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2012/04/11

宇野浩二 芥川龍之介 十四 ~(3)  上巻テクスト化完了

 芥川の小説は、(あるいは、芥川の小説の文章は、)だいたい、簡潔であるが、ときどき、低徊趣味の漱石や理窟っぽい鷗外の影響がわるく現れて、(それ以上に、芥川流に、いい気になって、)叙述し過ぎたところがしばしばある。しかし、それが、物語の、進行のために、あるいは、進行ちゅうに、巧みに、使ってあるので、たいていの人に、気がつかない上〔うえ〕に、感心させられる事さえある。ところが、それは、気がつき出すと、芥川が好〔この〕んでよく使った言葉を借りると、かなわない[やぶちゃん注:「かなわない」に「ヽ」傍点。]、と思うようになる、「もう沢山〔たくさん〕だ、」と思うようになる。そうして、その例は、『羅生門』からでも、『鼻』からでも、『芋粥』からでも、容易に、上〔あ〕げられるが、それは、煩瑣になるから、省〔はぶ〕くことにして、それのもっとも著〔いちじる〕しい『芋粥』について、その事を、漱石が、書簡[大正五年九月二日に芥川にあてたもの]の中〔なか〕に、書いているから、つぎに、引用しよう。

……あれ[註―『芋粥』のこと]は何時〔いつ〕もより骨を折り過ぎました。細叙絮説に過ぎました。然し其所〔そこ〕に君の偉い所も現れてゐます。だから細叙が悪いのではない。細叙するに適当な所を捕へてゐない点丈〔だけ〕がくだくだしくなるのです。Too labored といふ弊に陥るのですな。うんと気張り過ぎるからああなるのです。物語り類は(西洋のものでも)シムプルなナイイヴな点に面白味が伴〔ともな〕ひます。惜い事に君はそこを塗り潰してベタ塗りに蒔絵を施しました。これは悪い結果になります。

[やぶちゃん注:「Too labored」は、非常に努力の跡が見えるものの、それがあまりに過剰過ぎて(若しくは見当違いの箇所を細叙し過ぎて)不自然でぎこちないものとなる、ということを言っていよう。]

 この漱石の文章は、もとより、一〔ひと〕つの批評であり、急所を突いているところもあるが、かなり気をつかった云い方〔かた〕をしている上〔うえ〕に、労〔いたわ〕った云い方もしている。ところで、この書簡の中に「気取り過ぎる」という文句があるが、それと語路〔ごろ〕が似ているけれど、別に、「気取り過ぎる」という見方〔みかた〕もあるのではないか。

 ところで、芥川は、『羅生門』[大正六年六月発行]を出した頃かなり親〔した〕しくしていた江口の『羅生門』の批評を期待しながら気にしていたが、(その頃、江口は、新進気鋭の評論家であった、)その江口の評論[註―「芥川龍之介論」たしか時事新報連載]を読んだ後〔あと〕で、すぐ、江口にあてて出した手紙の中に、「少し褒めすぎてます」と書き、その少し後〔あと〕に、「『羅生門』は当時多少得意の作品だったんですが新思潮連には評判が悪〔わる〕かつたものです成瀬が悪評の張本だつたやうに想像してゐますが、」と述べている。(私には芥川が『羅生門』を「多少得意の作品だつた」と云った気もちがわかるような気がする。)

 さて、江口のその評論は、芥川が書いているように、「少し(少しである)褒めすぎて」いるところもあるけれど、『羅生門』の中におさめられている一〔ひと〕つ一〔ひと〕つの小説については、(その中の幾つかについては、)非難すべきものはちゃんと非難している。それから、江口は、不満に感じるのは、「描かれたその心理が、善の場合にも悪の場合にも単なる普通の善又は悪を唯その儘の形その儘の質に於いて拡大してゐるに過ぎない事である。少しも病的な処超常識的な処がない。芥川君がとかく作の基調に熱と力とを欠くのは是にも半ば因するのである、」とも論じている。

