宇野浩二 芥川龍之介 七
七
私が芥川ともっともしげしげ往き来したのは大正九年から十一年頃までの間〔あいだ〕である。
その頃、芥川の家は田端の丘の上の方(駅にちかい方)にあり、私の家は上野の桜木町の鶯谷にちかい方にあった。それで、私が芥川をたずねるのは、藍染〔あいぞめ〕橋の停留場まであるいて、動坂下で電車をおりて、それから坂をあがるのが道順であり、芥川が私の家にくるのは、やはり、普通にいえは、この道版である。しかし、時によると、わざわざ、電車にのって、坂をおりたり坂をあがったりするより、上の方を、ほとんど一直線に、あるいて行く事もあった。
芥川は、くると、いつも、私の家の玄関の三畳の部屋のすみに、ちゃんと正座して、家の者に、実に丁寧に挨拶をした。萩原朔太郎が、この事について、つぎのように書いている。
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私が田端に住んでゐる時、或る日突然、長髪痩軀の人がたづねて来た。「僕は芥川です、初めまして。」さう云つて、丁寧にお辞儀をされた。自分は前から、室生君と共に氏をたづねる約束になつてゐたので、この突然の訪問に対し、いささか恐縮して丁寧に礼をした。しかし一層恐縮したことには、自分が顔をあげた時に、尚依然として訪問者の頭が畳についてゐた。自分はあわててお辞儀のツギ足しをした。
[やぶちゃん注:「萩原朔太郎が、この事について、つぎのように書いている」は、萩原朔太郎「芥川龍之介の死」の「4」章にある(リンク先は私のテキスト)。]
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しかし、これは自〔みずか〕ら野人と称する、あの、萩原であるから、おどろいたので、こういうのは、ただ芥川の習慣で、芥川自身は丁寧とも何とも思っていないのである。
丁寧といえは、芥川が、夜、私の家に来て、遅くなって帰る時は、私は、たいてい、大通りの四つ角まで、芥川を送って行った。その大通りの角で、芥川が、私の家からよんだ車に乗るからである。その車に乗りしなに、芥川は、かならず、「御馳走になるよ、」と、いった。この「御馳走になるよ、」という芥川の言葉は今でも私の耳にのこり、そういって、ひょいと車にのる芥川の姿は今でも私の目にのこっている。
芥川は私を方方に案内した、待合、たべ物産、その他、あやしき所など、等、等、等。
浅草に、(馬道の東の方に、)『春日〔かすが〕』という待合があった。この『春日』のお上は、後に春日派の小唄の師匠になって、待合をやめてから、桜木町の私の家のそばに、大きな家を借りて、小唄の師匠になり、今では、小唄の師匠として、その名を知られている。その桜木町の『春日』の家には、毎日、午後になると、車に乗って、芸者が、十人以上も、ならいに来た。
[やぶちゃん注:「『春日』という待合」芥川は自死の直前の昭和二(一九二七)年六月二十五日に、友人小穴隆一とともに谷中の新原家の墓参をした後、この春日に行って馴染みの芸者であった小亀に別れを告げている。]
この『春日』に、芥川は、私をつれて行った事がある。芥川は、はじめての所に私を案内する時、そのゆくさきの家(料理屋など)の由来をくわしく説明する事もあるが、いきなり、だまって私を案内する事もしばしばあった。待合とかあやしき所などは、案内する前も、案内してからも、芥川は、その家について、説明をしたことは一度もない。ただ、はじめて、私を『春日』につれて行った時、家の中にはいる前であったか、家の中にはいってからであったか、いずれにしても、その『春日』の奥座敷の辺から、おもわず耳を立てるような、うつくしい、すきとおった、声で、語る常磐津〔ときわず〕が、聞こえた。私が、おもわず、「実にうまいね、実によくとおる声だね、こんな常磐津、僕は、聞いたことがない、」というと、芥川は、例のニヤリとする笑いをうかべながら、「ここのお上〔かみ〕だよ、あの声は、日本人の喉〔のど〕からは出ないよ、あれは、間子〔あいのこ〕の喉だよ、つまり西洋人の喉だよ、」と、いった。私が、そこで、「君は、実に、いろいろな人を知ってるね、」というと、芥川は、すぐ、「あの女の亭主が僕の友だちだよ、」と、いった。
