宇野浩二 芥川龍之介 十九
十九
これから述べる事は、前に、或る長篇小説の中に、一つの挿話として、(作〔つく〕り話ではあるけれど――『作〔つく〕り話〔ばなし〕』といえば、実〔まこと〕しやかに書いているこの文章にも到る処に『作り話』がある事を、ここで、断っておく、)書いた事があり、芥川が死んでから間もなく書いた追悼文の中にも簡単に述べた事があるので、それらの話といくらか重複するところがあるけれど、これは、どうしても、この文章に必要があるので、『重複』を承知の上で書くのである。この事も前もって断っておく。
大正十五年の十一月の末頃あったかと思う。私は、その二三箇月前から、神経衰弱にかかり、その上、家庭の内と外にかなり厄介な事件などがあったりして、とかく気もちが落ちつかなかった。それに、私も、その頃、自分の仕事にユキヅマリを感じていたからでもある。それで、その十一月の末頃、気をはらすために、母をつれて、(母と一しょに、)箱根に出かけた。そうして、私たちは、箱根の底倉にとまり、熱海にまわって、伊豆山の熱海ホテルにとまった。(そこで、新婚旅行で来でいた、片岡鉄兵夫妻に逢った。「日清戦争の最中〔さいちゅう〕に生まれたので、おやじは、僕に、『鉄考という名をつけたんでしょう、へへへへ、」と、ある時、笑いながら、云った片岡は、その頃は、まだ新感覚派の一人〔ひとり〕であった。)さて、熱海から東京ゆきの汽車に乗ってから、私は、汽車が大磯あたりを走っている時、ふと、やはり、神経衰弱で鵠沼に保養に行っている、芥川を、思い出した。
[やぶちゃん注:この宇野の鵠沼訪問は新全集宮坂覺氏の年譜によれば、同年十一月二十七日のことである。]
そこで、私は、急に芥川逢いたくなったので、母にその事を話し、母と汽車のなかでわかれ、(母はそのまま汽車で東京に帰ることにして、)藤沢で、おりた。芥川とは、ずっと前に書いたように、その頃、雑誌「新潮」の主催で毎月ひらかれた月評会の帰りに、浅草の茶屋に一しょに行った時に、逢ったが、その時は、芥川が愛していた、私もよく知っている、小亀という芸者が傍にいたので、十分に話ができなかった、それで、したしく逢うのは、五年ぶりぐらいであった。それで、私は、芥川に逢うことが、心がおどるほど、うれしく、なつかしかった。
さて、鵠沼で電車をおりた時は、もううす暗〔ぐら〕かった。松の木の目だって多い、両側が生け垣つづきの、砂利の細道をいそぎ足にあるく私の心は、はずんだ。
やっと私が芥川の家の前にたどりついた時は、日はすっかり暮れて、あたりは真暗〔まっくら〕であった。
その家は、夜目〔よめ〕で、よくわからなかったが、たしか、右も、左も、後〔うしろ〕も、まばらに、木立〔こだち〕があって、小〔こ〕ぢんまりした、二階だての、家であった。
私が、入り口の格子戸〔こうしど〕をあけて、「ごめんください、」と云うと、すぐ二階から、だまって、おりてくる、しずかな、足音のしないような、足音がした。
やがて、おりて来た芥川は、何〔なに〕もいわずに、障子も何〔なに〕もない上がり口のところに、両手をひらいて、鴨居〔かもい〕をつっぱり、両足をひらき、大の字の形で、立ちはだかった。
前に述べたように、あたりは真暗〔まっくら〕であり、玄関は真の闇であり、唯むこうの部屋がほんの少〔すこ〕し明かるいだけであったから、例えば『通せん坊』のような形で立っている芥川の姿は、黒い影人形〔かげにんぎょう〕のように見えて、顔などは殆んど見えなかった。それで、私は、一瞬間、茫然として、立ちすくんだ。
