宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(6)
宇野浩二の「芥川龍之介」は残すところ、あと二章となった。
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大正十五年は、芥川は、一月の初めから、健康をわるくし、一月の中頃から、保養をかねて、湯河原に出かけ、二月の中頃に、湯河原から、帰り、四月頃から、鵠沼に行きはじめ、終に、その年一ぱい、殆んど、鵠沼で、暮らすようになった。
芥川の神経衰弱は高〔こう〕じて、しだいに、精神病者になって行った。
その大正十五年の四月十三日に、(鵠沼にて浄書)と断り書きのある、『凶』という文章がある。これは、大へん参考になるので、全文をうつす。
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大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乗り、本郷通りを一高[註―今の農科大学]の横から藍染橋〔あゐそめばし〕へ下〔くだ〕らうとしてゐた。あの通〔とほ〕りは甚だ街燈の少〔すくな〕い、いつも真暗な往来である。そこにやはり自動車が一台、僕のタクシイの前を走つてゐた。僕は巻煙草を啣へながら、勿論その車に気もとめなかつた。しかしだんだん近寄つて見ると、――僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色の唐艸〔からくさ〕をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。
大正十三年の夏、僕は室生犀星と軽井沢の小〔こ〕みちを歩いてゐた。山砂〔やますな〕もしつとりと湿気を含んだ、如何にももの静かな夕暮だつた。僕は室生と話しながら、ふと僕等の頭の上を眺めた。頭の上には澄み渡つた空〔そら〕に黒ぐろとアカシヤが枝を張つてゐた。のみならずその又枝の間〔あひだ〕に人の脚〔あし〕が二本ぶら下つてゐた。僕は「あつ」と言つて走り出した。室生も亦僕のあとから「どうした? どうした?」と言つて追ひかけて来た。僕はちよつと羞〔はづか〕しかつたから、何とか言つて護摩化〔ごまか〕してしまつた。
大正十四年の夏、僕は菊池寛、久米正雄、植村宋一[註―直木三十五]、中山太陽堂社長〔註―プラトン社に出資していた人。プラトン社から、直木の編輯した、「苦楽」「女性」を発行した〕などと築地の待合に食事をしてゐた。僕は床柱の前に坐り、僕の右には久米正雄、僕の左には菊池寛、――と云ふ順序に坐つてゐたのである。そのうちに僕は何かの拍子〔ひやうし〕に餉台〔ちやぶだい〕の上の麦酒罎〔ビイルびん〕を眺めた。するとその麦酒罎には人の顔が一つ映〔うつ〕つてゐた。それは僕の顔にそつくりだつた。しかし何〔なに〕も麦酒罎は僕の顔を映してゐた訣〔わけ〕ではない。その証拠には実在の僕は目を開〔あ〕いてゐたのにも関〔かかは〕らず、幻〔まぼろし〕の僕は目をつぶつた上、稍仰向〔ややあふむ〕てゐたのである。僕は傍〔かたは〕らにゐた芸者を顧〔かへり〕み、「妙な顔が映つてゐる」と言つた。芸者は始は常談〔じやうだん〕にしてゐた。けれども僕の座に坐るが早いか、「あら、ほんたうに見えるわ」と言つた。菊池や久米も替〔かは〕る替〔がは〕る僕の座に来て坐つて見ては、「うん、見えるね」などと言ひ合つていた。それは久米の発見によれば、麦酒罎の向うに置いてある杯洗〔はいせん〕や何〔なに〕かの反射だつた。しかし僕は何となしに凶〔きよう〕を感ぜずにはゐられなかつた。
大正十五年の正月十日〔とをか〕、僕はやはりタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下〔くだ〕らうとしてゐた。するとあの唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車が一台、もう一度僕のタクシイの前にぼんやりと後〔うし〕ろを現し出した。僕はまだその時までは前に挙〔あ〕げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々〔めいめい〕の裡〔うち〕に或〔ある〕警告を与へてゐる、――そんなことをはつきり感じたのだつた。 (大正十五年四月十三日鵠沼にて浄書)
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この文章は、(この文章も、)実に気味のわるい文章である。しかし、この気味のわるい話を、ちゃんと辻凄の合うように、書いているのが、一そう気味がわるい。ところで、芥川が、このような気味のわるい文章を、わざわざ、浄書したのは、どういう訳であろう。
それはそれとして、この話(『凶』)の中で、一ばん気味のわるいのは、アカシヤの枝の間に「人の脚〔あし〕が二本ぶら下〔さが〕つてゐた、」などという所より、最後の「僕はまだその時までは前に挙げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々の裡〔うち〕に或警告を与へてゐる、」というところである。
