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2012/04/30

テツテ的に支持する大河ドラマ「平清盛」についての見解


僕にとって物心ついた七歳の記憶の、伝説的「赤穂浪士」(昭和三十九(一九六四)年。因みに、あの忘れ難い主題曲は作曲が芥川也寸志であった)以降のNHK大河ドラマの中で、ともかくも毎回見逃したくないと思っている、唯一の大河ドラマである。

1・1
どこぞの芸術性を理解しない愚劣な役人が「映像が汚い」と言ったが、現実のリアルを追求する観点から言えば、視聴者の現実逃避を無視して、もっと暗く、もっと汚くて、よい。平安末期は、もっと饐えたウエットさと、死臭に満ちていた(いや、今の我々の世界こそ見えない「穢れ」満ちているではないか)。

1・2
もっと汚く、もっと暗くあれ! そうして、正しく現世を見据えよ!

1・3
視聴率や見た目の綺麗さなどは糞喰らえ! 視聴率など問題にするに及ばない。いいものは、それでいい!

1・4
天皇家を王家と呼び、王家が公家政権の象徴的権力層を示すことは、歴史学的考証に於いて正当であり、それが不敬に当たるなんどという謗りは、何らの正当性を持たない。

1・5
平清盛という歴史上の人物が如何なる人物であるかが歴史学的にも謎であること、一般大衆には後の源氏の武家政権との相対的印象によって、清盛が偽悪的傾向を不可避的に内在させていることが視聴率にとってのマイナス要因ではあろう。

1・5・1
しかし、そうした謎や、公家政権を実質的に崩壊させた、最初の新興武士階級のチャンピオンとして清盛の魅力は揺るぎなく在る。

1・5・2
更に白河院落胤説の設定は、王家・多層的公家・侍・僧侶・庶民という階級職能構造を、痙攣的に破壊し(神鏡を射るシーンは感動的であった)、歴史的変革という強靭な力学を生み出す点で面白い。


松山ケンイチは俳優として十全に魅力的である。まず以って若い俳優にありがちな、上滑りな軽さや、若さにかまけた小手先の演技の誤魔化しは見られない。

2・1
少し線の細さを感じさせる表情の揺らぎを持つが、総体に於いて極めて誠実で、直情径行の清盛を、美事に素直に演じている。

2・1・1
かつての「新・平家物語」の仲代達矢のごわごわがしがしした演技よりも、ずっと自然で、見る者の心にすんなりと入ってくる。

2・1・2
いや、寧ろ、向後、平家が台頭して行く中での、独裁的清盛への人格的変容や死に至る絶対の孤独を、どのように松山ケンイチがどう演じてゆくかが、問題でもあり、惧れでもあり、期待でもある。

2・2
彼の妻の小雪を出すなんどという、下劣な視聴率打開策などを考えるのは(それが事実かどうかは知らないが)、ドラマ制作者の「敗北」以外の何ものでもない(但し、僕は小雪が好きであり、個人的には松山に嫉妬している)。


愛するピアニスト舘野泉のピアノ・ソロを始めとして、初音ミクの「遊びをせんとや」も、吉松編曲によるエマーソン・レイク&パーマー「タルカス」使用も、どれもが優れて印象的で斬新である。

3・1
「遊びをせんとや」は妻を始めとする古典を専門とする者には評判が悪いが、僕はつい口ずさんでしまう。


僕は「平清盛」をテツテ的に支持し、今後も大いに期待するものである。

宇野浩二 芥川龍之介 二十二~(2)

 一般に、『地獄変』は、凄惨で、怪異で、「読む人ことごとく戦慄する、」名作である、と称されている。しかし、『地獄変』の陰惨は、作者の頭〔あたま〕で作られ、名文章で語られた、というだけのもので、借り物の観がある。それから、『点鬼簿』であるが、(これは、小説ではなく、随筆に近いものであるけれど、仮りに小説として見て、)この『点鬼簿』も、(『点鬼簿』でさえ、)しいて「鬼気せまる」という言葉をつかえば、そういう気もちを起こさせるのは、その㈠の気ちがいの母を書いたところだけで、その㈡にも、その㈢にも、題材が題材だけに人の心に迫るところもあるけれど、厳しく云えば、ところどころに、遊びがあり、ポオズがあり、気取りもある。そうして、更に極言すると、大抵の人がほめる、最後の、

 

 

  かげろふや塚より外〔そと〕に住むばかり

 僕は実際この時ほど、かう云ふ丈艸の心もちが押し迫つて来〔く〕るのを感じたことはなかつた。

 という一節さえ、私には、昔ながらの芥川の気取りがあるようにさえ思われるのである。

 芥川は、丈艸を、蕉門の中で、「最も的的と芭蕉の衣鉢〔いはつ〕」、を伝えている、(それに違いはないが、)という程、認めていたから、不断、丈艸の句に親しんでいたにちがいない、しぜん、この「かげろふ」などという句は、いつとなく、暗記していたにちがいない。されば、妙な臆測をすると、この句は書く前に用意してあったかもしれない、と思われる程である、それほど、情と景とがぴったり合っているからである。

[やぶちゃん注:「的的と」明白なさま。]

 

 ところで、前に、『ポオズ』とか、『気取り』とか、いう言葉を使ったが、元〔もと〕もと、ポオズや気取りは芥川の持ち前である、したがって、ポオズや気取りは芥川の人間にも文学にもあった、そうして、ポオズと気取りは芥川の文学の独得の特徴である、極言すれば、ポオズと気取りのない芥川の文学はあり得ない、という事になる。しかも、その芥川の文学の『ポオズ』や『気取り』には、わざと俗な言葉を使うと、「好〔す〕いたらしい」ところがあった。そうして、それが、青年たちに受けた所以〔ゆえん〕でもあったのだ。(しかし、前に述べたように、最晩年の芥川の作品にはそれらが次第になくなった、それで、これも先きに書いたように、いわゆる芥川らしい文学は晩年には殆んどなくなってしまったのである。)

 ここまで書いて、『点鬼簿』を、念のために、読みなおして見て、さきに述べた事を訂正しなければならなくなった、それは、先きに引いた所のほかは、(これも、もとより、晩年の作品であるから、)殆んどポオズや気取りがないからである。それは、(その一例は、)次のようなところである。

 

 

 僕の父や母の愛を一番余計に受けたものは、何と云つても「初ちやん」[註―ずっと前にも註をした、芥川の生れぬ前に死んだ、賢かった姉(長女)]である。「初ちやん」は芝の新銭座からわざわざ築地のサンマアズ夫人の幼稚園か何〔なに〕かへ通〔かよ〕つてゐた。が、土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へ泊〔とま〕りに行つた。「初ちやん」はかう云ふ外出の時にはまだ明治二十年代でも今〔いま〕めかしい洋服を着てゐたのであらう。僕は小学校へ通つてゐた頃、「初ちやん」の着物の端巾〔はぎれ〕を貰ひ、ゴム人形に着せたのを覚えてゐる。その又端巾は言ひ合せたやうに細〔こま〕かい花や楽器を散〔ち〕らした舶来〔はくらい〕のキヤラコばかりだつた。

 

[やぶちゃん注:「サンマアズ夫人の幼稚園」言語学者・日本研究家James Summers(ジェームス・サマーズ 一八二一年~明治二十四(一八九一)年)の夫人が経営した幼稚園。明石橋橋畔にあった。ジェームス・サマーズは英国人お雇い外国人教師として明治六(一八七三)年に来日、東京開成学校の英文学と論理学教授から始まり、新潟英語学校、大阪英語学校の英語教授を経、明治十五(一八八二)年の札幌農学校を最後に満期契約となったが、そのまま帰国をせずに東京築地の自宅に「欧文正鵠英語学校」を設立、日本で生涯を終えた(以上は北海学園大学人文論集第四十一号(二〇〇八年十一月刊)所収の中川かず子氏の「ジェームス・サマーズ――日本研究者,教育者としての再評価」の記載に拠った)。筑摩書房全集類聚版脚注には、『築地のサンマーズ塾といえば英語を解する人達は大抵一度は厄介になったことのある古くから有名な学校』で、『塾長キャッセー・サンマーズ嬢』で(サマーズ夫婦の娘か?)、彼女は明治四十二年に『三十年ぶりで帰国した〔東京日日新聞〕』とある(私の注も異様に細かくなったが、この脚注も異例に長い)。なお、Hisato Nakajima氏のブログ「東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解くーPast and Present」の2011年4月26日 at 12:40 AM のコメントへの氏の返信の記事に現れるものでは、『藤善徳「築地居留地の思い出」では、「サンマー・スクール」と呼ばれた英語塾とされ、リリイ・サマーズという人がやっていたようで』(この「リリイ」が「サンマアズ夫人」の名か?)、『谷崎潤一郎や岡倉由三郎が学んだと』ある(岡倉由三郎(慶応四(一八六八)年~
昭和十一(一九三六)年)は英語学者。夏目漱石の友人で、岡倉天心の実弟)。『清水正雄「築地に開設された教会と学校」では、正式名が「欧文正鵠学院」』、明治十六年から四十一年まで『開設されていたことが記載され』ている、とある。

「キヤラコ」英語“calico”は、インド産の平織りの綿布を言う。但し、本邦ではインド産の厚手の染色されたそれとは異なり、薄く織り目を細かく糊付けした純白の光沢のある布地を主に言い、足袋やステテコの材料とする。]

 

 これは、『点鬼簿』の㈡の中程の、芥川が、見たことない、懐しい、姉を思いながら、二十六七年前の、小学校に通っていた時分の回想を書いたものである。

 これ(つまり、『点鬼簿』)を書いている頃の芥川は、芥川について述べている誰の文章でも、(私の知る限り、)大てい、既に死を覚悟していた、とか、死に隣りしていた、とか、書いている。それは、鬼籍にはいった人たちのことを、その人たちの殆んど陰気な話はかりを、暗い、しみじみした、真に迫った、文章で、書いてあり、それに、厭世家の丈艸の、厭世的な、『かげろふや塚より外に住むばかり』という句にも幾らか動かされたからであろう。

 しかし、私は、前にも述べたように、魯鈍なためか、「改造」[註―大正十五年十月号]で、この作品を読んだ時、「ずいぶん暗い作品だなあ、しかし、うまいな、」とは思ったが、この作者人つまり、芥川)が、これを書く頃、「死を覚悟」していた、とか、「死に隣り」していた、とか、いうような事は、私の頭〔あたま〕に、殆んど浮かんでこなかった。

 ところで、先きに引いた一節は、殆んど全〔まった〕く暗〔くら〕いところがない、それどころか、明かるい感じさえする、そうして、芥川と同じ頃(つまり、明治二十年代の中頃)に生まれた私などには、「ゴム人形」とか、「細かい花や楽器を散らした」模様〔もよう〕のあるキャラコ[註―英語のCalico(キャリコ)の訛り、金巾に似て、金巾より薄く、織地の細かく、光沢のある布、更紗の一種]とか、いう物には、一種の『郷愁〔のすたるじい〕』という感じがあり、何ともいえぬ懐かしい気がするのである。

 

[やぶちゃん注:「金巾」は「かなきん」と読み、経糸と緯糸の密度をほぼ同じにして織った、目が細かく薄地で平織の綿織物のこと。本邦ではポルトガル語の「カネキン」が語源でかく呼称される。言わば「キャラコ」は、艶出しして光沢を持たせたカネキンである。]

 

『点鬼簿』――まず、書き出しの、「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を櫛巻〔くしま〕きにし、いつも芝の実家にたつた一人坐〔ひとりすわ〕りながら、長煙管〔ながぎせる〕ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顔も小〔ちひ〕さければ体〔からだ〕も小さい。その又顔はどう云ふ訣〔わけ〕か、少しも生気ない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記〔せいさうき〕を読み、土口気泥臭味〔どこうきでいしうみ〕の語〔ご〕に出会〔であ〕つた時に忽ち僕の母の顔を、――痩〔や〕せ細〔ほそ〕つた横顔を思ひ出した、」と読んだ時、私は、ありふれた言葉ではあるが、その陰惨さに、その陰惨な書き方〔かた〕に、目を覆〔おお〕いたいような気がした、しかし、それと同時に、至って見え坊な芥川が、心の底では愛している母を、このようなむごたらしい言葉で、書いたことに、一そう驚いた、芥川はどうかしたのではないか訝〔いぶか〕るほど驚いたのである、廣津が、伝えられるように、この作品を読んで、芥川は死ぬのではないか、と思った、というのも、私には、頷〔うなず〕かれるのである。

 

[やぶちゃん注:「西廂記」王実甫〔おうじっぽ〕作の元代の戯曲。唐の詩人元稹〔げんしん〕の小説「会真記」(「鶯鶯伝」とも言う)を元にした金の董解元が書いた語り物「董西廂」を元代の雑劇としては全二十折(=幕)という異例の長さの歌劇に改編したもの。旅の書生張君瑞〔ちょうくんずい〕と亡き宰相の令嬢崔鶯鶯〔さいおうおう〕の波乱万丈の恋愛劇。現在も昆曲や京劇の人気の演目である。

「土口気泥臭味」これについて、筑摩書房全集類聚版脚注は、『これと同一の語は「西廂記に」見えない』とし、『第四本第三折に『土気息泥滋味』(土のにおい泥のあじ)とあるのがこれに近い』とある。これは、ネット検索をかけると、登場人物の以下の台詞の中に次のように現れることが分かる。

「將來的酒共食、嘗著似土和泥。假若便是土和泥、也有些土氣息、泥滋味。」

残念ながら私の能力では、注はここまでである。]

 

 ところで、私が殊更に述べようと思うのは、一般に『点鬼簿』を暗い憂鬱な作品であると云うのは、その最初の㈠の話があまりに凄惨で陰鬱なためであって、全体として見れば、『点鬼簿』は、暗い陰気な作品ではあるけれど、それほど暗い作品でないばかりでなく、なかなかうまい工合〔ぐあい〕に作ってある、という事である。それから、『点鬼簿』を読んで、私が感心したのは、表現に、(表現だけに、)凍っていた芥川の文章が、無駄な形容や文句が殆んどなくなっただけでも、行き著〔つ〕くところまで行った、という観がある事である。

 さて、㈠を読みおわって、㈡にうつると、前に述べたように、急に、書かれてある事も明〔あ〕かるくほのぼのとし、書き方〔かた〕も明かるく延び延びせしている。しぜん、㈠とちがって、読みながらも楽しい気がする、話がうらうらとしているからである。

 

 

 或春先〔あるはるさき〕の日曜の午後、「初ちやん」は庭を歩〔ある〕きながら、座敷にゐる伯母に声をかけた。(僕は勿論この時の姉も洋服を着てゐたやうに想像してゐる。)

「伯母さん、これは何と云ふ樹?」

「どの樹?」

「この苔のある樹。」

僕の母の実家の庭には脊〔せ〕の低い木瓜〔ぼけ〕の樹が一株〔〕ひとかぶ、古井戸へ枝を垂〔た〕らしてゐた。髪をお下〔さ〕げにした「初ちやん」は恐らくは大きな目をしたまま、この枝のとげとげしい木瓜の樹を見つめてゐたことであらう。

「これはお前と同じ名前の樹。」

 伯母の洒落は生憎〔あいにく〕通じなかつた。

「ぢや莫迦の樹[註―ボケの木、バカの木]と云ふ樹なのね。」

 伯母は「初ちやん」の話さへ出れば、未だにこの問答を繰り返してゐる。実際又「初ちやん」の話と云つてはその外に何も残つてゐない。「初ちやん」はそれから幾日もたたずに柩にはひつてしまつたのであらう。

 

 

 これは、『点鬼簿』の㈡の中程〔なかほど〕のところであるが、これだけでもわかるように、狂人の母の事を書いている㈠と、この夭逝した姉の事を書いている㈡の一節とを、読みくらべると、暗夜〔あんや〕と昼〔ひる〕の日中〔ひなか〕ほど、感じがちがう。これは、作者が、気分を一変〔いっぺん〕するために、このような書き方〔かた〕をしたのであろうか、それとも、㈠は、作者が、幼年の頃に、まざまざと見た母の顔や姿が、このように忌〔いま〕わしいものであったために、それを思い出しながら書くと、おのずから、こういう陰気な物語が出来〔でき〕あがり、㈡は、自分の生まれる前に夭逝した、或る親しみ」を持っていた、姉の少女の時分の話、伯母[註―実母の姉の、芥川が憎みながらも愛していた伯母のふきか]から聞いたのを、懐しく思い出しながら書いたので、しぜん、このような朗〔ほがら〕かな可憐な話が生〔う〕まれたのであろうか。

 ㈠には、「髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたつた一人坐〔ひとりすわ〕りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる」ところの母の姿を書き、㈡には、その同じ芝の実家の庭で、「髪をお下〔さ〕げ」にして、「恐らくは大きな目をしたまま、枝のとげとげしい木瓜〔ぼけ〕の樹を見つめてゐたことであらう」ところの姉の姿を書いている。

 胃と腸をわずらい、ひどい痔になやまされ、精神病に近い神経衰弱にかかり、「催眠薬をのみすぎ夜中に五十分も独り語をつづけ」[大正十五年九月二日、室生あての手紙のうち]た、というような状態にありながら、芥川は、このような心にくい細かい仕事をしているのである。しかし、たびたび云うが、そのころ芥川と逢っていなかった私は、この作品を読んだ時、芥川がこのような不治にちかい重い病気にかかっているのを、殆んど知らなかった、いや、うすうす知ってはいても、作品を読んでいる時は、そんな事は殆んど頭に浮かんでこなかった、又、そんな事が頭に浮かんでくる筈はない。

 さて、㈢は、実父の話であるが、これも、亦、㈠のように、いきなり、「僕の母は狂人だつた、」というような書き方をしないで、初めは、極めて穏かに、父が、明治三十年代の初めに、バナナ、アイスクリイム、パイナップル、ラム酒、その他、当時としては、実に珍しい果物や飲料を、幼年の芥川に、教えた、というような事から、書き出し、つづいて、短気な風変りな性質であった父と、やはり片意地で強情〔ごうじょう〕であった中学生時代の芥川が、相撲をとる所を、諧謔的に、述べた後〔あと〕で、芥川は、一転して、死病の床についている父の死ぬ前の日の事を、つぎのように書いている。

 

 

 僕が病院へ帰つて来〔く〕ると、[註―インフルエンザのために父が入院したので、教師をしていた芥川が、鎌倉から帰京して、二三日看病しているうちに、退屈して、友人たちに呼ばれて宴会に行って、帰って来たのだ]僕の父は僕を待ち兼ねてゐた。のみならず二枚折〔おり〕の屏風の外〔そと〕に悉〔ことごと〕く余人を引き下〔さが〕せ、僕の手を握つたり撫でたりしながら、僕の知らない昔のこと、を、――僕の母[つまり、「狂人」の実母であり、この父は実父である]と結婚した当時のことを話した。それは僕の母と二人〔ふたり〕で箪笥を買ひに出かけたとか、鮨をとつて食つたとか云ふ、瑣末〔さまつ〕な話に過ぎなかつた。しかし僕はその話のうちにいつか眶〔まぶた〕が熱くなつてゐた。僕の父も肉の落ちた頰にやはり涙を流してゐた。

 

[やぶちゃん注:「[註―インフルエンザのために父が入院したので、……」には注を要する(以下、主に宮坂年譜を参考にした)。まず、実父新原敏三のインフルエンザ(スペイン風邪)による東京病院入院は大正八(一九一九)年三月十三日で、当日、電報で連絡を受け、鎌倉の文との新居から上京、この日は病院に泊まっている。「教師をしていた」とあるが、実はこの五日前、龍之介はかねてよりの希望通り、大阪毎日新聞社から客員社員の辞令を受け取っており、芥川は三月三十一日で辞職することになっていた(実際に当日に退職はしたものの、免官辞令は何故かずれたらしい)。「友人たちに呼ばれて宴会に行って」とあるが、これは彼の親友であったアイルランド人ロイター通信の記者トーマス・ジョーンズで、「点鬼簿」で『僕はその新聞記者が近く渡米するのを口實にし、垂死の僕の父を殘したまま、築地の或待合へ出かけて行つた』たるのを指す(なお、このジョーンズを主人公に芥川との交流を実に印象深く描いたのが「彼 第二」である)。翌、三月十六日日曜の朝、敏三没。享年六十八であった。]

 

 

 この一節は、小さいうちに養子にやったために、滅多に逢えない子に、死にかかっている実父が、看病に来ている人たちを皆しりぞけて、気が違ったままで死んで行った妻(つまり、その子の母)と、所帯を持った頃、一しょに、箪笥を買いに行った話とか、鮨をとってたべた話とか、(つまり、)「瑣末な話」をして聞かせるところで、いわば普通の人情話ではあるが、読みながら、目頭が痛くなるではないか。

 先きに述べたように、『点鬼簿』といえば、唯、沈鬱な、陰気な、物語のように思われているが、『点鬼簿』とは、前に述べたように、一般に『過去帳』というもので、死んだ人たちの、俗名と法名と死亡した年月日を書き止〔と〕めておくものである、ところが、芥川は、この作品の㈡の初めの方に、「僕の『点鬼簿』に加へたいのは勿論この姉[註―次姉の久子]のことではない。丁度〔ちやうど〕僕の生まれる前に突然夭折した姉[つまり、長子の初子]のことである、」と述べているように、この『点鬼簿』で、自分が心の底から愛している、もっとも近い肉親の、実父と実母と実姉のことを、限りない懐かしさと慕わしさを、心をこめて、書いたのである。この三人は、それぞれ、不幸な人であった、その㈠の母は狂人であり、その㈡の姉は早世し、その㈢の父は「小さい成功者」であるが、「たびたび一人子〔ひとりご〕の芥川を取り戻すために、「頗る巧言令色を弄した」が、一度もそれが成功しなかった、というように、世にも不仕合〔ふしあ〕わせな人である、ありふれた言葉を使えば、死んでしまった子ならば諦〔あきら〕めはつく、が、そのたった一人〔ひとり〕の男の子は生きている、それを小〔ちい〕さい時分に何度む取り返しに行って、その度〔たび〕にその子に頭〔かぶり〕を振られた。ところが、その子の芥川も、短かい生涯の終りに近い頃になって、(自殺する考えを既に持っていたか、どうかそんな事は別として、自分の体〔からだ〕がどれほど弱っているか、自分は今にも気ちがいになるかもしれない、いや、もう既に気違いになっているにちがいない、というような事を一ぱい苦〔く〕にしていたのは、誰〔だれ〕でもない、本人の芥川である、)自分は、実の父にも、実の母にも、縁のうすい者であった、養父も、養母も、伯母も、みな、肉身も及ばぬほど、自分に、深切であった、が、しかし、……と思って、芥川は底知れぬ孤独を、しみじみと、感じた、『点鬼簿』の終りの方に、芥川は、「春先〔はるさき〕の午後の日の光の中に黒ずんだ石塔を眺めながら、一体彼等三人(つまり、実父、実母、実姉)の中では誰が幸福だつたらう、」と書いているが、この三人のほかに、疾〔と〕くに石塔になった、芥川を入れて、四人とし、さて、この四人〔にん〕の中で、誰が一ばん不幸であったか、と云えば、それは、芥川である。

 

[やぶちゃん注:この段落の宇野の芥川龍之介への思いは、本作の中でも最も万感迫ってくる、友人ならではの謂いである、と私は思う。]

 

 

 ……僕は僕の父の葬式がどんなものだつたか覚えてゐない。唯僕の父の死骸を病院から実家へ運〔はこ〕ぶ時、大きい春の月が一〔ひと〕つ、僕の父の柩車〔きうしや〕の上を照らしてゐたことを覚えてゐる。

 

 

と、芥川は、『点鬼簿』の㈢の終りに、書いている。

 この一節にはほのかな感傷があり、しみじみしたところがある。

 しみじみしている、と云えば、『点鬼簿』の文章は、寄り路〔みち〕しているところは別として、大体に、しみじみしている、切切〔せつせつ〕たるところがある。それは、作者の回想が親〔した〕しく懐〔なつ〕かしい最も近い肉親の身の上の事であり、それを回顧すれば、気が弱くなっていた作者に、限りなき極みなき悲しみの情が滾滾〔こんこん〕と湧き出すからである。

『点鬼簿』の一〔ひと〕つ一〔ひと〕つの回想には、その一つ一つに、侘しさと悲しさと懐しさとが、籠〔こも〕っている。

『点鬼薄』の中に、「実家」という言葉が、三〔みっ〕つか四〔よっ〕つ、出てくる。たった三つか四つであるが、それが、私の心を、打つのである。

 それは、「僕の母は髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたつた一人……」というところ、「僕の母の実家の庭には育の低い木瓜〔ぼけ〕の樹が……」というところ、「四十を越した『初ちやん』の顔は或は芝の実家の二階に茫然と煙草をふかしてゐた僕の母の顔に……」というところ、「僕は彼是三日〔かれこれみつか〕ばかり、養家の伯母や実家の叔母と病室の隅に……」というところ、「唯僕の父の死骸を病院から実家へ運〔はこ〕ぶ時、大きい春の月が一〔ひと〕つ、僕の父の柩車の上を……」というところ、――つまり、この五箇所である。この「実家」という言葉のほかに、「養家」という言葉が、同じくらい(か、五〔いつ〕つ六〔むっ〕つ)出てくるけれど、『点鬼簿』をすっかり読んでしまった後〔あと〕に、読者の頭〔あたま〕に残るのは、殆んど「実家」という言葉だけである。

 数え年〔どし〕、三十五歳の秋、『点鬼簿』に、むかし、(二十年、あるいは、三十五六年前、)死んで行った、父母や見たことのない姉のありし日の回想を書いている間〔あいだ〕に、心も体〔からだ〕も弱ってしまった芥川の心の目に、絶えず、幼ない時分霞んでいた「実家」の姿が、浮かんだのであろう。

 その実家、の二階では、狂人の母が、いつも一人〔ひとり〕すわっていて、長煙管〔ながぎせる〕で煙草ばかり吸っていた、その二階の真下〔ました〕の八畳〔じょう〕の座敷で、その狂人の母は、死ぬ前には正気にかえったらしく、枕もとに坐〔すわ〕っていた、十一の芥川と十五の芥川の姉の顔を眺めて、ふだんのように何〔なに〕も口をきかないで、とめ度〔ど〕なしにぽろぽろ涙を落とした、が、間〔ま〕もなく、死んでしまった、さて、その実家の庭には、古井戸〔ふるいど〕に枝を垂〔た〕らしている木瓜〔ぼけ〕の樹〔き〕が一〔ひ〕と株あり、芥川の生〔う〕まれない前に夭逝した姉は、座敷にいる伯母に、「伯母さん、これは何と云ふ樹」と聞いたりしたが、それから幾日も立たないうちに、死んでしまった、それから、晩年は不遇であったらしい父の死骸が、病院から柩車で運〔はこ〕ばれたのも、この実家であった。

 

[やぶちゃん注:「その実家の庭には」とするが、「実家」の連関を認めたい宇野には申し訳ないのだが、「二」の中の「実家」は新原家ではない。「点鬼簿」の該当箇所を読めば分かるが、直前に「初ちやん」は『土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へ泊りに』来たと記し、その後にあのシークエンスに入り、そこでは『僕の母の實家の庭には背の低い木瓜の樹が一株、古井戸へ枝を垂らしてゐた』とあるのである。『僕の母の實家』とは、母フクの実家、則ち「初ちやん」が毎土日にかけて泊まりに来ていた本所小泉町(現在墨田区両国)の芥川家を指すのである。だからこそ伯母フキもそこに居るのである。]

 

 

 養家で人と成〔な〕り、養家で、作家となり、作家生活をし、今、しばし養家をはなれて、鵠沼の寓居で、三つの重い病気なやんでいる芥川には、昔の「実家」は、限りなく懐かしくはあるが、かくの如く、侘しき家であり、哀傷の家である。

 

[やぶちゃん注:先の宇野の誤解を瓢箪から駒とするなら、芥川龍之介にとっては実は、実家新原家だけではなく――『養家』芥川家の旧宅も(それにシンボライズされる芥川という家の存在も)、結局は『限りなく懐かしくはあるが、かくの如く、侘しき家であり、哀傷の家であ』ったと言えるのかも知れない。]

 

 

 そこで、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、『点鬼簿』は、芥川の哀傷の作品であり、芥川の哀傷の詩である。

 ところで、『点鬼簿』の中から、父と母とが死ぬ前の事を書いてあるところを、ならべて、引いてみよう。

 

 

 僕の母は三日目〔みつかめ〕の晩に殆〔ほとん〕ど苦〔くる〕しまずに死んで行つた。死ぬ前には正気に返〔かへ〕つたと見え、僕の顔を眺めては……   ㈠の内

 

 僕の父はその次〔つぎ〕に朝に余り苦〔くる〕しまずに死んで行つた。死ぬ前には頭〔あたま〕も狂つたと見え「あんなに……   ㈢の内

 

 

 これでは、なんぼなんでも、出来〔でき〕すぎていて、作〔つく〕り物〔もの〕に見ええるではないか。作為〔さくい〕が見え過ぎるではないか。私が、ずっと前に、この作品をうまい工合〔ぐあい〕に作〔つく〕ってある、と述べたのは、こういう所の事をも、云ったのである。

 しかし、いずれにしても、『点鬼簿』は、実に巧みな作品である、しかし、結局、小品である。

 さて、この小品が発表された当時」わりに高く評価されたのは、この作品で、芥川が、はじめて、自分の幼少年時代の回想を述べるのに、「僕」という言葉をつかい、その僕が、肉身の、(父母と姉の、)思い出を、しみじみと語る、という形式を使ったからである、それは、又、これまで、幼少年時代の回想風のものを書いても、例えば、『少年』には、まだ、不評判であった、保吉という名をつかい、一部の評論家に劃期的と云われた『大導寺信輔の半生』でも、信輔という名を用〔もち〕いた上に、書き方にも見え透〔す〕いたような思わせぶりなところがあったからでもある。

 勿論、『点鬼簿』にも少しは思わせぶりなところがある。(「思わせぶり」は芥川の芸術の特徴の一〔ひと〕つでもある。そうして、その「思わせぶり」は、『或阿呆の一生』の中にも到る処にあり、死ぬ前の日まで書いた『続西方の人』の中にも多分にある。ところで、)『点鬼簿』には、仮りに「人間」は書かれていないとしても、何〔なに〕か人の心に迫ってくるものがある。
 私は、四節に分かれている『点鬼簿』の中〔なか〕で、その㈠が最もすぐれている、と思う、そうして、その㈠だけが最もすぐれている、と思う、『点鬼簿』に、(『点鬼簿』が雑誌[「改造」]に発表された時に、)読んで感心した大部分の人は、あの㈠の「僕の母は狂人だつた、」という書き出しの文句に先〔ま〕ず感嘆したにちがいない。

 書き出し、といえは、㈡、㈢、㈣は、前に述べたように、㈠よりは落ちるけれど、それでも、「僕は一人〔ひとり〕の姉を持つてゐる、しかしこれは……」という㈡の書き出しも、「僕は母の発狂した為〔ため〕に生まれるが早いか…‥‥」という㈢の書き出しも、「僕は今年〔ことし〕の三月半〔なか〕ばに……」という㈣の書き出しも、みな、工夫〔くふう〕に工夫〔くふう〕を重〔かさ〕ねたものにちがいない。そうして、見よ、ここでも、㈠、㈡、㈢、㈣の書き出しは、みな、「僕は…」となっている。

 芥川が志賀直哉と共に尊敬した、葛西善蔵は、若き間宮茂輔に、「小説は、書き出しと、切りが、大切ですぞ、」と教えた、という話を、間宮が、『風の日に』という実名(兼〔けん〕実際らしい)小説の中に、書いている。

 

[やぶちゃん注:「間宮茂輔」(もすけ 明治三十二(一八九九)年~昭和五十(一九七五)年)は小説家。慶應義塾大学中退後、『文藝戦線』に参加、昭和八(一九三三)年に逮捕、昭和十(一九三五)年に転向して出獄、代表作に「あらがね」。戦後は新日本文学会に属した。]

 

 

 彼はまたいつとなくだんだんと場末へ追ひ込まれてゐた。

 

 

 これは、葛西の処女作『哀しき父』[大正元年八月作]の書き出しの文句である。

  さて、芥川が『点鬼簿』を書いた鵠沼時代の生活の一〔ひと〕つの見本として、誰も彼〔かれ〕も引用するので気が引けるが、やはり、その時分の芥川の生活と気もちの一端をかなりよく現しているので、次ぎに、『或阿呆の一生』の中の『夜』を、うつす。

 

 

  夜〔よる〕はもう一度迫り出した。荒れ模様の海は薄明〔うすあか〕りの中に絶えず水沫〔しぶき〕を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下〔もと〕に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歓〔よろこ〕びだつた。が、同時に又苦〔くる〕しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稲妻〔いなづま〕を眺めてゐた。彼の妻は一人〔ひとり〕の子を抱〔いだ〕き、涙をこらへてゐるらしかつた。

 「あすこに船が一〔ひと〕つ見えるね?」

 「ええ。」

 「檣の二つに折れた船が。」

 

 

 

  右の文章の中に、「二度目の結婚」とあるのは、大正七年の二月に結婚したので、その頃、横須賀の海軍機関学校の教師をしていた芥川は、田端の家をはなれ、鎌倉で、家(あるいは、部屋)を借りて、新妻〔にいいづま〕と、所帯を持った、そこでは、養父母も伯母もいなかったから、夫婦だけの水入らずの暮らしが出来た、楽しかつた、それから、八年目に、(八年ぶりに、)鵠沼の貸し屋で、夫婦と子供だけで、暮らすようになったのを、しゃれて、「二度目の結婚」と称したのである。(それで、芥川は、大正十五年の八月二十四月に、下島 勲に出した手紙の中に、「……二三日中にお出かけなさいませんか。ちよつと我々〔われわれ〕の二度目の新世帯に先生をお迎へして、御飯の一杯もさし上げたい念願があります、」と書いている。)

  ところで、先きに引いた文章の中の、絶えず水沫を打ち上げている、という海の話も、沖の稲妻を三人の子等と一しょに眺めるところも、更に、評論家たちが、その時分の芥川の心を現したものである、とか、その頃の芥川の象徴である、とか、いうような理窟をつけている、「檣の二つに折れた船」が見える、というような話も、私には、みな、『真〔まこと〕』とは、取れないのである。

  諸君、さきに引いた文章をよく読んでごらんなさい。実に、心にくいほど、うまく出来ているではないか。これは、一〔ひと〕つの散文詩と見ても、一〔ひと〕つの小品として読んでも、少し病的なところはあるけれど、実に巧みな、ものである。

  五十一章から成〔な〕る『或阿呆の一生』は、最後の『敗北』の終りに(昭和二年六月)という日附けがついているが、この長短五十一篇の散文詩のような文章は、一度に書かれたものでなく、一章、一章、思いつくままに、念に念を入れて、書いたものらしく、死んだ年〔とし〕の昭和二年の春頃から、書かれたものであろうか、と思う。

 『或阿呆の一生』は、どの章を読んでも、何ともいえぬ痛ましい気がする。

  しかし、この久米正雄に托された原稿、(遺稿、)、『或阿呆の一生』は、「自伝的エスキス」と割註がしてあって、それが抹消されてあるそうだが、故人がそれを抹消した気もちはわかるような気はするけれど、これは、「自伝的エスキス」のようなところもあるが、文学の観照眼の特にすぐれた久米が云うように、「一箇の『作品』」である。

 

 [やぶちゃん注:「エスキス」は、フランス語“esquisse”で、英語の“sketch”のこと。素描。下絵。]

 

  つまり、『或阿呆の一生』は、一〔ひと〕つの芸術であり、一つの作品である。

  その『或阿呆の一生』のなかの『譃』という章の中に、「しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な譃に充ち満ちてゐた、」という文句がある。そのルッソオの『懺悔録』を、(私は、いつ、どこで、誰の文章で、読んだか、忘れたが、)brilliant lie〔ブリリアント ライ〕と云った人があった。『ブリリアント・ライ』を、簡単に、『光り輝く嘘』と訳すると、『或阿呆の一生』の幾つかの章に「自伝的エスキス」のように見られるものがあれば、それらは、たいてい、『ブリリアント・ライ』という事になるのではないか。

  ブリリアント・ライ。――『或阿呆の一生』はブリリアント・ライである。

  何と、これは、見事ではないか。

  久保田万太郎は、さすがに、芥川が、「最後まで自分を美しく扮装しつづけた、」と云い、そうして、『或阿呆の一生』が読者に与えるものは、「魂の美しい旋律」だけである、と云った。

  魂の美しい旋律。

 『或阿呆の一生』の最後の『敗北』という章の初めに、「彼はペンを執る手も震へ出した、」という文句がある。それを、大抵の評論家も、多くの人も、「芥川の文学の敗北」を意味する文句のように、云う。

  しかし、それは、違う。

  芥川は、仮にこの文句が本当とすると、ペンを執る手が震え出すまで、文章を書いていたのである。

  つまり、芥川は、死ぬ時まで、芸術家であったのだ。されば、芥川は、決して、文学に敗けたのではないのである。

 

 [やぶちゃん注:私はこの最後の宇野の言葉には、完全に同意するものである。]

 

 

 

  三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、烈〔はげ〕しい頭痛をこらへてゐた。すると僕の眶の裏に銀色の羽根を鱗〔うろこ〕のやうに畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕はふとこの間乗つた自動車のラディエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思ひ出した。……

  そこへ誰か梯子段を慌しく昇つて来たかと思ふと、すぐに又ばたばた駈け下りて行つた。僕はその誰かの妻だつたことを知り、驚いて体〔からだ〕を起〔おこ〕すが早いか、丁度〔ちやうど〕梯子段の前にある、薄暗い茶の間〔ま〕へ顔を出した。すると妻は突つ伏したまま、息切れをこらへてゐると見え、絶えず肩を震はしてゐた。

 「どうした?」

 「いえ、どうもしないのです。……」

  妻はやつと頭を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。

 「どうもした訣〔わけ〕ではないのですけれどもね、唯何だかお父〔とお〕さんが死んでしまひさうな気がしたものですから。……」

 

 

 

  これは、『歯車』の最後の『飛行機』の終りに近いところの一節である。

  私は、この一節が、芥川の鵠沼時代の或る時の真相にいくらか近いのではないか、と思う。

  つまり、芥川は、ざっと、こういう状態の中で、『点鬼簿』を、書いたのである。

  そうして、芥川は、やがて、大正十五年を送ったのであった。

  大正十五年の十二月の三十一日から昭和二年の一月二日まで、芥川が、小さな家出をした、という話を、私は、ここで、思い出した。

 

大塚美保著 森鷗外『舞姫』 豊太郎の母〈諌死〉説の再検討

僕はかつて森鷗外の「舞姫」の母親の死は自然死であり、諌死ではあり得ないという私の考えを述べた。諌死説は少数派ではなく、当時の同僚の中で、三人の女性教員が――そもそもこの議論の初めも、諌死に決まってると言う僕の妻(当時は同じ高校国語教師であった)の言葉を聴いての、驚天動地に端を発するのである。これは偶然と言うより、女性はそう(豊太郎母は諌死と)捉える確率が高いのではないかという可能性を意味しているようにも思われる――諌死とし、自然死として授業してきたと明言したのは、私と年配の男性教員だけで、分が悪いぐらいであった。

しかしながら、この僕にとっては都市伝説の類いとさえ感じられる諌死説は、今回、
聖心女子大学教授大塚美保著「森鷗外『舞姫』 豊太郎の母〈諌死〉説の再検討」(2012年3月31日教育出版刊 田中実+須貝千里編『文学が教育にできること――「読むこと」の秘鑰(ひやく)』所収)
*副題の「秘鑰」は、秘密を解く鍵の意。――この熟語を、こうした「国語教育実践研究」集の副題に使うと言うのは、正直、どうなんだろうな、僕はいい印象を持たないが。――
によって、完全に否定されたと言ってよい。前半部では僕が否定の外的物理的根拠として(僕の場合はただの推定に過ぎなかったけれども)授業してきた免官電信説が極めて緻密且つ反論不能な考証によって正しく立証され、僕が、『諌死なんぞを暗に秘めた状態では「舞姫」という作品自体の結構が成り立たないではないか』、と、如何にも言葉足らずの尻捲くりのようにしか高校生に授業で言えなかった内容が、その後半で、鷗外の考える小説作法の構造論・構成論の視点から美事に否認されているのである。

向後、
「母の死を諌死とする説がかつての研究史にはあったけれど、どう思う?」
と、生徒に投げかけるてみることは、あってよい。
しかし、奇妙な思いこみの中で、母諌死などというとんでもない誤認を定説のように語り、テクストの外延を越えた心的複合をそれでなくても苦悩の只中に立ち竦む豊太郎に更に荷わせるようなことは、あってはならない――但し、個人的に僕は未だに豊太郎を地獄に落としても許せない奴と思っているから、もっと苦しませることには賛成だが、ね――

諌死は絶対にあり得ない。重ねて言う、あり得ない。

――森鷗外の「舞姫」を授業せんとする総ての高校国語教師は、本、大塚美保論文を必ずや披見せずんばあらず!――

……彼女、大塚美保さんは森鷗外研究の若き才媛である……本来なら博士(かの女性に博士号を出し渋る東京大学の文学博士号である)か、教授とか先生、と附すべきところであるが……どうもそうは呼びにくいのだ……僕のかつての記事に登場するのが、実は彼女なのである……彼女は僕が三十年前、教師として最初に担任した生徒の一人なんである(彼女は「あ」で始まる姓であったから、クラスの集合写真では僕は彼女と並んで坐って映っている。僕の最初の「教師の顔」の隣りの、彼女のさわやかな笑顔が、今も忘れられない……とても僕は好きなんである)……

本書は先週、彼女から献納された。
奇しくもその発行日は私の退職辞令交付日と一致する。
だから、僕にはもう、「舞姫」の授業の中でこの論文を紹介して、生徒たちに目から鱗の納得をさせることが出来ない。
……それでもあの一昨年、ブログに書いた彼女の送って呉れた資料(本論文の前半部で重要考証資料として登場する)をもとに諌死説が論理的に否定されるということ、そもそも諌死を秘めては「舞姫」という小説は成り立たないことを授業で力説した(ある女生徒は授業後に僕を訪ねてきて、「私もそう思います!」と力強く共感して呉れたのも思い出す)……いや、僕は卒業テストにさえ「諌死説はある物理的理由から成り立たないと考えられる。その理由を簡潔に述べよ。」という記述問題を出してさえいた……それを今も覚えいる生徒も、少しはいるであろう、。
……僕はあれで、十全に満足なのである……

……美保さん、ありがとう……

2012/04/29

宇野浩二 芥川龍之介 二十二~(1)

     二十二

 

 例の『芥川龍之介研究』の中で、川端が、「僕は『歯車』は芥川氏のすべての作品に比べて断然いいと思ふ、」と云うと、佐藤が、「僕も同感です、」と云い、廣津も、「僕なんかも一ばん頭に残つてゐるのは『歯車』だと思ふ、」と述べている。

 私は、(私も、)『歯車』は、芥川の晩年の作品の中で、特殊なものの一〔ひと〕つである、とは思う、が、もっとも勝〔すぐ〕れた作品である、とは思わない。私は、芥川が昭和二年に書いた作品の中では、小説としても、『玄鶴山房』が一番すぐれている、と信じる。

『玄鶴山房』は、前に述べたように、㈠は、大正十五年の十二月に、鵠沼で、書いたが、大部分は、昭和二年の一月に、田端で、書いた。

 僕ハ陰鬱極マルカ作ヲ書イテキル。出来上ルカドウカワカラン。君ノ美小童ヲ読ソダ、実ニウラウラシテヰル。ソレカラ中野[註―中野重治]君ノ詩モ大抵ヨンダ、アレモ活〔い〕キ活キシテヰル。中野君ヲシテ徐ロニ小説ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ抜ク事数等ナラン。

 右は、大正十五年十二月五日、芥川が、鵠沼から、室生に宛てた手紙から、引用したのである。(この文章の中にある、室生の『美小童』という作品は、大正十五年の十二月号の

「近代風景」[たしか、北原白秋が個人で出していた雑誌である]に出たものであるが、この「近代風景」には川端康成、岡田三郎、浅原六朗、今野賢三、の作品が、出ている。それから、やはり、大正十五年の、十一月号の「世界」[これは、私も、聞いたことも、見たことも、ない]という雑誌に、芥川の『鴉片』というのが出ている、ついでに書けば、十月号の「改造」には、芥川の『点鬼簿』のほかに、佐佐木茂索、村山知義、の作品も、出ている。――こういう事は、大正末期の日本の文壇の現象の現れの一〔ひと〕つ、とでも云うのであろうか。有識者の御示教を乞う。)

[やぶちゃん注:「中野君ヲシテ徐ロニ小説ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ抜ク事数等ナラン。」文学史ではプロレタリア文学作家として知られる中野重治は、この頃(大正十五(一九二六)年)、東京帝国大学独文科の学生で室生に師事しており、彼は正にこの前後に鹿地亘らとともに社会文芸研究会(一九二五年)やマルクス主義芸術研究会(一九二六年)を結成、この年(大正十五(一九二六)年)に日本プロレタリア芸術連盟へ加入し、その中央委員となっていた。芥川龍之介の先見性が窺われる。

「近代風景」は大正十五(一九二六)年に白秋が創刊した詩誌。

「岡田三郎」(明治二十三(一八九〇)年~昭和二十九(一九五四)年)は小説家。博文館で『文章世界』の編集者をする傍ら、小説を発表した。当時は新興芸術派倶楽部に属した(後に私小説に転ずる)。代表作に「巴里」「伸六行状記」。

「浅原六朗」(ろくろう 明治二十八(一八九五)年~昭和五十二 (一九七七)年)は小説家。新興芸術派倶楽部の結成に参加、モダニズム文学の作家として活躍した。戦後、日本大学教授となった。代表作に「或る自殺階級者」「混血児ジヨオヂ」、童謡「てるてる坊主」などの作詞者(浅原鏡村名義)としても知られる。

「今野賢三」(いまのけんぞう 明治二十六(一八九三)年-昭和四十四(一九六九)年) は小説家。大正十(一九二一)年に郷里の秋田で小牧近江らと『種蒔く人』を創刊、後に『文芸戦線』同人となった。

「世界」は大正十五(一九二六)十一月一日に創刊された雑誌とされるが、詳細未詳。芥川龍之介の「鴉片」の初出とするデータは、昭和二十九(一九五四)年から翌年にかけて刊行された岩波書店小型版全集十九巻所収の「作品年表」によるものであって、実は宇野だけでなく、現在も現物の確認がなされていない。以上の雑誌『世界』の情報は平成十二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介全作品事典」の「鴉片」の項(吉岡由紀彦氏執筆)に拠った。

「こういう事は、大正末期の日本の文壇の現象の現れの一つ、とでも云うのであろうか。有識者の御示教を乞う。」という部分、私が馬鹿なのか、意味がよく判らない。そもそも「こういう事」とは何を指しているのか? そして、どんな「有識者」から、どんな「示教」を宇野は期待しているのか? 「こういう事」とは馬鹿な私なりに勘ぐってみると、『たかが』個人の出した詩の雑誌「近代風景」とやらや、『どこの何様が出したのかも分からない、それこそ今だって現物が見つからない、怪しげな』雑誌「世界」やらや、『天下の小説誌(と宇野も芥川も一目置く――これは既出の内容である――)「中央公論」ではない、社会主義評論に偏頗していた、所詮、綜合』雑誌に『過ぎない』「改造」やらに、天下の著名作家達がこの頃何故、気安くほいほいと小説を発表したのか、してしまったのか、私(宇野)にはとっても理解が納得出来ないね、ということか? 雑誌を小説を本分とする一流(宇野はそう表現していないが)の雑誌と、綜合雑誌や女性誌やその他の怪しげな個人誌や趣味雑誌(と宇野が思っている)を二流として見下し(やはりそう言ってはいないが、今までの部分を読めば、宇野のそうした蔑視感は一目瞭然である)敢然と区別する宇野にして、私はそういう解釈をせざるを得ないのであるが、如何か? 有識者の御示教を乞う。]

 ところで、先きに引いた、芥川が室生に宛てた手紙の中の、「陰鬱極マル力〔りき〕作」というのは、いうまでもなく、『玄鶴山房』のことである。

 その『玄鶴山房』の㈠を、芥川は、「痔猛烈に再発、昨夜呻吟して眠られず」というような状態の中で、一字、五字、一行、三行、と、苦心惨憺しながら、書いたのであろう。神経衰弱(というより、精神病)に悩〔なや〕まされながら、一字、一句、書いては消し、消しては書き、して、書きつづけたのであろう。十二月といえは、鵠沼でも、寒さ冷たさは、厳〔きび〕しかったにちがいない。寒さと冷たさは痔に大禁物である。

