宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(5)
さて、『海のほとり』、(『尼提』と『湖南の扇』とは、私は、取らない、)『年末の一日』、『春の夜』、と、書きつづけて来て、芥川は、これまでの作品とまったく違った、『点鬼簿』を書いたのである。
『点鬼簿』は、やはり、小説ではないけれど、芥川の全作品の中でもつとも重要な作品である。
点鬼簿とは、俗にいう過去帳であり、過去帳とは、いうまでもなく、死人の、法名、俗名、死亡年月日などを書き止めておくものであり、鬼籍、鬼簿、鬼神簿、などとも云うが、芥川は、それらの中から、『点鬼簿』というのを、選んだのである。しかし、どれを選んでも、『鬼』という字は附くのである。)
『点鬼簿』は、めずらしく、芥川が、真剣になって、書いている、極言すれば、芥川の全作品の中で、もっとも真剣になって、書かれた作品の一つである。『大導寺信輔の半生』のなかでは、唯、「信輔は母の乳を吸つたことのない少年だつた、」と、書いているだけであるが、この作品では、いきなり「僕の母は狂人だつた、」と、書いている。
大正十五年の九月の初め頃、鵠沼の寓居で、極度の神経衰弱(というより、精神病)にかかりながら、頭脳は冴え切っていた芥川が、いきなり、「僕の母は狂人だつた、」と、書き出すのに、書きはじめるまでに、いかに苦しい思いをしたであろうか。
『点鬼簿』の㈠の中に、こういう所がある。
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……何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭〔あたま〕を長煙管〔ながぎせる〕で打たれたことを覚えてゐる。しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だつた。僕や僕の姉などに画〔ゑ〕を描〔か〕いてくれと迫られると、四〔よ〕つ折〔をり〕の半紙に画を描いてくれる。画は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水絵〔みづゑ〕の具〔ぐ〕を行楽〔かうらく〕の子女の衣服だの草木〔くさき〕の花だのになすつてくれる。唯それ等の画中〔ぐわちゆう〕の人物の顔はいづれも狐の顔をしてゐた。
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この母は、芥川の十一歳の年に、なくなったから、この話は、芥川の七八歳の事であろうか。いずれにしても、いきなり長煙管で頭を打つところ、もの静かな狂人が、子女の行楽(子女の行楽である)の画〔え〕を描〔か〕くところ、それを、墨だけでなく、小〔ちい〕さい娘の水絵具をつかって、それを行楽の子女の衣服と草木〔そうもく〕の花になするところ、行楽の子女がみな狐の顔をしているところ、――これだけの事を、芥川は、何と、二百字ぐらいの文章の中に、書いているのである。この一節は、詩歌の言葉でいえば、絶唱である。
[やぶちゃん注:「なくなったから」は底本「なくなつたから」で、誤植と判断して訂した。]
『点鬼簿』で、芥川は、はじめて、真実を、真実な言葉で、書いた。『点鬼簿』の文章こそ、本当に、無駄のない、抜き差しならぬ、文章である。『点鬼簿』を書く前から、芥川は、眠られぬ夜毎〔よごと〕に、実母や姉や実父の、いろいろな姿が目にうかび、実母や姉や実父の死に行く様〔さま〕を心の中に思いうかべていたのであろう。そうして、いたく胸が迫る思いをしたであろう。
されば、芥川は、しみじみした思いにもなりながら、必死の思いにもなりながら、心魂こめて、(誠に、心魂しめて、)『点鬼簿』を、石に字を刻むように、書きつづけたにちがいない。私などは、この作品を何度か読みながら、ある所では、芥川のすすり泣きしている声が聞こえるような気さえする事がある。
しかし、又、この作品には、側側として迫るような痛わしいところもあるが、大形〔おおぎょう〕に言うと、鬼気のようなものが迫る思いをするところもある。その一つの例は、鬼気という程ではないが、
