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2012/04/30

テツテ的に支持する大河ドラマ「平清盛」についての見解


僕にとって物心ついた七歳の記憶の、伝説的「赤穂浪士」(昭和三十九(一九六四)年。因みに、あの忘れ難い主題曲は作曲が芥川也寸志であった)以降のNHK大河ドラマの中で、ともかくも毎回見逃したくないと思っている、唯一の大河ドラマである。

1・1
どこぞの芸術性を理解しない愚劣な役人が「映像が汚い」と言ったが、現実のリアルを追求する観点から言えば、視聴者の現実逃避を無視して、もっと暗く、もっと汚くて、よい。平安末期は、もっと饐えたウエットさと、死臭に満ちていた(いや、今の我々の世界こそ見えない「穢れ」満ちているではないか)。

1・2
もっと汚く、もっと暗くあれ! そうして、正しく現世を見据えよ!

1・3
視聴率や見た目の綺麗さなどは糞喰らえ! 視聴率など問題にするに及ばない。いいものは、それでいい!

1・4
天皇家を王家と呼び、王家が公家政権の象徴的権力層を示すことは、歴史学的考証に於いて正当であり、それが不敬に当たるなんどという謗りは、何らの正当性を持たない。

1・5
平清盛という歴史上の人物が如何なる人物であるかが歴史学的にも謎であること、一般大衆には後の源氏の武家政権との相対的印象によって、清盛が偽悪的傾向を不可避的に内在させていることが視聴率にとってのマイナス要因ではあろう。

1・5・1
しかし、そうした謎や、公家政権を実質的に崩壊させた、最初の新興武士階級のチャンピオンとして清盛の魅力は揺るぎなく在る。

1・5・2
更に白河院落胤説の設定は、王家・多層的公家・侍・僧侶・庶民という階級職能構造を、痙攣的に破壊し(神鏡を射るシーンは感動的であった)、歴史的変革という強靭な力学を生み出す点で面白い。


松山ケンイチは俳優として十全に魅力的である。まず以って若い俳優にありがちな、上滑りな軽さや、若さにかまけた小手先の演技の誤魔化しは見られない。

2・1
少し線の細さを感じさせる表情の揺らぎを持つが、総体に於いて極めて誠実で、直情径行の清盛を、美事に素直に演じている。

2・1・1
かつての「新・平家物語」の仲代達矢のごわごわがしがしした演技よりも、ずっと自然で、見る者の心にすんなりと入ってくる。

2・1・2
いや、寧ろ、向後、平家が台頭して行く中での、独裁的清盛への人格的変容や死に至る絶対の孤独を、どのように松山ケンイチがどう演じてゆくかが、問題でもあり、惧れでもあり、期待でもある。

2・2
彼の妻の小雪を出すなんどという、下劣な視聴率打開策などを考えるのは(それが事実かどうかは知らないが)、ドラマ制作者の「敗北」以外の何ものでもない(但し、僕は小雪が好きであり、個人的には松山に嫉妬している)。


愛するピアニスト舘野泉のピアノ・ソロを始めとして、初音ミクの「遊びをせんとや」も、吉松編曲によるエマーソン・レイク&パーマー「タルカス」使用も、どれもが優れて印象的で斬新である。

3・1
「遊びをせんとや」は妻を始めとする古典を専門とする者には評判が悪いが、僕はつい口ずさんでしまう。


僕は「平清盛」をテツテ的に支持し、今後も大いに期待するものである。

宇野浩二 芥川龍之介 二十二~(2)

 一般に、『地獄変』は、凄惨で、怪異で、「読む人ことごとく戦慄する、」名作である、と称されている。しかし、『地獄変』の陰惨は、作者の頭〔あたま〕で作られ、名文章で語られた、というだけのもので、借り物の観がある。それから、『点鬼簿』であるが、(これは、小説ではなく、随筆に近いものであるけれど、仮りに小説として見て、)この『点鬼簿』も、(『点鬼簿』でさえ、)しいて「鬼気せまる」という言葉をつかえば、そういう気もちを起こさせるのは、その㈠の気ちがいの母を書いたところだけで、その㈡にも、その㈢にも、題材が題材だけに人の心に迫るところもあるけれど、厳しく云えば、ところどころに、遊びがあり、ポオズがあり、気取りもある。そうして、更に極言すると、大抵の人がほめる、最後の、

 

 

  かげろふや塚より外〔そと〕に住むばかり

 僕は実際この時ほど、かう云ふ丈艸の心もちが押し迫つて来〔く〕るのを感じたことはなかつた。

 という一節さえ、私には、昔ながらの芥川の気取りがあるようにさえ思われるのである。

 芥川は、丈艸を、蕉門の中で、「最も的的と芭蕉の衣鉢〔いはつ〕」、を伝えている、(それに違いはないが、)という程、認めていたから、不断、丈艸の句に親しんでいたにちがいない、しぜん、この「かげろふ」などという句は、いつとなく、暗記していたにちがいない。されば、妙な臆測をすると、この句は書く前に用意してあったかもしれない、と思われる程である、それほど、情と景とがぴったり合っているからである。

[やぶちゃん注:「的的と」明白なさま。]

 

 ところで、前に、『ポオズ』とか、『気取り』とか、いう言葉を使ったが、元〔もと〕もと、ポオズや気取りは芥川の持ち前である、したがって、ポオズや気取りは芥川の人間にも文学にもあった、そうして、ポオズと気取りは芥川の文学の独得の特徴である、極言すれば、ポオズと気取りのない芥川の文学はあり得ない、という事になる。しかも、その芥川の文学の『ポオズ』や『気取り』には、わざと俗な言葉を使うと、「好〔す〕いたらしい」ところがあった。そうして、それが、青年たちに受けた所以〔ゆえん〕でもあったのだ。(しかし、前に述べたように、最晩年の芥川の作品にはそれらが次第になくなった、それで、これも先きに書いたように、いわゆる芥川らしい文学は晩年には殆んどなくなってしまったのである。)

 ここまで書いて、『点鬼簿』を、念のために、読みなおして見て、さきに述べた事を訂正しなければならなくなった、それは、先きに引いた所のほかは、(これも、もとより、晩年の作品であるから、)殆んどポオズや気取りがないからである。それは、(その一例は、)次のようなところである。

 

 

 僕の父や母の愛を一番余計に受けたものは、何と云つても「初ちやん」[註―ずっと前にも註をした、芥川の生れぬ前に死んだ、賢かった姉(長女)]である。「初ちやん」は芝の新銭座からわざわざ築地のサンマアズ夫人の幼稚園か何〔なに〕かへ通〔かよ〕つてゐた。が、土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へ泊〔とま〕りに行つた。「初ちやん」はかう云ふ外出の時にはまだ明治二十年代でも今〔いま〕めかしい洋服を着てゐたのであらう。僕は小学校へ通つてゐた頃、「初ちやん」の着物の端巾〔はぎれ〕を貰ひ、ゴム人形に着せたのを覚えてゐる。その又端巾は言ひ合せたやうに細〔こま〕かい花や楽器を散〔ち〕らした舶来〔はくらい〕のキヤラコばかりだつた。

 

[やぶちゃん注:「サンマアズ夫人の幼稚園」言語学者・日本研究家James Summers(ジェームス・サマーズ 一八二一年~明治二十四(一八九一)年)の夫人が経営した幼稚園。明石橋橋畔にあった。ジェームス・サマーズは英国人お雇い外国人教師として明治六(一八七三)年に来日、東京開成学校の英文学と論理学教授から始まり、新潟英語学校、大阪英語学校の英語教授を経、明治十五(一八八二)年の札幌農学校を最後に満期契約となったが、そのまま帰国をせずに東京築地の自宅に「欧文正鵠英語学校」を設立、日本で生涯を終えた(以上は北海学園大学人文論集第四十一号(二〇〇八年十一月刊)所収の中川かず子氏の「ジェームス・サマーズ――日本研究者,教育者としての再評価」の記載に拠った)。筑摩書房全集類聚版脚注には、『築地のサンマーズ塾といえば英語を解する人達は大抵一度は厄介になったことのある古くから有名な学校』で、『塾長キャッセー・サンマーズ嬢』で(サマーズ夫婦の娘か?)、彼女は明治四十二年に『三十年ぶりで帰国した〔東京日日新聞〕』とある(私の注も異様に細かくなったが、この脚注も異例に長い)。なお、Hisato Nakajima氏のブログ「東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解くーPast and Present」の2011年4月26日 at 12:40 AM のコメントへの氏の返信の記事に現れるものでは、『藤善徳「築地居留地の思い出」では、「サンマー・スクール」と呼ばれた英語塾とされ、リリイ・サマーズという人がやっていたようで』(この「リリイ」が「サンマアズ夫人」の名か?)、『谷崎潤一郎や岡倉由三郎が学んだと』ある(岡倉由三郎(慶応四(一八六八)年~
昭和十一(一九三六)年)は英語学者。夏目漱石の友人で、岡倉天心の実弟)。『清水正雄「築地に開設された教会と学校」では、正式名が「欧文正鵠学院」』、明治十六年から四十一年まで『開設されていたことが記載され』ている、とある。

「キヤラコ」英語“calico”は、インド産の平織りの綿布を言う。但し、本邦ではインド産の厚手の染色されたそれとは異なり、薄く織り目を細かく糊付けした純白の光沢のある布地を主に言い、足袋やステテコの材料とする。]

 

 これは、『点鬼簿』の㈡の中程の、芥川が、見たことない、懐しい、姉を思いながら、二十六七年前の、小学校に通っていた時分の回想を書いたものである。

 これ(つまり、『点鬼簿』)を書いている頃の芥川は、芥川について述べている誰の文章でも、(私の知る限り、)大てい、既に死を覚悟していた、とか、死に隣りしていた、とか、書いている。それは、鬼籍にはいった人たちのことを、その人たちの殆んど陰気な話はかりを、暗い、しみじみした、真に迫った、文章で、書いてあり、それに、厭世家の丈艸の、厭世的な、『かげろふや塚より外に住むばかり』という句にも幾らか動かされたからであろう。

 しかし、私は、前にも述べたように、魯鈍なためか、「改造」[註―大正十五年十月号]で、この作品を読んだ時、「ずいぶん暗い作品だなあ、しかし、うまいな、」とは思ったが、この作者人つまり、芥川)が、これを書く頃、「死を覚悟」していた、とか、「死に隣り」していた、とか、いうような事は、私の頭〔あたま〕に、殆んど浮かんでこなかった。

 ところで、先きに引いた一節は、殆んど全〔まった〕く暗〔くら〕いところがない、それどころか、明かるい感じさえする、そうして、芥川と同じ頃(つまり、明治二十年代の中頃)に生まれた私などには、「ゴム人形」とか、「細かい花や楽器を散らした」模様〔もよう〕のあるキャラコ[註―英語のCalico(キャリコ)の訛り、金巾に似て、金巾より薄く、織地の細かく、光沢のある布、更紗の一種]とか、いう物には、一種の『郷愁〔のすたるじい〕』という感じがあり、何ともいえぬ懐かしい気がするのである。

 

[やぶちゃん注:「金巾」は「かなきん」と読み、経糸と緯糸の密度をほぼ同じにして織った、目が細かく薄地で平織の綿織物のこと。本邦ではポルトガル語の「カネキン」が語源でかく呼称される。言わば「キャラコ」は、艶出しして光沢を持たせたカネキンである。]

 

『点鬼簿』――まず、書き出しの、「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を櫛巻〔くしま〕きにし、いつも芝の実家にたつた一人坐〔ひとりすわ〕りながら、長煙管〔ながぎせる〕ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顔も小〔ちひ〕さければ体〔からだ〕も小さい。その又顔はどう云ふ訣〔わけ〕か、少しも生気ない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記〔せいさうき〕を読み、土口気泥臭味〔どこうきでいしうみ〕の語〔ご〕に出会〔であ〕つた時に忽ち僕の母の顔を、――痩〔や〕せ細〔ほそ〕つた横顔を思ひ出した、」と読んだ時、私は、ありふれた言葉ではあるが、その陰惨さに、その陰惨な書き方〔かた〕に、目を覆〔おお〕いたいような気がした、しかし、それと同時に、至って見え坊な芥川が、心の底では愛している母を、このようなむごたらしい言葉で、書いたことに、一そう驚いた、芥川はどうかしたのではないか訝〔いぶか〕るほど驚いたのである、廣津が、伝えられるように、この作品を読んで、芥川は死ぬのではないか、と思った、というのも、私には、頷〔うなず〕かれるのである。

 

[やぶちゃん注:「西廂記」王実甫〔おうじっぽ〕作の元代の戯曲。唐の詩人元稹〔げんしん〕の小説「会真記」(「鶯鶯伝」とも言う)を元にした金の董解元が書いた語り物「董西廂」を元代の雑劇としては全二十折(=幕)という異例の長さの歌劇に改編したもの。旅の書生張君瑞〔ちょうくんずい〕と亡き宰相の令嬢崔鶯鶯〔さいおうおう〕の波乱万丈の恋愛劇。現在も昆曲や京劇の人気の演目である。

「土口気泥臭味」これについて、筑摩書房全集類聚版脚注は、『これと同一の語は「西廂記に」見えない』とし、『第四本第三折に『土気息泥滋味』(土のにおい泥のあじ)とあるのがこれに近い』とある。これは、ネット検索をかけると、登場人物の以下の台詞の中に次のように現れることが分かる。

「將來的酒共食、嘗著似土和泥。假若便是土和泥、也有些土氣息、泥滋味。」

残念ながら私の能力では、注はここまでである。]

 

 ところで、私が殊更に述べようと思うのは、一般に『点鬼簿』を暗い憂鬱な作品であると云うのは、その最初の㈠の話があまりに凄惨で陰鬱なためであって、全体として見れば、『点鬼簿』は、暗い陰気な作品ではあるけれど、それほど暗い作品でないばかりでなく、なかなかうまい工合〔ぐあい〕に作ってある、という事である。それから、『点鬼簿』を読んで、私が感心したのは、表現に、(表現だけに、)凍っていた芥川の文章が、無駄な形容や文句が殆んどなくなっただけでも、行き著〔つ〕くところまで行った、という観がある事である。

 さて、㈠を読みおわって、㈡にうつると、前に述べたように、急に、書かれてある事も明〔あ〕かるくほのぼのとし、書き方〔かた〕も明かるく延び延びせしている。しぜん、㈠とちがって、読みながらも楽しい気がする、話がうらうらとしているからである。

 

 

 或春先〔あるはるさき〕の日曜の午後、「初ちやん」は庭を歩〔ある〕きながら、座敷にゐる伯母に声をかけた。(僕は勿論この時の姉も洋服を着てゐたやうに想像してゐる。)

「伯母さん、これは何と云ふ樹?」

「どの樹?」

「この苔のある樹。」

僕の母の実家の庭には脊〔せ〕の低い木瓜〔ぼけ〕の樹が一株〔〕ひとかぶ、古井戸へ枝を垂〔た〕らしてゐた。髪をお下〔さ〕げにした「初ちやん」は恐らくは大きな目をしたまま、この枝のとげとげしい木瓜の樹を見つめてゐたことであらう。

「これはお前と同じ名前の樹。」

 伯母の洒落は生憎〔あいにく〕通じなかつた。

「ぢや莫迦の樹[註―ボケの木、バカの木]と云ふ樹なのね。」

 伯母は「初ちやん」の話さへ出れば、未だにこの問答を繰り返してゐる。実際又「初ちやん」の話と云つてはその外に何も残つてゐない。「初ちやん」はそれから幾日もたたずに柩にはひつてしまつたのであらう。

 

 

 これは、『点鬼簿』の㈡の中程〔なかほど〕のところであるが、これだけでもわかるように、狂人の母の事を書いている㈠と、この夭逝した姉の事を書いている㈡の一節とを、読みくらべると、暗夜〔あんや〕と昼〔ひる〕の日中〔ひなか〕ほど、感じがちがう。これは、作者が、気分を一変〔いっぺん〕するために、このような書き方〔かた〕をしたのであろうか、それとも、㈠は、作者が、幼年の頃に、まざまざと見た母の顔や姿が、このように忌〔いま〕わしいものであったために、それを思い出しながら書くと、おのずから、こういう陰気な物語が出来〔でき〕あがり、㈡は、自分の生まれる前に夭逝した、或る親しみ」を持っていた、姉の少女の時分の話、伯母[註―実母の姉の、芥川が憎みながらも愛していた伯母のふきか]から聞いたのを、懐しく思い出しながら書いたので、しぜん、このような朗〔ほがら〕かな可憐な話が生〔う〕まれたのであろうか。

 ㈠には、「髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたつた一人坐〔ひとりすわ〕りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる」ところの母の姿を書き、㈡には、その同じ芝の実家の庭で、「髪をお下〔さ〕げ」にして、「恐らくは大きな目をしたまま、枝のとげとげしい木瓜〔ぼけ〕の樹を見つめてゐたことであらう」ところの姉の姿を書いている。

 胃と腸をわずらい、ひどい痔になやまされ、精神病に近い神経衰弱にかかり、「催眠薬をのみすぎ夜中に五十分も独り語をつづけ」[大正十五年九月二日、室生あての手紙のうち]た、というような状態にありながら、芥川は、このような心にくい細かい仕事をしているのである。しかし、たびたび云うが、そのころ芥川と逢っていなかった私は、この作品を読んだ時、芥川がこのような不治にちかい重い病気にかかっているのを、殆んど知らなかった、いや、うすうす知ってはいても、作品を読んでいる時は、そんな事は殆んど頭に浮かんでこなかった、又、そんな事が頭に浮かんでくる筈はない。

 さて、㈢は、実父の話であるが、これも、亦、㈠のように、いきなり、「僕の母は狂人だつた、」というような書き方をしないで、初めは、極めて穏かに、父が、明治三十年代の初めに、バナナ、アイスクリイム、パイナップル、ラム酒、その他、当時としては、実に珍しい果物や飲料を、幼年の芥川に、教えた、というような事から、書き出し、つづいて、短気な風変りな性質であった父と、やはり片意地で強情〔ごうじょう〕であった中学生時代の芥川が、相撲をとる所を、諧謔的に、述べた後〔あと〕で、芥川は、一転して、死病の床についている父の死ぬ前の日の事を、つぎのように書いている。

 

 

 僕が病院へ帰つて来〔く〕ると、[註―インフルエンザのために父が入院したので、教師をしていた芥川が、鎌倉から帰京して、二三日看病しているうちに、退屈して、友人たちに呼ばれて宴会に行って、帰って来たのだ]僕の父は僕を待ち兼ねてゐた。のみならず二枚折〔おり〕の屏風の外〔そと〕に悉〔ことごと〕く余人を引き下〔さが〕せ、僕の手を握つたり撫でたりしながら、僕の知らない昔のこと、を、――僕の母[つまり、「狂人」の実母であり、この父は実父である]と結婚した当時のことを話した。それは僕の母と二人〔ふたり〕で箪笥を買ひに出かけたとか、鮨をとつて食つたとか云ふ、瑣末〔さまつ〕な話に過ぎなかつた。しかし僕はその話のうちにいつか眶〔まぶた〕が熱くなつてゐた。僕の父も肉の落ちた頰にやはり涙を流してゐた。

 

[やぶちゃん注:「[註―インフルエンザのために父が入院したので、……」には注を要する(以下、主に宮坂年譜を参考にした)。まず、実父新原敏三のインフルエンザ(スペイン風邪)による東京病院入院は大正八(一九一九)年三月十三日で、当日、電報で連絡を受け、鎌倉の文との新居から上京、この日は病院に泊まっている。「教師をしていた」とあるが、実はこの五日前、龍之介はかねてよりの希望通り、大阪毎日新聞社から客員社員の辞令を受け取っており、芥川は三月三十一日で辞職することになっていた(実際に当日に退職はしたものの、免官辞令は何故かずれたらしい)。「友人たちに呼ばれて宴会に行って」とあるが、これは彼の親友であったアイルランド人ロイター通信の記者トーマス・ジョーンズで、「点鬼簿」で『僕はその新聞記者が近く渡米するのを口實にし、垂死の僕の父を殘したまま、築地の或待合へ出かけて行つた』たるのを指す(なお、このジョーンズを主人公に芥川との交流を実に印象深く描いたのが「彼 第二」である)。翌、三月十六日日曜の朝、敏三没。享年六十八であった。]

 

 

 この一節は、小さいうちに養子にやったために、滅多に逢えない子に、死にかかっている実父が、看病に来ている人たちを皆しりぞけて、気が違ったままで死んで行った妻(つまり、その子の母)と、所帯を持った頃、一しょに、箪笥を買いに行った話とか、鮨をとってたべた話とか、(つまり、)「瑣末な話」をして聞かせるところで、いわば普通の人情話ではあるが、読みながら、目頭が痛くなるではないか。

 先きに述べたように、『点鬼簿』といえば、唯、沈鬱な、陰気な、物語のように思われているが、『点鬼簿』とは、前に述べたように、一般に『過去帳』というもので、死んだ人たちの、俗名と法名と死亡した年月日を書き止〔と〕めておくものである、ところが、芥川は、この作品の㈡の初めの方に、「僕の『点鬼簿』に加へたいのは勿論この姉[註―次姉の久子]のことではない。丁度〔ちやうど〕僕の生まれる前に突然夭折した姉[つまり、長子の初子]のことである、」と述べているように、この『点鬼簿』で、自分が心の底から愛している、もっとも近い肉親の、実父と実母と実姉のことを、限りない懐かしさと慕わしさを、心をこめて、書いたのである。この三人は、それぞれ、不幸な人であった、その㈠の母は狂人であり、その㈡の姉は早世し、その㈢の父は「小さい成功者」であるが、「たびたび一人子〔ひとりご〕の芥川を取り戻すために、「頗る巧言令色を弄した」が、一度もそれが成功しなかった、というように、世にも不仕合〔ふしあ〕わせな人である、ありふれた言葉を使えば、死んでしまった子ならば諦〔あきら〕めはつく、が、そのたった一人〔ひとり〕の男の子は生きている、それを小〔ちい〕さい時分に何度む取り返しに行って、その度〔たび〕にその子に頭〔かぶり〕を振られた。ところが、その子の芥川も、短かい生涯の終りに近い頃になって、(自殺する考えを既に持っていたか、どうかそんな事は別として、自分の体〔からだ〕がどれほど弱っているか、自分は今にも気ちがいになるかもしれない、いや、もう既に気違いになっているにちがいない、というような事を一ぱい苦〔く〕にしていたのは、誰〔だれ〕でもない、本人の芥川である、)自分は、実の父にも、実の母にも、縁のうすい者であった、養父も、養母も、伯母も、みな、肉身も及ばぬほど、自分に、深切であった、が、しかし、……と思って、芥川は底知れぬ孤独を、しみじみと、感じた、『点鬼簿』の終りの方に、芥川は、「春先〔はるさき〕の午後の日の光の中に黒ずんだ石塔を眺めながら、一体彼等三人(つまり、実父、実母、実姉)の中では誰が幸福だつたらう、」と書いているが、この三人のほかに、疾〔と〕くに石塔になった、芥川を入れて、四人とし、さて、この四人〔にん〕の中で、誰が一ばん不幸であったか、と云えば、それは、芥川である。

 

[やぶちゃん注:この段落の宇野の芥川龍之介への思いは、本作の中でも最も万感迫ってくる、友人ならではの謂いである、と私は思う。]

 

 

 ……僕は僕の父の葬式がどんなものだつたか覚えてゐない。唯僕の父の死骸を病院から実家へ運〔はこ〕ぶ時、大きい春の月が一〔ひと〕つ、僕の父の柩車〔きうしや〕の上を照らしてゐたことを覚えてゐる。

 

 

と、芥川は、『点鬼簿』の㈢の終りに、書いている。

 この一節にはほのかな感傷があり、しみじみしたところがある。

 しみじみしている、と云えば、『点鬼簿』の文章は、寄り路〔みち〕しているところは別として、大体に、しみじみしている、切切〔せつせつ〕たるところがある。それは、作者の回想が親〔した〕しく懐〔なつ〕かしい最も近い肉親の身の上の事であり、それを回顧すれば、気が弱くなっていた作者に、限りなき極みなき悲しみの情が滾滾〔こんこん〕と湧き出すからである。

『点鬼簿』の一〔ひと〕つ一〔ひと〕つの回想には、その一つ一つに、侘しさと悲しさと懐しさとが、籠〔こも〕っている。

『点鬼薄』の中に、「実家」という言葉が、三〔みっ〕つか四〔よっ〕つ、出てくる。たった三つか四つであるが、それが、私の心を、打つのである。

 それは、「僕の母は髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたつた一人……」というところ、「僕の母の実家の庭には育の低い木瓜〔ぼけ〕の樹が……」というところ、「四十を越した『初ちやん』の顔は或は芝の実家の二階に茫然と煙草をふかしてゐた僕の母の顔に……」というところ、「僕は彼是三日〔かれこれみつか〕ばかり、養家の伯母や実家の叔母と病室の隅に……」というところ、「唯僕の父の死骸を病院から実家へ運〔はこ〕ぶ時、大きい春の月が一〔ひと〕つ、僕の父の柩車の上を……」というところ、――つまり、この五箇所である。この「実家」という言葉のほかに、「養家」という言葉が、同じくらい(か、五〔いつ〕つ六〔むっ〕つ)出てくるけれど、『点鬼簿』をすっかり読んでしまった後〔あと〕に、読者の頭〔あたま〕に残るのは、殆んど「実家」という言葉だけである。

 数え年〔どし〕、三十五歳の秋、『点鬼簿』に、むかし、(二十年、あるいは、三十五六年前、)死んで行った、父母や見たことのない姉のありし日の回想を書いている間〔あいだ〕に、心も体〔からだ〕も弱ってしまった芥川の心の目に、絶えず、幼ない時分霞んでいた「実家」の姿が、浮かんだのであろう。

 その実家、の二階では、狂人の母が、いつも一人〔ひとり〕すわっていて、長煙管〔ながぎせる〕で煙草ばかり吸っていた、その二階の真下〔ました〕の八畳〔じょう〕の座敷で、その狂人の母は、死ぬ前には正気にかえったらしく、枕もとに坐〔すわ〕っていた、十一の芥川と十五の芥川の姉の顔を眺めて、ふだんのように何〔なに〕も口をきかないで、とめ度〔ど〕なしにぽろぽろ涙を落とした、が、間〔ま〕もなく、死んでしまった、さて、その実家の庭には、古井戸〔ふるいど〕に枝を垂〔た〕らしている木瓜〔ぼけ〕の樹〔き〕が一〔ひ〕と株あり、芥川の生〔う〕まれない前に夭逝した姉は、座敷にいる伯母に、「伯母さん、これは何と云ふ樹」と聞いたりしたが、それから幾日も立たないうちに、死んでしまった、それから、晩年は不遇であったらしい父の死骸が、病院から柩車で運〔はこ〕ばれたのも、この実家であった。

 

[やぶちゃん注:「その実家の庭には」とするが、「実家」の連関を認めたい宇野には申し訳ないのだが、「二」の中の「実家」は新原家ではない。「点鬼簿」の該当箇所を読めば分かるが、直前に「初ちやん」は『土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へ泊りに』来たと記し、その後にあのシークエンスに入り、そこでは『僕の母の實家の庭には背の低い木瓜の樹が一株、古井戸へ枝を垂らしてゐた』とあるのである。『僕の母の實家』とは、母フクの実家、則ち「初ちやん」が毎土日にかけて泊まりに来ていた本所小泉町(現在墨田区両国)の芥川家を指すのである。だからこそ伯母フキもそこに居るのである。]

 

 

 養家で人と成〔な〕り、養家で、作家となり、作家生活をし、今、しばし養家をはなれて、鵠沼の寓居で、三つの重い病気なやんでいる芥川には、昔の「実家」は、限りなく懐かしくはあるが、かくの如く、侘しき家であり、哀傷の家である。

 

[やぶちゃん注:先の宇野の誤解を瓢箪から駒とするなら、芥川龍之介にとっては実は、実家新原家だけではなく――『養家』芥川家の旧宅も(それにシンボライズされる芥川という家の存在も)、結局は『限りなく懐かしくはあるが、かくの如く、侘しき家であり、哀傷の家であ』ったと言えるのかも知れない。]

 

 

 そこで、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、『点鬼簿』は、芥川の哀傷の作品であり、芥川の哀傷の詩である。

 ところで、『点鬼簿』の中から、父と母とが死ぬ前の事を書いてあるところを、ならべて、引いてみよう。

 

 

 僕の母は三日目〔みつかめ〕の晩に殆〔ほとん〕ど苦〔くる〕しまずに死んで行つた。死ぬ前には正気に返〔かへ〕つたと見え、僕の顔を眺めては……   ㈠の内

 

 僕の父はその次〔つぎ〕に朝に余り苦〔くる〕しまずに死んで行つた。死ぬ前には頭〔あたま〕も狂つたと見え「あんなに……   ㈢の内

 

 

 これでは、なんぼなんでも、出来〔でき〕すぎていて、作〔つく〕り物〔もの〕に見ええるではないか。作為〔さくい〕が見え過ぎるではないか。私が、ずっと前に、この作品をうまい工合〔ぐあい〕に作〔つく〕ってある、と述べたのは、こういう所の事をも、云ったのである。

 しかし、いずれにしても、『点鬼簿』は、実に巧みな作品である、しかし、結局、小品である。

 さて、この小品が発表された当時」わりに高く評価されたのは、この作品で、芥川が、はじめて、自分の幼少年時代の回想を述べるのに、「僕」という言葉をつかい、その僕が、肉身の、(父母と姉の、)思い出を、しみじみと語る、という形式を使ったからである、それは、又、これまで、幼少年時代の回想風のものを書いても、例えば、『少年』には、まだ、不評判であった、保吉という名をつかい、一部の評論家に劃期的と云われた『大導寺信輔の半生』でも、信輔という名を用〔もち〕いた上に、書き方にも見え透〔す〕いたような思わせぶりなところがあったからでもある。

 勿論、『点鬼簿』にも少しは思わせぶりなところがある。(「思わせぶり」は芥川の芸術の特徴の一〔ひと〕つでもある。そうして、その「思わせぶり」は、『或阿呆の一生』の中にも到る処にあり、死ぬ前の日まで書いた『続西方の人』の中にも多分にある。ところで、)『点鬼簿』には、仮りに「人間」は書かれていないとしても、何〔なに〕か人の心に迫ってくるものがある。
 私は、四節に分かれている『点鬼簿』の中〔なか〕で、その㈠が最もすぐれている、と思う、そうして、その㈠だけが最もすぐれている、と思う、『点鬼簿』に、(『点鬼簿』が雑誌[「改造」]に発表された時に、)読んで感心した大部分の人は、あの㈠の「僕の母は狂人だつた、」という書き出しの文句に先〔ま〕ず感嘆したにちがいない。

 書き出し、といえは、㈡、㈢、㈣は、前に述べたように、㈠よりは落ちるけれど、それでも、「僕は一人〔ひとり〕の姉を持つてゐる、しかしこれは……」という㈡の書き出しも、「僕は母の発狂した為〔ため〕に生まれるが早いか…‥‥」という㈢の書き出しも、「僕は今年〔ことし〕の三月半〔なか〕ばに……」という㈣の書き出しも、みな、工夫〔くふう〕に工夫〔くふう〕を重〔かさ〕ねたものにちがいない。そうして、見よ、ここでも、㈠、㈡、㈢、㈣の書き出しは、みな、「僕は…」となっている。

 芥川が志賀直哉と共に尊敬した、葛西善蔵は、若き間宮茂輔に、「小説は、書き出しと、切りが、大切ですぞ、」と教えた、という話を、間宮が、『風の日に』という実名(兼〔けん〕実際らしい)小説の中に、書いている。

 

[やぶちゃん注:「間宮茂輔」(もすけ 明治三十二(一八九九)年~昭和五十(一九七五)年)は小説家。慶應義塾大学中退後、『文藝戦線』に参加、昭和八(一九三三)年に逮捕、昭和十(一九三五)年に転向して出獄、代表作に「あらがね」。戦後は新日本文学会に属した。]

 

 

 彼はまたいつとなくだんだんと場末へ追ひ込まれてゐた。

 

 

 これは、葛西の処女作『哀しき父』[大正元年八月作]の書き出しの文句である。

  さて、芥川が『点鬼簿』を書いた鵠沼時代の生活の一〔ひと〕つの見本として、誰も彼〔かれ〕も引用するので気が引けるが、やはり、その時分の芥川の生活と気もちの一端をかなりよく現しているので、次ぎに、『或阿呆の一生』の中の『夜』を、うつす。

 

 

  夜〔よる〕はもう一度迫り出した。荒れ模様の海は薄明〔うすあか〕りの中に絶えず水沫〔しぶき〕を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下〔もと〕に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歓〔よろこ〕びだつた。が、同時に又苦〔くる〕しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稲妻〔いなづま〕を眺めてゐた。彼の妻は一人〔ひとり〕の子を抱〔いだ〕き、涙をこらへてゐるらしかつた。

 「あすこに船が一〔ひと〕つ見えるね?」

 「ええ。」

 「檣の二つに折れた船が。」

 

 

 

  右の文章の中に、「二度目の結婚」とあるのは、大正七年の二月に結婚したので、その頃、横須賀の海軍機関学校の教師をしていた芥川は、田端の家をはなれ、鎌倉で、家(あるいは、部屋)を借りて、新妻〔にいいづま〕と、所帯を持った、そこでは、養父母も伯母もいなかったから、夫婦だけの水入らずの暮らしが出来た、楽しかつた、それから、八年目に、(八年ぶりに、)鵠沼の貸し屋で、夫婦と子供だけで、暮らすようになったのを、しゃれて、「二度目の結婚」と称したのである。(それで、芥川は、大正十五年の八月二十四月に、下島 勲に出した手紙の中に、「……二三日中にお出かけなさいませんか。ちよつと我々〔われわれ〕の二度目の新世帯に先生をお迎へして、御飯の一杯もさし上げたい念願があります、」と書いている。)

  ところで、先きに引いた文章の中の、絶えず水沫を打ち上げている、という海の話も、沖の稲妻を三人の子等と一しょに眺めるところも、更に、評論家たちが、その時分の芥川の心を現したものである、とか、その頃の芥川の象徴である、とか、いうような理窟をつけている、「檣の二つに折れた船」が見える、というような話も、私には、みな、『真〔まこと〕』とは、取れないのである。

  諸君、さきに引いた文章をよく読んでごらんなさい。実に、心にくいほど、うまく出来ているではないか。これは、一〔ひと〕つの散文詩と見ても、一〔ひと〕つの小品として読んでも、少し病的なところはあるけれど、実に巧みな、ものである。

  五十一章から成〔な〕る『或阿呆の一生』は、最後の『敗北』の終りに(昭和二年六月)という日附けがついているが、この長短五十一篇の散文詩のような文章は、一度に書かれたものでなく、一章、一章、思いつくままに、念に念を入れて、書いたものらしく、死んだ年〔とし〕の昭和二年の春頃から、書かれたものであろうか、と思う。

 『或阿呆の一生』は、どの章を読んでも、何ともいえぬ痛ましい気がする。

  しかし、この久米正雄に托された原稿、(遺稿、)、『或阿呆の一生』は、「自伝的エスキス」と割註がしてあって、それが抹消されてあるそうだが、故人がそれを抹消した気もちはわかるような気はするけれど、これは、「自伝的エスキス」のようなところもあるが、文学の観照眼の特にすぐれた久米が云うように、「一箇の『作品』」である。

 

 [やぶちゃん注:「エスキス」は、フランス語“esquisse”で、英語の“sketch”のこと。素描。下絵。]

 

  つまり、『或阿呆の一生』は、一〔ひと〕つの芸術であり、一つの作品である。

  その『或阿呆の一生』のなかの『譃』という章の中に、「しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な譃に充ち満ちてゐた、」という文句がある。そのルッソオの『懺悔録』を、(私は、いつ、どこで、誰の文章で、読んだか、忘れたが、)brilliant lie〔ブリリアント ライ〕と云った人があった。『ブリリアント・ライ』を、簡単に、『光り輝く嘘』と訳すると、『或阿呆の一生』の幾つかの章に「自伝的エスキス」のように見られるものがあれば、それらは、たいてい、『ブリリアント・ライ』という事になるのではないか。

  ブリリアント・ライ。――『或阿呆の一生』はブリリアント・ライである。

  何と、これは、見事ではないか。

  久保田万太郎は、さすがに、芥川が、「最後まで自分を美しく扮装しつづけた、」と云い、そうして、『或阿呆の一生』が読者に与えるものは、「魂の美しい旋律」だけである、と云った。

  魂の美しい旋律。

 『或阿呆の一生』の最後の『敗北』という章の初めに、「彼はペンを執る手も震へ出した、」という文句がある。それを、大抵の評論家も、多くの人も、「芥川の文学の敗北」を意味する文句のように、云う。

  しかし、それは、違う。

  芥川は、仮にこの文句が本当とすると、ペンを執る手が震え出すまで、文章を書いていたのである。

  つまり、芥川は、死ぬ時まで、芸術家であったのだ。されば、芥川は、決して、文学に敗けたのではないのである。

 

 [やぶちゃん注:私はこの最後の宇野の言葉には、完全に同意するものである。]

 

 

 

  三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、烈〔はげ〕しい頭痛をこらへてゐた。すると僕の眶の裏に銀色の羽根を鱗〔うろこ〕のやうに畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕はふとこの間乗つた自動車のラディエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思ひ出した。……

  そこへ誰か梯子段を慌しく昇つて来たかと思ふと、すぐに又ばたばた駈け下りて行つた。僕はその誰かの妻だつたことを知り、驚いて体〔からだ〕を起〔おこ〕すが早いか、丁度〔ちやうど〕梯子段の前にある、薄暗い茶の間〔ま〕へ顔を出した。すると妻は突つ伏したまま、息切れをこらへてゐると見え、絶えず肩を震はしてゐた。

 「どうした?」

 「いえ、どうもしないのです。……」

  妻はやつと頭を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。

 「どうもした訣〔わけ〕ではないのですけれどもね、唯何だかお父〔とお〕さんが死んでしまひさうな気がしたものですから。……」

 

 

 

  これは、『歯車』の最後の『飛行機』の終りに近いところの一節である。

  私は、この一節が、芥川の鵠沼時代の或る時の真相にいくらか近いのではないか、と思う。

  つまり、芥川は、ざっと、こういう状態の中で、『点鬼簿』を、書いたのである。

  そうして、芥川は、やがて、大正十五年を送ったのであった。

  大正十五年の十二月の三十一日から昭和二年の一月二日まで、芥川が、小さな家出をした、という話を、私は、ここで、思い出した。

 

大塚美保著 森鷗外『舞姫』 豊太郎の母〈諌死〉説の再検討

僕はかつて森鷗外の「舞姫」の母親の死は自然死であり、諌死ではあり得ないという私の考えを述べた。諌死説は少数派ではなく、当時の同僚の中で、三人の女性教員が――そもそもこの議論の初めも、諌死に決まってると言う僕の妻(当時は同じ高校国語教師であった)の言葉を聴いての、驚天動地に端を発するのである。これは偶然と言うより、女性はそう(豊太郎母は諌死と)捉える確率が高いのではないかという可能性を意味しているようにも思われる――諌死とし、自然死として授業してきたと明言したのは、私と年配の男性教員だけで、分が悪いぐらいであった。

しかしながら、この僕にとっては都市伝説の類いとさえ感じられる諌死説は、今回、
聖心女子大学教授大塚美保著「森鷗外『舞姫』 豊太郎の母〈諌死〉説の再検討」(2012年3月31日教育出版刊 田中実+須貝千里編『文学が教育にできること――「読むこと」の秘鑰(ひやく)』所収)
*副題の「秘鑰」は、秘密を解く鍵の意。――この熟語を、こうした「国語教育実践研究」集の副題に使うと言うのは、正直、どうなんだろうな、僕はいい印象を持たないが。――
によって、完全に否定されたと言ってよい。前半部では僕が否定の外的物理的根拠として(僕の場合はただの推定に過ぎなかったけれども)授業してきた免官電信説が極めて緻密且つ反論不能な考証によって正しく立証され、僕が、『諌死なんぞを暗に秘めた状態では「舞姫」という作品自体の結構が成り立たないではないか』、と、如何にも言葉足らずの尻捲くりのようにしか高校生に授業で言えなかった内容が、その後半で、鷗外の考える小説作法の構造論・構成論の視点から美事に否認されているのである。

向後、
「母の死を諌死とする説がかつての研究史にはあったけれど、どう思う?」
と、生徒に投げかけるてみることは、あってよい。
しかし、奇妙な思いこみの中で、母諌死などというとんでもない誤認を定説のように語り、テクストの外延を越えた心的複合をそれでなくても苦悩の只中に立ち竦む豊太郎に更に荷わせるようなことは、あってはならない――但し、個人的に僕は未だに豊太郎を地獄に落としても許せない奴と思っているから、もっと苦しませることには賛成だが、ね――

諌死は絶対にあり得ない。重ねて言う、あり得ない。

――森鷗外の「舞姫」を授業せんとする総ての高校国語教師は、本、大塚美保論文を必ずや披見せずんばあらず!――

……彼女、大塚美保さんは森鷗外研究の若き才媛である……本来なら博士(かの女性に博士号を出し渋る東京大学の文学博士号である)か、教授とか先生、と附すべきところであるが……どうもそうは呼びにくいのだ……僕のかつての記事に登場するのが、実は彼女なのである……彼女は僕が三十年前、教師として最初に担任した生徒の一人なんである(彼女は「あ」で始まる姓であったから、クラスの集合写真では僕は彼女と並んで坐って映っている。僕の最初の「教師の顔」の隣りの、彼女のさわやかな笑顔が、今も忘れられない……とても僕は好きなんである)……

本書は先週、彼女から献納された。
奇しくもその発行日は私の退職辞令交付日と一致する。
だから、僕にはもう、「舞姫」の授業の中でこの論文を紹介して、生徒たちに目から鱗の納得をさせることが出来ない。
……それでもあの一昨年、ブログに書いた彼女の送って呉れた資料(本論文の前半部で重要考証資料として登場する)をもとに諌死説が論理的に否定されるということ、そもそも諌死を秘めては「舞姫」という小説は成り立たないことを授業で力説した(ある女生徒は授業後に僕を訪ねてきて、「私もそう思います!」と力強く共感して呉れたのも思い出す)……いや、僕は卒業テストにさえ「諌死説はある物理的理由から成り立たないと考えられる。その理由を簡潔に述べよ。」という記述問題を出してさえいた……それを今も覚えいる生徒も、少しはいるであろう、。
……僕はあれで、十全に満足なのである……

……美保さん、ありがとう……

2012/04/29

宇野浩二 芥川龍之介 二十二~(1)

     二十二

 

 例の『芥川龍之介研究』の中で、川端が、「僕は『歯車』は芥川氏のすべての作品に比べて断然いいと思ふ、」と云うと、佐藤が、「僕も同感です、」と云い、廣津も、「僕なんかも一ばん頭に残つてゐるのは『歯車』だと思ふ、」と述べている。

 私は、(私も、)『歯車』は、芥川の晩年の作品の中で、特殊なものの一〔ひと〕つである、とは思う、が、もっとも勝〔すぐ〕れた作品である、とは思わない。私は、芥川が昭和二年に書いた作品の中では、小説としても、『玄鶴山房』が一番すぐれている、と信じる。

『玄鶴山房』は、前に述べたように、㈠は、大正十五年の十二月に、鵠沼で、書いたが、大部分は、昭和二年の一月に、田端で、書いた。

 僕ハ陰鬱極マルカ作ヲ書イテキル。出来上ルカドウカワカラン。君ノ美小童ヲ読ソダ、実ニウラウラシテヰル。ソレカラ中野[註―中野重治]君ノ詩モ大抵ヨンダ、アレモ活〔い〕キ活キシテヰル。中野君ヲシテ徐ロニ小説ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ抜ク事数等ナラン。

 右は、大正十五年十二月五日、芥川が、鵠沼から、室生に宛てた手紙から、引用したのである。(この文章の中にある、室生の『美小童』という作品は、大正十五年の十二月号の

「近代風景」[たしか、北原白秋が個人で出していた雑誌である]に出たものであるが、この「近代風景」には川端康成、岡田三郎、浅原六朗、今野賢三、の作品が、出ている。それから、やはり、大正十五年の、十一月号の「世界」[これは、私も、聞いたことも、見たことも、ない]という雑誌に、芥川の『鴉片』というのが出ている、ついでに書けば、十月号の「改造」には、芥川の『点鬼簿』のほかに、佐佐木茂索、村山知義、の作品も、出ている。――こういう事は、大正末期の日本の文壇の現象の現れの一〔ひと〕つ、とでも云うのであろうか。有識者の御示教を乞う。)

[やぶちゃん注:「中野君ヲシテ徐ロニ小説ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ抜ク事数等ナラン。」文学史ではプロレタリア文学作家として知られる中野重治は、この頃(大正十五(一九二六)年)、東京帝国大学独文科の学生で室生に師事しており、彼は正にこの前後に鹿地亘らとともに社会文芸研究会(一九二五年)やマルクス主義芸術研究会(一九二六年)を結成、この年(大正十五(一九二六)年)に日本プロレタリア芸術連盟へ加入し、その中央委員となっていた。芥川龍之介の先見性が窺われる。

「近代風景」は大正十五(一九二六)年に白秋が創刊した詩誌。

「岡田三郎」(明治二十三(一八九〇)年~昭和二十九(一九五四)年)は小説家。博文館で『文章世界』の編集者をする傍ら、小説を発表した。当時は新興芸術派倶楽部に属した(後に私小説に転ずる)。代表作に「巴里」「伸六行状記」。

「浅原六朗」(ろくろう 明治二十八(一八九五)年~昭和五十二 (一九七七)年)は小説家。新興芸術派倶楽部の結成に参加、モダニズム文学の作家として活躍した。戦後、日本大学教授となった。代表作に「或る自殺階級者」「混血児ジヨオヂ」、童謡「てるてる坊主」などの作詞者(浅原鏡村名義)としても知られる。

「今野賢三」(いまのけんぞう 明治二十六(一八九三)年-昭和四十四(一九六九)年) は小説家。大正十(一九二一)年に郷里の秋田で小牧近江らと『種蒔く人』を創刊、後に『文芸戦線』同人となった。

「世界」は大正十五(一九二六)十一月一日に創刊された雑誌とされるが、詳細未詳。芥川龍之介の「鴉片」の初出とするデータは、昭和二十九(一九五四)年から翌年にかけて刊行された岩波書店小型版全集十九巻所収の「作品年表」によるものであって、実は宇野だけでなく、現在も現物の確認がなされていない。以上の雑誌『世界』の情報は平成十二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介全作品事典」の「鴉片」の項(吉岡由紀彦氏執筆)に拠った。

「こういう事は、大正末期の日本の文壇の現象の現れの一つ、とでも云うのであろうか。有識者の御示教を乞う。」という部分、私が馬鹿なのか、意味がよく判らない。そもそも「こういう事」とは何を指しているのか? そして、どんな「有識者」から、どんな「示教」を宇野は期待しているのか? 「こういう事」とは馬鹿な私なりに勘ぐってみると、『たかが』個人の出した詩の雑誌「近代風景」とやらや、『どこの何様が出したのかも分からない、それこそ今だって現物が見つからない、怪しげな』雑誌「世界」やらや、『天下の小説誌(と宇野も芥川も一目置く――これは既出の内容である――)「中央公論」ではない、社会主義評論に偏頗していた、所詮、綜合』雑誌に『過ぎない』「改造」やらに、天下の著名作家達がこの頃何故、気安くほいほいと小説を発表したのか、してしまったのか、私(宇野)にはとっても理解が納得出来ないね、ということか? 雑誌を小説を本分とする一流(宇野はそう表現していないが)の雑誌と、綜合雑誌や女性誌やその他の怪しげな個人誌や趣味雑誌(と宇野が思っている)を二流として見下し(やはりそう言ってはいないが、今までの部分を読めば、宇野のそうした蔑視感は一目瞭然である)敢然と区別する宇野にして、私はそういう解釈をせざるを得ないのであるが、如何か? 有識者の御示教を乞う。]

 ところで、先きに引いた、芥川が室生に宛てた手紙の中の、「陰鬱極マル力〔りき〕作」というのは、いうまでもなく、『玄鶴山房』のことである。

 その『玄鶴山房』の㈠を、芥川は、「痔猛烈に再発、昨夜呻吟して眠られず」というような状態の中で、一字、五字、一行、三行、と、苦心惨憺しながら、書いたのであろう。神経衰弱(というより、精神病)に悩〔なや〕まされながら、一字、一句、書いては消し、消しては書き、して、書きつづけたのであろう。十二月といえは、鵠沼でも、寒さ冷たさは、厳〔きび〕しかったにちがいない。寒さと冷たさは痔に大禁物である。

 されば、芥川は、二枚あまりの『玄鶴山房』の㈠を書くのに、半月以上はかかったであろう。

 ところが、その㈠だけをやっとの思いで書き上げて、昭和二年の一月二日に、田端の自宅に、帰って来た芥川は、一月早早、思いがけない災難に遭〔あ〕った。それは、ずっと前にちょっと書いたが、義兄[姉の久子の後添いの夫]の西川 豊の家が丸焼けになった事であった、その上、火事に遇う前に多額の火災保険がかけてあったために、不在中の西川に放火の嫌疑がかけられた事であった、おまけに、西川は或る偽証罪のために執行猶予中の身であった、さて、その西川が鉄道自殺をしていたのが分〔わ〕かった事であった。

 極度の神経衰弱(というより、殆んど精神病)にかかっていた芥川には、このような事件は、精神的にも、物質的にも、大変な打撃であった。それは、たびたび云うように、大正十五年の中頃から、芥川は、神経衰弱を通〔とお〕り越して、しばしば精神病者のようになりながら、まったく正気は失わなかった、それどころか、芥川の頭は、時に、精神病者だけが持つ、鋭さになり、異様に冴えることさえあった。

 僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの映〔うつ〕つた雪解〔ゆきど〕けの道をせつせと姉の家へ歩いて行つた。道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を黒ませてゐた。のみならずどれも一本〔いつぽん〕ごとに丁度〔ちやうど〕僕等人間のやうに前や後〔うし〕ろを具〔そな〕へてゐた。それも亦僕には不快よりも恐怖に近いものを運〔はこ〕んで来た。僕はダンテの地獄の中にある、樹木になつた魂〔たましひ〕を思ひ出し、ビルデイングばかり並〔なら〕んでゐる電車線路の向〔むか〕うを歩〔ある〕くことにした。しかしそこも一町〔ちやう〕とは無事に歩くことは出来なかつた。

 これは、『歯車』の中の『復讐』の中〔うち〕の一節であるから、創作と見成〔みな〕すべきであるが、昭和二年三月二十七日の作であるから、死ぬ四箇月〔かげつ〕ほど前に、書いたものである。

 ところで、この文章の初めの方の姉を、芥川の姉の久子と見なすと、芥川は、義兄の西川が自殺したために、忽ち、寡婦になった姉の一家の面倒を見なければならぬ事になった。それで、ずっと前に引いた葉書の文面でもわかるように、芥川は、一月の九日から十五日頃までの間〔あいだ〕に、どの友人に出した葉書の中にも、唯、簡単に、「東奔西走中」と書いているけれど、それは、火災のために殆んど丸裸になった一家の後始末〔あとしまつ〕の事であったから、並大抵〔なみたいてい〕の事ではなかった、殊に病人の芥川には。

……唯今姉の家の後始末の為〔ため〕、多用で弱つてゐる。しかも何〔なに〕か書かねばならず。頭の中はコントンとしてゐる。火災保険、生命保険、高利の金などの問題がからまるのだからやり切れない。神経衰弱癒るの時なし。   [昭和二年一月三十日、佐佐木茂索宛て]

……まだ姉の家の後始末片づかず。いろいろ多忙の為に弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さんがやめたのは気の毒だね。余は拝眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。   [昭和二年一月三十日、宇野浩二宛て]

 右の、佐佐木あての手紙の中の「何か書かねはならず、」も、宇野あての手紙の中の「何か書いてゐる始末だ、」も、共に、『玄鶴山房』のことである。おなじ日に書いた手紙でありながら、一〔ひと〕つは「書かねばならず、」と云い、他は「書いてゐる始末」と述べている事など、誰あての手紙の中にも、『神経衰弱』を、まるで売り物のように、書きながら、昔ながらの、芥川である。

 ここで、やはり、『玄鶴山房』に関係のある書翰がまだ外〔ほか〕にあるかもしれない、と思って、念のために、改めて、書翰集の大正十五年の十二月のところを、くりかえし、くりかえし、丹念に読んでみた。すると、十二月三日に、佐佐木に宛てた葉書の中に、

……僕は暗タンたる小説を書いてゐる。中々出来ない。十二三枚書いてへたばつてしまつた。

というのがあった。

 この「暗タンたる小説」というのは、どうも、『玄鶴山房』らしい。そうして、これが、もし、『玄鶴山房』とすれば、後〔のち〕に書きなおしたとしても、芥川は、大正十五年の十二月三日に、『玄鶴山房』を、三分の一ぐらい、書いた訳である。しかし、その翌日、(つまり、十二月四日、)斎藤茂吉に宛てた手紙の中に、芥川は、次ぎのような事を、書いている。

……オピアム毎日服用致し居り、更に便秘すれば下剤をも用ひ居り、なほ又その為〔ため〕に痔が起れば座薬を用ひ居ります。中々楽ではありません。しかし毎日何か書いて居ります。小穴君曰〔いはく〕この頃神経衰弱が伝染して仕事が出来ない。僕曰〔いはく〕僕は仕事をしてゐる。小穴君曰、そんな死にもの狂ひミタイなものと一しよになるものか。但し僕のは確なものは出来さうもありません。少くとも陰鬱なものしか書けぬことは事実であります。……

 こういう事を書いた手紙を斎藤茂吉に出した翌日、(つまり、十二月五日、)芥川は、室生に宛てた手紙の中に、先きに引いた、「僕ハ陰鬱極マルカ作ヲ書イテヰル、」という文句を書いている。

 さて、この、佐佐木あての葉書の中の、「暗タンたる小説」というのも、斎藤あての手紙の中の、「陰鬱なもの」というのも、室生あての手紙の中の、「陰鬱極マルカ作」というのも、結局、『玄鶴山房』のことである。

 それから、十二月の、三日、四日、五日、とつづけて佐佐木と斎藤と室生とに「暗タンたる小説を書いてゐる、」「少くとも陰鬱なものしか書けぬ、」「陰鬱極マルカ作ヲ書イテヰル、」と、同じような事を報告しているのを見ると、芥川が如何に『玄鶴山房』に乗り気になっていたかが分〔わ〕かり、ありふれた言葉であるが、悲壮な気がする。

 それから、誰に出す便〔たよ〕りの中にも、「暗澹」とか、「陰鬱」とか、いう言葉を入れているように、芥川は、『玄鶴山房』で、限りなく暗澹たる、陰鬱極まる、小説を書こう、と志〔こころざ〕したのである。

 そうして、それには、力作をしなければならぬ、と覚悟した。『力作』とは、いうまでもなく、「力をこめて製作すること」である。

 その頃の、たびたび云うが、幾つかの重い病気にかかっていた芥川は、力作をするためには必死の努力をしなければならなかった。そうして、芥川は、必死の努力をしたのであった。されば、その有り様を見た小穴には、死に物ぐるいのように見えたのである。『死物狂〔しにものぐるい〕』とは、「死ぬる覚悟をして狂うがように働く、」という程の意味である。

[やぶちゃん注:現在の年譜的事実によれば(鷺及び宮坂年譜を参考にして関連のありそうな部分を纏めてみた)、「玄鶴山房」の脱稿の経緯は以下のようになる(リンク先は総て私の電子テクスト)。

十二月 三日 「玄鶴山房」は十二・三枚まで進んだが、そこで停滞。宇野の引く「暗タンたる小説を書いてゐる」という佐佐木宛書簡を書く。

一二月 四日 「僕は」を脱稿。宇野が引用した斎藤宛「オピアム毎日服用」の書簡を書く。

一二月 五日 先に宇野が引いた中野重治に言及する室生宛書簡を書く。

一二月 九日 漱石忌。「彼 第二」を脱稿。小穴によれば、この日を自殺決行日と考えていたこともあるとする。

一二月 十日 「或社会主義者」脱稿。

一二月一一日 痔と不眠に苦しむ。

一二月一三日 宇野が引いた「アヘンエキス二週間分」の書簡を書く。夕刻、鵠沼から田端へ戻り、原稿執筆を続ける(恐らく「玄鶴山房」)。

一二月一六日 この日に予定していた「玄鶴山房」の脱稿が出来ず、二月号への掲載延期を中央公論社に申し入れる。そこでどのような交渉が行われたかは分からないが、結局、この日の直近で「玄鶴山房」の「一」と「二」を脱稿している。

一二月二〇日 佐佐木らと赤倉へスキーに行く予定であったが、「玄鶴山房」執筆遅滞のため、中止する。

一二月二二日 午後八時頃、下島勲とともに鵠沼に帰る。

一二月二五日 大正天皇崩御、皇太子裕仁親王(昭和天皇)践祚、昭和に改元。宇野が引いた「くたばつてしまへと思ふ事がある」という滝井孝作宛書簡を書く。芥川龍之介随筆集『梅・馬・鶯』が新潮社から刊行される。

一二月二七日 妻文、正月準備のために田端に戻る。代わりに(自殺願望を持つ龍之介を監視する意味があったと思われる)葛巻義敏が鵠沼へ来る。

十二月三一日 鎌倉小町園へ行く(所謂、宇野の言う「短い家出」である。なお、鵠沼の借家は翌年の三月まで借りていたものの、これ以降は鵠沼には殆んど滞在しなかった)。

 一月 一日 鎌倉小町園に居続けする。「玄鶴山房」の「一」と「二」、『中央公論』に掲載される。

 一月 二日 鵠沼に立ち寄った後、夜、田端に帰還する。

 一月 三日 嘔吐する。下島来診。

 一月 四日 西川豊宅全焼。西川には放火の嫌疑がかかり、取り調べを受ける。

 一月 六日 午後六時五十分頃、西川、鉄道自殺。なお、芥川龍之介はこの頃から、平松麻素子の口利きで帝国ホテルに執筆用の部屋を借りている。後の自殺未遂もここで起きた。

 一月一六日 『中央公論』二月号に掲載を延引して貰った「玄鶴山房」の後半を執筆するが、義兄西川の事件で脱稿出来ない(この日が脱稿予定日であったか)。

 一月一九日 下島の他、友人一人が来訪するが、二人の前で「玄鶴山房」の推敲を続け、遂に「玄鶴山房」を脱稿する。]

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(6)

 

宇野浩二の「芥川龍之介」は残すところ、あと二章となった。

   *   *   *

 大正十五年は、芥川は、一月の初めから、健康をわるくし、一月の中頃から、保養をかねて、湯河原に出かけ、二月の中頃に、湯河原から、帰り、四月頃から、鵠沼に行きはじめ、終に、その年一ぱい、殆んど、鵠沼で、暮らすようになった。

 芥川の神経衰弱は高〔こう〕じて、しだいに、精神病者になって行った。

 その大正十五年の四月十三日に、(鵠沼にて浄書)と断り書きのある、『凶』という文章がある。これは、大へん参考になるので、全文をうつす。

 

 

 大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乗り、本郷通りを一高[註―今の農科大学]の横から藍染橋〔あゐそめばし〕へ下〔くだ〕らうとしてゐた。あの通〔とほ〕りは甚だ街燈の少〔すくな〕い、いつも真暗な往来である。そこにやはり自動車が一台、僕のタクシイの前を走つてゐた。僕は巻煙草を啣へながら、勿論その車に気もとめなかつた。しかしだんだん近寄つて見ると、――僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色の唐艸〔からくさ〕をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。

 

 大正十三年の夏、僕は室生犀星と軽井沢の小〔こ〕みちを歩いてゐた。山砂〔やますな〕もしつとりと湿気を含んだ、如何にももの静かな夕暮だつた。僕は室生と話しながら、ふと僕等の頭の上を眺めた。頭の上には澄み渡つた空〔そら〕に黒ぐろとアカシヤが枝を張つてゐた。のみならずその又枝の間〔あひだ〕に人の脚〔あし〕が二本ぶら下つてゐた。僕は「あつ」と言つて走り出した。室生も亦僕のあとから「どうした? どうした?」と言つて追ひかけて来た。僕はちよつと羞〔はづか〕しかつたから、何とか言つて護摩化〔ごまか〕してしまつた。

 

 大正十四年の夏、僕は菊池寛、久米正雄、植村宋一[註―直木三十五]、中山太陽堂社長〔註―プラトン社に出資していた人。プラトン社から、直木の編輯した、「苦楽」「女性」を発行した〕などと築地の待合に食事をしてゐた。僕は床柱の前に坐り、僕の右には久米正雄、僕の左には菊池寛、――と云ふ順序に坐つてゐたのである。そのうちに僕は何かの拍子〔ひやうし〕に餉台〔ちやぶだい〕の上の麦酒罎〔ビイルびん〕を眺めた。するとその麦酒罎には人の顔が一つ映〔うつ〕つてゐた。それは僕の顔にそつくりだつた。しかし何〔なに〕も麦酒罎は僕の顔を映してゐた訣〔わけ〕ではない。その証拠には実在の僕は目を開〔あ〕いてゐたのにも関〔かかは〕らず、幻〔まぼろし〕の僕は目をつぶつた上、稍仰向〔ややあふむ〕てゐたのである。僕は傍〔かたは〕らにゐた芸者を顧〔かへり〕み、「妙な顔が映つてゐる」と言つた。芸者は始は常談〔じやうだん〕にしてゐた。けれども僕の座に坐るが早いか、「あら、ほんたうに見えるわ」と言つた。菊池や久米も替〔かは〕る替〔がは〕る僕の座に来て坐つて見ては、「うん、見えるね」などと言ひ合つていた。それは久米の発見によれば、麦酒罎の向うに置いてある杯洗〔はいせん〕や何〔なに〕かの反射だつた。しかし僕は何となしに凶〔きよう〕を感ぜずにはゐられなかつた。

 

 大正十五年の正月十日〔とをか〕、僕はやはりタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下〔くだ〕らうとしてゐた。するとあの唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車が一台、もう一度僕のタクシイの前にぼんやりと後〔うし〕ろを現し出した。僕はまだその時までは前に挙〔あ〕げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々〔めいめい〕の裡〔うち〕に或〔ある〕警告を与へてゐる、――そんなことをはつきり感じたのだつた。   (大正十五年四月十三日鵠沼にて浄書)

 

 

 この文章は、(この文章も、)実に気味のわるい文章である。しかし、この気味のわるい話を、ちゃんと辻凄の合うように、書いているのが、一そう気味がわるい。ところで、芥川が、このような気味のわるい文章を、わざわざ、浄書したのは、どういう訳であろう。

 

 それはそれとして、この話(『凶』)の中で、一ばん気味のわるいのは、アカシヤの枝の間に「人の脚〔あし〕が二本ぶら下〔さが〕つてゐた、」などという所より、最後の「僕はまだその時までは前に挙げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々の裡〔うち〕に或警告を与へてゐる、」というところである。

 

 金色の唐草をつけた、葬式に使う自動車や、アカシヤの枝の間にぶら下っている二本の人間の脚や、麦酒罎にうつる幻の顔や、――そういうものは幻視であり、「何ものか僕に冥々の裡に或警告を与へてゐる、」というような考え方は、恐るべき、脅迫観念である。

 

[やぶちゃん注:宇野はまたしても鬼の首の確信犯『精神病者』立証を行っているわけでるが、これについて私は既に「凶」の私のテクストのマニアック注で『異常とも神経症的関係妄想だとも言えない』という見解を述べている。是非、参照されたい。]

 

 つまり、大正十五年には、(殊に、鵠沼に住むようになってからは、)芥川は、不断に、幻視、幻聴、その他の、幻覚に、なやまされ、さまざまの脅迫観念に、おそわれていたのである。

 

 それにもかかわらず、芥川が、それらの異常な経験を本〔もと〕にして、作品を、少しずつでも、書いたのは、異常な精神作用を、持っていたからである。それを、こんど、『鵠沼雑記』を読んで、又、あらためて、知ったので、つぎに、『鵠沼雑記』から、抜き書きする。(これらの抜き書きは、わたくし事をいうと、私自身の備忘のためでもある。)

 

[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]

 

 

 僕は全然人〔ひと〕かげのない松の中の路〔みち〕を散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸〔かうぐわん〕を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲〔まが〕り角〔かど〕へ来〔く〕ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。

 

 僕は風向〔かぎむ〕きに従つて一様〔いちやう〕に曲〔まが〕つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでゐた。

 

 

 こういう、(これに類するような妙な、)話がもう一つあって、その話の終りに(以上東家にゐるうち、)と断り書きがしてある。つまり、以上が東家にいた時に経験した話、という意味であ、る。そうして、その次ぎに、やはり、似たような話が六〔むっ〕つあって、これも、一番しまいの話の終りに、(以上家を借りてから、)と断り書きがしてある。その六つの話から、二つ抜いて、それを次ぎにうつそう。

 

[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]

 

 

 僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴〔かみなり〕は何ともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬が吠え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭〔あたま〕から蒲団をかぶるか、妻のゐる次〔つぎ〕の間へ避難してしまふ。

 

 僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札を出した家を見つけた。が、二三日たつた後、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。

 

[やぶちゃん注:『鵠沼雑記』の私の全テクストはこちら。]

 

 

 これらの文章は七月二十日に書いたものである。

 

 この文章だけで見れば、この文章の主人公である「僕」はハッキリ精神病者である。しかし、この文章を書いている人(つまり、芥川)は、仮りにこのころ精神病者であったとしても、頭脳は人並〔ひとなみ〕以上に冴えていた、肉体は衰え切っていたが、創作力は然程〔さほど〕おとろえていなかった。

 

 さきに引いた『鵠沼雑記』の中の、松の中で、「尻を振り振り歩いて行つた、」急にふり返って、「確かににやりと笑つた、」白犬は、名作と称せられた、『蜃気楼』の中では、

 

 

 僕等はいつか家の多い本通〔ほんどお〕りの角〔かど〕に佇〔たたず〕んでゐた。家の多い?――しかし砂の乾いた道には殆ど人通りは見えなかつた。

 

「K君はどうするの?」

 

「僕はどうでも、……」

 

 そこへ眞白〔まつしろ〕い犬が一匹、向うからぼんやり尾を垂れて来た。

 

[やぶちゃん注:「K君」は東京から遊びに来た大学生の知人。モデルは堀辰雄か。]

 

 

という所に、登場している。(つまり、『鵠沼雑記』の中で、「……白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた、」というのが、『蜃気楼』の中では、「……黄白い犬が一匹、向うからぼんやれ尾を垂れて来た、」という事になったのである。つまり、『鵠沼雑記』の中では、薄気味わるい白犬であったのを、作者は、『蜃気楼』では、その犬を、大事な所の、点景として、登場させたのである。)

 

 それから、やはり、『鵠沼雑記』の中で、「何度見直しても、」歪んでいる、無気味な、洋館の事を、書いているが、私は、これを読んだ時、すぐ芥川が愛読していた、アラン・ポオの『アッシャア家の崩壊』(“The Fall of the House of Usher”)を、思い出した。

 

 ところで、芥川は、その、『鵠沼雑記』の中の、「白い洋館」を『悠々荘』の初めの方の、

 

 

 そのうちに僕等は薄苔〔うすごけ〕のついた御影石の門の前へ通りかかつた。石に嵌めめこんだ標札には「悠々荘」と書いてあつた。が、門の奥にある家は、――茅葺〔かやぶ〕き屋根の西洋館はひつそりと硝子窓を鎖〔とざ〕してゐた。

 

 

というところで、「茅葺き屋根の西洋館」として、『悠々荘』のもっとも重要な役に立てている。

 

 私は、大方〔おおかた〕の人があまり認めていないようであるが、『悠々荘』は、(『悠々荘』も、)芥川の最晩年の作品の中で、注意すべき物の一つである、と思っている。(芥川は、大正十五年には、五つの小品しか書いていないが、その中で、『悠々荘』は、『点鬼簿』に次ぐものである。)

 

 ところで、さきに、『鵠沼雑記』の中の、歪んだ洋館の話を読んだ時、すぐ、『アッシャア家の崩壊』、を、思い出した、と述べたが、私は、『悠々荘』は、その「歪んだ洋館」と、それ以上に、『アッシャア家の崩壊』が芥川の頭〔あたま〕にあって作られたものではないか、と思うのである。

 

[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]

 

 

 僕は風向きに従つて一様〔いちやう〕に曲〔まが〕つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。

 

 

 十月の或る午後、僕等一二人は話し合ひながら、松の中の小みちを歩いてゐた。小みちにはどこにも人かげはなかつた。……

 

 

 そのうちに僕等は薄苔〔うすごけ〕のついた御影石の門の前へ通りかかつた。[中略]しかし又その外〔ほか〕にも荒廃を極めたあたりの景色に――伸〔の〕びに伸びた庭芝や水の干上〔ひあが〕つた古池に……

 

 

 雲が重苦しく空に低くかかつた、陰鬱な、暗い、寂莫たる、秋の終日、私はただひとり馬に跨つて妙にもの淋しい地方を通り過ぎて行つた。そして黄昏〔たそがれ〕の影があたりに迫つて来る頃、漸く憂鬱なアッシャア家の見えるところへまで来たのであつた。

 

 

 最初の一節が『鵠沼雑記』であり、次ぎの一節が『悠々荘』であり、最後の一節が『アッシャア家の崩壊』である。

 

 もとより、『アッシャア家の崩壊』はポオの傑作の一つであり、『悠々荘』は芥川の病中に書いた小品である。それから、『悠々荘』と『アッシャア家の崩壊』とは、むろん、構想も手法もまったく違う。それに、前に述べたように、『悠々荘』は、『アッシャア家の崩壊』から思いついたらしいものではあるが、強〔し〕いて云えば、晩年の芥川の物らしいところは幾らかあるけれど、作品としては、痩せている上に、趣〔おもむ〕きというようなものが殆んどない、一と口にいうと、呆気〔あつけ〕ない作品である。

 

 それにもかかわらず、この小品をわざわざ取り上げたのは、この文字どおり果〔はか〕ない作品が、――この小品を書いた頃が、――大正十五年の終りに近い時分の芥川の有り様がもっともよく窺われるからである。

 

 大正十五年の下半季は、(前にくどいほど述べた、芥川の鵠沼時代は、)芥川の晩年のうちで、死んだ年〔とし〕(つまり、昭和二年)を除〔のぞ〕けば、心身ともに最も辛く苦しい時であった。

 

 大正十五年の九月の初め頃に、文字どおり骨身をけずる思いをして、『点鬼簿』を重いた芥川は、半月〔はんつき〕ほどの間〔あいだ〕、へとへとになってしまった。しかし、十月になると、たちまち、芥川の頭〔あたま〕に、長い間の習慣のように、こびりついている、「新年号に出す小説」という考えが、沸〔わ〕き上〔あ〕がった。

 

 大正年代は、創作を特に載せる綜合雑誌が、たしか、四五冊しかなかった。その中で、たぶん、三つか四つかの大雑誌が、一年のうちに、一月、四月、七月、十月、と、四度〔よど〕、特別号を出した。そうして、これらの特別号は、普通号の三倍ぐらいのペイジ数になり、その増ペイジの雑誌の半分ちかくのペイジが創作欄であった。そうして、それらの雑誌の編輯者は、年に四回の特別号の中で、特に、新年号に力〔ちから〕を入れた。しぜん、作家たちも、『新年号』には、という気になった。(今も、特別号というのがあるが、この頃は、書く人が、大正時代の四五倍ぐらいはありそうであるから、その為めか、特別号に類するものが殆んど毎月出るような観があるので、特別号が、特別号のような感じがしないから、大正時代の特別号とは、性質が殆んど全〔まった〕く違う。)

 

 さて、その大正時代には、どの雑誌でも、おそらく、新年号には、芥川の作品が、ほしかったにちがいない。それに、芥川も、新年号には何をおいても書きたい、という気もちを十分に持っていたようである。その証拠に、芥川は、それを、殆んど実行している。それは次ぎのとおりである。

 

[やぶちゃん注:以下のリストは底本では引用でもないのに、特異的に全体が二字下げになっている。私のテクストでは見易くするために、大きく改変して二字下げ年改行とし、一桁の年号部に一字空けを施した。]

 

  大正 六年、四篇。

 

  大正 七年、二篇。

 

  大正 八年、五篇。

 

  大正 九年、三篇。

 

  大正 十年、四篇。

 

  大正十一年、四篇。

 

  大正十二年、ナシ。

 

  大正十三年、四篇。

 

  大正十四年、三篇。

 

 右のうち、『大正十二年、ナシ。』というのは、これは、前に述べたように、支那旅行のために、疲労困優し、重い病気になったからである、それから、前に引いたと思うが、大正十二年の十二月二日に、芥川は、真野友二郎に宛てた手紙の中に、「小生心臓をいため叉胃腸をそこなひずつと病臥、新年号の小説の約束も三つ四つありましたが皆断りました。小生の病は一切神経衰弱より起〔おこ〕つたらしく未〔いまだ〕に睡眠薬を用ひない限り眠る事が出来ません、」というような事を、書いているからである。

 

 さて、大正十四年の新年号の三篇は、そのうちの、二〔ふた〕つは、『早春』、『馬の脚』というような、間〔ま〕に合〔あ〕わせ物の、遣〔や〕っ附〔つ〕け仕事であり、他の一〔ひと〕つは、切羽〔せっぱ〕つまって書いた、未完の、『大導寺信輔の半生』である。

 

 つまり、芥川が、大正十五年の秋の末の頃、殆んど誰に宛てた手紙の中にも、新年号、新年号、と、まるで自分に云い聞かせるように、書いているのは、いま述べたように、前の年〔とし〕に新年号のために書いた小説が、それぞれ、自分が不満であったように、世評も香〔かんば〕しくなかった事が、気になったからである。それから、わりに評判のよかった『大導寺信輔の半生』が、自分では不満であった上に、その附記の中に、「この小説はもうこの三四倍続けるつもりである、」と断りながら、三四倍どころか、一倍の半分ぐらいさえ、書く自信がなかったからである、それで、気もちが非常に燋〔あせ〕ったからである。それは、(そのほんの一例として、)次ぎのような手紙を読めば、凡その事が、わかるであろう。

 

 

……僕の頭はどうも変だ。朝起きて十分か十五分は当り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が気がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂鬱になつてしまふ。新年号をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやれ切れない気がする。ちよつと上京した次手〔ついで〕に精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。節煙節茶の祟りもあるのだらう。……   [大正十五年十月二十九日、佐佐木茂索宛ての手紙]

 

……唯今新年号の仕事中、相かはらず頭が変にて弱り居り侯間、アヘンエキスをお送り下さるまじく候や。……   [大正十五年十一月二十一日、斎藤宛ての手紙]

 

……こちらは新年号と云ふものにて弱つて居ります。

 

  かひもなき眠り薬や夜半の冬

 

 

この大正十五年の十二月頃、芥川は、

 

 文〔ふみ〕書カンココロモ細リ炭トリノ炭ノ木目ヲ見テヲル我ハ

 

 小夜〔さよ〕フカク厠ノウチニ樟脳ノ油タラシテカガミヲル我ハ

 

 枕ベノウス暗ガリニ歪ミタル瀬戸ヒキ鍋ヲ恐ルル我ハ

 

というような歌を、斎藤茂吉に宛てた手紙の中にも、室生犀星あての手紙の中にも、

 

はさんでいる。

 

 芥川が、このような苦〔くる〕しい辛〔つら〕い思〔おも〕いをし、不治の重い病苦を辛抱して、昭和二年の新年号の雑誌のために書いたのが、『悠々荘』、『彼』、『玄鶴山房』㈠、の三篇である。しかも、『悠々荘』は六枚ぐらいであり、『彼』は十八九枚であり、『玄鶴山房』の㈠は二枚半ぐらいである。

 

 これは、もとより、作者である芥川には、堪えがたい寂しさであったろうが、前に述べたような訳〔わけ〕で、この年〔とし〕の新年号に出る筈の芥川の小説を取り分け期待していた私には、(私にも、)大へん寂しい気がした。それから、何でもないような事ではあるけれど、いくら関係があるからと云っても、芥川の小説が、たとい小品でも、『悠々荘』が「サンデー毎日」のような雑誌に出たり、『彼』が「女性」などに出たり、した事も、私には、妙に心細い気がした。それから、『彼』が、旧友の思い出などを書いてある上に、芥川の作品として、調子が低い事などまで、私には、気になったのであった。

 

 ところが、旧友の思い出の話ではあるが、それが徒〔ただ〕の思い出の話でない事に気がついて、私は、こんどは、別の意味で、気になった、それは普通の思い出の話とちがう所があるからである。その幾らかちがう所を、前に引いたのとちょいと重複するが、次ぎにうつして見よう。

 

 

……彼はベッドに腰かけたまま、不相変〔あひかはらず〕元気に笑ひなどした。が、文芸や社会科学のことは殆ど一言〔ひとこと〕も話さなかった。

 

「僕はあの綜憫の木を見る度〔たび〕に妙に同情したくなるんだがね。そら、あの上〔うへ〕の葉つぱが動いてゐるだらう。――」

 

 棕櫚の木はつい硝子〔ガラス〕窓の外に木末〔こずゑ〕の葉を吹かせてゐた。その葉は又全体も揺らぎながら、細〔こま〕かに裂けた葉の先々〔さきざき〕を殆ど神経的に震はせてゐた。それは実際近代的なもの哀れを帯びたものに違ひなかつた。

 

 

……太陽はとうに沈んでゐた。しかしまだあたりは明〔あか〕るかつた。僕等は低い松の生えた砂丘の斜面に腰をおろし、海雀〔うみずずめ〕の二三羽飛んでゐるのを見ながら、いろいろのことを話し合つた。

 

「この砂はこんなに冷〔つめ〕たいだらう。けれどもずつと手を入れて見給へ。」

 

 僕は彼の言葉の通り、弘法麦〔こうぼふむぎ〕の枯れ枯〔が〕れになつた砂の中へ片手を差しこんで見た。するとそこには太陽の熱がまだかすかに残つてゐた。

 

「うん、ちよつと気味が悪〔わる〕いね。夜〔よる〕になつてもやつばり温〔あたたか〕いかしら。」

 

「何〔なに〕、すぐに冷〔つめ〕たくなつてしまふ。」

 

 僕はなぜかかう云ふ対話を覚えてゐる。それから僕等は半町〔ちやう〕ほど向うに黒ぐろと和〔なご〕んでゐた太平洋も。……

 

[やぶちゃん注:本作の主人公Xのモデルは府立第三中学校時代の友人府立三中時代の同級生である平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二十五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)である。本作の電子テクストには「海雀」「弘法麦」等、詳細な私の注を施してある。参照されたい。]

 

 

 この小説の主人公の『彼』は、病院の医者や看護婦たちが、旧正月を祝うために、夜ふけまで、歌留多会〔かるたかい〕をつづけて、大騒ぎをしたので、眠りを妨〔さまた〕げられたために、「ベッドの上に横たはつたまま、おほ声に彼等を叱りつけた、と同時に大喀血をし、すぐに死んだ、」という事になっている。

 

 が、そんな事より「この砂はこんなに冷たいだらう、」と云われて、海岸の砂の中に片手を差しこんで、太陽の熱がまだかすかに残っているのを感じて、「うん、ちよつと気味が悪いね。夜になつてもやつぱり温いかしら、」と云う、それに答えて、「何〔なに〕、すぐに冷たくなつてしまふ、」と云うところの方が、よっぽど薄気味〔うすきび〕がわるいではないか。

 

[やぶちゃん注:『主人公の『彼』は、病院の医者や看護婦たちが、旧正月を祝うために、夜ふけまで、歌留多会〔かるたかい〕をつづけて、大騒ぎをしたので、眠りを妨〔さまた〕げられたために、「ベッドの上に横たはつたまま、おほ声に彼等を叱りつけた、と同時に大喀血をし、すぐに死んだ、」』という話を読者であるあなたは『薄気味がわるい』話と言うか? 砂浜のシーンの方が、その悲劇的事実より『よっぽど薄気味がわるいではないか』と平然と言えるか? 私は絶対に言わないし、言えないし、絶対に思わない(『薄気味がわるい』と感じる読者を私は嫌悪はしない。しかし、こう表現してしまう宇野に私は強い違和感を覚える)。これが宇野の(この執筆時の)感性なのである。注する現在の私と、宇野の感性上のギャップ、これだけは押さえておいて戴きたいのである。]

 

 私が、あまり上等でない作品『彼』について長ながと述べたのは、『彼』の中にある、冷〔つめ〕たい気味わるさは、主人公の『彼』ではなく、作者の芥川である、と気がついたので、その事を、私は書きたかったのである。

 

 さて、芥川は、このような小説を書いて、まもなく、昭和二年になり、数え年〔どし〕、三十六歳になったのであった。

 昭和二年は、いうまでもなく、芥川の死んだ年〔とし〕である。

2012/04/28

教え子の便り

僕の愛する(これは社交辞令ではない。本気だ)教え子が職に就いた――

「外にばかりでなく、自分の内側にも目と耳をもっていようと思います。そして、いつまでも学ぶ姿勢とその喜びを忘れずに頑張ります。」

彼女は美しい――未来永劫に美しい……

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(5)

 さて、『海のほとり』、(『尼提』と『湖南の扇』とは、私は、取らない、)『年末の一日』、『春の夜』、と、書きつづけて来て、芥川は、これまでの作品とまったく違った、『点鬼簿』を書いたのである。

『点鬼簿』は、やはり、小説ではないけれど、芥川の全作品の中でもつとも重要な作品である。

 点鬼簿とは、俗にいう過去帳であり、過去帳とは、いうまでもなく、死人の、法名、俗名、死亡年月日などを書き止めておくものであり、鬼籍、鬼簿、鬼神簿、などとも云うが、芥川は、それらの中から、『点鬼簿』というのを、選んだのである。しかし、どれを選んでも、『鬼』という字は附くのである。)

『点鬼簿』は、めずらしく、芥川が、真剣になって、書いている、極言すれば、芥川の全作品の中で、もっとも真剣になって、書かれた作品の一つである。『大導寺信輔の半生』のなかでは、唯、「信輔は母の乳を吸つたことのない少年だつた、」と、書いているだけであるが、この作品では、いきなり「僕の母は狂人だつた、」と、書いている。

 大正十五年の九月の初め頃、鵠沼の寓居で、極度の神経衰弱(というより、精神病)にかかりながら、頭脳は冴え切っていた芥川が、いきなり、「僕の母は狂人だつた、」と、書き出すのに、書きはじめるまでに、いかに苦しい思いをしたであろうか。

『点鬼簿』の㈠の中に、こういう所がある。

……何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭〔あたま〕を長煙管〔ながぎせる〕で打たれたことを覚えてゐる。しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だつた。僕や僕の姉などに画〔ゑ〕を描〔か〕いてくれと迫られると、四〔よ〕つ折〔をり〕の半紙に画を描いてくれる。画は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水絵〔みづゑ〕の具〔ぐ〕を行楽〔かうらく〕の子女の衣服だの草木〔くさき〕の花だのになすつてくれる。唯それ等の画中〔ぐわちゆう〕の人物の顔はいづれも狐の顔をしてゐた。

 この母は、芥川の十一歳の年に、なくなったから、この話は、芥川の七八歳の事であろうか。いずれにしても、いきなり長煙管で頭を打つところ、もの静かな狂人が、子女の行楽(子女の行楽である)の画〔え〕を描〔か〕くところ、それを、墨だけでなく、小〔ちい〕さい娘の水絵具をつかって、それを行楽の子女の衣服と草木〔そうもく〕の花になするところ、行楽の子女がみな狐の顔をしているところ、――これだけの事を、芥川は、何と、二百字ぐらいの文章の中に、書いているのである。この一節は、詩歌の言葉でいえば、絶唱である。

[やぶちゃん注:「なくなったから」は底本「なくなつたから」で、誤植と判断して訂した。]

『点鬼簿』で、芥川は、はじめて、真実を、真実な言葉で、書いた。『点鬼簿』の文章こそ、本当に、無駄のない、抜き差しならぬ、文章である。『点鬼簿』を書く前から、芥川は、眠られぬ夜毎〔よごと〕に、実母や姉や実父の、いろいろな姿が目にうかび、実母や姉や実父の死に行く様〔さま〕を心の中に思いうかべていたのであろう。そうして、いたく胸が迫る思いをしたであろう。

 されば、芥川は、しみじみした思いにもなりながら、必死の思いにもなりながら、心魂こめて、(誠に、心魂しめて、)『点鬼簿』を、石に字を刻むように、書きつづけたにちがいない。私などは、この作品を何度か読みながら、ある所では、芥川のすすり泣きしている声が聞こえるような気さえする事がある。

 しかし、又、この作品には、側側として迫るような痛わしいところもあるが、大形〔おおぎょう〕に言うと、鬼気のようなものが迫る思いをするところもある。その一つの例は、鬼気という程ではないが、

 僕の父はその次〔つぎ〕の朝に余り苦〔くる〕しまずに死んで行つた。死ぬ前には頭も狂〔くる〕つたと見え「あんなに旗を立てた軍艦が来た。みんな万歳を唱へろ」などと言つた。

 これで見ると、芥川の実父も、亦、死ぬ前に、「頭が狂つた、」という事になる。

 ところで、『点鬼簿』の最後に、(締め括りとして、)墓参りをする場面がある。それは、その年(つまり、大正十五年)の三月の半〔なか〕ば頃〔ごろ〕に、芥川が、久しぶりで、妻と一しょに、谷中の墓地に、墓参りに行く所である。その墓地の石塔の下には、芥川が、『点鬼簿』に書いた三人の骨が埋められてある。(但し、実父だけは骨の代りのものが埋められてある。)その時の事を、芥川は、つぎのように、書いている。

 僕は墓参りを好んではゐない。若し忘れてゐられるとすれば、僕の両親や姉のことも忘れてゐたいと思つてゐる。が、特にその日だけは肉体的に弱つてゐたせゐか、春先〔はるさき〕の午後の日の光〔ひかり〕の中に黒ずんだ石塔を眺めながら、一体彼等三人の中では誰が幸福だつたらうと考へたりした。

   かげろふや塚より外〔そと〕に住むばかり

 僕は実際この時ほど、かう云ふ丈艸〔ぢやうさう〕の心もちが押し迫つて来るのを感じたことはなかつた。

[やぶちゃん注:内藤丈草の名句は以下の通りの前書を持つ。

  芭蕉翁塚にまうでて

 陽炎や塚より外に住むばかり

「初蟬」所収の句で元禄九(一六九六)年の春、現在の滋賀県大津市にある義仲寺の先師芭蕉の墓を詣でた際のもので、後の「丈草発句集」では『芭蕉翁の墳にまふでて我〔わが〕病身をおもふ』と前書し、

 陽炎や墓より外に住むばかり

と中七が異なる。句意は、

……先師の墓に詣でる……と……折柄、春の陽炎ゆらゆらと……師の墓もその景も……みなみな定めなき姿に搖れてをる……その影も搖れ搖れる陽炎も……ともに儚く消えゆくもの……いや……儚く消えゆくものは、外でもない……この我が身とて同じ如……先師と我と……「幽明相隔つ」なんどとは言うものの……いや、儚き幻に過ぎぬこの我が身とて……ただただ「墓」からたった一歩の外に……たまさか、住んでをるに過ぎぬのであり……いや、我が心は既にして……冥界へとあくがれて……直き、この身も滅び……確かに先師の元へと……我れは旅立つ……

といった絶唱である。私も好きな句の一つである。]

 実際、この時分の芥川は、「塚より外に住むばかり」というような、世を厭う心になっていたにちがいない、又、去来が「句の寂しき事丈草に及ばず」と云われたような、丈草の句を、芥川は、好んでいたかもしれない。

[やぶちゃん注:丈草と親しかった去来の評は、彼の「旅寝論」の「序」に『我蕉門に年ひさしきゆへに虛名高しといへ共、句におゐて其しづかなる事丈草に及ばず、其はなやかなる事其角に及ばず、輕き事野坡に及ばず、あだなること土芳に及ばず、たくみなる事正秀に及がたし』(底本は岩波文庫版)と冒頭に挙がる。宇野派は「しづかなること」(閑かなること)を恐らく「閑寂」の連想からか、誤って「寂しき事」としている。]

 さて、『点鬼簿』について、それを知っている人には、ちょっと問題になった論争があった。それは、徳田秋声が、この作品は小説ではない、と云ったのに対して、廣津が、報知新聞で月評をした時、それを反駁した事である。今、その時の廣津の文章が手もとにないので、例の『芥川龍之介研究』[前にも説明したが、「新潮」でもよおした座談会]の中から、そこの所をうつそう。

 川端。晩年のものを読んでみると、何だか死にさうなやうな気がしますね。

 廣津。徳田さんを前においていふのも変ですが、徳田さんが『点鬼簿』を小説ぢやないと云つて批評されたことがあつた。それで、僕は、大体小説ぢやないが、しかし、あれは死の隣りにゐるから、さういふ点から見なければならぬといふやうなことを云つて、徳田さんに対する反駁をあの頃新聞[註―報知新聞]に書いたんですが、あれを読んでゐると、死ぬと思つたな。

 川端。結果論でせうが、後〔あと〕で見ると、さういふ気がしますね。

 久米。後で読んで見ると、皆さうだね、晩年の作は皆さうだ。

 私は、「結果論」とか、「後で読んで見ると、」とか、いうような考え方には、同感ができない。それから、私は、『点鬼簿』を読んだ時、「死ぬな、」などとも、思わなかった。

 しかし、『点鬼簿』の最後の、墓まいりの話が本当とすれば、芥川は、あの三人の墓まいりをしてから、一年半も立たないうちに、『点鬼簿』を書いてから、十月〔とつき〕あまり後〔のち〕に、この世を捨てたのであった。それを考えると、『点鬼簿』を読みながら、廣津が、「死ぬな、」と思ったのが当〔あた〕った、という事になる。

 ところが、『点鬼簿』は、誠に果〔はか〕ない作品である、(「果〔はか〕なくなる」とは、世を去る事である、死ぬ事である、)しかし、実にしみじみした作品である。この作品には芥川の持ち前である気取りが殆んど全くない。やがて、間もなく、点鬼簿の中に加えられる筈の芥川が、この『点鬼簿』を小説風に書いたのが、この作品である。そうして、芥川は、この『点鬼簿』に書き入れている三人の肉親に、限りなき愛情と愛慕と哀情と哀惜を、寄せている。既にこの世を、「婆婆苦」と称して、はかなんでいた芥川は、この世に生まれて、あまり幸福でなく、果〔はか〕なくこの世を去って行った、一ばん近い、三人の、肉親の『過去帳』(『点鬼簿』)を、書きたくなったのであろう、しかも、それを書く芥川も、花やかには見えたけれど、あまり幸福な生涯を送らなかった人である、いや、もしかすると、『点鬼簿』に書かれている三人の人たちよりも、芥川の方が、もっともっと苦〔くる〕しく辛〔つら〕い一生を送ったにちがいない。

 芥川は、発狂した実母の血をもっとも多く受け、それから、疳性で神経質な実父の性質を受けている。(芥川の目は実母、のふくに一ばんよく似ている。)

『点鬼簿』は、前に述べたように、芥川の全作品の中で、もっとも陰鬱で憂鬱な作品である。

[やぶちゃん注:私はそう思わない。特に私には「点鬼簿」の「二」の「初ちやん」の話が、「蜜柑」や「杜子春」のエンディングに次いで芥川龍之介の作品群の中から、暗い山の彼方に、そこだけ明るい日差しの射し込むのを見るように感ずる程であり、「点鬼簿」を『芥川の全作品の中で、もっとも陰鬱で憂鬱な作品』などとは、全く以て思わないということを明言しておく(後文で宇野もこの「二」の部分は「稍明るい」とは述べている)。]

