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2012/03/25

宇野浩二 芥川龍之介 十 ~ (1)

 

 

     十

 

 前に「芥川は、私をたずねてくると、二分の一か三分の一ぐらいの割りで、私をつれだして、私をどこかへ案内した。そうして、芥川と私と一しょに行ったのは殆んど坐〔すわ〕る所であり、そのすわる所の三分の二はたべ物屋である、」と書いたが、それは少〔すこ〕しまちがいで、十分の六ぐらいがたべ物屋で、十分の四ぐらいは特別の家であった、と訂正しておく。

 

 さて、ある日、芥川は、上野の公園をおりて、『山下〔やました〕』と云われるところの、今の永藤〔ながふじ〕パン屋のある辺〔へん〕の、一間半〔けんはん〕ぐらいの間口〔まぐち〕の牛肉屋に、私を案内した。一間半ぐらいの狭い間口で、たしか、三階建〔だ〕てであったから、その家は、両側の家から挾まれ押しつけられて、痩〔や〕せ細ったように見えた。

 

 芥川は、その家にはいる前に、ちょっと立ちどまって、例の独得の微笑を頰にうかべながら、「どうだ、おもしろい家〔うち〕だろう、」と、自慢するように、云った。それから、その家の二階の座敷におちつくと、芥川は、「この内は、東京で一番うまい肉屋だよ。……それから、この家〔うち〕は、この四畳〔じょう〕半の部屋が大きい方〔ほう〕で、ほかには四畳半と三畳しかないんだよ、……おもしろいだろう、」と、また、自慢するように云って、にやにや笑った。(しかし、私は、その肉屋が、はたして、東京一のうまい家〔うち〕かどうか、疑わしく思った、そうして、芥川は、むしろ、この細長い家に芥川流の興味をもっているのではないか、と思った。)

 

 その細長い家の牛屋に行ってから半月〔はんつき〕ほど後、芥川は、こんどは、「今日〔きょう〕は、鰻を、くいに行こう、」と云って、京橋で電車をおりて、左の方へあるき出〔だ〕した。そうして、あるきながら、「これから行く『小松』(たしか『小松』と云った)という鰻屋は、東京で一番うまい家だが、長いあいだ待たすのでも、有名なんだ、だから、僕は、一人でゆく時は、本をよんで待っているんだ、……本をよんで鰻の焼けるのを待っているんだよ、君〔きみ〕……この前ひとりで行った時は君のすきな、アアサア・シモンズの“Studies in Seven Arts〔スタッデイイズ イン セブン アアツ〕”を持って行ったんだが、あの本の中〔なか〕で一ばん長い『リヒヤルト・ワグネルの観念』を読んでしまっても、まだ鰻を持ってこないんだ、それで、そのつぎに長い『ロダン』を読んでいると、『ロダン』を半分ぐらい読んでいる時に、やっと持って来たよ、……君、『ワグネル』は八十ペイジぐらいで、『ロダン』は三十ペイジぐらいだから、百十五ペイジ分〔ぶん〕ぐらい待たされた事になるんだ、……君、そのくらいの覚悟をしなければ、今日〔きょう〕の鰻は食えないんだから、今から覚悟をしときたまえごと、云った。『小松』は、しもた屋のような、地味〔じみ〕な構〔かま〕えの、小〔ちい〕さな、家であった。その『小松』の二階の小さな座敷で、鰻の焼けてくるのを待っている間〔あいだ〕に、私が、シモンズの、詩は、もとより、文芸評論を、このんで、読んでいるのに、いくらか反感を持っていた芥川が、持ち前のからかう気もちもあって、「……僕は、シモンズの、『シンボリスト・ムウヴメント』も、『ロマンティック・ムウヴメント』も、おもしろいとは思うけれど、あの気取ったような文章が気になるし、……」と云った。「かりに気どっているとしても、さすがにああいう詩を作った人だけに、あの文章はうまいじゃないか、……それに、流暢だし、……」と私がいうと、芥川は、それには答えないで、「……『フィギュアアズ・セヴュラル・センテュリイズ』の中にはいっているものでも、おもしろいのもあるけど、呆気〔あっけ〕ないのが随分〔すいぶん〕あるじゃないか、……それに、すこし穏健すぎるところもある、……」と、云った。「しかし、『ヸョン』を「ヸヨンは最初のモダン・ポエトであった、」などというのは、論の当否は別として、穏健どころか、ずいぶん思いきった論法じゃないか。」「しかし、あの本の中では僕は、『エレオノラ・デュウゼ』を取るね。」「あれは、あの本じゃないよ、『セブン・アアツ』の中だ、……あれは、おもしろいが、君ごのみだね、……、……君はデュウゼみたいな女優がすきだろう。……もっとも、僕も、サラ・ベルナアルより、デュウゼの方がすきだな、ダンヌンチヨが夢中になったのも、無理はない、と思うね。」(後記――『小松』は『小満津』か。) 