 それから、おもしろいのは、江口が、おなじ評論の中で、「悪口を云つた次手〔ついで〕にもう一つ芥川君の使ふ小道具にちよつと異議を呈出したい。それは『忠義』に於いて狂乱後の主理に時鳥の事を口走らせたり、『運』に於いて藪に鶯を鳴かせたりするのは、一種の伝統主義と見ても余りに古〔ふる〕い。余りにティピカルであり、固定的である、」と難じているのに対して、芥川が、さきに引いた手紙の中で、「小道具の悪〔わる〕いうち『運』の古〔ふる〕いのを又又承知の上で使つたんです、あれは随分古い情調に興味を持つた作なんですから、『忠義』の時鳥はお説どほりに活字になつた時から不愉快なんです、」と弁解している事である。(ここに昔の江口の評論の一部を引いたのは、私がその半分以上同感であるからである。)

 小道具といえは、これは『小道具』ではないが、作者は、『羅生門』の主人公の下人の頰に、「赤く膿〔うみ〕を持つた大きな面皰〔にきび〕」をつけている、そうしてこの『面皰』を三度つかっている、つまり、初めは、「楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頰をぬらしてゐる。短い鬚〔ひげ〕の中に、赤く膿を持つた面飽〔にきび〕のある頰である、」であり、次ぎは、「その太刀の柄〔つか〕を左の手でおさへながら、冷然として、この話を聞いてゐた。勿論、右の手では、赤く頰に膿を持つた大きな面皰を気にしながら、聞いてゐるのである、」であり、最後は、「さうして、一足〔ひとあし〕前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上〔えりがみ〕をつかみながら、……」である。これを、ある批評家は、「主人公の下人の頰の上に大きい面皰を生ぜしめたユーモラスな点景」と誉〔ほ〕めているが、この面皰は、この下人の頰におのずから生じたものではなく、作者の芥川が、『羅生門』という舞台に、主人公の下人を登場させる時、その下人の扮装をする際に、ほくそ笑〔え〕みながら、(これは誇張であるが、)附けたものであろうが、しかし、また、小説の筋をはこぶための手段の一つでもあるから、やはり、小道具の〔ひと〕一つ、と見てもよい。但し、この場合、『小道具』とは、「進行係〔がかり〕」という程の意味であり、『進行』とは、「進ませる」(あるいは)「はかどらせる」というくらいの意味である。

 そういう意味では、芥川は、小道具つかいの名手であった、と云えよう。しかし、『上手〔じょうず〕の手から水が漏る』という諺のようなものもある。

 ところで、『羅生門』は、下人が普通の意味で悪人と極〔き〕めつけられ、物語は古風で陰惨きわまりなく、新進作家の小説らしい新鮮味などまったくなく、あまりの暗さに読むに堪えがたいようなところもあるが、それを一気に読ませるのは、よかれあしかれ、作者の彫琢された技巧がずぬけているからである。いずれにしても、『羅生門』の中に、おさめられている十九篇のうちで、この『羅生門』は、すぐれた作品の一〔ひと〕つである。

 近頃、(というよりも、この数年来、)「芥川に代表作というものがあるのであろうか、」という人がしばしばある。それを、私など、よく聞かれる事があり、かく云う私も、ときどき、こう考える事がある。ところで、それは、ない、と云えば、ない事になるが、ある、と云うと、四五篇か五六篇ぐらいはある、という事になる。そうして、その四五篇か五六篇の中〔なか〕に、まず、確実に、はいるのは、『地獄変』であろう。

 『地獄変』は、(『地獄変』も、)やはり、『宇治拾遺物語』の第三の『絵仏師良秀家の焼くるのを見てよろこぶ事」、『十訓抄』の第六の「絵仏師良秀といふ僧」、それから、『古今著聞集』の第十一の画図第四話の、弘高の地獄変を描いた話などを参照し、それを本〔もと〕にして、創作したものであろう。

[やぶちゃん注:「弘高」巨勢弘高(こせのひろたか 生没年未詳)平安中期の宮廷絵師。広貴・広高とも書く。大和絵の創始者にして巨勢派の第一世巨勢金岡は曾祖父に当たる。]

しかし、この小説は、おなじ昔の物語(というより、小話)を集めた本の中の話を素材にした、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』とくらべると、規模が大きく、物(殊に人間)の見方も深くなり、空想も自由自在になった。(もっとも、この事は、この『地獄変』ばかりでなく、『傀儡師』[註―第三短篇集である、大正八年一月に発行される]におさめられている三四篇の小説についても、云える。――それについては、後に述べるつもりである。)

