十八
私が芥川と一しょに旅行したのは、前に述べたように、二度である。二度だけである。その最初の旅行(大正九年の十一月下旬)の事は、この文章のはじめの方に、くわしく書きすぎるほど書いた。
ところが、二度目の時は、芥川が支那旅行に出る前であったという事、大阪に行ったという事――この二〔ふた〕つの事だけしか覚えていないのである。
ところで、この二〔ふた〕つの事だけを覚えているのは、つぎに述べるような事があったからである。(これから書くことも、ずっと前に述べた事と重複するところがあるから、前もって断っておく。)
大正十年の二月の中頃であったか、芥川が、息を切らしながらやって来て、なにか二〔ふ〕た言〔こと〕か三〔み〕言〔こと〕はなしてから、癖〔くせ〕で、いきなり、「君〔きみ〕、大阪イ行〔ゆ〕かないか、」と云った、「行きたいけど金〔かね〕ない。」「行〔い〕けよ、金は僕がもつから、……こんど、支那に行〔ゆ〕くことになったので、その事で、大阪の『毎日』に行くんだ。」「行ってもいいか。」「いいよ。」
[やぶちゃん注:「大正十年の二月の中頃であったか」上巻の「一」では「大正十三年の二月の中頃」と誤認していたクレジットが、ここでは修正されて正しく示されている。再注すると、現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、これから宇野が訂正するように、この旅は大正十(一九二一)年二月二十日夜東京発、二十四日帰京であることが分かっている。]
大阪に幾日か滞在した或る日、芥川にさそわれて、大阪毎日新聞社に、学芸部長をしていた薄田〔すすきだ〕淳介(泣菫)をたずね、辞して社を出ると、すぐ、私が「泣菫という人は実に姿勢〔しせい〕のいい人だね、」と云うと、芥川は、言下に、例のおどけたような笑い顔をしながら、「あれは、君〔きみ〕、ギプスをはめているからだよ、」と云った。
[やぶちゃん注:上巻の「一」ではギプスをはめている理由として薄田が脊椎カリエスであることを芥川は語っているが、上巻の注で示した通り、彼の病気は脊椎カリエスではなく、パーキンソン症候群であった。]
ここまで書いて、ふと、気がついて、芥川の書翰集を見ると、大〔たい〕へん為〔た〕めになったので、これから、しばらく、書翰集によって、私の記憶ちがいなども直〔なお〕しながら、話をつづけることにしよう。
さきに書いた芥川と私のかわした話だけで判断すれば、芥川と私が一しょに大阪へ出かけたのは、芥川が私をたずねてきた日から、早くて二三日のちか、遅けれは、四五日のちか、であろう、と、これを読む人も思うであろう、書く私も、そう思ったのである。
ところが、芥川が、その時、大阪に行く事になったのは、大阪から、(たぶん、大阪の毎日新聞社から、)電報で呼びよせられたからである。そうして、その電報は二月十九日につき、その電報には「十九日の晩に立て」と書いてあったらしいのである。
芥川は、この電報を見ると、いくらかあわてて、つぎのような手紙(あるいは葉書)を書いている。
*
大阪より電報参り唯今急に下阪仕る事と相成候間御約束の原稿[註―『往生絵巻』]その次の号へ御まはし下さるまじくや二十日までには如何なる事ありても出来致すまじく[下略]
*
これは二月十九日午後、小林憲雄[「国粋」という雑誌の編輯者]に宛てたものである。
*
急に下阪の為国粋の原稿は延期した裏絵だけ描いて国粋へ送つて頂きます[中略]君がこの端書を見る時僕は浜名湖位〔ぐらゐ〕にゐます
*
これも、やはり、十九日に、小穴に宛てたものである。
ところが、その翌日、(つまり、二十日、)芥川は、また、小穴にあてて、つぎのような便りを、出している。
*
言おくれ今夜発足同行は宇野耕右衛門二人共下戸故【①】や【②】はなし唯【③】ばかり
[やぶちゃん注:底本では【①】には盃の、【②】には御銚子の、【③】には蜜柑の、それぞれ芥川龍之介自筆の絵が描かれている。以下、該当書簡(岩波旧全集八五五書簡)の本文総てを画像で示す。
冒頭二首の短歌の「一游亭」は小穴隆一の俳号、「圓中」も小穴の別号で芥川はしばしば「圓中先生」と彼を呼称したようである。]
*
右の文句のうちの『耕右衛門』とは、私が大正八年の十月号の「改造」に出した『耕右衛門の改名』という小説の題名から、芥川が、勝手に、私につけた名前で、私の目にふれたのでは、小穴にあてた手紙に使っている。しかし、客観的にいえば、この便〔たより〕りの文句としては、『宇野浩二』より『宇野耕右衛門』の方が趣きがある。そうして、全体の文句もいかにも芥川らしい洒落〔しゃれ〕ではないか。
ところで、私は、こんど、これを読んで、芥川が私をたずねて来たのは、二月の十九日か二十日〔はつか〕(たぶん二十日の昼頃〔ひるごろ〕)である事を、はじめて、知った。そうして、もし芥川が二十日の昼頃にさそいに来たとすれば、私は、その誘われた日の晩に、いそいそと、東京を立った事になるのである。
この事を知って、私は、自分の軽率さに、今更ながら、あきれた。そうして、私は、あの時、芥川が、あの不意の大阪ゆきに、私をさそったのは、深切でしたのか、退屈しのぎの道づれにしたのか、と、頭〔あたま〕をひねることがある。すると、あの時は、徹頭徹尾、芥川に為〔し〕て遣〔や〕られたような気がしたり、芥川が深切で誘ってくれたような気がしたり、するのである。
