宇野浩二 芥川龍之介 十二 ~(1)
十二
私は、前に、芥川の健康がしだいに悪〔わる〕くなり出したのは、大正十三年のはじめ頃から、と書いたが、芥川の健康はもっと前から悪くなっていたのである。
芥川の神経衰弱は、死ぬ前の年〔とし〕(つまり、大正十五年)あたりに、おこつたように、表には、思われているが、本当は、すで大正十一年の中頃から、その兆〔きざし〕はあったのである。
芥川は、非常な神経質であった、おそろしく神経質であった、普通の人の想像のつかぬ程の神経質であった。芥川とくらぶれば、私などは鈍感の方である。
真野友二郎という人は、芥川の親友か、芥川とどういう関係のある人か、知らないが、全集の中にこの人にあてた手紙が十三通もはいっている。それで、ちょいと調べてみると、調べてみて、私は、呆〔あき〕れかえった、真野は、徒〔ただ〕の芥川の愛読者であり、大正十一年の四月頃に、芥川に、愛読者が誰もよく書くような手紙を出したのが縁で、どういう訳か、手紙を出す毎〔ごと〕に、芥川から特別の手紙をもらっている、というような人であったからである、それに、芥川が、その真野の最初の手紙に対して、「先達は御手紙難有う早速御返事を書く気だつたのですが、」とか、「支那紀行もなまけてゐますがその内にそろそろ書き続けますさうしたら又御読み下さい、」とか、「わたしは日頃文学青年以外に読者を有する事を自慢にしてゐました偶〔たまたま〕あなたの御手紙はこの自慢を増長させる力を具〔そな〕へてゐたわけですかたがた難有いと思ひました、」とか、いうような、歯の浮くような、事を書いているからである。大正十一年といえば、芥川が、三十一歳の年〔とし〕であり、まだまだ人気の頂点に立っていた頃である。それであるのに、芥川は、すでに、こういう弱い気もちになっていたのであろうか。たしかに、この時分から、芥川は、しだいに、持ち前の弱気の上に、ますます、気が弱くなって行ったようである。
[やぶちゃん注:「真野友二郎」は現在でも(新全集人名解説でも『未詳。』とあるのみ)如何なる人物か、未詳である。しかし、芥川の『わたしは日頃文学青年以外に読者を有する事を自慢にしてゐました偶〔たまたま〕あなたの御手紙はこの自慢を増長させる力を具〔そな〕へてゐたわけですかたがた難有いと思ひました』という言葉は、ある推測を逞しゅうさせる。則ち、彼は芥川が辟易するような『文学青年』気取りの人間ではない、ということは青年ではない可能性が高く、骨董の話などを芥川はしているから好事家ではあるらしいが文系の学者という風でもない。しかし一介の平凡な愛読者の一人というのもやや信じ難い。何故なら、ここでも見るように、芥川は病気の様態や執筆の実体など、かなりプライベートな内容を彼に発信しているからである(一介の在野人で、文壇と無縁なればこそそうした告白の相手として芥川が選んだとは言えるかもしれないが)。郵便物が届く以上、その姓名は偽名とも思えないが、もしかすると非文系的な特別な地位や役職にある実は著名な人物であったが、訳あって市井の一人物として本人も芥川も本人の名でない(しかし同居若しくは知人である人物)の「真野友二郎」という名を用いて書簡のやりとりをしていたのかも知れない。そうでなければ、芥川の死後、全く消息が絶えて不詳というのは如何にも不自然な気がするのである。向後、彼については調べてみるつもりである。]
ところで、大正十一年といえば、私は、ときどき、芥川に逢っていたのであるが、芥川が私に愚痴のようなものをこぼす時は、いつでも、家庭の事であった。その中で、いつであったか、芥川が、突然、声をひそめて、「……君、……君にもわからないだろうが、僕の家庭はいりくんでいて、……」といった事を、今でも、覚えている。今、これを書いて、ふと、思い出したのは、この『家庭苦』のようなものを、一ばん真剣な顔をして、芥川が、私に、訴えるように、なったのは、死ぬ半年ほど前であった。――