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僕の父はその次〔つぎ〕の朝に余り苦〔くる〕しまずに死んで行つた。死ぬ前には頭も狂〔くる〕つたと見え「あんなに旗を立てた軍艦が来た。みんな万歳を唱へろ」などと言つた。
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これで見ると、芥川の実父も、亦、死ぬ前に、「頭が狂つた、」という事になる。
ところで、『点鬼簿』の最後に、(締め括りとして、)墓参りをする場面がある。それは、その年(つまり、大正十五年)の三月の半〔なか〕ば頃〔ごろ〕に、芥川が、久しぶりで、妻と一しょに、谷中の墓地に、墓参りに行く所である。その墓地の石塔の下には、芥川が、『点鬼簿』に書いた三人の骨が埋められてある。(但し、実父だけは骨の代りのものが埋められてある。)その時の事を、芥川は、つぎのように、書いている。
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僕は墓参りを好んではゐない。若し忘れてゐられるとすれば、僕の両親や姉のことも忘れてゐたいと思つてゐる。が、特にその日だけは肉体的に弱つてゐたせゐか、春先〔はるさき〕の午後の日の光〔ひかり〕の中に黒ずんだ石塔を眺めながら、一体彼等三人の中では誰が幸福だつたらうと考へたりした。
かげろふや塚より外〔そと〕に住むばかり
僕は実際この時ほど、かう云ふ丈艸〔ぢやうさう〕の心もちが押し迫つて来るのを感じたことはなかつた。
[やぶちゃん注:内藤丈草の名句は以下の通りの前書を持つ。
芭蕉翁塚にまうでて
陽炎や塚より外に住むばかり
「初蟬」所収の句で元禄九(一六九六)年の春、現在の滋賀県大津市にある義仲寺の先師芭蕉の墓を詣でた際のもので、後の「丈草発句集」では『芭蕉翁の墳にまふでて我〔わが〕病身をおもふ』と前書し、
陽炎や墓より外に住むばかり
と中七が異なる。句意は、
……先師の墓に詣でる……と……折柄、春の陽炎ゆらゆらと……師の墓もその景も……みなみな定めなき姿に搖れてをる……その影も搖れ搖れる陽炎も……ともに儚く消えゆくもの……いや……儚く消えゆくものは、外でもない……この我が身とて同じ如……先師と我と……「幽明相隔つ」なんどとは言うものの……いや、儚き幻に過ぎぬこの我が身とて……ただただ「墓」からたった一歩の外に……たまさか、住んでをるに過ぎぬのであり……いや、我が心は既にして……冥界へとあくがれて……直き、この身も滅び……確かに先師の元へと……我れは旅立つ……
といった絶唱である。私も好きな句の一つである。]
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実際、この時分の芥川は、「塚より外に住むばかり」というような、世を厭う心になっていたにちがいない、又、去来が「句の寂しき事丈草に及ばず」と云われたような、丈草の句を、芥川は、好んでいたかもしれない。
[やぶちゃん注:丈草と親しかった去来の評は、彼の「旅寝論」の「序」に『我蕉門に年ひさしきゆへに虛名高しといへ共、句におゐて其しづかなる事丈草に及ばず、其はなやかなる事其角に及ばず、輕き事野坡に及ばず、あだなること土芳に及ばず、たくみなる事正秀に及がたし』(底本は岩波文庫版)と冒頭に挙がる。宇野派は「しづかなること」(閑かなること)を恐らく「閑寂」の連想からか、誤って「寂しき事」としている。]
さて、『点鬼簿』について、それを知っている人には、ちょっと問題になった論争があった。それは、徳田秋声が、この作品は小説ではない、と云ったのに対して、廣津が、報知新聞で月評をした時、それを反駁した事である。今、その時の廣津の文章が手もとにないので、例の『芥川龍之介研究』[前にも説明したが、「新潮」でもよおした座談会]の中から、そこの所をうつそう。
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川端。晩年のものを読んでみると、何だか死にさうなやうな気がしますね。
