home stay out fishing whenever it is tolerably calm, from about three in the morning till after nightfall, yet they earn little, as fish are not plentiful.
The old man fishes also with a long rod and ground-bait, but as a rule has even smaller success.
When the weather breaks completely, fishing is abandoned, and they both go down and dig potatoes in the rain. The women sometimes help them, but their usual work is to look after the calves and do their spinning in the house.
There is a vague depression over the family this year, because of the two sons who have gone away, Michael to the mainland, and another son, who was working in Kilronan last year, to the United States.
A letter came yesterday from Michael to his mother. It was written in English, as he is the only one of the family who can read or write in Irish, and I heard it being slowly spelled out and translated as I sat in my room. A little later the old woman brought it in for me to read.
He told her first about his work, and the wages he is getting. Then he said that one night he had been walking in the town, and had looked up among the streets, and thought to himself what a grand night it would be on the Sandy Head of this island--not, he added, that he was feeling lonely or sad. At the end he gave an account, with the dramatic emphasis of the folk-tale, of how he had met me on the Sunday morning, and, 'believe me,' he said, 'it was the fine talk we had for two hours or three.' He told them also of a knife I had given him that was so fine, no one on the island 'had ever seen the like of her.'
Another day a letter came from the son who is in America, to say that he had had a slight accident to one of his arms, but was well again, and that he was leaving New York and going a few hundred miles up the country.
All the evening afterwards the old woman sat on her stool at the corner of the fire with her shawl over her head, keening piteously to herself. America appeared far away, yet she seems to have felt that, after all, it was only the other edge of the Atlantic, and now when she hears them talking of railroads and inland cities where there is no sea, things she cannot understand, it comes home to her that her son is gone for ever. She often tells me how she used to sit on the wall behind the house last year and watch the hooker he worked in coming out of Kilronan and beating up the sound, and what company it used to be to her the time they'd all be out.
The maternal feeling is so powerful on these islands that it gives a life of torment to the women. Their sons grow up to be banished as soon as they are of age, or to live here in continual danger on the sea; their daughters go away also, or are worn out in their youth with bearing children that grow up to harass them in their own turn a little later.

[やぶちゃん注:「愛蘭土語で讀み書きの出來るのは家では彼一人だけであつたからである。私は部屋に居ながら、それが徐ろに拾ひ讀まれ、翻譯されてゐるのを聞いてゐた。少したつて、お婆さんはそれを讀んでくれと、私の處へ持つて來た。」というのは、この屋の一家は文盲に近いことを言っているようだ。ゲール語を話すが、ゲール語を筆写することは殆んど出来ず、従って書かれたゲール語を読むことも出来ない。英語で書かれたものは少しは読めるけれども、やはり意味はおぼつかない。だから最終的にはシングのところに回ってくるのである。
「こんなのを見た者はなかつた」は原文が“no one on the island 'had ever seen the like of her.'”であるから、厳密には例の三人称の混同から『「彼女みたような奴を見たことがある」者は誰もいないね』となる。
「マフラー」原文“shawl”。肩掛け。今なら普通に「ショール」と訳すであろう。
「泣唱をしながら」“keening”は、第一部にも出て来た“keen”の動詞形。アイルランドの習俗で死者に対して哀しみを表すために歌われる泣き叫びを伴った悲歌(エレジー)を歌うこと。
「瀨戸に迫つて來る」は原文“beating up the sound”で、この“sound”は「海峡・瀬戸」を意味する。“beat up”はこの場合、「波を蹴って乗り出す」といった意味であろうから、『息子の乘つて働いてゐる漁船がキルロナンを出て、』「瀨戸に乘り出して行く」『のをぢつと眺めてゐるのが常であつた』の方が日本語として腑に落ちる。
「またそのやうにして皆出て來ると、いつもどんな仲間があつたかを、彼女はよく私に語つた。」もやや生硬で、お婆さんの話は原文は“and what company it used to be to her the time they'd all be out.”であるから、彼女は「また、そんな風に男たちが海に出払ってしまうと、今度は誰彼といった仲間たちが彼女の相手になってくれる、といったことを話すのが常であった」という意味である。
「丁年」成人。
最後の段落は、洋の東西を問わず、母なる存在の――その母性の――永遠の宿命の哀しみを語って余りある。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (2)

 今朝、私はキルロナン行の汽船で、中の島へ戻つて來た。そして鹽魚を積んで行くカラハで此處へ來た。船卸臺から上つて行くと、村の入口は女や子供で一杯であつた。中には道へ出て來て、私の手を握つて、熱心な歡迎の言葉を述べてくれる者もあつた。
 パット・ディレイン爺さんは死に、數人の友達はアメリカへ行つてしまつた。それが私の數ケ月居なかつた後で知らされたニュースの全部であつた。
 宿に着くと、老人たちから歡迎され、持つて來た少しの土産物――お婆さんには折疊式の鋏、爺さんには革砥、その他雜多な物――で大賑ひを呈した。
 するとまだ家にゐる一番末の息子のコランプが奧の部屋へ行つて、昨年、私が出立の時送つた目覺時計を持つて來た。
 「僕は此の時計が大好きだよ。」彼はその背中を撫でながら云つた。「漁に出たいと思ふ朝は、いつでも鳴つてくれる。いや、これに適ふ鷄は島中に二羽とゐないだらう。」
 私は、昨年此處で撮つた數葉の寫眞を彼等に見せようと持つてゐた。茶の間の戸の傍で椅子に腰掛けて、それを家の人たちに見せてゐると、昨年屢々云つたことのある美しい若い女がそつとはひつて來て、非常に簡單に而かも懇ろに挨拶をしてから、同じやうに寫眞を見ようと私の傍の床下に坐り込んだ。
 此の人たちの大部分がはにかみも自意識も全く持つてゐないのは、彼等に美しい魅力を與へる。此の若い美しい女が氣に入つた寫眞をもつと近くで見ようと、私の膝越しに凭れかかつた時、私は常にもまして島の生活の不思議な純樸さを感じた。
 昨年、私が此處へ來た時、何もかも新しく、人人は少し私に餘所餘所(よそよそ)しかつたが、今は彼等にも亦その生活(くらし)にも慣れてゐるので、彼等の長所が前よりも一層強く私の心を打つ。
 私の此の島で撮つた寫眞が大いに喜ばれて、その中の一人一人が――手や足だけ見えてゐる人までが――みんなわかつてしまふと、私はウィクロー郡で撮つた物をいくつか取り出した。それ等は大部分、ラスドラムやオーリムの市場、或は丘の上で芝を刈つてゐる男たち、その他内地の生活の光景の寫つてゐる斷片ではあつたが、海に飽きてゐる人たちには大へん喜ばれた。

I returned to the middle island this morning, in the steamer to Kilronan, and on here in a curagh that had gone over with salt fish. As I came up from the slip the doorways in the village filled with women and children, and several came down on the roadway to shake hands and bid me a thousand welcomes.
Old Pat Dirane is dead, and several of my friends have gone to America; that is all the news they have to give me after an absence of many months.
When I arrived at the cottage I was welcomed by the old people, and great excitement was made by some little presents I had bought them--a pair of folding scissors for the old woman, a strop for her husband, and some other trifles.
Then the youngest son, Columb, who is still at home, went into the inner room and brought out the alarm clock I sent them last year when I went away.
'I am very fond of this clock,' he said, patting it on the back; 'it will ring for me any morning when I want to go out fishing. Bedad, there are no two clocks in the island that would be equal to it.'
I had some photographs to show them that I took here last year, and while I was sitting on a little stool near the door of the kitchen, showing them to the family, a beautiful young woman I had spoken to a few times last year slipped in, and after a wonderfully simple and cordial speech of welcome, she sat down on the floor beside me to look on also.
The complete absence of shyness or self-consciousness in most of these people gives them a peculiar charm, and when this young and beautiful woman leaned across my knees to look nearer at some photograph that pleased her, I felt more than ever the strange simplicity of the island life.
Last year when I came here everything was new, and the people were a little strange with me, but now I am familiar with them and their way of life, so that their qualities strike me more forcibly than before.
When my photographs of this island had been examined with immense delight, and every person in them had been identified--even those who only showed a hand or a leg--I brought out some I had taken in County Wicklow. Most of them were fragments, showing fairs in Rathdrum or Aughrim, men cutting turf on the hills, or other scenes of inland life, yet they gave the greatest delight to these people who are wearied of the sea.

[やぶちゃん注:「皮砥」(原文“strop”)は「かわと」と読み、床屋で見かけるような剃刀を研ぐための革に研磨剤を塗りこんだものをいう。
「ウィクロー郡」“County Wicklow”。ウィックロー州のこと。アイルランド東部中央レンスター地方の州。ダブリン州の南に位置する。
「ラスドラム」“Rathdrum”(ゲール語“Ráth Droma”)はウィックロー州の南東のやや内陸に位置する村。
「オーリム」“Aughrim”(ゲール語“Eachroim”)ラスドラムの南西10キロ程の位置にあるウィックロー州の小さな町。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第二部 (1)

   第二部

 

 西部に歸る前の晩、マイケル――本土へ稼ぎに行くため島を離れてゐる――に手紙を出し、日曜である次の朝、彼の宿を訪ねたいと云ふ事を云つてやつた。

 私が案内を乞ふと、西部型の美しい顏の英語を知らない若い女が出て來た。私の事をすつかり聞いてゐるらしく、用向の大事なことを思ひ込んで、それを云ふが殆んどわからない。

 「彼女は貴方のお手紙を受取りました。」と西部でよくやるやうに人稱代名詞を交ぜこぜにして云ふ。「彼女は今、彌撒に行つてゐます。その後で廣場に行きませう。濟みませんが、今、廣場に行つて、腰掛けてゐて下さい。さうすればマイケルはまゐりませう。」

 本通りに引返して行くと、私を待ちくたびれたやうに、マイケルが私に逢ひに、ぶらぶらやつて來るのに出逢つた。

 彼は、逢はないでゐるうちに、強さうな男になつて、コンノートの勞働者の着る濃い茶色のフランネルを着てゐた。少し話をした後、一緒に引返して來て、町の上にある砂山に出かけた。私の宿の入口から少し離れた此處で彼に逢ふと、その純な性質が、新しい生活からも又彼の交はる町の人たちや船乘りたちからも殆んど影響をうけてゐないのを特に感心した。

 「私は日曜には、よく郊外へ出かけます。」彼は話の中で云つた。「仕事をしてない時に、町の人の大勢居る中にゐたつて仕方がありませんからね。」

 暫くして、愛蘭土語も使へるもう一人の勞働者――マイケルの友だち――を加へて、草の上に横になつて、數時間しやべつたり、議論したりした。その日は堪らなく蒸暑く、近くの砂濱や海には半裸體の女が大勢いたが、此の二人の若者は彼等の存在に氣づかぬ風であつた。町に歸る前、横になつてゐる近くの砂の上に、-人の男が小馬を追ひ込みに現れた。それを此の友達たちは非常に面白がつた。

 夕方遲く、再びマイケルに逢ひ、全く暗くなるまで灣に沿うて散歩したが、其處にはまだ海水浴をしてゐる女たちが大勢居た。明日は彼は忙しく、火曜には私は汽船で出立するので、もう島から戻るまで彼には逢へないであらう。

 

 

Part II

 

THE EVENING before I returned to the west I wrote to Michael--who had left the islands to earn his living on the mainland--to tell him that I would call at the house where he lodged the next morning, which was a Sunday.

A young girl with fine western features, and little English, came out when I knocked at the door. She seemed to have heard all about me, and was so filled with the importance of her message that she could hardly speak it intelligibly.

'She got your letter,' she said, confusing the pronouns, as is often done in the west, 'she is gone to Mass, and she'll be in the square after that. Let your honour go now and sit in the square and Michael will find you.'

As I was returning up the main street I met Michael wandering down to meet me, as he had got tired of waiting.

He seemed to have grown a powerful man since I had seen him, and was now dressed in the heavy brown flannels of the Connaught labourer. After a little talk we turned back together and went out on the sandhills above the town. Meeting him here a little beyond the threshold of my hotel I was singularly struck with the refinement of his nature, which has hardly been influenced by his new life, and the townsmen and sailors he has met with.

'I do often come outside the town on Sunday,' he said while we were talking, 'for what is there to do in a town in the middle of all the people when you are not at your work?'

A little later another Irish-speaking labourer--a friend of Michael's--joined us, and we lay for hours talking and arguing on the grass. The day was unbearably sultry, and the sand and the sea near us were crowded with half-naked women, but neither of the young men seemed to be aware of their presence. Before we went back to the town a man came out to ring a young horse on the sand close to where we were lying, and then the interest of my companions was intense.

Late in the evening I met Michael again, and we wandered round the bay, which was still filled with bathing women, until it was quite dark, I shall not see him again before my return from the islands, as he is busy to-morrow, and on Tuesday I go out with the steamer.

 

[やぶちゃん注:「西部に歸る前の晩」原文 “THE EVENING before I returned to the west”。何でもないことだが、姉崎氏が「歸る」と訳されたのが無性に嬉しい。

「用向の大事なことを思ひ込んで、それを云ふが殆んどわからない」原文は“and was so filled with the importance of her message that she could hardly speak it intelligibly.”で、要は殆んど英語が出来ないのに加えて、シングにマイケルからの大事な再会するための要件を伝えねばならないという緊張のあまり、その喋りが、当初、全く達意でない、まるで分からなかった、という意味。後の、「私を待ちくたびれたやうに、マイケルが私に逢ひに、ぶらぶらやつて來るのに出逢つた」という描写が、その意思疎通に想像を絶する時間が掛かったことを意味していよう

「コンノート」“Connaught”。“Connacht”(ゲール語では“Connachta”であるが、現地では慣習上“Cúige Chonnacht”と書く)とも綴り、アイルランド島北西部の地方。「コナハト」「コンノート」とも音写するが、現地音に最も近いのは「コナハト」。アイルランド王コルマクの息子コン“Conn”の子孫の国の意。ゴールウェイ・リートリム・メイヨー・ロスコモン・スライゴの6州から成る。中心は南部がゴールウェイ市、北部がスライゴ市で、現在もゲール語が一部の地域(ゲールタハト:アイルランドの言語回復を図るためにアイルランド自由国政策の一部として公認されたゲール語公用語地域)で話されている(以上はウィキコノート」によった)。

「近くの砂濱や海には半裸體の女が大勢いた」“and the sand and the sea near us were crowded with half-naked women”。この半裸体というのはどの程度の露出を言うのであろう。いや、真面目に気になるのである。因みに、私の御用達のサイトX51には17世紀に於いては女性がおっぱいを晒すのはごく普通の事だったという事実を明らかにした女性の歴史研究家の記事があるのである。]

ジョン・ミリングトン・シング著 姉崎正見訳 アラン島 第一部 ウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵 附やぶちゃん注

「心朽窩 新館」に『ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第一部』(ウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵 附やぶちゃん注)を公開した。

イエィツの挿絵が素晴らしい。ご覧あれ。

宇野浩二 芥川龍之介 四~(2)

 この事はしばしば書くが、芥川は、人に決して弱みは見せず、常に、浩然としているようには、颯爽としているようには、見えたが、実に、気の弱い、気のまわる、気を病〔や〕む、人であった。

