八
この前の章のなかで、芥川とはじめて顔をあわした時の事を述べたので、こんどは、私がはじめて芥川を見た(というより瞥見した)時のことを、書いてみよう。この事は、ずっと前に、書いたことがあるけれど、それはもう三十年ぐらい前であるから、重複してもよいと思い、また、わたくし事〔ごと〕であるが、私の記念にもなるので、述べることにする。
たしか大正七年の十二月の末である。私は、その頃、牛込の神楽坂の都館〔みやこかん〕という下宿屋に、住んでいた。その下宿屋は、肴町の停留所をおりて、坂の下〔した〕の方へ半町の半分ぐらい行ったところを右にあがった坂の途中にあった。
[やぶちゃん注:「肴町」は現在の神楽坂五丁目。「坂の下」は一般名詞というより、「神楽坂下」という固有名詞として用いていよう。]
その十二月の末の夕方の七時ごろ、私は、歳暮〔せいぼ〕の売り出しなどで雑沓〔ざっとう〕している狭い町を、なにか急の用事があったのか、大いそぎで、人ごみの間〔あいだ〕を、縫うように、くぐり抜けるように、あるいた、南の方へ。私は、その頃、二十八にもなりながら、一介〔いっかい〕の無名の文学書生であった。しかし、その時、私は、自分だけは自信のある『蔵の中』を書きあげ、しかもそれが三四箇〔か〕月のちに発表されることにきまり、さらに自信のある『苦の世界』も三分の一ほど書いていた。それで、長い間〔あいだ〕、小説を書こう書こう、と思いながら、ふとした過〔あやま〕ちのために出来〔でき〕なかったのが、ようやく芽を出しかけ、前途にほのかな明〔あ〕かりが見えはじめていたので、まだ貧しくはあったが、私の心ははずんでいた。それで、心のはずんでいた私は、道の真中〔まんなか〕を、足もかるく、おそらく肩で風をきって、脇目もふらずに、あるいていたにちがいない。ところが、どういう拍子であったか、一間〔けん〕ほどはなれた、道の片側を反対の方向に、一人〔ひとり〕の洋装の男が、これも、燕のような早さで、すっすっと、通〔とお〕りすぎるのが、ゆきかう人の群〔む〕れをすかして、ちらと私の目をひいた。そうして、それが、咄嗟に、芥川だな、と、私に、わかったのである。
ところが、その頃、私は、まだ、芥川を、知らなかったばかりでなく、見たこともなかった。そうして、芥川の顔は、ただ、雑誌の口絵に出たのを、見ただけであるが、それも、その時分まで、雑誌に出たのは、本棚の前に腰をかけている、それも、ぼんやりした、写真だけである。しかも、その写真は、私の記憶ちがいでなければ、着物をきていた。ところが、そんな不鮮明な写真しか見ていないのに、その写真とまったくちがった風〔ふう〕をしているのに、私は、実物(らしい物)を見た時、はっきり、芥川にちがいない、と、直覚した。
その時、黒い、瘠〔や〕せた体〔からだ〕にぴったりついた、洋服をきた、長身の、芥川が、半身をやや前の方に傾〔かたむ〕きかげんにして、真直〔まっす〕ぐに、あるいて行く恰好は、年〔とし〕の暮れの町の目まぐるしく人の往〔ゆ〕き来〔き〕する中〔なか〕にも、きわめて印象的に、私に、見えたのである。(それは、その数年前に、近代劇協会[註―上山草人が主宰し、伊庭 孝が助けた新劇団で、一時は島村抱月の芸術座と対抗した]で出した『ファウスト』で、伊庭 孝が扮した、黒装束をした、メフィストフェレスを、思わせた。)ところで、その時、私は、早足にあるきながらも、ちらりと、その黒服の男の方を、見た。と、その男も、いそぎ足にあるきながら、私の方を、ちらりと、見たような気がするのである、なぜなら、その男の青白く光る日が、(というよりその男の目から出る青白い光りが、)ぎろりと、私を、射るような気がしたからである。(しかし、これは、私の自惚〔うぬぼれ〕であって、もしかすると、私のすぐそばを美しい人が通〔とお〕っていて、その方〔ほう〕に流し目をしていたのかもしれないが、……)
[やぶちゃん注:「伊庭 孝」(明治二十(一八八七)年~昭和十二(一九三七)年)は俳優・音楽評論家・演出家。大正元(一九一二)年に上山草人らと近代劇協会を設立(旗揚げ公演はイプセンの「ヘッダ・ガブラー」)、翌大正二(一九一三)年三月二十七日から三十一日に、宇野が語っている近代劇協会第二回公演上山草人演出になるグノーのオペラ「ファウスト」を帝国劇場で上演している。大正五(一九一六)年に舞踊家高木徳子と後に「浅草オペラ」と呼ばれることになるオペラ興行を立ち上げ、その後、藤原義江や田谷力三らとともにその全盛期を打ち立てた功労者である。後にラジオ放送での歌劇や音楽評論で活躍した。]
しかし、その時の印象は、(もし、それが、芥川であったら、)芥川も、また、歳暮の町の群集をうるさく思って、町の片側を、なるべく人を避けるように、通〔とお〕ってゆくらしく、その、いそぎ足にあるく、かたむいた棒のような姿は、写真や絵で見た、異国の詩人、アアサア・シモンズか、ウィリアム・バトゥラア・イェエツか、ジャン・アルテュゥル・ランボオか、――そういう人たちの様子に似ているように見えて、(俗な言葉でいえば、何〔なん〕とも意気に見えて、生意気なところもあったが、)私は、はなはだ感心したことであった。
[やぶちゃん注:「シモンズ」は以前にも注したが、「十」の芥川との会話で詳述されるところで再注する。彼が最初に挙がっているのは、後に宇野自身が述べるように彼の大好きな作家であったからである。]
さて、芥川、といえば、どういう訳〔わけ〕か、『鵠沼〔くげぬま〕』という言葉が、私の頭〔あたま〕に、うかぶ。そう思う、東家〔あずまや〕は、それを思い出すと、里見、久米、芥川、佐佐木茂索、江口、中村武羅夫、大杉 栄、小林せい子、その他の人びとの事を思い出す、その東家である。
