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2012/03/10

宇野浩二 芥川龍之介 四~(2)

 この事はしばしば書くが、芥川は、人に決して弱みは見せず、常に、浩然としているようには、颯爽としているようには、見えたが、実に、気の弱い、気のまわる、気を病〔や〕む、人であった。

 大正六年七年八年九年は芥川の文学的生涯のうちでもっとも花やかな時代であった。それで、この芥川の花やかなりし時代には、たとえば、(たとえば、である、)森 鷗外、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥、志賀直哉、有島武郎、里見弴、菊池寛、その他、当時の一流の大家がそれぞれ一流の雑誌に名前をならべていても、そのなかで、芥川龍之介だけが一ばん目にたった、といっても、まず、過言ではない。それは、芥川の小説がいくらか高級な文学青年に、わけわからずに、もてはやされたからでもあるが、『芥川龍之介』という、ぱっとした、派手〔はで〕な、名前が大〔おお〕いあずかっていたのであろう。(その頃、⦅大正の中頃⦆、姓名判断というものに凝〔こ〕っていた、鍋井克之が、ある時、「……芥川龍之介、……芥川龍之介、……ふむ、ええ名前やなあ、……徳な名前やなあ、……芥川龍之介、桃井若狭之介、市村羽左衛門、といふやうな、ぱつとした、派手な、名前は、なんとなう、好〔す〕いたらしい、男前〔おとこまへ〕(大阪へんで、男ぶりがよい、という意味につかう言葉)らしうて、ええ名前や、徳な名前や、」と、いった事がある。閑話休題。)しかし、芥川自身も自慢であったらしいこの名前で、芥川は、徳もしたかもしれないけれど、この名前が煩〔わずら〕いになったようなところもあった、若年にして声名を得たことがそうであったように。しかし、結局、芥川に一生わずらいしたのはその性質言った。その性質は、しかし、複雑であるが、煩いをしたのは、見え坊と極端な気の弱さであった。

[やぶちゃん注:「鍋井克之」(明治二十一(一八八八)年~昭和四十四(一九六九)年)は大阪出身の洋画家。二科会から昭和二十二(一九四七)年の二紀会結成に参加。後に浪速芸大教授。

「桃井若狭之介」は「仮名手本忠臣蔵」の登場人物の一人。桃井若狭之助安近〔やすちか〕。浅野内匠頭相役の御馳走役。モデルは津和野藩主亀井茲親〔これちか〕。]

 ここで、ちょいと、芥川が大正六七八年のあいだに書いた手紙のなかの妙なの三つ四つ、(その一部分だけ、)読んでみよう。

 こなひだは色々お世話様でした[註―『羅生門』の会を世話してもらった礼]僕論[註―江口の「芥川龍之介論」のこと]は学校[註―海軍機関学校]で中と下を拝見しました少し褒めすぎてます殊に「貉」なんぞは下らないものですよそれから小道具〔こだうぐ〕の悪〔わる〕い中〔うち〕「運」の鶯は古〔ふる〕いのを又又承知の上で使つたんですあれは幾分古い情調に興味を持つた作なんですから「忠義」の時鳥はお説通り活字になつた時から不愉快で仕方がないんです「羅生門」は当時多少得意の作品だつたんですが新思潮連には評判が悪かつたものです成瀬が悪評の張本だつたやうに想像してゐますが

[やぶちゃん注:「鶯」は、「運」で主人公の青侍が清水近くに仕事場を構える陶器師〔すえものし〕の翁に語るシークエンスで、背後の藪から鳴くSE(サウンド・エフェクト)で二箇所で現れる。

「時鳥」の方は、SEというよりも(最初の近過去の回想シーンでは鳴くが)象徴的小道具として用いられる。「忠義」の主人公、世の嘲りを受け、家督を人の手に渡さざるを得ない主人公板倉修理〔いたくらしゅり〕が、時鳥の声を聴き、「あれは鶯の巣をぬすむそうじゃな。」と呟き、後に発狂、家紋の見間違いによって細川越中守を板倉佐渡守と誤認して(これは実際の歴史的事実とされている)殿中刃傷殺害に及んだ際にも「時鳥」云々という意味不明のことを呟いていたという「噂」として、エンディングでは修理の狂気のシンボルとして機能するが、確かに如何にもな伏線ではある。]