 大正六年七年八年九年は芥川の文学的生涯のうちでもっとも花やかな時代であった。それで、この芥川の花やかなりし時代には、たとえば、(たとえば、である、)森 鷗外、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥、志賀直哉、有島武郎、里見弴、菊池寛、その他、当時の一流の大家がそれぞれ一流の雑誌に名前をならべていても、そのなかで、芥川龍之介だけが一ばん目にたった、といっても、まず、過言ではない。それは、芥川の小説がいくらか高級な文学青年に、わけわからずに、もてはやされたからでもあるが、『芥川龍之介』という、ぱっとした、派手〔はで〕な、名前が大〔おお〕いあずかっていたのであろう。(その頃、⦅大正の中頃⦆、姓名判断というものに凝〔こ〕っていた、鍋井克之が、ある時、「……芥川龍之介、……芥川龍之介、……ふむ、ええ名前やなあ、……徳な名前やなあ、……芥川龍之介、桃井若狭之介、市村羽左衛門、といふやうな、ぱつとした、派手な、名前は、なんとなう、好〔す〕いたらしい、男前〔おとこまへ〕(大阪へんで、男ぶりがよい、という意味につかう言葉)らしうて、ええ名前や、徳な名前や、」と、いった事がある。閑話休題。)しかし、芥川自身も自慢であったらしいこの名前で、芥川は、徳もしたかもしれないけれど、この名前が煩〔わずら〕いになったようなところもあった、若年にして声名を得たことがそうであったように。しかし、結局、芥川に一生わずらいしたのはその性質言った。その性質は、しかし、複雑であるが、煩いをしたのは、見え坊と極端な気の弱さであった。

[やぶちゃん注:「鍋井克之」(明治二十一(一八八八)年~昭和四十四(一九六九)年)は大阪出身の洋画家。二科会から昭和二十二(一九四七)年の二紀会結成に参加。後に浪速芸大教授。

「桃井若狭之介」は「仮名手本忠臣蔵」の登場人物の一人。桃井若狭之助安近〔やすちか〕。浅野内匠頭相役の御馳走役。モデルは津和野藩主亀井茲親〔これちか〕。]

 ここで、ちょいと、芥川が大正六七八年のあいだに書いた手紙のなかの妙なの三つ四つ、(その一部分だけ、)読んでみよう。

 こなひだは色々お世話様でした[註―『羅生門』の会を世話してもらった礼]僕論[註―江口の「芥川龍之介論」のこと]は学校[註―海軍機関学校]で中と下を拝見しました少し褒めすぎてます殊に「貉」なんぞは下らないものですよそれから小道具〔こだうぐ〕の悪〔わる〕い中〔うち〕「運」の鶯は古〔ふる〕いのを又又承知の上で使つたんですあれは幾分古い情調に興味を持つた作なんですから「忠義」の時鳥はお説通り活字になつた時から不愉快で仕方がないんです「羅生門」は当時多少得意の作品だつたんですが新思潮連には評判が悪かつたものです成瀬が悪評の張本だつたやうに想像してゐますが

[やぶちゃん注:「鶯」は、「運」で主人公の青侍が清水近くに仕事場を構える陶器師〔すえものし〕の翁に語るシークエンスで、背後の藪から鳴くSE(サウンド・エフェクト)で二箇所で現れる。

「時鳥」の方は、SEというよりも(最初の近過去の回想シーンでは鳴くが)象徴的小道具として用いられる。「忠義」の主人公、世の嘲りを受け、家督を人の手に渡さざるを得ない主人公板倉修理〔いたくらしゅり〕が、時鳥の声を聴き、「あれは鶯の巣をぬすむそうじゃな。」と呟き、後に発狂、家紋の見間違いによって細川越中守を板倉佐渡守と誤認して(これは実際の歴史的事実とされている)殿中刃傷殺害に及んだ際にも「時鳥」云々という意味不明のことを呟いていたという「噂」として、エンディングでは修理の狂気のシンボルとして機能するが、確かに如何にもな伏線ではある。]

 これは、大正六年の六月三十日に、芥川が鎌倉から、江口にあてた手紙の書き出しの一節であるが、ことごとく自作の弁解であるのが誠におもしろいではないか。(わたくし事ではあるが、私には、こういう手紙を書いている芥川の顔が、今、ここに、目の前に、見えるような気がするのである。)

 小島さん

 三田文で褒めて下すつたのはあなただと云ふから申し上げますあの作品[私の憶測であるが『偸盗』]はあなたのやうな具眼者に褒められる性質のものぢやありませんこの間よみ返して大分冷汗を流しました。

[やぶちゃん注:「私の憶測であるが『偸盗』」とあるが、これは前月五月に大阪毎日新聞に社友第一作として連載した「地獄変」の誤認である。この手紙は葉書で計四通(次の段落で「三枚つづり」とあるが、主文は三通であるが、プラスもう一枚ある)配信されており、その「(2)」(岩波版旧全集書簡番号四二七)ではっきりと「大殿と良秀と娘との関係を……」と述べている。なお、この芥川が『褒めて下すつた』という小島の「地獄変」評は、大正七(一九一八)年六月号の『三田文学』に小島が「中谷丁蔵」名妓で発表した「『地獄変』を読む」を指すのであるが、実はこの評論、総体では「地獄変」に代表される芥川の作品群を賞賛しているものの、心理描写に於ける作者の説明癖を指摘して、実は「地獄変」を批判したものである。宇野の引用していない複数の葉書による後半を読めば分かる。ここは何故、宇野が「偸盗」と勘違いしたのか(勘違いのしようのない内容である)、私には不思議である。――そういう勘違いをする宇野に、私は実は『なぜか、悲しくなるのである』――そのことはいつか、また書こう。――]

 これは、大正七年の六月十八日に、芥川が、鎌倉から、小島政二郎にあてた、三枚つづきの葉書だよりの最初の一節であるが、私は、芥川のこういう文句をよむと、なぜか、悲しくなるのである。

 四回送りました

 この頃やつと話をしつかり進行させられるやうになつて来ましたどうも今までの所は気に食はないこれからはもう少し小説らしく動いて行きます何しろ今までが今までだから評判は悪〔わ〕るかないかと思つて大いに社の為〔ため〕に気づかつてゐますそれから名越〔なごし〕さんの挿画も内容より上等なので恐縮ですあなたからよろしくその恐縮の意を御伝へ下さい今度ばかりは実際少評判が気になり出しました

[やぶちゃん注:「名越」大正・昭和前期の挿絵画家名越国三郎(なごしくにさぶろう 生没年不詳)である。当時は毎日新聞社お抱え画家の一人であった。]

 これは、大正七年の十一月九日に、芥川が、鎌倉から、薄田泣董[註―当時は大阪毎日新聞の学芸部長]にあてた手紙の大部分であるが、この手紙のなかの小説とは、『邪宗門』であろう。もう十何年も前によんだので、はっきり覚えていないが、たしか、『地獄変』の後日談のようなものではなかったか、と思う。(しかし、六分ぐらい記憶ちがいのような気がする。)いずれにしても、この手紙は、いくらユキヅマリを感じていた時分とはいえ、芥川にしては、なさけないほど、へりくだっている。

[やぶちゃん注:「たしか、『地獄変』の後日談のようなもの」は正しい。「邪宗門」は大阪毎日に「地獄変」を連載した五ヶ月後の大正七(一九一八)年十月から同新聞に連載を始めたが、その冒頭は「先頃大殿樣御一代中で、一番人目を駭〔おどろ〕かせた、地獄變の屏風の由來を申し上げましたから、今度は若殿樣の御生涯で、たった一度の不思議な出來事を御話し致さうかと存じて居ります。」と「地獄変」の話者と同一人物の語りで始まるからである。但し、宇野が『しかし、六分ぐらい記憶ちがいのような気がする』と自信なさ気なのも分かる。何故なら、こう語り出した「邪宗門」の内容自体は、「地獄変」の内容とは無関係なもので、『後日談』、ではないからである。宇野の感覚はここでは正確である。なお、「邪宗門」は連載中に芥川がスペイン風邪に罹患して休載が続いた上、その構想や語りの構造的不備を克服することが出来ず、遂に未完で不当に匙を投げた作品であり(私は未完というのは作家として――特に芥川のようなストーリー・テラーとしては――あってはならないことだと思っている。更に私が不快なのは、芥川がこの未完作を作品集『邪宗門』に再録し、その作品集の題名にさえしている点である。厚顔無恥も甚だしいではないか――大好きな芥川龍之介にして瑕疵であると私は思っている)、確かに宇野が言う芥川の『弱さ』が、『しみじみ、思われる』作である。]

 私は、この手紙をうつしとったのを、後悔した。しかし、芥川はやっぱり弱い人であったのだ、と、しみじみ、思われるのである。

 自分は「羅生門」以前にも、幾つかの短篇を書いてゐた。恐らく未完成の作をも加へたら、この集に入れたもの[註―十四篇はいっている]の二倍には、上つてゐた事であらう。当時、発表する意志も、発表する機関もなかつた自分は、作家と読者と批評家とを一身に兼ねて、それで格別不満にも思はなかつた。

 これは、芥川が、『羅生門』の跋として書いた文章のなかの一節である。この文章のなかの「発表する意志も、……」から「格別不満にも思はなかつた、」までの言葉がもし本当とすれば、(もし本当とすれば、である、)二十三四歳の文学書生の心がけとしては、実に謙遜であり殊勝である。もし、かりに、『文学』を学校でおしえる学問のようなものであるとすれば、その学校の教師は、文学を志望する年少の学生たちにむかって、この芥川の言葉を黒板に書きながら、「……諸君、この人を見よ、この人の格言を、座右の銘としなさい、」と、いうであろう。これは、ただ読んだところだけでは、まことに正〔ただ〕しき訓示のようなものであるからである。

 しかし、はたして芥川はこのような謙遜な殊勝な心がけを持っていたであろうか。芥川は、心の中でそのように思っていなくても、文章を縦横無尽に使いわける事においては随一の名人であるから、さきの学校の教師の口真似〔くちまね〕をして、私は、「年少の諸君よ、芥川の文章をそのままに取ること勿〔なか〕れ、」と、いいたく思うのである。

 ところで、この『羅生門』の跋を、(さきに引〔ひ〕いた一節のつづきを、)読んでみると、こんどは、修行〔しゅぎょう〕時代の(文学書生時代の)芥川の苦労や気づかいがよくわかって、大へん興味がふかいのである。ところが、なにぶん、この跋は、芥川が、功成〔な〕り名遂〔と〕げてから、書いた文章であるから、やはり、謙遜に述べているように見えるが、思いあがっているようなところがあって、否味〔いやみ〕なところはあるけれど、それはそれで、又、おもしろいところがあるから、さきに引いた文章のつづきを、つぎにうつしてみよう。

 尤も、途中で三代目の「新思潮」[註―大正三年二月、久米正雄、菊池 寛、山本有三、豊島與志雄、山宮 允、松岡 譲、芥川龍之介、その他が、同人となって創刊した]の同人になつて、短篇を一つ[註―『老年』]発表した事がある。が、間もなく[註―一年ほどで]「新思潮」が廃刊すると共に、自分は又元の通り文壇とは縁のない人間になつてしまつた。

 それが彼是〔かれこれ〕一年ばかり続く中に、一度「帝国文学」の新年号へ原稿を持ちこんで、返された覚えがあるが、間もなく二度目の[註―『ひよつとこ』]がやつと同じ雑誌で活字になり、三度目の[註―このあとに書かれてあるように『羅生門』]が又、半年ばかり経つて、どうにか日の目を見るやうな運びになつた。

 その三度目が、この中へ入れた「羅生門」である。その発表後間もなく、自分は人伝〔ひとづて〕に加藤武雄君が、自分の小説を読んだと云ふ事を聞いた。断つて置くが、読んだと云ふ事を聞いたので、褒〔ほ〕めたと云ふ事を聞いたのではない、けれども自分はそれだけで満足であつた。これが、自分の小説も友人以外に読者がある、さうして又同時にあり得ると云ふ事を知つた始めである。

[やぶちゃん注:「山宮允」(さんぐうまこと、明治二十三(一八九〇)年~昭和四十二(一九六七)年)は後で本文でも出てくるのでここで注しておく。詩人・英文学者。大正四(一九一五)年東京帝国大学英文科卒。本文にある通り、大正三(一九一四)年の第三次『新思潮』創刊では中心的役割を担った。大正六(一九一七)年には川路柳虹らと詩話会を結成、後に法政大学教授などを務め、イェーツやウィリアム・ブレイクの紹介に功があった。
「加藤武雄」(明治二十一(一八八八)年~昭和三十一(一九五六)年)は小説家。小学校高等科を卒業後、郵便局員や小学校補助教員、訓導を経て、明治四十三(一九一〇)年から新潮社編集者として『文章倶楽部』などを編集。大正八(一九一九)年に自然主義的短編集「郷愁」で作家デビュー、大正末から昭和初期には中村武羅夫・三上於菟吉と並び称せられる通俗小説家として一世を風靡した。本記載の『加藤武雄君が、自分の小説を読んだと云ふ事を聞いた』とあるが、加藤武雄は後の大正六(一九一七)年一月の「新潮」一月号で「芥川龍之介を論ず」と題し、「ひょっとこ」「鼻」「羅生門」等を論評している。]

 右の文章は、上辺だけ読めば、「文壇とは縁のない人間になつてしまつた、」とか、「せつかく持ちこんだ原稿をかへされた、」とか、「どうにか日の目を見るやうな運びになつた、」とか、「自分の小説も友人以外に読者がある、」とか、いう文句は、一応心をひかれて、そんなに苦心惨憺したのであったか、と、ちょいと「同情する気になる、いや、心から同情する気になる。が、よく読めば、さきに述べたように、意地わるくとれば、功成〔な〕り名遂〔と〕げた人が、(つまり、芥川が、)自分は、こういう思いをして来たが、今は、こうして、……と、心の底で、空〔そら〕うそぶいているように取れないこともない。それから、私は、『羅生門』が「帝国文学」[註―大正四年の十月号]に出た時、ほとんど誰もみとめたものはないが、加藤武雄は『羅生門』に感心したという事を聞いたことがある。それで、私は、おそらく、芥川も、加藤が、『羅生門』を、読んだばかりでなく、褒めたという事を、「人伝〔ひとづて〕」に、聞いたにちがいない、と思うのである。それを、芥川が、わざわざ、「断つて置くが、読んだと云ふ事を聞いたので、褒めたと云ふ事を聞いたのではない、」と書いているのは、これも、芥川一流〔りゅう〕の捻〔ひね〕くる云い方である。物事を素直にいわない事は、芥川の長所といいたいが、芥川の短所である。

[やぶちゃん注:「帝国文学」の「註―大正四年の十月号」は十一月号の誤り。]

 しかし、また、芥川が、このように、いらいらしたり、じれたり、したのは、芥川のような性質の人には、無理もない事であった。第三次「新思潮」が出た、大正三年という年は、さまざまの、同人雑誌に、(同人雑誌にちかい雑誌に、)いろいろな新進作家や無名にちかい人たちが小説や戯曲を発表した年であったからだ。そうして、こういう現象は、すでに明治の末年からはじまり、新進作家や無名作家の作品を出す雑誌は、これまでの、「中央公論」、「文章世界」、「太陽」、「新小説」、その他、のほかに、「三田文学」、「白樺」、「スバル」、「劇と詩」、「モザイク」、「朱欒」、その他、その他、文字どおり、無数の文芸雑誌が出て、それが大正元年、二年、三年、と、しだいに、ふえて来た。そうして、それらに出る新進の(あるいは無名にちかい)作家や詩人や歌人はたいていは二十三四歳から二十五六歳で、それらの雑誌の読者はおおよそ十七八歳から二十二三歳ぐらいまでの年頃〔としごろ〕の者が大部分であった。

 私は、明治の末年から大正の初め頃まで、それらの雑誌の愛読者であったが、それから四十年ぐらいまでの間〔あいだ〕に、その頃ほど、才能のある作家や詩人や歌人が数おおく活動したのを見たことがない、その時分ほど、あたらしい若若しい元気のある小説や戯曲や詩や歌の花ひらいたのを見たことがない。

 思い出すままに、順序不同に、書いてみれば、志賀直哉、武者小路実篤、谷崎潤一郎、里見 弴、久保田万太郎、小山内 薫、長田秀雄、吉井 勇、北原白秋、若山牧水、石川啄木、高村光太郎、秋田雨雀、森田草平、鈴木三重吉、長塚 節、伊藤左千夫、その他、更に、安倍能成や小宮豊隆までが小説を書いたのであるから、これでは、書いても、書いても、書ききれないのである。