金色の唐草をつけた、葬式に使う自動車や、アカシヤの枝の間にぶら下っている二本の人間の脚や、麦酒罎にうつる幻の顔や、――そういうものは幻視であり、「何ものか僕に冥々の裡に或警告を与へてゐる、」というような考え方は、恐るべき、脅迫観念である。
[やぶちゃん注:宇野はまたしても鬼の首の確信犯『精神病者』立証を行っているわけでるが、これについて私は既に「凶」の私のテクストのマニアック注で『異常とも神経症的関係妄想だとも言えない』という見解を述べている。是非、参照されたい。]
つまり、大正十五年には、(殊に、鵠沼に住むようになってからは、)芥川は、不断に、幻視、幻聴、その他の、幻覚に、なやまされ、さまざまの脅迫観念に、おそわれていたのである。
それにもかかわらず、芥川が、それらの異常な経験を本〔もと〕にして、作品を、少しずつでも、書いたのは、異常な精神作用を、持っていたからである。それを、こんど、『鵠沼雑記』を読んで、又、あらためて、知ったので、つぎに、『鵠沼雑記』から、抜き書きする。(これらの抜き書きは、わたくし事をいうと、私自身の備忘のためでもある。)
[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]
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僕は全然人〔ひと〕かげのない松の中の路〔みち〕を散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸〔かうぐわん〕を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲〔まが〕り角〔かど〕へ来〔く〕ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。
僕は風向〔かぎむ〕きに従つて一様〔いちやう〕に曲〔まが〕つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでゐた。
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こういう、(これに類するような妙な、)話がもう一つあって、その話の終りに(以上東家にゐるうち、)と断り書きがしてある。つまり、以上が東家にいた時に経験した話、という意味であ、る。そうして、その次ぎに、やはり、似たような話が六〔むっ〕つあって、これも、一番しまいの話の終りに、(以上家を借りてから、)と断り書きがしてある。その六つの話から、二つ抜いて、それを次ぎにうつそう。
[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]
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僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴〔かみなり〕は何ともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬が吠え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭〔あたま〕から蒲団をかぶるか、妻のゐる次〔つぎ〕の間へ避難してしまふ。
僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札を出した家を見つけた。が、二三日たつた後、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。
[やぶちゃん注:『鵠沼雑記』の私の全テクストはこちら。]
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これらの文章は七月二十日に書いたものである。
この文章だけで見れば、この文章の主人公である「僕」はハッキリ精神病者である。しかし、この文章を書いている人(つまり、芥川)は、仮りにこのころ精神病者であったとしても、頭脳は人並〔ひとなみ〕以上に冴えていた、肉体は衰え切っていたが、創作力は然程〔さほど〕おとろえていなかった。
さきに引いた『鵠沼雑記』の中の、松の中で、「尻を振り振り歩いて行つた、」急にふり返って、「確かににやりと笑つた、」白犬は、名作と称せられた、『蜃気楼』の中では、
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僕等はいつか家の多い本通〔ほんどお〕りの角〔かど〕に佇〔たたず〕んでゐた。家の多い?――しかし砂の乾いた道には殆ど人通りは見えなかつた。
「K君はどうするの?」
「僕はどうでも、……」
そこへ眞白〔まつしろ〕い犬が一匹、向うからぼんやり尾を垂れて来た。
[やぶちゃん注:「K君」は東京から遊びに来た大学生の知人。モデルは堀辰雄か。]