 されば、芥川は、二枚あまりの『玄鶴山房』の㈠を書くのに、半月以上はかかったであろう。

 ところが、その㈠だけをやっとの思いで書き上げて、昭和二年の一月二日に、田端の自宅に、帰って来た芥川は、一月早早、思いがけない災難に遭〔あ〕った。それは、ずっと前にちょっと書いたが、義兄[姉の久子の後添いの夫]の西川 豊の家が丸焼けになった事であった、その上、火事に遇う前に多額の火災保険がかけてあったために、不在中の西川に放火の嫌疑がかけられた事であった、おまけに、西川は或る偽証罪のために執行猶予中の身であった、さて、その西川が鉄道自殺をしていたのが分〔わ〕かった事であった。

 極度の神経衰弱(というより、殆んど精神病)にかかっていた芥川には、このような事件は、精神的にも、物質的にも、大変な打撃であった。それは、たびたび云うように、大正十五年の中頃から、芥川は、神経衰弱を通〔とお〕り越して、しばしば精神病者のようになりながら、まったく正気は失わなかった、それどころか、芥川の頭は、時に、精神病者だけが持つ、鋭さになり、異様に冴えることさえあった。

 僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの映〔うつ〕つた雪解〔ゆきど〕けの道をせつせと姉の家へ歩いて行つた。道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を黒ませてゐた。のみならずどれも一本〔いつぽん〕ごとに丁度〔ちやうど〕僕等人間のやうに前や後〔うし〕ろを具〔そな〕へてゐた。それも亦僕には不快よりも恐怖に近いものを運〔はこ〕んで来た。僕はダンテの地獄の中にある、樹木になつた魂〔たましひ〕を思ひ出し、ビルデイングばかり並〔なら〕んでゐる電車線路の向〔むか〕うを歩〔ある〕くことにした。しかしそこも一町〔ちやう〕とは無事に歩くことは出来なかつた。

 これは、『歯車』の中の『復讐』の中〔うち〕の一節であるから、創作と見成〔みな〕すべきであるが、昭和二年三月二十七日の作であるから、死ぬ四箇月〔かげつ〕ほど前に、書いたものである。

 ところで、この文章の初めの方の姉を、芥川の姉の久子と見なすと、芥川は、義兄の西川が自殺したために、忽ち、寡婦になった姉の一家の面倒を見なければならぬ事になった。それで、ずっと前に引いた葉書の文面でもわかるように、芥川は、一月の九日から十五日頃までの間〔あいだ〕に、どの友人に出した葉書の中にも、唯、簡単に、「東奔西走中」と書いているけれど、それは、火災のために殆んど丸裸になった一家の後始末〔あとしまつ〕の事であったから、並大抵〔なみたいてい〕の事ではなかった、殊に病人の芥川には。

……唯今姉の家の後始末の為〔ため〕、多用で弱つてゐる。しかも何〔なに〕か書かねばならず。頭の中はコントンとしてゐる。火災保険、生命保険、高利の金などの問題がからまるのだからやり切れない。神経衰弱癒るの時なし。   [昭和二年一月三十日、佐佐木茂索宛て]

……まだ姉の家の後始末片づかず。いろいろ多忙の為に弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さんがやめたのは気の毒だね。余は拝眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。   [昭和二年一月三十日、宇野浩二宛て]

 右の、佐佐木あての手紙の中の「何か書かねはならず、」も、宇野あての手紙の中の「何か書いてゐる始末だ、」も、共に、『玄鶴山房』のことである。おなじ日に書いた手紙でありながら、一〔ひと〕つは「書かねばならず、」と云い、他は「書いてゐる始末」と述べている事など、誰あての手紙の中にも、『神経衰弱』を、まるで売り物のように、書きながら、昔ながらの、芥川である。

 ここで、やはり、『玄鶴山房』に関係のある書翰がまだ外〔ほか〕にあるかもしれない、と思って、念のために、改めて、書翰集の大正十五年の十二月のところを、くりかえし、くりかえし、丹念に読んでみた。すると、十二月三日に、佐佐木に宛てた葉書の中に、

……僕は暗タンたる小説を書いてゐる。中々出来ない。十二三枚書いてへたばつてしまつた。

というのがあった。

 この「暗タンたる小説」というのは、どうも、『玄鶴山房』らしい。そうして、これが、もし、『玄鶴山房』とすれば、後〔のち〕に書きなおしたとしても、芥川は、大正十五年の十二月三日に、『玄鶴山房』を、三分の一ぐらい、書いた訳である。しかし、その翌日、(つまり、十二月四日、)斎藤茂吉に宛てた手紙の中に、芥川は、次ぎのような事を、書いている。

……オピアム毎日服用致し居り、更に便秘すれば下剤をも用ひ居り、なほ又その為〔ため〕に痔が起れば座薬を用ひ居ります。中々楽ではありません。しかし毎日何か書いて居ります。小穴君曰〔いはく〕この頃神経衰弱が伝染して仕事が出来ない。僕曰〔いはく〕僕は仕事をしてゐる。小穴君曰、そんな死にもの狂ひミタイなものと一しよになるものか。但し僕のは確なものは出来さうもありません。少くとも陰鬱なものしか書けぬことは事実であります。……

 こういう事を書いた手紙を斎藤茂吉に出した翌日、(つまり、十二月五日、)芥川は、室生に宛てた手紙の中に、先きに引いた、「僕ハ陰鬱極マルカ作ヲ書イテヰル、」という文句を書いている。

 さて、この、佐佐木あての葉書の中の、「暗タンたる小説」というのも、斎藤あての手紙の中の、「陰鬱なもの」というのも、室生あての手紙の中の、「陰鬱極マルカ作」というのも、結局、『玄鶴山房』のことである。

 それから、十二月の、三日、四日、五日、とつづけて佐佐木と斎藤と室生とに「暗タンたる小説を書いてゐる、」「少くとも陰鬱なものしか書けぬ、」「陰鬱極マルカ作ヲ書イテヰル、」と、同じような事を報告しているのを見ると、芥川が如何に『玄鶴山房』に乗り気になっていたかが分〔わ〕かり、ありふれた言葉であるが、悲壮な気がする。

 それから、誰に出す便〔たよ〕りの中にも、「暗澹」とか、「陰鬱」とか、いう言葉を入れているように、芥川は、『玄鶴山房』で、限りなく暗澹たる、陰鬱極まる、小説を書こう、と志〔こころざ〕したのである。

 そうして、それには、力作をしなければならぬ、と覚悟した。『力作』とは、いうまでもなく、「力をこめて製作すること」である。

 その頃の、たびたび云うが、幾つかの重い病気にかかっていた芥川は、力作をするためには必死の努力をしなければならなかった。そうして、芥川は、必死の努力をしたのであった。されば、その有り様を見た小穴には、死に物ぐるいのように見えたのである。『死物狂〔しにものぐるい〕』とは、「死ぬる覚悟をして狂うがように働く、」という程の意味である。

[やぶちゃん注:現在の年譜的事実によれば(鷺及び宮坂年譜を参考にして関連のありそうな部分を纏めてみた)、「玄鶴山房」の脱稿の経緯は以下のようになる(リンク先は総て私の電子テクスト)。

十二月 三日 「玄鶴山房」は十二・三枚まで進んだが、そこで停滞。宇野の引く「暗タンたる小説を書いてゐる」という佐佐木宛書簡を書く。

一二月 四日 「僕は」を脱稿。宇野が引用した斎藤宛「オピアム毎日服用」の書簡を書く。

一二月 五日 先に宇野が引いた中野重治に言及する室生宛書簡を書く。

一二月 九日 漱石忌。「彼 第二」を脱稿。小穴によれば、この日を自殺決行日と考えていたこともあるとする。

一二月 十日 「或社会主義者」脱稿。

一二月一一日 痔と不眠に苦しむ。

一二月一三日 宇野が引いた「アヘンエキス二週間分」の書簡を書く。夕刻、鵠沼から田端へ戻り、原稿執筆を続ける(恐らく「玄鶴山房」)。

一二月一六日 この日に予定していた「玄鶴山房」の脱稿が出来ず、二月号への掲載延期を中央公論社に申し入れる。そこでどのような交渉が行われたかは分からないが、結局、この日の直近で「玄鶴山房」の「一」と「二」を脱稿している。

一二月二〇日 佐佐木らと赤倉へスキーに行く予定であったが、「玄鶴山房」執筆遅滞のため、中止する。

一二月二二日 午後八時頃、下島勲とともに鵠沼に帰る。

一二月二五日 大正天皇崩御、皇太子裕仁親王(昭和天皇)践祚、昭和に改元。宇野が引いた「くたばつてしまへと思ふ事がある」という滝井孝作宛書簡を書く。芥川龍之介随筆集『梅・馬・鶯』が新潮社から刊行される。

一二月二七日 妻文、正月準備のために田端に戻る。代わりに(自殺願望を持つ龍之介を監視する意味があったと思われる)葛巻義敏が鵠沼へ来る。

十二月三一日 鎌倉小町園へ行く(所謂、宇野の言う「短い家出」である。なお、鵠沼の借家は翌年の三月まで借りていたものの、これ以降は鵠沼には殆んど滞在しなかった)。

 一月 一日 鎌倉小町園に居続けする。「玄鶴山房」の「一」と「二」、『中央公論』に掲載される。

 一月 二日 鵠沼に立ち寄った後、夜、田端に帰還する。

 一月 三日 嘔吐する。下島来診。

 一月 四日 西川豊宅全焼。西川には放火の嫌疑がかかり、取り調べを受ける。

 一月 六日 午後六時五十分頃、西川、鉄道自殺。なお、芥川龍之介はこの頃から、平松麻素子の口利きで帝国ホテルに執筆用の部屋を借りている。後の自殺未遂もここで起きた。

 一月一六日 『中央公論』二月号に掲載を延引して貰った「玄鶴山房」の後半を執筆するが、義兄西川の事件で脱稿出来ない(この日が脱稿予定日であったか)。

 一月一九日 下島の他、友人一人が来訪するが、二人の前で「玄鶴山房」の推敲を続け、遂に「玄鶴山房」を脱稿する。]

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(6)

 

宇野浩二の「芥川龍之介」は残すところ、あと二章となった。

   *   *   *

 大正十五年は、芥川は、一月の初めから、健康をわるくし、一月の中頃から、保養をかねて、湯河原に出かけ、二月の中頃に、湯河原から、帰り、四月頃から、鵠沼に行きはじめ、終に、その年一ぱい、殆んど、鵠沼で、暮らすようになった。

 芥川の神経衰弱は高〔こう〕じて、しだいに、精神病者になって行った。

 その大正十五年の四月十三日に、(鵠沼にて浄書)と断り書きのある、『凶』という文章がある。これは、大へん参考になるので、全文をうつす。

 

 

 大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乗り、本郷通りを一高[註―今の農科大学]の横から藍染橋〔あゐそめばし〕へ下〔くだ〕らうとしてゐた。あの通〔とほ〕りは甚だ街燈の少〔すくな〕い、いつも真暗な往来である。そこにやはり自動車が一台、僕のタクシイの前を走つてゐた。僕は巻煙草を啣へながら、勿論その車に気もとめなかつた。しかしだんだん近寄つて見ると、――僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色の唐艸〔からくさ〕をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。

 

 大正十三年の夏、僕は室生犀星と軽井沢の小〔こ〕みちを歩いてゐた。山砂〔やますな〕もしつとりと湿気を含んだ、如何にももの静かな夕暮だつた。僕は室生と話しながら、ふと僕等の頭の上を眺めた。頭の上には澄み渡つた空〔そら〕に黒ぐろとアカシヤが枝を張つてゐた。のみならずその又枝の間〔あひだ〕に人の脚〔あし〕が二本ぶら下つてゐた。僕は「あつ」と言つて走り出した。室生も亦僕のあとから「どうした? どうした?」と言つて追ひかけて来た。僕はちよつと羞〔はづか〕しかつたから、何とか言つて護摩化〔ごまか〕してしまつた。

 

 大正十四年の夏、僕は菊池寛、久米正雄、植村宋一[註―直木三十五]、中山太陽堂社長〔註―プラトン社に出資していた人。プラトン社から、直木の編輯した、「苦楽」「女性」を発行した〕などと築地の待合に食事をしてゐた。僕は床柱の前に坐り、僕の右には久米正雄、僕の左には菊池寛、――と云ふ順序に坐つてゐたのである。そのうちに僕は何かの拍子〔ひやうし〕に餉台〔ちやぶだい〕の上の麦酒罎〔ビイルびん〕を眺めた。するとその麦酒罎には人の顔が一つ映〔うつ〕つてゐた。それは僕の顔にそつくりだつた。しかし何〔なに〕も麦酒罎は僕の顔を映してゐた訣〔わけ〕ではない。その証拠には実在の僕は目を開〔あ〕いてゐたのにも関〔かかは〕らず、幻〔まぼろし〕の僕は目をつぶつた上、稍仰向〔ややあふむ〕てゐたのである。僕は傍〔かたは〕らにゐた芸者を顧〔かへり〕み、「妙な顔が映つてゐる」と言つた。芸者は始は常談〔じやうだん〕にしてゐた。けれども僕の座に坐るが早いか、「あら、ほんたうに見えるわ」と言つた。菊池や久米も替〔かは〕る替〔がは〕る僕の座に来て坐つて見ては、「うん、見えるね」などと言ひ合つていた。それは久米の発見によれば、麦酒罎の向うに置いてある杯洗〔はいせん〕や何〔なに〕かの反射だつた。しかし僕は何となしに凶〔きよう〕を感ぜずにはゐられなかつた。

 

 大正十五年の正月十日〔とをか〕、僕はやはりタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下〔くだ〕らうとしてゐた。するとあの唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車が一台、もう一度僕のタクシイの前にぼんやりと後〔うし〕ろを現し出した。僕はまだその時までは前に挙〔あ〕げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々〔めいめい〕の裡〔うち〕に或〔ある〕警告を与へてゐる、――そんなことをはつきり感じたのだつた。   (大正十五年四月十三日鵠沼にて浄書)

 

 

 この文章は、(この文章も、)実に気味のわるい文章である。しかし、この気味のわるい話を、ちゃんと辻凄の合うように、書いているのが、一そう気味がわるい。ところで、芥川が、このような気味のわるい文章を、わざわざ、浄書したのは、どういう訳であろう。

 

 それはそれとして、この話(『凶』)の中で、一ばん気味のわるいのは、アカシヤの枝の間に「人の脚〔あし〕が二本ぶら下〔さが〕つてゐた、」などという所より、最後の「僕はまだその時までは前に挙げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々の裡〔うち〕に或警告を与へてゐる、」というところである。

 

 金色の唐草をつけた、葬式に使う自動車や、アカシヤの枝の間にぶら下っている二本の人間の脚や、麦酒罎にうつる幻の顔や、――そういうものは幻視であり、「何ものか僕に冥々の裡に或警告を与へてゐる、」というような考え方は、恐るべき、脅迫観念である。

 

[やぶちゃん注:宇野はまたしても鬼の首の確信犯『精神病者』立証を行っているわけでるが、これについて私は既に「凶」の私のテクストのマニアック注で『異常とも神経症的関係妄想だとも言えない』という見解を述べている。是非、参照されたい。]

 

 つまり、大正十五年には、(殊に、鵠沼に住むようになってからは、)芥川は、不断に、幻視、幻聴、その他の、幻覚に、なやまされ、さまざまの脅迫観念に、おそわれていたのである。

 

 それにもかかわらず、芥川が、それらの異常な経験を本〔もと〕にして、作品を、少しずつでも、書いたのは、異常な精神作用を、持っていたからである。それを、こんど、『鵠沼雑記』を読んで、又、あらためて、知ったので、つぎに、『鵠沼雑記』から、抜き書きする。(これらの抜き書きは、わたくし事をいうと、私自身の備忘のためでもある。)

 

[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]

 

 

 僕は全然人〔ひと〕かげのない松の中の路〔みち〕を散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸〔かうぐわん〕を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲〔まが〕り角〔かど〕へ来〔く〕ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。

 

 僕は風向〔かぎむ〕きに従つて一様〔いちやう〕に曲〔まが〕つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでゐた。

 

 

 こういう、(これに類するような妙な、)話がもう一つあって、その話の終りに(以上東家にゐるうち、)と断り書きがしてある。つまり、以上が東家にいた時に経験した話、という意味であ、る。そうして、その次ぎに、やはり、似たような話が六〔むっ〕つあって、これも、一番しまいの話の終りに、(以上家を借りてから、)と断り書きがしてある。その六つの話から、二つ抜いて、それを次ぎにうつそう。

 

[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]

 

 

 僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴〔かみなり〕は何ともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬が吠え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭〔あたま〕から蒲団をかぶるか、妻のゐる次〔つぎ〕の間へ避難してしまふ。

 

 僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札を出した家を見つけた。が、二三日たつた後、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。

 

[やぶちゃん注:『鵠沼雑記』の私の全テクストはこちら。]

 

 

 これらの文章は七月二十日に書いたものである。

 

 この文章だけで見れば、この文章の主人公である「僕」はハッキリ精神病者である。しかし、この文章を書いている人(つまり、芥川)は、仮りにこのころ精神病者であったとしても、頭脳は人並〔ひとなみ〕以上に冴えていた、肉体は衰え切っていたが、創作力は然程〔さほど〕おとろえていなかった。

 

 さきに引いた『鵠沼雑記』の中の、松の中で、「尻を振り振り歩いて行つた、」急にふり返って、「確かににやりと笑つた、」白犬は、名作と称せられた、『蜃気楼』の中では、

 

 

 僕等はいつか家の多い本通〔ほんどお〕りの角〔かど〕に佇〔たたず〕んでゐた。家の多い?――しかし砂の乾いた道には殆ど人通りは見えなかつた。

 

「K君はどうするの?」

 

「僕はどうでも、……」

 

 そこへ眞白〔まつしろ〕い犬が一匹、向うからぼんやり尾を垂れて来た。

 

[やぶちゃん注:「K君」は東京から遊びに来た大学生の知人。モデルは堀辰雄か。]

 

 

という所に、登場している。(つまり、『鵠沼雑記』の中で、「……白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた、」というのが、『蜃気楼』の中では、「……黄白い犬が一匹、向うからぼんやれ尾を垂れて来た、」という事になったのである。つまり、『鵠沼雑記』の中では、薄気味わるい白犬であったのを、作者は、『蜃気楼』では、その犬を、大事な所の、点景として、登場させたのである。)

 

 それから、やはり、『鵠沼雑記』の中で、「何度見直しても、」歪んでいる、無気味な、洋館の事を、書いているが、私は、これを読んだ時、すぐ芥川が愛読していた、アラン・ポオの『アッシャア家の崩壊』(“The Fall of the House of Usher”)を、思い出した。

 

 ところで、芥川は、その、『鵠沼雑記』の中の、「白い洋館」を『悠々荘』の初めの方の、

 

 

 そのうちに僕等は薄苔〔うすごけ〕のついた御影石の門の前へ通りかかつた。石に嵌めめこんだ標札には「悠々荘」と書いてあつた。が、門の奥にある家は、――茅葺〔かやぶ〕き屋根の西洋館はひつそりと硝子窓を鎖〔とざ〕してゐた。

 

 

というところで、「茅葺き屋根の西洋館」として、『悠々荘』のもっとも重要な役に立てている。

 

 私は、大方〔おおかた〕の人があまり認めていないようであるが、『悠々荘』は、(『悠々荘』も、)芥川の最晩年の作品の中で、注意すべき物の一つである、と思っている。(芥川は、大正十五年には、五つの小品しか書いていないが、その中で、『悠々荘』は、『点鬼簿』に次ぐものである。)

 

 ところで、さきに、『鵠沼雑記』の中の、歪んだ洋館の話を読んだ時、すぐ、『アッシャア家の崩壊』、を、思い出した、と述べたが、私は、『悠々荘』は、その「歪んだ洋館」と、それ以上に、『アッシャア家の崩壊』が芥川の頭〔あたま〕にあって作られたものではないか、と思うのである。

 

[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]

 

 

 僕は風向きに従つて一様〔いちやう〕に曲〔まが〕つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。

 

 

 十月の或る午後、僕等一二人は話し合ひながら、松の中の小みちを歩いてゐた。小みちにはどこにも人かげはなかつた。……

 

 

 そのうちに僕等は薄苔〔うすごけ〕のついた御影石の門の前へ通りかかつた。[中略]しかし又その外〔ほか〕にも荒廃を極めたあたりの景色に――伸〔の〕びに伸びた庭芝や水の干上〔ひあが〕つた古池に……

 

 

 雲が重苦しく空に低くかかつた、陰鬱な、暗い、寂莫たる、秋の終日、私はただひとり馬に跨つて妙にもの淋しい地方を通り過ぎて行つた。そして黄昏〔たそがれ〕の影があたりに迫つて来る頃、漸く憂鬱なアッシャア家の見えるところへまで来たのであつた。

 

 

 最初の一節が『鵠沼雑記』であり、次ぎの一節が『悠々荘』であり、最後の一節が『アッシャア家の崩壊』である。

 

 もとより、『アッシャア家の崩壊』はポオの傑作の一つであり、『悠々荘』は芥川の病中に書いた小品である。それから、『悠々荘』と『アッシャア家の崩壊』とは、むろん、構想も手法もまったく違う。それに、前に述べたように、『悠々荘』は、『アッシャア家の崩壊』から思いついたらしいものではあるが、強〔し〕いて云えば、晩年の芥川の物らしいところは幾らかあるけれど、作品としては、痩せている上に、趣〔おもむ〕きというようなものが殆んどない、一と口にいうと、呆気〔あつけ〕ない作品である。

 

 それにもかかわらず、この小品をわざわざ取り上げたのは、この文字どおり果〔はか〕ない作品が、――この小品を書いた頃が、――大正十五年の終りに近い時分の芥川の有り様がもっともよく窺われるからである。

 

 大正十五年の下半季は、(前にくどいほど述べた、芥川の鵠沼時代は、)芥川の晩年のうちで、死んだ年〔とし〕(つまり、昭和二年)を除〔のぞ〕けば、心身ともに最も辛く苦しい時であった。

 

 大正十五年の九月の初め頃に、文字どおり骨身をけずる思いをして、『点鬼簿』を重いた芥川は、半月〔はんつき〕ほどの間〔あいだ〕、へとへとになってしまった。しかし、十月になると、たちまち、芥川の頭〔あたま〕に、長い間の習慣のように、こびりついている、「新年号に出す小説」という考えが、沸〔わ〕き上〔あ〕がった。

 

 大正年代は、創作を特に載せる綜合雑誌が、たしか、四五冊しかなかった。その中で、たぶん、三つか四つかの大雑誌が、一年のうちに、一月、四月、七月、十月、と、四度〔よど〕、特別号を出した。そうして、これらの特別号は、普通号の三倍ぐらいのペイジ数になり、その増ペイジの雑誌の半分ちかくのペイジが創作欄であった。そうして、それらの雑誌の編輯者は、年に四回の特別号の中で、特に、新年号に力〔ちから〕を入れた。しぜん、作家たちも、『新年号』には、という気になった。(今も、特別号というのがあるが、この頃は、書く人が、大正時代の四五倍ぐらいはありそうであるから、その為めか、特別号に類するものが殆んど毎月出るような観があるので、特別号が、特別号のような感じがしないから、大正時代の特別号とは、性質が殆んど全〔まった〕く違う。)

 

 さて、その大正時代には、どの雑誌でも、おそらく、新年号には、芥川の作品が、ほしかったにちがいない。それに、芥川も、新年号には何をおいても書きたい、という気もちを十分に持っていたようである。その証拠に、芥川は、それを、殆んど実行している。それは次ぎのとおりである。

 

[やぶちゃん注:以下のリストは底本では引用でもないのに、特異的に全体が二字下げになっている。私のテクストでは見易くするために、大きく改変して二字下げ年改行とし、一桁の年号部に一字空けを施した。]

 

  大正 六年、四篇。

 

  大正 七年、二篇。

 

  大正 八年、五篇。

 

  大正 九年、三篇。

 

  大正 十年、四篇。

 

  大正十一年、四篇。

 

  大正十二年、ナシ。

 

  大正十三年、四篇。

 

  大正十四年、三篇。

 

 右のうち、『大正十二年、ナシ。』というのは、これは、前に述べたように、支那旅行のために、疲労困優し、重い病気になったからである、それから、前に引いたと思うが、大正十二年の十二月二日に、芥川は、真野友二郎に宛てた手紙の中に、「小生心臓をいため叉胃腸をそこなひずつと病臥、新年号の小説の約束も三つ四つありましたが皆断りました。小生の病は一切神経衰弱より起〔おこ〕つたらしく未〔いまだ〕に睡眠薬を用ひない限り眠る事が出来ません、」というような事を、書いているからである。

 

 さて、大正十四年の新年号の三篇は、そのうちの、二〔ふた〕つは、『早春』、『馬の脚』というような、間〔ま〕に合〔あ〕わせ物の、遣〔や〕っ附〔つ〕け仕事であり、他の一〔ひと〕つは、切羽〔せっぱ〕つまって書いた、未完の、『大導寺信輔の半生』である。

 

 つまり、芥川が、大正十五年の秋の末の頃、殆んど誰に宛てた手紙の中にも、新年号、新年号、と、まるで自分に云い聞かせるように、書いているのは、いま述べたように、前の年〔とし〕に新年号のために書いた小説が、それぞれ、自分が不満であったように、世評も香〔かんば〕しくなかった事が、気になったからである。それから、わりに評判のよかった『大導寺信輔の半生』が、自分では不満であった上に、その附記の中に、「この小説はもうこの三四倍続けるつもりである、」と断りながら、三四倍どころか、一倍の半分ぐらいさえ、書く自信がなかったからである、それで、気もちが非常に燋〔あせ〕ったからである。それは、(そのほんの一例として、)次ぎのような手紙を読めば、凡その事が、わかるであろう。

 

 

……僕の頭はどうも変だ。朝起きて十分か十五分は当り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が気がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂鬱になつてしまふ。新年号をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやれ切れない気がする。ちよつと上京した次手〔ついで〕に精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。節煙節茶の祟りもあるのだらう。……   [大正十五年十月二十九日、佐佐木茂索宛ての手紙]

 

……唯今新年号の仕事中、相かはらず頭が変にて弱り居り侯間、アヘンエキスをお送り下さるまじく候や。……   [大正十五年十一月二十一日、斎藤宛ての手紙]

 

……こちらは新年号と云ふものにて弱つて居ります。

 

  かひもなき眠り薬や夜半の冬

 

 

この大正十五年の十二月頃、芥川は、

 

 文〔ふみ〕書カンココロモ細リ炭トリノ炭ノ木目ヲ見テヲル我ハ

 

 小夜〔さよ〕フカク厠ノウチニ樟脳ノ油タラシテカガミヲル我ハ

 

 枕ベノウス暗ガリニ歪ミタル瀬戸ヒキ鍋ヲ恐ルル我ハ

 

というような歌を、斎藤茂吉に宛てた手紙の中にも、室生犀星あての手紙の中にも、

 

はさんでいる。

 

 芥川が、このような苦〔くる〕しい辛〔つら〕い思〔おも〕いをし、不治の重い病苦を辛抱して、昭和二年の新年号の雑誌のために書いたのが、『悠々荘』、『彼』、『玄鶴山房』㈠、の三篇である。しかも、『悠々荘』は六枚ぐらいであり、『彼』は十八九枚であり、『玄鶴山房』の㈠は二枚半ぐらいである。

 

 これは、もとより、作者である芥川には、堪えがたい寂しさであったろうが、前に述べたような訳〔わけ〕で、この年〔とし〕の新年号に出る筈の芥川の小説を取り分け期待していた私には、(私にも、)大へん寂しい気がした。それから、何でもないような事ではあるけれど、いくら関係があるからと云っても、芥川の小説が、たとい小品でも、『悠々荘』が「サンデー毎日」のような雑誌に出たり、『彼』が「女性」などに出たり、した事も、私には、妙に心細い気がした。それから、『彼』が、旧友の思い出などを書いてある上に、芥川の作品として、調子が低い事などまで、私には、気になったのであった。

 

 ところが、旧友の思い出の話ではあるが、それが徒〔ただ〕の思い出の話でない事に気がついて、私は、こんどは、別の意味で、気になった、それは普通の思い出の話とちがう所があるからである。その幾らかちがう所を、前に引いたのとちょいと重複するが、次ぎにうつして見よう。

 

 

……彼はベッドに腰かけたまま、不相変〔あひかはらず〕元気に笑ひなどした。が、文芸や社会科学のことは殆ど一言〔ひとこと〕も話さなかった。

 

「僕はあの綜憫の木を見る度〔たび〕に妙に同情したくなるんだがね。そら、あの上〔うへ〕の葉つぱが動いてゐるだらう。――」

 

 棕櫚の木はつい硝子〔ガラス〕窓の外に木末〔こずゑ〕の葉を吹かせてゐた。その葉は又全体も揺らぎながら、細〔こま〕かに裂けた葉の先々〔さきざき〕を殆ど神経的に震はせてゐた。それは実際近代的なもの哀れを帯びたものに違ひなかつた。

 

 

……太陽はとうに沈んでゐた。しかしまだあたりは明〔あか〕るかつた。僕等は低い松の生えた砂丘の斜面に腰をおろし、海雀〔うみずずめ〕の二三羽飛んでゐるのを見ながら、いろいろのことを話し合つた。

 

「この砂はこんなに冷〔つめ〕たいだらう。けれどもずつと手を入れて見給へ。」

 

 僕は彼の言葉の通り、弘法麦〔こうぼふむぎ〕の枯れ枯〔が〕れになつた砂の中へ片手を差しこんで見た。するとそこには太陽の熱がまだかすかに残つてゐた。

 

「うん、ちよつと気味が悪〔わる〕いね。夜〔よる〕になつてもやつばり温〔あたたか〕いかしら。」

 

「何〔なに〕、すぐに冷〔つめ〕たくなつてしまふ。」

 

 僕はなぜかかう云ふ対話を覚えてゐる。それから僕等は半町〔ちやう〕ほど向うに黒ぐろと和〔なご〕んでゐた太平洋も。……

 

[やぶちゃん注:本作の主人公Xのモデルは府立第三中学校時代の友人府立三中時代の同級生である平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二十五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)である。本作の電子テクストには「海雀」「弘法麦」等、詳細な私の注を施してある。参照されたい。]

 

 

 この小説の主人公の『彼』は、病院の医者や看護婦たちが、旧正月を祝うために、夜ふけまで、歌留多会〔かるたかい〕をつづけて、大騒ぎをしたので、眠りを妨〔さまた〕げられたために、「ベッドの上に横たはつたまま、おほ声に彼等を叱りつけた、と同時に大喀血をし、すぐに死んだ、」という事になっている。

 

 が、そんな事より「この砂はこんなに冷たいだらう、」と云われて、海岸の砂の中に片手を差しこんで、太陽の熱がまだかすかに残っているのを感じて、「うん、ちよつと気味が悪いね。夜になつてもやつぱり温いかしら、」と云う、それに答えて、「何〔なに〕、すぐに冷たくなつてしまふ、」と云うところの方が、よっぽど薄気味〔うすきび〕がわるいではないか。

 

[やぶちゃん注:『主人公の『彼』は、病院の医者や看護婦たちが、旧正月を祝うために、夜ふけまで、歌留多会〔かるたかい〕をつづけて、大騒ぎをしたので、眠りを妨〔さまた〕げられたために、「ベッドの上に横たはつたまま、おほ声に彼等を叱りつけた、と同時に大喀血をし、すぐに死んだ、」』という話を読者であるあなたは『薄気味がわるい』話と言うか? 砂浜のシーンの方が、その悲劇的事実より『よっぽど薄気味がわるいではないか』と平然と言えるか? 私は絶対に言わないし、言えないし、絶対に思わない(『薄気味がわるい』と感じる読者を私は嫌悪はしない。しかし、こう表現してしまう宇野に私は強い違和感を覚える)。これが宇野の(この執筆時の)感性なのである。注する現在の私と、宇野の感性上のギャップ、これだけは押さえておいて戴きたいのである。]

 

 私が、あまり上等でない作品『彼』について長ながと述べたのは、『彼』の中にある、冷〔つめ〕たい気味わるさは、主人公の『彼』ではなく、作者の芥川である、と気がついたので、その事を、私は書きたかったのである。

 

 さて、芥川は、このような小説を書いて、まもなく、昭和二年になり、数え年〔どし〕、三十六歳になったのであった。

 昭和二年は、いうまでもなく、芥川の死んだ年〔とし〕である。

2012/04/28

教え子の便り

僕の愛する(これは社交辞令ではない。本気だ)教え子が職に就いた――

「外にばかりでなく、自分の内側にも目と耳をもっていようと思います。そして、いつまでも学ぶ姿勢とその喜びを忘れずに頑張ります。」

彼女は美しい――未来永劫に美しい……

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(5)

 さて、『海のほとり』、(『尼提』と『湖南の扇』とは、私は、取らない、)『年末の一日』、『春の夜』、と、書きつづけて来て、芥川は、これまでの作品とまったく違った、『点鬼簿』を書いたのである。

『点鬼簿』は、やはり、小説ではないけれど、芥川の全作品の中でもつとも重要な作品である。

 点鬼簿とは、俗にいう過去帳であり、過去帳とは、いうまでもなく、死人の、法名、俗名、死亡年月日などを書き止めておくものであり、鬼籍、鬼簿、鬼神簿、などとも云うが、芥川は、それらの中から、『点鬼簿』というのを、選んだのである。しかし、どれを選んでも、『鬼』という字は附くのである。)

『点鬼簿』は、めずらしく、芥川が、真剣になって、書いている、極言すれば、芥川の全作品の中で、もっとも真剣になって、書かれた作品の一つである。『大導寺信輔の半生』のなかでは、唯、「信輔は母の乳を吸つたことのない少年だつた、」と、書いているだけであるが、この作品では、いきなり「僕の母は狂人だつた、」と、書いている。

 大正十五年の九月の初め頃、鵠沼の寓居で、極度の神経衰弱(というより、精神病)にかかりながら、頭脳は冴え切っていた芥川が、いきなり、「僕の母は狂人だつた、」と、書き出すのに、書きはじめるまでに、いかに苦しい思いをしたであろうか。

『点鬼簿』の㈠の中に、こういう所がある。

……何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭〔あたま〕を長煙管〔ながぎせる〕で打たれたことを覚えてゐる。しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だつた。僕や僕の姉などに画〔ゑ〕を描〔か〕いてくれと迫られると、四〔よ〕つ折〔をり〕の半紙に画を描いてくれる。画は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水絵〔みづゑ〕の具〔ぐ〕を行楽〔かうらく〕の子女の衣服だの草木〔くさき〕の花だのになすつてくれる。唯それ等の画中〔ぐわちゆう〕の人物の顔はいづれも狐の顔をしてゐた。

 この母は、芥川の十一歳の年に、なくなったから、この話は、芥川の七八歳の事であろうか。いずれにしても、いきなり長煙管で頭を打つところ、もの静かな狂人が、子女の行楽(子女の行楽である)の画〔え〕を描〔か〕くところ、それを、墨だけでなく、小〔ちい〕さい娘の水絵具をつかって、それを行楽の子女の衣服と草木〔そうもく〕の花になするところ、行楽の子女がみな狐の顔をしているところ、――これだけの事を、芥川は、何と、二百字ぐらいの文章の中に、書いているのである。この一節は、詩歌の言葉でいえば、絶唱である。

[やぶちゃん注:「なくなったから」は底本「なくなつたから」で、誤植と判断して訂した。]

『点鬼簿』で、芥川は、はじめて、真実を、真実な言葉で、書いた。『点鬼簿』の文章こそ、本当に、無駄のない、抜き差しならぬ、文章である。『点鬼簿』を書く前から、芥川は、眠られぬ夜毎〔よごと〕に、実母や姉や実父の、いろいろな姿が目にうかび、実母や姉や実父の死に行く様〔さま〕を心の中に思いうかべていたのであろう。そうして、いたく胸が迫る思いをしたであろう。

 されば、芥川は、しみじみした思いにもなりながら、必死の思いにもなりながら、心魂こめて、(誠に、心魂しめて、)『点鬼簿』を、石に字を刻むように、書きつづけたにちがいない。私などは、この作品を何度か読みながら、ある所では、芥川のすすり泣きしている声が聞こえるような気さえする事がある。

 しかし、又、この作品には、側側として迫るような痛わしいところもあるが、大形〔おおぎょう〕に言うと、鬼気のようなものが迫る思いをするところもある。その一つの例は、鬼気という程ではないが、

 僕の父はその次〔つぎ〕の朝に余り苦〔くる〕しまずに死んで行つた。死ぬ前には頭も狂〔くる〕つたと見え「あんなに旗を立てた軍艦が来た。みんな万歳を唱へろ」などと言つた。

 これで見ると、芥川の実父も、亦、死ぬ前に、「頭が狂つた、」という事になる。

 ところで、『点鬼簿』の最後に、(締め括りとして、)墓参りをする場面がある。それは、その年(つまり、大正十五年)の三月の半〔なか〕ば頃〔ごろ〕に、芥川が、久しぶりで、妻と一しょに、谷中の墓地に、墓参りに行く所である。その墓地の石塔の下には、芥川が、『点鬼簿』に書いた三人の骨が埋められてある。(但し、実父だけは骨の代りのものが埋められてある。)その時の事を、芥川は、つぎのように、書いている。

 僕は墓参りを好んではゐない。若し忘れてゐられるとすれば、僕の両親や姉のことも忘れてゐたいと思つてゐる。が、特にその日だけは肉体的に弱つてゐたせゐか、春先〔はるさき〕の午後の日の光〔ひかり〕の中に黒ずんだ石塔を眺めながら、一体彼等三人の中では誰が幸福だつたらうと考へたりした。

   かげろふや塚より外〔そと〕に住むばかり

 僕は実際この時ほど、かう云ふ丈艸〔ぢやうさう〕の心もちが押し迫つて来るのを感じたことはなかつた。

[やぶちゃん注:内藤丈草の名句は以下の通りの前書を持つ。

  芭蕉翁塚にまうでて

 陽炎や塚より外に住むばかり

「初蟬」所収の句で元禄九(一六九六)年の春、現在の滋賀県大津市にある義仲寺の先師芭蕉の墓を詣でた際のもので、後の「丈草発句集」では『芭蕉翁の墳にまふでて我〔わが〕病身をおもふ』と前書し、

 陽炎や墓より外に住むばかり

と中七が異なる。句意は、

……先師の墓に詣でる……と……折柄、春の陽炎ゆらゆらと……師の墓もその景も……みなみな定めなき姿に搖れてをる……その影も搖れ搖れる陽炎も……ともに儚く消えゆくもの……いや……儚く消えゆくものは、外でもない……この我が身とて同じ如……先師と我と……「幽明相隔つ」なんどとは言うものの……いや、儚き幻に過ぎぬこの我が身とて……ただただ「墓」からたった一歩の外に……たまさか、住んでをるに過ぎぬのであり……いや、我が心は既にして……冥界へとあくがれて……直き、この身も滅び……確かに先師の元へと……我れは旅立つ……

といった絶唱である。私も好きな句の一つである。]

 実際、この時分の芥川は、「塚より外に住むばかり」というような、世を厭う心になっていたにちがいない、又、去来が「句の寂しき事丈草に及ばず」と云われたような、丈草の句を、芥川は、好んでいたかもしれない。

[やぶちゃん注:丈草と親しかった去来の評は、彼の「旅寝論」の「序」に『我蕉門に年ひさしきゆへに虛名高しといへ共、句におゐて其しづかなる事丈草に及ばず、其はなやかなる事其角に及ばず、輕き事野坡に及ばず、あだなること土芳に及ばず、たくみなる事正秀に及がたし』(底本は岩波文庫版)と冒頭に挙がる。宇野派は「しづかなること」(閑かなること)を恐らく「閑寂」の連想からか、誤って「寂しき事」としている。]

 さて、『点鬼簿』について、それを知っている人には、ちょっと問題になった論争があった。それは、徳田秋声が、この作品は小説ではない、と云ったのに対して、廣津が、報知新聞で月評をした時、それを反駁した事である。今、その時の廣津の文章が手もとにないので、例の『芥川龍之介研究』[前にも説明したが、「新潮」でもよおした座談会]の中から、そこの所をうつそう。

 川端。晩年のものを読んでみると、何だか死にさうなやうな気がしますね。

 廣津。徳田さんを前においていふのも変ですが、徳田さんが『点鬼簿』を小説ぢやないと云つて批評されたことがあつた。それで、僕は、大体小説ぢやないが、しかし、あれは死の隣りにゐるから、さういふ点から見なければならぬといふやうなことを云つて、徳田さんに対する反駁をあの頃新聞[註―報知新聞]に書いたんですが、あれを読んでゐると、死ぬと思つたな。

 川端。結果論でせうが、後〔あと〕で見ると、さういふ気がしますね。

 久米。後で読んで見ると、皆さうだね、晩年の作は皆さうだ。

 私は、「結果論」とか、「後で読んで見ると、」とか、いうような考え方には、同感ができない。それから、私は、『点鬼簿』を読んだ時、「死ぬな、」などとも、思わなかった。

 しかし、『点鬼簿』の最後の、墓まいりの話が本当とすれば、芥川は、あの三人の墓まいりをしてから、一年半も立たないうちに、『点鬼簿』を書いてから、十月〔とつき〕あまり後〔のち〕に、この世を捨てたのであった。それを考えると、『点鬼簿』を読みながら、廣津が、「死ぬな、」と思ったのが当〔あた〕った、という事になる。

 ところが、『点鬼簿』は、誠に果〔はか〕ない作品である、(「果〔はか〕なくなる」とは、世を去る事である、死ぬ事である、)しかし、実にしみじみした作品である。この作品には芥川の持ち前である気取りが殆んど全くない。やがて、間もなく、点鬼簿の中に加えられる筈の芥川が、この『点鬼簿』を小説風に書いたのが、この作品である。そうして、芥川は、この『点鬼簿』に書き入れている三人の肉親に、限りなき愛情と愛慕と哀情と哀惜を、寄せている。既にこの世を、「婆婆苦」と称して、はかなんでいた芥川は、この世に生まれて、あまり幸福でなく、果〔はか〕なくこの世を去って行った、一ばん近い、三人の、肉親の『過去帳』(『点鬼簿』)を、書きたくなったのであろう、しかも、それを書く芥川も、花やかには見えたけれど、あまり幸福な生涯を送らなかった人である、いや、もしかすると、『点鬼簿』に書かれている三人の人たちよりも、芥川の方が、もっともっと苦〔くる〕しく辛〔つら〕い一生を送ったにちがいない。

 芥川は、発狂した実母の血をもっとも多く受け、それから、疳性で神経質な実父の性質を受けている。(芥川の目は実母、のふくに一ばんよく似ている。)

『点鬼簿』は、前に述べたように、芥川の全作品の中で、もっとも陰鬱で憂鬱な作品である。

[やぶちゃん注:私はそう思わない。特に私には「点鬼簿」の「二」の「初ちやん」の話が、「蜜柑」や「杜子春」のエンディングに次いで芥川龍之介の作品群の中から、暗い山の彼方に、そこだけ明るい日差しの射し込むのを見るように感ずる程であり、「点鬼簿」を『芥川の全作品の中で、もっとも陰鬱で憂鬱な作品』などとは、全く以て思わないということを明言しておく(後文で宇野もこの「二」の部分は「稍明るい」とは述べている)。]

 そうして、『点鬼簿』の中でもっとも憂鬱なのは、最初の、実母の事を、書いた、一節である。実母、実姉、実父、――と、三人の事を書いてある中で、実母だけは殆んど死ぬ所と葬式だけが書いてある。それは次ぎのような所である。

 僕の母は二階の真下〔ました〕の八畳〔でふ〕の座敷に横たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人〔ふたり〕とも絶えず声を立てて泣いた。殊に誰か僕の後〔うし〕ろで「御臨終〔ごりんじゆう〕御臨終」と言つた時には一層切〔せつ〕なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小声でくすくす笑ひ出した。

 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌〔ゐはい〕を持ち、僕はその後〔うし〕ろに香炉を持ち、二人〔ふたり〕とも人力車に乗つて行つた。僕は時々居睡〔ときどきゐねむ〕りをし、はつと思つて目を醒〔さ〕ます拍子〔ひやうし〕に危〔あやふ〕く香炉を落〔おと〕しさうにする。けれども谷中へは中々来〔なかなかこ〕ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。[註―芝の新銭座から谷中の墓地までは一里ぐらいであろうか]

 芥川は、死ぬ一年ほど前に、こういう文章を書いたのである。これは身近〔みぢか〕の事を書いたから出来た、というような文章ではない。身近な事を書いたものでは、例の、『芥川龍之介研究』の中で、廣津、佐藤、川端、というような人たちまでが、芥川の全作品の中で一番すぐれている、と賞讃している、『歯車』があるが、『歯車』は、切羽〔せっぱ〕つまった、気違いに近い精神病者の気もちのまざまざと現れている作品であり、無類の特徴のある、作品であるけれど、散漫なところがあり、息切れしているようなところもある。

[やぶちゃん注:「気違いに近い精神病者の気もちのまざまざと現れている作品」という言いは本作に現れる最も差別的で、芥川龍之介に対して最大級に失礼な評言であり、しかも全く見当違いの誤認である、と私は思う。そうした批判的視点から本表現を読まれるよう、読者の方に敢えてお願いするものである。なお、この注が目障りと感じられる方は、私のこのテクストでお読みにならず、実際の書籍の「芥川龍之介」でお読みになられれば、よい。速やかにこの私のサイトから去られるのが肝要である。私の人生には、そうお感じになったあなたとは、議論する余裕を、一秒たりとも持っていないからである。]

 芥川の青年時代の無二の親友であつた、恒藤 恭が、大正十五年の九月二十八日頃、(芥川が『点鬼簿』を書き上げてから二十日〔はつか〕ほど後、)鵠沼に、芥川をたずねた時の事を」『最後に会つたときのこと』という文章の初めに、つぎのように、書いている。

[やぶちゃん注:「大正十五年の九月二十八日頃」現在、新全集の宮坂覺氏の年譜では恒藤恭の来訪を九月二十九日頃にクレジットしている。恒藤は同月二十六日に遊学していたアメリカから横浜港に帰国していた。引用の直前で『それから二、三日の後に、当時鵠沼に滞在した芥川を訪ねたが、……』と述べている。]

……当時鵠沼に滞在してゐた芥川をたづねたが、三年ぶりに会つた彼の容貌は、三年まへの、其れとは大へんな変りやうであつた。まるで十年もの年月〔としつき〕がそのあひだに経過したやうな気がした。[中略]元来が痩せてゐる芥川ではあつたが、そのときの彼の肉体の衰へは正視するのも痛はしいやうな程度のものであつた。だが、気力は一向におとろへてゐないもののやうに、意気軒昂といつた調子で、文壇のありさまなどを話してくれた。しかし、また、どうも健康がすぐれず、不眠にくるしんでゐるといふことも訴へた。

 ぜんたいとしての彼の風貌が、なにかしら鬼気人に迫るといつたやうな趣きをただよはしてゐて、昼食を共にしてお互ひに話し合ひながら、余命のいくばくもない人と対談してゐるやうな予感めいたものを心の底に感じ、たとへやうもなくさびしい気もちにおそはれることを禁〔とど〕め得なかつた。

[やぶちゃん注:本部分に関して私が参照した鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一八四頁)のコラム「恒藤恭の〈最後の印象〉」には、宇野の引用の後、もう少し引用があり、『万事を抛擲して健康の回復をはかるやうに、くり返してすすめ、京都へかへる前にもう一度たづねるからと言ひ残して別れ、東京へかへつた』が、結局、恒藤は今一度帰京前に逢うことは叶わず、そして、これが恒藤が芥川龍之介に逢った最後となってしまう。鷺氏の要約によれば、恒藤は『のちに自殺の報に接し「必然の成り行き」と感じたという。』と、ある。]

 この恒藤の文章を読んで、私は、いたく心を打たれた、芥川の旧友であり親友であった恒藤は、芥川の作品(つまり、『点鬼簿』、その他)を読まないで、芥川が「余命いくばくもない」事を、予感したのである。

 つまり、この文章にあるように、芥川は、「正視するのも痛はしいやうな」衰えた肉体を鞭うちながら、「余命のいくばくもない」身をもって、『点鬼簿』を書いたのである。芥川は、又、『点鬼簿』を書いてから一週間ほど後に、佐佐木に宛てた手紙のなかに、「その後例の如く時々風を引いたり腹を下したりしてゐる。点鬼簿に数枚つけ加へて改造に出したれど、その数枚に幾日もかかり、小生亦前途暗澹の感あり、」と述べている。ここに「数枚つけ加へ」とあるのは、『点鬼簿』の㈢と㈣つまり、実父の事と墓まいりの事を書いた分を云うのであろうか。

