宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(5)
例の小穴の『二つの絵』のなかに、芥川が、自分で死をえらんだ一〔ひ〕と月〔つき〕ほど前に、小穴を浅草の茶屋につれて行って、小穴に「芸者E」を紹介するところがある。「芸者K」とは、小亀という芸者で、私もこの女をよく知っている事は、前にちょっと書いたか、と思う。書いた文章のなかに、つぎのような事を書いている。
*
芸者Eを見せた以前、ホテル事件の後幾何〔いくばく〕の日も経過してゐないうちに、一日〔いちにち〕少〔すこ〕し歩〔ある〕かうと夕方の下宿から自分を彼が誘つた。
「もうこれで自分の知つてゐる女の一〔ひ〕ととほりは君に紹介してしまつたし、もう云つておく事もないし、すると、……」
下宿の外に出てからかう云ひ出した彼の心は、何気〔なにげ〕なしのやうに、各自一〔ひと〕つの性格を持つた人々ではあるが、比較的周囲の近くからの女、例へば、K夫人、S夫人、S子、Kのおかみさんといつたやうに、彼のいふ賢い女の名を数へた。
*
この文章の終りの方の、S夫人は例の謎の女であり、S子はせい子であり、Kのおかみさんは『小町園』のおかみさんである事は、想像がつくが、K夫人だけは私に見当がつかない。さて、ここで、ついでに述べると、さきの座談会の記事の中〔なか〕で、久米が「軽井沢で逢つてゐる女の人」と云っているのは、私の臆測ではあるが、アイルランドの文学の翻訳を幾つかした、松村みね子ではないか。
[やぶちゃん注:「芸者Eを見せた以前、ホテル事件の後」「芸者Eを見せた」は小穴を連れて谷中の新原家墓参をし、浅草料亭「春日」に行って愛妓子亀と別れを告げた昭和二(一九二七)年六月二十五日、「ホテル事件」先立つ同年四月十六日(七日とも)に平松麻素子との帝国ホテルでの心中未遂を指す。
「比較的周囲の近くからの女、例へば、K夫人、S夫人、S子、Kのおかみさんといつたやうに、彼のいふ賢い女の名を数へた」という小穴の「K夫人」は片山廣子、「S夫人」はひとまず佐野花子、「S子」はひとまず平松麻素子、「Kのおかみさん」『小町園』の女将野々口豊と考える。「S夫人」は一見、秀しげ子と思ったが、既に自死を決した芥川龍之介が「彼のいふ賢い女」にいっかな彼女を挙げることはあり得ないと思われ、すると小穴が直接は知らない(既にこの頃は佐野夫妻とは疎遠にはなっていたものの)過去に愛した既婚女性を挙げたとしも私はおかしくはないと思うのである。「S子」は「ますこ」の「す」のSで、彼女は未婚であるから「子」としておかしくなく、この羅列の中に、直前に自殺未遂まで企てた身近であった平松麻素子が入らない方が不自然だからである。宇野の言う「小林せい子」は先に述べた通り、あり得ないと私は判断する。]
[やぶちゃん注:以下の「後記」は底本では全体が一字下げ。]
(後記-芥川が、大正十四年の八月二十五日に、軽井沢から、小穴隆一にあてた手紙のなかに、「……軽井沢はすでに人稀に、秋冷の気動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日帰る筈、片山女史も二三日中に帰る筈、」という文句がある。ここで、愚鈍な私は、本文のなかで、「K夫人だけは見当がつかない、」と書いたが、このK夫人は、臆測すれば、片山ひろ子ではないか、と気がついたのである。片山ひろ子は、歌人で、翻訳する時に「松村みね子」という筆名を使ったのである。さて、臆測をもう一そう逞しゅうすると、堀 辰雄の処女作『聖家族』に出てくる「細木〔さいき〕といふ未亡人」は、片山ひろ子のような人を、小説に都合のよいように、使ったのではないか、とまで思われるのである。片山ひろ子の『軽井沢にて』のなかに、「影もなく白き路かな信濃なる追分のみちのわかれめに来つ」、「われら三人影もおとさぬ日中〔につちゆう〕に立つて清水のながれを見てをる」などという歌がある。)