(私は、その頃、⦅十一月頃⦆芥川が、佐佐木にあてた手紙の中に、「羊羹をありがたう(羊羹と、書くと何だか羊羹に毛の生えてゐる気がしてならぬ)」とか、「何しろふと出合つた婆さんの顔が死んだお袋の顔に見えたりするので困る、」とか、斎藤茂吉にあてた手紙の中に「先夜も往来にて死にし母に出合ひ、(実は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候、」とか、いうような事を知らなかったのである。⦅芥川の母は、芥川の生後間もなく、発狂し、発狂したまま死んだのである。⦆それから、芥川が、やはり、その頃、部屋の真中〔まんなか〕に寝ていても、部屋の四隅〔よすみ〕が倒れてくるような気がする、と云って、わなわな震えているような事が、しばしば、あった、というような事も、知らなかったのである。)
[やぶちゃん注:宇野に、宇野自身の当時の状態への特殊なバイアスがかかっていることが、実はここで分かる。実はここに引用されている「羊羹」云々の佐佐木茂索宛書簡は宇野の訪問した翌日十一月二十八日附で書かれた書簡(旧全集書簡番号一五三一)で、その掉尾には正に訪問した宇野のことが以下のように書かれているからである(引用は旧全集による)。
昨日宇野浩二がやつて來た。何だか要領を得ない事を云つて歸つて行つた。以上
宇野が「羊羹」の「異常」な叙述(これを私は「異常」とは思わないし――私も「羊羹」の「羹」の児は不快である――一種の文字に対するゲシュタルト崩壊に類するものとしても尋常である)を引きながら、そうして正に宇野の訪問日時を特定しているこの手紙の、肝心の自分への言及を引用しなかったのは、宇野が敢えてこれを示したくなかったからだと私は考えるのである。宇野はこの時の芥川龍之介の鬼気迫る異様な様を強く読者に印象付けておきながら、その実、実はその時の自分も芥川龍之介によって「尋常でない」「何だか要領を得ない事を云」って、ふらっと「歸つて行」った変な状態であったと、認識されていたことを読者には完全に隠蔽しているのである。私は宇野の精神の変調はこの時、既に始まっていたのかも知れないと、逆に踏むのである。そうしてそれを宇野は断固として抹消否定しようとしているのではなかろうか。]
いずれにしても、私は、まったく久しぶりで、逢うのが楽しみで、たずねたのに、真黒〔まっくろ〕な芥川らしい(芥川にちがいない)男が、物も云わずに、大の字の形で、上〔あ〕がり口に、立ちはだかった時は、文字どおり、度胆をぬかれた。凄じかった。しかし、やがて、
「やあ、」と、聞きなれた、癖の、鼻にかかったような声をかけられると、たちまち、懐しさの情が、私の心に、あふれた。「やあ、よく来てくれたね、君、ごはん、未〔ま〕だだろう、……ちょっと、待ってくれたまえ、」と云うとともに、芥川は、また、殆んど足音をたてないで、しかし、大いそぎで、二階に、あがって行った。
やがて、芥川は、すぐ、下〔お〕りてきて、「東家〔あづまや〕に行こう、」と云いながら、下駄をはいた。
さて、東家の座敷にとおると、芥川は、坐らぬうちに、「君と僕とは、おなじ物がすきだったねえ、」と云って、女中に、玉子焼と刺身〔さしみ〕を注文してから、「……酒は、いらない、すぐ、ごはん、」と、云いつけた。
そうして、久しぶりで、芥川と向こう前に坐〔すわ〕って、あかりの下〔した〕で見た時、私は、はッと思って、しばらく、言葉が、出なかった。芥川が、はげしい神経衰弱にかかっている、とは、人づてに、聞いていたが、これほどひどくなっていようとは、思わなかったからである。
さて、芥川は、坐〔すわ〕ると、すぐ、
「……君、これだよ、」と云いながら、右の足を、一度、前の方に突き出して、膝から下を折って、足袋〔たび〕をぬぎ、その足袋を、私の前に、出して見せた。
