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2012/03/16

宇野浩二 芥川龍之介 五

     五

 この文章を書こうと思いたった時は、よもや、このように長くなろうとは、思わなかった。予想もしなかった。そうして、これから書きつづけるのであるが、これまでも、書いているうちに、それからそれと、あとからあとから、芥川について、いろいろな事が、思いだされるので、これからさきの見当がつかなくなった、(いや、ほぼ見当はついているけれど、いずれにしても、)こんな文章を書きだしたのを、今は、すこし後悔している。(無住法師の著〔あらわ〕した『沙石集』のなかに、「後悔さきに立たぬ事を弁〔わきま〕へざること誠におろかなるかな」という文句がある。)しかし、また、「乗りかかった船」という諺もあり、滝亭鯉丈の『花暦八笑人〔はなごよみはっしょうじん〕』の中にも、「ちよつ、どうするものか、乗りかかつた船だ、出かけよう、出かけよう、」という文句もある。そこで、おろかな私も、自分で自分を鞭うちながら、「出かけよう、出かけよう、」と、かけ声をかけながら、のろのろした筆をすすめよう。「鞭うつや又も時雨の牛ぐるま」(『俳諧新選(蘭春)』)
 さて、この文章をはじめて書き出したのは、七月二十三日であるから、一年中でもっとも暑いといわれる『大暑〔たいしょ〕』の頃であったが、今、この文章を書いている、十一月二十七日は、東京でも、早朝には、地上には一面に霜におおわれ、所によってはうすい氷がはり、六時頃は私の部屋も二度〔ど〕ぐらいであった。この分では、もう三四日〔さんよっか〕もたって、十二月になれば、北の方の山山の頂〔いただき〕は雪におおわれるであろう。
 十二月といえば、私には、忘れられない思い出がある。
[やぶちゃん注:「滝亭鯉丈」(りゅうていりじょう ?~天保十二(一八四一)年)は江戸後期の滑稽本作家。「たきてい」とも読む。本名、池田八右衛門。代表作「花暦八笑人」(文政三(一八二〇)年~嘉永二(一八四九)年刊)は能楽(のうらく)仲間(遊び好きののらくら友達)八人の遊興を描く茶番狂言の嚆矢。
「俳諧新選」江戸中期の京都俳壇の長老三宅嘯山(しょうざん 享保三(一七一八)年~享和元(一八〇一)年)が安永二(一七七三)年に版行した当代俳句選集。この蘭春なる者の句は、恐らく「十訓抄」に載る楊梅大納言顕雅卿〔やまもものだいなごんあきまさきょう〕の言い間違いの話に基づくか。
楊梅大納言顯雅卿は、若くよりいみじく言失〔ごんしつ〕をぞしたまひける。神無月のころ、ある宮ばらに參りて、御簾(みす)の外にて女房たちと物語りせられけるに、時雨のさとしければ、供なる雜色〔ざふしき〕をよびて、「車の降るに時雨さし入れよ」とのたまひけるを、「車軸とかやにや。恐ろしや」とて、御簾の内笑ひあはれけり。(後略)
「さとしければ」は「さつとしければ」で、さっと降ってきたので、の意。貴人の牛車の牛を鞭打って急がすのは実景ではあるが、この句の面白さは実は、この逸話の連想からあたかも時雨を鞭打つとする諧謔味ではあるまいか。識者の御教授を乞う。]

昭和十七年の十二月のはじめから、昭和十八年の二月の中頃までの間に、私は、一週間か十日ぐらいの間〔あいだ〕をおいて、五度〔ど〕、大阪にゆき、大阪を根城〔ねじろ〕にして、その度〔たび〕に、三日〔みっか〕か四日〔よっか〕、毎日、大阪から電車で大和の各地をまわった。これは、ある出版社から、『大和路』(あるいは『大和めぐり』)というものを書くことを、たのまれたからである。大和の各地とは、奈良、橿原あたり、法隆寺あたり、西の京、(つまり、薬師寺、唐招提寺、その他、)佐保路、(つまり、佐保川、諸御陵墓、興福院、不退寺、法華寺、その他、)吉野あたり、多武峯〔とうのみね〕、初瀬、室生寺、山の辺の道、(つまり三輪〔みわ〕、纏向〔まきむく〕、山辺の里、石上〔いそのかみ〕、その他、)である。
