宇野浩二 芥川龍之介 十五~(2)
私は、さきに、芥川の実父の少年時代の事が不明である、と書いたが、芥川の幼少年時代の事どもも、私には、不明なことが多いのに、気がついたのである。それは次ぎのような事である。
前にも述べたように、芥川は、生後九箇月ぐらい後に、その頃の、京橋区入船町の実家から、本所区小泉町の芥川家に、もらわれて行ったのであるが、その時分の事は芥川の書いている文章によっておよそ想像ぐらいはつくが、はっきりしない所もある、それは、『大導寺信輔の半生』や『点鬼簿』のような小説(あるいは小説風のもの)は、もとより、『追憶』や『本所両国』のような物にまで、芥川流の見えや修飾があるからである。それから、『大導寺信輔の半生』の最初の『本所』の書き出しの「大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院〔ゑかうゐん〕の近所だつた、」というのは、かりに大導寺信輔が芥川龍之介とすれば、嘘であるが、それは、『大導寺信輔の半生』という題の横に、「――或精神的風景画――」と断ってあるから、仕方がないとすれば、この小説は、芥川の『精神的風景画』として、見れば、いくらかの参考にはなる。
[やぶちゃん注:芥川龍之介は、明治二十五(一八九二)年三月一日、当時外国人居留地の一画であった東京市京橋区入船町八町目一番地(現在の中央区明石町一〇―一一)で出生した。現在、碑が立つ。]
参考、といえば、迂闊な私は、田端に住んでいた芥川しか知らないので、芥川は生まれた時から田端町住んでいたような気がしていたが、(もっとも、そんな事をはっきり考えたこともなかったが、)『本所両国』のはじめの方で、「僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐたのである、」というのを読み、その事を初めてはっきり知ったことである。
[やぶちゃん注:芥川龍之介は出生後に母フクが精神に異常をきたしたため、同年十月末に本所区小泉町一五番地(現在の墨田区両国三丁目二二番一一号)に引き取られた。明治三十七(一九〇四)年八月三十日新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組、以下に見る通り、明治四十三(一九一〇)年十月に芥川家はこの本所小泉町から府下豊多摩郡内藤新宿二丁目七一番地(現在の新宿区新宿二丁目)に転居、更に大正三(一九一四)年十月末に北豊島郡滝野川町字田端四三五番地(現在の北区田端)に家を新築して転居した。ここ田端が芥川龍之介の終生の地となった。]
そこで、あらためて、年譜を見ると、「明治四十三年、(十九歳、)三月、第三中学校卒業、九月、無試験にて第一高等学校第一部乙(英文科)入学。同級に、久米正雄、菊池 寛、山本有三、松岡 譲、土屋文明あり。特に作家たらん希望なし。新宿二丁目七十一番地に移転。」「大正二年、(二十二歳、)第一高等学校卒業。帝国大学英文科入学。田端四百三十五番地に移転。」とある。
これを読むと、知ってみれば、そうか、と思うような事ではあかが、芥川は、「三十五年あまりの生涯のうちで、十八九年ぐらい、本所の小泉町で、くらし、一年あまりを府下の新宿で、おくり、田端で、十三四年ほど、生活した。つまり、芥川はその生涯の大半を、東京の中でも最も見すぼらしい下町〔したまち〕で、おくった、という事になるのである。これは、この、私の書いているような、ふらふらした、(つまり、足元の定まらぬような、)文章ではなく、もっと真面目に芥川龍之介を研究する文章を書く人には、重大な問題である。
芥川が二十歳頃まで住んでいた本所小泉町は、今の両国駅の近くであるが、芥川の幼少時代(つまり、明治二三十年代)は、うす暗〔ぐら〕いごたごたした町で、芥川の家は貧乏ではあっても門がまえの幾らか大きな家であったけれど、近所は、穴蔵大工〔あなぐらだいく〕、駄菓子屋、古道具屋、その他、それに類した家ばかりであった。芥川は、後年、(大正十四年に、)このような町に住んでいた時分の事を回想して、「それ等の家々に面した道も泥濘〔ぬかるみ〕の絶えたことは一度もなかつた。おまけに又その道の突き当りはお竹倉〔たけぐら〕の大溝だつた。南京藻〔なんきんも〕の浮かんだ大溝はいつも悪臭を放つてゐた、」と、書いている。これを文字どおりに読めば、こんな所に一日も半日も住んでいられない、と思われる。が、すらすらと読めば、そんな実感はほとんど感じられないで、いかにも懐しそうに書いているように思われる。作者が散文詩でも作るように書いているだけであるからだ。
[やぶちゃん注:「穴蔵大工」の穴蔵は、地面や山盛り土の斜面に横穴・竪穴を造成して物を収納できるようにした地下室。江戸時代、特に安政元(一八五四)年十一月四日に発生した安政の大地震以後の江戸で流行ったが、江戸では地下水位が高いために水漏れや湿気対策として内装の材料が主にヒバ材で作られ、穴蔵本体の材木部分を製造することを主な業務とする穴蔵大工という専門職が存在した。
「お竹倉」現在の両国駅から北側一帯(墨田区横網町)にかけては嘗ての幕府材木倉・竹倉・米蔵などの御蔵屋敷跡の一部であった。芥川が幼・少年期を過した頃の芥川家は、ここの南に隣接していた。芥川龍之介の「本所兩國」の「お竹倉」などを参照されたい。