私がはじめて鵠沼の東家に行ったのは、大正九年の三月ごろで、その時は仕事をするために出かけたのであるが、それからは、習慣のようになって、仕事が七分ほど遊びが三分ぐらいの割りで、行くと、一週間あるいは半月ぐらい滞在するのが常であった。
ところで、その、書いてみたいと思う、東家は、大正十年の三月ごろの事で、この時の事は、十年ぐらい前に書いて、『文学の三十年』という本の中に、入れたが、あらためて述べてみたくなったのである、それは、さきに名を上〔あ〕げた人たちが、別別〔べつべつ〕に出かけたのが一緒になったり、おなじ頃に一緒に滞在したり、したので、いろいろな事があったからでもある、その上、プロレタリア文学に専心するようになった、江口と、ずっと後〔のち〕に、プロレタリア文学が跋扈〔ばっこ〕して、芸術派といわれた若い作家たちが圧倒され気味〔ぎみ〕になったのを憤慨して、『花園を荒らす者は誰だ』というような論文を書いた、中村武羅夫とが、東家から半町以内の所に、住んでいたり、無政府主義者といわれた、大杉 栄と、後〔のち〕にブルジョア作家と軽蔑された、里見 弴、久米正雄、芥川龍之介、宇野浩二、その他が、おなじ部屋で、談笑したり、したからでもある。(もっとも、大杉は、幸徳秋水や白柳秀湖[白柳は、明治から大正はじめかけて、相当な社会主義者であった]と交際したり、過激な文章をかいて筆禍をこうむったり、例の『赤旗事件』などにも連坐したり、したが、根は、極端な自由主義者であり、芸術家でもあり、人情ぶかい人でもあった。)
[やぶちゃん注:「赤旗事件」明治四十一(一九〇八)年六月二十二日に発生した社会主義者弾圧事件。前年三月、封建的家族制度を批判した「父母を蹴れ」を平民新聞に寄稿した山口孤剣が新聞紙条例違反の罪に問われて禁錮刑に処せられていたが、この六月十八日に出獄、その出獄歓迎会が東京府東京市神田区錦町(現在の東京都千代田区神田錦町)にあった映画館(元は貸ホールでもあった)錦輝館(きんきかん)」で社会主義者数十名が集って行われた。以下、ウィキの「赤旗事件」によると、歓迎会自体は発起人の、山口に先んじて出獄していた平民新聞編集者の石川三四郎による開会の辞から始まった。続いて西川光次郎(日本初の社会主義政党「社会民主党」の結成発起人の一人)と堺利彦が挨拶した後に余興となり、夕刻には終了したが、『散会間際に、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎ら硬派の一団は、突如赤地に白の文字で「無政府共産」「社会革命」「SOCIALISM」などと書かれた旗』を翻して『革命歌を歌い始めた』。『石川はこれを制止しようとしたが、硬派は従わず、「無政府主義万歳」などと絶叫しながら錦輝館を飛び出した。歓迎会開催に当たり現場で待機していた警官隊は、街頭に現れた硬派の面々を認めるや駆け寄って赤旗を奪おうとし、これを拒んだ彼らともみ合』いとなり、『格闘の末、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎、佐藤悟、徳永保之助、森岡栄治、百瀬晋のほか、女性4名(大須賀里子、管野スガ、小暮礼子、神川松子)が検挙され、またこれを止めに入った堺と山川も同じく検挙された』事件を言う。判決は大杉の重禁錮二年六ヶ月罰金二十五円を筆頭に予想に反した重刑が下された。『荒畑ら当事者がのちに明かしたところによれば、赤旗を翻したのは軟派に対する示威行動に過ぎなかった』のだが、その『判決は、大した罰を受けるとは考えていなかった彼らの楽観を裏切る内容であった』。事件発生から五日後の六月二十七日には西園寺公望首相は辞意を表明、七月四日、内閣は総辞職した。『表向きは健康上の問題によるとされたが、山縣有朋が「事件は社会主義者に対する融和の結果発生した。これは西園寺内閣の失策である」と奏上したのが直接の原因といわれている』。この当時、幸徳秋水はたまたま『郷里の高知県にいたため難を逃れたが、事件を知るや直ちに上京し、勢力の建て直しに奔走した。この結果、無政府主義者やそれに近い者が社会運動の主流派を占めるに至った』。次いで成立した第二次桂内閣は社会主義者への取締りを強化したが、これが逆に拍車をかけ、明治四十三(一九一〇)年の大逆事件へと発展することとなった、とある。]
さて、この東家に偶然あつまった連中は、毎日、ほとんど仕事をしないで遊んで、くらした。(そうして、遊んでいなかったのは、神経衰弱とかをなおすために、といって、東家の表〔おもて〕の二階の部屋に陣取って、バアネットの『小公子』と『小公女』を翻訳していた、佐佐木茂索だけであった。その頃、佐佐木は、かぞえ年〔どし〕、二十八歳であったが、年よりふけて見えたけれど、色白く眉目〔びもく〕秀麗な青年であった。しかし、一人〔ひとり〕、はなれた部屋にこもって、その秀麗な顔を緊張させ、口を斜めに堅〔かた〕く結〔むす〕んで、適当な訳語を案じているところを、ときどき、私は、見て、あの茂索が、と感心した、それは、その真剣な顔つきにも打〔う〕たれたのであるが、おなじ宿にとまっている友だちが、その部屋から、その有〔あ〕り様〔さま〕も見えず、それらの人たちのはしゃぐ声は聞こえなくても、それを感じない筈のない敏感な佐佐木が、じっと辛抱している、その辛抱づよさに、一そう心を打たれたのであった。そうして、あの若さで、あの忍耐が、……と、今〔いま〕の私は、思うのである。)
ところで、その時の私たちの『あそび』というのは、その頃はやった「表現と理解」[註―字にかくと、しかめつらしいが、実は無邪気なバカバカしい遊戯であるから、解説したいが、省く]とか、まだ麻雀などなかった時分であったから、「花歌留多」[あるいは「花あわせ」]とか、等、等、等である。
