宇野浩二 芥川龍之介 十二 ~(3)
附記――この文章を「文学界」に連載した時、(佐藤春夫の『澄江堂遺珠』を引用したしたところを書いた時、)その後〔あと〕で、芥川の令甥、葛巻義敏から次ぎにうつすような深切な手紙をいただいたので、それを抜き書きしよう。
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……今月号(六月号)中に佐藤春夫氏纂輯の『澄江堂遺珠』御引用になつて居りますが、あれは佐藤氏の御訂正がないので、少し誤まつてゐるかと思はれます。(或は「故人が『死と戯れたり』と称する鵠沼の寓居」といふ解説がありますが、あれらの詩ノオトは「鵠沼時代」のものでなく、亦「死に戯れてゐる」と故人の書き残した、最晩年の「田端時代」のものでもないと思はれます。佐藤氏の挙げてゐられる未定稿ノオト、第一、第二、第三は、少くとも支那旅行前後、その中の遅いものでも、大正十二年以前のものと存じます。
佐藤氏の挙げてゐられる、第二、第三は、現在私所持いたして居り、ノオト第一⦅即ち清書分⦆は、三男芥川也寸志結婚記念のために、右也寸志に贈りましたが、それらの筆蹟、ノオトの型、紙質から云つても前記の通りと存じます。なほ、ノオト第一節⦅即ち清書分⦆は、大正十二年発行の単行本『春服』のツカ見本と思へるものに清書いたして居り、どんな遅く見ても、大震災以前のものと存じます。――なほ、これらの事は昭和九年版改訂普及版全集で訂正して居りますが、「文学界」御引用の諸文章は、大部分旧版⦅昭和二年⦆全集に拠られて居る事と存じます。[宇野注―これは、葛巻の書いているように、私の使っているのは旧版の全集である]勿論、昭和九年版普及全集も、いまだいろいろの点で十分なものとは存じませんが、特に書簡集などは、改訂増補普及版を御引用下さつた方が、より『芥川龍之介』に就いて、不明な箇所が明らかになるかと存じます。)以上のやうな事を申し上げますのは、あれらの詩草稿ノオトを「故人が『死と戯れたり』と称する鶴沼の寓居」時代とする事によつて、故人の晩年に就いて、より誤まつた混乱が生じやしないかと思はれますので。――勿論、故人の肉親として、故人の様々の欠点もありました事を認めますと、それらの全部を明らかにし、批判されるべきものは、批判されるべきだと信じて居ります。唯、彼の場合にだけ「自ら死を選んだ」と云ふ事によつてか、その死後、(小穴隆一の『二つの絵』以来――或ひは、もつとさかのぼつて、様々の人の『追想』の中に)正しく正確に、彼の姿と云ふものの伝へられてゐないのを残念に存じます。
[やぶちゃん注:「ツカ見本」単行本出版の際、本文用紙や口絵・見返し・扉などを実際の仕上がりと同じ材質・同ページ数で製本した白紙の見本。これを元に更に本の外形・背幅・外函等のサイズが決まる。]
なほ、これは前々号(四月号)の末尾に御引用の小穴隆一の文章中「賢い婦人」として挙げられてゐる「R夫人、S夫人、S子、Eのおかみさん」のうち、『S夫人』を『謎の女』として御引用になつて居りますが、(これは小穴隆一にお問ひ合せになる事が一番確かとは存じますが、)『謎の女』ではないのではないかと思はれます。御引用の通り『S女史』は『H夫人』であり、『S夫人』はもつとお身ぢかの別人ではなかつたかと存じます。
以上、余談にわたりますが、久米正雄氏の『月光の女』に就いても、私としては些か疑問を持つて居ります。[宇野註―私も、あの久米の『月光の女』は大いに疑問であると思う](なほ、これは余談の余談にわたりますが、久米正雄氏御所有の『或阿呆の一生』真原稿では、「三十、雨」「三十二、喧嘩」の章の原稿のみ、原稿用紙の紙質が違ひ、而もノンブルが「三十、雨」「三十、大地震」とダブつて居ります。この『或阿呆の一生』の原稿は、現在残つて居ります書きほごし原稿から見ても、確かに二回は書きかへし、書き直してゐるもののやうに思はれます。従つて、大体はそれが年代順に続いてゐるにも拘らず、この「三十、雨」だけは、挿入の場所が違つたのではないかに思はれます。――同「雨」の章の中に、「彼女と一しよに日を暮らすのも七年になつてゐることを思ひ出した」[やぶちゃん注:「七」に「ヽ」傍点。]云々の句があり、「大震災」以前では意味が不明になりはしないかと思はれます。――福田恆存氏の如きは、戦後の『芥川籠之介』で、「彼が学生時代に犯した肉体上の過ちを世間的道義の場で苦しんでゐたとは思へない」云々と書かれて居りますが、これは小穴隆一のわかりにくい文章を読み誤まられ、亦、この「三十、雨」から逆算されたのでないかと思はれます。――勿論、芥川竜之介の言葉⦅表現⦆その儘を信じませんが、彼は昭和元年末日から、昭和二年一月二日にかけて、鵠沼の家から「小さな家出」をいたして居ります。――これは『侏儒の言葉』遺稿分⦅昭和改元第一日⦆の部分と照応しないか? と思はれます。)