 これは、文字どおり、まったく必死の仕事である。暗澹そのもののような『点鬼簿』の中では、実姉の事を書いた㈡だけが稍〔やや〕あかるい。その㈡の終りの方に、

……「初ちやん」[註―芥川の生まれない前に夭逝した姉で、きょうだいの中で一番賢かった人、として、芥川のもっとも愛している姉]は今も存命するとすれば、四十〔しじふ〕を越してゐることであらう。四十を越した「初ちやん」の顔は或〔あるひ〕は芝の実家の二階に茫然と煙草をふかしてゐた僕の母の顔に似てゐるかも知れない。僕は時々幻〔まぼろし〕のやうに僕の母とも姉ともつかない四十恰好〔かつかう〕の女人〔によにん〕が一人〔ひとり〕、どこかから僕の一生を見守〔みまも〕つてゐるやうに感じてゐる。

という所があるが、これは、(これだけでも、)ぞっとするほど、気味がわるい。

 私の(私だけの)考えでは、このような気味のわるい文章は、『玄鶴山房』にも、『歯車』にも、ない。(『玄鶴山房』や『歯車』の中にある気味わるさに就いては、後に述べる。)

[やぶちゃん注:私は「点鬼簿」を芥川龍之介の作品群の中でも殊の外愛し、数えきれない程何度も読み返したが、全体を通して(「二」のここだけではなく、「点鬼簿」総て、である)、「ぞっとするほど、気味がわるい」なんどは、ただの一度も感じたことがない。むしろ、ある種の怖くない見たい暖かな霊が、私には見える(こう感じる私もまた、宇野と対極の異常性を持っていると自認はする)。またここで宇野自身の病跡学的問題を語りたいと思う。そもそも宇野は直感優先の人で、最初の生理的感覚を完全に捨て去ることが出来にくい性質の持ち主であるように思われる。今まで、しばしば、彼はいろいろな場面、いろいろな対象(小説や人物や記憶等々)の、「最初の印象を後に変えた(訂正した)」という謂いを語ってきているが、これは実は裏を返せば、宇野は、心的振幅の大きい感情的な最初の印象に関しては相当に深く心に彫りつけて忘れない(忘れられない)タイプ、粘着気質であることを示していると言える(これはどうも宇野の生得的性格であると思われるが、梅毒に因る進行麻痺(麻痺性痴呆)の罹患と予後によって、更にそうした性格が突出してきたという印象を私は持っている)。そうした宇野にとって、特にその中でも強い不快感や恐怖感を必ず伴う「気味がわるい」という感じ方(はっきり言わせて頂くと「稍奇異な」印象さえ私は感じている。則ち、強迫観念としてのフォビアである)に関しては、初読で感じてしまったものに対して、殆ど、というか実は全く、後の修正が効かないのである。図らずもここで宇野が「(私だけの)」とわざわざ述べているのは、宇野自身がそうした自分のフォビアの印象の固着に薄々感づいていることを示していると言えるのではないだろうか。宇野の執念深い、粘着的な芥川作品への断定は、そうした評者である宇野の心理的側面への分析的視点からも同時に捉えていかないととんでもないことになる、と私はつくづく思うのである。]

 

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(4)

今回の注も、僕の考える宇野浩二の内心――「芥川龍之介」に於いて表だって言っていない宇野の本当の「小説」家芥川龍之介という存在への認識――についての長い注となった。覚悟してお読み頂きたい。

   *   *   *

 ここで又、ちょっと寄り路する。これも、前に、引いた事があるが、大正十四年の十二月一日に、芥川が、私に、つぎのような便〔たよ〕りを、よこしている。

 朶雲奉誦新年号出来しや上海游記の事、君に関する分だけ読んでくれ給へ君が小説と小品との別を云々したから僕が「私」小説論私見を書いたと言ふ藤森[成吉ならん]の説には驚いたねああなるととてもかなはん僕は兜をぬぐ

この芥川の便り[註―前にも書いたが、私は芥川の手紙やはがきは一つも持っていない、書簡集を見て、こんなのがあったのか、と思う程である]の中の、私が「小説と小品との別を云々」というのは殆んど全く覚えていないが、今、察するところ、大正十四年十二月一日、と云えば、芥川が『海のほとり』その他を発表した後〔あと〕であるから、私が、『海のほとり』は、小説ではない、小品である、とでも、書いたのであろうか。もしそうだとすれば、私は、前にしばしば述べたように、『海のほとり』、『年末の一日』『悠々荘』、『蜃気楼』、その他は、小説ではない、小品である、と、今でも、思っている。

[やぶちゃん注:今回の注は長くなる。御覚悟の上、お読み頂きたい。

「藤森[成吉ならん]」は宇野の誤りと思われる。この「藤森」について、筑摩書房全集類聚版脚注では藤森淳三とする。藤森淳三(明治三十(一八九七)年~昭和五十五(一九八〇)年)は小説家・評論家。横光利一らと同人雑誌『街』を創刊、雑誌編集者をしながら作家活動をした。小説集『秘密の花園』童話集『小人国の話』などがある。この「藤森」も芥川龍之介の批評という点から考えて、高い確率で彼と考えてよい。実は藤森淳三と宇野と芥川絡みでは、芥川龍之介の大正十二(一九二三)年三月の『新潮』に載る「色目の辯」に、非常に興味深い叙述が現れる。以下に引用する(底本は岩波旧全集を用いた)。

 

 新潮二月號所載藤森淳三氏の文(宇野浩二氏の作と人とに關する)によれば、宇野氏は當初輕蔑してゐた里見弴氏や芥川龍之介に、色目を使ふやうになつたさうである。が、里見氏は姑く問はず、事の僕に關する限り、藤森氏の言は當つてゐない。宇野氏も色目を使つたかも知れぬが、僕も亦盛に色目を使つた。いや、僕自身の感じを云へば、寧ろ色目を使つたのは僕ばかりのやうにも思はれるのである。

 藤森氏の文は大家たる宇野氏に何の痛痒も與へぬであらう。だから僕は宇野氏の爲にこの文を艸する必要を見ない。

 しかし新らしい觀念(イデエ)や人に色目も使はぬと云ふことは退屈そのものの證據である。同時に又僕の恥づるところである。すると色目を使つたと云ふ、常に溌剌たる生活力の證據は宇野氏の獨占に委すべきではない。僕も亦分け前に與るべきである。或は僕一人に與へらるべきである。然るに偏頗なる藤森氏は宇野氏にのみかう云ふ名譽を與へた。如何に脱俗した僕と雖も、嫉妬せざるを得ない所以である。

 かたがた僕は小閑を幸ひ、色目の辯を艸することとした。

 

「委す」は「まかす」、「与る」は「あづかる」と訓ずる。芥川龍之介は座談会などで藤森淳三と同席しているが、その抜粋録などを読むと、実際には彼とは肌が合わなかったのではないかという感じがする。因みに、大正十一(一九二二)年八月四日附佐佐木茂索宛書簡(岩波旧全集書簡番号一〇六三)末尾には、『藤森淳三 僕論を書くと云ふ 行為は感佩するが書いて貰ひたくない 僕は毀譽とも頂戴せずに文章を作つてゐたいのである 頓首』と記す。これは好意を持っている人物への物謂いとは、私には思われない。

「上海游記の事、君に関する分だけ読んでくれ給へ」これは「上海游記」の「十九 日本人」の以下の部分を指す(リンク先は私の注釈つきテキスト。以下の注もその私自身の注を加工した)。

 

上海の日本婦人倶樂部〔クラブ〕に、招待を受けた事がある。場所は確か佛蘭西租界の、松本夫人の邸宅だつた。白い布をかけた圓卓子〔まるテエブル〕。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウイツチと。卓子〔テエブル〕を圍んだ奧さん達は、私が豫想してゐたよりも、皆温良貞淑さうだつた。私はさう云ふ奧さん達と、小説や戲曲の話をした。すると或奧さんが、かう私に話しかけた。

 「今月中央公論に御出しになつた「鴉」と云ふ小説は、大へん面白うございました。」

 「いえ、あれは惡作です。」

 私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思つた。

 

「松本夫人」は本文以外のことは不詳。芥川龍之介書簡宛名には「松本」姓で該当人物と思しい人は見えない。「シネラリア」キク目キク科ペリカリス属シネラリアPericallis cruenta。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・青・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることからとされる。しかし乍ら、試みにこの英名を調べてみたところ、面白いことに余りに美しすぎて他の花が売れなくなるから(であろうか)、“Cineraria”という語は“cinerarium”、「納骨所」の複数形で、「死ね」に通底するところの“Florist's Cineraria”「花屋の墓場」という意味なのであった。『「鴉」』既にお分かりの通り、芥川龍之介の作品ではなく、宇野浩二の小説。私は未読なので作品内容は不明。松本夫人が誤ったのは大正十(一九二一)年四月一日発行の「中央公論」で、この宇野浩二の「鴉」の後に芥川龍之介の「奇遇」が掲載されているためであろう(「鴉」の注については筑摩書房全集類聚版脚注及び岩波版新全集の神田由美子氏の注解に拠った)。

「君が小説小品との別を云々した」既に読者は、この宇野の謂いを何度も眼にしてきた。ここで是非、注しておきたいと思う。これは極めて重要なことである。まず、この書簡で、

《芥川が言っている「小説」と「小品」との区別》

は、実に一般的に知られるオーソドックスな謂いと考えてよい。則ち、――

「小説」はモデルや作者の実体験が含まれている場合があるにしても、その主要な核心部分は技巧的に脚色された、話者の主体の人称に関わらず、創作されたもの

であり、

「小品」とは多少の潤色はなされていても、アウトラインが作者の実体験に基づいたもので(則ち所謂、「私小説的なる」もので)、尚且つ、必ず短篇に限る

という主に内容に基づくものである(例えば、芥川龍之介の作品を例にとると、「河童」クラスの原稿量を持つ作品は、その内容如何に関わらず(完全な実体験であったとしても)、「小品」とは呼ばない、ということである。確かに「河童」を小品と呼ぶ人は少ないであろう)。なお、この「小品」の一般的見解は、「小品」が「小品文」に由来するからである。「小品文」は、例えば「大辞泉」には、①として、

「日常生活で目に触れた事柄をスケッチふうに描写したり、折々の感想をまとめたりした、気のきいた短い文章。小品。」

とあり、②として、

「中国で、明代中期以降行われた短い評論・随筆・紀行文などの総称。」

とある(やや不審なのは①が原義ではなく、②からの派生と見えるのだが、天下の辞書がこう書くということは、①は②と無縁であり、その内容的類似は偶然だということであろう)。辞書的にもこれらの区別に何らの違和感も私は感じない。こんなくだくだしい分かり切ったこと(私は「分かり切った」とは思っていないが)を記したのは、実は、

《宇野の言っている「小説」と「小品」の区別》

は、今までの宇野の叙述から、実はその『決定的な差』は、そのような内容とは無縁な単純な判断基準に基づくものではないか、則ち、宇野の謂いは一般的な考え方と異なっているのではないか、と疑っているからである。宇野の謂いをよく確認されるとよい。彼は常に、異常なまでに、『物理的な原稿量』を偏執的に数えている事実に気がつくはずである(私はこれを宇野の異常な要素として先の注で正に「数えた」のだが、それにはここでは言及しない)。則ち、宇野にとっては、

一定以上の原稿枚数を持つ、所謂、「中編」以上(その原稿量は特定できないが、例えば芥川龍之介の「河童」である――但し、宇野が「河童」を「小説」=「本物の小説」と考えているかどうかとは別問題である――)の物理的枚数を持つ「創作物」だけが「小説」である

ということである。そして、

完璧な創作であろうが、実体験まんまの叙述であろうが、一定枚数以下(その原稿量は特定できないが、例えば芥川龍之介の純然たる「評論」以外の――何を以って「評論」と言うか自体も無意味な区別と私は考えるが――殆ど総ての作品群)は総て「小品」

なのである。但し、宇野に怒られると困るからお急ぎで補足すると、勿論、

「小説」はただ量なのではなく、内容も、その胆の部分に宇野が(これも宇野だけにしか分からないのだが)「創作性がある」と判断するものは(ここが肝心だが「創作性の高い」「作り事」では断じてないのである。宇野の初期作品はその多くの部分が彼の実体験に基づいている)「小説」である

が、宇野にとってはそういう

「本物の小説」(これも多分、宇野だけに分かる、宇野が誰にも譲れない絶対条件である)というものは絶対に最低、中編以上の原稿量になる、たとえ物語性や創作性が強くても短篇では「本物の小説」は創れない、短篇は悉く「小品」でしかなく、「小説」ではない

と宇野は暗に言っているのだ、と私は思うのである。間違ってはいけないのは、宇野のそれは私小説か非私小説かを問題にしていない、ということである。これは引用された書簡から芥川龍之介自身も同じ立場を実はとっていることが分かるということも押さえておかねばならぬ。そもそも宇野の初期作品は悉く私小説「風」である(「風」としないと宇野先生は絶対に怒る。彼は「文学史的」には私小説作家の代表のように語られているが、彼は、自分は「小説」を書いているのであって「私小説」なんどというへんてこりんなものを書いているのではない、という点に於いて、正に内心、『小説』の『鬼』と自負されている、と私は信じて疑わないからである)。

――いや、そんなことはどうでもいい――

実は以上の「小説」と「小品」への宇野の拘りは、

一つの宇野の言葉にしない芥川龍之介への見解

を、暗に物語っているものなののではなかろうか? 則ち、

芥川龍之介の書いたものは、その殆どすべてが、その分量に於いて、当たり前の如く、中編以上であることを絶対的属性とする「小説」ではない

と言いたいのではないか? 言い換えれば、

芥川龍之介は短い「物語」の作家であり、短いことを絶対的属性とする「小品」作家である/しかない/しかなかった

という宇野の中に隠された、正直な感懐を、である。それは『小説の鬼』宇野浩二にして、実は芥川龍之介に対して、この場(この「芥川龍之介」という評論を書いている現在時制)に至っても

――表立ってはやっぱりはっきり言えない――しかし正直なところの印象――

であった、のではあるまいか? いや

――それを表だって言うことなく、ここまで、これだけの芥川龍之介へのオードを書き進めることの出来る宇野浩二という男――

――彼は確かに正しく芥川龍之介を愛している――

そうして、

――正しく自身の信じ殉ずるところの、「小説」というものの、正に『鬼』であった――

とも言えるのではあるまいか?]

2012/04/27

「イル・ポスティーノ」“Il Postino(The Postman)”

Il_postino
三日前のヴィデオ断捨離の最中に、頭をやってもらっている美容師のクラちゃんから数年前(4~5年以上前)に「この映画、いいわよ」と借りたテープが出て来た。実は借りたまままだ見ていなかったのであった。その日の午後に彼女の予約をとったので、とりあえず見ることにした。
実に映画館はおろかヴィデオで映画を通して最後に見てから、恐らく3年ぐらい経っている。
いや、それ以前、私淑するタルコフスキイが亡くなってから、僕は映画に興味が失せたと言ってよい……そして母が亡くなった前後からは、すっかり映画を見る根気も失せていた……母は映画が大好きだった……いろんな俳優や場面を母と語り合うのが僕は楽しみだったのだ……

――1994年のイタリア映画「イル・ポスティーノ」“Il Postino(The Postman)”――

最後のクレジット・タイトルを見終わった時(僕は映画館ではクレジット・タイトル・ロールが終わるまで決して席は立たない。家でも基本、ポーズ・ボタンは押さない。これは映画作品への、最低の礼儀である)、見て良かった(その日、僕は長く借りながら見れなかったので、と言ってクラちゃんに返すことも出来た、が、そうせずに自分を見る義務にわざと追い込んだのが、実に幸いした)と思わせる佳品であった(演劇でも映画でも小説でも何でもそうだが、「良かった」と心底、素直に思える作品というものは人生に十数作もないものだ)。

題名(「或る郵便配達人」)から漠然と連想(ルキノ・ヴィスコンティの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」やら霍建起(フォ・ジェンチー)の「山の郵便配達」なんぞがつい浮かんでしまう)していたものとは大いに違った。そもそもが最初にニュース映画に登場するフィリップ・ノワレが、実在の左翼詩人パブロ・ネルーダであり、チリの軍事政権から亡命してきたネルーダがイタリアの島(事実は1948年で滞在先はカプリ島。ロケはプロチーダ島)に滞在し、彼の家に(彼の家一件にだけ)郵便を配達する青年が主人公マリオという設定だ。ネルーダには美しい妻がいるが「二度ベルを鳴らす」なんぞを見ていると、つまらない邪推をしてしまう(そうは展開しないということである)。

ネタバレをしない程度(しかし、鋭い人には作品の展開はそれとなく分かるように)に読む人の興味をそそりたい文章を書きたいと思うのだが――要は実在したノーベル文学賞作家の詩人ネルーダと、ある島の――この話は架空の話なのである――郵便配達夫の青年の「隠喩(メタファー)」の交流と友情の物語(正に「物語り」)、一種のファンタジーである(僕は「ファンタジー」という言葉が嫌いであるが、この作品にはまさにその言葉がしっくりとくるのである)。

――詩人が人と交わることで人を詩人にし――詩人はまたその新しい詩人によって新しい詩の霊感を受ける――詩人であることとは、愛であり友情であり――詩は、総ての人の心である――といったような青くさいけれど、僕がずっと若い時から抱いていたのに似た思いが――いぶし銀のノワレのエンディングの――たった一人島の海岸に佇む、その眼の演技で、十全に伝わって来るのだ――
*(やや残念なのは、実際のノワレの登場時点ですぐに気づいてしまうのだが、ノワレは母語であるフランス語で台詞を喋っており、それがイタリア語に吹き返られているようだ)。

――本作の一番のクライマックスは――しかし――ネルーダが去った後の島でのマリオの変化にある――
――しかしここは伏せておこう――
僕はその一連の美しいシークエンスで――
微笑みながら――久し振りに、本当に久し振りに(映画を見ていないのだから当然のこんこんちきなのだが)「その場面の」映像に涙した――

いや、全体を通して何より必見なのは――ちょっとした台詞回しやさりげない手の動きに至るまで、全く希有の、島の素朴な青年が素のまま現れた自然体の演技をする――マリオ役のマッシモ・トロイージの奇蹟のような素晴らしさである!

マリオとベアトリーチェ――
*(彼女の名前が絶妙な伏線で、作品中、この名が文学・歴史好きには応えられない面白さを発揮する。また、演じるマリア・グラツィア・クチノッタの野性的な美しさには完全にノック・アウトされた。思わずネットで彼女の画像を検索してしまったことを告白する)
その二人の恋に老ネルーダが絡む――このシークエンスが最初のクライマックスだ。

本作は間違いなく極めて日本人好みする作品である。言うなら、「北の国から」であり、山田洋次であり(イタリア版寅さんCMが違和感がないのでもお分かりの通り)、「島」絡みで、正しく「ドクター・コトー」に通底すると言ってよい。
――則ち、分かり易いことなんだが――
――絶対的な悪人が誰一人として登場しない――
映画なんである。島の右派の顔役はさりげなくマリオとベアトリーチェの結婚を祝っている。しかし、本作は尚且つ、あり得ないファンタジーや「作り事」では、決して、ないのだ。――「島んちゅの心」――を知る人には、僕の言う意味が必ずや、分かって戴けるものと、思う。

*(なお、ネット上で本作をその政治的背景から読み解く映画評――エンディングのネルーダの眼に、沢山の左翼活動の中で命を落とした無名者に対する「革命の詩人」としての安泰の自己存在の「引け目」を読み取るという載道史観的読み――を見かけたが、僕は全くそういう感じ方をしなかったことを一言しておく。ここでは思想への情熱というコンセプトは、人の、詩や恋への情熱の、外的な表象の一つに過ぎないものとして、ある。最後の政治的な外的事実としての悲劇は、確かに哀しく涙を誘う。しかし、そこには決してプロパガンダは、ない。しかもその悲劇は本作の総体の感動に対して一抹の翳りさえも落としてはいないのである。ここではっきり言っておく。実在したネルーダから、この稀有に美しい本作を解析しようとする批評は、悉く失敗する、と僕は思うのである。)

……さて、今一つ、僕は不思議なことに気づいたのだ……僕は本作が何故、その頃の僕の印象や記憶に残っていないのかが、不思議でならなかったのである……
実際には調べると単館上映ながら大ヒットした、とある。単館上映か……しかし、「大ヒット」したのなら、既に映画に興味を失いつつあった僕の記憶にででも、題名ぐらいは残るはずだ……事実、本作はアカデミー賞5部門にノミネートされ(僕はオスカーを軽蔑しているが)、オリジナル作曲賞(ドラマ部門)を受賞し、1996年度キネマ旬報外国映画ベストテン第1位(キネ旬は白井義夫が編集長だった頃が花であった)、英国アカデミー賞外国語映画賞(これは「誉」。イギリス映画はとってもいいものが多い。「兵士トーマス」「長距離走者の孤独」……)及び権威なき1997年日本アカデミー外国作品賞受賞(ここに書くのもおぞましい)も貰ってはいるのだが……。

……何故だろう……何故、僕はこの素晴らしい映画を今日まで知らなかったのだろう……午後、頭をやってもらいながら、その疑問をクラちゃんにぶつけてみた。
*(調べてみると本作の本邦公開は1996年5月であった。これがヒントである。)
クラちゃんは目から鱗の、その謎解きをしてくれた。――

……前年の1995年1月17日に阪神淡路大震災、同年3月20日に地下鉄サリン事件が起きてるの……この二つの強烈な出来事が私たちの印象の中から、心和ませるものを吹き飛ばしてしまったの……だからね、私たちのその頃の記憶からは、映画だの何だという感動が……どこか欠落してしまっているのよ……。

……なるほど……そうだ……そうだったんだ……さすれば……さすればこそ、2011年3月11日を起点として東日本大震災と福島原発の致命的なカタストロフによって……将来、この2011年から2012年にかけての僕等の記憶というものも……そうなる、ことになるな……そうなる気が、確かにするよ、クラちゃん……僕は2011年のあの直後の、3月19日に母を亡くしてもいるからね……
閑話休題(いや、僕は以上の感懐を閑話とは、実に思ってはいない)。

――最後に述べておかねばならないことがある。

本作はイタリア・フランス・ベルギーの三ヶ国の製作になるイタリア映画で、監督はマイケル・ラドフォードであるが、主演のマッシモ・トロイージは脚本にも参加しており、彼はこの作品を撮りたくて撮りたくてたまらなかったのだという(クラちゃん言。彼は映画監督でもあった。)。

――この映画の最後には、何故か、このマッシモへの献辞がある――

――ウィキの「マッシモ・トロイージ」には、最後に、こう書かれている……彼はもともと心臓が悪く、「イル・ポスティーノ」制作時には即刻手術が必要な状態であったが、撮影を優先した……この映画の撮影終了から12時間後のこと……マッシモは……41歳の若さで亡くなった……と……

未見の方には安心して勧められる作品である。

最後に映し出されるネルーダの詩を掲げておこう――

私を探して詩が訪れた
冬か 河か
どこから来たか いつ来たのか分からない
声でも言葉でも静寂でもなかったが
私が呼ばれた道から
夜の四方に伸びた枝から
不意に
人から 火の中から
また ひとりになる時
顔のない私に それは触れた

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(3)

前回分でもその傾向があったが、この回では僕はかなり激しく筆者宇野浩二の解釈に反論批判をした注釈を附している。宇野がお好きな方には、不快の感を与えるかも知れない。しかし、僕としてはどうしても言わずには措けない部類のものなのである。僕のテクスト注は僕の孤独な感性に従った、僕が頸を傾げる対象への飽くなきオリジナル・テクスト注であり、公教育的若しくはアカデミズム的に減菌滅菌魂魄摘出処理されたあってもなくても同じのテクスト注とは訳が違うのだ。それを御承知の上、お読み頂きたい。

   *   *   *

 芥川が、新規蒔き直しのつもりで、先ず保吉物をつぎつぎに書き、『大導寺信輔の半生』と書いて行って、自ら失敗と感じ、小説の道に行き暮れた思いをした後〔あと〕で、やっとたどりついたのが『海のほとり』[大正十四年八月]である。しかし、『海のほとり』は、十年ほど前に、久米と房州の一の宮の海岸に避暑をした時の思い出を、小説風に書いたもので、ただの小品文であるが、芥川としては珍しく飾り気〔げ〕のない素直な文章で書かれてあって、否味〔いやみ〕がなく、強弁すると、これが、後の、『年末の一日』、『点鬼簿』、『蜃気楼』、その他の、筋のない小説の本〔もと〕になり、芥川がこの種類の小説を書く動磯にもなった。

 ところで、この小品の終りの方で、芥川は、日の暮れに、四人の人にあるきながら話をさせて、海蛇がいるかいないか、という話から、ながらみ[やぶちゃん注:下線部、底本では「ながらみ」に「ヽ」の傍点。以下同じ。][註―螺〔にし〕の一種]取りの話をさせる。ながらみ取りは、沖の方へ泳いで行って、何度も海の底に潜るから、もし澪〔みお〕に流されたら、十中八九は助からない。――というような話から、ながらみ取りの幽霊が出たという噂があったが、……という話が出て、それは幽霊ではなかったが、「幽霊が出るつて言つたのは磯つ臭い山のかげの卵塔場でしたし、おまけにその又ながらみ取りの死骸は蝦だらけになつて上〔あが〕つたもんですから、気味悪がつてゐたことだけは確かなんです、」という話が出る。そうして、結局、それは、海軍の兵曹上〔あが〕りの男が、宵のうちから卵塔場に張りこんでいて、幽霊の正体は、そのながらみ取りと夫婦約束をした、町の達磨茶屋〔だるまぢやや〕の女、とわかり、「唯毎晩十二時前後にながらみ取りの墓の前へ来ちや、ぼんやり立つてゐただけなんです、」というのがオチである。

[やぶちゃん注:「ながらみ」腹足綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科キサゴ亜科サラサキサゴ属ダンベイキサゴUmbonium giganteum。沖縄を除く全国の沿岸砂底に棲息する蝸牛型の巻貝。殼幅は四十センチに達し、キサゴ類では最大種。相模湾では一般的に茹でて食用に供され、関東の市場では「ナガラミ」「ナガラメ」と呼称する。光沢のある綺麗な貝で貝殻は玩具(おはじき)や装飾品とした。和名の「だんべい」とは舟荷専用の大きな川船のことで大きいことを、「きさ」とは表面の木目模様のことを言うか。

「達磨茶屋」は私娼を置いた専ら売春行為が目的の茶屋のこと。語源は、寝ては起きて起きては寝ることのよる。]

 しかし、久米のいう、「変な鬼気」のようなものが晩年の芥川の作品に最初に出たのは、この『海のほとり』の中の、「ながらみ採りの死骸は蝦だらけになつて、……」というところで、この文句には、『鬼気』という程のものは感じられないけれど、何とも云えぬ、不気味〔ぶきみ〕さが漂〔ただよ〕うている、大形〔おおぎょう〕に云えば、何ともいえぬ妖気のようなものが漂うている。そうして、この時分から、この妖気のようなものが、芥川の身に附きまとい、芥川の作品に漂うようになった。しかし、又、この頃〔ころ〕から、芥川の文章が、気味わるいほど、澄んできた、冴えてきた。

 HやNさんに別〔わか〕れた後、僕等は格別急〔いそ〕ぎもせず、冷〔ひえ〕びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音の外に時々澄み渡〔わた〕った蟬の声も僕等の耳へ伝はつて來た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いてゐる蟬だつた。

 これは、『海のほとり』の終りの方の一節であるが、それほど勝〔すぐ〕れた文章ではないけれど、この時分までの芥川の作品の文章とくらべると、かなり違っている。簡潔で、技巧が目立たなくなっている。しかし、蟬の声の聞こえるところなどは、やはり、例の凝りに凝った『技巧』が感じられる。しかし、全体を見れば、素直に書かれているが、結局、『海のほとり』にはまだ幾らか物足りないところもあった。

 ところが、この小品より四月〔つき〕ぐらい後に出た『年末の一日』は『海のほとり』とくらべると、面目一新という観があった。それは、『海のほとり』が十年ほど前の思い出を題材にし、『年末の一日』がその時分の事を書いたためであろうか。それもある。が、そればかりではない。芥川の気もちが、しだいに切迫してきて、自分に即するものを、自分の身についたものを、書きたくなったのである、書くようになったのである。

 しかし、一方、芥川の健康は、しだいに、悪〔わる〕くなるばかりであった。

 その頃の芥川は、やがて滝つ瀬となる急流に、その滝つ瀬にしだいに近づいて行く急流に、船に棹〔さお〕さす人であった。

 こういう状態の中で、『年末の一日』、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『歯車』その他の作品が、つぎつぎに、生〔う〕まれて出たのである。

 さて、『年末の一日』は、八九枚の小品で、書かれてある事は、「年末、ある新聞社の人を案内して夏目先生のお墓まゐりをしたところ、どう道を間違へたか、行けども行けどもお墓のまへに出なかつた。墓掃除の女に訊いたりして、結局は分〔わか〕つたものゝ、その時はもうあぐねつくし、疲れ返つてゐた。そのあとその連れとわかれ、一人とぼとぼした感じに田端まで帰り、墓地裏の、八幡坂まで達したとき、たまたまそこに、その坂を上りなやんでゐる胞衣会社の車をみ出した。自分のその萎えた気もちを救ふため、無理から力を出し、ぐんぐんとその車のあとを押した」というだけの事である。(この荒筋は、久保田万太郎の『年末』という文章の中から、そっくりそのまま、借用したのである。何とうまいものではないか。)

 大体これだけの筋の物で、最後の、胞衣会社の車の後押しをするところだけが異常であるだけで、至って平凡な話である。常識的な云い方をすれば、他の作家がこういう話を書けば、問題にも何〔なに〕もならぬ作品である、もっとも、大ていの作家はこういう話は書かないであろう、という事にもなる。ところが、異常で鋭敏な神経の持ち主になっていた芥川は、こういう有り触れた事を書いて、妙に人の心を打つ小品にした、芥川の心と目が異様に鋭くなり、文章が生き生きしてきたからである、というより、芥川の異常な心が文章に通うようになったからである。(わたくし事を云うと、この小品の終りの方の、「……庚申堂を通り過ぎると、人通〔ひとどほ〕りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきつたまま、爪先〔つまさき〕ばかり見るやうに風立つた路を歩いて行つた、」などというところを読むと、私が、芥川を訪〔たず〕ねる時、その前を通った、庚申堂も、目に浮かび、更に、いくらか猫背であつた芥川が、痩せさらぼうた芥川が、癖で、いくらか俯向き加減に、その頃は場末であった、動坂の裏町を、師走〔しわす〕の夙に吹かれながら、蹌踉〔そうろう〕と、あるいている姿が、おのずから目に浮かんできて、これを書く私の目に涕が浮かんでくるのである。――それはそれとして、この一節などは実にうまい。)

 ところで、この『年末の一日』の中で、目のある批評家も、理解の深い人も、もとより、一般の人が、申し合わせたように、賞讃する、最後の、

 北風は長い坂の上から時々〔ときどき〕まつ直〔すぐ〕に吹き下〔お〕ろして来た。墓地の樹木〔じゆもく〕もその度〔たび〕にさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はかう言ふ薄暗〔うすくら〕がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた。

というところが、私には、やはり、芥川が、見得を切っているように、思われるのである。そうして、見得を切っているとすれば、仮りに、この小品(『年末の一日』)を芝居とすると、この「見得」は九十パアセントぐらいの舞台効果を上〔あ〕げている。

 ところで、ここまで書いて、ふと、この小品を芥川が大正十四年の十二月の初めに書いた事を考えて、私は、ペンをおいた。芥川が、その日常生活に於いて、(は、もとより、)その作品の中でも、しばしば」見えを張ったり、見得を切ったり、する事が、私の頭〔あたま〕にこびりついているので、この『年末の一日』の最後の一節も、さきに引いた『海のほとり』の中の一節も、芥川の見得(あるいは、技巧)ではないか、と、私は、考えたのであるが、この『年末の一日』の最後の一節の中の「まるで僕自身と闘ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた、」という所は、事実は噓であったとしても、これは、その頃の芥川の心境が、おのずから、象徴されたのではないか」――と、ペンをおいた私は、考えなおしたのである。そうして、もしこれが当っているとすれば、北風がときどき吹きおろしてくる長い坂を、痩せ衰えた芥川が、『東京胞衣〔えな〕会社』と書いた箱車の後〔あと〕を押しながら、上〔あ〕がって行くのである、――これは、云う迄もなく、さきに述べたように、芥川の心境の象徴であろう、が、何という痛痛〔いたいた〕しい象徴であろう。

[やぶちゃん注:この、『東京胞衣会社』の箱車が見得を切るための仮構であったか体験的事実であったかという拘りについて、以下の文で宇野は久保田の引用を以って仮構であったと採っている。こうした宇野の悪意ではないがものの、何とも不快な勘繰りや合点に対して、既に私の電子テクスト「年末の一日」の後注で述べものたが、ここでもそれについて注せずにはおれない。諏訪優氏の一九八六年踏青社刊「芥川龍之介の俳句を歩く」の中で、この箱車について興味深い考察をしている。即ち、一般に芥川はこの後押しする箱車に書かれた文字を何度も書いては消しして、考え抜いたに違いなく、そこに芥川らしい、文章に凝る面目があると褒める人が多い。しかし、これは実際に経験したことをありのままに書いたに違いないと私(諏訪氏)は信じるようになっている、として以下のように叙述されているのである(なお、諏訪氏は「芥川龍之介の俳句を歩く」執筆当時、田端に在住していた)。

 《引用開始》

と言うのは、同じ坂を登り下りし、このあたりの、今はないもろもろの路地を知ってたずねたりしているうちに、この八幡坂を登り芥川家の方へ右折して(坂から芥川家までは三、四分)その先を田端駅裏口へ出る崖の上に、東京胞衣会社の処理場(塚)があって、胞衣神社というちいさな社が実際にあったからである。

 胞衣は出産の際に出る廃棄物で(いわゆる水子も含まれていたと想像する)、当時はそんな処理の仕方をしていたようである。

 大正十四年の年末の心象風景を現実の田端のわびしさに重ねて成功したこの小品の決手のひとつ〝東京胞衣会社〟は、期せずして八幡坂上のそこにあったことをわたしは信じて疑わない。

 《引用終了》

とし、以下にその胞衣神社について、東京胞衣会社が経営していた事実などを考証、最後に御自身による踏査によって、『芥川龍之介が胞衣会社の箱車を押した坂は八幡坂ではなく東覚寺坂である。(「年末の一日」のその部分は「庚申堂」を通り過ぎ、「墓地裏の八幡坂の下」で箱車に出会う、から)道筋から言って東覚寺坂である』と記されている。『文学の鬼』宇野が自分の記憶と如何にもロマンティックにダブらせつつ、それでも見得を切るために「異常な」箱車を芥川は「いつものように」仮象として出現させたのだ、と言っている(宇野はこの箱車を押したことは「本当の話」とするが、それは特に以下で引用する佐々木の証言から東京胞衣会社ではなかったという例によって『鬼の首を取った』解釈をしているように思われる)と、この諏訪氏の堅実な冷徹な考証と――私は諏訪氏こそ真に鬼の眼を持った作家である、見鬼である、と言いたい。

更に、最後に一言言わせてもらえば、「年末の一日」は宇野の言う通り、『他の作家がこういう話を書けば、問題にも何もならぬ作品であ』り、作家として安泰に生きて行こうとする『大ていの作家はこういう話は書かない』なんてことは言わずもがなな物言いである。芥川龍之介が自死せずに戦後までずっと生きていたと仮象してみればよい。「年末の一日」は、凡そ芥川龍之介の名作として残るはずが――絶対に、ない――のである。芥川龍之介が自死を覚悟しつつ本作を書き、その自死を確かに貫徹したことによってのみ、本作は名作となったのである。本作は芥川龍之介の自栽へと向かう孤独な死の道程の道標として生きたのである。いや、本来、我々の綴る作物とは、その濃淡は激しいものの、実にそういうものを何処かに内包しているものなのではあるまいか(私はそれこそが正に「文章が生きている」ということなのだと信ずるものである)。少なくとも名作とされるものは、作者の生と裁ち難く有機的に結びついているものである。だから『文学の鬼』宇野にして、こうした凡百自称文士的発言をするのは、残念なことに、読んでいて虫唾さえ走るのである。彼が確かに芥川龍之介の直近にあって彼を深く愛していたればこそ、この場面での論理的な無理解や絶望の意識への感受性の共時性のなさには、私は何とも言えず、哀しい思いが、してくるのである。]

 ところが、芥川の『或阿呆の一生』について、「最後まで美しく扮装しつづけた、」と云い、「逐に本音を吐かず、自分をむき出しにすることなしに終つた、」と述べた、[以上は、吉田精一の『芥川龍之介の芸術と生涯』で知った。――が、私も、この久保田の説に半分以上同感である]、久保田万太郎が、『年末の一日』について、先きに私が引いた、最後の一節を引用して、そのあとに、つぎのように、書いている。

[やぶちゃん注:私は1/3位同感である。]

 そして、この作[つまり、『年末の一日』]は、かうした哀しい結尾[さきに引いた最後の一節]をもつてゐる。

 十枚にもみたないであらう小品だがわたしの好きな作である。好きといふ意味はいつまでも心に残つていとしい作である。大正十四年十二月の作だから、これを書いたあと、間もなく、かれは、「点鬼簿」「玄鶴山房」を経て「河童」、を書いたのである。そして、そのあと、かれは死んだのである。……ことによると、このとき、……すでにこの時それを意識してゐたかれだつたかも知れないのである。でなくつては、「……闘ふやうに一心に箱車を押しつゞける」かれのすがたはあまりに惨〔みじ〕めである。曇つた空の下、ふきすさぶ風の中、どうしたら自分をはッきりつかむことが出来るか、どうしたらかれ自身その存在をたしかにすることが出来るか?……泣かうにももう涙の涸れた瀬戸の、空しい眼をあげてたゞ遠いゆくてをみまもるかれの頰のいかに蝮の如く冷めたかつたことよ……

 しかも、かれは、かれ自身この苦しみを飽くまではッきりさせようとした。飽くまでたゞしく伝へようとした。わたしはこれをその当時「新潮」の編輯をしてゐた佐々木千之君に聞いた。その八幡坂を上りなやんでゐた車、かれの力のかぎりをつくしてそのあとを押した箱車の、その横に広いあと口に東京胞各会社の数文字を書くまで、幾度その一行を書きかへたか知れないのだつた。胞衣会社の箱車をえてはじめてかれはかれ自身納得〔なつとく〕したのである。……わたしはこれを聞いたとき、身うちの冷え切るのを感じた。

[やぶちゃん注:「佐々木千之」(明治三十五(一九〇二)年~平成元(一九八九)年)は作家・出版人。大正一三(一九二四)年『新潮』の記者となり、同郷作家葛西善蔵と親交を持つ。後に小学館に勤務、作家としては「和井内貞行」「間宮林蔵」などの伝記作品を手掛け、昭和十八(一九四三)年には畏友の晩年を綴った「葛西善蔵」を刊行した(青森県近代文学館の記載を参考にした)。]

 これを読んで、魯鈍な私は、いろいろな事を学んだ。まず、芥川が、八幡坂を箱車を押したのは本当の話で、その箱車を何〔なん〕の箱車にしようか、と思って、それを「東京胞衣会社」と極〔き〕めるまでに、それだけに、何度も何度も書き改めたことを知って、重い辛〔つら〕い病気にかかりながら、然程〔さほど〕までの苦労をしたのか、と、私は、感激しながら、詫びる心を兼ねて、芥川に、頭〔あたま〕を下〔さ〕げた。それから、『名匠は名匠を知る』というか、久保田が、芥川の苦心に、深い同情と理解のこもった文章を書いているのを読んで、久保田も、亦、芥川ような苦心をする人にちがいない、と、思って、私は、又、感激したのである。

 しかし、結局、私は、『年末の一日』を、久保田が誉〔ほ〕める程には、買えない。

2012/04/26

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(2)

 芥川は、前にちょっと書いたように、大正十五年(いや、昭和元年)の十二月の月末から昭和二年の一月一日まで、小〔ちい〕さな家出をした。

[やぶちゃん注:これについて、新全集の宮坂覺氏の年譜の昭和元(一九二六)年十二月三十一日の条には、鵠沼で甥偶々葛巻義敏と二人っきりになり、「体の具合が悪くなって」(芥川文「追想 芥川龍之介」に拠る)『鎌倉小町園に静養に出かける。女将の野々口豊子の世話になった。この時、行き詰まりを感じて家出を考えたとも伝えられている』が、所在は明らかにされており(葛巻には知らせていたか)、『田端の自宅から早く帰るよう電話で催促を受け』ている。しかし、『結局、翌年正月の二日まで滞在し』、二日は鵠沼に一度戻ってから、田端に帰っている。因みに、昭和の改元はこれに先立つ六日前の十二月二十五日であった。]

 それで、書翰集[ここで後ればせに断っておくが私の使っているの『芥川龍之介全集』は昭和三年の初版である]を開いて見ると、十二月二十日〔はつか〕過ぎのは、二十五日に、滝井に宛てたのが、(それも葉書が、)一通しかないから、それを次ぎに写そう。

 御手紙拝見。僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。[下略]

 ここで、猶、よく書翰集の十二月のところを調べて見ると、二日から、日をおいて、十三日までのが、鵠沼はかりであるのに、十六日と十九日のだけが田端であり、飛んで、二十五日のが、今うつした滝井に宛てた、鵠沼となっている。そうして、この滝井に宛てたのだけが、「鵠沼イの四号」となっていて、年号が「昭和」となっている。(この「イの四号」は、前に述べた、私が訪ねた家であり、小穴の『二つの絵』の挿し絵に、略図まで書かれて、出ている家である。それから、この家は、田端の家とともに、《いや、田端の家以上に、》芥川の短かい生涯の中〔なか〕で、大事〔だいじ〕な役〔やく〕をつとめた家でもある。それから、大正十五年から昭和二年にかけての一年半程の間は、これ亦、芥川の短かい一生の内〔うち〕で、重大な時期の一つである。)

[やぶちゃん注:宮坂年譜を見ると、十二月十三日に鵠沼(前年の四月から芥川の生活の拠点はここに移っていた)から田端に戻って、同二十二日夜、鵠沼に戻っている。宇野がこれから推理するのは、この原稿を書くために田端に戻るという口実が、『小さな家出』の秘密の決行準備として仕組まれたものだとするのであるが、私はこの時期の書簡と年譜を見ていると、この田端帰還には別の、隠された「準備」(それは『小さな家出』の中に、芥川が一つの選択肢として野々口との心中を考えていたかも知れない可能性と実は密接に繋がっている)が行われたのではなかったかという気がするのである。先に「二十」で見た通り、十二月十三日に芥川は精神科医斎藤茂吉に宛てて鴉片丸二週間分を田端の芥川宛で送ってくれるように依頼しており(十九日に薬到着の礼状を書いている)、また、田端では友人であると同時に主治医でもあった下島勲が十七日、十九日の夜に来訪、何れも夜九時過ぎまで話し込み、しかも二十二日は下島を連れだっての鵠沼帰還であった。実は鵠沼では前年六~七月より藤沢の医師富士山〔ふじたかし〕という医師が彼の主治医であったが、この富士医師は芥川が濫用に近く睡眠薬服用をしていることに批判的であった。それを考え合わせると、この田端帰還は、正に富士医師が処方してくれない睡眠薬やその他の薬物を斎藤や下島から手に入れるため――それは、もしかすると単品では致死に足りない薬物を総量的致死量分まで蒐集するため――であったとは言えないだろうか?]

