ジョン・ミリングトン・シング著姉崎正見訳「アラン島」第四部 (14)
次の數句の間で、馬はユダやマッカべウス大王に仕へ、クルスに仕へ、またバビロンに戻つて來る。次に、トロイにはひつた馬となつて居る。
( )が喜んでトロイに來た時、
私の馬もそこにゐた。
それは城壁を乘り越えて、
町にはひつたといふことである。
私はスぺインでまた逢つた。
その頃は彼も全盛で、
ハンニンバル大王の乘馬となつて、
アルプスを越えてローマに入つた。
馬も高いしアルプスも高く、
乘手は落ちて、
ハンニンバル大王は、
片目をつぶした。
*
For
a few verses he is with Juda and Maccabeus the great, with Cyrus, and back
again to Babylon. Next we find him as the horse that came into Troy.
When ( ) came to Troy with joy,
My horse he was found,
He crossed over the walls and entered
The city I'm told.
I come on him again, in Spain,
And he in full bloom,
By Hannibal the great he was rode,
And he crossing the Alps into Rome.
The horse being tall
And the Alps very high,
His rider did fall
And Hannibal the great lost an eye.
[やぶちゃん注:「ユダ」はずっと紀元前の話であることや、次の「マッカべウス大王」から、これはイスラエルの十二部族の一つであるユダ族の祖であるユダのことであろう。
「マッカべウス大王」ユダ・マカバイ(Judas Maccabaeus ?~B.C.160年)。ウィキの「ユダ・マカバイ」によれば旧約聖書外典の一つ「マカバイ記」に現れるB.C.2世紀のユダヤ民族の英雄。『シリアの支配下にあったユダヤの独立を達成することになるマカバイ戦争を指導し、ハスモン朝が開かれる基礎を築いた』とある。
「クルス」“Cyrus”。キュロス2世(Kyros B.C.600年頃~B.C.529年:綴りが異なるが、こうも綴るらしい)はアケメネス朝ペルシアの初代国王。ウィキの「キュロス2世」に、『キュロスは古代エジプトを除く全ての古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建設した。古代ペルシア語名をクリシュなどといい、ギリシア語名をキュロス(クロス)、ラテン語名をキルス、古典ヘブライ語名をコレシュという。同名の王子小キュロスと区別して「大キュロス」、キュロス大王、同名のアンシャン王と区別してキュロス2世と呼ばれる。現代のイラン人は、キュロスをイランの建国者と称えている』とある。
「( )が喜んでトロイに來た時」の「( )」は、御覧の通り、原文も同じ。シングが老人の詠唱を採録した際、分からなかった単語と思われる。トロイの木馬を考案したオデュッセウスか。
「ハンニンバル大王は、/片目をつぶした」ハンニバルはB.C.218年のローマ攻略のアルプス越えの際、左目を失明している。この詩では落馬による外傷とするが、ネット上の記載には重度の結膜炎を原因とするらしい。
私の定型狂詩オリジナル訳。「( )」はとりあえずオデュッセウスでやってみた。
オデュッセウス、彼がトロイに來た時にゃ、これ幸いに、
おいらがいた、おいらはそん時きゃ、トロイの木馬――
やすやすと、鉄壁城壁何のその、
町の中へと、ずずいずい!――
おいらがよ、奴(きゃつ)にまたまた出逢(お)うたは、これがまたまた西班牙(スペイン)で、
そん時きゃ奴(きゃつ)めも栄華の極み――
大殿さまのハンニンバル、悠々乗せて、
アルプスを、越えてローマへ一目散――
高い高いは馬の丈、
高い高いはアルプスじゃ――、
ああら、あらあら、騎手さん、ドスン!
