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« 「イル・ポスティーノ」“Il Postino(The Postman)” | トップページ | 宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(5) »

2012/04/28

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(4)

今回の注も、僕の考える宇野浩二の内心――「芥川龍之介」に於いて表だって言っていない宇野の本当の「小説」家芥川龍之介という存在への認識――についての長い注となった。覚悟してお読み頂きたい。

   *   *   *

 ここで又、ちょっと寄り路する。これも、前に、引いた事があるが、大正十四年の十二月一日に、芥川が、私に、つぎのような便〔たよ〕りを、よこしている。

 朶雲奉誦新年号出来しや上海游記の事、君に関する分だけ読んでくれ給へ君が小説と小品との別を云々したから僕が「私」小説論私見を書いたと言ふ藤森[成吉ならん]の説には驚いたねああなるととてもかなはん僕は兜をぬぐ

この芥川の便り[註―前にも書いたが、私は芥川の手紙やはがきは一つも持っていない、書簡集を見て、こんなのがあったのか、と思う程である]の中の、私が「小説と小品との別を云々」というのは殆んど全く覚えていないが、今、察するところ、大正十四年十二月一日、と云えば、芥川が『海のほとり』その他を発表した後〔あと〕であるから、私が、『海のほとり』は、小説ではない、小品である、とでも、書いたのであろうか。もしそうだとすれば、私は、前にしばしば述べたように、『海のほとり』、『年末の一日』『悠々荘』、『蜃気楼』、その他は、小説ではない、小品である、と、今でも、思っている。

[やぶちゃん注:今回の注は長くなる。御覚悟の上、お読み頂きたい。

「藤森[成吉ならん]」は宇野の誤りと思われる。この「藤森」について、筑摩書房全集類聚版脚注では藤森淳三とする。藤森淳三(明治三十(一八九七)年~昭和五十五(一九八〇)年)は小説家・評論家。横光利一らと同人雑誌『街』を創刊、雑誌編集者をしながら作家活動をした。小説集『秘密の花園』童話集『小人国の話』などがある。この「藤森」も芥川龍之介の批評という点から考えて、高い確率で彼と考えてよい。実は藤森淳三と宇野と芥川絡みでは、芥川龍之介の大正十二(一九二三)年三月の『新潮』に載る「色目の辯」に、非常に興味深い叙述が現れる。以下に引用する(底本は岩波旧全集を用いた)。

 

 新潮二月號所載藤森淳三氏の文(宇野浩二氏の作と人とに關する)によれば、宇野氏は當初輕蔑してゐた里見弴氏や芥川龍之介に、色目を使ふやうになつたさうである。が、里見氏は姑く問はず、事の僕に關する限り、藤森氏の言は當つてゐない。宇野氏も色目を使つたかも知れぬが、僕も亦盛に色目を使つた。いや、僕自身の感じを云へば、寧ろ色目を使つたのは僕ばかりのやうにも思はれるのである。

 藤森氏の文は大家たる宇野氏に何の痛痒も與へぬであらう。だから僕は宇野氏の爲にこの文を艸する必要を見ない。

 しかし新らしい觀念(イデエ)や人に色目も使はぬと云ふことは退屈そのものの證據である。同時に又僕の恥づるところである。すると色目を使つたと云ふ、常に溌剌たる生活力の證據は宇野氏の獨占に委すべきではない。僕も亦分け前に與るべきである。或は僕一人に與へらるべきである。然るに偏頗なる藤森氏は宇野氏にのみかう云ふ名譽を與へた。如何に脱俗した僕と雖も、嫉妬せざるを得ない所以である。

 かたがた僕は小閑を幸ひ、色目の辯を艸することとした。

 