 さて、『地獄変』は、芥川の小説を多く読んでいる人も、たいていの批評家も、誉〔ほ〕めるばかりでなく、芥川の、いわゆる王朝物といわれる諸作の中の第一等の小説であり、一代の名作であると称する人もかなりある。

 これは、――筆を取っては当代随一といわれながら、貧弱で、変り者で、人を人とも思わぬ、絵師の良秀が、良秀の倣慢を日頃〔ひごろ〕こころよく思っていない大殿から、ふいに、地獄変相の絵を屏風に描け、という難題もちかけられた、が、良秀は、承知して、一所懸命に製作をはじめた、そうして、それが完成に近づく頃、ある日、良秀は、大殿に、自分は見たものでなければ描けないから、檳椰毛の車に上﨟を一人〔ひとり〕のせて、「私の見てゐる前で、火をかけて頂〔いただ〕きたうございまする、」と願った。大殿は、ちょっとためらっていたが、やがて、引きうけて、ある夜、洛外の荒廃した山荘の庭で、常用の檳榔毛の車に、自分が召〔め〕し使っていた良秀の娘を、(上﨟の姿をさせた良秀の娘を、)鎖〔くさり〕でしばって、火をかけさせた。これを見た良秀は、一度は、「恐れと悲しみと驚き」のために正気を失いそうになったが、やがて、自分の娘が火焔につつまれている事さえも忘れてしまったように、「両腕をしつかり胸に組んで、」この世ながらの『地獄』の光景に眺め入った、そうして、世にも稀な傑作を完成した、が、その翌日、自ら縊れて死んだ。(荒筋)――というような小説である。

[やぶちゃん注:「地獄変」は私のテクスト私のオリジナルな詳細注がある。御覧あれ。]

 この小説について、ある批評家が、「王朝の盛時を背景に、異常の名匠を主人公として、彼の製作に関する慄然たる物語に取材し、凄惨の気の中に、人と芸術家との相剋を描き出している。その主人公に配するに、蒙宕な大貴族、可憐なる少女等を以てし、この貴族の侍者の口述体に擬して名家に伝わる重宝の由来を叙し、漸層的に展開される怪異の情景の中に主人公の苦悩を語り、芸術至上の主題を表出している、」と説〔と〕いている。

[やぶちゃん注:「豪宕」は「ごうとう」と読み、豪放と同義。気持ちが大きく、細かいことに拘らずに思う儘に振る舞うこと。また、そのさまを言う。わざわざ鍵括弧で引用しているにも関わらず、この批評が誰のものかは示されていないが、後文を読めば分かる通り、宇野はこの如何にも事大主義的な(と私も感じる)褒め殺しのような、ベタ褒めの評価(やはり後に掲げられる『傀儡師』の広告文でも同様)を認めていないからである。]

 これは、誠に、尤〔もっと〕もな説である、(但し、)尤もらしい説でもある。しかし、当〔あた〕り前の話であるが、小説というものは唯よむのであるから、この『地獄変』でも、たいてい、こんな事を考えながら、読まない、そうして、私も、その一人〔ひとり〕である、しかし、『地獄変』を読んでいる私は、(『地獄変』を読んだ人たちは、)この説を読めば、「なるほど、そんなものかなア、」とは思う。

 いうまでもなく、この説を述べた人は、『地獄変』を読んでしまってから、このように考えたのであろう。しかし、私は、『地獄変』を読みながら、言葉にして云えば、おもしろい話だなア、凄い話だな、(ときどき、うまいなア、)などと思いながら、一気に、読んだ。一気に読んだのは、一冊の本になってから読んだからである。しかし、又、この小説は一気に読ませるように書いて ある。

 この小説は、東京日日新聞と大阪毎日新聞に連載されたものであるからか、一回一回おもしろく読めるように書かれてある上に、明日〔あす〕が待たれるように書かれてある。しかし、おなじように、「明日」が待たれるように書かれてあっても、漱石の新聞小説は淡淡としており、(余計な話だが――山本有三のは常識的でポオズがあり、)この『地獄変』は、作者にはそんな気もちはなかったであろうが、低級な読者は、(あるいは、高級な読者も、)「猟奇」で釣るように見えるところもある。唯、『怪奇』は芥川の好むところであるとしでも、この、豪宕な、不屈な、吝嗇な、樫貪な、倣慢な、絵師が、一人娘に甘〔あま〕く、子煩悩なところなどは、普通の人情家である事が、ひどく悪〔わる〕く云えば、明治以来の通俗小説作家の好〔この〕んで出した人物を思わせ、ほんの幾らか似た人物としては、バルザックの『ゴリオ爺さん』のゴリオにはるかに及ばないところなども、私には、気になるのである。それから、この小説でも、はじめからしまいまで、猿という『小道具』をしきりに使っているが、これも実に巧みに使っている。それに、一つ一つの場面も人の気もちも誠によく書かれているから、やはり、『地獄変』は芥川の代表作の一つ、という事になるであろう。