[やぶちゃん注:「表現と理解」不詳。識者の御教授を乞う。私の直感だが、これは所謂、「天狗俳諧」や、シュールレアリストのやった“cadavre exquis”ではなかろうか? 因みに“cadavre exquis”とは「美しき屍体」「優雅な屍体」等と訳されるもので、私の好きな画家イヴ・タンギーが発明したとされる遊び。複数の参加者が一つの文章やデッサンを、各人が別個に(他の若しくは先の又は前後の)製作者の存在や内容・描画を伏せておいて共同で製作する、一種のパフォーマンス・自動描法(オートマティスム)の一つである。名の由来はタンギーらの最初の試みの際に偶然生じた文、“Le cadavre – exquis – boira – le vin – nouveau”(「優美な―屍体は―新しい―酒を―呑むだろう」)に基づく。)]
さて、花歌留多は、徳川時代に、西洋伝来のカルタが禁止されたので、そのかわりに、案出されたものであるから、麻雀などとは比較にならぬはど、多くの人になじまれたので、徳川時代のことは知らないが、(『栄華物語』のなかに、「花合〔はなあはせ〕、菊の宴など、をかしき事を好ませたまひて……」というのがあるが、)明治から大正にかけて、民衆娯楽の一〔ひと〕つになっていた。しぜんその頃は、文学者のなかにも、「花」を好む人が、かなり誇り多かった。(滝井孝作の『博打〔ばくち〕』[昭和二年四月]のなかに、「自分は遊び事に熱中するたちで、茲〔ここ〕半月ばかり花や麻雀で仕事ができなかつた、……」というところがある。)
[やぶちゃん注:ここで宇野が「栄華物語」(本引用は同作の第三十七巻「けぶりの後」の一節)のなかに「花合」という語がある、と述べているが、この「花合」というのは花札とは全く異なるもので、これは「物合〔ものあは〕せ」の一種である。「物合せ」とは多くの人が集まって右方・左方二手に分かれてそれぞれの組になる示す対象の優劣を争う遊びである。「花合せ」はそのように二手に分かれ、それぞれ花を出し合って比べた上(一般には花の小枝を庭の遣水や池端に立てた)、通常は、その花に因んだオリジナルな和歌などを詠んで優劣を競った遊戯で「花競〔はなくら〕べ」「花軍〔はないくさ〕」などとも言った。勝負は勿論あるが、引き分けもあり、「持〔じ〕」と呼称した。花は主に桜であったが、「紅梅合せ」・「女郎花合せ」・「菊合せ」(「栄花物語」の「菊の宴」はこれかも知れない)・「撫子合せ」・「菊合せ」などがあった。また、「草合せ」というのもあって「紅葉合せ」・「菖蒲の根合せ」(根の長さを競う)、更に凝ったものでは「前栽〔せんざい〕)合せ」といって盆に植込みや箱庭のような盆景を作り、実物や工芸細工の虫やミニチュアの飾りを配したりして、そこに植えられた草花や装飾に関わる歌題を決めて、それらを詠んだ和歌をそれぞれの決められた位置に書き添えて配し、勝負を競ったりした。
「菊の宴」は重陽の節句の祝宴のこと。]
さて、東家では、この「花」は、いつも、大杉の部屋で、もよおされた、大杉の部屋は、二階の八畳〔じょう〕で、誰の部屋よりも、ひろびろとしていたからである。その大杉の座敷からは、目の下〔した〕に、東家の庭が、見おろされた。その庭は全体が芝生で、その芝生の真中へんに池があって、その池のほとりに亭〔ちん〕があった。それで、庭ぜんたいが箱庭のように見えた。さて、その亭は、小〔ちい〕さい家になっていたので、入り口もあり、縁もあり、全体が四畳〔じょう〕半ぐらいの部屋になっていた。そうして、その部屋には、いつも、二人〔ふたり〕の男がいて、その二人〔ふたり〕の男は、障子があけてあるので、ときどき、大杉の座敷を、じろじろと、見あげた。それは大杉を尾行〔びこう〕する刑事である。したがって、大杉はその二階の座敷にいれば、二人の刑事は、安心して、その亭の部屋で、休息できるわけであつた。それで、大杉は、私たちと花歌留多をしている時、ときどき、目に微笑をうかべて、その亭の方を見ながら、「あそこに番人がいるから、安心だよ、」と、いった。(ところで、芥川は、ときどき、東京に帰ったからでもあるが、たまたま、大杉の部屋に、はいって来ても、花歌留多は一度もした事はない。)
[やぶちゃん注:「亭〔ちん〕」は唐音。池亭。四阿〔あずまや〕。
「大杉栄」宇野の記憶通り、このシークエンスが大正十(一九二一)年三月頃とすると、大杉はこの一月にコミンテルンからの資金援助でアナキスト・ボルシェヴィキ(アナ・ボル)共同機関紙として第二次の『労働運動』を刊行しているが、二月に腸チフスを悪化させ入院している。鵠沼東屋での静養が、その予後の養生と考えるとしっくりくる。]
さて、今、さきに上〔あ〕げた『文学の三十年』を取り出して、開いてみると、その日絵に、私が、その時、東家でとった写真が二〔ふた〕つ、東家でない家でとった写真が二つ、――と、あわせて、四〔よっ〕つの写真が出ている。そうして、その四つの写真の解説が本のしまいに出ている。むろん、その解説は、私が、書いたものである。それを、便宜のために、左にうつしながら、解説の補遺と訂正をしよう。
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むかって右のガラス障子を背景にして、いかにも写真に取られるところらしい恰好をして、ならんでいる、二人の青年は、右が佐佐木茂索(二十八歳)で、左が芥川龍之介(三十歳)である。