 さて、その大和めぐりをした時のことである。その昭和十七年の十二月の中頃であったか、その時は、長谷寺〔はせでら〕から室生寺にまわるつもりで、大阪の上本町六丁目から電車に乗ったのであるが、どういう訳であったか、途中で、私は、電車をおりた。乗りかえのために下りたのか、それとも、なにかの都合〔つごう〕で下ろされたのか、まったく覚えていないが、私はそのみすぼらしい停留場でおりた事を、その時も、今も、よかった、(ありがたかった、)と思っている。
 その狭い停留場のプラットフォオムに立って、ふと、気がつくと、そこが『耳成〔みみなし〕』という停留場であり、そのプラットフォオムの北側のすぐ目の下と思われるほど近くに、まったく三角〔さんかく〕の形〔かたち〕をしている耳成山が小〔こ〕じんまりとそびえていたからである。『古今和歌集』のなかに、「耳なしの山のくちなし得てしがな思ひの色の下染〔したぞめ〕にせむ」とよまれている耳成山が、全山緑の木立につつまれている耳成山が、草も木も枯れはてた、満目荒涼とした野の中〔なか〕に、出現していたからである。それから、やっと掛けられるような狭〔せま〕い腰かけのついている板壁の上に、昭和十八年の新年号の「中央公論」の広告が出ていたからである。そうして、それも、長方形の紙に、木版で、ただ二行〔ぎょう〕に長編小説、『東方の門』島崎藤村、『細雪』谷崎潤一郎、と、筆で書かれた字で、すられてあったからである。そうして、しかも、それが、はるか東の方〔かた〕に三輪山が望まれる、寒駅のプラットフォオムの待合室の板壁に、張られてあるのである。それは、文学を愛する程の者ならば、誰か感激せざらんや、という光景ではないか。
[やぶちゃん注:「耳なしの山のくちなしえてしがな思ひの色の下染にせむ」は「古今和歌集」一〇二六番歌。「耳なし山」は耳成山で、現在の奈良県橿原市木原町にある。山と呼称するが上円下方墳で、古代大君の御陵と伝わる。この「耳なし」は「口なし」から「梔子」を引き出す。「くちなし」梔子。アカネ目アカネ科クチナシ属 Gardenia jasminoides。古くから乾燥させた果実を黄色着色料として用いた。「梔子」は「口なし」で、これは「耳なし」と相まって「誰にも(私の秘めた恋は)知られないだろう」の意を掛けることになる。「下染め」は染色の際に二種以上の染料を用いて染める時、初めの染料で染める工程を言う。本染めの発色を良くするためのプレの染色である。「思ひの色」の「ひ」は 「火」色・「緋」色を掛けて、鮮やかな恋の情熱の赤い色に心を染め上げるために、まずは発色が冴える梔子で下染めをしよう、というのである。「えてしがな」は「得(動・ア行下二段・連用)て(完了(確述)・助動詞「つ」・連用)しが(願望・終助詞「しか」の中古以降の濁音化)な(感動・間投助詞)」で「~してしまいたいものだなあ」の意。
〇やぶちゃん現代語訳
耳成山の梔子の実が欲しい――それでもって――私の心を――誰にも知られぬあの人への思いで染めるための下染めにしたいものだ……]
  藤村が、『東方の門』を書き出した頃は、あの戦争がますますはげしくなる時分であった。それで、その頃すでに七十一歳であった藤村は、『東方の門を出すに就いて』という文章のなかで、「戦争が長引けは長引くほど時局はますます重大性を加へて来た。こんなはげしい渦の中に立つて、筆とることは一層身にしみるばかりでなく、今の自分の老弱に思ひ到れば実に何事も容易でない、」と、述べている。これは非常な決心である。はたして、藤村は、この『東方の門』を、昭和十八年に、「中央公論」の、一月号、四月号、九月号、十月号、と、出したが、十月号のは、第三章の五が完結しないままのが出た。つまり、藤村は、第三章の五を、「松雲が東京へ来て聞きつけたのも、この時代の跫音〔あしおと〕である。和尚が耳にした狭い範囲だけでも、」という所まで書いて倒れたのである。そうして、藤村は昭和十八年の八月二十二日の夜のあけぬ前、七十二歳で、永眠したのである。これは、よくある事のように思われるかもしれないが、実に大した事である。(わたくし事ではあるが、私は、いつか、島崎藤村については、心ゆくばかり、書いみたい、と思っている。)