 さて、前に書いた、芥川が、大正十五年の十二月の十六日と十九日に、田端から、出したのは、十六日のは、「中央公論」の編輯長の、高野敬録に宛てたものであり、十九日のは、佐佐木と斎藤茂書に宛てたものである。そうして、高野に出したのは手紙であり、斎藤と佐佐木宛てのは葉書である。

 この頃は『玄鶴山房』を書きしぶっていた時分であるから、芥川は、高野への手紙のなかにも、(これはずっと前に引いたが、)佐佐木と斎藤に出した葉書の中にも、「二時すぎまでやつてゐたれど、薄バカの如くなりて書けず、」とか、「中央公論はとうとう出来上〔あが〕らなかつた、」とか、「中央公論は前後だけ出来て中間〔ちゆうかん〕出来ず、」とか、殆んど同じような文句を書いている。それから、十二月九日に、やはり、鵠沼から下島 勲に宛てた手紙の中に、「家へは新年は勿論、新年号の一部[これは『玄鶴山房』の大部分ならん]を書く為にもかへるかも知れません。こちらのことは御心配なく。それよりもどうか老人たち[註―義母と伯母とか]のヒステリイをお鎮め下さい。今度は力作[註―『玄鶴山房』ならん]を一つ書くつもりです、」というのがある。

 これらの手紙や葉書を出した月〔つき〕と日〔ひ〕や、これらの手紙や葉書の中の文句などを綜合して、臆測すると、芥川は、『小さな家出』を決行する前に、田端の自分の家に出入りしている下島に、「新年は勿論、新年号の一部を書く為にも……」というような文句を書いた手紙を出して、新年には必ず家に帰るように仄〔ほの〕めかしたり、鵠沼の寓居で監視しながら同居している妻に自分の決心を悟られるのを予防するために、十二月の十六日頃から十九日頃まで、原稿を書くのを口実にして、田端の自分の家に帰ったり、して、その年〔とし〕の十二月の末から翌年の一月一日まで、『小さな家出』をしたのであろう。

 ところで、昭和二年の一月一日まで『小さな家出』をしていた、とすれば、芥川は、一月二日には、田端の家に帰っていた、という事になる。

 ここで、又、書翰集の昭和二年の一月のところを開いて見ると、みな、田端から、となっていて、八日の野間義雄宛ての葉書の中にも、九日の宇野浩二宛ての葉書の中にも、十日の藤沢清造[註―芥川より年上で、不遇作家で、ずっと本郷の根津あたりに住んでいたが、不遇でありながら人に頭をさげない人であった。菊池 寛、久保田万太郎、室生犀星、その他と親しかったように思う。『根津権現裏』という長編を一冊のこし、たしか昭和の中頃、芝公園の中で餓死したが、行路病者と見られた。武田麟太郎はこの長編の愛読者であった。この本の題字は高村光太郎である。]宛ての葉書の中にも、十二日の佐藤春夫と南部修太郎宛ての葉書の中にも、十五日の伊藤貴麿宛ての葉書の中にも、殆んど同じような文句が書いてある。次ぎに、みな、短かいから、写してみよう。

[やぶちゃん注:「藤澤清造」(明治二十二(一八八九)年~昭和七(一九三二)年)は、小説家。出版社などで生活を支えつつ、大正十一(一九二二)年に「根津権現裏」を発表するが、昭和七年一月二十九日早朝に芝公園内六角堂で凍死体となって発見された。本作の『文学界』連載が昭和二十六(一九五一)年九月から翌年十一月、文藝春秋新社からの単行本化が昭和二十八(一九五三)年五月、宇野がこの時点で昭和七年を「昭和の中頃」と呼称しているのが面白い。]

 冠省 拙作をおよみ下されありがたく存じます。なほ又支那語の発音を御注意下され愈〔いよいよ〕ありがたく存じます。[中略]二伸 なほ又親戚にとりこみ有之はがきにて御免蒙り候(野間宛)

[やぶちゃん注:「支那語の……」が何れの作品を指すかは未詳。「野間」は野間義雄なる人物であるが、この人物も未詳。]

 

 冠省、先夜はいろいろありがたう。その後又厄介な事が起り、毎日忙殺されてゐる。はがきで失礼 頓首(宇野宛て)

 

 冠省 御見舞ありがたう。唯今東奔西走中。何しろ家は焼けて主人はゐないと来てゐるから弱る。右御礼まで。(藤沢宛て)

 

 冠省君の所へ装幀[註―随筆集、『梅、馬、鶯』の装幀。わたくし事、私も佐藤に、『恋愛合戦』の装幀をしてもらったことがある]の礼に行かう行かうと思つてゐるが、親戚に不幸出来、どうにもならぬ。唯今東奔西走中だ。右あしからず。録近作一首

  ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ[宇野いう、芥川はよく、ナニナニ流といって、人の歌風をまねたが、これはまったく茂吉流なり](佐藤宛て)              

 

 はがきにて失礼。御見舞ありがたう。又荷が一つ殖えた訣だ。神経衰弱癒〔なほ〕るの時なし。毎日いろいろな俗事に忙殺されてゐる。頓首(南部宛て)

 

 冠省御手紙ありがたく存じます。大騒ぎがはじまつたので、唯今東奔西走中です。神経衰弱なほるの時なし。とりあへず御礼まで。頓首(伊藤宛て)

 

[やぶちゃん注:底本では、それぞれの末にある書簡クレジットの( )注記(表記通り、同ポイントで割注形式ではない)が、書簡文から改行されて、下インデントになっている。ここでは標記のように示し、各書簡の間に行空けを施して読み易くした。因みに老婆心ながら添えておくと、順にそれぞれ「野間義雄」「宇野浩二」「藤沢清造」「佐藤春夫」「南部修太郎」「伊東貴麿」宛てである。]

 先きに「殆んど同じような文句」と書いたのは、これらの葉書の中にあるように、親戚に、「とりこみ」「厄介な事」「不幸」が起こった事と、そのために「東奔西走中」という事と、神経衰弱がなおらない事と、――この三つである。

 この中の、親戚の『とりこみ』とは、芥川の姉の久子[葛巻義敏の母]の夫[義敏の父の死後再婚した人]の西川豊が、自宅が火災に遭ったのを、保険金を取るために放火をした、という嫌疑をかけられ、それを苦にして、鉄道自殺をした、という事件である。西川は弁護士であるが、西川が、嫌疑をかけられたという事で、どういう事情のために、自殺したか、その事情を、私は、まったく知らない、しかし、その西川の死骸を義弟になる芥川が引き取りに行った、といううな事を、誰からとなく、聞いたような気がする。『歯車』は、一つの小説であるから、事実の噓が、あり過ぎる程、書かれてあるかも知れないが、(あるにちがいないが、)『歯車』の中の『レニン・コオト』の終りの方に、「僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れてゐない或田舎に轢死してゐた。しかも季節に縁のないレニン・コオトをひつかけてゐた、」という所がある。

[やぶちゃん注:義兄の弁護士西川豊(明治十八(一八八五)年~昭和二(一九二七)年)の事件を時系列で追っておく。なお、西川豊と新原久子の婚姻は大正五(一九一六)年で、久子は再婚で、先夫で義敏の実父である獣医葛巻義定[龍之介の実父新原敏三の経営する牧場に勤務していたことがある]とは明治四十三(一九一〇)年に離婚している(但し、西川没後の後年に久子と義定とは再び再婚している)。これらは正に直近の昭和二年一月上旬の出来事である(以下は主に鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)のコラム「義弟西川の自殺」(一九二頁)及び当該箇所に写真で載る昭和二年一月八日附『東京朝日新聞』の記事などを元にした。記事は原文通りとした)。

〇一月四日

南佐久間町(現・港区西新橋)の西川豊の自宅が出火する。同日の調査により、時価約七千円の同家屋に対し、火事の前に帝国火災保険株式会社へ三万円(『東京朝日新聞』の記事には『一萬圓』)の保険をかけていたこと、火災現場の検証によって二階押入の二箇所からアルコール瓶が発見されたことの二点が明らかとなり、同日、放火の嫌疑を受けて取り調べを受ける。西川は否認(任意同行であると思われるが、西川が解放されたのは同日か翌日かは不明。火災から現場検証、嫌疑の発生と任意同行と取り調べという一連の出来事が同日内で終わるというのは考えにくいから、翌日の一時解放か)。

〇一月六日

西川豊が、午後六時五〇分頃、房総線土気〔とけ〕駅と大網駅間の千葉県山武〔さんぶ〕郡土気トンネル近くに於いて両国駅発下り列車に飛び込んで自殺。新聞記事によれば、彼は『放火の嫌疑をかけられたのを苦にし』て『六日の未明五時、遂に死を覺悟し、妻女久子の弟に當る文士芥川龍之介にあてた』『「重々御心配をかけて申し譯がないがこの度の出火につき一家の主人たるもの責任を問はれ、官權の壓迫に耐へかねて身の潔白をたてるため死を擇む覺悟をした、妻子の事はくれぐれも賴む」といふ意味の遺書を殘して家出し鐵路の露と消えたもので自殺の現場には遺書三通があつた』(繰り返し記号「〱」は正字に。草体「消江た」は「消えた」に変えた)。

〇一月八日(『東京朝日新聞』記事より)

大見出しは「放火の嫌疑から/弁護士の自殺/身の潔白を立てるため/文士芥川氏の義兄」とあり、西川の履歴、家族構成、前記の引用などの事件の経緯を記す。その後に「涙の夫人」と小見出しして、

右につき妻久子さんは涙ぐんで『四日の出火について最初漏電といふ事になつてゐたのににはかに警察側で放火の疑ひを起され元來小心の夫はそれを苦にして到頭死を決心した譯です、二人の子供がありますがいづれもまだ幼いものですから私等の前途は實にさびしいものですたゞ賴りとする弟があの通り病身で現在でも神經衰弱で病臥してゐる始末ですから、この度の事件を知らせるさへも心苦しい次第です』と語つた

とあり、最後に「驚く芥川氏/自殺とは意外」と小見出しして、

芥川龍之介氏は病氣で臥床中であつたが義兄の死について語る『まだ遺書は見てゐないからよく判らぬが義兄は私とは性格も趣味も非常に異つてゐるので年に一、二度位より逢つてゐません。西川君は実際家なので自殺をするのが寧ろ意外な位です、昨夜急な用事があるからたれか來てくれといつて來ましたから母を送り屆けたのでした母も向ふへ着いてはじめて知つたのでせう全く意外です

とある。「昨夜」は一月六日であろうから、この芥川龍之介の談話は一月七日田端自宅での採録と思われ、記事中の『母』とは同居している養母儔〔トモ〕であろう。尚且つ、芥川龍之介は西川の現場にあったという遺書は勿論、家出の際の書置きも、この記者のインタビューの時点では読んでいないものと考えてよいであろう。この新聞画像記事自体、不学にして今回初めてちゃんと読んだのであるが、恐らく西川の現場に残した遺書の中の一通も芥川龍之介宛と思われ、何より出奔時の書置きが芥川龍之介宛であったことは初めて知った。芥川龍之介の受けた心傷を考えると想像を絶するものがあったろうと、考えを新たにしたし、更に言えば、芥川の姉久子が記者への談話中に、芥川龍之介の神経衰弱から病態にまで言及しているのには正直吃驚しもした(夫の自殺のインタビューに著名人である芥川龍之介のことを慮って語る姉久子の思いを考えると私は、彼女に如何にも傷ましいものを感じるのである)。なお、少なくともこの談話の時点での龍之介は義兄の否認を信じている印象であり、後も龍之介は、西川の放火疑惑は冤罪であったと考えていたのではないか、という可能性を私は抱いている。それは後に書かれる「河童」に、次のような箇所が出現するからである(引用は私の「河童」テクスト)。

 

 「この國では絞罪などは用ひません。稀には電氣を用ひることもあります。しかし大抵は電氣も用ひません。唯その犯罪の名を言つて聞かせるだけです。」

 「それだけで河童は死ぬのですか?」

 「死にますとも。我々河童の神經作用はあなたがたのよりも微妙ですからね。」

 「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使ふのがあります。――」

 社長のゲエルは色硝子の光に顏中紫に染りながら、人懷つこい笑顏をして見せました。

 「わたしはこの間も或社會主義者に『貴樣は盜人だ』と言はれた爲に心臟痲痺を起しかかつたものです。」

 「それは案外多いやうですね。わたしの知つてゐた或辯護士などはやはりその爲に死んでしまつたのですからね。」

 

なお、この見解は私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』でも既に示してある。但し、岩波新全集の人名解説索引によると、西川はそれ以前に『偽証教唆の罪で失権、市ヶ谷刑務所に収監された』ことがある旨の記載があり、彼は当時、この偽証罪の執行猶予中の身であった(芥川龍之介「齒車」の「二 復讐」や芥川龍之介「冬と手紙と」を参照)という弁護士西川豊という人物評価のマイナス要因ともなる事実は、事実としてここに提示しておかねばなるまい。芥川龍之介はこれ以後、三月頃まで、亡き義兄家族の生活問題[久子には先夫との間の葛巻義敏と妹左登子(それぞれ当時、満で十八歳と十七歳)、豊との間に瑠璃子・晃(それぞれ十一歳と九歳)の四人の子がいた]、豊の死後に発覚した残された高利の借金の後始末、疑われた火災保険及び自殺した豊の生命保険の問題等で文字通り、『東奔西走』せざるを得なかったのであった。]

 この義兄の変死と、たしか、その前の年の、義弟[これは芥川の妻の弟]の死と、――この二つの死が、芥川の自殺の幾つかの原因の中の一つである。

[やぶちゃん注:「その前の年の、義弟[これは芥川の妻の弟]の死」は宇野の大きな錯誤。芥川が才能を高く評価していた文の弟塚本八洲の没年は、芥川龍之介自死の遙か後の、昭和十九(一九四四)年である。]

 ところで、『歯車』の中の、やはり、『レエン・コオト』の中に、

……往来の両側に立つてゐるのは大抵大〔たいていおほ〕きいビルデイングだつた。僕はそこを歩いてゐるうちにふと松林を思ひ出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を殖〔ふ〕やし、半ば僕の視野を塞〔ふさ〕いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代り今度は頭痛を感じはじめる、れはいつも同じことだつた。眼科の医者はこの錯覚(?)の為〔ため〕に度々〔たびたび〕僕に節煙を命じた。しかしかう云ふ歯車は僕の煙草に親〔したし〕まない二十〔はたち〕前にも見えないことはなかつた。僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためす為〔ため〕に片手に右の目を塞〔ふさ〕いで見た。左の目は果〔はた〕して何ともなかつた。しかし右の目の瞼〔まぶた〕の真には歯車が幾つもまはつてゐた。僕は右側のビルデイングの次第に消えてしまふのを見ながら、せつせと往来を歩いて行つた。

というところがあるが、右の一節の中に「眼科の医者はこの錯覚(?)の為〔ため〕に……」という、この「錯覚(?)」は、『錯覚』ではなく、『幻覚』である、というのは、『錯覚』とは、英語でいうと、illusion であるから、主観的なものと客観的なものと二種あって、例えば、白衣を幽霊と誤認するようなのが主観的なものであり、正方形の物を長方形の物のように感じるのが客観的のものであるから、共に、その刺戟は外界にある、つまり、何の刺戟もなくて起こる『幻覚』とは全〔まった〕く性質がちがい、そうして、『幻覚』とは、英語でいうと、hallucinationであるから、やはり、知覚ではあるが、感覚器官が、外部から何の刺戟をうけることがないのに、誤って、外界に実物があるように知覚するからである。

 つまり、『歯車』の中の一節である、右に引用した文章の中で、作者の芥川は、「錯覚(?)」と書いているが、これは、『錯覚』ではなく、はっきり、『幻覚』である。『幻覚』とは、幻視、幻聴、幻触、幻味、幻齅、その他の事である。そうして、『幻覚』は精神病者の感じるものである。されば、『歯車』の主人公の「僕」は、神経衰弱にかかっている人であるが、それ以上に、精神病者である、という事になる。

 

 もし、その時分の芥川が、神経衰弱がしだいにひどくなって、精神病者になっていた、とすれば、いや、はっきり精神病者になりつつあった芥川が、死ぬ前の年あたりから、死ぬ年(つまり、昭和二年)の上半季〔かみはんき〕までの間〔あいだ〕に、『海のほとり』、『年末の一日』、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『蜃気楼』、『河童』、『歯車』、『或阿呆の一生』、その他のような作品を書いたのは、天晴〔あっぱれ〕であり、見事であり、壮烈と称したい程である、それは、それらの作品の中には作者が必死の努力をして書いた事がまざまざと分かる物があるからだ。(そうして、その一つの例が『歯車』である。)

[やぶちゃん注:ここで宇野浩二に悪いが、はっきりさせておきたいことがある。私は芥川龍之介を宇野が言うような重篤な精神病者であるとは全く(殆ど全く)思っていない。近年の研究では芥川龍之介を統合失調症と断定する病跡学者がいるが、私はせいぜいノイローゼか強迫神経症のレベルであったと思う。統合失調症の状態で、まさに宇野が讃嘆する通り、あの『天晴であり、見事であり、壮烈と称したい程』の緻密に計算された全く破綻のない名作群を持続的に書き続けることは不可能に近いと思われるからである。まず、ここで宇野が鬼の首を取ったように『幻覚』『幻視』とし、芥川を真正の重い『精神病者』と断定している「歯車」に描かれた視覚異常であるが、これは既に眼科の専門医によって(私は十代の頃、この方の論文を直に読んでいる)、実は単純で問題のない閃輝暗点であることが明らかにされている。この症状は主にストレスによって脳の視覚野の血管が一時的に収縮を起こすことで発生するものとされており、稀な症状でさえないものなのである。さて、しかし――私が寧ろ、ここで言っておきたいことは、宇野浩二が――ワトソンのように即物的証拠から『精神病者』というとんでもない誤った推理をしているという事実への批判――ではない宇野自身が――芥川龍之介を、何が何でも、重篤で致命的な回復可能性のなかった末期的精神病患者に仕立て上げないでは済まない、という、それこそ極めて異常な思い込みや執念の中にいる――ということが問題なのである。そうしてその「異常さ」に宇野自身、全く気付いていないということである。私は宇野が梅毒に因る進行麻痺(麻痺性痴呆)の罹患によって(マラリア療法の副作用による脳変性の可能性を含め)、その予後に、ある種の偏執質(パラノイア)的性格に変容(若しくは「を附加」)するに至ったのではないかと深く疑っているということである。ここまで私と宇野浩二「芥川龍之介」に付き合って来た読者は、既に気づいておられると思うが、宇野の文体はその読点の打ち方の異常な結節性を示しており、自覚的ながらも必要以上に同一内容を偏執的に繰り返し書き、物品や人に限らないあらゆる対象を執念深く分類等級貴賤化する嗜好を示している。私は宇野の限りない芥川への友情を感じながらも、時に、その宇野の眼の底にこそ、慄っとするモノマニアの冷たい輝きを見る気がするのである。他者を「精神異常だ!」と連呼する者は、まず連呼する本人の精神の異常性を疑ってかかる必要がある、ということだけは言っておきたいのである。以下、そうした(私からは)異常と感じられる芥川龍之介精神病者断定叙述が増えるが、ここで述べて終わりとする。]

2012/04/25

ツウタンニタヘズアクタ

芥川龍之介発信の電報見つかる 郡山 福島県内ニュース KFB福島放送

2012年04月20日 09時50分配信

師の夏目漱石の危篤の報に接し、門下生だった芥川龍之介が友人の久米正雄に送った電報が郡山市で新たに見つかった。

少年時代を郡山で過ごした久米の顕彰を続ける郡山市のこおりやま文学の森資料館が、久米の子孫から譲り受けてきた膨大な資料の中にあった。

芥川の当時の心情が分かる貴重な資料として注目を集めそうだ。

電報は大正5年12月9日付。

鎌倉からの発信で、本郷(現東京都文京区)に住んでいた久米宛て。

「ツウタンニタヘズアクタ」とあり「痛嘆に耐へず芥」と読める。

芥川研究を長年続ける庄司達也東京成徳大教授によると、久米が同日朝に鎌倉にいた芥川宛てに「センセイキトク」と電報を打っていることや消印などから、芥川の電報に間違いないという。

電報は28日から開く同資料館の企画展「夏目漱石と久米正雄」で公開する予定。

2012/04/24

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(1)

     二十一

 

『大導寺信輔の半生』で失敗した芥川は、文学の上で、敗北した形〔かたち〕になった。

 芥川が『大導寺信輔の半生』を書いたのは、さきに述べたように、大正十三年の十二月の中頃であった。

 その十二月の十九日に、芥川は、又、中根に宛てて、つぎのような葉書を、出している。

……「羅生門」「傀儡師」なる可く沢山刷〔す〕ることとし、その印税の余分及「煙草と悪魔」印税至急おとどけ下され度候新年号に原稿かゝぬ為貧乏にて弱り居候両方合せ二百円位にならば幸この上なしと存居候何とぞ一両日に御工〔く〕めん下され度候

(余計な事であるが、読む度〔たび〕に、芥川の金談の手紙のうまさには、おどろかされる。)

 ところで、この葉書の文句にあるように、この年の十二月には、芥川は、『大導寺信輔の半生』だけしか、書いていない。ところが、翌年(つまり、大正十四年)の一月には、『早春』と『馬の脚』とを書いている。

 ここで、私が不思議に思うのは、芥川のような作家が、前にも、ずいぶん乱作をした事があったが、この時も、ひどく健康をわるくしながら、まだ乱作(大いそぎで書くという意味も含めて)をしている事である、というのは、『早春』[大正十四年一月作]は、「保吉物」の一つであるが、単なる思いつきの短篇であり、『馬の脚』[大正十四年一月作]も出来そくないの小説であるからだ。

『馬の脚』は、何から思いついたのか、頓死した人間が、生きかえったが、両足とも腿〔もも〕から腐っているので、その代りに馬の脚をつけられる。そこで、その馬の脚の人間が、足だけが馬であるために、いろいろな苦労をし、さまざまの事件をおこすことを、巨細〔こさい〕に書いてある。

 この小説について、吉田精一は、「ゴオゴリの『鼻』の模作にすぎない、」と説いている。それも当っているけれど、芥川は、殊にゴオゴリの愛読者であったが、あの、鱷〔わに〕に呑まれながら、その腹の中で、生きながらえて、いろいろな意見を吐く男と、その一件のためにさまざまな事件が持ち上がる、ドストイェフスキイの『鱷』も読んでいたであろうし、あの、影をなくしたために、いろいろの辛い思いをし、さまざまの思いがけない事に遭遇する人物の事を書いた、シャミッツソオの『影をなくした男』なども、読んでいたにちがいない。

 そこで、臆測をすれば、芥川は、書くのに気が楽な、荒唐無稽な物を書いてみよう、と思い立ち、それに向く舞台を自分が嘗〔かつ〕て遊んだ『支那』に取ったのであろう、支那なら、どんな荒唐無稽な事でも書ける。(『荒唐』とは「漠然としてとりとめのない言説」という程の意味であり、『無稽』とは「よりどころのない言説」という程の意味である。)さて、それから先きは、ゴオゴリか、ドストイェフスキイか、シャミッソオか、その何〔いず〕れもか。ただ、『馬の脚』の初めの方の、「生憎大した男ではない。北京〔ペキン〕の三菱に勤めてゐる三十前後の会社員である、」とか、「同僚や上役の評判は格別善いと言ふほどではない。しかし又悪いと言ふほどでもない、」とか、いう、中流の会社員忍野半三郎〔おしのはんざぶろう〕は、芥川の愛読した、ゴオゴリの『外套』の主人公、アカアキイ・アカアキヰッチである。(そうして、このアカアキイ・アカアキヰッチは、ずっと前に述べたが、『芋粥』の五位である。)それから、『外套』の書き出しと『馬の脚』の書き出しは殆んどそっくりである。それから、やはり、ゴオゴリの「三月二十五日のこと、ペテルブルグではなはだ奇妙な事件が持ち上つた、」という『鼻』の書き出しは、『馬の脚』というような「奇妙な事件」を考え出す本〔もと〕になったかもしれない。

 (こんな事を述べているうちに、私は、これもずっと前に書いた、芥川が私にくれたゴオゴリの半身像は、長い間、芥川の机辺にあったのではないか、というような事を思い出した。わたくし事を云えば、今、そのゴオゴリの半身像は、この文章を書いている机辺にある。)

 大正十三年の十二月に書いた『大導寺信輔の半生』も、大正十四年の一月に書いた、『早春』も、『馬の脚』も、雑誌社(と新聞社)が強要したのか、それとも、芥川が、必要があって、強行したのか、三つとも、無理に無理をして、書いたものであった。そのために、『大導寺信輔の半生』は未完成のものとなり、『早春』も、『馬の脚』も、前に述べたような、作者自身も不満を感じるような、いやな、作品になってしまった。その上、その無理がたたって、持病が一そう悪〔わる〕くなった。――

 大正十四年の二月二十一日に、芥川が、清水昌彦[註―中学の同窓]に宛てた手紙の中に、「僕は、胃を患ひ、腸を患ひ、神経衰弱を患ひ、悪い所だらけで暮らしてゐる、」という文句がある。

 この芥川の手紙は、その清水から来た手紙への、返事である。だから、その芥川の手紙は、「君の手紙を見て驚いた、」という文句から始まっている。その芥川が「驚いた」というのは次ぎのような手紙である。

 これは僕の君に上げる最後の手紙になるだらうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併発してゐる。妻は僕と同じ病気にかかり僕より先に死んでしまつた。あとには今年五〔ことしいつ〕つになる女の子が一人残つてゐる。……まづは生前の御挨拶まで。

[やぶちゃん注:読者諸君は、ここで疑問に思われることであろう。この芥川龍之介宛清水昌彦書簡をどうして宇野浩二は引用できるのか、と。実は、宇野は注記していないが、この引用は実際の清水昌彦書簡からの引用ではないのである。これは実は大正十五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載された「追憶」(後に『侏儒の言葉』にも所収)からの引用なのである。以下、当該章「水泳」を総て引用する(引用元は私の「追憶」テクスト)

 

       水  泳

 

 僕の水泳を習つたのは日本水泳協會だつた。水泳協會に通つたのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通つた筈である。當時は水泳協會も蘆の茂つた中洲から安田の屋敷前へ移つてゐた。僕はそこへ二三人の同級の友達と通つて行つた。淸水昌彦もその一人だつた。

 「僕は誰にもわかるまいと思つて水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびつくりしてしまつた。ウンコは水よりも輕いもんなんだね。」

 かう云ふことを話した淸水も海軍將校になつた後、一昨年(大正十三年)の春に故人になつた。僕はその二、三週間前に轉地先の三島からよこした淸水の手紙を覺えてゐる。

 「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併發してゐる。妻は僕と同じ病氣に罹り僕よりも先に死んでしまつた。あとには今年五つになる女の子が一人殘つてゐる。………まづは生前の御挨拶まで」

 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思ひ、なんとか云ふ發句を書いたりした。今はもう發句は覺えてゐない。併し「喉頭結核でも絶望するには當たらぬ」などと云ふ氣休めを並べたことだけは未だにはつきりと覺えてゐる。

 

「清水昌彦」は、江東小学校時代に回覧雑誌を作ったりした幼馴染で、明治三十九(一九〇六)年に東京都立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の生徒だった芥川龍之介が書いた、近未来の日仏戦争を描く、夢オチ空想科学小説「廿年後之戦争」の中で、好戦の末、轟沈する『帝国一等装甲巡洋艦「石狩」』の最期を報じる「石狩分隊長少佐淸水昌彦氏」として登場している。彼は正に憧れの海軍士官となったが、その後は音信が途絶えていた。なお、宇野がこの後で一部引用し、芥川龍之介がこの「水泳」末尾で述べている書簡は、旧全集書簡番号一二八四の清水昌彦宛書簡(田端発信・大正十四(一九二五)年二月二十一日附)で、先に以下に全文を示しておきたい(岩波版旧全集に拠る。「〱」は正字に直した)。

 

冠省君の手紙を見て驚いたそんな病気になつてゐようとは夢にも知らなかつたのだから。第一君が呼吸器病にならうなどとは誰も想像出来なかつた筈だ。君の手紙は野口眞造へ郵便で造る。僕は胃を患ひ、腸を患ひ、神経衰弱を患ひ、惡い所だらけで暮らしてゐる。生きて面白い世の中とも思はないが、死んで面白い世の中とも思はない。僕も生きられるだけ生きる。君も一日も長く生きろ。實は僕の妻(山本喜譽司の姪だ)の弟も惡くて今度三度目の喀血をしたのでいま見舞に行くやら何やらごたごたしてゐる所だ。其處へ君の手紙が來たので餘計心にこたへた。何か東京に用はないか。もつと早く知らせてくれれば何かと便利だつたかも知れないと思つてゐる。この手紙は夜書いてゐる。明日近著「黄雀風」を送る。禮状、返事等一切心配しないでくれ給へ。

   冴え返る夜半〔ヨハ〕の海べを思ひけり

    二月二十一日夜   龍之介

   昌彦樣

 

素の龍之介の優しさが伝わってくる。清水はしかし、同年四月十日前後に逝去の報が入った。同年四月十三日の府立三中時代の共通の友人西川英二郎宛の書簡(旧全集書簡番号一三〇〇)には「淸水昌彦が死んだ。咽喉結核と腸結核になつて死んだのだ。死ぬ前に細君に傳染してこの方が先へ死んでしまつた。孤兒四歳。」とある。年次や子の年などの些細な部分は問題ではなく、芥川の「追憶」の叙述に粉飾は皆無である。]

 これは、芥川ならずとも、驚くべき手紙である。これを読んだ芥川は、さきに引いた、二月二十一日に清水に宛てた手紙の中に、清水をはげますために、(ついでに、自分自身をもはげますつもりか、)次ぎのような事を、書いている。

 ……生きて面白い世の中とも思はないが、死んで面白い世の中とは思はない。僕も生きられ るだけ生きる。君も二日も長く生きろ。実は僕の妻の弟[註―塚本八洲という名、芥川がたよりにしていた義弟、鵠沼でも傍にいた]も悪くて今度三度目の喀血をしたので、いま見舞に行くやら何やらごたごたしてゐる所だ。其処へ君の手紙が来たので余計心にこたへた。

 これはこたえる筈である。芥川としては、(もっとも、これは私が思うのであるが、)義弟が「三度目の喀血」をし、旧友の妻が肺結核で死に、旧友が結核の病気で死にかかっている、という事になるからである、しかも、その時、自分も三つの病気をしているからである。

 芥川が、その後、前に述べたように、『春の夜』にも、『玄鶴山房』にも、『悠々荘』にも、肺結核の病人を出したのは、こういう事も一つの原因のようなものであろうか。

 ところで、この年〔とし〕(つまり、大正十四年)の四月の中頃から五月の初め頃まで、芥川が、修善寺に滞在したのは、病気の養生のためでもあろうが、憂さ晴らしのためでもあったのではないか。芥川が、修善寺から、方方へ出している手紙には、めずらしく、伸び伸びした文句なども書かれたのがあり、得意の洒落〔しゃれ〕のはいった文章で書かれたのもある。ずっと前に書いた上司小剣を、突然、訪問して、西洋の社会主義者たちの話を持ち出して、烟〔けむ〕に捲いたのも、その時分であろう。

[やぶちゃん注:この時の修善寺滞在は、四月十日から五月三日。上司小剣関連では、宮坂覺氏の新全集年譜のこの湯治期間中の四月十七日の条に、芥川龍之介が編集する『近代日本文芸読本』(全五巻興文社から同年十一月刊行)への作品収録許可を水上滝太郎や上司小剣らに依頼するという記事があり、これは宇野が勘ぐるように龍之介が多分に悪戯っ気から上司に面会を求めたのわけではない、仕事であった(尚且つ、その掲載許諾依頼という性質上、それはある意味、相手をよいしょして和やかなものとしなくてはならなかったに違いない)ことが明らかである。]

 しかし、又、芥川が、小説らしい小説を書かなくなったのも、その時分からである。いや、小説らしい小説どころか、殆んど作品を書かなくなり始めたのも、その頃からである。

 それを稍〔やや〕くわしく云えば、大正十四年には、前に述べた、『早春』と『馬の脚』を除〔のぞ〕くと、『温泉だより』、『桃太郎』、『海のほとり』、『尼提』、『湖南の扇』、などを書いているが、その中で、増〔ま〕しなのは『海のほとり』だけである。しかし、これも、小説というより、小品である。

 しかし、この時分から、芥川は、昔のような筋と文章に凝ったような小説は、肉体的に書けなくなったばかりでなく、興味がなくなった。が、これは、前に述べたように、そういう物を書く素材の種〔たね〕が尽きたからでもあり、やはり、結局、根気がなくなったからである。それから、もう一〔ひと〕つの理由は、(かなり重大な理由は、)いろいろ複雑な家庭の紛糾が次ぎ次ぎに起こり、その上に、親戚に不幸や不慮の災難があった事で、それらがみな芥川の重荷になった事である。

 そうして、芥川が、その頃から、身辺の見聞のような物を、書き出したのは、病苦を押して書くのに、一ばん楽〔らく〕であったからである。それから、芥川は、それらの物を書くのに、一ばん楽な書き方をした。それで、それらの作品には、みな、『僕』という一人称を使っている。そうして、それらの作品が、しぜんに『筋のない小説』という事になったのである。それから、くりかえし云うが、それらの『筋のない小説』は殆んどみな小品である。

 それから、そういう小品さえなかなか書けなかったのは、健康が極度におとろえていたからである。しかも、それらの作品は、長くて、十八九枚であり、短かいのは、七八枚ぐらいであった。(しかし、その頃の芥川をよく知っている私は、それでも、あれだけ、よく書けたものだ、と、しばしば、感心する事がある。)

 そうして、それらの作品の中で、『海のほとり』[大正十四年八月七日]、『年末の一日』[大正十四年十二月八日]、『点鬼簿』[大正十五年九月九日]、『悠々荘』[大正十五年十月二十六日]、『蜃気楼』[昭和二年二月四日]、の五篇がすぐれている。

宇野浩二 芥川龍之介 二十~(4)

 芥川の同時代の大正初年に文壇に出た作家の大部分は、(むろん例外は幾つもあるが、)自分自身を題材にした作品から書きはじめた。それから、明治の末年から出発した自然主義の作家たちの大部分も、やはり、自分自身を題材にした小説から書きはじめた。

  ところが、芥川は、そのような作品を否定した小説に依って名を成し、それでつづけて来たのが、みじかい生涯の終りに近くなってから、自分自身を題材にした小説を書きはじめる事になったのだ。

 大正初年(といっても、正確に云えば、明治の末年から大正七八年まで)に文壇に出た作家(その中には芥川より先きに出た人もあり後〔あと〕から出た人もある)の中で自分自身を題材にした小説を書いた人たちは、大抵、自分が作家にならない前の事を、あるいは、自分の少年時代か青年時代かの事を、題材にした小説を書いて、文壇に登場した。そうして、それらの小説は、構想その他のために、多少は事実でない事もまじっているであろうが、大方は作者自身が経験した事を明け透けに書いたものとされていた。そうして、そういう小説によって文壇に出た勝〔すぐ〕れた作家が何人かいた。(そうして、その中に、芥川の尊敬していた、『大津順吉』の志賀直哉、『おめでたき人』の武者小路実篤、『善心悪心』の里見 弴などがいた。)

 ところが、その出発の初めから、その時分(つまり、大正五年頃から十二年頃)まで、殆んど歴史小説(か、それに近いもの)ばかり書いていた芥川には、大形〔おおぎょう〕に云えば、そのような小説(つまり、謂わゆる私小説)の書き方〔かた〕の勝手さえ殆んどわからなかった。それから、芥川は、もともと、並並〔なみなみ〕ならぬ見え坊であり、非常な気取り屋であったから、自分の事(あるいは経験)を、ありのままに、明〔あ〕け透〔す〕けに、書くなどという事は、大嫌いであった上〔うえ〕に、まったく出来ない事であった。

 しかし、今〔いま〕は、何〔なに〕か書かない訳〔わけ〕にはいかなかった。書くなら、増〔ま〕しなものを、と思った。そうして、芥川が、思案にあまった末に、書いたのが『保吉の手帳から』である。(その前に、芥川は、『おぎん』[大正十一年九月]と『おしの』[大正十二年四月]という二つの切支丹物を書いているが、両方とも、二番煎じの感じがあるだけのものである。)

 ところが、『保吉の手帳から』[大正十二年の五月号の「改造」]は、海軍機関学校につとめていた時分の思い出のようなものであるが、そこにおさめられている五つの話は、小説というより、小品であり、その小品の主人公の保吉は、作者の芥川ではなく、芥川のような人である。そうして、その小品には、保吉のほかに、いろいろな人間が出てくるが、それらの人間には殆んど血が通っているという気がしない。つまり、芥川は、題材が変っても、やはり、いやに文章に骨を折り、小道具のような物をくわしく書き、作り事のような話を一〔ひ〕と捻りも二〔ふ〕た捻りもしている。作者は面白がらせるつもりで書いているのであろうが、読む者には少しも面白くない。思い切って云うと、イヤ味で、キザで、衒学的で、結局、弊に堪えない、という感じがする、一〔ひ〕と口〔くち〕に云えば、相変らず気取っているな、と、私などには、思われるのである。

[やぶちゃん注:「弊に堪えない」とは、その持っている弊害を我慢することが出来ないほど深刻で問題である、という謂いであろう。]

『三つ子〔みつご〕の魂〔たましい〕、百まで』というか、『持った病〔やまい〕』というか、芥川は、先天的か、後天的か、大〔だい〕の見え坊であり気取り屋であったが、『気取り』は、芥川の文学で云うと、出世作となった『鼻』にもあり、『侏儒の言葉』や『西方の人』は、もとより、遺作として発表された、『或阿呆の一生』や、『闇中問答』にまで、ある。

 その気取りは、『鼻』、その他の小説では、役に立ち、成功した、そうして『或阿呆の一生』にも、あるいは、『河童』にも、成功した。――

(つまり、芥川は、死ぬ時までも、気取り通し、見えを張った、という事にもなる。)

さて、芥川は、その気取りのために、『保吉の手帳から』を失敗したのであった。つまり、おなじ「回想」を取り扱っても、さきに述べた作家たちは、「回想」を殆んどありのままに、飾らない文章で、飾りなく、書いたので、その主人公は、もとより、出てくる人間に、血が通〔かよ〕い、しぜん、話が生きたのである。ところが、『保吉の手帳から』は、芥川が、前にも述べたように、これまでの歴史物その他を書く時と同じように、「回想」そのものより、まず、人工の筋を立て、その筋の通〔とお〕りに話をはこび、他の人物は、もとより、主人公の保吉にまで、ポオズを取らせ、人人にはなるべく酒落〔しゃれ〕たことを云わせる、というような書き方をしたので、失敗したのである。

 ところで、芥川は、それからも、猶、つづけて、『お時儀』、『あばばばば』、『寒さ』、『文章』、『少年』、『十円札』、と、「保吉物」を、書きつづけた。そうして、それらの作品の中には、『保吉の手帳から』とくらべると、いくらか自然な物もあったが、結局、大同小異であった。

 ところが、この連作の中で、一〔ひと〕つ、『少年』は、主人公は、やはり、保吉であるが、その保吉の少年時代の話を、わりに飾りのない文章で、要処要処を、述べてあって、ほかの作品と幾らか違うところがある。そうして、その違うところは、この『少年』と『大導寺信輔の半生』(未完)と関聯しているところもあるからである。

 四歳の保吉(つまり、芥川)が、ある日、お鶴という女中につれられて、大溝〔おおどぶ〕[両国橋の東側にあった]の往来をあるいていた時の事である。その人通〔ひとどお〕りの少ない土埃〔つちぼこり〕の乾いた道の上に、ふとい線が、三尺ばかりの幅〔はば〕をおいて、二〔ふ〕た筋〔すじ〕、道の向うへ、走っているのを指さして、突然、お鶴が、保吉に、「坊〔ぼつ〕ちやん、これを御存知ですか、考へて御覧なさい、ずつと向うまで、並んで、つづいてゐるでせう、」と云った。そう云われて、保吉は、何〔なん〕だろう、と、頸〔くび〕をひねった、何だろう、これは、いつか、幻燈で見た、蒙古の大沙漠にも、やはり、つづいているであろうか、とか、そのほか、いろいろと考えた。が、どうしても考えがつかない。それで、保吉は、とうとう癇癪をおこして、「よう、教へておくれよう、ようつてば、」と叫んだ。そこで、散散〔さんざん〕じらしていたお鶴が、やっと、説明した。

「これは車の輪の跡です。」

 これは車の輪の跡です!――保吉は呆気〔あつけ〕にとられたまま、土埃の中に断続した二〔ふた〕すぢの線を見まもつた。同時に大沙漠の空想などは蜃気楼のやうに消滅した。今は唯泥だらけの荷車が一台、寂しい彼の心の中におのづから車輪〔しやりん〕をまはしてゐる。……

 これは『少年』の中の『道の上の秘密』の終りの方の一節である。

それから、芥川は、やはり、『少年』のうちの『死』という小品の中で、四歳の保吉が、父と話をしているうちに、殺された蟻と死んだ蟻とは違う、というような理窟をこねた、という話を述べたあとで、つぎのような事を書いている。

……殺された蟻は死んだ蟻ではない。それにも関らず死んだ蟻である。この位秘密の魅力に富んだ、摑へ所のない問題はない。保吉は死を考へる度〔たび〕に、或日〔あるひ〕回向院の境内に見かけた二匹の犬を思ひ出した。あの犬は入り日の光の中に反対の方角へ顔向けたまま、一匹のやうにぢつとしてゐた。のみならず妙に厳粛だつた。死と云ふものもあの二匹の犬と何か似た所を持つてゐるのかも知れない。……

(ここで、前に書いた事を少し訂正する。それは、前に、『少年』と『大導寺信輔の半生』とが繋〔つなが〕りがあるように書いたとすれは、誤〔あやま〕りである、という事である。もしそう考えたとすれば、『少年』にも、『大導信輔の半生』にも、芥川の「郷愁」であった、少年時代に住んでいた、回向院や大溝などが出てくるからである。)

 さて、ここに引いた文章だけからでも想像できるように、『少年』におさめられでいる六篇の小品は、少年の頃の思い出を書いたものであろうが、書かれているのは、その思い出を本〔もと〕にして、作者が工夫〔くふう〕に工夫をかさねて一〔ひと〕つの筋を作り、それを凝りに凝った文章で書いたものである。そういう点では、『少年』は、作のよしあしは別として、(なかなか旨〔うま〕いものである、誠に芥川の「家の芸」であって、『トロツコ』や『一塊の土』のような借り物ではない。そうして、例の如く気取りや思わせぶりなところはあるが、作品としては、『大導信輔の半生』よりも上〔うえ〕である。

 ところで、さき引いた文章であるが、『死』の中の、犬が、「入り日の光の中に反対の方角へ「顔を向けたまま」などというところは『遣〔や〕ってるな、』と思うが、「死と云ふもの」が「あの二匹の犬と何か似た所」などと云うのは、どんなものであろうか。それから、『道の上の秘密』のなかの「今は唯泥だらけの荷車が一台、……」というところは、うまい、とは思ったが、やはり言葉の巧みさだけだ、と思っていた。ところが、久保田万太郎、久米正雄、小島政二郎、というような文学のわかる人たちが、名作と激賞している、『蜃気楼』の中に、つぎのような一節があるのを思い出して、私は、「これは……」と思いなおした。

……僕等はもうO〔オオ〕君と一しよに砂の深い路を歩〔ある〕いて行つた。路の左は砂原だつた。そこに牛車の轍〔わだち〕が二〔ふた〕すぢ、黒ぐろと斜めに通つてゐた。僕はこの深い轍に何か圧迫に近いものを感じた。逞しい天才の仕事の痕、――そんな気も迫つて来ないのではなかつた。

「まだ僕は健全ぢやないね。ああ云ふ車の痕〔あと〕を見てさへ、妙に参つてしまふんだから。」

 O君は眉をひそめたまま、何とも僕の言葉に答へなかつた。……

 前のは荷車であり、これは牛車である。前のは大正十三年五月の作であり、これは昭和二年二月の作である。

 この文章の中の、砂原は鵠沼であり、O君は小穴隆一である。

 前のは三十年も昔の事を書いたものではあるが、「寂しい彼の心の中におのづから車輪をまはしてゐる、」というのは、その時の実感を書いたものであろう。これは、この『蜃気楼』の話が半分ぐらい本当とすれは、これはこの小品を書いた時分の実感であろう。二年前の小品が荷車であり、これは牛車であるが、車の輪が道の上に残っている事は同じである。すると、『蜃気楼』の二本の線は、(この時分は、例の「筋のない小説」の説を立てていた頃であるが、やはり、)話を面白くするために、わざと入れたのかもしれない、という事にもなる。

 ところが、『蜃気楼』の前篇になっている『海のほとり』に出でくる久米が、(文学、殊に小説に理解のふかい久米が、)「まだ僕は健全ぢやないね。ああ云ふ車の痕を見てさへ、妙に参つてしまふんだから、」という言葉を見ても、作品全体に死相が漲っている、と云うのであるから、この牛車の轍は『蜃気楼』の中でもっとも注目すべき文句である、という事になるのである。

 作品に死相があらわれる、という言葉をつかえば、私は、くりかえし云うが、昭和二年(つまり、死んだ年)の作である、『河童』、その他より、『庭』や『春の夜』や『玄鶴山房』などであり、この『蜃気楼』とか、『海のほとり』とか、『年末の一日』とか、殊に『点鬼簿』とか、いう小品は、強いで云えば、「鬼気せまる型〔かた〕」ではないか。(こういう事については、例によって、後に述べることにして。)

 さて、大正十三年の四月と五月にかけて書いた『少年』と、同じ年の十二月に書いた『大導寺信輔の半生』とは、芥川の文学の何度目かの変り目の作品であり、枚数も、『少年』は四十五六枚であり、『大導寺信輔の半生』は三十五六枚であるから、芥川の作品としては長い方である。そうして、両方とも、自伝的な作品である。(もっとも、自伝的、と云っても、現在とは縁の遠い、機関学校時代の事や、もっと遡〔さかのぼ〕って、少年時代⦅というより、幼年時代⦆の事や、幼少年時代から大学時代までの事や、の思い出を本〔もと〕にして、それを一〔ひと〕つ一つの話にした小品であるから、半自伝的、とでも云うのであろうか。そうして、その一が「保吉物」であり、その二が『少年』であり、その三が、『大導寺信輔の半生』である。)

『保吉の手帳から』を書いたのは大正十二年五月であるが、『少年』を書きあげたのは、その翌年(つまり、大正十三年)の五月であり、『大導寺信輔の半生』を書いたのは、その年の十二月である。

 そうして、この『少年』と『大導寺信輔の半生』を書いた頃は、芥川の、作家としても、人間としても、もっとも苦〔くる〕しかった時代の一つであった。

……旅行中お金をつかひ果〔はた〕し、貧乏して居り候間今日午前、蒲原春夫君にたのみ、お店へお金百五十円ばかり拝借にやりし次第、もし午前中に同君にお金を渡されざる節は御光来の折御持参下され度、……

 これは、大正十三年五月二十八日に、芥川から、新潮社の支配人、中根駒十郎に宛てた手紙の抜萃である。

(中根駒十郎は、大正時代から昭和の初め頃まで、新潮社を創立した社長、佐藤義亮の代理を殆んど一切した。それで、その頃の大抵の作家は、多少とも、中根の世話になった。『駒十郎、役者のやうな、名をつけて、由良〔ゆら〕になつたり、吉良〔きら〕になつたり』という狂歌は、たびたび引いたが、相馬泰三の作である。)

 さて、芥川が、この手紙を書いたのは、『少年』を書いた頃である。

 ところで、芥川は、この手紙を書いてから十日〔とおか〕も立たな、いうちに、又、中根に宛てて、「この間女性改造を書かず、又々欲しきものありても買はれね故お金二百円ばかりどちらか[註―『百艸』か、『黄雀風』か]の印税の中より…」というような手紙を出している。(この手紙は、郵便でなく、使〔つかい〕に託したものである。)

 私が、殊更、このような手紙まで写したのは、(私などはこういう事は有内〔ありうち〕であると思っているが、)大方の人はこのような事を知らないであろう、と思うと共に、この時分いかに芥川が原稿が書けなくなっていたか、という事などを、示〔しめ〕したかったからである。(つまり、「壷を一〔ひと〕つ買つた」とか、「欲しきものありても、」とか、云うのは、もとより、口実なのである。)

[やぶちゃん注:「有内〔ありうち〕」は、世間によくありがちなこと、の意。]

 ざっと、こういう状態の中で、芥川は、『少年』を書いたが、その頃から、芥川の創作力はますます衰えて行った、衰えて行く一方であった。しぜん、『少年』を書きあげた月〔つき〕に書いた『文反古』はつまらぬ作品であり、その次ぎに書いた『十円札』は、「保吉物」の一つであるが、楽屋落ちの話である。どのような楽屋落ちであるか、愛敬〔あいきょう〕に、その中から、ちょいと写してみよう。

……長谷〔はせ〕正雄は酒の代りに電気ブランを飲んでゐる。大友雄吉も妻子と一しよに三畳の二階を借りてゐる。松本法城も――松本法城は結婚以来、少し楽に暮らしてゐるかも知れない。しかしついこの間迄はやはり焼鳥屋へ出入〔しゆつにふ〕してゐた。

 右の一節の中の、長谷正雄は久米正雄であり、大友雄吉は、いわゆる「啓吉物」のうちの幾つかの小説の主人公に「雄吉」という名をつける、菊池 寛であり、松本法城は、『法城を護〔まも〕る人々』の作者、松岡 譲である。

 ところで、これを写して気がついたのは、お粗末な小説であることは別として、芥川がこのような平明な文章を書いている事である。

 さて、このような小説を書いた後〔あと〕で、芥川が、書いたのが、『大導寺信輔の半生』である。

『大導寺信輔の半生』がいくらか好評をうけたのは、芥川のこれまでの小説とくらべると、目先〔さき〕が変っている上に、ずっと気の乗らないような小説を書きつづけていたのが、この小説は、ときどき気息〔いき〕づかいが聞こえるほど、意気ごんでいるところが見えるからである。

[やぶちゃん注:「気息〔いき〕づかい」は、「気息」に「いき」とルビを振る。]

『大導寺信輔の半生』は、文章はきびきびしているし、部分部分(殊に最初の方)にすぐれたところはあるとしても、結局、きびしそうに見えて、作者が、主人公を甘やかし過ぎている、それが、殊に、後半に、目立つ、それから、前からの癖で、風物を書いても、人間を書いても、小細工である、それから、人間が殆んど書けていない、結局、失敗作である。(断っておくが、ここで、『小細工』と云ったのは、『小刀細工』という意味である、『小刀細工』とは、「小刀を用いてする、精微な、繊巧な、細工」という程の意味である。)

 それから、『大導寺信輔の半生』は小説ではない。

 それから、『大導寺信輔の半生』は、附記として、芥川は、「この三四倍つづけるつもりである、」と書いているが、芥川のような作家(これは決して悪〔わる〕い意味ではない)には、たといもっと長生きしたとしても、こういう種類の小説は、永久に未完で、書きつづけられなかった、と、私は、思うのである。

 しかし、私は、『大導寺信輔の半生』は、きらいではない。

……中学は彼には悪夢だつた。けれども悪夢だつたことは必〔かならず〕しも不幸とは限らなかつた。彼はその為〔ため〕に少〔すくな〕くとも孤独に堪へる性情を生じた。さもなければ彼の半生の歩〔あゆ〕みは今日〔こんにち〕よりももつと苦〔くる〕しかつたであらう。彼は彼の夢みてゐたやうに何冊かの本の著者になつた。しかし彼に与へられたものは畢竟落寞〔ひつきやうらくばく〕とした孤独だつた。この孤独に安んじた今日〔こんにち〕、――或〔あるひ〕はこの孤独に安んずるより外〔ほか〕に仕〔し〕かたのないことを知つた今日〔こんにち〕、二十年の昔をふり返つて見れば、彼を苦〔くる〕しめた中学の校舎は寧ろ美しい薔薇色〔ばらいろ〕をした薄明〔うすあか〕りの中〔なか〕に横〔よこた〕はつてゐる。

 これは、『大導寺信輔の半生』の中の、『学校』の終りの方の一節である。

 芥川は、やはり、詩人であった。

 この『落莫とした孤独』の歌をうたってから、たしか、半月後、芥川は、数え年〔どし〕、三十四歳になった。大正十四年である。

宇野浩二 芥川龍之介 二十~(3)

 芥川の著作年表を見ると、昭和二年の一月号には、『悠々荘』、(「サンデー毎日」)、『彼』、(「女性」)、『彼(第二)』、(「新潮」)、『玄鶴山房(一)』、(「中央公論」)、とある。

 昭和二年の一月号の雑誌が出た時分には、私は、前の年の十一月の末に、芥川が、鵠沼の東家で、「新年号の小説を三つ引きうけて、もう半分ぐらい書いた、」と、眉をつりあげて、云った時は、『眉唾物』だ、と思いながらも幾らか期待もしたが、その時分には、そんな事を忘れてしまっていた。しかし、「中央公論」に、『玄鶴山房』の㈠が、雑誌で、二ペイジ半ぐらいしか出ていないのを見て、私は、自分の小説が出来なかった事を棚〔たな〕に上げて、「何だ、例のとおりだ、」と思った。『例のとおり』とは、芥川がよく一つの小説を分載することがあったからであり、『何だ』とは、いくら分載にしても、その出し方の分量があまりに少〔すく〕な過ぎるので、ちょいと軽蔑する気もちになったからである。(しかし、それは、今おもうと、あの時、⦅芥川と鵠沼で逢った時、⦆ 芥川とわかれてから、鎌倉に中学校の同窓の大木という海軍中尉をたずね、大木と横須賀に行って一泊した時、構想を得た『軍港行進曲』という小説を書くための『励〔はげ〕み』になった。)

