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2012/04/16

宇野浩二 芥川龍之介 十五~(1) 下巻に突入

芥川龍之介   宇野浩二   下巻

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の盟友宇野浩二による渾身の大作「芥川龍之介」は昭和二十六(一九五一)年九月から同二十七(一九五二)年十一月までの『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載され、後に手を加えて同二十八年五月に文藝春秋新社から刊行された。底本は中央公論社昭和五十(一九七五)年刊の文庫版上・下巻を用いた。ルビの拗音の同ポイントについては私の判断で小文字を採用している。本文中の割注のような( )によるポイント落ちの筆者の解説が入るものは(ポイント落ちでない補足がやはり( )や⦅ ⦆で行われているが、それとは違う。それはそのまま( )や⦅ ⦆を用いた)、[ ]で同ポイントで示した(当初はこれは筆者とは別な編集者が挿入した疑いを持ったが、幾つかの箇所から筆者でなければ書けない内容であることが分かったので、省略しなかった)。なお、手紙等の引用は底本では全体が二字下げとなっているが、ブラウザ上の不具合を考えて、本文と同一にしたが、引用であることが判然とするように前後には底本にはない「*」を附して読み易くした(但し、詩歌などの引用でブラウザ上の不具合が生じない箇所は底本通りとして「*」は挿入していない)。「〱」「〲」の繰り返し記号は正字に直した。一部に私のオリジナルな注を附した(注の位置は私の判断で空行パートごと若しくは当該語句を含む形式段落の直後の何れかに配してある)。注を附す対象は私がよく知らない(若しくは作家名として知っていても作品を読んだことのない)人物・事件を主としたが、本文で十全に語られていると判断した人物・事件については省略したものも多い。悪しからず。]

 

      十五

 

 前にも述べたように、『傀儡師』[大正八年一月発行]出した頃は、芥川の全盛時代であり、芥川がもっとも競〔きお〕っていた時の一つであった。いいかえると、この頃、(つまり、大正八年のはじめ頃)は、芥川の短かい一生の中でもっとも張りのある時代の一つであった。

 『傀儡師』は、いうまでもなく、芥川の第二作品集であり、その装幀は芥川がしたものである。(もっとも、『羅生門』の装幀も芥川がした。)

[やぶちゃん注:私の電子テクストに可能な限り、この第二作品集を味わえるように仕組んだ「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)」がある。お楽しみあれ。

「競う」の読みは誤りではない。勢い込んで先を争う、張り合うの意の「きおう」は「競う」「勢う」と書く。]

     世の中は箱に入れたり傀儡師

 二伸これは新年の句本の広告ぢやありません

 これは芥川が、大正八年の一月四日に書いた葉書の文句であるが、芥川は、おなじ年のおなじ日に、これと同じ文句を書いた葉書を南部修太郎と薄田〔すすきだ〕淳介(泣菫)に、出している。

 ところで、私が、前に、「芥川がもっとも競っていた時の一つ」と書いたが、その例の一つは大正六年の一月号の『新思潮』に、芥川が、「文壇は来るべき何物かに向つて動きつつある。亡ぶべき者が亡びると共に生〔うま〕るべきものが必ず生まれさうに思はれる。今年〔ことし〕は必ず何かある。何かあらずにはゐられない。僕等は皆小手しらべはすんだと云ふ気がしてゐる、」と書いているからである。

 もっとも、『競う』といえば、元気と張りあった自分の芥川は、いつも、なにか、競っていた。(『競う』とは、もとより、「負けじと進む」「意気ごむ」という程の意味である。そうして、また、『競う』というと、芥川は、文壇に出てから、死ぬまで、一生〔いっしょう〕、競い通〔とお〕したようなところもあった。

 大正六年といえば、芥川の、かぞえ年〔どし〕、二十六歳の年である。

 こういう事を書きながら、ふと三十六歳の頃の私は、(おなじ年頃の私の友だちは、)このような『競う』気もちなどは殆んど全〔まった〕く持っていなかった事を、思い出した。これは、わたくし事〔ごと〕を述べることになったが、決して決して自慢などをする気もちではない、気もち(あるいは気質)の違いなのである。