 谷崎潤一郎が『細雪』を書き出したのも、いうまでもなく、やはり、戦争がいよいよあげしくなった頃である。そうして、この小説は、たし一〔ひ〕と月〔つき〕おきに、「中央公論」に、出す予定であった。ところが、これは、たしか、このようなはげしい時局のおりに、こういう有閑階級の有閑な事を書くとは、……というような理由で、当局から、書きつづける事を、禁止された。ところが、谷崎潤一郎は、雑誌に発表できなくなっても、『細雪』を書きつづけたのである。そうして、その上巻を書きあげて、昭和十九年の七月に、非売品として、二百部印刷して、これと思う人に、『細雪』の上巻を寄贈したのである。いうまでもなく、昭和十九年といえは、戦争の状態がますますはげしくなり空襲がいよいよはげしくなった時分である。それを、谷崎が、空襲を避けながら、『細雪』を書きつづけた、という事は、何〔なん〕といってよいか、これ後世にのこすべき語種〔かたりぐさ〕である。これには、私など、頭がさがる思いがするのである。

 芥川の『或阿呆の一生』のうちの『譃』という章のなかに、「しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な譃に充ち満ちてゐた。殊に『新生』に至つては、――彼は『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた、」という一節がある。『新生』の主人公とは、いうまでもなく、島崎藤村である。たいへん常識的な云い方であるが、芥川ほどの聡明な人が、遺稿のなかに、こういう事を書くとは、と、私は、思うのである。それとともに、芥川には、あの『新生』に書かれてある一件が、遺稿の中にまで書くほど、気になったのではないか、気になって、気になって、仕方がなかったのではないか、とも、私は、思うのである。(この事については、別にくわしく述べる。)それから、また、藤村には、芥川がまったく持っていなかった、底の知れない辛抱づよさがあり、並大抵〔なみたいてい〕でないシブトサがあり、おどろくべき図太さがあった。そうして、藤村は、また、あらゆる同時代の作家の作品を見とめていなかったようなところもある。

 芥川の『あの頃の自分の事』という文章のうちの帝国劇場の喫煙室の事を述べた一節のなかに、「そこの入口〔いりぐち〕に、黒い背広の下へ赤いチョッキを着た、背〔せ〕の低い人が佇〔たたず〕んで、袴〔はかま〕羽織〔はおり〕の連れと一しよに金口の煙草を吸つてゐた。久米はその人の姿を見ると、我々〔われわれ〕の耳へ口をつけるやうにして、『谷崎潤一郎だぜ』と教へてくれた、」というところがあるが、谷崎潤一郎は、芥川の学生時代の文学の目標のようなものであり、作家になってからの芥川には、競争相手のようなものであった。もっとも、作家になってからの芥川には、競争相手のような者は無数にあったけれど。
 それについて、ずっと前に引いた、『芥川龍之介研究』の座談会の筆記のうちの『文学上の競争者は?』という題のがあるから、それを、つぎに、うつしてみよう。
*
 久米。佐藤君の前で云つてはをかしいが、彼[註―芥川]の文学上の競争相手ともいふべきものは、実際は佐藤春夫君だつたらしいね。
 中村[註―武羅夫]。私はこのあひだ里見さんぢやなかつたかといふ話を聞いたが、……
久米。それは恐らく間違ひでせう。佐藤君を卒業することは彼は或る程度まで念願してゐた。いろいろな人と対立的な位置に立たされることは不愉快であつたらしいが、尊敬しながら克服しようといふ事もした。おしまひの時分になつて、双方の位置がおちついてから初めてさういふ気もちがなくなつたらしいので、僕にもさう云つてゐた。佐藤だけは鎬〔しのぎ〕をけづつたといふ意味を何〔なに〕か別の言葉でいつてゐた。僕はそれを信じてゐる。君だつて、いくらか感じてゐたらう。
 佐藤。気がつかぬではなかつたね。
 廣津。さういふゴシップはあつたね。これは佐藤君を前において云ふんだが、やはり二枚目役者のアセリだね。さういふ感じがあるね。
 杉山[註―平助]。非常に老成人でゐながら、最後まで大人になりきれなかつたといふ……
