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2012/03/20

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (2)

 今年はマイケルは晝間は忙しい。併し今は、秋の月があり、夜の大方を、灣の方を眺めながら島を歩き廻つて過した。灣には雲の蔭が、黒と金の面白い綾模樣を投げてゐた。今夜、村を通つて歸る途中、お祭り騒ぎが一軒の稍々小さな家から洩れて來た。マイケルに聞くと、若い男女が、一年中の此の頃に、遊戲をやつてゐるのださうであつた。私もその仲間入りをしたかつたが、彼等の娯みを邪魔しては惡いと思つた。道の兩側にちらほら家のかたまつてある處を再び通りながら、私がフランスやバヴァリヤ邊を旅行した時、夜、折折通つた處を憶ひ出した。其處は再び目醒めるとは思はれないまでに、靜かな蒼い夜の幕に包まれてゐた處であつた。

 後で、私たちは砦の丘に登つた。マイケルは手の屆くほど近くに住みながら其處へ眞夜中に登つた事はなかつたさうである。その場所は、島の頂上に、先史時代の石は光茫のやうに浮き出して、その光の中に、思ひかけない壯觀を呈してゐた。私たちは幽かな黄色い屋根を見下し、又その向うにキラキラ輝いてゐる岩や靜かな灣を眺めながら、石垣の頂上を暫く彷徨つた。マイケルは四圍の自然の美を氣付いてをりながら、それを決して直接語らない。私たちは重に星や月の運行の事ばかりを長い間ゲール語で話しながら、多くの宵を散歩した。

 

 

This year Michael is busy in the daytime, but at present there is a harvest moon, and we spend most of the evening wandering about the island, looking out over the bay where the shadows of the clouds throw strange patterns of gold and black. As we were returning through the village this evening a tumult of revelry broke out from one of the smaller cottages, and Michael said it was the young boys and girls who have sport at this time of the year. I would have liked to join them, but feared to embarrass their amusement. When we passed on again the groups of scattered cottages on each side of the way reminded me of places I have sometimes passed when travelling at night in France or Bavaria, places that seemed so enshrined in the blue silence of night one could not believe they would reawaken.

Afterwards we went up on the Dun, where Michael said he had never been before after nightfall, though he lives within a stone's-throw. The place gains unexpected grandeur in this light, standing out like a corona of prehistoric stone upon the summit of the island. We walked round the top of the wall for some time looking down on the faint yellow roofs, with the rocks glittering beyond them, and the silence of the bay. Though Michael is sensible of the beauty of the nature round him, he never speaks of it directly, and many of our evening walks are occupied with long Gaelic discourses about the movements of the stars and moon.

 

[やぶちゃん注:「お祭り騒ぎ」原文は“a tumult of revelry”で、“tumult ”も“revelry”も騒ぎであるから、正に飲めや歌えのどんちゃん騒ぎという意味である。これは例えば現在、大西洋に近い西海岸の村“Lisdoonvarna”リスドゥーンバーナで行われてい“Matchmaking Festival”(マッチメイキング・フェスティバル:お見合い・縁結び祭り)と呼ばれているものと同類の祭りである。マッチメイキング・フェスティバルはアイルランド政府観光庁の記事によれば、毎年9月から6週間に渡って行われる。昼の各所でのダンスパーティーに始まり、ホテルやパブでの生演奏が朝まで賑わい、実際に仲人役がおり、国外の旅行者など多くの男女の仲を取り持つ。二百年も前からアイルランドに伝わる最も古形の伝統的な祭りの一つである、とある。恐らくこれはローマ神話のフローラ祭などに起源を持つ民間信仰で、若い男女が夕刻から森の中に入って日の出までそれぞれに二人で過し、翌朝、花輪などを作って帰って村を飾るという儀式で、その間は無礼講の野合が許された(アンドレイ・タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」の中で美事な再現が行われている。必見!)。本邦でもこうした祭りはかつて普通に存在した。古くは陰暦九月一日に行われて八朔祭とも呼ばれ、夜、男女が神社の鎮守の森に集って自由に関係を持ったのである。万葉の「歌垣(かがい)」の伝統である。姉崎氏の訳ではちょっと分かり難いが「道の兩側にちらほら家のかたまつてある處を再び通りながら、私がフランスやバヴァリヤ邊を旅行した時、夜、折折通つた處を憶ひ出した。其處は再び目醒めるとは思はれないまでに、靜かな蒼い夜の幕に包まれてゐた處であつた。」(原文“When we passed on again the groups of scattered cottages on each side of the way reminded me of places I have sometimes passed when travelling at night in France or Bavaria, places that seemed so enshrined in the blue silence of night one could not believe they would reawaken.”)では、「再び」なのである。則ち、直前のどんちゃん騒ぎから時間が経過して「再び」同じ場所を通っているのである。このシングのさりげない対照的な描写は、実はその「祭り」の一部始終を画像の中に描き切っていることに気付いて戴きたいのである。]

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