さて、私が、真野という人の事を、殊更に、ここに、述べたのは、大正十一年の十二月に、芥川が、真野にあてて、二日、十七日、十八日、と、三度も、手紙を書いていて、その手紙によって、芥川があの頃すでに軽くない病気にかかっていた事を、知ったからである。それから、芥川が、そんな病気にかかりながら、私には、病気である事を、一度も話した事がないのを、思い出したからである。
私は、その芥川が真野にあてた手紙によって、つぎに書くような事を、知ったのである。
大正十一年の十二月のはじめ、芥川は、心臓をいため、そのうえ胃腸をそこなったために、ずっと病床についていたので、雑誌の新年号に約束した小説を三つ四つ断った。(大正時代から昭和のはじめにかけて、諸雑誌の新年号の小説は、⦅むろん、娯楽雑誌や婦人雑誌は別であるが、⦆前の年〔とし〕の十二月の十日ぐらいまでに書けば、間〔ま〕にあったのである。)
さて、芥川の病気はそればかりではない。おなじ頃、風をひいたので、医者の薬をのんだところ、その薬の中に、ミグレニンがはいっていたので、芥川は、ピリン疹にかかったために、筆がとれなくなった。
このピリン疹というのは、いかなる薬でも、その中にアンチピリンが少〔すこ〕しでもはいっていれば、その薬をのむと、のんだ途端に、蕁麻疹のひどいのにかかったのと殆んど同じ病気になる人がある。そういう人を、アンチピリンの特異体質と云う。こういう事をくわしく書いたのは、私も、アンチピリンの特異体質であるからである。(直木三十五の夫人であった人も、やはり、そうであった。)
つまり、ピリン疹にかかると、忽ち、皮膚の中〔うち〕の一ばん柔〔やわら〕かい部分(例えば、唇、手の指の間、その他)が、焼けつくように熱〔あつ〕くなり、痒〔かゆ〕くなり、そこが漿液のために脹〔は〕れあがり、その脹れたところが紅色あるいは蒼白となるのである。
[やぶちゃん注:「ピリン疹」はピリン系薬剤の服用によって引き起こされるアレルギー性薬疹である湿疹を指す。解熱鎮痛効果の強いピリン系解熱鎮痛剤アンチピリン・イソプロピルアンチピリン・スルピリンなどで、古くは重いアレルギー反応を起こした。現在では非ピリン系の解熱鎮痛剤が普及し、ピリン疹は少なくなっている。
「漿液」は「しょうえき」と読み、粘性物質を含まない、比較的さらさらした透明な分泌液の総称。]
芥川は、これにかって、両手に繃帯をかけたと書いているが、これにかかると、脹れたところに脂薬〔あぶらぐすり〕つけるので、殆んど身うごきさえ出来ない状態になり、なおるまで仕事らしいものは殆んど出来ない。むろん、原稿など書けない。(余話であるが、昭和二十二年の二月のはじめに、「文藝春秋」に出す小説を書いていた時、『ソレガシ』という咳の薬⦅売薬⦆をのんだ途端に、私は、ピリン疹にかかった。それで、私も困ったが、「文藝春秋」の編輯記者も大へん困った。その時、困り切ったあげく、「では、口述してください、それを筆記しましょう、」と云ったのは、そのころ文藝春秋新社にはいったばかりの、田川博一であった。私は、その時から、ときどき、口述を筆記してもらう癖がついた。それで、これを仮りに好〔よ〕い事とすれば、私にとって、これは、田川博一の賜物である。閑話休題。)
[やぶちゃん注:老婆心ながら、若い読者には思わぬ注が必要な時があるので断っておくが、「ソレガシ」は「某」で、商品名を伏せたのであって「ソレガシ」という名の薬の商品名ではない。念のため。
「田川博一」は後に文芸春秋社編集長(在任:昭和三十二(一九五七)年~昭和三十九(一九六一)年)となって作家梶山季之らを発掘、その後は文藝春秋社副社長に就任した。]