 唯よく書かれているのに、凄惨さ、物凄さ、怪奇さ、その他を感じさせながら、その場かぎりで、迫ってくるものがない。

 結局、『地獄変』は見事〔みごと〕な「絵空事〔えそらごと〕」である。

 ところで、さきに述べたように、この小説の終りで、主人公の良秀は首を釣って死ぬ事になっているが、こういう事は云えないことであるけれど、主人公が死ぬ方が小説の終りとしてよいかも知れないが、読者としての私は、死なしてほしくなかった、芥川はあのような終り方が好〔す〕きらしいけれど、あそこで死んだら、負けではないか。よく批評家は、(いろいろな読者が、)あの主人公を芥川の芸術至上主義の『権化〔ごんげ〕』のように云うが、あの主人公が芥州の芸術至上主義の『権化〔ごんげ〕』ならば、あれでは、芥川の芸術至上主義が負けた事になるではないか。(ここで、誰かの口真似をすると、「それでは困るね、」閑話休題。)

[やぶちゃん注:「誰かの口真似」の「誰か」とは芥川龍之介自身のことであろう。次に有意な空行が入って、引用となる。]

 

著者具さに名匠の苦心を尽して一作をゆるがせにせず、玆に漸く此一巻を公〔おほやけ〕にする事となれり。収する所『地獄変』『戯作三昧』以下。何〔いづ〕れも宝玉の光輝と、古金襴の色彩とを備へた気品高き作品のみにして、独〔ひと〕り新興文壇の異彩たるのみならず、日本の文芸に空前の新生面を開き、独一無類の作風を完成せるもの也。

 これは、芥川の第三短篇集『傀儡師』[註―大正八年一月発行]を出版した新潮社の『傀儡師』の広告の文章である。

 私が、ここに、殊更に、このような出版社の広告の文章を引いたのは、なにも、『傀儡師』の中におさめられている小説が、「何〔いづ〕れも宝玉の光輝と、古金欄の色彩とを備へた気品高き作品」ばかりである、などと思っているからではない、この『傀儡師』と『羅生門』の中におさめらている幾つかの小説(つまり、初期の小説)は、(これらの小説こそ、)よしあしは別として、もっとも芥川らしいものであり、それこそ、誇張ではあるが、「独一無類の作風」にちかい小説であろう、と、私は、思うからである。しぜん、私は、芥川のいわゆる晩年の作品に、それはそれで、感心しているものもあるが、不満をいだき文句をつけたいものもあるので、それらについては、後に述べる事にする。

 

『羅生門』[註―大正六年五月発行]には、十四篇の短篇がおさめられている。そうしてその十四篇のうちで、『羅生門』は、大正四年に、『忠義』と『貉』は、大正六年の初め[三月と四月]に発表され、他の十一篇は大正五年じゅうに書かれたものである。大正五年といえば、芥川が、かぞえ年〔どし〕、二十五歳の年〔とし〕であり、その年の七月に、芥川は、英文学科を卒業した。それで、『鼻』を発表したのはその年〔とし〕の二月であるから、学生時代である。(別の話になるが、私が、大正八年の四月に、『蔵の中』を発表した時は、かぞえ年〔どし〕、二十九歳の年〔とし〕であったから、二三の友だちから、「君が一ばん遅いね、」と、私は云われたものである。)

 さて、『鼻』といえば、これもずっと前に書いたような気がするけれど、話の順序があるので、重複するのもかまわずに述べる。大正五年の初夏の頃であったか、そのころ谷中の清水町に住んでいた江口をたずねて、例のごとく文学談に花を咲かしていた時、その話がちょっと跡切〔とぎ〕れた時、私が「どうだ、近頃、なにか新〔あたら〕しい作家のものに、これというような小説があるか、」と述べてから、『菅原伝授手習鑑〔すがわらでんじゅてならいかがみ〕』のうち『寺子屋の段』の中〔なか〕に出てくる武部源蔵の述べる文句をまねて、「いずれを見ても、山家〔やまが〕そだち、か、」と云うと、江口が、私の言葉がおわらぬうちに、「芥川龍之介の『鼻』を読んだか、……漱石が激賞した、という、……ちょっとおもしろいもんだよ、」と云って、『鼻』の出ている「新思潮」を貸してくれた。

