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2012/04/18

宇野浩二 芥川龍之介 十七

 

 

     十七

 

 つぎに述べる話はずっと前に書いたと思うけれど、話をすすめるために必要であるから、重複するのを承知の上で、書く。

 大正九年の秋の中頃であったか、芥川は、いつものように、上〔あ〕がらずに、玄関の部屋の前に立ったままで、私の顔を見ると、いきなり、「今日〔きょう〕は、僕につきあってくれないか、……そのまま でいいよ、」と云った。『そのままでいいよ』とは、「わざわざ著物をきかえなくてもいいよ、」という意味である。(芥川は、たずねてくる時は、いつも、和服であった。)

 その時、芥川が「つきあってくれ、」と云った行く先きは、芥川の友人の石田幹之助のつとめている『東洋文庫』であった。その『東洋文庫』は、たしか、今の運輸省の裏の辺であった。が、その頃は、まだ、赤煉瓦の小さい、せいぜい二三階建〔だ〕ての、小さいビルディングの立てこんでいる細い町つづきで、『東洋文庫』は、それらの赤煉瓦のビルディソグの二階の一室であった。

 私は、芥川と一しょに、上野の桜木町から、大通りに出て、善光寺坂をくだり、藍染橋から電車にのり、和田倉門で電車をおりて、そこから『東洋文庫』のある赤煉瓦の小さなビルディングまで、あるいた。私たちは、その、道をあるいている時も、電車にのっている間〔あいだ〕も、――小一時間ほどの間〔あいだ〕、絶えず、問答のような話を、つづけた。それはこういうのである。

「君は、僕の小説など、読んでいないだろう。」「読んでるよ。」「感心してないんだろう。」「感心してないね、……そりや、僕だって、君が新〔あたら〕しい境地を開こうとしている事ぐらいは、わかるよ。……しかし、あいかわらず、逆説――パラドックスという『手』を使っているのが、気になるね。」「……」「『黒衣聖母』など、なかなか凝ったところはあるけど、結局、『禍〔わざわい〕を転じて福とする代りに、福を転じて禍とする』というのが『味噌』じゃない.か、――といって、むろん、僕には、あんな物かけないが、あれは、やっぱり、味噌くさいね。」「……『秋』は、……」「実に行儀〔ぎょうぎ〕のいい小説だね、それに、あまり理路整然としすぎているね、……ところで、君の小説も変ってきたね、……しかし、ああいう題材は、(つまり、『秋』のような題材は、)君に不向〔ふむ〕きだと思うな、君には、やっぱり、出来不出来〔できふでき〕は別として、『南京の基督』のような物の方が、合ってるな。」「……そうかなあ。」「……ところで、僕は、ずっと前から、心配しているんだが、……余計な事か知れないが、……それは、それは、君が、(君のような作家が、)もし、書く題材がなくなったら、どうするだろう、という事だ、……僕は、実は、君の小説はたいてい読んでいるよ、……『鼠小僧次郎吉』のような題材でも、題材があるうちは、まだいいよ、……僕はネ、君のような作家が、…『解放』や『雄弁』[註―この時分の「雄弁」は、「改造」や「解放」などとならんで、いわゆる純文学の作者の作品を出していた]らまだいいが、『文章倶楽部』のような雑誌に、『黒衣聖母』が出たのを見た時は、悲しかったよ、君、……」

 すると、芥川は、急に真剣な顔つきになって、ささやくような声で、「ありがとう、実はその用事で、石田に逢いに行くんだよ、」と云った。

 さて、前に述べたように、『東洋文庫』は、丸の内の、小〔ちい〕さな赤煉瓦のビルディングのならんでいる細い町の片側の見すぼらしいビルディングの二階の一室にあった。その部屋は、十五六畳〔じょう〕ぐらいの大きさであったろうか、何〔なに〕か引っ越したて、というような感じで、部屋の中は雑然としていた。その部屋の中〔なか〕に一人〔ひとり〕いた石田が大〔たい〕へん大〔おお〕きな人に見えた事、芥川と私がそれぞれ椅子に腰をかけると、それだけで殆んど部屋一ぱいになったような記憶がある事、そういう事を思い出すと、あまり大きな部屋ではなかったのか。それから、片側が通りに面した窓〔まど〕であったことは確かであるが、他の側が本棚であったかどうか。(なにぶん三十年ぐらい前の記憶であるから、すべてアヤフヤである。)

