宇野浩二 芥川龍之介 九~(4)
私が芥川を訪問した度数と芥川が私をたずねて来た度数をくらべると、比較にならぬほど、芥川が私をたずねてくる度数の方が多かった。そうして、芥川は、私をたずねてくると、二分の一か三分の一ぐらいの割りで、私をつれだして、私をどこかへ案内した。そうして、芥川と私と一しょに行ったのは殆んど坐〔すわ〕る所であり、そのすわる所の三分の二はたべ物屋である。そうして、行くのは芥川と私と二人だけである。それで、まず、その『二人だけ』の例外から書きはじめよう。それは、不忍池のほとりの、『清凌亭』という小ぢんまりした日本料理店である。
この『清凌亭』にはじめて行ったのは芥川である。一度か二度そこに行ってから、芥川は、(ひどく気の弱いところもある芥川は、)一人でゆくのがキマリわるくなる理由ができて、友だちを連れて行くようになったのである。
私がはじめて芥川につれられて『清凌亭』に行った時、芥川のほかに、どういう連れがいたか、私は、まるで覚えていない。(芥川が、『清凌亭』に一人でゆくのがキマリわるくなったのは、そこにつとめている、十七八歳の女中が、ちょいと好きになったのである。その女中とは後の窪川いね子である。)
[やぶちゃん注:「窪川いね子」は作家佐田稲子のこと。]
私がその上野の桜木町の家に住むようになったのは、その家の裏(その家と背中あわせ) の家に住んでいた、江口 渙の世話で、その家を借りるようになったからである。江口は、ちょっと見ると、恐〔こわ〕そうな顔をしている上に、人なみはずれて声が大きいので、気の荒い人のように見えるが、その反対で、気はいたってやさしく、感情にもろい人である。それで、江口は、私よりも年〔とし〕が四〔よっ〕つぐらい上〔うえ〕であるからでもあるが、私よりもずっと前から、菊池、芥川、久米、佐藤春夫、広島晃甫、川路柳虹、その他と、したしい友だちである。中でも、その頃の、江口と芥川、佐藤と江口、江口と菊池などの友情の厚さは、涙ぐましい程である。まったく『好漢』というのは江口のような人をいうのであろう。その江口が、やはり、芥川につれられて、いつのまにか、『清凌亭』に連れて行かれた事を、くわしく、『芥川龍之介とおいねさん』という文章に、書いている。
それによると、江口は、久米正雄、菊池 寛、小島政二郎、の三人と、芥川につれられて、『清凌亭』に、行っている。それは大正九年の春である。その時、芥川は、上野展覧会を見たかえりに、江口、菊池、久米、小島、と、ぶらぶらと、上野の山を山下の方へ、あるきながら、突然、江口に、「君、これから一〔ひと〕つ好いところに連れて行ってやろうか、」と、いって、江口を、その『清凌亭』に、連れて行ったのである。
菊池と久米は、その洗で、芥川に、すでに、何度か、『清凌亭』に、連れて行かれていたのである。
さて、その時、窪川いね子は、前に述べたように、諺にいう『鬼も十八、番茶も出花』という、十七八歳であり、色白く、豊頰で、眉は濃く、目が大きく、鼻は尋常で、ただ口がやや大きかったが、それも、笑うと、大きな白い歯が見えるので、愛敬になった。それに、髪は銀杏がえしで、(島田の時もあった、)あらい縞〔しま〕のお召〔めし〕をき、(銘仙の時もあった、)それに黒繻子の襟をかけ、はでなお召の前垂〔まえだれ〕をかけていたから、まったく下町〔したまち〕の娘であり、あどけない娘であった。
[やぶちゃん注:「お召し」は御召縮緬のこと。縦横に絹の練糸を用い、横糸に強く縒〔よ〕りをかけて織った高級縮緬。縞縮緬とも。名前は第十一代将軍徳川家斉が好んで着たことに由来。
「銘仙」は、秩父・伊勢崎・足利地方で織られた先染めの平織りの絹織物。
「黒繻子」は「くろしゅす」と読む、黒光沢の繻子織(縦横五本以上からなる密度の高い、光沢の強い織物。サテン)。]
芥川が、そういう娘のような女中に、署名した自分の本をおくった、というのは、芥川が、世をはかなく思い、みずから命を絶とうとまで考えるようになった理由の一〔ひと〕つの中〔なか〕に、芥川が不義のような事をした一人のナゾの女(前に『謎の謎子』と書いた)があった、という噂が、芥川としたしかった人たちにまで、本当のように、つたわっている。そうして、その時の元になったのは、小穴隆一の『二つの絵』のなかの『S-』という文章である。(このナゾの女は私も面識はあるが、このナゾの女については、後〔のち〕に、くわしく書くつもりである。)
さて、このナゾの女は女流歌人といわれているが、私は、このナゾの女が何という雑誌に歌を出したか、を知らないから、このナゾの女の歌を、よんだ事はない。芥川がこのナゾの女にはじめて逢ったのは大正八年の六月十日で、岩野泡鳴が主宰していた、十日会に出席した時である。