[やぶちゃん注:「『菅原伝授手習鑑』うち『寺子屋の段』の中に出てくる武部源蔵の述べる文句」とは、同段冒頭の、

「エヽ氏より育ちと云ふに、繁華の地と違ひ、いづれを見ても山家の育ち。世話甲斐も無き、役に立たず」

の台詞を指す。]

 しかし、私は、『鼻』を読んで、それの出ている「新思潮」を江口にかえす時、これまでの小説と題材や書き方のちがっているところが、おもしろいと云えば、おもしろいのかも知れないけれど、「どうだ、ちょいと、おもしろいだろう、」と、作者が、云っているようなところが、「気になるね、それに、やはり、小話〔こばなし〕だよ、……しかし、なかなか気のきいたものだね、」と、江口に、云った。

「ふん、そうかね、」と、江口は、いくらか不服そうに、云った。

 ところが、ずっと後〔のち〕に知ったのであるが、この「新思潮」の二月号に出た『鼻』が、おなじ年〔とし〕の五月号の「新小説」に、出た。その頃、漱石門下の鈴木三重吉が「新小説」の主宰をしていたので、『鼻』は、その三重吉の好意によって、「新小説」に再掲載されたのであろうか。仮りにこれを三重吉の好意とすれば、その三重吉の好意によって、おなじ年〔とし〕の、九月号の「新小説」に『芋粥』が出〔で〕、十月の「新小説」に『煙管』が出ている。

 ところで、こんど、芥川の著作年表を見て、おどろいたのは、(意外な気がしたのは、)かがやかしい『羅生門』におさめられている十四篇の小説の中〔なか〕の、五篇が同人雑誌の「帝国文学」と「新思潮」に発表されたものであり、二篇が「希望」という殆んど名の知られていない雑誌に発表されたものであり、二篇は「黒潮」という少〔すこ〕し出ただけで廃刊された雑誌と読売新聞に出されたものであり、他の六篇あるいは五篇(前に述べたよう『芋粥』は「新思潮」と「新小説」とに出たものであるから)だけが、「中央公論」、「文章世界」「新潮」、「新小説」に発表されたものであるからである。

[やぶちゃん注:第一作品集『羅生門』に所収された十四篇と、その初出誌とその発行クレジット及び芥川龍之介でない署名を( )内で示す。

「羅生門」(『帝国文学』 大正四(一九一五)年十一月一日 柳川隆之介)

「鼻」(『新思潮』 大正五(一九一六)年二月十五日 芥川龍之助)

「父」(『新思潮』 大正五(一九一六)年五月一日)

「猿」(『新思潮』 大正五(一九一六)年九月一日)

「孤独地獄」(『新思潮』 大正五(一九一六)年四月一日)

「運」(『文章世界』 大正六(一九一七)年一月一日)*

「手巾」(『中央公論』 大正五(一九一六)年十月一日)*

「尾形了斎覚え書」(『新潮』 大正六(一九一七)年一月一日)*

「虱」(『希望』 大正五(一九一六)年五月)

「酒虫」(『新思潮』 大正五(一九一六)年六月一日)

「煙管」(『新小説』 大正五(一九一六)年十一月一日)*

「貉」(『読売新聞』 大正六(一九一七)年三月十一日)

「忠義」(『黒潮』 大正六(一九一七)年三月一日)

