宇野浩二 芥川龍之介 九~(1)
九
この前の回の中で、芥川が木蘇 穀から印章を買うことを述べたが、その年月を忘れたので書かなかった。ところが、芥川の全集の書翰篇のうちの、つぎにうつす手紙をよんでそれが大正十一年の三月下旬であることがわかった。
[やぶちゃん注:「大正十一年の三月下旬」三月二十六日。岩波旧全集書簡番号一〇〇九。]
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拝啓 この頃左の印を得ました鳳鳴岐は読めるのですがもう一つのは読めないのです何哉ですか教へて頂けれは幸甚です又小さい印の中細長い○日○石とか云ふ○印の中も教へて頂ければ幸甚です
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こう書いたあとに、その字のよめない印が縦〔たて〕に六〔むっ〕つ押してある。そうして、そのあとに、「作者は皆蔵六です 頓首 香取先生」とある。香取とは香取秀真である。
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その後無恙〔つつがなく〕御消光の事と存候さてこの頃石印両三顆手に入れ候につき御鑑裁を経たく存居侯へども近々御来駕下さるまじく候や当方より参上致す可〔べ〕きの所何分にも煉瓦程の石印につき途中難渋に候間手前勝手を申上ぐる次第に御座候[下略]
[やぶちゃん注:これは大正十一(一九二二)年三月二十六日佐佐木忠一宛。岩波旧全集書簡番号一〇一〇。佐佐木忠一は佐佐木茂索の兄で、骨董屋を経営していた。]
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この二つの手紙のうちの、前の香取にあてた中の印の読み方は、(ここにその印を押したのを木版にして出せば判断はつくが、)『鳳鳴岐』は『鳳鳴岐山』であり、『何哉』は『鉞哉』であり、『○日○石』は『終日弄石』である。いずれにしても、これらの手紙をよむと、芥川が、木蘇からゆずりうけた印を自分の物にして、いかに喜び得意になったかが、うかがわれ、私も、これを知って、その印について間接の世話をした事を思い出して、うれしい気がするのである。
[やぶちゃん注:「鉞」は音「エツ」、訓で「まさかり」。鮮やかな斧正や王権を象徴する。]
なお、香取秀真は、子規門人のふるい歌人であり、工芸(殊に鋳金)の大家である。芥川が、大〔だい〕きらいな犬をおっばらうために常用していた、といわれる、籐〔とう〕のステッキの頭〔あたま〕についていた、たしか、真鍮の、鳳凰の頭は、香取が造ったものである。こういうステッキはまったく珍しいものであったから、このステッキがいかなる場所においてあっても、その近くにかならず芥川がいる事がわかった。(十数年前に或る百貨店で物故作家の遺品展覧会があった時、あのステッキが出ていたが、あれは今だれが持っているのであろう。ところで、そのステッキ物語があるが、それは後に述べることにしよう。)
ところで、芥川は、さきに述べたような手紙を書いた日から五日後〔いつかのち〕に、小説の題材に必要な事を聞きただす、という用事だけで、塚本八洲[註―芥川の夫人の弟]に、手紙を書いているのである。つまり、芥川はその手紙の中に、
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㈠明治元年五月十四日(上野戦争の前日)はやはり雨天だつたでせうか
㈡雨天でないにしてもあの時分は雨降りつづきだつたやうに書いてありますが、上野界隈の町人たちが田舎の方へ落ちるのにはどう云ふ服装をしてゐたでせう? 殊に私の知りたいのは足拵へです足駄、草鞋、結ひ付け草履、裸足、等の中〔うち〕どれが一番多かつたでせう?
㈢上野界隈、今日〔こんにち〕で云へば伊藤松坂あたりから三橋へかけた町家の人々は遅くも戦争の前日には避難した事と思ひますがこれは間違ひありますまいか? 念の為〔ため〕に伺ひたいのです皆面倒な質問ですがどうかよろしく御返事下さいかう云ふ点が判然しないと来月の小説にとりかゝれないのです
[やぶちゃん注:三月三十一日附。岩波旧全集書簡番号一〇一一。]
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と書いて、この手紙をあてた、塚本に、「「御祖母様に伺つた上〔うへ〕二三日中〔ちゅう〕に御返事下さい、」とたのんでいるのである。
ここに、芥川が、「来月の小説」と書いているのは、『お富の貞操』である。そこで、『お富の貞操』を読みなおしてみると、「戸をしめ切つた家の中は勿論午過〔ひるす〕ぎでもまつ暗だつた。人音も全然聞えなかつた。唯耳にはひるものは連日の雨の音ばかりだつた。雨は見えない屋根の上へ時々〔ときどき〕急に降りそそいでは、何時〔いつ〕か又中空〔なかぞら〕へ遠のいて行つた、」[★やぶちゃん注:「連日の雨」に「ヽ」点があるがこれは宇野によるものである。以下の傍点も同じ。]というところと、「手織木綿の一重物に、小倉の帯しか……」[★やぶちゃん注:「手織木綿の一重物」に「ヽ」点。]というところと、「素裸足に大黒傘を……」[★やぶちゃん注:「素裸足」に「ヽ」点。]というところぐらいが、塚本の祖母に教えられた事を使っているだけで、他はことごとく芥川の空想(あるいは創作)である。してみると、『お宮の貞操』はすぐれた小説ではないけれど、雨降りの描写や殊に猫の描写などは、さすがに、水際〔みずぎわ〕だっている。(『花舞台霞猿曳〔はなぶたいかすみのさるひき〕』のなかに、「見れば見る程、くつきりと、水際の立つよい男」という文句があるが、)芥川の幾つかの小説には、まったく水際だった作品がある。
[やぶちゃん注:「花舞台霞猿曳」は江戸後期の歌舞伎。四世中村重助作の所作事で、天保九(一八三八)年、江戸市村座にて初演された。狂言「靱猿」に基づく。]
芥川の小説を、このごろ、あまりよく云わない人が多いが、(かく云う私もときどきそう思う事もあるが、)芥川のさきにも、芥川のあとにも、芥川が書いたような、水際だった小説を、(よかれあしかれ、)作〔つく〕った人はないのではないか。ついでに褒〔ほ〕めていえは、私がさきに述べたように、芥川は、空想の才能はあまりなかったとしても、(いや、相当にあったけれども、)それを十分〔じゅうぶん〕におぎなう、独得の、無類の、心にくいような、文学的才能は、多分に、持っていたのである。
[やぶちゃん注:最後の宇野の逆説的な謂いは分かり難い。ここは「芥川は、空想の才能はあまりなかったとしても――いや、相当にあったけれども、それを作品にあからさまに発揮することを芥川は感性として好まなかったために、空想の才能の煌めきを感じさせる芥川の作品は少ないのだが――そこに起因する種の物足りなさを十分におぎなうに足る独得の、無類の、心にくいような、稀有の『物語作家〔ストーリー・テラー〕』としての文学的才能は、多分に持っていたのである。」といった意味で私は採る。但し、私は同時代の作家たちに比べて芥川龍之介の作品に空想が欠けている、とは思っていないことを付け加えておきたい。]