 ところで、ためしに、大正元年から大正三年までの日本文学の年表を繰って見て、当然の事であるのに、意外な気がしたのは、それらの雑誌に作品を出している新進作家と無名作家の十分の三ぐらいがいわゆる自然主義の本山といわれた『早稲田』出の人たちである事であった。それは、加能作次郎、吉田絃二郎、白石実三、田中介二、谷崎精二、その他であるが、おどろいたのは、谷崎精二が、ずぬけて、数おおく書いている事であった。猶、谷崎精二が、その同人になっていた、「奇蹟」には、唐津和郎、葛西善蔵、相馬泰三、その他が作品を出している。

 さて、第三次の「新思潮」が出て、すぐ文壇にみとめられたのは、豊島與志雄あった。そうして、その「新思潮」の第一号に出た豊島の『湖水と彼等』は、題名からでもうかがわれるように、まったく清新な小説であった。そのためであろう、豊島は、その後、「新思潮」ばかりでなく、ほかの雑誌にも、つぎつぎと、作品を発表した。それで、菊池が、『新思潮と我々』という文章のなかで、(これも私のうろおぼえであるが、)第三次の「新思潮」の同人のなかで、文壇的に有名になったのは豊島與志雄一人であった、というような事を書いていたが、はっきりいえば、それが本当であろう。さて、それから、やはり、「新思潮」の第二号に、久米正雄が『牛乳屋の兄弟』という社会劇のようなものを出したが、それは新鮮味などはほとんどまったくなかったけれど、たまたま、新時代劇協会によって、それが、その年[つまり、大正三年]の九月に、有楽座[註―数寄屋橋を朝日新聞社の方へわたり、橋をわたるとすぐ右の方へ半町の半分ほど行った右側ににあった小劇場で、川の方にむかっていた]で上演されたために、『久米正雄』という名が、たちまち、有名になった。それで、久米は、劇作家になるつもりで、その後も、『鉄煙の中へ』などという脚本を「帝国文学」に出したり、時をおいて、脚本を、あちこちの雑誌に、出したり、した。が、それらの脚本は、みな、あまりよい出来ではなかった。それから、山本有三が、そのつぎの「新思潮」[註―第三号]に『女親』という自然主義風の戯曲を出したが、それきり、何〔なん〕にも書かなくなってしまった。

[やぶちゃん注:「山本有三が……何にも書かなくなってしまった」とあるが、「何にも」は厳密には正しくない。創作ではないが、この後も「新思潮」第五号(大正三(一九一四)年六月号)に「美術劇場と無名会」という劇評、同六号(同年七月号)に翻訳「未来派と劇場」、同七号(同年八月号)に評論「復讐とSTIL」を発表している(その後は掲載がない)。]

 しかし、豊島でも、久米や山本でも、なにか書けば、それを、発表する機関さえあれば、気軽に、出したが、芥川は、持ち前の妙な内気なところ(と同時に内心に高慢なところ)と都会人の見えのようなものがあって、へたな物を出して、恥をかきたくない、というような気持ちもあって、それができないところがあつたのか。そのために、せっかく同人になりながら、芥川は逡巡して、一号にも、二号にも、三号にも、作品を、「新思潮」に、出さなかったのであろうか。それとも、芥川が、他の三人より、立ちおくれたのであろうか。それとも、……

[やぶちゃん注:『三号にも、作品を、「新思潮」に、出さなかった』というのは小説は出さなかったという意味で宇野は用いている。芥川龍之介は第一号(大正三(一九一四)年二月)に柳川隆之介名義でアナトオル・フランス「バルタサアル」、同第二号にはイエーツ『「ケルト民族の薄明」より』、同第三号にも引き続き、『「ケルトの薄明」より』を掲載している。後掲されるように、柳川隆之介名義の小説「老年」は、次の第四号(五月号)に掲載された。]

 後年、(大正八年の一月に、)芥川が、「大学一年の時、豊島だの、山宮だの、久米だので、第三次『新思潮』を出した時に、『老年』といふ短篇を書いたのが初めである。それでもまだ作家になる考へがきまつてゐたのではなかつた。その頃久米が小説や戯曲などを書くのを見て、ああいふものなら自分たちでも書けさうな気がした。そこへ久米などが書け書けと煽動するから、書いて見たのが、『ひよつとこ』と『羅生門』とだ。かういふ次第だから、書き出した動機としては、久米に負ふところが多い、」と述べているが、そのとおり、芥川は、久米の煽動によって、小説を書きはじめたのであろうか。――いや、これは、眉唾物である。大正八年一月といえば、芥川は、その年〔とし〕の一月号(いわゆる新年号)の雑誌に、嘉の小説を発表し、第二短篇集『傀儡師』を出している。全盛の芥川が、談話を取りに来た記者を、煙にまいたのである。

 芥川が、「新思潮」に、豊島と久米と山本が、作品を発表したあとで、『老年』を、柳川隆之介という名で、出したのは、この小説はまだ本名で出す程のものでない、と思ったのか。それもあろうが、芥川が同人の誰よりも小説を出すのをおくれたのは、芥川の作品が他の人たちの作品と、よしあしは別として、まったく毛色が変〔かわ〕っていたからであり、芸術家としての芥川の素質が、やはり、よしあしは別として、他の人たちの素質と、まったく違っていたからである。それは、芥川が、『羅生門』に未完成の作品として入れなかったが、その時分[註―大正三四年]に書いた、『老年』、『ひよつとこ』、『仙人』の三篇だけを読んでも、わかるのである。

『老年』と『ひよつとこ』と『仙人』は、もとより、題材はちがい、書き方もちがうけれど、三篇とも、二十三四歳の作家の小説として見ると、(いや、三十歳の作家の小説としてみても、)みな、妙にうまくて、ませてはいるが、若若しいところなどまったくない。

『老年』は、芥川自身が書いた年譜によれば、芥川の処女作である。

 私が、かりに、大正三年の二月に創刊した、第三次の「新思潮」を第一号からつづけて読んでいったとすると、豊島の『湖水と彼等』、久米の『牛乳屋の兄弟』、山本の『女親』、と読んできて、この『老年』をよめば、この小説だけが別物のような氣がしたにちがいない。豊島の小説はまえに述べたように、清新な気がするだけでも、ちょっと感心したであろう、が、久米の脚本[註―この時分は戯曲を脚本といった]も、山本の脚本も、舞台に上〔のぼ〕せられるかもしれないが、何〔なん〕の新味もないばかりでなく、久米のは通俗味が気になり、山本のはありふれた自然主義風の作品であったから、新進作家がこんなものを、と思ったであろう。そうして、芥川の『老年』は、ちょいと頸〔くび〕をひねってから、うまく出来ているとは思ったかもしれないが、あまりに古風な事と、俗な言葉をつかうと、陳〔ひ〕ねこびれている事に、辟易したであろう。第二次の「新思潮」の何号かに、たしか、和辻哲郎の、バアナアド・ショウの『ウォレン夫人の職業』[註―連載]の出ている号に、谷崎潤一郎の『象』という脚本が出ていた。これは、なにぶん、今から四十年はど前の事であるから、筋はわすれたけれど、たしか、徳川時代の末頃の話で、行列の先頭に象がいて、その象が半蔵門にはいろうとすると、門が小〔ちい〕さくて、象が半分ぐらいしか門をくぐれない、という所で終っていたように思う。たしか、明治四十三年頃である。私が、その頃、牛込の戸塚の植木屋の二階に下宿をしていた、三上於菟吉をたずねて、文学談をかわしていると、下の方から、「三上君、」と呼ぶ声がして、まもなく、顔も体〔からだ〕も丸丸〔まるまる〕とふとった青年が、梯子段を、あがって来た。その青年も、三上も、毬栗頭〔いがぐりあたま〕で、紺絣の著物をきていた。そのふとった青年は、当時、二十歳の秦〔はた〕 豊吉である。秦と三上は、「文章世界」の投書家として、知り合いになったのである。さて、そこで、三人で文学談に花を咲かしていると、秦が、突然、懐〔ふところ〕から二冊のうすい雑誌をとりだして、ちょっと目次をしらべてから、あるペイジをあけて、それを三上の膝の前におき、その開いたところを指づしながら、「これを読んでみたまい、」と、いった。そこで、三上が、その雑誌をとりあげて、「なんだ、『新思潮』か、……谷崎潤一郎か、……」というと、秦は、ちょいと不機嫌な顔をして、三上の手から雑誌をとりあげ、さきに開いたペイジの方をながめながら、「やりやがったな、畜生、やりやがったな、」と、叫んだ。つまり、その秦のひらいている「新思潮」のペイジに、谷崎潤一郎の『象』が出ているのである。

[やぶちゃん注:「第二次の「新思潮」の何号かに」これは明治四十三(一九一〇)年十月発行の第二次「新思潮」第二号。]

 私が、ここに、このような昔話を述べたのは、潤一郎の『象』は秦がいうほどすぐれた作品ではないけれど、つまり、第三次の「新思潮」に出ている先きに書いた三つの作品のなかに、「やりやがったな、」と叫ぶような作品が一つもない、ということを、いいたかったからである。

 もっとも、『老年』が、久米や山本の作品と特に変っているのは、おそろしく文章に凝っている事である。たとえば、「其前へ毛氈を二枚敷〔し〕いて、床〔ゆか〕をかけるかはりにした。鮮〔あざやか〕な緋の色が、三味線の皮にも、ひく人の手にも、七宝に花菱の紋が抉つてある、華奢な桐の見台にも、あたゝかく反射してゐるのである、」などというところである。しかし、こまかい事を、なるべく凝った美しい言葉で、書く、という事は、決してわるい事ではなく、それが特徴になるという事もあるけれど、(芥川の場合はそれが特徴であるが、)私は、これには、反対である。無技巧というのは、自然主義の作家(たしか、田山花袋)が使いはじめた言葉であるが、遠く二葉亭は別としても、明治の末から大正にかけて新〔あたら〕しい文学の道をあるこうとした文学者は、こういうわざとらしい技巧や美辞麗句をしりぞけ、各自が自分の使う言葉(あるいはそれに近い言葉)で、小説その他の文章を書くことに苦労をし身をやつしてきたのである。ところが、芥川は、その逆で、二十二三歳の年から、いかに、巧緻な、洗練した、文章を書こうか、と、苦心惨憺したのである。誇張していえば、骨身をけずったのである。その点で、そのよしあしは別として、芥川は、随一の人であった。が、その事にあまり煩〔わずら〕い過ぎたので、芥川の小説は、窮屈になり、飾りすぎて、いかなる切羽〔せっぱ〕つまった事を書いても、人にせまるところがなかった。しかし、それが芥川の小説の特徴でもあったのである。それは、例えば、『或日の大石内蔵助』の最後の、「このかすかな梅の匂〔にほひ〕につれて、冴返〔さえかへ〕る心の底へしみ透〔とほ〕つて来〔く〕る寂〔さび〕しさは、この云ひやうのない寂しさは、一体どこから来るのであらう。――内蔵助は、青空に象嵌をしたやうな、堅く冷〔つめた〕い花を仰ぎながら、何時〔いつ〕までもぢつと彳〔たたず〕んでゐた、」などというところである。

 しかし、この最後の「青空に象嵌をしたやうな、堅く冷い花」などというのは、いかにも巧みな凝った文句であるが、これでは、ただ美しい凝った言葉だけが強く目につくだけで、肝腎の情景が、読む人の目に、うかんでこないのである。

[やぶちゃん注:私はこの宇野の言を肯んじない。高校二年の時、初めてこの「或日の大石内藏助」を読んだ際(リンク先は私のテキスト)、その閾域ぎりぎりの部分の人間大石の意識に激しく共感した(私は忠臣蔵の討ち入りまでのだらだらした前振り、芝居小屋大立ち回り好みの討ち入り、書割の切腹シーンへの飴のように延びたドラマが大嫌いである)。そして――私には「もうすれ切つて、植込みの竹のかげからは、早くも黄昏がひろがらうと」いう「日の色」が見えた――そして人間大石になった私には「古庭の苔と石との間に、的皪〔てきれき〕たる花をつけた」「寒梅の老木が」見えた――そして、傍らの「障子の中」からは、浪士たちの「不相變面白さうな話聲が」聴こえてきた――私「はそれを聞いてゐる中に、自〔おのづか〕らな一味の哀情が、徐に」私「をつゝんで來るのを意識した。このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透つて來る寂しさは、この云ひやうのない寂しさは、一體どこから來るのであらう」と感じたものだった――私には仰いだ大石の末期の眼に映る「靑空に象嵌〔ぞうがん〕をしたやうな、堅く冷〔つめた〕い」梅の花が確かに見えた――今も見えるのである。宇野の感じ方は『時勢の推移から來る人間の相違』、『或は個人の有つて生れた性格の相違』(漱石「こゝろ」)だから仕方がない、とでも言っておこう。]

 ところで、芥川の、養父は、一中節、盆栽、俳句、その他に趣味をもち、養母は、大通〔だいつう〕津藤の姪で、いろいろな昔話を知っている、という話である。それで、芥川は、おそらく、その養母から聞いた話を元にして、『老年』を作り出したのであろう。とすれは、やはり、芥川はまったく老成した青年というべきであろう。ところで、この小説の趣向は、もとより、話はまったく違うけれど、森 鷗外の『百物語』から、取ったのではないか、と思う。

[やぶちゃん注:「大通」は遊里や歌舞音曲、風狂・遊芸全般によく通じた粋人のこと。

「津藤」は細木香以(文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)。幕末の江戸京橋の豪商にして通人。新橋山城河岸の酒屋摂津国屋藤次郎竜池の子で、通称二代目摂津国屋藤次郎。俳諧に凝り、九代目市川団十郎・狂言作者河竹黙阿弥・合巻作者柳亭種員といった多くの芸人文人らと親しく、「今紀文」と称されたが、家産を蕩尽し、晩年は千葉寒川に逼塞、四十九歳で没した。芥川龍之介の母方の大叔父に当たる。芥川龍之介「孤独地獄」(大正三(一九一四)年)、大正六(一九一七)年に書かれた森鷗外の史伝「細木香以」(関口安義編「芥川龍之介新辞典」によれば、この時は芥川龍之介が鷗外に彼と縁続きであることを話に行ったらしい)などに描かれている。

「百物語」鷗外と思しい主人公が豪商飾磨屋〔しかまや〕の催した百物語怪談会に出る話。主人公が舟で川を上るシーンや酒肴や場の雰囲気など、確かに通じるものはある。因みに飾磨屋は明治・大正の鹿島清兵衛(慶応二(一八六六)年~大正十三(一九二四)年)がモデル。清兵衛は大阪の造り酒屋鹿島屋次男であったが東京の酒問屋鹿島屋の養子となった。写真家の走りで、写真館を営んだりしたが、後に鹿島家から除籍されて梅若流笛方三木助月となった。本作を読むと鹿島がやはり津藤のように「今紀文」と呼ばれたことが分かる。]

 趣向といえば、『ひよつとこ』の趣向は、(これも、)谷崎潤一郎の『幇間』から、得たものにちがいない。それは、これも、話はすっかり違うけれど、花見時に隅田川を上〔のぼ〕る花見船(伝馬船)の上で道化踊をする話が小説の始まりになっているからである。

[やぶちゃん注:「谷崎潤一郎の『幇間』」明治四十四(一九一一)年に発表された。主人公元相場師桜井が幇間の三平になった経緯、恋した若い芸妓梅吉に持て遊ばれて、全裸にされても皆に馬鹿にされても満足気な彼のマゾヒズムを描く、喜劇的短篇。宇野の言う通り、その冒頭、大川の花見船船上の三平が、大きな風船玉に細長い紙袋をつけたものをすっぽりと被ってろくろ首の真似をして、三味の馬鹿囃しに合わせてくねくねと道化踊りをするシーンは、明らかに「ひよつとこ」にインスパイアされたものであると考えてよい。いや、「幇間」の終わりの方で、梅吉に催眠術にかけられたふりをした三平が「梅ちゃんが死ねと云へば、今でも死にます。」と口走った後に、偶然の死をそこに持ち込めば、これはもう芥川「ひよつとこ」になろう。しかし谷崎ではそうならないし、そうしないのである。芥川は恐らく谷崎の「幇間」の世界に本当の死を持ち込むことで、人間存在の暗部を剔抉し得る、いや、何よりも谷崎とは真逆のベクトルで(寧ろ神のサディズムというべきか)面白くなる、と考えたのではなかろうか。そうして先に宇野も述べたように、芥川はそのデビュー作から主人公を殺し、常にどこかに死が付き纏うことになるのである。実に面白い。]