 これは、大正六年の六月三十日に、芥川が鎌倉から、江口にあてた手紙の書き出しの一節であるが、ことごとく自作の弁解であるのが誠におもしろいではないか。(わたくし事ではあるが、私には、こういう手紙を書いている芥川の顔が、今、ここに、目の前に、見えるような気がするのである。)

 小島さん

 三田文で褒めて下すつたのはあなただと云ふから申し上げますあの作品[私の憶測であるが『偸盗』]はあなたのやうな具眼者に褒められる性質のものぢやありませんこの間よみ返して大分冷汗を流しました。

[やぶちゃん注:「私の憶測であるが『偸盗』」とあるが、これは前月五月に大阪毎日新聞に社友第一作として連載した「地獄変」の誤認である。この手紙は葉書で計四通(次の段落で「三枚つづり」とあるが、主文は三通であるが、プラスもう一枚ある)配信されており、その「(2)」(岩波版旧全集書簡番号四二七)ではっきりと「大殿と良秀と娘との関係を……」と述べている。なお、この芥川が『褒めて下すつた』という小島の「地獄変」評は、大正七(一九一八)年六月号の『三田文学』に小島が「中谷丁蔵」名妓で発表した「『地獄変』を読む」を指すのであるが、実はこの評論、総体では「地獄変」に代表される芥川の作品群を賞賛しているものの、心理描写に於ける作者の説明癖を指摘して、実は「地獄変」を批判したものである。宇野の引用していない複数の葉書による後半を読めば分かる。ここは何故、宇野が「偸盗」と勘違いしたのか(勘違いのしようのない内容である)、私には不思議である。――そういう勘違いをする宇野に、私は実は『なぜか、悲しくなるのである』――そのことはいつか、また書こう。――]

 これは、大正七年の六月十八日に、芥川が、鎌倉から、小島政二郎にあてた、三枚つづきの葉書だよりの最初の一節であるが、私は、芥川のこういう文句をよむと、なぜか、悲しくなるのである。

 四回送りました

 この頃やつと話をしつかり進行させられるやうになつて来ましたどうも今までの所は気に食はないこれからはもう少し小説らしく動いて行きます何しろ今までが今までだから評判は悪〔わ〕るかないかと思つて大いに社の為〔ため〕に気づかつてゐますそれから名越〔なごし〕さんの挿画も内容より上等なので恐縮ですあなたからよろしくその恐縮の意を御伝へ下さい今度ばかりは実際少評判が気になり出しました

[やぶちゃん注:「名越」大正・昭和前期の挿絵画家名越国三郎(なごしくにさぶろう 生没年不詳)である。当時は毎日新聞社お抱え画家の一人であった。]

 これは、大正七年の十一月九日に、芥川が、鎌倉から、薄田泣董[註―当時は大阪毎日新聞の学芸部長]にあてた手紙の大部分であるが、この手紙のなかの小説とは、『邪宗門』であろう。もう十何年も前によんだので、はっきり覚えていないが、たしか、『地獄変』の後日談のようなものではなかったか、と思う。(しかし、六分ぐらい記憶ちがいのような気がする。)いずれにしても、この手紙は、いくらユキヅマリを感じていた時分とはいえ、芥川にしては、なさけないほど、へりくだっている。

[やぶちゃん注:「たしか、『地獄変』の後日談のようなもの」は正しい。「邪宗門」は大阪毎日に「地獄変」を連載した五ヶ月後の大正七(一九一八)年十月から同新聞に連載を始めたが、その冒頭は「先頃大殿樣御一代中で、一番人目を駭〔おどろ〕かせた、地獄變の屏風の由來を申し上げましたから、今度は若殿樣の御生涯で、たった一度の不思議な出來事を御話し致さうかと存じて居ります。」と「地獄変」の話者と同一人物の語りで始まるからである。但し、宇野が『しかし、六分ぐらい記憶ちがいのような気がする』と自信なさ気なのも分かる。何故なら、こう語り出した「邪宗門」の内容自体は、「地獄変」の内容とは無関係なもので、『後日談』、ではないからである。宇野の感覚はここでは正確である。なお、「邪宗門」は連載中に芥川がスペイン風邪に罹患して休載が続いた上、その構想や語りの構造的不備を克服することが出来ず、遂に未完で不当に匙を投げた作品であり(私は未完というのは作家として――特に芥川のようなストーリー・テラーとしては――あってはならないことだと思っている。更に私が不快なのは、芥川がこの未完作を作品集『邪宗門』に再録し、その作品集の題名にさえしている点である。厚顔無恥も甚だしいではないか――大好きな芥川龍之介にして瑕疵であると私は思っている)、確かに宇野が言う芥川の『弱さ』が、『しみじみ、思われる』作である。]