 

 さて先に引いた、同じ年〔とし〕のおなじ日に薄田と南部に同じ文句の葉書が出ている芥川の『書翰集』のおなじペイジに、芥川が、おなじ年〔とし〕(つまり大正八年)の一月十二日に、薄田にあてた手紙の中〔なか〕に、意外な事を、(まったく意外な事を、)書いているのを読んで、私は、二三度くりかえして読みなおした程、おどろいた、というより、驚歎したのである。それは、「突然こんな事を申上げるのは少々恐縮ですが私をあなたの方の社の社員にしてはくれませんか」と書き出し、今のままでは陸〔ろく〕な生活が出来ないから、社員にしてほしい、つまり「社へ出勤する義務だけは負はずに年に何回かの、小説を何度か書く事を条件として報酬を貰ふと云ふ事です勿論さうすれば学校はやめてしまつて純粋の作家生活にはいるのですつまり私とあなた方の社との関係を一部分改造して小説の原稿料を貰はない代りに小説を書く回数を条件に加へて報酬を一家の糊口に資する丈増して貰ふと云ふ事になるのです」と、芥川が、述べているからである。

 私は、前にたびたび書いたように、年〔とし〕は二十七八歳でありながら、芥川は、名声だけは、その当時の諸大家を、凌〔しの〕ぐ獲であったから、毎日新聞社での地位などは、社の方から頭〔あたま〕をさげて頼みに来たのであろう、ぐらいに、(その頃、その時を聞いた時、)思っていたのであった。

 ところが、今〔いま〕しらべて見ると、芥川は、その前の年(つまり、大正七年)の二月に、結婚をしている。しかし、それにしても、海軍機関学校から六十円の月給をとり、毎日新聞社からも月に五十円もらっていたのであるから、(大正七八年頃なれば、)それだけで、「一家の糊口に資する」ぐらいの事は十分〔じゅうぶん〕に間〔ま〕にあうばかりでなく、いくらかの余裕も出る等である、(と思われるのである、)それを、芥川のような人間が、(芥川のような花形の流行作家が、)このような手紙を書いているのを見て、くりかえし云うが、私は、やはり、何ともいえぬ不思議な気がした。それは次ぎのような事を思い出したからである。

 例えば、(例えば、である、)上林 暁は、昭和二年、(ちょうど芥川の死んだ年〔とし〕、)東京大学英文学科を卒業し、卒業すると、すぐ、改造社にはいって「改造」の編輯員となり、昭和八年に、「文芸」が創刊された時、その編輯長になったが、その翌年の四月に、退社すると共に、作家生活にはいったのである。ところで、上林は、その時までに、――つまり、昭和二年の四月に、高等学校時代の同窓と、「風車」という同人雑誌を出し、それから、いろいろな同人雑誌に関係したが、結局、昭和六年の七月号の「新潮」に、はじめて、『欅日記』を発表し、翌年(つまり、昭和七年)の八月に、おなじ「新潮」に発表した『薔薇盗人』によって、ようやく文壇に出たのである。されば、上林が、唯これだけの文学の経歴によって、昭和九年の四月に、足かけ八年つとめていた社を止めて、作家生活にはいろう、と決心するまでには、上林は、必死にちかい覚悟をしたにちがいない。

 川崎長太郎は、経歴からいえば、古〔ふる〕い作家であるが、近頃、上林などとならんで、私小説を代表する作家の一人と云われている。私がはじめで川崎を知ったのは、大正二年の初夏の頃であった。その年、川崎は、二十三歳であったボ、徳田秋声に師事していただけで、文学の友だちなどは余りないようであった。しかし、川崎の『兄の立場』という小説を読むと、川崎は、小田原の魚屋の長男でありながら、十六七歳頃から、小説を読んでいたらしく、大正十二年の九月の大地震で町がほとんど全滅した時、「自由のない世に残された自由な穴、文学に立てこもらうと意志がしつくり根強く生長して来た、」と、書いている。こういう川崎は、たしか、大正十三年の春の頃、秋声の推薦で、「新小説」に、『無題』という小説を、発表した。(この小説は、一部の人びとに認められ、私も感心した、それで、この小説をかりに川崎の処女作とすれば、この年頃〔としごろ〕の人で、二十四歳で、処女作を見とめられるのは、異数というべきであろう。)ところで、川崎は、この時から、俗な言葉でいうと、ずるずるべったりに、作家生活に、はいったのである。

