宇野浩二 芥川龍之介 六
六
芥川と私が友だちになる前に、妙な事件がおこった。その事は、ずっと前に書いたが、あらためて、ここで、述べないと、肝腎の話がすすめられないから、つぎに書く。
大正八年の五月頃であった。私は、その年〔とし〕の四月に、処女作といわれている『蔵の中』を発表しただけであるから、その頃は、まだ、はっきり新進作家として見とめられていなかった。それで、小説を書き出す二三年前から、『くらし』のために書いていた童話も片手間〔かたてま〕に書いていたので、日本の各地の口碑や伝説などを集めた本を読むことがあった。そういう本のなかに、鼻が高くなって困った男の話が出ていたので、それは五行〔ぎょう〕か六行のものであったが、私は、それを種にして、一つの童話を書いた。それは、あるイタズラずきの男が、ある時、重宝な小槌を手にいれた、重宝な、といっても、その小槌をふりながら、口の中〔なか〕で、「あの人の鼻たかくなれ、」といえば、その人の鼻がいくらでも高くなり、反対に、低くなれ、といえば、そのとおりになる、と、唯それだけのものであるが、その男は、その小槌をもちいて、いろいろな人にためして、イタズラをしたが、それにも飽きて、その小槌で自分の鼻を高くしてみようと思いたつ、ところが、それを、庭で、あおむきに寝ながら、調子にのって、やったので、とうとう鼻が雲の中にはいってしまう、そのうちに、突然、鼻のさきの方がちくりちくりと痛みだしたので、うとうとしていたその男が、びっくりして、目をさまし、あわてて、無茶苦茶〔むちゃくちゃ〕に、小槌をふりながら、「おれの鼻、ひくくなれ、ひくくなれ、」と、口の中で、となえると、どういうわけか、自分のからだが、地べたをはなれ、しだいしだいに、空〔そら〕の方へ、うきあがっていった、「これは一たいどうしたわけかといふと、その男の鼻はいつのまにか天までとどいてゐたので、それが天〔あま〕の川の川上〔かはかみ〕の、たなばた川といふ川をつきぬけたのです。すると、ちやうど、そのたなばた川で、橋をかける工事中〔ちゅう〕だつたので、突然、川の中からぬツと突き出てきた、えたいのしれない柱に、天の人びとは一時〔いちじ〕はびつくりしましたが、天の人びとは、地上のその男よりもつとイタヅラずきだつたとみえて、これは、さいはひ、橋杙〔はしぐひ〕には、もつてこいだ、といつて、それに穴をあけて、横桁〔よこげた〕をさしこみました。その男が遠くの鼻のさきに痛みを感じたのはその時でした。ですから、『おれの鼻みじかくなれ、』と、口の中で、となへながら、小槌をふればふるほど、からだが空の方へうきあがつてゆくわけです。そのうちに、にはかに空〔そら〕がくもり、雷〔かみなり〕がなりだして、はげしい夕立〔ゆふだち〕がふつてきました。その中をその男のからだはますます空〔そら〕の方へあがつてゆきました。は、手がかじかんで、小槌を、おとしました。ですから、その男は、雨がふつても、風が吹いても天にもとどかず、地にもとどまらず、空中〔くうちゅう〕に、宙〔ちゅう〕ぶらりんになつてゐるさうです、」というような筋である。
私はこの童話を作ってから、自分ながら、これはちょっとおもしろいと思ったので、その二三の友だちに話すと、そのなかで廣津と鍋井克之が、それはおもしろいから、童話の雑誌に出さないで、普通の雑誌に出したら、といった。それで、鍋井が顧問のようになっていた、解放社[註―この解放社の社長は鍋井や私と中学の同窓であった]から出している「解放」に出すことにした。それで、私は、ふと、思いついて、この童話の主人公を龍介という名にし、『龍介の天上』という題にし、ついでに、『たなばた川』を『あくた川』とかえる事にした。これは、いうまでもなく、芥川の出世作『鼻』をおもいだし、芥川をからかってみたくなったのである。