 私は、この手紙をうつしとったのを、後悔した。しかし、芥川はやっぱり弱い人であったのだ、と、しみじみ、思われるのである。

 自分は「羅生門」以前にも、幾つかの短篇を書いてゐた。恐らく未完成の作をも加へたら、この集に入れたもの[註―十四篇はいっている]の二倍には、上つてゐた事であらう。当時、発表する意志も、発表する機関もなかつた自分は、作家と読者と批評家とを一身に兼ねて、それで格別不満にも思はなかつた。

 これは、芥川が、『羅生門』の跋として書いた文章のなかの一節である。この文章のなかの「発表する意志も、……」から「格別不満にも思はなかつた、」までの言葉がもし本当とすれば、(もし本当とすれば、である、)二十三四歳の文学書生の心がけとしては、実に謙遜であり殊勝である。もし、かりに、『文学』を学校でおしえる学問のようなものであるとすれば、その学校の教師は、文学を志望する年少の学生たちにむかって、この芥川の言葉を黒板に書きながら、「……諸君、この人を見よ、この人の格言を、座右の銘としなさい、」と、いうであろう。これは、ただ読んだところだけでは、まことに正〔ただ〕しき訓示のようなものであるからである。

 しかし、はたして芥川はこのような謙遜な殊勝な心がけを持っていたであろうか。芥川は、心の中でそのように思っていなくても、文章を縦横無尽に使いわける事においては随一の名人であるから、さきの学校の教師の口真似〔くちまね〕をして、私は、「年少の諸君よ、芥川の文章をそのままに取ること勿〔なか〕れ、」と、いいたく思うのである。

 ところで、この『羅生門』の跋を、(さきに引〔ひ〕いた一節のつづきを、)読んでみると、こんどは、修行〔しゅぎょう〕時代の(文学書生時代の)芥川の苦労や気づかいがよくわかって、大へん興味がふかいのである。ところが、なにぶん、この跋は、芥川が、功成〔な〕り名遂〔と〕げてから、書いた文章であるから、やはり、謙遜に述べているように見えるが、思いあがっているようなところがあって、否味〔いやみ〕なところはあるけれど、それはそれで、又、おもしろいところがあるから、さきに引いた文章のつづきを、つぎにうつしてみよう。

 尤も、途中で三代目の「新思潮」[註―大正三年二月、久米正雄、菊池 寛、山本有三、豊島與志雄、山宮 允、松岡 譲、芥川龍之介、その他が、同人となって創刊した]の同人になつて、短篇を一つ[註―『老年』]発表した事がある。が、間もなく[註―一年ほどで]「新思潮」が廃刊すると共に、自分は又元の通り文壇とは縁のない人間になつてしまつた。

 それが彼是〔かれこれ〕一年ばかり続く中に、一度「帝国文学」の新年号へ原稿を持ちこんで、返された覚えがあるが、間もなく二度目の[註―『ひよつとこ』]がやつと同じ雑誌で活字になり、三度目の[註―このあとに書かれてあるように『羅生門』]が又、半年ばかり経つて、どうにか日の目を見るやうな運びになつた。

 その三度目が、この中へ入れた「羅生門」である。その発表後間もなく、自分は人伝〔ひとづて〕に加藤武雄君が、自分の小説を読んだと云ふ事を聞いた。断つて置くが、読んだと云ふ事を聞いたので、褒〔ほ〕めたと云ふ事を聞いたのではない、けれども自分はそれだけで満足であつた。これが、自分の小説も友人以外に読者がある、さうして又同時にあり得ると云ふ事を知つた始めである。