「委す」は「まかす」、「与る」は「あづかる」と訓ずる。芥川龍之介は座談会などで藤森淳三と同席しているが、その抜粋録などを読むと、実際には彼とは肌が合わなかったのではないかという感じがする。因みに、大正十一(一九二二)年八月四日附佐佐木茂索宛書簡(岩波旧全集書簡番号一〇六三)末尾には、『藤森淳三 僕論を書くと云ふ 行為は感佩するが書いて貰ひたくない 僕は毀譽とも頂戴せずに文章を作つてゐたいのである 頓首』と記す。これは好意を持っている人物への物謂いとは、私には思われない。

「上海游記の事、君に関する分だけ読んでくれ給へ」これは「上海游記」の「十九 日本人」の以下の部分を指す(リンク先は私の注釈つきテキスト。以下の注もその私自身の注を加工した)。

 

上海の日本婦人倶樂部〔クラブ〕に、招待を受けた事がある。場所は確か佛蘭西租界の、松本夫人の邸宅だつた。白い布をかけた圓卓子〔まるテエブル〕。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウイツチと。卓子〔テエブル〕を圍んだ奧さん達は、私が豫想してゐたよりも、皆温良貞淑さうだつた。私はさう云ふ奧さん達と、小説や戲曲の話をした。すると或奧さんが、かう私に話しかけた。

 「今月中央公論に御出しになつた「鴉」と云ふ小説は、大へん面白うございました。」

 「いえ、あれは惡作です。」

 私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思つた。

 

「松本夫人」は本文以外のことは不詳。芥川龍之介書簡宛名には「松本」姓で該当人物と思しい人は見えない。「シネラリア」キク目キク科ペリカリス属シネラリアPericallis cruenta。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・青・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることからとされる。しかし乍ら、試みにこの英名を調べてみたところ、面白いことに余りに美しすぎて他の花が売れなくなるから(であろうか)、“Cineraria”という語は“cinerarium”、「納骨所」の複数形で、「死ね」に通底するところの“Florist's Cineraria”「花屋の墓場」という意味なのであった。『「鴉」』既にお分かりの通り、芥川龍之介の作品ではなく、宇野浩二の小説。私は未読なので作品内容は不明。松本夫人が誤ったのは大正十(一九二一)年四月一日発行の「中央公論」で、この宇野浩二の「鴉」の後に芥川龍之介の「奇遇」が掲載されているためであろう(「鴉」の注については筑摩書房全集類聚版脚注及び岩波版新全集の神田由美子氏の注解に拠った)。

「君が小説小品との別を云々した」既に読者は、この宇野の謂いを何度も眼にしてきた。ここで是非、注しておきたいと思う。これは極めて重要なことである。まず、この書簡で、

《芥川が言っている「小説」と「小品」との区別》

は、実に一般的に知られるオーソドックスな謂いと考えてよい。則ち、――

「小説」はモデルや作者の実体験が含まれている場合があるにしても、その主要な核心部分は技巧的に脚色された、話者の主体の人称に関わらず、創作されたもの

であり、

「小品」とは多少の潤色はなされていても、アウトラインが作者の実体験に基づいたもので(則ち所謂、「私小説的なる」もので)、尚且つ、必ず短篇に限る

という主に内容に基づくものである(例えば、芥川龍之介の作品を例にとると、「河童」クラスの原稿量を持つ作品は、その内容如何に関わらず(完全な実体験であったとしても)、「小品」とは呼ばない、ということである。確かに「河童」を小品と呼ぶ人は少ないであろう)。なお、この「小品」の一般的見解は、「小品」が「小品文」に由来するからである。「小品文」は、例えば「大辞泉」には、①として、

「日常生活で目に触れた事柄をスケッチふうに描写したり、折々の感想をまとめたりした、気のきいた短い文章。小品。」

とあり、②として、

「中国で、明代中期以降行われた短い評論・随筆・紀行文などの総称。」

とある(やや不審なのは①が原義ではなく、②からの派生と見えるのだが、天下の辞書がこう書くということは、①は②と無縁であり、その内容的類似は偶然だということであろう)。辞書的にもこれらの区別に何らの違和感も私は感じない。こんなくだくだしい分かり切ったこと(私は「分かり切った」とは思っていないが)を記したのは、実は、