  さて、私がこのような事を書いたのは、これから作家生活にはいろう、と覚悟して、作家になる人、ずるずるべったりに作家になる人――こういう二〔ふた〕つの型〔かた〕がある、というような事を述べたかったのでもあるが、そればかりではない。例えば、川崎と上林はたしか一つちがいであるが、川崎がずるずるべったりに作家生活にはいったのは大正十三年であり、上林が覚悟をして作家生活にはいった、のは昭和九年であるから、それは十年代のちがい、という事にもなりそうであるが、また、気質と境遇のちがいという事もかんがえられる。そうして、私は、結局、これは、気質のちがい、という事になる、と思うのである。(そうして、『我田引水』になるが、私の狭い見方であるけれど、今日〔こんにち〕はたらいている作家の大部分⦅あるいは、半分以上⦆は、このずるずるべったり派ではないか。)

 さて、前に述べた芥川の場合であるが、さきに、私は、「何ともいえぬ不思議な気がした、」と述べたけれど、こういう事を思いうかべて、よく考えてみると、不思議でも何でもないような気がしたのである。それは、簡単にいうと、芥川という人は、前にも述べたように、案外、常識的な人であったからである、世間体〔せけんてい〕をかんがえる人であったからである、家庭(あるいは、家)の事を気にする人であったからである、時には、『芸術』より『家』の方に心を労した人であったからである、ひどく気の弱い小〔ちい〕さい人であったからである。

 人生は落丁〔らくちょう〕の多い書物に似てゐる。一部を成すとは称し難い。しかし兎〔と〕に角〔かく〕一部を成してゐる。

 人生は地獄よりも地獄的である。……

 人生の悲劇の第一幕は親子になったことにはじまつてゐる。

 これらの『侏儒の言葉』の中の文句は、もとより、筆者の本音のように思われる節〔ふし〕はあるけれど、空虚なところがあるようにも感じられる。(『侏儒』とは、いうまでもなく、「身のたけの底い人」とか、「一寸法師」とか、いう意味であるが、「見識のない人を嘲る」という意味もある。)それで、私は、この『侏儒の言葉』は、「文藝春秋」に連載されている時から、ときどき、読んでいたが、『侏儒』(つまり、「見識のない人」)は、筆者の芥川ではなく、反対に、芥川が、あまたの読者を『侏儒』(つまり、見識のない人間)と見くびっているような気がして、しばしば、否〔いや〕な気がした事があった。

 ところが、芥川は、『或阿呆の一生』のなかに『械〔かせ〕』という、つぎのような事を、書いている。

 彼等夫妻は彼の養父母と一〔ひと〕つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為〔ため〕だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力〔ちから〕にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。