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という所に、登場している。(つまり、『鵠沼雑記』の中で、「……白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた、」というのが、『蜃気楼』の中では、「……黄白い犬が一匹、向うからぼんやれ尾を垂れて来た、」という事になったのである。つまり、『鵠沼雑記』の中では、薄気味わるい白犬であったのを、作者は、『蜃気楼』では、その犬を、大事な所の、点景として、登場させたのである。)
それから、やはり、『鵠沼雑記』の中で、「何度見直しても、」歪んでいる、無気味な、洋館の事を、書いているが、私は、これを読んだ時、すぐ芥川が愛読していた、アラン・ポオの『アッシャア家の崩壊』(“The Fall of the House of Usher”)を、思い出した。
ところで、芥川は、その、『鵠沼雑記』の中の、「白い洋館」を『悠々荘』の初めの方の、
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そのうちに僕等は薄苔〔うすごけ〕のついた御影石の門の前へ通りかかつた。石に嵌めめこんだ標札には「悠々荘」と書いてあつた。が、門の奥にある家は、――茅葺〔かやぶ〕き屋根の西洋館はひつそりと硝子窓を鎖〔とざ〕してゐた。
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というところで、「茅葺き屋根の西洋館」として、『悠々荘』のもっとも重要な役に立てている。
私は、大方〔おおかた〕の人があまり認めていないようであるが、『悠々荘』は、(『悠々荘』も、)芥川の最晩年の作品の中で、注意すべき物の一つである、と思っている。(芥川は、大正十五年には、五つの小品しか書いていないが、その中で、『悠々荘』は、『点鬼簿』に次ぐものである。)
ところで、さきに、『鵠沼雑記』の中の、歪んだ洋館の話を読んだ時、すぐ、『アッシャア家の崩壊』、を、思い出した、と述べたが、私は、『悠々荘』は、その「歪んだ洋館」と、それ以上に、『アッシャア家の崩壊』が芥川の頭〔あたま〕にあって作られたものではないか、と思うのである。
[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]
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僕は風向きに従つて一様〔いちやう〕に曲〔まが〕つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。
十月の或る午後、僕等一二人は話し合ひながら、松の中の小みちを歩いてゐた。小みちにはどこにも人かげはなかつた。……
そのうちに僕等は薄苔〔うすごけ〕のついた御影石の門の前へ通りかかつた。[中略]しかし又その外〔ほか〕にも荒廃を極めたあたりの景色に――伸〔の〕びに伸びた庭芝や水の干上〔ひあが〕つた古池に……
雲が重苦しく空に低くかかつた、陰鬱な、暗い、寂莫たる、秋の終日、私はただひとり馬に跨つて妙にもの淋しい地方を通り過ぎて行つた。そして黄昏〔たそがれ〕の影があたりに迫つて来る頃、漸く憂鬱なアッシャア家の見えるところへまで来たのであつた。
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最初の一節が『鵠沼雑記』であり、次ぎの一節が『悠々荘』であり、最後の一節が『アッシャア家の崩壊』である。
もとより、『アッシャア家の崩壊』はポオの傑作の一つであり、『悠々荘』は芥川の病中に書いた小品である。それから、『悠々荘』と『アッシャア家の崩壊』とは、むろん、構想も手法もまったく違う。それに、前に述べたように、『悠々荘』は、『アッシャア家の崩壊』から思いついたらしいものではあるが、強〔し〕いて云えば、晩年の芥川の物らしいところは幾らかあるけれど、作品としては、痩せている上に、趣〔おもむ〕きというようなものが殆んどない、一と口にいうと、呆気〔あつけ〕ない作品である。
それにもかかわらず、この小品をわざわざ取り上げたのは、この文字どおり果〔はか〕ない作品が、――この小品を書いた頃が、――大正十五年の終りに近い時分の芥川の有り様がもっともよく窺われるからである。
大正十五年の下半季は、(前にくどいほど述べた、芥川の鵠沼時代は、)芥川の晩年のうちで、死んだ年〔とし〕(つまり、昭和二年)を除〔のぞ〕けば、心身ともに最も辛く苦しい時であった。
大正十五年の九月の初め頃に、文字どおり骨身をけずる思いをして、『点鬼簿』を重いた芥川は、半月〔はんつき〕ほどの間〔あいだ〕、へとへとになってしまった。しかし、十月になると、たちまち、芥川の頭〔あたま〕に、長い間の習慣のように、こびりついている、「新年号に出す小説」という考えが、沸〔わ〕き上〔あ〕がった。