 

 ふしぎな事に、私は、芥川に本を借りた事は一度もないが、めずらしく、私が芥川に本を貸した事がある。それは、ある日、芥川が、私の家に来た時、「……君、シモンズの、何とかいう、イタリイの紀行文のようなものと、パリの何〔なん〕とかいう随筆か評論のようなものがあったね、あれを、持ってる、持ってたら、貸してくれないか、」と云ったからである。『イタリイの紀行文のようなもの』とは“City of Italy”のことであり、『パリの何とか』とは、“Colour Studies in Paris”のことである。そうして、『パリの……』の中には、『モンマルトゥルとラティン区』とか『パリとパウル・ヴェルレエヌの覚書〔おぼえがき〕』とか、いう文章がはいっている筈なので、私は、この二冊の本を貸す時、「これも、おもしろいから、読んでみたまい、」と云って、ヴァンス・トムソンの“French Portraits”を添えた。この本には、マラルメ、ヴェルレエヌ、カテュウル・マンデス、ジャン・モレアス、レニエ、メリル、その他のフランスの詩人のほかに、ベルギイの、ヴェルハアレン、マアテルリンク、ロオデンハッハ、その他の詩人たちの事を、それらの詩人の詩を引用しながら、おもしろおかしく、書いてあるからである。

 

 ところで、芥川は、それから数日後に、それらの三冊の本をかえしに来て、「君のいうとおり、みなおもしろかったが、僕には『マウリス・バレスと利己主義』が一番おもしろかった、それから、あの本の中にある、いろいろな詩人をかいた、ヴァロットンの漫画のうまいのにはおどろいたな、ちょいと通俗味のあるのが気になるが、……」と云った。「……僕は、やっぱり、はじめの方〔ほう〕の『ヴェルレエヌの印象』と『ステファン・マラルメ』が圧巻だと思う、」と私は云った。

 

 ところが、それから一〔ひ〕と月〔つき〕ほど後、芥川は、私をたずねて来て、いつものように、文学談を一〔ひ〕と頻〔しき〕りしてから、「君、出ないか、」と云った。そこで、表〔おもて〕に出ると、芥川は、電車の停留場の方へあるく道で、「今日〔きょう〕はうまい日本料理を食おうか、」と半分ひとり言〔ごと〕のようにいって、その日は、日本橋の『中華亭』という贅沢〔ぜいたく〕な日本料理屋に、私を、案内した。

 

電車をおりた時はすでに日が暮れていた。白木屋の横の狭い露地をはいった時、私は、両側にさまざまなたべ物屋がならんでいるのを見て、ははあ、ここが有名な『食傷新道〔しょくしょうじんみち〕』だな、と覚〔さと〕った。私より一歩〔いっぽ〕ばかり先きをあるいていた芥川は、その食傷新道の中程の右側の、墨で『中華亭』と書いた行燈の出ている家の中〔なか〕に、さっさと、はいって行った。