『東洋文庫』は、「東京市本郷区駒込上富士前町にある。大正六年(一九一七)男爵岩崎久弥は、前中華民国総統府顧問モリソン G. A. Morrison より多年の蒐集にかかる支那を中心とせる東洋諸国各般の欧文文献の一大蒐集『モリソン文庫』を購入し、大正十三年、現在の敷地、建物、その他一切の設備を挙げて財団法人東洋文庫が設立された。爾来東洋文庫は、従来のモリソン文庫を核心として、更に年々この方面の洋書と、従来のモリソン文庫には含まれてゐなかつた漢籍の購入をつづけてゐる。[下略]」と或る辞書にある。

 ところで、この辞書にあることを本当とすれは、『東洋文庫』を持っていた岩崎が、『モリソン文庫』を買い入れた時、それを整理するために、この丸の内の赤煉瓦のビルディングの二階の一室(あるいは二三室)を借りて、倉庫兼事務所にしたのであろうか。そうして、その購入した『モリソン文庫』の数多の整理その他を、「支那を中心とした東洋の文書」の権威である石田に、依頼したのではないか。(以上の事は、もとより、愚鈍な私の臆測である。)

 もし私の臆測どおりであるとすれは、芥川と私が通〔とお〕されたのは事務所である。そうして、その事務所には、床〔ゆか〕の上のあちこちに私などが見たこともないような本が積〔つ〕みかさねられてあり、片側の本棚にも私などのよくわからない本がならべられてあった。

 芥川と石田が何〔なに〕かしきりに話し合っていた間〔あいだ〕、私は、所在〔しょざい〕がないので、こういう物を、見るともなしに、見ていたのである。

 石田は、芥川と用事の話をしている間に、二三度、となりの部屋に行って、二三冊(あるいは四五冊)の本を、かかえて来た。そのたびに、芥川と石田は、両方から本の上に顔をよせて、何〔なに〕か話し合っていた。

 やがて、芥川は、「どうもありがとう、」と云って、立ちあがった。

 芥川は、その小〔ちい〕さな赤煉瓦のビルディングを出たところで、いきなり、「僕はすぐうちに帰るよ、」と云って、さっさとあるき出した。それから、電車の停留場まで、芥川は、例の前かがみの姿勢〔しせい〕で、むっとした顔をした、無言で、なにか急用でもある人のように、早足〔はやあし〕で、あるいた。

 さて、電車に乗ってから、芥川が口をきった。

「……今日〔きょう〕どうもありがと。」「いい題材みつかった。」「……うん、……ところで、さっき、君は、『秋』のような題材の物は、僕には向〔む〕かない、と云ったが、そうなんだよ、実際、あんな物は、僕には苦手〔にがて〕なんだ、……しかし、僕は、もう一べん、いなおって、思いきって、感傷的なところや抒情的なところの全〔まつた〕くないもので、現代物を書いてみよう、と思っているんだ、しかも、短篇じゃない、中篇だ、……」「ふん、そりや、おもしろい、かもしれないけれど、僕には、……」「ふん、しくじったら、別の手を打つつもりだ。」「その方がよかないか。」(すると、芥川は、急に低い声になって、云った。)「僕は、ずっと前から、トルストイとツルゲエネフの話を、書きたい、と思ってるんだが、……」「その方が面白いかもしれないね。」「うん、……君もどんどん書けよ。」「うん。」「失敬。」(この時、電車が、私のおりる藍染橋にとまったのである。)

 

