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2012/03/29

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(3)

 さきに、芥川が私を案内した所は、たべ物屋が六分で特別な所が四分、と書いたが、その『特別な所』とは、その頃、芥川ばかりでなく、多くの物ずきな人が、それからそれと、聞きつたえ、云いつたえ、して、そっと、出かけて行った、かくれた家である。

 いつの世にも、『ものずきな人』と、いう者は数多〔あまた〕あるものである。されば、『西鶴俗つれづれ』の中にも、「さりとは至りたる物ずき」という文句があり、『狭衣物語』のなかにも、「いと花やかに物ごのみしたまふ御本性にて」というような文句があるのである。

[やぶちゃん注:「西鶴俗つれづれ」は、西鶴の死後二年後の元禄八(一六九五)年版行の遺稿集。

「『狭衣物語』のなかにも、「いと花やかに物ごのみしたまふ御本性にて」というような文句がある」は「狭衣物語」巻三の冒頭部、洞院の上が、自分の老後の不安もあり、養女今姫君の入内を、夫の堀川の関白大殿〔おほいどの〕に依頼する段に現れる。

まこと、かの大殿御方にかしづかれ給ふ今姫君は、二十にもややあまり給ふままに、いとをかしけげにねびまさり給ふを、母上いとはなやかに物このみし給ふ御本性にて、齋宮〔いつきのみや〕の御ありさま見たてまつり給ふもいとうらやしく、行すゑの心細さも年月にそえてはおぼししらるれば、「この君をかくまで取り寄せつとなららば、おなじくは人なみなみにもてなして、かくさまざまにもてかしづきたまふ御方々のくさはひにもせむかし」など、せちに「人に劣らじ」の御心おきてにて、内裏〔うち〕參りのことなどおぼしよりにけり。

洞院の上は「いとはなやかに物このみし給ふ御本性にて」(何事にも派手好みであられて何より目立つことのお好きな性質〔たち〕であらせられたによって)の意。「齋宮」は狭衣の母。「くさはひ」は「種輩」か。同じ仲間。洞院の負けず嫌いで派手好みな性格が示されるところである。]

 芥川は、この、「至りたる物ずき」の一人〔ひとり〕であった。

私が芥川につれて行かれた『かくれた家』は、下谷の西町の閻魔堂の前の露地の中にもあり、本郷の根津権現神社の境内の炭薪屋であり、小石川の伝通院のちかくの裏町のしもた屋であり、四谷の荒木町のちかくの谷底のような町の中にもあり、その他、いたる所にあった。

[やぶちゃん注:「下谷の西町の閻魔堂」は現在の東上野から下谷辺りにあった旧地名に下谷西町がある。ここにはかつて天台宗薬王山善養寺があり、この寺の閻魔像が江戸の三大閻魔の一つに数えられたことからこう称したが、寺地が鉄道用地となったために、大正三(一九一四)年に寺は西巣鴨に移転している。これはその後のことと思われる。]

 ある日、ある時、芥川と一しょに町をあるいていると、突然、芥川が、「君、僕のゆく所へつきあってくれないか、」と私に云った。「どこだ。」「だから、今いったじゃないか、僕のゆく所だよ。」

 そこで、私は、だまって、芥川より半歩ぐらいおくれて、芥川とおなじように、早足であるいた。こういう時は、ふだんお喋〔しゃべ〕りの芥川が、啞〔おうし〕のように無口になった。

 御徒町〔おかちまち〕の交叉点を横ぎって、すでに日のくれた、うす暗〔ぐら〕い、ごみごみした、町を、横町〔よこちょう〕から横町へと、早足にあるきながら、私は、ふと、芥川という男は、ふしぎな男である、が、また、至極〔しごく〕おもしろい男であると思った。そうして、ときどき、道ゆく荒〔あら〕くれた人に突〔つ〕きあたられたり、方方〔ほうぼう〕で臭〔くさ〕やの乾物〔ひもの〕を焼いている臭いになやまされたり、しながら、いつか、芥川の気もちと私の気もちは一〔ひと〕つになってしまったようであった。

 が、やがて、芥川が、ふるびた閻魔堂の前で立ちどまり、ちょいと小首〔こくび〕をひねってから、すぐ私の方〔ほう〕にむかって、腭をふって合〔あ〕い図〔ず〕をしてから、その向〔む〕かいの、やはり、ふるびた格子づくりの家の中〔なか〕に、つかつかと、はいって行ったので、私は、なにか、勝手〔かって〕がちがうような気がした。が、仕方〔しかた〕ないので、芥川の後〔うしろ〕から中〔なか〕にはいると、「ごめんください、」と云う芥川の声で奥から出てきた六十あまりの老婆が、芥川の顔を見るなり、「まあ、どうなすったんです、ずいぶん、お見かぎりですねえ、」と云った。