さて、元〔もと〕に戻って、芥川は、真野にあてた手紙のなかに、「新年号の小説の約束も三つ四つありましたが皆断りました」と書いているように、その翌年(つまり、大正十二年)は、新年号に書いていないばかりでなく二月にも何〔なに〕も発表せず、三月に、やっと、『猿蟹合戦』[婦人公論]、『二人小町』[「サンデー毎日」]、『雛』[「中央公論」]などを、書いて、お茶をにごしている。
私は、その頃、芥川の顔を見ると、さすが何〔なん〕にも云えなかったが、芥川がそんな病気にかかっているとは知らなかったので、芥川ももう駄目になったかな、と心配しながら、少〔すこ〕おし芥川を軽蔑する気にさえなった。
ところで、ふたたび真野への手紙を見ると、十二月十五日の手紙には寝たり起きたりぶらぶらしている、などと書きながら、その間作った俳句を七つぐらい書きこんでいる。その中に「凧や薬のみたる腹工合」というのもある。但し、私には、このような風雅は、殆んどわからない。
さて、この十五日の手紙のあとに、十七日に書き加えて、二伸というのがある。これは、かなり驚かされたので、つぎにうつして見よう。
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数日前の小生の家族の健康如左
主人神経衰弱、胃痙攣、腸カタル、ピリン疹、心悸昂進
妻 産後、脚気の気味あり
長男 虫歯(歯齦に膿たまる)
次男 消化不良
赤ン坊ナリ
父 胆石、胃痙攣
母 足頸の粘液とかが腫れ入り、切開す
これでは小説どころではないでせう。
[やぶちゃん注:「歯齦に膿たまる」の「歯齦」は「しぎん」と読み、歯齦炎は歯肉炎と同じ。慢性歯齦炎を放置した結果、嚢腫(チステ)が形成されたやや重いものと思われる。
「粘液」は恐らく粘液膿炎(滑液庖炎)と思われる。滑液包とは関節にある少量の液体(滑液)を含んだ平らな袋で、皮膚・筋肉・腱・靭帯などと骨が擦れる部分にあって摩擦を減らす機能を持つが、その滑液包の腫脹や痛みを伴う炎症を言う。切開しているところを見ると、細菌感染が疑われる。]
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うつし終って、芥川が、何のために、こういう手紙を書いたのか、わかるような気もするが、はっきりわからない。
ところで、芥川は、これらの真野にあてた手紙の中に、「年末或は年始に何処かへ湯治に行く筈ですが」と書いているが、湯河原へ『湯治』に出かけたのは、その翌年の(つまり、大正十二年の)三月頃である。
湯河原といえば、芥川は、大正十年の十月に、やはり、湯治のために、湯河原に行って、二週間ぐらい滞在した。その十月九日に、芥川は、湯河原から、佐佐木茂索にあてた絵葉書のなかに、「南部と一しょに湯河原に来てゐる南部と如何に消光してゐるかひとへに御察しを乞ふ僕神経衰弱癒〔なほ〕らず無暗に何か書きたくて困る……」と書いているが、その翌年(つまり、大正十一年)の一月には、『藪の中』、『将軍』、『俊寛』、『神神の微笑』、その他を発表しているから、「無暗に何か書きたくて」困ったのが、本当に、無暗に、書いた事になったらしい。(ところで、これは後に述べるつもりであるが、その時分、芥川が書いた、『トロッコ』と『一塊の土』は、芥川の作として変っている上に、すぐれた小説である、と多くの批評家から褒められたが、私は、この二つの小説が、それぞれ、雑誌で、発表された時、感心はしながら、なにか疑問のようなものを感じた。この二つの小説は、――『トロッコ』は大正十一年の三月の「新潮」に発表され、『一塊の土』は大正十三年の一月の「新潮」に出たが、――両方とも、これらの小説の題材は、芥川が、湯河原から上京して東京の或る出版社につとめていた青年から得たものである。それはそれとして、私は、これらの小説については、後に、あらためて、述べたい、と思っている、芥川は、この二つの小説はかりでなく、『ナニ』かから題材を取って、すぐれた小説を書く特殊の才能を持っていたのだ。そうして、その特殊の才能をはたらかせられなくなった時、芥川は、……)