 

 さて、その『中華亭』の二階の座敷で、二人が、高級の日本科理をたべながら、何〔なに〕かの話に夢中〔むちゅう〕になっていた最中〔さいちゅう〕に芥川が、突然、

 

 「君〔きみ〕、トムソンは『養鷄法』の本を出しているよ、」と、云った。

 

 これは、ヴァンス・トムソンという、日本ではまったく無名の、名を忘れてしまっていた時分であるから、私は、はじめ、ちょっと何〔なん〕の事かわからなかったが、すぐ、トムソンは私のふだん愛読している『フレンチ・ポオトレエツ』の著者であることに気がついて、何〔なん〕ともいえぬイヤアな気した。が、すぐ例の芥川の『嫌〔いや〕がらせ』だ、と気がついたので、又〔また〕かとは思ったけれど、私は、咄嗟に、

 

「それは、ちがう、同名異人だよ、」と、すこし強い調子で、いった。

 

すると、芥川は、私がはじめて見る、きまりのわるそうな、しょげた、顏をして、それには答えずに、聞きとれないような低い声で、

 

「どうも、この家〔うち〕は、僕には、『鬼門〔きもん〕』だ、」と、云った。 

 

[やぶちゃん注:「アアサア・シモンズ」アーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons 一八六五年~一九四五年)はイギリスの詩人・文芸批評家・雑誌編集者。以下、ウィキの「アーサー・シモンズ」から引用する(数字を漢数字化した)。『十七歳でロバート・ブラウニング作品批評を』『発表、ブラウニング協会の会員とな』り、一八八〇~一八九〇年代には『時代を代表する複数の文芸雑誌に文学、舞台、美術、音楽と多岐にわたる芸術分野に関する批評、エッセイを執筆する一方』、“Days and Nights”(一八八九年)、“Silhouettes”(一八九二)、“London Nights”(一八九七)といった『詩集もたてつづけに発表している』。一八九六年には『文芸編集シモンズ、美術編集オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)という組み合わせで、芸術と文学の融合を目指した定期刊行物The Savoyを発行』、『その斬新かつ国際色豊かな執筆陣と内容は「前衛的な」と呼ぶにふさわしい内容であった』。『一八九九年、文芸批評代表作のひとつThe Symbolist Movement in Literature』(「象徴主義の文学運動」)を発表、これは『フランス、ベルギーですでに萌芽していた新しい文学運動をいち早く英語圏に紹介した批評集として』、エリオット、エズラ・パウンド、ジョイスといった『二十世紀のモダニズム作家達にも多大な影響を与えた』。『日本でも大正期の象徴派詩人に多大な影響を与えたことで知られる』。本邦での最初の邦訳は岩野泡鳴訳の「表象派の文学運動」(大正二(一九一三)年)であった。『ジプシーの生活に憧れ、外国語に堪能で旅を愛したシモンズは、数多くの旅行記も発表して』おり、“Cities”(一九〇三年)、この芥川との会話の中にも登場する“Cities in Italy”(一九〇七)などがある。『印象派詩人と評されることの多いシモンズらしい、眼に映る光景を個人の心象風景とともに色鮮やかに綴るスタイルは、同時に文学や美術の批評家としての側面も伺える独自の魅力を有している』。

 

「ヸョン」は十五世紀フランスの放蕩詩人フランソワ・ヴィヨン(François Villon 一四三一年?~一四六三年以後?)中世最大の詩人にしてシモンズの言うように最初の近代詩人とも称される。

 