廣津。徳田さんを前においていふのも変ですが、徳田さんが『点鬼簿』を小説ぢやないと云つて批評されたことがあつた。それで、僕は、大体小説ぢやないが、しかし、あれは死の隣りにゐるから、さういふ点から見なければならぬといふやうなことを云つて、徳田さんに対する反駁をあの頃新聞[註―報知新聞]に書いたんですが、あれを読んでゐると、死ぬと思つたな。
川端。結果論でせうが、後〔あと〕で見ると、さういふ気がしますね。
久米。後で読んで見ると、皆さうだね、晩年の作は皆さうだ。
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私は、「結果論」とか、「後で読んで見ると、」とか、いうような考え方には、同感ができない。それから、私は、『点鬼簿』を読んだ時、「死ぬな、」などとも、思わなかった。
しかし、『点鬼簿』の最後の、墓まいりの話が本当とすれば、芥川は、あの三人の墓まいりをしてから、一年半も立たないうちに、『点鬼簿』を書いてから、十月〔とつき〕あまり後〔のち〕に、この世を捨てたのであった。それを考えると、『点鬼簿』を読みながら、廣津が、「死ぬな、」と思ったのが当〔あた〕った、という事になる。
ところが、『点鬼簿』は、誠に果〔はか〕ない作品である、(「果〔はか〕なくなる」とは、世を去る事である、死ぬ事である、)しかし、実にしみじみした作品である。この作品には芥川の持ち前である気取りが殆んど全くない。やがて、間もなく、点鬼簿の中に加えられる筈の芥川が、この『点鬼簿』を小説風に書いたのが、この作品である。そうして、芥川は、この『点鬼簿』に書き入れている三人の肉親に、限りなき愛情と愛慕と哀情と哀惜を、寄せている。既にこの世を、「婆婆苦」と称して、はかなんでいた芥川は、この世に生まれて、あまり幸福でなく、果〔はか〕なくこの世を去って行った、一ばん近い、三人の、肉親の『過去帳』(『点鬼簿』)を、書きたくなったのであろう、しかも、それを書く芥川も、花やかには見えたけれど、あまり幸福な生涯を送らなかった人である、いや、もしかすると、『点鬼簿』に書かれている三人の人たちよりも、芥川の方が、もっともっと苦〔くる〕しく辛〔つら〕い一生を送ったにちがいない。
芥川は、発狂した実母の血をもっとも多く受け、それから、疳性で神経質な実父の性質を受けている。(芥川の目は実母、のふくに一ばんよく似ている。)
『点鬼簿』は、前に述べたように、芥川の全作品の中で、もっとも陰鬱で憂鬱な作品である。
[やぶちゃん注:私はそう思わない。特に私には「点鬼簿」の「二」の「初ちやん」の話が、「蜜柑」や「杜子春」のエンディングに次いで芥川龍之介の作品群の中から、暗い山の彼方に、そこだけ明るい日差しの射し込むのを見るように感ずる程であり、「点鬼簿」を『芥川の全作品の中で、もっとも陰鬱で憂鬱な作品』などとは、全く以て思わないということを明言しておく(後文で宇野もこの「二」の部分は「稍明るい」とは述べている)。]
そうして、『点鬼簿』の中でもっとも憂鬱なのは、最初の、実母の事を、書いた、一節である。実母、実姉、実父、――と、三人の事を書いてある中で、実母だけは殆んど死ぬ所と葬式だけが書いてある。それは次ぎのような所である。
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僕の母は二階の真下〔ました〕の八畳〔でふ〕の座敷に横たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人〔ふたり〕とも絶えず声を立てて泣いた。殊に誰か僕の後〔うし〕ろで「御臨終〔ごりんじゆう〕御臨終」と言つた時には一層切〔せつ〕なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小声でくすくす笑ひ出した。
僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌〔ゐはい〕を持ち、僕はその後〔うし〕ろに香炉を持ち、二人〔ふたり〕とも人力車に乗つて行つた。僕は時々居睡〔ときどきゐねむ〕りをし、はつと思つて目を醒〔さ〕ます拍子〔ひやうし〕に危〔あやふ〕く香炉を落〔おと〕しさうにする。けれども谷中へは中々来〔なかなかこ〕ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。[註―芝の新銭座から谷中の墓地までは一里ぐらいであろうか]
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芥川は、死ぬ一年ほど前に、こういう文章を書いたのである。これは身近〔みぢか〕の事を書いたから出来た、というような文章ではない。身近な事を書いたものでは、例の、『芥川龍之介研究』の中で、廣津、佐藤、川端、というような人たちまでが、芥川の全作品の中で一番すぐれている、と賞讃している、『歯車』があるが、『歯車』は、切羽〔せっぱ〕つまった、気違いに近い精神病者の気もちのまざまざと現れている作品であり、無類の特徴のある、作品であるけれど、散漫なところがあり、息切れしているようなところもある。
[やぶちゃん注:「気違いに近い精神病者の気もちのまざまざと現れている作品」という言いは本作に現れる最も差別的で、芥川龍之介に対して最大級に失礼な評言であり、しかも全く見当違いの誤認である、と私は思う。そうした批判的視点から本表現を読まれるよう、読者の方に敢えてお願いするものである。なお、この注が目障りと感じられる方は、私のこのテクストでお読みにならず、実際の書籍の「芥川龍之介」でお読みになられれば、よい。速やかにこの私のサイトから去られるのが肝要である。私の人生には、そうお感じになったあなたとは、議論する余裕を、一秒たりとも持っていないからである。]
芥川の青年時代の無二の親友であつた、恒藤 恭が、大正十五年の九月二十八日頃、(芥川が『点鬼簿』を書き上げてから二十日〔はつか〕ほど後、)鵠沼に、芥川をたずねた時の事を」『最後に会つたときのこと』という文章の初めに、つぎのように、書いている。
[やぶちゃん注:「大正十五年の九月二十八日頃」現在、新全集の宮坂覺氏の年譜では恒藤恭の来訪を九月二十九日頃にクレジットしている。恒藤は同月二十六日に遊学していたアメリカから横浜港に帰国していた。引用の直前で『それから二、三日の後に、当時鵠沼に滞在した芥川を訪ねたが、……』と述べている。]
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……当時鵠沼に滞在してゐた芥川をたづねたが、三年ぶりに会つた彼の容貌は、三年まへの、其れとは大へんな変りやうであつた。まるで十年もの年月〔としつき〕がそのあひだに経過したやうな気がした。[中略]元来が痩せてゐる芥川ではあつたが、そのときの彼の肉体の衰へは正視するのも痛はしいやうな程度のものであつた。だが、気力は一向におとろへてゐないもののやうに、意気軒昂といつた調子で、文壇のありさまなどを話してくれた。しかし、また、どうも健康がすぐれず、不眠にくるしんでゐるといふことも訴へた。
ぜんたいとしての彼の風貌が、なにかしら鬼気人に迫るといつたやうな趣きをただよはしてゐて、昼食を共にしてお互ひに話し合ひながら、余命のいくばくもない人と対談してゐるやうな予感めいたものを心の底に感じ、たとへやうもなくさびしい気もちにおそはれることを禁〔とど〕め得なかつた。
[やぶちゃん注:本部分に関して私が参照した鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一八四頁)のコラム「恒藤恭の〈最後の印象〉」には、宇野の引用の後、もう少し引用があり、『万事を抛擲して健康の回復をはかるやうに、くり返してすすめ、京都へかへる前にもう一度たづねるからと言ひ残して別れ、東京へかへつた』が、結局、恒藤は今一度帰京前に逢うことは叶わず、そして、これが恒藤が芥川龍之介に逢った最後となってしまう。鷺氏の要約によれば、恒藤は『のちに自殺の報に接し「必然の成り行き」と感じたという。』と、ある。]