・「南京藻」他の芥川作品でもそうだが、彼がこう言う時には、必ず腐れ水の匂いが付き纏う。従ってこれは、所謂、水草らしい水草としての顕花植物としての水草類や、それらしく見える藻類を指すのではなく、真正細菌シアノバクテリア門藍藻類のクロオコッカス目Chroococcales・プレウロカプサ目Pleurocapsales・ユレモ目Oscillatoriales・ネンジュモ目Nostocales・スティゴネマ目Stigonematales・グロエオバクター目Gloeobacterales等に属する、光合成によって酸素を生み出す真正細菌の一群、所謂、アオコを形成するものを指していると考えられる。アオコの主原因として挙げられる種は藍藻類の中でもクロオコッカス目のミクロキスティス属Microcystis、ネンジュモ目アナベナ属Anabaenaや同目のアナベノプシス属Anabaenopsisであるが、更に緑藻類の緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科のクロレラ属Chlorella、緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目イカダモ科イカダモ属Scenedesmus、緑藻綱ボルボックス目クラミドモナス科クラミドモナス属Chlamydomonas等もその範囲に含まれてくる。若しくは、それらが付着した水草類で緑色に澱んだものをイメージすればよいであろう。
「大溝」は「おほどぶ(おおどぶ)」と訓ずる。]
しかし、又、そう云い切れないところもある。自分の事をほとんどまったく書かない、と称せられた芥川が、『保吉の手帳から』を書いた時分から、十年あるいは二十年以上も前の事ではあるが、自分が見聞きし経験した事を、歯に衣〔きぬ〕をきせたような云い方〔かた〕ではあるが、『作文』でもするような書き方ではあるが、大正十二年頃から、ぼつぼつ、書き出したので、ある時代の芥川が凡〔およ〕そどのような生活をしていたかが、少〔すこ〕しでもわかるようになった事がありがたいのである。それを、こんど、私は、『大導寺信輔の半生』、『点鬼簿』、それから、『追憶』、『本所両国』、その他を読みなおして、感じたのである。といって、それも、どのような話でも、肝心のところを逸〔そら〕したり暈〔ぼか〕したりしてあるので、「少しでもわかる」というより、ほのかに想像できる、という程度である。それで、これから、私が芥川その他の人について述べる事は、当て推量〔すいりょう〕である、と思っていただきたい。
芥川の父は、(養父か実父かよくわからないが実父らしい、)多少の貯金の利子をのぞけば、一年の五百円の恩給で、女中をいれて五人の家族を養わねばならなかった。(こういう事を芥川は、「中流下層階級の貧困」と云っている、さすがに巧みな云い方だ。)そのために節倹の上にも節倹をしなければならなかった。それで新〔あたら〕しい著物などは誰もめったに造らなかった。「父は常に客にも出されぬ悪酒の晩酌に甘んじてゐた。母もやはり羽織の下にははぎだらけの帯を隠してゐた。」(これはもう『作文』などではない。)この頃の事を、この頃の自分の事を、芥川は、『大導寺信輔の半生』のなかで、次のように述べている。
[やぶちゃん注:「養父か実父かよくわからないが実父らしい」は誤り。これは養父芥川道章を指している。]
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……信輔は未〔いま〕だにニスの臭い彼の机を覚えてゐる。机は古〔ふる〕いのを買つたものの、上へ張つた緑色の羅紗も、銀色に光つた抽斗〔ひきだし〕の金具も一見小綺麗〔こぎれい〕に出来上つてゐた。が、実は羅紗も薄いし、抽斗も素直にあいたことはなかつた。これは彼の机よりも彼の家の象徴だつた。体裁だけはいつも繕〔つくろ〕はなければならぬ彼の家の生活の象徴だつた。……
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右の文章は、いうまでもなく、修飾も気取りもないので、(気取りは、芥川の癖で、いくらかあるけれど、)しみじみと、読む人の心を、打つ、叩く。殊に、私などは、あの芥川が、小〔ちい〕さい時分に、古〔ふる〕い机になやまされ、何〔なに〕よりも好〔す〕きな本が買えず、夏期学校にも行かれず、「友だちがいづれも愛用」している、外套も買ってもらえなかったのか、と思うと、おのずから目頭〔めがしら〕が熱くなるのを覚えるのである、涙ぐましくなるのである。