[やぶちゃん注:『芥川が、大正十四年の八月二十五日に、軽井沢から、小穴隆一にあてた手紙のなかに、「……軽井沢はすでに人稀に、秋冷の気動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日帰る筈、片山女史も二三日中に帰る筈、」という文句がある。』この書簡を書いた時こそ、芥川龍之介は切ない廣子への恋情を苦渋の中で断ち切ろうとしていたのである。「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」を是非、参照されたい。
「堀 辰雄の処女作『聖家族』に出てくる「細木〔さいき〕といふ未亡人」は、片山ひろ子のような人を、小説に都合のよいように、使ったのではないか」よく知られているように言わずもがな、その通りである。私の「聖家族〈限定初版本やぶちゃん版バーチャル復刻版〉」でお読み戴ければ幸いである。
「軽井沢にて」の以下の短歌は、片山廣子の昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」の「日中」に初出し、後、第二歌集『野に住みて』(昭和二十九(一九五四)年)の「輕井澤にありて」にも採録された。但し、「日中」のルビは歴史的仮名遣ならば「につちう」が正しい。]
私がこう云うのは、室生犀星の、たしか、『青い猿』という、その中に芥川らしい人物の出てくる、長篇小説のなかに、軽井沢のホテルで松村みね子が出てくる所があるので、せんだって室生に逢った時、その話をすると、室生は、「芥川は、松村さんと一しょにコオヒイなど飲むと目立つのでね、……と、云ったよ、」と、云ったからである。しかし、松村みね子は、本名を片山広子といって、佐佐木信綱に師事しながら、
をとこたち
煙草のけむりを吹きにけり
いつの代とわかぬ山里〔やまざと〕のまひるま
などという歌をよむ人であるが、明治十一年に東京の麻布で生まれているから、芥川より十四五も年上〔としうえ〕である。といって、芥川がしたしくしていた、春日とよも、芥川より十〔とお〕以上も年上〔としうえ〕であるから、芥川は松村みね子ともしたしく附き合っていたのであろう。
[やぶちゃん注:「をとこたち」の短歌も片山廣子の昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」の「日中」に初出し、後、第二歌集『野に住みて』(昭和二十九(一九五四)年)の「輕井澤にありて」にも採録されたもの。但し、何れもこのような三行分かち書きではない。私のテクストを参照。
「春日とよ」本名、柏原トヨ(明治十四(一八八一)年~昭和三十七(一九六二)年)は既出の料亭「春日」の女将、後に小唄春日派初代家元。函館生。先に芥川がちらりと述べているように、イギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、三歳の時に父は帰国、母と上京して十六歳で浅草の芸者となる。大正十(一九二一)年に浅草の料亭「春日」の女将となった。その後、小唄演奏家として知られるようになり、昭和三(一九二八)年、小唄春日流を創立した。]
ここで、右に上〔あ〕げた女人たちの顔を芥川の好〔この〕んだ二〔ふた〕つの型に、しいて、わけてみると、つぎのようになる。
芥川夫人、『小町園』夫人、松村みね子――以上の人たちは、はっきり、古典型であり、春日とよは古典型にちかく、小亀は古典型六分半浪曼型三分半であり、謎の女とせい子とはあまりパッとしない浪曼型であろう。
ところで芥川は、小穴に、気質、顔つき、皮膚の色、爪の色まで、「江戸の名残〔なご〕をつたへた最も芸者らしい芸者である、」とまで褒めている、小亀を、大正十四年の秋の或る日、私と一しょに浅草の或る茶屋に行った帰り道で、今のさきまで其の茶屋で二人が逢っていた、小亀を、道をあるきながら、いきなり、私に、「君〔きみ〕、小亀をやろうか、」と、云った。
私は、これを聞いて、芥川は小亀がかなり好〔す〕きらしいな、と思った。
« 宇野浩二 芥川龍之介 十 ~(4) | トップページ | ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (7) »