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2012/04/19

教え子への返歌 歐陽修 醉翁亭記 やぶちゃん義太夫風現代語訳

歐陽修の「醉翁亭記」は二十五六年前に読んだきりで忘れていた。
一つ暇に任せて訳してみようと思い立つ。
せめてもの、古き教え子への正しき返歌として――

原文は文言版維基文庫の「醉翁亭記」を用い、句読点及び記号の一部を変更した。訓読(句読点を増補改変し、一部に歴史的仮名遣で読みを振った)と現代語訳に際しては、一部の難解な部分に昭和五十三(一九七八)年朝日新聞社刊「中国古典選 唐宋八家文」所収の清水茂氏の解説・通釈を参考にさせてもらったが、訓読も訳も、あくまで自然流であるから、学術的には使用不可である。語釈は付けると膨大になり、時間もかかるので、今回は現代語訳のみとした。

……而して、訳しながら思ったこと――章末には載道の儒教精神の発露を覗かせながら、その実、百花を愛でて川端に酔って天然自然を見巡り、遊び、居眠りをする欧陽先生は道家的人物を色濃く反映し、最後の楽を知る/知らないという論理も反転させれば、鳥も客も太守も「知る/知らない」という関係性を越境して渾然一体となる「自然」である。そこでは総てが「知る/知られている」のであり、それは正に「荘子」の「知魚楽」(外篇 秋水第十七)を髣髴とさせるではないか――などと勝手なことを考えた。

醉翁亭記 歐陽修

環滁皆山也。其西南諸峰、林壑尤美。望之蔚然而深秀者、琅琊也。山行六七里、漸聞水聲潺潺、而瀉出於兩峰之間者、釀泉也。峰回路轉、有亭翼然臨於泉上者、醉翁亭也。作亭者誰。山之僧智仙也。名之者誰。太守自謂也。太守與客來飲於此、飲少輒醉、而年又最高、故自號曰醉翁也。醉翁之意不在酒、在乎山水之間也。山水之樂、得之心而寓之酒也。

若夫日出而林霏開、雲歸而巖穴暝、晦明變化者、山間之朝暮也。野芳發而幽香、佳木秀而繁陰、風霜高潔、水落而石出者、山間之四時也。朝而往、暮而歸、四時之景不同、而樂亦無窮也。

至於負者歌於途、行者休於樹、前者呼、後者應、傴僂提攜、往來而不絕者、滁人遊也。臨溪而漁、溪深而魚肥、釀泉為酒、泉香而酒洌、山肴野蔌、雜然而前陳者、太守宴也。宴酣之樂、非絲非竹、射者中、弈者勝、觥籌交錯、起坐而諠譁者、眾賓歡也、蒼顔白髮、頹然乎其間者、太守醉也。

已而夕陽在山、人影散亂、太守歸而賓客從也。樹林陰翳、鳴聲上下、遊人去而禽鳥樂也。然而禽鳥知山林之樂、而不知人之樂、人知從太守遊而樂、而不知太守之樂其樂也。醉能同其樂、醒能述以文者、太守也。太守謂誰。廬陵歐陽修也。

〇やぶちゃんの書き下し文

醉翁亭の記   歐陽修

滁(じよ)を環りて皆、山なり。其の西南の諸峰、林壑(りんがく)、尤も美なり。之を望むに蔚然(ゐぜん)として深秀なるは、琅琊(らうや)なり。山、行くこと六七里、漸く水聲潺潺(せんせん)として、兩峰の間に瀉(そそ)ぎ出づるを聞くは、釀(ぢやうせん)泉なり。峰(みね)、回(めぐ)り、路(みち)、轉じて、亭、翼然として泉上に臨む有り。醉翁亭なり。亭を作れるは誰〔た〕そ。山の僧、智仙なり。之を名づくは誰そ。太守、自ら謂ふなり。太守と客と、此に飲み來たり、飲むこと少(わづ)かにして輒(すなは)ち醉(ゑ)ひ、而も年、又、最も高く、故に自ら號して醉翁と曰ふ。醉翁の意、酒に在らず、山水の間に在る。山水の樂は、之を心に得て之を酒に寓する。