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補遺――佐佐木も芥川も着物を着ている。芥川は、両手袖の中にかくし、膝をまげているが、ほとんど正面を見ている、そうして、かすかに歯を出している。佐佐木は、右の方にちょっと反〔そ〕りかえり、左でを籐椅子〔とういす〕の背によせかけ、手の甲だけ出している、トルコ帽のようなものをかぶっている。そうして、佐佐木の方が年上〔としうえ〕のように見える。よく見ると、御両人は籐〔とう〕の寝椅子にいささか行儀〔ぎょうぎ〕わるくならんで腰をかけているらしい。
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むかって左の、庭園の中〔なか〕で、これも、いかにも、写真に取られるかまえをしている、二人〔ふたり〕の人物は、右が里見、左が佐佐木、とだけ説明しておく方が無事であろう。ところで、この庭園は、東家ではなく、どうも、他の家の庭園であったような気がするが、なにぶん二十年ほど前の、あまり大切な事でない、記憶であるから、その「他の家」が如何〔いか〕なる家であったかを丸〔まる〕で忘れてしまった。見る人、諒焉。
[やぶちゃん注:「諒焉」返り点で返って、「焉〔これ〕を諒せよ」と読む。]
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補遺訂正――「他の家」とは、むろん、東家でなく、鎌倉の、当世の流行の言葉でいえば、avec 専門の家である。但し、この家に、御両人は、avec などではなく、とまったのであろう。
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この二〔ふた〕つの改まっていないようで改まっている写真の下の、これ亦、改まっていないようで改まっている、食卓をかこんでいる図は、場所はやはり東家の座敷で、人物は、むかって右から、芥川、せい子[当時の谷崎潤一郎夫人の令妹]、宇野、里見、久米、である。
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解説の附加――五人とも宿屋のそろいの丹前をきているが、それぞれとりどりに写真にとられる姿勢をしているところに、興味がある。芥川は、右腕で頰杖をつき、斜め横むきで、写真器のある方を見ている。すこし不機嫌らしい顔をしている。せい子嬢は、正面をむいて、かすかに笑顔〔えがお〕をしている、ほんの少〔すこ〕し色っぽい顔をしている、里見は、やはり、横むきで、ちょいと頰笑〔ほほえ〕みながら箸を鉢につっこんでいる、(が、それが、いかにも箸を突っこんでいる恰好〔かっこう〕をして見せている、という風〔ふう〕に見える、)半身だけしか写〔うつ〕っていない久米は、首をすこし無理にまげて、やはり、写真器のある辺〔へん〕を、にらむように見ている。さて、私(つまり、宇野)はについては、解説に、こう(つぎのように)書いてある、「宇野だけが、食卓から少〔すこ〕しはなれて、かしこまっている形など、客観的に見て、何〔なに〕か珍〔ちん〕である。しかし、これは私(宇野)が、写真器をうつす仕掛〔しか〕けにしておいて、自動停整器をかけておいて、後〔あと〕で仲間〔なかま〕いりしたので、こういう形〔かたち〕になったのである。」――この解説は、十年ほど前に、私が書いたものであるが、せい子と里見のあいだに、食卓から少しはなれて、ちょこなんと坐〔すわ〕って、真正面〔ましょめん〕をむいている私は、客観的に見て、(客観的に見なくても、)きわめておめでたい顔をしている。もっとも、これは、私ばかりでなく、他の四人の顏も、みな、遊んでいる、これは、四海波〔なみ〕しずかな、天下太平〔たいへい〕な、大正の世のせいばかりではなく、この時この鵠沼の東家に滞在していた人たちは、ここでは、仕事などほとんど忘れて、呑気〔のんき〕にあそびくらしていたからである。(大杉と私は、ときどき、宿の女中と相撲〔すもう〕をとった、という事によって、女中たちにもっとも人気があった、これをもって、他は「推して知るべし」である。)
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さて、この食卓の図の下の右側は、やはり、鵜沼の、江口の家の座敷の縁側で、おなじ頃うつしたもので、むかって右から、佐佐木茂索、谷崎精二、江口、江口の側〔そば〕にいる子供は誰の子か不明。そうして、江口だけが粗末な丹前をきているのは、谷崎と佐佐木が、東家から、江口を訪問した時であろう。
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解説の補遺――粗末な丹前をきた江口と粗末な二重廻〔にじゅうまわし〕し(鳶合羽〔とんびがっぱ〕ともいう)をきた佐佐木が江口と窮屈〔きゅうくつ〕そうに体〔からだ〕をおしつけあって縁側に腰をかけている、ふだん恐〔こわ〕いように見える江口の顔が、ほのかに笑っているので、柔和に見え、日〔ひ〕がさしてまぶしかったのか、佐佐木が二十五度ぐらいに首をかたむけ、その佐佐木と江口の顔のあいだに、やはり、粗末な二重廻しをきた谷崎が、腕ぐみをして、半身を出している。江口は両手を膝の辺でかるく組んでいるが、佐佐木は、両手を着物の袖からだらりと出し、右の手に持っているステッキを斜めにつき、着物の裾と二重廻しの裾がすこし広がっているので、聊〔いささ〕かだらしなく見える、この時、佐佐木はよほど疲れていたらしい。(ここで、余計な事を、承知で述べると、このとき粗末な二重廻しをきていた二人が、二十七八年のちに、一人が早稲田大学の文学部長になり、他の一人が文藝春秋新社の社長になろう、とは、それは、西洋流にいえば、神だけが知っていたかもしれない。)