しかし、結局、あれは、やっぱり、深切で誘ってくれたにちがいない、と、私は、思いかえすのである。というのは、あの時、芥川が大阪ゆきを誘いに来た時、私が「行きたいけど金ない、」と云うと、芥川は、言下に、「行けよ、金は僕がもつから、……」と云ったが、その時、芥川は余分の金など持っていないらしかったからである、それから、大阪に行ってからも、毎日新聞社から金を取った様子がなかったからである。
ところで、この大阪ゆきから帰って、芥川が、三月二日に、薄田淳介に宛てて、支那旅行の費用について、質問したり、「御願い」したり、する手紙を書いているが、その手紙の大半はつぎのような箇条書〔かじょうが〕きである。
*
㈠ 旅費とは汽車、汽船、宿料 日当とはその外〔ほか〕旅行中〔ちゆう〕日割に貰ふお金と解釈してかまひませんかそれとも日当中〔ちゆう〕に宿料もはひるのですか
㈡ 上海までの切符(門司より)はそちらで御買ひ下さいますかそれともこちらで買ひますか或男の説によれば上海から北京と又東京までぐるり一周〔ひとまは〕りする四月〔つき〕つき通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい
㈢ 旅行の支度や小遣ひが僕の本の印税ではちと足〔た〕りなさうなのですが月給を三月〔つき〕程前借する事は出来ませんか
又次ぎの件御願ひします
㈠ 旅費並びに日当はまづ二月〔ふたつき〕と御見積〔みつも〕りの上御送り下さいませんか僕の方で見積るより社の方で見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひますから
㈡ 出発の日どりは十六日以後なら何時〔いつ〕でも差支へありませんこれも社の方にて御きめ下さい自分できめると勝手にかまけて延びさうな気もしますから
*
この箇条書きは、言葉はおだやかであり、上辺〔うわべ〕は、謙遜に見え、なにもかも靠〔もた〕れかかっているように思われるけれど、よく読めば、かなり強引〔ごういん〕なところもあり、ずいぶん勘定高〔かんじょうだか〕いところもあり、なかなか抜け目のないところもある。
つまり、この箇条書きをよく読めば、㈠、旅費と日当を別のものと「解釈」し、日当の中に宿料も入れなければ、貰う方の条件は二重三重によくなるように思われるし、㈡、上海までの切符を買ってもらえば、それだけの汽船賃が助かるし、という事になるかもしれない。が、それらは私の例の臆測であるとしても、或る男の説として、「上海から北京と又東京までぐるり一周〔ひとまは〕りする四月〔つき〕通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい、」と云うところなどは、談判(つまり、掛け合い)としても、『至れり尽くせり』の観があるではないか、と云うのは尤もである。つまり、これでは、その頃の毎日新聞社の経理部にいかに豪物〔えらもの〕がいたとしても、「四月通用の切符」を捜〔さが〕さざるを得ないであろう、そうして、その上に、「三月〔つき〕程の月給の前借」㈢も承知し、二月〔ふたつき〕分の「旅費並びに日当」も送ったであろう。
それから、この箇条書きの文章であるが、さきに述べたように、「日当中に宿料もはひるのですか、」とか、「もしそんな切符があればそれでもよろしい、」とか、「前借をする事は出来ませんか、」とか、「社の方で見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひます、」(これが一番うまい)とか、その他、下手〔したて〕に出ているように見えながら、結局、上手〔うわて〕に出ている、つまり、先手〔せんて〕を打っている、――それに、私は、感心したのである、なにもかも、用意周到であり、常識的であり、抜け目がないからである。 ――芥川には、こういう所もあったのである。
[やぶちゃん注:文中の下線部は底本では「〇」傍点。
ここでの宇野の指摘は極めて核心を突いている。則ち、「生活者」たる芥川龍之介という男は、想像を絶してなかなかに「したたか」である、ということだ。これは先に宇野が引いた『或阿呆の一生』のなかの『械』の、
彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。
という謂いを、我々が芥川の真実の告白として鵜呑みにしてはいけない、ということをも意味しているということに気づかねばならないのである。遺書に於いても、芥川龍之介はこの自死という土壇場でも新潮社との全集出版契約をけんもほろろに(『僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版肆を同じうせんことを希望す』という身勝手甚だしい理由から)破棄している。私の「芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料一通≪二〇〇八年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」を是非、参照されたい。]
ところで、ここで、私が奇特に感じ有り難く思うのは、
見ずや、若草離々〔りり〕として、
霞吐く野の末とほく、
野馬〔のま〕うちむれて永き日を、
あかぬ快楽〔けらく〕に酔ぬらし。 『尼が紅』の内
墾道〔はりみち〕かよふ旅人の
側目もふらで路せくに、
ふりさけみれば、紫の
雲のあなたに日は落ちぬ。 『尼が紅』の内
