宇野浩二 芥川龍之介 九~(2)
さきにくどいほど書いた、ゴオゴリの胸像(テラコッタ)をかりに骨董とすれば、芥川は、ある人たちが考えるほど、骨董という物にさほど興味をもっていなかったように、私は、思う。ただ、芥川の身辺にある物であれば、何〔なん〕でもない物が、ツマラない物でも、由緒〔ゆいしょ〕ありげに見え、味〔あじ〕わいがあるように思われたのではないか。それは、芥川よりたった二〔ふた〕つ年下〔としした〕の、小島政二郎、佐佐木茂索、というような、なみなみならぬ利発で利口な人でさえ、芥川の事では、あとで苦笑させられたような事がしばしばあったのではないか、と、私には、臆測されるからである。それから、更に臆測をたくましゅうすれば、芥川は、骨董(あるいは、それに類した物)を、無料、ではなくても、案外、手軽に、また、俗なことをいえは、安く、手に入れていたのではないか、と思われる節〔ふし〕もあるからである。
芥川が死ぬまで住んでいた家は、その頃は、東京市外田端町で、市電の動坂から行っても、省線の田端から行っても、かなり遠く、どちらから行っても、長い坂道があり、さて、やっと近くまで行けば、入り組んだ細い道で、その細い道をいくつかまがったところの角〔かど〕で、その角に門があった。そうして、その門をはいって、石畳〔いしだたみ〕を一間〔けん〕ぐらい踏んでゆくと、目のあらい格子戸〔こうしど〕のはまった入り口がある。そうして、時によると、その格子の横桟に、今の言葉でいえは、A5判より少し大きいぐらいの大きさの紙が白い紐でしばりつけてあって、その紙に、『忙中謝客』という字を、『忙 中』『謝 客』とならべて、しゃれた書体で、墨で書いてある。ところが、近づいて、よく見ると、その左側の『謝 客』のよこに、うすい墨色〔すみいろ〕でくずした字で、「おやぢにあらずせがれなり」と書いてある。つまり、この「せがれ」を芥川龍之介とすれば、「おやぢ」は、龍之介の養父の、芥川道章であろう。これは、何〔なん〕と、珍〔ちん〕な札〔ふだ〕ではないか。しかし、これは、今、かんがえると、(いや、そのとき見ても、)おもしろき札である。しかし、また、このような『珍中〔ちんちゅう〕の珍〔ちん〕』ともいうべき札を、所もあろうに、入り口に、かけているところが、やはり、芥川であり、また、こういう光景は、芥川の小説を思わせもして、おもしろいではないか。ところで、年月〔としつき〕を経て、往事〔おうじ〕を回想しながら、このような呑気〔のんき〕らしい事を書いているけれど、三十にもならないうちに鬱然たる大家になり、同時代の数多〔あまた〕のすぐれた作家のなかでもっとも花やかに見えた、芥川龍之介を、さきに述べたように、電車をおりてからかなり遠い道をあるいて、やっと、たどりついて、たずねていったところで、奥ぶかく見える家の入り口で、この『忙中謝客』の札を見れば、気のよわい文学青年なれば、(あるいは、文学青年でなくても、)おおげさにいえば、芥川龍之介という人間が、後光〔ごこう〕でもあって、奥の院〔いん〕におさまっているような人物と思われて、しばし、茫然としたであろう。
芥川の書斎(をかねた客間)は、この入り口をはいった玄関の部屋の斜め上ぐらいのところにあった。部屋は八畳〔じょう〕か十畳ぐらいである。廊下からその部屋にはいると、右手に、まん中に柱があって、その柱の手前は一間と三尺ぐらいの、たしか、板の間〔ま〕で、その向〔むこ〕うに二枚の小〔ちい〕さな障子のはまった小窓があった。そうして、その小窓の前に、二〔ふた〕つの本棚がならんでいて、その三尺ぐらいの二つの本棚には、二つともたぶん四〔よ〕ならびに、和本が横につんである。その本棚は、たしか、三段で、一ばん下〔した〕だけが広かった。さて、中央の長のむかって右側は、床〔とこ〕の間〔ま〕であるが、この床の間は、下〔した〕の方〔ほう〕が二尺〔しゃく〕ぐらいの高さの戸棚になっていて、その上〔うえ〕は、やはり、和本らしいものが、横にならべて、五六冊か十冊ぐらいずつ、積〔つ〕み重〔かさ〕ねてあった。が、その中〔なか〕には、帙〔ちつ〕に入れたものなどもあり、ふるい陶器でも入れてあるらしい茶色の箱などもあった。それから、壁には、誰かの手紙か原稿からしいものを表装したものが掛けてあり、壁の隅に掛け物の巻いたのが二三本たてかけてあった。
さて、真中〔まんなか〕の柱から五六尺はなれたところに、紫檀〔したん〕の机がすえてあって、芥川は、いつも、その机の前に、すわっていた。そうして、その机の横に小〔ちい〕さい長火鉢がおいてあったので、私は、芥川をたずねると、その長火鉢の横に、すわる事になっていた。