[やぶちゃん注:所謂、シャーロック・ホームズのスタイルで知られるインバネス(“Inverness coat”)のことである。肩から体を蔽う袖なしのオーバー・コートで、京都の「風俗博物館」の「日本服飾史 資料」の「山高帽、二重廻しのマント」によれば、本邦には十六世紀後半ポルトガル人宣教師らの外套として齎され、ポルトガル語の“Capa”から「合羽」と当字された。明治七(一八七四)年頃に外国軍人の外套を模して、陸海軍の将校用外套や警察・消防の防寒用制服とされた。一般には『洋服だけでなく和服用にも用い出され、和洋混交の新しい姿として重用された。特に半円形のマントを和服用に改良を加え、身の部分を袖なしに作り、マントを重ねたものが「とんび」「二重廻し」「インバネス」と呼ばれて一般の男子の防寒用のオーバーとされた』。大正・昭和を通じて『特に和服用として多く使用されたが、戦後は殆どその姿を消した』とある。]
最後に、これらの写真を見て、ふと、気がついたのは、ふさふさした髪の毛を真中からわけて耳のへんまで垂らしている芥川の顔は、『ドリアン・グレイの画像』の作者、オスカア・ワイルドをおもわせ、佐佐木の鼻下に目にたつ細長い口髭をはやしている事である。これを見て、ふたたび、余計な口をきくと、「文藝春秋」の増刊の「炉辺読本」[昭和二十六年十二月五日発行]の口絵に、尾崎士郎、田村秋子、徳川夢声、越路吹雪、石黒敬七、一万田尚登、吉屋信子、宇野浩二、の若年の頃と現在の写真を出して、『彼は昔の彼ならず』という題をつけているが、その中〔なか〕に佐佐木茂索を漏らしたのは、『抜群〔ばつぐん〕』といわれる、「文藝春秋」の編輯者の手おちであろう、諺にいう『智者も千慮に一失あり』とはかくの如き事〔ごと〕をいうのであろうか、閑話休題。
[やぶちゃん注:「田村秋子」(明治三十八(一九〇五)年~昭和五十八(一九八三)年)は新劇女優。築地小劇場・築地座・文学座名誉座員。この頃は舞台復帰した直後で、前年の昭和二十五(一九五〇)年にはイプセンの「ヘッダ・ガブラー」でヘッダを演じている。
「石黒敬七」(明治三十(一八九七)年~昭和四十九(一九七四)年)は講道館所属の柔道家・随筆家。ヨーロッパや中近東など海外での柔道普及に尽くした。昭和二十四年からNHKのラジオ番組「とんち教室」のレギュラーとして出演、人気を博した。
「一万田尚登」一萬田尚登(いちまだひさと 明治二十六(一八九三)年~昭和五十九(一九八四)年)は日本銀行総裁・衆議院議員(五期)・大蔵大臣(四回)などを歴任。当時は日銀総裁であったが、この数ヶ月前の昭和二十六(一九五一)年九月のサンフランシスコ講和会議では、全権委員として吉田茂とともにサンフランシスコ平和条約の署名を行っている。]
ところで、旧著の口絵の解説などをもちだしたのは、鵠沼の東家に、その頃、集まった人たちの動静を述べるには骨がおれる上に余程の枚数がいるので、手をぬいて、その一端を述べるためであった。
さて、この東家にいた連中〔れんじゅう〕のなかの『花』の特にすきな人たちは、東家のちかくに住んでいた、中村武羅夫の家に、しばしば、出かけた。ところが、その人たちは、中村の『花』のやり方〔かた〕が、手堅〔てがた〕くて、大きく勝たないが、決して負ける事がないので、感じがわるい、といって、ときどき、こぼしながら、しかし、その人たちは、やはり、中村の家に、出かけた。
ところで、私は、『花』にはあまり興味がなかったので、その連中と中村の家に行ったことは一度もなかったが、ある時、用事があって、中村をたずねた時、めずらしい人に逢った、木蘇 穀という人である。木蘇は、私たちと同年ぐらいであったが、初志を得ないで、西洋の小説の翻訳などを、ほそぼそと、していた。これには、その頃(大正十年ごろ)の翻訳ばやりの有り様を、ちょっと、書いておかないと、一般の読者にわからない、と思うので、――その頃、翻訳の本をほとんど一手〔いって〕に出していたのは新潮社である。その新潮社で、その頃、『世界文芸全集』というのを出していて、その広告を見ると、「約一百巻の予定――空前の大叢書也」とあるが、実際に出したのはその半分ぐらいであったか、と思う。そうして、出したものは、『ボヴァリイ夫人』、『ヸルヘルム・マイステル』、『赤と黒』、『従妹ベット』、その他、大部のものでは、『戦争と平和』、『アンナ・カレエニナ』、『レ・ミゼラブル』、『ジャン・クリストフ』、その他、で、訳者は、中村星湖、米川正夫、原 久一郎、豊島與志雄、佐々木孝丸、その他で、この『その他』の中には、廣津和郎、阿部次郎、江馬 修、などもいるが、他は無名といってもよい人たちである。そうして、その無名といってもよい人たちの中〔なか〕に、『従妹ベット』を翻訳した、布施延雄という男があるが、この布施は、早稲田で、私の同級生で、英語がよく出来たので、バルザックのほかにも、ツルゲエネフ、パルビュス、メリメ、その他翻訳をした。木蘇は、この布施としたしくしていたが、布施ほど語学ができなかった上に、ひっこみ思案の人であったから、翻訳をしても、代訳であったらしく、木蘇の名で出た和訳の本は一二冊であった。
[やぶちゃん注:「木蘇 穀」(きそこく 生没年未詳)は編集者・翻訳家・作家。辻潤から英語を習い、後に『万朝報』記者となり、国家社会主義を唱えた哲学者高畠素之などとも関係があった。個人のブログ「漁書日誌ver.β」の「余震の趣味展」の記事によれば、今東光が『文壇三大醜男』と呼び、谷崎潤一郎「人面疽」のモデルとも言われる、とある(谷崎の書生のようなことを彼はしていたらしい)。「後家ごろし」等、通俗推理小説の創作も手掛けているが、現在は忘れられた作家である。