[やぶちゃん注:「墾道」新たに切り開かれた道、新道のことで、題名「尼が紅」は、「夕焼け雲」のこと。本来は「天が紅」で、訛って「おまんが紅」、音の類似から「尼が紅」とも書く。]
とうたった『暮笛集』の詩人、薄田泣菫が、このような手紙を、なくさないで、取っておいてくれた事である。
さて、この芥川が薄田に宛てた手紙をよんで、私は、実は、はじめて、芥川にこういう性質もあった事を、知ったのであった。ところが、芥川が二月の中頃に、小穴に宛てた手紙の殆んど全部が『往生絵巻』のくわしい筋書であるのに、私は、一そう、目を見はった。つまり、一〔ひ〕と口〔くち〕にいえば、芥川が、生活でも、創作でも、一つの計画を立てると、ちゃんと、設計(あるいは筋)をつくり、それも明細に丹念につくり、それを著著〔ちゃくちゃく〕と実行する、常識を持った人であった事を、知ったからである。
しかしたびたび云うが、こういう所があったために、芥川の小説が、窮屈になり、理づめになり、『自然』なところがなく、感情が乾〔ひ〕からびていて、冷たくて、作り物のように見えるのではないか。が、それもよい、それが芥川の小説らしい、という事になれば、である。しかし、私がもっとも不満に思うのは、あのような見事〔みごと〕な芥川の文学に何〔なに〕か肝心なものが欠けている事である。それを一〔ひ〕と口〔くち〕にいうと、ニュウアンス(nuance)がない事である。nuanceはフランス語であるから、辞書を引いてみると、「色・音・調子・意味・感情などの微細な差異。陰影。濃淡、明暗、」とある。ニュウアンスのない事――これが芥川の文学の最大の欠点の一〔ひと〕つである。
[やぶちゃん注:宇野の評は誤っている。芥川龍之介の作品には「ニュウアンス」は絶望的な意識の揺らぎとして非常に深く存していると私は思う。では、何故、宇野は芥川の作品は全く「ニュウアンスのない」ものばかりだ、というのか? それは宇野という生物の可視出来る波長域が、芥川という生物の持っている波長域よりも狹い、若しくは芥川龍之介の可視短波域(精神のマイナー域)の「色」が宇野には見えないか、長波域へと大きくずれているからにほかならない。これは個人の持って生まれた人格の相違だから仕方がないと言うべきであり(これは実は後文で宇野自身も認めている)――寧ろ、宇野は人間愛を素直に抱きとめることの出来る生物であり――私は――私は芥川龍之介という種の亜種である故に――私には宇野が「色」として感じない芥川龍之介の短波域を、その明度の非常に低いグラデーションを、あらゆる作品の中に、ありありと「見る」ことが出来るのである。]
さて、この文章のはじめの方で、私は、『往生絵巻』の最後の「法師の屍骸の口には、まつ白な蓮華が開いてゐる、」というところを、「芥川一流のマヤカシの文句である、」と貶〔けな〕したことがある。(この考え方が変ったことは後〔あと〕で述べる。)ところが、芥川は、この『往生絵巻』について、小穴に宛てた手紙の中で、「…僕の小説[註――『往生絵巻』]は駄目、急〔いそ〕がされた為おしまひなぞは殊になつてゐなささうです、」と書いている。(私は、この手紙をよんだ時、これは『眉唾物〔まゆつばもの〕』である、と思った。)
ところが、やはり、この小説を、正宗白鳥が、「国粋」[註―大正十年四月号]で読んで、この白い蓮華のところを、「小説の結末を面白くするための思ひ附き」である、と評し、「芸術の上の面白づくの遊びではあるまいか、」と非難している。
すると、芥川は、この批評に対する自分の感想(というより意見)を述べた手紙を、正宗に出した。そうして、その手紙の中で、芥川は、あの白蓮のところは自信がある、というような文句(つまり、不服)を云っているそうである。
私は、この芥川の手紙は読んでいないが、芥川はこの手紙を向きになって書いたにちがいない、と思うのである。それに、この正宗の批評は、独立したものではなく、雑文の中に入れられたものであるから、そういう事もいくらか芥川の気にさわったのかもしれない。
[やぶちゃん注:ここで宇野が問題にしている書簡は、旧全集書簡番号一一六二の正宗白鳥宛大正十三(一九二四)年二月十二日附書簡(田端発信)を指す。以下に、岩波版旧全集より、当該書簡を引用しておく(繰り返し記号「〱」は正字に直した)。
冠省文藝春秋の御批評を拜見しました御厚意難有く存じました十年前夏目先生に褒められた時以來嬉しく感じましたそれから泉のほとりの中にある往生繪卷の御批評も拜見しましたあの話は今昔物語に出てゐる所によると五位の入道が枯木の梢から阿彌陀佛よやおういおういと呼ぶと海の中から是に在りと云ふ聲の聞えるのですわたしはヒステリツクの尼か何かならば兎に角逞ししい五位の入道は到底現身に佛を拜することはなかつたらうと思ひますから(ヒステリイにさへかからなければ何びとも佛を見ないうちに枯木梢上の往生をすると思ひますから)この一段だけは省きましたしかし口裏の白蓮華は今で後代の人の目には見えはしないかと思つてゐます最後に國枠などに出た小品まで讀んで頂いたことを難有く存じます往生繪卷抔は雜誌に載つた時以來一度も云々されたことはありません 頓首
二月十二二位 芥川龍之介
正宗白鳥樣 侍史
なお、「往生絵巻」初出とこの書簡との間には、二年弱の大きなタイム・ラグがある点に注意されたい。]