『春日』には、その後、芥川につれられて、一度も行ったことがないが、その後、芥川は、『春日』のちかくの、別の待合に、私を、案内した。その待合は、『春日』を一流とすれば、三流以下であった。が、その三流待合には、芥川は、その後、私を、しばしば、つれて行ったばかりでなく、ほかの人たちをも、誘った。その中に、徳田秋声も、いた。
その三流待合に、芥川が、私ばかりでなくほかの人たちも案内したのは、その家にはハダカ踊りをする女が来たからである。芸者たちはそのハダカ踊りの女たちを眉をひそめて軽蔑していた。
そのハダカ踊りの女たちをかかえていたのは、パンタライ社といった。そうして、そのパンタライ社を経営していたのは、ナントカという詩人であった。(芥川は、もしかすると、そのナントカという詩人を知っていたのかもしれない。)
[やぶちゃん注:「パンタライ社を経営していたのは、ナントカという詩人であった」「ナントカという詩人」はダダイスト辻潤(明治十七(一八八四)年~昭和十九(一九四四)年)のことであろう。但し、この出張ストリップは浅草区馬道一丁目九番地で黒瀬春吉(大正期の労働同盟会会長)が経営した「パンタライ社」のお座敷ダンス営業を指し、この黒瀬が新たに「ジプシイ喜歌劇団享楽座」を創った際、近くで尺八教授などをしていた辻が、同座の一員となったと「辻潤年譜」にはある。黒瀬を詩人とは呼ばないと思われるので、辻潤ととっておく。]
パンタライ社の女たちは、その時分としてはめずらしい、洋装をしていて、その三流待合にくる時は、車にのって来た。そうして、その事の足をおく場所に、みな、ポオタブルをのせて来た。
その女たちは、(もっとも、いつも、一人であるから、その女は、)座敷にはいると、ちょいとお辞儀をしてから、すく座敷の隅においたポオタブルの蓋をあけ、その上にレコオドをのせ、ハンドルをまわした。ハンドルをまわしおわると、その女は、すぐ、前だけかくした、ハダカになった。もっとも、腰に幾筋もの縄のさがった帯をまいていた。ポオタブルが音楽を奏しはじめると、その女は、座敷の中央に、小走りに、出て、その音楽にあわして、簡単な踊りをおどるのである、おどると、その腰に巻いた帯にさがっている幾筋かの縄も、おどるのである。それを見ながら、徳田秋声が、あのかすれたような声の笑い方をしながら、手をたたいた、その秋声の手をたたく姿は今も私の目に残っている。秋声は庶民を題材にした小説を書いた人だけに、すこしも気どらず、さばけた人であった。
このパンタライ社について中戸川吉二が妙な事を書いているのを見つけたから、それを読みながら、私の悪癖を出して、ちょいと、ここで、寄り路をしよう。
[やぶちゃん注:「中戸川吉二」(明治二十九(一八九六)年~昭和十七(一九四二)年)は小説家・評論家。里見弴に師事、代表作に「イボタの虫」がある。]
中戸川は、[いいわけ―中戸川吉二を知らない人が多いと思うから、中戸川について、書くと]その頃としては、芥川のように人目をひかなかったが、わりに年少にして文壇に出たが、どういう訳〔わけ〕か、(その訳はだいたい想像はつくが、ここではそれを述べることを遠慮する、)思いきりよく、やはり、年少の時分に、文壇から退いてしまった。中戸川は、親友の一人であった、牧野信一は性質も作風もまったく違っていた。中戸川が文壇に出た頃は、中戸川が師事していた、里見 弴が、吉井勇、久米正雄、田中純、とともに、「人間」[註――同人雑誌の形で出したが、後に同人以外の人の作品も出した]を出した頃で、さかんに花柳の巷に出没した頃であったから、年少の中戸川は、それにかぶれ、里見たちが、その時分、芸者を『キモノ』、赤坂を『セキハン』、などという妙な隠語をつかった事まで、まねをした。そうして、また、中戸川は、五つ六つも年上〔としうえ〕の先輩は、もとより、師である里見をも『君〔くん〕』という癖があった。(もっとも、これは、芥川にもあった。)――これだけの事をを述べておいて、さきに書いた、中戸川の『芥川との関係』という文章の中から、パンタライ社の出てくるところを、つぎにうつそう。