「芋粥」(『新小説』 大正五(一九一六)年九月一日)*

「*」を附したものが宇野の言うメジャーな文藝専門誌に相当する。ところが、ここで宇野は、数え方を間違っている。まず、『五篇が同人雑誌の「帝国文学」と「新思潮」に発表されたもの』とあるが、御覧の通り、「五篇」ではなく六篇であり、『二篇が「希望」という殆んど名の知られていない雑誌に発表されたものであり』というのも「二篇」というのは一篇の誤りである。更に、『他の六篇あるいは五篇(前に述べたよう『芋粥』は「新思潮」と「新小説」とに出たものであるから)』と述べているが、これは何らかの宇野の錯誤ではあるまいか。『前に』とあるが、「芋粥」が二つの雑誌に掲載されたというようなことは宇野自身、本文以前には書いていない。これは直前の『この「新思潮」の二月号に出た『鼻』が、おなじ年の五月号の「新小説」に、出た。その頃、漱石門下の鈴木三重吉が「新小説」の主宰をしていたので、『鼻』は、その三重吉の好意によって、「新小説」に再掲載されたのであろうか。』と記したのを、「鼻」を「芋粥」に取り違えた錯誤のように思われるが、如何? それとも、やはり、確かに「芋粥」は『新思潮』に再掲(初出は間違いなく『新小説』)されているのであろうか? 手元に『新思潮』のデータがない。識者の御教授を乞う。なお、この『黒潮』という雑誌の出版元等は不詳。]

 いずれにしても、『鼻』(これは評判が評判を生〔う〕み、その評判が又、……という風に、妙に有名になった)から始まって、雑誌のよしあし別として、嘉し:になつた)から始まって、雑誌のよしあしは別として、『芋粥』、『手巾』、(評判の立った時というのは妙なもので、これは、「中央公論」に出た、というだけで、目を引き、)それから、『運』、『尾形了斎覚え書』、『偸盗』(題まで普通ではない)、『さまよへる猶太人』、その他、と、芥川は、大正五年の中頃から六年の初めにかけてほとんど毎月、つぎつぎと、矢つぎ早〔ばや〕に、発表したので、誇張して云えば、その頃の一二年は、その時分の同時代の作家は、もとより,時として大家の名さえ、芥川龍之介という花やかな名に、しばし、忘れられるか、と思われる程であった。

 たびたび云うが、その頃、芥川は、二十五六歳の青年で、大学を出たばかりであった。これでは、芥川でなくても、有頂天〔うちょうてん〕(上〔うわ〕の空〔そら〕)になるのは当然ではないか。いうまでもなく、『上の空』とは「天空の上」という意味である。

 人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴオルテエルはかういふ彼に人工の翼を供給した。

 彼はこの人工の翼をひろげ、易〔やす〕やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴〔あ〕びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつ直〔すぐ〕に太陽へ登つて行つた。丁度〔ちやうど〕かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為〔ため〕にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘人も忘れたやうに。……

 これは『或阿呆の一生』の中の「十九」のうちから引いたのである。

[やぶちゃん注:以上の引用は「或阿呆の一生」の「十九 人工の翼」の後半2/3の引用で、

 彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に駆られ易い一面のルツソオに近い為かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――冷かな理智に富んだ一面に近い「カンデイイド」の哲学者に近づいて行つた。

という初段が省略されている。]

 ところで、理智的と称せられた芥川も、世の賞讃を大いに博し、『羅生門』が出た頃は、それが当〔あた〕っているか当っていないかは別として、新理智派、新技巧派、新古典派、その他、名称をつける事の好〔す〕きな批評家たちから、さまざまな名称をつけられた。そうして、そのいろいろな名称の上にはみな『新』という字が附いていた。それやこれやで、若き芥川は、乱作をし出した。(この事もずっと前に述べたが、門下と呼ばれた人たちの中でもっとも愛していたらしい佐佐木茂索に乱作を戒めながら、当の芥川が乱作をし出したのである。)これが、芥川に、――芥川の文学生涯に、――もっとも禍〔わざわい〕をした。(乱作した作家は、芥川だけではない、数多くある、私も、もとより、その一人〔ひとり〕であるが、)乱作が芥川に禍したのは、芥川の最初の幸福すいた文学の境涯であり、それ以上に芥川の性格(普通の人には想像できないような気の弱さ)のためである。

 そういう点で、(そういう点でも、)芥川という人は、何〔なん〕ともいえぬ痛ましい人であった。

[やぶちゃん注:下らぬ高校の文学史の副読本で覚えさせられた方もいるであろう。芥川龍之介は「新思潮派」(『新思潮』第三次・第四次の同人達を指すもので、「白樺派」と言うが如き、十把一絡げである。高校の文学史では妙にこれを筆頭に載せたがる)「新理知派」「理知派」「新技巧派」「新現実主義」「新古典派」(先行する擬古典主義に対しての謂いであろうが、一般的ではない。岡本かの子が「芥川龍之介の俳句」で使っているのを見かけた)……こういう手前勝手な非科学的分類学で悦に入っている連中が文学をますます貧困なものにして行き、若者を文学から去らせるのである。]