 ところで、今度〔こんど〕、この年表と全集とを参照して、私は、あの時の芥川の言葉をあまり頭〔あたま〕に置き過ぎた事を、今更ながらに、恥じた、つまり、芥川のよくやる手で、あの時、芥川は、あんな事を云って、わざと、私を、おどろかし、なぶったのである、つまり、私は馬鹿を見たのである。その一〔ひと〕つの例は、あの時、芥川は、無闇〔むやみ〕に、「中央公論」、「中央公論」、と云いつづけ、「僕も、『中央公論』だけには、出すつもりだ、」「君〔きみ〕も、ほかは止〔や〕めても、『中央公論』だけは、……」などと云いながら、「中央公論」は、大事〔だいじ〕を取って、後〔あと〕まわしにして、(この雑誌には『玄鶴山房』を出すつもりで、)「サンデー毎日」に、一〔ひ〕と月〔つき〕ほど前に、みじかい楽な物(『悠々荘』)を書いてしまい、二週間ぐらい前に、これも、楽〔らく〕に書けたらしい『彼』を「新潮」に送ってしまっていたので、のうのうとして、「新年号の雑誌を三つ引きうけて、もう半分ぐらい書いたよ、」(『ヘン、どんなもんだい、』⦅と、これは、心の中で、⦆と、私に、云ったのである。

 しかしこんな憎まれ口のような事を書いてしまったが、これは、私が、その時の「サンデー毎日」を見ていなかった上に、「新潮」に出た『彼』も、うかうかと、読みながしてしまったからである。それを、今度〔こんど〕、『悠々荘』と『彼』を読みなおして、私は、いたく心が寒くなるのを覚えたのである。『悠々荘』は六枚ぐらいであり『彼』は十七八杖である。極度の神経衰弱にかかっていた芥川には、二十日の間〔あいだ〕に二十三四枚ぐらいでも書いたという事は大変な苦労であったにちがいない。

 ベルは木蔦〔きづた〕の葉の中に僅に釦〔ボタン〕をあらはしてゐた。僕はそのベルの釦へ――象牙のベルの釦へ指をやつた。ベルは生憎〔あいにく〕鳴らなかつた。が、万一鳴つたとしたら、――僕は何か無気味になり、二度と押す気にはならなかつた。

 これは『悠々荘』の終りの方の一節であるが、「僕」という主人公より、読む者の方が「何か無気味」な感じがする。猶、この小説の終りに、特に、『鵠沼』と書いてあるが、鵠沼の芥川の住んでいた辺に、このような廃屋があったのであろうか。

[やぶちゃん注:私はかれこれ四十七、八年前、叔父が住んでいた鵠沼をしばしば訪れたが、私の記憶の中に、正にこんな風な廃屋が実際にあったのを覚えている。]

 棕櫚の木はつい硝子窓の外〔そと〕に木末〔こずゑ〕の葉を吹かせてゐた。その葉は文全体も揺〔ゆ〕らぎながら、細〔こま〕かに裂けた葉の先々〔さきざき〕を殆ど神経的に震はせてゐた。

 これは『彼』の中の一節である。

 こういう事を、骨と皮のようになった芥川が、あの鵠沼の小〔ちい〕さい借家の二階で、しじゅう幻覚におびえながら、書いていたのである。

 

 大正十三年の初め頃からますます健康のわるくなっていた芥川は、しだいに創作力もおとろえて来た、得意であった歴史物の種も尽きて来た。

[やぶちゃん注:よく見ると、ここは見開き右側のページの終行ながら、次が実は一行空いているのが分かった(一頁行数を数えて判明)。]

 

 大正十三年の一月に芥川が書いた『一塊の土』は、(これもずっと前に述べたが、私はこの小説を「新潮」で読んだ時、「これは、おかしい、」と頸をひねった、「これは、芥川の小説らしくない、芥川の小説ではない、」と思ったからである、ところが、)非常に評判がよかった、それは、久しぶりで、芥川が、芥川風ではないが、おもしろい小説を書いたからでもあるけれど、すぐれた作品であったからでもある。それで、この小説を、たしか、いつも悪口をいう正宗白鳥もほめ、片岡鉄兵などは、「一塊の土と朽ち果てる運命が恐ろしいはど冷やかに客観され、必然を追つて描写されてゐる、」と述べ、「或る意味で写実の極致であらう」とまで賞讃している。

 それから、もう一〔ひと〕つ、これは、小説でなく、小品であるが、『トロツコ』が、大正十一年の三月号の「大観」に出た時も、私は、「これは、……」と思った。『これは』とは、「これは、芥川の作品らしくない、」という意味である。ところが、この小品も、一般に評判よく、教科書や副教科書などに採用されている。

 私が、『一塊の土』にも、『トロツコ』にも、おなじような軽〔かる〕い疑いをいだいたのは、漠然と、都会人である芥川が、(田舎というものに殆んど何の関心も興味も持っていない芥川が、)こういう題材の物を書くのは凡そ無理だ、と思ったからである、殊に、『一塊の土』のような、一〔ひ〕と昔ほど前の自然主義の作品を思わせるような、小説を、芥川が、書こうと思ったのは、書いたのは、不自然のように思われたからである、そうして、決して皮肉な意味でなく、あの絢爛な文章で波瀾に富んだ『王朝物』や『切支丹物』を書いた作者が、どうして、こんなくすんだ地味〔じみ〕な小説を……と考えたからである。

 ところで、『一塊の土』が好評を博していた頃、誰いうとなく、「あれは芥川が書いたものでは ない、」という噂が立った。しかし、もとより、噂であるから、それは、いつとなく、立ち消〔ぎ〕えになった。

 ところが、その頃から二十六七年後に、――昭和二十六年に、――「改造」[昭和二十六年]に出た、滝井草孝作の『純潔』という小説の中の、つぎにうつす一節を読んで、私は、『一塊の土』、その他 に対する真相のようなものを、知った。

……この時分、芥川さんは他人の材料で書く癖も、二三あつたやうで、大正十年三月に出た田舎風景の『トロッコ』、これは、芥川さんは、私に向いて「力石君から貰ひ受けた五六枚の原稿で、書き改めたのだが、力石君は『トロッコ』を出たのを読んで、ひどく悄気〔しよげ〕てゐた。永久に俺のぢや無〔な〕うなつた、と云つてネ、大事な掌中の玉を奪はれたやうにネ」と、話し、その湯河原から出て某社の校正係と云はれる力石青年は、控へ目なおとなしい人で、その時分、澄江堂連中の一人でした。また、十三年一月に出た百姓女を描いた秀作『一塊の土』も湯河原生れの力石君の協力した材料のやうでした。この青年とは何か格別の間柄があつたのでせう。ふかい親し味があつたからこそその材料を採り上げて製作されたわけで。

[やぶちゃん注:「力石君から貰ひ受けた」既に宇野は「十二」でこの件を仄めかしているが、原案提供者は力石〔ちからいし〕平蔵(明治三十一(一八九八)年~昭和五十(一九七五)年)で芥川龍之介に私淑、芥川の元に出入りしていた文学志望の青年であった。大正十五(一九二六)年の『文藝春秋』に載る小説「父と子と」が唯一の知られる小説である。]

 私などが今更いうまでもなく、この滝井の文章は、芥川の文学についての、実に貴重な文献である。殊に私には大へん為めになった。が、この滝井の文章の最後の「ふかい親し味があつたらこそその材料を採り上げて製作されたわけで」という文句は私には不可解である。

 しかし、又、この滝井の文章を読むと、『トロッコ』の最後の、

 良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に校正の朱筆を握つてゐる。……

 という文句もわかり、ついでに、おなじ良平の出てくる『百合』[大正十一(一九二二)年]の最初の、

 良平は或雑誌社に校正の朱筆を握つてゐる。しかしそれは本意ではない。彼は少しの暇さへあれば、翻訳のマルクスを耽読してゐる。

 という一節も思い出されて、ますます面〔おも〕白い。それは、この良平が滝井の文章の中の「力石君」とすれば、芥川は、この『百合』の素材も、力石君から、貰ったか、「採り上げたか」、どちらかである、という事になるからである、それから、これも前に書いたように、後〔のち〕に、『玄鶴山房』の最後の方で、大学生に「リイプクネヒト」を読ませて、一部の人に問題をおこさせたが、すでに、その時より五年も前に、この『百合』の最初の方で、校正係に、「マルクス」を読せているナ、と思い合わせて、ほほ笑〔え〕ませるからである。

 ところで、さきに引いた滝井の文章の中に、芥川が、力石から、「材料を採り上げて、……」というところがあるが、ここだけ読むと、芥川は何〔なに〕か無法な人のように思われる。しかし、それは、ちがう。

 前にしはしば述べたように、芥川は、(芥川だけに限らないが、特に、)素材がないと、殆んど物の書けない人であった。誇張して云うと、芥川は、素材の選択に成功したために、文壇に出たようなところさえある。そうして、その素材とは、思いうかぶままに、順序不同に、上げると、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『古今著聞集』、『古事談』、『十訓抄』、『古事記』、『平家物語』、それから、『聊斎志異』、それから、切支丹に関する諸文献、それから、ゴオゴリ、ストリンドベルヒ、メリメ、モウパッサン、フランス、シング、ブロウニング、ポオ、その他の小説や戯曲や詩、等、等、等、である。そうして、芥川は、これらの物を素材にして小説をつくる名人であったのである。

[やぶちゃん注:「ブロウニング」イギリスの詩人Robert Browning(ロバート・ブラウニング 一八一二年~一八八九年)のこと。]

 ところが、これも先きに述べたとおり、これらの物から自分にむく素材を取りつくした時分から、芥川は、おもい病気にかかったのである。そうして、病気のために、芥川は、たといよい素材が見つかっても、得意の、構想を工夫〔くふう〕する気力も、文章を練〔ね〕る気もちも、なくなった。

 芥川が、力石の五六枚の原稿を書き改めたり、力石の持っていた材料を「採り上げ」たり、したのは、そういう時分であった。しかし、芥川は、さきに述べたように、世に聞こえた東西古今[この『今』には、鷗外、漱石などがはいっている]の古典や名著から、結構をまなび」自分の気に入った素材を「採り上げ」て、名作と称せられた幾つかの小説を書いてきた。されば、芥川は、いわば無名の校正係の「五六枚の原稿」や『話』を、素材に、「採り上げ」るくらいの事は、何でもない事だ、と思っていたのであろう。しかし、こういう事は、私には、経験のない事であるから、よくわからない。

 大正十一年の二月十六日に、芥川が、佐佐木茂索に宛てた手紙の中に、「今夜一夜〔いちや〕に小説一篇を作つた」という文句があるが、この一夜づくりの小説が『トロツコ』である。しかし、『トロツコ』は、小説でなくて、小品である。しかし、それも、ただ書かれてある、というだけで、妙にぎくしゃくしていて、骨っぽく、何〔なに〕か痩〔や〕せている、というような感じがする。

 骨っぽくて、痩せている、と云えば、この年〔とし〕の一月の「新潮」に出た、評判のよかった、『藪の中』にも、ぎくしゃくした、骨っぽい、感じがある。『藪の中』は、久しぶりで、例の『今昔物語』(巻二十九の第二十九話)から取ったもので、これも、久しぶりで、手法も、技巧も、ずいぶん工風を凝らしているが、極言すると、テエマが露骨に出すぎている。だいたい、芥川の小説は、その初期から、テエマ小説であった、唯、初期から中期へかけての、脂〔あぶら〕の乗った、小説は、独得の、修辞と技巧たっぷりの文章の方が勝っていたので、菊池の小説のように、(これは本人が『テエマ小説』、『テエマ小説』、と云いふらしたからでもあるが、)テエマ小説とは殆んど見えなかった。

[やぶちゃん注:「『今昔物語』(巻二十九の第二十九話)」は巻二十九の第二十三の誤り。それにしても――宇野は『テエマが露骨に出すぎている』とし、「藪の中」を『テエマ小説』と一刀両断にして憚らないんだけど――宇野さんよ、じゃあ、「藪の中」の『露骨』『すぎる』真相と『テエマ』とやらも、ここで一気に語って欲しかった――な――そんなに簡単明快露骨出来というのなら――後人やこの私がこんなに喧々諤々議論するわきゃ、ねえだろが!――]

 ところが、その特徴であった、美辞麗句を使わなくなった、(私は、これは、かなり重〔おも〕い病気が幾つかあったので、しぜんに、しだいに、そういう骨の折れる凝った仕事が出来なくなったのではないか、と思っている、)小説は、冬になって、木が枯れ、葉が落ちると、林の木の正体が見えてくるように、テエマ小説の正体をあらわしたのである。私は、きびしく云うと、それが、大正十一年の一月の雑誌に出た、『将軍』、『藪の中』、『俊寛』、に見られる、と思うのである。

 しかし、芥川は、『トロツコ』を書いてから、これも、久しぶりで、切支丹物の『報恩記』を書いた。これは、『藪の中』が好評であったからか、(それとも別の工夫〔くふう〕が出来なかったためか、)『藪の中』と殆んど同じテエマで、構想も幾らか似ているが、『藪の中』、より一そう物語風〔ふう〕である。(芥川は、テエマ作家であると共に物語作者であった。それが一般の読者にも受ける所以であろう。)ところが、その物語は、芥川の昔ながらの好みの逆説的の面白さはあるけれど、通俗的なところもあって、手法も低調である。それに昔のような張りがない、何〔なに〕か弱弱しい感じさえする。これは切支丹物の下〔くだ〕り坂を示すものであろう。

 その次ぎは『お富の貞操』と『六の宮の姫君』である。

『六の宮の姫君』は、(これも、)例の『今昔物語』(第十九の第五話)に依ったものであるが、この小説は、よしあしは別として、芥川が『今昔物語』から素材を取った最後の作品であり、芥川の小説らしい小説の最後の作品である。この小説は、(谷崎潤一郎も書きそうな物語で、純日本風の女が主人公になっているが、)素材とした『今昔物語』の話を、芥川は、自分の言葉と文章に書き改めただけで、ほとんどそのまま使っている。この時までに、これも先きに述べたように、芥川は、処女作以来、『今昔物語』の話の中から素材を取って、幾つかの小説を書いている。そうして、それらの小説は、唯その素材を『今昔物語』の話の中から取った、というだけで、大てい皆、『芥川の小説』になっている。それで、原作と違った面白味が十分〔じゅうぶん〕に出ている、ところが、この小説(つまり、『六の宮の姫君』)は、本〔もと〕の話(と書き方)が殊にすぐれているからでもあろうが、そうして、本〔もと〕の話の筋を殆んどそのまま使ったためであろうか、芥川のこの小説より『今昔物語』のその話の方がすぐれているところもあるのである、(例えば簡潔に書かれてあるという事だけでも。)そこで、この『六の宮の姫君』は、『今昔物語』の話に仮りに負けたとしても、これは、芥川の芥川らしい小説の最後の『火花』である、と、私は、思うのである。

 それから、この年(つまり、大正十一年)の作品の中で、注臥すべき小説が一〔ひと〕つある。それは『庭』という小説である。題は『庭』である.が、この小説は、年月〔としつき〕と共に変る庭の有〔あ〕り様〔さま〕を述べながら、その庭のある旧家に住んでいる人たちの生活のうつりかわりを、手際〔てぎわ〕よく、書いたものである。この旧家に住む人たちは大〔たい〕てい癈人か廃人である。いうまでもなく、『廃人』とは「心身完〔まった〕からざるところありて、世の用をなさぬ人、世用に堪えぬ人」という程の意味であり、『癈人』とは「創痍又は不治の病〔やまい〕にかかっている人」、という程の意味である。まったく、この小説に出てくる人たちは、殆んどその通〔とお〕りで、隠居の老人、その老妻、跡つぎの癇癖〔かんぺき〕の強い長男、その病身な妻、脳黴毒のために精神病者になっている次男、行方〔ゆくえ〕不明になる三男、その他である。さて、この小説では、まず、隠居の老人が、「或る旱〔ひでり〕の烈〔はげ〕しい夏、脳溢血のため」に、頓死し、次ぎに、長男は、癆症〔ろうしょう〕(今の肺病)にかかり、唯ひとり、「夜伽〔よとぎ〕の妻に守られながら、蚊張〔かや〕の中」で、息をひきとり、長男の妻は、夫と同じ病気で、血を吐いて、死に、次男は、離れで、「誰も気づかないうちに、」死んでしまう。

 この小説は、何年かの話を、何人かの風変りな人間の性格と生活を、殆んど一句一行も無駄なしに、含みのある簡潔な文章で、書かれてある。この小説は、寡聞な私の知るかぎりでは、山本健吉のほかに、ほめた人もないようであり、この小説を問題にした評論家もないようであるが、芥川の中期(あるいは、後期)の作品の中でもっともすぐれた小説の一〔ひと〕つである。こう私は信じるのである。

[やぶちゃん注:「庭」に関しては私も宇野の意見に一二〇%同意する。]

 

 さて、私が、さきに、この作品を「注目すべき小説」である、と述べたのは、この小説は、芥川の、晩年の、『春の夜』、『玄鶴山房』、という一列の作品の一ばん初めの物であるからだ。

 この世の中にあってもなくてもよいような一家、いや、極端にいえは、ない方が増しなような、癈人と廃人が主人公であるような、家族、――それが、つまり、『春の夜』の野田の家であり、『玄鶴山房』の堀越の家であり、この『庭』の中村の家である。中村の家には、肺結核の病人が二人〔ふたり〕と癈人が一人〔ひとり〕と精神病者が一人〔ひとり〕いる。野田の家にも、肺結核の病人が二人いる。堀越の家には、肺結核の病人が一人と癈人が一人いる。(癈人も、肺結核の病人も、前に述べたように、『癈人』であるが、ここでは、便宜のために、二種に分〔わ〕けた。)

 ところで、『庭』では、二人の病人も、精神病者も、死んでいるが、癈人(老妻)は生き長らえている、『春の夜』では、二人の病人は生き長らえている、『玄鶴山房』では、病人は死に、癈人は生きながらえている。――これは、作者の芥川がそのようにしたのである。

 それから、『庭』の老妻は、頭瘡を病〔や〕んでいる。(『頭瘡』とは「頭上に発する一種の瘡〔かさ〕」であり、『瘡』とは「皮膚に発する腫物〔はれもの〕の総称」であり、「黴毒のこと」でもある。)ところが、この老妻の頭瘡は、その「臭気をたよりに、夜更〔よふけ〕には鼠が近寄〔ちかよ〕つて」くるような、堪えがたい臭気を発する。臭気といえば、『玄鶴山房』の初めの方にも、「忽ち妙な臭気を感じた。それは老人には珍しい肺結核の床〔とこ〕に就いてゐる玄鶴の息の匂〔にほひ〕だつた、」という一節がある。――これも、(この常人には考えもつかないような臭気も、)やはり、芥川が、創作したものである。

 『庭』[これは、前に書いたように、大正十一年の作であるが]、『春の夜』、『玄鶴山房』、――この三つの小説は、くりかえし云うが、芥川の晩年の作品の中で、(小説のよしあしは別として、)特殊の位置を占〔し〕めるものである。

 但し、私は、私の好みでは、このような種類の小説は嫌いであるが、そのような事は別にして、この三つの小説の中で、『庭』と『玄鶴山房』とは、一般の小説として見ても、すぐれた作品である。

(余話であるが、『玄鶴山房』が、昭和二年の二月号で完結した時、早速〔さっそく〕それを読んだ私が、芥川があそびに来た時、「あれは、実にうまいと思って、感心したが、ずいぶん気もちの悪〔わる〕い小説だね、僕は、あんな気もちの悪い陰気な小説はきらいだ、」と云うと、芥川は、「うん、」と云っただけで、すぐ、何〔なん〕ともいえぬいやアな顔をした。)

[やぶちゃん注:ここで偏執的で古典的な分類学の好きな宇野が「癈人」と「廃人」を区別しているのは――時代的差別性や宇野の個性という条件を考慮しても、これはやるべきではない言われなき差別に繋がる行為である――極めて不快な印象を与える。人はおうおうにして「嫌い」なものについて語る時、鮮やかに卑俗に差別的になるという事実を、これらは物語っていると言える。]

 この考えは今でも変らないが、私は、芥川の最晩年(つまり、大正十五年の末頃から死ぬまで)の幾つかの作品の中で、極言すれば、小説らしい小説は『玄鶴山房』だけである、と思っている。そうして、もっとも評判のよい『歯車』も、世評のよい『点鬼簿』も、一部の人たちにもっとも認められている、『海のほとり』、『年末の一日』、『蜃気楼』[傍題に『或は「続海のほとり」』とあるが、まったく別の作品である]その他は、すぐれた作品ではあるが、(『歯車』だけは別としても、)小説とは別の物である、と、私は、思っている。これらのことは、例のごとく、後〔のち〕に述べるつもりである。

 ところで、さきに上げた『庭』は、小穴隆一に聞いた話を本にして、芥川が、自分流に、いろいろ工夫〔くふう〕をして、書いたものであろう。

 庭は二年三年と、だんだん荒廃を加〔くは〕へて行つた。池には南京藻〔なんきんも〕が浮〔うか〕び始め、植込みには枯木が交〔まじ〕るやうになつた。その内に隠居の老人は、或旱〔ひでり〕の烈〔はげ〕しい夏、脳溢血の為〔ため〕に頓死した。頓死する四五日前、彼が焼酎を飲んでゐると、他の向うにある洗心事[註―東屋(あずまや)]へ、白い装束をした公卿〔くげ〕が一人、何度も出たりはひつたりしてゐた。少くとも彼には昼日〔ひるひ〕なか、そんな幻〔まぼろし〕が見えたのだつた。翌年は次男が春の末に、養家の金をさらつたなり、酌婦と一しよに駈落〔かけお〕ちをした。その又秋には長男の妻が、月足〔つきた〕らずの子を産〔う〕み落〔おと〕した。

 これは『庭』の中の一節である。これは、『庭』が、どのような事を、どのような文章で、書かれてあるか、という見本のつもりで、うつしたのである。これは、いうまでもなくありふれた言葉であるが、一字一句抜き差しならぬ簡潔な文章である、簡潔すぎる文章である。しかし、そういう事よりも、私は、こういう事を、(このような薄気味のわるい事を、)書いた作者(芥川)の気もちを、考えて、頸〔くび〕をひねるのである。

 この小説(つまり、『庭』)は、これも前に述べたかと思うが、小穴から聞いた話を本〔もと〕にして、作ったものである。もとより、小穴が芥川にどういう話をしたかはわからないが、大体〔だいたい〕この『庭』にあるような話をしたのであろうが、それには、芥川の考えた事や好みが随分はいっているにちがいない。とすれば、右の一節の中の、隠居の老人が、昼日〔ひるひ〕なか、白い装束をした公卿が、庭の池の向うにある東屋に、何度も出たりはいったりしたのを、幻〔まぼろし〕に見た、というのは、(それが小穴の話の中にあったとしても、それをこのように書いたのは、)芥川の創意である。

 例の『芥川龍之介研究』[前にも書いた「新潮」主催の座談会]の中に、「鬼気といふこと」、「死の影のある作」などという題目があるが、(その座談会の記事にははっきり出ていないけれど、)一部の人は、それが、(それに近いものが、)『海のほとり』、『年末の一日』、『点鬼簿』、『蜃気楼』、『歯車』などに、出ている、と云っている。が、それは結果論であって、私は、芥川の晩年の作品に、(その他の作品にも、)「死の影のある作」はあるかも知れないが、「鬼気」のある小説などは殆んどない、と思っている、そうして、それに近いものを、強〔し〕いて(「強いて」である)上げれば、この『庭』と『春の夜』と『玄鶴山房』と、それから、調子の低いものではあるが、『温泉だより』などである。結果論といえは、廣津和郎が、『芥川龍之介研究』の座談会で、「徳田さんが『点鬼簿』を小説ぢやないといつて批評されたことがあつた。それで、僕は、大体小説ぢやないが、しかしあれは死の隣にゐるから、さういふ点から見なければならぬといふやうな事をいつて、徳田さんに対する反駁をあの頃新聞に書いたんですが、あれを読んでゐると死ぬと思つたな、」と述べている。それに対して、川端康成が、「結果論でせうが、後〔あと〕で見るとさういふ気がしますね、」と云っている。さて、その廣津の批評を読んだ芥川が、廣津に宛てて、「けふ或男が報知新聞を持つて来て君の月評を見せてくれた。近来意気が振〔ふる〕はないだけに感謝した。僕自身もあの作品[註―『点鬼簿』]はそんなに悪くないと思つてゐる。[中略]この手紙は簡単だが(又君に手紙を書くのは始めてかと思ふが、)書かずにゐられぬ気で書いたものだ、」[大正十五年十月十七日]と書いている。――私は、ここに見る友情の美しさに、いたく心を打たれた。

 

 

 さて、私が、さきに『庭』を、(過褒と承知しながら、)殊更に取り上げたのは、『庭』が出た翌月に発表された『六の宮の姫君』が一般に過大に評価されたことが気に入らないからでもある、というのは、『六の宮の姫君』は、芥川らしいところが殆んど全〔まった〕くなく、(つまり、創意がなく、)全体が古〔ふる〕めかしく、よくない意味で通俗的であり、筋の運〔はこ〕びは巧みであるが有り触れており、(これは、さきに述べたように、素材にした『今昔物語』の話そのままであり、)殊に、終りの方の、先きに引いた、「何〔なに〕も、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いて参〔まゐ〕りまする、」などというところは、わざと俗な言葉をつかうと、いわゆる『殺し文句』のようなものである。(ついでに云えば、『御所桜堀河夜討〔ごしょざくらほりかわようち〕』の三段目の終りの方で、初めて逢う父の弁慶に殺される侍女信夫〔じじょしのぶ〕が死の真際〔まぎわ〕に、「もう目が見えぬ、耳が聞えぬ、」というところがあるが、両方とも、きびしく云えば『サワリ』である。)

[やぶちゃん注:「サワリ」この場合の用法は、通常の「勘所」「見どころ」の意ではなく、義太夫節で他の節〔ふし〕に触っているという意で用いられる、義太夫節以外の他流の曲節を取り入れること、卑俗な慣用句の流用という批判的な謂いである。]

 このような一節とくらべると、これは、死ぬところではないが、『庭』の中の、

 ……一度掘つた池を埋めたり、松を抜いた跡へ松を植ゑたり、――さう言ふ事も度度〔たびたび〕あつた。

 殊に廉一を怒〔おこ〕らせたのは、池の杭〔くひ〕を造る為に、水際の柳を伐〔き〕つた事だつた。「この柳はこの間〔あひだ〕植ゑたばつかだに。」――廉一は叔父を睨みつけた。「さうだつたかなあ。おれには何だかわからなくなつてしまつた。」――叔父は憂鬱な目をしながら、日盛〔ひざか〕りの池を見つめてゐた。

というところは、次男の頭〔あたま〕が狂〔くる〕っているのを書いたものであるが、これは見事〔みごと〕というほかに言葉がない。

 しかし、この短篇(十五六枚ぐらい)を書いてから、芥川は、『これ』という物を書かなくなった、(書けなくなったのである。)

 芥川は、『庭』を出した二〔ふた〕た月〔つき〕前[大正十一年五月]に、『お富の貞操』を発表した。これは、むかし得意であった「開化物」の一〔ひと〕つで、書きはじめる前に実に周到な用意をした、それだけに、描写は、写実的に、細〔こま〕かすぎるほど細〔こま〕かかったが、未完であった。しかも、枚数はおそらく十二三枚である。私は、これを「改造」の五月号で読んだ時、こんな書き方をして、後〔あと〕はどうするのであろう、と思った。ところが、その続きは、六、七、八、と飛んで、九月号の「改造」に出た。両方あわせて二十七八枚であろうか。芥川は、もとより、短篇作家である、そうして、すぐれた短篇作家であった。しかし、『お富の貞操』は、ほめる評論家はあるけれど、部分部分の描写がうまいというだけで、(それも普通のうまさだ、)決〔けっ〕して勝れた小説とは云えない。

 それから、『お富の貞操』と同じ月に出た『おぎん』も、(ついでに書けば、その翌年の四月号の「中央公論」に出た『おしの』も、)やはり、芥川がむかし得意にした「切支丹物」ではあるが、共に、昔のような魅力はなく、その作者の芥川も、既に、王朝物にも、切支丹物にも、開化物にも、興味がうすれ、魅力が感じられなくなった。それに、そういう小説を書く根気がなくなった。

 芥川が、歴史物(王朝物、切支丹物、その他)を書けなくなった事は、いわゆる芥川の文学とわかれる、という事である。されば、いわゆる「保吉物」を書き出すと共に、芥川の文学はなくなった、と見るべきである。

 しかし、それは、私の(私だけの)見方〔みかた〕であって、芥川は、そういう昔を題材にした小説が書けなくなると、まず、『私小説』の形で、回想の小説を、書きはじめ、それから、身辺小説のような物に、はいって行った。(すると、私の思う芥川の、⦅あるいは、芥川らしい、⦆文学より、その後の身辺小説風の作品を愛読する人が随分できた。)

 さて、芥川は、回想の小説の手はじめに、まず、横須賀の機関学校につとめていた時分の思い出を、順順に、書いて行った。それが謂わゆる「保吉物」である。

2012/04/23

宇野浩二 芥川龍之介 二十~(2)

 大正十五年は芥川が自ら命を絶った前の年〔とし〕である。

 大正十五年は、芥川は、一月の初めから、胃腸をわるくし、痔疾もひどくなり、神経衰弱もはげしくなる一方であった。それで、前にちょっと書いたように、芥川は、一月の中頃から二月の中頃を、湯河原に、湯治に、出かけた。それから、四月から十二月の末項まで、鵠沼で、暮らした。

 この鵠沼にいた頃が芥川のみじかい生涯の中〔なか〕でもっとも陰惨な時代であった。

 大正十五年は、芥川は、殆んど小説らしい小説を、書いていない、不断に堪えがたい病苦に嘖〔さいな〕まれていたからである。それは、平凡な云い方〔かた〕であるが、死んだ方がよほど楽〔らく〕ではないか、と思われる程の、痛ましい病苦である。それは、その時分の芥川の手紙を見れば、およそ想像がつくから、その時分の芥川の書翰を拾い読みしてみよう。

……近頃目のさめかかる時いろいろの友だち皆顔ばかり大きく体〔からだ〕は豆ほどにて鎧を着たるもの大抵は笑ひながら四方八方より両眼の間へ駈け来〔きた〕るに少々悸え居り候。[大正十五年六月十一日斎藤茂吉宛て]

 

……僕はここへ来る匇匇下痢し、二三日立つて又立てつづけに下痢し、[中略]唯今弟[註―これは、芥川夫人の弟、塚本八洲であるから義弟である]についてゐる看護婦について貰らひ、やつとパンや半熟の卵にありついた次第、[中略]一人で茫漠の海景を見ながら横につてゐるのは実に寂しい。[大正十五年六月二十日小穴隆一宛て]

 

……痔の手術をするにはもつと営養がよくならねば駄目のよし。[中略]兎に角唯今はひよろひよろしてゐます。[中略]何しろ僕は七月になると云ふのに足袋をはき足のうらにカラシを貼〔は〕り、脚湯まで使つてゐるのだから。[大正十五年六月三十日小島政二郎宛て]

 

……唯今也寸志鵠沼にて寝冷〔ねびえ〕発熱中〔ちゆう〕、田端にては多加志腹をこはし臥床中丈夫なのは比呂志ばかり僕もこの間催眠薬をのみすぎ夜中に五十分も独〔ひと〕り語〔ごと〕を云ひつづけたよし。[大正十五年九月二日室生犀星宛て]

 

……僕の頭はどうも変だ。朝起きて十分か十五分は当り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が気がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂鬱になつてしまふ。新年号をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやり切れない気がする。ちよつと上京した次手〔ついで〕に精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。[大正十五年十月二十九日佐佐木茂索宛て]

 

……今はどんな苦痛でも神経的苦痛ほど苦〔くる〕しいものは一〔ひと〕つもあるまいと云ふ気もちだ。数日前に伯母が来てヒステリイを起〔おこ〕した時に君に教へられたのはここだと思つて負けずにヒステリイを起したが、やはり結局は鬱屈してしまつた。我等人間は一つの事位では参るものではない。しかし過去無数の事が一時に心の上へのしかかる時は(それが神経衰弱だと云へばそれまでだが)実にやり切れない気のするものだよ。[大正十五年十一月二十八日佐佐木茂索宛て]

 

……オピアムありがたく頂戴仕り候。胃腸は略々〔ほぼ〕と旧に復し候へども神経は中々〔なかなか〕さうは参らず先夜も往来にて死にし母に出合ひ、(実は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候。「無用のもの入るべからず」などと申す標札を見ると未〔いま〕だに行手〔ゆくて〕を塞がれしやうな気のすること少〔すくな〕からず、世にかかる苦しみ有之〔これある〕べきやなど思ひをり候。[大正十五年十一月二十八日斎藤茂吉宛て]

 

[やぶちゃん注:底本では、それぞれの末にある書簡クレジットの注記が、書簡文から改行されて、下インデントになっている(こうした組み方は今までにない)。ここでは標記のように示し、各書簡の間に行空けを施して読み易くした。

「精神鑑定」この用法は誤りである。「精神科で診察」若しくは「斎藤先生に診察」と記すべきである。こうした誤用は現在でもしばしば見られるのでここで注記しておくが、精神科で診断を受けることを「精神鑑定」とは絶対に言わない。「精神鑑定」とは「司法精神鑑定」のことであり、刑法及び刑事訴訟法の規定による「刑事精神鑑定」と、民法及び民事訴訟法の規定による「民事精神鑑定」、更に精神保健福祉法の規定による「精神保健鑑定」の三種のみを「精神鑑定」と呼称する。因みに精神保健鑑定とは措置入院(自傷乃至他害の恐れのある精神障碍を有すると判断される者を強制入院させること)の可否を判定するために実施される精神鑑定を言う。ゆめゆめ芥川のように日常会話には用いられぬように。

「オピアム」“opium”。オピウムで前段で出て来た「鴉片丸」、アヘン製剤のこと。因みに、「アヘン」とはこの“opium”の中文音訳“a piàn”(アーピエン)の漢訳「阿片」を日本語読みしたもの。]

 ざっと、こういう状態であったから、芥川は、この年〔とし〕、(つまり、大正十五年、)『これ』というような小説を書いていない、しかも、それは、たいてい、小説、というより、小品であるりそうして、それらの小品は、幻覚的なものでも、現実的なものでも、殆んど皆、気味のわるいものであり、病人や『死』をとりあつかつた物が多い。必要があるので、大正十五年に芥川が書いた小説(あるいは小品)を、私の目にふれ私が読んだものを、つぎにならべてみる。

  『カルメン』  (四月  十日作)

  『三つのなぜ』 (七月 十五日作)

  『春の夜』   (八月 十二日作)

  『点鬼簿』   (九月  九日作)

  『悠々荘』   (十月二十六日作)

  『彼』     (十一月 三日作)

  『玄鶴山房』  (十二月十五日以後作)

 数は七篇であるが、四百字づめの原稿紙でかぞえると、『カルメン』は六七枚であり、『三つのなぜ』は十枚ぐらいであり、『春の夜』は七八杖であり、『点鬼簿』は十三四枚であり、『悠々荘』は五六枚であり、『彼』は十七八枚であり、『玄鶴山房』の㈠は一枚半ほどであるから、全体で六十二三枚である。

 さて、右の七篇の小説の中では、一般に、(いや、大〔たい〕ていの評論家も、)『点鬼簿』と『玄鶴山房』を重要な物として取り上げるが、(それは尤もであるけれど、)私は、芥川が鵠沼で書いた作品の中で、『春の夜』と『悠々荘』とを見のがしてはならぬ、と思っている。

 ここで、又、ちょいと寄り路〔みち〕をするが、私は、芥川から、何度か、手紙や葉書をもらった覚えがあるが、その中の一つも保存していない。ところが、初版の芥川龍之介全集の第七巻(書翰篇)のなかに、芥川が私にくれたのが四つ出ているが、その中の「昭和二年一月三十日」というのに、つぎのようなのがある。

 ……まつたく寒くてやり切れない。お褒めに預〔あづか〕つて難有〔ありがた〕い。あの話は「春の夜」と一しょに或看護婦に聞いた話だ。まだ姉の家の後始末片づかず。いろいろ多忙の為に弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さん[註―前に書いた「中央公論」の編輯長]がやめたのは気の毒だね。.余は拝眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。

(この手紙に書かれている事は後〔のち〕に述べる事に必要があるので、全部うつしたのである。)

 さて、この手紙の中の「あの話」とは『玄鶴山房』らしいか、これを褒めたとすると、半分ぐらい世辞である。その事は例によって後に書くことにして、私は、こんど、この手紙をよんで、芥川が、『春の夜』も、『玄鶴山房』も、「或る看護婦」から聞いた話を本〔もと〕にして書いた、という事を知って、私は、やはり、得るところがあった。

(この看護婦は、さきに引いた、大正十五年六月二十日に、芥川が、鵠沼から、小穴に出した手紙の中に、「今弟についてゐる看護婦について貰らひ、……」と書いている、あの看護婦であろう。)

 Nさんという看護婦が派出させられた家は、女隠居が一人と、その子の、雪さんという姉と清太郎という弟と、三人きりの家であったが、姉も弟も肺結核でへ弟の方が病気が重い。そうして、その弟は、木賊〔とくさ〕ばかりが繁茂している庭に面した、四畳〔じょう〕半の離れに、寝ていた。さて、ある晩、Nさんは、、氷を買いに行った帰りに、人どおりの少〔すく〕ない坂道で、後〔うしろ〕から、清太郎そっくりの青年に、抱〔だ〕きつかれた。しかし、一昨日〔おととい〕も喀血した清太郎がこんな所に出てくる筈はない、……家〔うち〕に帰ったら、清太郎は死んでいるのではないか、とまで、Nさんは、思った。ところが、帰って、離れに行つて見ると、清太郎は静かにひとり眠っていた。

 これは『春の夜』の大へん粗雑な荒筋であるが、この小説に書かれてある話は、あまりに暗く、不気味であり、書き方が冷たい。作者は、どの人物にも、同情を持っていないばかりでなく、悪意を抱いているようにさえ思われる。これは言い過ぎとしても、作者の気もちが暗い方へ暗い方へと向いているのが、この小説を、大正十五年の九月号の「文藝春秋」で、読んだ時、私は、気になって、『これはいかん、』と思ったものである。

……Nさんはこの家〔うち〕へ行つた時、何〔なに〕か妙に気の滅入〔めい〕るのを感じた。それは一〔ひと〕つには姉も弟も肺結核に罹〔かか〕つてゐた為〔ため〕であらう。けれども又一〔ひと〕つには四畳〔でふ〕半の離れの抱へこんだ、飛び石一つ打つてない庭に木賊〔とくさ〕ばかり茂つてゐた為〔ため〕である。

 この『春の夜』の初めの方の一節を読んだ時、私は、遣〔や〕る方〔かた〕ない気がした。ところが、おなじ小説の終りの方の、

 僕はこの話の終つた時、Nさんの顔を眺めたまま多少悪意のある言葉を出した。

「清太郎?――ですね。あなたはその人が好〔す〕きだつたんでせう?」

「ええ、好きでございました。」

というところを読んで、私は、索然とした、逸〔はぐ〕らかされたような気がした。しかし」又、私の考えでは」芥川は、芥川流の小説の締〔し〕め括〔くく〕りをつけるために、こういう一節を、最後に、つける癖(というより、好みのようなもの)があった。つまり、こういう『オチ』をつけるのが好きなようなところがあり、こういう『オチ』をつけねは気がすまないようなところもあった。

『オチ』といえば、この小説と、巧拙は別として、構想がいくらか似ている、殆んど同じおもむきの『玄鶴山房』にも、話はまったく違うけれど、やはり、妙な、気になる、『オチ』は附いている。つぎのような一節である。

……彼は急に険〔けは〕しい顔をし、いつかさしはじめた日の光の中にもう一度リイプクネヒトを読みはじめた。

 この最後の大学生がリイプクネヒト(K. Liebknecht)の『追憶録』を読むところが、その頃「新潮」の呼び物になっていた『創作合評会』で、(青野季吉のほかにどういう人たちが出ていたか、私には不明、)問題になって、なにもリイプクネヒトでなくても、原敬でも、東郷大将でも、あるいは、「苦楽」[註―大正十二年頃、大阪のプラトン社から出した娯楽雑誌で、主幹は山内 薫であるが、編輯は直木三十五が川口松太郎を助手にしてやった]でも、よいのだ、などという意見が出た。

 この合評の記事を読んで、芥川は、青野季吉に宛てて、次ぎのような手紙を、書いている。

(これは芥川が青野に唯一度だした手紙である。)

……「新潮」の合評会の記事を読み、ちよつとこの手紙を書く気になりました。それは篇中のリイプクネヒトのことです。或人はあのリイプクネヒトは「苦楽」でも善いと言ひました。しかし「苦楽」ではわたしにはいけません。わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外や世界へ触れさせたい気もちを持つてゐました。[中略]なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました。チエホフは御承知の通り。「桜の園」の中に新時代の大学生を点出し、それを二階から転げ落ちることにしてゐます。わたしはチエホフほど新時代にあきらめ切つた笑声を与へることは出来ません。しかし又新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。リイプクネヒトは御承知の通り、あの「追憶録」の中にあるマルクスやエンゲルスと会つた時の記事の中に多少の嘆声を洩らしてゐます。わたしはわたしの大学生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです。わたしの企図は失敗だつたかもしれません。少くとも合評会の諸君には尊台を除〔のぞ〕き、何の暗示も与へなかつたやうです。それは勿論やむを得ません。しかし唯尊台にはこれだけのことを申上げたい気を生じましたから、この手紙を認〔したた〕めることにしました。

 この手紙には芥川の八分〔ぶ〕ぐらいの本音〔ほんね〕が出ている。

 さて、この芥川の手紙を読んで、青野は、手紙の返事は出さないで、『芥川龍之介と新時代』という評論を書いている。つぎに、それを抜き書きする。

……『玄鶴山房』の中にとぢ込められた悲劇の終りに、広い世間、それも動的な社会の風をちよつと迎ひ入れて、そこで悲劇の小説的浮彫〔うきぼり〕を完成させる上にも、また――これが大切な点であるが、――芥川氏に潜んだ要求を適当な形で満足させる上にも、――やはりリイプクネヒトでなくてはいけないのだ。『玄鶴山房』を読んだ時、最初にまづ私に感ぜられたのはこの点であつた。[中略]芥川氏は新時代の存在乃至到来を、何等〔なんら〕かの形で『玄鶴山房』で、暗示しないではをれなかつた。それはまた芥川氏が彼の生活の世界の傍〔そば〕に新時代の世界の存在乃至到来を認めないではをれなかつたことを意味する。[中略]『玄鶴山房』に現れてゐるところでは、新時代の存在乃至到来を静かな眼で眺めでゐると云ふだけである。[中略]彼は、新時代を認めないではをれない。そして、その新時代を静かな眼で眺めてゐるだけの素直さと聡明さと準備を持つてゐる。しかし、彼は彼の言葉をかりて言へば、『新時代と抱き合ふほどの情熱』を持つてゐないし、そんな情熱が彼のやうな生活の歴史を持つた者に持ち得るものではない。[下略]

 この青野の論は、これだけでも略〔ほぼ〕わかるように、私が先きに引いた、『玄鶴山房』の最後の、大学生がリイプクネヒトの『追憶録』を読むところについて、自分の意見を述べたものである。が、これは、嘗て全プロレタリア文壇をひきいた論客であった青野が、自分の考えから付度〔そんたく〕した論文であるから、青野流の見方にかたむいている、それに、芥川に好意を持っているところもあるので、痛い所を突いていながら『贔屓〔ひいき〕の引き倒し』とまでけゆかないが、すこし見当のはずれているところもあるように思われる。それは、その頃の芥川が、「新時代を静かな眼で眺めてゐるだけの素直さと聡明さと準備を持つて」いたか、どうか、私には、それが、疑われるからである。

 それから、芥川の手紙の中の、「その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました、」とか、「わたしはわたしの大学生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです、」とか、云うのは、これ亦〔また〕、本当にそう思ったのであろうか、与れとも、雇いつき』であろうか、と、私は、頸〔くび〕をひねるのである。ここで、ハッキリ云うと、『玄鶴山房』を略〔ほぼ〕かき終ったところで、芥川は、火葬場から帰りの馬車に乗っている大学生に、自分がちょっと愛読した、リイプクネヒトの『追憶録』を、読ましてみる気になったのである。ちょうど、幸い、リイプクネヒトは、哲学や言語学をまなんでいる、社会主義者であり、イギリスに逃れた時、マルクスにも、逢っている、そうだ、リイプクネヒトを使ってやろう、と思ったのであろう。(これはまったくシャレた趣向だ、いかにも芥川らしい気のきいた趣向だ。)

 例の「新潮」が催した『芥川龍之介研究』(座談会)で、上司小剣が、湯河原で、芥川と逢った時のことを回想して、「社会主義の話、無政府主義の話などが出て、ちよつと柄〔がら〕にないやうな気がした、」と述べた後で、「無政府主義なども可なり深いところまで考へてをられたやうで、おどろいた。ところが、後に、年表を見ると、大学の卒業論文が『ウィリアム・モリス研究』とあるので、成程〔なるほど〕と思つた。それなら、例の『ニュウズ・フロム・ノオウェア』(“News from Nowhere”)まで読んで、アナアキズムの理想社会を一〔ひ〕と通〔とほ〕り見られた筈だと思ふ、」と、述べている。

[やぶちゃん注:「『ニュウズ・フロム・ノオウェア』(“News from Nowhere”)」は、モリスが一八九〇年に刊行した社会主義化した未来のロンドンを舞台とする一種のファンタジー小説。「ユートピアだより」と邦訳される。]

 私は、一この記事を読んだ時、妙な興味を感じた。湯河原に滞在していた芥川が、おな土地の宿屋に小剣がとまっている事を聞くと、芥川流の好奇心をおこして、(ほんの少しからかってみたい気もおこって、)未知の小剣を訪問したにちがいない、と思われるからである。学生時代に、モリスなどを読んだ芥川は、英訳のあった、リイプクネヒト、カウツキイ、あるいは、マルクス[これは、明治の末に、堺 枯川がマルクスとその思想を平明に解いたものがあって、私なども読んだことがある]、その他の本を、興味と好奇心とで、読んだにちがいない。これは、おそらく、芥川ばかりでなく、私たちの二十歳の初め頃はいわゆる社会主義思想の澎湃として起こっていた時分であったから、誰も彼も、若気の至りで、それらの本を、生嚙〔なまかじ〕りでも、読んだものである。

[やぶちゃん注:「堺 枯川」は社会主義者思想家堺利彦の号。]

(わたくし事であるが、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』は、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、十八世紀のイギリスの詩人、ウィリアム・モリスが、社会主義の理想郷を書いた、散文の夢物語である。そうして、これは、著者の友人の話となっているが、一人称で語られているので、平明に書かれていて、なかなか面白い。それで、私は、そのころ親友であった、布施延雄〔ふせのぶお〕に、この本を翻訳することをすすめた。すると、布施は、何箇月〔なんかげつ〕分か下宿代がたまっているから、「それをしたら、それが払える、」と云って、さっそく、⦅といって、まる三箇月くらいかかって、⦆その『ニュウズ・フロム・ノオウェア』の翻訳を仕上げた。

[やぶちゃん注:この布施延雄の訳本は「無何有郷だより」という題で、大正十四(一九二五)年十一月十八日至上社より刊行されている。]