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……錦水[註―築地の一流料理屋の名]を出てから又浅草までのし、さる旗亭で夜更まで飲みかつ談じたのであつたが、その晩三四名あらはれたキモノの中に〇〇[註―これは、後に書く文章に出るからいう、〇〇とは小亀という芸者なり]と云ふスマアトな中年増〔ちゅうどしま〕がゐた。この妓が芥川にコツだつたが、御当人は知つてゐたかしら。[宇野曰く―御当人は知っていた]なんでも其の頃、パンタライシャに凝つて芥川君が、よく浅草へ通ふといふ話は聞いてゐたが、〇〇にあふ機会もなかつたらしい。
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この中戸川の手紙に善かれてある事は、本当らしい事もあるが、まちがっている事もある。その事は、ずっと後に書くこの文章に出てくるから、ここでは、はぶく。
さて、その頃から三十年も後に、パンクライ社のごとくほんの一部の人に見せるというような姑息な事はしないで、ストリップガアル[ハダカにした女]と称して、そのストリップガアルを数十人も帝国劇場に進出させて、満都の子女を熱狂させた、芥川の親友の一人であった、秦 豊吉が、もし、(『もし』である、)この文章をよめば、あの秦もふかしぎな苦笑をするであろう。その秦のところへ、芥川が、大正六年の九月に、一中節 新曲『恋路の八景』なるものを作って、手紙を出しているのである。その中に、「君が堅田〔かただ〕の文〔ふみ〕だよりああなんとせう帰帆〔きはん〕もしらできぬぎぬのはやき矢ばせの起きわかれねみだれ髪のふじ額〔びたひ〕、」という文句がある。芥川は、自分で、一中節もいくらか語ったようである。思えば、芥川は、深くはないけれど、多才な男であった。閑話休題。
[やぶちゃん注:「秦 豊吉」(明治二十五(一八九二)年~昭和三十一(一九五六)年)は、翻訳家・演出家・実業家。七代目松本幸四郎の甥。東京帝国大学法科大学卒業後、三菱商事(後に三菱合資会社)に勤務する傍ら、ゲーテ「ファウスト」などのドイツ文学の翻訳を行い、昭和四(一九二九)年刊行のレマルクの「西部戦線異状なし」の翻訳はベストセラーとなった。昭和八(一九三三)年に東京宝塚劇場に転職、昭和十五(一九四〇)年には同社社長となった(同年より株式会社後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)社長も兼務(昭和二十八(一九五三)年迄同社会長)。敗戦後直後に戦犯指定を受けるも、昭和二十二(一九四七)年から東京帝都座に於いて日本初のストリップ・ショーを上演、成功を収めた。昭和二十五(一九五〇)年には帝国劇場社長国産ミュージカルの興業で成功を収める。後、日本劇場社長時代に小林一三に買収され、東宝社長となった(以上はウィキの「秦豊吉」によった)。
「その秦のところへ、芥川が、大正六年の九月に、一中節 新曲『恋路の八景』なるものを作って、手紙を出しているのである」この書簡年月は誤り。大正六(一九一七)年五月一日附である(旧全集書簡番号二八五・鎌倉より)。以下に引用する。標題中の「新曲」は底本ではポイント落ち横書き、庵点の前の「シテ」などもポイント落ちで右寄りである。底本はベタで記されているが、謡が変わる部分で改行を施して読み易くした。書信の前に行空けも施した。文末「まて」はママ。二伸と三伸は底本では全体が二字下げ。
一中節
新曲戀路の八景 宇治紫川
シテ〽心なき身にもあはれはしみじみと
ツレ〽たつな秋風面影の何時か夢にも三井寺や入りあひつぐる鐘の聲
シテ〽まづあれをばごらんぜよ神代〔かみよ〕以來の戀の路
ツレ〽瀨田の夕照〔せきせう〕いまここにぽつと上氣のしをらしさかざす屏風の袖さへも女ごころの
三下り〽花薄〔すすき〕根ざしほかたき石山や