 右の文章の中〔なか〕の夫妻とは、いうまでもなく、芥川夫妻であり、養父母とは、芥川の養父であり伯父(芥川の実父新原敏三の兄)である、つまり、芥川道章とその妻の儔〔とも〕であり、或新聞社とは、毎日新聞社である、それから、一〔ひと〕つ家とは、その時(つまり、大正八年の三月)から芥川が、死ぬまでで住んでいた、府下[その頃は府下であった]田端四百三十五番地の家である。(芥川が、この家に住むようになったのは、大学に入学した年〔とし〕[大正三年]であるが、芥川は、大正七年の二月に、前から交際していた、塚本文子と結婚したので、その年〔とし〕の四月のはじめに、鎌倉の海浜ホテルのとなりに二〔ふ〕た間〔ま〕の部屋を借りて、引っ越した。)つまり、この文章のはじめに「一つ家に住むことになつた、」とあるのは、前に述べた、大正八年の一月十二日に、芥川が、鎌倉から、「あなたの方の社の社員にしてはくれませんか、」と頼んだ手紙薄田淳介に出してから、二〔ふた〕た月〔つき〕ほど後の三月のはじめに、やっと、薄田の骨おりで、毎日新聞社の社員になる事にきまったので、妻と共に、鎌倉を引きあげ、養父母と一しょに、田端の家で、くらす事になった、という程の意味である。(ところで、右の文章の中の文句を文字どおりに取れば、毎日新聞社にはいる事になったので、養父母と一しょに暮らす、という事になるが、蒲田あての手紙の文句を文字どおりに取ると、養父母と暮らすために、毎日新聞社に入社した、という事になる。しかし、いずれにしても、)あの田端の家で、(かなり大きな家であった、)養父母のほかに、伯母(道安章の妹、ふき)がもう一人〔ひとり〕いたのであるから、(五人が暮らしてゆくのであるから、)相当(以上)の金がいったにちがいない、されば、芥川が、機関学校の教師を止〔や〕めて、毎日新聞社の月給を上〔あ〕げてもらって、創作に専念しよう、と思ったのは、決して無理ではない、と、今〔いま〕の私は、思いやるのである、心から同情するのである。

[やぶちゃん注:「養父母とは、芥川の養父であり伯父(芥川の実父新原敏三の兄)である」とあるが、この芥川道章の妹フクが芥川龍之介の実母であるから「兄」ではなく、「義兄」である。なお、精神病を患ったフクの生前(龍之介が芥川家へ入ると同時に)、新原敏三は家事手伝いに来ていたフクの妹であるフユを後妻に迎えている。

「大正七年の二月に、前から交際していた、塚本文子と結婚したので、その年〔とし〕の四月のはじめに、鎌倉の海浜ホテルのとなりに二た間の部屋を借りて、引っ越した」とあるが、誤り。「鎌倉の海浜ホテルのとなりに二た間の部屋」は、大正五(一九一六)年十二月に海軍機関学校教授嘱託となった直後、田端からの通勤が困難なために借りた、鎌倉町和田塚の海浜ホテル隣りにあった野間西洋洗濯店の離れを指している。新婚生活の新居は鎌倉町大町字辻の小山別邸であった(横須賀線の辻の薬師の踏切の南側)。芥川文は回想して、この時の生活が龍之介にとっても一番幸せだったと述懐している。因みに、私の藪野の実家は(敗戦直後の移住であるが)この別邸の西の向かいに当たる。]

 前に書いたか、と思うが、芥川は、私などにも、決して愚痴をこぼした事はないけれど、一度か二度、「……君〔きみ〕、僕の家庭は、実に複雑なんだよ、ときどき、やりきれない、と思うことがあるよ、」と、云った。しかし、その頃の私には、その芥川のいう事が、わからないばかりでなく、想像もつかなかった。ところが、こんど、『或阿呆の一生』の中〔なか〕で、

 彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。それは地盤の緩〔ゆる〕い為〔ため〕に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度〔たび〕たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十歳に近い年〔とし〕よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互〔たがひ〕に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何〔なに〕か気味の悪〔わる〕い二階の傾きを感じながら。   (『家』)

 彼は結婚した翌日に「来勿々〔きさうさう〕無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言〔こごと〕を言〔い〕つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詫びを言つてゐた。彼の為〔ため〕に買つて来た黄水仙の鉢を前たしたまま。……(『結婚』)

[やぶちゃん注:ここに有意な行空けが存在する。]

 

『或阿呆の一生』は、一般に、「散文詩のような」と云われているが、私は、それにも同感であるけれど、芥川の文学の中で、特殊なものの一つである、と思っている。(それについては、後に述べる。さて、――)

 右の二つの文章の中に出てくる、伯母は、前に書いた、ふきである。芥川の実母のふくは、そのふきの妹であり、道章の妹でもある。そうして、ふくは、芥川家から新原家に片〔かた〕づいて、龍之介を生んだのである。(もっともふくは、その前に、初子と久子という二人の娘を、生んでいる。しかし、長女の初子は、芥川の生まれない前に、夭逝した。)

