野人四日目 野人の休日 ボストン美術館 日本美術の至宝
この展覧会の題名――気に入らん――だったら、「正義」のアメリカさんよ、「日本美術の至宝」なら皆、日本へ還さんかい! あほんだら!――閑話休題。
ビビったのは、最初の狩野芳崖の「江流百里図」――岩塊が生き物のように画面から動き出す――川は無限遠へ、そして手前の岩は見る者の肉体へと繋がる有機的な連続性の魔法を孕む。
「吉備大臣入唐絵巻」と「平治物語絵巻」の牛歩はそれだけでうんざりだ――妻は前者の本文筆跡が目当てなればその縄手に入るも、僕は一列後ろで少し遠目に見る――それでも監視員が「後から見る事も出来ます」と言いつつ、「間を空けずにお進み下さい。間が空くと割り込みトラブルの原因ともなります」という不快なコールをする――如何にもなクソ日本人の糞ゾロゾロ行列――しかし、前者の面白味は充分に分かったし、平治の乱の「三条殿夜討巻」の、縁の下を覗き込む武士の背に、武家の台頭の『肉』のリアルが見えた。僕はそれで十分。
今日の最大の収穫は――伊東若冲と曽我蕭白だ――
やっぱり――彼らは只者じゃあない――
若冲の鸚鵡の3Dぶっとびの立体感を――
蕭白の鷲の羽そして風仙の靡く髭の――「立ち」を見よ!
――それらはただの「見た目の観察」ではないのだ――その一本一本の毛が鸚鵡や鷲や人の「毛」そのものがそれぞれの肉体とどう結びついているかという生物学的な組織学的存在(但し、それは冷徹で禁欲的なダ・ヴィンチの突き詰めた西洋の解剖学的手法とは微妙に異なるのである)な稀有の「統合された視点からの360度の純正な観察」なのだ!――
いや! そこには既にして『感情』さえ詠み込まれていると言ってよい――
これは若冲の「十六羅漢図」、蕭白の「商山四皓図屏風」の一気呵成の奔放に見える筆でさえ同じである――それは『原器』への回帰――細部のリアリズムの認識が原子の単位にまで解析され透徹されて――そこに共通した『原核』たる『生物』を見出す、ということである――
まさに最後の「雲龍図」は、その激しい真理を我我に突きつける――若冲や蕭白の「眼」が真正のシュールレアリストのそれであったことを如実に物語っているということである!
細部の――文字通り、鸚鵡も鷹も、そして架空の龍も――いわばその一本一本の風と気に吹かれる体毛も鼻毛も、いや、その空白の風も気も――文字通り、「毫毛も」疎かにせ「ず」に描き出した瞬間――外界は自動描法的(オートマティスム)に至高に美しいデフォルメをするのである!――「雲龍図」の波頭、その龍の体部の生々しい二重螺旋のようなうねり――「ミロのヴィーナス」の如く、襖の失われたその中央の龍の体部が、右手の襖の足爪に繋がるそれが、我々には「確かに感じられる」ではないか!――はどうだ! これは細部のリアリズムを得ての、その『原器の認識』あっての真の自在にして奔放な「デフォルメ」である――
僕は彼らの絵を見て――
孤独で凡人の顧みることのない真理を見つめる博物学者のみが真の芸術家たり得る
真の芸術家は、須らく孤高の博物学者にほかならぬ
――という思いを、今日は新たにしたのであった。
若冲と蕭白――“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!
追伸:僕にとって痛快だったのは、二枚の絵で陶淵明に逢
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