それは、茶色の、なにかの獣〔けだもの〕の、皮を、裏から底まで、つけたものであった。
私は、それを、一〔ひ〕と目、見て、にわかに、身の毛が、よだつような気がした。そうして、あらためて、こわごわ、(のような感じがしながら、)芥川の顔を見ると、笑っている時は、口の中の目にたつところに、一本〔ぽん〕の大きな歯が抜けているからでもあるか、一種の愛敬〔あいきょう〕があり、どんな人にもしたしみを感じさせるけれど、その時、芥川が、口を閉じ、痩せ細った指に巻き煙草をはさんで、ほとんど絶え間〔ま〕なしに煙草を吸っている恰好を見て、私は、心の中で、ふかい溜め息をついた。
やがて、女中が注文したものを持ってきたので、二人は、数年ぶりで、一しょに食事をした。それは実に楽しかった。
しかし、食卓をはさんで、さしむかいに、食事をしながら、いろいろな話をしている間〔あいだ〕に、私が、又、おどろいたのは、元〔もと〕もと痩せてはいたけれど、この時の芥川は、まったく、骨と皮、というより、骨だけの人が丹前をきているような観がしたからであった。
それから、長い、ふさふさしていた、頭〔あたま〕の毛が、油気〔あぶらけ〕がなくなり、ぱさぱさしていた。それから、一文字の、釣り上がった、眉毛、ときどき、三角形〔がた〕になる、鋭い、目、高い鼻、やや大〔おお〕きな、やや唇のあつい、口、げっそり頰のおちこんだ、長い、青白い、とげとげした、顔。それは、この世の人とは、思われないような顔であった。私は、それを見ると、ぞっと、体〔からだ〕じゅうに、寒気〔さむけ〕をおぼえるような気がした。
しかし、芥川は、そのように、肉体が、痛わしいほど衰えているのに、気力はそれほど衰えていないらしく、ぽつりぽつりと、言葉をくぎりながら、昔ながらの、おちついた、口調で、文学の、(おもに小説の、)話をした。そうして、その小説の話がとぎれた時、芥川は、いきなり、
「僕は、……めずらしいだろう、……新年号の雑誌を、三〔みっ〕つ、ひきうけて、もう半分ぐらい書いたよ、」と、目をかがやかしながら、云った。
私は、これを聞いて、その年〔とし〕(つまり、大正十五年)は、(いや、その前の年頃〔としころ〕から、)芥川が、病気のために、小説らしい小説を、ほとんど発表していなかったので、
「それは、よかったね、」と、心からよろこんで、云った。
しかし、こう云ってから、私は、すぐ、この『半分ぐらい』というのは、少〔すこ〕し眉唾物〔まゆつばもの〕だな、思った。
すると、芥川は、にわかに、真剣な顔になって、
「君は、書いたか、」と、まるで、何〔なに〕か、詰〔なじ〕るような調子で、云った。
と「うむ、」と、私は、そこで、ちょぅと返事につまった、というのは、私も、芥川ほどひどくはなかったが、神経衰弱気味に、(あるいは、半分ぐらい神経衰弱に、)なっていたからである、それで、私も、新年号の雑誌の小説を、やはり、三つぐらい、引き受けていて、その中の一つぐらいは書くつもりであったが、その一〔ひと〕つさえ、あまり自信がなかったからである。しかし、私は、「僕も、やっぱり、三〔みっ〕つぐらい、引き受けたけど、……できたら、『中央公論』だけには、書くつもりだ、」と、いくらか空元気〔からげんき〕で、云った。
そこで、芥川は、急に緊張した顔つきになって、
「僕も、やっぱり、『中央公論』だけは、出すつもりだ、」と、云った。
「ぜひ、書けよ。」
すると、芥川は、しばらくして、こんどは、妙に、声をひそめて、
「君、……君も、ほかは止〔や〕めにして、何とかして、『中央公論』だけは、書けよ、書いてやりたまえ、……ね、書いてくれよ、……そして、僕と一しょに出そう、」と、云った。