それに、芥川も、ずっと前に、『MENURA ZOILI』という小説(のような小説)のなかで、メンスラ・ゾイリという芸術の価値を測定する『価値測定器』で、まず、久米の『銀貨』と自分の『煙管』をはかっておいて、「『しかし、その測定器の評価が、確〔たしか〕だと云ふ事は、どうして、きめるのです。』『それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパッサンの「女の一生」でも載〔の〕せて見れば、すぐ針が最高価値を指しますからな。』」と書いて、間接に、『女の一生』を翻訳した、廣津をからかっているから、むこうはれっきとした小説であり、こちらはこどもだましの童話のようなものであるから、と思ったからである。
[やぶちゃん注:「龍介の天上」は大正八(一九一九)年十一月号『解放』に掲載されたが、「大阪国際児童文学館」のこちらのページを見ると、ここでは宇野が語っていない、『初出にはラメエ、デタの「日本童謡集」の翻訳であると付記あり』という意外な記載(この話が英訳本の和訳翻案であったと言っていること)が確認出来る。……しかし、……原著者の名は引っ繰り返せば、これ、「デタ」「ラメエ」というフェイクであることは、言うまでもないのである。]
ところが、この『龍介の天上』が発表されてからまもなく、あう人あう人が、私にちかいうちに、『宇野浩二撲滅号』という雑誌が出るそうである、そうして、その音頭取〔おんどとり〕は芥川龍之介だそうである、そうして、その雑誌は、「文章世界」だとか、「新潮」だとか、「秀才文壇」だとか、つたえる人によって、まちまちであった。私は、当時三十九歳の青年であったが、そんな事はまったく信じられなかった。ところが、改造社の社長であった、山本実彦さえ、その頃のある日、その事をつたえながら、「しつかりやりなさい、私はできるだけ後押ししますから、」といったが、「もしそんな事があったら、まだ無名の僕が得しますから、……が、そんなこと噓ですよ、」と、私は、いった。
そうして、それは、私がいったとおり、まったくの流言であった。
さて、私がはじめて芥川と顔をあわしたのは、大正九年の、たしか、七月頃、江口 渙の短篇集『赤い矢帆』の出版記念会が、万世橋の二階の「みかど」という西洋料理店であった。(この「みかど」はその頃の文学者の会合のよく行〔おこな〕われたところである。)この会の発起人であり世話役であったのは、たしか、芥川である。芥川は、その前の前の年(つまり、大正六年)の六月に開かれた、自分の『羅生門』の出版記念会、江口の世話あったので、その礼のつもりであったのだ。芥川にはこういう物堅い実に謹直なところがあった。これは芥川の友人たちにとって忘れがたい美徳であった。(これを書きながら、またまた、私情をのべると、私は涙ぐむのである。私の目から涙がながれるのである。ああ、芥川は、よい人であった、感情のこまかい人であった。深切な男であった。昨日も、廣津がいった。芥川が死んだ時だけは悲しかった、あの朝、銀座であった、吉井 勇も、やはり、悲しい、といった、と。)
さて、その『赤い矢帆』の会では、長いテエブルの向う前に人びとが腰をかけた、江口が正座に、江口の右横に芥川が、江口のむかいに廣津が、廣津の左横に私が、それぞれ、席についていた。そのテエプルにむかいあって腰かけていた人たちは、おもいおもいに、雑談をしていた。といって、話をするのは、となり同士か、せいぜい一つおいた隣の人であった。私は、そういう会になれていなかったので、たいてい、となりの廣津とばかり、話をしていた。と、突然、むこう側の三人目の席の方から、
「宇野君、……僕が君を撲滅する主唱者になるって噂があったんだってね、おどろいたよ、僕は、それを聞いて……」と、芥川が、いった。
「……もし、それが、本当だったら、君なら、相手にとって、不足はないよ、」と私がこたえた。
これが、つまり、私が芥川とはじめて逢った時の思い出である。