 これが芥川が『特別の家』につれて行ったはじめである。特別の家とは、いろいろな女が、呼ばれると、ごく内証〔ないしょう〕で、内証の『ハタラキ』をするために、そっと来〔く〕る家の事である。

[やぶちゃん注:これは所謂、「隠し町」、私娼窟である。因みに、江戸の下谷や浅草は天明(一七八一~一七八九)の末まで素人風の最下級の私娼がいた場所として知られ、彼女たちは「蹴転ばし」「けころ」と呼ばれた。]

 私は、もちろん、この老婆の顔つきと言葉によって、すぐ「ははアン、」と、覚〔さと〕った。

 ところで、私などをこういう『特別の家』に案内するのはよいとして、先日、ある会で、こういう芥川の『物ずき』の話がさかんに出て、その時、その席にいた、芥川を尊敬している、佐佐木茂索が、若年の頃、四谷の荒木町のちかくの谷底のような町の中にある『特別の家』に連れて行かれかかった、という話をしたので、魂〔たま〕げたことがあった。

 ある日、昼〔ひる〕すぎに、佐佐木が芥川の後〔あと〕から、四谷の或る停留所で、電車をおりて、一町〔ちょう〕ほどあるいて行くと、むこうから吉井 勇、里見 弴、田中純[註―大正八九年頃、吉井、里見、久米、田中の、四人で、「人間」という同人誌を出した後に、同人以外の人の作品ものせるようになった。すなわちこれは「人間」の同人たちである。]の三人があるいて来たので、芥川が、「やあ、」と声をかけた、すると、その三人のうちの一人が、「君たちは、これから、『あそこ』へ行くんだろう、おれたちは『あそこ』からの帰りだよ、」と云った。それを聞いた温厚で内気であった、佐佐木は、かすかに感づいていた事ではあったが、びつくり仰天した、そこで、目的の『特別の家』に行くのに細い道をいくつも曲〔まが〕ったので、その幾つ目かのまがり角で、佐佐木は「三十六計〔けい〕逃ぐるに如〔し〕かず」と、芥川を、撒〔ま〕いたのである。(「逃ぐべき時に逃ぐるが、兵法中、第一の上策なり」という事を三十になるやならずで心得ていたからこそ、佐佐木は、今日〔こんにち〕の大〔だい〕をなしたのである。)

 

 大正十一年の春の頃であったか、私が、ある日、省線の牛込見附の駅で、ほそい腰かけに腰をかけて、電車のくるのを待っていると、すぐそばに腰をかけていた、いちょう返しの若い女が、膝の上にひろげて読んでいる本が、何〔なん〕と、ストリンドベルヒの、『痴人の告白』であったから、私は、はっと驚いて、その女の横顔を見ると、その女は、川路歌子であったから、思わず、「あッ、」と、声をたてた。すると、その声に、歌子も、目をまるくして私のほうを見て、「まあ、」と小〔ちい〕さい声で、叫んだ。

 私がはじめて川路歌子を知ったのは、川路歌子が、たしか、美術劇場[註―大正四五年頃、秋田雨雀、楠山正雄を看板にして、鍋井克之、その他の美術学生がおこした新劇団で、高田 保も片岡鉄兵も関係した]で、秋田雨雀の『埋れた春』[ウェデキントの『春の目ざめ』風のものである]に、少女の役で、出た時であった。その頃、誰かが、私に、「あの女優は、若いけれど、おもしろいところがあるよ、川路柳虹をすきになったので、『川路』という名にした、という話だから、」と、云った。

 その次ぎに、私が、歌子に逢ったのは、たしか、大正四年の十二月の中頃、西片町に住んでいた時分で、ある晩、今の兵科大学の前のへんをあるいていた時、歌子が佐藤春夫と所帯道具をわけあって持ちながらあるいて来た時である。そうして、その時、私は、佐藤に誘われるままに、追分に近い東片町の露地の中にあった佐藤の新居に、行った。その時、春夫と歌子が話した事を、私は、ふしぎに、いろいろ覚えているが、その中〔なか〕の一〔ひと〕つだけをここに書くと、歌子が、なにかの話のついでに、「あたし、川でも、溝でも、水を見ると、おしっこをしたくなる、」と、云った事である。私が、わざわざ、こういう尾籠〔びろう〕な話を書いたのは、この言葉は、「生きている」と思ったからである。(この歌子は、佐藤の傑作であり、大正の文学の中の傑作である、『田園の憂鬱』の女主人公、E・Y女史である。)