 そうして、『点鬼簿』の中でもっとも憂鬱なのは、最初の、実母の事を、書いた、一節である。実母、実姉、実父、――と、三人の事を書いてある中で、実母だけは殆んど死ぬ所と葬式だけが書いてある。それは次ぎのような所である。

 僕の母は二階の真下〔ました〕の八畳〔でふ〕の座敷に横たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人〔ふたり〕とも絶えず声を立てて泣いた。殊に誰か僕の後〔うし〕ろで「御臨終〔ごりんじゆう〕御臨終」と言つた時には一層切〔せつ〕なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小声でくすくす笑ひ出した。

 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌〔ゐはい〕を持ち、僕はその後〔うし〕ろに香炉を持ち、二人〔ふたり〕とも人力車に乗つて行つた。僕は時々居睡〔ときどきゐねむ〕りをし、はつと思つて目を醒〔さ〕ます拍子〔ひやうし〕に危〔あやふ〕く香炉を落〔おと〕しさうにする。けれども谷中へは中々来〔なかなかこ〕ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。[註―芝の新銭座から谷中の墓地までは一里ぐらいであろうか]

 芥川は、死ぬ一年ほど前に、こういう文章を書いたのである。これは身近〔みぢか〕の事を書いたから出来た、というような文章ではない。身近な事を書いたものでは、例の、『芥川龍之介研究』の中で、廣津、佐藤、川端、というような人たちまでが、芥川の全作品の中で一番すぐれている、と賞讃している、『歯車』があるが、『歯車』は、切羽〔せっぱ〕つまった、気違いに近い精神病者の気もちのまざまざと現れている作品であり、無類の特徴のある、作品であるけれど、散漫なところがあり、息切れしているようなところもある。

[やぶちゃん注:「気違いに近い精神病者の気もちのまざまざと現れている作品」という言いは本作に現れる最も差別的で、芥川龍之介に対して最大級に失礼な評言であり、しかも全く見当違いの誤認である、と私は思う。そうした批判的視点から本表現を読まれるよう、読者の方に敢えてお願いするものである。なお、この注が目障りと感じられる方は、私のこのテクストでお読みにならず、実際の書籍の「芥川龍之介」でお読みになられれば、よい。速やかにこの私のサイトから去られるのが肝要である。私の人生には、そうお感じになったあなたとは、議論する余裕を、一秒たりとも持っていないからである。]

 芥川の青年時代の無二の親友であつた、恒藤 恭が、大正十五年の九月二十八日頃、(芥川が『点鬼簿』を書き上げてから二十日〔はつか〕ほど後、)鵠沼に、芥川をたずねた時の事を」『最後に会つたときのこと』という文章の初めに、つぎのように、書いている。

[やぶちゃん注:「大正十五年の九月二十八日頃」現在、新全集の宮坂覺氏の年譜では恒藤恭の来訪を九月二十九日頃にクレジットしている。恒藤は同月二十六日に遊学していたアメリカから横浜港に帰国していた。引用の直前で『それから二、三日の後に、当時鵠沼に滞在した芥川を訪ねたが、……』と述べている。]

……当時鵠沼に滞在してゐた芥川をたづねたが、三年ぶりに会つた彼の容貌は、三年まへの、其れとは大へんな変りやうであつた。まるで十年もの年月〔としつき〕がそのあひだに経過したやうな気がした。[中略]元来が痩せてゐる芥川ではあつたが、そのときの彼の肉体の衰へは正視するのも痛はしいやうな程度のものであつた。だが、気力は一向におとろへてゐないもののやうに、意気軒昂といつた調子で、文壇のありさまなどを話してくれた。しかし、また、どうも健康がすぐれず、不眠にくるしんでゐるといふことも訴へた。

 ぜんたいとしての彼の風貌が、なにかしら鬼気人に迫るといつたやうな趣きをただよはしてゐて、昼食を共にしてお互ひに話し合ひながら、余命のいくばくもない人と対談してゐるやうな予感めいたものを心の底に感じ、たとへやうもなくさびしい気もちにおそはれることを禁〔とど〕め得なかつた。

[やぶちゃん注:本部分に関して私が参照した鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一八四頁)のコラム「恒藤恭の〈最後の印象〉」には、宇野の引用の後、もう少し引用があり、『万事を抛擲して健康の回復をはかるやうに、くり返してすすめ、京都へかへる前にもう一度たづねるからと言ひ残して別れ、東京へかへつた』が、結局、恒藤は今一度帰京前に逢うことは叶わず、そして、これが恒藤が芥川龍之介に逢った最後となってしまう。鷺氏の要約によれば、恒藤は『のちに自殺の報に接し「必然の成り行き」と感じたという。』と、ある。]

 この恒藤の文章を読んで、私は、いたく心を打たれた、芥川の旧友であり親友であった恒藤は、芥川の作品(つまり、『点鬼簿』、その他)を読まないで、芥川が「余命いくばくもない」事を、予感したのである。

 つまり、この文章にあるように、芥川は、「正視するのも痛はしいやうな」衰えた肉体を鞭うちながら、「余命のいくばくもない」身をもって、『点鬼簿』を書いたのである。芥川は、又、『点鬼簿』を書いてから一週間ほど後に、佐佐木に宛てた手紙のなかに、「その後例の如く時々風を引いたり腹を下したりしてゐる。点鬼簿に数枚つけ加へて改造に出したれど、その数枚に幾日もかかり、小生亦前途暗澹の感あり、」と述べている。ここに「数枚つけ加へ」とあるのは、『点鬼簿』の㈢と㈣つまり、実父の事と墓まいりの事を書いた分を云うのであろうか。

 これは、文字どおり、まったく必死の仕事である。暗澹そのもののような『点鬼簿』の中では、実姉の事を書いた㈡だけが稍〔やや〕あかるい。その㈡の終りの方に、

……「初ちやん」[註―芥川の生まれない前に夭逝した姉で、きょうだいの中で一番賢かった人、として、芥川のもっとも愛している姉]は今も存命するとすれば、四十〔しじふ〕を越してゐることであらう。四十を越した「初ちやん」の顔は或〔あるひ〕は芝の実家の二階に茫然と煙草をふかしてゐた僕の母の顔に似てゐるかも知れない。僕は時々幻〔まぼろし〕のやうに僕の母とも姉ともつかない四十恰好〔かつかう〕の女人〔によにん〕が一人〔ひとり〕、どこかから僕の一生を見守〔みまも〕つてゐるやうに感じてゐる。

という所があるが、これは、(これだけでも、)ぞっとするほど、気味がわるい。

 私の(私だけの)考えでは、このような気味のわるい文章は、『玄鶴山房』にも、『歯車』にも、ない。(『玄鶴山房』や『歯車』の中にある気味わるさに就いては、後に述べる。)

[やぶちゃん注:私は「点鬼簿」を芥川龍之介の作品群の中でも殊の外愛し、数えきれない程何度も読み返したが、全体を通して(「二」のここだけではなく、「点鬼簿」総て、である)、「ぞっとするほど、気味がわるい」なんどは、ただの一度も感じたことがない。むしろ、ある種の怖くない見たい暖かな霊が、私には見える(こう感じる私もまた、宇野と対極の異常性を持っていると自認はする)。またここで宇野自身の病跡学的問題を語りたいと思う。そもそも宇野は直感優先の人で、最初の生理的感覚を完全に捨て去ることが出来にくい性質の持ち主であるように思われる。今まで、しばしば、彼はいろいろな場面、いろいろな対象(小説や人物や記憶等々)の、「最初の印象を後に変えた(訂正した)」という謂いを語ってきているが、これは実は裏を返せば、宇野は、心的振幅の大きい感情的な最初の印象に関しては相当に深く心に彫りつけて忘れない(忘れられない)タイプ、粘着気質であることを示していると言える(これはどうも宇野の生得的性格であると思われるが、梅毒に因る進行麻痺(麻痺性痴呆)の罹患と予後によって、更にそうした性格が突出してきたという印象を私は持っている)。そうした宇野にとって、特にその中でも強い不快感や恐怖感を必ず伴う「気味がわるい」という感じ方(はっきり言わせて頂くと「稍奇異な」印象さえ私は感じている。則ち、強迫観念としてのフォビアである)に関しては、初読で感じてしまったものに対して、殆ど、というか実は全く、後の修正が効かないのである。図らずもここで宇野が「(私だけの)」とわざわざ述べているのは、宇野自身がそうした自分のフォビアの印象の固着に薄々感づいていることを示していると言えるのではないだろうか。宇野の執念深い、粘着的な芥川作品への断定は、そうした評者である宇野の心理的側面への分析的視点からも同時に捉えていかないととんでもないことになる、と私はつくづく思うのである。]

 

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(4)

今回の注も、僕の考える宇野浩二の内心――「芥川龍之介」に於いて表だって言っていない宇野の本当の「小説」家芥川龍之介という存在への認識――についての長い注となった。覚悟してお読み頂きたい。

   *   *   *

 ここで又、ちょっと寄り路する。これも、前に、引いた事があるが、大正十四年の十二月一日に、芥川が、私に、つぎのような便〔たよ〕りを、よこしている。

 朶雲奉誦新年号出来しや上海游記の事、君に関する分だけ読んでくれ給へ君が小説と小品との別を云々したから僕が「私」小説論私見を書いたと言ふ藤森[成吉ならん]の説には驚いたねああなるととてもかなはん僕は兜をぬぐ

この芥川の便り[註―前にも書いたが、私は芥川の手紙やはがきは一つも持っていない、書簡集を見て、こんなのがあったのか、と思う程である]の中の、私が「小説と小品との別を云々」というのは殆んど全く覚えていないが、今、察するところ、大正十四年十二月一日、と云えば、芥川が『海のほとり』その他を発表した後〔あと〕であるから、私が、『海のほとり』は、小説ではない、小品である、とでも、書いたのであろうか。もしそうだとすれば、私は、前にしばしば述べたように、『海のほとり』、『年末の一日』『悠々荘』、『蜃気楼』、その他は、小説ではない、小品である、と、今でも、思っている。

[やぶちゃん注:今回の注は長くなる。御覚悟の上、お読み頂きたい。

「藤森[成吉ならん]」は宇野の誤りと思われる。この「藤森」について、筑摩書房全集類聚版脚注では藤森淳三とする。藤森淳三(明治三十(一八九七)年~昭和五十五(一九八〇)年)は小説家・評論家。横光利一らと同人雑誌『街』を創刊、雑誌編集者をしながら作家活動をした。小説集『秘密の花園』童話集『小人国の話』などがある。この「藤森」も芥川龍之介の批評という点から考えて、高い確率で彼と考えてよい。実は藤森淳三と宇野と芥川絡みでは、芥川龍之介の大正十二(一九二三)年三月の『新潮』に載る「色目の辯」に、非常に興味深い叙述が現れる。以下に引用する(底本は岩波旧全集を用いた)。

 

 新潮二月號所載藤森淳三氏の文(宇野浩二氏の作と人とに關する)によれば、宇野氏は當初輕蔑してゐた里見弴氏や芥川龍之介に、色目を使ふやうになつたさうである。が、里見氏は姑く問はず、事の僕に關する限り、藤森氏の言は當つてゐない。宇野氏も色目を使つたかも知れぬが、僕も亦盛に色目を使つた。いや、僕自身の感じを云へば、寧ろ色目を使つたのは僕ばかりのやうにも思はれるのである。

 藤森氏の文は大家たる宇野氏に何の痛痒も與へぬであらう。だから僕は宇野氏の爲にこの文を艸する必要を見ない。

 しかし新らしい觀念(イデエ)や人に色目も使はぬと云ふことは退屈そのものの證據である。同時に又僕の恥づるところである。すると色目を使つたと云ふ、常に溌剌たる生活力の證據は宇野氏の獨占に委すべきではない。僕も亦分け前に與るべきである。或は僕一人に與へらるべきである。然るに偏頗なる藤森氏は宇野氏にのみかう云ふ名譽を與へた。如何に脱俗した僕と雖も、嫉妬せざるを得ない所以である。

 かたがた僕は小閑を幸ひ、色目の辯を艸することとした。

 

「委す」は「まかす」、「与る」は「あづかる」と訓ずる。芥川龍之介は座談会などで藤森淳三と同席しているが、その抜粋録などを読むと、実際には彼とは肌が合わなかったのではないかという感じがする。因みに、大正十一(一九二二)年八月四日附佐佐木茂索宛書簡(岩波旧全集書簡番号一〇六三)末尾には、『藤森淳三 僕論を書くと云ふ 行為は感佩するが書いて貰ひたくない 僕は毀譽とも頂戴せずに文章を作つてゐたいのである 頓首』と記す。これは好意を持っている人物への物謂いとは、私には思われない。

「上海游記の事、君に関する分だけ読んでくれ給へ」これは「上海游記」の「十九 日本人」の以下の部分を指す(リンク先は私の注釈つきテキスト。以下の注もその私自身の注を加工した)。

 

上海の日本婦人倶樂部〔クラブ〕に、招待を受けた事がある。場所は確か佛蘭西租界の、松本夫人の邸宅だつた。白い布をかけた圓卓子〔まるテエブル〕。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウイツチと。卓子〔テエブル〕を圍んだ奧さん達は、私が豫想してゐたよりも、皆温良貞淑さうだつた。私はさう云ふ奧さん達と、小説や戲曲の話をした。すると或奧さんが、かう私に話しかけた。

 「今月中央公論に御出しになつた「鴉」と云ふ小説は、大へん面白うございました。」

 「いえ、あれは惡作です。」

 私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思つた。

 

「松本夫人」は本文以外のことは不詳。芥川龍之介書簡宛名には「松本」姓で該当人物と思しい人は見えない。「シネラリア」キク目キク科ペリカリス属シネラリアPericallis cruenta。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・青・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることからとされる。しかし乍ら、試みにこの英名を調べてみたところ、面白いことに余りに美しすぎて他の花が売れなくなるから(であろうか)、“Cineraria”という語は“cinerarium”、「納骨所」の複数形で、「死ね」に通底するところの“Florist's Cineraria”「花屋の墓場」という意味なのであった。『「鴉」』既にお分かりの通り、芥川龍之介の作品ではなく、宇野浩二の小説。私は未読なので作品内容は不明。松本夫人が誤ったのは大正十(一九二一)年四月一日発行の「中央公論」で、この宇野浩二の「鴉」の後に芥川龍之介の「奇遇」が掲載されているためであろう(「鴉」の注については筑摩書房全集類聚版脚注及び岩波版新全集の神田由美子氏の注解に拠った)。

「君が小説小品との別を云々した」既に読者は、この宇野の謂いを何度も眼にしてきた。ここで是非、注しておきたいと思う。これは極めて重要なことである。まず、この書簡で、

《芥川が言っている「小説」と「小品」との区別》

は、実に一般的に知られるオーソドックスな謂いと考えてよい。則ち、――

「小説」はモデルや作者の実体験が含まれている場合があるにしても、その主要な核心部分は技巧的に脚色された、話者の主体の人称に関わらず、創作されたもの

であり、

「小品」とは多少の潤色はなされていても、アウトラインが作者の実体験に基づいたもので(則ち所謂、「私小説的なる」もので)、尚且つ、必ず短篇に限る

という主に内容に基づくものである(例えば、芥川龍之介の作品を例にとると、「河童」クラスの原稿量を持つ作品は、その内容如何に関わらず(完全な実体験であったとしても)、「小品」とは呼ばない、ということである。確かに「河童」を小品と呼ぶ人は少ないであろう)。なお、この「小品」の一般的見解は、「小品」が「小品文」に由来するからである。「小品文」は、例えば「大辞泉」には、①として、

「日常生活で目に触れた事柄をスケッチふうに描写したり、折々の感想をまとめたりした、気のきいた短い文章。小品。」

とあり、②として、

「中国で、明代中期以降行われた短い評論・随筆・紀行文などの総称。」

とある(やや不審なのは①が原義ではなく、②からの派生と見えるのだが、天下の辞書がこう書くということは、①は②と無縁であり、その内容的類似は偶然だということであろう)。辞書的にもこれらの区別に何らの違和感も私は感じない。こんなくだくだしい分かり切ったこと(私は「分かり切った」とは思っていないが)を記したのは、実は、

《宇野の言っている「小説」と「小品」の区別》

は、今までの宇野の叙述から、実はその『決定的な差』は、そのような内容とは無縁な単純な判断基準に基づくものではないか、則ち、宇野の謂いは一般的な考え方と異なっているのではないか、と疑っているからである。宇野の謂いをよく確認されるとよい。彼は常に、異常なまでに、『物理的な原稿量』を偏執的に数えている事実に気がつくはずである(私はこれを宇野の異常な要素として先の注で正に「数えた」のだが、それにはここでは言及しない)。則ち、宇野にとっては、

一定以上の原稿枚数を持つ、所謂、「中編」以上(その原稿量は特定できないが、例えば芥川龍之介の「河童」である――但し、宇野が「河童」を「小説」=「本物の小説」と考えているかどうかとは別問題である――)の物理的枚数を持つ「創作物」だけが「小説」である

ということである。そして、

完璧な創作であろうが、実体験まんまの叙述であろうが、一定枚数以下(その原稿量は特定できないが、例えば芥川龍之介の純然たる「評論」以外の――何を以って「評論」と言うか自体も無意味な区別と私は考えるが――殆ど総ての作品群)は総て「小品」

なのである。但し、宇野に怒られると困るからお急ぎで補足すると、勿論、

「小説」はただ量なのではなく、内容も、その胆の部分に宇野が(これも宇野だけにしか分からないのだが)「創作性がある」と判断するものは(ここが肝心だが「創作性の高い」「作り事」では断じてないのである。宇野の初期作品はその多くの部分が彼の実体験に基づいている)「小説」である

が、宇野にとってはそういう

「本物の小説」(これも多分、宇野だけに分かる、宇野が誰にも譲れない絶対条件である)というものは絶対に最低、中編以上の原稿量になる、たとえ物語性や創作性が強くても短篇では「本物の小説」は創れない、短篇は悉く「小品」でしかなく、「小説」ではない

と宇野は暗に言っているのだ、と私は思うのである。間違ってはいけないのは、宇野のそれは私小説か非私小説かを問題にしていない、ということである。これは引用された書簡から芥川龍之介自身も同じ立場を実はとっていることが分かるということも押さえておかねばならぬ。そもそも宇野の初期作品は悉く私小説「風」である(「風」としないと宇野先生は絶対に怒る。彼は「文学史的」には私小説作家の代表のように語られているが、彼は、自分は「小説」を書いているのであって「私小説」なんどというへんてこりんなものを書いているのではない、という点に於いて、正に内心、『小説』の『鬼』と自負されている、と私は信じて疑わないからである)。

――いや、そんなことはどうでもいい――

実は以上の「小説」と「小品」への宇野の拘りは、

一つの宇野の言葉にしない芥川龍之介への見解

を、暗に物語っているものなののではなかろうか? 則ち、

芥川龍之介の書いたものは、その殆どすべてが、その分量に於いて、当たり前の如く、中編以上であることを絶対的属性とする「小説」ではない

と言いたいのではないか? 言い換えれば、

芥川龍之介は短い「物語」の作家であり、短いことを絶対的属性とする「小品」作家である/しかない/しかなかった

という宇野の中に隠された、正直な感懐を、である。それは『小説の鬼』宇野浩二にして、実は芥川龍之介に対して、この場(この「芥川龍之介」という評論を書いている現在時制)に至っても

――表立ってはやっぱりはっきり言えない――しかし正直なところの印象――

であった、のではあるまいか? いや

――それを表だって言うことなく、ここまで、これだけの芥川龍之介へのオードを書き進めることの出来る宇野浩二という男――

――彼は確かに正しく芥川龍之介を愛している――

そうして、

――正しく自身の信じ殉ずるところの、「小説」というものの、正に『鬼』であった――

とも言えるのではあるまいか?]

2012/04/27

「イル・ポスティーノ」“Il Postino(The Postman)”

 

Il_postino

三日前のヴィデオ断捨離の最中に、頭をやってもらっている美容師のクラちゃんから数年前(4~5年以上前)に「この映画、いいわよ」と借りたテープが出て来た。実は借りたまままだ見ていなかったのであった。その日の午後に彼女の予約をとったので、とりあえず見ることにした。

実に映画館はおろかヴィデオで映画を通して最後に見てから、恐らく3年ぐらい経っている。

いや、それ以前、私淑するタルコフスキイが亡くなってから、僕は映画に興味が失せたと言ってよい……そして母が亡くなった前後からは、すっかり映画を見る根気も失せていた……母は映画が大好きだった……いろんな俳優や場面を母と語り合うのが僕は楽しみだったのだ……

――1994年のイタリア映画「イル・ポスティーノ」“Il Postino(The Postman)”――

最後のクレジット・タイトルを見終わった時(僕は映画館ではクレジット・タイトル・ロールが終わるまで決して席は立たない。家でも基本、ポーズ・ボタンは押さない。これは映画作品への、最低の礼儀である)、見て良かった(その日、僕は長く借りながら見れなかったので、と言ってクラちゃんに返すことも出来た、が、そうせずに自分を見る義務にわざと追い込んだのが、実に幸いした)と思わせる佳品であった(演劇でも映画でも小説でも何でもそうだが、「良かった」と心底、素直に思える作品というものは人生に十数作もないものだ)。

題名(「或る郵便配達人」)から漠然と連想(ルキノ・ヴィスコンティの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」やら霍建起(フォ・ジェンチー)の「山の郵便配達」なんぞがつい浮かんでしまう)していたものとは大いに違った。そもそもが最初にニュース映画に登場するフィリップ・ノワレが、実在の左翼詩人パブロ・ネルーダであり、チリの軍事政権から亡命してきたネルーダがイタリアの島(事実は1948年で滞在先はカプリ島。ロケはプロチーダ島)に滞在し、彼の家に(彼の家一件にだけ)郵便を配達する青年が主人公マリオという設定だ。ネルーダには美しい妻がいるが「二度ベルを鳴らす」なんぞを見ていると、つまらない邪推をしてしまう(そうは展開しないということである)。

ネタバレをしない程度(しかし、鋭い人には作品の展開はそれとなく分かるように)に読む人の興味をそそりたい文章を書きたいと思うのだが――要は実在したノーベル文学賞作家の詩人ネルーダと、ある島の――この話は架空の話なのである――郵便配達夫の青年の「隠喩(メタファー)」の交流と友情の物語(正に「物語り」)、一種のファンタジーである(僕は「ファンタジー」という言葉が嫌いであるが、この作品にはまさにその言葉がしっくりとくるのである)。

――詩人が人と交わることで人を詩人にし――詩人はまたその新しい詩人によって新しい詩の霊感を受ける――詩人であることとは、愛であり友情であり――詩は、総ての人の心である――といったような青くさいけれど、僕がずっと若い時から抱いていたのに似た思いが――いぶし銀のノワレのエンディングの――たった一人島の海岸に佇む、その眼の演技で、十全に伝わって来るのだ――
*(やや残念なのは、実際のノワレの登場時点ですぐに気づいてしまうのだが、ノワレは母語であるフランス語で台詞を喋っており、それがイタリア語に吹き返られているようだ)。

――本作の一番のクライマックスは――しかし――ネルーダが去った後の島でのマリオの変化にある――――しかしここは伏せておこう――

僕はその一連の美しいシークエンスで――微笑みながら――久し振りに、本当に久し振りに(映画を見ていないのだから当然のこんこんちきなのだが)「その場面の」映像に涙した――

いや、全体を通して何より必見なのは――ちょっとした台詞回しやさりげない手の動きに至るまで、全く希有の、島の素朴な青年が素のまま現れた自然体の演技をする――マリオ役のマッシモ・トロイージの奇蹟のような素晴らしさである!

マリオとベアトリーチェ――

*(彼女の名前が絶妙な伏線で、作品中、この名が文学・歴史好きには応えられない面白さを発揮する。また、演じるマリア・グラツィア・クチノッタの野性的な美しさには完全にノック・アウトされた。思わずネットで彼女の画像を検索してしまったことを告白する)
その二人の恋に老ネルーダが絡む――このシークエンスが最初のクライマックスだ。

本作は間違いなく極めて日本人好みする作品である。言うなら、「北の国から」であり、山田洋次であり(イタリア版寅さんCMが違和感がないのでもお分かりの通り)、「島」絡みで、正しく「ドクター・コトー」に通底すると言ってよい。

――則ち、分かり易いことなんだが――

――絶対的な悪人が誰一人として登場しない――

映画なんである。島の右派の顔役はさりげなくマリオとベアトリーチェの結婚を祝っている。しかし、本作は尚且つ、あり得ないファンタジーや「作り事」では、決して、ないのだ。――「島んちゅの心」――を知る人には、僕の言う意味が必ずや、分かって戴けるものと、思う。

*(なお、ネット上で本作をその政治的背景から読み解く映画評――エンディングのネルーダの眼に、沢山の左翼活動の中で命を落とした無名者に対する「革命の詩人」としての安泰の自己存在の「引け目」を読み取るという載道史観的読み――を見かけたが、僕は全くそういう感じ方をしなかったことを一言しておく。ここでは思想への情熱というコンセプトは、人の、詩や恋への情熱の、外的な表象の一つに過ぎないものとして、ある。最後の政治的な外的事実としての悲劇は、確かに哀しく涙を誘う。しかし、そこには決してプロパガンダは、ない。しかもその悲劇は本作の総体の感動に対して一抹の翳りさえも落としてはいないのである。ここではっきり言っておく。実在したネルーダから、この稀有に美しい本作を解析しようとする批評は、悉く失敗する、と僕は思うのである。)

……さて、今一つ、僕は不思議なことに気づいたのだ……僕は本作が何故、その頃の僕の印象や記憶に残っていないのかが、不思議でならなかったのである……

実際には調べると単館上映ながら大ヒットした、とある。単館上映か……しかし、「大ヒット」したのなら、既に映画に興味を失いつつあった僕の記憶にででも、題名ぐらいは残るはずだ……事実、本作はアカデミー賞5部門にノミネートされ(僕はオスカーを軽蔑しているが)、オリジナル作曲賞(ドラマ部門)を受賞し、1996年度キネマ旬報外国映画ベストテン第1位(キネ旬は白井義夫が編集長だった頃が花であった)、英国アカデミー賞外国語映画賞(これは「誉」。イギリス映画はとってもいいものが多い。「兵士トーマス」「長距離走者の孤独」……)及び権威なき1997年日本アカデミー外国作品賞受賞(ここに書くのもおぞましい)も貰ってはいるのだが……。

……何故だろう……何故、僕はこの素晴らしい映画を今日まで知らなかったのだろう……午後、頭をやってもらいながら、その疑問をクラちゃんにぶつけてみた。

*(調べてみると本作の本邦公開は1996年5月であった。これがヒントである。)

クラちゃんは目から鱗の、その謎解きをしてくれた。――

……前年の1995年1月17日に阪神淡路大震災、同年3月20日に地下鉄サリン事件が起きてるの……この二つの強烈な出来事が私たちの印象の中から、心和ませるものを吹き飛ばしてしまったの……だからね、私たちのその頃の記憶からは、映画だの何だという感動が……どこか欠落してしまっているのよ……。

……なるほど……そうだ……そうだったんだ……さすれば……さすればこそ、2011年3月11日を起点として東日本大震災と福島原発の致命的なカタストロフによって……将来、この2011年から2012年にかけての僕等の記憶というものも……そうなる、ことになるな……そうなる気が、確かにするよ、クラちゃん……僕は2011年のあの直後の、3月19日に母を亡くしてもいるからね……
閑話休題(いや、僕は以上の感懐を閑話とは、実に思ってはいない)。

――最後に述べておかねばならないことがある。

本作はイタリア・フランス・ベルギーの三ヶ国の製作になるイタリア映画で、監督はマイケル・ラドフォードであるが、主演のマッシモ・トロイージは脚本にも参加しており、彼はこの作品を撮りたくて撮りたくてたまらなかったのだという(クラちゃん言。彼は映画監督でもあった。)。

――この映画の最後には、何故か、このマッシモへの献辞がある――

――ウィキの「マッシモ・トロイージ」には、最後に、こう書かれている……彼はもともと心臓が悪く、「イル・ポスティーノ」制作時には即刻手術が必要な状態であったが、撮影を優先した……この映画の撮影終了から12時間後のこと……マッシモは……41歳の若さで亡くなった……と……

未見の方には安心して勧められる作品である。

最後に映し出されるネルーダの詩を掲げておこう――

私を探して詩が訪れた
冬か 河か
どこから来たか いつ来たのか分からない
声でも言葉でも静寂でもなかったが
私が呼ばれた道から
夜の四方に伸びた枝から
不意に
人から 火の中から
また ひとりになる時
顔のない私に それは触れた

 

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(3)

前回分でもその傾向があったが、この回では僕はかなり激しく筆者宇野浩二の解釈に反論批判をした注釈を附している。宇野がお好きな方には、不快の感を与えるかも知れない。しかし、僕としてはどうしても言わずには措けない部類のものなのである。僕のテクスト注は僕の孤独な感性に従った、僕が頸を傾げる対象への飽くなきオリジナル・テクスト注であり、公教育的若しくはアカデミズム的に減菌滅菌魂魄摘出処理されたあってもなくても同じのテクスト注とは訳が違うのだ。それを御承知の上、お読み頂きたい。

   *   *   *

 芥川が、新規蒔き直しのつもりで、先ず保吉物をつぎつぎに書き、『大導寺信輔の半生』と書いて行って、自ら失敗と感じ、小説の道に行き暮れた思いをした後〔あと〕で、やっとたどりついたのが『海のほとり』[大正十四年八月]である。しかし、『海のほとり』は、十年ほど前に、久米と房州の一の宮の海岸に避暑をした時の思い出を、小説風に書いたもので、ただの小品文であるが、芥川としては珍しく飾り気〔げ〕のない素直な文章で書かれてあって、否味〔いやみ〕がなく、強弁すると、これが、後の、『年末の一日』、『点鬼簿』、『蜃気楼』、その他の、筋のない小説の本〔もと〕になり、芥川がこの種類の小説を書く動磯にもなった。

 ところで、この小品の終りの方で、芥川は、日の暮れに、四人の人にあるきながら話をさせて、海蛇がいるかいないか、という話から、ながらみ[やぶちゃん注:下線部、底本では「ながらみ」に「ヽ」の傍点。以下同じ。][註―螺〔にし〕の一種]取りの話をさせる。ながらみ取りは、沖の方へ泳いで行って、何度も海の底に潜るから、もし澪〔みお〕に流されたら、十中八九は助からない。――というような話から、ながらみ取りの幽霊が出たという噂があったが、……という話が出て、それは幽霊ではなかったが、「幽霊が出るつて言つたのは磯つ臭い山のかげの卵塔場でしたし、おまけにその又ながらみ取りの死骸は蝦だらけになつて上〔あが〕つたもんですから、気味悪がつてゐたことだけは確かなんです、」という話が出る。そうして、結局、それは、海軍の兵曹上〔あが〕りの男が、宵のうちから卵塔場に張りこんでいて、幽霊の正体は、そのながらみ取りと夫婦約束をした、町の達磨茶屋〔だるまぢやや〕の女、とわかり、「唯毎晩十二時前後にながらみ取りの墓の前へ来ちや、ぼんやり立つてゐただけなんです、」というのがオチである。

[やぶちゃん注:「ながらみ」腹足綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科キサゴ亜科サラサキサゴ属ダンベイキサゴUmbonium giganteum。沖縄を除く全国の沿岸砂底に棲息する蝸牛型の巻貝。殼幅は四十センチに達し、キサゴ類では最大種。相模湾では一般的に茹でて食用に供され、関東の市場では「ナガラミ」「ナガラメ」と呼称する。光沢のある綺麗な貝で貝殻は玩具(おはじき)や装飾品とした。和名の「だんべい」とは舟荷専用の大きな川船のことで大きいことを、「きさ」とは表面の木目模様のことを言うか。

「達磨茶屋」は私娼を置いた専ら売春行為が目的の茶屋のこと。語源は、寝ては起きて起きては寝ることのよる。]

 しかし、久米のいう、「変な鬼気」のようなものが晩年の芥川の作品に最初に出たのは、この『海のほとり』の中の、「ながらみ採りの死骸は蝦だらけになつて、……」というところで、この文句には、『鬼気』という程のものは感じられないけれど、何とも云えぬ、不気味〔ぶきみ〕さが漂〔ただよ〕うている、大形〔おおぎょう〕に云えば、何ともいえぬ妖気のようなものが漂うている。そうして、この時分から、この妖気のようなものが、芥川の身に附きまとい、芥川の作品に漂うようになった。しかし、又、この頃〔ころ〕から、芥川の文章が、気味わるいほど、澄んできた、冴えてきた。

 HやNさんに別〔わか〕れた後、僕等は格別急〔いそ〕ぎもせず、冷〔ひえ〕びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音の外に時々澄み渡〔わた〕った蟬の声も僕等の耳へ伝はつて來た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いてゐる蟬だつた。

 これは、『海のほとり』の終りの方の一節であるが、それほど勝〔すぐ〕れた文章ではないけれど、この時分までの芥川の作品の文章とくらべると、かなり違っている。簡潔で、技巧が目立たなくなっている。しかし、蟬の声の聞こえるところなどは、やはり、例の凝りに凝った『技巧』が感じられる。しかし、全体を見れば、素直に書かれているが、結局、『海のほとり』にはまだ幾らか物足りないところもあった。

 ところが、この小品より四月〔つき〕ぐらい後に出た『年末の一日』は『海のほとり』とくらべると、面目一新という観があった。それは、『海のほとり』が十年ほど前の思い出を題材にし、『年末の一日』がその時分の事を書いたためであろうか。それもある。が、そればかりではない。芥川の気もちが、しだいに切迫してきて、自分に即するものを、自分の身についたものを、書きたくなったのである、書くようになったのである。

 しかし、一方、芥川の健康は、しだいに、悪〔わる〕くなるばかりであった。

 その頃の芥川は、やがて滝つ瀬となる急流に、その滝つ瀬にしだいに近づいて行く急流に、船に棹〔さお〕さす人であった。

 こういう状態の中で、『年末の一日』、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『歯車』その他の作品が、つぎつぎに、生〔う〕まれて出たのである。

 さて、『年末の一日』は、八九枚の小品で、書かれてある事は、「年末、ある新聞社の人を案内して夏目先生のお墓まゐりをしたところ、どう道を間違へたか、行けども行けどもお墓のまへに出なかつた。墓掃除の女に訊いたりして、結局は分〔わか〕つたものゝ、その時はもうあぐねつくし、疲れ返つてゐた。そのあとその連れとわかれ、一人とぼとぼした感じに田端まで帰り、墓地裏の、八幡坂まで達したとき、たまたまそこに、その坂を上りなやんでゐる胞衣会社の車をみ出した。自分のその萎えた気もちを救ふため、無理から力を出し、ぐんぐんとその車のあとを押した」というだけの事である。(この荒筋は、久保田万太郎の『年末』という文章の中から、そっくりそのまま、借用したのである。何とうまいものではないか。)

 大体これだけの筋の物で、最後の、胞衣会社の車の後押しをするところだけが異常であるだけで、至って平凡な話である。常識的な云い方をすれば、他の作家がこういう話を書けば、問題にも何〔なに〕もならぬ作品である、もっとも、大ていの作家はこういう話は書かないであろう、という事にもなる。ところが、異常で鋭敏な神経の持ち主になっていた芥川は、こういう有り触れた事を書いて、妙に人の心を打つ小品にした、芥川の心と目が異様に鋭くなり、文章が生き生きしてきたからである、というより、芥川の異常な心が文章に通うようになったからである。(わたくし事を云うと、この小品の終りの方の、「……庚申堂を通り過ぎると、人通〔ひとどほ〕りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきつたまま、爪先〔つまさき〕ばかり見るやうに風立つた路を歩いて行つた、」などというところを読むと、私が、芥川を訪〔たず〕ねる時、その前を通った、庚申堂も、目に浮かび、更に、いくらか猫背であつた芥川が、痩せさらぼうた芥川が、癖で、いくらか俯向き加減に、その頃は場末であった、動坂の裏町を、師走〔しわす〕の夙に吹かれながら、蹌踉〔そうろう〕と、あるいている姿が、おのずから目に浮かんできて、これを書く私の目に涕が浮かんでくるのである。――それはそれとして、この一節などは実にうまい。)

 ところで、この『年末の一日』の中で、目のある批評家も、理解の深い人も、もとより、一般の人が、申し合わせたように、賞讃する、最後の、

 北風は長い坂の上から時々〔ときどき〕まつ直〔すぐ〕に吹き下〔お〕ろして来た。墓地の樹木〔じゆもく〕もその度〔たび〕にさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はかう言ふ薄暗〔うすくら〕がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた。

というところが、私には、やはり、芥川が、見得を切っているように、思われるのである。そうして、見得を切っているとすれば、仮りに、この小品(『年末の一日』)を芝居とすると、この「見得」は九十パアセントぐらいの舞台効果を上〔あ〕げている。

 ところで、ここまで書いて、ふと、この小品を芥川が大正十四年の十二月の初めに書いた事を考えて、私は、ペンをおいた。芥川が、その日常生活に於いて、(は、もとより、)その作品の中でも、しばしば」見えを張ったり、見得を切ったり、する事が、私の頭〔あたま〕にこびりついているので、この『年末の一日』の最後の一節も、さきに引いた『海のほとり』の中の一節も、芥川の見得(あるいは、技巧)ではないか、と、私は、考えたのであるが、この『年末の一日』の最後の一節の中の「まるで僕自身と闘ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた、」という所は、事実は噓であったとしても、これは、その頃の芥川の心境が、おのずから、象徴されたのではないか」――と、ペンをおいた私は、考えなおしたのである。そうして、もしこれが当っているとすれば、北風がときどき吹きおろしてくる長い坂を、痩せ衰えた芥川が、『東京胞衣〔えな〕会社』と書いた箱車の後〔あと〕を押しながら、上〔あ〕がって行くのである、――これは、云う迄もなく、さきに述べたように、芥川の心境の象徴であろう、が、何という痛痛〔いたいた〕しい象徴であろう。

[やぶちゃん注:この、『東京胞衣会社』の箱車が見得を切るための仮構であったか体験的事実であったかという拘りについて、以下の文で宇野は久保田の引用を以って仮構であったと採っている。こうした宇野の悪意ではないがものの、何とも不快な勘繰りや合点に対して、既に私の電子テクスト「年末の一日」の後注で述べものたが、ここでもそれについて注せずにはおれない。諏訪優氏の一九八六年踏青社刊「芥川龍之介の俳句を歩く」の中で、この箱車について興味深い考察をしている。即ち、一般に芥川はこの後押しする箱車に書かれた文字を何度も書いては消しして、考え抜いたに違いなく、そこに芥川らしい、文章に凝る面目があると褒める人が多い。しかし、これは実際に経験したことをありのままに書いたに違いないと私(諏訪氏)は信じるようになっている、として以下のように叙述されているのである(なお、諏訪氏は「芥川龍之介の俳句を歩く」執筆当時、田端に在住していた)。

 《引用開始》

と言うのは、同じ坂を登り下りし、このあたりの、今はないもろもろの路地を知ってたずねたりしているうちに、この八幡坂を登り芥川家の方へ右折して(坂から芥川家までは三、四分)その先を田端駅裏口へ出る崖の上に、東京胞衣会社の処理場(塚)があって、胞衣神社というちいさな社が実際にあったからである。

 胞衣は出産の際に出る廃棄物で(いわゆる水子も含まれていたと想像する)、当時はそんな処理の仕方をしていたようである。

 大正十四年の年末の心象風景を現実の田端のわびしさに重ねて成功したこの小品の決手のひとつ〝東京胞衣会社〟は、期せずして八幡坂上のそこにあったことをわたしは信じて疑わない。

 《引用終了》

とし、以下にその胞衣神社について、東京胞衣会社が経営していた事実などを考証、最後に御自身による踏査によって、『芥川龍之介が胞衣会社の箱車を押した坂は八幡坂ではなく東覚寺坂である。(「年末の一日」のその部分は「庚申堂」を通り過ぎ、「墓地裏の八幡坂の下」で箱車に出会う、から)道筋から言って東覚寺坂である』と記されている。『文学の鬼』宇野が自分の記憶と如何にもロマンティックにダブらせつつ、それでも見得を切るために「異常な」箱車を芥川は「いつものように」仮象として出現させたのだ、と言っている(宇野はこの箱車を押したことは「本当の話」とするが、それは特に以下で引用する佐々木の証言から東京胞衣会社ではなかったという例によって『鬼の首を取った』解釈をしているように思われる)と、この諏訪氏の堅実な冷徹な考証と――私は諏訪氏こそ真に鬼の眼を持った作家である、見鬼である、と言いたい。

更に、最後に一言言わせてもらえば、「年末の一日」は宇野の言う通り、『他の作家がこういう話を書けば、問題にも何もならぬ作品であ』り、作家として安泰に生きて行こうとする『大ていの作家はこういう話は書かない』なんてことは言わずもがなな物言いである。芥川龍之介が自死せずに戦後までずっと生きていたと仮象してみればよい。「年末の一日」は、凡そ芥川龍之介の名作として残るはずが――絶対に、ない――のである。芥川龍之介が自死を覚悟しつつ本作を書き、その自死を確かに貫徹したことによってのみ、本作は名作となったのである。本作は芥川龍之介の自栽へと向かう孤独な死の道程の道標として生きたのである。いや、本来、我々の綴る作物とは、その濃淡は激しいものの、実にそういうものを何処かに内包しているものなのではあるまいか(私はそれこそが正に「文章が生きている」ということなのだと信ずるものである)。少なくとも名作とされるものは、作者の生と裁ち難く有機的に結びついているものである。だから『文学の鬼』宇野にして、こうした凡百自称文士的発言をするのは、残念なことに、読んでいて虫唾さえ走るのである。彼が確かに芥川龍之介の直近にあって彼を深く愛していたればこそ、この場面での論理的な無理解や絶望の意識への感受性の共時性のなさには、私は何とも言えず、哀しい思いが、してくるのである。]

 ところが、芥川の『或阿呆の一生』について、「最後まで美しく扮装しつづけた、」と云い、「逐に本音を吐かず、自分をむき出しにすることなしに終つた、」と述べた、[以上は、吉田精一の『芥川龍之介の芸術と生涯』で知った。――が、私も、この久保田の説に半分以上同感である]、久保田万太郎が、『年末の一日』について、先きに私が引いた、最後の一節を引用して、そのあとに、つぎのように、書いている。

[やぶちゃん注:私は1/3位同感である。]

 そして、この作[つまり、『年末の一日』]は、かうした哀しい結尾[さきに引いた最後の一節]をもつてゐる。

 十枚にもみたないであらう小品だがわたしの好きな作である。好きといふ意味はいつまでも心に残つていとしい作である。大正十四年十二月の作だから、これを書いたあと、間もなく、かれは、「点鬼簿」「玄鶴山房」を経て「河童」、を書いたのである。そして、そのあと、かれは死んだのである。……ことによると、このとき、……すでにこの時それを意識してゐたかれだつたかも知れないのである。でなくつては、「……闘ふやうに一心に箱車を押しつゞける」かれのすがたはあまりに惨〔みじ〕めである。曇つた空の下、ふきすさぶ風の中、どうしたら自分をはッきりつかむことが出来るか、どうしたらかれ自身その存在をたしかにすることが出来るか?……泣かうにももう涙の涸れた瀬戸の、空しい眼をあげてたゞ遠いゆくてをみまもるかれの頰のいかに蝮の如く冷めたかつたことよ……

 しかも、かれは、かれ自身この苦しみを飽くまではッきりさせようとした。飽くまでたゞしく伝へようとした。わたしはこれをその当時「新潮」の編輯をしてゐた佐々木千之君に聞いた。その八幡坂を上りなやんでゐた車、かれの力のかぎりをつくしてそのあとを押した箱車の、その横に広いあと口に東京胞各会社の数文字を書くまで、幾度その一行を書きかへたか知れないのだつた。胞衣会社の箱車をえてはじめてかれはかれ自身納得〔なつとく〕したのである。……わたしはこれを聞いたとき、身うちの冷え切るのを感じた。

[やぶちゃん注:「佐々木千之」(明治三十五(一九〇二)年~平成元(一九八九)年)は作家・出版人。大正一三(一九二四)年『新潮』の記者となり、同郷作家葛西善蔵と親交を持つ。後に小学館に勤務、作家としては「和井内貞行」「間宮林蔵」などの伝記作品を手掛け、昭和十八(一九四三)年には畏友の晩年を綴った「葛西善蔵」を刊行した(青森県近代文学館の記載を参考にした)。]

 これを読んで、魯鈍な私は、いろいろな事を学んだ。まず、芥川が、八幡坂を箱車を押したのは本当の話で、その箱車を何〔なん〕の箱車にしようか、と思って、それを「東京胞衣会社」と極〔き〕めるまでに、それだけに、何度も何度も書き改めたことを知って、重い辛〔つら〕い病気にかかりながら、然程〔さほど〕までの苦労をしたのか、と、私は、感激しながら、詫びる心を兼ねて、芥川に、頭〔あたま〕を下〔さ〕げた。それから、『名匠は名匠を知る』というか、久保田が、芥川の苦心に、深い同情と理解のこもった文章を書いているのを読んで、久保田も、亦、芥川ような苦心をする人にちがいない、と、思って、私は、又、感激したのである。

 しかし、結局、私は、『年末の一日』を、久保田が誉〔ほ〕める程には、買えない。

2012/04/26

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(2)

 芥川は、前にちょっと書いたように、大正十五年(いや、昭和元年)の十二月の月末から昭和二年の一月一日まで、小〔ちい〕さな家出をした。

[やぶちゃん注:これについて、新全集の宮坂覺氏の年譜の昭和元(一九二六)年十二月三十一日の条には、鵠沼で甥偶々葛巻義敏と二人っきりになり、「体の具合が悪くなって」(芥川文「追想 芥川龍之介」に拠る)『鎌倉小町園に静養に出かける。女将の野々口豊子の世話になった。この時、行き詰まりを感じて家出を考えたとも伝えられている』が、所在は明らかにされており(葛巻には知らせていたか)、『田端の自宅から早く帰るよう電話で催促を受け』ている。しかし、『結局、翌年正月の二日まで滞在し』、二日は鵠沼に一度戻ってから、田端に帰っている。因みに、昭和の改元はこれに先立つ六日前の十二月二十五日であった。]

 それで、書翰集[ここで後ればせに断っておくが私の使っているの『芥川龍之介全集』は昭和三年の初版である]を開いて見ると、十二月二十日〔はつか〕過ぎのは、二十五日に、滝井に宛てたのが、(それも葉書が、)一通しかないから、それを次ぎに写そう。

 御手紙拝見。僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。[下略]

 ここで、猶、よく書翰集の十二月のところを調べて見ると、二日から、日をおいて、十三日までのが、鵠沼はかりであるのに、十六日と十九日のだけが田端であり、飛んで、二十五日のが、今うつした滝井に宛てた、鵠沼となっている。そうして、この滝井に宛てたのだけが、「鵠沼イの四号」となっていて、年号が「昭和」となっている。(この「イの四号」は、前に述べた、私が訪ねた家であり、小穴の『二つの絵』の挿し絵に、略図まで書かれて、出ている家である。それから、この家は、田端の家とともに、《いや、田端の家以上に、》芥川の短かい生涯の中〔なか〕で、大事〔だいじ〕な役〔やく〕をつとめた家でもある。それから、大正十五年から昭和二年にかけての一年半程の間は、これ亦、芥川の短かい一生の内〔うち〕で、重大な時期の一つである。)

[やぶちゃん注:宮坂年譜を見ると、十二月十三日に鵠沼(前年の四月から芥川の生活の拠点はここに移っていた)から田端に戻って、同二十二日夜、鵠沼に戻っている。宇野がこれから推理するのは、この原稿を書くために田端に戻るという口実が、『小さな家出』の秘密の決行準備として仕組まれたものだとするのであるが、私はこの時期の書簡と年譜を見ていると、この田端帰還には別の、隠された「準備」(それは『小さな家出』の中に、芥川が一つの選択肢として野々口との心中を考えていたかも知れない可能性と実は密接に繋がっている)が行われたのではなかったかという気がするのである。先に「二十」で見た通り、十二月十三日に芥川は精神科医斎藤茂吉に宛てて鴉片丸二週間分を田端の芥川宛で送ってくれるように依頼しており(十九日に薬到着の礼状を書いている)、また、田端では友人であると同時に主治医でもあった下島勲が十七日、十九日の夜に来訪、何れも夜九時過ぎまで話し込み、しかも二十二日は下島を連れだっての鵠沼帰還であった。実は鵠沼では前年六~七月より藤沢の医師富士山〔ふじたかし〕という医師が彼の主治医であったが、この富士医師は芥川が濫用に近く睡眠薬服用をしていることに批判的であった。それを考え合わせると、この田端帰還は、正に富士医師が処方してくれない睡眠薬やその他の薬物を斎藤や下島から手に入れるため――それは、もしかすると単品では致死に足りない薬物を総量的致死量分まで蒐集するため――であったとは言えないだろうか?]

 さて、前に書いた、芥川が、大正十五年の十二月の十六日と十九日に、田端から、出したのは、十六日のは、「中央公論」の編輯長の、高野敬録に宛てたものであり、十九日のは、佐佐木と斎藤茂書に宛てたものである。そうして、高野に出したのは手紙であり、斎藤と佐佐木宛てのは葉書である。

 この頃は『玄鶴山房』を書きしぶっていた時分であるから、芥川は、高野への手紙のなかにも、(これはずっと前に引いたが、)佐佐木と斎藤に出した葉書の中にも、「二時すぎまでやつてゐたれど、薄バカの如くなりて書けず、」とか、「中央公論はとうとう出来上〔あが〕らなかつた、」とか、「中央公論は前後だけ出来て中間〔ちゆうかん〕出来ず、」とか、殆んど同じような文句を書いている。それから、十二月九日に、やはり、鵠沼から下島 勲に宛てた手紙の中に、「家へは新年は勿論、新年号の一部[これは『玄鶴山房』の大部分ならん]を書く為にもかへるかも知れません。こちらのことは御心配なく。それよりもどうか老人たち[註―義母と伯母とか]のヒステリイをお鎮め下さい。今度は力作[註―『玄鶴山房』ならん]を一つ書くつもりです、」というのがある。

 これらの手紙や葉書を出した月〔つき〕と日〔ひ〕や、これらの手紙や葉書の中の文句などを綜合して、臆測すると、芥川は、『小さな家出』を決行する前に、田端の自分の家に出入りしている下島に、「新年は勿論、新年号の一部を書く為にも……」というような文句を書いた手紙を出して、新年には必ず家に帰るように仄〔ほの〕めかしたり、鵠沼の寓居で監視しながら同居している妻に自分の決心を悟られるのを予防するために、十二月の十六日頃から十九日頃まで、原稿を書くのを口実にして、田端の自分の家に帰ったり、して、その年〔とし〕の十二月の末から翌年の一月一日まで、『小さな家出』をしたのであろう。

 ところで、昭和二年の一月一日まで『小さな家出』をしていた、とすれば、芥川は、一月二日には、田端の家に帰っていた、という事になる。

 ここで、又、書翰集の昭和二年の一月のところを開いて見ると、みな、田端から、となっていて、八日の野間義雄宛ての葉書の中にも、九日の宇野浩二宛ての葉書の中にも、十日の藤沢清造[註―芥川より年上で、不遇作家で、ずっと本郷の根津あたりに住んでいたが、不遇でありながら人に頭をさげない人であった。菊池 寛、久保田万太郎、室生犀星、その他と親しかったように思う。『根津権現裏』という長編を一冊のこし、たしか昭和の中頃、芝公園の中で餓死したが、行路病者と見られた。武田麟太郎はこの長編の愛読者であった。この本の題字は高村光太郎である。]宛ての葉書の中にも、十二日の佐藤春夫と南部修太郎宛ての葉書の中にも、十五日の伊藤貴麿宛ての葉書の中にも、殆んど同じような文句が書いてある。次ぎに、みな、短かいから、写してみよう。

[やぶちゃん注:「藤澤清造」(明治二十二(一八八九)年~昭和七(一九三二)年)は、小説家。出版社などで生活を支えつつ、大正十一(一九二二)年に「根津権現裏」を発表するが、昭和七年一月二十九日早朝に芝公園内六角堂で凍死体となって発見された。本作の『文学界』連載が昭和二十六(一九五一)年九月から翌年十一月、文藝春秋新社からの単行本化が昭和二十八(一九五三)年五月、宇野がこの時点で昭和七年を「昭和の中頃」と呼称しているのが面白い。]

 冠省 拙作をおよみ下されありがたく存じます。なほ又支那語の発音を御注意下され愈〔いよいよ〕ありがたく存じます。[中略]二伸 なほ又親戚にとりこみ有之はがきにて御免蒙り候(野間宛)

[やぶちゃん注:「支那語の……」が何れの作品を指すかは未詳。「野間」は野間義雄なる人物であるが、この人物も未詳。]

 

 冠省、先夜はいろいろありがたう。その後又厄介な事が起り、毎日忙殺されてゐる。はがきで失礼 頓首(宇野宛て)

 

 冠省 御見舞ありがたう。唯今東奔西走中。何しろ家は焼けて主人はゐないと来てゐるから弱る。右御礼まで。(藤沢宛て)

 

 冠省君の所へ装幀[註―随筆集、『梅、馬、鶯』の装幀。わたくし事、私も佐藤に、『恋愛合戦』の装幀をしてもらったことがある]の礼に行かう行かうと思つてゐるが、親戚に不幸出来、どうにもならぬ。唯今東奔西走中だ。右あしからず。録近作一首

  ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ[宇野いう、芥川はよく、ナニナニ流といって、人の歌風をまねたが、これはまったく茂吉流なり](佐藤宛て)              

 

 はがきにて失礼。御見舞ありがたう。又荷が一つ殖えた訣だ。神経衰弱癒〔なほ〕るの時なし。毎日いろいろな俗事に忙殺されてゐる。頓首(南部宛て)

 

 冠省御手紙ありがたく存じます。大騒ぎがはじまつたので、唯今東奔西走中です。神経衰弱なほるの時なし。とりあへず御礼まで。頓首(伊藤宛て)

 

[やぶちゃん注:底本では、それぞれの末にある書簡クレジットの( )注記(表記通り、同ポイントで割注形式ではない)が、書簡文から改行されて、下インデントになっている。ここでは標記のように示し、各書簡の間に行空けを施して読み易くした。因みに老婆心ながら添えておくと、順にそれぞれ「野間義雄」「宇野浩二」「藤沢清造」「佐藤春夫」「南部修太郎」「伊東貴麿」宛てである。]

 先きに「殆んど同じような文句」と書いたのは、これらの葉書の中にあるように、親戚に、「とりこみ」「厄介な事」「不幸」が起こった事と、そのために「東奔西走中」という事と、神経衰弱がなおらない事と、――この三つである。

 この中の、親戚の『とりこみ』とは、芥川の姉の久子[葛巻義敏の母]の夫[義敏の父の死後再婚した人]の西川豊が、自宅が火災に遭ったのを、保険金を取るために放火をした、という嫌疑をかけられ、それを苦にして、鉄道自殺をした、という事件である。西川は弁護士であるが、西川が、嫌疑をかけられたという事で、どういう事情のために、自殺したか、その事情を、私は、まったく知らない、しかし、その西川の死骸を義弟になる芥川が引き取りに行った、といううな事を、誰からとなく、聞いたような気がする。『歯車』は、一つの小説であるから、事実の噓が、あり過ぎる程、書かれてあるかも知れないが、(あるにちがいないが、)『歯車』の中の『レニン・コオト』の終りの方に、「僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れてゐない或田舎に轢死してゐた。しかも季節に縁のないレニン・コオトをひつかけてゐた、」という所がある。

[やぶちゃん注:義兄の弁護士西川豊(明治十八(一八八五)年~昭和二(一九二七)年)の事件を時系列で追っておく。なお、西川豊と新原久子の婚姻は大正五(一九一六)年で、久子は再婚で、先夫で義敏の実父である獣医葛巻義定[龍之介の実父新原敏三の経営する牧場に勤務していたことがある]とは明治四十三(一九一〇)年に離婚している(但し、西川没後の後年に久子と義定とは再び再婚している)。これらは正に直近の昭和二年一月上旬の出来事である(以下は主に鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)のコラム「義弟西川の自殺」(一九二頁)及び当該箇所に写真で載る昭和二年一月八日附『東京朝日新聞』の記事などを元にした。記事は原文通りとした)。

〇一月四日

南佐久間町(現・港区西新橋)の西川豊の自宅が出火する。同日の調査により、時価約七千円の同家屋に対し、火事の前に帝国火災保険株式会社へ三万円(『東京朝日新聞』の記事には『一萬圓』)の保険をかけていたこと、火災現場の検証によって二階押入の二箇所からアルコール瓶が発見されたことの二点が明らかとなり、同日、放火の嫌疑を受けて取り調べを受ける。西川は否認(任意同行であると思われるが、西川が解放されたのは同日か翌日かは不明。火災から現場検証、嫌疑の発生と任意同行と取り調べという一連の出来事が同日内で終わるというのは考えにくいから、翌日の一時解放か)。

〇一月六日

西川豊が、午後六時五〇分頃、房総線土気〔とけ〕駅と大網駅間の千葉県山武〔さんぶ〕郡土気トンネル近くに於いて両国駅発下り列車に飛び込んで自殺。新聞記事によれば、彼は『放火の嫌疑をかけられたのを苦にし』て『六日の未明五時、遂に死を覺悟し、妻女久子の弟に當る文士芥川龍之介にあてた』『「重々御心配をかけて申し譯がないがこの度の出火につき一家の主人たるもの責任を問はれ、官權の壓迫に耐へかねて身の潔白をたてるため死を擇む覺悟をした、妻子の事はくれぐれも賴む」といふ意味の遺書を殘して家出し鐵路の露と消えたもので自殺の現場には遺書三通があつた』(繰り返し記号「〱」は正字に。草体「消江た」は「消えた」に変えた)。

〇一月八日(『東京朝日新聞』記事より)

大見出しは「放火の嫌疑から/弁護士の自殺/身の潔白を立てるため/文士芥川氏の義兄」とあり、西川の履歴、家族構成、前記の引用などの事件の経緯を記す。その後に「涙の夫人」と小見出しして、

右につき妻久子さんは涙ぐんで『四日の出火について最初漏電といふ事になつてゐたのににはかに警察側で放火の疑ひを起され元來小心の夫はそれを苦にして到頭死を決心した譯です、二人の子供がありますがいづれもまだ幼いものですから私等の前途は實にさびしいものですたゞ賴りとする弟があの通り病身で現在でも神經衰弱で病臥してゐる始末ですから、この度の事件を知らせるさへも心苦しい次第です』と語つた

とあり、最後に「驚く芥川氏/自殺とは意外」と小見出しして、

芥川龍之介氏は病氣で臥床中であつたが義兄の死について語る『まだ遺書は見てゐないからよく判らぬが義兄は私とは性格も趣味も非常に異つてゐるので年に一、二度位より逢つてゐません。西川君は実際家なので自殺をするのが寧ろ意外な位です、昨夜急な用事があるからたれか來てくれといつて來ましたから母を送り屆けたのでした母も向ふへ着いてはじめて知つたのでせう全く意外です

とある。「昨夜」は一月六日であろうから、この芥川龍之介の談話は一月七日田端自宅での採録と思われ、記事中の『母』とは同居している養母儔〔トモ〕であろう。尚且つ、芥川龍之介は西川の現場にあったという遺書は勿論、家出の際の書置きも、この記者のインタビューの時点では読んでいないものと考えてよいであろう。この新聞画像記事自体、不学にして今回初めてちゃんと読んだのであるが、恐らく西川の現場に残した遺書の中の一通も芥川龍之介宛と思われ、何より出奔時の書置きが芥川龍之介宛であったことは初めて知った。芥川龍之介の受けた心傷を考えると想像を絶するものがあったろうと、考えを新たにしたし、更に言えば、芥川の姉久子が記者への談話中に、芥川龍之介の神経衰弱から病態にまで言及しているのには正直吃驚しもした(夫の自殺のインタビューに著名人である芥川龍之介のことを慮って語る姉久子の思いを考えると私は、彼女に如何にも傷ましいものを感じるのである)。なお、少なくともこの談話の時点での龍之介は義兄の否認を信じている印象であり、後も龍之介は、西川の放火疑惑は冤罪であったと考えていたのではないか、という可能性を私は抱いている。それは後に書かれる「河童」に、次のような箇所が出現するからである(引用は私の「河童」テクスト)。

 

 「この國では絞罪などは用ひません。稀には電氣を用ひることもあります。しかし大抵は電氣も用ひません。唯その犯罪の名を言つて聞かせるだけです。」

 「それだけで河童は死ぬのですか?」

 「死にますとも。我々河童の神經作用はあなたがたのよりも微妙ですからね。」

 「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使ふのがあります。――」

 社長のゲエルは色硝子の光に顏中紫に染りながら、人懷つこい笑顏をして見せました。

 「わたしはこの間も或社會主義者に『貴樣は盜人だ』と言はれた爲に心臟痲痺を起しかかつたものです。」

 「それは案外多いやうですね。わたしの知つてゐた或辯護士などはやはりその爲に死んでしまつたのですからね。」

 

なお、この見解は私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』でも既に示してある。但し、岩波新全集の人名解説索引によると、西川はそれ以前に『偽証教唆の罪で失権、市ヶ谷刑務所に収監された』ことがある旨の記載があり、彼は当時、この偽証罪の執行猶予中の身であった(芥川龍之介「齒車」の「二 復讐」や芥川龍之介「冬と手紙と」を参照)という弁護士西川豊という人物評価のマイナス要因ともなる事実は、事実としてここに提示しておかねばなるまい。芥川龍之介はこれ以後、三月頃まで、亡き義兄家族の生活問題[久子には先夫との間の葛巻義敏と妹左登子(それぞれ当時、満で十八歳と十七歳)、豊との間に瑠璃子・晃(それぞれ十一歳と九歳)の四人の子がいた]、豊の死後に発覚した残された高利の借金の後始末、疑われた火災保険及び自殺した豊の生命保険の問題等で文字通り、『東奔西走』せざるを得なかったのであった。]

 この義兄の変死と、たしか、その前の年の、義弟[これは芥川の妻の弟]の死と、――この二つの死が、芥川の自殺の幾つかの原因の中の一つである。

[やぶちゃん注:「その前の年の、義弟[これは芥川の妻の弟]の死」は宇野の大きな錯誤。芥川が才能を高く評価していた文の弟塚本八洲の没年は、芥川龍之介自死の遙か後の、昭和十九(一九四四)年である。]

 ところで、『歯車』の中の、やはり、『レエン・コオト』の中に、

……往来の両側に立つてゐるのは大抵大〔たいていおほ〕きいビルデイングだつた。僕はそこを歩いてゐるうちにふと松林を思ひ出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を殖〔ふ〕やし、半ば僕の視野を塞〔ふさ〕いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代り今度は頭痛を感じはじめる、れはいつも同じことだつた。眼科の医者はこの錯覚(?)の為〔ため〕に度々〔たびたび〕僕に節煙を命じた。しかしかう云ふ歯車は僕の煙草に親〔したし〕まない二十〔はたち〕前にも見えないことはなかつた。僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためす為〔ため〕に片手に右の目を塞〔ふさ〕いで見た。左の目は果〔はた〕して何ともなかつた。しかし右の目の瞼〔まぶた〕の真には歯車が幾つもまはつてゐた。僕は右側のビルデイングの次第に消えてしまふのを見ながら、せつせと往来を歩いて行つた。

というところがあるが、右の一節の中に「眼科の医者はこの錯覚(?)の為〔ため〕に……」という、この「錯覚(?)」は、『錯覚』ではなく、『幻覚』である、というのは、『錯覚』とは、英語でいうと、illusion であるから、主観的なものと客観的なものと二種あって、例えば、白衣を幽霊と誤認するようなのが主観的なものであり、正方形の物を長方形の物のように感じるのが客観的のものであるから、共に、その刺戟は外界にある、つまり、何の刺戟もなくて起こる『幻覚』とは全〔まった〕く性質がちがい、そうして、『幻覚』とは、英語でいうと、hallucinationであるから、やはり、知覚ではあるが、感覚器官が、外部から何の刺戟をうけることがないのに、誤って、外界に実物があるように知覚するからである。

 つまり、『歯車』の中の一節である、右に引用した文章の中で、作者の芥川は、「錯覚(?)」と書いているが、これは、『錯覚』ではなく、はっきり、『幻覚』である。『幻覚』とは、幻視、幻聴、幻触、幻味、幻齅、その他の事である。そうして、『幻覚』は精神病者の感じるものである。されば、『歯車』の主人公の「僕」は、神経衰弱にかかっている人であるが、それ以上に、精神病者である、という事になる。

 

 もし、その時分の芥川が、神経衰弱がしだいにひどくなって、精神病者になっていた、とすれば、いや、はっきり精神病者になりつつあった芥川が、死ぬ前の年あたりから、死ぬ年(つまり、昭和二年)の上半季〔かみはんき〕までの間〔あいだ〕に、『海のほとり』、『年末の一日』、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『蜃気楼』、『河童』、『歯車』、『或阿呆の一生』、その他のような作品を書いたのは、天晴〔あっぱれ〕であり、見事であり、壮烈と称したい程である、それは、それらの作品の中には作者が必死の努力をして書いた事がまざまざと分かる物があるからだ。(そうして、その一つの例が『歯車』である。)

[やぶちゃん注:ここで宇野浩二に悪いが、はっきりさせておきたいことがある。私は芥川龍之介を宇野が言うような重篤な精神病者であるとは全く(殆ど全く)思っていない。近年の研究では芥川龍之介を統合失調症と断定する病跡学者がいるが、私はせいぜいノイローゼか強迫神経症のレベルであったと思う。統合失調症の状態で、まさに宇野が讃嘆する通り、あの『天晴であり、見事であり、壮烈と称したい程』の緻密に計算された全く破綻のない名作群を持続的に書き続けることは不可能に近いと思われるからである。まず、ここで宇野が鬼の首を取ったように『幻覚』『幻視』とし、芥川を真正の重い『精神病者』と断定している「歯車」に描かれた視覚異常であるが、これは既に眼科の専門医によって(私は十代の頃、この方の論文を直に読んでいる)、実は単純で問題のない閃輝暗点であることが明らかにされている。この症状は主にストレスによって脳の視覚野の血管が一時的に収縮を起こすことで発生するものとされており、稀な症状でさえないものなのである。さて、しかし――私が寧ろ、ここで言っておきたいことは、宇野浩二が――ワトソンのように即物的証拠から『精神病者』というとんでもない誤った推理をしているという事実への批判――ではない宇野自身が――芥川龍之介を、何が何でも、重篤で致命的な回復可能性のなかった末期的精神病患者に仕立て上げないでは済まない、という、それこそ極めて異常な思い込みや執念の中にいる――ということが問題なのである。そうしてその「異常さ」に宇野自身、全く気付いていないということである。私は宇野が梅毒に因る進行麻痺(麻痺性痴呆)の罹患によって(マラリア療法の副作用による脳変性の可能性を含め)、その予後に、ある種の偏執質(パラノイア)的性格に変容(若しくは「を附加」)するに至ったのではないかと深く疑っているということである。ここまで私と宇野浩二「芥川龍之介」に付き合って来た読者は、既に気づいておられると思うが、宇野の文体はその読点の打ち方の異常な結節性を示しており、自覚的ながらも必要以上に同一内容を偏執的に繰り返し書き、物品や人に限らないあらゆる対象を執念深く分類等級貴賤化する嗜好を示している。私は宇野の限りない芥川への友情を感じながらも、時に、その宇野の眼の底にこそ、慄っとするモノマニアの冷たい輝きを見る気がするのである。他者を「精神異常だ!」と連呼する者は、まず連呼する本人の精神の異常性を疑ってかかる必要がある、ということだけは言っておきたいのである。以下、そうした(私からは)異常と感じられる芥川龍之介精神病者断定叙述が増えるが、ここで述べて終わりとする。]

2012/04/25

ツウタンニタヘズアクタ

芥川龍之介発信の電報見つかる 郡山 福島県内ニュース KFB福島放送

2012年04月20日 09時50分配信

師の夏目漱石の危篤の報に接し、門下生だった芥川龍之介が友人の久米正雄に送った電報が郡山市で新たに見つかった。

少年時代を郡山で過ごした久米の顕彰を続ける郡山市のこおりやま文学の森資料館が、久米の子孫から譲り受けてきた膨大な資料の中にあった。

芥川の当時の心情が分かる貴重な資料として注目を集めそうだ。

電報は大正5年12月9日付。

鎌倉からの発信で、本郷(現東京都文京区)に住んでいた久米宛て。

「ツウタンニタヘズアクタ」とあり「痛嘆に耐へず芥」と読める。

芥川研究を長年続ける庄司達也東京成徳大教授によると、久米が同日朝に鎌倉にいた芥川宛てに「センセイキトク」と電報を打っていることや消印などから、芥川の電報に間違いないという。

電報は28日から開く同資料館の企画展「夏目漱石と久米正雄」で公開する予定。

2012/04/24

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(1)

     二十一

 

『大導寺信輔の半生』で失敗した芥川は、文学の上で、敗北した形〔かたち〕になった。

 芥川が『大導寺信輔の半生』を書いたのは、さきに述べたように、大正十三年の十二月の中頃であった。

 その十二月の十九日に、芥川は、又、中根に宛てて、つぎのような葉書を、出している。

……「羅生門」「傀儡師」なる可く沢山刷〔す〕ることとし、その印税の余分及「煙草と悪魔」印税至急おとどけ下され度候新年号に原稿かゝぬ為貧乏にて弱り居候両方合せ二百円位にならば幸この上なしと存居候何とぞ一両日に御工〔く〕めん下され度候

(余計な事であるが、読む度〔たび〕に、芥川の金談の手紙のうまさには、おどろかされる。)

 ところで、この葉書の文句にあるように、この年の十二月には、芥川は、『大導寺信輔の半生』だけしか、書いていない。ところが、翌年(つまり、大正十四年)の一月には、『早春』と『馬の脚』とを書いている。

 ここで、私が不思議に思うのは、芥川のような作家が、前にも、ずいぶん乱作をした事があったが、この時も、ひどく健康をわるくしながら、まだ乱作(大いそぎで書くという意味も含めて)をしている事である、というのは、『早春』[大正十四年一月作]は、「保吉物」の一つであるが、単なる思いつきの短篇であり、『馬の脚』[大正十四年一月作]も出来そくないの小説であるからだ。

『馬の脚』は、何から思いついたのか、頓死した人間が、生きかえったが、両足とも腿〔もも〕から腐っているので、その代りに馬の脚をつけられる。そこで、その馬の脚の人間が、足だけが馬であるために、いろいろな苦労をし、さまざまの事件をおこすことを、巨細〔こさい〕に書いてある。

 この小説について、吉田精一は、「ゴオゴリの『鼻』の模作にすぎない、」と説いている。それも当っているけれど、芥川は、殊にゴオゴリの愛読者であったが、あの、鱷〔わに〕に呑まれながら、その腹の中で、生きながらえて、いろいろな意見を吐く男と、その一件のためにさまざまな事件が持ち上がる、ドストイェフスキイの『鱷』も読んでいたであろうし、あの、影をなくしたために、いろいろの辛い思いをし、さまざまの思いがけない事に遭遇する人物の事を書いた、シャミッツソオの『影をなくした男』なども、読んでいたにちがいない。

 そこで、臆測をすれば、芥川は、書くのに気が楽な、荒唐無稽な物を書いてみよう、と思い立ち、それに向く舞台を自分が嘗〔かつ〕て遊んだ『支那』に取ったのであろう、支那なら、どんな荒唐無稽な事でも書ける。(『荒唐』とは「漠然としてとりとめのない言説」という程の意味であり、『無稽』とは「よりどころのない言説」という程の意味である。)さて、それから先きは、ゴオゴリか、ドストイェフスキイか、シャミッソオか、その何〔いず〕れもか。ただ、『馬の脚』の初めの方の、「生憎大した男ではない。北京〔ペキン〕の三菱に勤めてゐる三十前後の会社員である、」とか、「同僚や上役の評判は格別善いと言ふほどではない。しかし又悪いと言ふほどでもない、」とか、いう、中流の会社員忍野半三郎〔おしのはんざぶろう〕は、芥川の愛読した、ゴオゴリの『外套』の主人公、アカアキイ・アカアキヰッチである。(そうして、このアカアキイ・アカアキヰッチは、ずっと前に述べたが、『芋粥』の五位である。)それから、『外套』の書き出しと『馬の脚』の書き出しは殆んどそっくりである。それから、やはり、ゴオゴリの「三月二十五日のこと、ペテルブルグではなはだ奇妙な事件が持ち上つた、」という『鼻』の書き出しは、『馬の脚』というような「奇妙な事件」を考え出す本〔もと〕になったかもしれない。

 (こんな事を述べているうちに、私は、これもずっと前に書いた、芥川が私にくれたゴオゴリの半身像は、長い間、芥川の机辺にあったのではないか、というような事を思い出した。わたくし事を云えば、今、そのゴオゴリの半身像は、この文章を書いている机辺にある。)

 大正十三年の十二月に書いた『大導寺信輔の半生』も、大正十四年の一月に書いた、『早春』も、『馬の脚』も、雑誌社(と新聞社)が強要したのか、それとも、芥川が、必要があって、強行したのか、三つとも、無理に無理をして、書いたものであった。そのために、『大導寺信輔の半生』は未完成のものとなり、『早春』も、『馬の脚』も、前に述べたような、作者自身も不満を感じるような、いやな、作品になってしまった。その上、その無理がたたって、持病が一そう悪〔わる〕くなった。――

 大正十四年の二月二十一日に、芥川が、清水昌彦[註―中学の同窓]に宛てた手紙の中に、「僕は、胃を患ひ、腸を患ひ、神経衰弱を患ひ、悪い所だらけで暮らしてゐる、」という文句がある。

 この芥川の手紙は、その清水から来た手紙への、返事である。だから、その芥川の手紙は、「君の手紙を見て驚いた、」という文句から始まっている。その芥川が「驚いた」というのは次ぎのような手紙である。

 これは僕の君に上げる最後の手紙になるだらうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併発してゐる。妻は僕と同じ病気にかかり僕より先に死んでしまつた。あとには今年五〔ことしいつ〕つになる女の子が一人残つてゐる。……まづは生前の御挨拶まで。

[やぶちゃん注:読者諸君は、ここで疑問に思われることであろう。この芥川龍之介宛清水昌彦書簡をどうして宇野浩二は引用できるのか、と。実は、宇野は注記していないが、この引用は実際の清水昌彦書簡からの引用ではないのである。これは実は大正十五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載された「追憶」(後に『侏儒の言葉』にも所収)からの引用なのである。以下、当該章「水泳」を総て引用する(引用元は私の「追憶」テクスト)

 

       水  泳

 

 僕の水泳を習つたのは日本水泳協會だつた。水泳協會に通つたのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通つた筈である。當時は水泳協會も蘆の茂つた中洲から安田の屋敷前へ移つてゐた。僕はそこへ二三人の同級の友達と通つて行つた。淸水昌彦もその一人だつた。

 「僕は誰にもわかるまいと思つて水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびつくりしてしまつた。ウンコは水よりも輕いもんなんだね。」

 かう云ふことを話した淸水も海軍將校になつた後、一昨年(大正十三年)の春に故人になつた。僕はその二、三週間前に轉地先の三島からよこした淸水の手紙を覺えてゐる。

 「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併發してゐる。妻は僕と同じ病氣に罹り僕よりも先に死んでしまつた。あとには今年五つになる女の子が一人殘つてゐる。………まづは生前の御挨拶まで」

 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思ひ、なんとか云ふ發句を書いたりした。今はもう發句は覺えてゐない。併し「喉頭結核でも絶望するには當たらぬ」などと云ふ氣休めを並べたことだけは未だにはつきりと覺えてゐる。

 

「清水昌彦」は、江東小学校時代に回覧雑誌を作ったりした幼馴染で、明治三十九(一九〇六)年に東京都立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の生徒だった芥川龍之介が書いた、近未来の日仏戦争を描く、夢オチ空想科学小説「廿年後之戦争」の中で、好戦の末、轟沈する『帝国一等装甲巡洋艦「石狩」』の最期を報じる「石狩分隊長少佐淸水昌彦氏」として登場している。彼は正に憧れの海軍士官となったが、その後は音信が途絶えていた。なお、宇野がこの後で一部引用し、芥川龍之介がこの「水泳」末尾で述べている書簡は、旧全集書簡番号一二八四の清水昌彦宛書簡(田端発信・大正十四(一九二五)年二月二十一日附)で、先に以下に全文を示しておきたい(岩波版旧全集に拠る。「〱」は正字に直した)。

 

冠省君の手紙を見て驚いたそんな病気になつてゐようとは夢にも知らなかつたのだから。第一君が呼吸器病にならうなどとは誰も想像出来なかつた筈だ。君の手紙は野口眞造へ郵便で造る。僕は胃を患ひ、腸を患ひ、神経衰弱を患ひ、惡い所だらけで暮らしてゐる。生きて面白い世の中とも思はないが、死んで面白い世の中とも思はない。僕も生きられるだけ生きる。君も一日も長く生きろ。實は僕の妻(山本喜譽司の姪だ)の弟も惡くて今度三度目の喀血をしたのでいま見舞に行くやら何やらごたごたしてゐる所だ。其處へ君の手紙が來たので餘計心にこたへた。何か東京に用はないか。もつと早く知らせてくれれば何かと便利だつたかも知れないと思つてゐる。この手紙は夜書いてゐる。明日近著「黄雀風」を送る。禮状、返事等一切心配しないでくれ給へ。

   冴え返る夜半〔ヨハ〕の海べを思ひけり

    二月二十一日夜   龍之介

   昌彦樣

 

素の龍之介の優しさが伝わってくる。清水はしかし、同年四月十日前後に逝去の報が入った。同年四月十三日の府立三中時代の共通の友人西川英二郎宛の書簡(旧全集書簡番号一三〇〇)には「淸水昌彦が死んだ。咽喉結核と腸結核になつて死んだのだ。死ぬ前に細君に傳染してこの方が先へ死んでしまつた。孤兒四歳。」とある。年次や子の年などの些細な部分は問題ではなく、芥川の「追憶」の叙述に粉飾は皆無である。]

 これは、芥川ならずとも、驚くべき手紙である。これを読んだ芥川は、さきに引いた、二月二十一日に清水に宛てた手紙の中に、清水をはげますために、(ついでに、自分自身をもはげますつもりか、)次ぎのような事を、書いている。

 ……生きて面白い世の中とも思はないが、死んで面白い世の中とは思はない。僕も生きられ るだけ生きる。君も二日も長く生きろ。実は僕の妻の弟[註―塚本八洲という名、芥川がたよりにしていた義弟、鵠沼でも傍にいた]も悪くて今度三度目の喀血をしたので、いま見舞に行くやら何やらごたごたしてゐる所だ。其処へ君の手紙が来たので余計心にこたへた。

 これはこたえる筈である。芥川としては、(もっとも、これは私が思うのであるが、)義弟が「三度目の喀血」をし、旧友の妻が肺結核で死に、旧友が結核の病気で死にかかっている、という事になるからである、しかも、その時、自分も三つの病気をしているからである。

 芥川が、その後、前に述べたように、『春の夜』にも、『玄鶴山房』にも、『悠々荘』にも、肺結核の病人を出したのは、こういう事も一つの原因のようなものであろうか。

 ところで、この年〔とし〕(つまり、大正十四年)の四月の中頃から五月の初め頃まで、芥川が、修善寺に滞在したのは、病気の養生のためでもあろうが、憂さ晴らしのためでもあったのではないか。芥川が、修善寺から、方方へ出している手紙には、めずらしく、伸び伸びした文句なども書かれたのがあり、得意の洒落〔しゃれ〕のはいった文章で書かれたのもある。ずっと前に書いた上司小剣を、突然、訪問して、西洋の社会主義者たちの話を持ち出して、烟〔けむ〕に捲いたのも、その時分であろう。

[やぶちゃん注:この時の修善寺滞在は、四月十日から五月三日。上司小剣関連では、宮坂覺氏の新全集年譜のこの湯治期間中の四月十七日の条に、芥川龍之介が編集する『近代日本文芸読本』(全五巻興文社から同年十一月刊行)への作品収録許可を水上滝太郎や上司小剣らに依頼するという記事があり、これは宇野が勘ぐるように龍之介が多分に悪戯っ気から上司に面会を求めたのわけではない、仕事であった(尚且つ、その掲載許諾依頼という性質上、それはある意味、相手をよいしょして和やかなものとしなくてはならなかったに違いない)ことが明らかである。]

 しかし、又、芥川が、小説らしい小説を書かなくなったのも、その時分からである。いや、小説らしい小説どころか、殆んど作品を書かなくなり始めたのも、その頃からである。

 それを稍〔やや〕くわしく云えば、大正十四年には、前に述べた、『早春』と『馬の脚』を除〔のぞ〕くと、『温泉だより』、『桃太郎』、『海のほとり』、『尼提』、『湖南の扇』、などを書いているが、その中で、増〔ま〕しなのは『海のほとり』だけである。しかし、これも、小説というより、小品である。

 しかし、この時分から、芥川は、昔のような筋と文章に凝ったような小説は、肉体的に書けなくなったばかりでなく、興味がなくなった。が、これは、前に述べたように、そういう物を書く素材の種〔たね〕が尽きたからでもあり、やはり、結局、根気がなくなったからである。それから、もう一〔ひと〕つの理由は、(かなり重大な理由は、)いろいろ複雑な家庭の紛糾が次ぎ次ぎに起こり、その上に、親戚に不幸や不慮の災難があった事で、それらがみな芥川の重荷になった事である。

 そうして、芥川が、その頃から、身辺の見聞のような物を、書き出したのは、病苦を押して書くのに、一ばん楽〔らく〕であったからである。それから、芥川は、それらの物を書くのに、一ばん楽な書き方をした。それで、それらの作品には、みな、『僕』という一人称を使っている。そうして、それらの作品が、しぜんに『筋のない小説』という事になったのである。それから、くりかえし云うが、それらの『筋のない小説』は殆んどみな小品である。

 それから、そういう小品さえなかなか書けなかったのは、健康が極度におとろえていたからである。しかも、それらの作品は、長くて、十八九枚であり、短かいのは、七八枚ぐらいであった。(しかし、その頃の芥川をよく知っている私は、それでも、あれだけ、よく書けたものだ、と、しばしば、感心する事がある。)

 そうして、それらの作品の中で、『海のほとり』[大正十四年八月七日]、『年末の一日』[大正十四年十二月八日]、『点鬼簿』[大正十五年九月九日]、『悠々荘』[大正十五年十月二十六日]、『蜃気楼』[昭和二年二月四日]、の五篇がすぐれている。

宇野浩二 芥川龍之介 二十~(4)

 芥川の同時代の大正初年に文壇に出た作家の大部分は、(むろん例外は幾つもあるが、)自分自身を題材にした作品から書きはじめた。それから、明治の末年から出発した自然主義の作家たちの大部分も、やはり、自分自身を題材にした小説から書きはじめた。

  ところが、芥川は、そのような作品を否定した小説に依って名を成し、それでつづけて来たのが、みじかい生涯の終りに近くなってから、自分自身を題材にした小説を書きはじめる事になったのだ。

 大正初年(といっても、正確に云えば、明治の末年から大正七八年まで)に文壇に出た作家(その中には芥川より先きに出た人もあり後〔あと〕から出た人もある)の中で自分自身を題材にした小説を書いた人たちは、大抵、自分が作家にならない前の事を、あるいは、自分の少年時代か青年時代かの事を、題材にした小説を書いて、文壇に登場した。そうして、それらの小説は、構想その他のために、多少は事実でない事もまじっているであろうが、大方は作者自身が経験した事を明け透けに書いたものとされていた。そうして、そういう小説によって文壇に出た勝〔すぐ〕れた作家が何人かいた。(そうして、その中に、芥川の尊敬していた、『大津順吉』の志賀直哉、『おめでたき人』の武者小路実篤、『善心悪心』の里見 弴などがいた。)

 ところが、その出発の初めから、その時分(つまり、大正五年頃から十二年頃)まで、殆んど歴史小説(か、それに近いもの)ばかり書いていた芥川には、大形〔おおぎょう〕に云えば、そのような小説(つまり、謂わゆる私小説)の書き方〔かた〕の勝手さえ殆んどわからなかった。それから、芥川は、もともと、並並〔なみなみ〕ならぬ見え坊であり、非常な気取り屋であったから、自分の事(あるいは経験)を、ありのままに、明〔あ〕け透〔す〕けに、書くなどという事は、大嫌いであった上〔うえ〕に、まったく出来ない事であった。

 しかし、今〔いま〕は、何〔なに〕か書かない訳〔わけ〕にはいかなかった。書くなら、増〔ま〕しなものを、と思った。そうして、芥川が、思案にあまった末に、書いたのが『保吉の手帳から』である。(その前に、芥川は、『おぎん』[大正十一年九月]と『おしの』[大正十二年四月]という二つの切支丹物を書いているが、両方とも、二番煎じの感じがあるだけのものである。)

 ところが、『保吉の手帳から』[大正十二年の五月号の「改造」]は、海軍機関学校につとめていた時分の思い出のようなものであるが、そこにおさめられている五つの話は、小説というより、小品であり、その小品の主人公の保吉は、作者の芥川ではなく、芥川のような人である。そうして、その小品には、保吉のほかに、いろいろな人間が出てくるが、それらの人間には殆んど血が通っているという気がしない。つまり、芥川は、題材が変っても、やはり、いやに文章に骨を折り、小道具のような物をくわしく書き、作り事のような話を一〔ひ〕と捻りも二〔ふ〕た捻りもしている。作者は面白がらせるつもりで書いているのであろうが、読む者には少しも面白くない。思い切って云うと、イヤ味で、キザで、衒学的で、結局、弊に堪えない、という感じがする、一〔ひ〕と口〔くち〕に云えば、相変らず気取っているな、と、私などには、思われるのである。

[やぶちゃん注:「弊に堪えない」とは、その持っている弊害を我慢することが出来ないほど深刻で問題である、という謂いであろう。]

『三つ子〔みつご〕の魂〔たましい〕、百まで』というか、『持った病〔やまい〕』というか、芥川は、先天的か、後天的か、大〔だい〕の見え坊であり気取り屋であったが、『気取り』は、芥川の文学で云うと、出世作となった『鼻』にもあり、『侏儒の言葉』や『西方の人』は、もとより、遺作として発表された、『或阿呆の一生』や、『闇中問答』にまで、ある。

 その気取りは、『鼻』、その他の小説では、役に立ち、成功した、そうして『或阿呆の一生』にも、あるいは、『河童』にも、成功した。――

(つまり、芥川は、死ぬ時までも、気取り通し、見えを張った、という事にもなる。)

さて、芥川は、その気取りのために、『保吉の手帳から』を失敗したのであった。つまり、おなじ「回想」を取り扱っても、さきに述べた作家たちは、「回想」を殆んどありのままに、飾らない文章で、飾りなく、書いたので、その主人公は、もとより、出てくる人間に、血が通〔かよ〕い、しぜん、話が生きたのである。ところが、『保吉の手帳から』は、芥川が、前にも述べたように、これまでの歴史物その他を書く時と同じように、「回想」そのものより、まず、人工の筋を立て、その筋の通〔とお〕りに話をはこび、他の人物は、もとより、主人公の保吉にまで、ポオズを取らせ、人人にはなるべく酒落〔しゃれ〕たことを云わせる、というような書き方をしたので、失敗したのである。

 ところで、芥川は、それからも、猶、つづけて、『お時儀』、『あばばばば』、『寒さ』、『文章』、『少年』、『十円札』、と、「保吉物」を、書きつづけた。そうして、それらの作品の中には、『保吉の手帳から』とくらべると、いくらか自然な物もあったが、結局、大同小異であった。

 ところが、この連作の中で、一〔ひと〕つ、『少年』は、主人公は、やはり、保吉であるが、その保吉の少年時代の話を、わりに飾りのない文章で、要処要処を、述べてあって、ほかの作品と幾らか違うところがある。そうして、その違うところは、この『少年』と『大導寺信輔の半生』(未完)と関聯しているところもあるからである。

 四歳の保吉(つまり、芥川)が、ある日、お鶴という女中につれられて、大溝〔おおどぶ〕[両国橋の東側にあった]の往来をあるいていた時の事である。その人通〔ひとどお〕りの少ない土埃〔つちぼこり〕の乾いた道の上に、ふとい線が、三尺ばかりの幅〔はば〕をおいて、二〔ふ〕た筋〔すじ〕、道の向うへ、走っているのを指さして、突然、お鶴が、保吉に、「坊〔ぼつ〕ちやん、これを御存知ですか、考へて御覧なさい、ずつと向うまで、並んで、つづいてゐるでせう、」と云った。そう云われて、保吉は、何〔なん〕だろう、と、頸〔くび〕をひねった、何だろう、これは、いつか、幻燈で見た、蒙古の大沙漠にも、やはり、つづいているであろうか、とか、そのほか、いろいろと考えた。が、どうしても考えがつかない。それで、保吉は、とうとう癇癪をおこして、「よう、教へておくれよう、ようつてば、」と叫んだ。そこで、散散〔さんざん〕じらしていたお鶴が、やっと、説明した。

「これは車の輪の跡です。」

 これは車の輪の跡です!――保吉は呆気〔あつけ〕にとられたまま、土埃の中に断続した二〔ふた〕すぢの線を見まもつた。同時に大沙漠の空想などは蜃気楼のやうに消滅した。今は唯泥だらけの荷車が一台、寂しい彼の心の中におのづから車輪〔しやりん〕をまはしてゐる。……

 これは『少年』の中の『道の上の秘密』の終りの方の一節である。

それから、芥川は、やはり、『少年』のうちの『死』という小品の中で、四歳の保吉が、父と話をしているうちに、殺された蟻と死んだ蟻とは違う、というような理窟をこねた、という話を述べたあとで、つぎのような事を書いている。

……殺された蟻は死んだ蟻ではない。それにも関らず死んだ蟻である。この位秘密の魅力に富んだ、摑へ所のない問題はない。保吉は死を考へる度〔たび〕に、或日〔あるひ〕回向院の境内に見かけた二匹の犬を思ひ出した。あの犬は入り日の光の中に反対の方角へ顔向けたまま、一匹のやうにぢつとしてゐた。のみならず妙に厳粛だつた。死と云ふものもあの二匹の犬と何か似た所を持つてゐるのかも知れない。……

(ここで、前に書いた事を少し訂正する。それは、前に、『少年』と『大導寺信輔の半生』とが繋〔つなが〕りがあるように書いたとすれは、誤〔あやま〕りである、という事である。もしそう考えたとすれば、『少年』にも、『大導信輔の半生』にも、芥川の「郷愁」であった、少年時代に住んでいた、回向院や大溝などが出てくるからである。)

 さて、ここに引いた文章だけからでも想像できるように、『少年』におさめられでいる六篇の小品は、少年の頃の思い出を書いたものであろうが、書かれているのは、その思い出を本〔もと〕にして、作者が工夫〔くふう〕に工夫をかさねて一〔ひと〕つの筋を作り、それを凝りに凝った文章で書いたものである。そういう点では、『少年』は、作のよしあしは別として、(なかなか旨〔うま〕いものである、誠に芥川の「家の芸」であって、『トロツコ』や『一塊の土』のような借り物ではない。そうして、例の如く気取りや思わせぶりなところはあるが、作品としては、『大導信輔の半生』よりも上〔うえ〕である。

 ところで、さき引いた文章であるが、『死』の中の、犬が、「入り日の光の中に反対の方角へ「顔を向けたまま」などというところは『遣〔や〕ってるな、』と思うが、「死と云ふもの」が「あの二匹の犬と何か似た所」などと云うのは、どんなものであろうか。それから、『道の上の秘密』のなかの「今は唯泥だらけの荷車が一台、……」というところは、うまい、とは思ったが、やはり言葉の巧みさだけだ、と思っていた。ところが、久保田万太郎、久米正雄、小島政二郎、というような文学のわかる人たちが、名作と激賞している、『蜃気楼』の中に、つぎのような一節があるのを思い出して、私は、「これは……」と思いなおした。

