宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(2)
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…‥さて帰り支度をして梯子段をおり、芥川が便所の方に行きかけると、意外にも階下の廊下で向〔むか〕うから女をつれて、これも食事ををへて玄関の方へ出て来たのは南部修太郎で、しかも同伴の女性は、芥川の情人Hだつた。
[やぶちゃん注:「H」は秀しげ子。私の推測であるが、実質上はこの時には芥川はしげ子を既に嫌悪しており、少なくとも芥川の方からの積極的な不倫関係は疎遠になっていたものと思われる。]
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これは村松梢風の『芥川龍之介』のなかの一節であり、この食事をしたところは『中華亭』である。
ここに村松が『H』であらわしている女性を、小穴は、『S』として、つぎのように書いている。
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S。高利貸の娘、芸者の娘、劇場の電気技師の妻、閨秀歌人、これが彼女の黒色影像〔シルエット〕であつた。
……さうしてただ一葉〔いちえふ〕の書簡箋の数行のなかに、確かに、(南部修太郎と一人〔ひとり〕の女〔ひと〕Sを自分自身では全くその事を知らずして××してゐた。それを恥ぢて自決をする。)と読んだのではあるが、(此の自分に渡〔わた〕された遺書で最初のものは後に彼にかへした。)次ぎに、南部修太郎が消えて宇野浩二の名が現れてゐた、と書かうとする自分には、非常な錯覚による支障を齎〔もた〕らすのである。
――ここに、二つの話が死者によつて僕に残されてゐる。(昔、宇野と一緒に諏訪に行つてゐた時である。)「一日〔いちにち〕、宇野の机の上に見覚えのある手紙があつたので、自分はそれを未〔いま〕だに恥づかしい事には思つてゐるのだが、それをそつと開〔あ〕けてみたら、実にたがはず、その筆者がSであつて、Sと宇野の間のことを、はじめて自分はその時知つて非常に驚いた。君、Sはそのやうな女なんだ。」以下省略。
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これと同じような事を、村松も、『芥川龍之介』のなかで、つぎのように述べている。
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……諏訪は宇野の第二の故郷みたいな土地だつた。その土地にゐた間に、ある日、宇野の下宿で彼の机の上に見覚えのある筆蹟の手紙があるのを見て開〔あ〕けてみると、筆者はHだつた。Hは宇野とも関係があつたのだ。この時は流石の芥川も憮然となつた。このやうな放浪癖を有するHではあつたが、Hが生んだ男の子は甚だしく芥川に似てゐたので、最後まで彼は此の事を悩みの種にしてゐたといふ事だ。
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この村松の文章は小穴の文章から取ったものにちがいないが、その小穴の文章が、さきに引いたものだけでもわかるように、晦渋で、妙に気を持たせるようなところがある。それに、この謎の女と私とが関係があったなどという事はまったくマチガイであり、また、私はこの謎の女から手紙などもらった事は一度もない。それから、小穴の文章にあるように、もし芥川が本当に「宇野の机の上に見覚えのある筆蹟の手紙があつた」と云ったのなら、私は、かりに芥川が生きているとしたら、その芥川に、「いくら君が人をからかう事に興味をもっているにしても、君を信頼している小穴に、あんな作〔つく〕り事〔ごと〕をいうのは、あんまりひどいじゃないか、」と詰〔なじ〕りたい。
その芥川の云った事を真〔ま〕にうけて、小穴は、芥川の思い出を述べた『二つの絵』という文章のなかで、『S女史』について十ペイジ以上も書いているので、この二三年のあいだに、このS女の事を、滝井孝作が、『純潔』という小説のなかで、S夫人という名で書き、廣津和郎が、『彼女』という小説に、彼女という代名詞で、S女史の若い時分の事を書き、村松梢風が、さきに述ベた、『芥川籠之介』のなかで、Hという名で書いている。そこへ、私が、この文章の中〔なか〕で、謎の女という事にして、S女史らしいものをちょいと書いた。そこで、そのS女史が、私と、偶然、町で逢った時、それらの小説の話などをして、私に、こぼした。
そこで、私が、そのS女史といわれる女の人に、「……そういえば、僕は、あなたとあまりお附〔つ〕き合〔あ〕いをした事はない、だから、あなたから手紙などもらった事はないでしょう、」と云うと、相手の女は、「……あたしも書いたおばえはございませんが、何〔なん〕でも、あたしの名で、鍋井さんがお出しになった、と……」と云った。
これには私もあいた口がふさがらなかった、鍋井は、芥川に一度も逢った事がない筈であり、また、かりに親友からこういう手紙の代筆など頼まれても、絶対に書かない男であるからである。
そこで、「この文章をよむ人よ、」と私は云う、芥川に関する事は、小穴のような聡明なる人が書いても、村松のごとき賢明なる伝記者が述べても、このような、はなはだしい、マチガイがあるのであるから、私のごとき鈍物〔どんぶつ〕が述べる事は、(引用文のほかは、)ことごとくマチガイにちがいない、よって、「この文章をよむ人よ、私が、これまでだらだらと述べてきた事も、これから述べる事も、マチガイだらけにちがいないですから、了承するとともに、なにとぞ、御容赦〔ごようしゃ〕ねがいあげます。」
[やぶちゃん注:「あたしの名で、鍋井さんがお出しになった」という秀しげ子の証言の意味が分からない。「鍋井」は前出の洋画家鍋井克之であり、宇野は「鍋井は、芥川に一度も逢った事がない筈であり、また、かりに親友からこういう手紙の代筆など頼まれても、絶対に書かない男」だと言い、ではその鍋井が『しげ子の名を騙って宇野に手紙を出した意図』は何なのか、翻って見れば『宇野は何故、その詐称された手紙を貰った記憶がないのか』(但しこれは、宇野がその後に重い精神病に罹患した事実による記憶の欠落という説明は可能ではある)、そもそもこの時、『このしげ子の告白を聞いた宇野はそれをどう解釈したのか、宇野にとって全くの解釈不能なら、なぜしげ子にそこを突っ込んで聞かなかったのか』さえも示されていない。況や、宇野はしげ子との冤罪の一件に対して(断っておくが「しげ子」に対してではなく、あくまでこの小穴を震源地とすると断定してよい宇野の受けたとばっちりに対してである)憤慨しているにも拘わらず、『どうしてそこで突っ込んで語らないのか?』というところで、この宇野の文章でさえ――正しく「謎の謎」――ではないか、ということである。]

