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2012/04/22

宇野浩二 芥川龍之介 二十~(1)

    二十

 

 その翌年(つまり、昭和二年)の「中央公論」の一月号には、芥川の小説『玄鶴山房』は、その「一」というのが、四百字づめの原稿紙でいうと、一枚半ぐらいしか出なかった。私は、それを見て、大へん失望した。が、そういう私は、『軍港行進曲』という小説が予定の五分の一ぐらいしか書けなかったので、それを二月号に延ばしてもらったので、結局、芥川との約束(のようなもの)を破って、「中央公論」の一月号には、とうとう、小説が出せなかったのである。しかし、そんな事は棚に上げて、私は、その芥川の『玄鶴山房』の「一」の終りの、

 彼等は二人とも笑ひながら、気軽〔きがる〕にこの家の前を通つて行つた。そのあとには唯凍〔い〕て切つた道に彼等のどちらかが捨てて行つた「ゴルデン・バット」の吸ひ殻が一本〔ぽん〕、かすかに青い一すぢの煙を細ぼそと立てでゐるはかりだつた。……

という一節を読みおわって、「あいかわらず気どったものだなあ、」と、思った。しかし、これからどういう事を書くのかわからないが、この十行〔ぎょう〕か二十行ぐらいの文章で、玄鶴という人間とその玄鶴の妙な家を、その一端を、巧みに現しているのを読んで、私は、「やっぱり旨〔うま〕いところがあるなあ、」と、感心した。感心しながら、「これだけしか書けなかったのは、まだ体〔からだ〕がよくないのであろうか、」と、私は、陰〔かげ〕ながら、心配した。

 ここで、又、芥川の書翰をしらべてみると、大正十五年の十二月のところで、十六日に「中央公論」編輯者の高野敬録[高野はたしか編集長であった]に宛てた手紙の中に、「昨夜は二時すぎまでやつてゐたれど、薄バガの如くなりて書けず、少々われながら情なく相成り候次第、何とも申訣無之〔これなく〕候へども二月号におまはし下さるまじくや。これにてはとても駄目なり。二月号ならばこれよりやすまずに仕事をつづく可く候。斎藤さんにも相すまざる事になり、不快甚しく候」と書いてある。この手紙は、いうまでもなく、『玄鶴山房』が少ししか出来なかった詫びと言〔い〕い訳〔わけ〕である。

 それから、この手紙の中に「斎藤さんにも相すまざる事になり、」とあるのは、芥川が、眠れなかったり、痔の痛みに堪えられなくなったり、する時に必要な薬を、しばしば、斎藤茂吉から、都合をしてもらいながら、仕事がはかどらない事が、茂吉にすまない、という程の意味であろう。それは、芥川が、十二日に、鵠沼から、茂吉に出した、つぎのような手紙をよんでも、ほぼ察しられる。

 冠省、まことに恐れ入り候へども、鴉片丸〔あへんぐわん〕乏しくなり心細く候間、もう二週間分はど田端四三五小生宛お送り下さるまじく候や。右願上げ候。中央公論のは大体片づき、あと少々残り居り候。一昨日は浣腸して便をとりたる為、痔痛みてたまらず、眠り薬を三包〔みつつみ〕のみたれど、眠る事も出来かね、うんうん云ひて天明に及び候 以上

 私は、この手紙を読んで、驚歎した、――まず、『鴉片丸』などというものが初耳だったからだ、(鴉片は阿片であり、阿片は毒薬でもある、)その『鴉片丸』を、何〔なん〕と、「もう二週間分ほど」送ってほしい、と書いてあるからである、眠り薬を三包ものんで、眠られず、唸〔うな〕りつづけているうちに夜が明〔あ〕けた、と書いてあるからである、――これらの物事は、みな、異常以上の異常であるからである。

 私のような不眠症などに殆んど全〔まった〕くかかった事のない者には、これだけの事を、手紙で読んでも、(あるいは、聞かされても、)これは大変な事だ、こんな事になったら堪〔たま〕らないなあ、と、思われた、このような恐ろしい病気にかかったら、結果から云うのではないが、いっそ死んだ方〔ほう〕がましだ、という気もちにもなるであろう、と、この時分の芥川を幾らか知っている私には、何〔なん〕とも痛ましくてたまらない思いがするのである。

 ところで、この手紙は、よく読めば、(念を入れて読むと、)ここに述べたように、普通の人が思いも寄らないような、惨〔むご〕たらしい、異常な、事が書かれてあるのに、あまりに、スラスラと流暢に、書いてあるので、うっかり読み流すと、その実感が殆んど浮かんでこないのである。それは、今〔いま〕の人が、(いや、私なども、)使わない、書けない、スラスラした、『候文〔そうろうぶん〕』で書かれている上に、例えば、「アヘンガン、トボシクナリ、ココロボソク、」とか、「ネムリグスリヲ、ミツツミ、ノミタレド、ネムルコトモ、デキカネ、」とか、「ウンウンイイテ、テンメイニ、オヨビソロ、」とか、いうように、口調のよい名文章で、書かれてあるからである。

 それで、この手紙には、前に述べたような、文章だけを、無心に、読み流すと、堪えがたい苦しさに悩んでいる難病人が書いたとは、どうしても、思われないような、余裕がある、余裕どころか、洒落のようなものさえ感じられる。例えば、初めの方の「鴉片丸乏しく心細く候」などというところは、不断〔ふだん〕の芥川を知っている私などには、いかにも芥川が使いそうな文句である、と思って、微笑〔ほほえ〕ましい気もちさえする。しかし、やはり、しじゅう、催眠剤を用いている、人一倍神経質で気むつかし屋の、斎藤茂吉は、その日の虫の居所〔いどころ〕がわるい時は、こういう文句を読めば、腹を立てるかもしれない。

 ところで、この手紙の中に「中央公論のは大体片づき、あと少々残り居り候、」とあるのは、これが『玄鶴山房』であれば、噓であるが、これは、手にはいりにくい薬で世話になっている上に、ときどき診察もしてもらう、脳病院長、医学博士、斎藤茂吉の気を安めるための、芥川の心づくしであろう。(晩年の芥川は、⦅死を決していたからでもあったか、⦆二一十五六歳の若さでありながら、いろいろな人に、こまかく心をくばり、いたく深切にした。――この事については後〔のち〕に述べるつもりである。)

[やぶちゃん注:「鴉片丸」の「鴉片」は勿論、麻薬として知られる阿片〔あへん〕、オピウムのことであるが、これについての宇野の反応はやや過剰で、阿片は医薬品として(現在もアヘン末等で医師の処方によって流通している)重度の下痢症状や疼痛の改善薬としてあり、強い鎮痛鎮咳効果を持っている。]

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