……僕等はもうO〔オオ〕君と一しよに砂の深い路を歩〔ある〕いて行つた。路の左は砂原だつた。そこに牛車の轍〔わだち〕が二〔ふた〕すぢ、黒ぐろと斜めに通つてゐた。僕はこの深い轍に何か圧迫に近いものを感じた。逞しい天才の仕事の痕、――そんな気も迫つて来ないのではなかつた。

「まだ僕は健全ぢやないね。ああ云ふ車の痕〔あと〕を見てさへ、妙に参つてしまふんだから。」

 O君は眉をひそめたまま、何とも僕の言葉に答へなかつた。……

 前のは荷車であり、これは牛車である。前のは大正十三年五月の作であり、これは昭和二年二月の作である。

 この文章の中の、砂原は鵠沼であり、O君は小穴隆一である。

 前のは三十年も昔の事を書いたものではあるが、「寂しい彼の心の中におのづから車輪をまはしてゐる、」というのは、その時の実感を書いたものであろう。これは、この『蜃気楼』の話が半分ぐらい本当とすれは、これはこの小品を書いた時分の実感であろう。二年前の小品が荷車であり、これは牛車であるが、車の輪が道の上に残っている事は同じである。すると、『蜃気楼』の二本の線は、(この時分は、例の「筋のない小説」の説を立てていた頃であるが、やはり、)話を面白くするために、わざと入れたのかもしれない、という事にもなる。

 ところが、『蜃気楼』の前篇になっている『海のほとり』に出でくる久米が、(文学、殊に小説に理解のふかい久米が、)「まだ僕は健全ぢやないね。ああ云ふ車の痕を見てさへ、妙に参つてしまふんだから、」という言葉を見ても、作品全体に死相が漲っている、と云うのであるから、この牛車の轍は『蜃気楼』の中でもっとも注目すべき文句である、という事になるのである。

 作品に死相があらわれる、という言葉をつかえば、私は、くりかえし云うが、昭和二年(つまり、死んだ年)の作である、『河童』、その他より、『庭』や『春の夜』や『玄鶴山房』などであり、この『蜃気楼』とか、『海のほとり』とか、『年末の一日』とか、殊に『点鬼簿』とか、いう小品は、強いで云えば、「鬼気せまる型〔かた〕」ではないか。(こういう事については、例によって、後に述べることにして。)

 さて、大正十三年の四月と五月にかけて書いた『少年』と、同じ年の十二月に書いた『大導寺信輔の半生』とは、芥川の文学の何度目かの変り目の作品であり、枚数も、『少年』は四十五六枚であり、『大導寺信輔の半生』は三十五六枚であるから、芥川の作品としては長い方である。そうして、両方とも、自伝的な作品である。(もっとも、自伝的、と云っても、現在とは縁の遠い、機関学校時代の事や、もっと遡〔さかのぼ〕って、少年時代⦅というより、幼年時代⦆の事や、幼少年時代から大学時代までの事や、の思い出を本〔もと〕にして、それを一〔ひと〕つ一つの話にした小品であるから、半自伝的、とでも云うのであろうか。そうして、その一が「保吉物」であり、その二が『少年』であり、その三が、『大導寺信輔の半生』である。)

『保吉の手帳から』を書いたのは大正十二年五月であるが、『少年』を書きあげたのは、その翌年(つまり、大正十三年)の五月であり、『大導寺信輔の半生』を書いたのは、その年の十二月である。

 そうして、この『少年』と『大導寺信輔の半生』を書いた頃は、芥川の、作家としても、人間としても、もっとも苦〔くる〕しかった時代の一つであった。

……旅行中お金をつかひ果〔はた〕し、貧乏して居り候間今日午前、蒲原春夫君にたのみ、お店へお金百五十円ばかり拝借にやりし次第、もし午前中に同君にお金を渡されざる節は御光来の折御持参下され度、……

 これは、大正十三年五月二十八日に、芥川から、新潮社の支配人、中根駒十郎に宛てた手紙の抜萃である。

(中根駒十郎は、大正時代から昭和の初め頃まで、新潮社を創立した社長、佐藤義亮の代理を殆んど一切した。それで、その頃の大抵の作家は、多少とも、中根の世話になった。『駒十郎、役者のやうな、名をつけて、由良〔ゆら〕になつたり、吉良〔きら〕になつたり』という狂歌は、たびたび引いたが、相馬泰三の作である。)

 さて、芥川が、この手紙を書いたのは、『少年』を書いた頃である。

 ところで、芥川は、この手紙を書いてから十日〔とおか〕も立たな、いうちに、又、中根に宛てて、「この間女性改造を書かず、又々欲しきものありても買はれね故お金二百円ばかりどちらか[註―『百艸』か、『黄雀風』か]の印税の中より…」というような手紙を出している。(この手紙は、郵便でなく、使〔つかい〕に託したものである。)

 私が、殊更、このような手紙まで写したのは、(私などはこういう事は有内〔ありうち〕であると思っているが、)大方の人はこのような事を知らないであろう、と思うと共に、この時分いかに芥川が原稿が書けなくなっていたか、という事などを、示〔しめ〕したかったからである。(つまり、「壷を一〔ひと〕つ買つた」とか、「欲しきものありても、」とか、云うのは、もとより、口実なのである。)

[やぶちゃん注:「有内〔ありうち〕」は、世間によくありがちなこと、の意。]

 ざっと、こういう状態の中で、芥川は、『少年』を書いたが、その頃から、芥川の創作力はますます衰えて行った、衰えて行く一方であった。しぜん、『少年』を書きあげた月〔つき〕に書いた『文反古』はつまらぬ作品であり、その次ぎに書いた『十円札』は、「保吉物」の一つであるが、楽屋落ちの話である。どのような楽屋落ちであるか、愛敬〔あいきょう〕に、その中から、ちょいと写してみよう。

……長谷〔はせ〕正雄は酒の代りに電気ブランを飲んでゐる。大友雄吉も妻子と一しよに三畳の二階を借りてゐる。松本法城も――松本法城は結婚以来、少し楽に暮らしてゐるかも知れない。しかしついこの間迄はやはり焼鳥屋へ出入〔しゆつにふ〕してゐた。

 右の一節の中の、長谷正雄は久米正雄であり、大友雄吉は、いわゆる「啓吉物」のうちの幾つかの小説の主人公に「雄吉」という名をつける、菊池 寛であり、松本法城は、『法城を護〔まも〕る人々』の作者、松岡 譲である。

 ところで、これを写して気がついたのは、お粗末な小説であることは別として、芥川がこのような平明な文章を書いている事である。

 さて、このような小説を書いた後〔あと〕で、芥川が、書いたのが、『大導寺信輔の半生』である。

『大導寺信輔の半生』がいくらか好評をうけたのは、芥川のこれまでの小説とくらべると、目先〔さき〕が変っている上に、ずっと気の乗らないような小説を書きつづけていたのが、この小説は、ときどき気息〔いき〕づかいが聞こえるほど、意気ごんでいるところが見えるからである。

[やぶちゃん注:「気息〔いき〕づかい」は、「気息」に「いき」とルビを振る。]

『大導寺信輔の半生』は、文章はきびきびしているし、部分部分(殊に最初の方)にすぐれたところはあるとしても、結局、きびしそうに見えて、作者が、主人公を甘やかし過ぎている、それが、殊に、後半に、目立つ、それから、前からの癖で、風物を書いても、人間を書いても、小細工である、それから、人間が殆んど書けていない、結局、失敗作である。(断っておくが、ここで、『小細工』と云ったのは、『小刀細工』という意味である、『小刀細工』とは、「小刀を用いてする、精微な、繊巧な、細工」という程の意味である。)

 それから、『大導寺信輔の半生』は小説ではない。

 それから、『大導寺信輔の半生』は、附記として、芥川は、「この三四倍つづけるつもりである、」と書いているが、芥川のような作家(これは決して悪〔わる〕い意味ではない)には、たといもっと長生きしたとしても、こういう種類の小説は、永久に未完で、書きつづけられなかった、と、私は、思うのである。

 しかし、私は、『大導寺信輔の半生』は、きらいではない。

……中学は彼には悪夢だつた。けれども悪夢だつたことは必〔かならず〕しも不幸とは限らなかつた。彼はその為〔ため〕に少〔すくな〕くとも孤独に堪へる性情を生じた。さもなければ彼の半生の歩〔あゆ〕みは今日〔こんにち〕よりももつと苦〔くる〕しかつたであらう。彼は彼の夢みてゐたやうに何冊かの本の著者になつた。しかし彼に与へられたものは畢竟落寞〔ひつきやうらくばく〕とした孤独だつた。この孤独に安んじた今日〔こんにち〕、――或〔あるひ〕はこの孤独に安んずるより外〔ほか〕に仕〔し〕かたのないことを知つた今日〔こんにち〕、二十年の昔をふり返つて見れば、彼を苦〔くる〕しめた中学の校舎は寧ろ美しい薔薇色〔ばらいろ〕をした薄明〔うすあか〕りの中〔なか〕に横〔よこた〕はつてゐる。

 これは、『大導寺信輔の半生』の中の、『学校』の終りの方の一節である。

 芥川は、やはり、詩人であった。

 この『落莫とした孤独』の歌をうたってから、たしか、半月後、芥川は、数え年〔どし〕、三十四歳になった。大正十四年である。

宇野浩二 芥川龍之介 二十~(3)

 芥川の著作年表を見ると、昭和二年の一月号には、『悠々荘』、(「サンデー毎日」)、『彼』、(「女性」)、『彼(第二)』、(「新潮」)、『玄鶴山房(一)』、(「中央公論」)、とある。

 昭和二年の一月号の雑誌が出た時分には、私は、前の年の十一月の末に、芥川が、鵠沼の東家で、「新年号の小説を三つ引きうけて、もう半分ぐらい書いた、」と、眉をつりあげて、云った時は、『眉唾物』だ、と思いながらも幾らか期待もしたが、その時分には、そんな事を忘れてしまっていた。しかし、「中央公論」に、『玄鶴山房』の㈠が、雑誌で、二ペイジ半ぐらいしか出ていないのを見て、私は、自分の小説が出来なかった事を棚〔たな〕に上げて、「何だ、例のとおりだ、」と思った。『例のとおり』とは、芥川がよく一つの小説を分載することがあったからであり、『何だ』とは、いくら分載にしても、その出し方の分量があまりに少〔すく〕な過ぎるので、ちょいと軽蔑する気もちになったからである。(しかし、それは、今おもうと、あの時、⦅芥川と鵠沼で逢った時、⦆ 芥川とわかれてから、鎌倉に中学校の同窓の大木という海軍中尉をたずね、大木と横須賀に行って一泊した時、構想を得た『軍港行進曲』という小説を書くための『励〔はげ〕み』になった。)

 ところで、今度〔こんど〕、この年表と全集とを参照して、私は、あの時の芥川の言葉をあまり頭〔あたま〕に置き過ぎた事を、今更ながらに、恥じた、つまり、芥川のよくやる手で、あの時、芥川は、あんな事を云って、わざと、私を、おどろかし、なぶったのである、つまり、私は馬鹿を見たのである。その一〔ひと〕つの例は、あの時、芥川は、無闇〔むやみ〕に、「中央公論」、「中央公論」、と云いつづけ、「僕も、『中央公論』だけには、出すつもりだ、」「君〔きみ〕も、ほかは止〔や〕めても、『中央公論』だけは、……」などと云いながら、「中央公論」は、大事〔だいじ〕を取って、後〔あと〕まわしにして、(この雑誌には『玄鶴山房』を出すつもりで、)「サンデー毎日」に、一〔ひ〕と月〔つき〕ほど前に、みじかい楽な物(『悠々荘』)を書いてしまい、二週間ぐらい前に、これも、楽〔らく〕に書けたらしい『彼』を「新潮」に送ってしまっていたので、のうのうとして、「新年号の雑誌を三つ引きうけて、もう半分ぐらい書いたよ、」(『ヘン、どんなもんだい、』⦅と、これは、心の中で、⦆と、私に、云ったのである。

 しかしこんな憎まれ口のような事を書いてしまったが、これは、私が、その時の「サンデー毎日」を見ていなかった上に、「新潮」に出た『彼』も、うかうかと、読みながしてしまったからである。それを、今度〔こんど〕、『悠々荘』と『彼』を読みなおして、私は、いたく心が寒くなるのを覚えたのである。『悠々荘』は六枚ぐらいであり『彼』は十七八杖である。極度の神経衰弱にかかっていた芥川には、二十日の間〔あいだ〕に二十三四枚ぐらいでも書いたという事は大変な苦労であったにちがいない。

 ベルは木蔦〔きづた〕の葉の中に僅に釦〔ボタン〕をあらはしてゐた。僕はそのベルの釦へ――象牙のベルの釦へ指をやつた。ベルは生憎〔あいにく〕鳴らなかつた。が、万一鳴つたとしたら、――僕は何か無気味になり、二度と押す気にはならなかつた。

 これは『悠々荘』の終りの方の一節であるが、「僕」という主人公より、読む者の方が「何か無気味」な感じがする。猶、この小説の終りに、特に、『鵠沼』と書いてあるが、鵠沼の芥川の住んでいた辺に、このような廃屋があったのであろうか。

[やぶちゃん注:私はかれこれ四十七、八年前、叔父が住んでいた鵠沼をしばしば訪れたが、私の記憶の中に、正にこんな風な廃屋が実際にあったのを覚えている。]

 棕櫚の木はつい硝子窓の外〔そと〕に木末〔こずゑ〕の葉を吹かせてゐた。その葉は文全体も揺〔ゆ〕らぎながら、細〔こま〕かに裂けた葉の先々〔さきざき〕を殆ど神経的に震はせてゐた。

 これは『彼』の中の一節である。

 こういう事を、骨と皮のようになった芥川が、あの鵠沼の小〔ちい〕さい借家の二階で、しじゅう幻覚におびえながら、書いていたのである。

 

 大正十三年の初め頃からますます健康のわるくなっていた芥川は、しだいに創作力もおとろえて来た、得意であった歴史物の種も尽きて来た。

[やぶちゃん注:よく見ると、ここは見開き右側のページの終行ながら、次が実は一行空いているのが分かった(一頁行数を数えて判明)。]

 

 大正十三年の一月に芥川が書いた『一塊の土』は、(これもずっと前に述べたが、私はこの小説を「新潮」で読んだ時、「これは、おかしい、」と頸をひねった、「これは、芥川の小説らしくない、芥川の小説ではない、」と思ったからである、ところが、)非常に評判がよかった、それは、久しぶりで、芥川が、芥川風ではないが、おもしろい小説を書いたからでもあるけれど、すぐれた作品であったからでもある。それで、この小説を、たしか、いつも悪口をいう正宗白鳥もほめ、片岡鉄兵などは、「一塊の土と朽ち果てる運命が恐ろしいはど冷やかに客観され、必然を追つて描写されてゐる、」と述べ、「或る意味で写実の極致であらう」とまで賞讃している。

 それから、もう一〔ひと〕つ、これは、小説でなく、小品であるが、『トロツコ』が、大正十一年の三月号の「大観」に出た時も、私は、「これは、……」と思った。『これは』とは、「これは、芥川の作品らしくない、」という意味である。ところが、この小品も、一般に評判よく、教科書や副教科書などに採用されている。

 私が、『一塊の土』にも、『トロツコ』にも、おなじような軽〔かる〕い疑いをいだいたのは、漠然と、都会人である芥川が、(田舎というものに殆んど何の関心も興味も持っていない芥川が、)こういう題材の物を書くのは凡そ無理だ、と思ったからである、殊に、『一塊の土』のような、一〔ひ〕と昔ほど前の自然主義の作品を思わせるような、小説を、芥川が、書こうと思ったのは、書いたのは、不自然のように思われたからである、そうして、決して皮肉な意味でなく、あの絢爛な文章で波瀾に富んだ『王朝物』や『切支丹物』を書いた作者が、どうして、こんなくすんだ地味〔じみ〕な小説を……と考えたからである。

 ところで、『一塊の土』が好評を博していた頃、誰いうとなく、「あれは芥川が書いたものでは ない、」という噂が立った。しかし、もとより、噂であるから、それは、いつとなく、立ち消〔ぎ〕えになった。

 ところが、その頃から二十六七年後に、――昭和二十六年に、――「改造」[昭和二十六年]に出た、滝井草孝作の『純潔』という小説の中の、つぎにうつす一節を読んで、私は、『一塊の土』、その他 に対する真相のようなものを、知った。

……この時分、芥川さんは他人の材料で書く癖も、二三あつたやうで、大正十年三月に出た田舎風景の『トロッコ』、これは、芥川さんは、私に向いて「力石君から貰ひ受けた五六枚の原稿で、書き改めたのだが、力石君は『トロッコ』を出たのを読んで、ひどく悄気〔しよげ〕てゐた。永久に俺のぢや無〔な〕うなつた、と云つてネ、大事な掌中の玉を奪はれたやうにネ」と、話し、その湯河原から出て某社の校正係と云はれる力石青年は、控へ目なおとなしい人で、その時分、澄江堂連中の一人でした。また、十三年一月に出た百姓女を描いた秀作『一塊の土』も湯河原生れの力石君の協力した材料のやうでした。この青年とは何か格別の間柄があつたのでせう。ふかい親し味があつたからこそその材料を採り上げて製作されたわけで。

[やぶちゃん注:「力石君から貰ひ受けた」既に宇野は「十二」でこの件を仄めかしているが、原案提供者は力石〔ちからいし〕平蔵(明治三十一(一八九八)年~昭和五十(一九七五)年)で芥川龍之介に私淑、芥川の元に出入りしていた文学志望の青年であった。大正十五(一九二六)年の『文藝春秋』に載る小説「父と子と」が唯一の知られる小説である。]

 私などが今更いうまでもなく、この滝井の文章は、芥川の文学についての、実に貴重な文献である。殊に私には大へん為めになった。が、この滝井の文章の最後の「ふかい親し味があつたらこそその材料を採り上げて製作されたわけで」という文句は私には不可解である。

 しかし、又、この滝井の文章を読むと、『トロッコ』の最後の、

 良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に校正の朱筆を握つてゐる。……

 という文句もわかり、ついでに、おなじ良平の出てくる『百合』[大正十一(一九二二)年]の最初の、

 良平は或雑誌社に校正の朱筆を握つてゐる。しかしそれは本意ではない。彼は少しの暇さへあれば、翻訳のマルクスを耽読してゐる。

 という一節も思い出されて、ますます面〔おも〕白い。それは、この良平が滝井の文章の中の「力石君」とすれば、芥川は、この『百合』の素材も、力石君から、貰ったか、「採り上げたか」、どちらかである、という事になるからである、それから、これも前に書いたように、後〔のち〕に、『玄鶴山房』の最後の方で、大学生に「リイプクネヒト」を読ませて、一部の人に問題をおこさせたが、すでに、その時より五年も前に、この『百合』の最初の方で、校正係に、「マルクス」を読せているナ、と思い合わせて、ほほ笑〔え〕ませるからである。

 ところで、さきに引いた滝井の文章の中に、芥川が、力石から、「材料を採り上げて、……」というところがあるが、ここだけ読むと、芥川は何〔なに〕か無法な人のように思われる。しかし、それは、ちがう。

 前にしはしば述べたように、芥川は、(芥川だけに限らないが、特に、)素材がないと、殆んど物の書けない人であった。誇張して云うと、芥川は、素材の選択に成功したために、文壇に出たようなところさえある。そうして、その素材とは、思いうかぶままに、順序不同に、上げると、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『古今著聞集』、『古事談』、『十訓抄』、『古事記』、『平家物語』、それから、『聊斎志異』、それから、切支丹に関する諸文献、それから、ゴオゴリ、ストリンドベルヒ、メリメ、モウパッサン、フランス、シング、ブロウニング、ポオ、その他の小説や戯曲や詩、等、等、等、である。そうして、芥川は、これらの物を素材にして小説をつくる名人であったのである。

[やぶちゃん注:「ブロウニング」イギリスの詩人Robert Browning(ロバート・ブラウニング 一八一二年~一八八九年)のこと。]

 ところが、これも先きに述べたとおり、これらの物から自分にむく素材を取りつくした時分から、芥川は、おもい病気にかかったのである。そうして、病気のために、芥川は、たといよい素材が見つかっても、得意の、構想を工夫〔くふう〕する気力も、文章を練〔ね〕る気もちも、なくなった。

 芥川が、力石の五六枚の原稿を書き改めたり、力石の持っていた材料を「採り上げ」たり、したのは、そういう時分であった。しかし、芥川は、さきに述べたように、世に聞こえた東西古今[この『今』には、鷗外、漱石などがはいっている]の古典や名著から、結構をまなび」自分の気に入った素材を「採り上げ」て、名作と称せられた幾つかの小説を書いてきた。されば、芥川は、いわば無名の校正係の「五六枚の原稿」や『話』を、素材に、「採り上げ」るくらいの事は、何でもない事だ、と思っていたのであろう。しかし、こういう事は、私には、経験のない事であるから、よくわからない。

 大正十一年の二月十六日に、芥川が、佐佐木茂索に宛てた手紙の中に、「今夜一夜〔いちや〕に小説一篇を作つた」という文句があるが、この一夜づくりの小説が『トロツコ』である。しかし、『トロツコ』は、小説でなくて、小品である。しかし、それも、ただ書かれてある、というだけで、妙にぎくしゃくしていて、骨っぽく、何〔なに〕か痩〔や〕せている、というような感じがする。

 骨っぽくて、痩せている、と云えば、この年〔とし〕の一月の「新潮」に出た、評判のよかった、『藪の中』にも、ぎくしゃくした、骨っぽい、感じがある。『藪の中』は、久しぶりで、例の『今昔物語』(巻二十九の第二十九話)から取ったもので、これも、久しぶりで、手法も、技巧も、ずいぶん工風を凝らしているが、極言すると、テエマが露骨に出すぎている。だいたい、芥川の小説は、その初期から、テエマ小説であった、唯、初期から中期へかけての、脂〔あぶら〕の乗った、小説は、独得の、修辞と技巧たっぷりの文章の方が勝っていたので、菊池の小説のように、(これは本人が『テエマ小説』、『テエマ小説』、と云いふらしたからでもあるが、)テエマ小説とは殆んど見えなかった。

[やぶちゃん注:「『今昔物語』(巻二十九の第二十九話)」は巻二十九の第二十三の誤り。それにしても――宇野は『テエマが露骨に出すぎている』とし、「藪の中」を『テエマ小説』と一刀両断にして憚らないんだけど――宇野さんよ、じゃあ、「藪の中」の『露骨』『すぎる』真相と『テエマ』とやらも、ここで一気に語って欲しかった――な――そんなに簡単明快露骨出来というのなら――後人やこの私がこんなに喧々諤々議論するわきゃ、ねえだろが!――]

 ところが、その特徴であった、美辞麗句を使わなくなった、(私は、これは、かなり重〔おも〕い病気が幾つかあったので、しぜんに、しだいに、そういう骨の折れる凝った仕事が出来なくなったのではないか、と思っている、)小説は、冬になって、木が枯れ、葉が落ちると、林の木の正体が見えてくるように、テエマ小説の正体をあらわしたのである。私は、きびしく云うと、それが、大正十一年の一月の雑誌に出た、『将軍』、『藪の中』、『俊寛』、に見られる、と思うのである。

 しかし、芥川は、『トロツコ』を書いてから、これも、久しぶりで、切支丹物の『報恩記』を書いた。これは、『藪の中』が好評であったからか、(それとも別の工夫〔くふう〕が出来なかったためか、)『藪の中』と殆んど同じテエマで、構想も幾らか似ているが、『藪の中』、より一そう物語風〔ふう〕である。(芥川は、テエマ作家であると共に物語作者であった。それが一般の読者にも受ける所以であろう。)ところが、その物語は、芥川の昔ながらの好みの逆説的の面白さはあるけれど、通俗的なところもあって、手法も低調である。それに昔のような張りがない、何〔なに〕か弱弱しい感じさえする。これは切支丹物の下〔くだ〕り坂を示すものであろう。

 その次ぎは『お富の貞操』と『六の宮の姫君』である。

『六の宮の姫君』は、(これも、)例の『今昔物語』(第十九の第五話)に依ったものであるが、この小説は、よしあしは別として、芥川が『今昔物語』から素材を取った最後の作品であり、芥川の小説らしい小説の最後の作品である。この小説は、(谷崎潤一郎も書きそうな物語で、純日本風の女が主人公になっているが、)素材とした『今昔物語』の話を、芥川は、自分の言葉と文章に書き改めただけで、ほとんどそのまま使っている。この時までに、これも先きに述べたように、芥川は、処女作以来、『今昔物語』の話の中から素材を取って、幾つかの小説を書いている。そうして、それらの小説は、唯その素材を『今昔物語』の話の中から取った、というだけで、大てい皆、『芥川の小説』になっている。それで、原作と違った面白味が十分〔じゅうぶん〕に出ている、ところが、この小説(つまり、『六の宮の姫君』)は、本〔もと〕の話(と書き方)が殊にすぐれているからでもあろうが、そうして、本〔もと〕の話の筋を殆んどそのまま使ったためであろうか、芥川のこの小説より『今昔物語』のその話の方がすぐれているところもあるのである、(例えば簡潔に書かれてあるという事だけでも。)そこで、この『六の宮の姫君』は、『今昔物語』の話に仮りに負けたとしても、これは、芥川の芥川らしい小説の最後の『火花』である、と、私は、思うのである。

 それから、この年(つまり、大正十一年)の作品の中で、注臥すべき小説が一〔ひと〕つある。それは『庭』という小説である。題は『庭』である.が、この小説は、年月〔としつき〕と共に変る庭の有〔あ〕り様〔さま〕を述べながら、その庭のある旧家に住んでいる人たちの生活のうつりかわりを、手際〔てぎわ〕よく、書いたものである。この旧家に住む人たちは大〔たい〕てい癈人か廃人である。いうまでもなく、『廃人』とは「心身完〔まった〕からざるところありて、世の用をなさぬ人、世用に堪えぬ人」という程の意味であり、『癈人』とは「創痍又は不治の病〔やまい〕にかかっている人」、という程の意味である。まったく、この小説に出てくる人たちは、殆んどその通〔とお〕りで、隠居の老人、その老妻、跡つぎの癇癖〔かんぺき〕の強い長男、その病身な妻、脳黴毒のために精神病者になっている次男、行方〔ゆくえ〕不明になる三男、その他である。さて、この小説では、まず、隠居の老人が、「或る旱〔ひでり〕の烈〔はげ〕しい夏、脳溢血のため」に、頓死し、次ぎに、長男は、癆症〔ろうしょう〕(今の肺病)にかかり、唯ひとり、「夜伽〔よとぎ〕の妻に守られながら、蚊張〔かや〕の中」で、息をひきとり、長男の妻は、夫と同じ病気で、血を吐いて、死に、次男は、離れで、「誰も気づかないうちに、」死んでしまう。

 この小説は、何年かの話を、何人かの風変りな人間の性格と生活を、殆んど一句一行も無駄なしに、含みのある簡潔な文章で、書かれてある。この小説は、寡聞な私の知るかぎりでは、山本健吉のほかに、ほめた人もないようであり、この小説を問題にした評論家もないようであるが、芥川の中期(あるいは、後期)の作品の中でもっともすぐれた小説の一〔ひと〕つである。こう私は信じるのである。

[やぶちゃん注:「庭」に関しては私も宇野の意見に一二〇%同意する。]

 

 さて、私が、さきに、この作品を「注目すべき小説」である、と述べたのは、この小説は、芥川の、晩年の、『春の夜』、『玄鶴山房』、という一列の作品の一ばん初めの物であるからだ。

 この世の中にあってもなくてもよいような一家、いや、極端にいえは、ない方が増しなような、癈人と廃人が主人公であるような、家族、――それが、つまり、『春の夜』の野田の家であり、『玄鶴山房』の堀越の家であり、この『庭』の中村の家である。中村の家には、肺結核の病人が二人〔ふたり〕と癈人が一人〔ひとり〕と精神病者が一人〔ひとり〕いる。野田の家にも、肺結核の病人が二人いる。堀越の家には、肺結核の病人が一人と癈人が一人いる。(癈人も、肺結核の病人も、前に述べたように、『癈人』であるが、ここでは、便宜のために、二種に分〔わ〕けた。)

 ところで、『庭』では、二人の病人も、精神病者も、死んでいるが、癈人(老妻)は生き長らえている、『春の夜』では、二人の病人は生き長らえている、『玄鶴山房』では、病人は死に、癈人は生きながらえている。――これは、作者の芥川がそのようにしたのである。

 それから、『庭』の老妻は、頭瘡を病〔や〕んでいる。(『頭瘡』とは「頭上に発する一種の瘡〔かさ〕」であり、『瘡』とは「皮膚に発する腫物〔はれもの〕の総称」であり、「黴毒のこと」でもある。)ところが、この老妻の頭瘡は、その「臭気をたよりに、夜更〔よふけ〕には鼠が近寄〔ちかよ〕つて」くるような、堪えがたい臭気を発する。臭気といえば、『玄鶴山房』の初めの方にも、「忽ち妙な臭気を感じた。それは老人には珍しい肺結核の床〔とこ〕に就いてゐる玄鶴の息の匂〔にほひ〕だつた、」という一節がある。――これも、(この常人には考えもつかないような臭気も、)やはり、芥川が、創作したものである。

 『庭』[これは、前に書いたように、大正十一年の作であるが]、『春の夜』、『玄鶴山房』、――この三つの小説は、くりかえし云うが、芥川の晩年の作品の中で、(小説のよしあしは別として、)特殊の位置を占〔し〕めるものである。

 但し、私は、私の好みでは、このような種類の小説は嫌いであるが、そのような事は別にして、この三つの小説の中で、『庭』と『玄鶴山房』とは、一般の小説として見ても、すぐれた作品である。

(余話であるが、『玄鶴山房』が、昭和二年の二月号で完結した時、早速〔さっそく〕それを読んだ私が、芥川があそびに来た時、「あれは、実にうまいと思って、感心したが、ずいぶん気もちの悪〔わる〕い小説だね、僕は、あんな気もちの悪い陰気な小説はきらいだ、」と云うと、芥川は、「うん、」と云っただけで、すぐ、何〔なん〕ともいえぬいやアな顔をした。)

[やぶちゃん注:ここで偏執的で古典的な分類学の好きな宇野が「癈人」と「廃人」を区別しているのは――時代的差別性や宇野の個性という条件を考慮しても、これはやるべきではない言われなき差別に繋がる行為である――極めて不快な印象を与える。人はおうおうにして「嫌い」なものについて語る時、鮮やかに卑俗に差別的になるという事実を、これらは物語っていると言える。]

 この考えは今でも変らないが、私は、芥川の最晩年(つまり、大正十五年の末頃から死ぬまで)の幾つかの作品の中で、極言すれば、小説らしい小説は『玄鶴山房』だけである、と思っている。そうして、もっとも評判のよい『歯車』も、世評のよい『点鬼簿』も、一部の人たちにもっとも認められている、『海のほとり』、『年末の一日』、『蜃気楼』[傍題に『或は「続海のほとり」』とあるが、まったく別の作品である]その他は、すぐれた作品ではあるが、(『歯車』だけは別としても、)小説とは別の物である、と、私は、思っている。これらのことは、例のごとく、後〔のち〕に述べるつもりである。

 ところで、さきに上げた『庭』は、小穴隆一に聞いた話を本にして、芥川が、自分流に、いろいろ工夫〔くふう〕をして、書いたものであろう。

 庭は二年三年と、だんだん荒廃を加〔くは〕へて行つた。池には南京藻〔なんきんも〕が浮〔うか〕び始め、植込みには枯木が交〔まじ〕るやうになつた。その内に隠居の老人は、或旱〔ひでり〕の烈〔はげ〕しい夏、脳溢血の為〔ため〕に頓死した。頓死する四五日前、彼が焼酎を飲んでゐると、他の向うにある洗心事[註―東屋(あずまや)]へ、白い装束をした公卿〔くげ〕が一人、何度も出たりはひつたりしてゐた。少くとも彼には昼日〔ひるひ〕なか、そんな幻〔まぼろし〕が見えたのだつた。翌年は次男が春の末に、養家の金をさらつたなり、酌婦と一しよに駈落〔かけお〕ちをした。その又秋には長男の妻が、月足〔つきた〕らずの子を産〔う〕み落〔おと〕した。

 これは『庭』の中の一節である。これは、『庭』が、どのような事を、どのような文章で、書かれてあるか、という見本のつもりで、うつしたのである。これは、いうまでもなくありふれた言葉であるが、一字一句抜き差しならぬ簡潔な文章である、簡潔すぎる文章である。しかし、そういう事よりも、私は、こういう事を、(このような薄気味のわるい事を、)書いた作者(芥川)の気もちを、考えて、頸〔くび〕をひねるのである。

 この小説(つまり、『庭』)は、これも前に述べたかと思うが、小穴から聞いた話を本〔もと〕にして、作ったものである。もとより、小穴が芥川にどういう話をしたかはわからないが、大体〔だいたい〕この『庭』にあるような話をしたのであろうが、それには、芥川の考えた事や好みが随分はいっているにちがいない。とすれば、右の一節の中の、隠居の老人が、昼日〔ひるひ〕なか、白い装束をした公卿が、庭の池の向うにある東屋に、何度も出たりはいったりしたのを、幻〔まぼろし〕に見た、というのは、(それが小穴の話の中にあったとしても、それをこのように書いたのは、)芥川の創意である。

 例の『芥川龍之介研究』[前にも書いた「新潮」主催の座談会]の中に、「鬼気といふこと」、「死の影のある作」などという題目があるが、(その座談会の記事にははっきり出ていないけれど、)一部の人は、それが、(それに近いものが、)『海のほとり』、『年末の一日』、『点鬼簿』、『蜃気楼』、『歯車』などに、出ている、と云っている。が、それは結果論であって、私は、芥川の晩年の作品に、(その他の作品にも、)「死の影のある作」はあるかも知れないが、「鬼気」のある小説などは殆んどない、と思っている、そうして、それに近いものを、強〔し〕いて(「強いて」である)上げれば、この『庭』と『春の夜』と『玄鶴山房』と、それから、調子の低いものではあるが、『温泉だより』などである。結果論といえは、廣津和郎が、『芥川龍之介研究』の座談会で、「徳田さんが『点鬼簿』を小説ぢやないといつて批評されたことがあつた。それで、僕は、大体小説ぢやないが、しかしあれは死の隣にゐるから、さういふ点から見なければならぬといふやうな事をいつて、徳田さんに対する反駁をあの頃新聞に書いたんですが、あれを読んでゐると死ぬと思つたな、」と述べている。それに対して、川端康成が、「結果論でせうが、後〔あと〕で見るとさういふ気がしますね、」と云っている。さて、その廣津の批評を読んだ芥川が、廣津に宛てて、「けふ或男が報知新聞を持つて来て君の月評を見せてくれた。近来意気が振〔ふる〕はないだけに感謝した。僕自身もあの作品[註―『点鬼簿』]はそんなに悪くないと思つてゐる。[中略]この手紙は簡単だが(又君に手紙を書くのは始めてかと思ふが、)書かずにゐられぬ気で書いたものだ、」[大正十五年十月十七日]と書いている。――私は、ここに見る友情の美しさに、いたく心を打たれた。

 

 

 さて、私が、さきに『庭』を、(過褒と承知しながら、)殊更に取り上げたのは、『庭』が出た翌月に発表された『六の宮の姫君』が一般に過大に評価されたことが気に入らないからでもある、というのは、『六の宮の姫君』は、芥川らしいところが殆んど全〔まった〕くなく、(つまり、創意がなく、)全体が古〔ふる〕めかしく、よくない意味で通俗的であり、筋の運〔はこ〕びは巧みであるが有り触れており、(これは、さきに述べたように、素材にした『今昔物語』の話そのままであり、)殊に、終りの方の、先きに引いた、「何〔なに〕も、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いて参〔まゐ〕りまする、」などというところは、わざと俗な言葉をつかうと、いわゆる『殺し文句』のようなものである。(ついでに云えば、『御所桜堀河夜討〔ごしょざくらほりかわようち〕』の三段目の終りの方で、初めて逢う父の弁慶に殺される侍女信夫〔じじょしのぶ〕が死の真際〔まぎわ〕に、「もう目が見えぬ、耳が聞えぬ、」というところがあるが、両方とも、きびしく云えば『サワリ』である。)

[やぶちゃん注:「サワリ」この場合の用法は、通常の「勘所」「見どころ」の意ではなく、義太夫節で他の節〔ふし〕に触っているという意で用いられる、義太夫節以外の他流の曲節を取り入れること、卑俗な慣用句の流用という批判的な謂いである。]

 このような一節とくらべると、これは、死ぬところではないが、『庭』の中の、

 ……一度掘つた池を埋めたり、松を抜いた跡へ松を植ゑたり、――さう言ふ事も度度〔たびたび〕あつた。

 殊に廉一を怒〔おこ〕らせたのは、池の杭〔くひ〕を造る為に、水際の柳を伐〔き〕つた事だつた。「この柳はこの間〔あひだ〕植ゑたばつかだに。」――廉一は叔父を睨みつけた。「さうだつたかなあ。おれには何だかわからなくなつてしまつた。」――叔父は憂鬱な目をしながら、日盛〔ひざか〕りの池を見つめてゐた。

というところは、次男の頭〔あたま〕が狂〔くる〕っているのを書いたものであるが、これは見事〔みごと〕というほかに言葉がない。

 しかし、この短篇(十五六枚ぐらい)を書いてから、芥川は、『これ』という物を書かなくなった、(書けなくなったのである。)

 芥川は、『庭』を出した二〔ふた〕た月〔つき〕前[大正十一年五月]に、『お富の貞操』を発表した。これは、むかし得意であった「開化物」の一〔ひと〕つで、書きはじめる前に実に周到な用意をした、それだけに、描写は、写実的に、細〔こま〕かすぎるほど細〔こま〕かかったが、未完であった。しかも、枚数はおそらく十二三枚である。私は、これを「改造」の五月号で読んだ時、こんな書き方をして、後〔あと〕はどうするのであろう、と思った。ところが、その続きは、六、七、八、と飛んで、九月号の「改造」に出た。両方あわせて二十七八枚であろうか。芥川は、もとより、短篇作家である、そうして、すぐれた短篇作家であった。しかし、『お富の貞操』は、ほめる評論家はあるけれど、部分部分の描写がうまいというだけで、(それも普通のうまさだ、)決〔けっ〕して勝れた小説とは云えない。

 それから、『お富の貞操』と同じ月に出た『おぎん』も、(ついでに書けば、その翌年の四月号の「中央公論」に出た『おしの』も、)やはり、芥川がむかし得意にした「切支丹物」ではあるが、共に、昔のような魅力はなく、その作者の芥川も、既に、王朝物にも、切支丹物にも、開化物にも、興味がうすれ、魅力が感じられなくなった。それに、そういう小説を書く根気がなくなった。

 芥川が、歴史物(王朝物、切支丹物、その他)を書けなくなった事は、いわゆる芥川の文学とわかれる、という事である。されば、いわゆる「保吉物」を書き出すと共に、芥川の文学はなくなった、と見るべきである。

 しかし、それは、私の(私だけの)見方〔みかた〕であって、芥川は、そういう昔を題材にした小説が書けなくなると、まず、『私小説』の形で、回想の小説を、書きはじめ、それから、身辺小説のような物に、はいって行った。(すると、私の思う芥川の、⦅あるいは、芥川らしい、⦆文学より、その後の身辺小説風の作品を愛読する人が随分できた。)

 さて、芥川は、回想の小説の手はじめに、まず、横須賀の機関学校につとめていた時分の思い出を、順順に、書いて行った。それが謂わゆる「保吉物」である。

2012/04/23

宇野浩二 芥川龍之介 二十~(2)

 大正十五年は芥川が自ら命を絶った前の年〔とし〕である。

 大正十五年は、芥川は、一月の初めから、胃腸をわるくし、痔疾もひどくなり、神経衰弱もはげしくなる一方であった。それで、前にちょっと書いたように、芥川は、一月の中頃から二月の中頃を、湯河原に、湯治に、出かけた。それから、四月から十二月の末項まで、鵠沼で、暮らした。

 この鵠沼にいた頃が芥川のみじかい生涯の中〔なか〕でもっとも陰惨な時代であった。

 大正十五年は、芥川は、殆んど小説らしい小説を、書いていない、不断に堪えがたい病苦に嘖〔さいな〕まれていたからである。それは、平凡な云い方〔かた〕であるが、死んだ方がよほど楽〔らく〕ではないか、と思われる程の、痛ましい病苦である。それは、その時分の芥川の手紙を見れば、およそ想像がつくから、その時分の芥川の書翰を拾い読みしてみよう。

……近頃目のさめかかる時いろいろの友だち皆顔ばかり大きく体〔からだ〕は豆ほどにて鎧を着たるもの大抵は笑ひながら四方八方より両眼の間へ駈け来〔きた〕るに少々悸え居り候。[大正十五年六月十一日斎藤茂吉宛て]

 

……僕はここへ来る匇匇下痢し、二三日立つて又立てつづけに下痢し、[中略]唯今弟[註―これは、芥川夫人の弟、塚本八洲であるから義弟である]についてゐる看護婦について貰らひ、やつとパンや半熟の卵にありついた次第、[中略]一人で茫漠の海景を見ながら横につてゐるのは実に寂しい。[大正十五年六月二十日小穴隆一宛て]

 

……痔の手術をするにはもつと営養がよくならねば駄目のよし。[中略]兎に角唯今はひよろひよろしてゐます。[中略]何しろ僕は七月になると云ふのに足袋をはき足のうらにカラシを貼〔は〕り、脚湯まで使つてゐるのだから。[大正十五年六月三十日小島政二郎宛て]

 

……唯今也寸志鵠沼にて寝冷〔ねびえ〕発熱中〔ちゆう〕、田端にては多加志腹をこはし臥床中丈夫なのは比呂志ばかり僕もこの間催眠薬をのみすぎ夜中に五十分も独〔ひと〕り語〔ごと〕を云ひつづけたよし。[大正十五年九月二日室生犀星宛て]

 

……僕の頭はどうも変だ。朝起きて十分か十五分は当り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が気がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂鬱になつてしまふ。新年号をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやり切れない気がする。ちよつと上京した次手〔ついで〕に精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。[大正十五年十月二十九日佐佐木茂索宛て]

 

……今はどんな苦痛でも神経的苦痛ほど苦〔くる〕しいものは一〔ひと〕つもあるまいと云ふ気もちだ。数日前に伯母が来てヒステリイを起〔おこ〕した時に君に教へられたのはここだと思つて負けずにヒステリイを起したが、やはり結局は鬱屈してしまつた。我等人間は一つの事位では参るものではない。しかし過去無数の事が一時に心の上へのしかかる時は(それが神経衰弱だと云へばそれまでだが)実にやり切れない気のするものだよ。[大正十五年十一月二十八日佐佐木茂索宛て]

 

……オピアムありがたく頂戴仕り候。胃腸は略々〔ほぼ〕と旧に復し候へども神経は中々〔なかなか〕さうは参らず先夜も往来にて死にし母に出合ひ、(実は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候。「無用のもの入るべからず」などと申す標札を見ると未〔いま〕だに行手〔ゆくて〕を塞がれしやうな気のすること少〔すくな〕からず、世にかかる苦しみ有之〔これある〕べきやなど思ひをり候。[大正十五年十一月二十八日斎藤茂吉宛て]

 

[やぶちゃん注:底本では、それぞれの末にある書簡クレジットの注記が、書簡文から改行されて、下インデントになっている(こうした組み方は今までにない)。ここでは標記のように示し、各書簡の間に行空けを施して読み易くした。

「精神鑑定」この用法は誤りである。「精神科で診察」若しくは「斎藤先生に診察」と記すべきである。こうした誤用は現在でもしばしば見られるのでここで注記しておくが、精神科で診断を受けることを「精神鑑定」とは絶対に言わない。「精神鑑定」とは「司法精神鑑定」のことであり、刑法及び刑事訴訟法の規定による「刑事精神鑑定」と、民法及び民事訴訟法の規定による「民事精神鑑定」、更に精神保健福祉法の規定による「精神保健鑑定」の三種のみを「精神鑑定」と呼称する。因みに精神保健鑑定とは措置入院(自傷乃至他害の恐れのある精神障碍を有すると判断される者を強制入院させること)の可否を判定するために実施される精神鑑定を言う。ゆめゆめ芥川のように日常会話には用いられぬように。

「オピアム」“opium”。オピウムで前段で出て来た「鴉片丸」、アヘン製剤のこと。因みに、「アヘン」とはこの“opium”の中文音訳“a piàn”(アーピエン)の漢訳「阿片」を日本語読みしたもの。]

 ざっと、こういう状態であったから、芥川は、この年〔とし〕、(つまり、大正十五年、)『これ』というような小説を書いていない、しかも、それは、たいてい、小説、というより、小品であるりそうして、それらの小品は、幻覚的なものでも、現実的なものでも、殆んど皆、気味のわるいものであり、病人や『死』をとりあつかつた物が多い。必要があるので、大正十五年に芥川が書いた小説(あるいは小品)を、私の目にふれ私が読んだものを、つぎにならべてみる。

  『カルメン』  (四月  十日作)

  『三つのなぜ』 (七月 十五日作)

  『春の夜』   (八月 十二日作)

  『点鬼簿』   (九月  九日作)

  『悠々荘』   (十月二十六日作)

  『彼』     (十一月 三日作)

  『玄鶴山房』  (十二月十五日以後作)

 数は七篇であるが、四百字づめの原稿紙でかぞえると、『カルメン』は六七枚であり、『三つのなぜ』は十枚ぐらいであり、『春の夜』は七八杖であり、『点鬼簿』は十三四枚であり、『悠々荘』は五六枚であり、『彼』は十七八枚であり、『玄鶴山房』の㈠は一枚半ほどであるから、全体で六十二三枚である。

 さて、右の七篇の小説の中では、一般に、(いや、大〔たい〕ていの評論家も、)『点鬼簿』と『玄鶴山房』を重要な物として取り上げるが、(それは尤もであるけれど、)私は、芥川が鵠沼で書いた作品の中で、『春の夜』と『悠々荘』とを見のがしてはならぬ、と思っている。

 ここで、又、ちょいと寄り路〔みち〕をするが、私は、芥川から、何度か、手紙や葉書をもらった覚えがあるが、その中の一つも保存していない。ところが、初版の芥川龍之介全集の第七巻(書翰篇)のなかに、芥川が私にくれたのが四つ出ているが、その中の「昭和二年一月三十日」というのに、つぎのようなのがある。

 ……まつたく寒くてやり切れない。お褒めに預〔あづか〕つて難有〔ありがた〕い。あの話は「春の夜」と一しょに或看護婦に聞いた話だ。まだ姉の家の後始末片づかず。いろいろ多忙の為に弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さん[註―前に書いた「中央公論」の編輯長]がやめたのは気の毒だね。.余は拝眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。

(この手紙に書かれている事は後〔のち〕に述べる事に必要があるので、全部うつしたのである。)

 さて、この手紙の中の「あの話」とは『玄鶴山房』らしいか、これを褒めたとすると、半分ぐらい世辞である。その事は例によって後に書くことにして、私は、こんど、この手紙をよんで、芥川が、『春の夜』も、『玄鶴山房』も、「或る看護婦」から聞いた話を本〔もと〕にして書いた、という事を知って、私は、やはり、得るところがあった。

(この看護婦は、さきに引いた、大正十五年六月二十日に、芥川が、鵠沼から、小穴に出した手紙の中に、「今弟についてゐる看護婦について貰らひ、……」と書いている、あの看護婦であろう。)

 Nさんという看護婦が派出させられた家は、女隠居が一人と、その子の、雪さんという姉と清太郎という弟と、三人きりの家であったが、姉も弟も肺結核でへ弟の方が病気が重い。そうして、その弟は、木賊〔とくさ〕ばかりが繁茂している庭に面した、四畳〔じょう〕半の離れに、寝ていた。さて、ある晩、Nさんは、、氷を買いに行った帰りに、人どおりの少〔すく〕ない坂道で、後〔うしろ〕から、清太郎そっくりの青年に、抱〔だ〕きつかれた。しかし、一昨日〔おととい〕も喀血した清太郎がこんな所に出てくる筈はない、……家〔うち〕に帰ったら、清太郎は死んでいるのではないか、とまで、Nさんは、思った。ところが、帰って、離れに行つて見ると、清太郎は静かにひとり眠っていた。

 これは『春の夜』の大へん粗雑な荒筋であるが、この小説に書かれてある話は、あまりに暗く、不気味であり、書き方が冷たい。作者は、どの人物にも、同情を持っていないばかりでなく、悪意を抱いているようにさえ思われる。これは言い過ぎとしても、作者の気もちが暗い方へ暗い方へと向いているのが、この小説を、大正十五年の九月号の「文藝春秋」で、読んだ時、私は、気になって、『これはいかん、』と思ったものである。

……Nさんはこの家〔うち〕へ行つた時、何〔なに〕か妙に気の滅入〔めい〕るのを感じた。それは一〔ひと〕つには姉も弟も肺結核に罹〔かか〕つてゐた為〔ため〕であらう。けれども又一〔ひと〕つには四畳〔でふ〕半の離れの抱へこんだ、飛び石一つ打つてない庭に木賊〔とくさ〕ばかり茂つてゐた為〔ため〕である。

 この『春の夜』の初めの方の一節を読んだ時、私は、遣〔や〕る方〔かた〕ない気がした。ところが、おなじ小説の終りの方の、

 僕はこの話の終つた時、Nさんの顔を眺めたまま多少悪意のある言葉を出した。

「清太郎?――ですね。あなたはその人が好〔す〕きだつたんでせう?」

「ええ、好きでございました。」

というところを読んで、私は、索然とした、逸〔はぐ〕らかされたような気がした。しかし」又、私の考えでは」芥川は、芥川流の小説の締〔し〕め括〔くく〕りをつけるために、こういう一節を、最後に、つける癖(というより、好みのようなもの)があった。つまり、こういう『オチ』をつけるのが好きなようなところがあり、こういう『オチ』をつけねは気がすまないようなところもあった。

『オチ』といえば、この小説と、巧拙は別として、構想がいくらか似ている、殆んど同じおもむきの『玄鶴山房』にも、話はまったく違うけれど、やはり、妙な、気になる、『オチ』は附いている。つぎのような一節である。

……彼は急に険〔けは〕しい顔をし、いつかさしはじめた日の光の中にもう一度リイプクネヒトを読みはじめた。

 この最後の大学生がリイプクネヒト(K. Liebknecht)の『追憶録』を読むところが、その頃「新潮」の呼び物になっていた『創作合評会』で、(青野季吉のほかにどういう人たちが出ていたか、私には不明、)問題になって、なにもリイプクネヒトでなくても、原敬でも、東郷大将でも、あるいは、「苦楽」[註―大正十二年頃、大阪のプラトン社から出した娯楽雑誌で、主幹は山内 薫であるが、編輯は直木三十五が川口松太郎を助手にしてやった]でも、よいのだ、などという意見が出た。

 この合評の記事を読んで、芥川は、青野季吉に宛てて、次ぎのような手紙を、書いている。

(これは芥川が青野に唯一度だした手紙である。)

……「新潮」の合評会の記事を読み、ちよつとこの手紙を書く気になりました。それは篇中のリイプクネヒトのことです。或人はあのリイプクネヒトは「苦楽」でも善いと言ひました。しかし「苦楽」ではわたしにはいけません。わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外や世界へ触れさせたい気もちを持つてゐました。[中略]なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました。チエホフは御承知の通り。「桜の園」の中に新時代の大学生を点出し、それを二階から転げ落ちることにしてゐます。わたしはチエホフほど新時代にあきらめ切つた笑声を与へることは出来ません。しかし又新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。リイプクネヒトは御承知の通り、あの「追憶録」の中にあるマルクスやエンゲルスと会つた時の記事の中に多少の嘆声を洩らしてゐます。わたしはわたしの大学生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです。わたしの企図は失敗だつたかもしれません。少くとも合評会の諸君には尊台を除〔のぞ〕き、何の暗示も与へなかつたやうです。それは勿論やむを得ません。しかし唯尊台にはこれだけのことを申上げたい気を生じましたから、この手紙を認〔したた〕めることにしました。

 この手紙には芥川の八分〔ぶ〕ぐらいの本音〔ほんね〕が出ている。

 さて、この芥川の手紙を読んで、青野は、手紙の返事は出さないで、『芥川龍之介と新時代』という評論を書いている。つぎに、それを抜き書きする。

……『玄鶴山房』の中にとぢ込められた悲劇の終りに、広い世間、それも動的な社会の風をちよつと迎ひ入れて、そこで悲劇の小説的浮彫〔うきぼり〕を完成させる上にも、また――これが大切な点であるが、――芥川氏に潜んだ要求を適当な形で満足させる上にも、――やはりリイプクネヒトでなくてはいけないのだ。『玄鶴山房』を読んだ時、最初にまづ私に感ぜられたのはこの点であつた。[中略]芥川氏は新時代の存在乃至到来を、何等〔なんら〕かの形で『玄鶴山房』で、暗示しないではをれなかつた。それはまた芥川氏が彼の生活の世界の傍〔そば〕に新時代の世界の存在乃至到来を認めないではをれなかつたことを意味する。[中略]『玄鶴山房』に現れてゐるところでは、新時代の存在乃至到来を静かな眼で眺めでゐると云ふだけである。[中略]彼は、新時代を認めないではをれない。そして、その新時代を静かな眼で眺めてゐるだけの素直さと聡明さと準備を持つてゐる。しかし、彼は彼の言葉をかりて言へば、『新時代と抱き合ふほどの情熱』を持つてゐないし、そんな情熱が彼のやうな生活の歴史を持つた者に持ち得るものではない。[下略]

 この青野の論は、これだけでも略〔ほぼ〕わかるように、私が先きに引いた、『玄鶴山房』の最後の、大学生がリイプクネヒトの『追憶録』を読むところについて、自分の意見を述べたものである。が、これは、嘗て全プロレタリア文壇をひきいた論客であった青野が、自分の考えから付度〔そんたく〕した論文であるから、青野流の見方にかたむいている、それに、芥川に好意を持っているところもあるので、痛い所を突いていながら『贔屓〔ひいき〕の引き倒し』とまでけゆかないが、すこし見当のはずれているところもあるように思われる。それは、その頃の芥川が、「新時代を静かな眼で眺めてゐるだけの素直さと聡明さと準備を持つて」いたか、どうか、私には、それが、疑われるからである。

 それから、芥川の手紙の中の、「その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました、」とか、「わたしはわたしの大学生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです、」とか、云うのは、これ亦〔また〕、本当にそう思ったのであろうか、与れとも、雇いつき』であろうか、と、私は、頸〔くび〕をひねるのである。ここで、ハッキリ云うと、『玄鶴山房』を略〔ほぼ〕かき終ったところで、芥川は、火葬場から帰りの馬車に乗っている大学生に、自分がちょっと愛読した、リイプクネヒトの『追憶録』を、読ましてみる気になったのである。ちょうど、幸い、リイプクネヒトは、哲学や言語学をまなんでいる、社会主義者であり、イギリスに逃れた時、マルクスにも、逢っている、そうだ、リイプクネヒトを使ってやろう、と思ったのであろう。(これはまったくシャレた趣向だ、いかにも芥川らしい気のきいた趣向だ。)

 例の「新潮」が催した『芥川龍之介研究』(座談会)で、上司小剣が、湯河原で、芥川と逢った時のことを回想して、「社会主義の話、無政府主義の話などが出て、ちよつと柄〔がら〕にないやうな気がした、」と述べた後で、「無政府主義なども可なり深いところまで考へてをられたやうで、おどろいた。ところが、後に、年表を見ると、大学の卒業論文が『ウィリアム・モリス研究』とあるので、成程〔なるほど〕と思つた。それなら、例の『ニュウズ・フロム・ノオウェア』(“News from Nowhere”)まで読んで、アナアキズムの理想社会を一〔ひ〕と通〔とほ〕り見られた筈だと思ふ、」と、述べている。

[やぶちゃん注:「『ニュウズ・フロム・ノオウェア』(“News from Nowhere”)」は、モリスが一八九〇年に刊行した社会主義化した未来のロンドンを舞台とする一種のファンタジー小説。「ユートピアだより」と邦訳される。]

 私は、一この記事を読んだ時、妙な興味を感じた。湯河原に滞在していた芥川が、おな土地の宿屋に小剣がとまっている事を聞くと、芥川流の好奇心をおこして、(ほんの少しからかってみたい気もおこって、)未知の小剣を訪問したにちがいない、と思われるからである。学生時代に、モリスなどを読んだ芥川は、英訳のあった、リイプクネヒト、カウツキイ、あるいは、マルクス[これは、明治の末に、堺 枯川がマルクスとその思想を平明に解いたものがあって、私なども読んだことがある]、その他の本を、興味と好奇心とで、読んだにちがいない。これは、おそらく、芥川ばかりでなく、私たちの二十歳の初め頃はいわゆる社会主義思想の澎湃として起こっていた時分であったから、誰も彼も、若気の至りで、それらの本を、生嚙〔なまかじ〕りでも、読んだものである。

[やぶちゃん注:「堺 枯川」は社会主義者思想家堺利彦の号。]

(わたくし事であるが、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』は、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、十八世紀のイギリスの詩人、ウィリアム・モリスが、社会主義の理想郷を書いた、散文の夢物語である。そうして、これは、著者の友人の話となっているが、一人称で語られているので、平明に書かれていて、なかなか面白い。それで、私は、そのころ親友であった、布施延雄〔ふせのぶお〕に、この本を翻訳することをすすめた。すると、布施は、何箇月〔なんかげつ〕分か下宿代がたまっているから、「それをしたら、それが払える、」と云って、さっそく、⦅といって、まる三箇月くらいかかって、⦆その『ニュウズ・フロム・ノオウェア』の翻訳を仕上げた。

[やぶちゃん注:この布施延雄の訳本は「無何有郷だより」という題で、大正十四(一九二五)年十一月十八日至上社より刊行されている。]

 さて、その翻訳を終〔お〕えて、いそいそと私をたずねて来た布施は、いきなり、「こんどの翻訳で一ばん困ったのは、題名だよ、」と云って、つぎのような話をした。

 Nowhere 〔ノオウェア〕は Utopia 〔ユウトピア〕という意味であり、『ユウトピア』は、トマス・モアの小説『ユウトピア』[千五百十六年出版]から出た言葉であり、モアは、この小説で、ユウトピア島を仮想して、自分の理想とする共産主義の制度がこの島で行われていることを書いているのであるから、「僕は、『ノオウェア』を『理想郷』としよう、と思ったのだが、これでは、ありふれているので、叔父の関〔せき〕[関 如来という明治から大正へかけての古い美術評論家であるが、ずっと前から前進座の後援などもしている、音楽家の、関 鑑子の父である]のところへ行って、Nowhere をそのまま直訳して、『どこにも、……ない』理想というか、夢想というか、……まあ、そういう所ですが、何とか、うまい言葉がないでしょうか、と云うと、関は、腕をくんで、ちょっと頸〔くび〕をひねっていたが、やがて、『荘子』の応帝王篇に、「遊無何有之郷以処壙埌之野」というのがある。『無何有〔むかう〕』とは「何物も有ることなし」という意味だが、全体の文句は、「自然のままで、何の作為もない楽地」とか、「無為優游の地」とか、いう意味じゃ。……どうだ、『無何有郷』というのは、と云った。それで、やっと、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』を、『無何有郷だより』としたんだ、どうだ、うまいだろう。」)

[やぶちゃん注:「関 鑑子」(明治三十二(一八九九)年~昭和四十八(一九七三)年)は「せきあきこ」と読む。昭和十九(一九四八)年に結成された左翼系合唱団、中央合唱団の創立者。因みに、私の父はこの合唱団の団員であった。

「遊無何有之郷以処壙埌之野」底本では「無何有の郷に遊びて以て壙埌の野に処す」と訓ずるための返り点(一二点)が配されている。以上の訓読は「無何有〔むかう〕の郷〔さと〕に遊びて、以て壙埌〔こうろう〕の野〔や〕に処〔お〕る」と訓ずる。以下に「荘子」の「応帝王篇」の三章総てを示す。

天根游於殷陽、至蓼水之上、適遭無名人而問焉、曰、「請問爲天下。」。無名人曰、「去。汝鄙人也、何問之不豫也。予方將與造物者爲人、厭則又乘夫莽眇之鳥、以出六極之外、而游無何有之、以處壙埌之野。汝又何暇以治天下感予之心爲。」又複問、無名人曰。「汝游心於淡、合氣於漠、物自然而無容私焉、而天下治矣。」。

〇やぶちゃんの書き下し文

 天根、殷陽に遊び、蓼水〔れうすい〕の上〔ほと〕りに至りて、適々〔たまたま〕無名人に遭ひて焉〔こ〕れに問ひて曰く、「請ひ問ふ、天下を爲〔をさ〕むることを。」と。無名人曰く、「去れ、汝、鄙〔いや〕しき人よ。何ぞ問ふことの不豫〔ふよ〕なる。予〔われ〕、方-將〔まさ〕に造物者と人〔にん〕と爲〔な〕らんとす。厭〔あ〕かば則ち又、夫〔か〕の莽眇〔まうべう〕の鳥に乘りて、以て六極の外へ出で、而して無何有〔むかゆう〕の游び、以て壙埌〔くわうらう〕の野に處〔を〕る。汝、又、何の暇〔いとま〕ありてか天下を治むることを以て、予の心を感〔うご〕かさんと爲〔す〕るや。」と。又、複〔かさ〕ねて問ふ。無名人曰く、「汝、心を淡に游ばせ、氣を漠に合はせ、物の自然に順はせて私〔わたくし〕を容るること無くんば、而〔すなは〕ち天下、治まる。」と。

〇やぶちゃん現代語訳

 天根なる者、殷陽の地に遊び、蓼水〔りょうすい〕のほとりへと至った時、無名人と出逢った。天根は、すかさず彼に問いかけた、

「どうか、天下を治める術〔すべ〕をお教え下されい!」

と。無名人は答えて言った、

「去れ! 汚らわしき俗人よ。不快な問をしよって! 儂は今、造物主を友として遊んでおる。それに飽いたら、あの莽眇〔もうびょう〕の鳥――遙かなる鳥と名指す鳥――の背に乗り、この天地の外へと飛び出し、そうしてその無可有〔むかゆう〕の地――何処でもないところと名指す地――に遊び、壙埌〔こうろう〕の野――果てしなく広がる曠野〔あらの〕と名指す野――におろうと思うておるに。なのに、お前はまた、何に言うにことかいて、天下を治めるなんどという下らぬことで、この儂の静かな心を乱そうとするか!」

と。しかし尚も天根は最初の問いを繰り返した。されば、無名人は答えた、

「一切を捨てて心を恬淡無欲無知無心の境地に遊ばせ、生命の気を空漠虚空静寂無限に共時させ、万物流転無為自然の理に従って一切の己れを差し挟むことが無とならば――自ずと天下は治まる――。」

と。

「無為優游」「優游」はゆったりしていること、伸び伸びとしてこせつかないことの意。一切の人為を排して悠然と遊ぶこと。]

(『無何有』といえば、『万葉集』にも、「心をし無何有のさとに置きたらば藐姑射〔はこや〕の山を見まく近けむ」というのがある。これを見れば、万葉集の時代に、すでに、『無何有のさと』――つまり、『無何有郷』――という言葉があったのである。)

[やぶちゃん注:この歌は「万葉集」巻十六に詠み人知らずで載る三八五一番歌で、一般には、

 心をし無何有〔むかう〕の郷〔さと〕に置きてあらば藐姑射〔はこや〕の山を見まく近けむ

の表記。その意は、

 この心を、正しく何の作為もない無何有の境地においておくことが出来たなら――仙人の住むという姑射山〔こやさん〕とてもすぐにでも見られることであろう――

といった感じか。「藐姑射の山」はやはり「荘子」の「逍遙遊篇」の三章に現れる仙山。但し、これは本来は「藐〔とほ〕き姑射の山」の謂いであるから、訳では「姑射山」とした。]

 つまり、私のような者でも、一方では、ボオドレエル、ヴェルレエヌ、ランボオ、その他のいわゆる頽廃派の詩人たちの詩を読みながら、他方では、いま述べたように、ウィリアム・モリスの小説(さきに書いた、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』のほかに、これも、社会主義の宣伝のために書いたような『ジョン・ボオルの夢』という小説など)や、クロボトキンの、『ロシア文学の理想と現実』[これは伊東整の名訳がある]は、もとより『一革命家の思い出』、その他や、芥川が読んだと云うリイプクネヒトの、『追憶録』と、『新世界への洞察』や、それに類する本を、無方針に、手当り次第に、読んだ。まったく『手当〔てあた〕り次第』であって、凡そ『好学心』などというものではなかった。

[やぶちゃん注:「ジョン・ボオルの夢」“A Dream of John Ball”(ジョン・ボールの夢)は、モリスがワット・タイラーの乱を題材にした一八八八年刊行の小説。]

 つまり、私のような語学のできない者でもそうであるから、語学の方でも秀才であった芥川は、おなじ『手当り次第』でも、このはかに、レエニン、トロツキイ、カウツキイ、その他のものをも読んでいたにちがいないのである。私が、或る時、このような話が出た時、「君〔きみ〕、カウツキイの『トマス・モオアと彼のユウトピア』はおもしろいね、」と云うと、芥川は、言下に、「カウツキイが息子と共著で出した、マルクスの『資本論』の英訳があるが、ごれは、通俗に書いてあるから、僕らにもわかりいいよ、」と云いはなった。(余話であるが、私は、その時分よりずっと後に、いま名を上げた人の中では、レエニンの『トルストイ論』とトロツキイの『文学と革命』を読んで、拾い物をしたような喜びを感じた。)

[やぶちゃん注:「カウツキイの『トマス・モオアと彼のユウトピア』」マルクス主義の政治理論家カウツキーの“Thomas More and his Utopia”は一八八八年の刊行。]

 私は、今、ふと、思い浮かべた、芥川が読んだと云う、ウィリアム・モリスの『ニュウズ・フロム・ノオウェア』も、『ジョン・ボオルの夢』も、両方とも、社会主義の宣伝のために書かれたものであるが、形式は美しい物語であり、殊に『ジョン・ボウルの夢』などは、ところどころ、詩がはさまれている、これは、もとより、モリスが根が詩人であるからであろうが、私などは、まず、モリスの『詩』に心を引かれたのであろう、と。

 ところで、卒業論文に、『ウィリアム・モリス研究』を書いた芥川は、(芥川も、)「詩人としてのモリスからやり出し、それから、社会改良家としてのモリスに及び、全体のモリスの研究をやるつもりだったが、だんだん時間がなくなってしまって、……」と久米が述べているから、芥川の『ウィリアム・モリス研究』はおそらく詩人としてのモリスだけを論じたものであろう。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の卒業論文『ウィリアム・モリス研究』は、関東大震災で焼失し、残念ながら我々はそれを読むことが出来ない。]

 ところで、芥川が、もっとも興味を持ったらしいモリスは、すぐれた詩人であり、たくみな美術工芸家であり、ラファエル前派の代表的な芸術家の一人であり、『玄鶴山房』の終りに使ったリイプクネヒトは、社会主義者であり、ジャアナリストであり、その著書を読んだカウツキイは社会主義者であり、トロツキイは、革命運動家であり、時事評論家であり、文芸批評家であるが、この人たちは、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、一種の浪曼主義者のようなものである。

 さきに述べた「新潮」主催の座談会『芥川龍之介研究』で、上司小剣が、芥川を「モリスとどこか似てゐやしないかといふやうな気がする、」と云ったり、「モリスはアナアキズムの詩人だから、」と云ったり、しているのは、上司〔かみつかさ〕流(あるいは、上司好〔ごの〕み)の見方〔みかた〕であるJそれは、上司が、若い時分にアナアキズムに興味をひかれた事があり、いくらかアナアキスティックな思想を含んだ作品を書いたことがあるからであろう。しかし、上司は、そういう思想に興味を持った事はあっても、決してそういう思想に深入りできない性質を持っていた。(それは、上司と殆んど同時代の、白柳秀湖に似ている。)

[やぶちゃん注:「白柳秀湖」上巻の「八」で既出であるが、ここで注しておくと、白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ 明治十七(一八八四)年~昭和二十五(一九五〇)年)は小説家・社会評論家・歴史家。早稲田大学哲学科在学中から堺利彦の影響を受け、社会主義活動を支援、明治四十(一九〇七)年に隆文館編集記者となり、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。明治四十三(一九一〇)年の大逆事件以後は社会主義思想や文学活動から離れ、社会評論や歴史研究に従事した(以上はウィキの「白柳秀湖」に拠った)。]

 さて、湯河原の或る宿屋に、芥川が、二十〔はたち〕ぐらい年〔とし〕のちがう、作風も性質もちがう、未知の、上司小剣を、たずねたのは、例の、好奇心がはたらいたのか、からかうつもりであつたのか。仮りに芥川を一〔ひ〕と筋縄で行かない人物とすれは、上司も一と筋縄ぐらいでは行かない人物である。上司は、日本の社会運動家の元祖の一人である、堺 枯川につれられて、上京し、すぐ読売新聞社にはいり、その間に『平民新聞』などに寄稿しながら、作家生活をするまでに、二十三四年も、おなじ新聞社につとめていた人である、上司は、芥川より十年も前に可なり評判になった処女作(『神主』)を発表しながら、芥川が作家生活をはじめた一年後に作家生活にはいった。芥川を仮りに浪曼主義者であり詩人であったとすれば、上司はまったくその反対の人であった。芥川が、初めからしまいまで、駈〔か〕け足で、花やかな作家生活をしたとすると、上司は、はじめからしまいまで、牛の歩〔あゆ〕みのごとく、のろのろと、地味な作家生活をつづけた。

 こういう芥川が、突然、湯河原の或る宿屋に、こういう上司を、たずねて、社会主義の話や無政府主義の話などをしてから、カウツキイの話をした。ところが、その時の記録によると、上司は、「その時、独逸〔どいつ〕のカウツキイの話が出たのを、うつかり、僕は大英百科全書に社会主義の説明をしてゐたカアカツプとまちがへて、とんちんかんな返事をして、後〔あと〕で恥づかしく思つたことがある、」と述べている。そこで、芥川は、この先輩の作家を『与〔くみ〕し易〔やす〕し』と思ったのであろうか、学生時代にいくらか研究もし調〔しら〕べたこともある、ウィリアム・モリスについて、大〔おお〕いに気焔をはいたらしい、先〔さ〕きの話の後〔あと〕で、「文芸と工芸との結合七いふやうなモリスの主張も、その時の話題に上〔のぼ〕つた、」と上司が述べているからでもある。

[やぶちゃん注:「カアカツプ」“An Inquiry into Socialism”等を書いたThomas Kirkup(一八四四年~一九一二年)であろう。]

 ウィリアム・モリスは、多芸多才の人であるから、前に述べたよう町、すぐれた詩人でありながら、たくみな物語や小説も書き、その上、モリスは「美術工芸家としてもおどろくべき腕を持っていた。それで、モリスは、美術的な家具の製作や装飾意匠に努力をした、つまり、ステインド・グラス、壁画、壁掛け、絨毯、それから、刺繡、綴〔つづ〕れ織〔おり〕のような物まで造った。それから、モリスは、公共用の建築の装飾の研究などして、イギリス全土にわたる建築の美化運動まで企〔くわだ〕てた。つまり、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、モリスは、自分の生活を美化すると共に、『美』を民衆の手のとどく所に置こうとしたのである。それから、モリスは、又、美術的な活字の母型や装飾縁模様などを意匠して、五十三巻の豪華版抄本を印刷した。そうして、最後に出したチョオサアの『カンタベリ物語』は豪華版ちゅうの豪華版と称されている。――つまり、湯河原の或る宿屋で芥川と上司の話題に上〔のぼ〕った、モリスの「文芸と工芸の結合」とは、こういう事を話し合ったのであろう。

 しかし、もしこういう話であれば、これは、芥川が、勢〔いきお〕い(つまり、他に勝とうと競う気力)に乗って喋〔しゃべ〕った、その場かぎりの話である。その勢いに乗った話が本〔もと〕になって、この時の座談会では、芥川は、社会主義や無政府主義に関心を持っていて、時にはアナアキスティックな気持ちで物を書いている、とか、「思想として、ちょっとニヒリスティックな、アナアキスティックだつた、」などと、云われている。が、私は、芥川の小説にそういうものを感じさせる物が幾つかあるとしても、芥川は、一〔ひと〕つの作品をつくるために、『そういうもの』を「道具」として使っていたのである、と思うのである。

 芥川が、学生時代にモリスに心を引かれたのは、社会運動家(あるいは社会運動指導者)としてのモリスではなく、詩人(あるいは芸術家)としてのモリスである。これはさすがに賢明である、なぜなら、ウィリアム・モリスは、まず第一にラファエル前派の代表的な芸術家の一人であり、つぎに美術工芸家であり、それから、社会運動家であるからである。(余話であるが、芥川より五六歳も年上〔としうえ〕であるが、事情があって、芥川が大学を卒業した頃まだ大学に籍のあった、芥川の親友であった、江口 渙は、大学に出す論文を書くために、それまで愛読していた、オスカア・ワイルドの諸作品を一所懸命に読みかえしていた。芥川が処女作[つまり、『鼻』大正五年発表]を発表した年〔とし〕から四五年も前から、「新小説」、その他に発表していた江口の小説は、その作風にちょうど合うような、いわゆる美文調の文章で書かれてあうた。)聞くところに依ると、芥川が大学に出した、『人及び芸術家としてのウィリアム・モリス』も、『詩人としてのウィリアム・モリス』も、研究というよりは、(むろん研究であるが、むしろ、)美文調で書いた伝記風〔ふう〕の文章であったそうである。

 前にもちょっと書いたように、芥川は、散文的なところもありながら、根は詩人であった。そうして、それに故事〔こじ〕つけて云うと、佐藤春夫は、詩人的なところがありながら、根は散文的なところもある人である。そうして、文人らしいところは、形〔かたち〕はちがうが、佐藤と芥川とは共通している。(『文人』とは「詩歌書画などの道に心を寄せる人」という程の意味である。)美文を好み美文を巧みに作〔つく〕れるところも、やはり、形や気もちはちがうが、芥川と佐藤は似たところがある。

 冬とは云ひながら、物静〔ものしづか〕に晴れた日で、白〔しら〕けた河原〔かはら〕の石の間〔あひだ〕、潺湲〔せんくわん〕たる水の辺〔ほとり〕に立枯〔たちか〕れてゐる蓬〔よもぎ〕の葉を、ゆする程の風もない。川に臨〔のぞ〕んだ背〔せ〕の低い柳は、葉のない枝に飴の如く滑〔なめら〕かな日の光りをうけて、梢〔こずゑ〕にゐる鶺鴒〔せきれい〕の尾を動かすのさへ、鮮〔あざや〕かにそれと、影を街道に落〔おと〕してゐる。

[やぶちゃん注:「潺湲」は現代仮名遣で「せんかん」で、水がさらさらと流れるさまを言う。「せんえん」とも読む。]

 これは『芋粥』の初めの方の一節であるが、元慶〔がんきょう〕の末か、仁和〔にんな〕の始めか、(そんな事はどうでもよい、と作者も書いている、)の一月の五六日頃の朝、藤原利仁〔としひと〕と五位が、京都を立ち出〔い〕でて、加茂川の河原にそうて、粟田口の方へ行く街道の光景を書いてある――芥川の美文の一〔ひと〕つの見本〔みほん〕として、うつして見たのである。

 これは、説明するまでもなく、唯きれいに書いてあるだけで、つまり、「修辞を巧みにし、美しく飾りたる」文章、というだけのものである。

 ……その内〔うち〕にふと男の耳は、薄暗い窓の櫺子〔れんじ〕の中に、人のゐるらしいけはひを捉へた。男は殆〔ほとん〕ど何の気なしに、ちらりと窓を覗いて見た。

 窓の中には尼が一人〔ひとり〕、破れた筵〔むしろ〕をまとひながら、病人らしい女を介抱してゐた。女は夕ぐれの薄明〔うすあか〕りにも、無気味なほど痩せ枯れてゐるらしかつた。

 これは、『六の宮の姫君』の後〔おわり〕にちかい方〔ほう〕の一節である。

 私は、この小説を読む前に、『往生絵巻』を読んで、何ともいえぬ暗い気もちになった。そうして、この『六の宮の姫君』を読みおわった時は、「これは助〔たす〕からない、」というような気がした。

「芥川が、……こんな小説を書いている、これはよくない、……」

『往生絵巻』は、ずっと前に述べたように、「国粋」という殆んど人の知らない雑誌に出た。『六の宮の姫君』も、やはり、「表現」という三流以下の雑誌に出た。私は、この二つの小説を、雑誌に出た時に、読んだのである。どんな雑誌に出た、(か、)というような事は、もとより、問題ではない。

 ところで、『往生絵巻』は、これも先〔さ〕きに書いたように、芥川の作品としては、雑〔ざつ〕なものであるから、雑誌を読んだ時は、それほど気にならなかった。しかし、『六の宮の姫君』は、やはり、(又か、と思うほど、)いわゆる王朝物ではあるけれど、例の「何〔なに〕も、――何〔なに〕も見えませぬ。暗〔くら〕い中に風ばかり、――冷たい風はかり吹いて参〔まゐ〕りまする、」というところは、何度よんでも、私には、気もちがわるい。

 ここで、ちょっと著作年表をひらいて見ると、『芋粥』は大正五年八月の作であり、『往生絵巻』は大正十年四月の作であり、『六の宮の姫君』は大正十年八月の作である。そうして、『芋粥』も、『往生絵巻』も、『六の官の姫君』も、ついでに云えば、『好色』[大正十年作]も、『藪の中』[大正十一年一月作]も、みな、主〔おも〕に、『今昔物語』の中の話を素材にして作ったものである。

 そうして、芥川の、準処女作といわれている『羅生門』も、出世作となった『鼻』も、そのころ新進作家の初舞台といわれた「新小説」に出た『芋粥』も、みな、『今昔物語』の中の話を素材にしたものである。それから、芥川は、『鼻』と『芋粥』を書いた年〔とし〕に、やはり、『今昔物語』から取った『運』と『道祖問答』を書いている。それから、その翌年[大正六年]、やはり平安朝[末期]を舞台にした『倫盗』[この小説は、作者が、失敗作と思って、単行本に入れなかった]という百二三十枚の小説を書いている。つまり、芥川は、大正四年の新秋から大正六年の初夏までの間に、いわゆる王朝物を六篇かいている、という事になる。

 それで、芥川の『王朝物』と称される作品は、初めは、物珍しかったのと、ちょいと奇抜な書き方がしてあったのと、手際〔てぎわ〕のよい、頻りに凝った文章で書かれてあったのとで、今かんがえと、買い被られたようなところもあると思われたほど、たいそう評判がよかった、十返舎一九の『東海道中藤栗毛』の中に、「さあ、評判ぢや、評判ぢや、」という文句があるが、この初期の芥川の小説は、出る毎に、「さあ、評判ぢや、評判ぢや、」と、持てはやされた観があった。

 ところで、おなじ『今昔物語』から素材を取ったものでも、原作の筋が殆んどそのまま取られているものでも、(原作の筋を殆んどそのまま取った物の方が多いけれど、それでも、)一〔ひ〕と捻りか二〔ふ〕た捻りかして、一種の美文で、(一種の美辞麗句をつらねて、)書いた作品は、(たとえば、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』、などは、)増〔ま〕しな小説になっているが、素材の話を、あまり捻らないで、(つまり、あまり工風〔くふう〕しないで、)はでな形容詞など使わないで、洒落〔しゃれ〕や皮肉を殆んど入れないで、書いた小説は、(つまり、『運』や『道祖問答』などは、)味も素〔そ〕っ気〔け〕もない、あまり面白くもない、徒〔ただ〕の昔の話になってしまうのである。

 そこで、大〔おお〕ざっぱに云うと、これまで、(芥川が書くまで、)殆んど誰〔だれ〕も気のつかなかった『今昔物語』(『宇治拾遺物語』もあるが、ほとんど『今昔物語』)の中の話を素材にして小説を書いた、という事が、芥川の大きな手柄〔てがら〕の一〔ひと〕つであり、それで、誰〔だれ〕が附けたか、『王朝物』と称せられる幾つかの小説によって、芥川は、文壇的に、(文壇的に、である、)たちまち、高名になったのであった。

 ところで、(ここでは、いわゆる『切支丹物』、については、わざと言及しない。一〔ひ〕と口〔くち〕に云えば、『王朝物』も、『切支丹物』も、芥川の文学に於いては、論じる人があれば、殆んど同じ物であるからだ、)ここで、『種〔たね〕』(あるいは『材料』)という言葉をつかうと、芥川の『王朝物』の種は、すなわち『今昔物語』の中の話であった。いうまでもなく、『今昔物語』には無数の話がはいっている。しかし、いくら無数の話があっても、芥川にむく話はそんなに数多くある筈がない。しぜん、芥川に、いかにすぐれた才能があっても、『種』の尽きてくるのは当然である。(そうして、もとより、『切支丹物』も同断である。)

 芥川は、『地獄変』でその頂上にのぼった。もっとも、『地獄変』は、ずっと前に述べたように、『宇治拾遺物語』の第三と、『十訓抄』の第六と『古今著聞集』第十一の画図第四話などに依って書いたものであろう。つまり、芥川は、『地獄変』以後は、しだいに『今昔物語』の話に気乗りがしなくなり、そこから種を無理にあさるようになったのであろう。そうして、そういう状態で書かれたのが、『往生絵巻』であり、『六の宮の姫君』である。

 たしか、『古今集』か何かの序に、「やまと歌は、人の心をたねにして、…」というような文句があったが、これは、大真面目〔おおまじめ〕で云う、芥川が、仮りに、『人の心』を種〔たね〕にしていたら、種に尽きるような事になりはしなかったか、と、私は、切〔せつ〕に、思うのである、芥川が、『人の心』でなく、『自分の心』を種にして、小説を書き出したのは、生涯の終りに近くなって、身も、心も、切羽〔せっぱ〕つまってから、であったのだ。そうして、その最初の物が、『海のほとり』か、『年末の一日』か、『点鬼簿』か。――それは、後に述べることにして、ここで、ずっと前に書いた、芥川が、鵠沼の東家で、私に、半分ぐらい約束するように、云った、新年号の雑誌の小説を、書いたかどうか、という話にうつろう。

2012/04/22

モップス 月光仮面

僕が最初の担任をした教え子たちよ――

僕は広島への修学旅行の時、バスの中で――

君たちに何か歌えと言われて――

この曲を歌ったのだが――

……覚えていないだろうな、♪ふふふ♪……懐かしい……

http://www.youtube.com/watch?v=xDvbrGPz2z8

……本当は……このシングルのB面だった「AJA」という曲がとってもウエットでいい曲だったんだけど……もう、二度と聴くことはないかも……知れない……な……

宇野浩二 芥川龍之介 二十~(1)

    二十

 

 その翌年(つまり、昭和二年)の「中央公論」の一月号には、芥川の小説『玄鶴山房』は、その「一」というのが、四百字づめの原稿紙でいうと、一枚半ぐらいしか出なかった。私は、それを見て、大へん失望した。が、そういう私は、『軍港行進曲』という小説が予定の五分の一ぐらいしか書けなかったので、それを二月号に延ばしてもらったので、結局、芥川との約束(のようなもの)を破って、「中央公論」の一月号には、とうとう、小説が出せなかったのである。しかし、そんな事は棚に上げて、私は、その芥川の『玄鶴山房』の「一」の終りの、

 彼等は二人とも笑ひながら、気軽〔きがる〕にこの家の前を通つて行つた。そのあとには唯凍〔い〕て切つた道に彼等のどちらかが捨てて行つた「ゴルデン・バット」の吸ひ殻が一本〔ぽん〕、かすかに青い一すぢの煙を細ぼそと立てでゐるはかりだつた。……

という一節を読みおわって、「あいかわらず気どったものだなあ、」と、思った。しかし、これからどういう事を書くのかわからないが、この十行〔ぎょう〕か二十行ぐらいの文章で、玄鶴という人間とその玄鶴の妙な家を、その一端を、巧みに現しているのを読んで、私は、「やっぱり旨〔うま〕いところがあるなあ、」と、感心した。感心しながら、「これだけしか書けなかったのは、まだ体〔からだ〕がよくないのであろうか、」と、私は、陰〔かげ〕ながら、心配した。

 ここで、又、芥川の書翰をしらべてみると、大正十五年の十二月のところで、十六日に「中央公論」編輯者の高野敬録[高野はたしか編集長であった]に宛てた手紙の中に、「昨夜は二時すぎまでやつてゐたれど、薄バガの如くなりて書けず、少々われながら情なく相成り候次第、何とも申訣無之〔これなく〕候へども二月号におまはし下さるまじくや。これにてはとても駄目なり。二月号ならばこれよりやすまずに仕事をつづく可く候。斎藤さんにも相すまざる事になり、不快甚しく候」と書いてある。この手紙は、いうまでもなく、『玄鶴山房』が少ししか出来なかった詫びと言〔い〕い訳〔わけ〕である。

 それから、この手紙の中に「斎藤さんにも相すまざる事になり、」とあるのは、芥川が、眠れなかったり、痔の痛みに堪えられなくなったり、する時に必要な薬を、しばしば、斎藤茂吉から、都合をしてもらいながら、仕事がはかどらない事が、茂吉にすまない、という程の意味であろう。それは、芥川が、十二日に、鵠沼から、茂吉に出した、つぎのような手紙をよんでも、ほぼ察しられる。

 冠省、まことに恐れ入り候へども、鴉片丸〔あへんぐわん〕乏しくなり心細く候間、もう二週間分はど田端四三五小生宛お送り下さるまじく候や。右願上げ候。中央公論のは大体片づき、あと少々残り居り候。一昨日は浣腸して便をとりたる為、痔痛みてたまらず、眠り薬を三包〔みつつみ〕のみたれど、眠る事も出来かね、うんうん云ひて天明に及び候 以上

 私は、この手紙を読んで、驚歎した、――まず、『鴉片丸』などというものが初耳だったからだ、(鴉片は阿片であり、阿片は毒薬でもある、)その『鴉片丸』を、何〔なん〕と、「もう二週間分ほど」送ってほしい、と書いてあるからである、眠り薬を三包ものんで、眠られず、唸〔うな〕りつづけているうちに夜が明〔あ〕けた、と書いてあるからである、――これらの物事は、みな、異常以上の異常であるからである。

 私のような不眠症などに殆んど全〔まった〕くかかった事のない者には、これだけの事を、手紙で読んでも、(あるいは、聞かされても、)これは大変な事だ、こんな事になったら堪〔たま〕らないなあ、と、思われた、このような恐ろしい病気にかかったら、結果から云うのではないが、いっそ死んだ方〔ほう〕がましだ、という気もちにもなるであろう、と、この時分の芥川を幾らか知っている私には、何〔なん〕とも痛ましくてたまらない思いがするのである。

 ところで、この手紙は、よく読めば、(念を入れて読むと、)ここに述べたように、普通の人が思いも寄らないような、惨〔むご〕たらしい、異常な、事が書かれてあるのに、あまりに、スラスラと流暢に、書いてあるので、うっかり読み流すと、その実感が殆んど浮かんでこないのである。それは、今〔いま〕の人が、(いや、私なども、)使わない、書けない、スラスラした、『候文〔そうろうぶん〕』で書かれている上に、例えば、「アヘンガン、トボシクナリ、ココロボソク、」とか、「ネムリグスリヲ、ミツツミ、ノミタレド、ネムルコトモ、デキカネ、」とか、「ウンウンイイテ、テンメイニ、オヨビソロ、」とか、いうように、口調のよい名文章で、書かれてあるからである。

 それで、この手紙には、前に述べたような、文章だけを、無心に、読み流すと、堪えがたい苦しさに悩んでいる難病人が書いたとは、どうしても、思われないような、余裕がある、余裕どころか、洒落のようなものさえ感じられる。例えば、初めの方の「鴉片丸乏しく心細く候」などというところは、不断〔ふだん〕の芥川を知っている私などには、いかにも芥川が使いそうな文句である、と思って、微笑〔ほほえ〕ましい気もちさえする。しかし、やはり、しじゅう、催眠剤を用いている、人一倍神経質で気むつかし屋の、斎藤茂吉は、その日の虫の居所〔いどころ〕がわるい時は、こういう文句を読めば、腹を立てるかもしれない。

 ところで、この手紙の中に「中央公論のは大体片づき、あと少々残り居り候、」とあるのは、これが『玄鶴山房』であれば、噓であるが、これは、手にはいりにくい薬で世話になっている上に、ときどき診察もしてもらう、脳病院長、医学博士、斎藤茂吉の気を安めるための、芥川の心づくしであろう。(晩年の芥川は、⦅死を決していたからでもあったか、⦆二一十五六歳の若さでありながら、いろいろな人に、こまかく心をくばり、いたく深切にした。――この事については後〔のち〕に述べるつもりである。)

[やぶちゃん注:「鴉片丸」の「鴉片」は勿論、麻薬として知られる阿片〔あへん〕、オピウムのことであるが、これについての宇野の反応はやや過剰で、阿片は医薬品として(現在もアヘン末等で医師の処方によって流通している)重度の下痢症状や疼痛の改善薬としてあり、強い鎮痛鎮咳効果を持っている。]

尾崎放哉 入庵雜記 全 「大空」初版版 附やぶちゃん注

HPのトップ・ページに尾崎放哉「入庵雜記」全(「大空」初版版 附やぶちゃん注)及び同縦書版を公開した。

2012/04/21

海豹 フイオナ・マクラオド 松村みね子訳 底本脱落部分二ページ分追加

本日(2012年4月21日)午後、僕の古いテクスト、

海豹   フイオナ・マクラオド 松村みね子訳

を見られた識者の方より、重大な消息がもたらされた。則ち、この「海豹」には大きな欠落が存在する、という事実である。
尚且つ、それは底本自体の原本からの欠落、ページにして二ページに及ぶとんでもない欠落、という驚天動地の事実なのであった。
 その方のお話によれば、これは大正十四(一九〇三)年第一書房刊行の元本(もとぼん)から、何と見開き二ページ分が丸々欠落している、というのである。則ち、それを親本とした沖積舎による復刊本が、復刊の際にその二頁分を完全に欠落させて復刊してしまい、更にそれを底本にした、私が底本にした筑摩書房2005年刊ちくま文庫版も、元本との校合もせずに、恐るべき同じ誤りをまたしても引き継いでしまった、というのである。その方は『たまたま文章がつながってしまったため、見過ごされてしまったのでしょう。単純な編集ミスと思われます』とお伝え下さったが、私は読みながら大きなショックを受けた。それは誤った編集者に対して、ではなく、それに気づかずに誤ったテクストを流してきた私に対してであった。少なくとも、私はそれに気づくべき責任の一端を担っていたはずだ、と思うのである。その違和感に気づかなかったということへの、内心忸怩たる思いが生じた。
 マクラウドへ、というより――私は松村みね子――片山廣子への深い陳謝の意を込めて、今夜、その補正を行った。
 実はその指摘をして下さった方が、同じ中で、その元本が「国立国会図書館 近代デジタルライブラリー」にあることを、その脱落当該データのページ数まで示してお教え下さったため、急遽、データのダウンロードと補正を行うことが出来たのである。元本は正字正仮名であったが、本テクストに合わせて新字新仮名に直し、そのまま該当箇所に挿入した。底本編集者のミスであり、特に本文ではその箇所を指示していないが、具体的には「海豹」の冒頭から五段落目の、
 僧房の入口で彼は振りむいて、兄弟たちに内に入れと命じた「平和なんじらと共にあれ」
の鍵括弧直下に続く部分から、コラムの台詞、
「あをたは誰か」
の前行までの部分である。
 恐るべき――何十年にも及ぶ――二ページ分もの脱落――何十年もの間、誰一人、それに気づかず、いや、気づいてもそれを誰も指摘せず、誰も直さなかった――勿論、その最大の現存在の犯罪者は、今、こうしてのうのうとそれを公表して平気でいた、この私自身に他ならなかったのである――
 私はそれでも、こうして自らの犯罪行為(私にとっては結果として許すべからざる行為なのである――愛する片山廣子に対しての――である)を是正することが出来たのであった。
 ここをかりて、お便りを下さった方へ、心よりの御礼申し上げるものである。