ところで、この小説は、枚数も十四五枚のものであり、芥川としては割りに早く書いたものであろう、芥川の作品としてもすぐれたものではない。しかし、はじめて雑誌で読んだ時は、やはり、最後の白蓮華が気になった程度であったが、こんど、何度目かで、読みなおしてみて、私は、ふと、芥川龍之介が五位の入道のような気がして、これは徒〔ただ〕の小説ではない。特殊な、小説である、と思った。
ここで話がちょっと横〔よこ〕に逸れるが、いわゆる円本全集の先〔さ〕き駈〔が〕けとなった「現代日本文学全集」[註―菊判で六号三段組であったから、一ペイジ四百字づめ原稿紙で三枚半ぐらいであるから、全六十三巻のうち薄いのと厚いのはあるが、『芥川龍之介全集』などは五千枚ぐらいであろう]を出した改造社が、その「現代日本文学全集」の宣伝のために、その全集の作品を入れる幾人かの作家の日常生活の一端を活動写真に取って、それを、講演と講演との間に、うつして見せた事があった。といって、私は、その活動写真を、どういう時に、どこで見たかは、まったく忘れてしまった。が、見た写真だけは、うろおぼえではあるが、まずハッキリ覚えている。しかし、もとより、空覚〔うろおぼ〕えであるから、これから書く事もいくらかまちがっているかもしれない。この事を前もって断っておく。(後記――果〔は〕たして後に述べる芥川の映画が少しまちがっている事を滝井孝作に教えられた。)
[やぶちゃん注:「現代日本文学全集」の割注にある『芥川龍之介全集』は正確には同全集の一巻であるから「芥川龍之介集」とすべきところ。同全集第三十篇で芥川の死後、昭和三(一九二六)年一月に刊行されている。]
さて、私が見たのは、三〔みっ〕つだけで、『里見篇』、『廣津篇』、『芥川篇』とでもいうべきものであろう。それはざっと、つぎのようなものである。
『里見篇』――広い庭の一隅らしい所に、一本〔ぽん〕の二間〔けん〕半ぐら小の高さの棒が立っている。その棒のさきから、一間〔けん〕半ぐらいの綱が、五六本、ぶら下〔さが〕っていて、その綱の端〔はし〕に手頃〔てごろ〕の鉄の輪がついている。――つまり、これは、子供たちが、反動をつけて、この鉄の輪に飛びつき、飛びつくとともに地を蹴り、地を蹴るとともに、体〔からだ〕を揺りながら、棒の廻りをまわる、というような運動具である。『旋回棒』とでもいうのであろうか。
さて、晩写が開始されると、まず、この『旋回棒』(仮名)がうっる。『旋回捧』が写ると殆んど同時に、年〔とし〕よりずっと若く見える、(三十四五歳に見える、)里見と、九〔ここの〕つか十〔とお〕ぐらいの二人〔ふたり〕の男の子が、ホオム・スパンのズボンをはき、鳥打ち帽を阿弥陀〔あみだ〕にかぶって、きわめて真剣な顔をして、画面の一方〔いっぽう〕から、つぎつぎに、駈〔か〕け足で、あらわれた。現れるとともに、三人は、順順に、目にも止〔と〕まらぬ早さで、鉄の輪に飛びついた。鉄の輪をつかむとともに、三人は綱にすがりながら、魚のように体〔からだ〕をひらめかせながら、クルリクルリ、と、棒の廻りを、まわった。それで、三人の体〔からだ〕は、空〔くう〕ちゅうに跳ねかえるように見えたり、地を磨〔す〕るように見えたり、した。それで、その見事〔みごと〕さに、あれよ、あれよ、と見惚〔みと〕れているうちに、映画は、あえなくも、パッパッパッ、と消えてしまった。(ある専門家の話に、映画に取られる時、レンズが気にならなかったら、一人前〔いちにんまえ〕だ、という事であるが、この時の里見は『一人前』以上であった。)
[やぶちゃん注:「ホオム・スパン」
“homespun”(ホームスパン:一単語であるから中黒は不要)は、手紡ぎの太い紡毛糸を用いて手織りにした(現在の手織に似せて機械織りしたものも含む)素朴な印象と肌触りを与える毛織物。]
『廣津篇』――画面の左寄り七分〔ぶ〕ぐらいが廻〔まわ〕り縁〔えん〕の障子のはまった部屋を外〔そと〕から見た所。部屋の外に僅かに見える庭には草や木も生えていないようである。映画が開始されると、右の方から、やはり、年〔とし〕より若く見える、(三十二三歳に見える、)廣津が、ちょこちょこ歩〔ある〕きで、あらわれた。それと殆んど同時に、座敷の障子があいて、病柳浪が、縁まで、出て来た。(『病〔びょう〕柳浪』と書いたのは、柳浪が晩年ずっと病気をしていたからであるが、柳浪は、この映画に取られたのは、六十五歳の時分であろうか、豊頰で、目の大きな鋭い人であったから、それほど病人らしくは見えなかった、しかし、体格は岩乗〔がんじょう〕らしいのに、どこか弱弱〔よわよわ〕しく見えるところがあった。)さて、廣津は、実の姿があらわれると、にわかに、足を早めた、というより、小走りに、縁の方〔ほう〕へ、すすんで行った。と、子が近づいて来たのを見ると、縁側の中程まで出ていた柳浪は、顔全体が微笑するような表情をして、何〔なに〕か一〔ひ〕と言〔こと〕か二〔ふ〕た言〔こと〕いった。「やあ、」とか、「しばらく、」とか、云ったのであろうか。(これは、前にも述べたように、大正の終りか昭和の初め頃の映画であるから、もとより、『トオキイ』などは、まだ名称さえ知られなかった時分である。)さて、廣津も、それに応じて、何〔なに〕か云いながら、縁側に腰をかけた。