合ノ手〽鳰のうきねの身ながらも
ナヲス〽あだに粟津のせいらんとほんにせはしいころびねの
合ノ手シテツレ〽あらしははれてびとしぐれぬれて逢ふ夜はねて唐崎の
コトウタ〽松もとにふく風ならで琴柱におつる鴈がねは
ツレ〽君が堅田の文だよりああなんとせう歸帆〔きはん〕もしらできぬぎぬのはやき矢ばせの起きわかれねみだれ髪のふじ額〔びたひ〕比良の暮雪をさながらにかはせどつきぬ初枕うるほしかりける次第なり
論文をかき了つて新曲をつくる愉味御高察下され度候この曲澁くして餘情ありまことに江戸趣味の極まれるものと存候御高覽の上は久米へも御序の節御見せ下さる可く小生一世一代の作と云ふばかりにてもその位の價値は可有之と愚考仕候まづはとりあヘず新曲御披露まて
五月一日 芥川龍之介
秦豊吉樣
二伸例の件小生の知人の宅に子供が生れし爲その人に催促するわけにもゆかず目下一向發展致さず候
三伸「歸帆も知らで」は惡の如くに候へどこは文政頃より江戸にポピユラアなる地口の一つに候へば用ひ候註釋まで 勿々
この宇治紫川というペン・ネームは、芥川家の一中節の師匠であった宇治紫山をもじったものである。関口安義「世界文学としての芥川龍之介」によれば、この新曲は初代菅野序遊〔じょゆう〕作曲・桜田左交作詞の「吉原八景」にかなり似た歌詞であるとする。ということはその三味線で謡えるということであろう。因みに、同書では本書簡を大正五(一九一六)年とする。新全集で修正されたものか。新全集を私は所持していないので悪しからず。――にしても渋い――大正五年とすれば、実に大学卒業の年、芥川は未だ満二十四歳である。]
さて、さきに述べたように、私は芥川にいろいろさまざまな所に案内されたが、私が、芥川にたのまれて、案内した所もある、その一つは浅草の金竜館である。
その頃、浅草の金竜館の楽屋に高田 保がいたのである。
[やぶちゃん注:「高田
保」(明治二十八(一八九五)年~昭和二十七(一九五二)年)は劇作家・随筆家。早稲田大学英文科卒。大学時代に宇野浩二と知り合っている。映画雑誌記者を経て、浅草オペラの代表格「金龍館」文芸部に入った。大正十一(一九二二)年に帝国劇場の戯曲懸賞に応募した「案山子」が入選、昭和四(一九二九)年には丸山定夫や山本安英が結成した新築地劇団に加わるも、翌昭和五(一九三〇)年には検挙されて転向、昭和八(一九三三)年には『東京日日新聞』へ入社(同期に大宅壮一)するが、昭和十三(一九三八)年に退社して新国劇の脚色家兼演出家として活躍した。戦後は昭和二十三(一九四八)年から『東京日日新聞』に随筆「ブラリひょうたん」を連載、軽妙な文体で、鋭い時事批評を展開、『昭和の斎藤緑雨』と称せられた(以上は主にウィキの「高田保」によった)。]
その頃の或る日の昼頃、芥川が、私の所に、小林せい子と一しょにたずねて来て、例のごとく、いきなり、「君、金竜館につれて行ってくれないか、金竜館の楽屋に、」と、いうた。
小林せい子とは、その時分の谷崎潤一郎の夫人(今の佐藤春夫の夫人)の妹である。そうして、佐藤春夫が『蒲団きてあるく姿やせい子嬢』とうたったように、――せい子は、はでな服装をし、はでな行動をする事がすきであるらしかった。それから、芥川が、大正六年の八月十五日に、秦 豊吉にあてた手紙のなかに、「……それから君、久米へ勢以子〔せいこ〕と小生との関係につき怪〔け〕しからぬ事を申された由勢以子女史も嫁入前の体〔からだ〕殊に昨今は縁談もある容子なれば爾今右様の事一切口外無用に願ひたし」と書いている、その勢以子が、この小林せい子である。
ところで、これを書きながら、ふしぎに思われるのは、芥川が、どうして、私と高田 保とがしたしい事を知っていたのか、高田 保が金竜館の楽屋にいることを知っていたのか、である。
その高田 保が、『浅草オペラ時代』という文章のはじめに、こういう事(つぎのような事)を書いている。