 廣津。さういふ風にはいへるね。今まで四十男だと思つて話してゐたのに、立ちあがつたら足袋〔たび〕が七文〔もん〕半だつたといふ、さういふ感じは非常にあつた。しかし、それもこれも引つくるめて、ある時はイヤダといふ気もちがしたけれど、全体をひつくるめてだん、だん考へてみると、非常に愛情を感じる。……たいていの事はわかつてゐて、しかもわかりきつた上〔うへ〕で、やはり、ちよつとかはゆいといふ感じ……なぜといふに、嘘をついてしまつてから、それで 負けたと思つてゐる男なんだ。決してごまかし通〔とほ〕すことのできない、その癖いへばつい誇張してしまふし、人と話せば相手を負かしてしまふし、それで、自分は勝つたと思つてゐない、思へないのだ。実にわびしい性格なんだね。
[やぶちゃん注:「杉山平助」(明治二十八(一八九五)年~昭和二十一(一九四六)年)は評論家。生田長江に認められ、自由主義的な論客、毒舌評論家として知られた。昭和六(一九三一)年からは『東京朝日新聞』に氷川烈のペン・ネームでコラムを執筆するなどしたが、日中戦争が勃発した昭和十二(一九三七)年頃から右傾化した。
「七文半」一文は約二・四センチであるから、十八センチ。就学前児童の足の大きさである。]
*
 私は、ここに引いたところを、以前から、何度もよんだが、ここで話をしている久米と廣津は、もとより、性格その他はちがうけれど、共に、人間の微妙な気もちなど隈なくわかる人であるから、ここに述べられている久米と廣津の意見は、人としての芥川の、芸術家としての芥川の、かくれた長所と短所を、かなりするどく突きながら、底に芥川にたいする深い深い愛情をもっていることが忍ばれるので、読むたびに、なんともいえぬ奥ゆかしい気がして、私は、いつも、心をうたれるのである。そうして、私は、持つべきものは友だちである、と思い、友だちというものは実にいいなあ、と感じるのである。世のなかに友だちほどよいものはないなあ、と感じるのである。

 一般に芥川の小説のあるものには鬼気を感じるといわれているが、私は、そうは思わない、『鬼気』さえ、時によると、芥川の作り物のような誇張のような気がするからである。久米の話によると、芥川は、大学生時代から、時代物を書いている時分から、いかなる本をよんでも、文章の間〔あいだ〕にみなぎる鬼気(あるいはそれに似たもの)を拾い出すことに骨を折っていた、という事であるが、それと同じように、芥川は、ある場合は、一〔ひと〕つの小説をつくる時に、何〔なん〕とかして、ひとつ、鬼気を出してやろう、と苦心したにちがいない。
*
 何時頃の話だか、わからない。北支那の市から市を渡〔わた〕つて歩〔ある〕く野天〔のでん〕の見世物師に、李小二と云ふ男があつた。鼠に芝居をさせるのを商売にしてゐる男である。鼠を入れて置く嚢〔ふくろ〕が一つ、衣裳や仮面をしまつて置く笥〔はこ〕が一つ、それから、舞台の役をする小〔ちひ〕さな屋台〔やたい〕のやうな物が一つ――その外には、何も持つてゐない。
*
 これは『仙人』という小説の書き出しである。もっとも、この一節には、鬼気という程のものは現れていないが、しかし、この小説には、(全体をよめば、)やはり、鬼気のようなものを狙〔ねら〕ったようなところがたしかにある。しかし、いうまでもなく、作者が本当に鬼気を感じて書いているのと、作者が鬼気に興味を持って書いているのとでは、いかに筆さきで巧妙に書いてあっても、それは、まったく違う。筆さきだけで書いたものは、一応は読む人を感服させるが、迫〔せま〕ってくるものがない。それから、この小説には、アナトオル・フランスと森鷗外の書き方をまねたようなところがあり、この小説が支那のふるい本のなかの話を焼きなおしたものである事もはっきりわかる。それから、これが大学生時代の二十四歳の年に書かれた小説か、と思われるほど、この小説には、気どった、いやに凝った、衒学的な、ところがある。そうして、この小説をよめば、芥川が、その頃から、すでに、いかに、生意気な青年であったかが、わかって、それが、また、おもしろいところもあるが、……しかし、これらの事は芥川の初期の幾つかの小説に共通する欠点(とあるいは長所か)である。そうして、それらの欠点(とあるいは長所)が既にこの小説(『仙人』)に、はっきり、すっかり、出ているのである。(『雀育まで踊り忘れず』というか、『三〔みつ〕ご子の魂百まで』というか。)