廣津は、里見とまったく反対で、画面にあらわれた時から、既に、うつされる事を気にしているように思われた。それに、おどおどしでいるように見えたのは、廣津が、無類の親孝行な人であるばかりでなく、人および芸術家としての柳浪を心から尊敬していたからであろう。ところで、縁側に横むきに腰をかけた廣津が、はじめは殆んど後向〔うしろむ〕きになって話していたのが、写真を取っていた人に注意をされたのか、ふと、正面を向〔む〕いた。その時である。廣津が何〔なん〕ともいえぬ目眩〔まぶ〕しそうな極〔き〕まり悪〔わる〕そうな顔をしたのである。それを見ると、(廣津が、活動写真機のレンズが気になって、まぶしい顔をしたとは、愚鈍な私には、気づかなかったので、)友人の私は、何〔なに〕か気の毒なような気がして、画面の廣津の顔を、正面〔まとも〕に、見ていられなくなった。しかし、やがて、廣津父子の顔が、ならんで、こちらを向き、二人〔ふたり〕が殆んど同時に微笑した。そうして、二人が微笑するのと殆んど同時に、映画はすっと消えてしまった。見ていた私はほっとした。
いよいよ『芥川篇』――画面ほとんど一ぱいが、珊瑚樹〔さんごじゅ〕を拡大〔かくだい〕したような、葉の殆んど全〔まった〕くない樹木〔じゅもく〕である。(さきに述べたように、この時みた映画の記憶はアヤフヤであるが、)この奇怪な樹木〔じゅもく〕の背後〔はいご〕に、たしか、背〔せ〕の、ひくい、平屋〔ひらや〕の、家屋〔かおく〕があった。これは、一〔ひ〕と目〔め〕で、陰気な風景であった。
さて、映画が開始されると、すぐ、この陰気な暗い風景があらわれ、「おや、」と思っている間〔ま〕もなく、平屋の家の屋根の上に、頭〔あたま〕から、肩から、しだいに、姿をあらわしたのが、芥川だ。
やがて、屋根の上に全身をあらわした芥川は、ぱっと両手を左右に開いたかと思うと、目にもとまらぬ早さで、枯れ木のような樹木の枝に飛びつき、両手で枝をにぎると殆んど同時に、飛鳥〔ひちょう〕のごとく、股〔また〕をひらいて、木の又〔また〕に両足をかけた。というより、両足を踏ん張っていたので、芥川は、ほとんど画面一ぱいの大木〔たいぼく〕の真中〔まんなか〕で、両手をひらいて枝をつかみ、股〔また〕をひらいて枝を踏ん張っていたので、ほとんど画面一ぱいに大〔だい〕の字になっていた。画面が暗〔くら〕かったので、画面全体が妙に気味わるく見えた。(この映画は、私は、芥川の死後に、見たのであるが、見た年月〔としつき〕は、忘れてしまった。ところで、この映画に出ている芥川は、手も足も丸見〔まるみ〕えの姿であったから、芥川が、この映画を取られたのは、死んだ年[註―昭和二年]の六月頃ではないか、と思う。とすれば、この映画は、芥川が死ぬ一〔ひ〕と月〔つき〕か二月ほど前に、取られた、という事になる。)
[やぶちゃん注:この宇野の記憶は錯誤がある。興味深いことに、この宇野の宇野の記憶は当該映像を逆回しにして述べているのである(これは病跡学的な見地からいつか検討してみたいと思っている)。以下、私なりに当該映像を説明してみる(以上の三篇を私はすべて、かつて芥川龍之介の文学展で実見しているが、一部の記憶がアヤフヤではある。一部実見可能なネット上の画像――1シークエンス3ショット――を元に説明してみる)。撮影場所は田端の書斎の前庭である(画面を右下から左上へ斜めに区切っている庭木。この庭木は縁側に恐るべき直近で生えており、配置は如何にもせせこましい。恐らく書斎の増築によってこうなったものと推測される)。
〇庭に降りている(若しくは降りてくる――その前にカメラがもっと引いていて手前に多加志のものと思われる三輪車のあるスチールが写真として残るから、この前があるかも知れない)芥川龍之介、その向かって(以後、総て観客から見て)やや左背後に小学校の制服を着た長男比呂志が麦藁帽子を被って立っており、しゃがんだ芥川のすぐ左側には前掛けを附けた次男多加志が頻りに目や顔を擦りながら立っている。
比呂志が自分の被っていた麦藁帽子を取って父龍之介の頭に被せる。
それを芥川は左手で自分の頭に落ち着かせる。
その後、三人は一時、スナップぽくカメラの方に視線を送る(この時、龍之介は少し笑ったように見える)。
〇直後にその場所のままに、しゃがんだ麦藁帽子を被った龍之介の胸部上から頭部がアップにされる。
龍之介、右手で両切り煙草を出して右の口に加えると、マッチで火を点け、やや眉間にしわを寄せて、六回ほど、銜えたままで、すぱすぱと煙を吹く。五回目で右手で口中央へ、六回目で反対側の左口端へと煙草を銜え直す。
〇カメラは下がって、縁側中央に座る多加志が、木を見上げており、比呂志が既に木に登っている。
右手の木の根元には龍之介が立ってやはり比呂志を見守っている。
比呂志は悠々と登り切って、軒の上を右手に歩いて消える(ここは比呂志の足元のみ)。
龍之介、比呂志が登り切って、軒に移るのとほぼ同時に、多加志のいる前の沓脱石に立って木に攀じ登る(この時、芥川龍之介が股引足首まである股引を穿いているのが分かる)。
木の高みで両手を左右の枝に添え、カメラに向かって一種の見得を切って立つ(その前から、カメラがティルト・アップするため、急に光量が過剰になって、表情などはよく見えない。その後、比呂志と同じく、画面右手に軒を歩いて姿を消す。
