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2012/03/25

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第三部 (11)

 此の島の女達は未だ因習に捉はれてゐず、パリーやニューヨークの女に獨持と思はれる自由な特色を幾らか持つてゐる。

 彼女たちの多くは裝飾的興味以上の物を持つには餘りに滿足しきつて居り、あまりにがつちりして居るが、また面白い個性を持つた女もある。

 今年は私は大へんおもしろい一人の娘を知るやうになつた。彼女は二三日前から茶の間で、お婆さんの紡(いと)車で糸を紡いでゐる。彼女の初めた朝、私は目の覺めた時から、彼女の一語一語を物靜かに舌だるく云ふ微妙な調子を聞いた。

 それに似たものを私はドイツの女やポーランドの女の聲に聞いたことがあるが、女よりも遙かに單純な動物的感情から離れてゐる男――少くとも歐州の男――とか、或ひは佛語・英語のやうな弱い喉音の言葉を使ふ人とかには、日常の會話で、こんな不明瞭な調を出すことは出來ないであらう。

 彼女は女がよくやるやうに示小詞を重ねたり、文章法を滑稽に無視して、形容詞を繰り返へしたりして、彼女のゲール語で惡戲(いたづら)をやり續ける。彼女が來てゐる間、話は茶の間で盡きることがない。今日彼女はドイツのことをいろいろ私に聞いた。それは、彼女の姉妹の一人が數年前ドイツ人とアメリカで結婚して、その人は彼女を立派な「コパル・グロス」(白馬)に乘せたりして大事にしてくれるので、此の娘もそんな風にして島の賤役から逃れようと思つてゐるらしかつた。

 今夜は私が爐邊の椅子に腰掛ける最後の晩である。私は、別れの挨拶をしにやつて來た村人達と長い間話しをした。彼等は頭を低い腰掛に載せ、足を泥炭の燃え差しの方へ伸ばし、床の上に横になつた。お婆さんは爐と反對の側に居て、さつきの娘は誰彼となく話したり冗談を云つたりして、紡車の前に立つてゐた。彼女は、私が歸つたら持參金の澤山ある金持の女と結婚し、その女が死んだらまた此處へ來て、彼女を第二の妻として迎へてくれと云つた。

 此の人達の話ほど、純樸でまた愛嬌のあるのを聞いた事がない。今夜は妻といふものに就いて議論が出たが、彼等が女に於いて見る最大の長所は多産的で澤山の子供を産むことにあるやうであつた。島では子供に依つて金儲は出來ないが、此の一つの心の持ち方は此處の人達とパリーの人達との大いなる相違を現はしてゐる。

 島では、あから樣な性の本能も弱い事はないが、それは家族愛の本能に從屬してゐるので、無手法になる事は滅多にない。此處の生活はまだ殆んど家長制度の段階にあるので、野蠻人の本能的な生活から遙かに離れてゐると同樣に、空想的な戀の情緒にも緣が遠い。

 

 

The women of this island are before conventionality, and share some of the liberal features that are thought peculiar to the women of Paris and New York.

Many of them are too contented and too sturdy to have more than a decorative interest, but there are others full of curious individuality.

This year I have got to know a wonderfully humorous girl, who has been spinning in the kitchen for the last few days with the old woman's spinning-wheel. The morning she began I heard her exquisite intonation almost before I awoke, brooding and cooing over every syllable she uttered.

I have heard something similar in the voices of German and Polish women, but I do not think men--at least European men--who are always further than women from the simple, animal emotions, or any speakers who use languages with weak gutturals, like French or English, can produce this inarticulate chant in their ordinary talk.

She plays continual tricks with her Gaelic in the way girls are fond of, piling up diminutives and repeating adjectives with a humorous scorn of syntax. While she is here the talk never stops in the kitchen. To-day she has been asking me many questions about Germany, for it seems one of her sisters married a German husband in America some years ago, who kept her in great comfort, with a fine 'capull glas' ('grey horse') to ride on, and this girl has decided to escape in the same way from the drudgery of the island.