      藪野直史

失踪していた本を発見する

かつて録画したヴィデオ・カセット200本程をそろそろ廃棄しようと段ボールに入れてあったのを整理しかけたところ、その一箱の中に二年程前から失踪していた尾崎放哉の句集「大空」初版本が落下しているのを発見した。先日来の身辺整理で見つからず、諦めかけていた。何せ、実物は大正十五(一九二六)年刊行ながら、極めて希少で現存確認出来るものは数冊と言われているだけに(放哉研究家でも持っている人は少ない。僕自身、現物を見たことはさる文学展での一度しかない)、復刻でも無性に嬉しかった(しかし、近年、この手の復刻本は人気がガタ落ちだ。因みに今、ネットで調べたら、この復刻「大空」、中古で千円だとよ……♪とほほ♪……でも千円、とんでもないお買い得だと……思うよ……♪ふふふ♪)。1983年にほるぷ社が復刻したセット販売の「詩歌文学館」の「紫陽花セット」の一冊で、実に29年前、薄給のボーナスをつぎ込んで買ったものだった。本書が貴重な理由は、数多い尾崎放哉の出版物の中で、正字で記されているものは現在、全くと言っていいほど、流通していないからである。また、以前にブログ版「鉦たたき」で示したように、随筆「入庵雑記」等は現在知られているものとは、表記や表現にかなり有意な異同が見られるのである。――今日の「大空」の僕の手への帰還は、僕の野人への御褒美である。――何故なら僕が野人化しなければ、この段ボールの山は五六年先まで開かれることはなかったからである。――これより、全「入庵雑記」『大空』版テクスト化作業に入る――

新編鎌倉志總目録(やぶちゃん電子版)   「新編鎌倉志」本文テクスト化プロジェクト完遂

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「新編鎌倉志」に「新編鎌倉志總目録(やぶちゃん電子版) 」を配す。検索の用に供するとともに、後は、注を殆んど施していない「卷之一」に手を加える作業を残すのみで、これを以って一年三ヶ月余を費やした「新編鎌倉志」本文のテクスト化プロジェクトを完遂した。現在までの僕の作業の中では、「和漢三才図会」の水族の部に次いで、ソリッドに最も時間のかかったものであった。特に開始直後の母の逝去で挫けなかったことだけは、幸いであった――いや、寧ろこの作業に自己拘束の義務を附加させることで、僕は母の死の哀しみから少し救われていた、というのが正しい謂いである。

――かつての僕のような――若き鎌倉史研究の好学の士のために――本テクストを捧げる――

2012/04/20

宇野浩二 芥川龍之介 十九

     十九

 

 これから述べる事は、前に、或る長篇小説の中に、一つの挿話として、(作〔つく〕り話ではあるけれど――『作〔つく〕り話〔ばなし〕』といえば、実〔まこと〕しやかに書いているこの文章にも到る処に『作り話』がある事を、ここで、断っておく、)書いた事があり、芥川が死んでから間もなく書いた追悼文の中にも簡単に述べた事があるので、それらの話といくらか重複するところがあるけれど、これは、どうしても、この文章に必要があるので、『重複』を承知の上で書くのである。この事も前もって断っておく。

 大正十五年の十一月の末頃あったかと思う。私は、その二三箇月前から、神経衰弱にかかり、その上、家庭の内と外にかなり厄介な事件などがあったりして、とかく気もちが落ちつかなかった。それに、私も、その頃、自分の仕事にユキヅマリを感じていたからでもある。それで、その十一月の末頃、気をはらすために、母をつれて、(母と一しょに、)箱根に出かけた。そうして、私たちは、箱根の底倉にとまり、熱海にまわって、伊豆山の熱海ホテルにとまった。(そこで、新婚旅行で来でいた、片岡鉄兵夫妻に逢った。「日清戦争の最中〔さいちゅう〕に生まれたので、おやじは、僕に、『鉄考という名をつけたんでしょう、へへへへ、」と、ある時、笑いながら、云った片岡は、その頃は、まだ新感覚派の一人〔ひとり〕であった。)さて、熱海から東京ゆきの汽車に乗ってから、私は、汽車が大磯あたりを走っている時、ふと、やはり、神経衰弱で鵠沼に保養に行っている、芥川を、思い出した。

[やぶちゃん注:この宇野の鵠沼訪問は新全集宮坂覺氏の年譜によれば、同年十一月二十七日のことである。]

 そこで、私は、急に芥川逢いたくなったので、母にその事を話し、母と汽車のなかでわかれ、(母はそのまま汽車で東京に帰ることにして、)藤沢で、おりた。芥川とは、ずっと前に書いたように、その頃、雑誌「新潮」の主催で毎月ひらかれた月評会の帰りに、浅草の茶屋に一しょに行った時に、逢ったが、その時は、芥川が愛していた、私もよく知っている、小亀という芸者が傍にいたので、十分に話ができなかった、それで、したしく逢うのは、五年ぶりぐらいであった。それで、私は、芥川に逢うことが、心がおどるほど、うれしく、なつかしかった。

 さて、鵠沼で電車をおりた時は、もううす暗〔ぐら〕かった。松の木の目だって多い、両側が生け垣つづきの、砂利の細道をいそぎ足にあるく私の心は、はずんだ。

 やっと私が芥川の家の前にたどりついた時は、日はすっかり暮れて、あたりは真暗〔まっくら〕であった。

 その家は、夜目〔よめ〕で、よくわからなかったが、たしか、右も、左も、後〔うしろ〕も、まばらに、木立〔こだち〕があって、小〔こ〕ぢんまりした、二階だての、家であった。

 私が、入り口の格子戸〔こうしど〕をあけて、「ごめんください、」と云うと、すぐ二階から、だまって、おりてくる、しずかな、足音のしないような、足音がした。

 やがて、おりて来た芥川は、何〔なに〕もいわずに、障子も何〔なに〕もない上がり口のところに、両手をひらいて、鴨居〔かもい〕をつっぱり、両足をひらき、大の字の形で、立ちはだかった。

 前に述べたように、あたりは真暗〔まっくら〕であり、玄関は真の闇であり、唯むこうの部屋がほんの少〔すこ〕し明かるいだけであったから、例えば『通せん坊』のような形で立っている芥川の姿は、黒い影人形〔かげにんぎょう〕のように見えて、顔などは殆んど見えなかった。それで、私は、一瞬間、茫然として、立ちすくんだ。

(私は、その頃、⦅十一月頃⦆芥川が、佐佐木にあてた手紙の中に、「羊羹をありがたう(羊羹と、書くと何だか羊羹に毛の生えてゐる気がしてならぬ)」とか、「何しろふと出合つた婆さんの顔が死んだお袋の顔に見えたりするので困る、」とか、斎藤茂吉にあてた手紙の中に「先夜も往来にて死にし母に出合ひ、(実は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候、」とか、いうような事を知らなかったのである。⦅芥川の母は、芥川の生後間もなく、発狂し、発狂したまま死んだのである。⦆それから、芥川が、やはり、その頃、部屋の真中〔まんなか〕に寝ていても、部屋の四隅〔よすみ〕が倒れてくるような気がする、と云って、わなわな震えているような事が、しばしば、あった、というような事も、知らなかったのである。)

[やぶちゃん注:宇野に、宇野自身の当時の状態への特殊なバイアスがかかっていることが、実はここで分かる。実はここに引用されている「羊羹」云々の佐佐木茂索宛書簡は宇野の訪問した翌日十一月二十八日附で書かれた書簡(旧全集書簡番号一五三一)で、その掉尾には正に訪問した宇野のことが以下のように書かれているからである(引用は旧全集による)。

 昨日宇野浩二がやつて來た。何だか要領を得ない事を云つて歸つて行つた。以上

宇野が「羊羹」の「異常」な叙述(これを私は「異常」とは思わないし――私も「羊羹」の「羹」の児は不快である――一種の文字に対するゲシュタルト崩壊に類するものとしても尋常である)を引きながら、そうして正に宇野の訪問日時を特定しているこの手紙の、肝心の自分への言及を引用しなかったのは、宇野が敢えてこれを示したくなかったからだと私は考えるのである。宇野はこの時の芥川龍之介の鬼気迫る異様な様を強く読者に印象付けておきながら、その実、実はその時の自分も芥川龍之介によって「尋常でない」「何だか要領を得ない事を云」って、ふらっと「歸つて行」った変な状態であったと、認識されていたことを読者には完全に隠蔽しているのである。私は宇野の精神の変調はこの時、既に始まっていたのかも知れないと、逆に踏むのである。そうしてそれを宇野は断固として抹消否定しようとしているのではなかろうか。]

 いずれにしても、私は、まったく久しぶりで、逢うのが楽しみで、たずねたのに、真黒〔まっくろ〕な芥川らしい(芥川にちがいない)男が、物も云わずに、大の字の形で、上〔あ〕がり口に、立ちはだかった時は、文字どおり、度胆をぬかれた。凄じかった。しかし、やがて、

「やあ、」と、聞きなれた、癖の、鼻にかかったような声をかけられると、たちまち、懐しさの情が、私の心に、あふれた。「やあ、よく来てくれたね、君、ごはん、未〔ま〕だだろう、……ちょっと、待ってくれたまえ、」と云うとともに、芥川は、また、殆んど足音をたてないで、しかし、大いそぎで、二階に、あがって行った。

 やがて、芥川は、すぐ、下〔お〕りてきて、「東家〔あづまや〕に行こう、」と云いながら、下駄をはいた。

 さて、東家の座敷にとおると、芥川は、坐らぬうちに、「君と僕とは、おなじ物がすきだったねえ、」と云って、女中に、玉子焼と刺身〔さしみ〕を注文してから、「……酒は、いらない、すぐ、ごはん、」と、云いつけた。

 そうして、久しぶりで、芥川と向こう前に坐〔すわ〕って、あかりの下〔した〕で見た時、私は、はッと思って、しばらく、言葉が、出なかった。芥川が、はげしい神経衰弱にかかっている、とは、人づてに、聞いていたが、これほどひどくなっていようとは、思わなかったからである。

 さて、芥川は、坐〔すわ〕ると、すぐ、

「……君、これだよ、」と云いながら、右の足を、一度、前の方に突き出して、膝から下を折って、足袋〔たび〕をぬぎ、その足袋を、私の前に、出して見せた。

 それは、茶色の、なにかの獣〔けだもの〕の、皮を、裏から底まで、つけたものであった。

 私は、それを、一〔ひ〕と目、見て、にわかに、身の毛が、よだつような気がした。そうして、あらためて、こわごわ、(のような感じがしながら、)芥川の顔を見ると、笑っている時は、口の中の目にたつところに、一本〔ぽん〕の大きな歯が抜けているからでもあるか、一種の愛敬〔あいきょう〕があり、どんな人にもしたしみを感じさせるけれど、その時、芥川が、口を閉じ、痩せ細った指に巻き煙草をはさんで、ほとんど絶え間〔ま〕なしに煙草を吸っている恰好を見て、私は、心の中で、ふかい溜め息をついた。

 やがて、女中が注文したものを持ってきたので、二人は、数年ぶりで、一しょに食事をした。それは実に楽しかった。

 しかし、食卓をはさんで、さしむかいに、食事をしながら、いろいろな話をしている間〔あいだ〕に、私が、又、おどろいたのは、元〔もと〕もと痩せてはいたけれど、この時の芥川は、まったく、骨と皮、というより、骨だけの人が丹前をきているような観がしたからであった。

 それから、長い、ふさふさしていた、頭〔あたま〕の毛が、油気〔あぶらけ〕がなくなり、ぱさぱさしていた。それから、一文字の、釣り上がった、眉毛、ときどき、三角形〔がた〕になる、鋭い、目、高い鼻、やや大〔おお〕きな、やや唇のあつい、口、げっそり頰のおちこんだ、長い、青白い、とげとげした、顔。それは、この世の人とは、思われないような顔であった。私は、それを見ると、ぞっと、体〔からだ〕じゅうに、寒気〔さむけ〕をおぼえるような気がした。

 しかし、芥川は、そのように、肉体が、痛わしいほど衰えているのに、気力はそれほど衰えていないらしく、ぽつりぽつりと、言葉をくぎりながら、昔ながらの、おちついた、口調で、文学の、(おもに小説の、)話をした。そうして、その小説の話がとぎれた時、芥川は、いきなり、

「僕は、……めずらしいだろう、……新年号の雑誌を、三〔みっ〕つ、ひきうけて、もう半分ぐらい書いたよ、」と、目をかがやかしながら、云った。

 私は、これを聞いて、その年〔とし〕(つまり、大正十五年)は、(いや、その前の年頃〔としころ〕から、)芥川が、病気のために、小説らしい小説を、ほとんど発表していなかったので、

「それは、よかったね、」と、心からよろこんで、云った。

 しかし、こう云ってから、私は、すぐ、この『半分ぐらい』というのは、少〔すこ〕し眉唾物〔まゆつばもの〕だな、思った。

 すると、芥川は、にわかに、真剣な顔になって、

「君は、書いたか、」と、まるで、何〔なに〕か、詰〔なじ〕るような調子で、云った。

と「うむ、」と、私は、そこで、ちょぅと返事につまった、というのは、私も、芥川ほどひどくはなかったが、神経衰弱気味に、(あるいは、半分ぐらい神経衰弱に、)なっていたからである、それで、私も、新年号の雑誌の小説を、やはり、三つぐらい、引き受けていて、その中の一つぐらいは書くつもりであったが、その一〔ひと〕つさえ、あまり自信がなかったからである。しかし、私は、「僕も、やっぱり、三〔みっ〕つぐらい、引き受けたけど、……できたら、『中央公論』だけには、書くつもりだ、」と、いくらか空元気〔からげんき〕で、云った。

 そこで、芥川は、急に緊張した顔つきになって、

「僕も、やっぱり、『中央公論』だけは、出すつもりだ、」と、云った。

「ぜひ、書けよ。」

すると、芥川は、しばらくして、こんどは、妙に、声をひそめて、

「君、……君も、ほかは止〔や〕めにして、何とかして、『中央公論』だけは、書けよ、書いてやりたまえ、……ね、書いてくれよ、……そして、僕と一しょに出そう、」と、云った。

 

(ところで、芥川が、この時、何度も、くりかえし、「中央公論」だけに、とか、「中央公論」だけは、とか、云ったのは、どういう訳であるか。――それについて臆測すると、つぎに述べるような次第ではないか、と思う。)

 一代の名編輯者と称せられた、滝田樗陰(哲太郎)は、「中央公論」の主幹であったが、短かい一生[四十四歳で死去]の間に、創作(小説、戯曲)の権威と価値を広く社会化した上に、新進作家を見出だして、世に出す事に苦心をするとともに、非常な喜びを感じた。そうして、滝田は、原稿をたのむ時は、(自動車のない時分であったから、)人力車で走った、そうして、いそぐために、常に二人びきの人力車に乗った。それで、大正時代は、「中央公論」は、作家の、『登竜門』であり、『檜舞台』である、と云われた。そうして芥川や「新思潮」(醍削第)の同人の幾人かの憧憬の的であり、谷崎潤一郎を文壇におくり出したのも「中央公論」であった。それで、正直で麁相〔そそっ〕かし屋の菊池は、大正七年の初夏の或る日、勤め先きの時事新報社から帰ってくると、自分の家の前に人力車が止まっていたので、「あ、滝田が来てるな、」と早合点〔はやがてん〕した。ところが、それは、滝田ではなかったが、おなじ「中央公論」の編輯者の高野敬録であった。

[やぶちゃん注:因みに伝説の名編集長滝田樗陰(明治十五(一八八二)年~大正十四(一九二五)年)は、この話柄の時制にあっては前年に鬼籍に入っていた。編集長を継いだのが文中に現れる高野敬録である。

菊池寛の逸話については、菊池自身が『文藝春秋』に連載した「半自叙伝」の中で、次のように記している(昭和四年十二月連載分より。引用は『honya.co.jp「菊池寛アーカイブ」編集部』によるテクストをコピー・ペーストした)

「大島が出来る話」と一緒に「新時代」という雑誌に書いた「若杉裁判長」というのも好評だった。この頃の私は、新進作家として旭日昇天の形で、世の中に出て行った。私は、その頃、夏目漱石氏の家と、一町とはなれていない南榎町の陋巷に住んでいた。そこは、九円五十銭位の家賃で、男便所のない家であるから、どんな汚い家だか想像ができる。半間ぐらいの入口をはいった路地裏であった。あるとき、時事新報社から帰って来ると、その路地の入口に、自家用の人力車が止っていた。その頃の自家用人力車は現在の自家用自動車と匹敵していると思う。私は(ああ「中央公論」の滝田氏だな)と直覚した。その頃の滝田氏の文壇における勢威は、ローマ法王の半分ぐらいはあったと思う。ことに、その自家用の人力車は有名であった。私は、家へ入って見ると、滝田氏ではなかったが、滝田氏の命を受けた高野敬録氏であった。この頃、「中央公論」へ書くことは、中堅作家としての登録をすますようなものだったから、私はこのときの嬉しさを今でも忘れない。]

 ああ、「中央公論」――『檜舞台』、というような考えは、この頃、菊池ばかりでなく、芥川にも、誰にも、あったのである。そうして、それを誇張して云うと、その頃は、芥川ばかりでなく、大正の初め頃から中頃までに文壇に出た作家たちのうちの幾人かの作家の頭〔あたま〕の中〔なか〕には、いつとなく、『小説は「中央公論」、「中央公論」は小説』というような考えが、こびりついてしまっていたのであろうか。

 それはそれとして、そのような考えが、芥川に、(芥川のような人に、)甚だしかったらしいのである。それは次ぎのような事があるからである。

 どういう訳〔わけ〕か、(故意〔こい〕か、偶然か、)芥川は大正五年の五月から十五年の一月までに、(つまり文学生活の大部分の間〔あいだ〕に、)「中央公論」とならび称せられていた「改造」には、作品を、八篇しか出していないのに、「中央公論」には、小説を、三十一篇も、発表している。(もっとも、これは、「中央公論」の方が、伝統が古く、その頃の綜合雑誌の中で、文学にもっとも力〔ちから〕を入れたので、島崎藤村や永井荷風などのようにその作品を殆んど「中央公論」にだけ出している人もあるから、芥川だけが「中央公論」を贔屓〔ひいき〕にしたという訳でもない、という事になる。閑話休題。)

 

 さて、食事がすんだ頃、時計を見ると、まだ八時半ぐらいであったから、私は、ふと、これから、鎌倉の坂井をたずねて、何年ぶりかで、(そうだ、もう七八年ぶりになる、)坂井に案内してもらって、横須賀に行って、「今夜は横須賀にとまって、東京へは、明日、帰ろう、」と、思い立った。それは、その時から、七八年前に、私は、『おんな』の一件で、横須賀に行った事があり、その横須賀で、中学校の同窓で、海軍の士官になっていた友だちと、風変りな『遊び』をした事があって、その事を一〔ひと〕つの小説に仕組〔しく〕んだ事を思い出し、横須賀に行ったら、小説の種〔たね〕になるようなものを思いつくかもしれない、と、考えついたからである。

 しかし、私は、もとより、そんな事は明かさないで、芥川に、唯、「まだ時間が早いから、これから、鎌倉の友だちを訊問して、……その男は海軍士官だから、その男に案内さして、今晩は、横須賀に、とまって、……」と云った。すると、芥川は、ニヤニヤ笑いながら、

「……横須賀は、『苦の世界』の思い出の地だね、」と、云った。

「君だって、横須賀は、思い出の地だろう、海軍士官までが……」

「ふん、……あ、自動車を呼ばせようか。」

「ああ、たのむよ。」

 やがて、自動車が来た。

 そこで、私は、芥川と東家の女中たちに送られて、玄関の前に止〔と〕まっている自動車に乗りこんだ。さて、私が、別〔わか〕れの挨拶をしよう、と思って、ふと、窓ガラスの方を見ると、殆んどそのガラス一ぱいに、その窓ガラスに、鼻までつくように、すれすれに、近づけて、私の方を見ている、芥川の顔が、目にとまった。

 私は、思わず、口の中で、いや、声に出して、アッと、叫んだ。夜露でガラスが濡れていたせいか、私の目がうるんでいたのか、その芥川の顔が、ゆがんでいるように、泣いているように、見えたからである。

[やぶちゃん注:「君だって、横須賀は、思い出の地だろう、海軍士官までが……」は、上巻の「十四」で、宇野が体験したエピソード、

 さて、その頃、(大正七年頃、)軍港であった横須賀に、海軍中尉ぐらいであった私の中学同窓が、四五人、住んでいた。そうして、その中に海軍機関学校につとめている者がいて、その男が、ある日、私に、突然、「おい、おれの学校に、芥川という、貴様と同業の、小説家がいるよ、」と云った。

 「ふん、」と私はわざと鼻声で答えた。

 私は、その頃、自分の『なりわい』に追われていたからでもあろうか、芥川が海軍機関学校の嘱託となって英語の教授などをしている事を、まったく知らなかった。が、それはそれとして、その頃、私は、やっと小説を書き出し、その小説を二三の雑誌に出しはしたが、まったく無名で、横須賀までの汽車賃にさえ困るような状態であった。しかるに、前に何度も述べたように、芥川は、その頃、すでに、歴れっきとした作家であり、鬱然たる、大家であったのだ。

 それを、およそ文学とは縁どおい海軍機関中尉が「貴様と同業の小説家」などと云ったので、私は、わざと鼻声で、「ふん、」と答えたのである。

を語り出そうとしたものであるが、ここは偶然にも同じ宇野の「ふん、」を受けるかのように、芥川龍之介が「ふん、」で遮ったところ、絶妙の照応(これは宇野の作為ではあるまい)であることに気がつく。]

生査子 歐陽脩

生査子   歐陽脩

去年元夜時
花市燈如畫
月上柳梢頭
人約黃昏後

今年元夜時
月與燈依舊
不見去年人
淚滿春衫袖

〇やぶちゃん訓読

去年(こぞ) 元夜の時
花市(くわいち)の燈(とう) 畫のごと
月は上(のぼ)れり 柳梢頭(りうせうとう)
人は約す 黃昏後(こうこんご)

今年 元夜の時
月と燈と 舊に依るも
去年(こぞ)の人には見(あ)へずして
淚 滿つ 春衫(しゆんさん)の袖(しう)

〇やぶちゃん文語定型訳

去年(こぞ)元宵(げんせう)の夜(よ)の記憶(おもひ)
花市(はないち)燈(ともしび)燦爛(さんらん)と
柳樹(りうじゆ)が梢(こずゑ)に月登り
女(ひと)と約せし――宵の闇――

一年(ひととせ)經(へ)ぬる元宵の
月影(ひかり)と燈(ひ)とはそのままに
遂(つひ)に逢はざる去年(こぞ)の女(ひと)
春爛漫の――濡れし袖――

題名の「生査子」(「せいざし」と読む)は宋詞の調べ(詞牌という)の一名称(詞の内容とは無関係)。なお、二連目の最終句は「淚濕春衫袖」とも。
 

宇野浩二 芥川龍之介 十八

     十八

 

 私が芥川と一しょに旅行したのは、前に述べたように、二度である。二度だけである。その最初の旅行(大正九年の十一月下旬)の事は、この文章のはじめの方に、くわしく書きすぎるほど書いた。

 ところが、二度目の時は、芥川が支那旅行に出る前であったという事、大阪に行ったという事――この二〔ふた〕つの事だけしか覚えていないのである。

 ところで、この二〔ふた〕つの事だけを覚えているのは、つぎに述べるような事があったからである。(これから書くことも、ずっと前に述べた事と重複するところがあるから、前もって断っておく。)

 大正十年の二月の中頃であったか、芥川が、息を切らしながらやって来て、なにか二〔ふ〕た言〔こと〕か三〔み〕言〔こと〕はなしてから、癖〔くせ〕で、いきなり、「君〔きみ〕、大阪イ行〔ゆ〕かないか、」と云った、「行きたいけど金〔かね〕ない。」「行〔い〕けよ、金は僕がもつから、……こんど、支那に行〔ゆ〕くことになったので、その事で、大阪の『毎日』に行くんだ。」「行ってもいいか。」「いいよ。」

[やぶちゃん注:「大正十年の二月の中頃であったか」上巻の「一」では「大正十三年の二月の中頃」と誤認していたクレジットが、ここでは修正されて正しく示されている。再注すると、現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、これから宇野が訂正するように、この旅は大正十(一九二一)年二月二十日夜東京発、二十四日帰京であることが分かっている。]

 大阪に幾日か滞在した或る日、芥川にさそわれて、大阪毎日新聞社に、学芸部長をしていた薄田〔すすきだ〕淳介(泣菫)をたずね、辞して社を出ると、すぐ、私が「泣菫という人は実に姿勢〔しせい〕のいい人だね、」と云うと、芥川は、言下に、例のおどけたような笑い顔をしながら、「あれは、君〔きみ〕、ギプスをはめているからだよ、」と云った。

[やぶちゃん注:上巻の「一」ではギプスをはめている理由として薄田が脊椎カリエスであることを芥川は語っているが、上巻の注で示した通り、彼の病気は脊椎カリエスではなく、パーキンソン症候群であった。]

 ここまで書いて、ふと、気がついて、芥川の書翰集を見ると、大〔たい〕へん為〔た〕めになったので、これから、しばらく、書翰集によって、私の記憶ちがいなども直〔なお〕しながら、話をつづけることにしよう。

 

 さきに書いた芥川と私のかわした話だけで判断すれば、芥川と私が一しょに大阪へ出かけたのは、芥川が私をたずねてきた日から、早くて二三日のちか、遅けれは、四五日のちか、であろう、と、これを読む人も思うであろう、書く私も、そう思ったのである。

 ところが、芥川が、その時、大阪に行く事になったのは、大阪から、(たぶん、大阪の毎日新聞社から、)電報で呼びよせられたからである。そうして、その電報は二月十九日につき、その電報には「十九日の晩に立て」と書いてあったらしいのである。

 芥川は、この電報を見ると、いくらかあわてて、つぎのような手紙(あるいは葉書)を書いている。

 大阪より電報参り唯今急に下阪仕る事と相成候間御約束の原稿[註―『往生絵巻』]その次の号へ御まはし下さるまじくや二十日までには如何なる事ありても出来致すまじく[下略]

 これは二月十九日午後、小林憲雄[「国粋」という雑誌の編輯者]に宛てたものである。

 急に下阪の為国粋の原稿は延期した裏絵だけ描いて国粋へ送つて頂きます[中略]君がこの端書を見る時僕は浜名湖位〔ぐらゐ〕にゐます

 これも、やはり、十九日に、小穴に宛てたものである。

 ところが、その翌日、(つまり、二十日、)芥川は、また、小穴にあてて、つぎのような便りを、出している。

 言おくれ今夜発足同行は宇野耕右衛門二人共下戸故【①】や【②】はなし唯【③】ばかり

[やぶちゃん注:底本では【①】には盃の、【②】には御銚子の、【③】には蜜柑の、それぞれ芥川龍之介自筆の絵が描かれている。以下、該当書簡(岩波旧全集八五五書簡)の本文総てを画像で示す。

Oanaate


冒頭二首の短歌の「一游亭」は小穴隆一の俳号、「圓中」も小穴の別号で芥川はしばしば「圓中先生」と彼を呼称したようである。]

 右の文句のうちの『耕右衛門』とは、私が大正八年の十月号の「改造」に出した『耕右衛門の改名』という小説の題名から、芥川が、勝手に、私につけた名前で、私の目にふれたのでは、小穴にあてた手紙に使っている。しかし、客観的にいえば、この便〔たより〕りの文句としては、『宇野浩二』より『宇野耕右衛門』の方が趣きがある。そうして、全体の文句もいかにも芥川らしい洒落〔しゃれ〕ではないか。

 ところで、私は、こんど、これを読んで、芥川が私をたずねて来たのは、二月の十九日か二十日〔はつか〕(たぶん二十日の昼頃〔ひるごろ〕)である事を、はじめて、知った。そうして、もし芥川が二十日の昼頃にさそいに来たとすれば、私は、その誘われた日の晩に、いそいそと、東京を立った事になるのである。

 この事を知って、私は、自分の軽率さに、今更ながら、あきれた。そうして、私は、あの時、芥川が、あの不意の大阪ゆきに、私をさそったのは、深切でしたのか、退屈しのぎの道づれにしたのか、と、頭〔あたま〕をひねることがある。すると、あの時は、徹頭徹尾、芥川に為〔し〕て遣〔や〕られたような気がしたり、芥川が深切で誘ってくれたような気がしたり、するのである。

 しかし、結局、あれは、やっぱり、深切で誘ってくれたにちがいない、と、私は、思いかえすのである。というのは、あの時、芥川が大阪ゆきを誘いに来た時、私が「行きたいけど金ない、」と云うと、芥川は、言下に、「行けよ、金は僕がもつから、……」と云ったが、その時、芥川は余分の金など持っていないらしかったからである、それから、大阪に行ってからも、毎日新聞社から金を取った様子がなかったからである。

 ところで、この大阪ゆきから帰って、芥川が、三月二日に、薄田淳介に宛てて、支那旅行の費用について、質問したり、「御願い」したり、する手紙を書いているが、その手紙の大半はつぎのような箇条書〔かじょうが〕きである。

 ㈠ 旅費とは汽車、汽船、宿料 日当とはその外〔ほか〕旅行中〔ちゆう〕日割に貰ふお金と解釈してかまひませんかそれとも日当中〔ちゆう〕に宿料もはひるのですか

 ㈡ 上海までの切符(門司より)はそちらで御買ひ下さいますかそれともこちらで買ひますか或男の説によれば上海から北京と又東京までぐるり一周〔ひとまは〕りする四月〔つき〕つき通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい

 ㈢ 旅行の支度や小遣ひが僕の本の印税ではちと足〔た〕りなさうなのですが月給を三月〔つき〕程前借する事は出来ませんか

 又次ぎの件御願ひします

 ㈠ 旅費並びに日当はまづ二月〔ふたつき〕と御見積〔みつも〕りの上御送り下さいませんか僕の方で見積るより社の方で見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひますから

 ㈡ 出発の日どりは十六日以後なら何時〔いつ〕でも差支へありませんこれも社の方にて御きめ下さい自分できめると勝手にかまけて延びさうな気もしますから

 この箇条書きは、言葉はおだやかであり、上辺〔うわべ〕は、謙遜に見え、なにもかも靠〔もた〕れかかっているように思われるけれど、よく読めば、かなり強引〔ごういん〕なところもあり、ずいぶん勘定高〔かんじょうだか〕いところもあり、なかなか抜け目のないところもある。

 つまり、この箇条書きをよく読めば、㈠、旅費と日当を別のものと「解釈」し、日当の中に宿料も入れなければ、貰う方の条件は二重三重によくなるように思われるし、㈡、上海までの切符を買ってもらえば、それだけの汽船賃が助かるし、という事になるかもしれない。が、それらは私の例の臆測であるとしても、或る男の説として、「上海から北京と又東京までぐるり一周〔ひとまは〕りする四月〔つき〕通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい、」と云うところなどは、談判(つまり、掛け合い)としても、『至れり尽くせり』の観があるではないか、と云うのは尤もである。つまり、これでは、その頃の毎日新聞社の経理部にいかに豪物〔えらもの〕がいたとしても、「四月通用の切符」を捜〔さが〕さざるを得ないであろう、そうして、その上に、「三月〔つき〕程の月給の前借」㈢も承知し、二月〔ふたつき〕分の「旅費並びに日当」も送ったであろう。

 それから、この箇条書きの文章であるが、さきに述べたように、「日当中に宿料はひるのですか、」とか、「もしそんな切符があればそれでもよろしい、」とか、「前借をする事は出来ませんか、」とか、「社の方で見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひます、」(これが一番うまい)とか、その他、下手〔したて〕に出ているように見えながら、結局、上手〔うわて〕に出ている、つまり、先手〔せんて〕を打っている、――それに、私は、感心したのである、なにもかも、用意周到であり、常識的であり、抜け目がないからである。 ――芥川には、こういう所もあったのである。

[やぶちゃん注:文中の下線部は底本では「〇」傍点。

ここでの宇野の指摘は極めて核心を突いている。則ち、「生活者」たる芥川龍之介という男は、想像を絶してなかなかに「したたか」である、ということだ。これは先に宇野が引いた『或阿呆の一生』のなかの『械』の、

 彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。

という謂いを、我々が芥川の真実の告白として鵜呑みにしてはいけない、ということをも意味しているということに気づかねばならないのである。遺書に於いても、芥川龍之介はこの自死という土壇場でも新潮社との全集出版契約をけんもほろろに(『僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版肆を同じうせんことを希望す』という身勝手甚だしい理由から)破棄している。私の「芥川龍之介遺書全通 他 関連資料通≪二〇〇八年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫を是非、参照されたい。]

 ところで、ここで、私が奇特に感じ有り難く思うのは、

  見ずや、若草離々〔りり〕として、

  霞吐く野の末とほく、

  野馬〔のま〕うちむれて永き日を、

  あかぬ快楽〔けらく〕に酔ぬらし。   『尼が紅』の内

 

  墾道〔はりみち〕かよふ旅人の

  側目もふらで路せくに、

  ふりさけみれば、紫の

  雲のあなたに日は落ちぬ。       『尼が紅』の内

[やぶちゃん注:「墾道」新たに切り開かれた道、新道のことで、題名「尼が紅」は、「夕焼け雲」のこと。本来は「天が紅」で、訛って「おまんが紅」、音の類似から「尼が紅」とも書く。]

とうたった『暮笛集』の詩人、薄田泣菫が、このような手紙を、なくさないで、取っておいてくれた事である。

 さて、この芥川が薄田に宛てた手紙をよんで、私は、実は、はじめて、芥川にこういう性質もあった事を、知ったのであった。ところが、芥川が二月の中頃に、小穴に宛てた手紙の殆んど全部が『往生絵巻』のくわしい筋書であるのに、私は、一そう、目を見はった。つまり、一〔ひ〕と口〔くち〕にいえば、芥川が、生活でも、創作でも、一つの計画を立てると、ちゃんと、設計(あるいは筋)をつくり、それも明細に丹念につくり、それを著著〔ちゃくちゃく〕と実行する、常識を持った人であった事を、知ったからである。

 しかしたびたび云うが、こういう所があったために、芥川の小説が、窮屈になり、理づめになり、『自然』なところがなく、感情が乾〔ひ〕からびていて、冷たくて、作り物のように見えるのではないか。が、それもよい、それが芥川の小説らしい、という事になれば、である。しかし、私がもっとも不満に思うのは、あのような見事〔みごと〕な芥川の文学に何〔なに〕か肝心なものが欠けている事である。それを一〔ひ〕と口〔くち〕にいうと、ニュウアンス(nuance)がない事である。nuanceはフランス語であるから、辞書を引いてみると、「色・音・調子・意味・感情などの微細な差異。陰影。濃淡、明暗、」とある。ニュウアンスのない事――これが芥川の文学の最大の欠点の一〔ひと〕つである。

[やぶちゃん注:宇野の評は誤っている。芥川龍之介の作品には「ニュウアンス」は絶望的な意識の揺らぎとして非常に深く存していると私は思う。では、何故、宇野は芥川の作品は全く「ニュウアンスのない」ものばかりだ、というのか? それは宇野という生物の可視出来る波長域が、芥川という生物の持っている波長域よりも狹い、若しくは芥川龍之介の可視短波域(精神のマイナー域)の「色」が宇野には見えないか、長波域へと大きくずれているからにほかならない。これは個人の持って生まれた人格の相違だから仕方がないと言うべきであり(これは実は後文で宇野自身も認めている)――寧ろ、宇野は人間愛を素直に抱きとめることの出来る生物であり――私は――私は芥川龍之介という種の亜種である故に――私には宇野が「色」として感じない芥川龍之介の短波域を、その明度の非常に低いグラデーションを、あらゆる作品の中に、ありありと「見る」ことが出来るのである。]

 

 さて、この文章のはじめの方で、私は、『往生絵巻』の最後の「法師の屍骸の口には、まつ白な蓮華が開いてゐる、」というところを、「芥川一流のマヤカシの文句である、」と貶〔けな〕したことがある。(この考え方が変ったことは後〔あと〕で述べる。)ところが、芥川は、この『往生絵巻』について、小穴に宛てた手紙の中で、「…僕の小説[註――『往生絵巻』]は駄目、急〔いそ〕がされた為おしまひなぞは殊になつてゐなささうです、」と書いている。(私は、この手紙をよんだ時、これは『眉唾物〔まゆつばもの〕』である、と思った。)

 ところが、やはり、この小説を、正宗白鳥が、「国粋」[註―大正十年四月号]で読んで、この白い蓮華のところを、「小説の結末を面白くするための思ひ附き」である、と評し、「芸術の上の面白づくの遊びではあるまいか、」と非難している。

 すると、芥川は、この批評に対する自分の感想(というより意見)を述べた手紙を、正宗に出した。そうして、その手紙の中で、芥川は、あの白蓮のところは自信がある、というような文句(つまり、不服)を云っているそうである。

 私は、この芥川の手紙は読んでいないが、芥川はこの手紙を向きになって書いたにちがいない、と思うのである。それに、この正宗の批評は、独立したものではなく、雑文の中に入れられたものであるから、そういう事もいくらか芥川の気にさわったのかもしれない。

[やぶちゃん注:ここで宇野が問題にしている書簡は、旧全集書簡番号一一六二の正宗白鳥宛大正十三(一九二四)年二月十二日附書簡(田端発信)を指す。以下に、岩波版旧全集より、当該書簡を引用しておく(繰り返し記号「〱」は正字に直した)。

冠省文藝春秋の御批評を拜見しました御厚意難有く存じました十年前夏目先生に褒められた時以來嬉しく感じましたそれから泉のほとりの中にある往生繪卷の御批評も拜見しましたあの話は今昔物語に出てゐる所によると五位の入道が枯木の梢から阿彌陀佛よやおういおういと呼ぶと海の中から是に在りと云ふ聲の聞えるのですわたしはヒステリツクの尼か何かならば兎に角逞ししい五位の入道は到底現身に佛を拜することはなかつたらうと思ひますから(ヒステリイにさへかからなければ何びとも佛を見ないうちに枯木梢上の往生をすると思ひますから)この一段だけは省きましたしかし口裏の白蓮華は今で後代の人の目には見えはしないかと思つてゐます最後に國枠などに出た小品まで讀んで頂いたことを難有く存じます往生繪卷抔は雜誌に載つた時以來一度も云々されたことはありません 頓首

    二月十二二位   芥川龍之介

   正宗白鳥樣 侍史

なお、「往生絵巻」初出とこの書簡との間には、二年弱の大きなタイム・ラグがある点に注意されたい。]

 ところで、この小説は、枚数も十四五枚のものであり、芥川としては割りに早く書いたものであろう、芥川の作品としてもすぐれたものではない。しかし、はじめて雑誌で読んだ時は、やはり、最後の白蓮華が気になった程度であったが、こんど、何度目かで、読みなおしてみて、私は、ふと、芥川龍之介が五位の入道のような気がして、これは徒〔ただ〕の小説ではない。特殊な、小説である、と思った。

 ここで話がちょっと横〔よこ〕に逸れるが、いわゆる円本全集の先〔さ〕き駈〔が〕けとなった「現代日本文学全集」[註―菊判で六号三段組であったから、一ペイジ四百字づめ原稿紙で三枚半ぐらいであるから、全六十三巻のうち薄いのと厚いのはあるが、『芥川龍之介全集』などは五千枚ぐらいであろう]を出した改造社が、その「現代日本文学全集」の宣伝のために、その全集の作品を入れる幾人かの作家の日常生活の一端を活動写真に取って、それを、講演と講演との間に、うつして見せた事があった。といって、私は、その活動写真を、どういう時に、どこで見たかは、まったく忘れてしまった。が、見た写真だけは、うろおぼえではあるが、まずハッキリ覚えている。しかし、もとより、空覚〔うろおぼ〕えであるから、これから書く事もいくらかまちがっているかもしれない。この事を前もって断っておく。(後記――果〔は〕たして後に述べる芥川の映画が少しまちがっている事を滝井孝作に教えられた。)

[やぶちゃん注:「現代日本文学全集」の割注にある『芥川龍之介全集』は正確には同全集の一巻であるから「芥川龍之介集」とすべきところ。同全集第三十篇で芥川の死後、昭和三(一九二六)年一月に刊行されている。]

 さて、私が見たのは、三〔みっ〕つだけで、『里見篇』、『廣津篇』、『芥川篇』とでもいうべきものであろう。それはざっと、つぎのようなものである。

『里見篇』――広い庭の一隅らしい所に、一本〔ぽん〕の二間〔けん〕半ぐら小の高さの棒が立っている。その棒のさきから、一間〔けん〕半ぐらいの綱が、五六本、ぶら下〔さが〕っていて、その綱の端〔はし〕に手頃〔てごろ〕の鉄の輪がついている。――つまり、これは、子供たちが、反動をつけて、この鉄の輪に飛びつき、飛びつくとともに地を蹴り、地を蹴るとともに、体〔からだ〕を揺りながら、棒の廻りをまわる、というような運動具である。『旋回棒』とでもいうのであろうか。

 さて、晩写が開始されると、まず、この『旋回棒』(仮名)がうっる。『旋回捧』が写ると殆んど同時に、年〔とし〕よりずっと若く見える、(三十四五歳に見える、)里見と、九〔ここの〕つか十〔とお〕ぐらいの二人〔ふたり〕の男の子が、ホオム・スパンのズボンをはき、鳥打ち帽を阿弥陀〔あみだ〕にかぶって、きわめて真剣な顔をして、画面の一方〔いっぽう〕から、つぎつぎに、駈〔か〕け足で、あらわれた。現れるとともに、三人は、順順に、目にも止〔と〕まらぬ早さで、鉄の輪に飛びついた。鉄の輪をつかむとともに、三人は綱にすがりながら、魚のように体〔からだ〕をひらめかせながら、クルリクルリ、と、棒の廻りを、まわった。それで、三人の体〔からだ〕は、空〔くう〕ちゅうに跳ねかえるように見えたり、地を磨〔す〕るように見えたり、した。それで、その見事〔みごと〕さに、あれよ、あれよ、と見惚〔みと〕れているうちに、映画は、あえなくも、パッパッパッ、と消えてしまった。(ある専門家の話に、映画に取られる時、レンズが気にならなかったら、一人前〔いちにんまえ〕だ、という事であるが、この時の里見は『一人前』以上であった。)

[やぶちゃん注:「ホオム・スパン」 “homespun”(ホームスパン:一単語であるから中黒は不要)は、手紡ぎの太い紡毛糸を用いて手織りにした(現在の手織に似せて機械織りしたものも含む)素朴な印象と肌触りを与える毛織物。]

『廣津篇』――画面の左寄り七分〔ぶ〕ぐらいが廻〔まわ〕り縁〔えん〕の障子のはまった部屋を外〔そと〕から見た所。部屋の外に僅かに見える庭には草や木も生えていないようである。映画が開始されると、右の方から、やはり、年〔とし〕より若く見える、(三十二三歳に見える、)廣津が、ちょこちょこ歩〔ある〕きで、あらわれた。それと殆んど同時に、座敷の障子があいて、病柳浪が、縁まで、出て来た。(『病〔びょう〕柳浪』と書いたのは、柳浪が晩年ずっと病気をしていたからであるが、柳浪は、この映画に取られたのは、六十五歳の時分であろうか、豊頰で、目の大きな鋭い人であったから、それほど病人らしくは見えなかった、しかし、体格は岩乗〔がんじょう〕らしいのに、どこか弱弱〔よわよわ〕しく見えるところがあった。)さて、廣津は、実の姿があらわれると、にわかに、足を早めた、というより、小走りに、縁の方〔ほう〕へ、すすんで行った。と、子が近づいて来たのを見ると、縁側の中程まで出ていた柳浪は、顔全体が微笑するような表情をして、何〔なに〕か一〔ひ〕と言〔こと〕か二〔ふ〕た言〔こと〕いった。「やあ、」とか、「しばらく、」とか、云ったのであろうか。(これは、前にも述べたように、大正の終りか昭和の初め頃の映画であるから、もとより、『トオキイ』などは、まだ名称さえ知られなかった時分である。)さて、廣津も、それに応じて、何〔なに〕か云いながら、縁側に腰をかけた。

 廣津は、里見とまったく反対で、画面にあらわれた時から、既に、うつされる事を気にしているように思われた。それに、おどおどしでいるように見えたのは、廣津が、無類の親孝行な人であるばかりでなく、人および芸術家としての柳浪を心から尊敬していたからであろう。ところで、縁側に横むきに腰をかけた廣津が、はじめは殆んど後向〔うしろむ〕きになって話していたのが、写真を取っていた人に注意をされたのか、ふと、正面を向〔む〕いた。その時である。廣津が何〔なん〕ともいえぬ目眩〔まぶ〕しそうな極〔き〕まり悪〔わる〕そうな顔をしたのである。それを見ると、(廣津が、活動写真機のレンズが気になって、まぶしい顔をしたとは、愚鈍な私には、気づかなかったので、)友人の私は、何〔なに〕か気の毒なような気がして、画面の廣津の顔を、正面〔まとも〕に、見ていられなくなった。しかし、やがて、廣津父子の顔が、ならんで、こちらを向き、二人〔ふたり〕が殆んど同時に微笑した。そうして、二人が微笑するのと殆んど同時に、映画はすっと消えてしまった。見ていた私はほっとした。

 いよいよ『芥川篇』――画面ほとんど一ぱいが、珊瑚樹〔さんごじゅ〕を拡大〔かくだい〕したような、葉の殆んど全〔まった〕くない樹木〔じゅもく〕である。(さきに述べたように、この時みた映画の記憶はアヤフヤであるが、)この奇怪な樹木〔じゅもく〕の背後〔はいご〕に、たしか、背〔せ〕の、ひくい、平屋〔ひらや〕の、家屋〔かおく〕があった。これは、一〔ひ〕と目〔め〕で、陰気な風景であった。

 さて、映画が開始されると、すぐ、この陰気な暗い風景があらわれ、「おや、」と思っている間〔ま〕もなく、平屋の家の屋根の上に、頭〔あたま〕から、肩から、しだいに、姿をあらわしたのが、芥川だ。

 やがて、屋根の上に全身をあらわした芥川は、ぱっと両手を左右に開いたかと思うと、目にもとまらぬ早さで、枯れ木のような樹木の枝に飛びつき、両手で枝をにぎると殆んど同時に、飛鳥〔ひちょう〕のごとく、股〔また〕をひらいて、木の又〔また〕に両足をかけた。というより、両足を踏ん張っていたので、芥川は、ほとんど画面一ぱいの大木〔たいぼく〕の真中〔まんなか〕で、両手をひらいて枝をつかみ、股〔また〕をひらいて枝を踏ん張っていたので、ほとんど画面一ぱいに大〔だい〕の字になっていた。画面が暗〔くら〕かったので、画面全体が妙に気味わるく見えた。(この映画は、私は、芥川の死後に、見たのであるが、見た年月〔としつき〕は、忘れてしまった。ところで、この映画に出ている芥川は、手も足も丸見〔まるみ〕えの姿であったから、芥川が、この映画を取られたのは、死んだ年[註―昭和二年]の六月頃ではないか、と思う。とすれば、この映画は、芥川が死ぬ一〔ひ〕と月〔つき〕か二月ほど前に、取られた、という事になる。)

[やぶちゃん注:この宇野の記憶は錯誤がある。興味深いことに、この宇野の宇野の記憶は当該映像を逆回しにして述べているのである(これは病跡学的な見地からいつか検討してみたいと思っている)。以下、私なりに当該映像を説明してみる(以上の三篇を私はすべて、かつて芥川龍之介の文学展で実見しているが、一部の記憶がアヤフヤではある。一部実見可能なネット上の画像――1シークエンス3ショット――を元に説明してみる)。撮影場所は田端の書斎の前庭である(画面を右下から左上へ斜めに区切っている庭木。この庭木は縁側に恐るべき直近で生えており、配置は如何にもせせこましい。恐らく書斎の増築によってこうなったものと推測される)。

〇庭に降りている(若しくは降りてくる――その前にカメラがもっと引いていて手前に多加志のものと思われる三輪車のあるスチールが写真として残るから、この前があるかも知れない)芥川龍之介、その向かって(以後、総て観客から見て)やや左背後に小学校の制服を着た長男比呂志が麦藁帽子を被って立っており、しゃがんだ芥川のすぐ左側には前掛けを附けた次男多加志が頻りに目や顔を擦りながら立っている。

比呂志が自分の被っていた麦藁帽子を取って父龍之介の頭に被せる。

それを芥川は左手で自分の頭に落ち着かせる。

その後、三人は一時、スナップぽくカメラの方に視線を送る(この時、龍之介は少し笑ったように見える)。

〇直後にその場所のままに、しゃがんだ麦藁帽子を被った龍之介の胸部上から頭部がアップにされる。

龍之介、右手で両切り煙草を出して右の口に加えると、マッチで火を点け、やや眉間にしわを寄せて、六回ほど、銜えたままで、すぱすぱと煙を吹く。五回目で右手で口中央へ、六回目で反対側の左口端へと煙草を銜え直す。

〇カメラは下がって、縁側中央に座る多加志が、木を見上げており、比呂志が既に木に登っている。

右手の木の根元には龍之介が立ってやはり比呂志を見守っている。

比呂志は悠々と登り切って、軒の上を右手に歩いて消える(ここは比呂志の足元のみ)。

龍之介、比呂志が登り切って、軒に移るのとほぼ同時に、多加志のいる前の沓脱石に立って木に攀じ登る(この時、芥川龍之介が股引足首まである股引を穿いているのが分かる)。

木の高みで両手を左右の枝に添え、カメラに向かって一種の見得を切って立つ(その前から、カメラがティルト・アップするため、急に光量が過剰になって、表情などはよく見えない。その後、比呂志と同じく、画面右手に軒を歩いて姿を消す。

この謂わば、円本全集販売促進用のプモーション・ヴィデオは個人ブログ「神保町系オタオタ日記」の円本全集の広告合戦と久米正雄監督の映画などによれば、三十五ミリで撮影されたもので、正式な名称は「現代日本文学巡礼」、コンセプトは『諸作家の日常生活を映画に撮り、全国各地の文藝講演会で上映するという企画』で、改造社社員の水島治男(後に起こる有名な言論弾圧である横浜事件で逮捕された出版人)が『文学青年に仕立てられ、各作家を訪問するという趣向で』、久米正雄が監督、出演は挙げられている里見弴・廣津柳浪・和郎父子・芥川龍之介以外に徳田秋聲、近松秋江、上司小剣、小山内薫、佐藤春夫、武者小路実篤などが出演した、とある(現在は「こおりやま文学の森資料館」が所蔵)。なお、「この映画を取られたのは、死んだ年[註―昭和二年]の六月頃ではないか、と思う」とあるが、複数の記載から、芥川龍之介の撮影は宇野の言う通り、昭和二(一九二七)年六月に行われたと推定される。正に芥川龍之介自死の一ヶ月か一ヶ月半程前の撮影ということになる(但し、現在の芥川龍之介の年譜には記載がない)。]

 ところで、私は、この映画で、芥川が、屋根の上に全身をあらわした時、先〔ま〕ず、ひやッとした。それから、その、痩せさらばえた、『骨と皮』のようになった、芥川を見、髪の毛が少〔すく〕なくなって額がますます広くなり、頰がこけ、長い眉毛が釣るしあがり、目がくぼみ、大きな切れの長い目が三角になり、その目がぎょろりと光り、口の大きく裂〔さ〕けた芥川の顔を見た時、私は、ぎょっとした。人間世界の人ではないような気がしたからである。

 さて、木にのぼり、あらい網の目のように木の枝が交錯している中〔なか〕に、両手をひろげて木の枝をつかみ、木の下枝〔したえだ〕をふんで、大の字に、立ちはだかった芥川は、やはり、活動写真機のレンズが気に、なったので、そういう妙な振る舞いをしたのかもしれないが、この振る舞いは、見ている私には、かなり気味わるく、ひどく異様に、鬼気が迫〔せま〕るようにさえ、感じられた。芥川は俳号を『我鬼』と称した。『我鬼』というのは芥川の造語であろう。いずれにしても、『鬼』とは、「亡魂」、「亡霊」などという言葉の古語であり、仏教では、「地獄にある獄卒。人類の形をなし、口は耳の辺まで裂けて、鋭き牙を有し、頭に牛角生〔は〕え、裸体にて腰に虎の皮をまとい、相貌獰悪にして、怪力ありと想像せらる。羅刹〔らせつ〕、夜叉、」という事になっている。『羅刹』とは、梵語で、『悪鬼』という意味である。ところで、この陰気な映画にあらわれた芥川は、誇張して云えば、あの世の『鬼』ではなく、この世の『鬼』というような観がしたのである。

[やぶちゃん注:「獰悪」は「どうあく」と読み、性質や容貌が凶悪で荒々しいこと。

宇野のこの映像の芥川龍之介の描写はやや大袈裟ながら、正しい。私の友人でも、複数の者が、この芥川の映像は気持ちが悪い、と言う。確かに、煙草を吸うシーンの表情や樹上の見得のシーン――というより、何か、虚空を茫然と見つめて立ち尽くすシーン――には、一種の鬼気迫るものを感じずにはおかないものである。]

 

 ところで、私がこのような事をながながと述べたのは、私は、この映画を見た時、故事〔こじ〕つけではなく、『往生絵巻』の、最後の方の、五位の入道が、「幸ひ此処〔ここ〕に松の枯木が、二股〔ふたまた〕に枝を伸ばしてゐる。まづこの梢〔こずゑ〕に登るとしようか、」と云って、枯木の枝に、登って、餓死するところを思い出し、悲惨であるべきあの場面に悲惨な感じが殆んどしないで、(他の人が出れば愛敬〔あいきょう〕にもなり諧謔の味のようなものも出るかもしれないのに、この芥川の木のぼりの映画の方が、ときどき正面〔まとも〕に見ていられなかったほど、凄惨な感じをうけたからである。

[やぶちゃん注:あの映像と「往生絵巻」のラスト・シーンを結びつけた宇野のそれは恐るべき慧眼である。]

 しかし、前に書いたかと思うが、私は、この『往生絵巻』を雑誌で読んだ時は、眉をひそめたのである。私が、こういう、簡単にいえば、厭世的な小説を、頭〔あたま〕から好まなかった上〔うえ〕に、芥川がこのような小説を書いたことが気に入らなかったからである。私は、芥川に、こういう小説を書くなよ、と云いたい、と思った程であるからである。

 ところが、これは、やはり、私の愚鈍のためで、(それに、性質がまったく違うからでもあろう、)到底〔とうてい〕、無理な事であったのだ。つまり、その時、芥川は、三十一歳であるが、もともと、こういう小説を書く人であったからだ。それから、芥川のもっと親〔した〕しい友人たちほど、私は、(芥川の、上辺〔うわべ〕だけ知っていて、)芥川という人をよく知らなかったのである。あるいは、また、芥川が、私には、自分の性質の一面しか見せなかったのかもしれないのである。

 いずれにしても、芥川は、私には、一生〔しょう〕の中でなかなか得られない友のうちの一人であり、みじかい交際ではあったけれど、ありがたい友だちの一人であった。殊に、わたくし事ではあるが、つぎつぎと同じ年頃〔としごろ〕の友人が世を去ってゆくにつけて、もし芥川が……と思うことがしばしばある。

 

 芥川が門司から上海ゆきの船に乗ったのは大正十年の三月二十九日である。ところが、芥川は、上海につくと間〔ま〕もなく、乾性肋膜炎にかかって、三週間ぐらい入院した。

[やぶちゃん注:「門司から上海ゆきの船に乗ったのは大正十年の三月二十九日」とあるが、正しくは三月二十八日である。上海到着は三十日午後、四月一日には上海の里見病院に入院、退院は同月二十三日。この辺りの顛末は、私の電子テクスト「上海游記」及び私の注をご覧戴きたい。

「乾性肋膜炎」乾性胸膜炎。肺の胸膜(=肋膜)部の炎症。癌・結核・肺炎・インフルエンザ等に見られる症状。胸痛・呼吸困難・咳・発熱が見られ、胸膜腔に滲出液が貯留する場合を湿性と、貯留しない乾性に分れる。以前にこの乾性肋膜炎の記載を以って芥川を結核患者であったとする早とちりな記載を見たことがある。この初期の芥川の意識の中に、そうした不安(確かに肋膜炎と言えば結核の症状として典型的であったから)が掠めたことは事実であろうが、旅のその後、それらを帰国後に記した「上海游記」の筆致、更にはその後の芥川の病歴を見ても、結核には罹患していない。]

 前にもたびたび書いたように、芥川は、もともと、蒲柳の質であった、というより、病身であった、つまり、体〔からだ〕が弱くて、よく病気にかかったのである。しかし、私は、こういう事さえ、芥川とつきあっていた時分は、殆んど全〔まった〕く知らなかったのである。

 ところで、この支那旅行は、芥川が、かねて望んでいたものであるが、創作のユキヅマリを打開するためでもあったのではないか。しかし、又、この支那旅行は、病身な芥川には、ずいぶん無理であったらしい。下島 勲も、この事について、「支那視察に行かれたときは、感冒後の気管支加答児〔かたる〕が全治しないのを、種々の都合で決行した。「案じた如く大阪の宿で発熱する。無理に船に乗つて上海に上陸早々肺炎を起〔おこ〕して入院する、」と書いている。

[やぶちゃん注:引用は下島勲の「芥川龍之介氏のこと」によるものである。

「気管支加答児〔かたる〕」は、現在の気管支炎のこと。「加答児〔かたる〕」は英語“catarrh”(カタル)で、感染症感染の際に生じる粘膜腫脹及びその炎症部位から粘液と白血球からなる濃い滲出液の浸出を伴う病態を言う。主に喉粘膜での病態を言うが、他の粘膜部でも用いる。]

 この無理がたたって、芥川は、支那旅行から帰ると、すく持病の胃病と痔疾と神経衰弱に、なやまされている。(ここに「持病の痔疾」と書いたのは誤りである、というのは、芥川がその年〔とし〕の、九月八日に、薄田にあてた手紙の中に「何分小生の胃腸直〔なほ〕らずその為痔まで病〔や〕み出し床上に机を据ゑて書き居る次第、」と述べ、九月十三日に、下島にあてた手紙の中に、「この間の下痢以来痔と云ふものを知り恰も阿修羅百臂の刀刃一時に便門を裂くが如き目にあひ居り候へば……」と書いているからである。これで見ると芥川が、晩年に、神経衰弱と殆んど同じくらいに悩〔なや〕まされていた痔疾にかかったのは、大正十年の秋、という事になる。すると、芥川は、神経衰弱と胃病のほかに、死ぬまで、五年あまり、痔疾になやまされていた訳〔わけ〕である。そうして、この芥川の痔疾は、脱肛であったから、寒い夜中に勉強をし過ぎたり、気候のわるい時分に仕事に根〔こん〕をつめ過ぎたり、すると、おこるのである。そうして、それが起こると、ときどき、はげしい疼痛をじたり、出血したり、する。これでは、丈夫な着でも、殊に筆をとる者には、やりきれないから、まして、芥川のような病弱な人には、いっそ死ぬ方がましだ、と思われたにちがいない。

[やぶちゃん注:「阿修羅百臂」旧闘争神である阿修羅は知られた造形は三面六臂であるが、この阿修羅が百本の腕で、それぞれに刀を持って、その百本を肛門に一斉に突き立てたと思われるような痛み、という諧謔(本人には諧謔どころではないのだが)である。]

 さて、幾度も云うが、支那旅行のために、芥川は、健康をますます悪〔わる〕くした上〔うえ〕に、経済的にも無理をしたようである。それから、これも、わぎとしばしば書くが、芥川は、誰もが意外に思うほど、複雑な家庭の事情にしじゅう悩〔なや〕み、その負担に苦〔くる〕しみつづけていた、それに、原稿料の前借のようなものまで一〔ひ〕と方〔かた〕ならず気にする男であった、一〔ひ〕と口にいうと、実に気の小〔ちい〕さい人であった。

 ところで、芥川が支那旅行から帰った月日〔つきひ〕は、(はっきりわからないが、)七月の下旬頃であろう。いずれにしても、前に述べたように、芥川は、帰国してから、間〔ま〕もなく病気になった。が、病気を押しながら、(つまり、痔になやみながら、)芥川は、ある時は、床〔とこ〕の上に机を据えて、毎日新聞に連載することを約束した、『支那游記』を、ときどき休みながらも、書きつづけた。これは、何〔なに〕よりも、芥川の責任を重んじる気もちを現している。しかし、それとともに、これは、芥川の健康をますます悪〔わる〕くする本〔もと〕になった。

[やぶちゃん注:「芥川が支那旅行から帰った月日は、(はっきりわからないが、)七月の下旬頃であろう」現在の年譜上の知見よれば、芥川龍之介の帰国は七月十七日頃(何故か現在でも明確でない)である。]

 芥川は、十一月の二十日に、薄田にあてた手紙のなかに、「支那旅行[註―『支那游記』]の為文債をのばして行つたのとその後体〔からだ〕のわるい為もろもろの雑誌編輯者より原稿をよこせよこせとせめられ病軀その任にたへず実際へこたれ切つてゐます仰ぎ願くは新年号を退治するまで御待ち下さるやう願ひますその代り今度始めたら中絶しませんこの頃神経衰弱甚しく催眠薬なしには一睡も出来ぬ次第、……」と書いている。

[やぶちゃん注:「文債」は「ぶんさい」と読み、締切りまでに完成出来ない原稿をいうが、どうもこれは、夏目漱石の造語である可能性が高い(そもそもこの意味内容自体が近代的である。)。岩波旧全集書簡番号八四三、小宮豊隆宛明治四十(一九〇七)年十二月十六日附書簡に、

  文債に籠る冬の日短かゝり

という漱石の句がある。因みに、同全集の第十七巻「索引」の語句・次項索引にも見出しとして「文債」はない。]

 この手紙の中の、「新年号を退治する」とは、「新年号の小説を書きあげる」という程の意味である。それから、『十一月二十四日』頃から新年号の小説を幾つか書く、というのは、その時分の諸雑誌の新年号の小説のシメキリはたいてい十二月の十五六日であったからだ。(『今昔の感』という句があるが、新年号の諸雑誌⦅娯楽雑誌と婦人子供雑誌はいつの代〔よ〕でも例外なり⦆のシメキリが十二月の十五六日であつた頃は、なつかしく、ありがたき哉。)

 さて、芥川は、その時の新年号には、(つまり、大正十一年の一月号の雑誌には、)『将軍』(「改造」)、『藪の中』(「新潮」)、『俊寛』(「中央公論」)、『神神の微笑』(「新小説」)の四篇を、発表している。これで見ると、さきに引いた芥川の手紙の中の言葉を本当とすれは、芥川は、十一月二十五六日から十二月十五六日までの間〔あいだ〕に、(つまり、二十日〔はつか〕ぐらいの間に、)四篇の小説を書いた訳である。しかも、枚数をしらべてみても、四百字づめの原稿紙でかぞえると、(芥川は二百字づめの原稿紙を使っていたが、)『将軍』と『俊寛』は五十枚ほどであり、『藪の中』と『神神の微笑』は二十四五枚ぐらいであるから、みなで百五十枚ほどである。すると、二十日で百五十枚であるから、一日に七枚の割りになる訳である。

 しかし、これは、これだけ云えば、見事なように思われるけれど、この四篇の小説の中で増しなのは『藪の中』だけで、『将軍』は、まあまあというところで、思いつきだけの物であり、『俊寛』は失敗作であり、『神神の徴笑』も軽〔かる〕すぎる。

 これらの事は辛〔つら〕い病気を押して書いたためか。それもある。しかし、それよりも、手紙では「新年号を退治する」と軽〔かる〕く書いているけれど、この時、芥川が、「睡眠不足」をしのび、「食欲減退」に苦〔くる〕しみながら、せっせと原稿を書いたもっとも主〔おも〕な理由は、あの手紙にあるように、「のばして行つた」『文債』のためであったのではないか。

 ここで、私は、腕をくんで、考える。――極めて大ざっばな考えではあるが、支那旅行は、芥川の短かい一生の中の、もっとも重大な一〔ひと〕つである、と。支那旅行は、芥川の病弱な体〔からだ〕を一そう病弱にした、それは、直接ではなくても、芥川が幾つかの不治にちかい病気にかかる本〔もと〕になった、それは、又、芥川の命をちぢめる本〔もと〕の一〔ひと〕つにもなった、そればかりではない、それは、芥川のもっとも大事〔だいじ〕な芸術の道の邪魔におちいる本〔もと〕にもなった。

 

 それから、さきに述べたように、芥川が支那旅行に出る頃、芥川の芸術がユキヅマリになりつつあった。かぞえ年〔どし〕二十五歳の三月に、処女作『鼻』によって忽ち世にみとめられ、大学時代に原稿料を得た、という芥川が、三十歳の年にユキヅマリを感じるのは当然である。それは、芥川ばかりではない、殆んどあらゆる作家は、五年も書きつづければ、たいていユキヅマリを感じる。まして、芥川のような小説は必ずユキヅマリがくる。しかし、あまりに若くして大家になり過ぎた芥川は、その性質にもよるけれど、その『ユキヅマリ』を気にし過ぎた、神経衰弱になるほど気にしたのである。

 さて、私は二〔ふ〕た言目〔ことめ〕には、『支那旅行』、『支那旅行』というが、それは、この『支那旅行』を境〔さかい〕にして、芥川の小説の作風(と題材)が変ったからでもある。もっとも、大正十一年の四月には、『報恩記』、それから、大正十二年までの間に、『六の宮の姫君』、『おぎん』、『糸女覚え書』、その他の、初期(あるいは中期)の芥川風の小説が幾つかあるけれど、だいたい、大正十三年を境にして、それ以後の物は、いわゆる『保吉物』、それから、『大導寺信輔の半生』、その他の作者自身が主人公になっているような小説が多くなった。

 その大正十三年以後の小説の中で、芥川の小説らしくない、と云いながら、評判のよかった、『一塊の土』と『トロッコ』は、さきに述べたように、他人の作品を焼き直した物であり、『庭』というちょっとした味のある小品は小穴から聞いた話を本〔もと〕にした物である。しかし、晩年の、(死の三年前から死ぬ年までの間に書かれた、)心境小説風の作品の中には、側側として人の心を打つ小説がある。しかし、それらの小説は、たいてい、小説、というより、小品である。

 私は、これもたびたび述べたが、芥川の初期(と中期)のいわゆる芥川らしい小説は、もとより、私などにはとうてい書けない物であるかち、一と通〔とお〕り感心はしたけれど、いつも、何〔なに〕か彼〔か〕か、不満を感じるのであった。

 ところが、心境風の小説は、肌が合うので、おおかた、感心し、中には、いたく心を打たれる物があった、いや、心を打たれる物がたくさんあった。しかし、それらの小説や小品の多くは、いたく心を打たれながら、あまりに痛まし過ぎたり陰気すぎたり、中にはほんの少し妖気のようなものが漂〔ただよ〕うたり、するので、ときどき、芥川は近頃どうしてこんな物を書くのであろう、と、妙に心配になる事があった。

 結局、私は、『歯車』などをも含めて、芥川の小説は、一般に評判のよい、晩年の心境物(と身辺を書いた物)より、初期(と中期)の芥川らしい小説の方を買うのである。もとより、私も晩年の心境物(と身辺を書いた物)は大へん好〔す〕きであるが、芸術の上から見て、芥川の芸術として、私は、断然、芥川の初期(と中期)の芥川らしい小説を取るのである。そうして、私は、この方が正〔ただ〕しい、と信じているのである。

2012/04/19

教え子への返歌 歐陽修 醉翁亭記 やぶちゃん義太夫風現代語訳

歐陽修の「醉翁亭記」は二十五六年前に読んだきりで忘れていた。
一つ暇に任せて訳してみようと思い立つ。
せめてもの、古き教え子への正しき返歌として――

原文は文言版維基文庫の「醉翁亭記」を用い、句読点及び記号の一部を変更した。訓読(句読点を増補改変し、一部に歴史的仮名遣で読みを振った)と現代語訳に際しては、一部の難解な部分に昭和五十三(一九七八)年朝日新聞社刊「中国古典選 唐宋八家文」所収の清水茂氏の解説・通釈を参考にさせてもらったが、訓読も訳も、あくまで自然流であるから、学術的には使用不可である。語釈は付けると膨大になり、時間もかかるので、今回は現代語訳のみとした。

……而して、訳しながら思ったこと――章末には載道の儒教精神の発露を覗かせながら、その実、百花を愛でて川端に酔って天然自然を見巡り、遊び、居眠りをする欧陽先生は道家的人物を色濃く反映し、最後の楽を知る/知らないという論理も反転させれば、鳥も客も太守も「知る/知らない」という関係性を越境して渾然一体となる「自然」である。そこでは総てが「知る/知られている」のであり、それは正に「荘子」の「知魚楽」(外篇 秋水第十七)を髣髴とさせるではないか――などと勝手なことを考えた。

醉翁亭記 歐陽修

環滁皆山也。其西南諸峰、林壑尤美。望之蔚然而深秀者、琅琊也。山行六七里、漸聞水聲潺潺、而瀉出於兩峰之間者、釀泉也。峰回路轉、有亭翼然臨於泉上者、醉翁亭也。作亭者誰。山之僧智仙也。名之者誰。太守自謂也。太守與客來飲於此、飲少輒醉、而年又最高、故自號曰醉翁也。醉翁之意不在酒、在乎山水之間也。山水之樂、得之心而寓之酒也。

若夫日出而林霏開、雲歸而巖穴暝、晦明變化者、山間之朝暮也。野芳發而幽香、佳木秀而繁陰、風霜高潔、水落而石出者、山間之四時也。朝而往、暮而歸、四時之景不同、而樂亦無窮也。

至於負者歌於途、行者休於樹、前者呼、後者應、傴僂提攜、往來而不絕者、滁人遊也。臨溪而漁、溪深而魚肥、釀泉為酒、泉香而酒洌、山肴野蔌、雜然而前陳者、太守宴也。宴酣之樂、非絲非竹、射者中、弈者勝、觥籌交錯、起坐而諠譁者、眾賓歡也、蒼顔白髮、頹然乎其間者、太守醉也。

已而夕陽在山、人影散亂、太守歸而賓客從也。樹林陰翳、鳴聲上下、遊人去而禽鳥樂也。然而禽鳥知山林之樂、而不知人之樂、人知從太守遊而樂、而不知太守之樂其樂也。醉能同其樂、醒能述以文者、太守也。太守謂誰。廬陵歐陽修也。

〇やぶちゃんの書き下し文

醉翁亭の記   歐陽修

滁(じよ)を環りて皆、山なり。其の西南の諸峰、林壑(りんがく)、尤も美なり。之を望むに蔚然(ゐぜん)として深秀なるは、琅琊(らうや)なり。山、行くこと六七里、漸く水聲潺潺(せんせん)として、兩峰の間に瀉(そそ)ぎ出づるを聞くは、釀(ぢやうせん)泉なり。峰(みね)、回(めぐ)り、路(みち)、轉じて、亭、翼然として泉上に臨む有り。醉翁亭なり。亭を作れるは誰〔た〕そ。山の僧、智仙なり。之を名づくは誰そ。太守、自ら謂ふなり。太守と客と、此に飲み來たり、飲むこと少(わづ)かにして輒(すなは)ち醉(ゑ)ひ、而も年、又、最も高く、故に自ら號して醉翁と曰ふ。醉翁の意、酒に在らず、山水の間に在る。山水の樂は、之を心に得て之を酒に寓する。

若し夫れ、日出でて林霏(りんぴ)開き、雲、歸りて、巖穴、暝く、晦明變化(へんげ)するは、山間の朝暮なる。野芳(やほう)、發(ひら)きて幽香あり、佳木、秀いでて繁陰あり、風霜高潔にして、落ちて石の出づるは、山間の四時なる。朝(あした)に往き、暮れに歸り、四時の景、同じからず、而して樂しみも亦、窮まり無きなり。

負ふ者は、途に歌ひ、行く者は、樹に休らひ、前(まへ)にある者は呼ばはり、後ろにある者は應(こた)へ、傴僂提攜(うるていけい)、往來して絶へざる者に至りては、滁の人の遊なり。溪に臨みて漁(すなどり)すれば、溪(たに)深くして、魚、肥え、泉を釀(かも)し、酒を為(つ)くれば、泉、香んばしくして、酒、洌(きよ)し。山肴野蔌(さんかうやそく)、雜然として前に陳(なら)ぶれば、太守の宴なる。宴、酣(たけなは)の樂しみは、絲(し)に非ず、竹(ちく)に非らず、射る者の中(あた)り、弈(えき)する者の勝てば、觥籌交錯(こうちうかうさく)、起坐して諠譁する者は、眾賓(しゆうひん)の歡びなる、蒼顔白髮、其の間に頹然たる者は、太守の醉ひなる。

已にして、夕陽、山に在り、人影散亂、太守歸りて、賓客、從ふ。樹林陰翳、鳴聲上下、遊人去りて禽鳥樂しむ。然して禽鳥山林の樂しむを知り、人の樂しむを知らず、人は太守の遊に從ひて樂しむを知りて、太守の其の樂しむを樂しむことを、知らざるなり。醉ふては能く其の樂しみを同じくし、醒めては能く述ぶるに文を以てするは、太守なり。太守とは誰(た)れをか謂ふ。廬陵の歐陽修なり。

〇やぶちゃんの勝手自在現代語訳

醉翁亭の記   歐陽修

滁州(じょしゅう)は見巡(みめぐ)り、山また山、
その西南に控かえしは、
峨々たる峰に森と谷、
その言いようもなき美しさ。
眺望遠望、深奥の、
彼方に聳ゆる峰々は、
かの知られたる琅琊峰(ろうやほう)。
山を行くこと六、七里、
次第次第に耳に入る、
さやりさやさや流る音(ね)は、
双(ふた)つ峰(みね)より湧き出づる、
聞こえた、その名も釀(じょう)の泉(せん)。
峰を巡りて、路うねり、
辿(たど)り着きたる四阿(あずまや)の、
醸の泉(いずみ)に寄り添うて、
翼広げし鳥の如(ごと)、
建ってあったが、醉翁亭。
――「この亭を、さても建てたは、誰じゃいの?」
――「山僧、智仙と申す者。」
――「この亭を、さても奇体に名づけしは、一体、どこの何様じゃ?」
――「滁州の太守……この儂(わし)じゃ。」
太守は客を連れ来たり、はるばる亭まで飲み来たる、
一口舐めたばかりにて、太守は直(じき)にべらんめえ、
しかもすっかり爺いなれば、
さすればこそと自ずから、
「醉翁てふは儂のこと」、
さてもところがその醉翁、その心根の向くところ、
全く以て酒に、ない――
そは美しき、この山水、そこにこそのみ、あるのじゃて――
かの「山水の楽しみ」を、直ちに心にともにする、
而して酒は、方便じゃ――

ためしにともに見るがよい――
曙(あけぼの)、東雲(しののめ)、日の出づる、
靄(もや)から森が開けてゆき――
彼誰(かわたれ)、黄昏(たそがれ)、逢魔が時、
昼間に降った雲々も、元の山へと帰り去り、
山崖虚空(さんがいこくう)の岩窟も、
今はすっかり玄(くろ)うなる――
昏く明るく、明暗に――永遠(とわ)に変われる日々のそれ――
それ、この山峡(やまかい)の、明け暮れの、天然自然の「真(まこと)」なり……
草木の薫る春の日に、花の開きてそこはかと、えも言いがたき香りして――
夏の緑樹のすくすくと、茂り繁りて木蔭あり――
白き秋風、吹きすさび――
川面(かわも)の冬は水落ちて、河床(かしょう)の石もはや露(あら)わ――
それ、山峡(やまかい)の四季という、「楽(らく)」たるものの「真(まこと)」なり……
かくも愛(いと)しき明け暮れに、
かくも愛(いと)しき四時の間(ま)に、
朝に出できて、暮れに歸(き)す――
四時の景色は同じうせず――
さすれば「楽(らく)」も、永劫に窮まり盡くることも、なし――

荷を負う人は路(ろ)に歌い、
旅ゆく人は、樹(き)に休らい、
前なる者の呼ばわれば、
後(あと)なる者はそに応え、
腰の曲がった老爺(ろうや)から、
手をひかれゆく童(わらべ)まで、
絶えることなき行き来にも、
この変哲もなき四阿(あずまや)は、
たかが四阿、されど四阿、
滁州の民の心の「遊(ゆう)」じゃ。
谷に臨んで魚をとり、
淵、深ければ、魚も肥え、
清泉汲んで、酒醸(かも)さば、
泉は山の香を含み、
醸(かみな)す酒は清冽々(せいれつれつ)。
山幸、野の幸、そのままに、
田舎料理の太守の宴(えん)。
宴、酣(たけなわ)の楽しみは、
琴に非ず、
笛に非ず、
投壺や囲碁の、ざっくばらん、
壺を射とめるも、射とめぬ者も、
石打勝つたるも、負けたる者も、
互いに酒を酌み交わし、
今宵は、なんの、無礼講、
踊れ、詠(うた)えの大騒ぎ、
客人すっかりご満悦。
――その群衆のただ中に――
しょぼくれ顔の、白髪(しらがみ)の、
ぐでんぐでんの、爺いが一人、
それぞ、お馴染み、酔いぐれた、おいぼれ太守の襤褸(ぼろ)姿。

――夕陽もすっかり山の端(は)に、
落ちてしもうて、人影も、すっきりまばらとなりまして、
太守御帰還、賓客、お供――
森は翳って――
されど、それ――鳥の声の、しきり騒ぐ声(ね)のするは――
物見の民の、喧(かまびす)しき皆、去りゆきて――
野の鳥の、おのが天地を、十全に、心ゆくまで楽しめる――
――然して、鳥は心から、この山林の「楽(らく)」を知り――
――されども人の「楽しみ」の、野点(のだて)の宴(えん)の「楽」知らぬ――
――また客人は、老いぼれの、太守がここで飲んだくれ、居眠りこける「楽しみ」を、それだけ知ってはおるものの――
――老いぼれ太守はその瞬時、滁州の民草(たみぐさ)心より、幸(さち)に生くるの思いの強く、さすればこその「楽しみ」と、酔うた心に満ち足りて、その「楽しみ」をただ独り、楽しみおるを、知りもせぬ――
――さても――
酔うたら、何時(いつ)でも、悦び、一緒!
――じゃが――
酔いが醒めても、その「楽しみ」、
確かにしっかとくっきりと、
文に綴れる芸当を――やらかす奴こそ――この、太守――
――「太守、太守、と……誰やねん?」
――「この儂、廬陵の歐陽 修じゃ。」……

こんなことが出来るのも、野人なればこそ――至福じゃわい――藪野直史

2012/04/18

中国にいる教え子からの消息文

以下に示すのは三日前に僕の古い教え子から貰った消息である。彼は彼の仕事の関係で現在、中国の上海に家族とともに居る。僕はこんな、僕自身を啓発してくれる便に出逢った時、本当に教師をして(「いて」ではなく、完全な過去形であるが)よかったと思うのである。こんな達意で、尚且つ、胸に迫る、そして読む者誰をも、ちょっぴり微苦笑させる素晴らしい文章を書ける彼と友――最早、今はしゃっちょこばった師弟なんぞではない、対等な友であることを誇りに思うのである。僕は偶々「教師」として、彼を教えたに過ぎないのだが、僕が三年間担任でもあって、彼はまた何と僕の現代文しか高校時代に教わっていない如何にも不幸な人物なのである。その彼のこの文の響きは、どうか。正に「文藻」とは、かくの如きものを言うという見本を他の人々にも知って戴きたいのである。彼は奈良をこよなく愛し、能をこよなく愛し、中国をこよなく愛し、家族をこよなく愛する好青年である(僕の中の――puer eternus――プエル・エテルヌス(永遠の少年)という意味に於いて好「青年」であり続ける)。先程、本人からの承諾も得た(著作権は彼にある。引用の際は、このブログからの引用であることを必ず明記されたい)。本名は明かさない。ただ「私の古き友」としておく。

先生、
今日は欧陽脩の名文「酔翁亭記」に誘われて、中2の長男と二人、安徽省滁州に新幹線で日帰り小旅行。薄曇りなのに長袖では汗ばむような陽気に、夏がもうそこまで来ているのを実感しました。小高い丘が連なる市街南郊の風景区には靄もかかり、大陸特有のどんよりした重い空気は、歩くと抵抗力さえ感じられました。肝心の酔翁亭は、大陸でよく見かけるような東屋で、そういう知識を持って見なければ特に感慨も沸かないような代物でした。しかし、私は暮れ行く春に身体ごと包まれる幸福を味わいました。小川に沿った小径の両脇は見渡す限り眩しい若葉に覆われ、藤色やピンクの花をつけた木々がところどころ夢のように佇んでいました。「暮れゆく人生の春」というような日本のどこかの詩句を思い浮かべながら、非日常の感覚を深く味わいました。一千年前にここを訪れた欧陽先生も同じような想いにとらわれたのかもしれません。そうでなければ、人を酔わせるあの名調子は紡ぎ出せなかったでしょう。そうして同じ感性が、東の島国からやってきた私の中に本当に生きているらしいことを不思議に感じ、密かに喜ばしく、そして誇りにも思いました。

今日はそれだけでは終わりませんでした。さきほど帰宅途上の上海地下鉄の列車内で、親子三代の一行に行き遭いました。三十そこそこの父親が車内に掲示された地下鉄路線図を仔細に調べていましたから、恐らくめったに上海に出て来ない郊外の家族が上海動物園にでも遊びに来た帰りだったのでしょう。孫の相手をしているおばあさんが列車の床に尻をついて座りこんだのも、年の頃幼稚園くらいの孫に、その場でシャボン玉遊びをさせたのも、中国生活5年を超えた私の想定範囲内でした。しかし、その子供のズボンを下ろして堂々と床に直接小便させたのには、さすがに度肝を抜かれました。周囲の乗客も、困ったなという苦笑い。

欧陽先生がタイムスリップしてあの地下鉄車内に乗り合わせたら、どうお感じになったでしょう。最近になってやっと私は、一千年前のこの国の文化のひとつの最高峰であった欧陽先生の美意識と、あのご家族を結ぶ線を、何となく思い描くことができるような気がします。とても乱暴ですが「生きていることをありのままに楽しむ」という、細いですが確かな線です。勝手な思い込みかもしれません。しかしこの国は、「美しいものは清浄な床の間に飾ることができる」という日本とは、もっと根底から違う文化の形を持っているような気がします。

先生、人生というものは淋しいものですね。径がいよいよ静寂に包まれ、別れてしまった人々はますます遠くなり、いつの間にか陽は傾き、木々の梢の輝きが失われても、最後まで一人で歩いていかなくてはならないのですね。この愛すべき逞しい国が、微笑みをたたえて歩き続ける力を私に与えてくれますように。

厚みのある気の中を少し前のめりになって息子と進む彼の姿が、暮春の中国のウェットな風景の中にまざまざと浮かんでくる――
また地下鉄の中の田舎の媼(おうな)の日焼けした満面の顔の皺とその笑顔が見える――
それが中国である――
何もかも丸ごと抱え込む強力な包容力を持つ中国そのものである――
肉体だけでなく心までも滅菌処理され、湿った饐えた魂魄さえも居心地が悪くなって逃げ出してしまったような、どこかの国の国民とは違うな……僕はこれを読みながら、そんなことを考えて、口元に知らず知らずのうちに、笑みを浮かべていたのであった……

……歐陽修先生、東の国から来たこの青年は、まさに正しく、先生に繋がる「三上三多」の弟子で御座いましょう?……

宇野浩二 芥川龍之介 十七

 

 

     十七

 

 つぎに述べる話はずっと前に書いたと思うけれど、話をすすめるために必要であるから、重複するのを承知の上で、書く。

 大正九年の秋の中頃であったか、芥川は、いつものように、上〔あ〕がらずに、玄関の部屋の前に立ったままで、私の顔を見ると、いきなり、「今日〔きょう〕は、僕につきあってくれないか、……そのまま でいいよ、」と云った。『そのままでいいよ』とは、「わざわざ著物をきかえなくてもいいよ、」という意味である。(芥川は、たずねてくる時は、いつも、和服であった。)

 その時、芥川が「つきあってくれ、」と云った行く先きは、芥川の友人の石田幹之助のつとめている『東洋文庫』であった。その『東洋文庫』は、たしか、今の運輸省の裏の辺であった。が、その頃は、まだ、赤煉瓦の小さい、せいぜい二三階建〔だ〕ての、小さいビルディングの立てこんでいる細い町つづきで、『東洋文庫』は、それらの赤煉瓦のビルディソグの二階の一室であった。

 私は、芥川と一しょに、上野の桜木町から、大通りに出て、善光寺坂をくだり、藍染橋から電車にのり、和田倉門で電車をおりて、そこから『東洋文庫』のある赤煉瓦の小さなビルディングまで、あるいた。私たちは、その、道をあるいている時も、電車にのっている間〔あいだ〕も、――小一時間ほどの間〔あいだ〕、絶えず、問答のような話を、つづけた。それはこういうのである。

「君は、僕の小説など、読んでいないだろう。」「読んでるよ。」「感心してないんだろう。」「感心してないね、……そりや、僕だって、君が新〔あたら〕しい境地を開こうとしている事ぐらいは、わかるよ。……しかし、あいかわらず、逆説――パラドックスという『手』を使っているのが、気になるね。」「……」「『黒衣聖母』など、なかなか凝ったところはあるけど、結局、『禍〔わざわい〕を転じて福とする代りに、福を転じて禍とする』というのが『味噌』じゃない.か、――といって、むろん、僕には、あんな物かけないが、あれは、やっぱり、味噌くさいね。」「……『秋』は、……」「実に行儀〔ぎょうぎ〕のいい小説だね、それに、あまり理路整然としすぎているね、……ところで、君の小説も変ってきたね、……しかし、ああいう題材は、(つまり、『秋』のような題材は、)君に不向〔ふむ〕きだと思うな、君には、やっぱり、出来不出来〔できふでき〕は別として、『南京の基督』のような物の方が、合ってるな。」「……そうかなあ。」「……ところで、僕は、ずっと前から、心配しているんだが、……余計な事か知れないが、……それは、それは、君が、(君のような作家が、)もし、書く題材がなくなったら、どうするだろう、という事だ、……僕は、実は、君の小説はたいてい読んでいるよ、……『鼠小僧次郎吉』のような題材でも、題材があるうちは、まだいいよ、……僕はネ、君のような作家が、…『解放』や『雄弁』[註―この時分の「雄弁」は、「改造」や「解放」などとならんで、いわゆる純文学の作者の作品を出していた]らまだいいが、『文章倶楽部』のような雑誌に、『黒衣聖母』が出たのを見た時は、悲しかったよ、君、……」

 すると、芥川は、急に真剣な顔つきになって、ささやくような声で、「ありがとう、実はその用事で、石田に逢いに行くんだよ、」と云った。

 さて、前に述べたように、『東洋文庫』は、丸の内の、小〔ちい〕さな赤煉瓦のビルディングのならんでいる細い町の片側の見すぼらしいビルディングの二階の一室にあった。その部屋は、十五六畳〔じょう〕ぐらいの大きさであったろうか、何〔なに〕か引っ越したて、というような感じで、部屋の中は雑然としていた。その部屋の中〔なか〕に一人〔ひとり〕いた石田が大〔たい〕へん大〔おお〕きな人に見えた事、芥川と私がそれぞれ椅子に腰をかけると、それだけで殆んど部屋一ぱいになったような記憶がある事、そういう事を思い出すと、あまり大きな部屋ではなかったのか。それから、片側が通りに面した窓〔まど〕であったことは確かであるが、他の側が本棚であったかどうか。(なにぶん三十年ぐらい前の記憶であるから、すべてアヤフヤである。)

『東洋文庫』は、「東京市本郷区駒込上富士前町にある。大正六年(一九一七)男爵岩崎久弥は、前中華民国総統府顧問モリソン G. A. Morrison より多年の蒐集にかかる支那を中心とせる東洋諸国各般の欧文文献の一大蒐集『モリソン文庫』を購入し、大正十三年、現在の敷地、建物、その他一切の設備を挙げて財団法人東洋文庫が設立された。爾来東洋文庫は、従来のモリソン文庫を核心として、更に年々この方面の洋書と、従来のモリソン文庫には含まれてゐなかつた漢籍の購入をつづけてゐる。[下略]」と或る辞書にある。

 ところで、この辞書にあることを本当とすれは、『東洋文庫』を持っていた岩崎が、『モリソン文庫』を買い入れた時、それを整理するために、この丸の内の赤煉瓦のビルディングの二階の一室(あるいは二三室)を借りて、倉庫兼事務所にしたのであろうか。そうして、その購入した『モリソン文庫』の数多の整理その他を、「支那を中心とした東洋の文書」の権威である石田に、依頼したのではないか。(以上の事は、もとより、愚鈍な私の臆測である。)

 もし私の臆測どおりであるとすれは、芥川と私が通〔とお〕されたのは事務所である。そうして、その事務所には、床〔ゆか〕の上のあちこちに私などが見たこともないような本が積〔つ〕みかさねられてあり、片側の本棚にも私などのよくわからない本がならべられてあった。

 芥川と石田が何〔なに〕かしきりに話し合っていた間〔あいだ〕、私は、所在〔しょざい〕がないので、こういう物を、見るともなしに、見ていたのである。

 石田は、芥川と用事の話をしている間に、二三度、となりの部屋に行って、二三冊(あるいは四五冊)の本を、かかえて来た。そのたびに、芥川と石田は、両方から本の上に顔をよせて、何〔なに〕か話し合っていた。

 やがて、芥川は、「どうもありがとう、」と云って、立ちあがった。

 芥川は、その小〔ちい〕さな赤煉瓦のビルディングを出たところで、いきなり、「僕はすぐうちに帰るよ、」と云って、さっさとあるき出した。それから、電車の停留場まで、芥川は、例の前かがみの姿勢〔しせい〕で、むっとした顔をした、無言で、なにか急用でもある人のように、早足〔はやあし〕で、あるいた。

 さて、電車に乗ってから、芥川が口をきった。

「……今日〔きょう〕どうもありがと。」「いい題材みつかった。」「……うん、……ところで、さっき、君は、『秋』のような題材の物は、僕には向〔む〕かない、と云ったが、そうなんだよ、実際、あんな物は、僕には苦手〔にがて〕なんだ、……しかし、僕は、もう一べん、いなおって、思いきって、感傷的なところや抒情的なところの全〔まつた〕くないもので、現代物を書いてみよう、と思っているんだ、しかも、短篇じゃない、中篇だ、……」「ふん、そりや、おもしろい、かもしれないけれど、僕には、……」「ふん、しくじったら、別の手を打つつもりだ。」「その方がよかないか。」(すると、芥川は、急に低い声になって、云った。)「僕は、ずっと前から、トルストイとツルゲエネフの話を、書きたい、と思ってるんだが、……」「その方が面白いかもしれないね。」「うん、……君もどんどん書けよ。」「うん。」「失敬。」(この時、電車が、私のおりる藍染橋にとまったのである。)

 