大殿さまのハンニンバル、片目眇めとなりにけり――
おあとがよろしいようで――]
それから後、少スキピオを乘せたり、ブリアンがデンマルク人を愛蘭土から追ひ出す時に乘せたり、聖ルスがオーリムの戰で斃れた時に乘せたり、サースフィールドをリメリックの攻圍で乘せたりした。
ジェームズ王に仕へては、
愛蘭土の岸にやつて來て、
ボイン河の激戰の終つた時、
到頭ちんばになつちやつた。
名高いヲーターローの戰では、
世界一の人を乘せ、
勇ましいダニエル・オーコンネルが
その脊に乘つたのも嘘ぢやない。
勇ましいダニエルをその脊に乘せて、
再び戰場へと用意して、
王黨を屈服させるまでは、
いつまでも止まることはないだらう。
此の長い詩は奇怪なものではあるが、前いつたやうに、老人がそれを爐邊で低唱すると、一種の存在を持つ。さうして島では、非常に有名である。老人はそれを印刷して欲しいと望んでゐる。
それが世の中から無くなるのはよい事でなく、此處で知つてゐるのは自分だけで、本土では、聞いた人もないからだと云つた。もう二つばかり同じやうな惡詩の見本があつたが、私は書き寫さなかつた。
その歌には英語・愛蘭土語共に此の島の人達にすらわからない言葉が一杯あるので、それをゆつくり云ふ時は記憶が大概覺束なくなる。
*
Afterwards
he carries young Sipho (Scipio), and then he is ridden by Brian when driving
the Danes from Ireland, and by St. Ruth when he fell at the battle of Aughrim,
and by Sarsfield at the siege of Limerick.
He was with king James who sailed
To the Irish shore,
But at last he got lame,
When the Boyne's bloody battle was o'er.
He was rode by the greatest of men
At famed Waterloo,
Brave Daniel O'Connell he sat
On his back it is true.
***
Brave Dan's on his back,
He's ready once more for the field.
He never will stop till the Tories,
He'll make them to yield.
Grotesque
as this long rhyme appears, it has, as I said, a sort of existence when it is
crooned by the old man at his fireside, and it has great fame in the island.
The old man himself is hoping that I will print it, for it would not be fair,
he says, that it should die out of the world, and he is the only man here who
knows it, and none of them have ever heard it on the mainland. He has a couple
more examples of the same kind of doggerel, but I have not taken them down.
Both
in English and in Irish the songs are full of words the people do not
understand themselves, and when they come to say the words slowly their memory
is usually uncertain.
[やぶちゃん注:原文では最後の一連の前には、御覧の通り、“***”が入っているが、底本にはない。このアスタリスクは恐らくそこにあった数連を省略したこと、そしてこの最後に示された連が正真正銘、最後のフレーズであることを示唆するものと私は判断する。なお、私は世界史は苦手である。複数の叙述を勘案しながら注を附したが、誤りがあった場合は、御教授願えれば幸いである。
「少スキピオ」は「小スキピオ」で、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス・ヌマンティヌス(Publius Cornelius Scipio Aemilianus Africanus Numantinus B.C.185年~B.C.129年)のこと。共和政ローマの軍人政治家。第三次ポエニ戦争の際にはカルタゴの三重防壁を破るために遣わされ、B.C.146年、カルタゴを陥落させ、都市も市民も悉く破壊虐殺した。呼称の「小」は、第二次ポエニ戦争で活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破って戦争を終結させた同じく共和政ローマの軍人政治家「大スキピオ」プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル(Publius Cornelius Scipio Africanus Major B.C.236年~B.C.183年頃)と区別するため。小スキピオは大スキピオの妻の甥で義理の孫に当たる(以上は主にウィキの「スキピオ・アエミリアヌス」によった)。
「ブリアン」“Brian”はアイルランドの偉大なる王にして英雄ブライアン・ボル(Brian Boru 941年~1014年 ゲール語:Brian