*
 あらゆる神の属性中、最も神の為〔ため〕に同情するのは神には自殺の出来ないことである。
*
 これは、芥川の『侏儒の言葉』のなかの一節であるが、大正十四五年頃に書いたものであろうか。『侏儒の言葉』のなかにはずいぶん否味〔いやみ〕な警句のような文句が出てくるが、この言葉は、(芥川の最後をかんがえれば、)文字どおり真剣であり、悲壮な感じさえするではないか。                                          
 さて、芥川の後期(大正十三四年から晩年まで)の小説のなかには、前期の作品の中〔なか〕に見られない、真剣な、読む人の心にせまるような、作品が幾つかある。(それらの作品については後に述べる。)ところが、芥川の初期の小説は……
 芥川たちまち高名にしたのは、しかし、初期の小説である。しかし、その初期の小説の多くは、題材が変っているので、ちょっとはおもしろいけれど、いわば、みな、小話〔こばなし〕である。(その頃、むやみに『ナントカナントカの話』、というような題の小説が流行した。たとえば、その時分の菊池の小説に、『恩を返す話』、『大島の出来る話』、などというのがある。)それで、私は、その頃の芥川の小説を、(菊池の小説も、)みな、小話〔こばなし〕小説である、といって、芥川を大いに憤慨させた事がある。しかし、芥川がいくら憤慨しても、芥川の初期の小説は、一〔ひ〕と口〔くち〕にいうと、たいてい、小話小説か物語小説かである。しかし、それで、芥川の小説がわりに多くの人に、受けたのである、もてはやされたのである。
 ところで、芥川は、外国の作家では、トルストイ、チェエホフ、ストリンドベルヒ、アナトオル・フランス、メリメ、ボオドレエル、ゲエテ、ポオ、などに、傾倒していた、といわれているが、それは、(フランスとメリメは別として、)傾倒していた、というより、例の読書癖で、手あたり次第〔しだい〕に読んだものの中〔なか〕でもっとも念をいれて読んだもの、といった方が適当であろう。もし、『鬼気』などという事で、芥川の小説が、ほんとうに、ストリンドベルヒの小説のようになったり、ポオの小説になったり、していたら、芥川は決してあのような流行作家にならなかったであろう。
 一〔ひ〕と口〔くち〕にいうと、鬼気は芥川の好みであったのだ。そのように、王朝の話も、キリスタンの話も、その他、みな、芥川の好みであったのだ。好みで書かれてあったので、芥川の初期の小説は、どのような悲惨な残酷な事が述べられてあっても、それはそれとして、おもしろく読まれたので、多くの人にしたしまれたのである。(小説の質〔たち〕はちがうが、谷崎潤一郎の初期の小説にもこれいくらか似たところがある。この事については別にあらためて書くつもりである。)
 芥川の初期の小説の中の、たとえば、『羅生門』、『孤独地獄』、『虱』、『尾形了斎覚え書』、『偸盗』、『地獄変』その他は、もとより、題材はそれぞれ違うが、みな、気もちのわるい話ばかりである。常識的なことをいえば、これらの小説をよんだ人のなかには、このような小説をかく人はどのような陰気なしかつめらしい顔をした人であろう、と想像するかもしれない。ところで、これらの小説は芥川が二十四歳から二十七歳までの間〔あいだ〕に書いたものであるから、私が、かりに、これらの小説を、二十八歳の年に読んだ、とすれば、私も、また、こんな小説を書く男は、おそらく、苦虫〔にがむし〕をかみつぶしたような顔をした、物体〔もったい〕ぶった、男であろう、と、想像したであろう。
 しかし、もし、私が、こんな想像をしていたとすれば、いうまでもなく、この想像はまったくはずれていたのである。

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