その意味で、晩年の芥川龍之介は、御引用の前期の『ごまかし』から『真実』を語らうとする態度に苦しみ、すすんで行つたのではないかと存じます。(勿論、これが完全に脱却は出来なかつたかも知れませんが、『真実』を語らうとした事だけは事実であらうかと存じます。――この意味では、彼の「対女性関係」などは、一つの『口実』でしかなかつたやうに思はれます。これを見誤り、この『口実』にだけ重点を置いたのが、小穴隆一の『二つの絵』以下の文章であるやうに思はれます。なほ、小穴隆一の『二つの絵』は、小穴隆一の主観的な『記憶』であり、その事実の部分に就いては、かなりの誤りがある事を信じます。)
[やぶちゃん注:葛巻の小穴を語る口調に鋭さを感ずる読者も多いと思われるが、これは小穴が、その正に「二枚の絵」の掉尾の章「奇怪な家ダニ」で、葛巻を名指しで芥川龍之介亡き後、「芥川龍之介」を食い物にして生きている『芥川家の家ダニ』と蔑称、完膚なきまでに指弾しているからである。]
なほ、これ亦、余談の余談でございますが、今月号(六月号)御引用の『我鬼窟日録』の終り近くに「愁人」と云ふ言葉が何回か続出いたしますが、この「愁人」が前月号(五月号)御引用の「狂人の娘」に移り変つてゐる間には、七年の移り変りがあるかと存じます。(しかし、そのために、『我鬼窟日録』の記事が全部偽りとは考へられないのであります。それが如何やうなものであれ、このやうな感情を待つた瞬間もある事と存じます。唯、彼自身の不幸は、この場合にも、御引用のやうな前期の『ごまかし』があり、それに身を任せたところにあるのではないかと存じます。)なほ、今月号の「澄江堂の額を改めた」に就いての渡辺庫輔宛の書簡の部分「鶴の前」云々と云ふのは、如何かと存じられます。改訂普及版全集の渡辺庫輔氏宛書簡ならびにその前後をお調べ下されば明らかでないかと存じます。
以上、取りとめのない事を、突然手紙にて申し上げるやうに存じますが、御連載中の『芥川龍之介』を拝見いたし居り、ちよつと気づきました儘に申し上げます。
なほ、それが彼自身の欠点であれ、何であれ、それらの総てが正しく正確に伝へられ、明らかにされる事を望んで居りますのは、前述申し上げました通りでございます。――が、晩年、彼自身の書いてゐるとほり、「偉大な作家でも何でもない、群小詩人の一人である」に過ぎない彼自身の場合にあつても、それが自ら死を選んだその経路だけは、-それらに至る細々し〔こまごま〕た事実にせよ、それは何処までも、正しく、正確に伝へたい念願にしか過ぎないのでございます。
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この葛巻の手紙によって、(読まれた人には、もとより、おわかりになるように、)さきに引いた芥川の詩が大正十二年以前に作られたものであり、最後の「ゆふべとなれば海原に」の詩が佐藤自身もいくらか疑っているように、鵠沼で書かれたものでないことがハッキリわかった。それから、一番きれいに書かれているノオト(詩集)が、葛巻から、芥川也寸志に、結婚の記念に、贈られた、というような美しい話を知ることができた。それから、私の書いたことが、あいもかわらず、まちがっていることも教えられて、ありがたかった。それから、『或阿呆の一生』の中の「三十、雨」と「三十、大地震」と、番号が重複していることなども、私などは、この手紙によって、気がついたのである。
それから、芥川が、昭和元年(つまり、大正十五年)の十二月末から、昭和二年の一月二日まで、鵠沼の家から、『小さな家出』をした、という殆んど誰も知らないことを、知らされた。もう一つ、芥川の「対女性関係」が、一つの『口実』であるらしい、という事(これは私も感じていた事)を知らされた。――これは実にありがたかった。
それから、この手紙の終りの方の「『我鬼窟日録』の終り近くに「恋人」と云ふ言葉が何回か続出」するというのは、つぎの通〔とお〕りである。(大正八年の日記である。)
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九月十二日 雨。雨声繞簷。尽日枯座。愁人亦この雨声を聞くべしなどと思ふ。
九月十五日 陰。午後江口を訪ふ。後始めて愁人と会す。夜に入つて帰る。心緒乱れて止まず。自ら悲喜を知らざるなり。
九月十七日 晴。午後大彦来る。一しよに、ミカド[註―前に書いた、万世橋駅の二階にあった西洋料理店]へ晩餐を食ひに行く。後小島を訪ふ。江口あり。十時に至つて帰る。不忍池の夜色恋人を憶はしむる事切なり。