2012/03/07

Mise do chara go huan

Mise do chara go huan

僕はね ♪ふふふ♪

少年のように――

生きるのだよ――

悪かった、な――

♪ふふふ♪

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(32) 第一部 了

 私はゴルウェー灣のふちに沿うて散步しようと、旅客や旅商人で混み合つてゐる旅館を出て來た。そして島島の方を眺めやる。あの淋しい岩の島へ對して感ずる一種の憧憬は云ふに云はれず強い。野生的な人間の面白さは常に到る處にある此の町も、今の私の氣持には、現代生活の最もあからさまなあらゆる物のけばけばしい交ぜ合はせに見える。金持の無禮も貧民の不潔も、共に不思議な嫌さで私の胸を痛ましめる。併し島島は、既に影が薄れて行きつつある。其處に今でも漂つてゐる海草の香も、大西洋の波の轟も、私には殆んど實感する事は出來なくなつてしまつた。

 島の友達の一人からこんな手紙が來た。

 

 親愛なるヂョン・シング――私は長い間、あなたからの手紙を待つてゐます。あなたは全く此の島を忘れたのでせう。

 ――君は餘程前に大島で死にました。彼のボートは港に繫がれてゐましたが、その死後、風がそれをブラック岬へ吹き流し微塵に碎いてしまひました。

 そちらでも、愛蘭土語をやつておいででせうね。我我は此の頃、此處にゲーリック聯盟の支部を造つて、愛蘭土語と讀書を一心にやつてゐます。

 次の手紙は愛蘭土語で書きませう。貴方は來年はこちらへお出ででせうね。若しお出でならば、その前に手紙を下さい。貴方の愛する友達は皆達者でゐます。――末長く、貴方の友より。

 

 私が少し魚の餌を送つてやつたもう一人の少年からも、初めは愛蘭土語で、終りは英語で、手紙が來た。――

 

 親愛なるヂョン、――四日前、貴方のお手紙を受け攻りました。愛蘭土語でお書きになつてあつたので、私は肩身が廣く、嬉しく思ひました。立派な氣持のよいお手紙でした。送つて下さつた餌は大へん結構でした。併しその中の二つをなくし、また釣糸の半分をなくしました。大きな魚が來て餌にかかりましたが、釣糸が惡く、釣糸の半分と餌を持つて行かれました。姉がアメリカから歸つてゐます。併し彼女は此の頃、島を淋しくみすぼらしく感じ出したので、間もなく又歸つて行くでせう。――御機嫌よく……

 早く御返事を、そして愛蘭土語で下さい。さうでないと、私は讀む氣がしません。

 

 

I have come out of an hotel full of tourists and commercial travelers, to stroll along the edge of Galway bay, and look out in the direction of the islands. The sort of yearning I feel towards those lonely rocks is indescribably acute. This town, that is usually so full of wild human interest, seems in my present mood a tawdry medley of all that is crudest in modern life. The nullity of the rich and the squalor of the poor give me the same pang of wondering disgust; yet the islands are fading already and I can hardly realise that the smell of the seaweed and the drone of the Atlantic are still moving round them.

 

One of my island friends has written to me:--

DEAR JOHN SYNGE,--I am for a long time expecting a letter from you and I think you are forgetting this island altogether.

Mr. - died a long time ago on the big island and his boat was on anchor in the harbour and the wind blew her to Black Head and broke her up after his death.

Tell me are you learning Irish since you went. We have a branch of the Gaelic League here now and the people is going on well with the Irish and reading.

I will write the next letter in Irish to you. Tell me will you come to see us next year and if you will you'll write a letter before you. All your loving friends is well in health.--Mise do chara go huan.

 

Another boy I sent some baits to has written to me also, beginning his letter in Irish and ending it in English:--DEAR JOHN,--I got your letter four days ago, and there was pride and joy on me because it was written in Irish, and a fine, good, pleasant letter it was. The baits you sent are very good, but I lost two of them and half my line. A big fish came and caught the bait, and the line was bad and half of the line and the baits went away. My sister has come back from America, but I'm thinking it won't be long till she goes away again, for it is lonesome and poor she finds the island now.--I am your friend ...

Write soon and let you write in Irish, if you don't I won't look on it.

 

[やぶちゃん注:以上が第一部の最後となる。

「――君は餘程前に大島で死にました。彼のボートは港に繫がれてゐましたが、その死後、風がそれをブラック岬へ吹き流し微塵に碎いてしまひました。」原文を見てみよう。“Mr. - died a long time ago on the big island and his boat was on anchor in the harbour and the wind blew her to Black Head and broke her up after his death.”「――君」のダッシュは個人名を伏せた意識的欠字。「大島」“big island”はイニシュモア(アランモア)島。栩木氏は「大島(アランモア)の××さん」とアランモア島の住人である故人と訳されているが、これは文脈から見てやはり「アランモア島で死」んだ、だと私は思う。面白いのは“her”で、彼はボートをかく三人称代名詞で呼んでいるのである。これは次章冒頭に示されるような人称代名詞の混同と同じであろうが……しかし、何か私には、亡くなった「――君」に殉じた彼女のように読めて、目頭が熱くなるのである……

「ゲーリック聯盟」“the Gaelic League”。現在は「ゲール語連盟」と訳される。ゲール語では“Conradh na Gaeilge”。以下、ウィキの「ゲール語連盟」より。『8世紀末から19世紀にかけてアイルランド語とゲール文化の復興を掲げてアイルランドで活動した団体。1893年7月31日にロスコモン州出身のプロテスタントであるダグラス・ハイドらによってダブリンで設立された』もので、『ゲール語復興運動の中心となり、イースター蜂起などのアイルランド独立運動にも大きな影響を与えた』とある。

「貴方の愛する友達は皆達者でゐます。――末長く、貴方の友より。」原文“All your loving friends is well in health.--Mise do chara go huan.”。ネットで調べると最後のゲール語は、“Mise”が「小生」、“do”は「あなた」、“chara”は「親愛なる」、“go”は「~よ」という感嘆詞か、「その」という指示語か、「~へ」という前置詞か? “huan”も分からない。一部の英語圏のページには英語の“hound”とあり、それだと「熱中者」「~狂」に相当するが、アイルランド語と日本語の自動翻訳機にかけると、“huan”は「ラム」(小羊)と出る(但し、全文をかけると「私の友達子羊へ」となり、これは少々疑問である)。するとこれは神の子羊(イエス)の謂いで、「神の子羊イエス様の御名にかけて――永遠に変わらぬ愛を――あなたへ――友より」という謂いであろうか? 識者の御教授を乞う。栩木氏は『わたしはあなたの変わらぬ友達』と訳され、更にここにゲール語の発音で『ミシャ・ド・ハラ・ゴ・ブアン』(底本では「ミシヤ」であるが拗音化した)とルビを振られておられる。――姉崎先生、ここにはゲール語のルビが、やっぱり、欲しかったです。

「もう一人の少年」“Another boy”という表現から、第一の手紙の主も当時のシング(27歳)より、恐らくは遥かに、年少の青年であったことが分かる。

「魚の餌」原文“baits”。これは後の少年の手紙から、“artificial bait”(擬似餌)であることが分かる。この少年の手紙は事実を一生懸命綴った素直なものである。そして、きっとシングは――少年への返事と一緒に――新しいルアーいくたりかと、そして丈夫なテグスを送ったに違いない。――]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(31)

 私は、二日したら出發しようとしてゐる。パット・ディレイン爺さんは、私に別れを告げた。今朝、彼は村で私と逢ひ、彼が夜を過すみすぼらしい小屋である、「彼の小さなティント(テント)」に私を連れて行つた。

 私は長い間、入口に腰掛けて居り、彼は、その間、私の後の寢床近くの腰掛に凭れてゐた。そして彼から聞く最後であらう話――書く價値もない露骨な實話――をしてくれた。それから若い時、漂浪して、立派な學校に住んで若い坊さんに愛蘭土語を敎へた事を特に力をこめて話した。

 彼は四人分も噓をつけると云ふ島の噂である。恐らく覺えた物語で彼の想像力が強くなつたのだらう。

 彼に別れを告げて、戸口の處に立つと、彼は寢床を形造つてゐる藁にもたれて、涙を流した。それから又こちらの方を振り向き、震へる片方の手を擧げた。その手には、撞木杖のこすれから掌に穴があくほど破れてゐる手袋をはめてゐた。

 「もうあんたには逢へないだらう。」彼は顏に涙を流して云つた。「あんたは親切な人だつた。來年、戾つて來ても、私はもう此の世には居ないだらう。私は此の冬は越せないだらう。だが、今私の云ふことを聞きなさい。それはあんたがダブリンの町で私に保險をかけるのです。さうするとあんたは私の葬式の時、五百ポンド手に入るだらう。」

 此の島の最後の晩なる今夜はまたパターン祭〔愛蘭土に於ける守護の聖人を祭る日で、色色の餘興が催される〕――ブリタニー地方のパードン〔佛國ブルターニュに行はれる教會及び民間の祭で、一般の無禮講が許される〕に似た祭――の宵祭である。

 私は特にそれを見ようと待つてゐたが、來る筈であつた笛吹(ふえふき)も來ず、何の餘興もなかつた。隣島から幾人かの友達や親戚が來て、酒場の邊に晴着を着て立つてゐたが、音樂なしではダンスも出來なかつた。

 いつか笛吹が來た時は、ダンスやお祭り騷ぎで賑やかであるに違ひない。併し、ゴルウェーの笛吹も年を取つて、容易にやつて來るといふわけに行かない。

 昨夜はセント・ヂョーンの祭〔洗禮者ヨハネの誕生を祝ふ祭日、六月二十四日、その前夜は大篝火を焚き男女がその周りを躍る〕の宵祭で、篝火が焚かれ、子供たちは火のついた一片の泥炭を手に持つて步き廻つた。併し大篝火から家の火をつける考へは、今でも島に存在してゐるかどうか見ることは出來なかつた。

 

 

I am leaving in two days, and old Pat Dirane has bidden me goodbye. He met me in the village this morning and took me into 'his little tint,' a miserable hovel where he spends the night.

I sat for a long time on his threshold, while he leaned on a stool behind me, near his bed, and told me the last story I shall have from him--a rude anecdote not worth recording. Then he told me with careful emphasis how he had wandered when he was a young man, and lived in a fine college, teaching Irish to the young priests!

They say on the island that he can tell as many lies as four men: perhaps the stories he has learned have strengthened his imagination. When I stood up in the doorway to give him God's blessing, he leaned over on the straw that forms his bed, and shed tears. Then he turned to me again, lifting up one trembling hand, with the mitten worn to a hole on the palm, from the rubbing of his crutch.

'I'll not see you again,' he said, with tears trickling on his face, 'and you're a kindly man. When you come back next year I won't be in it. I won't live beyond the winter. But listen now to what I'm telling you; let you put insurance on me in the city of Dublin, and it's five hundred pounds you'll get on my burial.'

This evening, my last in the island, is also the evening of the 'Pattern'--a festival something like 'Pardons' of Brittany.

I waited especially to see it, but a piper who was expected did not come, and there was no amusement. A few friends and relations came over from the other island and stood about the public-house in their best clothes, but without music dancing was impossible.

I believe on some occasions when the piper is present there is a fine day of dancing and excitement, but the Galway piper is getting old, and is not easily induced to undertake the voyage.

Last night, St. John's Eve, the fires were lighted and boys ran about with pieces of the burning turf, though I could not find out if the idea of lighting the house fires from the bonfires is still found on the island.

 

[やぶちゃん注:「撞木杖」“crutch”。本邦ではT字型が鉦叩きの撞木の似ていることから、かく言う。

「パターン祭」原文は“'Pattern'”であるが、この綴りではゲール語でも検索出来なかった。この綴りは、アイルランドの守護聖人として有名な聖パトリック“Patrick”と似ている(但し、ゲール語では“Pádraig”)が、聖パトリックの祭日は3月17日で、シングの第一回目のアラン島訪問期間(1898年5月10日から6月25日。栩木氏の「アラン島」の「訳者あとがき」による)とは合わない。この6月25日に最も近いアイルランドの聖人の祭日は、アイルランド三守護聖人にしてアイルランドノ十二使徒の一人である“St Columba”聖コルンバの祭日で、6月9日である。但し、彼の名もゲール語では“St Colm Cille”(コルム・キル)で“Pattern”とは一致しないし、日附に有意なタイム・ラグがあるから違う。識者の御教授を乞うものである。

「昨夜はセント・ヂョーンの祭〔洗禮者ヨハネの誕生を祝ふ祭日、六月二十四日、その前夜は大篝火を焚き男女がその周りを躍る〕の宵祭」はラテン語名“Ioannes Baptista”(英語名“John the Baptist”)で、言わずもがな「サロメ」で知られた、「新約聖書」に登場するヨルダン川でイエスに洗礼を授けたユダヤの大預言者である。現在もヨハネの誕生日とされる6月24日はカトリックなどで彼の聖名祝日となっている。但し、ヨハネのゲール語も“Eoin Baiste”で“Pattern”には全然似ていない。……按ずるに、彼が離島したのが6月25日なら、この謂いでは「昨夜」は、シングの島での最後の夜の24日、文字通り聖ヨハネの祭日の前の晩、23日の夜ということになる。連続で24日のSt. John's day25日の“'Pattern'”があるということになるが、そもそもが類似した異なった起源の祭祀であってもそれが同時期にリンクして習合して、毎日がイヴと祭日の連続となっても別段おかしくはないのである(私がかつて住んでいた富山では季節の節目になると毎日どこかで祭りがあった。驚くべきことに、中学生の頃の秋祭りなどでは祭りに参加するために、学校が公欠扱いとしていた同級生さえいた。古き良き時代の名残りであった)。……しかし、にしても“Pattern”が謎であることには変わりがない……私は……やはり“Patrick”との類似が気になるのである。もしかするとアラン島では複数の聖人たちの祭日を、彼らが最も尊崇する守護聖人のチャンピオン聖パトリックに代表させて、かく呼んでいたのではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。

「ブリタニー地方のパードンに似た祭」“'Pardons' of Brittany”。ウィキの「ルドン祭り」によれば、フランスのブルターニュ地方に典型的な巡礼行事の一つで、『庶民のカトリック信仰に根付く伝統的な行事である』が、その起源は『ケルト人のキリスト教化がキリスト教聖職者によって行われた時代に遡ると』され、アイルランドの『セント・パトリック・デーのパレードと比較される』とあるから、これは同起源の祭りである。フランス語の“pardon”は「許し」であり、告解による神の容赦を意味する。『信者たちは聖人の墓や聖人に献げられた場所に向けて巡礼する。その場所は、ケリアン(フィニステール県のコミューン)のように、奇跡の出現と関係している場合もあるし、聖遺物と関係している場合もある。告解者の旅行は教区ごとの集団、信徒団体、その他の団体で、旗印、十字架、その他巡礼を表すものを掲げ、どの団体も華麗さ・高潔さのため他者と競い合う』。『巡礼行進のように、指定された場所で落ち合うまで巡礼は解散せず、信仰のなせるわざとして旅する努力を提供することで、名高い聖人から取りなしを得ようとする願望を象徴しているのである。これは、地上の人間たちは天上の王国か新たな約束された地へ向かって旅を続ける状況にある、とみなす、キリスト教徒の考えを反映している。この説に従うと、巡礼者たちはミサに出席する前に聖職者に対して罪を告白するよう勧められている。そしてその後に厳粛な夕べの祈りがしばしば続く。彼らは免罪を授かり、集団はキリスト教徒の救済を喜ぶためにコミュニティの祝宴に加わる。これは村祭りか移動遊園地にすら似ている体系をとる』とある。