 ここで、つぎの話にうつる前に、芥川のために、一〔ひ〕と言〔こと〕、弁護しておく。――それは、芥川が、支那の旅行から帰って、しばらく、病気をして寝ていたことがある。すると、いつの世にも絶えない、口さがない連中が、「『南京の基督』の話は、芥川の実験談で、芥川は支那でひどい梅毒にかかったらしい、」と云い触らした事である。ところが、いつの世にもゴシップを信じる人たちも亦多いので、この時が本当のように広がったのである。しかし、この弁護はいたって簡単明瞭である、『南京の基督』は大正九年七月の作であり、芥川の支那に出かけたのは大正十年の三月の末であるからである。

 猶、芥川の体質と病気についてしじゅう質問をうけて困っていた、芥川の親友であり主治医であった、下島 勲が、『芥川龍之介のこと』という文章の中で、「世間にイイ加減な臆説や誤りが流布されてゐる。また種々の尾鰭がついて、肺結核だの甚だしきは精神病者とまで伝へられてゐる、」と憤慨している。

 結局、芥川の病気は、胃のアトニイ、痔疾(脱肛)、神経衰弱、――この三つであったのである。

[やぶちゃん注:「下島 勲が、『芥川龍之介のこと』という文章の中で」とあるが、標題は正確には「芥川龍之介氏のこと」で、昭和二(一九二七)年九月号『改造 芥川龍之介特輯』に所載され、後に昭和二十二(一九四七)年清文社刊の下島勲著「芥川龍之介の回想」に収められた。私の電子テクストがあるので参照されたい。

「胃のアトニイ」胃壁筋肉の緊張が低下、胃の機能が低下する状態を言う。先天的に全身的に筋肉が弱く痩せた人に多く起き、胃下垂自体が胃の機能低下を惹起することが多いために胃下垂と合併して発症することが多い。]

 ついでに、下島の書いた文章の中に私の注意を引いたものが一つあるので、それについて、述べておく。それは、『訂〔ただ〕しておきたいこと』という文章の終りの方の、「あれは晩年小穴といふ人の頭に映じたり印象づけた生活相や言行の一面で、主として彼[註―芥川のこと]がすがれ行く痛ましい姿の描写のやうである、」と書かれ、更に、その後の方に、書かれている、つぎのような文章である。

 

 

 私は芥川氏の自殺の背景に多大の関係があるやうに書かれたり、喧伝せられてゐるS子夫人に対する彼の煩悶苦悩といふのは、時に病的ではなからうかと思はしめた神経の一つの現れで、その現れが婦人殊に有夫の人で而も知友などに関係ある対象だつただけに、比較的著〔いちじる〕しかつたに過ぎぬものと解したい。(尤も決して気違ひでない人でありながら、僅かの傷を致命傷ではなからうかと感じるものがあるかと思へば、顔面に出来た発疹を梅毒ではないかと勘違ひをして、煩悶の結果、自殺を企てた若い教養のある厳格な家に育つた立派な婦人もあつた。芥川氏に何の関係もないことであるが、参考までに記しておく、)だから、芥川氏の場合S子夫人のみを自殺背景の重大原因であると見たり、甚だしきは、「芥川龍之介を死なせた女」などといふ雑誌の表題を見るだけでも、ウンザリせざるを得ない。

 

 

 私がわざわざこの長い文章を引用したのは、私がこの下島の説にほぼ同感であるからだ。

 

 それから、私が、この文章を書き出してから、ときどき、(ほんのときどき、)不審に思ったのは、私は、芥川とナニかあるようなナニもないような噂をされている婦人は、たいてい、芥川から、『ナンの関係もないような女』として紹介せれるか、名前を聞かされるか、していたのに、この下島の文章に出てくる『S子夫人』の名だけは、芥川が、私に、一度も口にしたことがない事である。

 この事は、こう書きながらも、やはり、不審に思われ、妙に思われるのである。

[やぶちゃん注:「S子夫人」は言わずもがな、秀しげ子。]

 

 さて、私は、『東洋文庫』に一しょに行った時から、ずっと、芥川に、逢わなかった。

 しかし、私は、自分の仕事に追われながらも、ときどき、芥川の事が、気になった。あの時、電車の中で、気負〔きお〕った口調で、「現代物を、もう一ぺん、書いてみる、」と、云っていたが、それを書いているであろうか、残暑は猶きびしい、元気そうによそおってはいたけれど、心〔しん〕が弱っているように見えたが、芥川よ、恙〔つつが〕なしやと、私は、思ったのである。