九月二十二日 晴。妖婆続篇の稿やつと終る。夜十二時なり。無月秋風。臥榻に横たはつて頻に愁人を憶ふ。
九月廿五日 雨。午後院展と二科とを見る。安井曽太郎氏の女の画に敬服する。愁人と再会す。夜帰。失ふ所ある如き心地なり。こゝにして心重しも硯屏の青磁の花に見入りたるかも。数年来始めて歌興あり。自ら驚く。
九月廿九日 陰。菊池、佐佐木と社へ行く。初音で夜食。佐佐木の原稿を春陽堂へ持つて行く。芝へ行つて泊る事にする。愁人今如何。
[やぶちゃん注:本引用は「愁人」秀しげ子に関わりのある記載の前後を抜粋したもので、途中に省略した箇所が多く含まれる。更に、本来、分かち書きにしている記事を、日単位で連続させている点も日録原本と異なる。以下の注は多く筑摩書房版の脚注を参考にした。
「雨声繞簷」は音ならば「うせいねうえん(にょうえん)」、訓読するならば「雨声簷(のき)を繞(めぐ)り」で、「雨音が軒を巡り」の意。
「尽日枯座」は日がな一日何もせずに凝っと坐っている、の意。
「九月十五日」この日こそが、芥川龍之介の運命を微妙に変更させた秀しげ子との密通の瞬間の記載である。
「心緒」は「しんしよ(しんしょ)」と読み、「思いのはし」「心の丈け」の意。
「大彦」野口真造(のぐちしんぞう 明治二十五(一八九二)年~昭和五十(一九七五)年)。染織工芸家。芥川の江東尋常小学校附属幼稚園入学以来の幼馴染。日本橋の呉服屋「大彦」の次男。大正十四(一九二五)に「大彦」を継ぎ、昭和二(一九二七)年には大彦染織美術研究所を創設している。後、戸板女子短期大学名誉教授。
「臥榻」は「ぐわたふ(がとう)」寝台。寝床。
「こゝにして心重しも硯屏の青磁の花に見入りたるかも」漫然と読んでいると、日記本文のように見えるが、これは短歌。原本では前後から独立して四字下げとなっている。「硯屏」は音数律から「けんぺい」と読んでいるものと思われる。
「社へ行く」の「社」は芥川が社員であった大阪毎日新聞社傘下の東京日日新聞社のこと。
「初音」日本橋にあった鳥料理屋。
「佐佐木の原稿」未詳。]
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この『愁人』が、(葛巻の手紙によれば、)七年後には、『或阿呆の一生』の中の「狂人の娘」となるのである。すると、これが、(この娘が、)私の云う『謎の女』という事になる訳であるが、こうなると、私には、何が何やら、わからなくなるのである。
それから、『澄江堂』という名と、渡辺庫輔の「鶴の前」という文句に意味があるように、私が、書いたところは、アヤフヤであるから、ここで取り消しておく。
最後に、葛巻の手紙によって、芥川が、晩年に、自分のことを、「偉大な作家でも何でもない、群小詩人の一人である、」と、書いた、という事も、私は、はじめて、知ったのである、しかし、私は、芥川は、偉大な作家ではなかったが、特異な、無類な、作家であった、と信じるのである。
最後に、この、「思い出すままに、」ダラダラと、述べたてている、文章(『芥川龍之介』)が、葛巻の手紙にくりかえし書かれている、芥川の姿を、「何処までも、正しく、正確に、」伝える、という言葉に、まったく副うていないのは、慙愧の至りである。しかし、自分勝手なことを云わしてもらうと、私のような者には、「物事を正確に伝える」などという事はまったく出来ないのは、知る人は知り過ぎるほど、知っているであろう。
ところが、最近、吉田精一の『芥川龍之介の芸術と生涯』という本を手に入れて、(手に入れたばかりであるから、まだその百分の五ぐらいしか読んでいないが、)この本の終りについている解説の中に、この本は「芥川龍之介を知らうとする人にとつてスタンダアドのものであり、この事を除いて、芥川を云々するは怠慢であらう、」と書いてあるのを読んで、私は、このクダラナイ文章を書く前に、(つまり、一年半ぐらい前に、)この本を読んでいたら、私のような微力な者でも、もう少しマシなものが書けたであろう、と、いたく後悔しているのである。(なぜなら、この本の解説の中に、この本を読めば、「少くとも今後の読者、批評家、研究家は或る程度正確な資料を、浅くあり又平凡であらうとも、ほぼ信頼すべきであらう、」と書いてあるからである。そこで、私は、さっそく、葛巻さんに、こんな本のある事を、知らせてあげよう、と思っている。附記――そうして、私も、できれば、この文章の一ばん最後を書く時、この本を参考にしたいと思っている。)
[やぶちゃん注:「吉田精一の『芥川龍之介の芸術と生涯』」は本連載途中であった昭和二十七(一九五二)年に河出書房から刊行された(同市民文庫所収)。]
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