 ところで、芥川の実父の新原敏三は、――この人については、芥川は、『大導寺信輔の半生』の中に、ほんの少〔すこ〕し書いているだけで、その素性〔すじょう〕が殆んど全〔まった〕くわからない。ところが、こんど、これまで、この文章を書いている間〔あいだ〕に、たびたび、お蔭〔かげ〕をこうむった、竹内 真の『芥川龍之介の研究』の中で、つぎにうつすようなところを、発見した。

[やぶちゃん注:「初子」については、実母フクや実父敏三とともに一読忘れ難い人物として「點鬼簿」の中の「二」に「初ちやん」として登場する。

「竹内 真の『芥川龍之介の研究』」は昭和九(一九三四)年大同館書店刊。]

 実父新原敏三の本籍は山口県玖珂郡賀見畑村字〔あざ〕生見八十八番地屋敷。彼は、十八の頃、萩の乱[註―簡単にいえば、明治九年、前原一誠が萩に反旗をひるがえして鎮圧せられた事件であるが、これは会津の永岡久茂の思案橋の変、西南の役、と共に、武力による反政府運動である]に加〔くは〕はり敗走し、同郷、益田孝、渋沢栄一をたより、箱根仙石原に畊牧舎を開き成功し、後上京。新宿と築地入船町に牧場を持ち手びろく事業を経営した。降つて築地入船町が外国人居留地となるや、当時芝、新銭座町に住宅を移し営業に従事し、新宿には依然として牧場を持つてゐた。龍之介が生まれたのは、まだ入船町に住居があつた頃である。

 この記事は大へん為〔た〕めになったが、右の文章のなかに少〔すこ〕し不審なところもある。それは、「同郷、益田孝、渋沢栄一」とあるのは、益田は、益田右衛門介〔ますだうえもんのすけ〕という名家老が山口藩にあったから、同郷であるかもしれないが、渋沢は、武蔵〔むさし〕の国(今の埼玉県)の農家と商家とを兼ねた家に生まれた人であるから、同郷ではない、という事である。しかし、同郷ではなくても、新原がこの人をたよった、というのは有り得る事であろう。さて、それはそれとして、「十八歳の頃、萩の乱に加はり」と云うところがあるが、新原は、たしか、嘉永四年頃の生まれであるから、十八歳の頃は、明治元年ぐらいであるから、もし加わったとすれば、――「萩の乱」ではなく、芥川が、『大導寺信輔の半生』のなかに、「伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、」と書いているように、明治元年の一月の初めの、鳥羽伏見の役ではないであろうか。

[やぶちゃん注:「新原敏三」は「にいはら」と読む。その生年は「嘉永四年」ではなく、嘉永三(一八五〇)年で、没年は大正八(一九一九)年三月十六日(スペイン風邪による)である。二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の庄司達也氏の「新原敏三・新原家」によると、まず「生見八十八番地」は推定で「一五六四」番地とし、慶応二(一八六六)年に『火蓋を切った四境戦争(長州征伐)に』敏三は数え十七歳で『大林源治の変名を用いて長州軍の農兵隊である「御楯隊」(後の整武隊)の器械方(砲兵隊)下士卒として参戦』、七月二十八日に『あった芸州口(現、広島県大竹市付近)の戦闘で負傷し、戦線を離脱した』とあり、その後はしばらく消息が途絶えるが、明治九(一八七六)年九月に『千葉県成田三里塚の官営牧場「下総御料牧場」に「雇」として入所』、『その後、神奈川県仙石原の耕牧舎牧場』(「畊」は「耕」と同音同義)に移って、『実業家渋沢栄一のもとで次第に頭角を現していった』、とある(長州征伐は幕府軍が小倉口・石州口・芸州口・大島口の四方から攻めたために長州側では「四境戦争」と呼ぶ)。この記載からは竹見の明治九(一八七六)年の萩の乱は勿論、慶応四(一八六八)年の鳥羽・伏見の戦いも誤認である。

「益田孝」の名はこちらにはないが、渋沢栄一との絡みで言えば、三井財閥を支えた実業家益田孝(嘉永元(一八四八)年~昭和十三(一九三八)年)がおり、彼の三井物産創立は正に明治九(一八七六)年のことである。但し、この増田孝は新潟佐渡の出身であり、やはり「同郷」ではない。