[やぶちゃん注:「山宮允」(さんぐうまこと、明治二十三(一八九〇)年~昭和四十二(一九六七)年)は後で本文でも出てくるのでここで注しておく。詩人・英文学者。大正四(一九一五)年東京帝国大学英文科卒。本文にある通り、大正三(一九一四)年の第三次『新思潮』創刊では中心的役割を担った。大正六(一九一七)年には川路柳虹らと詩話会を結成、後に法政大学教授などを務め、イェーツやウィリアム・ブレイクの紹介に功があった。
「加藤武雄」(明治二十一(一八八八)年~昭和三十一(一九五六)年)は小説家。小学校高等科を卒業後、郵便局員や小学校補助教員、訓導を経て、明治四十三(一九一〇)年から新潮社編集者として『文章倶楽部』などを編集。大正八(一九一九)年に自然主義的短編集「郷愁」で作家デビュー、大正末から昭和初期には中村武羅夫・三上於菟吉と並び称せられる通俗小説家として一世を風靡した。本記載の『加藤武雄君が、自分の小説を読んだと云ふ事を聞いた』とあるが、加藤武雄は後の大正六(一九一七)年一月の「新潮」一月号で「芥川龍之介を論ず」と題し、「ひょっとこ」「鼻」「羅生門」等を論評している。]

 右の文章は、上辺だけ読めば、「文壇とは縁のない人間になつてしまつた、」とか、「せつかく持ちこんだ原稿をかへされた、」とか、「どうにか日の目を見るやうな運びになつた、」とか、「自分の小説も友人以外に読者がある、」とか、いう文句は、一応心をひかれて、そんなに苦心惨憺したのであったか、と、ちょいと「同情する気になる、いや、心から同情する気になる。が、よく読めば、さきに述べたように、意地わるくとれば、功成〔な〕り名遂〔と〕げた人が、(つまり、芥川が、)自分は、こういう思いをして来たが、今は、こうして、……と、心の底で、空〔そら〕うそぶいているように取れないこともない。それから、私は、『羅生門』が「帝国文学」[註―大正四年の十月号]に出た時、ほとんど誰もみとめたものはないが、加藤武雄は『羅生門』に感心したという事を聞いたことがある。それで、私は、おそらく、芥川も、加藤が、『羅生門』を、読んだばかりでなく、褒めたという事を、「人伝〔ひとづて〕」に、聞いたにちがいない、と思うのである。それを、芥川が、わざわざ、「断つて置くが、読んだと云ふ事を聞いたので、褒めたと云ふ事を聞いたのではない、」と書いているのは、これも、芥川一流〔りゅう〕の捻〔ひね〕くる云い方である。物事を素直にいわない事は、芥川の長所といいたいが、芥川の短所である。

[やぶちゃん注:「帝国文学」の「註―大正四年の十月号」は十一月号の誤り。]

 しかし、また、芥川が、このように、いらいらしたり、じれたり、したのは、芥川のような性質の人には、無理もない事であった。第三次「新思潮」が出た、大正三年という年は、さまざまの、同人雑誌に、(同人雑誌にちかい雑誌に、)いろいろな新進作家や無名にちかい人たちが小説や戯曲を発表した年であったからだ。そうして、こういう現象は、すでに明治の末年からはじまり、新進作家や無名作家の作品を出す雑誌は、これまでの、「中央公論」、「文章世界」、「太陽」、「新小説」、その他、のほかに、「三田文学」、「白樺」、「スバル」、「劇と詩」、「モザイク」、「朱欒」、その他、その他、文字どおり、無数の文芸雑誌が出て、それが大正元年、二年、三年、と、しだいに、ふえて来た。そうして、それらに出る新進の(あるいは無名にちかい)作家や詩人や歌人はたいていは二十三四歳から二十五六歳で、それらの雑誌の読者はおおよそ十七八歳から二十二三歳ぐらいまでの年頃〔としごろ〕の者が大部分であった。

 私は、明治の末年から大正の初め頃まで、それらの雑誌の愛読者であったが、それから四十年ぐらいまでの間〔あいだ〕に、その頃ほど、才能のある作家や詩人や歌人が数おおく活動したのを見たことがない、その時分ほど、あたらしい若若しい元気のある小説や戯曲や詩や歌の花ひらいたのを見たことがない。

 思い出すままに、順序不同に、書いてみれば、志賀直哉、武者小路実篤、谷崎潤一郎、里見 弴、久保田万太郎、小山内 薫、長田秀雄、吉井 勇、北原白秋、若山牧水、石川啄木、高村光太郎、秋田雨雀、森田草平、鈴木三重吉、長塚 節、伊藤左千夫、その他、更に、安倍能成や小宮豊隆までが小説を書いたのであるから、これでは、書いても、書いても、書ききれないのである。