Bóroimhe)。ヴァイキングに兄を殺されて王となった彼は、ヴァイキングへの復讐と、その布石としてのアイルランド全土の政治統一に誠心を傾け、遂に1002年に統一を成し遂げ、ヴァイキングの追放に成功した(但し、その生き残りに暗殺されたという)。
「デンマルク人」“the Danes”は「デーン人」で、古くデンマーク地方に居住していた北方ノルマン人一族。8世紀から11世紀にかけて、海上からイングランドをはじめとしたヨーロッパ各地に侵攻し、スカンディナヴィアの海賊、通称ヴァイキングの主流を成した。キリスト教に改宗後、デンマーク王国として統一国家を創設した。
「聖ルスがオーリムの戰で斃れた時」「聖ルス」はサン・ルース侯爵(Charles Chalmont Marquis of St Ruth 1650 年~1691年)。フランスの将軍。カトリック信者の多いアイルランドが支持していた“Jacobite”( ジャコバイト:イギリスの名誉革命のウィリアム3世支持派の“Williamite”ウィリアマイトに対抗したジェームズ2世支持派の反革命勢力でフランスも支持していた)に組してウィリアマイト戦争をアイルランドで戦ったが、ゴールウェイ州のオーリムの戦いで戦死した。
「サースフィールドをリメリックの攻圍で乘せたりした」Patrick Sarsfield (パトリック・サーズフィールド 1660年~1693年)はウィリアマイト戦争末期、ウィリアマイト軍は1690年にジャコバイトの根拠地である南西部マンスターの都市リムリックでの包囲戦では降伏の最後まで善戦したジャコバイト騎兵隊指揮官であった。
「ジェームズ王」はイングランド・スコットランド・アイルランドの王ジェームズ7世=ジェームズ2世(James VII of Scotland and James II of England 1633年~1701年 在位:1685年~1688年)のこと。スコットランド王としてはジェームズ7世、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ2世。三ヶ国にとってジェームズは歴史上最後のカトリック信者の国王である。名誉革命によって王位を逐われ、王国はウィリアム3世とメアリー2世による共同統治となった。先に掲げたジャコバイトとはウィリアム・メアリーでなくジェームズこそ正統なる王であるとする人々を指す(以上は、ウィキの「ジェームズ2世(イングランド)」を参照した)。
「ボイン河の激戰」ボイン川の戦いは1690年7月1日にウィリアム3世のイングランド・オランダ連合軍とジェームズ2世のスコットランド軍の間で行われた戦い。アイルランドのレンスター地方ボイン川河畔で行われ、勝利したウィリアムがイングランド王位を決定的なものとした戦争(以上は、ウィキの「ボイン川の戦い」を参照した)。ジェームズ2世は敗残の自軍を置き去りにしてフランスに亡命したため、敗残兵たちからは“Séamus á Chaca(James the Shit)”「くそったれのジェームズ」という蔑称されたという(ここは、ウィキの「ジェームズ2世(イングランド)」を参照した)。
「到頭ちんばになつちやつた」は、何かの比喩(若しくは皮肉)が隠されているような気がする。
「ヲーターローの戰」ナポレオンのワーテルローの戦いは1815年であるから、一気に百年、時空が飛ぶ。
「ダニエル・オーコンネル」(1775年~1847年)はアイルランド解放運動の指導者。英国の支配に抵抗し、「カトリック教徒協会」を率いて1829年にカトリック教徒解放法を成立させ、アイルランドの分離独立運動を推進、1841年にはカトリック初のダブリン市長となったアイルランドの英雄である。
「王黨」“the Tories”。“Tory”の原義はイギリスのトーリー党員のこと。17世紀末から1832年頃まで、議会に対する王権の優位を主張した。現在のイギリスの二大政党の一つである「保守党(保守統一党)」の前身。現在でも「保守党」は“Tory”と俗称される。
「その歌には英語・愛蘭土語共に此の島の人達にすらわからない言葉が一杯あるので、それをゆつくり云ふ時は記憶が大概覺束なくなる。」原文は“Both in English and in Irish the songs are full of words the people
do not understand themselves, and when they come to say the words slowly their
memory is usually uncertain.”。ちょっと分かり難い訳文である。「この爺さんたち(但し、中心の詠唱者は一人の老人)が歌う歌には――それが英語のものであってもアイルランド語のものであっても――どちらにも、遺憾ながら、歌っている本人たちにさえ実はまるで分かっていない(としか思われない)単語が多数含まれている。だから、歌の調子が『……うん? なんだかゆっくらになったなぁ?』と感じられる時には、それは概ね、歌っている彼らの記憶が本当のところは、あやふやな箇所なのであった」という意味である。
私の定型狂詩オリジナル訳。
さても今度はジェームズ王が、海を渡って来なすった、
アイルランドは、その岸辺、すっくと立ったもやっぱり奴(きゃつ)さ――
だけど遂にはボッキリと、折れてちんばになりにける、
ボインの川の、血みどろの、ひでえ戦さの仕舞いにゃね――
それでもまだまだ、奴(きゃつ)には騎る、どえらい、どえらい殿方が、
たとえば一人はワーテルロー――
たとえば跨る――ありゃ何と! 我らがダニエル・オコンネル!
奴(きゃつ)に乗ったは、嘘じゃねえ!――
***
勇者ダニエルと奴(きゃつ)の背(せな)、一つとなったその時にゃ、
おいらの馬はまたしても、あの修羅場へと甦る――
糞保守どもを根絶やすまで、古今東西金輪際、
奴(きゃつ)の走りは――止められネエ――
おあとがよろしいようで――]
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