宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(4)
芥川の『或阿呆の一生』のなかに女の事を書いているところが七箇所ぐらいある。そうして、その中〔なか〕に、「彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光りの中にゐるやうだつた、」という文句が二箇所も、(『月』と『スパルタ式訓練』とに、)出てくる、それから「彼女の顔は不相変〔あいかわらず〕月の光の中〔なか〕にゐるやうだつた」(『雨』)というのもある。つまり、三つとも殆んど同じ文句である。それで、例の『芥川龍之介研究』(座談会)でも、それが問題になっている。それで、そこを次ぎに抜き書きしよう。
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久米。『或阿呆の一生』の中に女が三人か四人出てくるだらう……
廣津。だけど、あのホテルを出て後悔するかと聞く女……お月様〔つきさま〕のやうだと書いてある女……しかし、あれはどうもお月様の感じが全然ないからね。
久米。あれはまた違ふんだ。君の云つてるのは気違ひの娘といふ方だらう。遺書の中にある女は、――スプリング・ボオドに使はうといふのはまた違ふんだ。僕に『す』とまではいふんだが、それから先きはどうしても云はん。……白蓮がよく知つてゐる。『あの方にはお気の毒しました……』と僕が知つてゐるやうに云ふんだが、どうもわからん。……それから、もう一人の女は廣津が今いつたのは京都だらうと思ふ。
廣津。お月様といふのは、鎌倉の方面だらう。
川端。月光のやうな感じがするといふこと、あれは二度も三度も書いてゐる。
廣津。さうして、後悔するかしないかといふ、あれがどうもわからんがね。
久米。聞いてみればわかるだらう。×××××××、軽井沢で逢つてゐる女の人は×××××××、それから、向うの人力車からすれちがつて、春の山が見えるといふのは、京都の××××お妾ぢやないかと思ふ、ちよつとそんな惚気〔のろけ〕を云つたことがあつた。
廣津。君と菊池君と宇野と僕が上野の山下で飯を食はうと云つて、芥川のステッキを見つけて、それで、芥川芥川とどなつた事があつたね。
久米。あれは『おいねさん』窪川いね子だよ。
廣津。さうぢやない、その時、大丸髷が唐紙〔からかみ〕の向うにちよつと見えて、いいえ、芥川さん見えてをりません、……それで、四畳半へわれわれ押しこめられて、座敷のあくのを待たされた。
徳田[註―秋声先生]。その大丸髷といふのは誰ですか。
廣津。それは大抵わかつてゐるのだけれど、君は、(久米氏に、)よく知つてゐる、鎌倉だよ。宇野だけが知つてゐる。……宇野に何度聞いても云はない。
[やぶちゃん注:これを読むと、芥川龍之介を廻る女性関係のゴシップが憶測から連鎖して如何に錯綜していたかがよく分かる。以下、長くなるが宇野の叙述に先行して整理したい(宇野の叙述には誤りもあるので)。
まず、久米の言う『あれはまた違ふんだ』という〈月光の女複数説〉――後文で宇野が「芥川は、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないか」と述べる見解は――基本的に正しい。芥川が複数の女性を、それもかなり長いスパンの中での複数の恋した女性を「月光の女」と呼んでいる(少なくとも「或阿呆の一生」の中で)ことは最早、間違いない事実である。而して、それが誤解の連鎖を生んでいることも事実であるが、私はそれを何ら問題としないのである。何故なら芥川龍之介は小説家だからだ。「或阿呆の一生」は芥川龍之介の辿り着いた最後のオリジナルな稀有の独特な告白形式の立派な小説である。但し、芥川龍之介は少なくとも、それぞれの瞬間での「月光の女」は現存在として実在の人物を名指すことが出来るようには書いている(後述しているように宇野は性格上、「月光の女」は架空の理想像、『絵空事』として拡散させ、個別に指し示せない存在――というよりそのような価値を認めない傾向がある。いや、それはそれで芥川龍之介の女性観を捉える上では意義のあるものではあると私も認めるし、これから私が示すようにそれを実名を挙げて名指すことに意味があるかどうかも私自身、実は一面、疑問を持ってはいる)。ともかく〈月光の女〉の候補と、それを詠んだ章句を線で(一対一ではないが)結ぶことは可能だということである。但し、「或阿呆の一生」中の〈月光の女〉は複数の異なった時系列の女性をわざとダブ(トリプ)らせて描いていると思われ、また、後に示される定型詩の場合も、私は、芥川は〈昔の月光の女〉を詠んだものを、〈その時点での月光の女〉に対して、完全に若しくは部分的に巧みにリサイクルしてリユースして用いていると考えている。あたかも芥川龍之介の小説の多くに種本が存在するように、である。そして私はそれも問題にしない。我々の愛情は常に新鮮で一度きりのオリジナルで――あろうはずが――ない、と私は考えているからである。――愛の表現を永遠にデフォルメし続け、素朴な感情を粉飾し続けることなんぞが出来る輩の方こそ、私には救い難い「噓」がある――と言いたいのである。