 ところで、ためしに、大正元年から大正三年までの日本文学の年表を繰って見て、当然の事であるのに、意外な気がしたのは、それらの雑誌に作品を出している新進作家と無名作家の十分の三ぐらいがいわゆる自然主義の本山といわれた『早稲田』出の人たちである事であった。それは、加能作次郎、吉田絃二郎、白石実三、田中介二、谷崎精二、その他であるが、おどろいたのは、谷崎精二が、ずぬけて、数おおく書いている事であった。猶、谷崎精二が、その同人になっていた、「奇蹟」には、唐津和郎、葛西善蔵、相馬泰三、その他が作品を出している。

 さて、第三次の「新思潮」が出て、すぐ文壇にみとめられたのは、豊島與志雄あった。そうして、その「新思潮」の第一号に出た豊島の『湖水と彼等』は、題名からでもうかがわれるように、まったく清新な小説であった。そのためであろう、豊島は、その後、「新思潮」ばかりでなく、ほかの雑誌にも、つぎつぎと、作品を発表した。それで、菊池が、『新思潮と我々』という文章のなかで、(これも私のうろおぼえであるが、)第三次の「新思潮」の同人のなかで、文壇的に有名になったのは豊島與志雄一人であった、というような事を書いていたが、はっきりいえば、それが本当であろう。さて、それから、やはり、「新思潮」の第二号に、久米正雄が『牛乳屋の兄弟』という社会劇のようなものを出したが、それは新鮮味などはほとんどまったくなかったけれど、たまたま、新時代劇協会によって、それが、その年[つまり、大正三年]の九月に、有楽座[註―数寄屋橋を朝日新聞社の方へわたり、橋をわたるとすぐ右の方へ半町の半分ほど行った右側ににあった小劇場で、川の方にむかっていた]で上演されたために、『久米正雄』という名が、たちまち、有名になった。それで、久米は、劇作家になるつもりで、その後も、『鉄煙の中へ』などという脚本を「帝国文学」に出したり、時をおいて、脚本を、あちこちの雑誌に、出したり、した。が、それらの脚本は、みな、あまりよい出来ではなかった。それから、山本有三が、そのつぎの「新思潮」[註―第三号]に『女親』という自然主義風の戯曲を出したが、それきり、何〔なん〕にも書かなくなってしまった。

[やぶちゃん注:「山本有三が……何にも書かなくなってしまった」とあるが、「何にも」は厳密には正しくない。創作ではないが、この後も「新思潮」第五号(大正三(一九一四)年六月号)に「美術劇場と無名会」という劇評、同六号(同年七月号)に翻訳「未来派と劇場」、同七号(同年八月号)に評論「復讐とSTIL」を発表している(その後は掲載がない)。]

 しかし、豊島でも、久米や山本でも、なにか書けば、それを、発表する機関さえあれば、気軽に、出したが、芥川は、持ち前の妙な内気なところ(と同時に内心に高慢なところ)と都会人の見えのようなものがあって、へたな物を出して、恥をかきたくない、というような気持ちもあって、それができないところがあつたのか。そのために、せっかく同人になりながら、芥川は逡巡して、一号にも、二号にも、三号にも、作品を、「新思潮」に、出さなかったのであろうか。それとも、芥川が、他の三人より、立ちおくれたのであろうか。それとも、……

[やぶちゃん注:『三号にも、作品を、「新思潮」に、出さなかった』というのは小説は出さなかったという意味で宇野は用いている。芥川龍之介は第一号(大正三(一九一四)年二月)に柳川隆之介名義でアナトオル・フランス「バルタサアル」、同第二号にはイエーツ『「ケルト民族の薄明」より』、同第三号にも引き続き、『「ケルトの薄明」より』を掲載している。後掲されるように、柳川隆之介名義の小説「老年」は、次の第四号(五月号)に掲載された。]