[やぶちゃん注:「西片町」「追分」「東片町」すべて現在の文京区駒込の旧町名。]

 さて、私が、この歌子と、牛込見附のプラットフォオムの腰かけで、逢ったのは、前に述べたように、大正十一年の春の頃であるから、歌子が二十四五歳の時分であろう。その時、私が、「ずいぶんしばらく……今、何をしているの、」と聞くと、歌子は、その私の言葉がおわらぬうちに、「芝浦で芸者をしています、」と、云った。

 その歌子に偶然あった事を、四五日後に、芥川に逢った時、はなすと、芥川は、すぐ、「君、そのうち、芝浦へ行こうか、」と、云った。

 そうして、それから、また、四五日後〔のち〕に芥川は、私をたずねて来て、座につくと、いきなり、(ほかのことは何〔なに〕もいわないで、)「これから、芝浦に行こう、」と、云った。

 ところが、芝浦の或る茶屋にあがって、出てきた女中に、こうこういう芸者がいないか、いたら、呼んでくれ、と云うと、その話はすぐ女中に通じたが、女中は、「その人なら、おりますけど、毎晩、大酒をのんで、いつも、ぐでんぐでんに酔っています、……それに、二三日前から、頭〔あたま〕が痛いと云って休んでいます、」と、云った。

 そこで、仕方がないので、女中にまかして、かわりの芸者を呼ぶことにした。それで、まもなく、芸者が二人〔ふたり〕あらわれた。その二人の芸者を相手に無駄話をしているうち芥川が話の切れ目に、私の耳のそばで、「あのふとっている芸者、ぼくの女房に似てるよ、」とささやいた。

 そのふとっている芸者は、面長〔おもなが〕で、目鼻立ちもちゃんとそろっていたが、いわゆる色気〔いろけ〕がなかった。

 私は、その頃はまだ芥川夫人を知らなかったが、このふとった芸者の顔を見ると、すぐ、これは、芥川の好〔す〕きな女の顔の型〔タイプ〕の一つである、と思った。

 この事は前に述べたかもしれないが、芥川のすきな女の顔は、簡単にいうと、はっきり二つの型にわけることができる。その一〔ひと〕つは、たいてい、面長〔おもなが〕の、目鼻立ちのそろった、古風な、顔であり、他の一つは、やはり、面長〔おもなが〕の、(面長でないのもあるが、)たとい美人であるとしても幾らか欠点のある、(器量はそれほどではないが男ずきのする顔、といわれるような、)顔である。そうして、それを、便宜のために、一つを古典的な顔とし、他の一〔ひと〕つを浪曼的な顔としておく。そうして、もう一つわかりよくするために述べると九条武子、赤坂の万竜[註―谷崎潤一郎の『青春物語』の中に写真まで出ている名妓で、潤一郎の友人の恒川の夫人になった人]ぽん太[註―斎藤茂吉の『三筋町界隈』に書かれてある、これも、名妓で、後、鹿島三河子として踊りの師匠になった。これも茂吉の『不断経』のなかに、写真まで出ている]などがその古典的な顔のそれぞれ代表的なものの一つであり、イギリスのラファエル前派の画家であり詩人である、ダンデ・ガフブリエル・ロゼッティの、名画、『ベアトリイチェの死』、『牧場の楽女』、その他に描かれている女などがその浪曼的な顔の代表的なものの一つであろう。

[やぶちゃん注:「赤坂の万竜」は本名、田向静(明治二十七(一八九四)年~昭和四十八(1973)年)。七歳で東京赤坂花街の芸妓置屋春本の養女となり、お酌(半玉)を経て芸妓になった。明治末頃、「日本一の美人」と謳われ、当時人気を博した芸妓。参照したウィキ龍」に写真が載る。

「ぽん太」本名、鹿島ゑ津子(明治十三(一八八〇)年~大正十四(一九一五)年)。宇野が言うのは新橋玉の家の名妓初代ぽん太。今紀文鹿島屋清兵衛がこれを落籍するも、後に清兵衛は没落、それでも踊・寄席に出ては家計を支え、世に貞女ぽんたと称されたという。森鷗外の「百物語」はこの御大尽時代の清兵衛がモデルであるとされ、尾崎紅葉や齋藤茂吉も彼女に魅せられた。歌人茂吉の大正三年の歌集『あらたま』に、

  かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび

とあり、芥川龍之介の大正六(一九一七)年十二月一日附書簡(旧全集書簡番号三五六 池崎忠孝様宛葉書)に、

 

  Que m’importe que tu sois sage

  Sois belle et sois triste.

