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2012/03/23

宇野浩二 芥川龍之介 九~(3)

 いつ頃の事であったか、(大正十一二年頃であったか、)広島晃甫が、突然、たずねて発て、広島の癖で、座につくと、すぐ、芥川のところに、唐の三彩の壺があるらしいが、「それを見たい、すぐ、つれて行ってくれないか、」と、いった。
[やぶちゃん注:「広島晃甫」画家。「一」で既出。]
 広島は、極端な無口で、『遠慮』という事を少しも知らぬ男として友人間に知られている程であったから、私は、もう夜の八時頃であったが、さっそく、広島をつれて、芥川を、たずねた。しかし、芥川は、こころよく、私たちをむかえて、私が広島の希望をつたえると、「ふン、」といったが、すぐ、つぎの間に行って、片手で持てるくらいの、三彩の壺を、持ってきた。
 そこで、広島は、だまって、芥川の手からその三彩の壺を、うけとり、しばらく、矯〔た〕めつ眇〔すが〕めつ、眺めていたが、やがて、「しッ、」といって、芥川の膝の前に、おいた。「しッ、」というのは、「しッ、」というように聞こえるので、広島は、「ありがとう、」という時も、「しっけい、」という時も、自分ではそう云っているつもりであるらしいのに、それが、人には、「あッ、」と聞こえたり、「しッ、」と聞こえたり、するのである。
ところで、芥川は、私がハラハラしているのに、それにはあまり気にとめなかったらしいが、だまって、その三彩の壺を、部屋の隅〔すみ〕に、おいた。そうして、それから、すぐ、立ちあがって、床の間の下〔した〕の戸棚の中から、二つの軸をとりだし、まず、その一つをひろげて、壁にかかっている掛け物の上に、かけてから、芥川は、私たちの方を、(おもに広島の方を、)見ながら、「これは、どうです、」と、いった。
 ところが、それは、広島の好〔す〕きそうな、宗達風の、風景画であったが、広島は、こんどは、一〔ひ〕と目〔め〕見て、首を横にふりながら、「うン、」と、いった。
すると、芥川は、ちょいと苦笑してから、すぐ、その掛け物を取りはずして、別の軸を、するすると、そのあとに、かけた。それは、小〔ち〕さな、長方形を構にした、大きさで、殆んどその紙面いっぱいに、牛を、(牛だけを、)かいたものであったが、一と目見て、私のような者でも、「はッ、」と思っただけに、広島は、その牛の絵が見えると殆んど一しょに、うなるように、「うン、」といった。すると、芥川は、すかさず、私と広島の方を、見くらべるように、眺めながら、
「これは、いいでしょう、」といった。
「うン。」
「これは、僕が見ても、いい。」
 そこで、芥川は、例のニヤニヤ笑いをしながら、
「これは、巧芸画だよ、進呈しようか、」と、私の方をむいて、いった。
[やぶちゃん注:「巧芸画」横山大観が大塚巧藝社(創業大正八(一九一九)年)と大正中期に開発した書画の複製品。原作の可能な限りの再現を目的とし、原作と同じかそれに近い材料・素材を用いて、作業工程もある程度まで再現、プロの画家によって、同質の顔料と手彩色を施した精密複製画を言う。]
 その時、女中が、下〔した〕から、菓子皿をのせた盆を持って、あがって来た。
 そこで、菓子をたべたり、煙草をすったりしながら雑談しているうちに、座がくつろいで来た。
 座がくつろぎ、気もちがくつろぐと、芥川は、しだいに、おしゃべりになった。しぜん、話がはずんでくる。その話がはずんでいるうちに、芥川が、広島に、「あなたが、五六年前の文展に出された、たしか、『夕月』という絵は、ペルシャのミニイアテュウル[註―小画あるいは豆画というほどの意味]から来たのではないか、と思いますが……」というと、広島は、例の云いしぶるような口調で、「……そ、そう、……ミニイアテュウル、……ペルシャ、……サラセン、……」と、いった。
 そこで、私が、側から、
「君は、実に物おばえのいい男だなあ、」というと、
「ふん、」というような返事をしてから、芥川は、目尻に例のうす笑いをうかべながら、「……そうだ、僕の珍蔵している物を見せようか、」と、いいのこして、下〔した〕へおりて行った。
 やがて、あがって来た芥川は、こんどは、ちょいとニコニコしながら、両手で白い細長い瀬戸物の人形のような物を大事そうにかかえて、元〔もと〕の座にすわると、それを、机の上に、そっと、おいた。
「まりや観音〔かんのん〕だよ。」