 ところが、『東洋文庫』に行ってから一〔ひ〕と月〔つき〕ほど後、新聞の広告で、「中央公論」(大正九年十月号)に『お律と子等』が出たのを見た時、私は、「やったな、」と思った。『やったな』とは、「芥川が思ったよりも早く、現代物の小説を書いたのに、おどろいた、」という程の意味である。

 ところが、その十月号の「中央公論」に出たのは前篇だけで、後篇は十一月号の[中央公論」に出た。そうして、両方で百枚ちかくであるから、芥川の小説としては幾らか長い方である。これは、簡単に荒筋を述べると、死にかかっている母(お律)と子等(胤〔たね〕ちがいの兄、腹ちがいの姉、弟)というような複雑なきょうだいとその身内〔みうち〕の人間たちを、その人たちの家であるメリヤス類の問屋にあつめ、それらの人たちが、危簿の状態にある病人をよそにして、角つきあいをしている有〔あ〕り様〔さま〕を書いたむのである。

 ところで、こういう日本の自然主義の作家が好〔この〕んで書いたような題材を、いわば門〔かど〕ちがいの芥川が、材料にしても、成功する筈がないのである。ところが、嘗て「理智主義」とか「新技巧派」とか称せられた芥川は、さすがに、こういう題材を、芥川流にこなし、巧緻な技巧と洗煉された文章によって、事件も、人物も、手際〔てぎわ〕よく、きちんと、書いている。とごろが、この小説も、『秋』と同じように、作意がハッキリしすぎ、説明が多すぎ、心理描写があらわ過ぎ、辻凌が合い過ぎる。そのため、現実味がうすく、迫力がない。頭〔あたま〕で作〔つく〕って、頭で書いているからである。

 しかし、この小説は、芥川が、大袈裟にいえば、作者として立ちなおる気で、書いたものであり、気負って書いたものであるから、いま述べたような欠点はあるが、実に細〔こま〕かいところまで気をくばり、文字どおり、用意周到な作品である。しかし、そのために、生き生きしたところがなく、どの人間にも血が通〔かよ〕っていない。しかし、又、いうまでもなく、これは誰にも書けるというような小説ではない。妙な言葉であるが、これは、秀才の小説である。

 ところで、私は、この小説を、発表された当時に、読んで、一ばん気になったのは、作者が、この小説に出てくるいかなる人間にも、微塵〔みじん〕の同情も持っていない事であった。この作者は人間らしい温か味というものを少しも持っていないのではないか。この作者の心は氷であるか。私は、この小説を読みおわった時、心の中が、心の底が、氷のように、寒く冷たくなるような気がした。(人間としての芥川は、私の知るかぎり、冷たいところなど殆んどなく、温か味のある人であったが、小説を書く時は、作品の上では、このようになるのであろう。しかし、これは、もとより、芥川ばかりでなく、たいていの作家は、書く時は、非情と思われるほど冷静な心にならねばならぬのである。)

 ところで、話は別であるが、私は、この『お律と子等』 の後篇の終りの方に感じられる何ともいえぬ「陰気」さは、芥川が、この小説を書いた年〔とし〕から六年ほど後に、つまり、(自ら死んだ年の前の年に、)書いた『玄鶴山房』の暗い暗い「陰気」さに、どこか、通じるところがあるような気がするのである。(そういえば、こじつけるようであるが、『お律と子等』の構想と『玄鶴山房』の構想も、ほんの少しではあるが、似ているところがある。)

 芥川が『お律と子等』を書いたのは、さきに述べたように、二十九歳の年〔とし〕の秋であるが、二十九歳の年〔とし〕に『お律と子等』というような小説を書いた芥川は、二十九歳の年〔とし〕に、既に、心の中に、いうにいわれぬ苦しみと悩〔なや〕みを、持っていたのではないか。そうして、その一〔ひと〕つを仮りに病苦とすれば、他の一つは『家』の事ではないか。

 