  C. Baudelaie

 

  徂く春の人の名問へばぽん太とぞ

 

    その人の舞へるに

  行けや春とうと入れたる足拍子

 

    その人のわが上を問へるに

  暮るるらむ春はさびしき法師にも

 

  われとわが睫毛見てあり暮るる春

 

    一九一七年日本の詩人思を日本の校書に寄するの句を録す。

 

とある。最初はボードレールの「悲しき恋歌」。「悪の華」所収のこの詩句は、「どんなにお前が貞淑であろうと、それが何になる? ただ美しくあれ! 悲しくあれ!」といった意味である。「徂く春」は「往く春」と同義。季節の移ろいと共に、さすがその面影に射している「ぽん太」の老いをも言う。中田雅敏氏は一九八八年近代文藝社刊「俳人芥川龍之介 書簡俳句の展開」に「ぽん太」について以下の解説をされている。『明治二十四年新橋玉の家から雛妓おしゃくとして出、はやくから嬌名を馳せていたが、一時落籍され座敷に出なかった。再び高座に上ったのは大正七年頃という。いつも洗い髪のようにさっぱりした髪型でほんのりと色気をただよわせていたという。』更に、次の「行けや春」の句については、福原麟太郎の次の文を引用されており、『北州は踊の方ではむつかしいものになっているようだがぽん太は何の苦もなくさらっと踊ってみせた。それが実に美しかった。浮世の垢をすべて洗い落としたような爽やかな踊りで、踊りはああでなくてはならない。』(出典未詳)。「北州」は「ほくしゅう」と読み、清元の曲名である。「北州千載歳壽」で「ほくしゅうせんざいのことぶき」と読む。蜀山人の作詞で、「北州」とは江戸の北、吉原を指す。遊廓吉原の年中行事と風物を詠んだ佳品の名曲。「校書」は芸妓(以上はやぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句の当該句注を一部加筆省略して用いた)。ブログに萬龍とともに本名「谷田恵津」で写真が載る。]

 さて、芥川は、その芝浦の茶屋から帰る道で、例のごとくお喋りをつづけたが、そのうちに、ふと、真面目な調子で、声をひくめて、

君〔きみ〕、さっきの、あの、ふとった芸者のような顔をした女は、人の細君〔さいくん〕になったら、良妻になるよ、」と、云った。

「……君も、むろん、知っているように、オットオ・ワイニンゲルは、女を母婦型と娼婦型にわけているが、……君、だいたい、良妻の亭主は浮気者で、悪妻になやんでいる男は、かえって、その反対のところがあるね、……田中 純などの話では、直木の細君は悪妻だそうだが、そういうと、直木は実に堅いところがあるからね。……君などは……」

「おれを浮気者というんだろう、僕は浮気者とすれば、……浮気者だが、……君、僕は、『心』の浮気者だよ。……」

「ふうむ。……」

[やぶちゃん注:「オットオ・ワイニンゲル」オーストリアのユダヤ系哲学者Otto Weininger(オットー・ヴァイニンガー 18801903)。カントやショーペンハウエルの影響下、一個の人間の中に共存する男性性と女性性に着目した『性の形而上学』を唱え、1903年にその集大成というべき名著「性と性格」を完成した後、最も敬愛したベートヴェン終焉の館でピストル自殺した。23歳。なお、この最後の部分、私は、

《そうして続けて芥川は》「……君も、むろん、知っているように、オットオ・ワイエンゲルは、女を母婦型と娼婦型にわけているが、……君、だいたい、良妻の亭主は浮気者で、悪妻になやんでいる男は、かえって、その反対のところがあるね、……田中 純などの話では、直木の細君は悪妻だそうだが、そういうと、直木は実に堅いところがあるからね。……君などは……」《と続けたので、私[=宇野]は、》

「おれを浮気者というんだろう、僕は浮気者とすれば、……浮気者だが、……君、僕は、『心』の浮気者だよ。……」《と答えた。芥川は、》

「ふうむ。……」《と呟いた。》

と読む。順列から言うと、一見、そうではなく、宇野がワイニンゲルを語り、芥川が『心』の浮気者だと答えているように読めるが、「良妻」を受けたワイニンゲルの饒舌は明らかに同じ芥川の口吻である。宇野はこの頃、正式な婚姻をせず、芸妓や愛人と複数の関係を持ってはいるが、何より「『心』の浮気者」というニュアンスは芥川よりも宇野らしく私には感じられるからである。何より、ワインンゲルは「河童」で芥川龍之介の影の濃いトックの心霊の霊界での交流人物として『予の交友は古今東西に亙り、三百人を下らざるべし。その著名なるものを擧ぐれば、クライスト、マインレンデル、ワイニンゲル、……』と挙げられてもいる。]

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