 さて、その翻訳を終〔お〕えて、いそいそと私をたずねて来た布施は、いきなり、「こんどの翻訳で一ばん困ったのは、題名だよ、」と云って、つぎのような話をした。

 Nowhere 〔ノオウェア〕は Utopia 〔ユウトピア〕という意味であり、『ユウトピア』は、トマス・モアの小説『ユウトピア』[千五百十六年出版]から出た言葉であり、モアは、この小説で、ユウトピア島を仮想して、自分の理想とする共産主義の制度がこの島で行われていることを書いているのであるから、「僕は、『ノオウェア』を『理想郷』としよう、と思ったのだが、これでは、ありふれているので、叔父の関〔せき〕[関 如来という明治から大正へかけての古い美術評論家であるが、ずっと前から前進座の後援などもしている、音楽家の、関 鑑子の父である]のところへ行って、Nowhere をそのまま直訳して、『どこにも、……ない』理想というか、夢想というか、……まあ、そういう所ですが、何とか、うまい言葉がないでしょうか、と云うと、関は、腕をくんで、ちょっと頸〔くび〕をひねっていたが、やがて、『荘子』の応帝王篇に、「遊無何有之郷以処壙埌之野」というのがある。『無何有〔むかう〕』とは「何物も有ることなし」という意味だが、全体の文句は、「自然のままで、何の作為もない楽地」とか、「無為優游の地」とか、いう意味じゃ。……どうだ、『無何有郷』というのは、と云った。それで、やっと、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』を、『無何有郷だより』としたんだ、どうだ、うまいだろう。」)

[やぶちゃん注:「関 鑑子」(明治三十二(一八九九)年~昭和四十八(一九七三)年)は「せきあきこ」と読む。昭和十九(一九四八)年に結成された左翼系合唱団、中央合唱団の創立者。因みに、私の父はこの合唱団の団員であった。

「遊無何有之郷以処壙埌之野」底本では「無何有の郷に遊びて以て壙埌の野に処す」と訓ずるための返り点(一二点)が配されている。以上の訓読は「無何有〔むかう〕の郷〔さと〕に遊びて、以て壙埌〔こうろう〕の野〔や〕に処〔お〕る」と訓ずる。以下に「荘子」の「応帝王篇」の三章総てを示す。

天根游於殷陽、至蓼水之上、適遭無名人而問焉、曰、「請問爲天下。」。無名人曰、「去。汝鄙人也、何問之不豫也。予方將與造物者爲人、厭則又乘夫莽眇之鳥、以出六極之外、而游無何有之、以處壙埌之野。汝又何暇以治天下感予之心爲。」又複問、無名人曰。「汝游心於淡、合氣於漠、物自然而無容私焉、而天下治矣。」。

〇やぶちゃんの書き下し文

 天根、殷陽に遊び、蓼水〔れうすい〕の上〔ほと〕りに至りて、適々〔たまたま〕無名人に遭ひて焉〔こ〕れに問ひて曰く、「請ひ問ふ、天下を爲〔をさ〕むることを。」と。無名人曰く、「去れ、汝、鄙〔いや〕しき人よ。何ぞ問ふことの不豫〔ふよ〕なる。予〔われ〕、方-將〔まさ〕に造物者と人〔にん〕と爲〔な〕らんとす。厭〔あ〕かば則ち又、夫〔か〕の莽眇〔まうべう〕の鳥に乘りて、以て六極の外へ出で、而して無何有〔むかゆう〕の游び、以て壙埌〔くわうらう〕の野に處〔を〕る。汝、又、何の暇〔いとま〕ありてか天下を治むることを以て、予の心を感〔うご〕かさんと爲〔す〕るや。」と。又、複〔かさ〕ねて問ふ。無名人曰く、「汝、心を淡に游ばせ、氣を漠に合はせ、物の自然に順はせて私〔わたくし〕を容るること無くんば、而〔すなは〕ち天下、治まる。」と。

〇やぶちゃん現代語訳

 天根なる者、殷陽の地に遊び、蓼水〔りょうすい〕のほとりへと至った時、無名人と出逢った。天根は、すかさず彼に問いかけた、

「どうか、天下を治める術〔すべ〕をお教え下されい!」

と。無名人は答えて言った、

「去れ! 汚らわしき俗人よ。不快な問をしよって! 儂は今、造物主を友として遊んでおる。それに飽いたら、あの莽眇〔もうびょう〕の鳥――遙かなる鳥と名指す鳥――の背に乗り、この天地の外へと飛び出し、そうしてその無可有〔むかゆう〕の地――何処でもないところと名指す地――に遊び、壙埌〔こうろう〕の野――果てしなく広がる曠野〔あらの〕と名指す野――におろうと思うておるに。なのに、お前はまた、何に言うにことかいて、天下を治めるなんどという下らぬことで、この儂の静かな心を乱そうとするか!」

と。しかし尚も天根は最初の問いを繰り返した。されば、無名人は答えた、

「一切を捨てて心を恬淡無欲無知無心の境地に遊ばせ、生命の気を空漠虚空静寂無限に共時させ、万物流転無為自然の理に従って一切の己れを差し挟むことが無とならば――自ずと天下は治まる――。」

と。

「無為優游」「優游」はゆったりしていること、伸び伸びとしてこせつかないことの意。一切の人為を排して悠然と遊ぶこと。]

(『無何有』といえば、『万葉集』にも、「心をし無何有のさとに置きたらば藐姑射〔はこや〕の山を見まく近けむ」というのがある。これを見れば、万葉集の時代に、すでに、『無何有のさと』――つまり、『無何有郷』――という言葉があったのである。)

[やぶちゃん注:この歌は「万葉集」巻十六に詠み人知らずで載る三八五一番歌で、一般には、

 心をし無何有〔むかう〕の郷〔さと〕に置きてあらば藐姑射〔はこや〕の山を見まく近けむ

の表記。その意は、

 この心を、正しく何の作為もない無何有の境地においておくことが出来たなら――仙人の住むという姑射山〔こやさん〕とてもすぐにでも見られることであろう――

といった感じか。「藐姑射の山」はやはり「荘子」の「逍遙遊篇」の三章に現れる仙山。但し、これは本来は「藐〔とほ〕き姑射の山」の謂いであるから、訳では「姑射山」とした。]

 つまり、私のような者でも、一方では、ボオドレエル、ヴェルレエヌ、ランボオ、その他のいわゆる頽廃派の詩人たちの詩を読みながら、他方では、いま述べたように、ウィリアム・モリスの小説(さきに書いた、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』のほかに、これも、社会主義の宣伝のために書いたような『ジョン・ボオルの夢』という小説など)や、クロボトキンの、『ロシア文学の理想と現実』[これは伊東整の名訳がある]は、もとより『一革命家の思い出』、その他や、芥川が読んだと云うリイプクネヒトの、『追憶録』と、『新世界への洞察』や、それに類する本を、無方針に、手当り次第に、読んだ。まったく『手当〔てあた〕り次第』であって、凡そ『好学心』などというものではなかった。

[やぶちゃん注:「ジョン・ボオルの夢」“A Dream of John Ball”(ジョン・ボールの夢)は、モリスがワット・タイラーの乱を題材にした一八八八年刊行の小説。]

 つまり、私のような語学のできない者でもそうであるから、語学の方でも秀才であった芥川は、おなじ『手当り次第』でも、このはかに、レエニン、トロツキイ、カウツキイ、その他のものをも読んでいたにちがいないのである。私が、或る時、このような話が出た時、「君〔きみ〕、カウツキイの『トマス・モオアと彼のユウトピア』はおもしろいね、」と云うと、芥川は、言下に、「カウツキイが息子と共著で出した、マルクスの『資本論』の英訳があるが、ごれは、通俗に書いてあるから、僕らにもわかりいいよ、」と云いはなった。(余話であるが、私は、その時分よりずっと後に、いま名を上げた人の中では、レエニンの『トルストイ論』とトロツキイの『文学と革命』を読んで、拾い物をしたような喜びを感じた。)

[やぶちゃん注:「カウツキイの『トマス・モオアと彼のユウトピア』」マルクス主義の政治理論家カウツキーの“Thomas More and his Utopia”は一八八八年の刊行。]

 私は、今、ふと、思い浮かべた、芥川が読んだと云う、ウィリアム・モリスの『ニュウズ・フロム・ノオウェア』も、『ジョン・ボオルの夢』も、両方とも、社会主義の宣伝のために書かれたものであるが、形式は美しい物語であり、殊に『ジョン・ボウルの夢』などは、ところどころ、詩がはさまれている、これは、もとより、モリスが根が詩人であるからであろうが、私などは、まず、モリスの『詩』に心を引かれたのであろう、と。

 ところで、卒業論文に、『ウィリアム・モリス研究』を書いた芥川は、(芥川も、)「詩人としてのモリスからやり出し、それから、社会改良家としてのモリスに及び、全体のモリスの研究をやるつもりだったが、だんだん時間がなくなってしまって、……」と久米が述べているから、芥川の『ウィリアム・モリス研究』はおそらく詩人としてのモリスだけを論じたものであろう。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の卒業論文『ウィリアム・モリス研究』は、関東大震災で焼失し、残念ながら我々はそれを読むことが出来ない。]

 ところで、芥川が、もっとも興味を持ったらしいモリスは、すぐれた詩人であり、たくみな美術工芸家であり、ラファエル前派の代表的な芸術家の一人であり、『玄鶴山房』の終りに使ったリイプクネヒトは、社会主義者であり、ジャアナリストであり、その著書を読んだカウツキイは社会主義者であり、トロツキイは、革命運動家であり、時事評論家であり、文芸批評家であるが、この人たちは、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、一種の浪曼主義者のようなものである。

 さきに述べた「新潮」主催の座談会『芥川龍之介研究』で、上司小剣が、芥川を「モリスとどこか似てゐやしないかといふやうな気がする、」と云ったり、「モリスはアナアキズムの詩人だから、」と云ったり、しているのは、上司〔かみつかさ〕流(あるいは、上司好〔ごの〕み)の見方〔みかた〕であるJそれは、上司が、若い時分にアナアキズムに興味をひかれた事があり、いくらかアナアキスティックな思想を含んだ作品を書いたことがあるからであろう。しかし、上司は、そういう思想に興味を持った事はあっても、決してそういう思想に深入りできない性質を持っていた。(それは、上司と殆んど同時代の、白柳秀湖に似ている。)

[やぶちゃん注:「白柳秀湖」上巻の「八」で既出であるが、ここで注しておくと、白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ 明治十七(一八八四)年~昭和二十五(一九五〇)年)は小説家・社会評論家・歴史家。早稲田大学哲学科在学中から堺利彦の影響を受け、社会主義活動を支援、明治四十(一九〇七)年に隆文館編集記者となり、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。明治四十三(一九一〇)年の大逆事件以後は社会主義思想や文学活動から離れ、社会評論や歴史研究に従事した(以上はウィキの「白柳秀湖」に拠った)。]

 さて、湯河原の或る宿屋に、芥川が、二十〔はたち〕ぐらい年〔とし〕のちがう、作風も性質もちがう、未知の、上司小剣を、たずねたのは、例の、好奇心がはたらいたのか、からかうつもりであつたのか。仮りに芥川を一〔ひ〕と筋縄で行かない人物とすれは、上司も一と筋縄ぐらいでは行かない人物である。上司は、日本の社会運動家の元祖の一人である、堺 枯川につれられて、上京し、すぐ読売新聞社にはいり、その間に『平民新聞』などに寄稿しながら、作家生活をするまでに、二十三四年も、おなじ新聞社につとめていた人である、上司は、芥川より十年も前に可なり評判になった処女作(『神主』)を発表しながら、芥川が作家生活をはじめた一年後に作家生活にはいった。芥川を仮りに浪曼主義者であり詩人であったとすれば、上司はまったくその反対の人であった。芥川が、初めからしまいまで、駈〔か〕け足で、花やかな作家生活をしたとすると、上司は、はじめからしまいまで、牛の歩〔あゆ〕みのごとく、のろのろと、地味な作家生活をつづけた。

 こういう芥川が、突然、湯河原の或る宿屋に、こういう上司を、たずねて、社会主義の話や無政府主義の話などをしてから、カウツキイの話をした。ところが、その時の記録によると、上司は、「その時、独逸〔どいつ〕のカウツキイの話が出たのを、うつかり、僕は大英百科全書に社会主義の説明をしてゐたカアカツプとまちがへて、とんちんかんな返事をして、後〔あと〕で恥づかしく思つたことがある、」と述べている。そこで、芥川は、この先輩の作家を『与〔くみ〕し易〔やす〕し』と思ったのであろうか、学生時代にいくらか研究もし調〔しら〕べたこともある、ウィリアム・モリスについて、大〔おお〕いに気焔をはいたらしい、先〔さ〕きの話の後〔あと〕で、「文芸と工芸との結合七いふやうなモリスの主張も、その時の話題に上〔のぼ〕つた、」と上司が述べているからでもある。

[やぶちゃん注:「カアカツプ」“An Inquiry into Socialism”等を書いたThomas Kirkup(一八四四年~一九一二年)であろう。]

 ウィリアム・モリスは、多芸多才の人であるから、前に述べたよう町、すぐれた詩人でありながら、たくみな物語や小説も書き、その上、モリスは「美術工芸家としてもおどろくべき腕を持っていた。それで、モリスは、美術的な家具の製作や装飾意匠に努力をした、つまり、ステインド・グラス、壁画、壁掛け、絨毯、それから、刺繡、綴〔つづ〕れ織〔おり〕のような物まで造った。それから、モリスは、公共用の建築の装飾の研究などして、イギリス全土にわたる建築の美化運動まで企〔くわだ〕てた。つまり、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、モリスは、自分の生活を美化すると共に、『美』を民衆の手のとどく所に置こうとしたのである。それから、モリスは、又、美術的な活字の母型や装飾縁模様などを意匠して、五十三巻の豪華版抄本を印刷した。そうして、最後に出したチョオサアの『カンタベリ物語』は豪華版ちゅうの豪華版と称されている。――つまり、湯河原の或る宿屋で芥川と上司の話題に上〔のぼ〕った、モリスの「文芸と工芸の結合」とは、こういう事を話し合ったのであろう。

 しかし、もしこういう話であれば、これは、芥川が、勢〔いきお〕い(つまり、他に勝とうと競う気力)に乗って喋〔しゃべ〕った、その場かぎりの話である。その勢いに乗った話が本〔もと〕になって、この時の座談会では、芥川は、社会主義や無政府主義に関心を持っていて、時にはアナアキスティックな気持ちで物を書いている、とか、「思想として、ちょっとニヒリスティックな、アナアキスティックだつた、」などと、云われている。が、私は、芥川の小説にそういうものを感じさせる物が幾つかあるとしても、芥川は、一〔ひと〕つの作品をつくるために、『そういうもの』を「道具」として使っていたのである、と思うのである。

 芥川が、学生時代にモリスに心を引かれたのは、社会運動家(あるいは社会運動指導者)としてのモリスではなく、詩人(あるいは芸術家)としてのモリスである。これはさすがに賢明である、なぜなら、ウィリアム・モリスは、まず第一にラファエル前派の代表的な芸術家の一人であり、つぎに美術工芸家であり、それから、社会運動家であるからである。(余話であるが、芥川より五六歳も年上〔としうえ〕であるが、事情があって、芥川が大学を卒業した頃まだ大学に籍のあった、芥川の親友であった、江口 渙は、大学に出す論文を書くために、それまで愛読していた、オスカア・ワイルドの諸作品を一所懸命に読みかえしていた。芥川が処女作[つまり、『鼻』大正五年発表]を発表した年〔とし〕から四五年も前から、「新小説」、その他に発表していた江口の小説は、その作風にちょうど合うような、いわゆる美文調の文章で書かれてあうた。)聞くところに依ると、芥川が大学に出した、『人及び芸術家としてのウィリアム・モリス』も、『詩人としてのウィリアム・モリス』も、研究というよりは、(むろん研究であるが、むしろ、)美文調で書いた伝記風〔ふう〕の文章であったそうである。

 前にもちょっと書いたように、芥川は、散文的なところもありながら、根は詩人であった。そうして、それに故事〔こじ〕つけて云うと、佐藤春夫は、詩人的なところがありながら、根は散文的なところもある人である。そうして、文人らしいところは、形〔かたち〕はちがうが、佐藤と芥川とは共通している。(『文人』とは「詩歌書画などの道に心を寄せる人」という程の意味である。)美文を好み美文を巧みに作〔つく〕れるところも、やはり、形や気もちはちがうが、芥川と佐藤は似たところがある。

 冬とは云ひながら、物静〔ものしづか〕に晴れた日で、白〔しら〕けた河原〔かはら〕の石の間〔あひだ〕、潺湲〔せんくわん〕たる水の辺〔ほとり〕に立枯〔たちか〕れてゐる蓬〔よもぎ〕の葉を、ゆする程の風もない。川に臨〔のぞ〕んだ背〔せ〕の低い柳は、葉のない枝に飴の如く滑〔なめら〕かな日の光りをうけて、梢〔こずゑ〕にゐる鶺鴒〔せきれい〕の尾を動かすのさへ、鮮〔あざや〕かにそれと、影を街道に落〔おと〕してゐる。

[やぶちゃん注:「潺湲」は現代仮名遣で「せんかん」で、水がさらさらと流れるさまを言う。「せんえん」とも読む。]

 これは『芋粥』の初めの方の一節であるが、元慶〔がんきょう〕の末か、仁和〔にんな〕の始めか、(そんな事はどうでもよい、と作者も書いている、)の一月の五六日頃の朝、藤原利仁〔としひと〕と五位が、京都を立ち出〔い〕でて、加茂川の河原にそうて、粟田口の方へ行く街道の光景を書いてある――芥川の美文の一〔ひと〕つの見本〔みほん〕として、うつして見たのである。

 これは、説明するまでもなく、唯きれいに書いてあるだけで、つまり、「修辞を巧みにし、美しく飾りたる」文章、というだけのものである。

 ……その内〔うち〕にふと男の耳は、薄暗い窓の櫺子〔れんじ〕の中に、人のゐるらしいけはひを捉へた。男は殆〔ほとん〕ど何の気なしに、ちらりと窓を覗いて見た。

 窓の中には尼が一人〔ひとり〕、破れた筵〔むしろ〕をまとひながら、病人らしい女を介抱してゐた。女は夕ぐれの薄明〔うすあか〕りにも、無気味なほど痩せ枯れてゐるらしかつた。

 これは、『六の宮の姫君』の後〔おわり〕にちかい方〔ほう〕の一節である。

 私は、この小説を読む前に、『往生絵巻』を読んで、何ともいえぬ暗い気もちになった。そうして、この『六の宮の姫君』を読みおわった時は、「これは助〔たす〕からない、」というような気がした。

「芥川が、……こんな小説を書いている、これはよくない、……」

『往生絵巻』は、ずっと前に述べたように、「国粋」という殆んど人の知らない雑誌に出た。『六の宮の姫君』も、やはり、「表現」という三流以下の雑誌に出た。私は、この二つの小説を、雑誌に出た時に、読んだのである。どんな雑誌に出た、(か、)というような事は、もとより、問題ではない。

 ところで、『往生絵巻』は、これも先〔さ〕きに書いたように、芥川の作品としては、雑〔ざつ〕なものであるから、雑誌を読んだ時は、それほど気にならなかった。しかし、『六の宮の姫君』は、やはり、(又か、と思うほど、)いわゆる王朝物ではあるけれど、例の「何〔なに〕も、――何〔なに〕も見えませぬ。暗〔くら〕い中に風ばかり、――冷たい風はかり吹いて参〔まゐ〕りまする、」というところは、何度よんでも、私には、気もちがわるい。

 ここで、ちょっと著作年表をひらいて見ると、『芋粥』は大正五年八月の作であり、『往生絵巻』は大正十年四月の作であり、『六の宮の姫君』は大正十年八月の作である。そうして、『芋粥』も、『往生絵巻』も、『六の官の姫君』も、ついでに云えば、『好色』[大正十年作]も、『藪の中』[大正十一年一月作]も、みな、主〔おも〕に、『今昔物語』の中の話を素材にして作ったものである。

 そうして、芥川の、準処女作といわれている『羅生門』も、出世作となった『鼻』も、そのころ新進作家の初舞台といわれた「新小説」に出た『芋粥』も、みな、『今昔物語』の中の話を素材にしたものである。それから、芥川は、『鼻』と『芋粥』を書いた年〔とし〕に、やはり、『今昔物語』から取った『運』と『道祖問答』を書いている。それから、その翌年[大正六年]、やはり平安朝[末期]を舞台にした『倫盗』[この小説は、作者が、失敗作と思って、単行本に入れなかった]という百二三十枚の小説を書いている。つまり、芥川は、大正四年の新秋から大正六年の初夏までの間に、いわゆる王朝物を六篇かいている、という事になる。

 それで、芥川の『王朝物』と称される作品は、初めは、物珍しかったのと、ちょいと奇抜な書き方がしてあったのと、手際〔てぎわ〕のよい、頻りに凝った文章で書かれてあったのとで、今かんがえと、買い被られたようなところもあると思われたほど、たいそう評判がよかった、十返舎一九の『東海道中藤栗毛』の中に、「さあ、評判ぢや、評判ぢや、」という文句があるが、この初期の芥川の小説は、出る毎に、「さあ、評判ぢや、評判ぢや、」と、持てはやされた観があった。

 ところで、おなじ『今昔物語』から素材を取ったものでも、原作の筋が殆んどそのまま取られているものでも、(原作の筋を殆んどそのまま取った物の方が多いけれど、それでも、)一〔ひ〕と捻りか二〔ふ〕た捻りかして、一種の美文で、(一種の美辞麗句をつらねて、)書いた作品は、(たとえば、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』、などは、)増〔ま〕しな小説になっているが、素材の話を、あまり捻らないで、(つまり、あまり工風〔くふう〕しないで、)はでな形容詞など使わないで、洒落〔しゃれ〕や皮肉を殆んど入れないで、書いた小説は、(つまり、『運』や『道祖問答』などは、)味も素〔そ〕っ気〔け〕もない、あまり面白くもない、徒〔ただ〕の昔の話になってしまうのである。

 そこで、大〔おお〕ざっぱに云うと、これまで、(芥川が書くまで、)殆んど誰〔だれ〕も気のつかなかった『今昔物語』(『宇治拾遺物語』もあるが、ほとんど『今昔物語』)の中の話を素材にして小説を書いた、という事が、芥川の大きな手柄〔てがら〕の一〔ひと〕つであり、それで、誰〔だれ〕が附けたか、『王朝物』と称せられる幾つかの小説によって、芥川は、文壇的に、(文壇的に、である、)たちまち、高名になったのであった。

 ところで、(ここでは、いわゆる『切支丹物』、については、わざと言及しない。一〔ひ〕と口〔くち〕に云えば、『王朝物』も、『切支丹物』も、芥川の文学に於いては、論じる人があれば、殆んど同じ物であるからだ、)ここで、『種〔たね〕』(あるいは『材料』)という言葉をつかうと、芥川の『王朝物』の種は、すなわち『今昔物語』の中の話であった。いうまでもなく、『今昔物語』には無数の話がはいっている。しかし、いくら無数の話があっても、芥川にむく話はそんなに数多くある筈がない。しぜん、芥川に、いかにすぐれた才能があっても、『種』の尽きてくるのは当然である。(そうして、もとより、『切支丹物』も同断である。)

 芥川は、『地獄変』でその頂上にのぼった。もっとも、『地獄変』は、ずっと前に述べたように、『宇治拾遺物語』の第三と、『十訓抄』の第六と『古今著聞集』第十一の画図第四話などに依って書いたものであろう。つまり、芥川は、『地獄変』以後は、しだいに『今昔物語』の話に気乗りがしなくなり、そこから種を無理にあさるようになったのであろう。そうして、そういう状態で書かれたのが、『往生絵巻』であり、『六の宮の姫君』である。

 たしか、『古今集』か何かの序に、「やまと歌は、人の心をたねにして、…」というような文句があったが、これは、大真面目〔おおまじめ〕で云う、芥川が、仮りに、『人の心』を種〔たね〕にしていたら、種に尽きるような事になりはしなかったか、と、私は、切〔せつ〕に、思うのである、芥川が、『人の心』でなく、『自分の心』を種にして、小説を書き出したのは、生涯の終りに近くなって、身も、心も、切羽〔せっぱ〕つまってから、であったのだ。そうして、その最初の物が、『海のほとり』か、『年末の一日』か、『点鬼簿』か。――それは、後に述べることにして、ここで、ずっと前に書いた、芥川が、鵠沼の東家で、私に、半分ぐらい約束するように、云った、新年号の雑誌の小説を、書いたかどうか、という話にうつろう。

2012/04/22

モップス 月光仮面

僕が最初の担任をした教え子たちよ――

僕は広島への修学旅行の時、バスの中で――

君たちに何か歌えと言われて――

この曲を歌ったのだが――

……覚えていないだろうな、♪ふふふ♪……懐かしい……

http://www.youtube.com/watch?v=xDvbrGPz2z8

……本当は……このシングルのB面だった「AJA」という曲がとってもウエットでいい曲だったんだけど……もう、二度と聴くことはないかも……知れない……な……

宇野浩二 芥川龍之介 二十~(1)

    二十

 

 その翌年(つまり、昭和二年)の「中央公論」の一月号には、芥川の小説『玄鶴山房』は、その「一」というのが、四百字づめの原稿紙でいうと、一枚半ぐらいしか出なかった。私は、それを見て、大へん失望した。が、そういう私は、『軍港行進曲』という小説が予定の五分の一ぐらいしか書けなかったので、それを二月号に延ばしてもらったので、結局、芥川との約束(のようなもの)を破って、「中央公論」の一月号には、とうとう、小説が出せなかったのである。しかし、そんな事は棚に上げて、私は、その芥川の『玄鶴山房』の「一」の終りの、

 彼等は二人とも笑ひながら、気軽〔きがる〕にこの家の前を通つて行つた。そのあとには唯凍〔い〕て切つた道に彼等のどちらかが捨てて行つた「ゴルデン・バット」の吸ひ殻が一本〔ぽん〕、かすかに青い一すぢの煙を細ぼそと立てでゐるはかりだつた。……

という一節を読みおわって、「あいかわらず気どったものだなあ、」と、思った。しかし、これからどういう事を書くのかわからないが、この十行〔ぎょう〕か二十行ぐらいの文章で、玄鶴という人間とその玄鶴の妙な家を、その一端を、巧みに現しているのを読んで、私は、「やっぱり旨〔うま〕いところがあるなあ、」と、感心した。感心しながら、「これだけしか書けなかったのは、まだ体〔からだ〕がよくないのであろうか、」と、私は、陰〔かげ〕ながら、心配した。

 ここで、又、芥川の書翰をしらべてみると、大正十五年の十二月のところで、十六日に「中央公論」編輯者の高野敬録[高野はたしか編集長であった]に宛てた手紙の中に、「昨夜は二時すぎまでやつてゐたれど、薄バガの如くなりて書けず、少々われながら情なく相成り候次第、何とも申訣無之〔これなく〕候へども二月号におまはし下さるまじくや。これにてはとても駄目なり。二月号ならばこれよりやすまずに仕事をつづく可く候。斎藤さんにも相すまざる事になり、不快甚しく候」と書いてある。この手紙は、いうまでもなく、『玄鶴山房』が少ししか出来なかった詫びと言〔い〕い訳〔わけ〕である。

 それから、この手紙の中に「斎藤さんにも相すまざる事になり、」とあるのは、芥川が、眠れなかったり、痔の痛みに堪えられなくなったり、する時に必要な薬を、しばしば、斎藤茂吉から、都合をしてもらいながら、仕事がはかどらない事が、茂吉にすまない、という程の意味であろう。それは、芥川が、十二日に、鵠沼から、茂吉に出した、つぎのような手紙をよんでも、ほぼ察しられる。

 冠省、まことに恐れ入り候へども、鴉片丸〔あへんぐわん〕乏しくなり心細く候間、もう二週間分はど田端四三五小生宛お送り下さるまじく候や。右願上げ候。中央公論のは大体片づき、あと少々残り居り候。一昨日は浣腸して便をとりたる為、痔痛みてたまらず、眠り薬を三包〔みつつみ〕のみたれど、眠る事も出来かね、うんうん云ひて天明に及び候 以上

 私は、この手紙を読んで、驚歎した、――まず、『鴉片丸』などというものが初耳だったからだ、(鴉片は阿片であり、阿片は毒薬でもある、)その『鴉片丸』を、何〔なん〕と、「もう二週間分ほど」送ってほしい、と書いてあるからである、眠り薬を三包ものんで、眠られず、唸〔うな〕りつづけているうちに夜が明〔あ〕けた、と書いてあるからである、――これらの物事は、みな、異常以上の異常であるからである。

 私のような不眠症などに殆んど全〔まった〕くかかった事のない者には、これだけの事を、手紙で読んでも、(あるいは、聞かされても、)これは大変な事だ、こんな事になったら堪〔たま〕らないなあ、と、思われた、このような恐ろしい病気にかかったら、結果から云うのではないが、いっそ死んだ方〔ほう〕がましだ、という気もちにもなるであろう、と、この時分の芥川を幾らか知っている私には、何〔なん〕とも痛ましくてたまらない思いがするのである。

 ところで、この手紙は、よく読めば、(念を入れて読むと、)ここに述べたように、普通の人が思いも寄らないような、惨〔むご〕たらしい、異常な、事が書かれてあるのに、あまりに、スラスラと流暢に、書いてあるので、うっかり読み流すと、その実感が殆んど浮かんでこないのである。それは、今〔いま〕の人が、(いや、私なども、)使わない、書けない、スラスラした、『候文〔そうろうぶん〕』で書かれている上に、例えば、「アヘンガン、トボシクナリ、ココロボソク、」とか、「ネムリグスリヲ、ミツツミ、ノミタレド、ネムルコトモ、デキカネ、」とか、「ウンウンイイテ、テンメイニ、オヨビソロ、」とか、いうように、口調のよい名文章で、書かれてあるからである。

 それで、この手紙には、前に述べたような、文章だけを、無心に、読み流すと、堪えがたい苦しさに悩んでいる難病人が書いたとは、どうしても、思われないような、余裕がある、余裕どころか、洒落のようなものさえ感じられる。例えば、初めの方の「鴉片丸乏しく心細く候」などというところは、不断〔ふだん〕の芥川を知っている私などには、いかにも芥川が使いそうな文句である、と思って、微笑〔ほほえ〕ましい気もちさえする。しかし、やはり、しじゅう、催眠剤を用いている、人一倍神経質で気むつかし屋の、斎藤茂吉は、その日の虫の居所〔いどころ〕がわるい時は、こういう文句を読めば、腹を立てるかもしれない。

 ところで、この手紙の中に「中央公論のは大体片づき、あと少々残り居り候、」とあるのは、これが『玄鶴山房』であれば、噓であるが、これは、手にはいりにくい薬で世話になっている上に、ときどき診察もしてもらう、脳病院長、医学博士、斎藤茂吉の気を安めるための、芥川の心づくしであろう。(晩年の芥川は、⦅死を決していたからでもあったか、⦆二一十五六歳の若さでありながら、いろいろな人に、こまかく心をくばり、いたく深切にした。――この事については後〔のち〕に述べるつもりである。)

[やぶちゃん注:「鴉片丸」の「鴉片」は勿論、麻薬として知られる阿片〔あへん〕、オピウムのことであるが、これについての宇野の反応はやや過剰で、阿片は医薬品として(現在もアヘン末等で医師の処方によって流通している)重度の下痢症状や疼痛の改善薬としてあり、強い鎮痛鎮咳効果を持っている。]

尾崎放哉 入庵雜記 全 「大空」初版版 附やぶちゃん注

HPのトップ・ページに尾崎放哉「入庵雜記」全(「大空」初版版 附やぶちゃん注)及び同縦書版を公開した。

2012/04/21

海豹 フイオナ・マクラオド 松村みね子訳 底本脱落部分二ページ分追加

本日(2012年4月21日)午後、僕の古いテクスト、

海豹   フイオナ・マクラオド 松村みね子訳

を見られた識者の方より、重大な消息がもたらされた。則ち、この「海豹」には大きな欠落が存在する、という事実である。
尚且つ、それは底本自体の原本からの欠落、ページにして二ページに及ぶとんでもない欠落、という驚天動地の事実なのであった。
 その方のお話によれば、これは大正十四(一九〇三)年第一書房刊行の元本(もとぼん)から、何と見開き二ページ分が丸々欠落している、というのである。則ち、それを親本とした沖積舎による復刊本が、復刊の際にその二頁分を完全に欠落させて復刊してしまい、更にそれを底本にした、私が底本にした筑摩書房2005年刊ちくま文庫版も、元本との校合もせずに、恐るべき同じ誤りをまたしても引き継いでしまった、というのである。その方は『たまたま文章がつながってしまったため、見過ごされてしまったのでしょう。単純な編集ミスと思われます』とお伝え下さったが、私は読みながら大きなショックを受けた。それは誤った編集者に対して、ではなく、それに気づかずに誤ったテクストを流してきた私に対してであった。少なくとも、私はそれに気づくべき責任の一端を担っていたはずだ、と思うのである。その違和感に気づかなかったということへの、内心忸怩たる思いが生じた。
 マクラウドへ、というより――私は松村みね子――片山廣子への深い陳謝の意を込めて、今夜、その補正を行った。
 実はその指摘をして下さった方が、同じ中で、その元本が「国立国会図書館 近代デジタルライブラリー」にあることを、その脱落当該データのページ数まで示してお教え下さったため、急遽、データのダウンロードと補正を行うことが出来たのである。元本は正字正仮名であったが、本テクストに合わせて新字新仮名に直し、そのまま該当箇所に挿入した。底本編集者のミスであり、特に本文ではその箇所を指示していないが、具体的には「海豹」の冒頭から五段落目の、
 僧房の入口で彼は振りむいて、兄弟たちに内に入れと命じた「平和なんじらと共にあれ」
の鍵括弧直下に続く部分から、コラムの台詞、
「あをたは誰か」
の前行までの部分である。
 恐るべき――何十年にも及ぶ――二ページ分もの脱落――何十年もの間、誰一人、それに気づかず、いや、気づいてもそれを誰も指摘せず、誰も直さなかった――勿論、その最大の現存在の犯罪者は、今、こうしてのうのうとそれを公表して平気でいた、この私自身に他ならなかったのである――
 私はそれでも、こうして自らの犯罪行為(私にとっては結果として許すべからざる行為なのである――愛する片山廣子に対しての――である)を是正することが出来たのであった。
 ここをかりて、お便りを下さった方へ、心よりの御礼申し上げるものである。

      藪野直史

失踪していた本を発見する

かつて録画したヴィデオ・カセット200本程をそろそろ廃棄しようと段ボールに入れてあったのを整理しかけたところ、その一箱の中に二年程前から失踪していた尾崎放哉の句集「大空」初版本が落下しているのを発見した。先日来の身辺整理で見つからず、諦めかけていた。何せ、実物は大正十五(一九二六)年刊行ながら、極めて希少で現存確認出来るものは数冊と言われているだけに(放哉研究家でも持っている人は少ない。僕自身、現物を見たことはさる文学展での一度しかない)、復刻でも無性に嬉しかった(しかし、近年、この手の復刻本は人気がガタ落ちだ。因みに今、ネットで調べたら、この復刻「大空」、中古で千円だとよ……♪とほほ♪……でも千円、とんでもないお買い得だと……思うよ……♪ふふふ♪)。1983年にほるぷ社が復刻したセット販売の「詩歌文学館」の「紫陽花セット」の一冊で、実に29年前、薄給のボーナスをつぎ込んで買ったものだった。本書が貴重な理由は、数多い尾崎放哉の出版物の中で、正字で記されているものは現在、全くと言っていいほど、流通していないからである。また、以前にブログ版「鉦たたき」で示したように、随筆「入庵雑記」等は現在知られているものとは、表記や表現にかなり有意な異同が見られるのである。――今日の「大空」の僕の手への帰還は、僕の野人への御褒美である。――何故なら僕が野人化しなければ、この段ボールの山は五六年先まで開かれることはなかったからである。――これより、全「入庵雑記」『大空』版テクスト化作業に入る――

新編鎌倉志總目録(やぶちゃん電子版)   「新編鎌倉志」本文テクスト化プロジェクト完遂

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「新編鎌倉志」に「新編鎌倉志總目録(やぶちゃん電子版) 」を配す。検索の用に供するとともに、後は、注を殆んど施していない「卷之一」に手を加える作業を残すのみで、これを以って一年三ヶ月余を費やした「新編鎌倉志」本文のテクスト化プロジェクトを完遂した。現在までの僕の作業の中では、「和漢三才図会」の水族の部に次いで、ソリッドに最も時間のかかったものであった。特に開始直後の母の逝去で挫けなかったことだけは、幸いであった――いや、寧ろこの作業に自己拘束の義務を附加させることで、僕は母の死の哀しみから少し救われていた、というのが正しい謂いである。

――かつての僕のような――若き鎌倉史研究の好学の士のために――本テクストを捧げる――

2012/04/20

宇野浩二 芥川龍之介 十九

     十九

 

 これから述べる事は、前に、或る長篇小説の中に、一つの挿話として、(作〔つく〕り話ではあるけれど――『作〔つく〕り話〔ばなし〕』といえば、実〔まこと〕しやかに書いているこの文章にも到る処に『作り話』がある事を、ここで、断っておく、)書いた事があり、芥川が死んでから間もなく書いた追悼文の中にも簡単に述べた事があるので、それらの話といくらか重複するところがあるけれど、これは、どうしても、この文章に必要があるので、『重複』を承知の上で書くのである。この事も前もって断っておく。

 大正十五年の十一月の末頃あったかと思う。私は、その二三箇月前から、神経衰弱にかかり、その上、家庭の内と外にかなり厄介な事件などがあったりして、とかく気もちが落ちつかなかった。それに、私も、その頃、自分の仕事にユキヅマリを感じていたからでもある。それで、その十一月の末頃、気をはらすために、母をつれて、(母と一しょに、)箱根に出かけた。そうして、私たちは、箱根の底倉にとまり、熱海にまわって、伊豆山の熱海ホテルにとまった。(そこで、新婚旅行で来でいた、片岡鉄兵夫妻に逢った。「日清戦争の最中〔さいちゅう〕に生まれたので、おやじは、僕に、『鉄考という名をつけたんでしょう、へへへへ、」と、ある時、笑いながら、云った片岡は、その頃は、まだ新感覚派の一人〔ひとり〕であった。)さて、熱海から東京ゆきの汽車に乗ってから、私は、汽車が大磯あたりを走っている時、ふと、やはり、神経衰弱で鵠沼に保養に行っている、芥川を、思い出した。

[やぶちゃん注:この宇野の鵠沼訪問は新全集宮坂覺氏の年譜によれば、同年十一月二十七日のことである。]

 そこで、私は、急に芥川逢いたくなったので、母にその事を話し、母と汽車のなかでわかれ、(母はそのまま汽車で東京に帰ることにして、)藤沢で、おりた。芥川とは、ずっと前に書いたように、その頃、雑誌「新潮」の主催で毎月ひらかれた月評会の帰りに、浅草の茶屋に一しょに行った時に、逢ったが、その時は、芥川が愛していた、私もよく知っている、小亀という芸者が傍にいたので、十分に話ができなかった、それで、したしく逢うのは、五年ぶりぐらいであった。それで、私は、芥川に逢うことが、心がおどるほど、うれしく、なつかしかった。

 さて、鵠沼で電車をおりた時は、もううす暗〔ぐら〕かった。松の木の目だって多い、両側が生け垣つづきの、砂利の細道をいそぎ足にあるく私の心は、はずんだ。

 やっと私が芥川の家の前にたどりついた時は、日はすっかり暮れて、あたりは真暗〔まっくら〕であった。

 その家は、夜目〔よめ〕で、よくわからなかったが、たしか、右も、左も、後〔うしろ〕も、まばらに、木立〔こだち〕があって、小〔こ〕ぢんまりした、二階だての、家であった。

 私が、入り口の格子戸〔こうしど〕をあけて、「ごめんください、」と云うと、すぐ二階から、だまって、おりてくる、しずかな、足音のしないような、足音がした。

 やがて、おりて来た芥川は、何〔なに〕もいわずに、障子も何〔なに〕もない上がり口のところに、両手をひらいて、鴨居〔かもい〕をつっぱり、両足をひらき、大の字の形で、立ちはだかった。

 前に述べたように、あたりは真暗〔まっくら〕であり、玄関は真の闇であり、唯むこうの部屋がほんの少〔すこ〕し明かるいだけであったから、例えば『通せん坊』のような形で立っている芥川の姿は、黒い影人形〔かげにんぎょう〕のように見えて、顔などは殆んど見えなかった。それで、私は、一瞬間、茫然として、立ちすくんだ。

(私は、その頃、⦅十一月頃⦆芥川が、佐佐木にあてた手紙の中に、「羊羹をありがたう(羊羹と、書くと何だか羊羹に毛の生えてゐる気がしてならぬ)」とか、「何しろふと出合つた婆さんの顔が死んだお袋の顔に見えたりするので困る、」とか、斎藤茂吉にあてた手紙の中に「先夜も往来にて死にし母に出合ひ、(実は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候、」とか、いうような事を知らなかったのである。⦅芥川の母は、芥川の生後間もなく、発狂し、発狂したまま死んだのである。⦆それから、芥川が、やはり、その頃、部屋の真中〔まんなか〕に寝ていても、部屋の四隅〔よすみ〕が倒れてくるような気がする、と云って、わなわな震えているような事が、しばしば、あった、というような事も、知らなかったのである。)

[やぶちゃん注:宇野に、宇野自身の当時の状態への特殊なバイアスがかかっていることが、実はここで分かる。実はここに引用されている「羊羹」云々の佐佐木茂索宛書簡は宇野の訪問した翌日十一月二十八日附で書かれた書簡(旧全集書簡番号一五三一)で、その掉尾には正に訪問した宇野のことが以下のように書かれているからである(引用は旧全集による)。

 昨日宇野浩二がやつて來た。何だか要領を得ない事を云つて歸つて行つた。以上

宇野が「羊羹」の「異常」な叙述(これを私は「異常」とは思わないし――私も「羊羹」の「羹」の児は不快である――一種の文字に対するゲシュタルト崩壊に類するものとしても尋常である)を引きながら、そうして正に宇野の訪問日時を特定しているこの手紙の、肝心の自分への言及を引用しなかったのは、宇野が敢えてこれを示したくなかったからだと私は考えるのである。宇野はこの時の芥川龍之介の鬼気迫る異様な様を強く読者に印象付けておきながら、その実、実はその時の自分も芥川龍之介によって「尋常でない」「何だか要領を得ない事を云」って、ふらっと「歸つて行」った変な状態であったと、認識されていたことを読者には完全に隠蔽しているのである。私は宇野の精神の変調はこの時、既に始まっていたのかも知れないと、逆に踏むのである。そうしてそれを宇野は断固として抹消否定しようとしているのではなかろうか。]

 いずれにしても、私は、まったく久しぶりで、逢うのが楽しみで、たずねたのに、真黒〔まっくろ〕な芥川らしい(芥川にちがいない)男が、物も云わずに、大の字の形で、上〔あ〕がり口に、立ちはだかった時は、文字どおり、度胆をぬかれた。凄じかった。しかし、やがて、

「やあ、」と、聞きなれた、癖の、鼻にかかったような声をかけられると、たちまち、懐しさの情が、私の心に、あふれた。「やあ、よく来てくれたね、君、ごはん、未〔ま〕だだろう、……ちょっと、待ってくれたまえ、」と云うとともに、芥川は、また、殆んど足音をたてないで、しかし、大いそぎで、二階に、あがって行った。

 やがて、芥川は、すぐ、下〔お〕りてきて、「東家〔あづまや〕に行こう、」と云いながら、下駄をはいた。

 さて、東家の座敷にとおると、芥川は、坐らぬうちに、「君と僕とは、おなじ物がすきだったねえ、」と云って、女中に、玉子焼と刺身〔さしみ〕を注文してから、「……酒は、いらない、すぐ、ごはん、」と、云いつけた。

 そうして、久しぶりで、芥川と向こう前に坐〔すわ〕って、あかりの下〔した〕で見た時、私は、はッと思って、しばらく、言葉が、出なかった。芥川が、はげしい神経衰弱にかかっている、とは、人づてに、聞いていたが、これほどひどくなっていようとは、思わなかったからである。

 さて、芥川は、坐〔すわ〕ると、すぐ、

「……君、これだよ、」と云いながら、右の足を、一度、前の方に突き出して、膝から下を折って、足袋〔たび〕をぬぎ、その足袋を、私の前に、出して見せた。

 それは、茶色の、なにかの獣〔けだもの〕の、皮を、裏から底まで、つけたものであった。

 私は、それを、一〔ひ〕と目、見て、にわかに、身の毛が、よだつような気がした。そうして、あらためて、こわごわ、(のような感じがしながら、)芥川の顔を見ると、笑っている時は、口の中の目にたつところに、一本〔ぽん〕の大きな歯が抜けているからでもあるか、一種の愛敬〔あいきょう〕があり、どんな人にもしたしみを感じさせるけれど、その時、芥川が、口を閉じ、痩せ細った指に巻き煙草をはさんで、ほとんど絶え間〔ま〕なしに煙草を吸っている恰好を見て、私は、心の中で、ふかい溜め息をついた。

 やがて、女中が注文したものを持ってきたので、二人は、数年ぶりで、一しょに食事をした。それは実に楽しかった。

 しかし、食卓をはさんで、さしむかいに、食事をしながら、いろいろな話をしている間〔あいだ〕に、私が、又、おどろいたのは、元〔もと〕もと痩せてはいたけれど、この時の芥川は、まったく、骨と皮、というより、骨だけの人が丹前をきているような観がしたからであった。

 それから、長い、ふさふさしていた、頭〔あたま〕の毛が、油気〔あぶらけ〕がなくなり、ぱさぱさしていた。それから、一文字の、釣り上がった、眉毛、ときどき、三角形〔がた〕になる、鋭い、目、高い鼻、やや大〔おお〕きな、やや唇のあつい、口、げっそり頰のおちこんだ、長い、青白い、とげとげした、顔。それは、この世の人とは、思われないような顔であった。私は、それを見ると、ぞっと、体〔からだ〕じゅうに、寒気〔さむけ〕をおぼえるような気がした。

 しかし、芥川は、そのように、肉体が、痛わしいほど衰えているのに、気力はそれほど衰えていないらしく、ぽつりぽつりと、言葉をくぎりながら、昔ながらの、おちついた、口調で、文学の、(おもに小説の、)話をした。そうして、その小説の話がとぎれた時、芥川は、いきなり、

「僕は、……めずらしいだろう、……新年号の雑誌を、三〔みっ〕つ、ひきうけて、もう半分ぐらい書いたよ、」と、目をかがやかしながら、云った。

 私は、これを聞いて、その年〔とし〕(つまり、大正十五年)は、(いや、その前の年頃〔としころ〕から、)芥川が、病気のために、小説らしい小説を、ほとんど発表していなかったので、

「それは、よかったね、」と、心からよろこんで、云った。

 しかし、こう云ってから、私は、すぐ、この『半分ぐらい』というのは、少〔すこ〕し眉唾物〔まゆつばもの〕だな、思った。

 すると、芥川は、にわかに、真剣な顔になって、

「君は、書いたか、」と、まるで、何〔なに〕か、詰〔なじ〕るような調子で、云った。

と「うむ、」と、私は、そこで、ちょぅと返事につまった、というのは、私も、芥川ほどひどくはなかったが、神経衰弱気味に、(あるいは、半分ぐらい神経衰弱に、)なっていたからである、それで、私も、新年号の雑誌の小説を、やはり、三つぐらい、引き受けていて、その中の一つぐらいは書くつもりであったが、その一〔ひと〕つさえ、あまり自信がなかったからである。しかし、私は、「僕も、やっぱり、三〔みっ〕つぐらい、引き受けたけど、……できたら、『中央公論』だけには、書くつもりだ、」と、いくらか空元気〔からげんき〕で、云った。

 そこで、芥川は、急に緊張した顔つきになって、

「僕も、やっぱり、『中央公論』だけは、出すつもりだ、」と、云った。

「ぜひ、書けよ。」

すると、芥川は、しばらくして、こんどは、妙に、声をひそめて、

「君、……君も、ほかは止〔や〕めにして、何とかして、『中央公論』だけは、書けよ、書いてやりたまえ、……ね、書いてくれよ、……そして、僕と一しょに出そう、」と、云った。

 

(ところで、芥川が、この時、何度も、くりかえし、「中央公論」だけに、とか、「中央公論」だけは、とか、云ったのは、どういう訳であるか。――それについて臆測すると、つぎに述べるような次第ではないか、と思う。)

 一代の名編輯者と称せられた、滝田樗陰(哲太郎)は、「中央公論」の主幹であったが、短かい一生[四十四歳で死去]の間に、創作(小説、戯曲)の権威と価値を広く社会化した上に、新進作家を見出だして、世に出す事に苦心をするとともに、非常な喜びを感じた。そうして、滝田は、原稿をたのむ時は、(自動車のない時分であったから、)人力車で走った、そうして、いそぐために、常に二人びきの人力車に乗った。それで、大正時代は、「中央公論」は、作家の、『登竜門』であり、『檜舞台』である、と云われた。そうして芥川や「新思潮」(醍削第)の同人の幾人かの憧憬の的であり、谷崎潤一郎を文壇におくり出したのも「中央公論」であった。それで、正直で麁相〔そそっ〕かし屋の菊池は、大正七年の初夏の或る日、勤め先きの時事新報社から帰ってくると、自分の家の前に人力車が止まっていたので、「あ、滝田が来てるな、」と早合点〔はやがてん〕した。ところが、それは、滝田ではなかったが、おなじ「中央公論」の編輯者の高野敬録であった。