若し夫れ、日出でて林霏(りんぴ)開き、雲、歸りて、巖穴、暝く、晦明變化(へんげ)するは、山間の朝暮なる。野芳(やほう)、發(ひら)きて幽香あり、佳木、秀いでて繁陰あり、風霜高潔にして、落ちて石の出づるは、山間の四時なる。朝(あした)に往き、暮れに歸り、四時の景、同じからず、而して樂しみも亦、窮まり無きなり。

負ふ者は、途に歌ひ、行く者は、樹に休らひ、前(まへ)にある者は呼ばはり、後ろにある者は應(こた)へ、傴僂提攜(うるていけい)、往來して絶へざる者に至りては、滁の人の遊なり。溪に臨みて漁(すなどり)すれば、溪(たに)深くして、魚、肥え、泉を釀(かも)し、酒を為(つ)くれば、泉、香んばしくして、酒、洌(きよ)し。山肴野蔌(さんかうやそく)、雜然として前に陳(なら)ぶれば、太守の宴なる。宴、酣(たけなは)の樂しみは、絲(し)に非ず、竹(ちく)に非らず、射る者の中(あた)り、弈(えき)する者の勝てば、觥籌交錯(こうちうかうさく)、起坐して諠譁する者は、眾賓(しゆうひん)の歡びなる、蒼顔白髮、其の間に頹然たる者は、太守の醉ひなる。

已にして、夕陽、山に在り、人影散亂、太守歸りて、賓客、從ふ。樹林陰翳、鳴聲上下、遊人去りて禽鳥樂しむ。然して禽鳥山林の樂しむを知り、人の樂しむを知らず、人は太守の遊に從ひて樂しむを知りて、太守の其の樂しむを樂しむことを、知らざるなり。醉ふては能く其の樂しみを同じくし、醒めては能く述ぶるに文を以てするは、太守なり。太守とは誰(た)れをか謂ふ。廬陵の歐陽修なり。

〇やぶちゃんの勝手自在現代語訳

醉翁亭の記   歐陽修

滁州(じょしゅう)は見巡(みめぐ)り、山また山、
その西南に控かえしは、
峨々たる峰に森と谷、
その言いようもなき美しさ。
眺望遠望、深奥の、
彼方に聳ゆる峰々は、
かの知られたる琅琊峰(ろうやほう)。
山を行くこと六、七里、
次第次第に耳に入る、
さやりさやさや流る音(ね)は、
双(ふた)つ峰(みね)より湧き出づる、
聞こえた、その名も釀(じょう)の泉(せん)。
峰を巡りて、路うねり、
辿(たど)り着きたる四阿(あずまや)の、
醸の泉(いずみ)に寄り添うて、
翼広げし鳥の如(ごと)、
建ってあったが、醉翁亭。
――「この亭を、さても建てたは、誰じゃいの?」
――「山僧、智仙と申す者。」
――「この亭を、さても奇体に名づけしは、一体、どこの何様じゃ?」
――「滁州の太守……この儂(わし)じゃ。」
太守は客を連れ来たり、はるばる亭まで飲み来たる、
一口舐めたばかりにて、太守は直(じき)にべらんめえ、
しかもすっかり爺いなれば、
さすればこそと自ずから、
「醉翁てふは儂のこと」、
さてもところがその醉翁、その心根の向くところ、
全く以て酒に、ない――
そは美しき、この山水、そこにこそのみ、あるのじゃて――
かの「山水の楽しみ」を、直ちに心にともにする、
而して酒は、方便じゃ――