「篝火が焚かれ、子供たちは火のついた一片の泥炭を手に持つて步き廻つた。併し大篝火から家の火をつける考へは、今でも島に存在してゐるかどうか見ることは出來なかつた。」は、聖ヨハネの祝祭とは違う、バルト神話の太陽神サウレ(リトアニア語“Saulė”・ラトビア語“Saule”)等に基づくものではなかろうか。例えばウィキの「サウレ」によれば『サウレの祭である夏至祭を起源に持つリトアニアのRasos(キリスト教によって聖ヨハネ祭とされた)およびラトビアのLīgo(同じく聖ヨハネ祭)は、花輪を作り、不思議なシダの花(en)を探し、篝火を燃やしてその周りで踊り、火を飛び越え、そうして翌朝の午前4時頃の日の出を迎えるということを要件とする祭り』であり、『それは最も喜びに満ちた伝統的な休日である』とあり、本記載と酷似する。夏至は6月22日頃に当たり、聖ヨハネの祝日の前日に当たる6月23日に近く、信仰行事として習合し易かったものとも思われる。考えるに、これは古形の太陽再生儀礼が元ではなかろうか。篝火はそのシンボルであり、記されなかったパット爺さんの昔話の中などで恐らく、アラン島の古伝承ではそれを各家庭の竈の火種として移し、一年の太陽の恵みと豊穣を祈願して保守したのではなかったか。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(30)

 私が此の宿で見たいくつかの夢は、一定の環境に附隨した心靈上の記憶があると云ふ學説に寄與する所があるやうに思へる。

 昨夜、夢の中で、私は、妙に強い光のあたつてゐる建物の間を步いた後で、何かの弦樂器から來るらしい幽かな靑紫のリズムが遠くから起つて來るのを聞いた。

 それは紛ふかたなく正確な進行を以つて速度を増し、音量を増して段段と近づいて來た。それが直ぐ側に來た時、その昔は私の神經の中や血管の中で動き出し、その調子につれて私を踊らせようとしだした。

 私は若しこれに負けたら、直ぐにも恐ろしい苦悶の瞬間に陷るだらうと思つたので、一生懸命に膝を手で抑へてぢつとこらへてゐた。

 音樂は、竪琴の絃のやうな音を出して、或る忘れられた音階に調子を合せ、ツェロの絃のやうに徹る響を出しながら、絶えず大きくなつて行つた。

 魅惑する力は私の意志ではどうする事も出來ないほど、段段に強くなつて行き、手足は我知らず動き出した。

 忽ち、渦卷く音の中に私は卷き込まれてしまつた。私の呼吸、思考、身體のあらゆる衝動が皆躍りの形となつて、遂に樂器と音律と自分の身鮭或は意識との聞の宙別がわからなくなつた。

 暫くは喜びに溢れる感激のやうであつた。それから、法悅の狀態になり、あらゆる物が連動の渦の中に失はれてしまつた。私は踊り狂ふ外に人生があるとは思へなくなつた。

 するとはつと思ふ間に、法悅は苦悶となり怒りとなつた。自由になりたいと悶えたが、步き出さうとする情熱を増すばかりであつた。聲を立ててみるが、リズムの調子を眞似て云へるばかりであつた。

 逐にどうにも仕方なく悶えた瞬間に氣がついて、目が醒めた。

 震へながら家の窓まで足を引きずつて行き、外を眺めた。月が灣の彼方に輝いてゐて、島の上には何の物音もなかつた。

 

 

Some dreams I have had in this cottage seem to give strength to the opinion that there is a psychic memory attached to certain neighbourhoods.

Last night, after walking in a dream among buildings with strangely intense light on them, I heard a faint rhythm of music beginning far away on some stringed instrument.

It came closer to me, gradually increasing in quickness and volume with an irresistibly definite progression. When it was quite near the sound began to move in my nerves and blood, and to urge me to dance with them.

I knew that if I yielded I would be carried away to some moment of terrible agony, so I struggled to remain quiet, holding my knees together with my hands.

The music increased continually, sounding like the strings of harps, tuned to a forgotten scale, and having a resonance as searching as the strings of the cello.

Then the luring excitement became more powerful than my will, and my limbs moved in spite of me.

In a moment I was swept away in a whirlwind of notes. My breath and my thoughts and every impulse of my body, became a form of the dance, till I could not distinguish between the instruments and the rhythm and my own person or consciousness.

For a while it seemed an excitement that was filled with joy, then it grew into an ecstasy where all existence was lost in a vortex of movement. I could not think there had ever been a life beyond the whirling of the dance.

Then with a shock the ecstasy turned to an agony and rage. I Struggled to free myself, but seemed only to increase the passion of the steps I moved to. When I shrieked I could only echo the notes of the rhythm.

At last with a moment of uncontrollable frenzy I broke back to consciousness and awoke.

I dragged myself trembling to the window of the cottage and looked out. The moon was glittering across the bay, and there was no sound anywhere on the island.

 

[やぶちゃん注:アイリッシュ・ステップ・ダンスの音楽夢。――羨ましいドゥエンデの舞踏――]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(29)

 靜かな日には、マイケルと一緒に、時時釣に出かける。岩の上にカラハが腹を上にして支へられてゐる船卸臺の上の墓地まで行くと、マイケルは乘らうと思ふ一艘の舳先を持ち上げる。私はその下へはひり一番前の席の眞ん中を首の上に載せる。すると彼は船尾に這ひ込んで、最後の席を肩に擔いで立ち上り、我我は海の方へ步き出す。長い舳先が私の目の前に下つてゐるので、足下の小石のある數ヤードの外は何も見えない。震ひつくやうな痛みが、背骨の頂上から私の革草履鞋の中へ入つて踝にギシギシこすりつけられてゐる尖んがつた小石まで傳はつて行く。我我は重荷の下でよろめき唸る。併し遂に足が船卸臺にとどくと跣足の子供のやうな足取で、半ば小走りで驅け下りて行く。

 海から一ヤードの所で止まり、カラハを右へ下ろす。靜かに下ろさなければならない。――緊張して痛む筋肉にはこたへる動作である。――船緣が船卸臺につく時、私は平衡を失つて座席の中に轉がり込む事がよくある。

 昨日乘つたのは、キルロナンへ行つた時に破損したカラハであつた。それで櫂を中へ入れてゐると、新らしくタールを塗つて繕つた處が日光で熱した船卸臺に附着した。我我は淦(あか)取りで――カピーンと云つてスープ皿のやうな木の淺い器で、――水を搔くき出し、いろいろ苦心の末、やつと心配がなくなり來り出した。併し暫くすると、足下に水が噴き出してゐるのを見つけた。

 繕ひの場所が間違つてゐた。今度は麻布がない。マイケルは私のポケット鋏を借りて、驚くほど手際よくフランネルを自分のシャツの裾から四角に切り取り、櫂から切つた木片にしつかり結びつけて、その穴へ押し入れた。

 こんな騷ぎの間に我我は岩の緣まで汐に流されてゐた。すると彼は櫂を水に入れて、波に乘るやうに向きを變へた。さもなければ我我は波に擲げられて沈んでしまつたであらう。彼の此の巧妙さを私は再び賞讚した。

 カラハが傷ついたので、岸から餘り遠くへは行かなかつた。少し經つて、私は長い間代り合つて櫂を漕いだ。扱ひ難い物であるが、少しは巧くなつた。兩方の櫂の柄は端が六インチほど重なり合ふ。――カラハが狹いので、挺の作用を増すために。――それで初めは上の方の櫂を自分の指節にあてる事は殆んど避けられない。櫂は端を除いては、ザラザラして角があるから、無難ではどうしても漕げない。それに、二人の輕い人を乘せたカラハは水に浮いてゐる胡桃の穀のやうで、一漕ぎのうちで少し均衡が破れても、船首は進む方向から少くとも直角だけはそれる。最初の半時間は、私は度度出かけた方向へ進んでゐたので、マイケルは非常に喜んだ。

 今朝も我我は島の北側にある波止場近くに出かけた。鱈を釣りながら、汐に從つて靜かに櫂を浸して行くと、重さうにケルプ灰を船緣まで積んでキルロナンへ行く幾艘かのカラハとすれちがつた。

 一人のお婆さんが赤いペティコートにくるまつて、海に突き出た岩の緣に立つてゐた。其處はカラハが南からよく通る處で、婆さんはキルロナンへ渡してくれと震へるゲール語で大聲で叫んでゐた。積荷を持たずに來た最初の船が、少し離れた處から寄つて來て、彼女を連れて行つた。

 今朝は、雨催ひの日によく島を襲ふ不思議な美しさは少しもなかつた。それで我我は海上の殺風景さと不思議な對照をなしてゐる海底の植物の自然の絢爛たる樣を見下ろしながら、ぼんやりと日光浴を樂しんだ。

 

 

On calm days I often go out fishing with Michael. When we reach the space above the slip where the curaghs are propped, bottom upwards, on the limestone, he lifts the prow of the one we are going to embark in, and I slip underneath and set the centre of the foremost seat upon my neck. Then he crawls under the stern and stands up with the last seat upon his shoulders. We start for the sea. The long prow bends before me so that I see nothing but a few yards of shingle at my feet. A quivering pain runs from the top of my spine to the sharp stones that seem to pass through my pampooties, and grate upon my ankles. We stagger and groan beneath the weight; but at last our feet reach the slip, and we run down with a half-trot like the pace of bare-footed children.

A yard from the sea we stop and lower the curagh to the right. It must be brought down gently--a difficult task for our strained and aching muscles--and sometimes as the gunnel reaches the slip I lose my balance and roll in among the seats.

Yesterday we went out in the curagh that had been damaged on the day of my visit to Kilronan, and as we were putting in the oars the freshly-tarred patch stuck to the slip which was heated with the sunshine. We carried up water in the bailer--the 'supeen,' a shallow wooden vessel like a soup-plate--and with infinite pains we got free and rode away. In a few minutes, however, I found the water spouting up at my feet.

The patch had been misplaced, and this time we had no sacking. Michael borrowed my pocket scissors, and with admirable rapidity cut a square of flannel from the tail of his shirt and squeezed it into the hole, making it fast with a splint which he hacked from one of the oars.

During our excitement the tide had carried us to the brink of the rocks, and I admired again the dexterity with which he got his oars into the water and turned us out as we were mounting on a wave that would have hurled us to destruction.

With the injury to our curagh we did not go far from the shore. After a while I took a long spell at the oars, and gained a certain dexterity, though they are not easy to manage. The handles overlap by about six inches--in order to gain leverage, as the curagh is narrow--and at first it was almost impossible to avoid striking the upper oar against one's knuckles. The oars are rough and square, except at the ends, so one cannot do so with impunity. Again, a curagh with two light people in it floats on the water like a nut-shell, and the slightest inequality in the stroke throws the prow round at least a right angle from its course. In the first half-hour I found myself more than once moving towards the point I had come from, greatly to Michael's satisfaction.

This morning we were out again near the pier on the north side of the island. As we paddled slowly with the tide, trolling for pollock, several curaghs, weighed to the gunnel with kelp, passed us on their way to Kilronan.

An old woman, rolled in red petticoats, was sitting on a ledge of rock that runs into the sea at the point where the curaghs were passing from the south, hailing them in quavering Gaelic, and asking for a passage to Kilronan.

The first one that came round without a cargo turned in from some distance and took her away.

The morning had none of the supernatural beauty that comes over the island so often in rainy weather, so we basked in the vague enjoyment of the sunshine, looking down at the wild luxuriance of the vegetation beneath the sea, which contrasts strangely with the nakedness above it.

 

[やぶちゃん注:ここは原文は次の段落と繋がっているが、次の夢との有意な切れ目であるから切る。

「淦」船板の隙間から染み出て船底に溜まった水のこと。漁夫の忌み詞で、仏前に備える「閼伽(あか)」の転訛したものか。

「六インチ」約25㎝強。

「鱈」原文は“pollock”。コダラの近縁種であるようだが和名はない。条鰭綱タラ目タラ科Pollachius属の魚で、英語版Wiki“pollock”には Pollachius pollachiusPollachius virens の二種を載せる。形状はコダラに似るが、そっくりである。成魚の体長は1m程になり、コダラが白い体に黒い側線が走るのに対して逆に黒い体に白い側線を持つと日本版ウィキの「コダラ」にある。但し、英語版には他種を“pollock”と呼称する記載があり、例えば“Alaska pollock”タラ科スケトウダラ Theragra chalcogrammaをもこう呼ぶとある。]

2012/03/06

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(28)

 昨日――日曜――三人の若者が私を群島中の南の島なる、イニシールまで私を乘せて行つてくれた。
 カラハの船尾の席は塞がつてゐたので、私は船尾に置かれて、頭を船緣と水平にした。瀨戸には非常な潮流が流れてゐたので、島陰から出ると、名狀し難い搖れたり跳び上つたりした。
 或る瞬間、我我は谷底に下つて行くと、綠色の波が頭上に渦卷き、穹形(アーチ)を描く。すると忽ち空中に跳ね上げられて、梯子の上に乘つかつたやうに漕手の頭を見下ろしたり、或ひは重り合ふ白い波頭の向うにイニシマーンの黑い斷崖を眺めたりした。
 男たちは興奮して落付かないやうであつた。一時は沈沒するのではないかと思つたが、少し經つてカラハは波の中で頭を上げ得る性質のあることがわかつた。進行は不思議にも輕快になつた。たとへ波の靑い割目に沈んで行くとしても、此の死は口に心地よい鹽水をくくむのであるから、普通の死に方よりは愉快であらうと私は考へた。
 隣島に着いた時、雨がひどく降つてゐたので古跡も住民も見る事は出來なかつた。
 午後の大半を、我我は酒場の空樽の上に腰掛けて、ゲール語の運命に就いて語つた。我我は旅人として中に入れられた。後には店の鎧戸は鎖されて、僅かに衣色の光が漏れ、嵐の音が聞こえるのみであつた。夕方近くなつて空は少し晴れ、靜かになつた海を歸途についた。併し眞正面の迎ひ風なので漕手は全力を盡した。

Yesterday--a Sunday--three young men rowed me over to Inisheer, the south island of the group.
The stern of the curagh was occupied, so I was put in the bow with my head on a level with the gunnel. A considerable sea was running in the sound, and when we came out from the shelter of this island, the curagh rolled and vaulted in a way not easy to describe.
At one moment, as we went down into the furrow, green waves curled and arched themselves above me; then in an instant I was flung up into the air and could look down on the heads of the rowers, as if we were sitting on a ladder, or out across a forest of white crests to the black cliff of Inishmaan.
The men seemed excited and uneasy, and I thought for a moment that we were likely to be swamped. In a little while, however I realised the capacity of the curagh to raise its head among the waves, and the motion became strangely exhilarating. Even, I thought, if we were dropped into the blue chasm of the waves, this death, with the fresh sea saltness in one's teeth, would be better than most deaths one is likely to meet.
When we reached the other island, it was raining heavily, so that we could not see anything of the antiquities or people.
For the greater part of the afternoon we sat on the tops of empty barrels in the public-house, talking of the destiny of Gaelic. We were admitted as travellers, and the shutters of the shop were closed behind us, letting in only a glimmer of grey light, and the tumult of the storm. Towards evening it cleared a little and we came home in a calmer sea, but with a dead head-wind that gave the rowers all they could do to make the passage.