芥川は、大正五年(かぞえ年〔どし〕、二十五歳の年)の秋、『芋粥』を書いて、はじめて、一枚四十銭の原稿料をとったが、それでは一人前の生活ができないので、その年の十二月に、海軍機関学校の教官になった。(その年の十二月九日〔ここのか〕に、漱石が、死んだ。)ところが、それから一年ほど後〔のち〕に、六十円の月俸が百円にあがり、原稿料も一枚二円前後になったので、「これらを合〔あは〕せればどうにか家計を営〔いとな〕めると思ひ、前から結婚する筈だつた友だちの姪と結婚した。僕の紫檀の古机〔ふるづくゑ〕はその時夏目先生の奥さんから祝つて頂〔いただ〕いたものである。机の寸法は竪三尺、横四尺、高さ一尺五寸位であらう。木の枯れてゐなかつたせゐか、今[註―大正十五年]では板の合〔あは〕せ目〔め〕などに多少の狂ひを生じてゐる、」と、芥川が、書いている。それから、おなじ文章のなかで、芥川は、「小さい長火鉢を買つたのもやはり僕の結婚した時である。これはたつた五円だつた。しかし抽斗〔ひきだし〕の具合〔ぐあひ〕などは値段よりも上等に出来あがつてゐる、」と、述べている。これで見ると、紫檀の机は無料であり、小さき長火鉢は金五円である。いずれにしても、これだけでも、いかに、芥川が、物もちのよい男であったかが、わかるであろう。
[やぶちゃん注:以上の引用は芥川龍之介が大正十五(一九二六)年一月発行の雑誌『サンデー毎日』に掲載した「身のまはり」から。以下の複数の引用も同じ(リンク先は私のテクスト)。]
それから、私が、芥川のところに行くと、いつも、机の上に、妙に私の目をひく物があった。それは、私のすわっている方からいえば、机の上の一ばん手前においてある、凝〔こ〕りに凝った、ペン皿である。これは、私のような無骨〔ぶこつ〕な者には殆んど不用な物であるから、目に立ったのであろうが、万年筆をきらって、ふだん、ペン(Gペン)を使っていた、芥川の自慢の物らしかったからでもある。芥川は、そのペン皿について、つぎのように、書いている。
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夏目先生はペン皿の代りに煎茶の茶箕を使つてゐられた。僕は早速その智慧を学んで、僕の家に伝はつた紫檀の茶箕をペン皿にした。(先生のペン皿は竹だつた。)これは香以〔かうい〕[細木香以は、幕末の江戸の一代の通人で、新橋の山城河岸の酒屋であったが、豪遊を事としたが、「年四十露に気のつく花野哉」とよんで店を継母にわたし、妻のふさと子の慶次郎をつれて、浅草の馬道の猿寺に移った。この香以の姉の子が芥川の養母である。芥川の『孤独地獄』は香以を題材にしたものであるが、森 鷗外の『細木香以』はすぐれた小説である。大方の人に一読をすすめる]の妹婿に当たる細木伊兵衛のつくつたものである。僕は鎌倉に住んでゐた頃、菅虎雄先生に字を書いて頂〔いただ〕きこの茶箕の窪んだ中へ「本是山中人愛説山中話〔もとこれさんちゆうのひととくことをあいすさんちゆうのわ〕」と刻ませることにした。茶箕の外〔そと〕には伊兵衛自身がいかにも素人〔しろうと〕の手に成つたらしい岩や水を刻んでゐる。といふと風流に聞えるが、生来〔しやうらい〕の無精〔ぶしやう〕のために埃〔ほこり〕やインクにまみれたまま、時には「本是山中人」さへ逆〔さか〕さまになつてゐるのである。
[やぶちゃん注:「茶箕」は「ちやみ(ちゃみ)」と読み、煎茶の殻・塵を取り除く箕である(最近では靴べらのような形をした茶筒から茶葉を掬う道具を指しているが)。
「浅草の馬道の猿寺」は、鷗外の「細木香以」に書かれたものの転載であるが、「猿寺」というと現在、東京都中野区上高田にある臨済宗松源寺で、この寺は江戸期には牛込通寺町にあったものの、「浅草の馬道」ではない。識者の御教授を乞う。
「本是山中人愛説山中話」は、特にその初句を芥川は好んで揮毫した。中国の禅僧蒙庵岳の「鼓山蒙庵岳禪師四首」の一首「本是山中人 愛説山中話 五月賣松風 人間恐無價」から採ったもの。]
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この文章のはじめの方の(先生のペン皿は竹だつた。)とあるのを読むと、(僕のペン皿は紫檀ですよ、)というようにもとれない事もない。
それから、このペン皿の前に、(ペン皿でなく、硯がおいてあったかもしれないが、なにぷん二十六七年か三十年ぐらい前の記憶であるから、記憶がアヤフヤである、)やはり、凝った硯屏〔けんびょう〕がおいてあった。この硯屏は、私のような無知な者が見ても、見事〔みごと〕なものであったが、この青磁の硯屏も、こんど、必要があって、芥川の全集をとりどりに読みかえしてみると、これも、団子坂の骨董屋で、室生犀星が、見つけてきて、「売らずに置けといつて置いたからね、二三日中〔にちうち〕にとつて来なさい。もし出かける暇がなけりや、使でも何でもやりなさい、」といったので、十五円ぐらいで、買った物である。すなわち、これでわかるように、紫檀の茶箕のペン皿は無料であり、青磁の硯屏は金十五円である。