「従妹ベット」はバルザックの『人間喜劇』シリーズの代表作の一つ。
「中村星湖」(明治十七(一八八四)年~昭和四十九(一九七四)年)翻訳家・小説家。『早稲田文学』記者、戦後、山梨学院短大教授。ここに出たフロベール「ボバリー夫人」は彼の翻訳の代表作。
「原 久一郎」(はらひさいちろう 明治二十三(一八九〇)年~昭和四十六(一九七一)年)はトルストイの翻訳家として知られるロシア文学者。昭和十一(一九三六)年から十五(一九四〇)年に個人訳「大トルストイ全集」を完成させた。。東京外国語大学名誉教授。ロシア文学者として知られる原卓也は彼の息子である。
「佐々木孝丸」(明治三十一(一八九八)年~昭和六十一(一九八六)年)は俳優・翻訳家・作家・演出家。戦前は左翼系演劇に参加、落合三郎のペン・ネームでプロレタリア戯曲集を書き、フランス文学の翻訳をも手掛けた。ここに出る「赤と黒」(落合三郎名義)は彼のその代表作。また「インターナショナル」の日本語訳詞は彼の手にある。熱心なエスペランティストとしても知られ、私にとっては東宝特撮映画でお馴染みのバイ・プレーヤーである。
「江馬
修」(えましゅう/えまなかし 明治二十二(一八八九)年~昭和五十(一九七五)年)は作家。田山花袋の書生となり、夏目漱石門下の阿部次郎らと交遊を結び、大正五(一九一六)年の長編「受難者」がベスト・セラーとなる。関東大震災を契機として社会主義に傾き、『戦旗』派のプロレタリア作家として活動する。戦中から戦後にかけて、長編「山の民」を執筆、文化大革命の中華人民共和国に渡り、現地では最も有名な日本人作家として知られた(以上は、主にウィキの「江馬修」によった)。
「布施延雄」(明治二十五(一八九二)年~?)翻訳家。エドガー・アラン・ポオの作品集「全譯 橢圓形の肖像」(「楕円形の肖像」。大正八(一九一九)年。「ベレニス」「エレオノラ」「モレラ」等を含む作品集の全訳)、バルビュス「地獄」(大正十(一九二一)年で本邦に於けるバルビュスの初訳)、ツルゲーネフ「貴族の家」(現在の「貴族の巣」。大正十一(一九二二)年訳)、ウィリアム・モリス「無何有郷だより」(昭和四(一九二九)年訳)、メリメ「カルメン」(昭和十(一九三五)年訳)、など、多くの翻訳をものしている。]
さて、私が、中村の家で、木蘇に邂逅したのは、その頃、木蘇も、鵠沼に、住んでいて、ときどき、木蘇は、特殊の用事で、中村を、たずねて来たからである。(木蘇は、翻訳の仕事で、中村と知り合い類を中村に買ってもらう事である。そうして、その書画の類は木蘇の父の遺産であった。木蘇の父は木蘇岐山という有名な漢学者である。
[やぶちゃん注:「木蘇岐山」(?~大正五(一九一六)年)漢詩人。美濃国出身。東本願寺派僧の子。若き日は勤王派として活動したらしい。「大阪毎日新聞」詩(漢詩)欄を担当し、関西詩壇を指導したこともある。宇野が鵠沼の東屋で出逢ったこのシークエンスは、先の記述から大正九~十年頃であるから、岐山の死後四~五年ということになる。]
それを誰からか聞いた私は、その書画がちょいとほしくなったので、ある日、木蘇をたずねた。すると、木蘇は気の毒そうな顔をして、目ぼしい物はみな中村が取ってしまって、これだけしか残っていない、といって、奥から、二幅の書〔しょ〕を出して来た。そうして、木蘇は、その二幅を私の膝の前において、小〔ちい〕さい声で、「梧竹と楊守敬です、……僕の親父〔おやじ〕は、楊守敬としたしくしていたらしいのです、それで、……」と、いった。
[やぶちゃん注:「梧竹」は中林梧竹(文政十(一八二七)年~大正二(一九一三)年)のこと。明治の三筆と称せられた書家の一人。肥前国小城藩(現・佐賀県小城市)生。その特徴は絵画的で、実際に水墨画も描いた。
「楊守敬」(Yáng Shŏu jìng 道光一四(一八三九)年~民国四(一九一五)年)清末の学者。湖北省宜都生。訓金石学に通じ、欧陽詢の書風を受け継ぐ能書家としても知られた。明治十三(一八八〇)年、初代駐日公使何如璋〔かじょしょう〕の随行員として来日、大陸では既に散逸した古典籍の収集に勤しむ傍ら、書家巌谷一六〔いわやいちろく〕や日下部鳴鶴〔くさかべめいかく〕らに北魏の書を伝えて、本邦近代書道史に大きな影響を与えた。明治十七(一八八四)年帰国、晩年は上海に寓居、書を売って生計を立てたという。]
私は、それだけ聞いて、「失敬ですが、……」と、いって、木蘇のいうままに、三拾円で、その二幅の書を、木蘇に、譲〔ゆず〕ってもらった。
ところが、私がこの二幅の書を木蘇から買った翌日、二三日〔にち〕東京にかえっていた芥川が、また、東家にやって来たので、さっそく、芥川に、その二幅の書を見せながら、私は、
「……木蘇君は、もっといい物をたくさん持っていたらしいのだが、その中〔なか〕のもっともいい物を、はじめに、中村君が、買ってしまったらしいんだ、……だから、これは、君〔きみ〕、その、売れ残りだよ、……」と、いった。
すると、芥川は、私の話がおわらないうちに、目をかがやかしながら、
「君〔きみ〕、すぐ、その木蘇という人のうちへ、案内しでくれたまい、」と、云った。
そこで、私が、すぐ、芥川を、木蘇のところへ、連れて行くと、木蘇は、ちょっと悲しそうな顔をして、書画の類はもう一幅ものこっていない、と、いった。
すると、芥川は『地〔じ〕だんだ』ふむような情〔なさけ〕なさそうな、顔をした。
温厚な木蘇は、その芥川の顔を見て、しばらく、途方にくれていたが、やがて、芥川の顔をうかがうように見ながら、
「印章なら大分ありますが、……」と、云った。