[やぶちゃん注:「カラハの船尾の席は塞がつてゐたので、私は船尾に置かれて、頭を船緣と水平にした。」お分かりと思うが二番目の「船尾」は「船首」の誤訳(誤植か)。原文は“The stern of the curagh was occupied, so I was put in the bow with my head on a level with the gunnel.”。“stern”が「船尾」、“bow”が「船首」、“gunnel”は“gunwale”とも書き、海事用語でガンネル・舷縁・船べりのこと。
「たとへ波の靑い割目に沈んで行くとしても、此の死は口に心地よい鹽水をくくむのであるから、普通の死に方よりは愉快であらうと私は考へた。」この「くくむ」は「ふくむ」の誤植ではない。「銜む・含む」と書いて、「くくむ」と訓じ、口の中に含むの意である。四段活用の古語であるが、五段化して明治以降も用いられた。いい響きである。――いや、私はこのシングの謂いに――限りないこの不思議なグラン・ブルーの美しさに――心うたれるのだ――“Even, I thought, if we were dropped into the blue chasm of the waves, this death, with the fresh sea saltness in one's teeth, would be better than most deaths one is likely to meet.”(“chasm”は【kǽzm】と発音し、「深い裂け目」の意)――いい台詞だ――]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(27)

 もう一人の爺さんは、島で第一の年寄であつたが、彼の生涯中で此の島に起つた實話――傳説ではなく――を好んで話した。
 彼は私によくコンノートの男のことを話した。その男は一時の怒りで鋤で父を打ち殺したのであるが、此の島に逃げて來て、親戚と云はれた島の或る人の情に縋つた。その男は一つの穴に匿まはれ――爺さんが私に見せたことがある――巡査が探しに來て、頭の上で長靴の石を踏み付ける音を聞いたが、數週間無事に忍んだ。報酬が出されたが、島の人は買收されず、その男は多くの苦心の後、アメリカへ向けて無事に船に乘せられた。
 此のやうに罪人を保護する氣風は西部では一般的である。これは一面に於いては正義と恨むべき英國司法權とを併せ考へることにも困るが、もつと直接的には、決して犯罪はしないが犯罪の可能性は常に持つてゐる此の島の人たちの原始的な感情に因るものである。卽ち人間は海の荒れのやうにどうしやうもなくなる一時の血氣に驅られない限りは惡い事はしないと云ふ感情に因るのである。たとへ父を殺しても、既に後悔して身も心も弱り果ててゐる者を引張つて行き、法律に依つて殺すべき理由はないと考へるのである。
 彼等の説では、かういつた人は殘りの生涯を靜かにさせておくべきであると云ふ。若し見せしめの必要があると云ふ人があれば、彼等は「誰がすき好んで父を殺すものか?」と問ふであらう。
 警察がはひつて來ない數年前までは、此の群島の住民全部は今日まで此處に殘留してゐる人たちのやうに罪を知らなかつた。その當時、北島を支配する地主でありまた長官であつた人が、惡事をした者にはゴルウェーの獄吏に宛てて手紙を持たせ、懲役に服させるために一人で送り出す習慣があつたさうである。
 汽船がなかつたので、犯罪者は便のあり次第の漁船に乘つて、本土に最も近い處へ渡る許可が與へられた。それから何哩も荒れ果てた岸に沿うて步いて行き、遂に町に着く。年期が終へると、彼は弱弱しく瘦せ衰へて、もと來た道を辿つて來る。そして時には何週間も待たなければ再び島を踏む事は出來ない。これが話の大體である。
 そんな法律を、此處の住民や都會の犯罪人階級に適用するのは無理のやうに思はれる。イニシマーンの最も心ある人は法律を輕蔑してゐる事と、またアランモアに警察が出來て犯罪が多くなつた事を屢々私に語つた。その島では人が一寸した不和や毆り合ひをすれば、友達が餘りひどくならないやうに注意する。そして暫くすると忘られてしまふとの事である。キルロナンでは自分自身の手で事件を解決するために、金で傭はれてゐる一團の人たちがある。毆打事件が初まれば直ぐその人たちがやつて來て、毆打した人を檢束する。喧嘩を賣られた方の人は相手に反對な證據を出す。全家族の者が法廷に來て、互ひに反對の誓言をして、仇同士になつてしまふ。宣告が下れば宣告された人は決して服しない。彼はその時を待つて、その年の終らないうちに、反對の召喚が來る。すると今度は、相手の方が決して服さない。爭ひは段段と大きくなつていつて、一年間、強制し合つた後で、遂に髮の毛の色がどうのかうのといつたやうな論爭が殺人沙汰にまでなる。島では信賴すべき證據が得られないと云ふだけの事實で――これは島の人が不正直だといふわけではなく、血族の主張の方が抽象的な眞實より神聖だと考へてゐるために――誓約した證言の全組織も一つの人騷がせの狂言となつてしまふ。そして此の間違つた基礎の上に於ける法律的處置は、あらゆる不正を生ずるに至るべき事は容易に信ぜられる。
 私がそんな問題を老人たちと論じてゐるうちに、カラハは鹽、麥粉、黑ビールの積荷を載せて戾つて來だした。
 今日はニュー・ヨークに五年居た土地の人が歸つて來たと云ふので大騷ぎである。その男は本土へ買物に行つた五六人の人たちと一緖に上陸した。生れ故鄕では珍らしい小ざつばりした服をつけて、船卸臺をあちこち步いてゐた。すると、彼の八十五歳の年取つた母親は、喜びで半ば狂氣のやうになつて、その知らせを皆に告げながら、ぬるぬるした海草の上を走り廻つてゐた。
 カラハが片向けられると、人人は歡迎の挨拶を云ひに、その周りに集つた。彼は萬遍なく握手をしてゐたが、見知り顏を認めた微笑はなかつた。
 彼は死にかけてゐるさうである。

Another old man, the oldest on the island, is fond of telling me anecdotes--not folktales--of things that have happened here in his lifetime.
He often tells me about a Connaught man who killed his father with the blow of a spade when he was in passion, and then fled to this island and threw himself on the mercy of some of the natives with whom he was said to be related. They hid him in a hole--which the old man has shown me--and kept him safe for weeks, though the police came and searched for him, and he could hear their boots grinding on the stones over his head. In spite of a reward which was offered, the island was incorruptible, and after much trouble the man was safely shipped to America.
This impulse to protect the criminal is universal in the west. It seems partly due to the association between justice and the hated English jurisdiction, but more directly to the primitive feeling of these people, who are never criminals yet always capable of crime, that a man will not do wrong unless he is under the influence of a passion which is as irresponsible as a storm on the sea. If a man has killed his father, and is already sick and broken with remorse, they can see no reason why he should be dragged away and killed by the law.
Such a man, they say, will be quiet all the rest of his life, and if you suggest that punishment is needed as an example, they ask, 'Would any one kill his father if he was able to help it?'
Some time ago, before the introduction of police, all the people of the islands were as innocent as the people here remain to this day. I have heard that at that time the ruling proprietor and magistrate of the north island used to give any man who had done wrong a letter to a jailer in Galway, and send him off by himself to serve a term of imprisonment.
As there was no steamer, the ill-doer was given a passage in some chance hooker to the nearest point on the mainland. Then he walked for many miles along a desolate shore till he reached the town. When his time had been put through he crawled back along the same route, feeble and emaciated, and had often to wait many weeks before he could regain the island. Such at least is the story.
It seems absurd to apply the same laws to these people and to the criminal classes of a city. The most intelligent man on Inishmaan has often spoken to me of his contempt of the law, and of the increase of crime the police have brought to Aranmor. On this island, he says, if men have a little difference, or a little fight, their friends take care it does not go too far, and in a little time it is forgotten. In Kilronan there is a band of men paid to make out cases for themselves; the moment a blow is struck they come down and arrest the man who gave it. The other man he quarreled with has to give evidence against him; whole families come down to the court and swear against each other till they become bitter enemies. If there is a conviction the man who is convicted never forgives. He waits his time, and before the year is out there is a cross summons, which the other man in turn never forgives. The feud continues to grow, till a dispute about the colour of a man's hair may end in a murder, after a year's forcing by the law. The mere fact that it is impossible to get reliable evidence in the island--not because the people are dishonest, but because they think the claim of kinship more sacred than the claims of abstract truth--turns the whole system of sworn evidence into a demoralising farce, and it is easy to believe that law dealings on this false basis must lead to every sort of injustice.
While I am discussing these questions with the old men the curaghs begin to come in with cargoes of salt, and flour, and porter.
To-day a stir was made by the return of a native who had spent five years in New York. He came on shore with half a dozen people who had been shopping on the mainland, and walked up and down on the slip in his neat suit, looking strangely foreign to his birthplace, while his old mother of eighty-five ran about on the slippery seaweed, half crazy with delight, telling every one the news.
When the curaghs were in their places the men crowded round him to bid him welcome. He shook hands with them readily enough, but with no smile of recognition.
He is said to be dying.

[やぶちゃん注:ここは底本も原文も次の段落と繋がっているが、最後の一節から、私の心情としてはここで切りたい。栩木氏の訳もここに行空けを行っておられる。
「コンノートの男のこと」以下の話柄がヒントとなって、後にシングの名作にして問題作となる“The Playboy of the Western World”「西部の人気者」(1907年)が生み出された
「北島を支配する地主でありまた長官であつた人」原文“the ruling proprietor and magistrate of the north island”。“ruling proprietor”は「土地統治所有権者」で「地主」と訳したくなるが、先に示したようにアラン島は18世紀中頃からキルデア県のディグビー一族が島の地主となったものの、殆ど島には居住していなかったから、ここは土地所有権者から命ぜられた実質的統治と土地管理人を兼ねた職分を謂うものと思われる。“magistrate”はイギリスで比較的軽い犯罪を扱う裁判官である治安判事。従ってこことは「北島を支配するアラン諸島全体の実質統括権を賦与された土地管理人兼治安判事であった人」という意味である。
「獄吏」“jailer”は看守。ここは、ちっぽけな島の、裁判でもなんでもこなした村長から、刑務所の(所長ではない)一介の牢番宛の一通の判決文を、刑の確定した被告人渡して、お前ひとりで刑務所に行って服役してこいと命じ、被告人はそれに従順に従って苦難の末に刑務所に入り、刑期満了後は同じように苦難を乗り越えて共同体の島アランへと帰還し、再び受け入れられるという古典的運命共同体の素晴らしさが眼目なのである。
「そんな法律を、此處の住民や都會の犯罪人階級に適用するのは無理のやうに思はれる。」これは誤訳と言わざるを得ない。原文は“It seems absurd to apply the same laws to these people and to the criminal classes of a city.”で、ここは「(今、述べたような、これら(アラン島)の人々と、都会の犯罪人階層とに、同じ法律を適用するということは不条理に思われる。」と言っているのである。
「誓約した證言の全組織も一つの人騷がせの狂言となつてしまふ。」原文“turns the whole system of sworn evidence into a demoralising farce”。この「全組織」は注意深く読まないと意味が分からない。ここのポイントは“sworn evidence”「誓約した證言」、則ち、虚偽でない旨の宣誓による証言によって、揺るぎない真理性が支えられているところの“the whole system”「全組織」、全てのシステム、則ち厳粛たるべき裁判の公判が、“demoralising farce”となる、則ち、壊滅的な混乱と麻痺の様相を呈するに至る、という意味である。日本語としては、せめて「誓約した證言によって厳粛たるべき全公判も、あっという間にただの人騷がせな狂言となってしまう。」ぐらいの嚙み砕きが欲しいところである。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(26)

 汽船の來る筈の日には、私は船卸臺へ行くことを滅多に缺かしたことはない。汽船が沖に見えると、人人はいつも集まつて來るからである。そして汽船が南島に立ち寄つて、こちらへ向つて來るまで、彼等はカラハの置いてある中で話をしながら休んでゐる。
 今朝、或る老人と長く話をしたが、その人は此の土地が、此の十年間乃至十五年間に改造の行はれた事を喜んでゐた。
 極く最近まで本土とは漁船に依る他は何等の交通もなかつた。その漁船も普通はのろく、可成り長い天氣の日に通ふのみであつた。それで島の人が市場に行くと、歸るまでには三週間かかる事があつた。併し今では汽船が一週に二囘來て、而かも三四時閒で行けるやうになつた。
 此の島の波止場もまた新しい物の一つで、自慢物である。今でも泥炭や牛を運んで來る漁船が荷を下ろしたり、岸から直接に荷を積んだりする事が出來るからである。併しその附近の海は潮が一杯に充ちた時だけ漁船がやつとはひられる位の撫深さであるから、汽船はどうしても來られない。それゆ來客は今でもカラハに乘つて上陸しなければならない。南島に最も近く、角にある船卸臺は靜かな日には非常に役立つが、南からの大波を避ける物がなく、且つ狹いゆゑに、カラハが立ち騷ぐ波の中に船卸臺を見失ふ危險がある。
 惡い天氣の日には、四人の男がカラハを手に持つたまま、南の方に向つて、はひつて來る波の強さのわかる岩の印しを見つめながら、船卸臺の上の方で殆んど一時間も立つてゐる事がある。
 波の破れが見えた瞬間、彼等は急に寄波の中に飛び下りて、カラハを下し、目にも止まらない速さで海へ漕ぎ出して行く。陸の方へ來るにも同じやうな危險が伴ふ。一寸でも時期が惡かつたら、橫樣に波に洗はれて、岩の中に乘り入れるであらう。
 身體の非常な敏捷さに依つてのみ避けられる此の絶え間なき危險は、地方的特色の上に大き影響を及ぼす。それは、不器用な向う見ずなまた臆病な男をば、波が此の島で生活する事を不可能にせしめるからである。
 汽船が船卸臺から一哩以内に近づくと、カラハが出され、カラハは通常四艘から十二艘であるが――そして岸から或る距離の處に二列に出ぶ。
 汽船がその間にはひつて來ると、船側によい位置を取らうと、短時閒ではあるが、必死の競爭が初まる。男たちは櫂に凭れながらだるさうな聲で話をしてゐる。それが波の搖れと共に聞こえて來る。汽船が橫付けになると、瞬間に彼等の顏は血氣にゆがみ、櫂は張り切つて曲り震へる。暫くは自分の安全も、友達や兄弟の安全も全然構はないやうである。やがて順位が決定され、彼等はいつものだるさうな調子で再び話を初め、カラハを繫いで汽船に攀ぢ上つて行く。
 カラハが出てゐる間、私は數人の女たちと漕ぐ事の出來ない非常に年取つた人たちと共に殘されてゐる。その中の一人の爺さんとはよく話すことがあるが、骨繼(ほねつぎ)として名高く、此の島でもまた本土でも目ざましい療治をやつたといふ評判がある。話は彼が上流社會の人に招ばれて、その息子や娘を療治するためにコニマラの山の中を馬車に乘せられて行き、歸りには金を澤山懷にして來たことであつた。

When the steamer is expected I rarely fail to visit the boat-slip, as the men usually collect when she is in the offing, and lie arguing among their curaghs till she has made her visit to the south island, and is seen coming towards us.
This morning I had a long talk with an old man who was rejoicing over the improvement he had seen here during the last ten or fifteen years.
Till recently there was no communication with the mainland except by hookers, which were usually slow, and could only make the voyage in tolerably fine weather, so that if an islander went to a fair it was often three weeks before he could return. Now, however, the steamer comes here twice in the week, and the voyage is made in three or four hours.
The pier on this island is also a novelty, and is much thought of, as it enables the hookers that still carry turf and cattle to discharge and take their cargoes directly from the shore. The water round it, however, is only deep enough for a hooker when the tide is nearly full, and will never float the steamer, so passengers must still come to land in curaghs. The boat-slip at the corner next the south island is extremely useful in calm weather, but it is exposed to a heavy roll from the south, and is so narrow that the curaghs run some danger of missing it in the tumult of the surf.
In bad weather four men will often stand for nearly an hour at the top of the slip with a curagh in their hands, watching a point of rock towards the south where they can see the strength of the waves that are coming in.
The instant a break is seen they swoop down to the surf, launch their curagh, and pull out to sea with incredible speed. Coming to land Is attended with the same difficulty, and, if their moment is badly chosen, they are likely to be washed sideways and swamped among the rocks.
This continual danger, which can only be escaped by extraordinary personal dexterity, has had considerable influence on the local character, as the waves have made it impossible for clumsy, foolhardy, or timid men to live on these islands.
When the steamer is within a mile of the slip, the curaghs are put out and range themselves--there are usually from four to a dozen--in two lines at some distance from the shore.
The moment she comes in among them there is a short but desperate struggle for good places at her side. The men are lolling on their oars talking with the dreamy tone which comes with the rocking of the waves. The steamer lies to, and in an instant their faces become distorted with passion, while the oars bend and quiver with the strain. For one minute they seem utterly indifferent to their own safety and that of their friends and brothers. Then the sequence is decided, and they begin to talk again with the dreamy tone that is habitual to them, while they make fast and clamber up into the steamer.
While the curaghs are out I am left with a few women and very old men who cannot row. One of these old men, whom I often talk with, has some fame as a bone-setter, and is said to have done remarkable cures, both here and on the mainland. Stories are told of how he has been taken off by the quality in their carriages through the hills of Connemara, to treat their sons and daughters, and come home with his pockets full of money.