以下、この座談で挙がっている女性を確認してみよう。但し、間違ってはいけないのは、芥川龍之介がここに挙がっている女性と総て特別な関係を持っていたという事実の提示ではないので注意されたい。
「気違ひの娘」歌人秀しげ子(明治二十三(一八九〇)年~?)。既婚者。夫は帝国劇場電気部主任技師秀文逸。既出の、遺書にも登場するファム・ファータルである。
「スプリング・ボオドに使はうといふの」「僕に『す』とまではいふ」「白蓮がよく知つてゐる」妻芥川文の幼馴染み平松麻素子。「白蓮」は歌人柳原白蓮のことで、平松は彼女と親しくしていた。未婚。彼女とは実際に帝国ホテルで自殺未遂をしているが、彼女は寧ろ、妻文の意志で自殺を志向していた芥川の一種の相談相手兼監視役としての存在が強い。「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の、
彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。
「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」
彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。
「プラトニツク・スウイサイドですね。」
「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」
彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。
は彼女であると考えられる。但し、廣津の言う「ホテルを出て後悔するかと聞く女」、則ち、「二十三 彼女」の、
或廣場の前は暮れかかつてゐた。彼はやや熱のある體(からだ)にこの廣場を歩いて行つた。大きいビルデイングは幾棟もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。
彼は道ばたに足を止め、彼女の來るのを待つことにした。五分ばかりたつた後(のち)、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。が、彼の顏を見ると、「疲れたわ」と言つて頰笑んだりした。彼等は肩を並べながら、薄明い廣場を歩いて行つた。それは彼等には始めてだつた。彼は彼女と一しよにゐる爲には何を捨てても善(よ)い氣もちだつた。
彼等の自動車に乘つた後、彼女はぢつと彼の顏を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言つた。彼女の顏はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。
は、必ずしも(という留保で)麻素子とは捉えられないというのが、今の私の印象ではある。
「京都」「京都の××××お妾」この久米の言う女性は私には不詳であるが、これは実は次の野々口豊と同一人物である可能性が高いように私は思っている(二〇〇六年彩流社刊の高宮檀「芥川龍之介を愛した女性」に京都での野々口豊との遭遇の可能性が考証されている)。
「鎌倉の方面」「大丸髷」「鎌倉だよ。宇野だけが知つてゐる」野々口豊(明治二十五(一八九二)年~昭和五十(一九七五)年)。既婚者。直後に示される如く、夫野々口光之助の営む鎌倉にあった料亭小町園の女将である。後に宇野も語る大正十五・昭和元(一九二六)年の暮れから翌年二日にかけての「小さな家出」の相手であり、相応に龍之介からの恋情は深いものがあった。
「×××××××、軽井沢で逢つてゐる女の人は×××××××」歌人にしてアイルランド文学者片山廣子(松村みね子)。「越し人」である。既婚であるが、晩年の芥川龍之介が恋心を寄せた時は既に未亡人であった。私は個人的に晩年の芥川龍之介が真に恋した相手は彼女であったと思っている。それについては私のHPの芥川龍之介及び片山廣子のテクスト注やブログ・カテゴリ「片山廣子」を参照されたい。