「エレオノラ・デュウゼ」はイタリアの舞台女優エレオノーラ・ドゥーゼ(Eleonora Duse 、一八五八年~一九二四年)。ダンヌンツィオの戯曲やサラ・ベルナールの当たり役をイタリア語で演じてひのき舞台に出る。以下のウィキの「エレオノーラ・ドゥーゼ」によると(アラビア数字を漢数字に変更した)、『一八九五年に彼女はダヌンツィオの元を訪れ、共働して仕事に取り組んでゆくうちに二人のあいだにはロマンスが芽生えていった。しかし、ダヌンツィオが『死都』 ("La Città morta") の主役をドゥーゼではなくサラ・ベルナールに与えたため二人は猛烈な大喧嘩をし、ドゥーゼはダヌンツィオとの関係に終止符を打った。ダヌンツィオが彼女のために書いた戯曲は四本残された』。『名声が高まりゆくのを歓迎したサラ・ベルナールの外交的な性格とは対照的に、ドゥーゼは内向的かつ個人主義的で、芸術家肌の演技によってしか自己を語ろうとはしなかった。この好対照の二人は、長年にわたるライバルであった。この二人がロンドンで数日と間を置かずに同じ戯曲を上演したことがあるが、両方を観劇する機会を得た人物の一人にバーナード・ショーがいる。ショーはドゥーゼの方を高く買い、伝記作家のF. Winwarにも引用された断固たる賛辞を曲げなかった』。『ドゥーゼの伝記作家F.Winwarは、ドゥーゼはほとんど化粧をしなかったが「道徳的な装いをまとっていた。言い換えれば、自分の性格に潜む内的な衝動や悲しみや喜びが、自分の体を表現のための媒体として用いるがままにさせておき、それはしばしば彼女自身の健康を損なうほどであった」』と記している。『感情を伝達するために既成の表現法を用いていたそれまでの俳優に対して、ドゥーゼは先駆者として新しい表現を生み出した。彼女が「自己の滅却」と呼んでいた技法で、自分の描き出そうとする登場人物の内面に心を通じ合わせ、表現を自ずから湧き起こらせるというもので』、『一九〇九年に一度引退しているが、一九二一年にはアメリカとヨーロッパで契約を結んで舞台に復帰している』。後掲される南部修太郎と秀しげ子の邂逅事件大正十(一九二一)年九月二十四日よりも優位に後であることが判っているから、この会話時、デユウゼはカム・バックしていた。

 

「サラ・ベルナアル」サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年)はフランスの舞台女優。ウィキの「サラ・ベルナール」によれば(アラビア数字を漢数字に変更した)。一八六二年に満二二歳でデビュー『一八七〇年代にヨーロッパの舞台で名声を得ると、間もなく需要の多い全ヨーロッパとアメリカでも名声を得た。彼女は間もなく真面目な演劇の女優としての才能も現し、「聖なるサラ」との名を博した。恐らくは十九世紀の最も有名な女優』と言える。『一九一四年、レジオンドヌール勲章を授与され』たが、一九〇五年に上演中の舞台で右脚を負傷、一九一五年には『右脚を切断し、数ヶ月の間車椅子に座ったままだった。それでも彼女は、木製の義足を必要としたにもかかわらず、仕事を続けた』という。

 

「ダンヌンチヨ」ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 1863年~1938年)はイタリアの詩人・作家・劇作家。彼の文学は『その高い独創性、力強さおよびデカダンスが高く評価されていたし、同時代の全ヨーロッパ文壇、また後世のイタリア作家たちに多大の影響を与えた』が、国家主義者としてイタリア・ファシスト運動の先駆者でもあったため、彼の世紀末の印象的な『作品群は現在では忘れ去られつつある感がある』(引用は参考にしたウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」より)。

 

「小満津」が正しい。食通大路魯山人の「魯山人の食卓」に鰻の上手い店の一つとして紹介されている。京橋にあったが後に閉店、ブランクを経て、現在、高円寺に場所を変えて再開している。

 

「ヴァンス・トムソン」ヴァンス・トンプソン(Vance Thompson 一八六三年~一九二五年)はアメリカの文芸評論家・小説家・詩人。一九〇〇年に刊行された“French Portraits: Being Appreciations of the Writers of Young France”はヨーロッパ・サンボリスムを解析した彼の代表的な評論。