『まりや観音(摩利耶観音)』とは、徳川時代に、キリスト教が禁止されてから、長崎で、聖母のマリヤを、観音に見たてて、崇拝し信仰したもので、殊に長崎の丸山の遊女たちに信仰された、といわれている。ところで、ここで、芥川が、「まりや観音だよ、」といったのは、たしか、観音の像になずらえてマリヤの像にした瀬戸物で、その像には気のつかないところに十字架の形がついている。
 さて、そのマリヤ観音像を、「どうだ、」というような顔をして、芥川に、見せられた時は、私は、もとより、物に動じても殆んど顔や声にあらわさない広島も、おもわず、はっと、目を見はった。そこで、私が、
「これは、うらやましいね、」というと、
「シッケイしてきたんだよ、」と、芥川は、例のニヤニヤ笑いをしながら、しゃあしゃあとして、いった。
「ぼくも失敬しにゆこうかな。」
「もうないよ。」
 ところで、芥川の『長崎日録』を見ると、
*
 五月十六日
  與茂平[註―渡辺庫輔]と大音寺〔だいおんじ〕、清水寺〔きよみずでら〕等〔とう〕を見る。今日天晴、遙かに鯨凧〔くじらだこ〕の飛揚するあり。帰途まりや観音一体を得〔う〕、古色頗〔すこぶ〕る愛すべし。
*
とある。が、これ、亦〔また〕、誠にしゃあしゃあとしているかの如くに見える。
 さて、その夜〔よる〕、かえり道で、広島は、例の云いしぶるような口調であるが、あの芥川の三彩は、あまりきれい過ぎるので、康熙のものではないか、と思う、康熙の物は西洋人がよろこぶけれど、……という意味の事を、私に、はなした。
[やぶちゃん注:以下、「後記」は底本では全体が一字下げ。]
(後記-筑摩書房版の『芥川龍之介』(日本文学アルバム叢書のうち)の中の『手に入れたマリア観音』という題の写真の説明のうち、大正八年[註―二十八歳の年]五月と十一年五月に、彼は二度長崎に遊んでいる。そこで、永見徳太郎、渡辺庫輔〔くらすけ〕、蒲原春夫等を知り、『日本の聖母の寺』――大浦の天主堂、『観音』等を見物している。彼の愛蔵した『マリア観音』は当地で渡辺と共に、「多少の冒険をおかして手に入れたもの」とある。ところで、『マリア観音』を芥川が「多少の冒険をおかして」手に入れたのは、大正十一年の五月に長崎に行った時のことであろう。それは、私が、昭和二十九年の十一月中頃に長崎に行って、渡辺庫輔の案内で、大浦の天主堂を見物に行った時、その『マリア観音』入手の顚末を渡辺に聞くと、渡辺は、例の微笑をしながら、「……あの時、芥川さんが、あの観音さんを私に手ばやくわたしながら『クラスケ、これを……』と云って、浴衣〔ゆかた〕をきていた私のふところに捩じこまれていたのです……」と云ったからである。ところで、大正十一年の五月二十日の日記に「払暁〔ふつげう〕、與茂平〔よもへい〕(渡辺のこと)、春夫の二人と『日本の聖母の寺』に至る、弥撤〔ミサ〕の礼拝式に列せん為なり。松ヶ枝橋〔まつがえばし〕を過ぐる頃、未〔いま〕だ天に星光あり、」とあるから、芥川が『マリア観音』を「シッケイ」したのは五月二十日の夜明け頃ということになる。それから、五月十五日の日記のなかに、「今日〔こんにち〕暑気盛夏の如し、」とあるから、渡辺庫輔が、私に、五月(実は二十日であるのに)に「浴衣をきていた」のが噓でないこともわかるのである。
[やぶちゃん注:「永見徳太郎」(ながみとくたろう 明治二十三(一八九〇)年~昭和二十五(一九五〇)年)は実業家・作家・美術研究家。長崎で家業の倉庫業を営みつつ、俳句・小説などを書いた。南蛮美術・写真の蒐集研究でも知られる。
「渡辺庫輔」(明治三十四(一九〇一)年~昭和三十八(一九六三)年)は作家・長崎郷土史家。芥川が嘱望し、最も目をかけた弟子の一人である。
「蒲原春夫」(かもはら・はるお 明治三十三(一九〇〇)年~昭和三十五(一九六〇)年)は作家・郷土史研究家。長崎県出身。長崎を舞台としたキリシタン小説を発表、大正十一(一九二二)年、渡辺庫輔とともに上京、芥川に師事した。]