ためしにともに見るがよい――
曙(あけぼの)、東雲(しののめ)、日の出づる、
靄(もや)から森が開けてゆき――
彼誰(かわたれ)、黄昏(たそがれ)、逢魔が時、
昼間に降った雲々も、元の山へと帰り去り、
山崖虚空(さんがいこくう)の岩窟も、
今はすっかり玄(くろ)うなる――
昏く明るく、明暗に――永遠(とわ)に変われる日々のそれ――
それ、この山峡(やまかい)の、明け暮れの、天然自然の「真(まこと)」なり……
草木の薫る春の日に、花の開きてそこはかと、えも言いがたき香りして――
夏の緑樹のすくすくと、茂り繁りて木蔭あり――
白き秋風、吹きすさび――
川面(かわも)の冬は水落ちて、河床(かしょう)の石もはや露(あら)わ――
それ、山峡(やまかい)の四季という、「楽(らく)」たるものの「真(まこと)」なり……
かくも愛(いと)しき明け暮れに、
かくも愛(いと)しき四時の間(ま)に、
朝に出できて、暮れに歸(き)す――
四時の景色は同じうせず――
さすれば「楽(らく)」も、永劫に窮まり盡くることも、なし――

荷を負う人は路(ろ)に歌い、
旅ゆく人は、樹(き)に休らい、
前なる者の呼ばわれば、
後(あと)なる者はそに応え、
腰の曲がった老爺(ろうや)から、
手をひかれゆく童(わらべ)まで、
絶えることなき行き来にも、
この変哲もなき四阿(あずまや)は、
たかが四阿、されど四阿、
滁州の民の心の「遊(ゆう)」じゃ。
谷に臨んで魚をとり、
淵、深ければ、魚も肥え、
清泉汲んで、酒醸(かも)さば、
泉は山の香を含み、
醸(かみな)す酒は清冽々(せいれつれつ)。
山幸、野の幸、そのままに、
田舎料理の太守の宴(えん)。
宴、酣(たけなわ)の楽しみは、
琴に非ず、
笛に非ず、
投壺や囲碁の、ざっくばらん、
壺を射とめるも、射とめぬ者も、
石打勝つたるも、負けたる者も、
互いに酒を酌み交わし、
今宵は、なんの、無礼講、
踊れ、詠(うた)えの大騒ぎ、
客人すっかりご満悦。
――その群衆のただ中に――
しょぼくれ顔の、白髪(しらがみ)の、
ぐでんぐでんの、爺いが一人、
それぞ、お馴染み、酔いぐれた、おいぼれ太守の襤褸(ぼろ)姿。

――夕陽もすっかり山の端(は)に、
落ちてしもうて、人影も、すっきりまばらとなりまして、
太守御帰還、賓客、お供――
森は翳って――
されど、それ――鳥の声の、しきり騒ぐ声(ね)のするは――
物見の民の、喧(かまびす)しき皆、去りゆきて――
野の鳥の、おのが天地を、十全に、心ゆくまで楽しめる――
――然して、鳥は心から、この山林の「楽(らく)」を知り――
――されども人の「楽しみ」の、野点(のだて)の宴(えん)の「楽」知らぬ――
――また客人は、老いぼれの、太守がここで飲んだくれ、居眠りこける「楽しみ」を、それだけ知ってはおるものの――
――老いぼれ太守はその瞬時、滁州の民草(たみぐさ)心より、幸(さち)に生くるの思いの強く、さすればこその「楽しみ」と、酔うた心に満ち足りて、その「楽しみ」をただ独り、楽しみおるを、知りもせぬ――
――さても――
酔うたら、何時(いつ)でも、悦び、一緒!
――じゃが――
酔いが醒めても、その「楽しみ」、
確かにしっかとくっきりと、
文に綴れる芸当を――やらかす奴こそ――この、太守――
――「太守、太守、と……誰やねん?」
――「この儂、廬陵の歐陽 修じゃ。」……

こんなことが出来るのも、野人なればこそ――至福じゃわい――藪野直史

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