「益田右衛門介」は、幕末の長州藩永代家老であった益田親施(ちかのぶ 天保四(一八三三)年~元治元(一八六四)年)で、右衛門介うえもんのすけの名で知られる。嘉永六(一八五三)年のペリー浦賀来航により浦賀総奉行として着任、安政三(一八五六)年、長州藩国家老となったが、後、尊皇攘夷に走り、第一次長州征伐によって幕府軍から益田の責任が追及され、徳山藩に身柄を預けられた後、切腹を命じられた(以上はウィキの「益田親施」に拠った)。この事蹟から見て、残念がら新原敏三との接点は極めて薄いと考えてよいであろう。

「芥川が、『大導寺信輔の半生』のなかに、「伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、」と書いているように」は、『大導寺信輔の半生』の「二 牛乳」の中の一節、

彼は只頭ばかり大きい、無氣味なほど痩せた少年だつた。のみならずはにかみ易い上にも、磨ぎ澄ました肉屋の庖丁にさへ動悸の高まる少年だつた。その點は――殊にその點は伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、日頃膽勇自慢の父とは似ても似つかぬのに違ひなかつた。

の部分を指す。しかし、今、見てきたようにこれも芥川の変改であった。「長州征伐」や「四境戦争」では、箔が附かない(正に箔のある父と「似ていない」ことを言う場面であるあるから)から、メジャーな「鳥羽伏見の戦い」を言ったものであろう。]

 さて、私がこのような事を述べたのは、山口郡玖珂郡賀見畑村、といえば、山口県の隅の方の、(周防〔すおう〕の国の片隅の、)山中〔さんちゅう〕の寒村である、そういう山の中の僻地で、しかも、今から百年ほど前に、芥川の実父の新原敏三は、少年時代を、おくりながら、また、青年時代には、鳥羽伏見の役などに加わりながら、明治二十年代に、ほとんど人の住んでいない、箱根の仙石原で、耕作をしたり、牧畜をしたり、した、という事だけでも、非常な進歩的な人ではなかったか、という事である。それは、新原が、上京して、新宿や築地入船町に、更に、牧場を造〔つく〕った、という事でも、わかるではないか。

 ここまで書いて、私は、ふと、このような、進歩的な、平民的な、人が、どうして、芥川家のような、古風な、因循な、家の娘を、嫁にもらったのか、と、不思議なような気がした、それから、反対に、芥川家のような、由緒のある、旧家が、どうしてバ一介の牛乳屋に、大事な娘を、片づけたのか、とも思って、不審なような気がした。

 ところが、これ故、不思議な事でも何でもなく、案外、両方とも、俗っぽい考え方からではないか、というような気もした。それは、偶然かもしれないが、芥川の実父の新原敏三の弟の元三郎(つまり、芥川の叔父)は、兄より前に上京して、芥川の養父(母方の伯父)の妻(儔〔とも〕)の大叔父、細木香以の姪のえいを嫁にもらっているのである。そうして、この元三郎は炭屋であつた。

[やぶちゃん注:正しくは「えい」ではなく「ゑい」。]

 つまり、芥川の」父は牛乳屋であり、叔父は炭屋である、という事になるのである。

 私は、もし『遺伝』というものがあるとすれは、芥川は、この父(敏三)と母(ふく)の気質をもっとも多く受け、つぎに、伯母(ふき)の気質をうけているところもある、と考えるのである。それから、芥川の顔は伯母のふきにいくらか似てい、芥川の目と口もとは母のふくにかなり似ている。(写真で見ると、芥川は養父の道草とも似ているようである。)

 もし、(もし、である、)かりに私の思った事がいくらかでも当たっているとすると、さきに引いた、『侏儒の言葉』のなかの、「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる、」といふ文句は、おそらく、芥川が、死ぬことを覚悟してから、遠く自分の実の父母と自分の昔の事どもを思いやって、作〔つく〕ったものではないか、と、私は、ふと、思うのである。

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