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2012/03/07

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」(31)

 私は、二日したら出發しようとしてゐる。パット・ディレイン爺さんは、私に別れを告げた。今朝、彼は村で私と逢ひ、彼が夜を過すみすぼらしい小屋である、「彼の小さなティント(テント)」に私を連れて行つた。

 私は長い間、入口に腰掛けて居り、彼は、その間、私の後の寢床近くの腰掛に凭れてゐた。そして彼から聞く最後であらう話――書く價値もない露骨な實話――をしてくれた。それから若い時、漂浪して、立派な學校に住んで若い坊さんに愛蘭土語を敎へた事を特に力をこめて話した。

 彼は四人分も噓をつけると云ふ島の噂である。恐らく覺えた物語で彼の想像力が強くなつたのだらう。

 彼に別れを告げて、戸口の處に立つと、彼は寢床を形造つてゐる藁にもたれて、涙を流した。それから又こちらの方を振り向き、震へる片方の手を擧げた。その手には、撞木杖のこすれから掌に穴があくほど破れてゐる手袋をはめてゐた。

 「もうあんたには逢へないだらう。」彼は顏に涙を流して云つた。「あんたは親切な人だつた。來年、戾つて來ても、私はもう此の世には居ないだらう。私は此の冬は越せないだらう。だが、今私の云ふことを聞きなさい。それはあんたがダブリンの町で私に保險をかけるのです。さうするとあんたは私の葬式の時、五百ポンド手に入るだらう。」

 此の島の最後の晩なる今夜はまたパターン祭〔愛蘭土に於ける守護の聖人を祭る日で、色色の餘興が催される〕――ブリタニー地方のパードン〔佛國ブルターニュに行はれる教會及び民間の祭で、一般の無禮講が許される〕に似た祭――の宵祭である。

 私は特にそれを見ようと待つてゐたが、來る筈であつた笛吹(ふえふき)も來ず、何の餘興もなかつた。隣島から幾人かの友達や親戚が來て、酒場の邊に晴着を着て立つてゐたが、音樂なしではダンスも出來なかつた。

 いつか笛吹が來た時は、ダンスやお祭り騷ぎで賑やかであるに違ひない。併し、ゴルウェーの笛吹も年を取つて、容易にやつて來るといふわけに行かない。

 昨夜はセント・ヂョーンの祭〔洗禮者ヨハネの誕生を祝ふ祭日、六月二十四日、その前夜は大篝火を焚き男女がその周りを躍る〕の宵祭で、篝火が焚かれ、子供たちは火のついた一片の泥炭を手に持つて步き廻つた。併し大篝火から家の火をつける考へは、今でも島に存在してゐるかどうか見ることは出來なかつた。

 

 

I am leaving in two days, and old Pat Dirane has bidden me goodbye. He met me in the village this morning and took me into 'his little tint,' a miserable hovel where he spends the night.

I sat for a long time on his threshold, while he leaned on a stool behind me, near his bed, and told me the last story I shall have from him--a rude anecdote not worth recording. Then he told me with careful emphasis how he had wandered when he was a young man, and lived in a fine college, teaching Irish to the young priests!

They say on the island that he can tell as many lies as four men: perhaps the stories he has learned have strengthened his imagination. When I stood up in the doorway to give him God's blessing, he leaned over on the straw that forms his bed, and shed tears. Then he turned to me again, lifting up one trembling hand, with the mitten worn to a hole on the palm, from the rubbing of his crutch.

'I'll not see you again,' he said, with tears trickling on his face, 'and you're a kindly man. When you come back next year I won't be in it. I won't live beyond the winter. But listen now to what I'm telling you; let you put insurance on me in the city of Dublin, and it's five hundred pounds you'll get on my burial.'

This evening, my last in the island, is also the evening of the 'Pattern'--a festival something like 'Pardons' of Brittany.

I waited especially to see it, but a piper who was expected did not come, and there was no amusement. A few friends and relations came over from the other island and stood about the public-house in their best clothes, but without music dancing was impossible.

I believe on some occasions when the piper is present there is a fine day of dancing and excitement, but the Galway piper is getting old, and is not easily induced to undertake the voyage.

Last night, St. John's Eve, the fires were lighted and boys ran about with pieces of the burning turf, though I could not find out if the idea of lighting the house fires from the bonfires is still found on the island.