 ここで、つぎの話にうつる前に、芥川のために、一〔ひ〕と言〔こと〕、弁護しておく。――それは、芥川が、支那の旅行から帰って、しばらく、病気をして寝ていたことがある。すると、いつの世にも絶えない、口さがない連中が、「『南京の基督』の話は、芥川の実験談で、芥川は支那でひどい梅毒にかかったらしい、」と云い触らした事である。ところが、いつの世にもゴシップを信じる人たちも亦多いので、この時が本当のように広がったのである。しかし、この弁護はいたって簡単明瞭である、『南京の基督』は大正九年七月の作であり、芥川の支那に出かけたのは大正十年の三月の末であるからである。

 猶、芥川の体質と病気についてしじゅう質問をうけて困っていた、芥川の親友であり主治医であった、下島 勲が、『芥川龍之介のこと』という文章の中で、「世間にイイ加減な臆説や誤りが流布されてゐる。また種々の尾鰭がついて、肺結核だの甚だしきは精神病者とまで伝へられてゐる、」と憤慨している。

 結局、芥川の病気は、胃のアトニイ、痔疾(脱肛)、神経衰弱、――この三つであったのである。

[やぶちゃん注:「下島 勲が、『芥川龍之介のこと』という文章の中で」とあるが、標題は正確には「芥川龍之介氏のこと」で、昭和二(一九二七)年九月号『改造 芥川龍之介特輯』に所載され、後に昭和二十二(一九四七)年清文社刊の下島勲著「芥川龍之介の回想」に収められた。私の電子テクストがあるので参照されたい。

「胃のアトニイ」胃壁筋肉の緊張が低下、胃の機能が低下する状態を言う。先天的に全身的に筋肉が弱く痩せた人に多く起き、胃下垂自体が胃の機能低下を惹起することが多いために胃下垂と合併して発症することが多い。]

 ついでに、下島の書いた文章の中に私の注意を引いたものが一つあるので、それについて、述べておく。それは、『訂〔ただ〕しておきたいこと』という文章の終りの方の、「あれは晩年小穴といふ人の頭に映じたり印象づけた生活相や言行の一面で、主として彼[註―芥川のこと]がすがれ行く痛ましい姿の描写のやうである、」と書かれ、更に、その後の方に、書かれている、つぎのような文章である。

 

 

 私は芥川氏の自殺の背景に多大の関係があるやうに書かれたり、喧伝せられてゐるS子夫人に対する彼の煩悶苦悩といふのは、時に病的ではなからうかと思はしめた神経の一つの現れで、その現れが婦人殊に有夫の人で而も知友などに関係ある対象だつただけに、比較的著〔いちじる〕しかつたに過ぎぬものと解したい。(尤も決して気違ひでない人でありながら、僅かの傷を致命傷ではなからうかと感じるものがあるかと思へば、顔面に出来た発疹を梅毒ではないかと勘違ひをして、煩悶の結果、自殺を企てた若い教養のある厳格な家に育つた立派な婦人もあつた。芥川氏に何の関係もないことであるが、参考までに記しておく、)だから、芥川氏の場合S子夫人のみを自殺背景の重大原因であると見たり、甚だしきは、「芥川龍之介を死なせた女」などといふ雑誌の表題を見るだけでも、ウンザリせざるを得ない。

 

 

 私がわざわざこの長い文章を引用したのは、私がこの下島の説にほぼ同感であるからだ。

 

 それから、私が、この文章を書き出してから、ときどき、(ほんのときどき、)不審に思ったのは、私は、芥川とナニかあるようなナニもないような噂をされている婦人は、たいてい、芥川から、『ナンの関係もないような女』として紹介せれるか、名前を聞かされるか、していたのに、この下島の文章に出てくる『S子夫人』の名だけは、芥川が、私に、一度も口にしたことがない事である。

 この事は、こう書きながらも、やはり、不審に思われ、妙に思われるのである。

[やぶちゃん注:「S子夫人」は言わずもがな、秀しげ子。]

 

 さて、私は、『東洋文庫』に一しょに行った時から、ずっと、芥川に、逢わなかった。

 しかし、私は、自分の仕事に追われながらも、ときどき、芥川の事が、気になった。あの時、電車の中で、気負〔きお〕った口調で、「現代物を、もう一ぺん、書いてみる、」と、云っていたが、それを書いているであろうか、残暑は猶きびしい、元気そうによそおってはいたけれど、心〔しん〕が弱っているように見えたが、芥川よ、恙〔つつが〕なしやと、私は、思ったのである。

 ところが、『東洋文庫』に行ってから一〔ひ〕と月〔つき〕ほど後、新聞の広告で、「中央公論」(大正九年十月号)に『お律と子等』が出たのを見た時、私は、「やったな、」と思った。『やったな』とは、「芥川が思ったよりも早く、現代物の小説を書いたのに、おどろいた、」という程の意味である。

 ところが、その十月号の「中央公論」に出たのは前篇だけで、後篇は十一月号の[中央公論」に出た。そうして、両方で百枚ちかくであるから、芥川の小説としては幾らか長い方である。これは、簡単に荒筋を述べると、死にかかっている母(お律)と子等(胤〔たね〕ちがいの兄、腹ちがいの姉、弟)というような複雑なきょうだいとその身内〔みうち〕の人間たちを、その人たちの家であるメリヤス類の問屋にあつめ、それらの人たちが、危簿の状態にある病人をよそにして、角つきあいをしている有〔あ〕り様〔さま〕を書いたむのである。

 ところで、こういう日本の自然主義の作家が好〔この〕んで書いたような題材を、いわば門〔かど〕ちがいの芥川が、材料にしても、成功する筈がないのである。ところが、嘗て「理智主義」とか「新技巧派」とか称せられた芥川は、さすがに、こういう題材を、芥川流にこなし、巧緻な技巧と洗煉された文章によって、事件も、人物も、手際〔てぎわ〕よく、きちんと、書いている。とごろが、この小説も、『秋』と同じように、作意がハッキリしすぎ、説明が多すぎ、心理描写があらわ過ぎ、辻凌が合い過ぎる。そのため、現実味がうすく、迫力がない。頭〔あたま〕で作〔つく〕って、頭で書いているからである。

 しかし、この小説は、芥川が、大袈裟にいえば、作者として立ちなおる気で、書いたものであり、気負って書いたものであるから、いま述べたような欠点はあるが、実に細〔こま〕かいところまで気をくばり、文字どおり、用意周到な作品である。しかし、そのために、生き生きしたところがなく、どの人間にも血が通〔かよ〕っていない。しかし、又、いうまでもなく、これは誰にも書けるというような小説ではない。妙な言葉であるが、これは、秀才の小説である。

 ところで、私は、この小説を、発表された当時に、読んで、一ばん気になったのは、作者が、この小説に出てくるいかなる人間にも、微塵〔みじん〕の同情も持っていない事であった。この作者は人間らしい温か味というものを少しも持っていないのではないか。この作者の心は氷であるか。私は、この小説を読みおわった時、心の中が、心の底が、氷のように、寒く冷たくなるような気がした。(人間としての芥川は、私の知るかぎり、冷たいところなど殆んどなく、温か味のある人であったが、小説を書く時は、作品の上では、このようになるのであろう。しかし、これは、もとより、芥川ばかりでなく、たいていの作家は、書く時は、非情と思われるほど冷静な心にならねばならぬのである。)

 ところで、話は別であるが、私は、この『お律と子等』 の後篇の終りの方に感じられる何ともいえぬ「陰気」さは、芥川が、この小説を書いた年〔とし〕から六年ほど後に、つまり、(自ら死んだ年の前の年に、)書いた『玄鶴山房』の暗い暗い「陰気」さに、どこか、通じるところがあるような気がするのである。(そういえば、こじつけるようであるが、『お律と子等』の構想と『玄鶴山房』の構想も、ほんの少しではあるが、似ているところがある。)

 芥川が『お律と子等』を書いたのは、さきに述べたように、二十九歳の年〔とし〕の秋であるが、二十九歳の年〔とし〕に『お律と子等』というような小説を書いた芥川は、二十九歳の年〔とし〕に、既に、心の中に、いうにいわれぬ苦しみと悩〔なや〕みを、持っていたのではないか。そうして、その一〔ひと〕つを仮りに病苦とすれば、他の一つは『家』の事ではないか。

 

 さて、『お律と子等』を失敗作であると思っていた、私は、芥川が、『東洋文庫』から帰りに、電車の中で、「もし失敗したら、別の手を打つつもりだ、」と云ったことに、期待した。それが、たぶん、その翌年(つまり、大正十年)の「中央公論」と「改造」の一月号に出た『山鴫』と『秋山図』であろう。

『山鴫』も、『秋山図』も、発表された当時、世評はわりによかったようである。

『秋山図』は、(これにに書いたような気がするが、)芥川のところに出入りしていた、支那文学に通じている、伊藤貴麿〔たかまろ〕の話によると、(これは、伊藤が、私が何も聞かないのに、わざわざ、教えてくれたのであるが、)『秋山図』は、あれとまったく同じ筋の小説が支那にあって、その支那の小説そっくりである、と云う。その真偽は別として、芥川は、その小説の書きはじめの頃から、日本の古典や切支丹の文献などから題材を取って小説を作っていたのであるから、伊藤の『教え』を大目に見ることにして、『秋山図』について云えば、私は、この小説は、例の名文は別として、物語としても、アヤフヤであり、(たとい『アヤフヤ』を書いたものとしても、)あまりおもしろくない、と思うのである。

[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(明治二十六(一八九三)年~昭和四十二(一九六七)年)は児童文学者・翻訳家。大正十三(一九二四)年に新感覚派の『文藝時代』に参加したが、その後は児童文学界で活躍、少年向けの「西遊記」「三国志」「水滸伝」をはじめとする中国文学の翻案物を得意とした。

「『秋山図』は、あれとまったく同じ筋の小説が支那にあって、その支那の小説そっくりである」作品の原典は清初の画家惲格(うんかく 一六三三年~一六九〇年 字・寿平 号・南田)の画論集「鷗香館集」補遺画跋に載る「記秋山圖始末」であるが、実際に芥川が参考披見した原拠は今関寿麿(いまぜきとしまろ 明治十五(一八八二)年~昭和四十五(一九七〇)年 号・天彭:中国研究家・漢詩人)の編になる「東洋画論集成」の上巻(大正四(一九一五)年読画書院刊)所収の訓読文と考えられている(本記載は一部を翰林書房「芥川龍之介新事典」に拠った)。]

 

『山鳩』は、『秋山図』とくらべると、(「くらべると」である、)いくらかおもしろく、心にくいほど巧みなところもある。そうして、例によって、些細なところにも気をくばっている。それで、一と口に云うと、この作品は、気のきいた物語ではあるが、小説としては、やはり、物たりない。

 けっきょく、私は、待ちかねていただけに、この二つの小説を読んで、かるい失望を感じた。そうして、寂しい気がした、これでは心細い、と思ったからである。しかし、又、芥川は、こんな事で、決してへたばる男ではない、と思った。

 

 話がまったく変るが、(これも前に述べたことがあるかもしれないけれど、)大正十年の一月の末頃であったろうか、芥川と、神田の神保町の中〔ちゅう〕の下〔げ〕ぐらいの牛肉屋で、私は、久しぶりで、一しょに、夕飯をたべたことがある。

[やぶちゃん注:ここまで読んでくると、宇野は作家の発表雑誌や飲食店・茶屋、職業、更には女性の容貌、人間の品性に至るまでの総てを殊更に(ある意味、偏執的に)格付け(そこには、時代背景を考慮するとしてもかなりの差別意識も入り込んでいることは疑いがない)することが好み(というのが失礼ならば趣味)であることがよく分かる。これが彼の本来の性格によるものか、それとも精神病後の人格変性によるものであるのかは定かではないが、[やぶちゃんのやぶちゃんによる割注―それは生じ得るのである。宇野の記載を読んでいて感じるのは、本書の中の大部分である芥川龍之介の回想はその殆どが、宇野が精神に異常をきたす以前の記憶であるわけだが、その当時感じた印象と記述時の印象が一八〇度転換しているケースが散見される。これは実際にそうであった(当時の宇野の思い違いであった)と感じさせる部分もあるが、中に有意な割合で何か感受者である宇野自身の脳の器質的変化によるものではないかと感じさせる部分が私には確かにあるからである(但し、精神病による病変であるからといってその差別性の責任が相殺されるとは私は思っていない)。]これはかなり奇異に見える(私は時に読んでいて不快感さえ覚える)ことは事実である。ここで言っておきたいのであるが、私は彼の差別語や差別表現に対して、本電子テクストの冒頭や最後に、如何にもな例の差別注記を附ける気はポリシーとして全くない。[やぶちゃんのやぶちゃんによる割注―私は、現在の出版界やネット上で、ただ同文の差別ママ注記を附ければ、それで差別がなくなるというような安易な免罪符的用法に対して強い違和感を抱くからである。私は差別注記を本気でやるのなら、どこが差別用語であり、どれが差別表現であり、それがどのような部類の差別であり、どのような人間がどう差別されるのか、ということを誰にも分かるように逐一解説せねば嘘だと思うからであり、そんなことを文学作品(それも過去の)に適応することは現実的に不可能だからである。]が、ここでそうした批判的視点を常に持って読者一人ひとりが彼の文章全体を読むべき必要性を「ここで一度だけ」指摘しておきたいのである。差別の解消の総ての核心は個々人の不断の内的省察に基づかねばならない。と私は思うからである。]

 

 六畳ぐらいのうすぎたない部屋であった。そこで、注文した物が出る前に、芥川は、その時はなにか上幾嫌で、ほとんど一人で喋った。

「……君、われわれ都会人は、ふだん、一流の料理屋なんかに、行かないよ、菊池や久米などは一流の料理屋にあがるのが、通〔つう〕だと思ってるんだからね。……」(その他、いろいろ喋ったが、みな略す。)

 さて、注文した物がはこばれ出した時、芥川が、私に、自慢そうに、なにか字を書いた半紙を見せながら、例の鼻にかかる声で、「これ、ヘキドウが書いたんだよ、」と、云った。

 見ると、細いくねくねした字で、『夜来の花』と書いてあった。「ヘキドウ」とは、小沢碧童という、新傾向の俳人である。

「うまいだろう、」と、芥川は、ニコニコしながら、云った。

「うむ、」と、私は、いった。『うむ』といったのは、私には、その字が、下手〔へた〕に見えて、うまいとは思えなかったからである。(後記―これは、私の無知で、実は凝った巧みな字であった。)

 ところが、大正十年の三月十三日に、芥川が、小穴にあてた手紙の中に、「……空谷老人入谷大哥の『夜来の花』を見て曰『不折なぞとは比へものになりませんな』と、」という文句がある。空谷すなわち下島 勲は書の名人であるから、この、『入谷大哥』が小沢碧童ならば、私が、碧童の書いた『夜来の花』を、芥川に、「うまいだろう、」と云って、見せられながら、下手だと思って、「うむ、」と生返事をした時、芥川は、何も云わなかったが、心の中では、大いに軽蔑したであろう、と思う。

 

 こんな事を思って、ちょいと調べてみると、碧童は、

 

 何鳥〔なにどり〕か啼いて見せけり冬木立

 

 引窓に星のひつつく寒さかな

 

というような句を作っているばかりでなく、書と篆刻に巧みである。

 

 こういう点で、芥川が文人とすれは、(いや、大〔たい〕した文人である、)私などは、野人であり、風雅を知らぬ無粋人である。

[やぶちゃん注:「入谷の大哥」「小沢碧童」河碧梧桐門下の俳人小澤碧童(明治十四(一八八一)年~昭和十六(一九四一)年 本名、忠兵衛)のこと。「大哥」は「あにい」「あにき」と読む(芥川龍之介が親しくした友人の中でも十一歳年上の最年長であった)。ここに書かれた通り、芥川の第五作品集『夜来の花』(大正十(一九二一)年三月新潮社刊)の題簽をものしている。]

 

 私はこの神保町の牛肉屋で、芥川と一しょに食事をしてから、二た月〔つき〕ほど後に、芥川に、(芥川が支那に行く前に、)旅行したきりで、それから、四五年も、芥川と逢う機会がなかったのであった。

2012/04/17

雨にうたれて散る桜

僕はさっきの驟雨の間、自分の書斎の窓のすぐ下の斜面の母が植えた枝垂桜をずっと眺めていた――こんな風にこんな季節にこんな場所からこんな時間に眺める時を持ったこと自体が――全くの初めてのことだったが(僕たちは当たり前に当たり前の場所で見るべきものを何も見ていないのだということを実感したものだ)――桜の花びらが強い雨滴にうたれてみるみる散ってゆくのは何かひどく切ない思いがした――花はこうして散ってゆくのだと僕は初めて知った気がした――僕はただ凝っと落下するそれを見つめていた――

宇野浩二 芥川龍之介 十六~(4)

 『戯作三昧』が出てから半年ぐらい後に発表した『地獄変』は、芥川の全作品の中の代表作ちゅうの代表作のように云われているが、そのとおり、これは、代表作の一つであるとしても、芥川の絵空事の小説(というより物語)の下〔くだ〕り坂にかかりかけた頃の作品である。

 しかし、それはそれとして、さすがに、芥川は、その後、別の形の絵空物や小説を、つぎつぎと、工夫〔くふう〕して、書いた。(それについては、これも、後に述べるつもりである。)

 それから、『地獄変』は、(その文章だけで云うと、)芥川の他の小説の文章が、彫琢し過

窮屈になり、感情までなくなるが、『地獄変』の文章は、のびのびしていて、一種の感情もある、そのかわり、冗漫なところがある。一長一短というべきか。

 

『文藻〔ぶんそう〕』という言葉がある。相馬泰三が、むかし、(大正七八年ごろ、)私に、ある小説の大家の文章について述べた時、「君〔きみ〕、この文章には『藻〔も〕』がないよ、」と、云った、つまり、芥川の文章には『藻』がないのである。(ふと、思い出した、その時、相馬が、『藻』がない、と云った小説は、一代の名文家と称せられる、谷崎潤一郎の或る作品である。)

[やぶちゃん注:「文藻」この場合は、詩才・文才の意味ではなく、その作者個人の文章に特有な、独特の綾や色彩の謂いである。それにしても相馬の「藻がないよ」はなかなか面白いし、それを丁々発止に受ける宇野も面白い。芥川龍之介の文章に「藻」は充分にある――いや、あり過ぎる程に、ある――と思っている私でも、この掛け合いは面白い。この宇野の一段落には確かに彼等の言う『藻』がある。]

 

『傀儡師』におさめられている小説の中の一ばん新作は『毛利先生』である。

『毛利先生』は、芥川が現実的な小説に力〔ちから〕を入れるようになった、最初のキッカケになった作品である、なぜと云う批評家もあるが、『批評』という事になると、人さまざま、何とでも勝手な事が云える。だいたい、『毛利先生』は、芥川が、芥川らしい小説が書きにくくなったために、楽〔らく〕な方法で、回想を本〔もと〕にして、諧謔と皮肉で、小説らしくしたものである。

 回想を本〔もと〕にして、と云えば、この『毛利先生』と殆んど同じ頃に書いた『あの頃の自分の事』という小説のはじめに、芥川は、「以下は小説と呼ぶ種類のものではないかも知れない。さうかと云つて、何と呼ぶべきかは自分も亦不案内である、」と、ことわっている。

 嘗〔かつ〕て、(といって、二三年前には、)芥川は、『小説と呼ぶ種類ではないかも知れない、』というような小説は、断乎として、否定した人である。そんな小説は、小説ではない、と云い切った人である。

 それが、今、むかし軽蔑した『小説と呼ぶ種類ではないかも知れない』ような小説を、芥川は、書かざるを得なくなったのである。それが、つまり、『毛利先生』(これはちょいと小説になっているが)であり、この『あの頃の自分の事』であり、ずっと後の、『大導寺信輔の半生』であり、幾つかの、『保吉』物である。

[やぶちゃん注:「毛利先生」の私の電子テクストはこちら。]

 

 さて、芥川が生前に出した短篇集は、『羅生門』、『傀儡師』、『影燈籠』、『夜来の花』、『春服』、『黄雀風』、『湖南の扇』の七冊であり、芥川の死後に出された短篇集は、『大導寺信輔の半生』と『西方の人』の二冊である。

[やぶちゃん注:「芥川の死後に出された短篇集」は二冊どころではない。ざっと見ても没年(昭和二(一九二七)年末には『侏儒の言葉』、翌昭和三年には童話集『三つの宝』、昭和四年に『西方の人』、昭和五年に『大導寺信輔の半生』と続く。]

 この生前に出した七冊の中で、『黄雀風』と『湖南の扇』には主として身辺を書いた作品が多くはいっており、他の五冊のうちでは『影燈籠』が一ばん見おとりがする。

『影燈籠』の中には、『蜜柑』とか、『葱』とか、という現代の庶民の日常の何でもない事を題材にした小説がはいっているが、これは、いわゆる歴史物ばかりを書いていた芥川が、このような物を書いたという事で、めずらしがられただけの物で、ちょいと気のきいた小説ではある。が、唯それだけのものである。それに、『葱』は、あまり出来〔でき〕がよくない。

 それから、この短篇集には十四篇もおさめられてあるが、その中の、二篇は旧訳の翻訳であり、他の二篇は旧作と『小品四種』である。つまり、この四篇は、他の十篇だけでは一冊の本にならないので、「紙数の不足を補うため」に、入れられたのである。

[やぶちゃん注:「十四篇」は十七篇の誤り。『影燈籠』の収録作品は「蜜柑」「沼地」「きりしとほろ上人伝」「龍」「開化の良人」「世之助の話」「黄粱夢」「英雄の器」「女体」「尾生の信」「あの頃の自分の事」「じゆりあの吉助」「疑惑」「魔術」「葱」の創作、アナトール・フランスの「バルタザアル」及びイェイツの「春の心臓」の翻訳二篇の計十七篇である。「黄粱夢」「英雄の器」「女体」「尾生の信」のことを宇野は小品四種と呼んでいるものと思われる。]

 概して、この集におさめられている作品は、切支丹物でも、工夫〔くふう〕をこらして、現実的にはなっているが、以前のような覇気がない、それから、おなじ話でも、『犬と笛』は、『蜘蛛の糸』より、雑駁で、味がない、それから、『蜜柑』もちょっとした思いつきであり、『葱』は出来そくないであり、全体に、芥川らしい気負ったところが少しもない。

[やぶちゃん注:「犬と笛」は大正八(一九一九)年一月、『赤い鳥』に発表された童話であるが、『影燈籠』には所収しない(どころか、単行本には未収録の作品である)から見当違いの批評である(次の段落を読むと、彼のこの部分の批評は『影燈籠』への批評から、それが発刊される前年の大正八(一九一九)当時の芥川の作風への批判となっているのであるが、誰が読んでも『影燈籠』に「犬と笛」が所収しているようにしか読めないから、よくない文章である)。また、私は「犬と笛」を「雑駁で、味がない」とする一刀両断にも、宇野自身の評価自体、「雑駁で、味がない」物言いであると反論するものである。

「『蜜柑』もちょっとした思いつきであり」確かに『影燈籠』はマンネリズムに陥った芥川の作品集として後代では最も評判が悪いが、私はこの「蜜柑」は、芥川龍之介の現代物の中でも一番に挙げてよい名作と信じて疑わない。宇野の「ちょっとした思いつき」という二度の謂いには烈しく反論するものである。]

 芥川は一たいどうしたのであろう、――と、私は、これらの小説をよんだ時、一人で、気をもんだ。

 そこへ、『竜』が出たのである。大正八年の五月号の「中央公論」である。『竜』は、例の『宇治拾遺物語』の巻十一の「蔵人〔くらんど〕得業〔とくごふ〕猿沢の池の竜の事」から取材したものである。嘗て、(三四年前、)芥川は、『宇治拾遺物語』から素材をとって、彫琢された文章で、珠玉の短篇、と称されたような、幾つかの、小説を、書いた。ところが、今、おなじ『宇治拾遺物語』から取材した『竜』は、文章も、内容も、冗漫で、わざと延ばして書いたのではないか、と思われるほど、いたずらに冗長である。

[やぶちゃん注:「蔵人〔くらんど〕得業〔とくごふ〕猿沢の池の竜の事」は、一般には「蔵人〔くらうど〕得業〔とくごふ〕、猿沢〔さるさは〕の池の龍〔りよう〕の事」である。原話では龍は現れず、原話とは異なる。次文で宇野が言うように、宇野の梗概の方が、また更に増して原話の方が「はるかにおもしろい」とは、私は思わない。]

 蔵人得業が、人をかつぐつもりで、「三月三日この池より竜昇〔のぼ〕らんずるなり」と書いた立て札猿沢の池のほとりに、立てる。すると、大和は、もとより、遠く、山のかなたの、河内、摂津、和泉、その他の国国の人びとが、言いつたえ、開きつたえ、して、『登竜』を見物したいために、ぞくぞくと、集まってくる。蔵人は気が気でない。するとその三月三日の四五日前に、摂津の国から、はるばると、蔵人の叔母が『登竜』を見たい、と云って、たずねてくる。蔵人はますますあわてる。ところが、その三月三日に、偶然、大雨がふり、雷〔かみなり〕が鳴りはためき、雲がむらがりおこって、池の中から竜が昇天した。そうして、人びとは確かにそれを見た、と云った。ところで、蔵人は、その後、知人や仲間に、あれはイタズラであった、と、ふれまわったが、誰ひとりそれを真にうける者はなかった。――と、これが『竜』の荒筋である。ところが、この下手〔へた〕クソな荒筋の方が、書いた私が読んでも、本物の『竜』より幾らかおもしろく、この下手〔へた〕クソな荒筋よりも本元の『蔵人得業猿沢の池の竜の事』の方がはるかにおもしろいのである。

 されば、私は、この『竜』を読みおわって、タメ息をついたのであった。

 しかし、芥川は、さすがに、その頃の自分の事を、よく知っていた。その事を、私は、こんど、はじめて、つぎのような文章を読んで、知ったのである。

 樹の枝にゐる一匹の毛虫は、気温、天候、鳥類等の敵の為に、絶えず生命の危険に迫られてゐる。芸術家もその生命を保〔たも〕つて行く為に、この毛虫の通〔とほ〕りの危険を凌〔しの〕がなけれはならぬ。就中〔なかんづく〕恐る可〔べ〕きものは停滞だ。いや、芸術の境に停滞と云ふ事はない。進歩しなければ必〔かならず〕退歩するのだ。芸術家が退歩する時、常に一種の自動作用〔さよう〕が始まる。といふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは芸術家としての死に瀕〔ひん〕したものと思はなければならぬ。僕自身「竜」を書いた時は、明〔あきらか〕にこの種の死に瀕してゐた。

(『芸術その他』)

 この文章を、芥川は、大正八年の十月に、書いているが、最後に、「おひおひ僕も一生懸命にならないと、浮かばれない時が近づくらしい、」と結〔むす〕んでいる。

 この文章には、芥川の、覚悟のようなものと、何〔なに〕か憤りのようなものも、感じられる。その憤りは、思うように小説が書けない事、それから、中篇小説『妖婆』が、失敗した上に、親友から手きびしい非難をされた事、それやこれやでイライラしていた事、等等から、来ているのではないか。

[やぶちゃん注:「藝術その他」とそれへの批評の反駁文「一批評家に答ふ」が私の電子テクストにある。参照されたい。]

 いずれにしても、大正八年は、芥川には、よい年〔とし〕ではなかった、過渡期の年〔とし〕であった。

 この大正八年に書いた『沼地』という短篇の中で、絵が思うように描けないために、「恐ろしい焦燥と不安に虐〔さいな〕まれ」た末に、気ちがいになった画家の絵を見てから、その画家の話を聞いて、「殆ど厳粛にも近い感情が私の全精神に云ひやうのない波動を与へた、」と、芥川は、述べている。

[やぶちゃん注:「沼地」も私の好きな作品のである。私が勝手にデュシャンの「薬局」を飾った電子テクストは、こちら。]

 芥川も、亦、大正八年には、幾度か、「恐ろしい焦燥と不安」に、さいなまれたのではないか。そのために、しばしば、夜〔よる〕、眠れない事も、あったのではないか。

宇野浩二 芥川龍之介 十六~(3)

 『戯作三昧』は、『枯野抄』などとくらべると、手のこんだ作品である。菊池 寛がこの小説について、「彼の創作生活の告白ではなくて何であらう。ただ、彼が世の所謂告白作家よりももつと芸術家である為めに、曲亭馬琴を傀儡として、告白の代理をせしめたのに過ぎない、」と論じているが、これは、まちがってもいないが、いかにも菊池流の見方である。

 立ち入った見方をすれば、銭湯の中で馬琴の小説を遠慮なく扱〔こ〕きおろす眇の男は、芥川のその頃ひどく気にいらなかった批評家の一人〔ひとり〕かもしれない。

 それから、この小説の中に、「この年〔とし〕まで自分の読本〔よみほん〕に対する悪評は、なるべく読まないやうに心がけて来た。が、さう思ひながらも亦、一方には、その悪評を読んで見たいといふ誘惑がないでもない、」というところがあるが、これは、はっきり、馬琴の考え方ではなく、(もっとも、馬琴にもこういう考えはあったかもしれないが、)芥川が小説を書き出してからの気もちである。私の記憶ちがいかもしれないが、ある時、芥川が、私に直接はなしたのか、なにかの文章に書いたのか、まるで覚えていないけれど、「谷崎潤一郎は新聞を読まないそうだが、僕も新聞を読まないことにしている、」と述べたことがある。この『新聞』とは『月評』(つまり、毎月出る小説の批評)という程の意味である。これは、私の知るかぎり、芥川が非常に(人並〔ひとなみ〕以上に)『月評』を気にしていたという事にもなるのである。(この事について、芥川が新進作家時代に「新潮」の記者であり、それ以前に小説もたくさん書いたことのある、水守亀之助からの手紙の中に、「芥川氏が谷崎潤一郎が新聞の文芸欄をよまないといふのに感心して自分も見ないことにしたといふ一事は小生も直接にきかされました。ですから、あれは貴下も同様ぢかにお聞きになつたのでせう。同氏が文章の中に書いたのではなかつたと思ひます、」と書かれてあった。これは大へん為めになったので、うつしたのである。)

[やぶちゃん注:「眇」は「すがめ」と読む。片目の不自由なこと。「水守亀之助」(明治十九(一八八六)年~昭和三十三(一九五八)年)は小説家。大正八(一九一九)年に新潮社入社し、『新潮』の編集の傍ら、自然主義傾向の小説「末路」「帰れる父」等を発表した。参照したウィキの「水守亀之助」の記載によると、その後は数奇な人生を辿っている。]

 それから、この小説の中で、馬琴が、一九、三馬、種彦、春水、その他と比較されるところがあるが、それらの作家の名を書く時、芥川は、同時代の作家たち(例えば、⦅『例えば』である、⦆潤一郎、弴、春夫、その他)の名を、頭〔あたま〕の中に、うかべたかもしれない。それから、やはり、おなじ小説のなかの、「大きな事を云つたつて、馬琴なんぞの書くものは、みんなありや焼〔やき〕直しでげす、」とか、「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先一点張りでげす。まるで腹には、何にもありやせん。あればまづ寺小屋の師匠でも云ひさうな、……」とか、「……それが証拠にや、昔の事でなけりや、書いたと云ふためしはとんとげえせん、」とか、いうところなどは、世間でこういう非難をする事ぐらいは、『とっくに承知の助』と云わんばかりの芥川流の見得〔みえ〕とも取れるけれど、これらの言葉の底に、私は、やはり、一脈の悲哀のようなものを、感じるのである。

 それから、この小説のおわりの方の、誰も問題にする、「根〔こん〕かぎり書きつづけろ。今己〔おれ〕が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ、」という言葉は、私には、悲壮に、聞こえる、悲壮、というより、悲痛な感じがする、そうして、その悲痛は、小説の主人公の馬琴ではなく、作者の芥川に、感じるのである。

「古人は後生〔こうせい〕恐るべしと云ひましたがな。」

「それは後生も恐ろしい。だから私どもは唯、古人と後生との間に挾まつて、身動きもならずに、押され押され進むのです。」

「如何〔いか〕にも進まなければ、すぐに押し倒される。」

 これは『戯作三昧』の中の、華山と馬琴の問答であるが、実は、作者の芥川の心の中の自問自答である。つまり、「古人と後生との間に挾まつて、身動きもならずに、押され押され進む」

というような事を、二十六歳の芥川は、かんがえていたのである。

[やぶちゃん注:「根かぎり書きつづけろ。今己が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ、」私はこの芥川の『戯作三昧』の馬琴の台詞を読むと、彼の晩年の『闇中問答』の最後の台詞を思い出さずにはおれない。

僕 (一人になる。)芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模樣はいつ何時變るかも知れない。唯しつかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の爲だ。同時に又お前の子供たちの爲だ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。

そうして私もまた、宇野と同じく、この言葉が『悲壮に、聞こえる、悲壮、というより、悲痛な感じがする』のである。]

 それから、芥川は、おなじ『戯作三昧』の中で、馬琴が、『根かぎり書きづづけろ、』と何度も自分に呼びかけながら、堅く筆を握りながら、「自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる、場合を気づかつた、」と、書いているが、やがて、「自分の肉体が万一それに耐へられなくなる場合」があることに、気がつかなかったであろう。

 しかし、芥川は、「自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる場合」がある事には、気がつかなかったとしても、自分の創作力がおとろえ行きづまってきた事は、うすうす、感じていた。

 それが『戯作三昧』にかすかながら出ているように思われるのである。

 馬琴に「根かぎり書きつづけろ、」と云わしたのは、芥川が自分をはげます言葉でもあったのだ、作者が意識しているといないとにかかわらず。

芥川龍之介 枯野抄 やぶちゃんの授業ノート 縦書版

既にあった『芥川龍之介「枯野抄」やぶちゃんの授業ノート』のブラウザ上の不具合(行間詰まり)を補正し、横書版を追加した。この不具合は宇野浩二の「芥川龍之介」の中の「枯野抄」の記載部分に入ったことで確認して見て気が付いたもので、本日、急遽行ったものである。僕のHPの古いテクストはHPビルダーの自動作成と補正システムに完全依存して作成していたため、ブラウザ上の不具合やHTML記述に恐るべき冗長さがあったりする。何か見た目の不都合に気が付いた方は、連絡を頂けると助かる。

――これから、僕のオリジナル授業ノートを、おいおい公開しようと思う。教え子諸君には、忘れたあの一瞬が思い出されるかも、知れない。――

宇野浩二 芥川龍之介 十六~(2)

 さて、何度も云うように、芥川が、『傀儡師』の中におさめられている小説を書いていた頃は、生涯のうちでもっとも脂〔あぶら〕の乗っていた時であった。

 私はかんがえる、「立てきつた障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木〔ろうぼく〕の梅の影が、何間〔なんげん〕かの明〔あかる〕みを、右の端〔はし〕から左の端まで画〔ゑ〕の如く鮮〔あざやか〕に額してゐる、」と書き出し、「このかすかな梅の匂〔にほひ〕につれて、冴返〔さえかへ〕る心の底へしみ透〔とほ〕つて来〔く〕る寂しさは、この云ひやうのない寂しさは、一体どこから来るのであらう。――内蔵助〔くらのすけ〕は、青空に象嵌〔ざうがん〕をしたやうな、堅〔かた〕く冷〔つめた〕い花を仰〔あふ〕ぎながら、何時〔いつ〕までもぢつと彳〔たたず〕んでゐた、」と、芥川は、『或日の大石内蔵助』を、書きおわった時、昂然としたであろう。

 これはずっと前に何〔なに〕かの文章のなかに書いた事があるが、私が文学書生であった頃、友だちの中で、誰が云い出したか、「あれは『カキダシスト』だ、」「かれは『キリスト』だ、」というような言葉が一時〔じ〕はやった事がある。『カキダジスト』とは、「小説の書き出しのうまい人」という意味であり、『キリスト』とは、「小説の書き終るところの巧みな人」という意味である。

 この妙な言葉をつかうと、芥川は、この『或日の大石内蔵助』だけについて云えば、カキダシストとキリストとを兼ねている、という事になる。いや、芥川は、何を書くにも、カキダシストになると共に、キリストにもなろう、と心がけた人であったのだ。

 しかし、『或日の大石内蔵助』、『戯作三昧』、『枯野抄』、それから、『地獄変』、――と、これだけ読みかえしてみても、かぞえ年〔どし〕、二十六か二十七そこらで、よかれあしかれ、このような熟〔ま〕せた小説を書いた芥川は、何という早熟な男であったことよ、いや、『早熟』、というより、『頭〔あたま〕でっかち』(あるいは『頭がち』)というようなところさえあった。(「鶏頭〔けいとう〕やはかなき秋をあたまがち」⦅太祇⦆

 ところで、この頃〔ごろ〕、私は、ときどき芥川のいろいろな小説を、読みかえしてみて小〔こ〕ざかしい、と感じるこどもあるけれど、心にくい、と思う事もしばしばある。この数年来、かつて、(青年時代には、)芥川の作品を愛読した人たちが、芥川の小説は、今よみなおしてみると「徒〔ただ〕のお話」みたいで、案外つまらない、とか、「芥川さんには、何という代表作がありますか、コレという小説がないように思います、……」とか、云うのを、私はときどき、耳にする。そうして、私も、時には、ちょいと、同じような考えをする事もある。

 しかし、芥川は、やはり、一代の、奇才であり、鬼才であった、小説のよしあしは別として、世にも稀な才能の持ち主であった。

 

 たいていの批評家は、『或日の大石内蔵助』と『戯作三昧』と『枯野抄』とを、芥川が、昔の人の日常生活を書きながら、それに託して、自分の心事と感慨を述べているように論じている。が、私は、そうばかりとは思わない。

『枯野抄』について、室生犀星は、「彼は十分な縹渺や枯寂を『枯野抄』、ではあらはし得なかつたと云つてよい、」と云い、宮本顕治は、「彼等は枯野に窮死した先達を歎かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を歎いてゐる、」と述べている。(この「薄暮に先達を失つた自分たちを歎いてゐる、」という文句は、『枯野抄』の中にある文句である、つまり、『枯野抄』の中から取ったものである。)

[やぶちゃん注:前者は昭和二(一九二七)年七月号『新潮』に載った「芥川龍之介の人と作品」から、後者は有名な「敗北の文学」(昭和四(一九二九)年八月号『改造』)からであるが、ここは宮本の引用が不十分(尚且つ不正確)なために分かり難くなってしまっている。ここでの宮本は先の室生の評を批判しながら、次のように述べているのである(引用は筑摩書房全集類聚版別巻所収のものに拠る)。

「枯野抄」も亦単に渺茫の趣きを覘〔ねら〕つてゐる作ではない。この作品に渺茫な枯寂が現はされてゐないと言ふ室生犀星氏は、結局氏自身の好みを語つてゐるに過ぎないであらう。一般的に言つて、氏の作品にいつもさうしたものを発見したがる、芥川氏を余りに東洋的な文人としようとする鑑賞家的悪癖である。「悲嘆かぎりなき門弟たち」は、必ずしも嘆きの中の悦び――芭蕉の人格的圧力の桎梏からの解放の悦びを持たぬわけではなかつた。彼等は「枯野に窮死した先達を嘆かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を嘆いてゐる」。我々はこゝに、近代的個性の痛々しい自己省察を見せられるのである。

宇野の引用は『彼等は「枯野に窮死した先達を嘆かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を嘆いてゐる」。我々はこゝに、近代的個性の痛々しい自己省察を見せられるのである。』と「彼らは」の後に引用の括弧を配し、尚且つ、せめてその後の一文を附してこそ宮本の(ひいては宇野が室生の評と並べた)意味が分かる。]

 この二人の説は、それぞれ、見当がはずれている。(もっとも、宮本の方はいくらか当を得ているが。)

 さて、芥川は、この『枯野抄』で、芭蕉よりも、(いや、芭蕉ではなく、)師の臨終に駈〔か〕けつけた幾人かの門弟たちの性格と気もちと腹の探り合いのようなものが、書きたかったのではないか。つまり、一と口に云うと、死にかかっている芭蕉の病床に侍〔はべ〕っている、骨と皮ばかりになった師匠の見にくい姿に「はげしい嫌悪の情」をおこしている其角、師匠の看病の一切の世話を一人でした事に満足しながら、それは、師匠の容態を心配する、というより、それを人に見せびらかせて誇りに思っているような自分のさもしい心を反省しているような去来、同座の人たちの心事をしじゅう冷静に観察しながら、師匠が死んだら、『終焉記』でも書いて、一〔ひ〕と儲けしてやろう、とたくらんでいる支考、師匠のつぎに死ぬのは、自分ではあるまいか、と思って、怯〔おび〕えている惟然坊、師匠が死ねば、「人格的圧力」がなくなるから、ノウノウと手足をのばせるであろうと、喜んでいる丈艸、その他を書いて、結局、「師匠の命終に侍しながら、自分の頭を支配してゐるのは、他門への名聞〔みょうもん〕、門弟たちの利害、或〔あるひ〕は又自分一身の興味、打算――皆直接垂死の師匠とは、関係のない事ばかりである、」という支考の『考へたやうな事』を、芥川は、書くつもりであったのではないか。

 芥川は、『一つの作が出来上るまで』という文章の中で、この『枯野抄』を書くまでに、三たび構想をかえた、そうして、三度目に、蕪村の『芭蕉涅槃図』からヒントを得て、この『枯野抄』を書いた、と述べている。

 それは、作者自身が書いているのであるから、本当であろうが、私は、この文章の中の「それを書くについては、先生の死に逢ふ弟子の心持といつたやうなものを私自身もその当時痛切に感じてゐた、」という一節に、心を引かれた。この『先生』とはおそらく夏目漱石であろう。

 ところで、これはずっと前に書いたことがあるように思うが、たしか、『傀儡師』が出てから間〔ま〕もなく、ある日、芥川が、目を三角〔かく〕にして、大きな前歯(上の歯)が一本〔ぽん〕かけているのが目につく口をあけ、徒児〔いたずらっこ〕らしい顔つきをして、内証話をするような低い声で、「――君〔きみ〕、ナイショだがね、『枯野抄』に登場する門弟たちは、漱石門下の人たちだよ、」と、私に、云ったことがある。

 ところが、『枯野抄』に出てくる門弟たちは、みな、いかに師の臨終の部屋の中であれ、およそ愛敬というものがなく、それぞれ、腹に一物〔いちもつ〕ありそうであり、一人〔ひとり〕として心を許〔ゆる〕せそうな人間がいない、ちかごろ流行の言葉をつかうと、『善意の人』が一人〔ひとり〕もいない、悪意の人はかりである。

 閑話休題、(あだし言〔ごと〕はさておき、)私は、この小説を読んだ時、まったくヤリキレない気がした、どんな社会でも、(たとえば、政治家とか実業家とか云われる人たちの社会でも、)このような妙な(イヤな)悪意の人たちばかりだけが集まる事はないゾ、と云いたいのである。これは、大げさに云うと、人間の心の地獄の図のようにさえ、思われるからである。

 芥川は、『地獄変』にあるような世にも恐ろしい事を書きながら、絵空事のようにしか、書けなかった人である。しかし、絵空事の物語を書けば、芥川は、一代の名人であった。『古今著聞集』に、「ありのままの寸法に書きて侯はば、見所なきものに侯ふ故に、絵空事とは申すことにて候」という文句がある。つまり、芥川の前期から中期までの間の歴史物(殊にいわゆる王朝物と切支丹物)の大部分は『絵空事』であるから、その絵空事の大部分は、成功しているのである。

[やぶちゃん注:「『古今著聞集』に、……」上巻の「三」に既出。該当箇所の私の注を参照されたい。]

 ところが、この『枯野抄』に出る人物は、みな、常識的な、ありふれた、俗人であるから、およそ絵空事にならない人たちである、つまり、その頃の芥川の小説にまったく不向きな人間であり、書くのに芥川の一ばん不得手な人間である。それで、芥川が、私に、内証話でもするように、ひくい声で、「漱石門下の人たちだよ、」と云ったのが、かりに本当であったとすれば、こういう種類の人間を書くことがもっとも下手な芥川が、カクカクコレコレの人間をあらわそうと思いながら、書いたのが、まったく別の性格の人間になったのかも知れないのである。又、それでなければ、本当に、『花屋日記』と支考や其角が書いいた芭蕉の臨終記のようなものを参考にして、芭蕉の臨終の座敷に集まった、其角、去来、支考、惟然、丈艸、その他の、風貌、性格、心理、その他を真面目に書いたのを、芥川が、私をからかうために、「あれは、漱石門下の連中を書いたのだよ、」と云ったのかもしれない。これは芥川のよくやる手であるからだ。

[やぶちゃん注:勿論、芥川は宇野を『からかうために、「あれは、漱石門下の連中を書いたのだよ、」と云った』のではない。寧ろ、芥川は「枯野抄」を読んだ宇野は、その性格から「まったくヤリキレない気が」するに違いなく、『どんな社会でも』、こん『な妙な(イヤな)悪意の人たちばかりだけが集まる事はないゾ、と云いたい』に決まっている、「枯野抄」は『人間の心の地獄の図のようにさえ、思』っているに違いないと確信したからこそ、芥川独特の露悪的性向から、わざと『「あれは、漱石門下の連中を書いたのだよ、」と云った』のである。因みに、枯野抄」電子テクストその他、高等学校現代文オリジナル枯野抄」授業ノートなどがある。御笑覧あれ。]

宇野浩二 芥川龍之介 十六~(1)

     十六

 

『傀儡師』は、前述べたように、第二短篇集であるが、『羅生門』[ここでは、第一作品集のこと]と共に、芥川の前記の作風を代表する短篇集である。それに、この本の中には、初期以来の筆法にますます脂の乗ってきた小説が、はいっている。それから、この本におさめられている作品の大部分は歴史小説であり、中でも、徳川時代に題材を取った、『或日の大石内蔵助』、『戯作三昧』、『枯野抄』、それから、『地獄変』などは、芥川の数おおい作品のなかの、代表作に属するものであろう。

 それから、これは『傀儡師』だけの事ではないが、たとえば、おなじ切支丹物でも、『尾形了斎覚え書』では物物しい候文をつかい、『奉教人の死』では物体ぶった切支丹語をもちい、おなじ徳川時代に取材した物でも、『或日の大石内蔵助』と『戯作三昧』とでは、一方は四角ばった手法、他はくだけた筆法、というように、書き方をかえ、『地獄変』と『蜘蛛の糸』とでは、作風がまったく違うのに、文章の一節のおわりに、『ございました。』『ございません。』などという言葉を主〔おも〕につかいながら、一方は物やさしく感じられ、他は重重しく思われるように、使いわけ、『開化の殺人』では明治時代の翻訳語調と漢文調と新聞の三面記事の文章をまぜあわせたような文章をつかう、という風〔ふう〕に、芥川は、こんな事にも、心をくだいている。もとより、これはほんの一例であって、芥川は、前に述べたように、小説を書きはじめる時から、なるべく新奇な題材をあさり、できるだけ奇抜な工夫〔くふう〕をこらし、それを凝〔こ〕りに凝った文章であらわす事に刻苦精励し、苦心惨憺した。

 されば、くりかえし云うようであるが、芥川の前期(から中期へかけて)の作品の幾つかは、――そのたぐいない巧緻な手法、そのきわまりない絢爛な文章、そういう事だけ(そういう事だけである)から見れは、――誇張して云うと、日本の近代文学の中〔なか〕で、無比なものであろう。

 ところで、一般に、芥川は、アナトオル・フランス、ストリンドベルヒ、メリメなどに傾倒していた、と云われているが、芥川が、感心していたのは、フランスやメリメだけではない、それ以上に、手本のようにしていたのは、モウパッサンとゴオティエである。芥川の、前期から中期へかけての、絢爛で彫琢の妙をきわめた小儲の中には、ゴオティエの作品を思い出させるものが、幾らもある。つまり、芥川や『観念よりは形式に、思想よりは美に、心をひかれた、』という、ゴオティエの小説に読みふけった事があるにちがいないのである、それから、芥川の、やはり、前期から中期へかけての、気のきいた短篇の中には、その構成に、(『構成』だけである、)短篇小説の名人と称せられた、モウパッサンの短篇を手本にしたように思われるものが、幾つもある。つまり、芥川は、モウバッサンの短篇をも耽読した事があるにちがいないのである。

 もっとも、モウパッサンは、日本でもっとも早くから親しまれた外国の作家の一人で、田山花袋、徳田秋声、島崎藤村、その他の作家の短篇の中にも、モウパッサン風の小説が幾つかあり、永井荷風の短篇の中にも、やはり、モウパッサン風の小説が幾つかある。しかし、それらの小説は、もとより、大家の作品であるから、それぞれ、多少の差はあるけれど、いくらかモウパッサン風のところは感じられても、みな、その人の『物』になっている。(そうして、その中〔なか〕でも、「そもそも私が初めてフランス語を学ばうと云ふ心掛〔こころがけ〕を起〔おこ〕しましたのは、ああモウパッサン先生よ、先生の攻章を英語によらず、原文のままによみ味〔あぢは〕ひたいと思つたからであります。」[『モウパッサンの石像を拝す』の書き出し]と正直に述べている荷風のそれらの小説が一番こなれている。)

 ところで、私が学生時代の頃、(大正の初めの時分、)“After-dinners Series”という叢書の中に、英訳のモウパッサンの短篇集が五六冊あって、一冊五拾銭(古本で参拾銭ぐらい)であった。(それは、英語とフランス語の読める人の話に、ほとんど直訳でありながら、名訳である、という事であった。)その英訳のモウパッサンの短編集を五六冊、私のような語学のできない者さえ、読んだのであるかち、秀才であった芥川は、こういう英訳のモウパッサンの短篇など、十分〔じゅうぶん〕に読みこなしていたにちがいない。

[やぶちゃん注:「“After-dinners Series”」は、“After-Dinner Series”(London, Mathieson, n. d. 12 vols.)のこと。「食後叢書」として本本邦でも親しまれた。この記載を発見した足立和彦氏のHP『悪魔伯夫人』とは誰なのかモーパッサンの偽作に関して(1)によれば、モーパッサンの訳者は“Short stories by Guy de Maupassant, translated from the French by R. Whitling”で、また明治三十五(一九〇二)年にはほぼ全巻が出版されていたともある。ところが、この足立氏の記事によれば、そこには実に六十六編にも及ぶ偽作が含まれており、その贋作者は訳者ウィトリング本人であるとする。宇野や芥川がこれに親しんだとすると――もしかすると、彼らは正にその贋作の幾つかにインスピレーションを受けていたという、皮肉な可能性も、あるわけである――。]

 おなじ頃、モウパッサンのほかに、いろいろな作家の英訳の短篇集が出たが、その中にチェエホフとキイランド[註―キイランドは英語読みで、ノルウェイの人であるからキエランと云う、大学を出てからフランスで幾冬かをすごしたので、フランスの第一流の作家たちと親しく交わったので、非ノルウェイ的な文章で、警句と機智にみちた話を明快に、簡潔に、書いた人]の短篇集があって、そのチェエホフの短篇集の帯封にも、そのキイランドの短篇集の帯封にも、大きな活字で、de Maupassant type としてあった。つまり、私は、こういう事を思い出して、チェエホフのような天才的な短篇作家やキイランドのごとき勝〔すぐ〕れた短篇作家でさえ、(かりにイギリスの出版屋の失言としても、)『モウパッサン型』とか、ノ『モウパッサン風』とか、云われるのであるから、花袋、秋声、藤村、荷風、というような大先生の幾つかの作品がモウパッサンを思わせるところがある、などと、私が、放言をしても、寛恕してもらえる、と、虫のよい事をかんがえて、こういう事を、述べたのである。

[やぶちゃん注:「キイランド」Alexander Lange Kielland(アレクサンダー・ランゲ・シェラン 一八四九年~一九〇六年)はノルウェーを代表する作家の一人。本邦では「枯葉」「季望は四月緑の衣を着て」等、専ら岩波文庫の前田晁〔あきら〕訳(昭和九(一九三四)年刊)で知られる。]

 ところが、花袋、秋声、藤村、荷風、というような大家の幾つかの作品が、一部の具眼者には、「……モウパッサンだね、」とか、「モウパッサン風〔ふう〕だね、」とか、云われる事があるのに、それらの人たちにさえ、芥川が、モウパッサンのいろいろの短篇の構成を巧みに取〔と〕って、幾つかの小説を書いているのを、見やぶられないのは、どういう訳であろうか。

2012/04/16

宇野浩二 芥川龍之介 十五~(2)

 

 

 私は、さきに、芥川の実父の少年時代の事が不明である、と書いたが、芥川の幼少年時代の事どもも、私には、不明なことが多いのに、気がついたのである。それは次ぎのような事である。

 前にも述べたように、芥川は、生後九箇月ぐらい後に、その頃の、京橋区入船町の実家から、本所区小泉町の芥川家に、もらわれて行ったのであるが、その時分の事は芥川の書いている文章によっておよそ想像ぐらいはつくが、はっきりしない所もある、それは、『大導寺信輔の半生』や『点鬼簿』のような小説(あるいは小説風のもの)は、もとより、『追憶』や『本所両国』のような物にまで、芥川流の見えや修飾があるからである。それから、『大導寺信輔の半生』の最初の『本所』の書き出しの「大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院〔ゑかうゐん〕の近所だつた、」というのは、かりに大導寺信輔が芥川龍之介とすれば、嘘であるが、それは、『大導寺信輔の半生』という題の横に、「――或精神的風景画――」と断ってあるから、仕方がないとすれば、この小説は、芥川の『精神的風景画』として、見れば、いくらかの参考にはなる。

[やぶちゃん注:芥川龍之介は、明治二十五(一八九二)年三月一日、当時外国人居留地の一画であった東京市京橋区入船町八町目一番地(現在の中央区明石町一〇―一一)で出生した。現在、碑が立つ。]

 

 参考、といえば、迂闊な私は、田端に住んでいた芥川しか知らないので、芥川は生まれた時から田端町住んでいたような気がしていたが、(もっとも、そんな事をはっきり考えたこともなかったが、)『本所両国』のはじめの方で、「僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐたのである、」というのを読み、その事を初めてはっきり知ったことである。

[やぶちゃん注:芥川龍之介は出生後に母フクが精神に異常をきたしたため、同年十月末に本所区小泉町一五番地(現在の墨田区両国三丁目二二番一一号)に引き取られた。明治三十七(一九〇四)年八月三十日新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組、以下に見る通り、明治四十三(一九一〇)年十月に芥川家はこの本所小泉町から府下豊多摩郡内藤新宿二丁目七一番地(現在の新宿区新宿二丁目)に転居、更に大正三(一九一四)年十月末に北豊島郡滝野川町字田端四三五番地(現在の北区田端)に家を新築して転居した。ここ田端が芥川龍之介の終生の地となった。]

 

 そこで、あらためて、年譜を見ると、「明治四十三年、(十九歳、)三月、第三中学校卒業、九月、無試験にて第一高等学校第一部乙(英文科)入学。同級に、久米正雄、菊池 寛、山本有三、松岡 譲、土屋文明あり。特に作家たらん希望なし。新宿二丁目七十一番地に移転。」「大正二年、(二十二歳、)第一高等学校卒業。帝国大学英文科入学。田端四百三十五番地に移転。」とある。

 これを読むと、知ってみれば、そうか、と思うような事ではあかが、芥川は、「三十五年あまりの生涯のうちで、十八九年ぐらい、本所の小泉町で、くらし、一年あまりを府下の新宿で、おくり、田端で、十三四年ほど、生活した。つまり、芥川はその生涯の大半を、東京の中でも最も見すぼらしい下町〔したまち〕で、おくった、という事になるのである。これは、この、私の書いているような、ふらふらした、(つまり、足元の定まらぬような、)文章ではなく、もっと真面目に芥川龍之介を研究する文章を書く人には、重大な問題である。

 芥川が二十歳頃まで住んでいた本所小泉町は、今の両国駅の近くであるが、芥川の幼少時代(つまり、明治二三十年代)は、うす暗〔ぐら〕いごたごたした町で、芥川の家は貧乏ではあっても門がまえの幾らか大きな家であったけれど、近所は、穴蔵大工〔あなぐらだいく〕、駄菓子屋、古道具屋、その他、それに類した家ばかりであった。芥川は、後年、(大正十四年に、)このような町に住んでいた時分の事を回想して、「それ等の家々に面した道も泥濘〔ぬかるみ〕の絶えたことは一度もなかつた。おまけに又その道の突き当りはお竹倉〔たけぐら〕の大溝だつた。南京藻〔なんきんも〕の浮かんだ大溝はいつも悪臭を放つてゐた、」と、書いている。これを文字どおりに読めば、こんな所に一日も半日も住んでいられない、と思われる。が、すらすらと読めば、そんな実感はほとんど感じられないで、いかにも懐しそうに書いているように思われる。作者が散文詩でも作るように書いているだけであるからだ。

[やぶちゃん注:「穴蔵大工」の穴蔵は、地面や山盛り土の斜面に横穴・竪穴を造成して物を収納できるようにした地下室。江戸時代、特に安政元(一八五四)年十一月四日に発生した安政の大地震以後の江戸で流行ったが、江戸では地下水位が高いために水漏れや湿気対策として内装の材料が主にヒバ材で作られ、穴蔵本体の材木部分を製造することを主な業務とする穴蔵大工という専門職が存在した。

「お竹倉」現在の両国駅から北側一帯(墨田区横網町)にかけては嘗ての幕府材木倉・竹倉・米蔵などの御蔵屋敷跡の一部であった。芥川が幼・少年期を過した頃の芥川家は、ここの南に隣接していた。芥川龍之介の「本所兩國」の「お竹倉」などを参照されたい。

・「南京藻」他の芥川作品でもそうだが、彼がこう言う時には、必ず腐れ水の匂いが付き纏う。従ってこれは、所謂、水草らしい水草としての顕花植物としての水草類や、それらしく見える藻類を指すのではなく、真正細菌シアノバクテリア門藍藻類のクロオコッカス目Chroococcales・プレウロカプサ目Pleurocapsales・ユレモ目Oscillatoriales・ネンジュモ目Nostocales・スティゴネマ目Stigonematales・グロエオバクター目Gloeobacterales等に属する、光合成によって酸素を生み出す真正細菌の一群、所謂、アオコを形成するものを指していると考えられる。アオコの主原因として挙げられる種は藍藻類の中でもクロオコッカス目のミクロキスティス属Microcystis、ネンジュモ目アナベナ属Anabaenaや同目のアナベノプシス属Anabaenopsisであるが、更に緑藻類の緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科のクロレラ属Chlorella、緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目イカダモ科イカダモ属Scenedesmus、緑藻綱ボルボックス目クラミドモナス科クラミドモナス属Chlamydomonas等もその範囲に含まれてくる。若しくは、それらが付着した水草類で緑色に澱んだものをイメージすればよいであろう。

「大溝」は「おほどぶ(おおどぶ)」と訓ずる。]

 

 しかし、又、そう云い切れないところもある。自分の事をほとんどまったく書かない、と称せられた芥川が、『保吉の手帳から』を書いた時分から、十年あるいは二十年以上も前の事ではあるが、自分が見聞きし経験した事を、歯に衣〔きぬ〕をきせたような云い方〔かた〕ではあるが、『作文』でもするような書き方ではあるが、大正十二年頃から、ぼつぼつ、書き出したので、ある時代の芥川が凡〔およ〕そどのような生活をしていたかが、少〔すこ〕しでもわかるようになった事がありがたいのである。それを、こんど、私は、『大導寺信輔の半生』、『点鬼簿』、それから、『追憶』、『本所両国』、その他を読みなおして、感じたのである。といって、それも、どのような話でも、肝心のところを逸〔そら〕したり暈〔ぼか〕したりしてあるので、「少しでもわかる」というより、ほのかに想像できる、という程度である。それで、これから、私が芥川その他の人について述べる事は、当て推量〔すいりょう〕である、と思っていただきたい。

 芥川の父は、(養父か実父かよくわからないが実父らしい、)多少の貯金の利子をのぞけば、一年の五百円の恩給で、女中をいれて五人の家族を養わねばならなかった。(こういう事を芥川は、「中流下層階級の貧困」と云っている、さすがに巧みな云い方だ。)そのために節倹の上にも節倹をしなければならなかった。それで新〔あたら〕しい著物などは誰もめったに造らなかった。「父は常に客にも出されぬ悪酒の晩酌に甘んじてゐた。母もやはり羽織の下にははぎだらけの帯を隠してゐた。」(これはもう『作文』などではない。)この頃の事を、この頃の自分の事を、芥川は、『大導寺信輔の半生』のなかで、次のように述べている。

[やぶちゃん注:「養父か実父かよくわからないが実父らしい」は誤り。これは養父芥川道章を指している。]

 

 

 ……信輔は未〔いま〕だにニスの臭い彼の机を覚えてゐる。机は古〔ふる〕いのを買つたものの、上へ張つた緑色の羅紗も、銀色に光つた抽斗〔ひきだし〕の金具も一見小綺麗〔こぎれい〕に出来上つてゐた。が、実は羅紗も薄いし、抽斗も素直にあいたことはなかつた。これは彼の机よりも彼の家の象徴だつた。体裁だけはいつも繕〔つくろ〕はなければならぬ彼の家の生活の象徴だつた。……

 

 

 右の文章は、いうまでもなく、修飾も気取りもないので、(気取りは、芥川の癖で、いくらかあるけれど、)しみじみと、読む人の心を、打つ、叩く。殊に、私などは、あの芥川が、小〔ちい〕さい時分に、古〔ふる〕い机になやまされ、何〔なに〕よりも好〔す〕きな本が買えず、夏期学校にも行かれず、「友だちがいづれも愛用」している、外套も買ってもらえなかったのか、と思うと、おのずから目頭〔めがしら〕が熱くなるのを覚えるのである、涙ぐましくなるのである。

 ところで、『大導寺信輔の半生』のなかに、『牛乳』という不思議な文章がある。それは、信輔が、生まれ落ちた時から、母の乳をまったく吸った事がなく、牛乳ばかり飲んで育ったことを、「憎まずにはゐられぬ運命」と考え、それに、「誰にも知らせることの出来ぬ一生の秘密」と思いこむ事である、それから、自分が、頭〔あたま〕ばかり大きく、無気味なほど痩せた少年であり、はにかみ易〔やす〕い上に、磨ぎすました肉屋の庖丁にさえ動悸の高まる少年である事が、「伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、日頃胆勇自慢の父とは似ても似つかぬ」事を、牛乳のためであり、体〔からだ〕の弱いのも牛乳のためである、と確信する事である。そうして、牛乳のたあに体が弱い、という『秘密』を友だちに見やぶられないために、信輔(つまり少年の芥川)が、膝頭のふるえるのを感じながら、お竹倉の大溝を棹〔さお〕もつかわないで飛びこえたり、回向院の大銀杏〔いちょう〕に梯子もかけずに登ったり、友だちの一人〔ひとり〕と殴〔なぐ〕り合いの喧嘩をしたり、した。そのために、信輔は、右の膝頭に一生〔しょう〕消えない傷痕を残した。そうして、そういう事をする信輔を見る毎に、信輔の父は、威丈高〔いたけだか〕になって、信輔に「貴様〔きさま〕は意気地〔いくぢ〕もない癖に、何〔なに〕をする時でも剛情〔がうじやう〕でいかん。」と小言〔こごと〕をいった。

 この父は、牛乳屋の、実父、新原敏三であろう。

[やぶちゃん注:ここでの「父」は勿論、宇野の言う通り、実父新原敏三を指している。]

 

(余談であるが、作家になってからの芥川の事を、誰いうとなく、「芥川の家〔うち〕は牛乳屋だよ、」と云うのを、私は、ときどき、耳にしたのを、ふと思い出した。)

 ところで、芥川は、『点鬼簿』の中で、その父について、「僕の父は牛乳屋であり、小〔ちひ〕さい成功者の一人〔ひとり〕らしかつた。僕に当時新〔あた〕らしかつた果物や飲料を教へたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアツプル、ラム酒、――まだその外〔ほか〕にもあつたかも知れない。僕は当時新宿にあつた牧場の外〔そと〕の槲〔かし〕の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えてゐる、」と書いているが、明治三十年代の、バナナ、アイスクリイム、パイナップル、ラム酒、といえは新奇以上の新奇であったにちがいない。

[やぶちゃん注:「槲」をカシと訓じている資料が多く、芥川龍之介もそのつもりで混同して用いているようだが(後掲される恒藤恭の描写では正しく「樫」とある)、槲はブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属カシワQuercus dentate で落葉性、樫はコナラ属でも常緑性の種であるウバメガシQuercus phillyraeoides やアカガシ Quercus acuta 等を「カシ」と呼び、「カシワ」を「カシ」とは言わない。]

 

 芥川は、このような実父と、寛永年聞からつづいている、代代お坊主として殿中に奉仕した、というような旧家に生まれた養父と、――こういうまったく両極端の二人の父を持ったのである。

 ところで、芥川は、おなじ『点鬼簿』のなかに、この実父が、こういう珍しいものを自分にすすめて、自分を養家から取り戻そう、と、述べたあとに、つぎのように書いている。

 

 

……僕は一夜大森の魚栄でアイスクリイムを勧められながら、露骨に実家へ逃げ来いと口説〔くど〕くかれたことを覚えてゐる。僕の父はかう云ふ時には頗る巧言令色を弄した。が、生憎〔あいにく〕その勧誘は一度も効を奏さなかつた。それは僕が養家の父母を、――殊に伯母を愛してゐたからだつた。

 

 

 つまり、この伯母がふきである。

 さて、はじめに述べた芥川が海軍機関学校の教師を止〔や〕め、大阪毎日新聞社にはいる事になって、田端の家で、自分たち夫婦と養父母と、伯母と、五人一しょに、暮らす事になった時、この伯母のふきは、六十二歳で、養母は、六十三歳であった。 その年(つまり、大正八年)の一月に出版した『傀儡師』は、この伯母のふきに、献じたものである。

 

 追記――これらの文章を書き終ってから、芥川の高等学校時代の親友である、恒藤 恭の『旧友芥川龍之介』という本を手に入れた。その中に、芥川が高等学校時代に住んでいた新宿の家の事が出ていたので、それをつぎに引用したい。

 

 

 芥川が一高に入学した明治四十三年に芥川家は本所小泉町から新宿二丁目に移転した。そのころは、四谷見附から新宿へ向けて走る電車が終点に近づいて行くと、電車通りに新宿の遊廓の建物がならんでゐるのが窓から見えたものであつた。たしか三丁目で下車して少し引返し、左へ折れて二三町ばかり行くと、千坪ぐらゐの広さの方形の草原を前にして芥川の住んでゐた家がぽつんと建つてゐた。樫の木などが疎らに生えてゐる地面を十四五坪へだてて牛舎があつた。芥川の実父新原氏はそこと今一つほかの場所で牧場を経営してゐた。いま一つの方のことは知らないけれど、新宿の方は牧場といつても小規模だつた。しかしホルスタイン種か何かの骨骼のたくましい牛を幾頭も飼つてゐた。

 

 

右の文章を借用したのは、芥川が、高等学校時代に、こういう所に住んでいたことがわかる事が、私ばかりでなく、大方の人におもしろいと思われる、と考えたからである。

チャツネは鬼門だ

昨日、午後半日かけてカレーを作った。ところが、作っている途中から腹が痛くなってきた。食べ終わった7時には激しいキリモミ状態となり、今朝までに4度トイレに行き、全身の水溶物が流れ出るかのような酷い下痢に見舞われた。一昨日の夜に岩ガキとホヤを食べたが、これはそのような生半可な中毒症状とはわけが違った。胃が焼けるような感じで、こんな持続する痛みは全く初めてであった。

現在も何も食べていない。今夜も食えるかどうかわからない。

原因を考えてみた――昨日のカレーの今までとは違った部分――チャツネを通常の倍近く投入した辛くて甘いカレー――今までも入れてはいたチャツネだが……こんなに入れたのは……初めて……

そうだ! 成分のマンゴーだ! チャツネはマンゴーが主原料――

私は今から7年前に山でウルシにかぶれた――

その時に調べたら、マンゴーもウルシオールと似たマンゴールを含むとあった――

マンゴーは私の好物だったがそれ以来、口にしていない(因みに青マンゴーというのをお食べになったことはあるか? あれはとっても上品で美味しいですぞ)――

今まで必ずカレーには途中でチャツネを入れていたが、今回のように、一壜の半分を投入したのは初めてだった――

母も同じアレルギだった。マンゴーの入ったケーキをうっかり僕が買ってきて、ゲリピーになって大騒ぎになったことがあった――僕は母さんと同じだったんだんだね、やっぱり……母さん、やっちまったよ――♪てへへ♪

宇野浩二 芥川龍之介 十五~(1) 下巻に突入

 

 

芥川龍之介   宇野浩二   下巻

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の盟友宇野浩二による渾身の大作「芥川龍之介」は昭和二十六(一九五一)年九月から同二十七(一九五二)年十一月までの『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載され、後に手を加えて同二十八年五月に文藝春秋新社から刊行された。底本は中央公論社昭和五十(一九七五)年刊の文庫版上・下巻を用いた。ルビの拗音の同ポイントについては私の判断で小文字を採用している。本文中の割注のような( )によるポイント落ちの筆者の解説が入るものは(ポイント落ちでない補足がやはり( )や⦅ ⦆で行われているが、それとは違う。それはそのまま( )や⦅ ⦆を用いた)、[ ]で同ポイントで示した(当初はこれは筆者とは別な編集者が挿入した疑いを持ったが、幾つかの箇所から筆者でなければ書けない内容であることが分かったので、省略しなかった)。なお、手紙等の引用は底本では全体が二字下げとなっているが、ブラウザ上の不具合を考えて、本文と同一にしたが、引用であることが判然とするように前後には底本にはない「*」を附して読み易くした(但し、詩歌などの引用でブラウザ上の不具合が生じない箇所は底本通りとして「*」は挿入していない)。「〱」「〲」の繰り返し記号は正字に直した。一部に私のオリジナルな注を附した(注の位置は私の判断で空行パートごと若しくは当該語句を含む形式段落の直後の何れかに配してある)。注を附す対象は私がよく知らない(若しくは作家名として知っていても作品を読んだことのない)人物・事件を主としたが、本文で十全に語られていると判断した人物・事件については省略したものも多い。悪しからず。] 

 

      十五 

 

 前にも述べたように、『傀儡師』[大正八年一月発行]出した頃は、芥川の全盛時代であり、芥川がもっとも競〔きお〕っていた時の一つであった。いいかえると、この頃、(つまり、大正八年のはじめ頃)は、芥川の短かい一生の中でもっとも張りのある時代の一つであった。

 『傀儡師』は、いうまでもなく、芥川の第二作品集であり、その装幀は芥川がしたものである。(もっとも、『羅生門』の装幀も芥川がした。)

[やぶちゃん注:私の電子テクストに可能な限り、この第二作品集を味わえるように仕組んだ「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)」がある。お楽しみあれ。

「競う」の読みは誤りではない。勢い込んで先を争う、張り合うの意の「きおう」は「競う」「勢う」と書く。]

 

     世の中は箱に入れたり傀儡師

 

 二伸これは新年の句本の広告ぢやありません

 

 

 これは芥川が、大正八年の一月四日に書いた葉書の文句であるが、芥川は、おなじ年のおなじ日に、これと同じ文句を書いた葉書を南部修太郎と薄田〔すすきだ〕淳介(泣菫)に、出している。

 ところで、私が、前に、「芥川がもっとも競っていた時の一つ」と書いたが、その例の一つは大正六年の一月号の『新思潮』に、芥川が、「文壇は来るべき何物かに向つて動きつつある。亡ぶべき者が亡びると共に生〔うま〕るべきものが必ず生まれさうに思はれる。今年〔ことし〕は必ず何かある。何かあらずにはゐられない。僕等は皆小手しらべはすんだと云ふ気がしてゐる、」と書いているからである。

 もっとも、『競う』といえば、元気と張りあった自分の芥川は、いつも、なにか、競っていた。(『競う』とは、もとより、「負けじと進む」「意気ごむ」という程の意味である。そうして、また、『競う』というと、芥川は、文壇に出てから、死ぬまで、一生〔いっしょう〕、競い通〔とお〕したようなところもあった。

 大正六年といえば、芥川の、かぞえ年〔どし〕、二十六歳の年である。

 こういう事を書きながら、ふと三十六歳の頃の私は、(おなじ年頃の私の友だちは、)このような『競う』気もちなどは殆んど全〔まった〕く持っていなかった事を、思い出した。これは、わたくし事〔ごと〕を述べることになったが、決して決して自慢などをする気もちではない、気もち(あるいは気質)の違いなのである。

 

 さて先に引いた、同じ年〔とし〕のおなじ日に薄田と南部に同じ文句の葉書が出ている芥川の『書翰集』のおなじペイジに、芥川が、おなじ年〔とし〕(つまり大正八年)の一月十二日に、薄田にあてた手紙の中〔なか〕に、意外な事を、(まったく意外な事を、)書いているのを読んで、私は、二三度くりかえして読みなおした程、おどろいた、というより、驚歎したのである。それは、「突然こんな事を申上げるのは少々恐縮ですが私をあなたの方の社の社員にしてはくれませんか」と書き出し、今のままでは陸〔ろく〕な生活が出来ないから、社員にしてほしい、つまり「社へ出勤する義務だけは負はずに年に何回かの、小説を何度か書く事を条件として報酬を貰ふと云ふ事です勿論さうすれば学校はやめてしまつて純粋の作家生活にはいるのですつまり私とあなた方の社との関係を一部分改造して小説の原稿料を貰はない代りに小説を書く回数を条件に加へて報酬を一家の糊口に資する丈増して貰ふと云ふ事になるのです」と、芥川が、述べているからである。

 私は、前にたびたび書いたように、年〔とし〕は二十七八歳でありながら、芥川は、名声だけは、その当時の諸大家を、凌〔しの〕ぐ獲であったから、毎日新聞社での地位などは、社の方から頭〔あたま〕をさげて頼みに来たのであろう、ぐらいに、(その頃、その時を聞いた時、)思っていたのであった。

 ところが、今〔いま〕しらべて見ると、芥川は、その前の年(つまり、大正七年)の二月に、結婚をしている。しかし、それにしても、海軍機関学校から六十円の月給をとり、毎日新聞社からも月に五十円もらっていたのであるから、(大正七八年頃なれば、)それだけで、「一家の糊口に資する」ぐらいの事は十分〔じゅうぶん〕に間〔ま〕にあうばかりでなく、いくらかの余裕も出る等である、(と思われるのである、)それを、芥川のような人間が、(芥川のような花形の流行作家が、)このような手紙を書いているのを見て、くりかえし云うが、私は、やはり、何ともいえぬ不思議な気がした。それは次ぎのような事を思い出したからである。

 例えば、(例えば、である、)上林 暁は、昭和二年、(ちょうど芥川の死んだ年〔とし〕、)東京大学英文学科を卒業し、卒業すると、すぐ、改造社にはいって「改造」の編輯員となり、昭和八年に、「文芸」が創刊された時、その編輯長になったが、その翌年の四月に、退社すると共に、作家生活にはいったのである。ところで、上林は、その時までに、――つまり、昭和二年の四月に、高等学校時代の同窓と、「風車」という同人雑誌を出し、それから、いろいろな同人雑誌に関係したが、結局、昭和六年の七月号の「新潮」に、はじめて、『欅日記』を発表し、翌年(つまり、昭和七年)の八月に、おなじ「新潮」に発表した『薔薇盗人』によって、ようやく文壇に出たのである。されば、上林が、唯これだけの文学の経歴によって、昭和九年の四月に、足かけ八年つとめていた社を止めて、作家生活にはいろう、と決心するまでには、上林は、必死にちかい覚悟をしたにちがいない。

 川崎長太郎は、経歴からいえば、古〔ふる〕い作家であるが、近頃、上林などとならんで、私小説を代表する作家の一人と云われている。私がはじめで川崎を知ったのは、大正二年の初夏の頃であった。その年、川崎は、二十三歳であったボ、徳田秋声に師事していただけで、文学の友だちなどは余りないようであった。しかし、川崎の『兄の立場』という小説を読むと、川崎は、小田原の魚屋の長男でありながら、十六七歳頃から、小説を読んでいたらしく、大正十二年の九月の大地震で町がほとんど全滅した時、「自由のない世に残された自由な穴、文学に立てこもらうと意志がしつくり根強く生長して来た、」と、書いている。こういう川崎は、たしか、大正十三年の春の頃、秋声の推薦で、「新小説」に、『無題』という小説を、発表した。(この小説は、一部の人びとに認められ、私も感心した、それで、この小説をかりに川崎の処女作とすれば、この年頃〔としごろ〕の人で、二十四歳で、処女作を見とめられるのは、異数というべきであろう。)ところで、川崎は、この時から、俗な言葉でいうと、ずるずるべったりに、作家生活に、はいったのである。

 さて、私がこのような事を書いたのは、これから作家生活にはいろう、と覚悟して、作家になる人、ずるずるべったりに作家になる人――こういう二〔ふた〕つの型〔かた〕がある、というような事を述べたかったのでもあるが、そればかりではない。例えば、川崎と上林はたしか一つちがいであるが、川崎がずるずるべったりに作家生活にはいったのは大正十三年であり、上林が覚悟をして作家生活にはいった、のは昭和九年であるから、それは十年代のちがい、という事にもなりそうであるが、また、気質と境遇のちがいという事もかんがえられる。そうして、私は、結局、これは、気質のちがい、という事になる、と思うのである。(そうして、『我田引水』になるが、私の狭い見方であるけれど、今日〔こんにち〕はたらいている作家の大部分⦅あるいは、半分以上⦆は、このずるずるべったり派ではないか。)

 さて、前に述べた芥川の場合であるが、さきに、私は、「何ともいえぬ不思議な気がした、」と述べたけれど、こういう事を思いうかべて、よく考えてみると、不思議でも何でもないような気がしたのである。それは、簡単にいうと、芥川という人は、前にも述べたように、案外、常識的な人であったからである、世間体〔せけんてい〕をかんがえる人であったからである、家庭(あるいは、家)の事を気にする人であったからである、時には、『芸術』より『家』の方に心を労した人であったからである、ひどく気の弱い小〔ちい〕さい人であったからである。

 

 

 人生は落丁〔らくちょう〕の多い書物に似てゐる。一部を成すとは称し難い。しかし兎〔と〕に角〔かく〕一部を成してゐる。

 人生は地獄よりも地獄的である。……

 人生の悲劇の第一幕は親子になったことにはじまつてゐる。

 

 

 これらの『侏儒の言葉』の中の文句は、もとより、筆者の本音のように思われる節〔ふし〕はあるけれど、空虚なところがあるようにも感じられる。(『侏儒』とは、いうまでもなく、「身のたけの底い人」とか、「一寸法師」とか、いう意味であるが、「見識のない人を嘲る」という意味もある。)それで、私は、この『侏儒の言葉』は、「文藝春秋」に連載されている時から、ときどき、読んでいたが、『侏儒』(つまり、「見識のない人」)は、筆者の芥川ではなく、反対に、芥川が、あまたの読者を『侏儒』(つまり、見識のない人間)と見くびっているような気がして、しばしば、否〔いや〕な気がした事があった。

 ところが、芥川は、『或阿呆の一生』のなかに『械〔かせ〕』という、つぎのような事を、書いている。

 

 

 彼等夫妻は彼の養父母と一〔ひと〕つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為〔ため〕だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力〔ちから〕にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。

 

 

 右の文章の中〔なか〕の夫妻とは、いうまでもなく、芥川夫妻であり、養父母とは、芥川の養父であり伯父(芥川の実父新原敏三の兄)である、つまり、芥川道章とその妻の儔〔とも〕であり、或新聞社とは、毎日新聞社である、それから、一〔ひと〕つ家とは、その時(つまり、大正八年の三月)から芥川が、死ぬまでで住んでいた、府下[その頃は府下であった]田端四百三十五番地の家である。(芥川が、この家に住むようになったのは、大学に入学した年〔とし〕[大正三年]であるが、芥川は、大正七年の二月に、前から交際していた、塚本文子と結婚したので、その年〔とし〕の四月のはじめに、鎌倉の海浜ホテルのとなりに二〔ふ〕た間〔ま〕の部屋を借りて、引っ越した。)つまり、この文章のはじめに「一つ家に住むことになつた、」とあるのは、前に述べた、大正八年の一月十二日に、芥川が、鎌倉から、「あなたの方の社の社員にしてはくれませんか、」と頼んだ手紙薄田淳介に出してから、二〔ふた〕た月〔つき〕ほど後の三月のはじめに、やっと、薄田の骨おりで、毎日新聞社の社員になる事にきまったので、妻と共に、鎌倉を引きあげ、養父母と一しょに、田端の家で、くらす事になった、という程の意味である。(ところで、右の文章の中の文句を文字どおりに取れば、毎日新聞社にはいる事になったので、養父母と一しょに暮らす、という事になるが、蒲田あての手紙の文句を文字どおりに取ると、養父母と暮らすために、毎日新聞社に入社した、という事になる。しかし、いずれにしても、)あの田端の家で、(かなり大きな家であった、)養父母のほかに、伯母(道安章の妹、ふき)がもう一人〔ひとり〕いたのであるから、(五人が暮らしてゆくのであるから、)相当(以上)の金がいったにちがいない、されば、芥川が、機関学校の教師を止〔や〕めて、毎日新聞社の月給を上〔あ〕げてもらって、創作に専念しよう、と思ったのは、決して無理ではない、と、今〔いま〕の私は、思いやるのである、心から同情するのである。

 

[やぶちゃん注:「養父母とは、芥川の養父であり伯父(芥川の実父新原敏三の兄)である」とあるが、この芥川道章の妹フクが芥川龍之介の実母であるから「兄」ではなく、「義兄」である。なお、精神病を患ったフクの生前(龍之介が芥川家へ入ると同時に)、新原敏三は家事手伝いに来ていたフクの妹であるフユを後妻に迎えている。

「大正七年の二月に、前から交際していた、塚本文子と結婚したので、その年〔とし〕の四月のはじめに、鎌倉の海浜ホテルのとなりに二た間の部屋を借りて、引っ越した」とあるが、誤り。「鎌倉の海浜ホテルのとなりに二た間の部屋」は、大正五(一九一六)年十二月に海軍機関学校教授嘱託となった直後、田端からの通勤が困難なために借りた、鎌倉町和田塚の海浜ホテル隣りにあった野間西洋洗濯店の離れを指している。新婚生活の新居は鎌倉町大町字辻の小山別邸であった(横須賀線の辻の薬師の踏切の南側)。芥川文は回想して、この時の生活が龍之介にとっても一番幸せだったと述懐している。因みに、私の藪野の実家は(敗戦直後の移住であるが)この別邸の西の向かいに当たる。]

 

 前に書いたか、と思うが、芥川は、私などにも、決して愚痴をこぼした事はないけれど、一度か二度、「……君〔きみ〕、僕の家庭は、実に複雑なんだよ、ときどき、やりきれない、と思うことがあるよ、」と、云った。しかし、その頃の私には、その芥川のいう事が、わからないばかりでなく、想像もつかなかった。ところが、こんど、『或阿呆の一生』の中〔なか〕で、

 

 

 彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。それは地盤の緩〔ゆる〕い為〔ため〕に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度〔たび〕たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十歳に近い年〔とし〕よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互〔たがひ〕に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何〔なに〕か気味の悪〔わる〕い二階の傾きを感じながら。   (『家』)

 

 彼は結婚した翌日に「来勿々〔きさうさう〕無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言〔こごと〕を言〔い〕つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詫びを言つてゐた。彼の為〔ため〕に買つて来た黄水仙の鉢を前たしたまま。……(『結婚』)

 

[やぶちゃん注:ここに有意な行空けが存在する。]

 

 

 

『或阿呆の一生』は、一般に、「散文詩のような」と云われているが、私は、それにも同感であるけれど、芥川の文学の中で、特殊なものの一つである、と思っている。(それについては、後に述べる。さて、――)

 右の二つの文章の中に出てくる、伯母は、前に書いた、ふきである。芥川の実母のふくは、そのふきの妹であり、道章の妹でもある。そうして、ふくは、芥川家から新原家に片〔かた〕づいて、龍之介を生んだのである。(もっともふくは、その前に、初子と久子という二人の娘を、生んでいる。しかし、長女の初子は、芥川の生まれない前に、夭逝した。)

 ところで、芥川の実父の新原敏三は、――この人については、芥川は、『大導寺信輔の半生』の中に、ほんの少〔すこ〕し書いているだけで、その素性〔すじょう〕が殆んど全〔まった〕くわからない。ところが、こんど、これまで、この文章を書いている間〔あいだ〕に、たびたび、お蔭〔かげ〕をこうむった、竹内 真の『芥川龍之介の研究』の中で、つぎにうつすようなところを、発見した。

 

[やぶちゃん注:「初子」については、実母フクや実父敏三とともに一読忘れ難い人物として「點鬼簿」の中の「二」に「初ちやん」として登場する。

「竹内 真の『芥川龍之介の研究』」は昭和九(一九三四)年大同館書店刊。]

 

 

 実父新原敏三の本籍は山口県玖珂郡賀見畑村字〔あざ〕生見八十八番地屋敷。彼は、十八の頃、萩の乱[註―簡単にいえば、明治九年、前原一誠が萩に反旗をひるがえして鎮圧せられた事件であるが、これは会津の永岡久茂の思案橋の変、西南の役、と共に、武力による反政府運動である]に加〔くは〕はり敗走し、同郷、益田孝、渋沢栄一をたより、箱根仙石原に畊牧舎を開き成功し、後上京。新宿と築地入船町に牧場を持ち手びろく事業を経営した。降つて築地入船町が外国人居留地となるや、当時芝、新銭座町に住宅を移し営業に従事し、新宿には依然として牧場を持つてゐた。龍之介が生まれたのは、まだ入船町に住居があつた頃である。

 

 

 この記事は大へん為〔た〕めになったが、右の文章のなかに少〔すこ〕し不審なところもある。それは、「同郷、益田孝、渋沢栄一」とあるのは、益田は、益田右衛門介〔ますだうえもんのすけ〕という名家老が山口藩にあったから、同郷であるかもしれないが、渋沢は、武蔵〔むさし〕の国(今の埼玉県)の農家と商家とを兼ねた家に生まれた人であるから、同郷ではない、という事である。しかし、同郷ではなくても、新原がこの人をたよった、というのは有り得る事であろう。さて、それはそれとして、「十八歳の頃、萩の乱に加はり」と云うところがあるが、新原は、たしか、嘉永四年頃の生まれであるから、十八歳の頃は、明治元年ぐらいであるから、もし加わったとすれば、――「萩の乱」ではなく、芥川が、『大導寺信輔の半生』のなかに、「伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、」と書いているように、明治元年の一月の初めの、鳥羽伏見の役ではないであろうか。

 

[やぶちゃん注:「新原敏三」は「にいはら」と読む。その生年は「嘉永四年」ではなく、嘉永三(一八五〇)年で、没年は大正八(一九一九)年三月十六日(スペイン風邪による)である。二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の庄司達也氏の「新原敏三・新原家」によると、まず「生見」(いくみ)「八十八番地」は、推定で「一五六四」番地とし、慶応二(一八六六)年に『火蓋を切った四境戦争(長州征伐)に』、敏三は、数え十七歳で『大林源治の変名を用いて長州軍の農兵隊である「御楯隊」(後の整武隊)の器械方(砲兵隊)下士卒として参戦』、七月二十八日に『あった芸州口(現、広島県大竹市付近)の戦闘で負傷し、戦線を離脱した』とあり、その後はしばらく消息が途絶えるが、明治九(一八七六)年九月に『千葉県成田三里塚の官営牧場「下総御料牧場」に「雇」として入所』、『その後、神奈川県仙石原の耕牧舎牧場』(「畊」は「耕」と同音同義)に移って、『実業家渋沢栄一のもとで次第に頭角を現していった』、とある(長州征伐は幕府軍が小倉口・石州口・芸州口・大島口の四方から攻めたために長州側では「四境(しきょう)戦争」と呼ぶ)。この記載からは竹見の明治九(一八七六)年の萩の乱は勿論、慶応四(一八六八)年の鳥羽・伏見の戦いも誤認である。

 

「益田孝」の名はこちらにはないが、渋沢栄一との絡みで言えば、三井財閥を支えた実業家益田孝(嘉永元(一八四八)年~昭和十三(一九三八)年)がおり、彼の三井物産創立は正に明治九(一八七六)年のことである。但し、この増田孝は新潟佐渡の出身であり、やはり「同郷」ではない。

「益田右衛門介」は、幕末の長州藩永代家老であった益田親施(ちかのぶ 天保四(一八三三)年~元治元(一八六四)年)で、右衛門介うえもんのすけの名で知られる。嘉永六(一八五三)年のペリー浦賀来航により浦賀総奉行として着任、安政三(一八五六)年、長州藩国家老となったが、後、尊皇攘夷に走り、第一次長州征伐によって幕府軍から益田の責任が追及され、徳山藩に身柄を預けられた後、切腹を命じられた(以上はウィキの「益田親施」に拠った)。この事蹟から見て、残念がら新原敏三との接点は極めて薄いと考えてよいであろう。

「芥川が、『大導寺信輔の半生』のなかに、「伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、」と書いているように」は、『大導寺信輔の半生』の「二 牛乳」の中の一節、

 

彼は只頭ばかり大きい、無氣味なほど痩せた少年だつた。のみならずはにかみ易い上にも、磨ぎ澄ました肉屋の庖丁にさへ動悸の高まる少年だつた。その點は――殊にその點は伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、日頃膽勇自慢の父とは似ても似つかぬのに違ひなかつた。

 

の部分を指す。しかし、今、見てきたようにこれも芥川の変改であった。「長州征伐」や「四境戦争」では、箔が附かない(正に箔のある父と「似ていない」ことを言う場面であるあるから)から、メジャーな「鳥羽伏見の戦い」を言ったものであろう。]

 

 さて、私がこのような事を述べたのは、山口郡玖珂郡賀見畑村、といえば、山口県の隅の方の、(周防〔すおう〕の国の片隅の、)山中〔さんちゅう〕の寒村である、そういう山の中の僻地で、しかも、今から百年ほど前に、芥川の実父の新原敏三は、少年時代を、おくりながら、また、青年時代には、鳥羽伏見の役などに加わりながら、明治二十年代に、ほとんど人の住んでいない、箱根の仙石原で、耕作をしたり、牧畜をしたり、した、という事だけでも、非常な進歩的な人ではなかったか、という事である。それは、新原が、上京して、新宿や築地入船町に、更に、牧場を造〔つく〕った、という事でも、わかるではないか。

 ここまで書いて、私は、ふと、このような、進歩的な、平民的な、人が、どうして、芥川家のような、古風な、因循な、家の娘を、嫁にもらったのか、と、不思議なような気がした、それから、反対に、芥川家のような、由緒のある、旧家が、どうしてバ一介の牛乳屋に、大事な娘を、片づけたのか、とも思って、不審なような気がした。

 ところが、これ故、不思議な事でも何でもなく、案外、両方とも、俗っぽい考え方からではないか、というような気もした。それは、偶然かもしれないが、芥川の実父の新原敏三の弟の元三郎(つまり、芥川の叔父)は、兄より前に上京して、芥川の養父(母方の伯父)の妻(儔〔とも〕)の大叔父、細木香以の姪のえいを嫁にもらっているのである。そうして、この元三郎は炭屋であつた。

 

[やぶちゃん注:正しくは「えい」ではなく「ゑい」。]

 

 つまり、芥川の」父は牛乳屋であり、叔父は炭屋である、という事になるのである。

 私は、もし『遺伝』というものがあるとすれは、芥川は、この父(敏三)と母(ふく)の気質をもっとも多く受け、つぎに、伯母(ふき)の気質をうけているところもある、と考えるのである。それから、芥川の顔は伯母のふきにいくらか似てい、芥川の目と口もとは母のふくにかなり似ている。(写真で見ると、芥川は養父の道草とも似ているようである。)