[やぶちゃん注:因みに伝説の名編集長滝田樗陰(明治十五(一八八二)年~大正十四(一九二五)年)は、この話柄の時制にあっては前年に鬼籍に入っていた。編集長を継いだのが文中に現れる高野敬録である。

菊池寛の逸話については、菊池自身が『文藝春秋』に連載した「半自叙伝」の中で、次のように記している(昭和四年十二月連載分より。引用は『honya.co.jp「菊池寛アーカイブ」編集部』によるテクストをコピー・ペーストした)

「大島が出来る話」と一緒に「新時代」という雑誌に書いた「若杉裁判長」というのも好評だった。この頃の私は、新進作家として旭日昇天の形で、世の中に出て行った。私は、その頃、夏目漱石氏の家と、一町とはなれていない南榎町の陋巷に住んでいた。そこは、九円五十銭位の家賃で、男便所のない家であるから、どんな汚い家だか想像ができる。半間ぐらいの入口をはいった路地裏であった。あるとき、時事新報社から帰って来ると、その路地の入口に、自家用の人力車が止っていた。その頃の自家用人力車は現在の自家用自動車と匹敵していると思う。私は(ああ「中央公論」の滝田氏だな)と直覚した。その頃の滝田氏の文壇における勢威は、ローマ法王の半分ぐらいはあったと思う。ことに、その自家用の人力車は有名であった。私は、家へ入って見ると、滝田氏ではなかったが、滝田氏の命を受けた高野敬録氏であった。この頃、「中央公論」へ書くことは、中堅作家としての登録をすますようなものだったから、私はこのときの嬉しさを今でも忘れない。]

 ああ、「中央公論」――『檜舞台』、というような考えは、この頃、菊池ばかりでなく、芥川にも、誰にも、あったのである。そうして、それを誇張して云うと、その頃は、芥川ばかりでなく、大正の初め頃から中頃までに文壇に出た作家たちのうちの幾人かの作家の頭〔あたま〕の中〔なか〕には、いつとなく、『小説は「中央公論」、「中央公論」は小説』というような考えが、こびりついてしまっていたのであろうか。

 それはそれとして、そのような考えが、芥川に、(芥川のような人に、)甚だしかったらしいのである。それは次ぎのような事があるからである。

 どういう訳〔わけ〕か、(故意〔こい〕か、偶然か、)芥川は大正五年の五月から十五年の一月までに、(つまり文学生活の大部分の間〔あいだ〕に、)「中央公論」とならび称せられていた「改造」には、作品を、八篇しか出していないのに、「中央公論」には、小説を、三十一篇も、発表している。(もっとも、これは、「中央公論」の方が、伝統が古く、その頃の綜合雑誌の中で、文学にもっとも力〔ちから〕を入れたので、島崎藤村や永井荷風などのようにその作品を殆んど「中央公論」にだけ出している人もあるから、芥川だけが「中央公論」を贔屓〔ひいき〕にしたという訳でもない、という事になる。閑話休題。)

 

 さて、食事がすんだ頃、時計を見ると、まだ八時半ぐらいであったから、私は、ふと、これから、鎌倉の坂井をたずねて、何年ぶりかで、(そうだ、もう七八年ぶりになる、)坂井に案内してもらって、横須賀に行って、「今夜は横須賀にとまって、東京へは、明日、帰ろう、」と、思い立った。それは、その時から、七八年前に、私は、『おんな』の一件で、横須賀に行った事があり、その横須賀で、中学校の同窓で、海軍の士官になっていた友だちと、風変りな『遊び』をした事があって、その事を一〔ひと〕つの小説に仕組〔しく〕んだ事を思い出し、横須賀に行ったら、小説の種〔たね〕になるようなものを思いつくかもしれない、と、考えついたからである。

 しかし、私は、もとより、そんな事は明かさないで、芥川に、唯、「まだ時間が早いから、これから、鎌倉の友だちを訊問して、……その男は海軍士官だから、その男に案内さして、今晩は、横須賀に、とまって、……」と云った。すると、芥川は、ニヤニヤ笑いながら、

「……横須賀は、『苦の世界』の思い出の地だね、」と、云った。

「君だって、横須賀は、思い出の地だろう、海軍士官までが……」

「ふん、……あ、自動車を呼ばせようか。」

「ああ、たのむよ。」

 やがて、自動車が来た。

 そこで、私は、芥川と東家の女中たちに送られて、玄関の前に止〔と〕まっている自動車に乗りこんだ。さて、私が、別〔わか〕れの挨拶をしよう、と思って、ふと、窓ガラスの方を見ると、殆んどそのガラス一ぱいに、その窓ガラスに、鼻までつくように、すれすれに、近づけて、私の方を見ている、芥川の顔が、目にとまった。

 私は、思わず、口の中で、いや、声に出して、アッと、叫んだ。夜露でガラスが濡れていたせいか、私の目がうるんでいたのか、その芥川の顔が、ゆがんでいるように、泣いているように、見えたからである。

[やぶちゃん注:「君だって、横須賀は、思い出の地だろう、海軍士官までが……」は、上巻の「十四」で、宇野が体験したエピソード、

 さて、その頃、(大正七年頃、)軍港であった横須賀に、海軍中尉ぐらいであった私の中学同窓が、四五人、住んでいた。そうして、その中に海軍機関学校につとめている者がいて、その男が、ある日、私に、突然、「おい、おれの学校に、芥川という、貴様と同業の、小説家がいるよ、」と云った。

 「ふん、」と私はわざと鼻声で答えた。

 私は、その頃、自分の『なりわい』に追われていたからでもあろうか、芥川が海軍機関学校の嘱託となって英語の教授などをしている事を、まったく知らなかった。が、それはそれとして、その頃、私は、やっと小説を書き出し、その小説を二三の雑誌に出しはしたが、まったく無名で、横須賀までの汽車賃にさえ困るような状態であった。しかるに、前に何度も述べたように、芥川は、その頃、すでに、歴れっきとした作家であり、鬱然たる、大家であったのだ。

 それを、およそ文学とは縁どおい海軍機関中尉が「貴様と同業の小説家」などと云ったので、私は、わざと鼻声で、「ふん、」と答えたのである。

を語り出そうとしたものであるが、ここは偶然にも同じ宇野の「ふん、」を受けるかのように、芥川龍之介が「ふん、」で遮ったところ、絶妙の照応(これは宇野の作為ではあるまい)であることに気がつく。]

生査子 歐陽脩

生査子   歐陽脩

去年元夜時
花市燈如畫
月上柳梢頭
人約黃昏後

今年元夜時
月與燈依舊
不見去年人
淚滿春衫袖

〇やぶちゃん訓読

去年(こぞ) 元夜の時
花市(くわいち)の燈(とう) 畫のごと
月は上(のぼ)れり 柳梢頭(りうせうとう)
人は約す 黃昏後(こうこんご)

今年 元夜の時
月と燈と 舊に依るも
去年(こぞ)の人には見(あ)へずして
淚 滿つ 春衫(しゆんさん)の袖(しう)

〇やぶちゃん文語定型訳

去年(こぞ)元宵(げんせう)の夜(よ)の記憶(おもひ)
花市(はないち)燈(ともしび)燦爛(さんらん)と
柳樹(りうじゆ)が梢(こずゑ)に月登り
女(ひと)と約せし――宵の闇――

一年(ひととせ)經(へ)ぬる元宵の
月影(ひかり)と燈(ひ)とはそのままに
遂(つひ)に逢はざる去年(こぞ)の女(ひと)
春爛漫の――濡れし袖――

題名の「生査子」(「せいざし」と読む)は宋詞の調べ(詞牌という)の一名称(詞の内容とは無関係)。なお、二連目の最終句は「淚濕春衫袖」とも。
 

宇野浩二 芥川龍之介 十八

     十八

 

 私が芥川と一しょに旅行したのは、前に述べたように、二度である。二度だけである。その最初の旅行(大正九年の十一月下旬)の事は、この文章のはじめの方に、くわしく書きすぎるほど書いた。

 ところが、二度目の時は、芥川が支那旅行に出る前であったという事、大阪に行ったという事――この二〔ふた〕つの事だけしか覚えていないのである。

 ところで、この二〔ふた〕つの事だけを覚えているのは、つぎに述べるような事があったからである。(これから書くことも、ずっと前に述べた事と重複するところがあるから、前もって断っておく。)

 大正十年の二月の中頃であったか、芥川が、息を切らしながらやって来て、なにか二〔ふ〕た言〔こと〕か三〔み〕言〔こと〕はなしてから、癖〔くせ〕で、いきなり、「君〔きみ〕、大阪イ行〔ゆ〕かないか、」と云った、「行きたいけど金〔かね〕ない。」「行〔い〕けよ、金は僕がもつから、……こんど、支那に行〔ゆ〕くことになったので、その事で、大阪の『毎日』に行くんだ。」「行ってもいいか。」「いいよ。」

[やぶちゃん注:「大正十年の二月の中頃であったか」上巻の「一」では「大正十三年の二月の中頃」と誤認していたクレジットが、ここでは修正されて正しく示されている。再注すると、現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、これから宇野が訂正するように、この旅は大正十(一九二一)年二月二十日夜東京発、二十四日帰京であることが分かっている。]

 大阪に幾日か滞在した或る日、芥川にさそわれて、大阪毎日新聞社に、学芸部長をしていた薄田〔すすきだ〕淳介(泣菫)をたずね、辞して社を出ると、すぐ、私が「泣菫という人は実に姿勢〔しせい〕のいい人だね、」と云うと、芥川は、言下に、例のおどけたような笑い顔をしながら、「あれは、君〔きみ〕、ギプスをはめているからだよ、」と云った。

[やぶちゃん注:上巻の「一」ではギプスをはめている理由として薄田が脊椎カリエスであることを芥川は語っているが、上巻の注で示した通り、彼の病気は脊椎カリエスではなく、パーキンソン症候群であった。]

 ここまで書いて、ふと、気がついて、芥川の書翰集を見ると、大〔たい〕へん為〔た〕めになったので、これから、しばらく、書翰集によって、私の記憶ちがいなども直〔なお〕しながら、話をつづけることにしよう。

 

 さきに書いた芥川と私のかわした話だけで判断すれば、芥川と私が一しょに大阪へ出かけたのは、芥川が私をたずねてきた日から、早くて二三日のちか、遅けれは、四五日のちか、であろう、と、これを読む人も思うであろう、書く私も、そう思ったのである。

 ところが、芥川が、その時、大阪に行く事になったのは、大阪から、(たぶん、大阪の毎日新聞社から、)電報で呼びよせられたからである。そうして、その電報は二月十九日につき、その電報には「十九日の晩に立て」と書いてあったらしいのである。

 芥川は、この電報を見ると、いくらかあわてて、つぎのような手紙(あるいは葉書)を書いている。

 大阪より電報参り唯今急に下阪仕る事と相成候間御約束の原稿[註―『往生絵巻』]その次の号へ御まはし下さるまじくや二十日までには如何なる事ありても出来致すまじく[下略]

 これは二月十九日午後、小林憲雄[「国粋」という雑誌の編輯者]に宛てたものである。

 急に下阪の為国粋の原稿は延期した裏絵だけ描いて国粋へ送つて頂きます[中略]君がこの端書を見る時僕は浜名湖位〔ぐらゐ〕にゐます

 これも、やはり、十九日に、小穴に宛てたものである。

 ところが、その翌日、(つまり、二十日、)芥川は、また、小穴にあてて、つぎのような便りを、出している。

 言おくれ今夜発足同行は宇野耕右衛門二人共下戸故【①】や【②】はなし唯【③】ばかり

[やぶちゃん注:底本では【①】には盃の、【②】には御銚子の、【③】には蜜柑の、それぞれ芥川龍之介自筆の絵が描かれている。以下、該当書簡(岩波旧全集八五五書簡)の本文総てを画像で示す。

Oanaate


冒頭二首の短歌の「一游亭」は小穴隆一の俳号、「圓中」も小穴の別号で芥川はしばしば「圓中先生」と彼を呼称したようである。]

 右の文句のうちの『耕右衛門』とは、私が大正八年の十月号の「改造」に出した『耕右衛門の改名』という小説の題名から、芥川が、勝手に、私につけた名前で、私の目にふれたのでは、小穴にあてた手紙に使っている。しかし、客観的にいえば、この便〔たより〕りの文句としては、『宇野浩二』より『宇野耕右衛門』の方が趣きがある。そうして、全体の文句もいかにも芥川らしい洒落〔しゃれ〕ではないか。

 ところで、私は、こんど、これを読んで、芥川が私をたずねて来たのは、二月の十九日か二十日〔はつか〕(たぶん二十日の昼頃〔ひるごろ〕)である事を、はじめて、知った。そうして、もし芥川が二十日の昼頃にさそいに来たとすれば、私は、その誘われた日の晩に、いそいそと、東京を立った事になるのである。

 この事を知って、私は、自分の軽率さに、今更ながら、あきれた。そうして、私は、あの時、芥川が、あの不意の大阪ゆきに、私をさそったのは、深切でしたのか、退屈しのぎの道づれにしたのか、と、頭〔あたま〕をひねることがある。すると、あの時は、徹頭徹尾、芥川に為〔し〕て遣〔や〕られたような気がしたり、芥川が深切で誘ってくれたような気がしたり、するのである。

 しかし、結局、あれは、やっぱり、深切で誘ってくれたにちがいない、と、私は、思いかえすのである。というのは、あの時、芥川が大阪ゆきを誘いに来た時、私が「行きたいけど金ない、」と云うと、芥川は、言下に、「行けよ、金は僕がもつから、……」と云ったが、その時、芥川は余分の金など持っていないらしかったからである、それから、大阪に行ってからも、毎日新聞社から金を取った様子がなかったからである。

 ところで、この大阪ゆきから帰って、芥川が、三月二日に、薄田淳介に宛てて、支那旅行の費用について、質問したり、「御願い」したり、する手紙を書いているが、その手紙の大半はつぎのような箇条書〔かじょうが〕きである。

 ㈠ 旅費とは汽車、汽船、宿料 日当とはその外〔ほか〕旅行中〔ちゆう〕日割に貰ふお金と解釈してかまひませんかそれとも日当中〔ちゆう〕に宿料もはひるのですか

 ㈡ 上海までの切符(門司より)はそちらで御買ひ下さいますかそれともこちらで買ひますか或男の説によれば上海から北京と又東京までぐるり一周〔ひとまは〕りする四月〔つき〕つき通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい

 ㈢ 旅行の支度や小遣ひが僕の本の印税ではちと足〔た〕りなさうなのですが月給を三月〔つき〕程前借する事は出来ませんか

 又次ぎの件御願ひします

 ㈠ 旅費並びに日当はまづ二月〔ふたつき〕と御見積〔みつも〕りの上御送り下さいませんか僕の方で見積るより社の方で見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひますから

 ㈡ 出発の日どりは十六日以後なら何時〔いつ〕でも差支へありませんこれも社の方にて御きめ下さい自分できめると勝手にかまけて延びさうな気もしますから

 この箇条書きは、言葉はおだやかであり、上辺〔うわべ〕は、謙遜に見え、なにもかも靠〔もた〕れかかっているように思われるけれど、よく読めば、かなり強引〔ごういん〕なところもあり、ずいぶん勘定高〔かんじょうだか〕いところもあり、なかなか抜け目のないところもある。

 つまり、この箇条書きをよく読めば、㈠、旅費と日当を別のものと「解釈」し、日当の中に宿料も入れなければ、貰う方の条件は二重三重によくなるように思われるし、㈡、上海までの切符を買ってもらえば、それだけの汽船賃が助かるし、という事になるかもしれない。が、それらは私の例の臆測であるとしても、或る男の説として、「上海から北京と又東京までぐるり一周〔ひとまは〕りする四月〔つき〕通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい、」と云うところなどは、談判(つまり、掛け合い)としても、『至れり尽くせり』の観があるではないか、と云うのは尤もである。つまり、これでは、その頃の毎日新聞社の経理部にいかに豪物〔えらもの〕がいたとしても、「四月通用の切符」を捜〔さが〕さざるを得ないであろう、そうして、その上に、「三月〔つき〕程の月給の前借」㈢も承知し、二月〔ふたつき〕分の「旅費並びに日当」も送ったであろう。

 それから、この箇条書きの文章であるが、さきに述べたように、「日当中に宿料はひるのですか、」とか、「もしそんな切符があればそれでもよろしい、」とか、「前借をする事は出来ませんか、」とか、「社の方で見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひます、」(これが一番うまい)とか、その他、下手〔したて〕に出ているように見えながら、結局、上手〔うわて〕に出ている、つまり、先手〔せんて〕を打っている、――それに、私は、感心したのである、なにもかも、用意周到であり、常識的であり、抜け目がないからである。 ――芥川には、こういう所もあったのである。

[やぶちゃん注:文中の下線部は底本では「〇」傍点。

ここでの宇野の指摘は極めて核心を突いている。則ち、「生活者」たる芥川龍之介という男は、想像を絶してなかなかに「したたか」である、ということだ。これは先に宇野が引いた『或阿呆の一生』のなかの『械』の、

 彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。

という謂いを、我々が芥川の真実の告白として鵜呑みにしてはいけない、ということをも意味しているということに気づかねばならないのである。遺書に於いても、芥川龍之介はこの自死という土壇場でも新潮社との全集出版契約をけんもほろろに(『僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版肆を同じうせんことを希望す』という身勝手甚だしい理由から)破棄している。私の「芥川龍之介遺書全通 他 関連資料通≪二〇〇八年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫を是非、参照されたい。]

 ところで、ここで、私が奇特に感じ有り難く思うのは、

  見ずや、若草離々〔りり〕として、

  霞吐く野の末とほく、

  野馬〔のま〕うちむれて永き日を、

  あかぬ快楽〔けらく〕に酔ぬらし。   『尼が紅』の内

 

  墾道〔はりみち〕かよふ旅人の

  側目もふらで路せくに、

  ふりさけみれば、紫の

  雲のあなたに日は落ちぬ。       『尼が紅』の内

[やぶちゃん注:「墾道」新たに切り開かれた道、新道のことで、題名「尼が紅」は、「夕焼け雲」のこと。本来は「天が紅」で、訛って「おまんが紅」、音の類似から「尼が紅」とも書く。]

とうたった『暮笛集』の詩人、薄田泣菫が、このような手紙を、なくさないで、取っておいてくれた事である。

 さて、この芥川が薄田に宛てた手紙をよんで、私は、実は、はじめて、芥川にこういう性質もあった事を、知ったのであった。ところが、芥川が二月の中頃に、小穴に宛てた手紙の殆んど全部が『往生絵巻』のくわしい筋書であるのに、私は、一そう、目を見はった。つまり、一〔ひ〕と口〔くち〕にいえば、芥川が、生活でも、創作でも、一つの計画を立てると、ちゃんと、設計(あるいは筋)をつくり、それも明細に丹念につくり、それを著著〔ちゃくちゃく〕と実行する、常識を持った人であった事を、知ったからである。

 しかしたびたび云うが、こういう所があったために、芥川の小説が、窮屈になり、理づめになり、『自然』なところがなく、感情が乾〔ひ〕からびていて、冷たくて、作り物のように見えるのではないか。が、それもよい、それが芥川の小説らしい、という事になれば、である。しかし、私がもっとも不満に思うのは、あのような見事〔みごと〕な芥川の文学に何〔なに〕か肝心なものが欠けている事である。それを一〔ひ〕と口〔くち〕にいうと、ニュウアンス(nuance)がない事である。nuanceはフランス語であるから、辞書を引いてみると、「色・音・調子・意味・感情などの微細な差異。陰影。濃淡、明暗、」とある。ニュウアンスのない事――これが芥川の文学の最大の欠点の一〔ひと〕つである。

[やぶちゃん注:宇野の評は誤っている。芥川龍之介の作品には「ニュウアンス」は絶望的な意識の揺らぎとして非常に深く存していると私は思う。では、何故、宇野は芥川の作品は全く「ニュウアンスのない」ものばかりだ、というのか? それは宇野という生物の可視出来る波長域が、芥川という生物の持っている波長域よりも狹い、若しくは芥川龍之介の可視短波域(精神のマイナー域)の「色」が宇野には見えないか、長波域へと大きくずれているからにほかならない。これは個人の持って生まれた人格の相違だから仕方がないと言うべきであり(これは実は後文で宇野自身も認めている)――寧ろ、宇野は人間愛を素直に抱きとめることの出来る生物であり――私は――私は芥川龍之介という種の亜種である故に――私には宇野が「色」として感じない芥川龍之介の短波域を、その明度の非常に低いグラデーションを、あらゆる作品の中に、ありありと「見る」ことが出来るのである。]

 

 さて、この文章のはじめの方で、私は、『往生絵巻』の最後の「法師の屍骸の口には、まつ白な蓮華が開いてゐる、」というところを、「芥川一流のマヤカシの文句である、」と貶〔けな〕したことがある。(この考え方が変ったことは後〔あと〕で述べる。)ところが、芥川は、この『往生絵巻』について、小穴に宛てた手紙の中で、「…僕の小説[註――『往生絵巻』]は駄目、急〔いそ〕がされた為おしまひなぞは殊になつてゐなささうです、」と書いている。(私は、この手紙をよんだ時、これは『眉唾物〔まゆつばもの〕』である、と思った。)

 ところが、やはり、この小説を、正宗白鳥が、「国粋」[註―大正十年四月号]で読んで、この白い蓮華のところを、「小説の結末を面白くするための思ひ附き」である、と評し、「芸術の上の面白づくの遊びではあるまいか、」と非難している。

 すると、芥川は、この批評に対する自分の感想(というより意見)を述べた手紙を、正宗に出した。そうして、その手紙の中で、芥川は、あの白蓮のところは自信がある、というような文句(つまり、不服)を云っているそうである。

 私は、この芥川の手紙は読んでいないが、芥川はこの手紙を向きになって書いたにちがいない、と思うのである。それに、この正宗の批評は、独立したものではなく、雑文の中に入れられたものであるから、そういう事もいくらか芥川の気にさわったのかもしれない。

[やぶちゃん注:ここで宇野が問題にしている書簡は、旧全集書簡番号一一六二の正宗白鳥宛大正十三(一九二四)年二月十二日附書簡(田端発信)を指す。以下に、岩波版旧全集より、当該書簡を引用しておく(繰り返し記号「〱」は正字に直した)。

冠省文藝春秋の御批評を拜見しました御厚意難有く存じました十年前夏目先生に褒められた時以來嬉しく感じましたそれから泉のほとりの中にある往生繪卷の御批評も拜見しましたあの話は今昔物語に出てゐる所によると五位の入道が枯木の梢から阿彌陀佛よやおういおういと呼ぶと海の中から是に在りと云ふ聲の聞えるのですわたしはヒステリツクの尼か何かならば兎に角逞ししい五位の入道は到底現身に佛を拜することはなかつたらうと思ひますから(ヒステリイにさへかからなければ何びとも佛を見ないうちに枯木梢上の往生をすると思ひますから)この一段だけは省きましたしかし口裏の白蓮華は今で後代の人の目には見えはしないかと思つてゐます最後に國枠などに出た小品まで讀んで頂いたことを難有く存じます往生繪卷抔は雜誌に載つた時以來一度も云々されたことはありません 頓首

    二月十二二位   芥川龍之介

   正宗白鳥樣 侍史

なお、「往生絵巻」初出とこの書簡との間には、二年弱の大きなタイム・ラグがある点に注意されたい。]

 ところで、この小説は、枚数も十四五枚のものであり、芥川としては割りに早く書いたものであろう、芥川の作品としてもすぐれたものではない。しかし、はじめて雑誌で読んだ時は、やはり、最後の白蓮華が気になった程度であったが、こんど、何度目かで、読みなおしてみて、私は、ふと、芥川龍之介が五位の入道のような気がして、これは徒〔ただ〕の小説ではない。特殊な、小説である、と思った。

 ここで話がちょっと横〔よこ〕に逸れるが、いわゆる円本全集の先〔さ〕き駈〔が〕けとなった「現代日本文学全集」[註―菊判で六号三段組であったから、一ペイジ四百字づめ原稿紙で三枚半ぐらいであるから、全六十三巻のうち薄いのと厚いのはあるが、『芥川龍之介全集』などは五千枚ぐらいであろう]を出した改造社が、その「現代日本文学全集」の宣伝のために、その全集の作品を入れる幾人かの作家の日常生活の一端を活動写真に取って、それを、講演と講演との間に、うつして見せた事があった。といって、私は、その活動写真を、どういう時に、どこで見たかは、まったく忘れてしまった。が、見た写真だけは、うろおぼえではあるが、まずハッキリ覚えている。しかし、もとより、空覚〔うろおぼ〕えであるから、これから書く事もいくらかまちがっているかもしれない。この事を前もって断っておく。(後記――果〔は〕たして後に述べる芥川の映画が少しまちがっている事を滝井孝作に教えられた。)

[やぶちゃん注:「現代日本文学全集」の割注にある『芥川龍之介全集』は正確には同全集の一巻であるから「芥川龍之介集」とすべきところ。同全集第三十篇で芥川の死後、昭和三(一九二六)年一月に刊行されている。]

 さて、私が見たのは、三〔みっ〕つだけで、『里見篇』、『廣津篇』、『芥川篇』とでもいうべきものであろう。それはざっと、つぎのようなものである。

『里見篇』――広い庭の一隅らしい所に、一本〔ぽん〕の二間〔けん〕半ぐら小の高さの棒が立っている。その棒のさきから、一間〔けん〕半ぐらいの綱が、五六本、ぶら下〔さが〕っていて、その綱の端〔はし〕に手頃〔てごろ〕の鉄の輪がついている。――つまり、これは、子供たちが、反動をつけて、この鉄の輪に飛びつき、飛びつくとともに地を蹴り、地を蹴るとともに、体〔からだ〕を揺りながら、棒の廻りをまわる、というような運動具である。『旋回棒』とでもいうのであろうか。

 さて、晩写が開始されると、まず、この『旋回棒』(仮名)がうっる。『旋回捧』が写ると殆んど同時に、年〔とし〕よりずっと若く見える、(三十四五歳に見える、)里見と、九〔ここの〕つか十〔とお〕ぐらいの二人〔ふたり〕の男の子が、ホオム・スパンのズボンをはき、鳥打ち帽を阿弥陀〔あみだ〕にかぶって、きわめて真剣な顔をして、画面の一方〔いっぽう〕から、つぎつぎに、駈〔か〕け足で、あらわれた。現れるとともに、三人は、順順に、目にも止〔と〕まらぬ早さで、鉄の輪に飛びついた。鉄の輪をつかむとともに、三人は綱にすがりながら、魚のように体〔からだ〕をひらめかせながら、クルリクルリ、と、棒の廻りを、まわった。それで、三人の体〔からだ〕は、空〔くう〕ちゅうに跳ねかえるように見えたり、地を磨〔す〕るように見えたり、した。それで、その見事〔みごと〕さに、あれよ、あれよ、と見惚〔みと〕れているうちに、映画は、あえなくも、パッパッパッ、と消えてしまった。(ある専門家の話に、映画に取られる時、レンズが気にならなかったら、一人前〔いちにんまえ〕だ、という事であるが、この時の里見は『一人前』以上であった。)

[やぶちゃん注:「ホオム・スパン」 “homespun”(ホームスパン:一単語であるから中黒は不要)は、手紡ぎの太い紡毛糸を用いて手織りにした(現在の手織に似せて機械織りしたものも含む)素朴な印象と肌触りを与える毛織物。]

『廣津篇』――画面の左寄り七分〔ぶ〕ぐらいが廻〔まわ〕り縁〔えん〕の障子のはまった部屋を外〔そと〕から見た所。部屋の外に僅かに見える庭には草や木も生えていないようである。映画が開始されると、右の方から、やはり、年〔とし〕より若く見える、(三十二三歳に見える、)廣津が、ちょこちょこ歩〔ある〕きで、あらわれた。それと殆んど同時に、座敷の障子があいて、病柳浪が、縁まで、出て来た。(『病〔びょう〕柳浪』と書いたのは、柳浪が晩年ずっと病気をしていたからであるが、柳浪は、この映画に取られたのは、六十五歳の時分であろうか、豊頰で、目の大きな鋭い人であったから、それほど病人らしくは見えなかった、しかし、体格は岩乗〔がんじょう〕らしいのに、どこか弱弱〔よわよわ〕しく見えるところがあった。)さて、廣津は、実の姿があらわれると、にわかに、足を早めた、というより、小走りに、縁の方〔ほう〕へ、すすんで行った。と、子が近づいて来たのを見ると、縁側の中程まで出ていた柳浪は、顔全体が微笑するような表情をして、何〔なに〕か一〔ひ〕と言〔こと〕か二〔ふ〕た言〔こと〕いった。「やあ、」とか、「しばらく、」とか、云ったのであろうか。(これは、前にも述べたように、大正の終りか昭和の初め頃の映画であるから、もとより、『トオキイ』などは、まだ名称さえ知られなかった時分である。)さて、廣津も、それに応じて、何〔なに〕か云いながら、縁側に腰をかけた。

 廣津は、里見とまったく反対で、画面にあらわれた時から、既に、うつされる事を気にしているように思われた。それに、おどおどしでいるように見えたのは、廣津が、無類の親孝行な人であるばかりでなく、人および芸術家としての柳浪を心から尊敬していたからであろう。ところで、縁側に横むきに腰をかけた廣津が、はじめは殆んど後向〔うしろむ〕きになって話していたのが、写真を取っていた人に注意をされたのか、ふと、正面を向〔む〕いた。その時である。廣津が何〔なん〕ともいえぬ目眩〔まぶ〕しそうな極〔き〕まり悪〔わる〕そうな顔をしたのである。それを見ると、(廣津が、活動写真機のレンズが気になって、まぶしい顔をしたとは、愚鈍な私には、気づかなかったので、)友人の私は、何〔なに〕か気の毒なような気がして、画面の廣津の顔を、正面〔まとも〕に、見ていられなくなった。しかし、やがて、廣津父子の顔が、ならんで、こちらを向き、二人〔ふたり〕が殆んど同時に微笑した。そうして、二人が微笑するのと殆んど同時に、映画はすっと消えてしまった。見ていた私はほっとした。

 いよいよ『芥川篇』――画面ほとんど一ぱいが、珊瑚樹〔さんごじゅ〕を拡大〔かくだい〕したような、葉の殆んど全〔まった〕くない樹木〔じゅもく〕である。(さきに述べたように、この時みた映画の記憶はアヤフヤであるが、)この奇怪な樹木〔じゅもく〕の背後〔はいご〕に、たしか、背〔せ〕の、ひくい、平屋〔ひらや〕の、家屋〔かおく〕があった。これは、一〔ひ〕と目〔め〕で、陰気な風景であった。

 さて、映画が開始されると、すぐ、この陰気な暗い風景があらわれ、「おや、」と思っている間〔ま〕もなく、平屋の家の屋根の上に、頭〔あたま〕から、肩から、しだいに、姿をあらわしたのが、芥川だ。

 やがて、屋根の上に全身をあらわした芥川は、ぱっと両手を左右に開いたかと思うと、目にもとまらぬ早さで、枯れ木のような樹木の枝に飛びつき、両手で枝をにぎると殆んど同時に、飛鳥〔ひちょう〕のごとく、股〔また〕をひらいて、木の又〔また〕に両足をかけた。というより、両足を踏ん張っていたので、芥川は、ほとんど画面一ぱいの大木〔たいぼく〕の真中〔まんなか〕で、両手をひらいて枝をつかみ、股〔また〕をひらいて枝を踏ん張っていたので、ほとんど画面一ぱいに大〔だい〕の字になっていた。画面が暗〔くら〕かったので、画面全体が妙に気味わるく見えた。(この映画は、私は、芥川の死後に、見たのであるが、見た年月〔としつき〕は、忘れてしまった。ところで、この映画に出ている芥川は、手も足も丸見〔まるみ〕えの姿であったから、芥川が、この映画を取られたのは、死んだ年[註―昭和二年]の六月頃ではないか、と思う。とすれば、この映画は、芥川が死ぬ一〔ひ〕と月〔つき〕か二月ほど前に、取られた、という事になる。)

[やぶちゃん注:この宇野の記憶は錯誤がある。興味深いことに、この宇野の宇野の記憶は当該映像を逆回しにして述べているのである(これは病跡学的な見地からいつか検討してみたいと思っている)。以下、私なりに当該映像を説明してみる(以上の三篇を私はすべて、かつて芥川龍之介の文学展で実見しているが、一部の記憶がアヤフヤではある。一部実見可能なネット上の画像――1シークエンス3ショット――を元に説明してみる)。撮影場所は田端の書斎の前庭である(画面を右下から左上へ斜めに区切っている庭木。この庭木は縁側に恐るべき直近で生えており、配置は如何にもせせこましい。恐らく書斎の増築によってこうなったものと推測される)。

〇庭に降りている(若しくは降りてくる――その前にカメラがもっと引いていて手前に多加志のものと思われる三輪車のあるスチールが写真として残るから、この前があるかも知れない)芥川龍之介、その向かって(以後、総て観客から見て)やや左背後に小学校の制服を着た長男比呂志が麦藁帽子を被って立っており、しゃがんだ芥川のすぐ左側には前掛けを附けた次男多加志が頻りに目や顔を擦りながら立っている。

比呂志が自分の被っていた麦藁帽子を取って父龍之介の頭に被せる。

それを芥川は左手で自分の頭に落ち着かせる。

その後、三人は一時、スナップぽくカメラの方に視線を送る(この時、龍之介は少し笑ったように見える)。

〇直後にその場所のままに、しゃがんだ麦藁帽子を被った龍之介の胸部上から頭部がアップにされる。

龍之介、右手で両切り煙草を出して右の口に加えると、マッチで火を点け、やや眉間にしわを寄せて、六回ほど、銜えたままで、すぱすぱと煙を吹く。五回目で右手で口中央へ、六回目で反対側の左口端へと煙草を銜え直す。

〇カメラは下がって、縁側中央に座る多加志が、木を見上げており、比呂志が既に木に登っている。

右手の木の根元には龍之介が立ってやはり比呂志を見守っている。

比呂志は悠々と登り切って、軒の上を右手に歩いて消える(ここは比呂志の足元のみ)。

龍之介、比呂志が登り切って、軒に移るのとほぼ同時に、多加志のいる前の沓脱石に立って木に攀じ登る(この時、芥川龍之介が股引足首まである股引を穿いているのが分かる)。

木の高みで両手を左右の枝に添え、カメラに向かって一種の見得を切って立つ(その前から、カメラがティルト・アップするため、急に光量が過剰になって、表情などはよく見えない。その後、比呂志と同じく、画面右手に軒を歩いて姿を消す。

この謂わば、円本全集販売促進用のプモーション・ヴィデオは個人ブログ「神保町系オタオタ日記」の円本全集の広告合戦と久米正雄監督の映画などによれば、三十五ミリで撮影されたもので、正式な名称は「現代日本文学巡礼」、コンセプトは『諸作家の日常生活を映画に撮り、全国各地の文藝講演会で上映するという企画』で、改造社社員の水島治男(後に起こる有名な言論弾圧である横浜事件で逮捕された出版人)が『文学青年に仕立てられ、各作家を訪問するという趣向で』、久米正雄が監督、出演は挙げられている里見弴・廣津柳浪・和郎父子・芥川龍之介以外に徳田秋聲、近松秋江、上司小剣、小山内薫、佐藤春夫、武者小路実篤などが出演した、とある(現在は「こおりやま文学の森資料館」が所蔵)。なお、「この映画を取られたのは、死んだ年[註―昭和二年]の六月頃ではないか、と思う」とあるが、複数の記載から、芥川龍之介の撮影は宇野の言う通り、昭和二(一九二七)年六月に行われたと推定される。正に芥川龍之介自死の一ヶ月か一ヶ月半程前の撮影ということになる(但し、現在の芥川龍之介の年譜には記載がない)。]

 ところで、私は、この映画で、芥川が、屋根の上に全身をあらわした時、先〔ま〕ず、ひやッとした。それから、その、痩せさらばえた、『骨と皮』のようになった、芥川を見、髪の毛が少〔すく〕なくなって額がますます広くなり、頰がこけ、長い眉毛が釣るしあがり、目がくぼみ、大きな切れの長い目が三角になり、その目がぎょろりと光り、口の大きく裂〔さ〕けた芥川の顔を見た時、私は、ぎょっとした。人間世界の人ではないような気がしたからである。

 さて、木にのぼり、あらい網の目のように木の枝が交錯している中〔なか〕に、両手をひろげて木の枝をつかみ、木の下枝〔したえだ〕をふんで、大の字に、立ちはだかった芥川は、やはり、活動写真機のレンズが気に、なったので、そういう妙な振る舞いをしたのかもしれないが、この振る舞いは、見ている私には、かなり気味わるく、ひどく異様に、鬼気が迫〔せま〕るようにさえ、感じられた。芥川は俳号を『我鬼』と称した。『我鬼』というのは芥川の造語であろう。いずれにしても、『鬼』とは、「亡魂」、「亡霊」などという言葉の古語であり、仏教では、「地獄にある獄卒。人類の形をなし、口は耳の辺まで裂けて、鋭き牙を有し、頭に牛角生〔は〕え、裸体にて腰に虎の皮をまとい、相貌獰悪にして、怪力ありと想像せらる。羅刹〔らせつ〕、夜叉、」という事になっている。『羅刹』とは、梵語で、『悪鬼』という意味である。ところで、この陰気な映画にあらわれた芥川は、誇張して云えば、あの世の『鬼』ではなく、この世の『鬼』というような観がしたのである。

[やぶちゃん注:「獰悪」は「どうあく」と読み、性質や容貌が凶悪で荒々しいこと。

宇野のこの映像の芥川龍之介の描写はやや大袈裟ながら、正しい。私の友人でも、複数の者が、この芥川の映像は気持ちが悪い、と言う。確かに、煙草を吸うシーンの表情や樹上の見得のシーン――というより、何か、虚空を茫然と見つめて立ち尽くすシーン――には、一種の鬼気迫るものを感じずにはおかないものである。]

 

 ところで、私がこのような事をながながと述べたのは、私は、この映画を見た時、故事〔こじ〕つけではなく、『往生絵巻』の、最後の方の、五位の入道が、「幸ひ此処〔ここ〕に松の枯木が、二股〔ふたまた〕に枝を伸ばしてゐる。まづこの梢〔こずゑ〕に登るとしようか、」と云って、枯木の枝に、登って、餓死するところを思い出し、悲惨であるべきあの場面に悲惨な感じが殆んどしないで、(他の人が出れば愛敬〔あいきょう〕にもなり諧謔の味のようなものも出るかもしれないのに、この芥川の木のぼりの映画の方が、ときどき正面〔まとも〕に見ていられなかったほど、凄惨な感じをうけたからである。

[やぶちゃん注:あの映像と「往生絵巻」のラスト・シーンを結びつけた宇野のそれは恐るべき慧眼である。]

 しかし、前に書いたかと思うが、私は、この『往生絵巻』を雑誌で読んだ時は、眉をひそめたのである。私が、こういう、簡単にいえば、厭世的な小説を、頭〔あたま〕から好まなかった上〔うえ〕に、芥川がこのような小説を書いたことが気に入らなかったからである。私は、芥川に、こういう小説を書くなよ、と云いたい、と思った程であるからである。

 ところが、これは、やはり、私の愚鈍のためで、(それに、性質がまったく違うからでもあろう、)到底〔とうてい〕、無理な事であったのだ。つまり、その時、芥川は、三十一歳であるが、もともと、こういう小説を書く人であったからだ。それから、芥川のもっと親〔した〕しい友人たちほど、私は、(芥川の、上辺〔うわべ〕だけ知っていて、)芥川という人をよく知らなかったのである。あるいは、また、芥川が、私には、自分の性質の一面しか見せなかったのかもしれないのである。

 いずれにしても、芥川は、私には、一生〔しょう〕の中でなかなか得られない友のうちの一人であり、みじかい交際ではあったけれど、ありがたい友だちの一人であった。殊に、わたくし事ではあるが、つぎつぎと同じ年頃〔としごろ〕の友人が世を去ってゆくにつけて、もし芥川が……と思うことがしばしばある。

 

 芥川が門司から上海ゆきの船に乗ったのは大正十年の三月二十九日である。ところが、芥川は、上海につくと間〔ま〕もなく、乾性肋膜炎にかかって、三週間ぐらい入院した。

[やぶちゃん注:「門司から上海ゆきの船に乗ったのは大正十年の三月二十九日」とあるが、正しくは三月二十八日である。上海到着は三十日午後、四月一日には上海の里見病院に入院、退院は同月二十三日。この辺りの顛末は、私の電子テクスト「上海游記」及び私の注をご覧戴きたい。

「乾性肋膜炎」乾性胸膜炎。肺の胸膜(=肋膜)部の炎症。癌・結核・肺炎・インフルエンザ等に見られる症状。胸痛・呼吸困難・咳・発熱が見られ、胸膜腔に滲出液が貯留する場合を湿性と、貯留しない乾性に分れる。以前にこの乾性肋膜炎の記載を以って芥川を結核患者であったとする早とちりな記載を見たことがある。この初期の芥川の意識の中に、そうした不安(確かに肋膜炎と言えば結核の症状として典型的であったから)が掠めたことは事実であろうが、旅のその後、それらを帰国後に記した「上海游記」の筆致、更にはその後の芥川の病歴を見ても、結核には罹患していない。]

 前にもたびたび書いたように、芥川は、もともと、蒲柳の質であった、というより、病身であった、つまり、体〔からだ〕が弱くて、よく病気にかかったのである。しかし、私は、こういう事さえ、芥川とつきあっていた時分は、殆んど全〔まった〕く知らなかったのである。

 ところで、この支那旅行は、芥川が、かねて望んでいたものであるが、創作のユキヅマリを打開するためでもあったのではないか。しかし、又、この支那旅行は、病身な芥川には、ずいぶん無理であったらしい。下島 勲も、この事について、「支那視察に行かれたときは、感冒後の気管支加答児〔かたる〕が全治しないのを、種々の都合で決行した。「案じた如く大阪の宿で発熱する。無理に船に乗つて上海に上陸早々肺炎を起〔おこ〕して入院する、」と書いている。

[やぶちゃん注:引用は下島勲の「芥川龍之介氏のこと」によるものである。

「気管支加答児〔かたる〕」は、現在の気管支炎のこと。「加答児〔かたる〕」は英語“catarrh”(カタル)で、感染症感染の際に生じる粘膜腫脹及びその炎症部位から粘液と白血球からなる濃い滲出液の浸出を伴う病態を言う。主に喉粘膜での病態を言うが、他の粘膜部でも用いる。]

 この無理がたたって、芥川は、支那旅行から帰ると、すく持病の胃病と痔疾と神経衰弱に、なやまされている。(ここに「持病の痔疾」と書いたのは誤りである、というのは、芥川がその年〔とし〕の、九月八日に、薄田にあてた手紙の中に「何分小生の胃腸直〔なほ〕らずその為痔まで病〔や〕み出し床上に机を据ゑて書き居る次第、」と述べ、九月十三日に、下島にあてた手紙の中に、「この間の下痢以来痔と云ふものを知り恰も阿修羅百臂の刀刃一時に便門を裂くが如き目にあひ居り候へば……」と書いているからである。これで見ると芥川が、晩年に、神経衰弱と殆んど同じくらいに悩〔なや〕まされていた痔疾にかかったのは、大正十年の秋、という事になる。すると、芥川は、神経衰弱と胃病のほかに、死ぬまで、五年あまり、痔疾になやまされていた訳〔わけ〕である。そうして、この芥川の痔疾は、脱肛であったから、寒い夜中に勉強をし過ぎたり、気候のわるい時分に仕事に根〔こん〕をつめ過ぎたり、すると、おこるのである。そうして、それが起こると、ときどき、はげしい疼痛をじたり、出血したり、する。これでは、丈夫な着でも、殊に筆をとる者には、やりきれないから、まして、芥川のような病弱な人には、いっそ死ぬ方がましだ、と思われたにちがいない。

[やぶちゃん注:「阿修羅百臂」旧闘争神である阿修羅は知られた造形は三面六臂であるが、この阿修羅が百本の腕で、それぞれに刀を持って、その百本を肛門に一斉に突き立てたと思われるような痛み、という諧謔(本人には諧謔どころではないのだが)である。]

 さて、幾度も云うが、支那旅行のために、芥川は、健康をますます悪〔わる〕くした上〔うえ〕に、経済的にも無理をしたようである。それから、これも、わぎとしばしば書くが、芥川は、誰もが意外に思うほど、複雑な家庭の事情にしじゅう悩〔なや〕み、その負担に苦〔くる〕しみつづけていた、それに、原稿料の前借のようなものまで一〔ひ〕と方〔かた〕ならず気にする男であった、一〔ひ〕と口にいうと、実に気の小〔ちい〕さい人であった。

 ところで、芥川が支那旅行から帰った月日〔つきひ〕は、(はっきりわからないが、)七月の下旬頃であろう。いずれにしても、前に述べたように、芥川は、帰国してから、間〔ま〕もなく病気になった。が、病気を押しながら、(つまり、痔になやみながら、)芥川は、ある時は、床〔とこ〕の上に机を据えて、毎日新聞に連載することを約束した、『支那游記』を、ときどき休みながらも、書きつづけた。これは、何〔なに〕よりも、芥川の責任を重んじる気もちを現している。しかし、それとともに、これは、芥川の健康をますます悪〔わる〕くする本〔もと〕になった。

[やぶちゃん注:「芥川が支那旅行から帰った月日は、(はっきりわからないが、)七月の下旬頃であろう」現在の年譜上の知見よれば、芥川龍之介の帰国は七月十七日頃(何故か現在でも明確でない)である。]

 芥川は、十一月の二十日に、薄田にあてた手紙のなかに、「支那旅行[註―『支那游記』]の為文債をのばして行つたのとその後体〔からだ〕のわるい為もろもろの雑誌編輯者より原稿をよこせよこせとせめられ病軀その任にたへず実際へこたれ切つてゐます仰ぎ願くは新年号を退治するまで御待ち下さるやう願ひますその代り今度始めたら中絶しませんこの頃神経衰弱甚しく催眠薬なしには一睡も出来ぬ次第、……」と書いている。

[やぶちゃん注:「文債」は「ぶんさい」と読み、締切りまでに完成出来ない原稿をいうが、どうもこれは、夏目漱石の造語である可能性が高い(そもそもこの意味内容自体が近代的である。)。岩波旧全集書簡番号八四三、小宮豊隆宛明治四十(一九〇七)年十二月十六日附書簡に、

  文債に籠る冬の日短かゝり

という漱石の句がある。因みに、同全集の第十七巻「索引」の語句・次項索引にも見出しとして「文債」はない。]

 この手紙の中の、「新年号を退治する」とは、「新年号の小説を書きあげる」という程の意味である。それから、『十一月二十四日』頃から新年号の小説を幾つか書く、というのは、その時分の諸雑誌の新年号の小説のシメキリはたいてい十二月の十五六日であったからだ。(『今昔の感』という句があるが、新年号の諸雑誌⦅娯楽雑誌と婦人子供雑誌はいつの代〔よ〕でも例外なり⦆のシメキリが十二月の十五六日であつた頃は、なつかしく、ありがたき哉。)

 さて、芥川は、その時の新年号には、(つまり、大正十一年の一月号の雑誌には、)『将軍』(「改造」)、『藪の中』(「新潮」)、『俊寛』(「中央公論」)、『神神の微笑』(「新小説」)の四篇を、発表している。これで見ると、さきに引いた芥川の手紙の中の言葉を本当とすれは、芥川は、十一月二十五六日から十二月十五六日までの間〔あいだ〕に、(つまり、二十日〔はつか〕ぐらいの間に、)四篇の小説を書いた訳である。しかも、枚数をしらべてみても、四百字づめの原稿紙でかぞえると、(芥川は二百字づめの原稿紙を使っていたが、)『将軍』と『俊寛』は五十枚ほどであり、『藪の中』と『神神の微笑』は二十四五枚ぐらいであるから、みなで百五十枚ほどである。すると、二十日で百五十枚であるから、一日に七枚の割りになる訳である。

 しかし、これは、これだけ云えば、見事なように思われるけれど、この四篇の小説の中で増しなのは『藪の中』だけで、『将軍』は、まあまあというところで、思いつきだけの物であり、『俊寛』は失敗作であり、『神神の徴笑』も軽〔かる〕すぎる。