 

 又また、余計な話であるが、大正七年の秋の頃、私は、時をおいて、三四度、横須賀に、行った事がある。ついでに、わたくし事を述べると、その時分の「私事〔わたくしごと〕」を、『苦の世界』と『人心』という小説の中に、書き、更に、『軍港行進曲』という小説の中にも、書いた。(この『軍港行進曲』は、昭和二年の二月号の「中央公論」に、芥川の『玄鶴山房』と一しょに、出た、といばかりでなく、私の芥川に対する忘れる事のできない思い出を持っている小説であるから、その事については後〔のち〕にかならず述べたい。)

[やぶちゃん注:宇野もちょっとお茶目だ。さりげなく自作の宣伝をしている。]

 さて、その頃、(大正七年頃、)軍港であった横須賀に、海軍中尉ぐらいであった私の中学同窓が、四五人、住んでいた。そうして、その中に海軍機関学校につとめている者がいて、その男が、ある日、私に、突然、「おい、おれの学校に、芥川という、貴様〔きさま〕[註―その頃の海軍士官は、自分たちは、もとより、同輩以下の相手を「貴様」といった]と同業の、小説家がいるよ、」と云った。

 「ふん、」と私はわざと鼻声で答えた。

 私は、その頃、自分の『なりわい』に追われていたからでもあろうか、芥川が海軍機関学校の嘱託となって英語の教授などをしている事を、まったく知らなかった。が、それはそれとして、その頃、私は、やっと小説を書き出し、その小説を二三の雑誌に出しはしたが、まったく無名で、横須賀までの汽車賃[その頃は、東京―横須賀間は、汽車しかなく、汽車賃は三十銭ぐらいだ]にさえ困るような状態であった。しかるに、前に何度も述べたように、芥川は、その頃、すでに、歴〔れっき〕とした作家であり、鬱然たる、大家であったのだ。

 それを、およそ文学とは縁どおい海軍機関中尉が「貴様と同業の小説家」などと云ったので、私は、わざと鼻声で、「ふん、」と答えたのである。

 私は、「ふん、」と、わざと、鼻声で、答えてから、「……自分なら、あれだけの小説を書き、小説のよしあしは別として、あれだけの大家にされたら、(大家にされなくても、)機関学校の教師などは、すぐでも、止〔や〕めてしまうなあ、いや、はじめから教師などにはならないなあ、……芥川という男の気が知れないなあ、」と、心の中で、思った。(しかし、ずっと後になって、⦅いや、この文章を書く時分になって、⦆芥川が、海軍機関学校の嘱託になったのは、世をわたるのにも大事を取る、というような用心ぶかさも多分に持っていたことを知って、私は、いくら『若気〔わかげ〕の至り』とは云え、やはり、芥川という男は、人間としても、私などより遙かにすぐれていることを知ったのであった。)

 さて、後に芥川としたしくなってから、私は、ときどき、小説より人間の方がおもしろいところもあったなア、と思うことがあった。

[やぶちゃん注:以下、「後記」は底本では全体が二字下げ。]

(後記――これは、『大事取り』というより、芥川の細かい心づかいの現れでもあり、大正十二年の末といえば、芥川は、既に堂堂たる作家であったのに、このような心配のようなものが芥川にもあった、という一例として、大正十二年十二月十五日に、芥川が、当時の新潮社の支配人、中根駒十郎に、「昨日は失礼しました今日旅へ出るにつき手紙など片づけたら富士印刷の配当を貰つてゐなかつたのを発見しました故、貰ふ量見を起しましたどうか然る可く御取り計らひ下さい」という文句だけの便りを出している。『富士印刷』とは、その頃、新潮社が、訳があって、たしか、主に自分の社だけの用をたす印刷会社をつくり、その会社の一部の株主として、新潮社から本を出している文学者の有志の人に、本の印税の何分の一かで何株かの株主になってもらった、というような請われのある印刷株式会社であった。)

[やぶちゃん注:以上で、底本である中央公論社中公文庫版宇野浩二「芥川龍之介 上巻」は終っている。]

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