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君の学歴はと訊かれて、浅草の金竜館だと答へたことがあつた。大正震災のすこし前の二三年の間あそこの楽屋に住んでゐたことがあつた。住むといふのは妙ないひ方だといはれるだらうが、事実あそこに寝泊〔ねとま〕りしてゐたのでさういふより外はない。若気〔わかげ〕の至りで……
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まことに、高田のいうとおり、その頃(あの頃)は、芥川も、私も、これから書く、せい子も、たれも、かれも、みな「若気の至り」であったのだ。
さてその若気(と血気)の至りで、芥川とせい子と私は、私の桜木町の家を出て、美術学校と音楽学校の間をとおり、それから、図書館の前をすぎて、博物館の前をとおり、浅草の六区まであるいて行ったのである。
その図書館の前をあるきながら、せい子は、誰にいうともなく、(いや、芥川にか、私にか、)「兄の潤一郎は、菊池さんの小説のことを、あれは大道演説のようなものだ、と、いっています、」と、いった。
私は、金竜館にはすでにしばしば出かけて、そこで、『カルメン』、『トラヴイアタ』、『ファウスト』、『アイイダ』、『リゴレット』、その他を見て、大いに楽しんでいた。ところが、芥川は、その時、そのような歌劇など見ないで、「金竜館の楽屋を!」と、いったのである、これは、芥川の希望であったか、せい子の願いであったのか、たぶん、二人ともの好みであろう。
[やぶちゃん注:「トラヴィアタ」はヴェルディのオペラ「椿姫」の原題。原題“La traviata”(ラ・トラヴィアータ)はイタリア語で「道を踏み外した女」の意で、現在、本邦ではアレクサンドル・デュマ(小デュマ)の原作小説“La Dame aux camelias”(フランス語で「椿の花の貴婦人」)からの意訳で専ら「椿姫」のタイトルで呼ばれる。]
さて、高田 保は、私たちをむかえると、さすがに高田 保である、私たちを、すぐ、女優たちの楽屋(大部屋)に案内した。
その文字どおり大部屋の中の四方にずらりと鏡台がならび、その数多の鏡台の前で、女優たち肌脱ぎになって化粧をしていた。私は、その大部屋の中に、ほとんど足の踏み所もないほど、赤や紫の衣裳などがまきちらされたように氾濫しているような有〔あ〕り様〔さま〕に、大形〔おうぎょう〕にいうと、目がくらむような気がし、部屋一ぱいにみなぎっている女と化粧品がはき出すにおいに噎〔む〕せかえるような思いをして、一刻もはやくその部屋を逃げだしたいような気がした。ところが、せい子嬢は、平然として、いちいち、その化粧をしている女優たちのうしろに、立ちどまり、二〔ふ〕た言〔こと〕めには、「兄の潤一郎は……兄の潤一郎は、……」と、いったり、その時分の一ばん人気女優であった女優のそばに行くと、その側〔かたわら〕にしゃがんで、「へえ、あんたが、相良〔さがら〕愛子さん……」などと、いったり、した。
[やぶちゃん注:「相良愛子」(明治三十九(一九〇六)年~?)は女優。本名は内海愛子。先に掲げられた浅草金竜館の舞台「アイーダ」は彼女の代表作。]
これには、私も、まったく辟易したので、私は、しじゅう、せい子嬢から二三歩〔ぽ〕もはなれたところを、あるいた。そうして、辟易したのは、私ばかりでなく、舞台に出れば傍若無人〔ぼうじゃくぶじん〕のように振〔ふ〕る舞〔ま〕っている歌劇女優たちでさえ、せい子嬢の言行には、恐れをなしたように、辟易し、目をそばだてていた。
ところが、芥川は、その間〔あいだ〕、しじゆう、せい子嬢のそばにいて、せい子の方を見たり、相手の女優を見たり、しながら、例のにやにや笑いをしていた。もっとも、『にやにや』とは、「曖昧な」とか、「意味ありげに、冷〔ひや〕やかに笑いを含む」とか、いうほどの意味であるが、芥川のこの時の笑い顔は、ただ好奇心をいだいているようにも見え、はなはだ興味をもっているようにも見え、えたいの知れないところがあった。それから、あの特徴のある、すこし大きい、唇の分あつい、口が、この時は、殊に、異様に見えた、もっとも、それは、ふだんより、唇の色が一そう赤く見えたせいかもしれないが。