 後年、(大正八年の一月に、)芥川が、「大学一年の時、豊島だの、山宮だの、久米だので、第三次『新思潮』を出した時に、『老年』といふ短篇を書いたのが初めである。それでもまだ作家になる考へがきまつてゐたのではなかつた。その頃久米が小説や戯曲などを書くのを見て、ああいふものなら自分たちでも書けさうな気がした。そこへ久米などが書け書けと煽動するから、書いて見たのが、『ひよつとこ』と『羅生門』とだ。かういふ次第だから、書き出した動機としては、久米に負ふところが多い、」と述べているが、そのとおり、芥川は、久米の煽動によって、小説を書きはじめたのであろうか。――いや、これは、眉唾物である。大正八年一月といえば、芥川は、その年〔とし〕の一月号(いわゆる新年号)の雑誌に、嘉の小説を発表し、第二短篇集『傀儡師』を出している。全盛の芥川が、談話を取りに来た記者を、煙にまいたのである。

 芥川が、「新思潮」に、豊島と久米と山本が、作品を発表したあとで、『老年』を、柳川隆之介という名で、出したのは、この小説はまだ本名で出す程のものでない、と思ったのか。それもあろうが、芥川が同人の誰よりも小説を出すのをおくれたのは、芥川の作品が他の人たちの作品と、よしあしは別として、まったく毛色が変〔かわ〕っていたからであり、芸術家としての芥川の素質が、やはり、よしあしは別として、他の人たちの素質と、まったく違っていたからである。それは、芥川が、『羅生門』に未完成の作品として入れなかったが、その時分[註―大正三四年]に書いた、『老年』、『ひよつとこ』、『仙人』の三篇だけを読んでも、わかるのである。

『老年』と『ひよつとこ』と『仙人』は、もとより、題材はちがい、書き方もちがうけれど、三篇とも、二十三四歳の作家の小説として見ると、(いや、三十歳の作家の小説としてみても、)みな、妙にうまくて、ませてはいるが、若若しいところなどまったくない。

『老年』は、芥川自身が書いた年譜によれば、芥川の処女作である。

 私が、かりに、大正三年の二月に創刊した、第三次の「新思潮」を第一号からつづけて読んでいったとすると、豊島の『湖水と彼等』、久米の『牛乳屋の兄弟』、山本の『女親』、と読んできて、この『老年』をよめば、この小説だけが別物のような氣がしたにちがいない。豊島の小説はまえに述べたように、清新な気がするだけでも、ちょっと感心したであろう、が、久米の脚本[註―この時分は戯曲を脚本といった]も、山本の脚本も、舞台に上〔のぼ〕せられるかもしれないが、何〔なん〕の新味もないばかりでなく、久米のは通俗味が気になり、山本のはありふれた自然主義風の作品であったから、新進作家がこんなものを、と思ったであろう。そうして、芥川の『老年』は、ちょいと頸〔くび〕をひねってから、うまく出来ているとは思ったかもしれないが、あまりに古風な事と、俗な言葉をつかうと、陳〔ひ〕ねこびれている事に、辟易したであろう。第二次の「新思潮」の何号かに、たしか、和辻哲郎の、バアナアド・ショウの『ウォレン夫人の職業』[註―連載]の出ている号に、谷崎潤一郎の『象』という脚本が出ていた。これは、なにぶん、今から四十年はど前の事であるから、筋はわすれたけれど、たしか、徳川時代の末頃の話で、行列の先頭に象がいて、その象が半蔵門にはいろうとすると、門が小〔ちい〕さくて、象が半分ぐらいしか門をくぐれない、という所で終っていたように思う。たしか、明治四十三年頃である。私が、その頃、牛込の戸塚の植木屋の二階に下宿をしていた、三上於菟吉をたずねて、文学談をかわしていると、下の方から、「三上君、」と呼ぶ声がして、まもなく、顔も体〔からだ〕も丸丸〔まるまる〕とふとった青年が、梯子段を、あがって来た。その青年も、三上も、毬栗頭〔いがぐりあたま〕で、紺絣の著物をきていた。そのふとった青年は、当時、二十歳の秦〔はた〕 豊吉である。秦と三上は、「文章世界」の投書家として、知り合いになったのである。さて、そこで、三人で文学談に花を咲かしていると、秦が、突然、懐〔ふところ〕から二冊のうすい雑誌をとりだして、ちょっと目次をしらべてから、あるペイジをあけて、それを三上の膝の前におき、その開いたところを指づしながら、「これを読んでみたまい、」と、いった。そこで、三上が、その雑誌をとりあげて、「なんだ、『新思潮』か、……谷崎潤一郎か、……」というと、秦は、ちょいと不機嫌な顔をして、三上の手から雑誌をとりあげ、さきに開いたペイジの方をながめながら、「やりやがったな、畜生、やりやがったな、」と、叫んだ。つまり、その秦のひらいている「新思潮」のペイジに、谷崎潤一郎の『象』が出ているのである。