「『おいねさん』窪川いね子」既出の後の作家佐田稲子(明治三十七(一九〇四)年~平成十(一九九八)年)。料理屋の女中だった頃(大正九(一九二〇)年頃)からの馴染みであり、自殺の三日前に自殺未遂の経験を芥川龍之介から問われたりもしているが、彼女とは恋愛関係にはなかった。
また、芥川龍之介が〈月光の女〉と若き日に直に呼称した可能性が極めて高い女性として、
横須賀海軍機関学校時代の同僚で物理学教授であった佐野慶造の妻で歌人の佐野花子(明治二十八(一八九五)年~昭和三十六(一九六一)年)
がいる事実は挙げておく必要がある。〈月光の女〉としての彼女について、私は過去に自身のブログの「月光の女」・「芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察」・『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』などで考察を重ねてきた。そちらも是非、参照されたい(但し、概ね、芥川龍之介の研究者は佐野花子のそれを一種の受身の恋愛妄想として捉え、眼中に置いていない。妄想や思い込みは多分にあるものの、彼女のことを芥川も愛していたと私は踏んでいる)。
最後に言い添えておくと、直接に〈月光の女〉との関連はないものの、
芥川の恋愛観・人生観に大きな影響を及ぼした失恋(芥川家の反対による)相手吉田弥生(明治二十五(一八九二)年~昭和四十八(一九七三)年)
や、二十一歳頃のものと思われる龍之介のラブ・レターが現存する、
彼女に先行する初恋の相手とされる新原家の女中であった吉村ちよ(明治二十九(一八九六)年~昭和四(一九二九)年)
などは龍之介の思春期の致命的とも言える女性観形成に非常に重要な人物である。
既出の小亀などの芸妓などを除外すると、他には、
大正十四(一九二五)年頃から翌年二月頃まで日本文学の個人教授を芥川がしていた南条勝代(詳細資料なし)
という女性などが少し気にはなる。が、逆に、宇野の話の既出部分で仄めかされる(若しくは取り上げられている)作家岡本かの子や、谷崎潤一郎の最初の妻千代の妹で谷崎の「痴人の愛」のナオミのモデルとされる小林せい子(小林勢以子)などは、失礼ながら、芥川の恋愛対象の外延からは大きく外れていると私は思っている。]
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この最後の『大丸髷』の一件について、前に少し書いたのを抹削したので、つぎに述べよう。
やはり、大正十年か十一年頃であったか、たしか、秋のはじめ(まだ残暑)の頃の或る日の夕方、菊池が先頭に立って、久米、廣津、私の四人が、下谷の同朋町の何〔なん〕とかいう大阪料理を食べさせる家にはいって行くと、四人のうちの誰かが「あッ、芥川が、」と云った。さきに述べた、真鍮の鳳凰の頭のついたステッキが玄関のタタキの隅に立てかけられてあったからである。
そこで、私たちが、いわず語らず、「芥川がこの内〔うち〕にいる、」というような好奇心をいだきながら、二階にあがって行くと、階段をあがったところの右側の部屋に、ちらと、大丸髷の女がむこうむきに坐〔すわ〕っている後姿〔うしろすがた〕が、見えた。咄嗟に、私は、はッと思った。後姿だけで、(今は、もう、はっきり、書こう、)それが、鎌倉の『小町園』のお上〔かみ〕である事がわかったからである。
私が、はッと思った途端に、唐紙がすうっと締まった。
やがて、奥の座敷に通〔とお〕されたので、私が、久米にむかって、「あれは……」と云いかけると、久米が、「フウン、」といったような顔をしたので、私は、すぐ、心のなかで、『あの女に久米は気がつかなかったらしいな、』と思ったので、あとの言葉を呑みこんでしまった。
そこで、久米は、そのまま、だまってしまったが、菊池は、あの甲〔かん〕だかい声で、何度〔なんど〕も、私に、「あれは、誰だ、誰だ、」と聞いたが、私は「後姿だから、見当がつかない、それに、すぐ、唐紙がしまってしまったから、」と、答えた。
つまり、『大丸髷』の一件とはこれだけの話である、なぜなら、私はその後、芥川に何度か逢ったが、芥川がその時の事を何〔なに〕もいわなかったから、私もその時の事は吹呿〔おくび〕にも出さなかったからである。
ところで、さきの座談会であるが、あの記事だけで見れは、芥川という男は、遺書の中〔なか〕にまでお歴歴の人人〔ひとびと〕を迷わせるような事を書いた、という事にはなるけれど、あの中で廣津や久米もちょっと指摘しているように、「月の光りの中にゐるやうな女」とは、結局、芥川の『絵空事〔えそらごと〕』であるのである。