ところで、前に、「私が、芥川にたのまれて、案内した所もある。その一〔ひと〕つは浅草の金竜館である、」と述べたが、これでは芥川をときどき金竜館に案内したように思われるかもしれないので、ことわっておくが、芥川が私に「金竜館につれて行ってくれないか、」といったのはこの時が一度だけであって、その後〔のち〕、芥川は金竜館に行った事はまったくないらしい。
されば、芥川が、金竜館に行った、という事は、金竜館の楽屋に、一度だけ、行った、という事になるのである。
さて、ここで、私が、やはり、「若気の至り」で、一時〔いちじ〕、金竜館オペラに夢中〔むちゅう〕になり、ロッシイニの『セヴィリヤの理髪師』、ヴェルディの『リゴレット』、『ラ・トラヴィアタ』、グノオの『ファウスト』、ビゼエの『カルメン』、マスネエの『マノン』、などと、さわぎまわり、それらの舞台稽古まで見に行った頃の事を、書きたいのであるが、これは、今いったように、芥川とまったく関係のない事であるから、やめて、つぎに、芥川に、さまぎまのたべ物屋に案内されたり、いかがわしき、あやしき、家につれて行かれたり、した事を述べよう。こう書くと、芥川ばかりが『わるい子』になって、私が『いい子』になるような事になるから、私が芥川をそそのかしたような事もあったことを、書いてみよう。(そそのかす、といえば、『源氏物語』に、「……まゐりたまはんことをそそのかしきこゆれば……という文句があり、例の近松門左衛門の『生玉〔いくたま〕心中』にも、「……人の小息子そそのかし、悪道に引き入れるの……」などという文句もある。)
[やぶちゃん注:「マスネエの『マノン』」オペラ好きには言わずもがななのであろうが、私はオペラが嫌いなので、分からないから注しておく。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍したフランスの作曲家ジュール・マスネのオペラ“Manon”。一八八四年初演。一七世紀のフランスの作家アベ・プレヴォーの著名な小説「マノン・レスコー」に基づくもの。
「まゐりたまはんことをそそのかししきこゆれば」は「源氏物語」の「桐壷」の中段、桐壷の更衣の死後、若君(光)が祖母母北の方へ宿下がりしているシーンである。以下に引用する。
……若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど、「かく忌ま忌ましき身添ひたてまつらむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり。
以下に私の訳を示す。
……若君に宮中からおつき申し上げて下って参った若き女房たちなどは、若君の母更衣の逝去の悲しきことは言うまでもないことで御座いますものの、宮中での雅びな日常に慣れてしまっておりますから、下った里方の暮しぶりがひどく寂しく感じられて、ありがたき帝の御様子なんども、ふと思い浮かび申し上げるにつけても、
「はよう、御参内なさいますように」
といったようなことを若君にお勧め申し上げるのですが、母北の方様は、
「……このように娘に先立たれ、死穢に触れた不吉な身でありながら、若君におつき添い申し上ぐることも、まこと、何かと悪しき人の噂の種ともなりましょうし……かと申して……しばしの間も御尊顔を拝し申さずにおるということは……これ、全くもって気がきでは御座らぬ……」
とご案じ申し上げなさって、先の帝の御言葉に対して命婦にお答え申し上げたようには、そうそうすっきりあっさりとは御参内させ申し上げなさらないので御座いましたのじゃ。
母北の方の、孫(光)への複雑な母性の逡巡が描かれるところである。――それにしても宇野はしばしば芥川の衒学趣味を批判する割に、宇野自身がこういう如何にもな衒学的引用をしばしばするのは、ちょっと面白い。「芥川龍之介」だから、わざと芥川を気取ってでもいるつもりなのだろうか。]
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