 

「カテュウル・マンデス」カチュール・マンデス(Catulle Mendès 一八四一年~一九〇九年)はフランスの詩人・評論家。フランス初期のワグネリアンの一人として知られ、バイエルン王ルートヴィヒ二世とワーグナーを描いた長編小説“Le Roi vierge”(「童貞王」)』(一八八〇年)がある。

 

「ジャン・モレアス」(Jean Moréas 一八五六年~一九一〇年)、一八八六年に“Le
Symbolisme
”(「象徴主義宣言」)を起草した詩人。上田敏の「海潮音」に「賦〔かぞへうた〕」が載る。

 

「メリル」スチュアート・メリル(Stuart Merrill 一八六三年~一九一五年)はアメリカ出身の詩人。1890年よりフランスに移ってサンボリスムの理論家の一人となる。代表作に“Pastels in prose”(「散文によるパステル画」一八九〇年刊)、“Les Quatres Saisons”(「四季」一九〇〇年刊)。

 

「ヴェルハアレン」エミール・ベルハーレン(Émile Verhaeren 一八五五年~一九一六年)はフランス語で執筆活動をしたベルギーの詩人。当初はフランドルの自然を讃えた自然主義的抒情詩を創っていたが、一八八八年から九〇年にかけて出版した「夕暮」「壊滅」「黒い炬火〔たいまつ〕」の三部作の詩集では死と幻想のサンボリスムへと沈潜した。後には社会主義的傾向へと傾いた。

 

「ロオデンハッハ」ジョルジュ・ローデンバッハ(Georges Rodenbach 一八五五年~一八九八年)はベルギーの詩人・小説家。私の愛読書である幻想文学の金字塔「死都ブリュージュ」の作者。

 

「マウリス・バレス」モーリス・バレス(Maurice Barrès 一八六二年~一九二三年)はフランスの小説家・ジャーナリスト。ウィキモーリス・バレスによれば、『ナショナリズムや反ユダヤ主義などの視点による政治的発言でも知られ、フランスにおけるファシズムの思想形成に大きな役割を果たした』とあり、『政治思想では対照的なアナトール・フランスと人気を競』って、二十世紀前半のフランス知識人階級に影響を与える。代表作は観念小説三部作「自我礼拝」であるが、『日本では政治的立場の為か訳書が少なく、人気は余りない』とある。

 

「ヴァロットン」は恐らくスイス生まれの画家フェリックス・ヴァロトン(Felix Vallotton 一八六五年~一九二五年)。1882年にパリに出、ナビ派の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した。ルナールの「ん」の印象的な挿絵は彼が描いている(リンク先は私のテクストでヴァロトンの挿絵もある)。

 

「中華亭」不詳。日本料理でこの名前、識者の御教授を乞う。

 

「食傷新道」現在の中央区日本橋一丁目附近、今は完全な高層ビル街に変貌して往時の印象は全くない。前注に記した白木屋は後に東急百貨店となり、更にその跡地に現在は「コレド日本橋ビル」がある。このコレドと、左側にある西川ビルの間の今や何の変哲もない細い通りが、「白木屋の横町」「木原店」と呼ばれ、左右共に美味の評判高い小飲食店が目白押しに建ち並んでいた。ここは江戸時代、文字通り通一丁目として、江戸で最も繁華な場所で、明治のこの頃は未だその面影が残っており、東京一の飲食店街として浅草上野よりも知られた通りであった。俗に「食傷通り」、ここで宇野が言うように「食傷新道」などとも呼ばれた。

 

「トムソンは『養鷄法』の本を出しているよ」確認は出来なかったが、ヴァンス・トンプソンの英語版のウィキを見ると、食生活関連の叙述を残していることが知られており、彼がこうした著作を書いていないとは言えない。

 

「どうも、この家は、僕には、『鬼門』だ」は次の段で明らかになる。]

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