この謂わば、円本全集販売促進用のプモーション・ヴィデオは個人ブログ「神保町系オタオタ日記」の「円本全集の広告合戦と久米正雄監督の映画」などによれば、三十五ミリで撮影されたもので、正式な名称は「現代日本文学巡礼」、コンセプトは『諸作家の日常生活を映画に撮り、全国各地の文藝講演会で上映するという企画』で、改造社社員の水島治男(後に起こる有名な言論弾圧である横浜事件で逮捕された出版人)が『文学青年に仕立てられ、各作家を訪問するという趣向で』、久米正雄が監督、出演は挙げられている里見弴・廣津柳浪・和郎父子・芥川龍之介以外に徳田秋聲、近松秋江、上司小剣、小山内薫、佐藤春夫、武者小路実篤などが出演した、とある(現在は「こおりやま文学の森資料館」が所蔵)。なお、「この映画を取られたのは、死んだ年[註―昭和二年]の六月頃ではないか、と思う」とあるが、複数の記載から、芥川龍之介の撮影は宇野の言う通り、昭和二(一九二七)年六月に行われたと推定される。正に芥川龍之介自死の一ヶ月か一ヶ月半程前の撮影ということになる(但し、現在の芥川龍之介の年譜には記載がない)。]
ところで、私は、この映画で、芥川が、屋根の上に全身をあらわした時、先〔ま〕ず、ひやッとした。それから、その、痩せさらばえた、『骨と皮』のようになった、芥川を見、髪の毛が少〔すく〕なくなって額がますます広くなり、頰がこけ、長い眉毛が釣るしあがり、目がくぼみ、大きな切れの長い目が三角になり、その目がぎょろりと光り、口の大きく裂〔さ〕けた芥川の顔を見た時、私は、ぎょっとした。人間世界の人ではないような気がしたからである。
さて、木にのぼり、あらい網の目のように木の枝が交錯している中〔なか〕に、両手をひろげて木の枝をつかみ、木の下枝〔したえだ〕をふんで、大の字に、立ちはだかった芥川は、やはり、活動写真機のレンズが気に、なったので、そういう妙な振る舞いをしたのかもしれないが、この振る舞いは、見ている私には、かなり気味わるく、ひどく異様に、鬼気が迫〔せま〕るようにさえ、感じられた。芥川は俳号を『我鬼』と称した。『我鬼』というのは芥川の造語であろう。いずれにしても、『鬼』とは、「亡魂」、「亡霊」などという言葉の古語であり、仏教では、「地獄にある獄卒。人類の形をなし、口は耳の辺まで裂けて、鋭き牙を有し、頭に牛角生〔は〕え、裸体にて腰に虎の皮をまとい、相貌獰悪にして、怪力ありと想像せらる。羅刹〔らせつ〕、夜叉、」という事になっている。『羅刹』とは、梵語で、『悪鬼』という意味である。ところで、この陰気な映画にあらわれた芥川は、誇張して云えば、あの世の『鬼』ではなく、この世の『鬼』というような観がしたのである。
[やぶちゃん注:「獰悪」は「どうあく」と読み、性質や容貌が凶悪で荒々しいこと。
宇野のこの映像の芥川龍之介の描写はやや大袈裟ながら、正しい。私の友人でも、複数の者が、この芥川の映像は気持ちが悪い、と言う。確かに、煙草を吸うシーンの表情や樹上の見得のシーン――というより、何か、虚空を茫然と見つめて立ち尽くすシーン――には、一種の鬼気迫るものを感じずにはおかないものである。]
ところで、私がこのような事をながながと述べたのは、私は、この映画を見た時、故事〔こじ〕つけではなく、『往生絵巻』の、最後の方の、五位の入道が、「幸ひ此処〔ここ〕に松の枯木が、二股〔ふたまた〕に枝を伸ばしてゐる。まづこの梢〔こずゑ〕に登るとしようか、」と云って、枯木の枝に、登って、餓死するところを思い出し、悲惨であるべきあの場面に悲惨な感じが殆んどしないで、(他の人が出れば愛敬〔あいきょう〕にもなり諧謔の味のようなものも出るかもしれないのに、この芥川の木のぼりの映画の方が、ときどき正面〔まとも〕に見ていられなかったほど、凄惨な感じをうけたからである。
[やぶちゃん注:あの映像と「往生絵巻」のラスト・シーンを結びつけた宇野のそれは恐るべき慧眼である。]
しかし、前に書いたかと思うが、私は、この『往生絵巻』を雑誌で読んだ時は、眉をひそめたのである。私が、こういう、簡単にいえば、厭世的な小説を、頭〔あたま〕から好まなかった上〔うえ〕に、芥川がこのような小説を書いたことが気に入らなかったからである。私は、芥川に、こういう小説を書くなよ、と云いたい、と思った程であるからである。
ところが、これは、やはり、私の愚鈍のためで、(それに、性質がまったく違うからでもあろう、)到底〔とうてい〕、無理な事であったのだ。つまり、その時、芥川は、三十一歳であるが、もともと、こういう小説を書く人であったからだ。それから、芥川のもっと親〔した〕しい友人たちほど、私は、(芥川の、上辺〔うわべ〕だけ知っていて、)芥川という人をよく知らなかったのである。あるいは、また、芥川が、私には、自分の性質の一面しか見せなかったのかもしれないのである。
いずれにしても、芥川は、私には、一生〔しょう〕の中でなかなか得られない友のうちの一人であり、みじかい交際ではあったけれど、ありがたい友だちの一人であった。殊に、わたくし事ではあるが、つぎつぎと同じ年頃〔としごろ〕の友人が世を去ってゆくにつけて、もし芥川が……と思うことがしばしばある。
芥川が門司から上海ゆきの船に乗ったのは大正十年の三月二十九日である。ところが、芥川は、上海につくと間〔ま〕もなく、乾性肋膜炎にかかって、三週間ぐらい入院した。
[やぶちゃん注:「門司から上海ゆきの船に乗ったのは大正十年の三月二十九日」とあるが、正しくは三月二十八日である。上海到着は三十日午後、四月一日には上海の里見病院に入院、退院は同月二十三日。この辺りの顛末は、私の電子テクスト「上海游記」及び私の注をご覧戴きたい。