《宇野の言っている「小説」と「小品」の区別》

は、今までの宇野の叙述から、実はその『決定的な差』は、そのような内容とは無縁な単純な判断基準に基づくものではないか、則ち、宇野の謂いは一般的な考え方と異なっているのではないか、と疑っているからである。宇野の謂いをよく確認されるとよい。彼は常に、異常なまでに、『物理的な原稿量』を偏執的に数えている事実に気がつくはずである(私はこれを宇野の異常な要素として先の注で正に「数えた」のだが、それにはここでは言及しない)。則ち、宇野にとっては、

一定以上の原稿枚数を持つ、所謂、「中編」以上(その原稿量は特定できないが、例えば芥川龍之介の「河童」である――但し、宇野が「河童」を「小説」=「本物の小説」と考えているかどうかとは別問題である――)の物理的枚数を持つ「創作物」だけが「小説」である

ということである。そして、

完璧な創作であろうが、実体験まんまの叙述であろうが、一定枚数以下(その原稿量は特定できないが、例えば芥川龍之介の純然たる「評論」以外の――何を以って「評論」と言うか自体も無意味な区別と私は考えるが――殆ど総ての作品群)は総て「小品」

なのである。但し、宇野に怒られると困るからお急ぎで補足すると、勿論、

「小説」はただ量なのではなく、内容も、その胆の部分に宇野が(これも宇野だけにしか分からないのだが)「創作性がある」と判断するものは(ここが肝心だが「創作性の高い」「作り事」では断じてないのである。宇野の初期作品はその多くの部分が彼の実体験に基づいている)「小説」である

が、宇野にとってはそういう

「本物の小説」(これも多分、宇野だけに分かる、宇野が誰にも譲れない絶対条件である)というものは絶対に最低、中編以上の原稿量になる、たとえ物語性や創作性が強くても短篇では「本物の小説」は創れない、短篇は悉く「小品」でしかなく、「小説」ではない

と宇野は暗に言っているのだ、と私は思うのである。間違ってはいけないのは、宇野のそれは私小説か非私小説かを問題にしていない、ということである。これは引用された書簡から芥川龍之介自身も同じ立場を実はとっていることが分かるということも押さえておかねばならぬ。そもそも宇野の初期作品は悉く私小説「風」である(「風」としないと宇野先生は絶対に怒る。彼は「文学史的」には私小説作家の代表のように語られているが、彼は、自分は「小説」を書いているのであって「私小説」なんどというへんてこりんなものを書いているのではない、という点に於いて、正に内心、『小説』の『鬼』と自負されている、と私は信じて疑わないからである)。

――いや、そんなことはどうでもいい――

実は以上の「小説」と「小品」への宇野の拘りは、

一つの宇野の言葉にしない芥川龍之介への見解

を、暗に物語っているものなののではなかろうか? 則ち、

芥川龍之介の書いたものは、その殆どすべてが、その分量に於いて、当たり前の如く、中編以上であることを絶対的属性とする「小説」ではない

と言いたいのではないか? 言い換えれば、

芥川龍之介は短い「物語」の作家であり、短いことを絶対的属性とする「小品」作家である/しかない/しかなかった

という宇野の中に隠された、正直な感懐を、である。それは『小説の鬼』宇野浩二にして、実は芥川龍之介に対して、この場(この「芥川龍之介」という評論を書いている現在時制)に至っても

――表立ってはやっぱりはっきり言えない――しかし正直なところの印象――

であった、のではあるまいか? いや

――それを表だって言うことなく、ここまで、これだけの芥川龍之介へのオードを書き進めることの出来る宇野浩二という男――

――彼は確かに正しく芥川龍之介を愛している――

そうして、

――正しく自身の信じ殉ずるところの、「小説」というものの、正に『鬼』であった――

とも言えるのではあるまいか?]

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