[やぶちゃん注:ここは底本では次の段落と繋がっているが、原文では行空けが行われているので、ここで切った。
「それは、不器用な向う見ずなまた臆病な男をば、波が此の島で生活する事を不可能にせしめるからである。」私はこの訳が好きだ。アランの人々の生死を支配している主体は、正に、この“the waves”「波」だからである。]

2012/03/05

ミーと僕

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父からの推薦書 辻井喬×宮崎学 世界を語る言葉を求めて

父からの推薦書、辻井喬×宮崎学の対談「世界を語る言葉を求めて」(毎日新聞社2011年10月刊)を昨日から読み始め、今日、読み終わる。読み終わるのが惜しくて、何度もわざと繰り返し精読した。こんなに隅々に至るまで共感した時事本は――多分、生涯でも最初で最後だろう――

僕は――「がんばろう、ニッポン」――「一緒になれば強くなる」――といったこの一年間の――「欲しがりません、勝つまでは」――「一億玉砕、神州不滅」を連想させる権力やメディアのスローガンに――反吐を吐く思いでいた――そんな僕にはこの本は「凄い」ぞ!

キツメ目の御仁とセゾングループ代表の二足草鞋の詩人としてしか認識していなかったこの二人の真摯な言葉に――正しく「目から鱗」――超お薦めである――

父さん、ありがとう!

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(25)

 

 パット爺さんは、彼が不死鳥と呼んでゐる、金の卵を生んだ鵞鳥の話をした。
 或る貧しい後家さんが三人の息子と一人の娘を持つてゐた。或る日、息子たちは森に薪木を拾ひに行つて、美しい縞のある鳥が木の間を飛んでゐるのを見た。その次の日もまた見た。一番上の兄は自分が鳥を追ふから、お前たちだけで薪木を採りに行けと弟たちに告げた。
 彼は鳥の後を追つて行き、晩に家に歸つて來た時、それを手に持つてゐた。皆んなはそれを古い鷄籠(とりかご)に入れたり、自分たちの食べる碾割粉(ひきわりこ)を與へたりした。――鳥がそれを食べたかどうかは知らないが、兎に角、自分たちの食べる物を分けた。それより外に仕方がなかつた。
 その晩、それは籠の中で一つの美しい斑點のある卵を生んだ。次の晩もまた生んだ。
 當時、そのことが新聞に出て、生んだ卵が金色をしてゐたので、金の卵を生んだ鳥と書かれて評判だつた。それは嘘ぢやない。
 翌日、子供たちが碾割(ひきわり)の石を買ひに行くと、店の主人は鳥を賣つてもらへまいかと云つた。それはかういふ魂膽であつた。店の主人はその子供たちの姉――着物一枚もない可哀さうなお人よしの娘――と結婚し、鳥を一緒に貰ひたかつたのである。
 それから後、子供たちの一人はその鳥の卵を田舍にゐた或る紳士へ賣つた。紳士は鳥はまだ持つてゐるかと尋ねるので、姉を妻に貰つてくれた人にやつた所だと答へた。
 「さうか」と紳士は云つた。「その鳥の心臟を食ふと、每朝自分の下から金の財布が見つかり、肝臟を食ふと、愛蘭土の王になるだらう。」
 子供は出かけた。――彼は可哀さに人のよい子供であつた。そして店の夫に話した。
 店の主人は鳥を持つて來て、それを殺し、自分は、心臟を食べ、肝臟は妻に與へた。
 子供はそれを見ると、大いに怒つて、紳士にその事を云ひつけた。
 「私の云ふ通りにしなさい。」紳士は云つた。「今夜、私は淋しいから、トランプをしに來ないかと、店の主人とその妻に云ひに行きなさい。」
 子供が出て行くと、彼は嘔吐劑を調合してウィスキーの幾ナギンかの中へうんと交ぜ、カードを置くテーブルに丈夫な布をかけた。
 店の主人は妻とやつて來て、トランプを初めた。
 店の主人は最初の勝負に勝ち、紳士からウィスキーの一啜を飲せられた。
 再びやつたが二囘日も主人が勝つた。それで紳士は彼にまたウィスキーを飮ませた。
 三囘目をやつてゐる時、主人夫妻は布の上に吐いた。そこで子供は、紳士に敎へられてゐた通り、それを拾ひ上げて、庭に持ち出したら果して鳥の心臟があつたので、それを食べた。翌朝、寢床の中で寢返りすると、身體の下から金の財布が出て來た。
 それでおしまひ。

Old Pat has told me a story of the goose that lays the golden eggs, which he calls the Phoenix:--
A poor widow had three sons and a daughter. One day when her sons were out looking for sticks in the wood they saw a fine speckled bird flying in the trees. The next day they saw it again, and the eldest son told his brothers to go and get sticks by themselves, for he was going after the bird.
He went after it, and brought it in with him when he came home in the evening. They put it in an old hencoop, and they gave it some of the meal they had for themselves;--I don't know if it ate the meal, but they divided what they had themselves; they could do no more.
That night it laid a fine spotted egg in the basket. The next night it laid another.
At that time its name was on the papers and many heard of the bird that laid the golden eggs, for the eggs were of gold, and there's no lie in it.
When the boys went down to the shop the next day to buy a stone of meal, the shopman asked if he could buy the bird of them. Well, it was arranged in this way. The shopman would marry the boys' sister--a poor simple girl without a stitch of good clothes--and get the bird with her.
Some time after that one of the boys sold an egg of the bird to a gentleman that was in the country. The gentleman asked him if he had the bird still. He said that the man who had married his sister was after getting it.
'Well,' said the gentleman, 'the man who eats the heart of that bird will find a purse of gold beneath him every morning, and the man who eats its liver will be king of Ireland.'
The boy went out--he was a simple poor fellow--and told the shopman.
Then the shopman brought in the bird and killed it, and he ate the heart himself and he gave the liver to his wife.
When the boy saw that, there was great anger on him, and he went back and told the gentleman.
'Do what I'm telling you,' said the gentleman. 'Go down now and tell the shopman and his wife to come up here to play a game of cards with me, for it's lonesome I am this evening.'
When the boy was gone he mixed a vomit and poured the lot of it into a few naggins of whiskey, and he put a strong cloth on the table under the cards.
The man came up with his wife and they began to play.
The shopman won the first game and the gentleman made them drink a sup of the whiskey.
They played again and the shopman won the second game. Then the gentleman made him drink a sup more of the whiskey.
As they were playing the third game the shopman and his wife got sick on the cloth, and the boy picked it up and carried it into the yard, for the gentleman had let him know what he was to do. Then he found the heart of the bird and he ate it, and the next morning when he turned in his bed there was a purse of gold under him.
That is my story.

 

[やぶちゃん注:「美しい縞」原文は“a fine speckled bird”。鮮やかで美しい色の小さな斑(ふ)が体中に散っている鳥。直前でイソップの寓話で知られる“the goose that lays the golden eggs”が出てくるものの、パット爺さんのそれはガチョウではない野鳥と思われ、それが“goose”ならば、広義のカモ目カモ亜目カモ科Anatidae の雁(鴨)の一種を想起すべきであろう。
「鷄籠」は原文“an old hencoop”で、これはわざわざ古いと言っている以上、日本の農家にあったような伏せ籠をイメージすべきであろう。
「碾割粉」原文“the meal”。ミール自体は広義に食事、狭義にはトウモロコシ・麦・豆等の穀類を挽き割って粗い粉にした食用加工品を言うが、ここは欧米で一般的な、イネ目イネ科カラスムギ属エンバク(燕麦) Avena sativa を脱穀して粗く製粉した “oatmeal”(オートミール)と考えてよいであろう。
「翌日、子供たちが碾割の石を買ひに行くと、」これは明らかな誤訳である。原文は“When the boys went down to the shop the next day to buy a stone of meal,”で、“a stone of meal”はオートミール1ストーン(1ストーン=14ポンド≒6.35キログラム)のこと。「翌日、兄弟たちが売店にオートミールを1ストーン買いに行くと、」である。オートミールの量が多いようにも見えるが、肉体労働者の三兄弟の若者に一人娘と未亡人に(食ったかどうか分からないとは言うものの)金の卵を産むカモのフェニックスの主食の食い分としては、そして金の卵を手に入れた彼らとしては、決しておかしくはあるまい。
「それはかういふ魂膽であつた。」原文は“Well, it was arranged in this way.”で、「で、まあ、その魂胆は簡潔に纏めるなら次のような次第で。」の意か。栩木氏は『で、話をはしょれば、こんなふうに話がまとまったわけです。』と訳しておられる。ここはこの後の原文が願望形になっているために姉崎氏・栩木氏の両訳とも苦心しておられる。要は次の段落では時間が経って、この通りに店屋の主が、策略通り、この娘とフェニックスをまんまと手に入れていることを聴く者に、わざと「知らせない」(推測させる余地と同時に吃驚させようとする効果を持った)ような時制構造となっているように思われる。
「その鳥の心臟を食ふと、每朝自分の下から金の財布が見つかり、」原文は“the man who eats the heart of that bird will find a purse of gold beneath him every morning,”。“beneath him”だから、「毎朝、彼が起きるたびに彼の体の下に」ということである。一見生硬に見えるが私はそうは採らない。姉崎氏の訳は逆に『「下に」ってどういうこと?』という、本話の最後のシーンの映像をわざと隠すように逐語訳されているのであって、そもそも、この後半の途方もない“the man who eats its liver will be king of Ireland”に至っては、『どうやって?』という民話の常套的なワクワク感が醸成されているのであってみれば(それは語られないのであるが)、私は楽しい面白い訳であると思うのである。
「嘔吐劑」“a vomit”。催吐薬(さいとやく)のこと。“emetics”“vomiting agent”とも言う。異物や毒物を嚥下した場合に嘔吐を誘発させて胃の内容物を吐瀉させることを目的とした薬物。エメチンを主成分としたアカネ科ボチョウジ属トコン(吐根)Carapichea ipecacuanhaを用いたトコン・シロップなどがある。
「ウィスキーの幾ナギンか」原文は“a few naggins of whiskey”。この“naggins”は“noggin”の訛か。発音は正に【nάgɪn】で、原義は小さなコップのことで、そこから少量の酒、一般には“1/4pint”で142ml。これは小さめのワイン・グラスに普通に注いだ量である。
「主人夫妻は布の上に吐いた」とあるが、妻は訳文でも原文でも薬を混入したウィスキーを飲んではいない。しかし吐いているからであろう、栩木氏は一回目の勝利のところで『紳士は夫婦にウィスキーを一杯勧めました。』と訳しておられる。しかし、すると妻はどうして肝臓を吐かなかったのか、という素朴な疑問が生じる。吐いたのか? ではアイルランドの王になれるそれは誰のものになったのか? 無粋と言えば無粋なのかも知れぬ。しかし私は気になってしょうがないのである。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(24)

 最近二囘に亙つて、取り立てが行はれようとしたが、二囘とも急に嵐が起つて失敗に終つた。これは船が近づくと、上陸させないやうに土地の妖精たちの力に依つて起つたと云はれてゐる。
 流石に今朝は、六月の澄んだ空の下に夜は明けた。外へ出て來た時には、海鳥も素晴しく光り輝いてゐた。晴着を着た人たちの羣は、怒つたり怖れたりしつつしやべりながら立つてゐるが、海の靜けさを破るであらう目ざましい見物を思つて、何處かに祕かな嬉しさを現してゐる。
 九時半頃、灣の中央に見える狹い水平線の上に、汽船が見えて來た。すると、大部分負債になつてゐる家家の牛や羊を隱さうとする最後の努力が試みられた。
 今年まで、此の島で誰も執達吏を務めるのを承知しなかつたから、滯納者の牛を確める事は出來かつた。然るに、近頃、パトリックと云ふ男が自分の名譽を賣つてしまつたので、隱さうとしても事實上無駄なことになつた。
 此の島の古い節義の失はれて行く事は非常な憤りを起させ、昨日朝早く、私が砦の丘(ダン)でうつらうつらしてゐる間に、こんな提示が教會の門柱に釘打ちされた。――[やぶちゃん注:「砦の丘」に「ダン」のルビ。]
 「極惡人、パトリック、ピストルを覺悟してをれ。たとへ、一發が外れても、續いて五發が汝を打つべし。また汝と口をきく者、共に働く者、汝の店で黑ビールの少量を飮む者は、何人と雖も同刑に處せらるべし。」
 汽船が近づいて來ると、私は此の到着を見物しようとする人人と共に、下りて行つた。併し誰も岸から約一哩より先の方へは、行かうとしなかつた。
 戸別調査を援助すべき一人の男と醫者と貧民救助吏の乘つてゐるキルロナンから來た二艘のカラハは、大部隊を賴まなければ上陸を欲せず、汐に漂つてゐた。錨が投げられ、ボートが下ろされ、それにドヤドヤと乘り込む警察官の綫條銃やヘルメット帽が陽に閃くのを見ると、私に不思議な心痛の動悸を感ぜしめた。
 上陸すると、男たちは密集せる行進隊形に列べられ、命令が發せられた。彼等の長靴の重さうなリズムは岩を越えてやつて來る。揉み合ひながら、道路の兩側に二列に竝んでゐると、少し經つて堂堂と武裝した一隊が間近を通り過ぎる。その後に賤民たちが隨いて行く。此の人たちは郡執行官のため、追手の役を務めるために送られたのである。
 原始的な人たちの中で數週間暮した後、かういつた人間の新しい型を見ることは賴もしいものではなかつた。併し此の機械的な警官たちは、平凡な役人や郡執行官やその傭つた賤民たちと共に、よく文明を代表してゐた。その文明のために此の島の家庭の神聖は穢されるのではあるが。
 止れの號令が村の最初の家でかけられて、此の日の仕事が初まつた。併し此處でもまた次の家でも、最後の瞬間に親類の人が來て處刑猶豫に必要な金を貸したので、妥協が成立した。
 次の場合には女の子が病氣で、醫者が仲にたち、家人はただ形式的の取り立ての後、家にゐる事を許された。然るに、正午頃來た或る家では、如何なる情けもかけられず、また金も處辨されなかつた。郡執行官の合圖で、寢臺や家具を持出す作業が、大勢の土地の人が全く物一つ云はずに見てゐる中で初まつた。沈默はただ家の内儀さんの亂暴な呪ひの言葉で破られるのみであつた。
 彼女は島で最も舊い家の人であつた。彼女は、その云ふことはわからないが、三十年間住み慣れた爐邊から追ひ立てようとする此の奇妙な武裝した人たちを見ながら、耐へられぬ怒りに震へてゐた。此の人たちにとつて爐邊を荒されることは此の上もない悲慘事であつた。彼等は一年中、每週のやうにすさまじい雨と霧のやつて來る此の無趣味な世界に住み、子供たちや女たちの一ぱい集る此の暖い爐邊は、文明國では想像も出來ないほどに各の家族の人の心に深くしみ込んでゐた。
 支那に於いて墓を荒されることは、支那人にとつては大いなる苦痛であらうが、それにも劣らずイニシマーンに於いても、爐邊を荒されることは住民にとつて大いなる苦痛であらう。
 いくつかつまらない物が外に出され、戸口が石で鎖されてしまふと、老婆は敷居に腰掛けて、肩掛で顏を包んでしまつた。
 近くに住んでゐた他の五六人の女は、同情して何も云はずに、彼女の周りを固く取り卷いた。それから群集は警官たちと共に他の家に移り、其處でも同じやうな場面が展開され、後には小屋の傍に腰掛けてゐる見捨てられた女たちの群を殘した。
 空にはいまだに雲もなく、暑さが激しい。警官たちは活動してゐない時は、肌着のボタンを外し、塀際で汗を流しつつ又喘ぎつつ休んでゐた。彼等は感じのよいものではない。私は始終その人たちと、鷗のやうに涼しい顏をして、あちこち步き廻つてゐる島の人たちとを見較べてゐた。
 最初の取り立てが濟むと、隊が二つに別れた。一半は朝の間に匿された年を探しに、奧の方へ執達吏と共に行き、他の半分は既に取つてある豚を見守るために村の往來に殘つた。
 それから少し經つて、これ等の豚の二匹が追手から逃れて、狹い道を登つたり下つたり激しい競走を初めた。人人は喚き叫ぶので、豚は益々怖がるばかりであつた。或る者が餘り熱狂したので、遂に警官は干涉するのは此の時と考へた。彼等はそれを追ひ込まうと行詰まりの道の口に向つて二重の列を敷いた。暫く經つと再び西の方で喚聲が擧がり、二匹の豚が道の眞ん中を追手を尻目に一目散に走つて來るのが見え出した。
 警戒線に達した。一寸もみ合つたが、三人の警官を砂塵の中に殘して、尚も東の方へ向つて遮二無二の突貫を續けた。
 人人の喜びは大した物であつた。喜んで大聲を擧げたり、抱き合つたり、此の動物を島代代の語り草に特筆せんとするもののやうであつた。
 二時間の後、他の隊は瘦せた二匹の牝牛を追ひながら戾つ來た。そして船卸臺の方へ向つて出かけ初めた。酒場で警官に酒が出され、その閒、後から隨いて來た一杯の群集は道傍で待つてゐた。偶然直ぐ苧の野に島の牡牛がゐたが、牝牛の姿を見、また妙な服裝をした人たちを見ると、非常に興奮した。すると直ぐに二人の島の若者が石垣の下に休んでゐる私の傍ににじり寄つて來て、その中の一人が、
 「奴等の中へ牡牛を放つたら罰金を取られるだらうか」と私の耳下で囁いた。
 女たちや子供の面前であつたので、私は「取られるだらう」とだけ答へた。すると二人遠げるやうに行つてしまつた。
 船卸臺で多くの談判が行はれてゐたが、皆結局、牛は飼主に戾される事になつた。牛は一文にもならないから、持つて行つても明かに無駄であつた。
 警官たちがすつかり船に乘つてしまふと、群集の中から一人の婆さんが進み出て、船卸臺近くの岩に上りその執達吏を指し、非常な怒りに瘦腕を振り上げながら口から出るままに、毒舌を吐き初めた。
 「あれは私の息子だ。」彼女は云つた。「私があれのことは一番よく知つてゐる。世界中で一番の惡者だ。」
 それから形容のできないほどに復讐心に顏色を變へてその男のことを語り出した。彼女は語り進むにつれて興奮が強くなつて行くので、その男は家へ戾らないうちに石を投げられるだらうと思つた程であつた。
 此の島では女はただ子供たちのためにばかり生きてゐるのであるが、此の老婆をして斷然と立つて息子を呪はしめたその感情の激しさは殆んど量り知る事が出來ない。
 彼女の怒りを含んだ言葉の中に、私は、此の島の人たちの妙に控へ目な氣質のくせに、ただ何かのはずみで、その熱し易い精神が起り立つと、素晴らしい言葉となり身振りとなつて現れる事がわかつたやうである。