 もし、(もし、である、)かりに私の思った事がいくらかでも当たっているとすると、さきに引いた、『侏儒の言葉』のなかの、「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる、」といふ文句は、おそらく、芥川が、死ぬことを覚悟してから、遠く自分の実の父母と自分の昔の事どもを思いやって、作〔つく〕ったものではないか、と、私は、ふと、思うのである。

2012/04/15

藪野直史野人化記念 宇野浩二 芥川龍之介 上巻 附やぶちゃん注

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に藪野直史の野人化の記念として『宇野浩二「芥川龍之介」上巻附やぶちゃん注』及び同縦書版を公開した。

殆んど丸4日間かけて、ルビタグへの変更と本文校訂、更に大幅な注記の追加、更に芥川龍之介印譜からの画像採り入れなどを行い、一括版で横書・縦書二様のテクストを示した。

ルビタグとHPビルダーの相性が悪く、何故か、自動補正をはずしているにも関わらず、タグの奇妙な書き換えを何度もされてしまい手間取ったが、まずは大きな不具合はないものと思う。野人として、シングの「アラン島」やぶちゃん注とともに、一つ、僕の目指す「形」をぼんやりとしたもの乍ら、自分で摑むことが出来た気がしている。

それにしてもこうしてじっくり読んでみると、改めて

『文學の鬼』宇野の――芥川龍之介『我鬼』への限りない友情が――

しみじみと伝わって来る、稀有の作品である。未読の方は是非、お読みになられたい。

2012/04/14

野人に花――

野辺にかがよふ花びらの

何かは其処にふるべきや

わが名は曠野(あらの)に朽つるとも

惜しむは汝(な)れが名のみとよ。

20120414163804

2012/04/12

書斎から

20120412092933

宇野浩二の「芥川龍之介」上巻のHPテクスト化に取り掛かりつつ、桜を愛でる――

追伸:宇野浩二「芥川龍之介」上巻を昨夜より、HP電子テクストとして再校正し(多くの誤植とルビの落ちがあるが、誤植はブログ版でも訂正するが、ルビ落ちは面倒なのでブログ版はそのままとする)、〔 〕の読みを総てルビタグに変更、更に僕の注も大幅に追加しつつある。従って、かなり時間がかかる。ゆっくらとお待ちあれ。

2012/04/11

宇野浩二 芥川龍之介 十四 ~(3)  上巻テクスト化完了

 芥川の小説は、(あるいは、芥川の小説の文章は、)だいたい、簡潔であるが、ときどき、低徊趣味の漱石や理窟っぽい鷗外の影響がわるく現れて、(それ以上に、芥川流に、いい気になって、)叙述し過ぎたところがしばしばある。しかし、それが、物語の、進行のために、あるいは、進行ちゅうに、巧みに、使ってあるので、たいていの人に、気がつかない上〔うえ〕に、感心させられる事さえある。ところが、それは、気がつき出すと、芥川が好〔この〕んでよく使った言葉を借りると、かなわない[やぶちゃん注:「かなわない」に「ヽ」傍点。]、と思うようになる、「もう沢山〔たくさん〕だ、」と思うようになる。そうして、その例は、『羅生門』からでも、『鼻』からでも、『芋粥』からでも、容易に、上〔あ〕げられるが、それは、煩瑣になるから、省〔はぶ〕くことにして、それのもっとも著〔いちじる〕しい『芋粥』について、その事を、漱石が、書簡[大正五年九月二日に芥川にあてたもの]の中〔なか〕に、書いているから、つぎに、引用しよう。

……あれ[註―『芋粥』のこと]は何時〔いつ〕もより骨を折り過ぎました。細叙絮説に過ぎました。然し其所〔そこ〕に君の偉い所も現れてゐます。だから細叙が悪いのではない。細叙するに適当な所を捕へてゐない点丈〔だけ〕がくだくだしくなるのです。Too labored といふ弊に陥るのですな。うんと気張り過ぎるからああなるのです。物語り類は(西洋のものでも)シムプルなナイイヴな点に面白味が伴〔ともな〕ひます。惜い事に君はそこを塗り潰してベタ塗りに蒔絵を施しました。これは悪い結果になります。

[やぶちゃん注:「Too labored」は、非常に努力の跡が見えるものの、それがあまりに過剰過ぎて(若しくは見当違いの箇所を細叙し過ぎて)不自然でぎこちないものとなる、ということを言っていよう。]

 この漱石の文章は、もとより、一〔ひと〕つの批評であり、急所を突いているところもあるが、かなり気をつかった云い方〔かた〕をしている上〔うえ〕に、労〔いたわ〕った云い方もしている。ところで、この書簡の中に「気取り過ぎる」という文句があるが、それと語路〔ごろ〕が似ているけれど、別に、「気取り過ぎる」という見方〔みかた〕もあるのではないか。

 ところで、芥川は、『羅生門』[大正六年六月発行]を出した頃かなり親〔した〕しくしていた江口の『羅生門』の批評を期待しながら気にしていたが、(その頃、江口は、新進気鋭の評論家であった、)その江口の評論[註―「芥川龍之介論」たしか時事新報連載]を読んだ後〔あと〕で、すぐ、江口にあてて出した手紙の中に、「少し褒めすぎてます」と書き、その少し後〔あと〕に、「『羅生門』は当時多少得意の作品だったんですが新思潮連には評判が悪〔わる〕かつたものです成瀬が悪評の張本だつたやうに想像してゐますが、」と述べている。(私には芥川が『羅生門』を「多少得意の作品だつた」と云った気もちがわかるような気がする。)

 さて、江口のその評論は、芥川が書いているように、「少し(少しである)褒めすぎて」いるところもあるけれど、『羅生門』の中におさめられている一〔ひと〕つ一〔ひと〕つの小説については、(その中の幾つかについては、)非難すべきものはちゃんと非難している。それから、江口は、不満に感じるのは、「描かれたその心理が、善の場合にも悪の場合にも単なる普通の善又は悪を唯その儘の形その儘の質に於いて拡大してゐるに過ぎない事である。少しも病的な処超常識的な処がない。芥川君がとかく作の基調に熱と力とを欠くのは是にも半ば因するのである、」とも論じている。

 それから、おもしろいのは、江口が、おなじ評論の中で、「悪口を云つた次手〔ついで〕にもう一つ芥川君の使ふ小道具にちよつと異議を呈出したい。それは『忠義』に於いて狂乱後の主理に時鳥の事を口走らせたり、『運』に於いて藪に鶯を鳴かせたりするのは、一種の伝統主義と見ても余りに古〔ふる〕い。余りにティピカルであり、固定的である、」と難じているのに対して、芥川が、さきに引いた手紙の中で、「小道具の悪〔わる〕いうち『運』の古〔ふる〕いのを又又承知の上で使つたんです、あれは随分古い情調に興味を持つた作なんですから、『忠義』の時鳥はお説どほりに活字になつた時から不愉快なんです、」と弁解している事である。(ここに昔の江口の評論の一部を引いたのは、私がその半分以上同感であるからである。)

 小道具といえは、これは『小道具』ではないが、作者は、『羅生門』の主人公の下人の頰に、「赤く膿〔うみ〕を持つた大きな面皰〔にきび〕」をつけている、そうしてこの『面皰』を三度つかっている、つまり、初めは、「楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頰をぬらしてゐる。短い鬚〔ひげ〕の中に、赤く膿を持つた面飽〔にきび〕のある頰である、」であり、次ぎは、「その太刀の柄〔つか〕を左の手でおさへながら、冷然として、この話を聞いてゐた。勿論、右の手では、赤く頰に膿を持つた大きな面皰を気にしながら、聞いてゐるのである、」であり、最後は、「さうして、一足〔ひとあし〕前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上〔えりがみ〕をつかみながら、……」である。これを、ある批評家は、「主人公の下人の頰の上に大きい面皰を生ぜしめたユーモラスな点景」と誉〔ほ〕めているが、この面皰は、この下人の頰におのずから生じたものではなく、作者の芥川が、『羅生門』という舞台に、主人公の下人を登場させる時、その下人の扮装をする際に、ほくそ笑〔え〕みながら、(これは誇張であるが、)附けたものであろうが、しかし、また、小説の筋をはこぶための手段の一つでもあるから、やはり、小道具の〔ひと〕一つ、と見てもよい。但し、この場合、『小道具』とは、「進行係〔がかり〕」という程の意味であり、『進行』とは、「進ませる」(あるいは)「はかどらせる」というくらいの意味である。

 そういう意味では、芥川は、小道具つかいの名手であった、と云えよう。しかし、『上手〔じょうず〕の手から水が漏る』という諺のようなものもある。

 ところで、『羅生門』は、下人が普通の意味で悪人と極〔き〕めつけられ、物語は古風で陰惨きわまりなく、新進作家の小説らしい新鮮味などまったくなく、あまりの暗さに読むに堪えがたいようなところもあるが、それを一気に読ませるのは、よかれあしかれ、作者の彫琢された技巧がずぬけているからである。いずれにしても、『羅生門』の中に、おさめられている十九篇のうちで、この『羅生門』は、すぐれた作品の一〔ひと〕つである。

 近頃、(というよりも、この数年来、)「芥川に代表作というものがあるのであろうか、」という人がしばしばある。それを、私など、よく聞かれる事があり、かく云う私も、ときどき、こう考える事がある。ところで、それは、ない、と云えば、ない事になるが、ある、と云うと、四五篇か五六篇ぐらいはある、という事になる。そうして、その四五篇か五六篇の中〔なか〕に、まず、確実に、はいるのは、『地獄変』であろう。

 『地獄変』は、(『地獄変』も、)やはり、『宇治拾遺物語』の第三の『絵仏師良秀家の焼くるのを見てよろこぶ事」、『十訓抄』の第六の「絵仏師良秀といふ僧」、それから、『古今著聞集』の第十一の画図第四話の、弘高の地獄変を描いた話などを参照し、それを本〔もと〕にして、創作したものであろう。

[やぶちゃん注:「弘高」巨勢弘高(こせのひろたか 生没年未詳)平安中期の宮廷絵師。広貴・広高とも書く。大和絵の創始者にして巨勢派の第一世巨勢金岡は曾祖父に当たる。]

しかし、この小説は、おなじ昔の物語(というより、小話)を集めた本の中の話を素材にした、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』とくらべると、規模が大きく、物(殊に人間)の見方も深くなり、空想も自由自在になった。(もっとも、この事は、この『地獄変』ばかりでなく、『傀儡師』[註―第三短篇集である、大正八年一月に発行される]におさめられている三四篇の小説についても、云える。――それについては、後に述べるつもりである。)

 さて、『地獄変』は、芥川の小説を多く読んでいる人も、たいていの批評家も、誉〔ほ〕めるばかりでなく、芥川の、いわゆる王朝物といわれる諸作の中の第一等の小説であり、一代の名作であると称する人もかなりある。

 これは、――筆を取っては当代随一といわれながら、貧弱で、変り者で、人を人とも思わぬ、絵師の良秀が、良秀の倣慢を日頃〔ひごろ〕こころよく思っていない大殿から、ふいに、地獄変相の絵を屏風に描け、という難題もちかけられた、が、良秀は、承知して、一所懸命に製作をはじめた、そうして、それが完成に近づく頃、ある日、良秀は、大殿に、自分は見たものでなければ描けないから、檳椰毛の車に上﨟を一人〔ひとり〕のせて、「私の見てゐる前で、火をかけて頂〔いただ〕きたうございまする、」と願った。大殿は、ちょっとためらっていたが、やがて、引きうけて、ある夜、洛外の荒廃した山荘の庭で、常用の檳榔毛の車に、自分が召〔め〕し使っていた良秀の娘を、(上﨟の姿をさせた良秀の娘を、)鎖〔くさり〕でしばって、火をかけさせた。これを見た良秀は、一度は、「恐れと悲しみと驚き」のために正気を失いそうになったが、やがて、自分の娘が火焔につつまれている事さえも忘れてしまったように、「両腕をしつかり胸に組んで、」この世ながらの『地獄』の光景に眺め入った、そうして、世にも稀な傑作を完成した、が、その翌日、自ら縊れて死んだ。(荒筋)――というような小説である。

[やぶちゃん注:「地獄変」は私のテクスト私のオリジナルな詳細注がある。御覧あれ。]

 この小説について、ある批評家が、「王朝の盛時を背景に、異常の名匠を主人公として、彼の製作に関する慄然たる物語に取材し、凄惨の気の中に、人と芸術家との相剋を描き出している。その主人公に配するに、蒙宕な大貴族、可憐なる少女等を以てし、この貴族の侍者の口述体に擬して名家に伝わる重宝の由来を叙し、漸層的に展開される怪異の情景の中に主人公の苦悩を語り、芸術至上の主題を表出している、」と説〔と〕いている。

[やぶちゃん注:「豪宕」は「ごうとう」と読み、豪放と同義。気持ちが大きく、細かいことに拘らずに思う儘に振る舞うこと。また、そのさまを言う。わざわざ鍵括弧で引用しているにも関わらず、この批評が誰のものかは示されていないが、後文を読めば分かる通り、宇野はこの如何にも事大主義的な(と私も感じる)褒め殺しのような、ベタ褒めの評価(やはり後に掲げられる『傀儡師』の広告文でも同様)を認めていないからである。]

 これは、誠に、尤〔もっと〕もな説である、(但し、)尤もらしい説でもある。しかし、当〔あた〕り前の話であるが、小説というものは唯よむのであるから、この『地獄変』でも、たいてい、こんな事を考えながら、読まない、そうして、私も、その一人〔ひとり〕である、しかし、『地獄変』を読んでいる私は、(『地獄変』を読んだ人たちは、)この説を読めば、「なるほど、そんなものかなア、」とは思う。

 いうまでもなく、この説を述べた人は、『地獄変』を読んでしまってから、このように考えたのであろう。しかし、私は、『地獄変』を読みながら、言葉にして云えば、おもしろい話だなア、凄い話だな、(ときどき、うまいなア、)などと思いながら、一気に、読んだ。一気に読んだのは、一冊の本になってから読んだからである。しかし、又、この小説は一気に読ませるように書いて ある。

 この小説は、東京日日新聞と大阪毎日新聞に連載されたものであるからか、一回一回おもしろく読めるように書かれてある上に、明日〔あす〕が待たれるように書かれてある。しかし、おなじように、「明日」が待たれるように書かれてあっても、漱石の新聞小説は淡淡としており、(余計な話だが――山本有三のは常識的でポオズがあり、)この『地獄変』は、作者にはそんな気もちはなかったであろうが、低級な読者は、(あるいは、高級な読者も、)「猟奇」で釣るように見えるところもある。唯、『怪奇』は芥川の好むところであるとしでも、この、豪宕な、不屈な、吝嗇な、樫貪な、倣慢な、絵師が、一人娘に甘〔あま〕く、子煩悩なところなどは、普通の人情家である事が、ひどく悪〔わる〕く云えば、明治以来の通俗小説作家の好〔この〕んで出した人物を思わせ、ほんの幾らか似た人物としては、バルザックの『ゴリオ爺さん』のゴリオにはるかに及ばないところなども、私には、気になるのである。それから、この小説でも、はじめからしまいまで、猿という『小道具』をしきりに使っているが、これも実に巧みに使っている。それに、一つ一つの場面も人の気もちも誠によく書かれているから、やはり、『地獄変』は芥川の代表作の一つ、という事になるであろう。

 唯よく書かれているのに、凄惨さ、物凄さ、怪奇さ、その他を感じさせながら、その場かぎりで、迫ってくるものがない。

 結局、『地獄変』は見事〔みごと〕な「絵空事〔えそらごと〕」である。

 ところで、さきに述べたように、この小説の終りで、主人公の良秀は首を釣って死ぬ事になっているが、こういう事は云えないことであるけれど、主人公が死ぬ方が小説の終りとしてよいかも知れないが、読者としての私は、死なしてほしくなかった、芥川はあのような終り方が好〔す〕きらしいけれど、あそこで死んだら、負けではないか。よく批評家は、(いろいろな読者が、)あの主人公を芥川の芸術至上主義の『権化〔ごんげ〕』のように云うが、あの主人公が芥州の芸術至上主義の『権化〔ごんげ〕』ならば、あれでは、芥川の芸術至上主義が負けた事になるではないか。(ここで、誰かの口真似をすると、「それでは困るね、」閑話休題。)

[やぶちゃん注:「誰かの口真似」の「誰か」とは芥川龍之介自身のことであろう。次に有意な空行が入って、引用となる。]

 

著者具さに名匠の苦心を尽して一作をゆるがせにせず、玆に漸く此一巻を公〔おほやけ〕にする事となれり。収する所『地獄変』『戯作三昧』以下。何〔いづ〕れも宝玉の光輝と、古金襴の色彩とを備へた気品高き作品のみにして、独〔ひと〕り新興文壇の異彩たるのみならず、日本の文芸に空前の新生面を開き、独一無類の作風を完成せるもの也。

 これは、芥川の第三短篇集『傀儡師』[註―大正八年一月発行]を出版した新潮社の『傀儡師』の広告の文章である。

 私が、ここに、殊更に、このような出版社の広告の文章を引いたのは、なにも、『傀儡師』の中におさめられている小説が、「何〔いづ〕れも宝玉の光輝と、古金欄の色彩とを備へた気品高き作品」ばかりである、などと思っているからではない、この『傀儡師』と『羅生門』の中におさめらている幾つかの小説(つまり、初期の小説)は、(これらの小説こそ、)よしあしは別として、もっとも芥川らしいものであり、それこそ、誇張ではあるが、「独一無類の作風」にちかい小説であろう、と、私は、思うからである。しぜん、私は、芥川のいわゆる晩年の作品に、それはそれで、感心しているものもあるが、不満をいだき文句をつけたいものもあるので、それらについては、後に述べる事にする。

 

『羅生門』[註―大正六年五月発行]には、十四篇の短篇がおさめられている。そうしてその十四篇のうちで、『羅生門』は、大正四年に、『忠義』と『貉』は、大正六年の初め[三月と四月]に発表され、他の十一篇は大正五年じゅうに書かれたものである。大正五年といえば、芥川が、かぞえ年〔どし〕、二十五歳の年〔とし〕であり、その年の七月に、芥川は、英文学科を卒業した。それで、『鼻』を発表したのはその年〔とし〕の二月であるから、学生時代である。(別の話になるが、私が、大正八年の四月に、『蔵の中』を発表した時は、かぞえ年〔どし〕、二十九歳の年〔とし〕であったから、二三の友だちから、「君が一ばん遅いね、」と、私は云われたものである。)

 さて、『鼻』といえば、これもずっと前に書いたような気がするけれど、話の順序があるので、重複するのもかまわずに述べる。大正五年の初夏の頃であったか、そのころ谷中の清水町に住んでいた江口をたずねて、例のごとく文学談に花を咲かしていた時、その話がちょっと跡切〔とぎ〕れた時、私が「どうだ、近頃、なにか新〔あたら〕しい作家のものに、これというような小説があるか、」と述べてから、『菅原伝授手習鑑〔すがわらでんじゅてならいかがみ〕』のうち『寺子屋の段』の中〔なか〕に出てくる武部源蔵の述べる文句をまねて、「いずれを見ても、山家〔やまが〕そだち、か、」と云うと、江口が、私の言葉がおわらぬうちに、「芥川龍之介の『鼻』を読んだか、……漱石が激賞した、という、……ちょっとおもしろいもんだよ、」と云って、『鼻』の出ている「新思潮」を貸してくれた。

[やぶちゃん注:「『菅原伝授手習鑑』うち『寺子屋の段』の中に出てくる武部源蔵の述べる文句」とは、同段冒頭の、

「エヽ氏より育ちと云ふに、繁華の地と違ひ、いづれを見ても山家の育ち。世話甲斐も無き、役に立たず」

の台詞を指す。]

 しかし、私は、『鼻』を読んで、それの出ている「新思潮」を江口にかえす時、これまでの小説と題材や書き方のちがっているところが、おもしろいと云えば、おもしろいのかも知れないけれど、「どうだ、ちょいと、おもしろいだろう、」と、作者が、云っているようなところが、「気になるね、それに、やはり、小話〔こばなし〕だよ、……しかし、なかなか気のきいたものだね、」と、江口に、云った。

「ふん、そうかね、」と、江口は、いくらか不服そうに、云った。

 ところが、ずっと後〔のち〕に知ったのであるが、この「新思潮」の二月号に出た『鼻』が、おなじ年〔とし〕の五月号の「新小説」に、出た。その頃、漱石門下の鈴木三重吉が「新小説」の主宰をしていたので、『鼻』は、その三重吉の好意によって、「新小説」に再掲載されたのであろうか。仮りにこれを三重吉の好意とすれば、その三重吉の好意によって、おなじ年〔とし〕の、九月号の「新小説」に『芋粥』が出〔で〕、十月の「新小説」に『煙管』が出ている。

 ところで、こんど、芥川の著作年表を見て、おどろいたのは、(意外な気がしたのは、)かがやかしい『羅生門』におさめられている十四篇の小説の中〔なか〕の、五篇が同人雑誌の「帝国文学」と「新思潮」に発表されたものであり、二篇が「希望」という殆んど名の知られていない雑誌に発表されたものであり、二篇は「黒潮」という少〔すこ〕し出ただけで廃刊された雑誌と読売新聞に出されたものであり、他の六篇あるいは五篇(前に述べたよう『芋粥』は「新思潮」と「新小説」とに出たものであるから)だけが、「中央公論」、「文章世界」「新潮」、「新小説」に発表されたものであるからである。

[やぶちゃん注:第一作品集『羅生門』に所収された十四篇と、その初出誌とその発行クレジット及び芥川龍之介でない署名を( )内で示す。

「羅生門」(『帝国文学』 大正四(一九一五)年十一月一日 柳川隆之介)

「鼻」(『新思潮』 大正五(一九一六)年二月十五日 芥川龍之助)

「父」(『新思潮』 大正五(一九一六)年五月一日)

「猿」(『新思潮』 大正五(一九一六)年九月一日)

「孤独地獄」(『新思潮』 大正五(一九一六)年四月一日)

「運」(『文章世界』 大正六(一九一七)年一月一日)*

「手巾」(『中央公論』 大正五(一九一六)年十月一日)*

「尾形了斎覚え書」(『新潮』 大正六(一九一七)年一月一日)*

「虱」(『希望』 大正五(一九一六)年五月)

「酒虫」(『新思潮』 大正五(一九一六)年六月一日)

「煙管」(『新小説』 大正五(一九一六)年十一月一日)*

「貉」(『読売新聞』 大正六(一九一七)年三月十一日)

「忠義」(『黒潮』 大正六(一九一七)年三月一日)

「芋粥」(『新小説』 大正五(一九一六)年九月一日)*

「*」を附したものが宇野の言うメジャーな文藝専門誌に相当する。ところが、ここで宇野は、数え方を間違っている。まず、『五篇が同人雑誌の「帝国文学」と「新思潮」に発表されたもの』とあるが、御覧の通り、「五篇」ではなく六篇であり、『二篇が「希望」という殆んど名の知られていない雑誌に発表されたものであり』というのも「二篇」というのは一篇の誤りである。更に、『他の六篇あるいは五篇(前に述べたよう『芋粥』は「新思潮」と「新小説」とに出たものであるから)』と述べているが、これは何らかの宇野の錯誤ではあるまいか。『前に』とあるが、「芋粥」が二つの雑誌に掲載されたというようなことは宇野自身、本文以前には書いていない。これは直前の『この「新思潮」の二月号に出た『鼻』が、おなじ年の五月号の「新小説」に、出た。その頃、漱石門下の鈴木三重吉が「新小説」の主宰をしていたので、『鼻』は、その三重吉の好意によって、「新小説」に再掲載されたのであろうか。』と記したのを、「鼻」を「芋粥」に取り違えた錯誤のように思われるが、如何? それとも、やはり、確かに「芋粥」は『新思潮』に再掲(初出は間違いなく『新小説』)されているのであろうか? 手元に『新思潮』のデータがない。識者の御教授を乞う。なお、この『黒潮』という雑誌の出版元等は不詳。]

 いずれにしても、『鼻』(これは評判が評判を生〔う〕み、その評判が又、……という風に、妙に有名になった)から始まって、雑誌のよしあし別として、嘉し:になつた)から始まって、雑誌のよしあしは別として、『芋粥』、『手巾』、(評判の立った時というのは妙なもので、これは、「中央公論」に出た、というだけで、目を引き、)それから、『運』、『尾形了斎覚え書』、『偸盗』(題まで普通ではない)、『さまよへる猶太人』、その他、と、芥川は、大正五年の中頃から六年の初めにかけてほとんど毎月、つぎつぎと、矢つぎ早〔ばや〕に、発表したので、誇張して云えば、その頃の一二年は、その時分の同時代の作家は、もとより,時として大家の名さえ、芥川龍之介という花やかな名に、しばし、忘れられるか、と思われる程であった。

 たびたび云うが、その頃、芥川は、二十五六歳の青年で、大学を出たばかりであった。これでは、芥川でなくても、有頂天〔うちょうてん〕(上〔うわ〕の空〔そら〕)になるのは当然ではないか。いうまでもなく、『上の空』とは「天空の上」という意味である。

 人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴオルテエルはかういふ彼に人工の翼を供給した。

 彼はこの人工の翼をひろげ、易〔やす〕やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴〔あ〕びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつ直〔すぐ〕に太陽へ登つて行つた。丁度〔ちやうど〕かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為〔ため〕にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘人も忘れたやうに。……

 これは『或阿呆の一生』の中の「十九」のうちから引いたのである。

[やぶちゃん注:以上の引用は「或阿呆の一生」の「十九 人工の翼」の後半2/3の引用で、

 彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に駆られ易い一面のルツソオに近い為かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――冷かな理智に富んだ一面に近い「カンデイイド」の哲学者に近づいて行つた。

という初段が省略されている。]

 ところで、理智的と称せられた芥川も、世の賞讃を大いに博し、『羅生門』が出た頃は、それが当〔あた〕っているか当っていないかは別として、新理智派、新技巧派、新古典派、その他、名称をつける事の好〔す〕きな批評家たちから、さまざまな名称をつけられた。そうして、そのいろいろな名称の上にはみな『新』という字が附いていた。それやこれやで、若き芥川は、乱作をし出した。(この事もずっと前に述べたが、門下と呼ばれた人たちの中でもっとも愛していたらしい佐佐木茂索に乱作を戒めながら、当の芥川が乱作をし出したのである。)これが、芥川に、――芥川の文学生涯に、――もっとも禍〔わざわい〕をした。(乱作した作家は、芥川だけではない、数多くある、私も、もとより、その一人〔ひとり〕であるが、)乱作が芥川に禍したのは、芥川の最初の幸福すいた文学の境涯であり、それ以上に芥川の性格(普通の人には想像できないような気の弱さ)のためである。

 そういう点で、(そういう点でも、)芥川という人は、何〔なん〕ともいえぬ痛ましい人であった。

[やぶちゃん注:下らぬ高校の文学史の副読本で覚えさせられた方もいるであろう。芥川龍之介は「新思潮派」(『新思潮』第三次・第四次の同人達を指すもので、「白樺派」と言うが如き、十把一絡げである。高校の文学史では妙にこれを筆頭に載せたがる)「新理知派」「理知派」「新技巧派」「新現実主義」「新古典派」(先行する擬古典主義に対しての謂いであろうが、一般的ではない。岡本かの子が「芥川龍之介の俳句」で使っているのを見かけた)……こういう手前勝手な非科学的分類学で悦に入っている連中が文学をますます貧困なものにして行き、若者を文学から去らせるのである。]

 

 又また、余計な話であるが、大正七年の秋の頃、私は、時をおいて、三四度、横須賀に、行った事がある。ついでに、わたくし事を述べると、その時分の「私事〔わたくしごと〕」を、『苦の世界』と『人心』という小説の中に、書き、更に、『軍港行進曲』という小説の中にも、書いた。(この『軍港行進曲』は、昭和二年の二月号の「中央公論」に、芥川の『玄鶴山房』と一しょに、出た、といばかりでなく、私の芥川に対する忘れる事のできない思い出を持っている小説であるから、その事については後〔のち〕にかならず述べたい。)

[やぶちゃん注:宇野もちょっとお茶目だ。さりげなく自作の宣伝をしている。]

 さて、その頃、(大正七年頃、)軍港であった横須賀に、海軍中尉ぐらいであった私の中学同窓が、四五人、住んでいた。そうして、その中に海軍機関学校につとめている者がいて、その男が、ある日、私に、突然、「おい、おれの学校に、芥川という、貴様〔きさま〕[註―その頃の海軍士官は、自分たちは、もとより、同輩以下の相手を「貴様」といった]と同業の、小説家がいるよ、」と云った。

 「ふん、」と私はわざと鼻声で答えた。

 私は、その頃、自分の『なりわい』に追われていたからでもあろうか、芥川が海軍機関学校の嘱託となって英語の教授などをしている事を、まったく知らなかった。が、それはそれとして、その頃、私は、やっと小説を書き出し、その小説を二三の雑誌に出しはしたが、まったく無名で、横須賀までの汽車賃[その頃は、東京―横須賀間は、汽車しかなく、汽車賃は三十銭ぐらいだ]にさえ困るような状態であった。しかるに、前に何度も述べたように、芥川は、その頃、すでに、歴〔れっき〕とした作家であり、鬱然たる、大家であったのだ。

 それを、およそ文学とは縁どおい海軍機関中尉が「貴様と同業の小説家」などと云ったので、私は、わざと鼻声で、「ふん、」と答えたのである。

 私は、「ふん、」と、わざと、鼻声で、答えてから、「……自分なら、あれだけの小説を書き、小説のよしあしは別として、あれだけの大家にされたら、(大家にされなくても、)機関学校の教師などは、すぐでも、止〔や〕めてしまうなあ、いや、はじめから教師などにはならないなあ、……芥川という男の気が知れないなあ、」と、心の中で、思った。(しかし、ずっと後になって、⦅いや、この文章を書く時分になって、⦆芥川が、海軍機関学校の嘱託になったのは、世をわたるのにも大事を取る、というような用心ぶかさも多分に持っていたことを知って、私は、いくら『若気〔わかげ〕の至り』とは云え、やはり、芥川という男は、人間としても、私などより遙かにすぐれていることを知ったのであった。)

 さて、後に芥川としたしくなってから、私は、ときどき、小説より人間の方がおもしろいところもあったなア、と思うことがあった。

[やぶちゃん注:以下、「後記」は底本では全体が二字下げ。]

(後記――これは、『大事取り』というより、芥川の細かい心づかいの現れでもあり、大正十二年の末といえば、芥川は、既に堂堂たる作家であったのに、このような心配のようなものが芥川にもあった、という一例として、大正十二年十二月十五日に、芥川が、当時の新潮社の支配人、中根駒十郎に、「昨日は失礼しました今日旅へ出るにつき手紙など片づけたら富士印刷の配当を貰つてゐなかつたのを発見しました故、貰ふ量見を起しましたどうか然る可く御取り計らひ下さい」という文句だけの便りを出している。『富士印刷』とは、その頃、新潮社が、訳があって、たしか、主に自分の社だけの用をたす印刷会社をつくり、その会社の一部の株主として、新潮社から本を出している文学者の有志の人に、本の印税の何分の一かで何株かの株主になってもらった、というような請われのある印刷株式会社であった。)

[やぶちゃん注:以上で、底本である中央公論社中公文庫版宇野浩二「芥川龍之介 上巻」は終っている。]

花泥坊

山櫻一枝折りとりて母の霊前に飾りけり――

20120411184520

宇野浩二 芥川龍之介 十四 ~(2)

 芥川の小説は、(あるいは、芥川の小説の文章は、)だいたい、簡潔であるが、ときどき、低徊趣味の漱石や理窟っぽい鷗外の影響がわるく現れて、(それ以上に、芥川流に、いい気になって、)叙述し過ぎたところがしばしばある。しかし、それが、物語の、進行のために、あるいは、進行ちゅうに、巧みに、使ってあるので、たいていの人に、気がつかない上〔うえ〕に、感心させられる事さえある。ところが、それは、気がつき出すと、芥川が好んでよく使った言葉を借りると、かなわない、と思うようになる、「もう沢山〔たくさん〕だ、」と思うようになる。そうして、その例は、『羅生門』からでも、『鼻』からでも、『芋粥』からでも、容易に、上〔あ〕げられるが、それは、煩瑣になるから、省〔はぶ〕くことにして、それのもっとも著しい『芋粥』について、その事を、漱石が、書簡[大正五年九月二日に芥川にあてたもの]の中〔なか〕に、書いているから、つぎに、引用しよう。

……あれ[註―『芋粥』のこと]は何時〔いつ〕もより骨を折り過ぎました。細叙絮説に過ぎました。然し其所〔そこ〕に君の偉い所も現れてゐます。だから細叙が悪いのではない。細叙するに適当な所を捕へてゐない点丈がくだくだしくなるのです。Too labored といふ弊に陥るのですな。うんと気張り過ぎるからああなるのです。物語り類は(西洋のものでも)シムプルなナイイヴな点に面白味が伴〔ともな〕ひます。惜い事に君はそこを塗り潰してベタ塗りに蒔絵を施しました。これは悪い結果になります。

[やぶちゃん注:「Too labored」は、非常に努力の跡が見えるものの、それがあまりに過剰過ぎて(若しくは見当違いの箇所を細叙し過ぎて)不自然でぎこちないものとなる、ということを言っていよう。]

 この漱石の文章は、もとより、一〔ひと〕つの批評であり、急所を突いているところもあるが、かなり気をつかった云い方〔かた〕をしている上〔うえ〕に、労〔いたわ〕った云い方もしている。ところで、この書簡の中に「気取り過ぎる」という文句があるが、それと語路〔ごろ〕が似ているけれど、別に、「気取り過ぎる」という見方〔みかた〕もあるのではないか。

 ところで、芥川は、『羅生門』[大正六年六月発行]を出した頃かなり親〔した〕しくしていた江口の『羅生門』の批評を期待しながら気にしていたが、(その頃、江口は、新進気鋭の評論家であった、)その江口の評論[註―「芥川龍之介論」たしか時事新報連載]を読んだ後〔あと〕で、すぐ、江口にあてて出した手紙の中に、「少し褒めすぎてます」と書き、その少し後に、「『羅生門』は当時多少得意の作品だったんですが新思潮連には評判が悪〔わる〕かつたものです成瀬が悪評の張本だつたやうに想像してゐますが、」と述べている。(私には芥川が『羅生門』を「多少得意の作品だつた」と云った気もちがわかるような気がする。)

 さて、江口のその評論は、芥川が書いているように、「少し(少しである)褒めすぎて」いるところもあるけれど、『羅生門』の中におさめられている一〔ひと〕つ一〔ひと〕つの小説については、(その中の幾つかについては、)非難すべきものはちゃんと非難している。それから、江口は、不満に感じるのは、「描かれたその心理が、善の場合にも悪の場合にも単なる普通の善又は悪を唯その儘の形その儘の質に於いて拡大してゐるに過ぎない事である。少しも病的な処超常識的な処がない。芥川君がとかく作の基調に熱と力とを欠くのは是にも半ば因するのである、」とも論じている。

 それから、おもしろいのは、江口が、おなじ評論の中で、「悪口を云つた次手〔ついで〕にもう一つ芥川君の使ふ小道具にちよつと異議を呈出したい。それは『忠義』に於いて狂乱後の主理に時鳥の事を口走らせたり、『運』に於いて藪に鶯を鳴かせたりするのは、一種の伝統主義と見ても余りに古い。余りにティピカルであり、固定的である、」と難じているのに対して、芥川が、さきに引いた手紙の中で、「小道具の悪〔わる〕いうち『運』の古〔ふる〕いのを又又承知の上で使つたんです、あれは随分古い情調に興味を持つた作なんですから、『忠義』の時鳥はお説どほりに活字になつた時から不愉快なんです、」と弁解している事である。(ここに昔の江口の評論の一部を引いたのは、私がその半分以上同感であるからである。)

 小道具といえは、これは『小道具』ではないが、作者は、『羅生門』の主人公の下人の頰に、「赤く膿〔うみ〕を持つた大きな面皰〔にきび〕」をつけている、そうしてこの『面皰』を三度つかっている、つまり、初めは、「楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頰をぬらしてゐる。短い鬚〔ひげ〕の中に、赤く膿を持つた面飽〔にきび〕のある頰である、」であり、次ぎは、「その太刀の柄〔つか〕を左の手でおさへながら、冷然として、この話を聞いてゐた。勿論、右の手では、赤く頰に膿を持つた大きな面皰を気にしながら、聞いてゐるのである、」であり、最後は、「さうして、一足〔ひとあし〕前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上〔えりがみ〕をつかみながら、……」である。これを、ある批評家は、「主人公の下人の頰の上に大きい面皰を生ぜしめたユーモラスな点景」と誉〔ほ〕めているが、この面皰は、この下人の頰におのずから生じたものではなく、作者の芥川が、『羅生門』という舞台に、主人公の下人を登場させる時、その下人の扮装をする際に、ほくそ笑〔え〕みながら、(これは誇張であるが、)附けたものであろうが、しかし、また、小説の筋をはこぶための手段の一つでもあるから、やはり、小道具の一〔ひと〕つ、と見てもよい。但し、この場合、『小道具』とは、「進行係〔がかり〕」という程の意味であり、『進行』とは、「進ませる」(あるいは)「はかどらせる」というくらいの意味である。

 そういう意味では、芥川は、小道具つかいの名手であった、と云えよう。しかし、『上手の手から水が漏る』という諺のようなものもある。

 ところで、『羅生門』は、下人が普通の意味で悪人と極〔き〕めつけられ、物語は古風で陰惨きわまりなく、新進作家の小説らしい新鮮味などまったくなく、あまりの暗さに読むに堪えがたいようなところもあるが、それを一気に読ませるのは、よかれあしかれ、作者の彫琢された技巧がずぬけているからである。いずれにしても、『羅生門』の中に、おさめられている十九篇のうちで、この『羅生門』は、すぐれた作品の一〔ひと〕つである。

 近頃、(というよりも、この数年来、)「芥川に代表作というものがあるのであろうか、」という人がしばしばある。それを、私など、よく聞かれる事があり、かく云う私も、ときどき、こう考える事がある。ところで、それは、ない、と云えば、ない事になるが、ある、と云うと、四五篇か五六篇ぐらいはある、という事になる。そうして、その四五篇か五六篇の中〔なか〕に、まず、確実に、はいるのは、『地獄変』であろう。

 『地獄変』は、(『地獄変』も、)やはり、『宇治拾遺物語』の第三の『絵仏師良秀家の焼くるのを見てよろこぶ事」、『十訓抄』の第六の「絵仏師良秀といふ僧」、それから、『古今著聞集』の第十一の画図第四話の、弘高の地獄変を描いた話などを参照し、それを本〔もと〕にして、創作したものであろう。

[やぶちゃん注:「弘高」巨勢弘高(こせのひろたか 生没年未詳)平安中期の宮廷絵師。広貴・広高とも書く。大和絵の創始者にして巨勢派の第一世巨勢金岡は曾祖父に当たる。]

しかし、この小説は、おなじ昔の物語(というより、小話)を集めた本の中の話を素材にした、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』とくらべると、規模が大きく、物(殊に人間)の見方も深くなり、空想も自由自在になった。(もっとも、この事は、この『地獄変』ばかりでなく、『傀儡師』[註―第三短篇集である、大正八年一月に発行される]におさめられている三四篇の小説についても、云える。――それについては、後に述べるつもりである。)

 さて、『地獄変』は、芥川の小説を多く読んでいる人も、たいていの批評家も、誉めるばかりでなく、芥川の、いわゆる王朝物といわれる諸作の中の第一等の小説であり、一代の名作であると称する人もかなりある。

 これは、――筆を取っては当代随一といわれながら、貧弱で、変り者で、人を人とも思わぬ、絵師の良秀が、良秀の倣慢を日頃〔ひごろ〕こころよく思っていない大殿から、ふいに、地獄変相の絵を屏風に描け、という難題もちかけられた、が、良秀は、承知して、一所懸命に製作をはじめた、そうして、それが完成に近づく頃、ある日、良秀は、大殿に、自分は見たものでなければ描けないから、檳椰毛の車に上﨟を一人〔ひとり〕のせて、「私の見てゐる前で、火をかけて頂〔いただ〕きたうございまする、」と願った。大殿は、ちょっとためらっていたが、やがて、引きうけて、ある夜、洛外の荒廃した山荘の庭で、常用の檳榔毛の車に、自分が召〔め〕し使っていた良秀の娘を、(上﨟の姿をさせた良秀の娘を、)鎖〔くさり〕でしばって、火をかけさせた。これを見た良秀は、一度は、「恐れと悲しみと驚き」のために正気を失いそうになったが、やがて、自分の娘が火焔につつまれている事さえも忘れてしまったように、「両腕をしつかり胸に組んで、」この世ながらの『地獄』の光景に眺め入った、そうして、世にも稀な傑作を完成した、が、その翌日、自ら縊れて死んだ。(荒筋)――というような小説である。

[やぶちゃん注:「地獄変」は私のテクス私のオリジナルな詳細注がある。御覧あれ。]

 この小説について、ある批評家が、「王朝の盛時を背景に、異常の名匠を主人公として、彼の製作に関する慄然たる物語に取材し、凄惨の気の中に、人と芸術家との相剋を描き出している。その主人公に配するに、蒙宕な大貴族、可憐なる少女等を以てし、この貴族の侍者の口述体に擬して名家に伝わる重宝の由来を叙し、漸層的に展開される怪異の情景の中に主人公の苦悩を語り、芸術至上の主題を表出している、」と説〔と〕いている。

[やぶちゃん注:「豪宕」は「ごうとう」と読み、豪放と同義。気持ちが大きく、細かいことに拘らずに思う儘に振る舞うこと。また、そのさまを言う。わざわざ鍵括弧で引用しているにも関わらず、この批評が誰のものかは示されていないが、後文を読めば分かる通り、宇野はこの如何にも事大主義的な(と私も感じる)褒め殺しのような、ベタ褒めの評価(やはり後に掲げられる『傀儡師』の広告文でも同様)を認めていないからである。]

 これは、誠に、尤〔もっと〕もな説である、(但し、)尤もらしい説でもある。しかし、当〔あた〕り前の話であるが、小説というものは唯よむのであるから、この『地獄変』でも、たいてい、こんな事を考えながら、読まない、そうして、私も、その一人〔ひとり〕である、しかし、『地獄変』を読んでいる私は、(『地獄変』を読んだ人たちは、)この説を読めば、「なるほど、そんなものかなア、」とは思う。

 いうまでもなく、この説を述べた人は、『地獄変』を読んでしまってから、このように考えたのであろう。しかし、私は、『地獄変』を読みながら、言葉にして云えば、おもしろい話だなア、凄い話だな、(ときどき、うまいなア、)などと思いながら、一気に、読んだ。一気に読んだのは、一冊の本になってから読んだからである。しかし、又、この小説は一気に読ませるように書いて ある。

 この小説は、東京日日新聞と大阪毎日新聞に連載されたものであるからか、一回一回おもしろく読めるように書かれてある上に、明日〔あす〕が待たれるように書かれてある。しかし、おなじように、「明日」が待たれるように書かれてあっても、漱石の新聞小説は淡淡としており、(余計な話だが――山本有三のは常識的でポオズがあり、)この『地獄変』は、作者にはそんな気もちはなかったであろうが、低級な読者は、(あるいは、高級な読者も、)「猟奇」で釣るように見えるところもある。唯、『怪奇』は芥川の好むところであるとしでも、この、豪宕な、不屈な、吝嗇な、樫貪な、倣慢な、絵師が、一人娘に甘〔あま〕く、子煩悩なところなどは、普通の人情家である事が、ひどく悪〔わる〕く云えば、明治以来の通俗小説作家の好〔この〕んで出した人物を思わせ、ほんの幾らか似た人物としては、バルザックの『ゴリオ爺さん』のゴリオにはるかに及ばないところなども、私には、気になるのである。それから、この小説でも、はじめからしまいまで、猿という『小道具』をしきりに使っているが、これも実に巧みに使っている。それに、一つ一つの場面も人の気もちも誠によく書かれているから、やはり、『地獄変』は芥川の代表作の一つ、という事になるであろう。

 唯よく書かれているのに、凄惨さ、物凄さ、怪奇さ、その他を感じさせながら、その場かぎりで、迫ってくるものがない。

 結局、『地獄変』は見事〔みごと〕な「絵空事〔えそらごと〕」である。

 ところで、さきに述べたように、この小説の終りで、主人公の良秀は首を釣って死ぬ事になっているが、こういう事は云えないことであるけれど、主人公が死ぬ方が小説の終りとしてよいかも知れないが、読者としての私は、死なしてほしくなかった、芥川はあのような終り方が好〔す〕きらしいけれど、あそこで死んだら、負けではないか。よく批評家は、(いろいろな読者が、)あの主人公を芥川の芸術至上主義の『権化〔ごんげ〕』のように云うが、あの主人公が芥州の芸術至上主義の『権化』ならば、あれでは、芥川の芸術至上主義が負けた事になるではないか。(ここで、誰かの口真似をすると、「それでは困るね、」閑話休題。)

[やぶちゃん注:「誰かの口真似」の「誰か」とは芥川龍之介自身のことであろう。次に有意な空行が入って、引用となる。]

 

著者具さに名匠の苦心を尽して一作をゆるがせにせず、玆に漸く此一巻を公〔おほやけ〕にする事となれり。収する所『地獄変』『戯作三昧』以下。何〔いづ〕れも宝玉の光輝と、古金襴の色彩とを備へた気品高き作品のみにして、独〔ひと〕り新興文壇の異彩たるのみならず、日本の文芸に空前の新生面を開き、独一無類の作風を完成せるもの也。

 これは、芥川の第三短篇集『傀儡師』[註―大正八年一月発行]を出版した新潮社の『傀儡師』の広告の文章である。

 私が、ここに、殊更に、このような出版社の広告の文章を引いたのは、なにも、『傀儡師』の中におさめられている小説が、「何〔いづ〕れも宝玉の光輝と、古金欄の色彩とを備へた気品高き作品」ばかりである、などと思っているからではない、この『傀儡師』と『羅生門』の中におさめらている幾つかの小説(つまり、初期の小説)は、(これらの小説こそ、)よしあしは別として、もっとも芥川らしいものであり、それこそ、誇張ではあるが、「独一無類の作風」にちかい小説であろう、と、私は、思うからである。しぜん、私は、芥川のいわゆる晩年の作品に、それはそれで、感心しているものもあるが、不満をいだき文句をつけたいものもあるので、それらについては、後に述べる事にする。

2012/04/10

宇野浩二 芥川龍之介 十四 ~(1)

     十四

 

 実をいうと、私は、こういう事を述べながら、とびとびには読んでいたけれど、芥川の小説は、(晩年のものは別として、)芥川の生きていた間は、あまり読まなかった、芥川の小説をそれほどすぐれているとは思わなかったからである。それは、どんな話でも、かならず一つの物語に仕上げ、その物に何〔なに〕かカラクリのようなものがあるのが気になったからである、そうして、時に巧妙な『傀儡師』のようにも思われたからである。

 しかし、たびたび云うが、たとえば、初期の作品の幾つかを読みかえしてみても、それほどすぐれた小説とは思われないのに、それぞれ心にくいほど旨〔うま〕いところがあるのに、私など、改めておどろかされる事がしばしばある、もっとも、これは、もとより、初期の作品だけではなく、芥川の小説のほとんど総〔すべ〕てについて云われる事であるが。こういう事をかんがえると、誠に妙な事をいうようであるが、私は、芥川の小説は芥川という人間よりもすぐれていたのではないか、というような事を、ふと、思うことがある。が、又、芥川の小説より芥川という人間の方がおもしろさに於いては、ずっとおもしろかった、とも思うのである。

 ところが、一般に、芥川の初期の作品に対して、簡単に、皮肉がある、とか、諷刺がある、とか、諧謔がある、とか、機智がある、とか、あるいは、「逆説的に人心の機微を穿っている、」とか、云われているけれど、(もっとも、そういうところはあるが、)私は、こんど、その初期の小説を幾つか読みなおしてみて、そういうものとは全〔まった〕くちがうものがある事に、気がついた。それは、例えば、その初期の作品のなかの代表作のように称せられている、『鼻』と『芋粥』の最後の、

 ――かうなれば、もう誰も哂〔わら〕ふものはないにちがひない。

 内供〔ないぐ〕は心の中でかう自分に囁いた。長い鼻をあけ方〔がた〕の秋風にぶらつかせながら。(『鼻』)

 

……晴れてはゐても、敦賀の朝は、身にしみるやうに、風が寒い。五位〔ごゐ〕は慌〔あわ〕てゝ、鼻をおさへると同時に銀〔しろがね〕の提〔ひさげ〕に向〔むか〕つて大きな嚔〔くさめ〕をした。(『芋粥』)

 私は、こんど、この二つの小説の最後のところを読んだ時、(ずっと前に、やはり、ここのところを引いたが、こんどは、)誇張して云えば、あけ方〔がた〕の秋風に長い鼻をぶらつかせている内供も、身にしみるような風の吹く正月の朝、芋粥が一斗〔と〕ぐらいはいっている銀の提にむかって、大きな嚔をする五位も、両方とも、芥川その人のような気がした。そうして、私は何〔なん〕ともいえぬ侘しい気がした。

 しかし、これは、私の思い過しであるとしても、といって、当時の二三の批評家が説〔と〕いたように、この二〔ふた〕つの小説が共に人生に対する幻滅をあらわしたものである、というような見方はありふれている。それより、この二つの作品は、ずっと前に述べたように、シングの『聖者の井戸』(“The Well of Saints”)と結構も主題(テエマ)もそっくりである、という見方〔みかた〕の方がおもしろいではないか、つまり、両方とも、結局、「理想は理想であるうちが尊い、」というようなテエマで書かれたものであるから。(なお、このシングの戯曲は、前に、『霊験』という題で翻案され、たしか、上演された事がある。)

[やぶちゃん注:「シングの『聖者の井戸』(“The Well of Saints”)」既出の「聖者の泉」(先には宇野は「井戸」ではなく「泉」と訳している)。「『霊験』という題で翻案」も既出。坪内逍遥作。]

 さて、テエマといえば、芥川の初期の作品には、(初期の小説ばかりでなく、)菊池の作品ほど現〔あらわ〕ではないけれど、それぞれ、テエマがある。しかも、そのテエマが、一〔ひ〕と捻〔ひね〕りも二〔ふた〕た捻りもされている上〔うえ〕に、機智縦横の才筆によって生〔い〕かしてある。つまり、芥川の小説は、題材が新奇であり、著想〔ちゃくそう〕が警抜であり、文章が絢爛であったから、すこし誇張していえば、類を絶していた。それで、こういう小説を矢つぎ早〔ばや〕に発表した芥川が、その頃、尋常茶飯の事を目立〔めだ〕たない文章で書いた自然主義風の小説にうんざりしていた文壇の人気を、一人〔ひとり〕で浚〔さら〕ってしまったような観のあったのは当然でもあったのである。

 ところで、話はかわるが、たとえば、『羅生門』の中〔なか〕で気がついた事を述べてみよう。(読者よ、これは、映画や芝居で、勝手に、しやあしゃあとして、『藪の中』や『偸盗』の中から、筋や人物を取って、筋をつくりかえ、あるいは、まったく別の物にして、外国に持ち出して見せたり、外国人に見せたり、している、あの、『羅生門』ではない。)

[やぶちゃん注:ここで宇野が黒澤明の映画「羅生門」をそれとなく唾棄すべきものとして批判している点に着目したい。]

 さて、『羅生門』は、一部の人か知っているように、『今昔物語』の巻二十九の『羅城門登上層見死人盗人語』[やぶちゃん注:底本では「らせいもんのうはこしにのぼりて、 しにんをみたるぬすびとのこと)と訓読するための返り点が附くが、省略した。]を本〔もと〕にして作〔つく〕ったものであるが、本〔もと〕は、唯、一人の盗賊が、京に上〔のぼ〕り、日の暮れるのを待つために、羅生門の楼上にあがって、たまたま、死人の髪の毛を抜く嫗〔おうな〕のいるのを見つけて、いきなり、死人の衣と嫗の衣と髪の毛を奪って、逃げ去った、というだけの話である。それを、芥川は、盗人を主人から隙〔ひま〕を出された下人〔げにん〕とし、その下人に、餓え死にをするか泥坊になるか、と途方にくれさせ、雨の降りしきる夕暮れに、塒〔ねぐら〕をもとめるために、羅生門の楼上にのぼらせ、その楼上で、幾つかの男女の死骸のころがっている中に、餓え死にしたくないばかりに、鬘にするために女の死骸の髪の毛を抜いている老婆を見出ださせる、そこで、下人がその罪つくりな事をなじると、生きて行くために仕方なくする業〔わざ〕だから、死人とて、「大方〔おほかた〕わしのする事も大目に見てくれるであろ、」と老婆が答える、これを聞くと、下人は、いきなり、老婆の襟上〔えりがみ〕をつかんで、「では、己〔おれ〕が引剝〔ひはぎ〕をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体〔からだ〕なのだ、」と云いながら、その著物〔きもの〕を剥ぎとり、しがみつく老婆を死骸の上に蹴たおし、急な梯子をかけおり、「黒洞々たる夜」の闇のなかに、逃げ去ってしまう、という事にしている。

 これだけ見れば、(これは『羅生門』の筋を抜き書〔が〕きしたのであるが、)実にはっきりした(はっきりし過ぎた)テエマ小説である。それで、当時の或る批評家は、この小説を「生きんがためのエゴイズムの無慈悲」を刳り出したものである、と云い、「生きんがための悲哀を描〔えが〕いた」のである、などと評している。しかし、これは唯物論にかぶれた評論家と概念的な見方しか出来ない批評家の云うことであって、私などは、この小説をよんで、そういう考えは殆んど全〔まった〕く浮かばなかった。それから、作者は、この小説に、羅生門の楼上の惨〔むご〕たらしい光景や人間の修羅場などを描いたつもりであるかも知れないが、それは、文字(あるいは文章)にあらわれているだけで、肝腎の実感はほとんど出ていない。それは、芥川は、理智派とか新技巧主義とか称せられたように、一〔ひと〕つの小説を作るのに、まず、題材がきまると、それを、『あたま』(理解力と智慧)で丹念に組み立て、一字一句に凝った文章で、書く、そのために、文章が目立ちすぎて、書かれてある事が引き立たない場合〔ばあい〕がしばしばあるからである。たとえば、『羅生門』の中の、楼上の光景を述べた一部の、「その死骸は皆、それが、嘗〔かつて〕、生きてゐた人間だと云ふ事実さへ疑はれる程、土を捏ねて造つた人形のやうに、口を開〔あ〕いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床〔ゆか〕の上にころがつてゐた」などという所は、顔をそむけたくなるような場面であるはずであり、老婆の顔を叙した一部の、「皺で、殆〔ほとんど〕、鼻と一〔ひと〕つになつた唇を、何〔なに〕か物でも嚙んでゐるやうに動かした。細い喉〔のど〕で、尖つた喉仏〔のどぼとけ〕が動いてゐるのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くやうな声が……」いう所なども、かなり凄味が感じられる筈であるのに、両方とも、実感が迫〔せま〕ってこないのは、作者が、これらの事から遊離しているからである、題材と間隔をおいて描いているからである、題材だけに興味を持ち、それを現す文章に凝り固〔かた〕まり過ぎるからである、そうして、題材を身近に感じていないからである。(私は、僭越な云い方〔かた〕であるが、前に引用した、羅生門の楼上の死骸が床〔ゆか〕の上にころがっている光景を述べた中の「それが、嘗、生きてゐた人間だつたと云ふ事実さへ疑はれる程」という文句は、漱石の文章の影響が幾らかある、という事などは別として、不要である、と思うのである。)

[やぶちゃん注:この「羅生門」文体論は有象無象の同作評論よりも鋭い慧眼を備えたものである。]

アリスと花見

アリスと1時間余り、ワインの余薫の中、散歩しながら花見と洒落込んだ――

5種以上の桜を愛でて、菜の花畑からラベンダー、椿、そして今はハナニラが何と美しいことだろう――

アリスを散歩させていて、こんな余裕を持ったのは今日が始めてだ――

僕は犬の散歩さえ義務のように日々を生きて生きたのか――

僕は陶淵明の気持ちが――少しばっかり腑に落ちた――

さてもフローラは今までの僕の苦手とするところだったが――一つ、やらかして――みるか――

僕の書斎から見下ろせる久成寺の桜――母さん 花見をしようねえ――

410

山燃え

昨日と今日、母の相続登記のために鎌倉の法律事務所に通う。妻は名古屋の母の介護に昨日から行った――

僕の書斎からもそうなのだが、北鎌倉の手前から西の山並、北鎌倉からトンネルを抜けた鎌倉側の谷戸の東(向かって右手)の峰々が桜と新緑で素晴らしく燃えている。こんな季節に僕は鎌倉をしみじみ見ることはなかったのだと気づいた。まるで黒澤明の「生きる」みたように、僕は何で55歳という老齢に至るまで、こんなに;美しいグラデーションの鎌倉の景を見ることなく生きて来たのだろう、と激しく後悔した――

横須賀線の車内からでよい(寧ろ、その方がいい。佐助に向かうあの間道でさえ、人息れは吐きたくなるぐらい酷いから)、近日中に御覧になることをお奨めする。電車に乗って、行って、戻る――何と贅沢なことだろう――

たらば書房で岩波文庫を一万円強分買って、行きつけの大船ルミネの「アジオ」で遅い昼食と赤ワイン。気に入っているウェイトレスの子が挨拶に来た。横井也有「鶉衣」の面白さにのめり込んで一時間ほどいたが、僕と隣りのローマ史の本を読んでおられたご老人以外は、総て御婦人方で、しかも僕は明らかに平均年齢を下げている存在であった――まあ、お互い、何と贅沢なことであろう――

僕は侮れない旨い赤ワインのカラヘを美事に空にしながら、平日の真昼間の一時の至福を祝したのであった――

宇野浩二 芥川龍之介 十三

    十三

 

 先代の尾上梅幸の芸談のなかに、つぎのような一節がある。

……父[註―五代目菊五郎]なぞはよく私に言つたもので、お前たちは、一と口にいへば、泥坊がまづいんだ、と云ふのです。他人様のいろいろな型を取るには取つても、それをどう自分の物にするかといふ点に才覚がない。父なども、いろいろと人の型を盗んでゐるが、いはば、団子を団子として使はない、塩煎餅〔しほせんべい〕をもらつても、それを塩煎餅として食〔た〕べてしまつたんぢや、何にもならない。それを粉にくだいて、自分流のものをこねあげなければ仕様がないんだ、と父は申してをりました。

 芥川は、五代目菊五郎ほどの名人であったかどうかは別として、また演劇と文学はまったく違う芸術ではあるが、この先代の梅幸の芸談のなかの言葉をもじって云えば、五代日菊五郎さえ舌を巻いておどろくであろうと思われる程の『泥坊』の名人であった、という事になる。つまり、前に述べたように、芥川は、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『十訓抄』、『聊斎志異』、キリスタン文献、その他は、もとより、シング、ゴオゴリ、フランス、モウパッサン、その他の作品からも極めて巧妙な『泥坊』(この言葉は、さきに引いた先代の梅幸の芸談の中の文句から取ったので、文字どおり『語弊』があるけれど)をしている、それは、たとえば、日本の古典から取る時でも、これを先〔さ〕きに書いたように、出世作『鼻』は、『今昔物語』のなかの話を元〔もと〕にしてシングの戯曲の仕組〔しぐみ〕を才覚して、「自分流のものをこねあげ」たものであり、『芋粥』は、おなじシングの戯曲の仕組をつかって、『今昔物語』(あるいは『宇治拾遺物語』)の中〔なか〕の話の主人公とゴオゴリの小説の主人公の話をつきまぜて、「自分流のものをこねあげ」たものではあるが、二つともまず渾然とした作品になっているからである。(山本健吉の『現代俳句』[昭和二十七年十月発行]のうちの芥川の俳句の解説をした文章の中に、「狂死した『鼻』の作者ゴーゴリは彼[つまり、芥川]の愛読する作家の一人であつた、」という文句があるが、これを読んで、私は、今更ながら山本の理解の広さに、おどろいた。ところで、いうまでもなく、おなじ『鼻』という題であるが、芥川の『鼻』とゴオゴリの『鼻』はまったく趣きは違うけれど、芥川の『鼻』もおもしろいが、その諷刺の鋭さや書き方の巧みさは、ゴオゴリの『鼻』の方が断然ずぬけている。)

[やぶちゃん注:ここで宇野が「鼻」と「芋粥」での影響関係を語っている「シングの戯曲」とは、間違いなく「聖者の泉」を指していると考えてよい。この芥川龍之介の初期代表作たる両作について、シングの「聖者の泉」との関連を問題にしている研究者は多くないと思われるが、「聖者の泉」を一読されれば、その通底はすこぶる明白である。未読の方は御一読をお奨めする(リンク先はそれこそ芥川を巡る女性として名を挙げている松村みね子(片山廣子)訳の私の電子テクストである)。]

 ところで、仕方〔しかた〕はまったく違うけれど、和歌に『本歌取〔ほんかどり〕』というのがある。本歌取とは、先人の作〔つく〕った歌の言葉あるいは思想を借りて、一首の歌に仕立〔した〕てることである。例えば、「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一〔ひと〕つは元〔もと〕の身にして」「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰〔た〕が袖ふれし宿の梅ぞも」(『古今集』)の二首に本〔もと〕づいて、『梅の花誰〔た〕が袖ふれし匂〔にほひ〕ぞと春や昔の月に問〔と〕はばや」(『新古今集』)と作〔つく〕る類〔たぐい〕である。

 この本歌取は、鎌倉時代から流行し出し、今の世でも、歴〔れっき〕した歌人でも、する事はある。いずれにしても、本歌取にかぎらず、『模倣』というものは、いつの世にも、いかなる世界にもあるものである。されば、歌でいえば、『万葉集』の歌のなかにも、例えば、巻四(五二五)の坂上郎女の、

  佐保河の小石[あるいはサザレ]踏み渡りぬはたまの黒馬〔くろま〕の来〔く〕る夜は年〔とし〕にもあらぬか

という歌は、巻十三(三三一三)の作者不詳の、

  川の瀬の石ふみ渡りぬばたまの黒馬の来る夜は年にあらぬかも

という歌の模倣であるという事は実にはっきり分〔わ〕かる。

[やぶちゃん注:五二五番歌は恋人藤原麻呂に贈った歌で、藤原麻呂の五二三番歌、

  よく渡る人は年にもありとふを何時の間にそもわが恋ひにける

〇やぶちゃんの五二三番歌通釈

……天の川のような恋の苦しみの大河をよく堪えて渡ってゆく人というのは――彦星の如く一年ものあいだ逢わないでもいられる――というけれど……あなたに逢えぬ私は……とても耐えられぬ……ああっ! 私は何時の間に……あなたにこんなにも恋してしまったのか……

への返しで、

〇やぶちゃんの五二五番歌通釈

……彦星のように佐保川の石を踏み渡って貴方の騎った黒馬が来る夜……それは、七夕のようにせめて年に一度でもあってほしいものと……思いまする……

佐保川は現在の奈良市街を流れ、歌枕。藤原麻呂の愛馬は黒馬であった。

三三一三番歌は、男の三三一〇番の長歌及び三三一一番の反歌に対する、三三一二番の長歌に附した反歌で、全体が泊瀬〔はつせ〕の神事歌物語をモチーフとした歌謡。

〇やぶちゃんの五二五番歌通釈

……川の瀬の石を踏み渡って……あなたの騎った黒馬が……夜毎のことであって欲しいもの……

三三一二番歌では相手の男を「わが天皇〔すめらぎ〕よ」と呼び、神話世界への人物変換を示している。類歌であるが、宇野の言うように、神話的古形歌謡から見て、この歌の方が坂上郎女よりも先行し、本歌取のような様態となる。]

 ところが、源実朝の、有名な

  箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ

という歌は、やはり、『万葉集』の中〔なか〕の

  逢坂をわがこえくれば近江の海白ゆふ花に浪たちわたる

という歌を真似〔まね〕たように思われる、(いや、真似ている。)

[「逢坂を」の和歌は三二三八番歌であるが、一般には、

  相坂をうち出でて見れば淡海〔あふみ〕の海〔み〕白木綿〔しらゆふ〕花〔はな〕に波立ちわたる

の句形で諸本に載す。

「相坂」は「あふさか(おうさか)」と読み、山城国と近江国の国境となっていた逢坂関。「淡海の海」は現在の琵琶湖。「白木綿花に」は真っ白にさらした木綿が花を咲かせたように、の意。]

 しかし、この歌は、この『万葉集』の歌が手本になっているとしても、「箱根の山を打〔うち〕いで見れば浪のよる小島あり供のものに此海〔このうみ〕の名は知るやと尋ねしかば伊豆の海となん申すと答へ侍〔はべ〕りしを聞〔きき〕て」という詞書〔ことばがき〕を見てもわかるように、実朝が、実景に対して感じたままを詠〔よ〕むのに、おのずから自分の頭〔あたま〕の中〔なか〕にあった歌が浮かび出て、この歌を作ったのであろうから、さきに引いた『泥坊』という言葉をつかうと、これは、極めて巧妙に泥坊をした『佳作』という事になるのである。もっとも、「逢坂を」の方〔ほう〕がいくらかすぐれでいるようには思われるけれど、この「箱根路を」は、「逢坂を」より、素朴なところがあり、純真な叙景のおもしろみもあるから、佳作にはちがいないのである。それから、やはり、実朝の

  泉川〔いづみがは〕ははその杜〔もり〕になく蟬のこゑのすめるは夏のふかきか

[やぶちゃん注:「泉川」現在の木津川。「ははその杜」木津川の上流、現在の京都府相楽郡精華町祝園にある森。歌枕。「ははそ」は元来はナラの類の一般名詞。結句「夏のふかきか」は書陵部本の表記で、他所載するものでは「ふかさか」。]

という歌は、『万葉集』(巻六)の「ひとつ松幾代か経ぬる吹く風のこゑのすめるは年ふかきかも」が本になっているばかりでなく、先輩の定家の

  時わかぬ波さへいろにいづみ河ははその杜に嵐ふくらし(『古今集』)

という歌の影響もうけている。が、定家の歌は妙に技巧を弄していて否味〔いやみ〕があるけれど、実朝の方は、平淡で、素直で、調子がよくて、気もちがよい。気もちがよい。

気もちがよいと云えば、つぎにうつす歌なども気もちがよい。

  夕さればしは風さむし波間〔なみま〕より見ゆる小島〔こじま〕に雪はふりつつ

 正岡子規の歌に

  鏡〔かがみ〕なすガラス張窓〔はりまど〕影〔かげ〕すきて上野の森に雪つもる見ゆ

というのがある。それから、やはり、実朝の作に、

  さは山のははそのもみぢ千々〔ちぢ〕の色にうつらふ秋は時雨〔しぐれ〕ふりけり

というような好〔この〕もしい歌もある。ところが、やはり、これにも、

  さは山の柞〔ははそ〕の色はうすけれど秋は深くもなりにけるかな

  白露はおきてかはれど百敷〔ももしき〕のうつろふ秋はものぞかなしき

などという似たような歌がある。(もっとも、これは、実朝が、『万葉集』ばかりでなく、『古今集』や『新古今集』で、歌の勉強をしていた、という事になる。)似たような歌、といえば、島木赤彦の

  わが庭に松葉牡丹の赤茎のうつろふころは時雨ふるなり

は、実朝の「さは山の」の歌が本〔もと〕であろう。

[やぶちゃん注:「ひとつ松」は一〇四二番歌で市原王〔いちはらのおほきみ〕の作。「ふかきかも」とは、この松が想像を絶した「長い年月を経ているからなのであろうよ」の意。

「(『古今集』)」は「先輩の定家の」でお分かりの通り、宇野の誤り。本歌は「新古今集」八三七番歌。「いづみ河」は掛詞で「色に出づ」を掛ける。

〇やぶちゃんの八三七番歌通釈

――四季にあって異なろうはずもない川波にさえ、秋の色に濃く染まっている、この泉川――その川の上の、あの柞の森に秋の強い嵐が吹いているのであろうよ――

「さは山の」という二首初句と宇野の本文それは「さほ山」の誤記か誤植かと思われる。以下、和歌を一般表記に正して示す。

  佐保山のははそのもみぢ千々の色にうつろふ秋は時雨ふりけり

「佐保山」は奈良市佐保山町及び法蓮町・奈保町一帯を含む佐保川北方に広がる丘陵の総称。「千々の色にうつろふ」は「いろいろな色に変ずる」の意。

  佐保山のははその色はうすけれど秋は深くもなりにけるかな

は「古今和歌集」二六七番歌で坂上是則の歌。

「白露は」の歌は「新古今和歌集」一七二二番歌で伊勢の歌。「亭子院降りゐ給はんとしける秋、よみける」の前書を持つ。「亭子院」は宇多法皇、彼の譲位は寛平九(八九七)年七月三日。「白露」は「しらつゆ」と読む。

〇やぶちゃんの一七二二番歌通釈

……秋の白露というものは葉末においては消え、おいては消える変わりやすきものにてございまする……なれど……永えにと思うてございましたすめろぎのお変わりになられるこの秋は……とてもあらゆることが……悲しく思われることにございます……]

 

 ところで、実朝が本歌のある歌を多く詠〔よ〕んでいるのは、実朝は、年少にして将軍になり、二十八歳の若さで死んだのであるから、いくら勉強をしても、先進の模倣をまぬがれる域までに達していなかったからであり、『本歌取』はその頃の歌壇の一〔ひと〕つの習慣であったからである。

 歌人としての実朝を育〔そだ〕てあげた、といわれる、藤原定家は、実朝に、「ふるきをねがふによりて、むかしの歌の言葉を、あらためよみかへるを、すなはち本歌とりと申す也、」と述べ、二三の歌を例にあげて、「かやうの歌を本歌にとりて、新〔あたら〕しき歌を詠めるが誠によろしく聞ゆる姿に侍〔はべ〕る也、是〔これ〕より多く取れば我が詠みたる歌とは見えず、もとのままに見ゆるなり、」と教えている。

 つまり、この定家の言葉は、他人の作品から借りてもよいけれど、あまり度〔ど〕が過ぎると、本〔もと〕の歌とあまり変りのない歌になる、という程の意味である。

 しかし、実朝は、はじめは、『古今集』、『新古今集』その他から、後には、『万葉集』から、「むかしの歌の言葉」を巧みに借りて、かずかず取すぐれた歌を作〔つく〕ったが、目立たないようには出来〔でき〕なかった。それは、実朝が、「むかしの歌の言葉」を借りる事などに、クヨクヨしなかったからでもある。もっとも、実朝は、つぎのような歌も詠んでいる。

  ものいはぬ四方〔よも〕のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ

 これは、もとより、絶唱である。

 ところで、いうまでもなく、短歌はみじかい詩形であるから、小説や戯曲などとちがって、模倣(あるいは、『泥坊』)は、見わけやすい、(あるいは、見やぶられやすい。)しかし、その小説や戯曲でも、具眼者には、その『種』を見やぶられる事もあるのである。それはずっと前に書いたが、話の筋道をはこぶ上〔うえ〕に必要があるので、重複するけれど、もう一度述べることに、する。(『重複』といえは、実朝の本歌取についても前に少し書いたが、……)

 大作家と称せられ、芥川が殊に崇拝していた、夏目漱石の代表作、(私は、小説のよしあしは別として、代表作と思っている、)『吾輩は猫である』は、アマデュウス・ホフマンの『牡猫ムルの人生観』から、(つまり、この二つの小説が、首尾結構がかなり似ているばかりでなく、迷亭、寒月、鼻子夫人、その他、と類似しているような人物が『牡猫ムルの人生観』にも登場する上に、猫に物語をさせるという構想も共通していかところを見ても、)ヒントを得ていると思われるし、それから、漱石が朝日新聞社にはいって初めて書いた、(はじめて筋らしい筋を仕組んだ長篇小説といわれる、)『虞美人草』が、ジョオジ・メレディスの『我意の人』(“The Egoist”)に、これも、構想から、それぞれの人物たちが似ているばかりでなく、全篇をつらぬいている浪曼的な物語の趣向も類似している、と云われている。

[やぶちゃん注:「アマデュウス・ホフマン」エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 1776年~1822年)は後期ロマン派を代表するドイツ幻想文学の奇才。彼の代表作の一つである“Lebensansichten des Katers Murr”「牡猫ムルの人生観」は1820年の作。漱石の「吾輩は猫である」には主人公の猫が本作に触れてドイツにも同じ境遇の猫がいると知って感慨にふけるシーンがある(以上はウィキの「E.T.A.ホフマン」の記載を参照した)。

「ジョオジ・メレディス」ジョージ・メレディス(George Meredith 1828年~1909年)はイギリスの小説家。“The Egoist”「エゴイスト」は1879年に発表された彼の代表作で、参照したウィキの「ジョージ・メレディス」によれば、『絢爛たるヴィクトリア朝式の文体を駆使して、ウィットあふれる心理喜劇風の作品を多く残し』、『早くに坪内逍遙や夏目漱石が日本に紹介し、特にその文体が』漱石の「虞美人草」などの初期作品に影響を与えている、とある。]

 ところで、漱石の代表作の一つである『草枕』が、明治三十九年の九月号の「新小説」に出た時、誰いうとなくこの小説は、漱石の門人の中〔なか〕で一ばん愛された、と云う、鈴木三重吉の『千鳥』[註―おなじ年の五月の「ホトトギス」に出た]に刺戟されて、書かれた、という話がつたえられた。いうまでもなく、その頃、私は、熱心な文学青年であったから、「千鳥の話は馬喰〔ばくらふ〕の娘のお長で始まる、」という文句からはじまる、『千鳥』の書き出しの五六行は暗記し暗誦したものであった。(もっとも、これは、私ばかりでなく、三上於菟吉などもその一人〔ひとり〕であり、その他大ぜいである。)それで、『草枕』なども、その書き出しの「山路を登りながら、かう考へた、」などという文句にも感服した。もっとも、これは、虚子が本〔もと〕をひらいたホトトギス派の人たちに共通する同工異曲の書き出しである、例えば、「法隆寺の夢殿の南門の前に宿屋が三軒ほど固〔かた〕まつてゐる。」[虚子の『斑鳩物語』]「小春の日光は岡の畑一杯に射〔さ〕しかけてゐる。」[節の『芋掘り』]「始めて此浜へ来たのは春も山吹の花が垣根に散る夕であつた。」[寺田寅彦の『嵐』]その他であるから、みな、単純であり単調である。(それから、余計な話であるが、ある時、正宗白鳥が、苦笑しながら、「おなじ雑誌に、僕の『旧友』という小説が出ていたのが、『草枕』が出ていたので、ほとんど読まれなかった、」と云った、閑話休題。)

 さて、さきに上〔あ〕げた漱石の小説のほかに、やはり、漱石の小説の『道草』のはじめの方に、往来〔おうらい〕で、「黒い髭を生やして山高帽をかぶつた」男に逢うところがあり、ドストイェフスキイの『永遠の良人』のはじめの方にも、主人公が、やはり、道で、「帽子に喪章をつけた一人の紳士」に逢うところがあるのを、思い出した。これは何〔なん〕でもない事のようであるが、小説のはじめの方にエタイの知れない人物を登場さしておいて、作者がなかなかその人物の正体をあかさない事にすると、そこ妙味が出てくるのである。しかし、こういう方法は一〔ひと〕つまちがうと、ケレンになる。(ケレンとは、いうまでもなく、『外連』の事で、外連とは、演劇で、俗受けを専〔もっぱら〕にするために、定格にかかわらない演出法をする事で、場あたりを取らんがために演ずる一手法の事である。)ところで、この二つの小説をしいてくらべると、『永遠の良人』にはまったく「ケレン」の「ケ」も感じられないけれど、『道草』にはいくらかケレンくさいところもある。しかし、漱石は、『彼岸過迄』の緒言のなかで、「自分の書くものを毎日日課のやうにして読んでくれる読者の好意だのに、酬いなくては済まない、」というような事を書き、『草枕』のなかには、「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情な所がないから、些〔ちつ〕とも趣きがない、」と述べている。それで、漱石は初期の浪曼的な作品にも、『虞美人草』を境にして、人間の心理をあつかい出した、と一般に言われる、『三四郎』から後の小説にもうまい工合に、読者の好意に酬いるような書き方をしている。そうして、それはいかなる作家もおよばない『腕』である。それで極限すると、漱石は最高級の上品なケレン師という事にもなる。(そうして、形も味もまったく違うけれど、芥川の好評を博した作品にもやはり、高級のケレンのようなものがあった。そうして、それを仮りに『ケレン』といえば、そういうケレンのようなもののある作品を書かなくなってから、⦅あるいは、書けなくなってから、⦆芥川の作風が少〔すこ〕しずつ変ってきて、『話』らしい話のない小説というものを主張し出してから間〔ま〕もなく、芥川は、みずから死をえらんだ――これらの事については後に述べるつもりである。)

 さて、私は、鷗外とならべて文豪と称せられる漱石の、(よかれあしかれ、)代表的な長篇小説である、『吾輩は猫である』と『虞美人草』とに「種」がある、というような事を、軽率に、見やぶったような事を、述べたが、これは、私のような鈍感な者に言える事ではなく、前に述べたように、最もすぐれた具眼者によって見やぶられるのであるから、一般の人には殆んどわからないのである。さて、その最もすぐれた具眼者の一人は、何と、中野好夫である。私は、その事を、こんど、「浪漫古典」という雑誌の『夏目漱石研究特輯』[昭和九年九月発行]のなかの中野の『漱石と英文学』という文章によって知ったのである、(いや、教えられたのである。)

 私は、これもずっと前に述べたように、メレディスの『我意の人』(“The Egoist”)は、早稲田学校の英文学科に在学ちゅうに[やぶちゃん注:「ちゅう」はママ。]、英語学の教授法の名人といわれた、増田藤之助に教わった事があるが、その講義は一時間に二三行か四五行ぐらいしか進まなかった、が、それでも、あまりにむつかしいので、はじめの一ペイジほどで投げ出してしまった、つまり、私などには読めなかったのである。ところが、さすがに英文学の大学者である中野好夫は、やはり英文学の大学者と称せられた夏目漱石でさえ難解と云ったといい、「英本国に於てさへ厄介物視される」というメレディスの小説をスラスラと読みながし、まず、漱石が、メレディスの「影響を云々されるのは少しも不思議でない、」と喝破し、『虞美人草』が、メレディスの『エゴイスト』に「似てゐると云へば実に似てゐる、」と断定し、そのスタイルまで「如何に両者を聯想させるかを例証してみよう、」と述べて、その原文まで引いている、そうして、その原文とそれに似ている『虞美人草』の一部に対照させて、「読者はまづメレディスの原文を十度二十度誦して、一句一句のイメイヂを嚙みしめた上で、漱石の名文?に帰つてみることだ。もしメレディスが日本語で書けば、きつとこの文、少なくともこれに近いスタイルになつたに相違なからうと思ふのである、」とまで云いはなっている。

 昭和九年といえば、中野は、すでに新進気鋭の英文学者などという事は通り過ぎ、今日〔こんにち〕のような堂堂たる文学評論家になる下地〔したじ〕が十分に出来ていた上〔うえ〕に、今日〔こんにち〕のような円転滑脱なところがなかった代りに、ズバズバと物事を論じられた時分であろうから、この文章(『漱石と英文学』)は、今よんでも小気味がよく、私など教えられるところが甚だ多かった。

 さて、中野は、『草枕』についても、その第九章に出てくる画工が女に読んできかせる書物がメレディスの傑作の『ビイチャムの生涯』の一節である、と述べて、その一節を引用して、翻訳である、と云い、更に、「さういへば小野が藤尾にクレオパトラの最後の件〔くだ〕りを読ませてゐる趣向もたしかにメレディス好みであるといつてよい、」と断じている。

[やぶちゃん注:「ビイチャムの生涯」“Beauchamp's Career”は一八七五年の作品。因みに「草枕」は明治三十九(一九〇六)年の発表。]

 ところで、この漱石の、『虞美人草』も、『草枕』も、共に、メレディスから暗示を得、メレディスの影響らしいものを受けているなどという事は、(私などはうすうす知っていただけであるから、)中野好夫のような、(往年の中野好夫のような、)英文学に造詣がふかい上に、慧眼の士でなければ、わからないのである。

[やぶちゃん注:この謂いは日本語としては厭味な感じを与える。宇野は漱石がメレディスか暗示や影響「らしいものを受けている」ということを「うすうす知っていた」のであり、今のような大家ではなく、若き日の生意気な中野好夫のような、それでいて英文学に造詣が深く、慧眼の士に属する真の知識人(「うすうす知っていた」以上、そこには宇野が当然含まれずにはおかない)でなければ、そうした漱石からのメレディスからの影響関係を見ぬくことは出来ないのだ、と手前味噌を言っているのと何ら変わりがないからである。勿論、宇野はそのような意図で語っているのではないのだが、ここは宇野のくだくだしい屋上屋の口説き(私は例えば宇野の句読点の打ち方――特に読点の打ち方には、一種のパラノイア的印象を受けることがある)が、時に慇懃無礼な厭な感じを与えるケースである。]

 ところが、漱石のような人物でさえ、五代目菊五郎の謂う所の『泥坊』を、中野好夫、その他に見やぶられたのに、芥川は、『泥坊』をしても、「素材を取って……」と云われながら、「あくまでその時代の雰囲気をやぶらず、その範囲の中に、文明批評をし、諧謔や皮肉を弄し、……」などと称せられて、泥坊よばわりを殆んどされた事がない。

 これは、二十五歳の年に、『鼻』をみとめられ、(殊に漱石の推奨によって、)一躍その名声があがった事と、そのポオズの見事さに目を見はらせた事もその一つであるが、それ以上に、それらの題材が芥川の身についていたからである、一と口にいうと、初期の作について云えば、諧謔も、皮肉も、キリスタン好みも、深浅やよしあしは別として、芥川の持っていたものであるからだ。(そういう点では、漱石とホフマンやメレディスなどとの関係は本質的なものでなく、潤一郎が、王朝や徳川時代や支那の話を題材にしたものでも、それらが巧みに述べられてあっても、作者の『頭〔あたま〕』で作〔つく〕られている。そうして、)芥川のそれらの小説は、ほめていえば、芥川なりに、『心』で書いているからである。

 しかし、芥川のそれらの物語がたいてい陰気であるのが、それが芥川の心(あるいは、心の隅〔すみ〕)にあった事に私が気がついたのは、ずっと後〔のち〕であった。

 それで、出世作の『鼻』でも、『地獄変』、『奉教人の死』、『秋山図』、(いかにこれとそっくりの小説が支那にあるにしても、)『六の宮の姫君』、その他は、(思い出すままに上〔あ〕げても、)かりに、また使うが、五代日菊五郎のいう『泥坊』をしたものであるとしても、みな、渾然とした、水際〔みずぎわ〕だった作品である、まことに水際だった作品である。

 

 私が、はじめて、芥川はずいぶん気もちのわるい小説を書くなあ、と気がついた小説は、『往生絵巻』[大正十年四月]をよんだ時である。

 

 芥川は、『糸女覚え書』[大正十三年一月]でも、傑作といわれている、『地獄変』[大正七年五月]でも、両方とも、主人公を自殺させた上に、屋敷に附〔つ〕け火〔び〕をさせている。

 

 小島政二郎であったか、千葉亀雄であったか、(忘れたけれど、)芥川ぐらい、人の死ぬとこや人の死ぬ場面を数多く書いた作家は稀である、というような事を書いていたが、まったくその通〔とお〕りである。それで、これも、思いうかべるままに、その例をあげると、さきに上〔あ〕げた『地獄変』と『糸女覚え書』とを別として、『羅生門』、『奉教人の死』、『藪の中』、『黒衣聖母』、『開化の殺人』、『枯野抄』、『六の宮の姫君』、『手巾』、『一塊の土』、『将軍』、『温泉だより』、『蜃気楼』、『彼』、『玄鶴山房』、その他――これだけでも何と十六篇もある。

[やぶちゃん注:千葉亀雄(明治十一(一八七八)年=昭和十(一九三五)年)は評論家・ジャーナリスト。「国民新聞」「読売新聞」「時事新報」「東京日日新聞」などの社会部長や学芸部長を務め、文芸評論も書いた。「新感覚派」の命名者として知られる(以上はウィキの「千葉亀雄」に依った)。]

『死』を題材にした作品は沢山〔たくさん〕あり、『死』をとりあつかった作家は数多〔あまた〕ある。しかし、人の死を書くのに、人の死ぬ場面を現すのに、芥川ほど、向きになり、真剣になり、自分自身が『死』に憑かれたようになり、それを書くのに、いかにも楽しそうに見えたり、あるいは、舌なめずりをしているように思われたり、あるいは、ほくそ笑〔え〕んだりしているのではないか、と想像されたりする作家は、真に稀有というべきであろう。

2012/04/09

ブログ360000アクセス及び藪野直史野人再生記念 『ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部』(ウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵 附やぶちゃん注)公開 「アラン島」全巻完結!

4分前、滋賀のリモート・ホストの

2012/04/09 21:16:32 Blog鬼火~日々の迷走: 自然界最強の毒は?

を訪問されたあなたが2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、僕の記念すべきブログ360000アクセス者でした。

ありがとう――

ついては――

ブログ360000アクセス及び藪野直史野人再生記念として――

 『ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部』(ウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵 附やぶちゃん注)を公開した。

これを以ってシングの「アラン島」は全巻完結した。

自在な野人ならではのアップ・トゥ・デイトな公開が出来たことを、僕は嬉しく思う。

今後とも超在野人(スーパーサイヤ人)藪野直史のHPとブログ――御笑覧あれかし――

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」 訳者あとがき及び復刊の辞

[やぶちゃん注:以下、底本岩波文庫の最後に附された訳者姉崎正見氏の「あとがき」及び「復刊にあたりて」を添えて終わりとする。]

 

     あとがき

 

 愛蘭土の劇作者ジョン・ミリングトン・シング(John Millington Synge, 18711904)は劇作のほかに、幾つかの散文の作品を殘してゐる。それ等は主に愛蘭土の諸地方を旅行して書いた紀行乃至隨筆であるが、その中でも此の「アラン島」(The Aran Islands)は比較的初期のもので、彼の生涯に於ける重要な轉換期に書かれたといふ點に於いて、また書かれた土地が歐洲の西端にある孤島として近代文化からかけ離れた特殊な風俗人情を持つてゐるといふ點に於いて興味あるスケツチとして珍重される。

 彼がアラン島に來たのは先輩イェーツの同情的な勸告に從つたと云はれるが、愛蘭土の一方言ゲール語を習ふこともまた一つの目的であつた。一八九八年五月彼がアランの一島アランモアに來て島民たちと寢食を共にする生活にはひつてみると、その荒涼たる岩石から成る島の間に營まれてゐる彼等の生活の中には、古代ゲール族から殘されて來たと思はれる純樸な風俗、剛健な氣風、古い傳説や迷信などがあるのを發見した。比の發見は又一面に於いて彼自身の藝術的才能の素地を發見したとも云へるので、その後、彼が劇を作るに當つて此のアラン滯在中に得た見聞が如何に役立つたかは、その劇、例へば The Shadow of the Glen Rider to the Sea 等の中の插話や事件や登場人物までも「アラン島」中の隨所に認められるに依つても明かである。

 此の旅行記は全體が四部から出來てゐるが、第一部は最初の滯在、即ち一八九八年の滯在の時の事を、第二部はその翌年、第三部は又その翌年、第四部はそれから更に一年置いて一九〇二年の滯在の時を書いたものである。そして各部は一年乃至三年の後、何れ愛蘭土や英國の雜誌に寄稿され、一九〇七年に一册にまとめられて「アラン島」と題して出版された。

 原文中、島民の會話には所謂アングロ・アイリッシュが多く使つてあるが、私は強ひてそれを是の日本の特定地方の方言に寫て表現して見るやうなことをせず、普通の口語に譯するに止めた。殊に民話には背景に傳説が含まれてゐると思はれるものがあるが、それを精細に調べるのは私の力の及ぶ所でなかつたのでそのまま散文體にした所もある。讀者の寛恕を乞ふ。

 また此の譯を爲すに當つて、野上豐一郎先生の御世話になり、ゲール語は市河三喜博士、特に勝田孝興氏の御助力を仰いだ事を附記して、此處に感謝の意を表する次第である。

   昭和十一年十月       譯 者

 

[やぶちゃん注:「市河三喜」(いちかわさんき 明治191886)年~昭和451970)年)は英語学者。東京帝國大学名誉教授。日本英語学の祖と呼ばれる。

「勝田孝興」(かったたかおき 明治191886)年~昭和511976)年)はアイルランド文学者・語学者。東京帝国大学英文科卒業後、1925年より二年間、文部省から推薦されてアイルランドに留学、後、旧制神奈川県立横須賀中学校(現在の横須賀高等学校であるから、同県の高校教師であった私にとっては先輩に当たる)教諭や旧制山形高等学校(現在の山形大学)の各教授を経て同志社大学教授、戦後は滋賀大学教授、大阪工業大学教授となった。アイルランド文芸復興運動に関わる演劇及びアングロ・アイリッシュの発音に関する研究を専門とした(以上はウィキの「勝田孝興」に基づく)。]

 

 

 

   復刊にあたりて

 

 久しく絶版になつていた本書は、戰爭後再び世に現はれた。丁度、今年はシングの死後五十年に當るのも、何かの意義があるような氣がする。

 此版で内容は少しも改訂はしなかつた。序文の「アラン島について」の野上先生の文もそのまま載せて頂いた。今は亡き先生の本書に對する御好意の記念として。

   昭和三十四年四月廿二日   譯 者

 

[やぶちゃん最終注:本テクストへの注釈に当たっては、元同僚の英語教師や海外で活躍する元教え子の協力を得た。ここに挙げて感謝の意を表する。……さて、私が底本とした私の所持する岩波文庫版の最後のページの下に、私は本書を買った日附を記している。それは「1979.7.3.」である。私が神奈川県の高等学校教員になって丁度三ヶ月後の夏、私はこの本に出逢ったのであった……

……その頃、私はいまだ22歳であった……

……そして、妻と一緒に44歳の私はアラン島へ行った……

……さても、本書入手の33年の後に……

……まさか、野に下った55歳の私が……

……この姉崎正見氏訳「アラン島」を英語の原文と暴虎馮河のオリジナル注を附して全世界に発信しようなんどとは……

……想像だにし得なかった……

――姉崎先生、心より、ありがとう御座いました。――

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (22) 本文完結

 皆が行つてしまふと、私は暫く、酒場の椅子に腰掛け、愛蘭土語の新聞を讀んでゐる幾人かの靑年たちと話をした。それから學者と二人の物語師――二人共老人で船乘り――と一緒に物語や詩を書き寫しながら、長い夜を過した。殆んど六時間近くを勉強したが、事柄を段段と調べれば調べるほど、此の老人達は多くを憶ひ出してくるやうであつた。

 「私は今夜、漁に出かける筈だつたのだ。」さう云つて一人の若者がはひつて來た。「併し、私はあなたに來ると約束をした。あなたは禮儀正しい人だから、私は約束を破るよりも五ポンドを捨てることにした。さあ、」――ウィスキーの盃を取り上げながら――「あなたの健康を祝します。グスベリの木であなたが棺を造るまで、またお産の床であなたが死ぬまで、生きていらつしやるやうに。」

 皆も私の健康を祝つて飮み、また我我の勉強が初つた。

 「あなたは詩人のマックスウィニーの話を知つてゐますかね?」と私の傍に坐つて、その男が聞いた。

 「ゴルウェーの町で聞いた事がある。」私は答へた。

 「さうかね、」彼は云つた。「『盛んな結婚式』といふ一篇をあなたに話してみよう。それは美しい一篇で、知つてゐる人は澤山ないだらうから。田舍に、或る可憐な召使の娘がゐて、その娘が或る可憐な召使の男の子と結婚した。マックスウィニーは二人を知つてゐたが、その時、遠方にゐて、歸るまで一ケ月かかつた。歸つて來ると、彼はペギー・オハラ――娘の名をさう云つた――に逢ひに行き、盛大な結婚を擧げたかと聞いた。ペギーはほんの中位であつたと答へ、矢張りよく忘れずにゐたと見えて、戸棚にウィスキーの瓶をしまつておいた。彼は爐邊に坐り、ウィスキーを飮み初めた。二三杯飮んでしまつて、爐で温かくなると、一つの歌を作り初めた。それがペギー・オハラの結婚式について作つた歌なのだ。」

 

 

When they had gone I sat for a while on a barrel in the public-house talking to some young men who were reading a paper in Irish. Then I had a long evening with the scholar and two story-tellers--both old men who had been pilots--taking down stories and poems. We were at work for nearly six hours, and the more matter we got the more the old men seemed to remember.

