宇野浩二 芥川龍之介 十一 ~(4)
全集の別冊には『我鬼窟日録』と『澄江堂日録』とが二〔ふた〕つならんで出ている。
大正十一年の四月八日に、芥川は、長崎の渡辺庫輔にあてた手紙のなかに、「この頃僕書斎の額を改めて澄江堂となす小島政二郎曰澄江と云ふ芸者にでも惚れたんですか僕曰冗談云つちやいけない書斎に名づける程の芸者が日本にゐてたまるものか、これは鶴の前に会〔あ〕つた後〔あと〕だと云ひにくいから次手〔ついで〕に唯今披露します 一笑」と書いている。ところが、『澄江堂雑記』[註―大正十四年十一月]の中の『澄江堂』という文章には、芥川は、つぎにうつすような事を書いている。
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僕になぜ澄江堂などと号するかと尋ねる人がある。なぜと言ふほどの因縁はない。唯いつか漫然と澄江堂と号してしまつたのである。いつか佐佐木茂索君は「スミエと言ふ芸者に惚れたんですか?」と言つた。が、勿論そんな訣〔わけ〕でもない。
[やぶちゃん注:厳密に言うとこれは『続澄江堂雑記』からの引用である。また、最後の部分に「僕は本名の外に入らざる名などつけることは好せばよかつたと思つてゐる。 (十一月十二日)」とあるのを宇野は省略している。]
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ところで、「澄江(スミエ)といふ芸者にでも惚れたんですか、」と云ったのが、小島であっても、佐佐木であっても、あるいは、南部であっても、誰であっても、そんな事は、どうでもよいのである。それより、芥川が、「唯漫然と澄江堂と号してしまつたのである」か、どうか。私は、芥川はそんな事をする男ではない、と思うのである。そうして、私には、さきに引いた、芥川が、渡辺にあてた手紙の最後に書いている、「これは鶴の前に会〔あ〕つた後〔あと〕だ」という文句が、(例によって臆測であるけれど、)『澄江堂』と号した事に何〔なに〕か関係があるように思われるのである。
[やぶちゃん注:これは後に宇野も認めるが、邪推の勘違いである。この「鶴の前」は先行する同年二月二十六日同渡辺宛書簡(旧全集書簡番号一〇〇〇番)の末筆に、
僕も丸山に鶴の前を拵へたい 頓首
とあり、同年三月三十一日同渡辺宛書簡(旧全集書簡番号一〇一二番)では、
あなたの鶴の前にも紹介してくれ給へ
としているのから明らかなように、「鶴の前」は長崎の丸山遊廓の渡辺の愛妓のことで、筑摩全集類聚版の脚注では『庫輔の恋人、丸山の芸者おはまさんにつけたあだ名らしい。』とある。芥川は、最近、小島が澄江堂という雅号に「澄江と云ふ芸者にでも惚れたんですか」というから、「冗談云つちやいけない書斎に名づける程の芸者が日本にゐてたまるものか」と答えたのだが、「これは」あなた(=渡辺)がしきりに美しいといい、綽名で「鶴の前」と附けたくらいの美妓「に会つた後だと云ひにくいから」、長崎に赴く前(一〇一二書簡で『四月上旬か五月上旬頃長崎へ行きたいと思ひます』として宿の世話を依頼した後に表記の「あなたの鶴の前にも紹介してくれ給へ」が続く)、絶世の鶴の前に逢ってしまって、この謂いが嘘になってしまう前に「次手〔ついで〕に唯今披露します」というのである。「澄江堂」と「鶴の前」とは全く無関係である。]