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この恒藤の文章を読んで、私は、いたく心を打たれた、芥川の旧友であり親友であった恒藤は、芥川の作品(つまり、『点鬼簿』、その他)を読まないで、芥川が「余命いくばくもない」事を、予感したのである。
つまり、この文章にあるように、芥川は、「正視するのも痛はしいやうな」衰えた肉体を鞭うちながら、「余命のいくばくもない」身をもって、『点鬼簿』を書いたのである。芥川は、又、『点鬼簿』を書いてから一週間ほど後に、佐佐木に宛てた手紙のなかに、「その後例の如く時々風を引いたり腹を下したりしてゐる。点鬼簿に数枚つけ加へて改造に出したれど、その数枚に幾日もかかり、小生亦前途暗澹の感あり、」と述べている。ここに「数枚つけ加へ」とあるのは、『点鬼簿』の㈢と㈣つまり、実父の事と墓まいりの事を書いた分を云うのであろうか。
これは、文字どおり、まったく必死の仕事である。暗澹そのもののような『点鬼簿』の中では、実姉の事を書いた㈡だけが稍〔やや〕あかるい。その㈡の終りの方に、
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……「初ちやん」[註―芥川の生まれない前に夭逝した姉で、きょうだいの中で一番賢かった人、として、芥川のもっとも愛している姉]は今も存命するとすれば、四十〔しじふ〕を越してゐることであらう。四十を越した「初ちやん」の顔は或〔あるひ〕は芝の実家の二階に茫然と煙草をふかしてゐた僕の母の顔に似てゐるかも知れない。僕は時々幻〔まぼろし〕のやうに僕の母とも姉ともつかない四十恰好〔かつかう〕の女人〔によにん〕が一人〔ひとり〕、どこかから僕の一生を見守〔みまも〕つてゐるやうに感じてゐる。
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という所があるが、これは、(これだけでも、)ぞっとするほど、気味がわるい。
私の(私だけの)考えでは、このような気味のわるい文章は、『玄鶴山房』にも、『歯車』にも、ない。(『玄鶴山房』や『歯車』の中にある気味わるさに就いては、後に述べる。)
[やぶちゃん注:私は「点鬼簿」を芥川龍之介の作品群の中でも殊の外愛し、数えきれない程何度も読み返したが、全体を通して(「二」のここだけではなく、「点鬼簿」総て、である)、「ぞっとするほど、気味がわるい」なんどは、ただの一度も感じたことがない。むしろ、ある種の怖くない見たい暖かな霊が、私には見える(こう感じる私もまた、宇野と対極の異常性を持っていると自認はする)。またここで宇野自身の病跡学的問題を語りたいと思う。そもそも宇野は直感優先の人で、最初の生理的感覚を完全に捨て去ることが出来にくい性質の持ち主であるように思われる。今まで、しばしば、彼はいろいろな場面、いろいろな対象(小説や人物や記憶等々)の、「最初の印象を後に変えた(訂正した)」という謂いを語ってきているが、これは実は裏を返せば、宇野は、心的振幅の大きい感情的な最初の印象に関しては相当に深く心に彫りつけて忘れない(忘れられない)タイプ、粘着気質であることを示していると言える(これはどうも宇野の生得的性格であると思われるが、梅毒に因る進行麻痺(麻痺性痴呆)の罹患と予後によって、更にそうした性格が突出してきたという印象を私は持っている)。そうした宇野にとって、特にその中でも強い不快感や恐怖感を必ず伴う「気味がわるい」という感じ方(はっきり言わせて頂くと「稍奇異な」印象さえ私は感じている。則ち、強迫観念としてのフォビアである)に関しては、初読で感じてしまったものに対して、殆ど、というか実は全く、後の修正が効かないのである。図らずもここで宇野が「(私だけの)」とわざわざ述べているのは、宇野自身がそうした自分のフォビアの印象の固着に薄々感づいていることを示していると言えるのではないだろうか。宇野の執念深い、粘着的な芥川作品への断定は、そうした評者である宇野の心理的側面への分析的視点からも同時に捉えていかないととんでもないことになる、と私はつくづく思うのである。]