'I was to go out fishing tonight,' said the younger as he came in, 'but I promised you to come, and you're a civil man, so I wouldn't take five pounds to break my word to you. And now'--taking up his glass of whisky--'here's to your good health, and may you live till they make you a coffin out of a gooseberry bush, or till you die in childbed.'

They drank my health and our work began.

'Have you heard tell of the poet MacSweeny?' said the same man, sitting down near me.

'I have,' I said, 'in the town of Galway.'

'Well,' he said, 'I'll tell you his piece "The Big Wedding," for it's a fine piece and there aren't many that know it. There was a poor servant girl out in the country, and she got married to a poor servant boy. MacSweeny knew the two of them, and he was away at that time and it was a month before he came back. When he came back he went to see Peggy O'Hara--that was the name of the girl--and he asked her if they had had a great wedding. Peggy said it was only middling, but they hadn't forgotten him all the same, and she had a bottle of whisky for him in the cupboard. He sat down by the fire and began drinking the whisky. When he had a couple of glasses taken and was warm by the fire, he began making a song, and this was the song he made about the wedding of Peggy O'Hara.'

 

[やぶちゃん注:以下、底本では続くが、原文では行空けがある。

「學者」は注既出の通り、「郷土史研究家」。「物語師」は「語部」と訳したい。私は約束を「あなたは禮儀正しい人だから、私は約束を破るよりも五ポンドを捨てることにした。さあ、」原文は“you're a civil man, so I wouldn't take five pounds to break my word to you. And now”で、これは別に彼が漁に出ていれば、その収穫で「五ポンド」を手に入れていた、それを捨てた、という意味では、あるまい。「あんたは礼儀正しい人だ、だからどんなことがあったって――たとえ誰かが俺に五ポンドくれてやると言ったとしたって――俺は約束を破らねえ、さあ、」という意味である。

「グスベリの木であなたが棺を造るまで、またお産の床であなたが死ぬまで、生きていらつしやるやうに。」 “and may you live till they make you a coffin out of a gooseberry bush, or till you die in childbed.'”「グスベリ」はグース・ベリーでバラ目スグリ科スグリ属セイヨウスグリRibes uva-crispa。漢字では「西洋酸塊」と書く。和名の異名はマルスグリ・オオスグリ。イギリスでは音写すると一般には「グズバリ」。甘い果実をジャムに加工する。3メートルほどの落葉低木でとても棺桶の材料にはなりそうもない。なりそうもないから長寿の祝言となるのではなかろうかと推測する。「お産の床であなたが死ぬまで、生きていらつしやるやうに」とは、あなたが死ぬとすれば――それはあなたが生まれたばかりの時、ベビー・ベッドの中で死ぬまで――あなたの死はやってこない――あなたは今や大の大人になってぴんぴんしている――だからあなたに死はやってこない」という論理矛盾を用いた長寿の祝言と読む。

「詩人のマックスウィニー」“the poet MacSweeny”。シングも知っているからアイルランドでは相応に有名な吟遊詩人なのであろうが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 

 

 彼はその詩の英語と愛蘭土語の兩方を持つてゐたが、それは何處にでもあり、且つ他の通俗詩人の作と看做されるれてゐるので、此處に掲げる必要もないであらう。

 私たちもう一遍、黑ビールやウィスキーを一廻りさせた。そしてマックスウィニーの結婚式の詩を持つてゐた老人は酒飮みの歌の一篇を見せてくれた。學者はこれを書き寫し、後で私が彼と一緒に飜譯した。――

 

 

He had the poem both in English and Irish, but as it has been found elsewhere and attributed to another folk-poet, I need not give it.

We had another round of porter and whisky, and then the old man who had MacSweeny's wedding gave us a bit of a drinking song, which the scholar took down and I translated with him afterwards:--

 

[やぶちゃん注:以下、底本では行空けがあるが、原文では続く。

「彼はその詩の英語と愛蘭土語の兩方を持つてゐた」は、言わずもがなであるが、「彼はその詩を英語とアイルランド語の両方で歌うことが出来た」という意。「酒飮みの歌の一篇を見せてくれた」も同様に「酒飲み歌の一節(ふし)をかまして呉れた」の意。ここにきて全体に姉崎氏にはちょっと訳の生硬さが目立ってくる。どうされたのだろう。]

 

 

 

 「お婆さんがベアラカで、のろまな男に出逢ふと、こんな事を云ふ。――

 「お前さんは前に、蒸溜所に行つて其處から一杯ひつかけた事があるかね? 葡萄酒でもビールでも、それほどおいしい物はない。だが、飮んだ後、私がスローパーさんの爐の傍で倒れた時、火傷しなかつたのは何よりだつた。

 「オーエン・オハーノンを愛蘭土一のお醫者さんと、私は褒める。大麥の中へ水をさし、その中へ藥を入れるのはあの人だ。

 「若しその一滴だけでも、杖をついて世の中を歩く婆さんにやつたなら、素晴らしい安息所が出來たと、お婆さんは一週間ぐらゐは考へるだらう。」

 

 

'This is what the old woman says at the Beulleaca when she sees a man without knowledge--'Were you ever at the house of the Still, did you ever get a drink from it? Neither wine nor beer is as sweet as it is, but it is well I was not burnt when I fell down after a drink of it by the fire of Mr. Sloper.

'I praise Owen O'Hernon over all the doctors of Ireland, it is he put drugs on the water, and it lying on the barley.

'If you gave but a drop of it to an old woman who does be walking the world with a stick, she would think for a week that it was a fine bed was made for her.'

 

[やぶちゃん注:「ベアラカ」“Beulleaca”不詳。

「オーエン・オハーノン」“Owen O'Hernon”不詳。

「大麥の中へ水をさし、その中へ藥を入れるのはあの人だ。」原文は“it is he put drugs on the water, and it lying on the barley.”。これは「オオムギの中で寝かせて造る――そんでもって出来たそのヤクは――こっそり仕込むんだ、水ん中――」と言ったニュアンスではなかろうか? また、これは私の直感であるが、オオムギに生じた麦角アルカロイドの抽出とそこから精製した堕胎薬を指しているように思われる。麦角菌はバッカクキン科バッカクキン属Clavicepsに属する子嚢菌の約五十種の菌類の総称。特によく知られる種は Claviceps purpurea でオオムギ・ライ麥・コムギ・エンバクなど多くの穀物に寄生し、本種が作る菌核は黒い角状或いは爪状を呈し、西洋では「悪魔の爪」などとも呼ばれる。この麦角の中には麦角アルカロイドと総称される物質は含まれており、これは麦角中毒という循環器(血管収縮による手足の壊死)や神経系(手足が燃えるような異感覚)に対する様々な毒性を示し、脳への血流の不足による精神異常・痙攣、意識不明から死に至ることもある。子宮収縮による流産なども引き起こすが、そこから古くは微量の麦角が堕胎や出産後の止血剤としても用いられた(以上はウィキの「麦角菌」に依った)とあり、この「藥」はカトリックが厳しく断罪する堕胎のための秘薬の謂いではなかろうか? 更に言えば、最後の歌は一種の姥捨伝説を語っており、精製したアルカロイドを一振り盛れば、免疫機能の低下した老人ならば一週間程度で死に至るということ、麦角アルカロイドによる毒殺を暗に意味しているのではなかろうか? とすれば――この最初の歌は……強いスピリッツを殺したい奴に酔うまで飲ませて、後は暖炉のそばに放置して置けば、過失による焼死で処理される、という完全犯罪のススメの意が隠されているのではなかろうか?! 私のとんでもない誤解かも知れない。識者の御教授を乞うものである。]

 

 

 

 その後で私はヴァイオリンを取り出さして、皆がウィスキーを飮んでゐる間、幾つかの曲を彈かねばならなかつた。今朝は、黑ビールの新らしい貯藏品が部屋の下の酒場に出された。私たちの話す合間に、中の島から來た人達をもてなす爲に來てゐる幾人かの男たちが色色の歌を歌つてゐるのが聞こえてゐた。或る者は私の書いたやうな英語であつたが、大概の者は愛蘭土語で歌つてゐた。

 暫くして、一行が階下で解散すると、此の老人達は妖精達――それは少し行つた處に住んでゐる――を氣味惡がりながら、砂山を越えて立ち去つた。

 その翌日、私は汽船で出發した。

 

 

After that I had to get out my fiddle and play some tunes for them while they finished their whisky. A new stock of porter was brought in this morning to the little public-house underneath my room, and I could hear in the intervals of our talk that a number of men had come in to treat some neighbors from the middle island, and were singing many songs, some of them in English or of the kind I have given, but most of them in Irish.

A little later when the party broke up downstairs my old men got nervous about the fairies--they live some distance away--and set off across the sandhills.

The next day I left with the steamer.

 

[やぶちゃん注:これが“The Aran Islands”「アラン島」の掉尾である。栩木氏によれば、この第四回目のアラン離島は19011019日である。実はこれが最後ではなく、シングはこの一年後の19021014日から11月8日まで、五回目のアラン滞在を果たしており、実にシングは27歳の時から30歳になるまでの毎年、アランに「帰って」いたのであった。因みに、シングは最初のアラン訪問(1989年5月10日)の二年前、189725歳の時に血液の癌の一種“Hodgkin's lymphoma”ホジキンリンパ腫を発症していた(白血球中のリンパ球が悪性化する癌で、全身のリンパ節が腫れ、腫瘤が形成される。当時は有効な治療法はなかった。私の愛するルーマニアのピアニスト、ディヌ・リパッテイもこの病いのため、1950年、33歳で夭折している)。シングは1909年3月24日、様態が悪化、37歳の若さで帰らぬ人となった。

……アランの島人らが何時も心配していたこと……

……それはいつもシングの結婚のことであった……

……シングはこの亡くなる直前に……

……彼がディレクター兼アドバイザーをしていたダブリンの劇場アベイ座の女優モリー・オールグッドと婚約している……

2012/04/08

宇野浩二 芥川龍之介 十二 ~(3)

附記――この文章を「文学界」に連載した時、(佐藤春夫の『澄江堂遺珠』を引用したしたところを書いた時、)その後〔あと〕で、芥川の令甥、葛巻義敏から次ぎにうつすような深切な手紙をいただいたので、それを抜き書きしよう。

……今月号(六月号)中に佐藤春夫氏纂輯の『澄江堂遺珠』御引用になつて居りますが、あれは佐藤氏の御訂正がないので、少し誤まつてゐるかと思はれます。(或は「故人が『死と戯れたり』と称する鵠沼の寓居」といふ解説がありますが、あれらの詩ノオトは「鵠沼時代」のものでなく、亦「死に戯れてゐる」と故人の書き残した、最晩年の「田端時代」のものでもないと思はれます。佐藤氏の挙げてゐられる未定稿ノオト、第一、第二、第三は、少くとも支那旅行前後、その中の遅いものでも、大正十二年以前のものと存じます。

 佐藤氏の挙げてゐられる、第二、第三は、現在私所持いたして居り、ノオト第一⦅即ち清書分⦆は、三男芥川也寸志結婚記念のために、右也寸志に贈りましたが、それらの筆蹟、ノオトの型、紙質から云つても前記の通りと存じます。なほ、ノオト第一節⦅即ち清書分⦆は、大正十二年発行の単行本『春服』のツカ見本と思へるものに清書いたして居り、どんな遅く見ても、大震災以前のものと存じます。――なほ、これらの事は昭和九年版改訂普及版全集で訂正して居りますが、「文学界」御引用の諸文章は、大部分旧版⦅昭和二年⦆全集に拠られて居る事と存じます。[宇野注―これは、葛巻の書いているように、私の使っているのは旧版の全集である]勿論、昭和九年版普及全集も、いまだいろいろの点で十分なものとは存じませんが、特に書簡集などは、改訂増補普及版を御引用下さつた方が、より『芥川龍之介』に就いて、不明な箇所が明らかになるかと存じます。)以上のやうな事を申し上げますのは、あれらの詩草稿ノオトを「故人が『死と戯れたり』と称する鶴沼の寓居」時代とする事によつて、故人の晩年に就いて、より誤まつた混乱が生じやしないかと思はれますので。――勿論、故人の肉親として、故人の様々の欠点もありました事を認めますと、それらの全部を明らかにし、批判されるべきものは、批判されるべきだと信じて居ります。唯、彼の場合にだけ「自ら死を選んだ」と云ふ事によつてか、その死後、(小穴隆一の『二つの絵』以来――或ひは、もつとさかのぼつて、様々の人の『追想』の中に)正しく正確に、彼の姿と云ふものの伝へられてゐないのを残念に存じます。

[やぶちゃん注:「ツカ見本」単行本出版の際、本文用紙や口絵・見返し・扉などを実際の仕上がりと同じ材質・同ページ数で製本した白紙の見本。これを元に更に本の外形・背幅・外函等のサイズが決まる。]

 なほ、これは前々号(四月号)の末尾に御引用の小穴隆一の文章中「賢い婦人」として挙げられてゐる「R夫人、S夫人、S子、Eのおかみさん」のうち、『S夫人』を『謎の女』として御引用になつて居りますが、(これは小穴隆一にお問ひ合せになる事が一番確かとは存じますが、)『謎の女』ではないのではないかと思はれます。御引用の通り『S女史』は『H夫人』であり、『S夫人』はもつとお身ぢかの別人ではなかつたかと存じます。

 以上、余談にわたりますが、久米正雄氏の『月光の女』に就いても、私としては些か疑問を持つて居ります。[宇野註―私も、あの久米の『月光の女』は大いに疑問であると思う](なほ、これは余談の余談にわたりますが、久米正雄氏御所有の『或阿呆の一生』真原稿では、「三十、雨」「三十二、喧嘩」の章の原稿のみ、原稿用紙の紙質が違ひ、而もノンブルが「三十、雨」「三十、大地震」とダブつて居ります。この『或阿呆の一生』の原稿は、現在残つて居ります書きほごし原稿から見ても、確かに二回は書きかへし、書き直してゐるもののやうに思はれます。従つて、大体はそれが年代順に続いてゐるにも拘らず、この「三十、雨」だけは、挿入の場所が違つたのではないかに思はれます。――同「雨」の章の中に、「彼女と一しよに日を暮らすのも年になつてゐることを思ひ出した」[やぶちゃん注:「七」に「ヽ」傍点。]云々の句があり、「大震災」以前では意味が不明になりはしないかと思はれます。――福田恆存氏の如きは、戦後の『芥川籠之介』で、「彼が学生時代に犯した肉体上の過ちを世間的道義の場で苦しんでゐたとは思へない」云々と書かれて居りますが、これは小穴隆一のわかりにくい文章を読み誤まられ、亦、この「三十、雨」から逆算されたのでないかと思はれます。――勿論、芥川竜之介の言葉⦅表現⦆その儘を信じませんが、彼は昭和元年末日から、昭和二年一月二日にかけて、鵠沼の家から「小さな家出」をいたして居ります。――これは『侏儒の言葉』遺稿分⦅昭和改元第一日⦆の部分と照応しないか? と思はれます。)

 その意味で、晩年の芥川龍之介は、御引用の前期の『ごまかし』から『真実』を語らうとする態度に苦しみ、すすんで行つたのではないかと存じます。(勿論、これが完全に脱却は出来なかつたかも知れませんが、『真実』を語らうとした事だけは事実であらうかと存じます。――この意味では、彼の「対女性関係」などは、一つの『口実』でしかなかつたやうに思はれます。これを見誤り、この『口実』にだけ重点を置いたのが、小穴隆一の『二つの絵』以下の文章であるやうに思はれます。なほ、小穴隆一の『二つの絵』は、小穴隆一の主観的な『記憶』であり、その事実の部分に就いては、かなりの誤りがある事を信じます。)

[やぶちゃん注:葛巻の小穴を語る口調に鋭さを感ずる読者も多いと思われるが、これは小穴が、その正に「二枚の絵」の掉尾の章「奇怪な家ダニ」で、葛巻を名指しで芥川龍之介亡き後、「芥川龍之介」を食い物にして生きている『芥川家の家ダニ』と蔑称、完膚なきまでに指弾しているからである。]

 なほ、これ亦、余談の余談でございますが、今月号(六月号)御引用の『我鬼窟日録』の終り近くに「愁人」と云ふ言葉が何回か続出いたしますが、この「愁人」が前月号(五月号)御引用の「狂人の娘」に移り変つてゐる間には、七年の移り変りがあるかと存じます。(しかし、そのために、『我鬼窟日録』の記事が全部偽りとは考へられないのであります。それが如何やうなものであれ、このやうな感情を待つた瞬間もある事と存じます。唯、彼自身の不幸は、この場合にも、御引用のやうな前期の『ごまかし』があり、それに身を任せたところにあるのではないかと存じます。)なほ、今月号の「澄江堂の額を改めた」に就いての渡辺庫輔宛の書簡の部分「鶴の前」云々と云ふのは、如何かと存じられます。改訂普及版全集の渡辺庫輔氏宛書簡ならびにその前後をお調べ下されば明らかでないかと存じます。

 以上、取りとめのない事を、突然手紙にて申し上げるやうに存じますが、御連載中の『芥川龍之介』を拝見いたし居り、ちよつと気づきました儘に申し上げます。

 なほ、それが彼自身の欠点であれ、何であれ、それらの総てが正しく正確に伝へられ、明らかにされる事を望んで居りますのは、前述申し上げました通りでございます。――が、晩年、彼自身の書いてゐるとほり、「偉大な作家でも何でもない、群小詩人の一人である」に過ぎない彼自身の場合にあつても、それが自ら死を選んだその経路だけは、-それらに至る細々し〔こまごま〕た事実にせよ、それは何処までも、正しく、正確に伝へたい念願にしか過ぎないのでございます。

 この葛巻の手紙によって、(読まれた人には、もとより、おわかりになるように、)さきに引いた芥川の詩が大正十二年以前に作られたものであり、最後の「ゆふべとなれば海原に」の詩が佐藤自身もいくらか疑っているように、鵠沼で書かれたものでないことがハッキリわかった。それから、一番きれいに書かれているノオト(詩集)が、葛巻から、芥川也寸志に、結婚の記念に、贈られた、というような美しい話を知ることができた。それから、私の書いたことが、あいもかわらず、まちがっていることも教えられて、ありがたかった。それから、『或阿呆の一生』の中の「三十、雨」と「三十、大地震」と、番号が重複していることなども、私などは、この手紙によって、気がついたのである。

 それから、芥川が、昭和元年(つまり、大正十五年)の十二月末から、昭和二年の一月二日まで、鵠沼の家から、『小さな家出』をした、という殆んど誰も知らないことを、知らされた。もう一つ、芥川の「対女性関係」が、一つの『口実』であるらしい、という事(これは私も感じていた事)を知らされた。――これは実にありがたかった。

 それから、この手紙の終りの方の「『我鬼窟日録』の終り近くに「恋人」と云ふ言葉が何回か続出」するというのは、つぎの通〔とお〕りである。(大正八年の日記である。)

 九月十二日 雨。雨声繞簷。尽日枯座。愁人亦この雨声を聞くべしなどと思ふ。

 九月十五日 陰。午後江口を訪ふ。後始めて愁人と会す。夜に入つて帰る。心緒乱れて止まず。自ら悲喜を知らざるなり。

 九月十七日 晴。午後大彦来る。一しよに、ミカド[註―前に書いた、万世橋駅の二階にあった西洋料理店]へ晩餐を食ひに行く。後小島を訪ふ。江口あり。十時に至つて帰る。不忍池の夜色恋人を憶はしむる事切なり。

 九月二十二日 晴。妖婆続篇の稿やつと終る。夜十二時なり。無月秋風。臥榻に横たはつて頻に愁人を憶ふ。

 九月廿五日 雨。午後院展と二科とを見る。安井曽太郎氏の女の画に敬服する。愁人と再会す。夜帰。失ふ所ある如き心地なり。こゝにして心重しも硯屏の青磁の花に見入りたるかも。数年来始めて歌興あり。自ら驚く。

 九月廿九日 陰。菊池、佐佐木と社へ行く。初音で夜食。佐佐木の原稿を春陽堂へ持つて行く。芝へ行つて泊る事にする。愁人今如何。

[やぶちゃん注:本引用は「愁人」秀しげ子に関わりのある記載の前後を抜粋したもので、途中に省略した箇所が多く含まれる。更に、本来、分かち書きにしている記事を、日単位で連続させている点も日録原本と異なる。以下の注は多く筑摩書房版の脚注を参考にした。

「雨声繞簷」は音ならば「うせいねうえん(にょうえん)」、訓読するならば「雨声簷(のき)を繞(めぐ)り」で、「雨音が軒を巡り」の意。

「尽日枯座」は日がな一日何もせずに凝っと坐っている、の意。

「九月十五日」この日こそが、芥川龍之介の運命を微妙に変更させた秀しげ子との密通の瞬間の記載である。

「心緒」は「しんしよ(しんしょ)」と読み、「思いのはし」「心の丈け」の意。

「大彦」野口真造(のぐちしんぞう 明治二十五(一八九二)年~昭和五十(一九七五)年)。染織工芸家。芥川の江東尋常小学校附属幼稚園入学以来の幼馴染。日本橋の呉服屋「大彦」の次男。大正十四(一九二五)に「大彦」を継ぎ、昭和二(一九二七)年には大彦染織美術研究所を創設している。後、戸板女子短期大学名誉教授。

「臥榻」は「ぐわたふ(がとう)」寝台。寝床。

「こゝにして心重しも硯屏の青磁の花に見入りたるかも」漫然と読んでいると、日記本文のように見えるが、これは短歌。原本では前後から独立して四字下げとなっている。「硯屏」は音数律から「けんぺい」と読んでいるものと思われる。

「社へ行く」の「社」は芥川が社員であった大阪毎日新聞社傘下の東京日日新聞社のこと。

「初音」日本橋にあった鳥料理屋。

「佐佐木の原稿」未詳。]

 この『愁人』が、(葛巻の手紙によれば、)七年後には、『或阿呆の一生』の中の「狂人の娘」となるのである。すると、これが、(この娘が、)私の云う『謎の女』という事になる訳であるが、こうなると、私には、何が何やら、わからなくなるのである。

 それから、『澄江堂』という名と、渡辺庫輔の「鶴の前」という文句に意味があるように、私が、書いたところは、アヤフヤであるから、ここで取り消しておく。

 最後に、葛巻の手紙によって、芥川が、晩年に、自分のことを、「偉大な作家でも何でもない、群小詩人の一人である、」と、書いた、という事も、私は、はじめて、知ったのである、しかし、私は、芥川は、偉大な作家ではなかったが、特異な、無類な、作家であった、と信じるのである。

 最後に、この、「思い出すままに、」ダラダラと、述べたてている、文章(『芥川龍之介』)が、葛巻の手紙にくりかえし書かれている、芥川の姿を、「何処までも、正しく、正確に、」伝える、という言葉に、まったく副うていないのは、慙愧の至りである。しかし、自分勝手なことを云わしてもらうと、私のような者には、「物事を正確に伝える」などという事はまったく出来ないのは、知る人は知り過ぎるほど、知っているであろう。

 ところが、最近、吉田精一の『芥川龍之介の芸術と生涯』という本を手に入れて、(手に入れたばかりであるから、まだその百分の五ぐらいしか読んでいないが、)この本の終りについている解説の中に、この本は「芥川龍之介を知らうとする人にとつてスタンダアドのものであり、この事を除いて、芥川を云々するは怠慢であらう、」と書いてあるのを読んで、私は、このクダラナイ文章を書く前に、(つまり、一年半ぐらい前に、)この本を読んでいたら、私のような微力な者でも、もう少しマシなものが書けたであろう、と、いたく後悔しているのである。(なぜなら、この本の解説の中に、この本を読めば、「少くとも今後の読者、批評家、研究家は或る程度正確な資料を、浅くあり又平凡であらうとも、ほぼ信頼すべきであらう、」と書いてあるからである。そこで、私は、さっそく、葛巻さんに、こんな本のある事を、知らせてあげよう、と思っている。附記――そうして、私も、できれば、この文章の一ばん最後を書く時、この本を参考にしたいと思っている。)

[やぶちゃん注:「吉田精一の『芥川龍之介の芸術と生涯』」は本連載途中であった昭和二十七(一九五二)年に河出書房から刊行された(同市民文庫所収)。]

2012/04/07

宇野浩二 芥川龍之介 十二 ~(2)

 さて、さきに引いた芥川が湯河原から佐佐木茂索にあてた絵葉書の中に書いたたよりの中に「南部と如何に消光してゐるかひとへに御察しを乞ふ」という文句があるが、そのような事は、いくら智者の佐佐木でも「察し」はできないか、と思うが、(いや、いや、あの佐佐木なら適確な 「察し」がついているにちがいないけれど、)私のような鈍な者にはまったく察しも出来ず見当もつかない。そこで、間にあわせに、南部が、『交遊十年』という文章のなかに、さいわい、この大正十年の十月に、芥川と、湯河原の中西旅館に、滞在した間の事を書いた中に、妙な一節があるから、その一節を読んでみよう。くりかえし云うが、これは『間に合わせ』である事を、かさねて、ことわっておく。つまり、「その場の役に立」ちさえすれはよい、という程のつもりである。

 或る日の午後、タイル張りの浴室で私は[つまり、芥川]と一緒に入浴してゐた。上面の硝子窓には秋日差〔あきひざし〕があかあかと照り、中はひどく明〔あか〕るかつた、或る刹那、互ひに浴槽の縁〔ふち〕の腰〔こし〕を降し、温泉の中に両足を投げ出したまま休んでゐたが、彼はふと私の陽物を眺め自分のそれと見くらべながら、

「君も少年時代に自慰をやつたね?」

「うん。……然し、それやア誰でもやることだらう?」

「はは、まアさうだが、その時分に自慰をやつた陽物はすぐ分かるんだぜ。君、エリスの『セクジュアル・フィシコロジイ』ね、それが詳しく説明してゐる。つまり、君と僕の形のやうな……」

「ふつふつふ……」

[やぶちゃん注:「エリスの『セクジュアル・フィシコロジイ』」エリスはイギリスの医師・性科学者・文芸評論家であったヘンリー・ハヴロック・エリス(Henry Havelock Ellis 一八五九年~一九三九年)のこと。『セクジュアル・フィシコロジイ』は一八九七年から刊行が始まった彼の代表作“Studies in the Psychology of Sex”「性の心理」全六巻を指す。因みに彼はそこで、同性愛をも肯定する西欧性科学の先駆的知見を披歴している。]

 話はこれだけであるが、これが本当の話とすれば、こういう芥川の話は出鱈目としても、いう本人が、自分の『物』をソレとして云うのであるから、南部でなくても、誰であっても、芥川のいう事を本当と思って、感心するかもしれない。しかし、私が考えれば、これは、いかにも芥川の云いそうな事であるが、結局、『カラカイ』である、としか思えないのである。(私が殊更こういうことを書いたのは、この南部の文章をよんで、ときどき茶目になった芥川のその時の顔つきが目に見えるような気がするからである。そうして、いかにも芥川が云いそうな事であるからである。)

[やぶちゃん注:ここには更に重要な補足が必要である。高宮檀氏の「芥川龍之介を愛した女」(二〇〇六年彩流社刊)の知見によれば、この一週間前の、九月二十四日の午後、例の食傷人道の中華亭で芥川龍之介は前出の通り、南部と秀しげ子が密会した現場に居合わせてしまったからである(但し、宮坂覺氏の年譜によれば、偶然にもこの湯河原への南部同行の依頼はそれ以前と考えられている)。因みに、この時の小沢碧童と南部と芥川の湯河原滞在時の川辺の岩場での写真が残されている。それを見ると、南部は二人の背後に居て、やや口元に笑顔を浮かべて、向かって左にいる小沢(彼も別段笑ってはいない)の肩に手を置いている。ところが、川側の位置にいる芥川の方には左手を伸ばしている気配がない。寧ろ、その左手は少し見える映像からは自身の腹部を経て、右手に伸びているように見える。――そうして何より芥川龍之介の顔は、目が窪んで口はややきゅっと結んだ形で、如何にも陰鬱なのである。]

宇野浩二 芥川龍之介 十二 ~(1)

    十二

 

 私は、前に、芥川の健康がしだいに悪〔わる〕くなり出したのは、大正十三年のはじめ頃から、と書いたが、芥川の健康はもっと前から悪くなっていたのである。

 芥川の神経衰弱は、死ぬ前の年〔とし〕(つまり、大正十五年)あたりに、おこつたように、表には、思われているが、本当は、すで大正十一年の中頃から、その兆〔きざし〕はあったのである。

 芥川は、非常な神経質であった、おそろしく神経質であった、普通の人の想像のつかぬ程の神経質であった。芥川とくらぶれば、私などは鈍感の方である。

 真野友二郎という人は、芥川の親友か、芥川とどういう関係のある人か、知らないが、全集の中にこの人にあてた手紙が十三通もはいっている。それで、ちょいと調べてみると、調べてみて、私は、呆〔あき〕れかえった、真野は、徒〔ただ〕の芥川の愛読者であり、大正十一年の四月頃に、芥川に、愛読者が誰もよく書くような手紙を出したのが縁で、どういう訳か、手紙を出す毎〔ごと〕に、芥川から特別の手紙をもらっている、というような人であったからである、それに、芥川が、その真野の最初の手紙に対して、「先達は御手紙難有う早速御返事を書く気だつたのですが、」とか、「支那紀行もなまけてゐますがその内にそろそろ書き続けますさうしたら又御読み下さい、」とか、「わたしは日頃文学青年以外に読者を有する事を自慢にしてゐました偶〔たまたま〕あなたの御手紙はこの自慢を増長させる力を具〔そな〕へてゐたわけですかたがた難有いと思ひました、」とか、いうような、歯の浮くような、事を書いているからである。大正十一年といえば、芥川が、三十一歳の年〔とし〕であり、まだまだ人気の頂点に立っていた頃である。それであるのに、芥川は、すでに、こういう弱い気もちになっていたのであろうか。たしかに、この時分から、芥川は、しだいに、持ち前の弱気の上に、ますます、気が弱くなって行ったようである。

[やぶちゃん注:「真野友二郎」は現在でも(新全集人名解説でも『未詳。』とあるのみ)如何なる人物か、未詳である。しかし、芥川の『わたしは日頃文学青年以外に読者を有する事を自慢にしてゐました偶〔たまたま〕あなたの御手紙はこの自慢を増長させる力を具〔そな〕へてゐたわけですかたがた難有いと思ひました』という言葉は、ある推測を逞しゅうさせる。則ち、彼は芥川が辟易するような『文学青年』気取りの人間ではない、ということは青年ではない可能性が高く、骨董の話などを芥川はしているから好事家ではあるらしいが文系の学者という風でもない。しかし一介の平凡な愛読者の一人というのもやや信じ難い。何故なら、ここでも見るように、芥川は病気の様態や執筆の実体など、かなりプライベートな内容を彼に発信しているからである(一介の在野人で、文壇と無縁なればこそそうした告白の相手として芥川が選んだとは言えるかもしれないが)。郵便物が届く以上、その姓名は偽名とも思えないが、もしかすると非文系的な特別な地位や役職にある実は著名な人物であったが、訳あって市井の一人物として本人も芥川も本人の名でない(しかし同居若しくは知人である人物)の「真野友二郎」という名を用いて書簡のやりとりをしていたのかも知れない。そうでなければ、芥川の死後、全く消息が絶えて不詳というのは如何にも不自然な気がするのである。向後、彼については調べてみるつもりである。]

 ところで、大正十一年といえば、私は、ときどき、芥川に逢っていたのであるが、芥川が私に愚痴のようなものをこぼす時は、いつでも、家庭の事であった。その中で、いつであったか、芥川が、突然、声をひそめて、「……君、……君にもわからないだろうが、僕の家庭はいりくんでいて、……」といった事を、今でも、覚えている。今、これを書いて、ふと、思い出したのは、この『家庭苦』のようなものを、一ばん真剣な顔をして、芥川が、私に、訴えるように、なったのは、死ぬ半年ほど前であった。――

 さて、私が、真野という人の事を、殊更に、ここに、述べたのは、大正十一年の十二月に、芥川が、真野にあてて、二日、十七日、十八日、と、三度も、手紙を書いていて、その手紙によって、芥川があの頃すでに軽くない病気にかかっていた事を、知ったからである。それから、芥川が、そんな病気にかかりながら、私には、病気である事を、一度も話した事がないのを、思い出したからである。

 私は、その芥川が真野にあてた手紙によって、つぎに書くような事を、知ったのである。

 大正十一年の十二月のはじめ、芥川は、心臓をいため、そのうえ胃腸をそこなったために、ずっと病床についていたので、雑誌の新年号に約束した小説を三つ四つ断った。(大正時代から昭和のはじめにかけて、諸雑誌の新年号の小説は、⦅むろん、娯楽雑誌や婦人雑誌は別であるが、⦆前の年〔とし〕の十二月の十日ぐらいまでに書けば、間〔ま〕にあったのである。)

 さて、芥川の病気はそればかりではない。おなじ頃、風をひいたので、医者の薬をのんだところ、その薬の中に、ミグレニンがはいっていたので、芥川は、ピリン疹にかかったために、筆がとれなくなった。

 このピリン疹というのは、いかなる薬でも、その中にアンチピリンが少〔すこ〕しでもはいっていれば、その薬をのむと、のんだ途端に、蕁麻疹のひどいのにかかったのと殆んど同じ病気になる人がある。そういう人を、アンチピリンの特異体質と云う。こういう事をくわしく書いたのは、私も、アンチピリンの特異体質であるからである。(直木三十五の夫人であった人も、やはり、そうであった。)

 つまり、ピリン疹にかかると、忽ち、皮膚の中〔うち〕の一ばん柔〔やわら〕かい部分(例えば、唇、手の指の間、その他)が、焼けつくように熱〔あつ〕くなり、痒〔かゆ〕くなり、そこが漿液のために脹〔は〕れあがり、その脹れたところが紅色あるいは蒼白となるのである。

[やぶちゃん注:「ピリン疹」はピリン系薬剤の服用によって引き起こされるアレルギー性薬疹である湿疹を指す。解熱鎮痛効果の強いピリン系解熱鎮痛剤アンチピリン・イソプロピルアンチピリン・スルピリンなどで、古くは重いアレルギー反応を起こした。現在では非ピリン系の解熱鎮痛剤が普及し、ピリン疹は少なくなっている。

「漿液」は「しょうえき」と読み、粘性物質を含まない、比較的さらさらした透明な分泌液の総称。]

 芥川は、これにかって、両手に繃帯をかけたと書いているが、これにかかると、脹れたところに脂薬〔あぶらぐすり〕つけるので、殆んど身うごきさえ出来ない状態になり、なおるまで仕事らしいものは殆んど出来ない。むろん、原稿など書けない。(余話であるが、昭和二十二年の二月のはじめに、「文藝春秋」に出す小説を書いていた時、『ソレガシ』という咳の薬⦅売薬⦆をのんだ途端に、私は、ピリン疹にかかった。それで、私も困ったが、「文藝春秋」の編輯記者も大へん困った。その時、困り切ったあげく、「では、口述してください、それを筆記しましょう、」と云ったのは、そのころ文藝春秋新社にはいったばかりの、田川博一であった。私は、その時から、ときどき、口述を筆記してもらう癖がついた。それで、これを仮りに好〔よ〕い事とすれば、私にとって、これは、田川博一の賜物である。閑話休題。)

[やぶちゃん注:老婆心ながら、若い読者には思わぬ注が必要な時があるので断っておくが、「ソレガシ」は「某」で、商品名を伏せたのであって「ソレガシ」という名の薬の商品名ではない。念のため。

「田川博一」は後に文芸春秋社編集長(在任:昭和三十二(一九五七)年~昭和三十九(一九六一)年)となって作家梶山季之らを発掘、その後は文藝春秋社副社長に就任した。]

 さて、元〔もと〕に戻って、芥川は、真野にあてた手紙のなかに、「新年号の小説の約束も三つ四つありましたが皆断りました」と書いているように、その翌年(つまり、大正十二年)は、新年号に書いていないばかりでなく二月にも何〔なに〕も発表せず、三月に、やっと、『猿蟹合戦』[婦人公論]、『二人小町』[「サンデー毎日」]、『雛』[「中央公論」]などを、書いて、お茶をにごしている。

 私は、その頃、芥川の顔を見ると、さすが何〔なん〕にも云えなかったが、芥川がそんな病気にかかっているとは知らなかったので、芥川ももう駄目になったかな、と心配しながら、少〔すこ〕おし芥川を軽蔑する気にさえなった。

 ところで、ふたたび真野への手紙を見ると、十二月十五日の手紙には寝たり起きたりぶらぶらしている、などと書きながら、その間作った俳句を七つぐらい書きこんでいる。その中に「凧や薬のみたる腹工合」というのもある。但し、私には、このような風雅は、殆んどわからない。

 さて、この十五日の手紙のあとに、十七日に書き加えて、二伸というのがある。これは、かなり驚かされたので、つぎにうつして見よう。

 数日前の小生の家族の健康如左

  主人神経衰弱、胃痙攣、腸カタル、ピリン疹、心悸昂進

  妻 産後、脚気の気味あり

  長男 虫歯(歯齦に膿たまる)

  次男 消化不良

   赤ン坊ナリ

  父 胆石、胃痙攣

  母 足頸の粘液とかが腫れ入り、切開す

 これでは小説どころではないでせう。

[やぶちゃん注:「歯齦に膿たまる」の「歯齦」は「しぎん」と読み、歯齦炎は歯肉炎と同じ。慢性歯齦炎を放置した結果、嚢腫(チステ)が形成されたやや重いものと思われる。

「粘液」は恐らく粘液膿炎(滑液庖炎)と思われる。滑液包とは関節にある少量の液体(滑液)を含んだ平らな袋で、皮膚・筋肉・腱・靭帯などと骨が擦れる部分にあって摩擦を減らす機能を持つが、その滑液包の腫脹や痛みを伴う炎症を言う。切開しているところを見ると、細菌感染が疑われる。]

 うつし終って、芥川が、何のために、こういう手紙を書いたのか、わかるような気もするが、はっきりわからない。

 ところで、芥川は、これらの真野にあてた手紙の中に、「年末或は年始に何処かへ湯治に行く筈ですが」と書いているが、湯河原へ『湯治』に出かけたのは、その翌年の(つまり、大正十二年の)三月頃である。

 湯河原といえば、芥川は、大正十年の十月に、やはり、湯治のために、湯河原に行って、二週間ぐらい滞在した。その十月九日に、芥川は、湯河原から、佐佐木茂索にあてた絵葉書のなかに、「南部と一しょに湯河原に来てゐる南部と如何に消光してゐるかひとへに御察しを乞ふ僕神経衰弱癒〔なほ〕らず無暗に何か書きたくて困る……」と書いているが、その翌年(つまり、大正十一年)の一月には、『藪の中』、『将軍』、『俊寛』、『神神の微笑』、その他を発表しているから、「無暗に何か書きたくて」困ったのが、本当に、無暗に、書いた事になったらしい。(ところで、これは後に述べるつもりであるが、その時分、芥川が書いた、『トロッコ』と『一塊の土』は、芥川の作として変っている上に、すぐれた小説である、と多くの批評家から褒められたが、私は、この二つの小説が、それぞれ、雑誌で、発表された時、感心はしながら、なにか疑問のようなものを感じた。この二つの小説は、――『トロッコ』は大正十一年の三月の「新潮」に発表され、『一塊の土』は大正十三年の一月の「新潮」に出たが、――両方とも、これらの小説の題材は、芥川が、湯河原から上京して東京の或る出版社につとめていた青年から得たものである。それはそれとして、私は、これらの小説については、後に、あらためて、述べたい、と思っている、芥川は、この二つの小説はかりでなく、『ナニ』かから題材を取って、すぐれた小説を書く特殊の才能を持っていたのだ。そうして、その特殊の才能をはたらかせられなくなった時、芥川は、……)

アインシュタイン直筆の「E=mc²」 

イスラエルのエルサレム・ヘブライ大学のサイトに“Einstein Archives”なるものがあり、そこでかの特殊相対性理論の自筆論文を見ることが出来ることを、ついさっき配信された雑学のMMで知った。

――「行った」「見てた」「驚いた」――

――たった三枚なのだ!――

――そして――

Emc2
――あの! あの美しい――

      E=mc²

――が――出現するんやで!……

……ほんま……惚れ惚れするなぁ、この公式は……

……なんで……こんな美しい公式で描かれるものが……わいらを死の淵へと導いているんやろ……人間はほんま……愚かな生きもんやなぁ……

宇野浩二 芥川龍之介 十一 ~(5)

 全集第五巻の詩集のなかに『相聞』という題の詩が三〔みっ〕つ出ているが、その中〔なか〕につぎのようなのがある。

 また立ちかへる水無月の
 欺きを誰にかたるべき。
 沙羅のみづ枝に花さけば、
 かなしき人の目ぞ見ゆる。

 ところで、先〔さ〕きにくどいほど引いた『澄江堂遺珠』の中にある詩の大部分を仮りに相聞詩とすれば、そうして、あの詩を空想の恋いを詠んだものとすると、芥川には空想の恋い人があった、という事になる。(空想の恋い人なら、何人あっても差〔さ〕し支〔つか〕えないであろう。)
 芥川に『或恋愛小説』[註―大正十三年四月作]という小説がある。その小説には「――或〔あるひ〕は『恋愛は至上なり』――」という傍註がついている。その小説は、「或婦人雑誌社の面会室」が場面で、主筆と堀川保吉の対話体になっている。その対話の中につぎのような話がある。

 保吉 ええ、……世間の恋愛小説を御覧なさい。女主人公はマリアでなければクレオパトラじぢありませんか? しかし人生の女主人公は必しも貞女ぢやないと同時に、必しも又婬婦でもないのです。もし人の好〔い〕い読者の中〔うち〕に、一人〔ひとり〕でもああ云ふ小説を真〔ま〕に受ける男女があつて御覧なさい。尤も恋愛の円満に成就した場合は別問題ですが、万一失恋でもした日には必ず莫迦莫迦〔ばかばか〕しい自己犠牲をするか、さもなければもっと莫迦莫迦しい復讐的精神を発揮しますよ。……
[やぶちゃん注:本作は大正十三(一九二四)年五月一日発行の婦人雑誌『婦人クラブ』に掲載されたもの。冒頭の「ええ、」の後のリーダは、直前で保吉のとんでもない恋愛小説の結末に、主筆が気色ばんで「堀川さん、あなたは一体真面目なんですか?」と詰問したのに対する、原文の「勿論真面目です。」という言葉を省略したことを示したもので、原文のものではない。末尾のリーダも以下の省略であって、原文のものではない。表記上も複数箇所異なる部分があるが、特に文意に変化を与えていないので校異は割愛する。殆んど作品の掉尾であるので、以下、原文を後略箇所から最後までを総て示す(旧全集によったが、宇野の本文と合わせるために新字体で示し、一部を除いてルビは省略した)。

しかもそれを当事者自身は何か英雄的行為のやうにうぬ惚れ切つてするのですからね。けれどもわたしの恋愛小説には少しもさう云ふ悪影響を普及する傾向はありません。おまけに結末は女主人公の幸福を讃美してゐるのです。
 主筆 常談でせう。……兎に角うちの雑誌には到底それは載せられません。
 保吉 さうですか? ぢや何処かほかへ載せて貰ひます。広い世の中には一つ位〔ぐらゐ〕、わたしの主張を容れてくれる婦人雑誌もある筈ですから。

 保吉の予想の誤らなかつた証拠はこの対話の此処に載つたことである。

これを宇野がわざわざ引いたのは、この「或恋愛小説」のヒロインが実は一人合点の空想的恋愛をし、一人相撲をとりながら、結果として豚のように太ってその妄想に耽り続けるという設定を、芥川龍之介の「空想の恋い人」と重ねて論証しようとしているのである。――但し、くどいようだが、私はそうは思わない――
――少なくともこの「相聞」一首を芥川は確かに――
――片山廣子のために/ためだけに――
――廣子へ/廣子の前から断腸の思いで去るために――
――詠んだ絶唱である――
――と御目出度くも思い込んでいるのである――
なお、次の引用は別な書簡からの引用の間には空行があるだけで、宇野の解説が入らない、今までのケースにはない、やや不思議な特異な引用法となっているが、これは偶々雑誌連載の切れ目であるからかも知れない(前回分が引用で終わり、偶然、その次の回が引用で始まった。単行本化ではそこに補筆をせずに続けた結果ででもあるのだろう)。]


この里〔さと〕も鮎はあるゆゑ賜〔た〕ぶとならば茶うけに食はん菓子を賜びたまへ
 左団次はことしは来ねど住吉の松村みね子はきのふ来にけり

 これは、大正十三年の七月二十八日、芥川が、軽井沢から、室生犀星にあてた、絵葉書にかいたものである。
[やぶちゃん注:それにしても不思議な引用だ。尚且つ、直前には片山廣子(松村みね子)への「相聞」が示されている。宇野はこの引用で何を言いたかったのか? 単に廣子(そして直後に挙げられる小林勢以子)などなど……数多くの「空想の恋い人」因子となる対象が芥川龍之介の中にはあって、そのどれにも満足せず、その美しい部分だけを空想の中でフランケンシュタインの怪物のように集合合体させて、安全かつ完全なる観念的恋愛の世界に遊んでいた、などと言いたいのか? そもそも、そんな「安全かつ完全なる」恋愛など、恋愛とは言えない――ということは宇野は勿論、芥川龍之介自身でさえ分かりきった真理ではなかったのか?!――と私は宇野に叫びたい気がする。次の引用の前も一行空きとなっている。]


朶雲奉誦
東京へ帰り次第早速貴意の如くとり計ふべし
   (四行半削除)
それから君、久米へ勢以子[註―ずっと前に鵠沼の東家の事を書いた時に出て来た元谷崎潤一郎夫人の妹]と小生との関係につき怪〔け〕しからぬ事を申された由勢以女子史も嫁入前の体殊に今は縁談もある容子なれば爾今右様の一切口外無用に願ひたし僕大い弁じたればこの頃は久米の疑全く解けたるものの如くやつと自他の為喜び居る次第なりこれ冗談の沙汰にあらず真面目に御頼申す事と思召〔おぼしめ〕し下されたし
谷崎潤一郎へでも聞えて見給へ冷汗が出るぜ

これは、大正八年の八月十五日、芥川が、金沢から、秦 豊吉にあてた、手紙のなかの一節である。が、これを読んで、私は、この文章のたしか第五節あたりで、鵠沼の東家〔あずまや〕にいろいろな人が集まった話を書いた時、このせい子の事も述べたが、芥川が勢以子とずっと前から近づきであつた事を初めて知ったのである。
 そこで、芥川が仮りにまだ生きているとすると、私は、(私も、)芥川に手紙を書き、その最後に、「冷汗が出たぜ、」と書くであろう。閑話休題。
[やぶちゃん注:「朶雲」は「だうん」と読み、相手から受け取った手紙を尊んで言う書簡用語。唐代の韋陟〔いちょく〕は五色に彩られた書簡箋を用い、本文は侍妾に書かせて署名だけを自分がしたが、その自書を見て『「陟」の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ』と言ったという「唐書」韋陟伝の故事による。
なお、本書簡(旧全集書簡番号五六五)はこれで終わりではなく、まだ続き、感興に従って解説入りの俳句を六句も記している(「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」の当該五六五の箇所を参照)。従って実際にはこの前半の小林勢以子とのゴシップへの芥川龍之介の感情は険悪でも深刻でも、実はないとうところが肝心である。宇野のこの引用ではまるで『潤一郎にでも』(この実はやっぱり私通に近いものだったことがばれたらと思うと)『冷汗が出るぜ』、とでもいうようなニュアンスに読める。そうではない。くどいのだが、私は芥川龍之介の恋愛狙撃のスコープには小林勢以子は絶対に入らないのである。――では、『冷汗が出る』のはなぜか?――明白である。後年の「文藝的な、餘りに文藝的な」論争でも分かるように、先輩作家谷崎は芥川のライバルである。そのライバルの義妹とのゴシップは芥川にとって如何にも不都合である。更に言えば私は、谷崎がそれを知ったらどうするかを考えてみれば、『冷汗が出る』に決まっているのである。則ち、谷崎なら、そこでニヤリとして即座に芥川と勢以子をモデルにしたゴシップ恋愛小説をものすに決まっていると芥川は直感しているからである。言わずもがなであるが、実際に後の大正十三年から連載が始まる彼の「痴人の愛」の主人公ナオミは小林勢以子である。]

宇野浩二 芥川龍之介 十一 ~(4)

 全集の別冊には『我鬼窟日録』と『澄江堂日録』とが二〔ふた〕つならんで出ている。

 大正十一年の四月八日に、芥川は、長崎の渡辺庫輔にあてた手紙のなかに、「この頃僕書斎の額を改めて澄江堂となす小島政二郎曰澄江と云ふ芸者にでも惚れたんですか僕曰冗談云つちやいけない書斎に名づける程の芸者が日本にゐてたまるものか、これは鶴の前に会〔あ〕つた後〔あと〕だと云ひにくいから次手〔ついで〕に唯今披露します 一笑」と書いている。ところが、『澄江堂雑記』[註―大正十四年十一月]の中の『澄江堂』という文章には、芥川は、つぎにうつすような事を書いている。

 僕になぜ澄江堂などと号するかと尋ねる人がある。なぜと言ふほどの因縁はない。唯いつか漫然と澄江堂と号してしまつたのである。いつか佐佐木茂索君は「スミエと言ふ芸者に惚れたんですか?」と言つた。が、勿論そんな訣〔わけ〕でもない。

[やぶちゃん注:厳密に言うとこれは『続澄江堂雑記』からの引用である。また、最後の部分に「僕は本名の外に入らざる名などつけることは好せばよかつたと思つてゐる。 (十一月十二日)」とあるのを宇野は省略している。]

 ところで、「澄江(スミエ)といふ芸者にでも惚れたんですか、」と云ったのが、小島であっても、佐佐木であっても、あるいは、南部であっても、誰であっても、そんな事は、どうでもよいのである。それより、芥川が、「唯漫然と澄江堂と号してしまつたのである」か、どうか。私は、芥川はそんな事をする男ではない、と思うのである。そうして、私には、さきに引いた、芥川が、渡辺にあてた手紙の最後に書いている、「これは鶴の前に会〔あ〕つた後〔あと〕だ」という文句が、(例によって臆測であるけれど、)『澄江堂』と号した事に何〔なに〕か関係があるように思われるのである。

[やぶちゃん注:これは後に宇野も認めるが、邪推の勘違いである。この「鶴の前」は先行する同年二月二十六日同渡辺宛書簡(旧全集書簡番号一〇〇〇番)の末筆に、

僕も丸山に鶴の前を拵へたい 頓首

とあり、同年三月三十一日同渡辺宛書簡(旧全集書簡番号一〇一二番)では、

あなたの鶴の前にも紹介してくれ給へ

としているのから明らかなように、「鶴の前」は長崎の丸山遊廓の渡辺の愛妓のことで、筑摩全集類聚版の脚注では『庫輔の恋人、丸山の芸者おはまさんにつけたあだ名らしい。』とある。芥川は、最近、小島が澄江堂という雅号に「澄江と云ふ芸者にでも惚れたんですか」というから、「冗談云つちやいけない書斎に名づける程の芸者が日本にゐてたまるものか」と答えたのだが、「これは」あなた(=渡辺)がしきりに美しいといい、綽名で「鶴の前」と附けたくらいの美妓「に会つた後だと云ひにくいから」、長崎に赴く前(一〇一二書簡で『四月上旬か五月上旬頃長崎へ行きたいと思ひます』として宿の世話を依頼した後に表記の「あなたの鶴の前にも紹介してくれ給へ」が続く)、絶世の鶴の前に逢ってしまって、この謂いが嘘になってしまう前に「次手〔ついで〕に唯今披露します」というのである。「澄江堂」と「鶴の前」とは全く無関係である。]

宇野浩二 芥川龍之介 十一 ~(3)

 さて、『澄江堂遺珠』の小曲のなかに、「ココアの碗もさめやすし」、「ココアの湯気もさめやすし」、「ココアの色も澄みやすし」、(この句だけ三所〔みところ〕ある)というところがあるが、『河童』の中に、「……そこでその雌の河童は亭主のココアの茶碗の中へ青化加里〔せいかかり〕入れて置いたのです、」という文句がある。それから、『青化加里』といえば、『青化』が『青酸』となっているけれど、『玄鶴山房』のなかに、「彼女[註―看護婦の甲野]の過去は暗いものだつた。彼女は病家の主人だ医者だのとの関係上、何度一塊の青酸を嚥〔の〕まうとしたことだか知れなかつた、」という一節がある。

 それから、鵠沼に住んでいた頃、(小穴の『二つの絵』よると、)芥川は、ある日、小穴に、「医学博士斎藤茂吉の名刺を偽造して、藤沢で青酸加里を手に入れようか、」と云った。小穴は、その時の事を、回想して、「真面目に相談しかけてくる彼[註―つまり芥川]を、安心な者に自分は思つてゐた、」と述べたあとで、つぎに抜き書きするような事を、書いている。

 然し、恐ろしいのは、その藤沢の町を、単に夜の散歩として歩〔ある〕いてゐた一日、通りがかりの店でたむしの薬を買つてゐた自分の後〔うしろ〕から、突如〔とつじよ〕前〔まへ〕に出た彼が、「青酸加里はありませんか。」「証明がなければ売りませんか。」と薬屋の店の者に言つてゐた。……

 斯様な芥川確之介を自分は最も怖れ、また、その時こそは彼を憎い奴〔やつ〕とも思つた。

 店の者は、「証明がなくてもお売りするにはします。」と言つてゐた。ただ其時は幸〔さいはひ〕に青酸加里はなかつたのだ。自分は未〔いま〕だに忘れない。

 私が、殊更、こういう事を述べ、このような文章を引いたのは、この時分の芥川をいくらかよく知り、ずっと後〔のち〕に思いあたった事があるからである。

 それから『澄江堂遺珠』から、数多の詩を引き、それに対する佐藤の解説を随所に引用したのは、これらの詩が、殆んど未発表のものである上に、詩のよしあしは別として、かぞえ年三十六歳の年〔とし〕に自ら命〔いのち〕を絶った芥川が、晩年(つまり、大正十三年から昭和のはじめ頃まで)に、人知れず、精根〔せいこん〕かたむけて、苦心惨憺して、作〔つく〕ったらしい形跡が、ありありと窺われるからである、そうして、それらの未完成の詩(あるいは完成した詩)に対する佐藤の解説が至り尽していて、私などが到底できる事〔わざ〕ではないから、それをなるべく多くの人に読んでもらいたいと思ったからである。それから、これらの詩をひそかに作っていた時分から、芥川は、しだいに健康をわるくし、作家としても『ゆきづまり』を感じ出しているように思われるからである。そうして、いわゆる保吉物はその行き詰〔づ〕まりの一つの例である。(さきに『澄江堂遺珠』のなかの詩は「殆んど未発表のものである」と述べたが、その中の幾つかは全集(別冊)に出ているのを発見したので、この言葉の三分の一ぐらい取り消す。)

[やぶちゃん注:「青化加里」は化学式KCNで化学的には(シアン化カリウム)と呼ぶが、他にも青酸カリウム・青酸カリ・青化カリとも呼称する。経口致死量は成人で一五〇から三〇〇ミリグラム程度(二〇〇程度と設定する記述もある)で、通常は嚥下後十五分以内に死に至る(胃酸と反応して出るシアン化水素又は青酸が発生、そのシアン・イオンによって体細胞の呼吸が阻害される結果)。「毒物及び劇物取締法」の「毒物」(誤飲した場合の成人致死量が二グラム程度以下のもの)に指定されており、販売するには毒物劇物営業者資格と登録が必要であるが、現在でも購入には薬物取扱い等の特定免許は必要ない。鋼の熱処理、金・銀・鉛などのメッキや分析試薬として販売されてはいる。但し、購入時には名前や使用目的を記載した書面のやり取りを行わねばならない。但し、古くは更に印刷・写真製版・金属の焼き入れや錆落し・塗装・殺虫剤・昆虫標本の脱色防止、果てはパチンコ玉の洗浄などに用いたというから、寧ろ、ごく普通に町工場などにあった薬物であり、極めて特異で入手困難な薬物とは言えないのである――因みに、私は若い頃から、芥川龍之介の死因には疑問を持っていた。所謂、睡眠薬の多量服用では自殺の既遂(成功)の可能性がかなり低いからである。確実な死を望んでいた芥川がジャールやヴェロナールで安心したはずがない。致死性に於いてより万全なものでなくてはならないからである。このシーンのように青酸カリに執拗に芥川が拘ったのも、そこにある。そして何より、宇野の話柄にも既に上っている「或阿呆の一生」の「四十八 死」で、正にこの青酸カリを登場させている事実からでもある。

 

       四十八 死

 

 彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした。

 それは實際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に與へる平和を考へずにはゐられなかつた。

 

――実を言えば、私は高校時代からずっと、芥川の自殺に用いた毒物は青酸カリであろうと踏んでいた。ただ、ここに書かれたように、この平松麻素子から青酸カリを入手したというのは如何にも考えにくいと、やはりずっと思っていた。平松麻素子との心中未遂の一件について調べれば調べるほど、このシーンのように彼女が『持つてゐた青酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした』とは考えられなかったからである。そうして――そうして山崎光夫氏の「藪の中の家-芥川自死の謎を解く」に出逢った。――なるほど! そうか! 直ぐ近くに!――以下は、このスリリングな作品をお読みあれ!――ともかく芥川龍之介は青酸カリで自死に美事成功したのである――

「その中の幾つかは全集(別冊)に出ている」とあるが、これは先にも示した昭和四(一九二九)年岩波書店刊「芥川龍之介全集」(元版全集)の「別冊」で、現行では『澄江堂遺珠』が拾った未定詩稿は、佐藤春夫の解説を除去した形で岩波版全集に「未定詩稿」と題して掲載されており(昭和十(一九三五)年刊行の普及版全集以降の旧全集)、残存するノートに当たってその校訂精度を更に高めたものが新全集に『「澄江堂遺珠」関連資料』として掲載されている(但し、佐藤が言う「第一号」冊子は現在所在不明であり、新全集はその部分を旧全集に依っている)。これらの未定稿は私が纏めた「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の中に所収するので参照されたい。但し、宇野も感嘆するように、佐藤春夫の編になる「澄江堂遺珠」は、それ一冊が素晴らしい稀有の詩集である。是非、「澄江堂遺珠」でお読みになることを強くお勧めする。]

2012/04/06

宇野浩二 芥川龍之介 十一 ~ (2)

 さて、この『或阿呆の一生』については、いろいろな人がさまざまの意見を述べているが、私は、島崎藤村の「あの中に感知せらるるやうな作者の悲愴な激情も、何人の仮面をも剥いで見ようとしたやうなあの勇気も、病人のやうに繊細なあの感覚も、世紀末の詩人を思ひ出させる。それにしても日頃私の想像してゐた芥川君はもつと別の人で、あれほど君が所謂〔いはゆる〕『世紀末の悪鬼』にさいなまれてゐようとは思ひがけなかつた、」という説に六分どおり同感する、(六分どおりである。)

 昭和二年の五月頃であったか、私が、私も芥川にちかいぐらいの(あるいは芥川以上の)神経衰弱にかかった時、ある日、芥川に、「君も、僕も、けっきょく、十九世紀末の詩人のようなものだよ、」と云うと、芥川は、すぐ、『我が意を得たり、』というような顔をして、「そうだよ、そうだよ、」と云った。

[やぶちゃん注:島崎藤村の引用は、昭和二(一九二七)年十一月発行の雑誌「文藝春秋」に掲載された後、昭和三(一九二八)年の「市井にありて」の中に所収された「芥川龍之介君のこと」からである。リンク先は私の電子テクスト(ブログ版)である。]

 

  さて、前の章で、『或阿呆の一生』の中に出てくる女は三四人ぐらい、と述べたが、久米が、『月光の女』のなかで、芥川が、月光という言葉を、意識して、幾度かくりかえして使ったのは、「死に際して、過去の思ひ出の中に真に美しく感じた女に対し、愛慕の象徴として考へたものに違ひない、」と述べているが、私は、芥川が、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないか、と考えるのである。

 それから、久米は、また、おなじ文章のなかで、その相手は、四章にわかれて書かれているから、「読者はひよつとすると、この四人が四人とも同じ人の摸写だと思ふかも知れないが、――それが私の最も危険な独断だらうが、実に、四人が四人とも、全く別な人だと思へるのだ。そして其の一々〔いちいち〕に、多少思ひ当る筋があるのだ。但しその推定人物が、実際に当つてゐるかどうかは私に取つても全幅の自信はなく、実はひそかに私の企画で、今のうちに現存の関係人、小谷隆之、殖生愛石、大島理一郎、木崎伊作、滝井等を集め、一夕、非公開の座談でも開いて、此のおせつかい[やぶちゃん注:「おせつかい」に「ヽ」の傍点。]な決定版を得ておきたいやうな気もするが、この顔ぶれに失礼だが、信輔夫人とそれから彼の最も近親の、藤蔓俊三氏を加へて、あの『痴人の生涯』の全部にわたり、検討を加へておく事も、一つの傷〔きず〕いた大正作家の文芸史であらうかと考へる、」と述べている。

 これには私も大賛成ある。それは、「今のうちに現存の関係人」と述べた当人の久米がなくなくなつた今、久米の遺言どおり、小穴隆一、室生犀星、小島政二郎、佐佐木茂索、滝井孝作のほかに、芥川夫人と葛巻義敏を加えて、非公開でなく、『或阿呆の一生』の全部にわたって検討を加える、公開の座談を是非〔ぜひ〕ひらくべきである。そうして、それは芥川ともっとも縁故の深かった「文藝春秋」が進んでもよおすベきであろう。そうして、もしそういう座談会が実現されたら、(実現されたら、である、)佐藤春夫と私もその末席に加〔くわ〕えてほしい。

 それから、おなじ小説のなかで、久米は、

 中には、例へば竹柏園門の歌人で、愛蘭〔あいるらんど〕文学の翻訳者である、杉村みよ子夫人の如き、彼と才力の上に於て、格闘の出来る『越し人』(第三十七章)として、殆んど確定的であるが、併し又一方では、それが高名な漫画家の夫人で、稀才ある小説を残した、坂本かよ子夫人と紛らはしい点など、もう、いづれも故人となり、思ひ出の中に住むのみに至つては、確認しておく必要が、村松梢風氏以外の伝記者たちの為にも、多分に必要であるかも知れない。

と述べている。(この久米の文章の中の、杉村みよ子夫人は松村みね子夫人であり、坂本かよ子夫人は岡本かの子である。)

[やぶちゃん注:くどいようだが、久米の「坂本かよ子夫人」(=岡本かの子)「と紛らはしい」という謂いは、全くの見当違いと言わざるを得ない。毫毛も「紛らはしい」点など、ない。]

 この久米の言葉を説明する前に、順序として、『越し人』をつぎにうつす。

 彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何〔なに〕か木の幹に凍〔こほ〕つた、かがやかしい雪を落〔おと〕すやうに切〔せつ〕ない心もちのするものだつた。

  風に舞ひたるすげ笠〔かさ〕の

  何〔なに〕かは道に落ちざらん

  わが名はいかで惜しむべき

  惜しむは君が名のみとよ。

[やぶちゃん注:「凍〔こほ〕つた」のルビは誤り。「或阿呆の一生」では「凍〔こゞ〕つた」である。]

 つまり、久米の考えは、この『越し人』は、大方〔おおかた〕の意見によると、松村みね子夫人が「殆んど確定的」であるが、しかし、「確定的」というだけで、岡本かの子とも見られるところがあるから、これを「確認しておく必要が多分にあるかも知れない、」というのである。

 ところで、私も、「確認しておく必要」はある、とは思うけれど、私は『確認』などなかなか出来ない、と考えるのである。ところが、いずれにしても、おもしろいのは、芥川は、松村みね子とは、軽井沢の万平ホテルで、逢っており、岡本かの子とは、鎌倉の雪の下ホテルH屋[註―かの子の『鶴は病みき』による]で、何日間か、となりの部屋で、同宿している事である。が、しかし、こういう事は、唯の興味のようなものである。興味といえば、時の人の謎の女(つまり、小穴のS女史)も、この、みね子も、かの子も、みな、歌人であり、噂だけでいえば、ほんの噂の、九条武子も、柳原白蓮も、また、歌人である事などである。が、こういう事は何の問題にもならない。

[やぶちゃん注:「松村みね子とは、軽井沢の万平ホテルで、逢っており」私はかつて芥川龍之介が片山廣子(松村みね子)とが、芥川の自死の年の五月、秘かに万平ホテルで逢った可能性について考察したことがある。よろしければ、私の片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲を御笑覧あれ。

「H屋」は、鎌倉駅西口直近にあった平野屋別荘。かの子が同宿したのは、大正十二(一九二三)年八月で、厳密に言えば「となりの部屋」ではなく、庭を隔てた向いの部屋であった。]

 ところで、ここに、佐藤春夫が纂輯した、『澄江堂遺珠(Sois belle,sois triste)』という詩集がある。私は、昭和八年の初春の頃、この本を手に入れてから、いまだに愛読しているのである。それは、芥川の詩の美しさと悲しさと、その詩のところどころに註をしている、佐藤の註の親切な感慨ふかい文章のためである。(Sois belle,sois triste)には『美しかれ、悲しかれ(?)』と記入してあるそうである。)

 さて、その『澄江堂遺珠』から、まず、雪にちなんだものを、うつして見よう。

[やぶちゃん注:以下、『澄江堂遺珠』から引用が行われるが、芥川龍之介の整序された未定詩稿については、私が纏めたやぶちゃん版芥川龍之介詩集の中に所収する。御覧あれ。]

  雪は幽かにつもるなり

  こよひはひともしらじらと

  ひとり小床にいねよかし

  ひとりいねよと祈るかな

 

[やぶちゃん注:この詩は最初の一行「ひとり葉巻をすひをれば」が脱落している。実はこの一行は原本では前頁末にあり、宇野はこれを見落として引用ミスをした可能性が高い。]

それから、つぎのようなのもある。

  きみとゆかまし山のかひ

  山のかひには日はけむり

  日はけむるへに古草屋

  草屋にきみとゆきてまし

 

[やぶちゃん注:この間に原本ではもう一つの推敲形(四行)がある。]

 

  きみと住みなば   

            山の峡

  ひとざととほき(消)

  山の峡〔かひ〕にも日は煙り

  日は煙る□□□

[やぶちゃん注:底本では「きみと住みなば」と「ひとざととほき(消)」は並列され、その二行の下に「}」が附され、「山の峡」と配してある。「ひとざととほき(消)」とは「ひとざととほき」と書いて末梢してあることを示す。「日は煙る□□□」は、底本では「□□□」は下方(横書きでは右手)が開放になっている長方形の判読不能の空欄である(但し、原本の長方形は実はもっと長い。従って判読不能三文字の意味ではないことに注意されたい)。ほぼ原本と同一であるが、原本には後に引用される「はしがき」も含めて殆んどルビがない。これは宇野の施したものである。以下同じ。]

 この一聯の詩について、佐藤は、「即ち知る故人はその愛する者とともに世を避けて安住すべき幽篁叢裡の一草堂の秋日を夢想せる数刻ありしことを、」と註している。

 そうだ、そうなのだ、誠に佐藤の云うとおり、芥川は、こういう事を、(俗な言葉でいえば、手鍋さげても……』というような事を、)夢想せる数刻があったのであろう、「夢想せる数刻」が。

 さて、佐藤は、これらの詩とならべて、『戯れに』(⑴⑵)と題した、

  汝〔な〕と住むべくは下町の

  水〔み〕どろは青き溝づたひ

  汝が洗場の往き来には

  昼も泣きづる蚊を聞かん

                      戯れに⑴

[やぶちゃん注:「泣き」は原本「なき」。]

 

  汝と住むべくは下町の

  昼は寂しき露路の奥

  古簾垂れたる窓の上に

  鉢の雁皮も花さかむ

                      戯れに⑵

[やぶちゃん注:「雁皮」はバラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ガンピDiplomorpha sikokiana。別名カミノキ。古くからの製紙原料として知られる。初夏に枝の端に淡い黄色の先端が四裂した小花を房状に密生させる。]

という詩を引いて、「と対照する時一段の興味を覚ゆるなるべし。隠栖もとより厭ふところに非ず、ただその地を相して或〔あるひ〕は人煙遠き田圃を択ばんか、はた大隠の寧〔むし〕ろ市井に隠るべきかを迷へるを見よ。然も『汝と住むべくは』の詩の情に於ては根蒂竟〔つひ〕に一なり、」と註している。

 この註は誠に『殉情詩集』の作者らしく、この作者と同年の芥川の詩も、たとい夢想としても、誠に純情きわまりないものではないか。

[やぶちゃん注:「根蒂」は「こんたい」と読む。植物の基幹である根と蔕〔へた〕の意で、物事の土台、拠りどころ、根拠とするところの意。]

 

 ここで、又また、寄り路しなけれはならぬ事になった。それは先きに引用した文章のおわりの方に、『澄江堂遺珠』から幾つかの詩を引きながら、その『澄江堂遺珠』とはどういうものであるか、を書くのを忘れた事に気がついたからである。

 しかし、『澄江堂遺珠』とは、さきに述べたように、佐藤春夫が、芥川の全集の中〔なか〕におさめられていない詩で、散佚していた詩をあつめて、一冊の詩集に纂輯した本につけた、題名である。そうして、それは、平凡に分〔わ〕かりよく云えば、「芥川が残した珠玉のような詩」という程の意味である。されば、この本の扉には次ぎのように書かれてある。

  芥川龍之介遺著

  佐藤春夫纂輯

 

 澄江堂

    Sois belle,sois triste

 遺珠

 しかし、これだけではよくわからないから、纂輯者の佐藤の「はしがき」の中から、つぎに、抜き書きしよう。

[やぶちゃん注:以下の「はしがき」引用は底本では全体が二字下げ。]

……遺稿は故人が二三の特別に親密な友人に寄せて感懐を述べた一束〔ひとたば〕の私書と別に三冊の手記冊に筆録した未定稿とである。この三冊を予は仮に各第一第二第三と呼んでゐるが、第一号は四六判形で単行本の製本見本かとも見るべきものを用ひ、これには作者が自ら完作したかと思へるものを一頁〔ペイジ〕に一章づつ丹念に浄写してある。恐らく作者は逐次会心のものを悉くここに列記し最後の稿本をこれに作成する意嚮があつたかと見られる。他の二冊第二号第三号に至つては第一号とは全然その趣きを異にしてゐて、外形も俗にいふ大学ノオトなる洋罫紙のノオトブックで全〔まつた〕く腹稿の備忘とも見るべきものが感興のまま不用意に記入されてゐるので逐次推敲変化の痕〔あと〕明〔あき〕らかで、一字も苛〔いやしく〕もせざる作者が心血の淋漓たるもの一目歴然たるに、その間〔あひだ〕また折〔をり〕にふれては詩作とは表面上何〔なん〕の関聯もなき断片的感想や筆のすさびの戯画などさへも記入されて、作者が心理の推移や感興の程度などを窺ふには実に珍重至極な絶好の資料であるが、それならばこそ一層取捨整理に迷ふ点が尠少ではない。既に作者自身がこれを為〔な〕し得なかつたとさへ見るべきだからである。

[やぶちゃん注:原本「ノオト」「ノオトブック」はそれぞれ「ノート」「ノートブック」。「尠少」は「せんせう(せんしょう)」と読み、少ないこと。]

 つまり、『澄江堂遺珠』は、詩人、佐藤春夫が、「既に作者(つまり、芥川)がこれを為し得なかつたとさへ見るべき」未定稿の詩を、幾度も幾度も通読し玩味し、苦心惨憺して、纂輯したものである。それは、芥川が、もっとも会心切実したらしい二三行の句をいかに活用すべきかに就いて執拗な努力をし、そのために一冊子の大半を費しながら、決定できないところが二箇所ぐらいあるのを、佐藤は、「この二三行を中心としてこの二箇所を探究してみることによつてこの部分はほぼ解決するだらう」というような苦心を重〔かさ〕ねているからである。

 されば、この『澄江堂遺珠』を読みつづけてゆくと、芥川が一つの(わずか三四行の)詩をつくるためにいろいろと心をくだいている事が一目瞭然とわかると共に、それがわかるようにした佐藤の並大抵〔なみたいてい〕でない努力と苦心が察しられ、そうして、佐藤の友情の篤〔あつ〕さと詩を愛する心の深さが忍〔しの〕ばれる。

 そこで、佐藤が、「詩に憑かれたるがごとき故人の風貌のそぞろに髣髴たるもの」がある、という、芥川がいろいろに書き改めながら終〔つい〕に完成できなかった小曲を、『澄江堂遺珠』の中〔なか〕から、つぎに、抜き書きしてみよう。

[やぶちゃん注:以下、傍点「ヽ」(原本では特異な白ヌキ「ヽ」傍点)は下線に変えた。先に示した如く、「□□□」などは下方(横書きでは右手)が開放になっている長方形の空欄である(但し、原本の長方形は実はもっと長い。従って判読不能三文字の意味ではないことに注意されたい)。また、間に入る佐藤の注は底本ではポイント落ちである(この注の改行はブラウザ上の不具合を考慮し、底本によらず『澄江堂遺珠』原本に準じた)。なお、私の所持する『澄江堂遺珠』原本復刻と校訂し、誤りのある箇所は注で示した。但し、宇野の表記に合わせ、漢字は新字体を用いた。以下、同じ。]

  幽かに雪のつもる夜は

  ココアの色も澄みやすし

  こよひ□□□

  こよひはも冷やかに

  独〔ひと〕りねよとぞ祈るなる

 

[やぶちゃん注:原本は最終行の「独り」の「独」に傍点がある。宇野のミスである。]

 

  幽かに雪のつもる夜は

  ココアの色も澄みやすし

  今宵はひとも冷やかに

  ひとり寝よとぞ祈るなる

 

  幽かに雪のつもる夜は

  ココアの色も澄みやすし

  こよひはひとも冷やかに

  ひとり寝よとぞ祈るなる

     右は両章とも××を以て抹殺せり。その後

     二頁〔ペイジ〕の間は「ひとりねよとぞ祈るなる」は

     跡を絶ちたるもこは一時的の中止にて三

     頁目には再び

[やぶちゃん注:『澄江堂遺珠』では「××」は「×」。]

 

  かすかに(この行――にて抹殺)

  幽かに雪の

      と記しかけてその後には

      「思ふはとほきひとの上

      昔めきたる竹むらに」

      とつづきたり。さてその後の頁にはまた

  幽かに雪のつもる夜は

     (一行あき)

  かかるゆふべはひややかに

  ひとり寝「ぬべきひとならば」

     (「 」の中の八字消してその左側に「ねよとぞ

     思ふなる」と書き改めたり。)

     さてこの七八行のちには

  雪は幽かにきえゆけり

  みれん□□□

     とありて

 

  夕づく牧〔まき〕の水明り

  花もつ草はゆらぎつつ

  幽かに雪も消ゆるこそ

  みれんの□□□

などと、似たような詩句が一転し二転して、書きつづられてある後に、

  幽かに雪のつもる夜は

  折り焚く柴もつきやすし

  幽かにいねむきみならば

     (一行あき)

  ひとりいぬべききみならば

               併記して対比

               遂行せしか

  幽かにきみもいねよかし

[やぶちゃん注「幽かにきみもいねよかし」と「ひとりいぬべききみならば」とは底本では二行併記で、その下に「}」が入って「併記して対比/遂行せしか」というポイント落ちの佐藤の注が示されている。]

とあって、更に似たような詩句が十〔とお〕あまりもあって、その最後がつぎのような詩になっている。

  雪は幽かにつもるなる

  こよひはひともしらじら

  ひとり小床にいねよかし

  ひとりいねよと祈るかな

 

     幾度か詩筆は徒〔いたづ〕らに彷徨して時には「いね

     よ」に代ふるに「眠れ」を以てし、或〔あるひ〕は唐突に「な

     みだ」「ひとづま」等の語を記して消せるも

     のなどに詩想の混乱の跡さへ見ゆるも尚

     筆を捨てず

[やぶちゃん注:「唐突」は原本「突唐」であるが、これは原本の植字ミスであろう。また、ここ以下は原本をかなり中略している。]

と佐藤が解説しているように、これに類似した詩が幾つかくりかえし書いてあって、「然も詩魔はなほ退散することなく、更に第何回目かに出直して、」つぎのような詩を書いている。

[やぶちゃん注:「更に第何回目かに出直して」は原本「更に第何回目かを出直して」。]

  ひとり葉巻をすひ居れば

  雪はかすかにつもるなり

  かなしきひともかかる夜は

  幽かにひとりいねよかし

 

  ひとり胡桃を剥き居れば

  雪は幽かにつもるなり

  ともに胡桃を剥かずとも

  ひとりあるべき人ならば

[やぶちゃん注:この最後の四行詩は上部(横書きでは左側)四行総てに渡る音楽記号のスラー(丸括弧の始まり)のような記号が附されている。]

この最後の小曲の後半の「ともに胡桃を剥かずとも、ひとりあるべき人ならば」という二節は、言外に意味ありげな感じがある。しかし、その意味は、つぎにうつす詩を読めば、ほぼ悟れる。

  初夜の鐘の音〔ね〕聞〔きこ〕ゆれば

  雪は幽かにつもるなり

  初夜の鐘の音消えゆけば

  汝〔な〕はいまひとと眠るらむ

 

  ひとり山路を越えゆけば

  月は幽かに照らすなり

  ともに山路を越えずとも

  ひとり寝ぬべき君なれば

 

[やぶちゃん注:二首目の二行目「月は」には原本では「ヽ」傍点がある。宇野のミス。]

 これらの詩を読みつづけながら、私は、本音〔ほんね〕か、絵空事〔えそらごと〕か、と迷うのであるが、纂輯者の佐藤は、これらの小曲の書きつづられてある冊子について、「かくて第二号冊子の約三分の一はこれがため空費されたり。徒〔いたづ〕らに空しき努力の跡を示せるに過ぎざるに似たるも、亦以て故人が創作上の態度とその生活的機微の一端を併せ窺ふに足〔た〕るものあるを思ひ敢て煩を厭はずここに抄録する所以なり、」と述べている。

 ところで、抑〔そも〕、これらの「かなしきひと」、「ひとりあるべき人」、「汝」、「ひとり寝ぬべき君」、などと読〔よ〕まれているのは、いずこいかなる『人』であるか、それは、現実の人か、はた、空想(あるいは夢)の人か。

 ここで、又、佐藤が仮〔かり〕に『老〔おい〕を待たんとする心と妬〔ねた〕み心と』という題をつけている第三号冊子から抜き書〔か〕きして見よう。

  雨にぬれたる草紅葉

  侘しき野路をわが行けば

  片山かげにただふたり

  住まむ藁家〔わらや〕ぞ眼に見ゆる

 

     ふたりかの草堂に住み得て願ひは農に老

     いんといふにありしが如し――

[やぶちゃん注:原本では佐藤の注の最後は「如し。――」と句点がある。なお、この詩は第二号冊子の末にも全くの相同形で出現している。宇野の謂いでは、三号冊子になって初めて現れるような書き方をしているので、注意を喚起しておく。]

 

  われら老いなばもろともに
  

穂麦もさはに刈り干さむ

  夢むは

  穂麦刈り干す老〔おい〕ふたり

  明〔あか〕るき雨もすぎ行けば

  虹もまうへにかかれかし

 

  夢むほとほき野のはてに

  穂麦刈り干す老ふたり

 

  明るき雨のすぎゆかば

           らじや

  虹もまうへにかか れとぞ(消)

           れとか(消)

 

[やぶちゃん注:最終行は底本では「虹もまうへにかか」の下に記号「{」を配して、三つの句が記されている。但し、三つ目の「れとか」は原本「れかし」で、宇野のミスである。]

 

  ひとり胡桃を剥き居れば

  雪は幽かにつもるなり

  ともに胡桃は剥かずとも

  ひとりあるべき人ならば

 

     見よ我等はここにまた『或る雪の夜』に

     接続すべき一端緒を発見せり、宛然八幡

     の藪知らずなり。

 ところで、それからは、又、似たやうな小曲が七八〔ななやつ〕つ書いてあるが、その中の初めの三〔みっ〕つ四〔よっ〕つには、「みな、穂麦刈り干す老〔おい〕ふたり」と「遠き野のはてに」という句がはいっている。ところが、その後〔あと〕の方には、

  雨はけむれる午〔ひる〕さがり

  実梅の落つる音きけば

  ひとを忘れむすべをなみ

  老を待たむと思ひしが

 

[やぶちゃん注:最終行は原本「思ひしか」。宇野のミスか、誤植である。]

というような詩が書いてあって、それから、又、つぎにうつすような、詩の断片のようなものが、書きつづってある。

  ひとを忘れむすべもがな

  ある日は古〔ふる〕き書〔ふみ〕のなか

  (ママ)

  月[香と書きて消しあるも月にては調子の上にて何とよむべきか不明]も消ゆる

  白薔薇〔しろばら〕の

 

[やぶちゃん注最終行は原本「思ひしか」。宇野のミスか、誤植である。新全集の「『澄江堂遺珠』関連資料」を見ても「か」である。ところが、後の旧全集の「未定詩稿」では、「思ひしが」となっている。ここは宇野が思わず「思ひしが」としてしまったように、詩想からは、「か」ではなく「が」の、芥川自身の誤記であろう。]

 

  ひとを忘れむすべもがな

  ある日は秋の山峡に

 

     ……中絶して「夫妻敵」と人物の書き出しありて、

     王と宦者との対話的断片を記しあり……

 

[やぶちゃん注:「対話的断片を記しあり……」は原本「対話ある戯曲的断片を記しあり……」で大きく異なる。]

 

  忘れはてなむすべもがな

  ある日は□□□□

 

[やぶちゃん注:この間、原本の二つの詩篇断片を省略している。]

 

  牧の小川も草花も

  夕〔ゆふべ〕となれば煙るなり

  われらが恋も□□□

 

[やぶちゃん注:この間、原本の四つの詩篇を省略している。]

 

  夕となれば家々も

  畑なか路も煙るなり

  今は忘れぬ□□□□

  老〔おい〕さり来〔く〕れば消ゆるらむ

     別にただ一行

     「今は忘れぬひとの眼も」

     と記入しあるも「ひとの眼も」のみは抹殺せ

     り。

     かくて、老の到るを待つて熱情の自らなる

     消解を待たんとの詩想は遂にその完全な

     る形態を賦与されずして終りぬ。この詩

     成らざるは惜むべし。

     然も甚だしく惜むに足らざるに似たり。

     最も惜むべきは彼がこの詩想を実現せず

     してその一命を壮年にして自ら失へるの

     一事なりとす。

 さて、これらの詩のつぎに、佐藤が仮りに、『ねたみ心』という題をつけた、数篇の小曲が書いてある。つぎに、それらの詩を抜き書きして見よう。

  ひとをころせどなほあかぬ

  ねたみごころもいまぞしる

  垣にからめる薔薇の実も

  いくつむしりてすてにけむ

 

  垣にからめる薔薇の実も

  いくつむしりて捨てにけむ

  ひとを殺せどなほあかぬ

  ねたみ心に堪ふる日は

 

     同じ心をうたひて『惡念』と題したるは

 

  松葉牡丹をむしりつつ

  人殺さむと思ひけり

  光まばゆき昼なれど

  女ゆゑにはすべもなや

 

  夜ごとに君と眠るべき

  男あらずはなぐさまむ

 

     右二句はこれを抹殺しあり。蓋しその發

     想のあまり粗野端的なるを好まざるが

     故ならんか。然もこの実感はこれも歌は

     でやみ難かりしは既に『惡念』に於て我等

     これを見たり。更に冊子第一冊中

[やぶちゃん注:佐藤の注の最後の「更に冊子第一冊中」は原本「更に、冊子第一号中」で、引用の誤り。]

 

  微風は散らせ柚の花を

  金魚は泳げ水の上を

  汝〔な〕は弄〔もてあそ〕べ画団扇を

  虎疫〔ころり〕は殺せ汝が夫〔つま〕を

                   夏

 

[やぶちゃん注:この「虎疫〔ころり〕は殺せ汝が夫〔つま〕を」のこの二箇所のルビは例外的に原本にある。]

     と云ひ、なほ別に一佳篇を成すあり。――

 

  この身は鱶〔ふか〕の餌ともなれ

  汝を賭け物に博打たむ

  びるぜん・まりあも見そなはせ

  汝〔な〕に夫〔つま〕あるはたへがたし

           船乗りのざれ歌

     嗟〔ああ〕人殺さざりし彼は遂に自らを殺せしなるか。非か。

[やぶちゃん注:「嗟〔ああ〕」のルビは例外的に原本にもある。]

 

  ひとをまつまのさびしさは

  時雨〔しぐれ〕かけたるアーク燈

  まだくれはてぬ町ぞらに

  こころはふるふ光かな

 

     その他単独の短章にして作者自身×印を

     以て題に代へたる作十章あるも、こは完作

     とし、て既に全集中に収録されあるを以て、

     ここには抄出することなし。ただ二三句

     のみに止まりて未だ章を成さざれども趣き

     に富めるものを玉屑として拾ひ得て試み

     に次に示さんか。

[やぶちゃん注:「趣き」は原本「趣」。]

 

  旃檀の木の花ふるふ

  花ふるふ夜の水明り

  水明りにもさしめぐる

  さしめぐる眼は□□□

 

  こぼるる藤に月させど

  心は□□□□□□□

 

  しみらに雪はふりしきる

  □□□□□□秋の薔薇に

 

     この類なほ入念にこれを求めなば、さすが

     に一代の名匠が筆端より出でし字々句々

     皆その片鱗神采陸離たらざるはなく、ただ

     二三にして足るべからず。就中〔なかんづく〕、

[やぶちゃん注:「神采」は「神彩」とも書き、すぐれた風貌のこと。]

 

  ゆふべとなれば海原に

  波は音なく

  君があたりの

  ただほのぼのと見入りたる

  死なんと思ひし

 

[やぶちゃん注:原本では「死なんと思ひし」は前後に有意な空行があり、独立した一行。]

 

  入日はゆる空の中

  涙は落□□□□□□

 

  部屋ぬちにゆふべはきたり

  椅子卓〔つくゑ〕あるは花瓶〔はながめ〕

  ものみなはうつつにあらぬ(この三行消)

 

     これらの句はやや長き一篇の連続的砕片

     とも見るべき、一頁中に或は二三行或は

     三四行おきに散記せるもの、或は故人が「死

     と戯れたり」と称する鵠沼の寓居の一夕を

     詠出せんとせしに非ざるかを疑はしめて

     唐突たる「死なんと思ひし」の一句は作者が

     後日の「美しけれどそは悲しき」かの自裁あ

     るを以てか、慄然として人を寒からしむ。

     かく閲〔けみ〕し来れば一把の未定詩稿は故人が

     心中の消息を伝へて余りあり。語らずし

     て愁なきに似たりし故人が双眸に似て幽

     麗典雅なるその遺詩は最も雄弁なる告白

     書に優るの観を呈するに非ずや。

[やぶちゃん注:佐藤の注の「見るべき、」は原本「見るべく。更に後半が省略されている。ここは因みに原本の掉尾の直前である。]

 右の佐藤の解説の終りの方の言葉について、私は、私なりに、意見のようなものを、持っているが、それついては後に述べるつもりである。それから、やはり、右の佐藤の解説のはじめの方の「或〔あるひ〕は故人が『死と戯れたり』と称する鵠沼の寓居」という一節があるが、この家については私は痛ましい思い出を持っているけれど、これも後に述べたいと思っている。

2012/04/05

宇野浩二 芥川龍之介 十一 ~(1)

     十一

 この章では、まず、さきの章のおわりに、芥川が、道をあるきながら、いきなり、私に、「君、小亀をやろうか、」と云った事を書いたが、あれではまったく言葉がたりないので、あのような事を云った時分の芥川の事から、述べよう、と思っていた。
 ところが、私が、これまで、小穴が、「事露顕〔ことあらは〕れて、事を決するよりも、未然に自決してしまひたい、といふ考へであつた。本〔もと〕をS女史との唯一度それも七年前の情事に帰して。――」と書いたり、「〇〇〇子(S女史)それは昔、彼が彼女に一座の人々を紹介し僕をも紹介してゐたときに、順々にお時儀〔じぎ〕をしてゐながらに何故〔なぜ〕か『わたし小穴さんには態〔わざ〕とお時儀をしないの、』と、人に聞えぬ程の小声をもつて、笑ひをみせながら僕の顔を顧〔かへ〕りみてゐた婦人である。大正十二年以前のことであつて、自分が、『こいつ、なにかあるな、』と考へてゐた女性であつた、」と書いたり、「Sは、果〔はた〕して彼のいふが如き女であるのか?――××との唯一度の〇〇のためにのみ、彼が婆婆苦を嘗めてゐたのであらうか、」と書いたり、「Sの子は、芥川龍之介の子である。――この疑問を、この僕が抱く、」と書いたり、している『女』を、ほかの事うるさい程くどくどと述べながら、あの重大な女の事だけを、筆を惜しむように、ぼかすように書いているのは、どういう訳であるか、怪〔けし〕からぬではないか、というような意味の苦情が、数多くの人から、くるのである、しかも、その中〔なか〕には、知名の文学者まであるのである。それで、本文にかかる前に、その謎の女について、述べる事にしたのである。
 私がこの女を『謎の女』と書くのは、思わせぶりでもなく、隠すつもりでもなく、芥川をめぐる女(と思われている女)は一〔ひと〕通〔とお〕り知っている筈であるのに、この女の事だけは、私は、殆んどまったく知らないからである。もっとも、さきに引いた小穴の「わたし小穴さんにはお時儀をしないの」という云い方〔かた〕はあの女そっくりである、とか、廣津の『彼女』という小説のなかの「ああしてあれからあの人たちと珈琲を飲んだつて退屈でせう。――誰も気がつかないうちに撒〔ま〕いてやるの愉快ね」という言葉など、なるほどあの女の云いそうな事だ、とか、いう事ぐらいなら、私も、知っている。
 ところで、久米正雄が、『月光の女』という小説のなかで、「また考へやうに依ると、彼(つまり、芥川)をめぐる此の女たちに就いては、想像を逞しう出来るだけに、多少の過誤を招く恐れもある。弘津平郎[註―廣津のこと]でさへ、その近頃の小説『彼女』の中に、その、女主人公を、まちがへて、『月光の女』と錯覚した如きである、」と述べている。
 ところが、滝井孝作が、また、『純潔』と言う小説の中で、この女の事を、書いているが、その中に、小穴の話として、「彼女(つまり、その女)は芥川に関係した上で、南部修太郎とくつついたんだ、芥川が先きで南部の方が後〔あと〕なんだ、それで南部修太郎の女を芥川が知らずに奪〔と〕つた場合は、まだしも我慢できたらうが、南部に見変へられたわけで、芥川のあの性格では南部ごときに頸根〔くびね〕ツ子を押へられた形では、南部に急所を摑まれてゐて始終〔しじゆう〕頭〔あたま〕が上〔あが〕らないと考へると、芥川も立つ瀨がなかつたらうナ、ああいふ性格の人だから、それで世を果〔はか〕なむ気持ちが出たのだらうナ、」と書いている。
[やぶちゃん注:「しじゆう」のルビはママ。]
 しかし、この話は、すでに、小穴の文章の中〔なか〕にも書いてあるので、多くの人に、知られているが、私は、滝井が、その後〔あと〕に、大正九年頃、菊池の芝居か何〔なに〕かの総見で新富座に行った時、幕間〔まくあい〕に、大ぜいが休憩室に集まった時、その窓際で、「花形作家の芥川と女流歌人のS夫人と両人が、皆の方に向いて佇〔たたず〕んで、その時両人が見交〔みかは〕した視線が、視線の交叉だけで何〔なに〕か語つてゐたから、私は不図〔ふと〕見かけて、男と女とが視線だけで話ができるのは只〔ただ〕ではないから、何〔なん〕ださうなのか、とハッキリ分つてしまつた。彼女は皮膚のうすい頰の血色もすきとほつて、きれ長の眼〔め〕して粋〔いき〕づくり、当世向きの美しいひとらしく、我鬼窟の書斎にもきて、私は両人の秘事を知らん顔したが、我鬼山人は気づかれたと知つてゐて、然〔さ〕りげなく私に向いて、君は口止めされるやうな事柄は決して他人に口外しない口の固い所があるがその口の固い所も君の特徴だネ、とさりげなく口止めの釘を刺〔さ〕されたりして、……」と書いているところに、感心した。滝井は、「口止めの釘を刺された」と書いているが、こう書いて、芥川の一ばん痛いところを突いているからでもある。
 しかし、芥川には隙だらけのところもあったので、滝井ほどの観察眼があれば、このくらいの事を書くのは、『お茶の子さいさい』であろうが、その次ぎの、それから十年ほど後に、(むろん芥川の死後、)南部修太郎の通夜の席で、その女に逢った時の事を、滝井が、「彼女は厚化粧して出てきて、大勢〔おほぜい〕居並〔ゐなら〕んだ所に割り込んで坐つたが、私の方みてしたしげにお時宜して、私はしたしげにされるおぼえもなく、十何年ぶりで見かけたが、彼女の醜聞も皆に知れわたつてゐる筈だが、通夜の座敷に、その四十ばばあが厚化粧して現れた様は、阿呆の広告の恰好で、亦横著者〔わうちやくもの〕にも見えた。で、今更に、曾〔か〕つての若き我鬼山人[註―大正九年といえば、芥川は二十九だ]も、南部の坊〔ぼつ〕ちやんも、とんだ痴者〔しれもの〕に引懸〔ひつかか〕つたものだと分つた。とんだ痴者だから魅力が多かつたかもしれないが。……」と書いているところを読んで、私は、頭〔あたま〕をさげた、芥川は、滝井の師事した人であり、南部は、滝井の親友の一人〔ひとり〕であったからでもあるが、この女の描写は、私などとうてい及ばない、深刻さがあるからである、さすがに、志賀直哉の手法を学〔まな〕んだだけの人である、と思ったからである。ところで、『深刻』とは、文字どおり、「ふかく彫〔ほ〕りつける」という意味もあるが、「極めてむごい」という意味もある。そうして、この滝井の描写ほ、ふかく彫〔ほ〕りつけてもあるが、少〔すこ〕しむごいようなところもある。私は、私自身の好みでいえば、こういう女は大へんキライであるが、作家として見れば、こういう女が、芥川のなくなった時に弔問〔ちょうもん〕したり、南部が急死すると其の通夜に出たり、するところの心根〔こころね〕というようなことを、こういう女を主人公にして、こういう女の気もちを、書いてみたら、などと思うのである。
 さて、私は、前の章の終りの方で、小穴の文章(『二つの絵』)の中に善かれている、四人の女のなかで、「K夫人だけは私に見当がつかない、」と述べたが、そのK夫人を、仮りに、(まったく、仮に、である、)岡本かの子とすれば、岡本かの子の、はっきり芥川を題材につかった、『鶴は病みき』のなかにも、この女の事が書かれている事を、思い出した。[やぶちゃん注:この「K夫人」は先の注で私が述べ、宇野自身が後に訂正するように、片山廣子であって、岡本かの子ではない。]これは、私の臆測であるが、岩野泡鳴が主催した、十日会で、かの子が、この女を見た時の事を、書いたものである。ここでは、この女は、Ⅹ夫人となっている。そうして、この女は、この小説のなかでは、「麻川氏[註―芥川のこと]の傍に嬌然としてゐるⅩ夫人を見出〔みいだ〕した。そして麻川氏がⅩ夫人に対する態度を何気なく見てゐると、葉子[註―岡本かの子らしい人]はだんだん不愉快になつて来た。麻川氏はⅩ夫人に向つてお客が芸者に対するやうな態度をとり始めた、」とか、「Ⅹ夫人はかねてから文人たちの会合等に一種の遊興的気分を撒〔ま〕いて歩〔ある〕く有閑夫人だつた、」とか、「しかし、現在見るところのⅩ夫人は葉子の目にも全く美しかつた。デリケイトな顔立ちのつくりに似合ふ浅い頭髪のウェエヴ、しなやかな肩に質のこまかな縮緬の著物と羽織を調和させ、細く長目に引いた眉をやや上〔あ〕げて嬌然としてゐるⅩ夫人――だが、葉子はⅩ夫人のつい先日〔せんじつ〕迄〔まで〕を知つてゐた。黄色い皮膚、薄い下〔さが〕り眉毛、今はもとの眉毛を剃〔す〕つたあとに墨で美しく引いた眉毛の下のすこし腫〔はれ〕ぼつたい瞼〔まぶた〕の目であつた。今こそウェエヴの額髪で隠れてゐるが、ほんたうはこの間までまるだしの抜け上つたおかみさん[やぶちゃん注:「おかみさん」に「ヽ」の傍点。]額がその下にかくれてゐる筈だ、」とか、「それにもかかはらず麻川氏が変貌以後のⅩ夫人に、葉子より先〔さき〕に葉子の欠席した前回のこの会で逢ひ、それが麻川氏とⅩ夫人との初対面であつたためか、ひどくこの夫人の美貌を激賞したといふことが、文壇の或る方面で喧しく、今日も麻川氏はこの夫人を見るために、この会へ来たとさへ、菓子の耳のあたりの誰彼〔たれかれ〕が囁き合つてゐる。葉子の女性の幼稚な英雄崇拝観念が、自分の肯〔がへ〕んじ切れない対象に自分の尊敬する芸術家が、その審美眼を誤つてゐる、といふもどかしさで不愉快になつたのだ、」とか、書かれている。これらの言葉は、女が女を見た意地悪〔いじわる〕に充ち満ちている。これらの言葉は、作家の目で見たものではなく、浅はかな女の心で見たものである。されば、これらの言葉を虚心で読めば、読む人には、葉子の方が傲慢に見え、X夫人の方が、かえって、しおらしく、いじらしく、思われる。それはそれとして、これまで引いた文章をよむと、どの文章でも、この女は、わるく云われ、いじめられている。そうして、芥川は、『或阿呆の一生』のなかで、つぎのよう書いている。

 二台の人力車は人気〔ひとけ〕のない曇天の田舎道を走つて行つた。その道の海に向〔むか〕つてゐることは潮風〔しほかぜ〕の来〔く〕るのでも明らかだつた。後〔あと〕の人力車に乗つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して恋愛ではなかつた。若〔も〕し恋愛でないとすれば、――彼はこの答〔こたへ〕を避ける為〔ため〕に「兎に角我等〔われら〕は対等だ」と考へない訣には行かなかつた。
「もうどうにも仕〔し〕かたはない。」
 彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或〔ある〕憎悪〔ぞうを〕を感じてゐた。
 二台の人力車はその間に磯臭〔いそくさ〕い墓地の外〔そと〕へ通〔とほ〕かかつた。蠣殻のついた粗朶垣〔そだがき〕の中には石塔が幾つも黒ずんでゐた。彼はそれ等〔ら〕の石塔の向〔むか〕うにかすかにかがやいた海を眺め、何〔なに〕か急に彼女の夫を――彼女の心を捉〔とら〕へてゐない彼女の夫を軽蔑し出した。……

 ここでも、また、この女は「動物的本能ばかり強い女」になっている。こうなると、この女は、これらの文章だけで見れば、この女は、まったく立つ瀨のない女、という事になる。
 ところで、私が、この女についていろいろな人の文章を引いたのは、前に何度も述べたとおり、私は、芥川とこの女の関係については殆んどまったく知らないからである。

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (21)

 今夜、旅館の客間で、爐に火をともし、椅子を片隅に寄せて、踊りの會を催した。誰も司會者がなかつた。私はヴァイオリンで二つ三つの舞踏曲やその他の曲を彈いてしまつた時、私は皆が私の音樂をどの位に望んでゐるか、また誰か他に歌ひ或は音樂をする人があるか、わからなくなつたので、中止となつた。一寸の間、行詰まりが來たやうな氣がしたが、私のよく知つてゐる若い娘が此の窮境を見てとつて、會の進行係を引受けた。先づ最初に海上警察署の娘にハーモニカで踊の曲を吹くやうに賴んだ。その娘は直ぐに、それを立派な元氣と音律でやり遂げた。それから、小さな娘は私に何を選んでもよいから又彈いてくれと云つた。此のやうな調子で、彼女は家に歸らなければならないと思つた時まで今夜の進行係を續けてゐた。それから彼女は立上つて、私に愛蘭土語で禮を述べ、誰の方をも見ずに、戸口から外へ出て行つた。そして殆んど直ぐ後から、會衆の全部が續いた。

This evening we had a dance in the inn parlour, where a fire had been lighted and the tables had been pushed into the corners. There was no master of the ceremonies, and when I had played two or three jigs and other tunes on my fiddle, there was a pause, as I did not know how much of my music the people wanted, or who else could be got to sing or play. For a moment a deadlock seemed to be coming, but a young girl I knew fairly well saw my difficulty, and took the management of our festivities into her hands. At first she asked a coastguard's daughter to play a reel on the mouth organ, which she did at once with admirable spirit and rhythm. Then the little girl asked me to play again, telling me what I should choose, and went on in the same way managing the evening till she thought it was time to go home. Then she stood up, thanked me in Irish, and walked out of the door, without looking at anybody, but followed almost at once by the whole party.