十日会とは、毎月十日に、万世橋の駅の二階の「みかど」という西洋料理店で、岩野泡鳴を中心として、その時分の若い作家や詩人や歌人や画家などが、集まって、雑談をする会合で、毎月十日に開かれるので、『十日会』というのである。
芥川は、その六月十日の日録のなかに、ただ、「……十日会へ行く。始めてなり。岩野泡鳴氏と一元描写論[註―泡鳴の発明した新論]をやる、」と書いているだけであるが、その時、会場で、はじめて、ナゾの女を見かけて、すぐ傍〔そば〕にいた、おなじ十日会の会員廣津和郎[註―廣津は、芥川よりさきにこの会員になっていた]の肩をたたき、その女の方をかげで指さして、「おい、僕を紹介してくれ、」と、廣津に、たのんだのでナゾの女は、二十四五歳ぐらいであったろうか。
[やぶちゃん注:「一元描写論」岩野泡鳴が主張した小説描写論。作中に作者の視点を担う人物を必ず設定し、すべてはその人物の目を通して観察され描写されてこそ、小説は真の人生を描くことが可能となるという、田山花袋の平面描写論への反論として展開された。
「二十四五歳ぐらいであったろうか」秀しげ子は明治二十三(一八九〇)年八月二十日生まれであるから、大正八(一九一九)年六月当時は満で既に二十八歳である。以下の「廣津」の説明でも示されるように、当時の彼女は見た目、かなり若く見えた。]
廣津は、その女を、「目鼻立ちは当り前であり、飛び抜けて美人とは云へない、いはば十人並〔じふにんなみ〕の器量ではあつたが、小作〔こづく〕りの体〔からだ〕つきは年〔とし〕よりは若く見え、小〔こ〕ぢんまりした顔の中に怜悧な目がよく動き、ちよいと上唇の出た口つきが一種魅惑的であつた、」と述べ、江口は、「……彼女は妖婦ではなかつた。フラッパアでもなかつた。又男性に対して積極的に誘惑の手を差しのべる女でもなかつた。その上いはゆる美人型の美人でもなかつた。無論きれいではあつた。だが、そのきれいさは、むしろ清楚な消極的なきれいさだつた。それでゐて、都会的に洗練されたしとやかさの中に驚くほどこまやかな魅力を多量に持つてゐた。凡そ彼女に好感を寄せる男性に対しては彼女も亦同様な好感を持つて迎へることが出来る女性であつた。その上“How to play a love scene”といふことを好〔よ〕く理解してゐて、しかもそれをあまり露骨に演じなかつた女性であつた、」と書いている。
[やぶちゃん注:「フラッパア」フラッパーとは大正から昭和初期の、正に一九二〇年代に普及した流行語で、「お転婆娘」の意。英語の“flapper”(ばたつくもの・ばたばたする状態)が元で、既存の道徳観などに捉われない女性に対して「おてんば娘」という意味で使われた。但し、当時はボーイッシュや先進的ニュアンスよりも主に批判的軽蔑的で、不良少女の言い換えの感が強かった。
「How to play a love scene」「恋路の手解き」「恋愛処方箋」といった意味。]
右の二人の云い方は、それぞれ、このナゾの女の特徴のようなものを、さすがに、よく現している。ところで、私は、このナゾの女は、しいて云えば、瘠せ型で、すらりとした体〔からだ〕つきではあるが、私が逢った場合は、都会的なところはあるとしても垢ぬけしたところがあるようでなく、黒人〔くろうと〕じみたところがありながらやはり垢ぬけがしていない、もし魅惑的なところがあるとすれば、細い目でときどき相手の顔をジロリと上〔うわめ〕目に見る事ぐらいである、しかし、それは、スイタらしいところもあればイヤらしいところもあった。
ところで、芥川は、このナゾの女にも、やはり、署名した自分の本を、おくっているのである。
これには、なにか、魂胆が、あるのであろうか、ないのであろうか、私には、大した魂胆はないように思われるのである。
話はまったく変るが、もう十五六年も前の事であろうか。私ははじめて安倍能成に逢った時の事をときどき思い出すのである。安倍がまだ朝鮮の京城大学の教授をしていた頃である。その頃、安倍が、たしか、暑中休暇で東京に帰って来た時、安倍の甥の、小山書店の主人の、小山久二郎に紹介してもらって、はじめて安倍に逢ったのである。
私(あるいは私たち)が二十歳の文学書生時代に、安倍能成は、新進の評論家として、はなばなしく、活動した。おなじ頃、阿部次郎も、やはり、新進の評論家として、もてはやされた。そうして、この二人は、ほんの少しではあるが、書くものが幾らか似ている上に、おなじ『アベ』であるから、私たちは、それを区別するために、能成の方を『アンバイ』とよび、次郎の方を『アべ』と称した。ところで、書かれている事は別にして、『アンバイ』の文章は、滋味はあるが、地味であり、『アべ』の文章は、わかりよい上に、一種の調子がついていたので、一般には、(『三太郎の日記』などというものがあるので、)非常にうけた。が、その反対に、一部には、「能成の方が、……」というものも可なりあった。私は、もとより、『アンバイ』組の方であった。