Two recent attempts to carry out evictions on the island came to nothing, for each time a sudden storm rose, by, it is said, the power of a native witch, when the steamer was approaching, and made it impossible to land.
This morning, however, broke beneath a clear sky of June, and when I came into the open air the sea and rocks were shining with wonderful brilliancy. Groups of men, dressed in their holiday clothes, were standing about, talking with anger and fear, yet showing a lurking satisfaction at the thought of the dramatic pageant that was to break the silence of the seas.
About half-past nine the steamer came in sight, on the narrow line of sea-horizon that is seen in the centre of the bay, and immediately a last effort was made to hide the cows and sheep of the families that were most in debt.
Till this year no one on the island would consent to act as bailiff, so that it was impossible to identify the cattle of the defaulters. Now however, a man of the name of Patrick has sold his honour, and the effort of concealment is practically futile.
This falling away from the ancient loyalty of the island has caused intense indignation, and early yesterday morning, while I was dreaming on the Dun, this letter was nailed on the doorpost of the chapel:--
'Patrick, the devil, a revolver is waiting for you. If you are missed with the first shot, there will be five more that will hit you.
'Any man that will talk with you, or work with you, or drink a pint of porter in your shop, will be done with the same way as yourself.'
As the steamer drew near I moved down with the men to watch the arrival, though no one went further than about a mile from the shore.
Two curaghs from Kilronan with a man who was to give help in identifying the cottages, the doctor, and the relieving officer, were drifting with the tide, unwilling to come to land without the support of the larger party. When the anchor had been thrown it gave me a strange throb of pain to see the boats being lowered, and the sunshine gleaming on the rifles and helmets of the constabulary who crowded into them.
Once on shore the men were formed in close marching order, a word was given, and the heavy rhythm of their boots came up over the rocks. We were collected in two straggling bands on either side of the roadway, and a few moments later the body of magnificent armed men passed close to us, followed by a low rabble, who had been brought to act as drivers for the sheriff.
After my weeks spent among primitive men this glimpse of the newer types of humanity was not reassuring. Yet these mechanical police, with the commonplace agents and sheriffs, and the rabble they had hired, represented aptly enough the civilisation for which the homes of the island were to be desecrated.
A stop was made at one of the first cottages in the village, and the day's work began. Here, however, and at the next cottage, a compromise was made, as some relatives came up at the last moment and lent the money that was needed to gain a respite.
In another case a girl was ill in the house, so the doctor interposed, and the people were allowed to remain after a merely formal eviction. About midday, however, a house was reached where there was no pretext for mercy, and no money could be procured. At a sign from the sheriff the work of carrying out the beds and utensils was begun in the middle of a crowd of natives who looked on in absolute silence, broken only by the wild imprecations of the woman of the house. She belonged to one of the most primitive families on the island, and she shook with uncontrollable fury as she saw the strange armed men who spoke a language she could not understand driving her from the hearth she had brooded on for thirty years. For these people the outrage to the hearth is the supreme catastrophe. They live here in a world of grey, where there are wild rains and mists every week in the year, and their warm chimney corners, filled with children and young girls, grow into the consciousness of each family in a way it is not easy to understand in more civilised places.
The outrage to a tomb in China probably gives no greater shock to the Chinese than the outrage to a hearth in Inishmaan gives to the people.
When the few trifles had been carried out, and the door blocked with stones, the old woman sat down by the threshold and covered her head with her shawl.
Five or six other women who lived close by sat down in a circle round her, with mute sympathy. Then the crowd moved on with the police to another cottage where the same scene was to take place, and left the group of desolate women sitting by the hovel.
There were still no clouds in the sky and the heat was intense. The police when not in motion lay sweating and gasping under the walls with their tunics unbuttoned. They were not attractive, and I kept comparing them with the islandmen, who walked up and down as cool and fresh-looking as the sea-gulls.
When the last eviction had been carried out a division was made: half the party went off with the bailiff to search the inner plain of the island for the cattle that had been hidden in the morning, the other half remained on the village road to guard some pigs that had already been taken possession of.
After a while two of these pigs escaped from the drivers and began a wild race up and down the narrow road. The people shrieked and howled to increase their terror, and at last some of them became so excited that the police thought it time to interfere. They drew up in double line opposite the mouth of a blind laneway where the animals had been shut up. A moment later the shrieking began again in the west and the two pigs came in sight, rushing down the middle of the road with the drivers behind them.
They reached the line of the police. There was a slight scuffle, and then the pigs continued their mad rush to the east, leaving three policemen lying in the dust.
The satisfaction of the people was immense. They shrieked and hugged each other with delight, and it is likely that they will hand down these animals for generations in the tradition of the island.
Two hours later the other party returned, driving three lean cows before them, and a start was made for the slip. At the public-house the policemen were given a drink while the dense crowd that was following waited in the lane. The island bull happened to be in a field close by, and he became wildly excited at the sight of the cows and of the strangely-dressed men. Two young islanders sidled up to me in a moment or two as I was resting on a wall, and one of them whispered in my ear--'Do you think they could take fines of us if we let out the bull on them?'
In face of the crowd of women and children, I could only say it was probable, and they slunk off.
At the slip there was a good deal of bargaining, which ended in all the cattle being given back to their owners. It was plainly of no use to take them away, as they were worth nothing.
When the last policeman had embarked, an old woman came forward from the crowd and, mounting on a rock near the slip, began a fierce rhapsody in Gaelic, pointing at the bailiff and waving her withered arms with extraordinary rage.
'This man is my own son,' she said; 'it is I that ought to know him. He is the first ruffian in the whole big world.'
Then she gave an account of his life, coloured with a vindictive fury I cannot reproduce. As she went on the excitement became so intense I thought the man would be stoned before he could get back to his cottage.
On these islands the women live only for their children, and it is hard to estimate the power of the impulse that made this old woman stand out and curse her son.
In the fury of her speech I seem to look again into the strangely reticent temperament of the islanders, and to feel the passionate spirit that expresses itself, at odd moments only, with magnificent words and gestures.

[やぶちゃん注:「取り立てが行はれようとした」“to carry out evictions”の“eviction”とは以下の描写によって、行政による地代の支払いを行わない島民への違約罰金を含む徴収(そこには後掲されるような既に抵当物件となっている豚や牛などの家畜類の現物をも含む)としての「取り立て」や、それを支払えない場合の居住地からの「追い立て」を意味し、所謂、現在の日本の警察部隊を伴った行政代執行に相当するものである。
「執達吏」“bailiff”。執行官補佐人。恐らくは地主から形式上の島全体の土地管理監督者として命ぜられた現地の者で、このような行政代執行の際には準公務員格で令状の送達や差し押さえ・追い立ての執行、それに伴う地主側の裁判関係業務等を補佐する者である。この単語、古フランス語が元で、“bail”(監禁)+“-ive”(~する人)と語源も厭らしい。
「極惡人」現文は“devil”。張り紙されているのが教会であるから、ここは「悪魔」と訳したいところ。更に言えば、この男の名は“Patrick”で、これはキリスト教徒でなくても我々日本人でさえ名前ぐらいは知っている、「アイルランドの使徒」と呼ばれたアイルランドでのキリスト教布教に功あった司教にして聖人“Saint Patrick”聖パトリック(“Patricius” パトリキウス 387年?~461年)に基づくから、強烈な皮肉としても機能していると考えてよいであろう。
「ピストル」“a revolver”。リボルバー。知られた回転式拳銃のことで、シリンダーへの装弾数で五発と六発のものに大別される。ここは勿論、後者。
「黑ビール」“porter”。ポーター。ポーター・ビール。焦がした麦芽を使った、“stout”(スタウト)よりも弱い黒ビールのこと。原義は荷役人夫(ポーター)らが愛飲したことに由来する。
「綫條銃」“the rifles”。「せんじょうじゅう」と読む。小銃(銃剣を装着して白兵戦が可能な銃)。ライフル。この名称は銃身内に螺旋状の浅い溝である“rifling”(ライフリング)を有する銃という意である。この旋条銃身から撃ち出されると、弾丸はこのライフリングに浅く食い込みながら発射され、それによって得られる回転運動によるジャイロ効果で弾軸が安定し、ライフリングのない滑腔銃身よりも遥かに高い直進性と低伸性(弾道の直線性と着弾時間の短かさ)が与えられ、命中精度が高まる。ライフリングは日本語では「施条」「綫条」「腔線」「腔綫」等と言う。「綫」は筋の意。
「郡執行官」“the sheriff”。主に英国で「州長官」の意で用いられた。“county (or shire)”(州)の執政長官。
「處辨されなかつた」の「処弁」は、方針を取り決めて適切に取り計らう、処理することをいう。原文は“no money could be procured”であるから、前掲の事例のようには金を工面出来なかったという意味である。
「無趣味な世界」原文“a world of grey”。そのままの「灰色の世界」の方が分かりがよい。また、この前後は日本語としては「無趣味な世界に住み、~」ではなく、「灰色の世界に在っては、~」の方がよい。
『女たちや子供の面前であつたので、私は「取られるだらう」とだけ答へた』のは、無論、シングはその悪戯を面白いと思ったものの、女子供がいるので、その際の牛の暴走による万一の怪我などを考えて、という含みである。
「すると二人は逃げるやうに行つてしまつた」原文は“and they slunk off”。私なら「すると二人は、つまらないと言った感じで、こそこそっと出て行ってしまった」と訳したい。
「船卸臺で多くの談判が行はれてゐたが、皆結局、牛は飼主に戾される事になつた。牛は一文にもならないから、持つて行つても明かに無駄であつた」とあるが、原文を見ると“all the cattle”とあり、ここで返還されたのは牛だけではなく、収用された豚も含む家畜類である。後半部分(原文は“It was plainly of no use to take them away, as they were worth nothing.”)で「一文にもならない」とするのは、それらの家畜類が恐らくは瘦せているか、品質も低級で、更に本土にわざわざ船移送し、市場へ運ぶその手間賃を考えると殆ど割に合わないからであろう。もしかすると執達吏のこの収用と返戻は島民への脅しや恩着せがましさを含んだ、嫌がらせのポーズででもあったのかも知れない。
「一番の惡者」“the first ruffian”。「大悪党」「極め付けのならず者」「最下劣漢」といった意。“ruffian”は古語で、元はドイツ語かオランダ語らしい。
「彼女は語り進むにつれて興奮が強くなつて行くので、その男は家へ戾らないうちに石を投げられるだらうと思つた程であつた。」原文は“As she went on the excitement became so intense I thought the man would be stoned before he could get back to his cottage.”。栩木氏はここを『石になってしまうのじゃないかと』訳しておられる。妖精が跳梁するアラン島ならではのファンタジックな訳ではあるが、先輩の英語教師にも読んで戴いたがやはり「石を投げられるであろう」と訳すとされた。前後の文脈から見ても、ここは素直に「石を投げられるだらう」が穏当であるように思われるが、如何?]

2012/03/04

新編鎌倉志 序三種 凡例 引用書目――新編鎌倉志 全巻完結!

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「新編鎌倉志」冒頭に「新編鎌倉志 序三種 凡例 引用書目」を公開した。厳密に言うと、完全テクスト化と言うには、影印では冒頭に「総目録」があり、各巻にもその冒頭に「目録」があるから正しくはないのであるが、それらは四月以降、僕が野人になってからの仕儀としたい。暫くは御寛恕願う。

ともかくもまずはテクスト化を成し終えたという感慨は一入である。

僕の下らぬ自己満足が、それでも――

これから鎌倉の歴史を本気で跋渉せんとする若きあなたの――

道標となるなら――

幸いである――

新編鎌倉志卷之八 出版者茨城多左衛門柳枝軒 跋文 追加

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の最終巻「新編鎌倉志卷之八」に出版者茨城多左衛門柳枝軒の跋文を追加した。

既に同書の三つの序と凡例及び引用書目も完成している。今夕には公開する予定である。

2012/03/01

僕の最後の教え子たちの卒業式の朝に――木蓮の花 村上昭夫

木蓮の花
        村上昭夫

五月に散る一番の花は木蓮の花だ
散って見ればそれが分るのだ
花の散る道をしじみ賣りが通ってゆく
こまもの賣りが通ってゆく
それはみんな貧しい人々
花が散って見ればそれが分るのだ

はるかな星雲を思う人は木蓮の花だ
宇宙が暗くて淋しいと思う人は
木蓮の花だ
花が散って見ればそれが分かるのだ

(1999年思潮社刊「村上昭夫詩集」より)

――そんな――木蓮の花になりなさい――

――僕がそうであろうとするように――

――君たちは眠らない限り夢を見る――

「卒業、おめでとう!」

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