[やぶちゃん注:「第二次の「新思潮」の何号かに」これは明治四十三(一九一〇)年十月発行の第二次「新思潮」第二号。]

 私が、ここに、このような昔話を述べたのは、潤一郎の『象』は秦がいうほどすぐれた作品ではないけれど、つまり、第三次の「新思潮」に出ている先きに書いた三つの作品のなかに、「やりやがったな、」と叫ぶような作品が一つもない、ということを、いいたかったからである。

 もっとも、『老年』が、久米や山本の作品と特に変っているのは、おそろしく文章に凝っている事である。たとえば、「其前へ毛氈を二枚敷〔し〕いて、床〔ゆか〕をかけるかはりにした。鮮〔あざやか〕な緋の色が、三味線の皮にも、ひく人の手にも、七宝に花菱の紋が抉つてある、華奢な桐の見台にも、あたゝかく反射してゐるのである、」などというところである。しかし、こまかい事を、なるべく凝った美しい言葉で、書く、という事は、決してわるい事ではなく、それが特徴になるという事もあるけれど、(芥川の場合はそれが特徴であるが、)私は、これには、反対である。無技巧というのは、自然主義の作家(たしか、田山花袋)が使いはじめた言葉であるが、遠く二葉亭は別としても、明治の末から大正にかけて新〔あたら〕しい文学の道をあるこうとした文学者は、こういうわざとらしい技巧や美辞麗句をしりぞけ、各自が自分の使う言葉(あるいはそれに近い言葉)で、小説その他の文章を書くことに苦労をし身をやつしてきたのである。ところが、芥川は、その逆で、二十二三歳の年から、いかに、巧緻な、洗練した、文章を書こうか、と、苦心惨憺したのである。誇張していえば、骨身をけずったのである。その点で、そのよしあしは別として、芥川は、随一の人であった。が、その事にあまり煩〔わずら〕い過ぎたので、芥川の小説は、窮屈になり、飾りすぎて、いかなる切羽〔せっぱ〕つまった事を書いても、人にせまるところがなかった。しかし、それが芥川の小説の特徴でもあったのである。それは、例えば、『或日の大石内蔵助』の最後の、「このかすかな梅の匂〔にほひ〕につれて、冴返〔さえかへ〕る心の底へしみ透〔とほ〕つて来〔く〕る寂〔さび〕しさは、この云ひやうのない寂しさは、一体どこから来るのであらう。――内蔵助は、青空に象嵌をしたやうな、堅く冷〔つめた〕い花を仰ぎながら、何時〔いつ〕までもぢつと彳〔たたず〕んでゐた、」などというところである。

 しかし、この最後の「青空に象嵌をしたやうな、堅く冷い花」などというのは、いかにも巧みな凝った文句であるが、これでは、ただ美しい凝った言葉だけが強く目につくだけで、肝腎の情景が、読む人の目に、うかんでこないのである。

[やぶちゃん注:私はこの宇野の言を肯んじない。高校二年の時、初めてこの「或日の大石内藏助」を読んだ際(リンク先は私のテキスト)、その閾域ぎりぎりの部分の人間大石の意識に激しく共感した(私は忠臣蔵の討ち入りまでのだらだらした前振り、芝居小屋大立ち回り好みの討ち入り、書割の切腹シーンへの飴のように延びたドラマが大嫌いである)。そして――私には「もうすれ切つて、植込みの竹のかげからは、早くも黄昏がひろがらうと」いう「日の色」が見えた――そして人間大石になった私には「古庭の苔と石との間に、的皪〔てきれき〕たる花をつけた」「寒梅の老木が」見えた――そして、傍らの「障子の中」からは、浪士たちの「不相變面白さうな話聲が」聴こえてきた――私「はそれを聞いてゐる中に、自〔おのづか〕らな一味の哀情が、徐に」私「をつゝんで來るのを意識した。このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透つて來る寂しさは、この云ひやうのない寂しさは、一體どこから來るのであらう」と感じたものだった――私には仰いだ大石の末期の眼に映る「靑空に象嵌〔ぞうがん〕をしたやうな、堅く冷〔つめた〕い」梅の花が確かに見えた――今も見えるのである。宇野の感じ方は『時勢の推移から來る人間の相違』、『或は個人の有つて生れた性格の相違』(漱石「こゝろ」)だから仕方がない、とでも言っておこう。]