This was my last evening on my stool in the chimney corner, and I had a long talk with some neighbours who came in to bid me prosperity, and lay about on the floor with their heads on low stools and their feet stretched out to the embers of the turf. The old woman was at the other side of the fire, and the girl I have spoken of was standing at her spinning-wheel, talking and joking with every one. She says when I go away now I am to marry a rich wife with plenty of money, and if she dies on me I am to come back here and marry herself for my second wife.

I have never heard talk so simple and so attractive as the talk of these people. This evening they began disputing about their wives, and it appeared that the greatest merit they see in a woman is that she should be fruitful and bring them many children. As no money can be earned by children on the island this one attitude shows the immense difference between these people and the people of Paris.

The direct sexual instincts are not weak on the island, but they are so subordinated to the instincts of the family that they rarely lead to irregularity. The life here is still at an almost patriarchal stage, and the people are nearly as far from the romantic moods of love as they are from the impulsive life of the savage.

 

[やぶちゃん注:原文では、以下、文章が続いているが、やはり内容的には切るべきである。

「此の島の女達は未だ因習に捉はれてゐず、パリーやニューヨークの女に獨持と思はれる自由な特色を幾らか持つてゐる。」 “The women of this island are before conventionality, and share some of the liberal features that are thought peculiar to the women of Paris and New York.”の前の部分は、この島の女たちの感性が、誠に稀有なことに、歴史的な「制度としての因襲」によって縛られる以前の段階に踏みとどまっていることを言っている。そして「にも拘らず」(と逆接風に)、知的で先進的な「パリーやニューヨークの女に獨持と思」われがちな、リベラルな特徴部分をも持ち合わせているのだ、という意味である。

「彼女たちの多くは裝飾的興味以上の物を持つには餘りに滿足しきつて居り、あまりにがつちりして居るが、また面白い個性を持つた女もある。」失礼ながら、この前半は日本語としては悪文である。原文は“Many of them are too contented and too sturdy to have more than a decorative interest, but there are others full of curious individuality.”であるが、これは「彼女たちの多くが、ここでここの女として生きることに満足しきっていて、加えてとてつもなくがっしりとして丈夫であるから――失礼ながら私には、アラン島というこの魅力的な世界を、見た眼で美しく装い飾る存在という以上の関心は、彼女たちに持つことは出来ないのであるが――しかし」また中にはすこぶる魅力的な「面白い個性を持つた女もある」という謂いであろう。栩木氏もそうしたコンセプトで訳されておられる。この部分は続く後半も、シングにしてはかなり踏み込んだ島の女についての叙述がなされている。紳士にして少年性を持ったシングは、アランの女たちを傷つけないように遠回しに(というより飽くまで民俗学的な謂いに包んで)表現しているという気が私にはする。

「不明瞭な調」「調」は「しらべ」と読ませていよう。原文は“this inarticulate chant”で、これは「この不明瞭な詠唱」の謂いである。これはこの女のゲール語の会話が、喋っているのか歌っているのかちょっと分からないような独特の音楽的なある種の調べを持っていることを意味している。

「示小詞」“diminutive”は文法用語の「指小辞」のこと。ある語について、それよりもさらに小さい意を示したり、親愛の情を表したりする接尾語のこと。例えば英語の“-ie”“-kin”“-let”“-ling”、ドイツ語の“-lein”“-chen”など。

「……大事にしてくれるので、此の娘もそんな風にして……」この日本語はやはり違和感がある。「大事にしてくれるのだと言った。その口ぶりからはどうも此の娘もそんな風にして……」としたい。

「島では子供に依つて金儲は出來ないが」これは、子供を有意な労働力と認識して、専ら子供に労働をさせて金を稼がせることは出来ないという意味である。アランにはそんな賃金を払ってくれる仕事も何もないという意味もあろうが、それ以上にアランの人々(厳密にはイニシマーンの人々)には、伝統的な家父長制による縛りはあるものの(しかし前出する第一部に出た「谷間の影」「西部の人気者」のモデルとなった話を見ると、それも決して強靭なものとは思われない)、子供を単純に労働力と見、彼らの収益を親が簒奪することを当然とするような親子関係はやや希薄であることをも言っているように思われる。マイケルもそうだが、若者の多くは島を出て働いているが、彼らが親の主たる生計維持者であるようには、私には必ずしも読めないのである。

「無手法に」は「むてつぱふに(むてっぽうに)」と読む。]

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