 さて、『お律と子等』を失敗作であると思っていた、私は、芥川が、『東洋文庫』から帰りに、電車の中で、「もし失敗したら、別の手を打つつもりだ、」と云ったことに、期待した。それが、たぶん、その翌年(つまり、大正十年)の「中央公論」と「改造」の一月号に出た『山鴫』と『秋山図』であろう。

『山鴫』も、『秋山図』も、発表された当時、世評はわりによかったようである。

『秋山図』は、(これにに書いたような気がするが、)芥川のところに出入りしていた、支那文学に通じている、伊藤貴麿〔たかまろ〕の話によると、(これは、伊藤が、私が何も聞かないのに、わざわざ、教えてくれたのであるが、)『秋山図』は、あれとまったく同じ筋の小説が支那にあって、その支那の小説そっくりである、と云う。その真偽は別として、芥川は、その小説の書きはじめの頃から、日本の古典や切支丹の文献などから題材を取って小説を作っていたのであるから、伊藤の『教え』を大目に見ることにして、『秋山図』について云えば、私は、この小説は、例の名文は別として、物語としても、アヤフヤであり、(たとい『アヤフヤ』を書いたものとしても、)あまりおもしろくない、と思うのである。

[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(明治二十六(一八九三)年~昭和四十二(一九六七)年)は児童文学者・翻訳家。大正十三(一九二四)年に新感覚派の『文藝時代』に参加したが、その後は児童文学界で活躍、少年向けの「西遊記」「三国志」「水滸伝」をはじめとする中国文学の翻案物を得意とした。

「『秋山図』は、あれとまったく同じ筋の小説が支那にあって、その支那の小説そっくりである」作品の原典は清初の画家惲格(うんかく 一六三三年~一六九〇年 字・寿平 号・南田)の画論集「鷗香館集」補遺画跋に載る「記秋山圖始末」であるが、実際に芥川が参考披見した原拠は今関寿麿(いまぜきとしまろ 明治十五(一八八二)年~昭和四十五(一九七〇)年 号・天彭:中国研究家・漢詩人)の編になる「東洋画論集成」の上巻(大正四(一九一五)年読画書院刊)所収の訓読文と考えられている(本記載は一部を翰林書房「芥川龍之介新事典」に拠った)。]

 

『山鳩』は、『秋山図』とくらべると、(「くらべると」である、)いくらかおもしろく、心にくいほど巧みなところもある。そうして、例によって、些細なところにも気をくばっている。それで、一と口に云うと、この作品は、気のきいた物語ではあるが、小説としては、やはり、物たりない。

 けっきょく、私は、待ちかねていただけに、この二つの小説を読んで、かるい失望を感じた。そうして、寂しい気がした、これでは心細い、と思ったからである。しかし、又、芥川は、こんな事で、決してへたばる男ではない、と思った。

 

 話がまったく変るが、(これも前に述べたことがあるかもしれないけれど、)大正十年の一月の末頃であったろうか、芥川と、神田の神保町の中〔ちゅう〕の下〔げ〕ぐらいの牛肉屋で、私は、久しぶりで、一しょに、夕飯をたべたことがある。