 ところで、芥川の、養父は、一中節、盆栽、俳句、その他に趣味をもち、養母は、大通〔だいつう〕津藤の姪で、いろいろな昔話を知っている、という話である。それで、芥川は、おそらく、その養母から聞いた話を元にして、『老年』を作り出したのであろう。とすれは、やはり、芥川はまったく老成した青年というべきであろう。ところで、この小説の趣向は、もとより、話はまったく違うけれど、森 鷗外の『百物語』から、取ったのではないか、と思う。

[やぶちゃん注:「大通」は遊里や歌舞音曲、風狂・遊芸全般によく通じた粋人のこと。

「津藤」は細木香以(文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)。幕末の江戸京橋の豪商にして通人。新橋山城河岸の酒屋摂津国屋藤次郎竜池の子で、通称二代目摂津国屋藤次郎。俳諧に凝り、九代目市川団十郎・狂言作者河竹黙阿弥・合巻作者柳亭種員といった多くの芸人文人らと親しく、「今紀文」と称されたが、家産を蕩尽し、晩年は千葉寒川に逼塞、四十九歳で没した。芥川龍之介の母方の大叔父に当たる。芥川龍之介「孤独地獄」(大正三(一九一四)年)、大正六(一九一七)年に書かれた森鷗外の史伝「細木香以」(関口安義編「芥川龍之介新辞典」によれば、この時は芥川龍之介が鷗外に彼と縁続きであることを話に行ったらしい)などに描かれている。

「百物語」鷗外と思しい主人公が豪商飾磨屋〔しかまや〕の催した百物語怪談会に出る話。主人公が舟で川を上るシーンや酒肴や場の雰囲気など、確かに通じるものはある。因みに飾磨屋は明治・大正の鹿島清兵衛(慶応二(一八六六)年~大正十三(一九二四)年)がモデル。清兵衛は大阪の造り酒屋鹿島屋次男であったが東京の酒問屋鹿島屋の養子となった。写真家の走りで、写真館を営んだりしたが、後に鹿島家から除籍されて梅若流笛方三木助月となった。本作を読むと鹿島がやはり津藤のように「今紀文」と呼ばれたことが分かる。]

 趣向といえば、『ひよつとこ』の趣向は、(これも、)谷崎潤一郎の『幇間』から、得たものにちがいない。それは、これも、話はすっかり違うけれど、花見時に隅田川を上〔のぼ〕る花見船(伝馬船)の上で道化踊をする話が小説の始まりになっているからである。

[やぶちゃん注:「谷崎潤一郎の『幇間』」明治四十四(一九一一)年に発表された。主人公元相場師桜井が幇間の三平になった経緯、恋した若い芸妓梅吉に持て遊ばれて、全裸にされても皆に馬鹿にされても満足気な彼のマゾヒズムを描く、喜劇的短篇。宇野の言う通り、その冒頭、大川の花見船船上の三平が、大きな風船玉に細長い紙袋をつけたものをすっぽりと被ってろくろ首の真似をして、三味の馬鹿囃しに合わせてくねくねと道化踊りをするシーンは、明らかに「ひよつとこ」にインスパイアされたものであると考えてよい。いや、「幇間」の終わりの方で、梅吉に催眠術にかけられたふりをした三平が「梅ちゃんが死ねと云へば、今でも死にます。」と口走った後に、偶然の死をそこに持ち込めば、これはもう芥川「ひよつとこ」になろう。しかし谷崎ではそうならないし、そうしないのである。芥川は恐らく谷崎の「幇間」の世界に本当の死を持ち込むことで、人間存在の暗部を剔抉し得る、いや、何よりも谷崎とは真逆のベクトルで(寧ろ神のサディズムというべきか)面白くなる、と考えたのではなかろうか。そうして先に宇野も述べたように、芥川はそのデビュー作から主人公を殺し、常にどこかに死が付き纏うことになるのである。実に面白い。]

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