(ところで、芥川が、この時、何度も、くりかえし、「中央公論」だけに、とか、「中央公論」だけは、とか、云ったのは、どういう訳であるか。――それについて臆測すると、つぎに述べるような次第ではないか、と思う。)
一代の名編輯者と称せられた、滝田樗陰(哲太郎)は、「中央公論」の主幹であったが、短かい一生[四十四歳で死去]の間に、創作(小説、戯曲)の権威と価値を広く社会化した上に、新進作家を見出だして、世に出す事に苦心をするとともに、非常な喜びを感じた。そうして、滝田は、原稿をたのむ時は、(自動車のない時分であったから、)人力車で走った、そうして、いそぐために、常に二人びきの人力車に乗った。それで、大正時代は、「中央公論」は、作家の、『登竜門』であり、『檜舞台』である、と云われた。そうして芥川や「新思潮」(醍削第)の同人の幾人かの憧憬の的であり、谷崎潤一郎を文壇におくり出したのも「中央公論」であった。それで、正直で麁相〔そそっ〕かし屋の菊池は、大正七年の初夏の或る日、勤め先きの時事新報社から帰ってくると、自分の家の前に人力車が止まっていたので、「あ、滝田が来てるな、」と早合点〔はやがてん〕した。ところが、それは、滝田ではなかったが、おなじ「中央公論」の編輯者の高野敬録であった。
[やぶちゃん注:因みに伝説の名編集長滝田樗陰(明治十五(一八八二)年~大正十四(一九二五)年)は、この話柄の時制にあっては前年に鬼籍に入っていた。編集長を継いだのが文中に現れる高野敬録である。
菊池寛の逸話については、菊池自身が『文藝春秋』に連載した「半自叙伝」の中で、次のように記している(昭和四年十二月連載分より。引用は『honya.co.jp「菊池寛アーカイブ」編集部』によるテクストをコピー・ペーストした)
「大島が出来る話」と一緒に「新時代」という雑誌に書いた「若杉裁判長」というのも好評だった。この頃の私は、新進作家として旭日昇天の形で、世の中に出て行った。私は、その頃、夏目漱石氏の家と、一町とはなれていない南榎町の陋巷に住んでいた。そこは、九円五十銭位の家賃で、男便所のない家であるから、どんな汚い家だか想像ができる。半間ぐらいの入口をはいった路地裏であった。あるとき、時事新報社から帰って来ると、その路地の入口に、自家用の人力車が止っていた。その頃の自家用人力車は現在の自家用自動車と匹敵していると思う。私は(ああ「中央公論」の滝田氏だな)と直覚した。その頃の滝田氏の文壇における勢威は、ローマ法王の半分ぐらいはあったと思う。ことに、その自家用の人力車は有名であった。私は、家へ入って見ると、滝田氏ではなかったが、滝田氏の命を受けた高野敬録氏であった。この頃、「中央公論」へ書くことは、中堅作家としての登録をすますようなものだったから、私はこのときの嬉しさを今でも忘れない。]
ああ、「中央公論」――『檜舞台』、というような考えは、この頃、菊池ばかりでなく、芥川にも、誰にも、あったのである。そうして、それを誇張して云うと、その頃は、芥川ばかりでなく、大正の初め頃から中頃までに文壇に出た作家たちのうちの幾人かの作家の頭〔あたま〕の中〔なか〕には、いつとなく、『小説は「中央公論」、「中央公論」は小説』というような考えが、こびりついてしまっていたのであろうか。
それはそれとして、そのような考えが、芥川に、(芥川のような人に、)甚だしかったらしいのである。それは次ぎのような事があるからである。
どういう訳〔わけ〕か、(故意〔こい〕か、偶然か、)芥川は大正五年の五月から十五年の一月までに、(つまり文学生活の大部分の間〔あいだ〕に、)「中央公論」とならび称せられていた「改造」には、作品を、八篇しか出していないのに、「中央公論」には、小説を、三十一篇も、発表している。(もっとも、これは、「中央公論」の方が、伝統が古く、その頃の綜合雑誌の中で、文学にもっとも力〔ちから〕を入れたので、島崎藤村や永井荷風などのようにその作品を殆んど「中央公論」にだけ出している人もあるから、芥川だけが「中央公論」を贔屓〔ひいき〕にしたという訳でもない、という事になる。閑話休題。)