[やぶちゃん注:ここまで読んでくると、宇野は作家の発表雑誌や飲食店・茶屋、職業、更には女性の容貌、人間の品性に至るまでの総てを殊更に(ある意味、偏執的に)格付け(そこには、時代背景を考慮するとしてもかなりの差別意識も入り込んでいることは疑いがない)することが好み(というのが失礼ならば趣味)であることがよく分かる。これが彼の本来の性格によるものか、それとも精神病後の人格変性によるものであるのかは定かではないが、[やぶちゃんのやぶちゃんによる割注―それは生じ得るのである。宇野の記載を読んでいて感じるのは、本書の中の大部分である芥川龍之介の回想はその殆どが、宇野が精神に異常をきたす以前の記憶であるわけだが、その当時感じた印象と記述時の印象が一八〇度転換しているケースが散見される。これは実際にそうであった(当時の宇野の思い違いであった)と感じさせる部分もあるが、中に有意な割合で何か感受者である宇野自身の脳の器質的変化によるものではないかと感じさせる部分が私には確かにあるからである(但し、精神病による病変であるからといってその差別性の責任が相殺されるとは私は思っていない)。]これはかなり奇異に見える(私は時に読んでいて不快感さえ覚える)ことは事実である。ここで言っておきたいのであるが、私は彼の差別語や差別表現に対して、本電子テクストの冒頭や最後に、如何にもな例の差別注記を附ける気はポリシーとして全くない。[やぶちゃんのやぶちゃんによる割注―私は、現在の出版界やネット上で、ただ同文の差別ママ注記を附ければ、それで差別がなくなるというような安易な免罪符的用法に対して強い違和感を抱くからである。私は差別注記を本気でやるのなら、どこが差別用語であり、どれが差別表現であり、それがどのような部類の差別であり、どのような人間がどう差別されるのか、ということを誰にも分かるように逐一解説せねば嘘だと思うからであり、そんなことを文学作品(それも過去の)に適応することは現実的に不可能だからである。]が、ここでそうした批判的視点を常に持って読者一人ひとりが彼の文章全体を読むべき必要性を「ここで一度だけ」指摘しておきたいのである。差別の解消の総ての核心は個々人の不断の内的省察に基づかねばならない。と私は思うからである。]

 

 六畳ぐらいのうすぎたない部屋であった。そこで、注文した物が出る前に、芥川は、その時はなにか上幾嫌で、ほとんど一人で喋った。

「……君、われわれ都会人は、ふだん、一流の料理屋なんかに、行かないよ、菊池や久米などは一流の料理屋にあがるのが、通〔つう〕だと思ってるんだからね。……」(その他、いろいろ喋ったが、みな略す。)

 さて、注文した物がはこばれ出した時、芥川が、私に、自慢そうに、なにか字を書いた半紙を見せながら、例の鼻にかかる声で、「これ、ヘキドウが書いたんだよ、」と、云った。

 見ると、細いくねくねした字で、『夜来の花』と書いてあった。「ヘキドウ」とは、小沢碧童という、新傾向の俳人である。

「うまいだろう、」と、芥川は、ニコニコしながら、云った。

「うむ、」と、私は、いった。『うむ』といったのは、私には、その字が、下手〔へた〕に見えて、うまいとは思えなかったからである。(後記―これは、私の無知で、実は凝った巧みな字であった。)

 ところが、大正十年の三月十三日に、芥川が、小穴にあてた手紙の中に、「……空谷老人入谷大哥の『夜来の花』を見て曰『不折なぞとは比へものになりませんな』と、」という文句がある。空谷すなわち下島 勲は書の名人であるから、この、『入谷大哥』が小沢碧童ならば、私が、碧童の書いた『夜来の花』を、芥川に、「うまいだろう、」と云って、見せられながら、下手だと思って、「うむ、」と生返事をした時、芥川は、何も云わなかったが、心の中では、大いに軽蔑したであろう、と思う。

 

 こんな事を思って、ちょいと調べてみると、碧童は、

 

 何鳥〔なにどり〕か啼いて見せけり冬木立

 

 引窓に星のひつつく寒さかな

 

というような句を作っているばかりでなく、書と篆刻に巧みである。

 

 こういう点で、芥川が文人とすれは、(いや、大〔たい〕した文人である、)私などは、野人であり、風雅を知らぬ無粋人である。

[やぶちゃん注:「入谷の大哥」「小沢碧童」河碧梧桐門下の俳人小澤碧童(明治十四(一八八一)年~昭和十六(一九四一)年 本名、忠兵衛)のこと。「大哥」は「あにい」「あにき」と読む(芥川龍之介が親しくした友人の中でも十一歳年上の最年長であった)。ここに書かれた通り、芥川の第五作品集『夜来の花』(大正十(一九二一)年三月新潮社刊)の題簽をものしている。]

 

 私はこの神保町の牛肉屋で、芥川と一しょに食事をしてから、二た月〔つき〕ほど後に、芥川に、(芥川が支那に行く前に、)旅行したきりで、それから、四五年も、芥川と逢う機会がなかったのであった。

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