「え、印章、」と、芥川は、めずらしく顔色をかえて、(平凡な形容をつかうと、愁眉〔しゅうび〕をひらいたような顔をして、)飛びつくように、いった。
そこで、木蘇は、奥の方〔ほう〕へ行って、引き出〔だ〕しを、そのまま、持って来た。
すると、芥川は、たちまち、私が傍〔そば〕にいるのを忘れたように、その引き出しの中〔なか〕から、大小の印形を、一〔ひと〕つ一〔ひと〕つ、丁寧に、取り出して、「ほお、」とか、「これは、」とか、いちいち、感歎の言葉を、放〔はな〕っていた。しかし、私は、印章というようなものに殆〔ほと〕んど興味がなく、しぜん、芥川と木蘇が、それらの物について、何かしきりに話している事もほとんど全くわからなかったが、そのあいだに、しばしば、『蔵六〔ぞうろく〕』という名が、くりかえされたので、それだけが耳についた。
さて、芥川は、それらの印形の中〔なか〕から、気にいった物を、五〔いつ〕つ六〔むっ〕つ、木蘇から、ゆずりうけるところと、私の方にむかって、「やあ、失敬、さあ、おいとましようか、」と、いった。
ところで、芥川の死後に『印譜』が刊行されたが、それには十〔とお〕おさめられていて、その十〔とお〕の中には、芥川の家厳芥川道章の作一〔ひと〕つ、芥川の親友の小沢仲丙[俳人の小沢碧童のこと]の作一つ、他に鋳銅が一つ、陶印が一つ、その他(『仙箭楼居』と刻まれたもの)一つ、――それらの五〔いつ〕つのほかは、(他の五つは、)みな、蔵六浜村 袞の作である。
[やぶちゃん注:「蔵六浜村 袞」は恐らく篆刻家五世浜村蔵六(慶応二(一八六六)年~明治四十二(一九〇九)年)であろうか。初世蔵六以来の最大の印人と称された名工である(但し四世浜村蔵六門人で養子)。襲名は明治二十七(一八九四)年で、各地を遊歴後、二度にわたって清に渡中し、政治家康有為・篆刻家徐三庚・書家で篆刻家としても知られた呉昌碩らと親交を結んで、奥義を学んだ。犬養毅や幸田露伴など多くの名士が彼の印を好んだ。但し、彼の名は「裕」、字が「有孚」、別号「無咎道人」「彫虫窟主人」、通称も「立平」で、「袞」は見当たらない。ただ「袞」はよく見ると(上)が「谷」に、(下)が「衣」に似ていて、「裕」の字に通ずる気もする(事蹟部分はウィキの「五世浜村蔵六(五世)」の記載を参照した)。]
それで、これはまったく私の臆測であるが、この五つの蔵六の作と『仙箭楼居』と刻まれてあるのと合わせて六つの蔵六の作を、芥川が木蘇から、買ったものとすれば、芥川の印章の重なものは、木蘇穀の父の木蘇岐山の所蔵した物である、という事なるのである。そうして、それらの物のうちで、『印譜』の一番はじめに出ている『鳳鳴岐山』は、その大きさといい、その風格といい、私のような者が見ても、蔵六浜村袞の傑作の一つではないか、と思うほど、すぐれた篆刻である。(これは、先の色が出なくても、せめて写真版にしても出したいぐらいである。)
木蘇 穀が、この芥川の『印譜』を見て、「芥川さんはひどい人だ、」といったそうであるが、死んでしまった芥川には、この木蘇の言葉は、もとより、つたわらない。
[やぶちゃん注:「芥川さんはひどい人だ」という台詞は――他人の印でありながら、自分のオリジナルのように死後の印譜で示させた点(印譜配布の指示は遺書(菊池宛)の中に書かれている)、心情的には、木蘇氏が呟くのは、倫理的な意味に於いては、分からないではない――が――論理的には、おかしい気がする――だったら、売るな、と言いたい、のだ――木蘇氏は、死んだ後には自分の元に返すべきだ、とでも、思ったものかも知れないが、「ゆずりうける」という語は、ただで贈った、というわけではあるまい。そんなに返して欲しければ、芥川家に行って、言を尽くして、買い戻すべし――と、私は言いたい。何だか、私が、宇野のような語り口に、なった。]
さて、つぎに述べる事も、十五六年まえに、書いたけれど、それを書かないと、この文章の筋が通らないから、――
この印章の一件があってから、十日ぐらい後〔のち〕であったか、ある日、芥川が、少〔すこ〕しあわただしい様子をして、私を、たずねて来た。そうして、座につくのと殆んど同時に、
「今日〔きょう〕は、いつか、君が、鵠沼で買った、あれを見せてもらいに来たんだがね、……」と、いった。
その芥川の『あれ』というのは、私が木蘇から買った、あの、二幅の書である。そうして、その二幅の書とは、前に述べたように、一つは梧竹の書であり、他は楊守敬の書であるから、私が、その二幅の書を出して、見せると、芥川は、その二つの軸を、ひろげて、いかにも慣〔な〕れた見方で、しばらくながめていた。が、すぐ、楊守敬は、維新の時分に日本に来たが、書がうまいので有名である、殊に、「君、これは、楊守敬としても、出来〔でき〕のいい方だよ、……それに、この詩も、ちょいと、うまいよ、」と、芥川は、いった。そうして、そう云いおわると、芥川は、すぐ、梧竹の書の方を見て、「やっぱり梧竹はいいな、」と、いった。
*
(後記――『楊守敬』について、私は、何も知らない。ここに書いた芥川の「維新の時分に日本に来たが、書がうまいので有名である、」というのも芥川流の云い方としか思われない。ところが、森 鷗外の『澀江抽斎』の(その二)の終りの方に、楊守敬の名が出ているのを、私は、発見した。そこのところをうつしてみよう。「……これ(抽斎の『経籍訪古志』)は抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園と分担して書いたものであるが、これを上梓することは出来なかつた。そのうち支那公使館にゐた楊守敬が其写本を手に入れ、それを姚子梁が公使徐承祖に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させる、」と、これを見ると、芥川が、楊守敬が「書がうまいので有名である、」というのは、やはり、例の芥川流の云い方であり、それが面白い、と、私は、思うのである。)