さて、食事がすんだ頃、時計を見ると、まだ八時半ぐらいであったから、私は、ふと、これから、鎌倉の坂井をたずねて、何年ぶりかで、(そうだ、もう七八年ぶりになる、)坂井に案内してもらって、横須賀に行って、「今夜は横須賀にとまって、東京へは、明日、帰ろう、」と、思い立った。それは、その時から、七八年前に、私は、『おんな』の一件で、横須賀に行った事があり、その横須賀で、中学校の同窓で、海軍の士官になっていた友だちと、風変りな『遊び』をした事があって、その事を一〔ひと〕つの小説に仕組〔しく〕んだ事を思い出し、横須賀に行ったら、小説の種〔たね〕になるようなものを思いつくかもしれない、と、考えついたからである。
しかし、私は、もとより、そんな事は明かさないで、芥川に、唯、「まだ時間が早いから、これから、鎌倉の友だちを訊問して、……その男は海軍士官だから、その男に案内さして、今晩は、横須賀に、とまって、……」と云った。すると、芥川は、ニヤニヤ笑いながら、
「……横須賀は、『苦の世界』の思い出の地だね、」と、云った。
「君だって、横須賀は、思い出の地だろう、海軍士官までが……」
「ふん、……あ、自動車を呼ばせようか。」
「ああ、たのむよ。」
やがて、自動車が来た。
そこで、私は、芥川と東家の女中たちに送られて、玄関の前に止〔と〕まっている自動車に乗りこんだ。さて、私が、別〔わか〕れの挨拶をしよう、と思って、ふと、窓ガラスの方を見ると、殆んどそのガラス一ぱいに、その窓ガラスに、鼻までつくように、すれすれに、近づけて、私の方を見ている、芥川の顔が、目にとまった。
私は、思わず、口の中で、いや、声に出して、アッと、叫んだ。夜露でガラスが濡れていたせいか、私の目がうるんでいたのか、その芥川の顔が、ゆがんでいるように、泣いているように、見えたからである。
[やぶちゃん注:「君だって、横須賀は、思い出の地だろう、海軍士官までが……」は、上巻の「十四」で、宇野が体験したエピソード、
さて、その頃、(大正七年頃、)軍港であった横須賀に、海軍中尉ぐらいであった私の中学同窓が、四五人、住んでいた。そうして、その中に海軍機関学校につとめている者がいて、その男が、ある日、私に、突然、「おい、おれの学校に、芥川という、貴様と同業の、小説家がいるよ、」と云った。
「ふん、」と私はわざと鼻声で答えた。
私は、その頃、自分の『なりわい』に追われていたからでもあろうか、芥川が海軍機関学校の嘱託となって英語の教授などをしている事を、まったく知らなかった。が、それはそれとして、その頃、私は、やっと小説を書き出し、その小説を二三の雑誌に出しはしたが、まったく無名で、横須賀までの汽車賃にさえ困るような状態であった。しかるに、前に何度も述べたように、芥川は、その頃、すでに、歴れっきとした作家であり、鬱然たる、大家であったのだ。
それを、およそ文学とは縁どおい海軍機関中尉が「貴様と同業の小説家」などと云ったので、私は、わざと鼻声で、「ふん、」と答えたのである。
を語り出そうとしたものであるが、ここは偶然にも同じ宇野の「ふん、」を受けるかのように、芥川龍之介が「ふん、」で遮ったところ、絶妙の照応(これは宇野の作為ではあるまい)であることに気がつく。]
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