「乾性肋膜炎」乾性胸膜炎。肺の胸膜(=肋膜)部の炎症。癌・結核・肺炎・インフルエンザ等に見られる症状。胸痛・呼吸困難・咳・発熱が見られ、胸膜腔に滲出液が貯留する場合を湿性と、貯留しない乾性に分れる。以前にこの乾性肋膜炎の記載を以って芥川を結核患者であったとする早とちりな記載を見たことがある。この初期の芥川の意識の中に、そうした不安(確かに肋膜炎と言えば結核の症状として典型的であったから)が掠めたことは事実であろうが、旅のその後、それらを帰国後に記した「上海游記」の筆致、更にはその後の芥川の病歴を見ても、結核には罹患していない。]
前にもたびたび書いたように、芥川は、もともと、蒲柳の質であった、というより、病身であった、つまり、体〔からだ〕が弱くて、よく病気にかかったのである。しかし、私は、こういう事さえ、芥川とつきあっていた時分は、殆んど全〔まった〕く知らなかったのである。
ところで、この支那旅行は、芥川が、かねて望んでいたものであるが、創作のユキヅマリを打開するためでもあったのではないか。しかし、又、この支那旅行は、病身な芥川には、ずいぶん無理であったらしい。下島 勲も、この事について、「支那視察に行かれたときは、感冒後の気管支加答児〔かたる〕が全治しないのを、種々の都合で決行した。「案じた如く大阪の宿で発熱する。無理に船に乗つて上海に上陸早々肺炎を起〔おこ〕して入院する、」と書いている。
[やぶちゃん注:引用は下島勲の「芥川龍之介氏のこと」によるものである。
「気管支加答児〔かたる〕」は、現在の気管支炎のこと。「加答児〔かたる〕」は英語“catarrh”(カタル)で、感染症感染の際に生じる粘膜腫脹及びその炎症部位から粘液と白血球からなる濃い滲出液の浸出を伴う病態を言う。主に喉粘膜での病態を言うが、他の粘膜部でも用いる。]
この無理がたたって、芥川は、支那旅行から帰ると、すく持病の胃病と痔疾と神経衰弱に、なやまされている。(ここに「持病の痔疾」と書いたのは誤りである、というのは、芥川がその年〔とし〕の、九月八日に、薄田にあてた手紙の中に「何分小生の胃腸直〔なほ〕らずその為痔まで病〔や〕み出し床上に机を据ゑて書き居る次第、」と述べ、九月十三日に、下島にあてた手紙の中に、「この間の下痢以来痔と云ふものを知り恰も阿修羅百臂の刀刃一時に便門を裂くが如き目にあひ居り候へば……」と書いているからである。これで見ると芥川が、晩年に、神経衰弱と殆んど同じくらいに悩〔なや〕まされていた痔疾にかかったのは、大正十年の秋、という事になる。すると、芥川は、神経衰弱と胃病のほかに、死ぬまで、五年あまり、痔疾になやまされていた訳〔わけ〕である。そうして、この芥川の痔疾は、脱肛であったから、寒い夜中に勉強をし過ぎたり、気候のわるい時分に仕事に根〔こん〕をつめ過ぎたり、すると、おこるのである。そうして、それが起こると、ときどき、はげしい疼痛をじたり、出血したり、する。これでは、丈夫な着でも、殊に筆をとる者には、やりきれないから、まして、芥川のような病弱な人には、いっそ死ぬ方がましだ、と思われたにちがいない。
[やぶちゃん注:「阿修羅百臂」旧闘争神である阿修羅は知られた造形は三面六臂であるが、この阿修羅が百本の腕で、それぞれに刀を持って、その百本を肛門に一斉に突き立てたと思われるような痛み、という諧謔(本人には諧謔どころではないのだが)である。]
さて、幾度も云うが、支那旅行のために、芥川は、健康をますます悪〔わる〕くした上〔うえ〕に、経済的にも無理をしたようである。それから、これも、わぎとしばしば書くが、芥川は、誰もが意外に思うほど、複雑な家庭の事情にしじゅう悩〔なや〕み、その負担に苦〔くる〕しみつづけていた、それに、原稿料の前借のようなものまで一〔ひ〕と方〔かた〕ならず気にする男であった、一〔ひ〕と口にいうと、実に気の小〔ちい〕さい人であった。
ところで、芥川が支那旅行から帰った月日〔つきひ〕は、(はっきりわからないが、)七月の下旬頃であろう。いずれにしても、前に述べたように、芥川は、帰国してから、間〔ま〕もなく病気になった。が、病気を押しながら、(つまり、痔になやみながら、)芥川は、ある時は、床〔とこ〕の上に机を据えて、毎日新聞に連載することを約束した、『支那游記』を、ときどき休みながらも、書きつづけた。これは、何〔なに〕よりも、芥川の責任を重んじる気もちを現している。しかし、それとともに、これは、芥川の健康をますます悪〔わる〕くする本〔もと〕になった。
[やぶちゃん注:「芥川が支那旅行から帰った月日は、(はっきりわからないが、)七月の下旬頃であろう」現在の年譜上の知見よれば、芥川龍之介の帰国は七月十七日頃(何故か現在でも明確でない)である。]
芥川は、十一月の二十日に、薄田にあてた手紙のなかに、「支那旅行[註―『支那游記』]の為文債をのばして行つたのとその後体〔からだ〕のわるい為もろもろの雑誌編輯者より原稿をよこせよこせとせめられ病軀その任にたへず実際へこたれ切つてゐます仰ぎ願くは新年号を退治するまで御待ち下さるやう願ひますその代り今度始めたら中絶しませんこの頃神経衰弱甚しく催眠薬なしには一睡も出来ぬ次第、……」と書いている。
[やぶちゃん注:「文債」は「ぶんさい」と読み、締切りまでに完成出来ない原稿をいうが、どうもこれは、夏目漱石の造語である可能性が高い(そもそもこの意味内容自体が近代的である。)。岩波旧全集書簡番号八四三、小宮豊隆宛明治四十(一九〇七)年十二月十六日附書簡に、
文債に籠る冬の日短かゝり
という漱石の句がある。因みに、同全集の第十七巻「索引」の語句・次項索引にも見出しとして「文債」はない。]