 

[やぶちゃん注:「撞木杖」“crutch”。本邦ではT字型が鉦叩きの撞木の似ていることから、かく言う。

「パターン祭」原文は“'Pattern'”であるが、この綴りではゲール語でも検索出来なかった。この綴りは、アイルランドの守護聖人として有名な聖パトリック“Patrick”と似ている(但し、ゲール語では“Pádraig”)が、聖パトリックの祭日は3月17日で、シングの第一回目のアラン島訪問期間(1898年5月10日から6月25日。栩木氏の「アラン島」の「訳者あとがき」による)とは合わない。この6月25日に最も近いアイルランドの聖人の祭日は、アイルランド三守護聖人にしてアイルランドノ十二使徒の一人である“St Columba”聖コルンバの祭日で、6月9日である。但し、彼の名もゲール語では“St Colm Cille”(コルム・キル)で“Pattern”とは一致しないし、日附に有意なタイム・ラグがあるから違う。識者の御教授を乞うものである。

「昨夜はセント・ヂョーンの祭〔洗禮者ヨハネの誕生を祝ふ祭日、六月二十四日、その前夜は大篝火を焚き男女がその周りを躍る〕の宵祭」はラテン語名“Ioannes Baptista”(英語名“John the Baptist”)で、言わずもがな「サロメ」で知られた、「新約聖書」に登場するヨルダン川でイエスに洗礼を授けたユダヤの大預言者である。現在もヨハネの誕生日とされる6月24日はカトリックなどで彼の聖名祝日となっている。但し、ヨハネのゲール語も“Eoin Baiste”で“Pattern”には全然似ていない。……按ずるに、彼が離島したのが6月25日なら、この謂いでは「昨夜」は、シングの島での最後の夜の24日、文字通り聖ヨハネの祭日の前の晩、23日の夜ということになる。連続で24日のSt. John's day25日の“'Pattern'”があるということになるが、そもそもが類似した異なった起源の祭祀であってもそれが同時期にリンクして習合して、毎日がイヴと祭日の連続となっても別段おかしくはないのである(私がかつて住んでいた富山では季節の節目になると毎日どこかで祭りがあった。驚くべきことに、中学生の頃の秋祭りなどでは祭りに参加するために、学校が公欠扱いとしていた同級生さえいた。古き良き時代の名残りであった)。……しかし、にしても“Pattern”が謎であることには変わりがない……私は……やはり“Patrick”との類似が気になるのである。もしかするとアラン島では複数の聖人たちの祭日を、彼らが最も尊崇する守護聖人のチャンピオン聖パトリックに代表させて、かく呼んでいたのではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。

「ブリタニー地方のパードンに似た祭」“'Pardons' of Brittany”。ウィキの「ルドン祭り」によれば、フランスのブルターニュ地方に典型的な巡礼行事の一つで、『庶民のカトリック信仰に根付く伝統的な行事である』が、その起源は『ケルト人のキリスト教化がキリスト教聖職者によって行われた時代に遡ると』され、アイルランドの『セント・パトリック・デーのパレードと比較される』とあるから、これは同起源の祭りである。フランス語の“pardon”は「許し」であり、告解による神の容赦を意味する。『信者たちは聖人の墓や聖人に献げられた場所に向けて巡礼する。その場所は、ケリアン(フィニステール県のコミューン)のように、奇跡の出現と関係している場合もあるし、聖遺物と関係している場合もある。告解者の旅行は教区ごとの集団、信徒団体、その他の団体で、旗印、十字架、その他巡礼を表すものを掲げ、どの団体も華麗さ・高潔さのため他者と競い合う』。『巡礼行進のように、指定された場所で落ち合うまで巡礼は解散せず、信仰のなせるわざとして旅する努力を提供することで、名高い聖人から取りなしを得ようとする願望を象徴しているのである。これは、地上の人間たちは天上の王国か新たな約束された地へ向かって旅を続ける状況にある、とみなす、キリスト教徒の考えを反映している。この説に従うと、巡礼者たちはミサに出席する前に聖職者に対して罪を告白するよう勧められている。そしてその後に厳粛な夕べの祈りがしばしば続く。彼らは免罪を授かり、集団はキリスト教徒の救済を喜ぶためにコミュニティの祝宴に加わる。これは村祭りか移動遊園地にすら似ている体系をとる』とある。

「篝火が焚かれ、子供たちは火のついた一片の泥炭を手に持つて步き廻つた。併し大篝火から家の火をつける考へは、今でも島に存在してゐるかどうか見ることは出來なかつた。」は、聖ヨハネの祝祭とは違う、バルト神話の太陽神サウレ(リトアニア語“Saulė”・ラトビア語“Saule”)等に基づくものではなかろうか。例えばウィキの「サウレ」によれば『サウレの祭である夏至祭を起源に持つリトアニアのRasos(キリスト教によって聖ヨハネ祭とされた)およびラトビアのLīgo(同じく聖ヨハネ祭)は、花輪を作り、不思議なシダの花(en)を探し、篝火を燃やしてその周りで踊り、火を飛び越え、そうして翌朝の午前4時頃の日の出を迎えるということを要件とする祭り』であり、『それは最も喜びに満ちた伝統的な休日である』とあり、本記載と酷似する。夏至は6月22日頃に当たり、聖ヨハネの祝日の前日に当たる6月23日に近く、信仰行事として習合し易かったものとも思われる。考えるに、これは古形の太陽再生儀礼が元ではなかろうか。篝火はそのシンボルであり、記されなかったパット爺さんの昔話の中などで恐らく、アラン島の古伝承ではそれを各家庭の竈の火種として移し、一年の太陽の恵みと豊穣を祈願して保守したのではなかったか。]

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