ところで、『大導寺信輔の半生』のなかに、『牛乳』という不思議な文章がある。それは、信輔が、生まれ落ちた時から、母の乳をまったく吸った事がなく、牛乳ばかり飲んで育ったことを、「憎まずにはゐられぬ運命」と考え、それに、「誰にも知らせることの出来ぬ一生の秘密」と思いこむ事である、それから、自分が、頭〔あたま〕ばかり大きく、無気味なほど痩せた少年であり、はにかみ易〔やす〕い上に、磨ぎすました肉屋の庖丁にさえ動悸の高まる少年である事が、「伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、日頃胆勇自慢の父とは似ても似つかぬ」事を、牛乳のためであり、体〔からだ〕の弱いのも牛乳のためである、と確信する事である。そうして、牛乳のたあに体が弱い、という『秘密』を友だちに見やぶられないために、信輔(つまり少年の芥川)が、膝頭のふるえるのを感じながら、お竹倉の大溝を棹〔さお〕もつかわないで飛びこえたり、回向院の大銀杏〔いちょう〕に梯子もかけずに登ったり、友だちの一人〔ひとり〕と殴〔なぐ〕り合いの喧嘩をしたり、した。そのために、信輔は、右の膝頭に一生〔しょう〕消えない傷痕を残した。そうして、そういう事をする信輔を見る毎に、信輔の父は、威丈高〔いたけだか〕になって、信輔に「貴様〔きさま〕は意気地〔いくぢ〕もない癖に、何〔なに〕をする時でも剛情〔がうじやう〕でいかん。」と小言〔こごと〕をいった。
この父は、牛乳屋の、実父、新原敏三であろう。
[やぶちゃん注:ここでの「父」は勿論、宇野の言う通り、実父新原敏三を指している。]
(余談であるが、作家になってからの芥川の事を、誰いうとなく、「芥川の家〔うち〕は牛乳屋だよ、」と云うのを、私は、ときどき、耳にしたのを、ふと思い出した。)
ところで、芥川は、『点鬼簿』の中で、その父について、「僕の父は牛乳屋であり、小〔ちひ〕さい成功者の一人〔ひとり〕らしかつた。僕に当時新〔あた〕らしかつた果物や飲料を教へたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアツプル、ラム酒、――まだその外〔ほか〕にもあつたかも知れない。僕は当時新宿にあつた牧場の外〔そと〕の槲〔かし〕の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えてゐる、」と書いているが、明治三十年代の、バナナ、アイスクリイム、パイナップル、ラム酒、といえは新奇以上の新奇であったにちがいない。
[やぶちゃん注:「槲」をカシと訓じている資料が多く、芥川龍之介もそのつもりで混同して用いているようだが(後掲される恒藤恭の描写では正しく「樫」とある)、槲はブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属カシワQuercus dentate で落葉性、樫はコナラ属でも常緑性の種であるウバメガシQuercus phillyraeoides やアカガシ Quercus acuta 等を「カシ」と呼び、「カシワ」を「カシ」とは言わない。]
芥川は、このような実父と、寛永年聞からつづいている、代代お坊主として殿中に奉仕した、というような旧家に生まれた養父と、――こういうまったく両極端の二人の父を持ったのである。
ところで、芥川は、おなじ『点鬼簿』のなかに、この実父が、こういう珍しいものを自分にすすめて、自分を養家から取り戻そう、と、述べたあとに、つぎのように書いている。
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……僕は一夜大森の魚栄でアイスクリイムを勧められながら、露骨に実家へ逃げ来いと口説〔くど〕くかれたことを覚えてゐる。僕の父はかう云ふ時には頗る巧言令色を弄した。が、生憎〔あいにく〕その勧誘は一度も効を奏さなかつた。それは僕が養家の父母を、――殊に伯母を愛してゐたからだつた。
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つまり、この伯母がふきである。
さて、はじめに述べた芥川が海軍機関学校の教師を止〔や〕め、大阪毎日新聞社にはいる事になって、田端の家で、自分たち夫婦と養父母と、伯母と、五人一しょに、暮らす事になった時、この伯母のふきは、六十二歳で、養母は、六十三歳であった。 その年(つまり、大正八年)の一月に出版した『傀儡師』は、この伯母のふきに、献じたものである。
追記――これらの文章を書き終ってから、芥川の高等学校時代の親友である、恒藤 恭の『旧友芥川龍之介』という本を手に入れた。その中に、芥川が高等学校時代に住んでいた新宿の家の事が出ていたので、それをつぎに引用したい。
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芥川が一高に入学した明治四十三年に芥川家は本所小泉町から新宿二丁目に移転した。そのころは、四谷見附から新宿へ向けて走る電車が終点に近づいて行くと、電車通りに新宿の遊廓の建物がならんでゐるのが窓から見えたものであつた。たしか三丁目で下車して少し引返し、左へ折れて二三町ばかり行くと、千坪ぐらゐの広さの方形の草原を前にして芥川の住んでゐた家がぽつんと建つてゐた。樫の木などが疎らに生えてゐる地面を十四五坪へだてて牛舎があつた。芥川の実父新原氏はそこと今一つほかの場所で牧場を経営してゐた。いま一つの方のことは知らないけれど、新宿の方は牧場といつても小規模だつた。しかしホルスタイン種か何かの骨骼のたくましい牛を幾頭も飼つてゐた。
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右の文章を借用したのは、芥川が、高等学校時代に、こういう所に住んでいたことがわかる事が、私ばかりでなく、大方の人におもしろいと思われる、と考えたからである。