この手紙の中の、「新年号を退治する」とは、「新年号の小説を書きあげる」という程の意味である。それから、『十一月二十四日』頃から新年号の小説を幾つか書く、というのは、その時分の諸雑誌の新年号の小説のシメキリはたいてい十二月の十五六日であったからだ。(『今昔の感』という句があるが、新年号の諸雑誌⦅娯楽雑誌と婦人子供雑誌はいつの代〔よ〕でも例外なり⦆のシメキリが十二月の十五六日であつた頃は、なつかしく、ありがたき哉。)
さて、芥川は、その時の新年号には、(つまり、大正十一年の一月号の雑誌には、)『将軍』(「改造」)、『藪の中』(「新潮」)、『俊寛』(「中央公論」)、『神神の微笑』(「新小説」)の四篇を、発表している。これで見ると、さきに引いた芥川の手紙の中の言葉を本当とすれは、芥川は、十一月二十五六日から十二月十五六日までの間〔あいだ〕に、(つまり、二十日〔はつか〕ぐらいの間に、)四篇の小説を書いた訳である。しかも、枚数をしらべてみても、四百字づめの原稿紙でかぞえると、(芥川は二百字づめの原稿紙を使っていたが、)『将軍』と『俊寛』は五十枚ほどであり、『藪の中』と『神神の微笑』は二十四五枚ぐらいであるから、みなで百五十枚ほどである。すると、二十日で百五十枚であるから、一日に七枚の割りになる訳である。
しかし、これは、これだけ云えば、見事なように思われるけれど、この四篇の小説の中で増しなのは『藪の中』だけで、『将軍』は、まあまあというところで、思いつきだけの物であり、『俊寛』は失敗作であり、『神神の徴笑』も軽〔かる〕すぎる。
これらの事は辛〔つら〕い病気を押して書いたためか。それもある。しかし、それよりも、手紙では「新年号を退治する」と軽〔かる〕く書いているけれど、この時、芥川が、「睡眠不足」をしのび、「食欲減退」に苦〔くる〕しみながら、せっせと原稿を書いたもっとも主〔おも〕な理由は、あの手紙にあるように、「のばして行つた」『文債』のためであったのではないか。
ここで、私は、腕をくんで、考える。――極めて大ざっばな考えではあるが、支那旅行は、芥川の短かい一生の中の、もっとも重大な一〔ひと〕つである、と。支那旅行は、芥川の病弱な体〔からだ〕を一そう病弱にした、それは、直接ではなくても、芥川が幾つかの不治にちかい病気にかかる本〔もと〕になった、それは、又、芥川の命をちぢめる本〔もと〕の一〔ひと〕つにもなった、そればかりではない、それは、芥川のもっとも大事〔だいじ〕な芸術の道の邪魔におちいる本〔もと〕にもなった。
それから、さきに述べたように、芥川が支那旅行に出る頃、芥川の芸術がユキヅマリになりつつあった。かぞえ年〔どし〕二十五歳の三月に、処女作『鼻』によって忽ち世にみとめられ、大学時代に原稿料を得た、という芥川が、三十歳の年にユキヅマリを感じるのは当然である。それは、芥川ばかりではない、殆んどあらゆる作家は、五年も書きつづければ、たいていユキヅマリを感じる。まして、芥川のような小説は必ずユキヅマリがくる。しかし、あまりに若くして大家になり過ぎた芥川は、その性質にもよるけれど、その『ユキヅマリ』を気にし過ぎた、神経衰弱になるほど気にしたのである。
さて、私は二〔ふ〕た言目〔ことめ〕には、『支那旅行』、『支那旅行』というが、それは、この『支那旅行』を境〔さかい〕にして、芥川の小説の作風(と題材)が変ったからでもある。もっとも、大正十一年の四月には、『報恩記』、それから、大正十二年までの間に、『六の宮の姫君』、『おぎん』、『糸女覚え書』、その他の、初期(あるいは中期)の芥川風の小説が幾つかあるけれど、だいたい、大正十三年を境にして、それ以後の物は、いわゆる『保吉物』、それから、『大導寺信輔の半生』、その他の作者自身が主人公になっているような小説が多くなった。
その大正十三年以後の小説の中で、芥川の小説らしくない、と云いながら、評判のよかった、『一塊の土』と『トロッコ』は、さきに述べたように、他人の作品を焼き直した物であり、『庭』というちょっとした味のある小品は小穴から聞いた話を本〔もと〕にした物である。しかし、晩年の、(死の三年前から死ぬ年までの間に書かれた、)心境小説風の作品の中には、側側として人の心を打つ小説がある。しかし、それらの小説は、たいてい、小説、というより、小品である。
私は、これもたびたび述べたが、芥川の初期(と中期)のいわゆる芥川らしい小説は、もとより、私などにはとうてい書けない物であるかち、一と通〔とお〕り感心はしたけれど、いつも、何〔なに〕か彼〔か〕か、不満を感じるのであった。
ところが、心境風の小説は、肌が合うので、おおかた、感心し、中には、いたく心を打たれる物があった、いや、心を打たれる物がたくさんあった。しかし、それらの小説や小品の多くは、いたく心を打たれながら、あまりに痛まし過ぎたり陰気すぎたり、中にはほんの少し妖気のようなものが漂〔ただよ〕うたり、するので、ときどき、芥川は近頃どうしてこんな物を書くのであろう、と、妙に心配になる事があった。
結局、私は、『歯車』などをも含めて、芥川の小説は、一般に評判のよい、晩年の心境物(と身辺を書いた物)より、初期(と中期)の芥川らしい小説の方を買うのである。もとより、私も晩年の心境物(と身辺を書いた物)は大へん好〔す〕きであるが、芸術の上から見て、芥川の芸術として、私は、断然、芥川の初期(と中期)の芥川らしい小説を取るのである。そうして、私は、この方が正〔ただ〕しい、と信じているのである。