 これらの事は辛〔つら〕い病気を押して書いたためか。それもある。しかし、それよりも、手紙では「新年号を退治する」と軽〔かる〕く書いているけれど、この時、芥川が、「睡眠不足」をしのび、「食欲減退」に苦〔くる〕しみながら、せっせと原稿を書いたもっとも主〔おも〕な理由は、あの手紙にあるように、「のばして行つた」『文債』のためであったのではないか。

 ここで、私は、腕をくんで、考える。――極めて大ざっばな考えではあるが、支那旅行は、芥川の短かい一生の中の、もっとも重大な一〔ひと〕つである、と。支那旅行は、芥川の病弱な体〔からだ〕を一そう病弱にした、それは、直接ではなくても、芥川が幾つかの不治にちかい病気にかかる本〔もと〕になった、それは、又、芥川の命をちぢめる本〔もと〕の一〔ひと〕つにもなった、そればかりではない、それは、芥川のもっとも大事〔だいじ〕な芸術の道の邪魔におちいる本〔もと〕にもなった。

 

 それから、さきに述べたように、芥川が支那旅行に出る頃、芥川の芸術がユキヅマリになりつつあった。かぞえ年〔どし〕二十五歳の三月に、処女作『鼻』によって忽ち世にみとめられ、大学時代に原稿料を得た、という芥川が、三十歳の年にユキヅマリを感じるのは当然である。それは、芥川ばかりではない、殆んどあらゆる作家は、五年も書きつづければ、たいていユキヅマリを感じる。まして、芥川のような小説は必ずユキヅマリがくる。しかし、あまりに若くして大家になり過ぎた芥川は、その性質にもよるけれど、その『ユキヅマリ』を気にし過ぎた、神経衰弱になるほど気にしたのである。

 さて、私は二〔ふ〕た言目〔ことめ〕には、『支那旅行』、『支那旅行』というが、それは、この『支那旅行』を境〔さかい〕にして、芥川の小説の作風(と題材)が変ったからでもある。もっとも、大正十一年の四月には、『報恩記』、それから、大正十二年までの間に、『六の宮の姫君』、『おぎん』、『糸女覚え書』、その他の、初期(あるいは中期)の芥川風の小説が幾つかあるけれど、だいたい、大正十三年を境にして、それ以後の物は、いわゆる『保吉物』、それから、『大導寺信輔の半生』、その他の作者自身が主人公になっているような小説が多くなった。

 その大正十三年以後の小説の中で、芥川の小説らしくない、と云いながら、評判のよかった、『一塊の土』と『トロッコ』は、さきに述べたように、他人の作品を焼き直した物であり、『庭』というちょっとした味のある小品は小穴から聞いた話を本〔もと〕にした物である。しかし、晩年の、(死の三年前から死ぬ年までの間に書かれた、)心境小説風の作品の中には、側側として人の心を打つ小説がある。しかし、それらの小説は、たいてい、小説、というより、小品である。

 私は、これもたびたび述べたが、芥川の初期(と中期)のいわゆる芥川らしい小説は、もとより、私などにはとうてい書けない物であるかち、一と通〔とお〕り感心はしたけれど、いつも、何〔なに〕か彼〔か〕か、不満を感じるのであった。

 ところが、心境風の小説は、肌が合うので、おおかた、感心し、中には、いたく心を打たれる物があった、いや、心を打たれる物がたくさんあった。しかし、それらの小説や小品の多くは、いたく心を打たれながら、あまりに痛まし過ぎたり陰気すぎたり、中にはほんの少し妖気のようなものが漂〔ただよ〕うたり、するので、ときどき、芥川は近頃どうしてこんな物を書くのであろう、と、妙に心配になる事があった。

 結局、私は、『歯車』などをも含めて、芥川の小説は、一般に評判のよい、晩年の心境物(と身辺を書いた物)より、初期(と中期)の芥川らしい小説の方を買うのである。もとより、私も晩年の心境物(と身辺を書いた物)は大へん好〔す〕きであるが、芸術の上から見て、芥川の芸術として、私は、断然、芥川の初期(と中期)の芥川らしい小説を取るのである。そうして、私は、この方が正〔ただ〕しい、と信じているのである。

2012/04/19

教え子への返歌 歐陽修 醉翁亭記 やぶちゃん義太夫風現代語訳

歐陽修の「醉翁亭記」は二十五六年前に読んだきりで忘れていた。
一つ暇に任せて訳してみようと思い立つ。
せめてもの、古き教え子への正しき返歌として――

原文は文言版維基文庫の「醉翁亭記」を用い、句読点及び記号の一部を変更した。訓読(句読点を増補改変し、一部に歴史的仮名遣で読みを振った)と現代語訳に際しては、一部の難解な部分に昭和五十三(一九七八)年朝日新聞社刊「中国古典選 唐宋八家文」所収の清水茂氏の解説・通釈を参考にさせてもらったが、訓読も訳も、あくまで自然流であるから、学術的には使用不可である。語釈は付けると膨大になり、時間もかかるので、今回は現代語訳のみとした。

……而して、訳しながら思ったこと――章末には載道の儒教精神の発露を覗かせながら、その実、百花を愛でて川端に酔って天然自然を見巡り、遊び、居眠りをする欧陽先生は道家的人物を色濃く反映し、最後の楽を知る/知らないという論理も反転させれば、鳥も客も太守も「知る/知らない」という関係性を越境して渾然一体となる「自然」である。そこでは総てが「知る/知られている」のであり、それは正に「荘子」の「知魚楽」(外篇 秋水第十七)を髣髴とさせるではないか――などと勝手なことを考えた。

醉翁亭記 歐陽修

環滁皆山也。其西南諸峰、林壑尤美。望之蔚然而深秀者、琅琊也。山行六七里、漸聞水聲潺潺、而瀉出於兩峰之間者、釀泉也。峰回路轉、有亭翼然臨於泉上者、醉翁亭也。作亭者誰。山之僧智仙也。名之者誰。太守自謂也。太守與客來飲於此、飲少輒醉、而年又最高、故自號曰醉翁也。醉翁之意不在酒、在乎山水之間也。山水之樂、得之心而寓之酒也。

若夫日出而林霏開、雲歸而巖穴暝、晦明變化者、山間之朝暮也。野芳發而幽香、佳木秀而繁陰、風霜高潔、水落而石出者、山間之四時也。朝而往、暮而歸、四時之景不同、而樂亦無窮也。

至於負者歌於途、行者休於樹、前者呼、後者應、傴僂提攜、往來而不絕者、滁人遊也。臨溪而漁、溪深而魚肥、釀泉為酒、泉香而酒洌、山肴野蔌、雜然而前陳者、太守宴也。宴酣之樂、非絲非竹、射者中、弈者勝、觥籌交錯、起坐而諠譁者、眾賓歡也、蒼顔白髮、頹然乎其間者、太守醉也。

已而夕陽在山、人影散亂、太守歸而賓客從也。樹林陰翳、鳴聲上下、遊人去而禽鳥樂也。然而禽鳥知山林之樂、而不知人之樂、人知從太守遊而樂、而不知太守之樂其樂也。醉能同其樂、醒能述以文者、太守也。太守謂誰。廬陵歐陽修也。

〇やぶちゃんの書き下し文

醉翁亭の記   歐陽修

滁(じよ)を環りて皆、山なり。其の西南の諸峰、林壑(りんがく)、尤も美なり。之を望むに蔚然(ゐぜん)として深秀なるは、琅琊(らうや)なり。山、行くこと六七里、漸く水聲潺潺(せんせん)として、兩峰の間に瀉(そそ)ぎ出づるを聞くは、釀(ぢやうせん)泉なり。峰(みね)、回(めぐ)り、路(みち)、轉じて、亭、翼然として泉上に臨む有り。醉翁亭なり。亭を作れるは誰〔た〕そ。山の僧、智仙なり。之を名づくは誰そ。太守、自ら謂ふなり。太守と客と、此に飲み來たり、飲むこと少(わづ)かにして輒(すなは)ち醉(ゑ)ひ、而も年、又、最も高く、故に自ら號して醉翁と曰ふ。醉翁の意、酒に在らず、山水の間に在る。山水の樂は、之を心に得て之を酒に寓する。

若し夫れ、日出でて林霏(りんぴ)開き、雲、歸りて、巖穴、暝く、晦明變化(へんげ)するは、山間の朝暮なる。野芳(やほう)、發(ひら)きて幽香あり、佳木、秀いでて繁陰あり、風霜高潔にして、落ちて石の出づるは、山間の四時なる。朝(あした)に往き、暮れに歸り、四時の景、同じからず、而して樂しみも亦、窮まり無きなり。

負ふ者は、途に歌ひ、行く者は、樹に休らひ、前(まへ)にある者は呼ばはり、後ろにある者は應(こた)へ、傴僂提攜(うるていけい)、往來して絶へざる者に至りては、滁の人の遊なり。溪に臨みて漁(すなどり)すれば、溪(たに)深くして、魚、肥え、泉を釀(かも)し、酒を為(つ)くれば、泉、香んばしくして、酒、洌(きよ)し。山肴野蔌(さんかうやそく)、雜然として前に陳(なら)ぶれば、太守の宴なる。宴、酣(たけなは)の樂しみは、絲(し)に非ず、竹(ちく)に非らず、射る者の中(あた)り、弈(えき)する者の勝てば、觥籌交錯(こうちうかうさく)、起坐して諠譁する者は、眾賓(しゆうひん)の歡びなる、蒼顔白髮、其の間に頹然たる者は、太守の醉ひなる。

已にして、夕陽、山に在り、人影散亂、太守歸りて、賓客、從ふ。樹林陰翳、鳴聲上下、遊人去りて禽鳥樂しむ。然して禽鳥山林の樂しむを知り、人の樂しむを知らず、人は太守の遊に從ひて樂しむを知りて、太守の其の樂しむを樂しむことを、知らざるなり。醉ふては能く其の樂しみを同じくし、醒めては能く述ぶるに文を以てするは、太守なり。太守とは誰(た)れをか謂ふ。廬陵の歐陽修なり。

〇やぶちゃんの勝手自在現代語訳

醉翁亭の記   歐陽修

滁州(じょしゅう)は見巡(みめぐ)り、山また山、
その西南に控かえしは、
峨々たる峰に森と谷、
その言いようもなき美しさ。
眺望遠望、深奥の、
彼方に聳ゆる峰々は、
かの知られたる琅琊峰(ろうやほう)。
山を行くこと六、七里、
次第次第に耳に入る、
さやりさやさや流る音(ね)は、
双(ふた)つ峰(みね)より湧き出づる、
聞こえた、その名も釀(じょう)の泉(せん)。
峰を巡りて、路うねり、
辿(たど)り着きたる四阿(あずまや)の、
醸の泉(いずみ)に寄り添うて、
翼広げし鳥の如(ごと)、
建ってあったが、醉翁亭。
――「この亭を、さても建てたは、誰じゃいの?」
――「山僧、智仙と申す者。」
――「この亭を、さても奇体に名づけしは、一体、どこの何様じゃ?」
――「滁州の太守……この儂(わし)じゃ。」
太守は客を連れ来たり、はるばる亭まで飲み来たる、
一口舐めたばかりにて、太守は直(じき)にべらんめえ、
しかもすっかり爺いなれば、
さすればこそと自ずから、
「醉翁てふは儂のこと」、
さてもところがその醉翁、その心根の向くところ、
全く以て酒に、ない――
そは美しき、この山水、そこにこそのみ、あるのじゃて――
かの「山水の楽しみ」を、直ちに心にともにする、
而して酒は、方便じゃ――

ためしにともに見るがよい――
曙(あけぼの)、東雲(しののめ)、日の出づる、
靄(もや)から森が開けてゆき――
彼誰(かわたれ)、黄昏(たそがれ)、逢魔が時、
昼間に降った雲々も、元の山へと帰り去り、
山崖虚空(さんがいこくう)の岩窟も、
今はすっかり玄(くろ)うなる――
昏く明るく、明暗に――永遠(とわ)に変われる日々のそれ――
それ、この山峡(やまかい)の、明け暮れの、天然自然の「真(まこと)」なり……
草木の薫る春の日に、花の開きてそこはかと、えも言いがたき香りして――
夏の緑樹のすくすくと、茂り繁りて木蔭あり――
白き秋風、吹きすさび――
川面(かわも)の冬は水落ちて、河床(かしょう)の石もはや露(あら)わ――
それ、山峡(やまかい)の四季という、「楽(らく)」たるものの「真(まこと)」なり……
かくも愛(いと)しき明け暮れに、
かくも愛(いと)しき四時の間(ま)に、
朝に出できて、暮れに歸(き)す――
四時の景色は同じうせず――
さすれば「楽(らく)」も、永劫に窮まり盡くることも、なし――

荷を負う人は路(ろ)に歌い、
旅ゆく人は、樹(き)に休らい、
前なる者の呼ばわれば、
後(あと)なる者はそに応え、
腰の曲がった老爺(ろうや)から、
手をひかれゆく童(わらべ)まで、
絶えることなき行き来にも、
この変哲もなき四阿(あずまや)は、
たかが四阿、されど四阿、
滁州の民の心の「遊(ゆう)」じゃ。
谷に臨んで魚をとり、
淵、深ければ、魚も肥え、
清泉汲んで、酒醸(かも)さば、
泉は山の香を含み、
醸(かみな)す酒は清冽々(せいれつれつ)。
山幸、野の幸、そのままに、
田舎料理の太守の宴(えん)。
宴、酣(たけなわ)の楽しみは、
琴に非ず、
笛に非ず、
投壺や囲碁の、ざっくばらん、
壺を射とめるも、射とめぬ者も、
石打勝つたるも、負けたる者も、
互いに酒を酌み交わし、
今宵は、なんの、無礼講、
踊れ、詠(うた)えの大騒ぎ、
客人すっかりご満悦。
――その群衆のただ中に――
しょぼくれ顔の、白髪(しらがみ)の、
ぐでんぐでんの、爺いが一人、
それぞ、お馴染み、酔いぐれた、おいぼれ太守の襤褸(ぼろ)姿。

――夕陽もすっかり山の端(は)に、
落ちてしもうて、人影も、すっきりまばらとなりまして、
太守御帰還、賓客、お供――
森は翳って――
されど、それ――鳥の声の、しきり騒ぐ声(ね)のするは――
物見の民の、喧(かまびす)しき皆、去りゆきて――
野の鳥の、おのが天地を、十全に、心ゆくまで楽しめる――
――然して、鳥は心から、この山林の「楽(らく)」を知り――
――されども人の「楽しみ」の、野点(のだて)の宴(えん)の「楽」知らぬ――
――また客人は、老いぼれの、太守がここで飲んだくれ、居眠りこける「楽しみ」を、それだけ知ってはおるものの――
――老いぼれ太守はその瞬時、滁州の民草(たみぐさ)心より、幸(さち)に生くるの思いの強く、さすればこその「楽しみ」と、酔うた心に満ち足りて、その「楽しみ」をただ独り、楽しみおるを、知りもせぬ――
――さても――
酔うたら、何時(いつ)でも、悦び、一緒!
――じゃが――
酔いが醒めても、その「楽しみ」、
確かにしっかとくっきりと、
文に綴れる芸当を――やらかす奴こそ――この、太守――
――「太守、太守、と……誰やねん?」
――「この儂、廬陵の歐陽 修じゃ。」……

こんなことが出来るのも、野人なればこそ――至福じゃわい――藪野直史

2012/04/18

中国にいる教え子からの消息文

以下に示すのは三日前に僕の古い教え子から貰った消息である。彼は彼の仕事の関係で現在、中国の上海に家族とともに居る。僕はこんな、僕自身を啓発してくれる便に出逢った時、本当に教師をして(「いて」ではなく、完全な過去形であるが)よかったと思うのである。こんな達意で、尚且つ、胸に迫る、そして読む者誰をも、ちょっぴり微苦笑させる素晴らしい文章を書ける彼と友――最早、今はしゃっちょこばった師弟なんぞではない、対等な友であることを誇りに思うのである。僕は偶々「教師」として、彼を教えたに過ぎないのだが、僕が三年間担任でもあって、彼はまた何と僕の現代文しか高校時代に教わっていない如何にも不幸な人物なのである。その彼のこの文の響きは、どうか。正に「文藻」とは、かくの如きものを言うという見本を他の人々にも知って戴きたいのである。彼は奈良をこよなく愛し、能をこよなく愛し、中国をこよなく愛し、家族をこよなく愛する好青年である(僕の中の――puer eternus――プエル・エテルヌス(永遠の少年)という意味に於いて好「青年」であり続ける)。先程、本人からの承諾も得た(著作権は彼にある。引用の際は、このブログからの引用であることを必ず明記されたい)。本名は明かさない。ただ「私の古き友」としておく。

先生、
今日は欧陽脩の名文「酔翁亭記」に誘われて、中2の長男と二人、安徽省滁州に新幹線で日帰り小旅行。薄曇りなのに長袖では汗ばむような陽気に、夏がもうそこまで来ているのを実感しました。小高い丘が連なる市街南郊の風景区には靄もかかり、大陸特有のどんよりした重い空気は、歩くと抵抗力さえ感じられました。肝心の酔翁亭は、大陸でよく見かけるような東屋で、そういう知識を持って見なければ特に感慨も沸かないような代物でした。しかし、私は暮れ行く春に身体ごと包まれる幸福を味わいました。小川に沿った小径の両脇は見渡す限り眩しい若葉に覆われ、藤色やピンクの花をつけた木々がところどころ夢のように佇んでいました。「暮れゆく人生の春」というような日本のどこかの詩句を思い浮かべながら、非日常の感覚を深く味わいました。一千年前にここを訪れた欧陽先生も同じような想いにとらわれたのかもしれません。そうでなければ、人を酔わせるあの名調子は紡ぎ出せなかったでしょう。そうして同じ感性が、東の島国からやってきた私の中に本当に生きているらしいことを不思議に感じ、密かに喜ばしく、そして誇りにも思いました。

今日はそれだけでは終わりませんでした。さきほど帰宅途上の上海地下鉄の列車内で、親子三代の一行に行き遭いました。三十そこそこの父親が車内に掲示された地下鉄路線図を仔細に調べていましたから、恐らくめったに上海に出て来ない郊外の家族が上海動物園にでも遊びに来た帰りだったのでしょう。孫の相手をしているおばあさんが列車の床に尻をついて座りこんだのも、年の頃幼稚園くらいの孫に、その場でシャボン玉遊びをさせたのも、中国生活5年を超えた私の想定範囲内でした。しかし、その子供のズボンを下ろして堂々と床に直接小便させたのには、さすがに度肝を抜かれました。周囲の乗客も、困ったなという苦笑い。

欧陽先生がタイムスリップしてあの地下鉄車内に乗り合わせたら、どうお感じになったでしょう。最近になってやっと私は、一千年前のこの国の文化のひとつの最高峰であった欧陽先生の美意識と、あのご家族を結ぶ線を、何となく思い描くことができるような気がします。とても乱暴ですが「生きていることをありのままに楽しむ」という、細いですが確かな線です。勝手な思い込みかもしれません。しかしこの国は、「美しいものは清浄な床の間に飾ることができる」という日本とは、もっと根底から違う文化の形を持っているような気がします。

先生、人生というものは淋しいものですね。径がいよいよ静寂に包まれ、別れてしまった人々はますます遠くなり、いつの間にか陽は傾き、木々の梢の輝きが失われても、最後まで一人で歩いていかなくてはならないのですね。この愛すべき逞しい国が、微笑みをたたえて歩き続ける力を私に与えてくれますように。

厚みのある気の中を少し前のめりになって息子と進む彼の姿が、暮春の中国のウェットな風景の中にまざまざと浮かんでくる――
また地下鉄の中の田舎の媼(おうな)の日焼けした満面の顔の皺とその笑顔が見える――
それが中国である――
何もかも丸ごと抱え込む強力な包容力を持つ中国そのものである――
肉体だけでなく心までも滅菌処理され、湿った饐えた魂魄さえも居心地が悪くなって逃げ出してしまったような、どこかの国の国民とは違うな……僕はこれを読みながら、そんなことを考えて、口元に知らず知らずのうちに、笑みを浮かべていたのであった……

……歐陽修先生、東の国から来たこの青年は、まさに正しく、先生に繋がる「三上三多」の弟子で御座いましょう?……

宇野浩二 芥川龍之介 十七

 

 

     十七

 

 つぎに述べる話はずっと前に書いたと思うけれど、話をすすめるために必要であるから、重複するのを承知の上で、書く。

 大正九年の秋の中頃であったか、芥川は、いつものように、上〔あ〕がらずに、玄関の部屋の前に立ったままで、私の顔を見ると、いきなり、「今日〔きょう〕は、僕につきあってくれないか、……そのまま でいいよ、」と云った。『そのままでいいよ』とは、「わざわざ著物をきかえなくてもいいよ、」という意味である。(芥川は、たずねてくる時は、いつも、和服であった。)

 その時、芥川が「つきあってくれ、」と云った行く先きは、芥川の友人の石田幹之助のつとめている『東洋文庫』であった。その『東洋文庫』は、たしか、今の運輸省の裏の辺であった。が、その頃は、まだ、赤煉瓦の小さい、せいぜい二三階建〔だ〕ての、小さいビルディングの立てこんでいる細い町つづきで、『東洋文庫』は、それらの赤煉瓦のビルディソグの二階の一室であった。

 私は、芥川と一しょに、上野の桜木町から、大通りに出て、善光寺坂をくだり、藍染橋から電車にのり、和田倉門で電車をおりて、そこから『東洋文庫』のある赤煉瓦の小さなビルディングまで、あるいた。私たちは、その、道をあるいている時も、電車にのっている間〔あいだ〕も、――小一時間ほどの間〔あいだ〕、絶えず、問答のような話を、つづけた。それはこういうのである。

「君は、僕の小説など、読んでいないだろう。」「読んでるよ。」「感心してないんだろう。」「感心してないね、……そりや、僕だって、君が新〔あたら〕しい境地を開こうとしている事ぐらいは、わかるよ。……しかし、あいかわらず、逆説――パラドックスという『手』を使っているのが、気になるね。」「……」「『黒衣聖母』など、なかなか凝ったところはあるけど、結局、『禍〔わざわい〕を転じて福とする代りに、福を転じて禍とする』というのが『味噌』じゃない.か、――といって、むろん、僕には、あんな物かけないが、あれは、やっぱり、味噌くさいね。」「……『秋』は、……」「実に行儀〔ぎょうぎ〕のいい小説だね、それに、あまり理路整然としすぎているね、……ところで、君の小説も変ってきたね、……しかし、ああいう題材は、(つまり、『秋』のような題材は、)君に不向〔ふむ〕きだと思うな、君には、やっぱり、出来不出来〔できふでき〕は別として、『南京の基督』のような物の方が、合ってるな。」「……そうかなあ。」「……ところで、僕は、ずっと前から、心配しているんだが、……余計な事か知れないが、……それは、それは、君が、(君のような作家が、)もし、書く題材がなくなったら、どうするだろう、という事だ、……僕は、実は、君の小説はたいてい読んでいるよ、……『鼠小僧次郎吉』のような題材でも、題材があるうちは、まだいいよ、……僕はネ、君のような作家が、…『解放』や『雄弁』[註―この時分の「雄弁」は、「改造」や「解放」などとならんで、いわゆる純文学の作者の作品を出していた]らまだいいが、『文章倶楽部』のような雑誌に、『黒衣聖母』が出たのを見た時は、悲しかったよ、君、……」

 すると、芥川は、急に真剣な顔つきになって、ささやくような声で、「ありがとう、実はその用事で、石田に逢いに行くんだよ、」と云った。

 さて、前に述べたように、『東洋文庫』は、丸の内の、小〔ちい〕さな赤煉瓦のビルディングのならんでいる細い町の片側の見すぼらしいビルディングの二階の一室にあった。その部屋は、十五六畳〔じょう〕ぐらいの大きさであったろうか、何〔なに〕か引っ越したて、というような感じで、部屋の中は雑然としていた。その部屋の中〔なか〕に一人〔ひとり〕いた石田が大〔たい〕へん大〔おお〕きな人に見えた事、芥川と私がそれぞれ椅子に腰をかけると、それだけで殆んど部屋一ぱいになったような記憶がある事、そういう事を思い出すと、あまり大きな部屋ではなかったのか。それから、片側が通りに面した窓〔まど〕であったことは確かであるが、他の側が本棚であったかどうか。(なにぶん三十年ぐらい前の記憶であるから、すべてアヤフヤである。)

『東洋文庫』は、「東京市本郷区駒込上富士前町にある。大正六年(一九一七)男爵岩崎久弥は、前中華民国総統府顧問モリソン G. A. Morrison より多年の蒐集にかかる支那を中心とせる東洋諸国各般の欧文文献の一大蒐集『モリソン文庫』を購入し、大正十三年、現在の敷地、建物、その他一切の設備を挙げて財団法人東洋文庫が設立された。爾来東洋文庫は、従来のモリソン文庫を核心として、更に年々この方面の洋書と、従来のモリソン文庫には含まれてゐなかつた漢籍の購入をつづけてゐる。[下略]」と或る辞書にある。

 ところで、この辞書にあることを本当とすれは、『東洋文庫』を持っていた岩崎が、『モリソン文庫』を買い入れた時、それを整理するために、この丸の内の赤煉瓦のビルディングの二階の一室(あるいは二三室)を借りて、倉庫兼事務所にしたのであろうか。そうして、その購入した『モリソン文庫』の数多の整理その他を、「支那を中心とした東洋の文書」の権威である石田に、依頼したのではないか。(以上の事は、もとより、愚鈍な私の臆測である。)

 もし私の臆測どおりであるとすれは、芥川と私が通〔とお〕されたのは事務所である。そうして、その事務所には、床〔ゆか〕の上のあちこちに私などが見たこともないような本が積〔つ〕みかさねられてあり、片側の本棚にも私などのよくわからない本がならべられてあった。

 芥川と石田が何〔なに〕かしきりに話し合っていた間〔あいだ〕、私は、所在〔しょざい〕がないので、こういう物を、見るともなしに、見ていたのである。

 石田は、芥川と用事の話をしている間に、二三度、となりの部屋に行って、二三冊(あるいは四五冊)の本を、かかえて来た。そのたびに、芥川と石田は、両方から本の上に顔をよせて、何〔なに〕か話し合っていた。

 やがて、芥川は、「どうもありがとう、」と云って、立ちあがった。

 芥川は、その小〔ちい〕さな赤煉瓦のビルディングを出たところで、いきなり、「僕はすぐうちに帰るよ、」と云って、さっさとあるき出した。それから、電車の停留場まで、芥川は、例の前かがみの姿勢〔しせい〕で、むっとした顔をした、無言で、なにか急用でもある人のように、早足〔はやあし〕で、あるいた。

 さて、電車に乗ってから、芥川が口をきった。

「……今日〔きょう〕どうもありがと。」「いい題材みつかった。」「……うん、……ところで、さっき、君は、『秋』のような題材の物は、僕には向〔む〕かない、と云ったが、そうなんだよ、実際、あんな物は、僕には苦手〔にがて〕なんだ、……しかし、僕は、もう一べん、いなおって、思いきって、感傷的なところや抒情的なところの全〔まつた〕くないもので、現代物を書いてみよう、と思っているんだ、しかも、短篇じゃない、中篇だ、……」「ふん、そりや、おもしろい、かもしれないけれど、僕には、……」「ふん、しくじったら、別の手を打つつもりだ。」「その方がよかないか。」(すると、芥川は、急に低い声になって、云った。)「僕は、ずっと前から、トルストイとツルゲエネフの話を、書きたい、と思ってるんだが、……」「その方が面白いかもしれないね。」「うん、……君もどんどん書けよ。」「うん。」「失敬。」(この時、電車が、私のおりる藍染橋にとまったのである。)

 

 ここで、つぎの話にうつる前に、芥川のために、一〔ひ〕と言〔こと〕、弁護しておく。――それは、芥川が、支那の旅行から帰って、しばらく、病気をして寝ていたことがある。すると、いつの世にも絶えない、口さがない連中が、「『南京の基督』の話は、芥川の実験談で、芥川は支那でひどい梅毒にかかったらしい、」と云い触らした事である。ところが、いつの世にもゴシップを信じる人たちも亦多いので、この時が本当のように広がったのである。しかし、この弁護はいたって簡単明瞭である、『南京の基督』は大正九年七月の作であり、芥川の支那に出かけたのは大正十年の三月の末であるからである。

 猶、芥川の体質と病気についてしじゅう質問をうけて困っていた、芥川の親友であり主治医であった、下島 勲が、『芥川龍之介のこと』という文章の中で、「世間にイイ加減な臆説や誤りが流布されてゐる。また種々の尾鰭がついて、肺結核だの甚だしきは精神病者とまで伝へられてゐる、」と憤慨している。

 結局、芥川の病気は、胃のアトニイ、痔疾(脱肛)、神経衰弱、――この三つであったのである。

[やぶちゃん注:「下島 勲が、『芥川龍之介のこと』という文章の中で」とあるが、標題は正確には「芥川龍之介氏のこと」で、昭和二(一九二七)年九月号『改造 芥川龍之介特輯』に所載され、後に昭和二十二(一九四七)年清文社刊の下島勲著「芥川龍之介の回想」に収められた。私の電子テクストがあるので参照されたい。

「胃のアトニイ」胃壁筋肉の緊張が低下、胃の機能が低下する状態を言う。先天的に全身的に筋肉が弱く痩せた人に多く起き、胃下垂自体が胃の機能低下を惹起することが多いために胃下垂と合併して発症することが多い。]

 ついでに、下島の書いた文章の中に私の注意を引いたものが一つあるので、それについて、述べておく。それは、『訂〔ただ〕しておきたいこと』という文章の終りの方の、「あれは晩年小穴といふ人の頭に映じたり印象づけた生活相や言行の一面で、主として彼[註―芥川のこと]がすがれ行く痛ましい姿の描写のやうである、」と書かれ、更に、その後の方に、書かれている、つぎのような文章である。

 

 

 私は芥川氏の自殺の背景に多大の関係があるやうに書かれたり、喧伝せられてゐるS子夫人に対する彼の煩悶苦悩といふのは、時に病的ではなからうかと思はしめた神経の一つの現れで、その現れが婦人殊に有夫の人で而も知友などに関係ある対象だつただけに、比較的著〔いちじる〕しかつたに過ぎぬものと解したい。(尤も決して気違ひでない人でありながら、僅かの傷を致命傷ではなからうかと感じるものがあるかと思へば、顔面に出来た発疹を梅毒ではないかと勘違ひをして、煩悶の結果、自殺を企てた若い教養のある厳格な家に育つた立派な婦人もあつた。芥川氏に何の関係もないことであるが、参考までに記しておく、)だから、芥川氏の場合S子夫人のみを自殺背景の重大原因であると見たり、甚だしきは、「芥川龍之介を死なせた女」などといふ雑誌の表題を見るだけでも、ウンザリせざるを得ない。

 

 

 私がわざわざこの長い文章を引用したのは、私がこの下島の説にほぼ同感であるからだ。

 

 それから、私が、この文章を書き出してから、ときどき、(ほんのときどき、)不審に思ったのは、私は、芥川とナニかあるようなナニもないような噂をされている婦人は、たいてい、芥川から、『ナンの関係もないような女』として紹介せれるか、名前を聞かされるか、していたのに、この下島の文章に出てくる『S子夫人』の名だけは、芥川が、私に、一度も口にしたことがない事である。

 この事は、こう書きながらも、やはり、不審に思われ、妙に思われるのである。

[やぶちゃん注:「S子夫人」は言わずもがな、秀しげ子。]

 

 さて、私は、『東洋文庫』に一しょに行った時から、ずっと、芥川に、逢わなかった。

 しかし、私は、自分の仕事に追われながらも、ときどき、芥川の事が、気になった。あの時、電車の中で、気負〔きお〕った口調で、「現代物を、もう一ぺん、書いてみる、」と、云っていたが、それを書いているであろうか、残暑は猶きびしい、元気そうによそおってはいたけれど、心〔しん〕が弱っているように見えたが、芥川よ、恙〔つつが〕なしやと、私は、思ったのである。

 ところが、『東洋文庫』に行ってから一〔ひ〕と月〔つき〕ほど後、新聞の広告で、「中央公論」(大正九年十月号)に『お律と子等』が出たのを見た時、私は、「やったな、」と思った。『やったな』とは、「芥川が思ったよりも早く、現代物の小説を書いたのに、おどろいた、」という程の意味である。

 ところが、その十月号の「中央公論」に出たのは前篇だけで、後篇は十一月号の[中央公論」に出た。そうして、両方で百枚ちかくであるから、芥川の小説としては幾らか長い方である。これは、簡単に荒筋を述べると、死にかかっている母(お律)と子等(胤〔たね〕ちがいの兄、腹ちがいの姉、弟)というような複雑なきょうだいとその身内〔みうち〕の人間たちを、その人たちの家であるメリヤス類の問屋にあつめ、それらの人たちが、危簿の状態にある病人をよそにして、角つきあいをしている有〔あ〕り様〔さま〕を書いたむのである。

 ところで、こういう日本の自然主義の作家が好〔この〕んで書いたような題材を、いわば門〔かど〕ちがいの芥川が、材料にしても、成功する筈がないのである。ところが、嘗て「理智主義」とか「新技巧派」とか称せられた芥川は、さすがに、こういう題材を、芥川流にこなし、巧緻な技巧と洗煉された文章によって、事件も、人物も、手際〔てぎわ〕よく、きちんと、書いている。とごろが、この小説も、『秋』と同じように、作意がハッキリしすぎ、説明が多すぎ、心理描写があらわ過ぎ、辻凌が合い過ぎる。そのため、現実味がうすく、迫力がない。頭〔あたま〕で作〔つく〕って、頭で書いているからである。

 しかし、この小説は、芥川が、大袈裟にいえば、作者として立ちなおる気で、書いたものであり、気負って書いたものであるから、いま述べたような欠点はあるが、実に細〔こま〕かいところまで気をくばり、文字どおり、用意周到な作品である。しかし、そのために、生き生きしたところがなく、どの人間にも血が通〔かよ〕っていない。しかし、又、いうまでもなく、これは誰にも書けるというような小説ではない。妙な言葉であるが、これは、秀才の小説である。

 ところで、私は、この小説を、発表された当時に、読んで、一ばん気になったのは、作者が、この小説に出てくるいかなる人間にも、微塵〔みじん〕の同情も持っていない事であった。この作者は人間らしい温か味というものを少しも持っていないのではないか。この作者の心は氷であるか。私は、この小説を読みおわった時、心の中が、心の底が、氷のように、寒く冷たくなるような気がした。(人間としての芥川は、私の知るかぎり、冷たいところなど殆んどなく、温か味のある人であったが、小説を書く時は、作品の上では、このようになるのであろう。しかし、これは、もとより、芥川ばかりでなく、たいていの作家は、書く時は、非情と思われるほど冷静な心にならねばならぬのである。)

 ところで、話は別であるが、私は、この『お律と子等』 の後篇の終りの方に感じられる何ともいえぬ「陰気」さは、芥川が、この小説を書いた年〔とし〕から六年ほど後に、つまり、(自ら死んだ年の前の年に、)書いた『玄鶴山房』の暗い暗い「陰気」さに、どこか、通じるところがあるような気がするのである。(そういえば、こじつけるようであるが、『お律と子等』の構想と『玄鶴山房』の構想も、ほんの少しではあるが、似ているところがある。)

 芥川が『お律と子等』を書いたのは、さきに述べたように、二十九歳の年〔とし〕の秋であるが、二十九歳の年〔とし〕に『お律と子等』というような小説を書いた芥川は、二十九歳の年〔とし〕に、既に、心の中に、いうにいわれぬ苦しみと悩〔なや〕みを、持っていたのではないか。そうして、その一〔ひと〕つを仮りに病苦とすれば、他の一つは『家』の事ではないか。

 

 さて、『お律と子等』を失敗作であると思っていた、私は、芥川が、『東洋文庫』から帰りに、電車の中で、「もし失敗したら、別の手を打つつもりだ、」と云ったことに、期待した。それが、たぶん、その翌年(つまり、大正十年)の「中央公論」と「改造」の一月号に出た『山鴫』と『秋山図』であろう。

『山鴫』も、『秋山図』も、発表された当時、世評はわりによかったようである。

『秋山図』は、(これにに書いたような気がするが、)芥川のところに出入りしていた、支那文学に通じている、伊藤貴麿〔たかまろ〕の話によると、(これは、伊藤が、私が何も聞かないのに、わざわざ、教えてくれたのであるが、)『秋山図』は、あれとまったく同じ筋の小説が支那にあって、その支那の小説そっくりである、と云う。その真偽は別として、芥川は、その小説の書きはじめの頃から、日本の古典や切支丹の文献などから題材を取って小説を作っていたのであるから、伊藤の『教え』を大目に見ることにして、『秋山図』について云えば、私は、この小説は、例の名文は別として、物語としても、アヤフヤであり、(たとい『アヤフヤ』を書いたものとしても、)あまりおもしろくない、と思うのである。

[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(明治二十六(一八九三)年~昭和四十二(一九六七)年)は児童文学者・翻訳家。大正十三(一九二四)年に新感覚派の『文藝時代』に参加したが、その後は児童文学界で活躍、少年向けの「西遊記」「三国志」「水滸伝」をはじめとする中国文学の翻案物を得意とした。

「『秋山図』は、あれとまったく同じ筋の小説が支那にあって、その支那の小説そっくりである」作品の原典は清初の画家惲格(うんかく 一六三三年~一六九〇年 字・寿平 号・南田)の画論集「鷗香館集」補遺画跋に載る「記秋山圖始末」であるが、実際に芥川が参考披見した原拠は今関寿麿(いまぜきとしまろ 明治十五(一八八二)年~昭和四十五(一九七〇)年 号・天彭:中国研究家・漢詩人)の編になる「東洋画論集成」の上巻(大正四(一九一五)年読画書院刊)所収の訓読文と考えられている(本記載は一部を翰林書房「芥川龍之介新事典」に拠った)。]

 

『山鳩』は、『秋山図』とくらべると、(「くらべると」である、)いくらかおもしろく、心にくいほど巧みなところもある。そうして、例によって、些細なところにも気をくばっている。それで、一と口に云うと、この作品は、気のきいた物語ではあるが、小説としては、やはり、物たりない。

 けっきょく、私は、待ちかねていただけに、この二つの小説を読んで、かるい失望を感じた。そうして、寂しい気がした、これでは心細い、と思ったからである。しかし、又、芥川は、こんな事で、決してへたばる男ではない、と思った。

 

 話がまったく変るが、(これも前に述べたことがあるかもしれないけれど、)大正十年の一月の末頃であったろうか、芥川と、神田の神保町の中〔ちゅう〕の下〔げ〕ぐらいの牛肉屋で、私は、久しぶりで、一しょに、夕飯をたべたことがある。

[やぶちゃん注:ここまで読んでくると、宇野は作家の発表雑誌や飲食店・茶屋、職業、更には女性の容貌、人間の品性に至るまでの総てを殊更に(ある意味、偏執的に)格付け(そこには、時代背景を考慮するとしてもかなりの差別意識も入り込んでいることは疑いがない)することが好み(というのが失礼ならば趣味)であることがよく分かる。これが彼の本来の性格によるものか、それとも精神病後の人格変性によるものであるのかは定かではないが、[やぶちゃんのやぶちゃんによる割注―それは生じ得るのである。宇野の記載を読んでいて感じるのは、本書の中の大部分である芥川龍之介の回想はその殆どが、宇野が精神に異常をきたす以前の記憶であるわけだが、その当時感じた印象と記述時の印象が一八〇度転換しているケースが散見される。これは実際にそうであった(当時の宇野の思い違いであった)と感じさせる部分もあるが、中に有意な割合で何か感受者である宇野自身の脳の器質的変化によるものではないかと感じさせる部分が私には確かにあるからである(但し、精神病による病変であるからといってその差別性の責任が相殺されるとは私は思っていない)。]これはかなり奇異に見える(私は時に読んでいて不快感さえ覚える)ことは事実である。ここで言っておきたいのであるが、私は彼の差別語や差別表現に対して、本電子テクストの冒頭や最後に、如何にもな例の差別注記を附ける気はポリシーとして全くない。[やぶちゃんのやぶちゃんによる割注―私は、現在の出版界やネット上で、ただ同文の差別ママ注記を附ければ、それで差別がなくなるというような安易な免罪符的用法に対して強い違和感を抱くからである。私は差別注記を本気でやるのなら、どこが差別用語であり、どれが差別表現であり、それがどのような部類の差別であり、どのような人間がどう差別されるのか、ということを誰にも分かるように逐一解説せねば嘘だと思うからであり、そんなことを文学作品(それも過去の)に適応することは現実的に不可能だからである。]が、ここでそうした批判的視点を常に持って読者一人ひとりが彼の文章全体を読むべき必要性を「ここで一度だけ」指摘しておきたいのである。差別の解消の総ての核心は個々人の不断の内的省察に基づかねばならない。と私は思うからである。]

 

 六畳ぐらいのうすぎたない部屋であった。そこで、注文した物が出る前に、芥川は、その時はなにか上幾嫌で、ほとんど一人で喋った。

「……君、われわれ都会人は、ふだん、一流の料理屋なんかに、行かないよ、菊池や久米などは一流の料理屋にあがるのが、通〔つう〕だと思ってるんだからね。……」(その他、いろいろ喋ったが、みな略す。)

 さて、注文した物がはこばれ出した時、芥川が、私に、自慢そうに、なにか字を書いた半紙を見せながら、例の鼻にかかる声で、「これ、ヘキドウが書いたんだよ、」と、云った。

 見ると、細いくねくねした字で、『夜来の花』と書いてあった。「ヘキドウ」とは、小沢碧童という、新傾向の俳人である。

「うまいだろう、」と、芥川は、ニコニコしながら、云った。

「うむ、」と、私は、いった。『うむ』といったのは、私には、その字が、下手〔へた〕に見えて、うまいとは思えなかったからである。(後記―これは、私の無知で、実は凝った巧みな字であった。)

 ところが、大正十年の三月十三日に、芥川が、小穴にあてた手紙の中に、「……空谷老人入谷大哥の『夜来の花』を見て曰『不折なぞとは比へものになりませんな』と、」という文句がある。空谷すなわち下島 勲は書の名人であるから、この、『入谷大哥』が小沢碧童ならば、私が、碧童の書いた『夜来の花』を、芥川に、「うまいだろう、」と云って、見せられながら、下手だと思って、「うむ、」と生返事をした時、芥川は、何も云わなかったが、心の中では、大いに軽蔑したであろう、と思う。

 

 こんな事を思って、ちょいと調べてみると、碧童は、

 

 何鳥〔なにどり〕か啼いて見せけり冬木立

 

 引窓に星のひつつく寒さかな

 

というような句を作っているばかりでなく、書と篆刻に巧みである。

 

 こういう点で、芥川が文人とすれは、(いや、大〔たい〕した文人である、)私などは、野人であり、風雅を知らぬ無粋人である。

[やぶちゃん注:「入谷の大哥」「小沢碧童」河碧梧桐門下の俳人小澤碧童(明治十四(一八八一)年~昭和十六(一九四一)年 本名、忠兵衛)のこと。「大哥」は「あにい」「あにき」と読む(芥川龍之介が親しくした友人の中でも十一歳年上の最年長であった)。ここに書かれた通り、芥川の第五作品集『夜来の花』(大正十(一九二一)年三月新潮社刊)の題簽をものしている。]

 

 私はこの神保町の牛肉屋で、芥川と一しょに食事をしてから、二た月〔つき〕ほど後に、芥川に、(芥川が支那に行く前に、)旅行したきりで、それから、四五年も、芥川と逢う機会がなかったのであった。

2012/04/17

雨にうたれて散る桜

僕はさっきの驟雨の間、自分の書斎の窓のすぐ下の斜面の母が植えた枝垂桜をずっと眺めていた――こんな風にこんな季節にこんな場所からこんな時間に眺める時を持ったこと自体が――全くの初めてのことだったが(僕たちは当たり前に当たり前の場所で見るべきものを何も見ていないのだということを実感したものだ)――桜の花びらが強い雨滴にうたれてみるみる散ってゆくのは何かひどく切ない思いがした――花はこうして散ってゆくのだと僕は初めて知った気がした――僕はただ凝っと落下するそれを見つめていた――

宇野浩二 芥川龍之介 十六~(4)

 『戯作三昧』が出てから半年ぐらい後に発表した『地獄変』は、芥川の全作品の中の代表作ちゅうの代表作のように云われているが、そのとおり、これは、代表作の一つであるとしても、芥川の絵空事の小説(というより物語)の下〔くだ〕り坂にかかりかけた頃の作品である。

 しかし、それはそれとして、さすがに、芥川は、その後、別の形の絵空物や小説を、つぎつぎと、工夫〔くふう〕して、書いた。(それについては、これも、後に述べるつもりである。)

 それから、『地獄変』は、(その文章だけで云うと、)芥川の他の小説の文章が、彫琢し過

窮屈になり、感情までなくなるが、『地獄変』の文章は、のびのびしていて、一種の感情もある、そのかわり、冗漫なところがある。一長一短というべきか。

 

『文藻〔ぶんそう〕』という言葉がある。相馬泰三が、むかし、(大正七八年ごろ、)私に、ある小説の大家の文章について述べた時、「君〔きみ〕、この文章には『藻〔も〕』がないよ、」と、云った、つまり、芥川の文章には『藻』がないのである。(ふと、思い出した、その時、相馬が、『藻』がない、と云った小説は、一代の名文家と称せられる、谷崎潤一郎の或る作品である。)

[やぶちゃん注:「文藻」この場合は、詩才・文才の意味ではなく、その作者個人の文章に特有な、独特の綾や色彩の謂いである。それにしても相馬の「藻がないよ」はなかなか面白いし、それを丁々発止に受ける宇野も面白い。芥川龍之介の文章に「藻」は充分にある――いや、あり過ぎる程に、ある――と思っている私でも、この掛け合いは面白い。この宇野の一段落には確かに彼等の言う『藻』がある。]

 

『傀儡師』におさめられている小説の中の一ばん新作は『毛利先生』である。

『毛利先生』は、芥川が現実的な小説に力〔ちから〕を入れるようになった、最初のキッカケになった作品である、なぜと云う批評家もあるが、『批評』という事になると、人さまざま、何とでも勝手な事が云える。だいたい、『毛利先生』は、芥川が、芥川らしい小説が書きにくくなったために、楽〔らく〕な方法で、回想を本〔もと〕にして、諧謔と皮肉で、小説らしくしたものである。

 回想を本〔もと〕にして、と云えば、この『毛利先生』と殆んど同じ頃に書いた『あの頃の自分の事』という小説のはじめに、芥川は、「以下は小説と呼ぶ種類のものではないかも知れない。さうかと云つて、何と呼ぶべきかは自分も亦不案内である、」と、ことわっている。

 嘗〔かつ〕て、(といって、二三年前には、)芥川は、『小説と呼ぶ種類ではないかも知れない、』というような小説は、断乎として、否定した人である。そんな小説は、小説ではない、と云い切った人である。

 それが、今、むかし軽蔑した『小説と呼ぶ種類ではないかも知れない』ような小説を、芥川は、書かざるを得なくなったのである。それが、つまり、『毛利先生』(これはちょいと小説になっているが)であり、この『あの頃の自分の事』であり、ずっと後の、『大導寺信輔の半生』であり、幾つかの、『保吉』物である。

[やぶちゃん注:「毛利先生」の私の電子テクストはこちら。]

 

 さて、芥川が生前に出した短篇集は、『羅生門』、『傀儡師』、『影燈籠』、『夜来の花』、『春服』、『黄雀風』、『湖南の扇』の七冊であり、芥川の死後に出された短篇集は、『大導寺信輔の半生』と『西方の人』の二冊である。

[やぶちゃん注:「芥川の死後に出された短篇集」は二冊どころではない。ざっと見ても没年(昭和二(一九二七)年末には『侏儒の言葉』、翌昭和三年には童話集『三つの宝』、昭和四年に『西方の人』、昭和五年に『大導寺信輔の半生』と続く。]

 この生前に出した七冊の中で、『黄雀風』と『湖南の扇』には主として身辺を書いた作品が多くはいっており、他の五冊のうちでは『影燈籠』が一ばん見おとりがする。

『影燈籠』の中には、『蜜柑』とか、『葱』とか、という現代の庶民の日常の何でもない事を題材にした小説がはいっているが、これは、いわゆる歴史物ばかりを書いていた芥川が、このような物を書いたという事で、めずらしがられただけの物で、ちょいと気のきいた小説ではある。が、唯それだけのものである。それに、『葱』は、あまり出来〔でき〕がよくない。