[やぶちゃん注:以下は、原文では行空きはない。
「今夜、旅館の客間で、爐に火をともし、椅子を片隅に寄せて、踊りの會を催した。」原文は“This evening we had a dance in the inn parlour, where a fire had been lighted and the tables had been pushed into the corners.”である。この直前まで、シングは採録のためにイニシーア島(南島)へ行っていた。しかし、ここに登場するのは「旅館」はどうもイニシーアとは思われない。ここは島を離れる最後の宴の描写であり、本土への船はアランモアのキルローナンから出る。何より、この場面は我々に第一部の最初のシーンを容易に想起させよう。則ち、
『私はアランモアにゐる。泥炭の火にあたり、部屋の下の小さな酒場から聞こえて來るゲール語の話し聲に耳傾けながら。』
この描写は美事にこのエンディングの舞台と一致する。さすれば、この最後の宴の場所は、シングが「アラン島」の最初のシーンとして取り上げた、このアランモアの酒場の二階なのである。何と素晴らしい額縁であろう!
「海上警察署の娘」は注既出の通り、「沿岸警備隊員の娘」。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (20)

 私は彼に、中の島のパット・ディレイン爺さんを知つてゐるか、そして常に話す面白い話を聞いたことがあるか、と聞いた。

 「私ぐらゐあの人をよく知つてゐる者はないだらう。」彼は云つた。「私は時時、あの島の人達にカラハを造つてやりに行く事があるから。或る日、私が丁度新しいカラハにタールを塗つて居ると、彼は私の處へやつて來て、ズボンの膝頭に雨がしみないやうに少しタールを塗つてくれないかと云つた。

 私は刷毛を取つて、私が何をやつてゐるかわからないうちに、彼の足の所までタールを塗つてしまつた。『さあ、あつちを向いてごらん。何處でも今度は腰掛けられるだらう。』【と】私は云つた。するとタールが肉に熱く感じて來たので、私を怨み出した。惡い事をしちやつたと思つたね。」

 此の爺さんは愛蘭土の何處ででも出逢ふ快活な、茶目氣のある型の人で、イニシマーンに目立つた地方的の特質を持つてゐなかつた。

 私たちは語り疲れたので、私は手品のいくつかをやつてみせると、いくらか見物人が集まつて來た。皆んな行つてしまふと、今一人の老人が入れ代りにやつて來て、妖精に就いて語り初めた。或る晩のこと、彼が燈臺から家へ歸る途中、後から人が馬に乘つて來るやうな氣がしたので、立止つて待つてゐたが、誰も來ない。それから岩の上で、人が丁度馬を捉へてゐるやうな音が聞こえたが、直ぐ止んでしまつた。後の方でする物音は、行くに從つて段段大きくなつて來た。それは恰かも廿匹位の馬と思へたが、少しすると、百匹或ひは千匹の馬が後から驅足で來るやうであつた。道が盡きて踏段の處へ來ると、何か彼に突き當り、そして彼は岩の上に打ち倒され、手に持つてゐた鐵砲は身體より向うの野原に落ちてゐた。

 「私はその當時の受持の坊さんに、それは何だらうと尋ねてみたら、」彼は云つた。「それは墮落した天使だと云つた。さうより他にわからない。」

 「又或る時のこと、」彼は續けて云ふ。「私が、崖になつてその下に小さな穴のある處へ來かかると、その傍で或ひはその中で、笛の音が聞こえた。その時は、夜明け前だつたがね。とにかく、不思議なことはあるものだ。三十年前だつたが、或る晩、-人の男が來て、その人のお内儀さんがお産すると云ふので、私の女房を連れて行つた。

 その男は燈臺や海上警察署に何か關係を持つてゐて、プロテスタントだつたが、そんな事は何も信じてゐない人たちの一人で、我我を馬鹿にしてゐるのだ。さて、その男が私の女房の支度をしてゐる間に、一クォートの酒を取つて來てもらひたい、若し怖かつたら一緒に行つてやる、と云ふ。

 私は怖くないと云つて獨りで出かけた。

 その歸り途で、道に何かゐるやうだ。私も馬鹿でなかつたら、砂の上からためつすがめつ行くところだつたが、いきなりその方へ行つて、遂にそれに近よつた――つい餘り近より過ぎた――その時、「デ・ブロフンディス」[聖書の詩篇にある祈りの言葉で此處では魔除けの言葉として用ひる]と云へばこのやうな生き物は向つて來られないと、よく人が云ふのを憶ひ出したので、さう云つてみたら、件の物は砂原を越えて逃げて行つたので、私は家へ歸つた。

 道にゐたのは、年取つた牡の驢馬ぢやないかと、よくさう云ふ人もあるが、「デ・ブロフンディス」と云つたからとて、牡の驢馬が逃げて行つたといふ話はまだ聞いたことがない。」

 私は、中の島で開いた話であつたが、十字を切つたら消えたといふお化け船の話をした。

 「海の上には、不思議なことがある。」彼は云つた。「或る晩のこと、私は貴方にも見えるだらうが、あの下の方の靑くなつた所に居たら、一艘の船がはひつて來るのが見えた。あんなに岩に近づいて來て何をするのだらうと、不思議に思つてゐたが、それはまつ直ぐに私のゐた方へ向いてやつて來る。私はびつくりして、家の方へ逃げて行つたが、船長が私の逃げるのを見ると、進路を變へて、行つてしまつた。

 その頃、私は時時船乘りとして出かけることがあつた。――ただ二三囘出かけたに過ぎないが。さうだ、或る日曜のこと、大きな船が瀨戸にはひつて來たと人が云ふ。三人の男と一緒に驅け下りて、カラハに乘つて出かけた。わし等は船の居たといふ處まで來たが、一艘の船も居やしない。日曜で仕事はないし、おまけに晴れて靜かな日ではあるし、わし等は船を探しに遠く漕ぎ出て、遂に後にも先にも行つたことのない遠くまで來てしまつた。漕ぎ返さうと思つて、見ると、海の上に鳥の大群がゐる。それは全部黑い色で、白いのは一羽もゐない。鳥はわし等を少しもお恐れてゐる樣子がない。一緒の男たちは行かうと云ふので、もつと行き、殆んど觸れさうになる迄に近づくと、それがパット飛び立つた。[やぶちゃん注:「ト」はママ。]空が眞黑になるほど澤山だつた。そしてまた百ヤード、或ひは恐らく百廿ヤードも沖に鳥はまた下りた。わし等は又その後を追つかけ、一人の男は一羽を橈栓で殺さうと云ひ、もう一人は漕桿で殺さうと云ふ、私はそれ等はカラハを覆すのではないかと思つたが、他の男は尚追つかけて行きたがる。

 殆んど觸れさうになるまで近づくと、一人は櫂栓を投げ、もう一人は漕桿で打つた。すると二羽がカラハの中へ落ちて來て、そして舟は横樣に引つくり返り、若し海が全く靜でなかつたら、わし等は皆溺れただらう。

 思ふに、その黑い鷗と船は同じものだつたらう。それから後、私は船乘りとして出かけた事はない。カラハが船まで出かけて、船が居なくなつてしまふ事はよくある事だ。

 此の間、大島からカラハが一艘の船へ向つて出かけたが、船は居ず、カラハに居た人は皆溺れた事がある。後でそれを歌つた立派な歌が出來た。私はそれを聞いた事はないが。

 また或る日、此の島からだつたが、カラハが漁に出かけた。ところが、さう遠くない處に一艘の船が見えた。その人達はパイプの火を借りようと――その當時はマッチがなかつたので――その大きな船に近づくと、そのゐた場所から船がなくなつてゐたので、大そう恐ろしくなつたさうだ。」

 それから、彼は本土で聞いた話をした。それは或る男が夜、馬車を驅つて田舍を通つてゐると、一人の女に逢つた。その女はこつちの方へやつて來て、馬車に乘せてくれと云ふ。怪しい女と思つたので行過ぎて、少し行つてから後を振返つて見ると、一匹の豚が道の上に居て、女の人は誰も居なかつた。

 彼は一杯食はされたと思つたが、尚も行き續けた。それから森を通り拔けて尚進んで行くと、二人の男が一人づつ道の南側から出て來て、馬の手綱をしつかりと抑へ、馬を間に挾んで連れて行かうとする。その男と云ふのは粗い羅紗の着物を着、昔風な裝(なり)をしてゐて、年取つた力のなささうな人であつた。彼等が森から出ると、大道の市場で賣買をしてゐるやうな人だかりとなつた。而かもその人達は生きてゐる人間ではなかつた。老人は群集の中を通り拔けて、彼を連れて行き、それから別れた。彼が家に歸つて、此の二人の老人の身の周りの風やら所作やらを年寄達に話したら、年寄達はそれは二人のお祖父(じい)さんで、彼等は孫を可愛がつてゐたから、成人したその男を護つてくれたのだと言つた。

 

 

I asked him if he had known old Pat Dirane on the middle island, and heard the fine stories he used to tell.

'No one knew him better than I did,' he said; 'for I do often be in that island making curaghs for the people. One day old Pat came down to me when I was after tarring a new curagh, and he asked me to put a little tar on the knees of his breeches the way the rain wouldn't come through on him.

'I took the brush in my hand, and I had him tarred down to his feet before he knew what I was at. "Turn round the other side now," I said, "and you'll be able to sit where you like." Then he felt the tar coming in hot against his skin and he began cursing my soul, and I was sorry for the trick I'd played on him.'

This old man was the same type as the genial, whimsical old men one meets all through Ireland, and had none of the local characteristics that are so marked on lnishmaan.

When we were tired talking I showed some of my tricks and a little crowd collected. When they were gone another old man who had come up began telling us about the fairies. One night when he was coming home from the lighthouse he heard a man riding on the road behind him, and he stopped to wait for him, but nothing came. Then he heard as if there was a man trying to catch a horse on the rocks, and in a little time he went on. The noise behind him got bigger as he went along as if twenty horses, and then as if a hundred or a thousand, were galloping after him. When he came to the stile where he had to leave the road and got out over it, something hit against him and threw him down on the rock, and a gun he had in his hand fell into the field beyond him.

'I asked the priest we had at that time what was in it,' he said, 'and the priest told me it was the fallen angels; and I don't know but it was.'

'Another time,' he went on, 'I was coming down where there is a bit of a cliff and a little hole under it, and I heard a flute playing in the hole or beside it, and that was before the dawn began. Whatever anyone says there are strange things. There was one night thirty years ago a man came down to get my wife to go up to his wife, for she was in childbed.

'He was something to do with the lighthouse or the coastguard, one of them Protestants who don't believe in any of these things and do be making fun of us. Well, he asked me to go down and get a quart of spirits while my wife would be getting herself ready, and he said he would go down along with me if I was afraid.

'I said I was not afraid, and I went by myself.

'When I was coming back there was something on the path, and wasn't I a foolish fellow, I might have gone to one side or the other over the sand, but I went on straight till I was near it--till I was too near it--then I remembered that I had heard them saying none of those creatures can stand before you and you saying the De Profundis, so I began saying it, and the thing ran off over the sand and I got home.

'Some of the people used to say it was only an old jackass that was on the path before me, but I never heard tell of an old jackass would run away from a man and he saying the De Profundis.'

I told him the story of the fairy ship which had disappeared when the man made the sign of the cross, as I had heard it on the middle island.

'There do be strange things on the sea,' he said. 'One night I was down there where you can see that green point, and I saw a ship coming in and I wondered what it would be doing coming so close to the rocks. It came straight on towards the place I was in, and then I got frightened and I ran up to the houses, and when the captain saw me running he changed his course and went away.

'Sometimes I used to go out as a pilot at that time--I went a few times only. Well, one Sunday a man came down and said there was a big ship coming into the sound. I ran down with two men and we went out in a curagh; we went round the point where they said the ship was, and there was no ship in it. As it was a Sunday we had nothing to do, and it was a fine, calm day, so we rowed out a long way looking for the ship, till I was further than I ever was before or after. When I wanted to turn back we saw a great flock of birds on the water and they all black, without a white bird through them. They had no fear of us at all, and the men with me wanted to go up to them, so we went further. When we were quite close they got up, so many that they blackened the sky, and they lit down again a hundred or maybe a hundred and twenty yards off. We went after them again, and one of the men wanted to kill one with a thole-pin, and the other man wanted to kill one with his rowing stick. I was afraid they would upset the curagh, but they would go after the birds.

'When we were quite close one man threw the pin and the other man hit at them with his rowing stick, and the two of them fell over in the curagh, and she turned on her side and only it was quite calm the lot of us were drowned.

'I think those black gulls and the ship were the same sort, and after that I never went out again as a pilot. It is often curaghs go out to ships and find there is no ship.

'A while ago a curagh went out to a ship from the big island, and there was no ship; and all the men in the curagh were drowned. A fine song was made about them after that, though I never heard it myself.

'Another day a curagh was out fishing from this island, and the men saw a hooker not far from them, and they rowed up to it to get a light for their pipes--at that time there were no matches--and when they up to the big boat it was gone out of its place, and they were in great fear.'

Then he told me a story he had got from the mainland about a man who was driving one night through the country, and met a woman who came up to him and asked him to take her into his cart. He thought something was not right about her, and he went on. When he had gone a little way he looked back, and it was a pig was on the road and not a woman at all.

He thought he was a done man, but he went on. When he was going through a wood further on, two men came out to him, one from each side of the road, and they took hold of the bridle of the horse and led it on between them. They were old stale men with frieze clothes on them, and the old fashions. When they came out of the wood he found people as if there was a fair on the road, with the people buying and selling and they not living people at all. The old men took him through the crowd, and then they left him. When he got home and told the old people of the two old men and the ways and fashions they had about them, the old people told him it was his two grandfathers had taken care of him, for they had had a great love for him and he a lad growing up.

 

[やぶちゃん注:「此の爺さんは愛蘭土の何處ででも出逢ふ快活な、茶目氣のある型の人で、イニシマーンに目立つた地方的の特質を持つてゐなかつた。」原文は“This old man was the same type as the genial, whimsical old men one meets all through Ireland, and had none of the local characteristics that are so marked on lnishmaan.”であるが、やや問題があるように思われる。則ち、素直にこの邦訳を読むと、この話者である老人は一般的なアイルランドでは、しばしば頻繁に見受けられるところの「快活な、茶目氣のある型の」よくある老人である。しかし、そういう老人はイニシマーン島では滅多に見当たらない、という謂いにしか採れない。しかし、これは今まで読んできた我々には、それでは奇異に感じられるのである。シングはイニシマーンの人々をこそアランの原型としての素朴な民として称揚していることは最早、明らかだからである。そういう疑義を持って原文を見ると、“genial”と“whimsical”の対称性に気付く。ここは「愛想がいい」⇔「むらっ気のある」で、妙に人懐っこいものの、その実、ぷいっと機嫌が変わるといったかなりいい加減な性質(たち)、という意味であろう。さすれば、ここは「この爺さんはアイルランドを行くとしばしば出逢うところの、謂わば――愛想はいいが、むらっ気のある――妙に人懐っこいものの、その実、ぷいっと機嫌が変わってしまうような――どこか今一つ、信頼を置くことの出来ぬ、いい加減な――老人で、私が愛してやまない、かのイニシマーンの人々に特徴的な稀有の地方的な人品――驚くべき純朴と誠実に溢れた稀れなる性質(たち)――を遺憾ながら、全く持ち合わせていない、軽薄な老人であった。」と言っているように、私には思われる。

「さあ、あつちを向いてごらん。」原文は“"Turn round the other side now,"”で、これは「さあ、ぐるっと回って。反対側にも(塗って)進ぜよう。」で、タールをズボンの反対側(後ろ側)にも塗ろう、という意味である。

「踏段」アランでよく見かける、所有地を示し、また強風から家屋や作物などを守るための人工の石組みの垣根のこと。

「墮落した天使」原文は“the fallen angels”で複数形。

「海上警察署」“the coastguard”。沿岸警備隊。正式には“Her Majesty's Coastguard”、「王立沿岸警備隊」である。

「そんな事は何も信じてゐない」の「そんな事」は悪魔や妖精といった超常的存在や現象を指す。

「一クォートの酒」原文“a quart of spirits”。現在のイギリスの単位1 クォートは1.1365225リットル。約一リットル強。“spirits”で、お産の消毒用の蒸留酒である。

「私も馬鹿でなかつたら、砂の上からためつすがめつ行くところだつたが、」原文は“and wasn't I a foolish fellow, I might have gone to one side or the other over the sand,”。「私が馬鹿な輩でなかったなら、私はその何かのいるところと有意に反対側か、若しくはもっと向こう側にある砂浜を行ったかも知れないが、」で、結果的には「儂は馬鹿で、ずんずんそいつに近づいてっちゃった」のである。「ためつすがめつ」(矯めつ眇めつ)という日本語は「色々な角度からよく観察すること」を意味し、ここの訳としても、民俗学的な習俗としても相応しくなく、逆にこうした場合のタブーでさえある。凝っと見てはいけない。逆に魅入られる、のである。

「デ・ブロフンディス」“De Profundis” ラテン語で“out of the depths”、「深き淵より」の意で、旧約聖書「詩篇」第129番に現われる言葉。古くから死者の典礼を行う際に歌われ、悲しみや絶望などのどん底からの叫びの意を持つ。「主よ、我れ、深き淵より主を呼ばはる。主よ、わが声を聴き容れ給へ。願はくは我が願ひの声に御耳傾け給へ……」と始まる呪言である。

「或る晩のこと、私は貴方にも見えるだらうが、あの下の方の靑くなつた所に居たら、」原文は“'One night I was down there where you can see that green point,”の部分。この“point”は岬で、あそこに「ある夜のことじゃ――ほれ、あの下の方に緑色の岬が見えるじゃろう、あそこに儂は居った――」の意。ここで老人との会話のロケーションの位置が、かなり高い位置で、尚且つ、海と岬の見える場所での聴き取りであることが明らかになる。広角レンズに変えたような上手い効果である。

「船乘り」原文は“a pilot”で、ここは水先案内人と訳したいところだ。

「百ヤード、或ひは恐らく百廿ヤード」91mから110m弱ほど。

「橈栓」は「かいせん」と読み、「櫂栓」と同じい。原文“thole-pin”は“tholepin”で櫂を船端に固定するための器具。櫓べそ。恐らく抜けば固定部分が尖っているものと思われ、それを槍のように投げつけて鳥を射落とすということと推測する。

「漕桿」「さうかん(そうかん)」と読むか。原文“rowing stick”は櫂・オールのことであるが、海事用語としては一般的な表現ではない。

「わし等は又その後を追つかけ、一人の男は一羽を橈栓で殺さうと云ひ、もう一人は漕桿で殺さうと云ふ、私はそれ等はカラハを覆すのではないかと思つたが、他の男は尚追つかけて行きたがる。」以下の部分は、まさに話者の爺さん以外の二人は、完全に魔に魅入られている。海上にあって櫂栓を失えばオールは漕げず、オールを失えば命とりとなるという当たり前のことをこの海の男たちは全く認識出来ていない。ということはまさに幽霊船や不吉な黒鳥の群れの背後にある邪悪なるものに完全に魅入られていると言ってよいのである。命を落とさなかったのは幸いであった。幾分、この話柄には老人だけは正気であったことを自慢するニュアンスが感じられる。

「此の間……後でそれを歌つた立派な歌が出來た。私はそれを聞いた事はないが。」の「此れの間」の原文は“A while ago”で、確かに「少し前に、数分前、先程」という意味であるが、この成句は必ずしも短い時間限定する訳ではなく、歴史的時空間的な大きなレンジでの相対的な、実はもっと長い時間を意味する「暫く前」の方がしっくりくる。何故なら、その幽霊船とカラハの乗組員全員溺死という恐ろしくも哀しい出来事は、民俗的伝承の中に取り込まれて、それを詠んだ名悲歌が作られるまでには、相応の時間が必要だからである。これは「新しい歌」だからまだ聴いたことがないのではなく、寧ろ逆に古い伝承で、最早、そのエレジーを知っていて歌える者がいなくなったということを意味していると考える方が自然ではあるまいかと私は考えるのである。

「大道の市場で賣買をしてゐるやうな人だかりとなつた。而かもその人達は生きてゐる人間ではなかつた。」“When they came out of the wood he found people as if there was a fair on the road, with the people buying and selling and they not living people at all.”は最大の怪談の真骨頂で、これは中国で言う所の、死者たちが商いをする「鬼市」である。]

2012/04/04

野人四日目 野人の休日 ボストン美術館 日本美術の至宝

この展覧会の題名――気に入らん――だったら、「正義」のアメリカさんよ、「日本美術の至宝」なら皆、日本へ還さんかい! あほんだら!――閑話休題。

ビビったのは、最初の狩野芳崖の「江流百里図」――岩塊が生き物のように画面から動き出す――川は無限遠へ、そして手前の岩は見る者の肉体へと繋がる有機的な連続性の魔法を孕む。

「吉備大臣入唐絵巻」と「平治物語絵巻」の牛歩はそれだけでうんざりだ――妻は前者の本文筆跡が目当てなればその縄手に入るも、僕は一列後ろで少し遠目に見る――それでも監視員が「後から見る事も出来ます」と言いつつ、「間を空けずにお進み下さい。間が空くと割り込みトラブルの原因ともなります」という不快なコールをする――如何にもなクソ日本人の糞ゾロゾロ行列――しかし、前者の面白味は充分に分かったし、平治の乱の「三条殿夜討巻」の、縁の下を覗き込む武士の背に、武家の台頭の『肉』のリアルが見えた。僕はそれで十分。

今日の最大の収穫は――伊東若冲と曽我蕭白だ――

やっぱり――彼らは只者じゃあない――

若冲の鸚鵡の3Dぶっとびの立体感を――

蕭白の鷲の羽そして風仙の靡く髭の――「立ち」を見よ!

――それらはただの「見た目の観察」ではないのだ――その一本一本の毛が鸚鵡や鷲や人の「毛」そのものがそれぞれの肉体とどう結びついているかという生物学的な組織学的存在(但し、それは冷徹で禁欲的なダ・ヴィンチの突き詰めた西洋の解剖学的手法とは微妙に異なるのである)な稀有の「統合された視点からの360度の純正な観察」なのだ!――

いや! そこには既にして『感情』さえ詠み込まれていると言ってよい――

これは若冲の「十六羅漢図」、蕭白の「商山四皓図屏風」の一気呵成の奔放に見える筆でさえ同じである――それは『原器』への回帰――細部のリアリズムの認識が原子の単位にまで解析され透徹されて――そこに共通した『原核』たる『生物』を見出す、ということである――

まさに最後の「雲龍図」は、その激しい真理を我我に突きつける――若冲や蕭白の「眼」が真正のシュールレアリストのそれであったことを如実に物語っているということである!

細部の――文字通り、鸚鵡も鷹も、そして架空の龍も――いわばその一本一本の風と気に吹かれる体毛も鼻毛も、いや、その空白の風も気も――文字通り、「毫毛も」疎かにせ「ず」に描き出した瞬間――外界は自動描法的(オートマティスム)に至高に美しいデフォルメをするのである!――「雲龍図」の波頭、その龍の体部の生々しい二重螺旋のようなうねり――「ミロのヴィーナス」の如く、襖の失われたその中央の龍の体部が、右手の襖の足爪に繋がるそれが、我々には「確かに感じられる」ではないか!――はどうだ! これは細部のリアリズムを得ての、その『原器の認識』あっての真の自在にして奔放な「デフォルメ」である――

僕は彼らの絵を見て――

孤独で凡人の顧みることのない真理を見つめる博物学者のみが真の芸術家たり得る

真の芸術家は、須らく孤高の博物学者にほかならぬ

――という思いを、今日は新たにしたのであった。

若冲と蕭白――“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!

追伸:僕にとって痛快だったのは、二枚の絵で陶淵明に逢えたことである――その笑顔は――如何にも爽やかだったことである――僕もこれからずっと、そんな笑顔でいたいと思っているのだ……

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (19)

 朝の間中、私は或る爺さんと一緒にゐた。爺さんは家のための藁繩を作つてをり、働きながら私と話した。彼は若い時、船乘であつて、最初、ドイツ人、イタリヤ人、ロシヤ人のことに就き、或ひは港町の有樣に就いて澤山話をした。それから話は中の島のことになつて行き、こんな話をしたが、それは島と島の間にある妙な嫉妬心が覗へる。――

 昔、わし等はずつと異教徒だつた。それで教父達が來て、神に就いてまた世界の創造に就いて、わし等に教へるのが慣ひだつた。中の島の人達は一番後までも拜火教の、或はその當時あつた何かの信仰を持ち續けてゐた。だが、結局彼等の中にも教父が來て、その云ふことに耳傾けるやうになつた。尤も、晩には信ずると云つておきながら、その翌朝は信じないと云ふ有樣だつたが。終に教父は彼等を説き伏せ、一軒の教會を建てることになつた。教父は石で仕事をする時、皆と一緒に使ふ道具を持つてゐた。教會が半ば出來上つた時、島の人達は教父が寢てしまふと、ひそかに相談して、本當に信仰して間違ひのないものかどうかを試さうとした。
 頭株の男が立ち上つて云ふには、さあ出かけて行かうぢやないか、そして道具を皆、崖から投げ捨ててしまはう。若し神といふやうな者があつて、教父が、その云ふやうに神に知られてゐるなら、我我が道具を投げ捨てたやうに、彼はそれを海から拾ひ上げることが出來るだらうから。
 そこでその人達は出かけて行つて、その道具を崖から投げ捨てた。
 朝になつて、教父が教會に來ると、仕事する人達は皆石の上に坐つて、仕事をしてゐない。
 「何故、お前達は怠けてゐるのか?」教父が尋ねた。
 「わし等は道具を持つてゐないのです。」 皆はさう云つて、それから自分達のした事をすつかり話した。
 教父は跪いて、道具が出て來るやうにと祈り、また何處の人達も中の島の人達ほど、馬鹿でないやうに、そして神は世の終りまで彼等の愚かな暗い心を守護して下さるやうにと神に祈つた。そのために、あの島の人達は口ごもらずには話を全部云ふことが出來ず、或ひは間違ひなく、どんな仕事でも最後までやり通すことが出來ない。

I have been sitting all the morning with an old man who was making sugawn ropes for his house, and telling me stories while he worked. He was a pilot when he was young, and we had great talk at first about Germans, and Italians, and Russians, and the ways of seaport towns. Then he came round to talk of the middle island, and he told me this story which shows the curious jealousy that is between the islands:--
Long ago we used all to be pagans, and the saints used to be coming to teach us about God and the creation of the world. The people on the middle island were the last to keep a hold on the fire-worshipping, or whatever it was they had in those days, but in the long run a saint got in among them and they began listening to him, though they would often say in the evening they believed, and then say the morning after that they did not believe. In the end the saint gained them over and they began building a church, and the saint had tools that were in use with them for working with the stones. When the church was halfway up the people held a kind of meeting one night among themselves, when the saint was asleep in his bed, to see if they did really believe and no mistake in it.
The leading man got up, and this is what he said: that they should go down and throw their tools over the cliff, for if there was such a man as God, and if the saint was as well known to Him as he said, then he would be as well able to bring up the tools out of the sea as they were to throw them in.
They went then and threw their tools over the cliff.
When the saint came down to the church in the morning the workmen were all sitting on the stones and no work doing.
'For what cause are you idle?' asked the saint.
'We have no tools,' said the men, and then they told him the story of what they had done.
He kneeled down and prayed God that the tools might come up out of the sea, and after that he prayed that no other people might ever be as great fools as the people on the middle island, and that God might preserve theft dark minds of folly to them fill the end of the world. And that is why no man out of that island can tell you a whole story without stammering, or bring any work to end without a fault in it.

[やぶちゃん注:「教父は石で仕事をする時、皆と一緒に使ふ道具を持つてゐた。」原文は“the saint had tools that were in use with them for working with the stones.”であるが、妙な直訳である。因みに、ここは語部の爺さんが特に“saint”と使っているので「聖人」と訳したい。素直に「皆が教会造りの石切りに用いる道具はその聖人さまが用意した。」でよいのではなかろうか。
「そのために、あの島の人達は口ごもらずには話を全部云ふことが出來ず、或ひは間違ひなく、どんな仕事でも最後までやり通すことが出來ない。」これを読むと、イニシーアの島民の素朴なイニシマーン島民への嫉妬以前に、私はつくづく神は気まぐれだと、溜め息が出るのである。誰より素朴なイニシマーン島の民の話下手や仕事の貫徹不徹底は、愚かな彼等へのヤーハウェの神罰という解釈が否応なしにもたらされるからである――キリスト教では神を試してはいけないのは分かる――しかし、それ故に神罰をそこいら中にはびこらせる「神」は、叡山の強訴となんら変わらん――と私は思うのである。]

2012/04/03

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (18)

 私は此の群島の人達をよく知つてゐるつもりではあるが、彼等の生活の何か新しい原始的な特色に出逢はない日とては一日もない。
 昨日、或る家に行つたが、其處の内儀さんは働いてゐて、だらしない身裝(みなり)をしてゐた。その女は私が亭主と話をするやうになるまで、暫く待つてゐて、それから片隅へそつと行き、さつぱりしたペティコートを着、派手な襟卷を卷いて、また出て來て爐の傍に坐つた。
 今夜は他の家へ行き、その家の人達と夜遲くまで話してゐた。幼い男の子――その家の獨り子――が眠くなると、お婆さんはその子を膝に載せて歌ひだした。その子がうとうとしてくると、次第にその着物を脱ぎ取つて、その子の身體中をそつと爪で掻いてやつた。それから壺の水を少し取つて足を洗ひ、寢床に寢かせた。
 家へ歸つて行く途中、風で砂が顏に吹きつけ、行く手が殆んどわからなかつた。私は帽子で口と鼻を塞ぎ、片手を目に當てて、砂の穴や岩を足で探りながら歩かなければならなかつた。

Well as I seem to know these people of the islands, there is hardly a day that I do not come upon some new primitive feature of their life.
Yesterday I went into a cottage where the woman was at work and very carelessly dressed. She waited for a while till I got into conversation with her husband, and then she slipped into the corner and put on a clean petticoat and a bright shawl round her neck. Then she came back and took her place at the fire.
This evening I was in another cottage till very late talking to the people. When the little boy--the only child of the house--got sleepy, the old grandmother took him on her lap and began singing to him. As soon as he was drowsy she worked his clothes off him by degrees, scratching him softly with her nails as she did so all over his body. Then she washed his feet with a little water out of a pot and put him into his bed.
When I was going home the wind was driving the sand into my face so that I could hardly find my way. I had to hold my hat over my mouth and nose, and my hand over my eyes while I groped along, with my feet feeling for rocks and holes in the sand.

[やぶちゃん注:原文では、次に行空きがなく繋がっているが、分けた。]

野人第三日 身辺整理

アリスを風呂に入れた後、33年間国語教師として残してきた段ボール4箱分の資料を廃棄した。こんなものまで残していたのかと我ながら己れの蒐集癖に半ば呆れながら――但し、生徒の自筆の幾たりかの感想文と、担任であった時の学級日誌や生徒との写真、彼等からの別れの色紙などは捨てるに忍びず、未練がましくも残してしまった。さればこそ、未だ「明窓浄机」とは――ほど遠いな――

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (17)

 老物語師は、鷲と戰つた男を歌つた長い吟唱曲を教へてくれた。それは少し不規則で曖昧な所はあるが、學者と一緒に飜譯した。

[やぶちゃん注:「學者」は既出のアラン島の人の中でも多少の教養を持った「郷土史研究家」の意。以下、底本では物語全体が一字下げである。]

 

     フェリムと鷲

 

 朝早く起きると、困つたことがあつたので、日曜のことだが、靴を穿いて「死者の谷」の中にあるティアニーへ行つた。其處で出建つた大きな鷲は、茨の積重ねのやうに眞黑く、いかめしさうに立つてゐた。

 

 私はそれに呼びかけた。やくざ者よ、馬鹿者よ【、】國で一番偉いならず者の、クラン・クリオパス族の女と馬鹿者の間に生れた息子よ。私の一番よく啼く可愛い牡雞を盜んだお前に、此の呪と私の七つの呪がかかり、好い運には決して逢はないだらうと。

 

 

【鷲】「お前の氣が確かなら、私に餘りひどい呪をかけてはならぬ。私は誓つて、お前から家賃を決して取らぬ。燒鳩の小屋に、お前が何を貯めようとも、私は羨まぬ。お前のやうな者は商賣人には打つてつけだ。

 

【鷲】「だが、家へ行つてノラに聞いてごらん。雞の頭をゆでてゐた若い女の名は何と云ふかと。その肋の羽は竃で燒かれた。そして皆食つちやつたが、そんなに有難くは思つてはゐないよ。」

 

【フェリム】「お前は嘘つきだ、泥棒だ。皆んなそんなうまい物を食つて、きつと有難からずには居られない。お前はそれを昨日食つたと、ノラが云つたぞ。そしてお前は、私が税を取る迄で、收穫の四分の一も使はないのだらう。」

 

【鷲】「私はフィアンナに失戀するまではよい男の子であつた。泥棒なんかする事は少しも考へず、始終手品をしたり、ゴル・マック・モルナと力競べをして遊んだりした。そして一生の終りに、お前は私をならず者にしてしまつた。」

 

【フェリム】「一つの函の、底深く祕めて、私は祖先の本の一部を持つてゐる。それを讀む度毎に、涙が流れ出る。由緒をしらべてわかつたが、假令お前は喧譁が好きで感謝するのが常であつても、お前はダルグ・モールの子孫なのだ。」

 

 鷲は武具と衣服つけて、美しく裝ひ、手には選りすぐつて一番よく切れる劍を持つた。私は大鎌を手に、身にはシャツのほかなんにも着ず、二人は互ひにその日の朝早く出かけて行つた。

 

 私たちは、山の狹間や谷間を切り分け進みながら、二人の巨人のやうだつた。暫く、どちらが偉いともわからず、私たちは取り組んで、互ひにひしめき合ひする物音は、日が暮れて、彼が仕方なく止めるまで聞こえてゐた。

 

 翌朝、私は決鬪の挑戰狀を書き、夜明けの頃に間違ひなく戰ふやうに行くと、云つてやつた。彼に與へた第二の拳で顎の骨を打ちたたき、彼は斃れて氣が付かなくなつたのは噓ぢやない。

 

 鷲は起き上がり、私の手を取つて「お前は一生の中で逢つた一番偉い男だ。さあ、家へ行け、御機嫌よう、さらばだ。お前一人で、永遠に、愛蘭土の名譽を救つたのだ。」

 

 ああ! 皆さん、フェリムの偉さと強さを聞きましたか? どんな大きな猛獸でも、彼が第二の拳を加へて顎を打てば、それはまる二日間、起【き】上れなかつたものだ。

 

[やぶちゃん注:前半部で話者が今一つ分かり難いので【 】で補った。]

 

 

PHELIM AND THE EAGLE

 

On my getting up in the morning

And I bothered, on a Sunday,

I put my brogues on me,

And I going to Tierny

In the Glen of the Dead People.

It is there the big eagle fell in with me,

He like a black stack of turf sitting up stately.

 

I called him a lout and a fool,

The son of a female and a fool,

Of the race of the Clan Cleopas, the biggest rogues in the land.

That and my seven curses

And never a good day to be on you,

Who stole my little cock from me that could crow the sweetest.

 

'Keep your wits right in you

And don't curse me too greatly,

By my strength and my oath

I never took rent of you,

I didn't grudge what you would have to spare

In the house of the burnt pigeons,

It is always useful you were to men of business.

 

'But get off home

And ask Nora

What name was on the young woman that scalded his head.

The feathers there were on his ribs

Are burnt on the hearth,

And they eat him and they taking and it wasn't much were thankful.'

 

'You are a liar, you stealer,

They did not eat him, and they're taking

Nor a taste of the sort without being thankful,

You took him yesterday

As Nora told me,

And the harvest quarter will not be spent till I take a tax of you.'

 

'Before I lost the Fianna

It was a fine boy I was,

It was not about thieving was my knowledge,

But always putting spells,

Playing games and matches with the strength of Gol MacMorna,

And you are making me a rogue

At the end of my life.'

 

'There is a part of my father's books with me,

Keeping in the bottom of a box,

And when I read them the tears fall down from me.

But I found out in history

That you are a son of the Dearg Mor,

If it is fighting you want and you won't be thankful.'

 

The Eagle dressed his bravery

With his share of arms and his clothes,

He had the sword that was the sharpest

Could be got anywhere.

I and my scythe with me,

And nothing on but my shirt,

We went at each other early in the day.

 

We were as two giants

Ploughing in a valley in a glen of the mountains.

We did not know for the while which was the better man.

You could hear the shakes that were on our arms under each other,

From that till the sunset,

Till it was forced on him to give up.

 

I wrote a 'challenge boxail' to him

On the morning of the next day,

To come till we would fight without doubt at the dawn of the day.

The second fist I drew on him I struck him on the hone of his jaw,

He fell, and it is no lie there was a cloud in his head.

 

The Eagle stood up,

He took the end of my hand:--

'You are the finest man I ever saw in my life,

Go off home, my blessing will be on you for ever,

You have saved the fame of Eire for yourself till the Day of the Judgment.'

 

Ah! neighbors, did you hear

The goodness and power of Felim?

The biggest wild beast you could get,

The second fist he drew on it

He struck it on the jaw,

It fell, and it did not rise

Till the end of two days.

 

[やぶちゃん注:原文はご覧のように、分かち書きになっている。「鷲」と「雞」と「鳩」――この伝承は鳥が絡む。直前にインサートされた話にも「冠烏」が出る――シングの書き方はその構成が実は美事に計算されて、澱みなく有機的に文章が続くことに注目したい。

『「死者の谷」の中にあるティアニー』不詳。

「クレオパス」“Cleopas”不詳。新約聖書にイエス・キリストが復活した日の午後、エマオの途上でイエスに出逢った二人の弟子のうちの一人の名前として登場するが、侮蔑の文句の中にあるので無関係か。

「燒鳩の小屋」原文“the house of the burnt pigeons”。中国をはじめ、フランス・イタリア・エジプトでは通常の料理として今でもハトの丸焼きやハト料理がある(丸焼きではないが私もイタリアで食した)。イギリスでも18世紀頃までは普通に食されていた。さすれば、これはフェリムの家(自営業)は鳩の丸焼き食わせる焼き鳥屋であることを意味している。

「燒鳩の小屋に、お前が何を貯めようとも、私は羨まぬ。」“I didn't grudge what you would have to spareIn the house of the burnt pigeons,”という部分、“spare”が分からない。これを姉崎氏は「惜しんで使わない」「節約する」から、金品か何かを「小屋」(店)の中にこっそり溜め込んでいる(家賃も払わないくせに)、という意味で捉えられたようであるが、これは寧ろ、次で「お前のやうな者は商賣人には打つてつけだ」と揶揄するところを見れば、鳩の丸焼き食わせる焼き鳥屋でありながら、実は鳩を「惜しんで使わない」、鳩「なしで済ませ」ている、羊頭狗肉的な皮肉を言っているようにも取れる。そう言えば、前段のフェリムの鷲への非難に出て来るのは「鳩」ではなく、「牡雞」である。するとフェリムは鳩頭鶏肉であったということか? そうすると次の段落の不可解さも少し腑に落ちる。ハトとは真っ赤な偽りで、ニワトリを縊り、頭はこっそりゆで汁にでもし、ばれたら困るニワトリの羽は悉く爐で灰にしている、という訳である。栩木氏もほぼそうした羊頭狗肉的ニュアンスで訳しておられるが、最終行は姉崎氏の「お前のやうな者は商賣人には打つてつけだ」という訳とは全く異なっている。当該書をお読みになられたい。

「そしてお前は、私が税を取る迄で、收穫の四分の一も使はないのだらう。」これもまた、ノストラダムスの大予言並の難解さである。原文は“And the harvest quarter will not be spent till I take a tax of you.'”で、“harvest”は古語廃語で方言の収穫の「秋」で、その一年の1/4の四季支払い期の一つ“harvest quarter”を指していないか? 更に、それを消費させない、というのはそこまで待たないでという意味ではないか? そうして“tax”は税ではなく、口語の「代金」であり、全体で「お前には(鷲)には四季支払い期で、次に迫っている秋の代金請求(が終わる)その時よりも前までに、きっときっちり(お前盗んだ雄鶏の代金を)請求するぞ!」という意味ではあるまいか? 栩木氏の訳もほぼそうしたコンセプトである。

「私はフィアンナに失戀するまではよい男の子であつた。」原文“'Before I lost the FiannaIt was a fine boy I was,”。この“Fianna”は女性の名ではなく、アイルランドの神話フェニアンサイクルに登場する英雄フィン・マックールが率いるフィアナ騎士団のことである。従って姉崎氏の“lost”「失戀」というのも正しくなく、その壮大にして複雑なフェニアン・サイクル神話の最後にフィアナ騎士団が壊滅させられることを指すものと思われる。私自身、この注を附すまで全く知らない神話であったが、ここは従って「私はフィアナ騎士団が亡ぼされるまでは/一個の見目麗しい少年であったのに」という意味であろう。則ち、この老いた荒鷲はかつて伝説中のフィアナ騎士団の騎士の一人であったということであろう。栩木氏が文字通り、正にぴったりくる「若鷲」と訳しておられるのは絶妙である。

「ゴル・マック・モルナ」“Gol MacMorna”。勇者にしてフィアナ騎士団の元団長。後に団長となる英雄フィン・マックールの父は彼に殺されており、宿敵であったが、紆余曲折を経てフィンの配下となった(一説には決闘によって倒したとも)。その辺りの経緯は、参照したウィキの「フィン・マックール」を読まれたい。

「泥棒なんかする事は少しも考へず、始終手品をしたり、ゴル・マック・モルナと力競べをして遊んだりした。そして一生の終りに、お前は私をならず者にしてしまつた。」“It was not about thieving was my knowledge,But always putting spells,Playing games and matches with the strength of Gol MacMorna,And you are making me a rogueAt the end of my life.'”。“my knowledge” 「私の智」「私の能力」は前後に関わる。だから“Playing games”を「手品をしたり」とするのはいただけない。“game”と“match”が対になっているから、その頃の彼(騎士であった頃の「鷲」)は、一人でする勇壮な“game”「狩り」と、例えば最強の力持ちであった勇者ゴル・マック・モルナを相手に互角に「力競べを」する(レスリングや武術試合をする)のが彼の能力発揮の専ら、日常であったと言うのである。そんな孤高にして高潔な過去世を持つ「私を」、「お前は」この期に至って、冤罪である雄鶏の盗人として誹謗中傷し、あろうことか今まさにこの「一生の終りに」、「ならず者」扱いにしやがった、と「鷲」は逆切れしているのである。ここでも栩木氏の訳は絶好調で、「鷲」一人称を「ワシ」(儂)と訳されており、いい感じだ。

「祖先の本の一部」“a part of my father's books”はアイルランド神話が書かれた史伝類のことであろう。ここでそれが「一つの函の、底深く祕めて」(家宝として筐底深く大切にされてきた)事実、「それを讀む度毎に」、フェリムの目から「涙が流れ出る」という事実から、ここでは「鷲」「の由緒」ばかりではなく、フェルムの先祖自身も正当なフェニアン・サイクル神話の中の重要な登場人物であることが分かる。

「假令お前は喧譁が好きで感謝するのが常であつても、お前はダルグ・モールの子孫なのだ。」“That you are a son of the Dearg Mor,If it is fighting you want and you won't be thankful.'”。「ダルグ・モール」不詳。意味はゲール語で「赤い巨人」である。このフェルムの謂いからはアイルランド古神話に登場する悪役・裏切り者であり、最後には敗者となる人物であろうと思われる。スコットランドの高山に“Carn Mor Dearg Arete”カーン・モア・ジェレック・アレートと呼ばれる馬蹄形の稜線を持った山があるが、これはこの「赤い巨人」が住んだか化したものということか。最終行は「假令お前は喧譁が好きで感謝するのが常であつても、」とあるが、ここは「喧譁が好きで感謝する」と順接で続けたのでは意味が取れない。「鷲よ、意気高々にお前が私に真剣勝負を望んだとしても、しかしな、最後にゃ負けるんだ――これはフェルムの自己肥大や嚇しというより、私(やぶちゃん)には、それが恐らくダルグ・モールの運命の神話上の約束事なのではないかと思う――そうして貴様は、私の前に斃れ這いつくばって、必ずや、感謝の祈りをせざるを得なくなるのさ。」といった意味であろう。どこで「鷲」が「人型」になるのかは、意見の分かれるところであろうが、この次の段からは「鷲」も人型となり、フェルムも巨大化してウルトラ・ファイト(ウルトラ・シリーズの申し子である私は、あの番組は大嫌いである)の様相を呈する。初めっから人型であったとしても文脈上はおかしくはない。但し、私は冒頭に述べた通り、最初は鳥類の「ワシ」でないと、神話的叙事の面白味が半減するように思う。

「二人は互ひにその日の朝早く出かけて行つた。」“We went at each other early in the day.”。翌朝、それぞれが果し合いの場に出向いて互いに対峙した、の意。

「日が暮れて、彼が仕方なく止めるまで聞こえてゐた。」“From that till the sunset,Till it was forced on him to give up.”は、「日が暮れて」暗くなって互いに相手が見えなくなって「仕方なく止め」た、という意味であるが、栩木氏の訳では、相手は鷲だから『鳥目』で、夜は戦えないという設定で訳されており、実に味な訳である。

「彼は斃れて氣が付かなくなつたのは噓ぢやない。」“He fell, and it is no lie there was a cloud in his head.”であるから、「噓じゃないぜ――暫くの間、鷲は仰向けになったまま、立ち上がることが出来なくなって、彼の頭(顔面)の上を雲が流れてゆくばかりだったのさ。」といった感じか。

「お前一人で、永遠に、愛蘭土の名譽を救つたのだ。」原文は“You have saved the fame of Eire for yourself till the Day of the Judgment.”で省略がある。フェルムは古神「鷲」をうち倒した。負けた「鷲」がそれを言祝(ことほ)ぐ。新約聖書の「ヨハネの黙示録」に記された「最後の審判が下るその日まで、お前はたった一人でアイルランドの名誉を救った/救う/救うであろう男である。」という預言の祝福である。]

2012/04/02

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (16)

 愛蘭土の詩を語つてくれる老人は、私がその中から作つた幾つかの飜譯を妙に喜んでゐる。彼の云ふ處では、私がそれを讀んでゐる間、聞いてゐるにも少しも退屈せず、それ等は古い詩の方よりずつと立派ださうである。

 これは、その中の一つだが、私は出來るだけ愛蘭土語に近く飜譯してみた。――

 

     ルカード・モール

 

  私は破滅の悲しみを不運ゆゑと諦める、

  否むは不幸となるだらう。

  それはわが身につきまとふ、

  淋しさゆゑの憂き歎き。

 

  さすらひの身となつたのも、

  持ち物すつかり失くしたのも、

  みんな妖精達の成した業。

 

  こんなむごい振舞ひが私に爲されたのは、

  マニスティル・ナ・ルアイエであつた。

  フィン・ヴァラやその一味の妖精が、

  私の可愛い馬を鞄の下からつれて行つた。

 

  皮を殘して行つたなら、

  三月分(みつきぶん)の煙草錢にはなる物を、

  殘して行つたものとては、

  此の年とつた僕(しもべ)ばかり。

 

  可哀さうぢやないか私は?

  思ひ切れないあの牝馬、

  まだ馬代は拂はれず、

  淋しさ辛さ憂き歎き。

 

  山でも谷でも愛蘭土の、

  一番高いとりでの上も、

  くまなく牝馬を探したが、

  私の歎きは盡きはせぬ。

 

  朝は早目に起き出でて、

  パイプに赤い火をつけて、

  嬉しいことを聞くために

  クノック・モイエへ行つてみた。

 

  私の牝馬を取り戻す

  よい手立はないものかと

  そこの人達に聞いてみた。

  なければ考へなほさうと。

 

  「御存じないか、ルカード・モール?

  お前の牝馬は此處には居ない。

  男の妖精に連れられて、三月前、

  グレナスモイルに行つたのだ。」

 

  私は道を大急ぎ

  まつすぐ駈けて行つたらば、

  お晝にならぬその先に

  グレナスモイルに行き着いた。

 

  私の牝馬を取り戻す、

  よい手立はないものかと

  男の妖精に聞いてみた。

  なけれぼ考へなほさうと。

 

  「御存じないか、ルカード・モール?

  お前の牝馬は此處には居ない。

  笛吹く騎手に連れられて、三月前、

  クノック・パワー・ブリシュロ-ンに行つたのだ。」

 

  私は道を大急ぎ

  まつすぐ駈けて行つたらば、

  日もとつぷりと暮れた頃、

  クノック・パワー・ブリシュローンに行き着いた。

 

  其處には大勢人が居て

  皆んな手袋編んでゐる

  編み手のやうに思はれた。

  こんな處で噂を人は聞くだらう。

 

  私の牝馬を取り戻す、

  よい手立はないものかと

  騎手の男に聞いてみた。

  なければ考へなほさうと。

 

  「御存じないか、ルカード・モール?

  お前の牝馬は此處には居ない。

  クノック・クルーハンの宮殿の

  裏のはづれにそれは居る。」

 

  私は道を大急ぎ

  まつすぐ駈けて行つたらば、

  休みもしないで、私は、

  宮殿の前に行き着いた。

 

  其處には大勢人が居て、

  男も女も國中の

  人が皆んな集まつて、

  お祭り騷をやつてゐた。

 

  アーサー・スコイル(?)が立上り、

  音頭を取つて初めれば、

  皆んな面白さうだ、愉快だ、活潑だ、

  私も一緒に踊り出さうとした程に。

 

  足をぱつたり踏み止めて、

  皆んなは笑ひ出してゐた。――

  「御覧よ、ルカード・モールを、

  あいつは小さい牝馬を探してゐるんだ。」

 

  私が話しかけたのは

  醜い顏のこぶ男、

  牝馬を出さねば肋骨を

  折つてやらうと思つてた。

 

  「御存じないか、ルカード・モール?

  お前の牝馬は此處には居ない、

  私の母に手綱をとられ、

  レンスターのアルビンへ行つたのだ。」

 

  私は道を大急ぎ

  レンスターのアルビンヘやつて來た。

  其處で婆さんに出逢つたが――

  私の言葉を聞いて喜ばぬ。

 

  私は婆さんに尋ねたが、

  英語でどんどん云ひ出した。

  「行つてしまへ、馬鹿野郎、

  お前の云ふことが氣に食はぬ」

 

  「これこれもうし、お婆さん、

  私に英語はよしてくれ、

  誰が聞いてもわかるやうな、

  言葉で私に話してくれ。」

 

  「牝馬のことなら教へてもよいが、

  お前の來方が遲かつた。――

  私は昨日あの馬で、

  コナル・カーに鳥打帽子を造つてやつた。」

 

  私は道を大急ぎ

  寒い汚い思ひして、

  男の妖精に出くはした。

  彼はルアイエで寢轉ろんでゐた。

 

  「牛を失くした奴は可哀さう。

  羊を失くした奴も可哀さう。

  だが、馬を失くした奴だけは

  世界の遠くへ行かねばならぬ。」

 

 

The old man who tells me the Irish poems is curiously pleased with the translations I have made from some of them.

He would never be tired, he says, listening while I would be reading them, and they are much finer things than his old bits of rhyme.

Here is one of them, as near the Irish as I am able to make it:--

 

    RUCARD MOR

 

  I put the sorrow of destruction on the bad luck,

  For it would be a pity ever to deny it,

  It is to me it is stuck,

  By loneliness my pain, my complaining.

 

  It is the fairy-host

  Put me a-wandering

  And took from me my goods of the world.

 

  At Mannistir na Ruaidthe

  It is on me the shameless deed was done:

  Finn Bheara and his fairy-host

  Took my little horse on me from under the bag.

 

  If they left me the skin

  It would bring me tobacco for three months,

  But they did not leave anything with me

  But the old minister in its place.

 

  Am not I to be pitied?

  My bond and my note are on her,

  And the price of her not yet paid,

  My loneliness, my pain, my complaining.

 

  The devil a hill or a glen, or highest fort

  Ever was built in Ireland,

  Is not searched on me for my mare;

  And I am still at my complaining.

 

  I got up in the morning,

  I put a red spark in my pipe.

  I went to the Cnoc-Maithe

  To get satisfaction from them.

 

  I spoke to them,

  If it was in them to do a right thing,

  To get me my little mare,

  Or I would be changing my wits.

 

  'Do you hear, Rucard Mor?

  It is not here is your mare,

  She is in Cnoc Bally Brishlawn

  With the fairy-men these three months.

 

  I ran on in my walking,

  I followed the road straightly,

  I was in Glenasmoil

  Before the moon was ended.

 

  I spoke to the fairy-man,

  If it was in him to do a right thing,

  To get me my little mare,

  Or I would be changing my wits.

 

  'Do you hear Rucard Mor?

  It is not here is your mare,

  She is in Cnoc Bally Brishlawn

  With the horseman of the music these three months.'

 

  I ran off on my walking,

  I followed the road straightly,

  I was in Cnoc Bally Brishlawn

  With the black fall of the night.

 

  That is a place was a crowd

  As it was seen by me,

  All the weavers of the globe,

  It is there you would have news of them.

 

  I spoke to the horseman,

  If it was in him to do the right thing,

  To get me my little mare,

  Or I would be changing my wits.

 

  'Do you hear, Rucard Mor?

  It is not here is your mare,

  She is in Cnoc Cruachan,

  In the back end of the palace.'

 

  I ran off on my walking,

  I followed the road straightly,

  I made no rest or stop

  Till I was in face of the palace.

 

  That is the place was a crowd

  As it appeared to me,

  The men and women of the country,

  And they all making merry.

 

  Arthur Scoil (?) stood up

  And began himself giving the lead,

  It is joyful, light and active,

  I would have danced the course with them.

 

  They drew up on their feet

  And they began to laugh,--

  'Look at Rucard Mor,

  And he looking for his little mare.'

 

  I spoke to the man,

  And he ugly and humpy,

  Unless he would get me my mare

  I would break a third of his bones.

 

  'Do you hear, Rucard Mor?

  It is not here is your mare,

  She is in Alvin of Leinster,

  On a halter with my mother.'

 

  I ran off on my walking,

  And I came to Alvin of Leinster.

  I met the old woman—

  On my word she was not pleasing.

 

  I spoke to the old woman,

  And she broke out in English:

  'Get agone, you rascal,

  I don't like your notions.'

 

  'Do you hear, you old woman?

  Keep away from me with your English,

  But speak to me with the tongue

  I hear from every person.'

 

  'It is from me you will get word of her,

  Only you come too late—

  I made a hunting cap

  For Conal Cath of her yesterday.'

 

  I ran off on my walking,

  Through roads that were cold and dirty.

  I fell in with the fairy-man,

  And he lying down in the Ruadthe.

 

  'I pity a man without a cow,

  I pity a man without a sheep,

  But in the case of a man without a horse

  It is hard for him to be long in the world.'

 

[やぶちゃん注:栩木氏は主人公の名を『リカード・モア』と音写されている。本詩ではゲール語の架空と思われる地名が多く出現するが、その殆どが音写されるばかりで分かり難い。以下、地名の意味の多くを栩木氏の訳に頼った。引用部はすべて引用であることを明記した。

「マニスティル・ナ・ルアイエ」原文“Mannistir na Ruaidthe”。栩木氏は『ルア修道院村』と訳されて、ルビで『マナスター・ナ・ルア』と音写されている。英語で男性の修道院は“monastery”で、自動翻訳機にこれを掛けるとゲール語で“mainistir”と出る。“n”がダブっているが、確かにこれである。但し、“Ruaidthe”という地名は同定出来なかった。

「私の可愛い馬を鞄の下からつれて行つた。」原文も“Took my little horse on me from under the bag.”となっているが、この日本語は意味不明だ。これは何かの性的なスラングなのではないか? 栩木氏は『おれのかわいい牝馬攫(さら)い、残ったものはずだ袋ひとつ。』と訳されておられる。この訳は、勿論、腑に落ちる。“on me from under the bag”というのがそうした英語の慣用句なのだと言われれば腑に落ちねばなるまい。なるまいが、それでも何となくやっぱり腑に落ちない部分が残る。それはそもそものこの詩全体の持つ、何やらんぷんぷんする性的なメタファー臭によるものなのかも知れない。怪しげな修道院村――悪の妖精どもに奪われた私の可愛い牝馬――その牝馬への異常な思い切れない愛情の連綿たる告解――「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」みたような永遠に漸近線的にすれ違いするルカード・モールと牝馬――鳥打帽(馬の皮製)に加工される牝馬というサディスティックなコーダ――最終章の謎めいた男の妖精王(次注参照)のノストラダムス見たような呪言……牝牛……皮――これはフランス民話に現れる『皮っ子』のモチーフと何らかの関係を持っているのではないか? 則ち、これらのシンデレラ型に類似した美女流離譚にあっては、ヒロインは自身の美貌を隠すために「牝牛の皮」を被って醜く変装するするのである――私は西洋の昔話に疎いのでこれが限界である……しかし、何故か知らないが、私はこの詩を読んでいると、なにやらん、あやしくものぐるほしくなってもくるのである……

「フィン・ヴァラ」前掲したミユシャ氏のHP「妖精辞典 夜明けの妖精詩」に、アイルランドのコナハト地方の妖精の王とあり、「神様コレクション@wikiフィンヴァラ」には、『ケルト神話の神。ダグザに妖精の王を命じられ、妖精の最高王となった。地方の女王たち(クリオズナ、イーヴィン、アーネ)を従える。キルワン王の妻エタインを誘拐したこともあるが無傷で返し』、『キルワン家の後援者にして守護霊となった』とある。どうもフィン・ヴァラには女性誘拐癖があるらしい(それを配下に用いるためか)。女王たちを統括するとあるが、フィン・ヴァラ自身は男性の妖精である。前の注で述べた通り、最終場面で実際に彼フィン・ヴァラが登場する。彼が妖精の王ならば、やはり最終連の呪言は重いメタファーを含んでいると読むべきである。

「此の年とつた僕(しもべ)」“the old minister”。年老いた司祭。ということは、ルカード・モールは『ルア修道院村』(栩木氏訳)の実質的な最高実力者若しくは村長(むらおさ)ででもあったものか。

「思ひ切れないあの牝馬、」“My bond and my note are on her,”。姉崎氏の訳は恐らく、“bond”を絆、“note”を大事な存在の意で採り、意訳したものと思われる。但し、前の一切合財持って行かれてすっからかんという事実の提示と、次のフレーズの『まだ馬代は拂はれず』の極めて現実的な物謂いから考えると、この“bond”は「債券」、“note”は「約束手形」か「紙幣」(有り金)を意味していると考えた方が自然か(栩木氏も『公債証書』と『現金』で訳しておられる。しかし、一読、姉崎氏のセンチメンタルな訳も捨て難くはある。

「クノック・モイエ」原文“Cnoc-Maithe”。現在のアイルランドのメイヨー郡の町“Knock”(クノック)があるが、“Cnoc”は一般名詞で「丘」の意だから、こことは言えない。この町は現在、ゲール語で“Cnoc”“Cnoc Mhuire”と綴る。一見、“Mhuire”は似ているが、「聖母マリア」のことで違う。因みに、メイヨー郡のクノックは1879年8月21日に聖ヨセフ・聖ヨハネそして聖母マリアが顕現したという伝承で知られる町であるが、老人の古歌はもっと古い時代のものと思われる。同定不能。栩木氏は『秤山』とし、『クノック・マー』と音写されている。丘であること、文脈からもこれは妖精の棲む丘なのであろう。

「私の牝馬を取り戻す/よい手立はないものかと/そこの人達に聞いてみた。/なければ考へなほさうと。」は、栩木氏の訳は丘の妖精の中に牝馬を奪った奴がいるという感じで、遙かに指弾的な強い物言いの訳となっている。人と妖精の丁々発止が面白い。是非、比較してお読みあれ。

「ゲレナスモイル」栩木氏は『焼き枯れ谷』と訳し、『グレナスモル』と音写されている。先の「クノック・モイエ」同様、妖精の棲家で、実際の地名ではないのであろう。

「クノック・パワー・ブリシュロ-ン」栩木氏は『昼飯砦山』と訳しておられる。同様に妖精の棲家であるが、ここは世界中の国に散らばっている妖精たちの集合地であるようだ。(次注参照)

「皆んな手袋編んでゐる」該当箇所は三行目の“All the weavers of the globe,”であるが、これは “weavers”の「織工」から“globe”を「手袋」としてしまった誤訳である。これは「全世界」「地球」の「織り手」たち総てが、この「ゲレナスモイル」に集まっている、だからここには私の牝馬の行方を噂として知っている人間が必ずいるはずだと、私が思うシーンである。そうすると「世界中の織り手」というのは、世界のあらゆる国の話の織り手(ストーリー・テラー)の妖精が集まっているということを言うか? 栩木氏もそのように訳されておられる。

「クノック・クルーハン」栩木氏は『焼き入れ山』と訳し、『クノック・クルアハン』と音写されている。これも妖精の棲家であろうが、宮殿とあるから、妖精の王若しくは女王の居る場所らしい。

「アーサー・スコイル(?)」この「?」は“Arthur Scoil (?)”と原文にあるもの。聞き書きの際、若しくは後に「アラン島」を活字化した際に、綴り又は記憶が不確かであったということ示しているようである。

「こぶ男」“humpy”。背むし男。脊椎奇形である。

「レンスターのアルビン」“Alvin of Leinster”「レンスター」(ゲール語 Laighin, Laigin)はアイルランドの東岸に位置し、現在はウィックロー州をはじめとして12の州からなる、アイルランドの産業の中心地。「アルビン」不詳。因みに、アルビンという名(人名)の語源は「妖精の友」である。

「コナル・カー」不詳。妖精にカーという名の者がいるが、これは女性であるので違う。

「牛を失くした奴は可哀さう。/羊を失くした奴も可哀さう。/だが、馬を失くした奴だけは/世界の遠くへ行かねばなちぬ。」“'I pity a man without a cow,I pity a man without a sheep,But in the case of a man without a horseIt is hard for him to be long in the world.'”。これは騎馬民族に於ける馬の霊性を示すものであると同時に、不吉な言上げである。牛や羊を亡くしても哀しむばかりで、その内、忘れっちまうが、馬を亡くすと、その激しい悲しみ故に死に至る、というのである。則ち、ルカード・モールは、妖精の言葉を聞いた時、自分が死を免れないことを悟ったのだ――いや、そもそもが妖精の棲家を彷徨した彼は、既にして――愛する牝馬を奪われたその直後に――死んでいるのではなかろうか? だからこそ、牝馬が攫われた後には何もかもが消え去り、残ったのは――ルカード・モールに引導を渡す司祭だけだったのではあるまいか? またここは、ケルトの古形にあっては、死んだ馬は世界の果てへと人を導く霊界の使者であると読み替えることも出来るのではあるまいか。私のこの見解はただの勝手な想像である。大きな誤りがある場合は、是非とも識者の御斧正をお願いしたい。

この長詩もオリジナルに訳したい欲求に駆られるが、栩木氏の謡曲のような「~着きにけり」が現代文に交る独特の名訳を越えることは難しそうなので、涙を呑んでやめる。栩木氏の訳書をお読みあれ(しかし、この全文を謡曲に擬古文化してみたい欲求は抑えられぬ。今度、私だけの手慰みのためだけにやってみようとは思っている)。]

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (15)

 朝の間は、岩の上で逢つた子供と、くじやく羊齒を掘つてゐた。その子供は一週間前、心臟麻痺で父親を急に亡くしたので、大へん悲しんでゐた。

 「世界中の金に代へても、父を亡くなしたくなかつたよ。」彼は云つた。「家は今、大へん淋しく、賴りなくなつちやつた。」

 それから海軍の火夫をしてる一人の兄が、父親の死ぬ少し前に歸つて來て、立派な葬式を出して、澤山の酒を飮んだり、煙草を吸つたりしたので、金を皆使つてしまつたと話した。

 「兄は世界中を廻つてね、」彼は云つた。「大そう珍らしい物を見たんだよ。イタリーから來た人や、スペインから來た人や、ポルトガルから來た人のことを話したよ。彼等の話す言葉は英語ではなくて――愛蘭土語みたいな言葉ださうだ。時時わかる言葉がある位だが。」

 私たちは岩の深い裂け目だけにある羊齒の根を充分澤山掘り出した時、私はその友達に幾ペンスかを與へて、家へ送り歸した。

 

 

All the morning I have been digging maidenhair ferns with a boy I met on the rocks, who was in great sorrow because his father died suddenly a week ago of a pain in his heart.

'We wouldn't have chosen to lose our father for all the gold there is in the world,' he said, 'and it's great loneliness and sorrow there is in the house now.'

Then he told me that a brother of his who is a stoker in the Navy had come home a little while before his father died, and that he had spent all his money in having a fine funeral, with plenty of drink at it, and tobacco.

'My brother has been a long way in the world,' he said, 'and seen great wonders. He does be telling us of the people that do come out to them from Italy, and Spain, and Portugal, and that it is a sort of Irish they do be talking--not English at all--though it is only a word here and there you'd understand.'

When we had dug out enough of roots from the deep crannies in the rocks where they are only to be found, I gave my companion a few pence, and sent him back to his cottage.

 

[やぶちゃん注:原文では、次に行空きがなく繋がっているが、分けた。私は個人的に、伝承歌謡採取の狭間に挿入された、この手に取るような原色の映像のシークエンス(炉辺物語の語り映像部分が視覚に暗いだけに)がたまらなく好きだ。タルコフスキイの「鏡」のワン・シークエンスのようではないか。

「くじやく羊齒」“maidenhair ferns”。シダ植物門シダ綱シダ目ホウライシダ科ホウライシダ属クジャクシダ Adiantum pedatum 。若葉は赤みを帯びるが、夏季に緑色となり、冬季に枯れる。和名の由来は、羽状の複葉になった枝を扇のように広げ、それがクジャクの尾羽を連想させることによる。英名“maidenhair”は「オトメノクロカミシダ(乙女の黒髪羊歯)」である。ここでは根を掘っているが、Siro Kurita氏のHP「草と木と花の博物誌」「シダの民族植物誌」の「クジャクシダ」の項に、『この孔雀が尾羽を広げたような美しいシダはヒマラヤから極東アジアを経て北アメリカまで分布している。インド・ネパール・中国での薬用の報告はないが、日本ではアイヌの人たちが葉を揉んで止血に使ったという。北アメリカでは原住民の多くの部族がこのシダを薬用している。例えば、ノースカロナイヤ州やジョージア州のチェロキー(Cherokee)は根茎の煎じ汁をリュウマチの腫れや痛みを和らげるために手で暖めて刷り込んだり、全草の絞り汁を悪寒を伴う発熱が出たときに嘔吐剤として飲ませる。また、喘息病みには葉を粉にして嗅ぎタバコのように鼻から吸い込むと効くという。ウイスコンシン州のメノミニー(Menominee)は赤痢の際の下痢止めや婦人病に根茎の煎じ汁を使う。東海岸沿いに居住するイロコイ(Iroquoi)は煎じ汁を肝臓病に、蛇にかまれたときには葉を叩いて潰したものを傷口に湿布する』。『数万年前、ベーリング海峡を渡って北アメリカに移住していった当時のモンゴロイドたちがすでに知っていた医療の知恵だったのだろう』とある。ここでの採取も私は薬用(の商品原料)と見た(特に先にシングはアランにリューマチが多いことを記してもいる)。もし、これが自家製の自宅用の薬用ではなく、薬用商品の原料であるなら、きっと本土からきた商人に言い値で安く叩かれて、二束三文の代金を貰うのではないか――私はかつて中国の安徽省の山里の青年からもっと悲しい実体験を聞いたことがあるから――と思うと、何だかあやしくものぐるほしくもなってくるのである。]

2012/04/01

ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (14)

 次の數句の間で、馬はユダやマッカべウス大王に仕へ、クルスに仕へ、またバビロンに戻つて來る。次に、トロイにはひつた馬となつて居る。

 

  ( )が喜んでトロイに來た時、

  私の馬もそこにゐた。

  それは城壁を乘り越えて、

  町にはひつたといふことである。

 

  私はスぺインでまた逢つた。

  その頃は彼も全盛で、

  ハンニンバル大王の乘馬となつて、

  アルプスを越えてローマに入つた。

 

  馬も高いしアルプスも高く、

  乘手は落ちて、

  ハンニンバル大王は、

  片目をつぶした。

 

 

For a few verses he is with Juda and Maccabeus the great, with Cyrus, and back again to Babylon. Next we find him as the horse that came into Troy.

 

  When ( ) came to Troy with joy,

  My horse he was found,

  He crossed over the walls and entered

  The city I'm told.

 

  I come on him again, in Spain,

  And he in full bloom,

  By Hannibal the great he was rode,

  And he crossing the Alps into Rome.

 

  The horse being tall

  And the Alps very high,

  His rider did fall

  And Hannibal the great lost an eye.

 

[やぶちゃん注:「ユダ」はずっと紀元前の話であることや、次の「マッカべウス大王」から、これはイスラエルの十二部族の一つであるユダ族の祖であるユダのことであろう。

「マッカべウス大王」ユダ・マカバイ(Judas Maccabaeus ?~B.C.160年)。ウィキの「ユダ・マカバイ」によれば旧約聖書外典の一つ「マカバイ記」に現れるB.C.2世紀のユダヤ民族の英雄。『シリアの支配下にあったユダヤの独立を達成することになるマカバイ戦争を指導し、ハスモン朝が開かれる基礎を築いた』とある。

「クルス」“Cyrus”。キュロス2世(Kyros B.C.600年頃~B.C.529年:綴りが異なるが、こうも綴るらしい)はアケメネス朝ペルシアの初代国王。ウィキの「キュロス2世」に、『キュロスは古代エジプトを除く全ての古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建設した。古代ペルシア語名をクリシュなどといい、ギリシア語名をキュロス(クロス)、ラテン語名をキルス、古典ヘブライ語名をコレシュという。同名の王子小キュロスと区別して「大キュロス」、キュロス大王、同名のアンシャン王と区別してキュロス2世と呼ばれる。現代のイラン人は、キュロスをイランの建国者と称えている』とある。

「( )が喜んでトロイに來た時」の「( )」は、御覧の通り、原文も同じ。シングが老人の詠唱を採録した際、分からなかった単語と思われる。トロイの木馬を考案したオデュッセウスか。

「ハンニンバル大王は、/片目をつぶした」ハンニバルはB.C.218年のローマ攻略のアルプス越えの際、左目を失明している。この詩では落馬による外傷とするが、ネット上の記載には重度の結膜炎を原因とするらしい。

私の定型狂詩オリジナル訳。「( )」はとりあえずオデュッセウスでやってみた。

 

  オデュッセウス、彼がトロイに來た時にゃ、これ幸いに、

  おいらがいた、おいらはそん時きゃ、トロイの木馬――

  やすやすと、鉄壁城壁何のその、

  町の中へと、ずずいずい!――

 

  おいらがよ、奴(きゃつ)にまたまた出逢(お)うたは、これがまたまた西班牙(スペイン)で、

  そん時きゃ奴(きゃつ)めも栄華の極み――

  大殿さまのハンニンバル、悠々乗せて、

  アルプスを、越えてローマへ一目散――

 

  高い高いは馬の丈、

  高い高いはアルプスじゃ――、

  ああら、あらあら、騎手さん、ドスン!

  大殿さまのハンニンバル、片目眇めとなりにけり――

 

おあとがよろしいようで――]

 

 

 

 それから後、少スキピオを乘せたり、ブリアンがデンマルク人を愛蘭土から追ひ出す時に乘せたり、聖ルスがオーリムの戰で斃れた時に乘せたり、サースフィールドをリメリックの攻圍で乘せたりした。

 

  ジェームズ王に仕へては、

  愛蘭土の岸にやつて來て、

  ボイン河の激戰の終つた時、

  到頭ちんばになつちやつた。

 

  名高いヲーターローの戰では、

  世界一の人を乘せ、

  勇ましいダニエル・オーコンネルが

  その脊に乘つたのも嘘ぢやない。

 

  勇ましいダニエルをその脊に乘せて、

  再び戰場へと用意して、

  王黨を屈服させるまでは、

  いつまでも止まることはないだらう。

 

 此の長い詩は奇怪なものではあるが、前いつたやうに、老人がそれを爐邊で低唱すると、一種の存在を持つ。さうして島では、非常に有名である。老人はそれを印刷して欲しいと望んでゐる。

 それが世の中から無くなるのはよい事でなく、此處で知つてゐるのは自分だけで、本土では、聞いた人もないからだと云つた。もう二つばかり同じやうな惡詩の見本があつたが、私は書き寫さなかつた。

 その歌には英語・愛蘭土語共に此の島の人達にすらわからない言葉が一杯あるので、それをゆつくり云ふ時は記憶が大概覺束なくなる。

 

 

Afterwards he carries young Sipho (Scipio), and then he is ridden by Brian when driving the Danes from Ireland, and by St. Ruth when he fell at the battle of Aughrim, and by Sarsfield at the siege of Limerick.

 

  He was with king James who sailed

  To the Irish shore,

  But at last he got lame,

  When the Boyne's bloody battle was o'er.

 

  He was rode by the greatest of men

  At famed Waterloo,

  Brave Daniel O'Connell he sat

  On his back it is true.

 

  ***

 

  Brave Dan's on his back,

  He's ready once more for the field.

  He never will stop till the Tories,

  He'll make them to yield.

 

Grotesque as this long rhyme appears, it has, as I said, a sort of existence when it is crooned by the old man at his fireside, and it has great fame in the island. The old man himself is hoping that I will print it, for it would not be fair, he says, that it should die out of the world, and he is the only man here who knows it, and none of them have ever heard it on the mainland. He has a couple more examples of the same kind of doggerel, but I have not taken them down.

Both in English and in Irish the songs are full of words the people do not understand themselves, and when they come to say the words slowly their memory is usually uncertain.

 

[やぶちゃん注:原文では最後の一連の前には、御覧の通り、“***”が入っているが、底本にはない。このアスタリスクは恐らくそこにあった数連を省略したこと、そしてこの最後に示された連が正真正銘、最後のフレーズであることを示唆するものと私は判断する。なお、私は世界史は苦手である。複数の叙述を勘案しながら注を附したが、誤りがあった場合は、御教授願えれば幸いである。

「少スキピオ」は「小スキピオ」で、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス・ヌマンティヌス(Publius Cornelius Scipio Aemilianus Africanus Numantinus B.C.185年~B.C.129年)のこと。共和政ローマの軍人政治家。第三次ポエニ戦争の際にはカルタゴの三重防壁を破るために遣わされ、B.C.146年、カルタゴを陥落させ、都市も市民も悉く破壊虐殺した。呼称の「小」は、第二次ポエニ戦争で活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破って戦争を終結させた同じく共和政ローマの軍人政治家「大スキピオ」プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル(Publius Cornelius Scipio Africanus Major B.C.236年~B.C.183年頃)と区別するため。小スキピオは大スキピオの妻の甥で義理の孫に当たる(以上は主にウィキの「スキピオ・アエミリアヌス」によった)。

「ブリアン」“Brian”はアイルランドの偉大なる王にして英雄ブライアン・ボル(Brian Boru 941年~1014年 ゲール語:Brian Bóroimhe)。ヴァイキングに兄を殺されて王となった彼は、ヴァイキングへの復讐と、その布石としてのアイルランド全土の政治統一に誠心を傾け、遂に1002年に統一を成し遂げ、ヴァイキングの追放に成功した(但し、その生き残りに暗殺されたという)。

「デンマルク人」“the Danes”は「デーン人」で、古くデンマーク地方に居住していた北方ノルマン人一族。8世紀から11世紀にかけて、海上からイングランドをはじめとしたヨーロッパ各地に侵攻し、スカンディナヴィアの海賊、通称ヴァイキングの主流を成した。キリスト教に改宗後、デンマーク王国として統一国家を創設した。

「聖ルスがオーリムの戰で斃れた時」「聖ルス」はサン・ルース侯爵(Charles Chalmont Marquis of St Ruth 1650 年~1691年)。フランスの将軍。カトリック信者の多いアイルランドが支持していた“Jacobite”( ジャコバイト:イギリスの名誉革命のウィリアム3世支持派の“Williamite”ウィリアマイトに対抗したジェームズ2世支持派の反革命勢力でフランスも支持していた)に組してウィリアマイト戦争をアイルランドで戦ったが、ゴールウェイ州のオーリムの戦いで戦死した。

「サースフィールドをリメリックの攻圍で乘せたりした」Patrick Sarsfield (パトリック・サーズフィールド 1660年~1693年)はウィリアマイト戦争末期、ウィリアマイト軍は1690年にジャコバイトの根拠地である南西部マンスターの都市リムリックでの包囲戦では降伏の最後まで善戦したジャコバイト騎兵隊指揮官であった。

「ジェームズ王」はイングランド・スコットランド・アイルランドの王ジェームズ7世=ジェームズ2世(James VII of Scotland and James II of England 1633年~1701年 在位:1685年~1688年)のこと。スコットランド王としてはジェームズ7世、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ2世。三ヶ国にとってジェームズは歴史上最後のカトリック信者の国王である。名誉革命によって王位を逐われ、王国はウィリアム3世とメアリー2世による共同統治となった。先に掲げたジャコバイトとはウィリアム・メアリーでなくジェームズこそ正統なる王であるとする人々を指す(以上は、ウィキの「ジェームズ2世(イングランド)」を参照した)。

「ボイン河の激戰」ボイン川の戦いは1690年7月1日にウィリアム3世のイングランド・オランダ連合軍とジェームズ2世のスコットランド軍の間で行われた戦い。アイルランドのレンスター地方ボイン川河畔で行われ、勝利したウィリアムがイングランド王位を決定的なものとした戦争(以上は、ウィキの「ボイン川の戦い」を参照した)。ジェームズ2世は敗残の自軍を置き去りにしてフランスに亡命したため、敗残兵たちからは“Séamus á ChacaJames the Shit)”「くそったれのジェームズ」という蔑称されたという(ここは、ウィキの「ジェームズ2世(イングランド)」を参照した)。

「到頭ちんばになつちやつた」は、何かの比喩(若しくは皮肉)が隠されているような気がする。

「ヲーターローの戰」ナポレオンのワーテルローの戦いは1815年であるから、一気に百年、時空が飛ぶ。

「ダニエル・オーコンネル」(1775年~1847年)はアイルランド解放運動の指導者。英国の支配に抵抗し、「カトリック教徒協会」を率いて1829年にカトリック教徒解放法を成立させ、アイルランドの分離独立運動を推進、1841年にはカトリック初のダブリン市長となったアイルランドの英雄である。

「王黨」“the Tories”。“Tory”の原義はイギリスのトーリー党員のこと。17世紀末から1832年頃まで、議会に対する王権の優位を主張した。現在のイギリスの二大政党の一つである「保守党(保守統一党)」の前身。現在でも「保守党」は“Tory”と俗称される。

「その歌には英語・愛蘭土語共に此の島の人達にすらわからない言葉が一杯あるので、それをゆつくり云ふ時は記憶が大概覺束なくなる。」原文は“Both in English and in Irish the songs are full of words the people do not understand themselves, and when they come to say the words slowly their memory is usually uncertain.”。ちょっと分かり難い訳文である。「この爺さんたち(但し、中心の詠唱者は一人の老人)が歌う歌には――それが英語のものであってもアイルランド語のものであっても――どちらにも、遺憾ながら、歌っている本人たちにさえ実はまるで分かっていない(としか思われない)単語が多数含まれている。だから、歌の調子が『……うん? なんだかゆっくらになったなぁ?』と感じられる時には、それは概ね、歌っている彼らの記憶が本当のところは、あやふやな箇所なのであった」という意味である。

私の定型狂詩オリジナル訳。

 

  さても今度はジェームズ王が、海を渡って来なすった、

  アイルランドは、その岸辺、すっくと立ったもやっぱり奴(きゃつ)さ――

  だけど遂にはボッキリと、折れてちんばになりにける、

  ボインの川の、血みどろの、ひでえ戦さの仕舞いにゃね――

 

  それでもまだまだ、奴(きゃつ)には騎る、どえらい、どえらい殿方が、

  たとえば一人はワーテルロー――

  たとえば跨る――ありゃ何と! 我らがダニエル・オコンネル!

  奴(きゃつ)に乗ったは、嘘じゃねえ!――

 

  ***

 

  勇者ダニエルと奴(きゃつ)の背(せな)、一つとなったその時にゃ、

  おいらの馬はまたしても、あの修羅場へと甦る――

  糞保守どもを根絶やすまで、古今東西金輪際、

  奴(きゃつ)の走りは――止められネエ――

 

おあとがよろしいようで――]

野人第一日 アリス海へ行く 2

初めての海――向こうは江の島――

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サーファーのお兄ちゃんや散歩中のお友達にモテました――

「砂浜は不思議なクッションだし、湿ったところは腹ばいになると気持ちがいいの――でもね、あの波っていうの? ちょっとパス。怖いんだもの――」

野人第一日 アリス海へ行く

 7:45 自宅出発

 二伝寺前~武田薬品研究所裏村岡東~

 弥勒寺古陸橋(東海道線横断)~

 宮前御霊神社前~古館橋(柏尾川渡渉)~

 笛田~手広~鎖大師青蓮寺前~

 西鎌倉~

 8:45 腰越支所前交差点(一本・アリス水)~

 9:00 聖テレジア病院前(一本・記念撮影)~

 9:15 七里ヶ浜鎌倉高校前現着

 (海岸線を小動まで移動)

10:00 七里ヶ浜発

 満福寺前~小動神社前~
 

 江ノ電腰越駅先(神戸川渡渉)~ 
 

10:30 西鎌倉手前(一本・アリス水/以下、往路と同じ)

10:50 古館橋手前着(二本・天然酵母パン購入)

11:00 古館橋手前発

11:28 自宅現着

実働距離:約10㎞

所要時間:3時間43分

実働時間:約3時間強

母聖子テレジアの召された聖テレジア病院前のアリス

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