 それから、おなじ本のおなじペイジの中に、芥川が、やはり、大正十一年の五月に、長崎の茶屋(『鶴の家』)に書きのこしたちょいと有名な『河童屏風』の写真が出ている。この『河童屏風』について、たしか、青野季吉が、あの銀屏風が、年月〔としつき〕を経て、銀がいくらか黒くなり、銀色が沈んでいるので、あの気味のわるい河童〔カッパ〕の絵が一そう気味わるく見える、という意味のことを云った。まったく青野の云うとおり、私は、『鶴の家』であの屏風を見たとき、その凄みと気味わるさに、正視できなかった、目をおおいたくなった。あの河童は、私が見たかぎりでは、どの人がかいた河童(十数疋の河童)のどれにも似ていない、他の人のかいた河童どもはたいてい何か趣きがあり幾らかの愛敬〔あいきょう〕もあり諧謔もある。ところが、この屏風の河童には、何の趣きもなく、愛敬もなく、諧謔もない、唯ただ凄さと気味わるさがあるだけである。猶この銀屏風の、右半双〔そう〕には、「橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆるかぶろ(禿)のあたま」という歌を三行に書き、その横に少し下げて少し小さい字で「お若さんの為に」と書き、その横にずっと下げてもう少し小さい字で「我鬼酔筆」と書いてある。(お若とはその頃の長崎の芸者照菊の本名である。)芥川は、その時、呼ばれた茶屋にあらわれた四五人の芸者のなかで、この照菊に一ばん興味を持っていたらしい。『長崎日録』のなかで、芥川は、「戯れに照菊に与ふ、」として、『萱艸〔くわんぞう〕も咲いたばつてん別れかな』という句を照菊に寄せている。この照菊は、今は、本名の杉本わかとなり、『鶴の家』のおかみになっているが、今は五十を半〔なか〕ば過ぎているであろう。が、私は、去年(昭和二十九年)の秋、この人に逢ったが、今でもまず美しく、大へん失礼な言葉であるが、この人はどこか芥川未亡人に似ているところがあるようにも思われた。それから、例の『河童屏風』は、私には、一分と眺めてはいられなかった、まったく青野の云うように、無気味で、実にもの凄くて、殆んど正視できなかった。そこで、卑しいことを云うと、芥川の書いたものなら大抵ほしいけれど、この屏風は……この屏風は、今の持ち主がもし私とおなじ思いをいだいているとすれば、東京の博物館にでも納めてはどうであろう。)
[やぶちゃん注:『河童屏風』(正しくは「水虎晩帰之図」と言う)についての宇野の感想には激しく反論する(但し、誰もが観賞出来る博物館等への寄贈云々は支持するし、実際に現在は長崎歴史文化博物館の所蔵となっている)。河童は零落した神であり、本来は人の尻子玉を抜いて死に至らせる立派な恐るべき妖怪である。更に零落させられて滑稽諧謔のみに堕した河童は真の河童にあらず(芥川の「河童」の登場する連中でさえ、実は我々人間から見てひどく不気味なものとして描かれている)。――私なら喜んで言い値で買う。]
 ところで、『長崎日録』は大正十一年であるが、大正十二年の『澄江堂日録』の六月六日、というところを読むと、芥川は、つぎのような事を、書いている。
*
 蒲原[註―蒲原春夫]君に枇杷を貰ふ。午後、永日荘〔えいじつさう〕にペルシャの古陶を観る。価〔あたひ〕高うして購〔あがな〕ふべからず。
*
 ところが芥川龍之介全集の月報の第四号[註―昭和三年三月]を見ると、その中に、「遺愛の一つ」として、タテ四寸三分五厘四毛というギリシャの壺の写真が出ている。もとより、写真であるから、よくわからないけれど、もし本当のギリシャの壺であるならば、まったく大〔たい〕したものである。それに、これは、さきに書いたように、芥川の「遺愛の一つ」として、親友であった小穴が、えらんだのであるから、本物であろう。ところで、ここで、どうしても不思議なのは、芥川がはっきり「僕の家に伝はつた紫檀」のペン皿と書いているのを、小穴が、さきの月報のなかで、やはり、「遺愛の一つ」として選んで出している、ペン皿の説明に、「竹材、本是云々の文字は菅白雲さんの書であらうが、刻上〔きざみあ〕げた人は僕知らぬ。故人のペン皿はこれ、」と書いている事である。それは、写真で見ても、芥川が書いているとおり、窪んだ中に、「本是云々」という菅虎雄の字が刻んであり、外には、やはり、細木伊兵衛が刻んだ、という「素人の手に成つたらしい岩や水」が刻んであるから、小穴が「遺愛の一つ」として写真で出したペン皿と、芥川が『ペン皿』という文章で書いているペン皿は、同じ物にちがいないのであるが、ちがうのは『竹』と『紫檀』であるから、これは、たいへんな違いである。(芥川の事を誰よりもよく知っている筈の小穴にも、こういうマチガイがあるのであるから、私のこの『思い出すままに』などという文章はマチガイだらけにちがいない。たびたび断るようであるが、やはり、この事をくりかえし断っておく。)

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