さて、その日の夕方、銀座の裏(つまり、西銀座)の細い町の小〔ちい〕さな日本料理星の二階の一〔ひ〕と間〔ま〕で、私は、小山と一しょに、安倍を、待った。その部屋は、二階の角にあって、夏の事であるから、障子などはまったくはまってなかったので、すぐ外〔そと〕に梯子段の下〔お〕り口が、見えた。
やがて、その梯子段の下の方から、重い足音がしてきたので、その方を窺がうと、まず、斑白〔はんぱく〕のもしゃもしゃの頭〔あたま〕の毛らしいものが、見えてきた。それが安倍能成であった。
さて、その晩、その日本料理屋を出ると、安倍が、「……こんどは、僕……」といって、小山と私を、とおりかかるタクシに乗せて、日本橋の呉服橋のちかくの、かなり大きな茶屋に、案内した。とおされた二階の座敷もひろかった。長方形で十五畳〔じょう〕ぐらいの部屋であった。
やがて、つぎつぎと部屋にはいって来た老若の芸者たちは、みな、安倍を知っていて、「まあ、先生、しばらく、……」と、口口に、いった。それに答えて、安倍は、「やあ、」と云っただけであった。が、その声をたてない笑い顔には何〔なん〕ともいえぬ味〔あじ〕わいがあった。ただ、それだけで、安倍は、それからは、芸者たちを相手に、ぽつりぽつりと、普通の平凡な話をするだけであった。しかし、それから、しばらくすると、安倍は、さまざまの唄を、うたった。しかし、そのさまざまの唄は、安倍が、決して、一人で、うたわなかった。そのかわり、長唄でも、清元でも、常磐津〔ときわず〕でも、小唄でも、安倍は、その芸者がうたえば、(あるいは、かたれば、)一秒ほどおくれて、何でも、うたい、何でも、かたった。
そこで、私が、あとで、「ふしぎな事をやりますね、が、実にうまいですね、」と、いうと、西洋古代中世哲学史、その他の著者であり、オイケンの『大思想家の人生観』その他の訳者である、安倍は、持ち前のゆったりした口調で、「僕は附ける[註―ひたと合わす、というほどの意味]名人です、」と、いった。
[やぶちゃん注:「オイケン」ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken, 一八四六年~一九二六年)はノーベル文学賞を受賞したドイツの哲学者。安倍訳の「大思想家の人生観」は昭和二(一九二七)年刊。]
そうして、また、安倍は、芸者たちが、ライオン先生[註―頭の毛からつけたらしい]と呼ぼうが、何といおうが、すこしも頓著〔とんぢゃく〕せず、五十歳ぐらいの芸者とも、十六七ぐらいの舞妓とも、おなじような事を、おなじ口調で、話した。もとより、色気〔いろけ〕というようなものは殆んど感じられない。
さて、安倍は、(日本橋だけでなく、新橋、その他の芸者にも、)すこしでも知っている芸者たちに、ときどき、旅さきから、『たより』を出す事がある。そうして、変っているのは、その時はかならず芸者の本名を書く。「あの先生は、あたしたちの本名を一ペんお聞きになったら、決してお忘れにならない、」と、安倍を知っている芸者は、みんな、そういうのである。むかし来栖三郎と相愛の仲であった或る芸者が、芸者をやめて、今、名古屋のちかくの四日市で、菓子屋をしている。その四日市の元芸者が、数年前に、「安倍先生からおたよりいただきました、」と、私に、いった事がある。
[やぶちゃん注:「来栖三郎」(くるすさぶろう 明治十九(一八八六)年~昭和二十九(一九五四)年)外交官。ペルー公使やベルギー大使を歴任後、昭和十四(一九三九)年、駐ドイツ特命全権大使となり、翌年の日独伊三国同盟調印では大使として署名している。但し、実際の彼は戦争回避のための親米主張派であった。]
ところで、かくのごとく、悪例のごとく、ながながと、安倍能成のわたくし事を、書いたのは、芥川が、むかし、『清凌亭』のおいねさんや、謎の謎子、その他に、署名した自分の本を、おくったのは、安倍能成が、ときどき、芸者に、『たより』を出すのと、形はちがうが、ちょいと同じような種類のものではないであろうか、と、ふと、思ったからである。
また、余談であるが、ある時、辰野 隆が、私に、なにかの話のついでに、「安倍能成は男に惚れられるところがあるねえ……」と。いった。
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