[やぶちゃん注:「経籍訪古志」は弘前藩侍医にして稀代の考証家渋江抽斎(文化二(一八〇五)年~安政五(一八五八)年:伊沢蘭軒に師事。)が森立之とともに編んだ、奈良平安まで遡ったあらゆる分野に亙る漢籍の善本解題目録。近代の書誌目録学の中でも稀有の快挙とされる。
「森枳園」(もりきえん)は森立之(もりりっし/もりたつゆき 文化四(一八〇七)年~明治十八(一八八五)年)のこと。備後国(現・広島県)福山藩医。伊沢蘭軒に師事、渋江抽斎と親交、後に幕府医学館講師として「医心方」を校訂、維新後は文部省勤務。
「姚子梁」(ようしりょう 生没年未詳)。楊守敬と同じく駐日公使随行員と思われるが、初代何如璋・第二代黎庶昌〔れいしょしょう〕・第三代徐承祖のいずれの随員かは不明。
「徐承祖」(じょしょうそ 一八四二年~一九〇九年?)は清国第三代駐日公使(公使在日一八八四年~一八八八年)。徐承祖の序本邦の「経籍訪古志」は清国上海で光緒十一(一八八五)年に公刊を見た。その際、森立之が校訂を行った旨、鷗外の「渋江抽斎」には引用部に続いて『徐承祖が序文を書いて刊行させることになつた。その時幸に森がまだ生存してゐて、校正したのである』と続く。]
*
私は、その芥川の云い方を聞いて、どうも、梧竹より楊守敬の方がいい、という意味にとれたので、芥川の気質をいくらか心得ている私は、『ははア、これは……』と思ったので、
「君に、こっちを進呈しようか、」と、梧竹の書の方を指さして、云ってみた。
すると、はたして、芥川は、かすかににやりと笑って、
「これ、もらっていいか、ありがとう、じや、もらうよ、」と、いった。
ところで、私は、その時は、ただ、それだけの考えで、芥川に、梧竹の書をあたえたのであるが、ずっと後〔あと〕で、私が取っておいた、楊守敬の書が、
山路只通樵客江邸半是漁家
秋水磯辺落雁夕陽影裏飛鴉
岐山仁兄方家正 宜都 楊守敬
とあるのを見て、『岐山』は、前に述べたように、木蘇岐山であるから、このような書は、岐山でなければ、掛けておけない、という事になると、ふと、考えた、そうして、もし、この私の臆測があたっていれば、芥川のすばやい目は、この書を見た時、すぐこの『岐山仁兄』が目につき(それが芥川の気に入らなかった理由の一つであったのだ。
[やぶちゃん注:書を自己流で書き下してみる。
山路〔やまじ〕 只だ樵客〔しょうかく〕を通し
江邨〔こうとん〕 半ばは是れ漁家〔ぎょか〕
秋水磯辺〔しゅうすいきへん〕の落雁
夕陽影裏〔せきようようり〕の飛鴉〔ひあ〕
岐山仁兄方家正 宜都 楊守敬
「夕陽影裏」は、夕陽の中に、の意であるが、全体に禅語の「森羅影裏藏身」(「森羅影裏に身を藏す」)、天地万物と総ての現象の中にこそ――「夕陽の中を飛ぶ鴉」、その一匹の黒き鴉の飛ぶ景の中にこそ――まことは深く潜んでいる、の意を掛けているものと思われる。「仁兄方家正」は総て敬称であろう。「宜都」は楊守敬の出身地。]
しかし、私は、こういう事は、ずっと後〔あと〕になってから、気がついたのであるが、こういう事(つまり、梧竹の書の事)などをきれいに忘れた時分に、(その一件があってから半年ほど後〔のち〕、)ある日、芥川が、私の家の二階の客間に通〔とお〕ると、すぐ、無造作〔むぞうさ〕に新聞紙につつんだものを解〔と〕いて、一尺ぐらいの高さのブロンズの胸像を取り出し、それをテエブルの上において、例の少し鼻にかかる声で、
「これは進呈しよう、」と云った。
それは、長い髪の毛を左わけにした柔和な人相の男の胸像である。そうして、その胸像の変〔かわ〕っているのは、その胸像の台が羽根ペンを添えた二冊の書物を台にしている事である。
それで、私が、それを見て、ちょっとの間、呆気にとられていると、芥川は、それを右手で取り上げて、
「……わかるだろう、これ、君に、ゴオゴリだよ、この胸の下に書いてあるロシア語は、N.V.GOGOL と読むんだそうだ。今そこの、日暮里の、田村松魚[註―田村俊子の夫]の家で見つけたんだ、うん、松魚は、元はちょいとした小説家だが、今は、小説家を廃業して、骨董屋になってるんだ、……これ、たぶんロシア人が、国に帰る時、売って行ったんだ、と思うが……」と、ここで、芥川は、持ち前の微笑を目にうかべて、その胸像の底を私に見せながら、「見たまえ、これ、ブロンズのように見えるだろう、がテラコッタだよ、……ところが、テラコッタというものはイタリイが本場だ、それが不思議じゃないか、これはまちがいなくロシアのゴオゴリだからね、」といって、私の目を、うかがうように見た。
[やぶちゃん注:「この胸の下に書いてあるロシア語は、N.V.GOGOL と読むんだそうだ」ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリのロシア語表記は“Николай Васильевич Гоголь”。英語表記では“Nikolai
Vasilievich Gogol”となる。
「テラコッタ」“terracotta”イタリア語で「焼いた土」の意。粘土を素焼きにして作った塑像。]
さて、芥川からゴオゴリの胸像をもらってから、数日後であったか、数箇月であったか、私は、ふと、あのゴオゴリの胸像は、「あ、そうか、あの梧竹の書に対する返礼であったのだ、」と気がついた。そうして、返礼と思わせないために、わざと無造作に、新聞紙に、つつんで来たが、実は、わざわざ、自分の家〔うち〕から、大事〔だいじ〕にしてい