大正年代は、創作を特に載せる綜合雑誌が、たしか、四五冊しかなかった。その中で、たぶん、三つか四つかの大雑誌が、一年のうちに、一月、四月、七月、十月、と、四度〔よど〕、特別号を出した。そうして、これらの特別号は、普通号の三倍ぐらいのペイジ数になり、その増ペイジの雑誌の半分ちかくのペイジが創作欄であった。そうして、それらの雑誌の編輯者は、年に四回の特別号の中で、特に、新年号に力〔ちから〕を入れた。しぜん、作家たちも、『新年号』には、という気になった。(今も、特別号というのがあるが、この頃は、書く人が、大正時代の四五倍ぐらいはありそうであるから、その為めか、特別号に類するものが殆んど毎月出るような観があるので、特別号が、特別号のような感じがしないから、大正時代の特別号とは、性質が殆んど全〔まった〕く違う。)
さて、その大正時代には、どの雑誌でも、おそらく、新年号には、芥川の作品が、ほしかったにちがいない。それに、芥川も、新年号には何をおいても書きたい、という気もちを十分に持っていたようである。その証拠に、芥川は、それを、殆んど実行している。それは次ぎのとおりである。
[やぶちゃん注:以下のリストは底本では引用でもないのに、特異的に全体が二字下げになっている。私のテクストでは見易くするために、大きく改変して二字下げ年改行とし、一桁の年号部に一字空けを施した。]
大正 六年、四篇。
大正 七年、二篇。
大正 八年、五篇。
大正 九年、三篇。
大正 十年、四篇。
大正十一年、四篇。
大正十二年、ナシ。
大正十三年、四篇。
大正十四年、三篇。
右のうち、『大正十二年、ナシ。』というのは、これは、前に述べたように、支那旅行のために、疲労困優し、重い病気になったからである、それから、前に引いたと思うが、大正十二年の十二月二日に、芥川は、真野友二郎に宛てた手紙の中に、「小生心臓をいため叉胃腸をそこなひずつと病臥、新年号の小説の約束も三つ四つありましたが皆断りました。小生の病は一切神経衰弱より起〔おこ〕つたらしく未〔いまだ〕に睡眠薬を用ひない限り眠る事が出来ません、」というような事を、書いているからである。
さて、大正十四年の新年号の三篇は、そのうちの、二〔ふた〕つは、『早春』、『馬の脚』というような、間〔ま〕に合〔あ〕わせ物の、遣〔や〕っ附〔つ〕け仕事であり、他の一〔ひと〕つは、切羽〔せっぱ〕つまって書いた、未完の、『大導寺信輔の半生』である。
つまり、芥川が、大正十五年の秋の末の頃、殆んど誰に宛てた手紙の中にも、新年号、新年号、と、まるで自分に云い聞かせるように、書いているのは、いま述べたように、前の年〔とし〕に新年号のために書いた小説が、それぞれ、自分が不満であったように、世評も香〔かんば〕しくなかった事が、気になったからである。それから、わりに評判のよかった『大導寺信輔の半生』が、自分では不満であった上に、その附記の中に、「この小説はもうこの三四倍続けるつもりである、」と断りながら、三四倍どころか、一倍の半分ぐらいさえ、書く自信がなかったからである、それで、気もちが非常に燋〔あせ〕ったからである。それは、(そのほんの一例として、)次ぎのような手紙を読めば、凡その事が、わかるであろう。
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……僕の頭はどうも変だ。朝起きて十分か十五分は当り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が気がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂鬱になつてしまふ。新年号をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやれ切れない気がする。ちよつと上京した次手〔ついで〕に精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。節煙節茶の祟りもあるのだらう。…… [大正十五年十月二十九日、佐佐木茂索宛ての手紙]
……唯今新年号の仕事中、相かはらず頭が変にて弱り居り侯間、アヘンエキスをお送り下さるまじく候や。…… [大正十五年十一月二十一日、斎藤宛ての手紙]
……こちらは新年号と云ふものにて弱つて居ります。
かひもなき眠り薬や夜半の冬
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この大正十五年の十二月頃、芥川は、
文〔ふみ〕書カンココロモ細リ炭トリノ炭ノ木目ヲ見テヲル我ハ
小夜〔さよ〕フカク厠ノウチニ樟脳ノ油タラシテカガミヲル我ハ
枕ベノウス暗ガリニ歪ミタル瀬戸ヒキ鍋ヲ恐ルル我ハ
というような歌を、斎藤茂吉に宛てた手紙の中にも、室生犀星あての手紙の中にも、
はさんでいる。
芥川が、このような苦〔くる〕しい辛〔つら〕い思〔おも〕いをし、不治の重い病苦を辛抱して、昭和二年の新年号の雑誌のために書いたのが、『悠々荘』、『彼』、『玄鶴山房』㈠、の三篇である。しかも、『悠々荘』は六枚ぐらいであり、『彼』は十八九枚であり、『玄鶴山房』の㈠は二枚半ぐらいである。
これは、もとより、作者である芥川には、堪えがたい寂しさであったろうが、前に述べたような訳〔わけ〕で、この年〔とし〕の新年号に出る筈の芥川の小説を取り分け期待していた私には、(私にも、)大へん寂しい気がした。それから、何でもないような事ではあるけれど、いくら関係があるからと云っても、芥川の小説が、たとい小品でも、『悠々荘』が「サンデー毎日」のような雑誌に出たり、『彼』が「女性」などに出たり、した事も、私には、妙に心細い気がした。それから、『彼』が、旧友の思い出などを書いてある上に、芥川の作品として、調子が低い事などまで、私には、気になったのであった。
ところが、旧友の思い出の話ではあるが、それが徒〔ただ〕の思い出の話でない事に気がついて、私は、こんどは、別の意味で、気になった、それは普通の思い出の話とちがう所があるからである。その幾らかちがう所を、前に引いたのとちょいと重複するが、次ぎにうつして見よう。
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……彼はベッドに腰かけたまま、不相変〔あひかはらず〕元気に笑ひなどした。が、文芸や社会科学のことは殆ど一言〔ひとこと〕も話さなかった。
「僕はあの綜憫の木を見る度〔たび〕に妙に同情したくなるんだがね。そら、あの上〔うへ〕の葉つぱが動いてゐるだらう。――」
棕櫚の木はつい硝子〔ガラス〕窓の外に木末〔こずゑ〕の葉を吹かせてゐた。その葉は又全体も揺らぎながら、細〔こま〕かに裂けた葉の先々〔さきざき〕を殆ど神経的に震はせてゐた。それは実際近代的なもの哀れを帯びたものに違ひなかつた。
……太陽はとうに沈んでゐた。しかしまだあたりは明〔あか〕るかつた。僕等は低い松の生えた砂丘の斜面に腰をおろし、海雀〔うみずずめ〕の二三羽飛んでゐるのを見ながら、いろいろのことを話し合つた。
「この砂はこんなに冷〔つめ〕たいだらう。けれどもずつと手を入れて見給へ。」
僕は彼の言葉の通り、弘法麦〔こうぼふむぎ〕の枯れ枯〔が〕れになつた砂の中へ片手を差しこんで見た。するとそこには太陽の熱がまだかすかに残つてゐた。
「うん、ちよつと気味が悪〔わる〕いね。夜〔よる〕になつてもやつばり温〔あたたか〕いかしら。」
「何〔なに〕、すぐに冷〔つめ〕たくなつてしまふ。」
僕はなぜかかう云ふ対話を覚えてゐる。それから僕等は半町〔ちやう〕ほど向うに黒ぐろと和〔なご〕んでゐた太平洋も。……
[やぶちゃん注:本作の主人公Xのモデルは府立第三中学校時代の友人府立三中時代の同級生である平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二十五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)である。本作の私の電子テクストには「海雀」「弘法麦」等、詳細な私の注を施してある。参照されたい。]
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この小説の主人公の『彼』は、病院の医者や看護婦たちが、旧正月を祝うために、夜ふけまで、歌留多会〔かるたかい〕をつづけて、大騒ぎをしたので、眠りを妨〔さまた〕げられたために、「ベッドの上に横たはつたまま、おほ声に彼等を叱りつけた、と同時に大喀血をし、すぐに死んだ、」という事になっている。
が、そんな事より「この砂はこんなに冷たいだらう、」と云われて、海岸の砂の中に片手を差しこんで、太陽の熱がまだかすかに残っているのを感じて、「うん、ちよつと気味が悪いね。夜になつてもやつぱり温いかしら、」と云う、それに答えて、「何〔なに〕、すぐに冷たくなつてしまふ、」と云うところの方が、よっぽど薄気味〔うすきび〕がわるいではないか。
[やぶちゃん注:『主人公の『彼』は、病院の医者や看護婦たちが、旧正月を祝うために、夜ふけまで、歌留多会〔かるたかい〕をつづけて、大騒ぎをしたので、眠りを妨〔さまた〕げられたために、「ベッドの上に横たはつたまま、おほ声に彼等を叱りつけた、と同時に大喀血をし、すぐに死んだ、」』という話を読者であるあなたは『薄気味がわるい』話と言うか? 砂浜のシーンの方が、その悲劇的事実より『よっぽど薄気味がわるいではないか』と平然と言えるか? 私は絶対に言わないし、言えないし、絶対に思わない(『薄気味がわるい』と感じる読者を私は嫌悪はしない。しかし、こう表現してしまう宇野に私は強い違和感を覚える)。これが宇野の(この執筆時の)感性なのである。注する現在の私と、宇野の感性上のギャップ、これだけは押さえておいて戴きたいのである。]
私が、あまり上等でない作品『彼』について長ながと述べたのは、『彼』の中にある、冷〔つめ〕たい気味わるさは、主人公の『彼』ではなく、作者の芥川である、と気がついたので、その事を、私は書きたかったのである。
さて、芥川は、このような小説を書いて、まもなく、昭和二年になり、数え年〔どし〕、三十六歳になったのであった。
昭和二年は、いうまでもなく、芥川の死んだ年〔とし〕である。

