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2012/04/23

宇野浩二 芥川龍之介 二十~(2)

 大正十五年は芥川が自ら命を絶った前の年〔とし〕である。

 大正十五年は、芥川は、一月の初めから、胃腸をわるくし、痔疾もひどくなり、神経衰弱もはげしくなる一方であった。それで、前にちょっと書いたように、芥川は、一月の中頃から二月の中頃を、湯河原に、湯治に、出かけた。それから、四月から十二月の末項まで、鵠沼で、暮らした。

 この鵠沼にいた頃が芥川のみじかい生涯の中〔なか〕でもっとも陰惨な時代であった。

 大正十五年は、芥川は、殆んど小説らしい小説を、書いていない、不断に堪えがたい病苦に嘖〔さいな〕まれていたからである。それは、平凡な云い方〔かた〕であるが、死んだ方がよほど楽〔らく〕ではないか、と思われる程の、痛ましい病苦である。それは、その時分の芥川の手紙を見れば、およそ想像がつくから、その時分の芥川の書翰を拾い読みしてみよう。

……近頃目のさめかかる時いろいろの友だち皆顔ばかり大きく体〔からだ〕は豆ほどにて鎧を着たるもの大抵は笑ひながら四方八方より両眼の間へ駈け来〔きた〕るに少々悸え居り候。[大正十五年六月十一日斎藤茂吉宛て]

 

……僕はここへ来る匇匇下痢し、二三日立つて又立てつづけに下痢し、[中略]唯今弟[註―これは、芥川夫人の弟、塚本八洲であるから義弟である]についてゐる看護婦について貰らひ、やつとパンや半熟の卵にありついた次第、[中略]一人で茫漠の海景を見ながら横につてゐるのは実に寂しい。[大正十五年六月二十日小穴隆一宛て]

 

……痔の手術をするにはもつと営養がよくならねば駄目のよし。[中略]兎に角唯今はひよろひよろしてゐます。[中略]何しろ僕は七月になると云ふのに足袋をはき足のうらにカラシを貼〔は〕り、脚湯まで使つてゐるのだから。[大正十五年六月三十日小島政二郎宛て]

 

……唯今也寸志鵠沼にて寝冷〔ねびえ〕発熱中〔ちゆう〕、田端にては多加志腹をこはし臥床中丈夫なのは比呂志ばかり僕もこの間催眠薬をのみすぎ夜中に五十分も独〔ひと〕り語〔ごと〕を云ひつづけたよし。[大正十五年九月二日室生犀星宛て]

 

……僕の頭はどうも変だ。朝起きて十分か十五分は当り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が気がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂鬱になつてしまふ。新年号をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやり切れない気がする。ちよつと上京した次手〔ついで〕に精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。[大正十五年十月二十九日佐佐木茂索宛て]

 

……今はどんな苦痛でも神経的苦痛ほど苦〔くる〕しいものは一〔ひと〕つもあるまいと云ふ気もちだ。数日前に伯母が来てヒステリイを起〔おこ〕した時に君に教へられたのはここだと思つて負けずにヒステリイを起したが、やはり結局は鬱屈してしまつた。我等人間は一つの事位では参るものではない。しかし過去無数の事が一時に心の上へのしかかる時は(それが神経衰弱だと云へばそれまでだが)実にやり切れない気のするものだよ。[大正十五年十一月二十八日佐佐木茂索宛て]

 

……オピアムありがたく頂戴仕り候。胃腸は略々〔ほぼ〕と旧に復し候へども神経は中々〔なかなか〕さうは参らず先夜も往来にて死にし母に出合ひ、(実は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候。「無用のもの入るべからず」などと申す標札を見ると未〔いま〕だに行手〔ゆくて〕を塞がれしやうな気のすること少〔すくな〕からず、世にかかる苦しみ有之〔これある〕べきやなど思ひをり候。[大正十五年十一月二十八日斎藤茂吉宛て]

 

[やぶちゃん注:底本では、それぞれの末にある書簡クレジットの注記が、書簡文から改行されて、下インデントになっている(こうした組み方は今までにない)。ここでは標記のように示し、各書簡の間に行空けを施して読み易くした。

「精神鑑定」この用法は誤りである。「精神科で診察」若しくは「斎藤先生に診察」と記すべきである。こうした誤用は現在でもしばしば見られるのでここで注記しておくが、精神科で診断を受けることを「精神鑑定」とは絶対に言わない。「精神鑑定」とは「司法精神鑑定」のことであり、刑法及び刑事訴訟法の規定による「刑事精神鑑定」と、民法及び民事訴訟法の規定による「民事精神鑑定」、更に精神保健福祉法の規定による「精神保健鑑定」の三種のみを「精神鑑定」と呼称する。因みに精神保健鑑定とは措置入院(自傷乃至他害の恐れのある精神障碍を有すると判断される者を強制入院させること)の可否を判定するために実施される精神鑑定を言う。ゆめゆめ芥川のように日常会話には用いられぬように。

「オピアム」“opium”。オピウムで前段で出て来た「鴉片丸」、アヘン製剤のこと。因みに、「アヘン」とはこの“opium”の中文音訳“a piàn”(アーピエン)の漢訳「阿片」を日本語読みしたもの。]

 ざっと、こういう状態であったから、芥川は、この年〔とし〕、(つまり、大正十五年、)『これ』というような小説を書いていない、しかも、それは、たいてい、小説、というより、小品であるりそうして、それらの小品は、幻覚的なものでも、現実的なものでも、殆んど皆、気味のわるいものであり、病人や『死』をとりあつかつた物が多い。必要があるので、大正十五年に芥川が書いた小説(あるいは小品)を、私の目にふれ私が読んだものを、つぎにならべてみる。

  『カルメン』  (四月  十日作)

  『三つのなぜ』 (七月 十五日作)

  『春の夜』   (八月 十二日作)

  『点鬼簿』   (九月  九日作)

  『悠々荘』   (十月二十六日作)

  『彼』     (十一月 三日作)

  『玄鶴山房』  (十二月十五日以後作)

 数は七篇であるが、四百字づめの原稿紙でかぞえると、『カルメン』は六七枚であり、『三つのなぜ』は十枚ぐらいであり、『春の夜』は七八杖であり、『点鬼簿』は十三四枚であり、『悠々荘』は五六枚であり、『彼』は十七八枚であり、『玄鶴山房』の㈠は一枚半ほどであるから、全体で六十二三枚である。

 さて、右の七篇の小説の中では、一般に、(いや、大〔たい〕ていの評論家も、)『点鬼簿』と『玄鶴山房』を重要な物として取り上げるが、(それは尤もであるけれど、)私は、芥川が鵠沼で書いた作品の中で、『春の夜』と『悠々荘』とを見のがしてはならぬ、と思っている。

 ここで、又、ちょいと寄り路〔みち〕をするが、私は、芥川から、何度か、手紙や葉書をもらった覚えがあるが、その中の一つも保存していない。ところが、初版の芥川龍之介全集の第七巻(書翰篇)のなかに、芥川が私にくれたのが四つ出ているが、その中の「昭和二年一月三十日」というのに、つぎのようなのがある。

 ……まつたく寒くてやり切れない。お褒めに預〔あづか〕つて難有〔ありがた〕い。あの話は「春の夜」と一しょに或看護婦に聞いた話だ。まだ姉の家の後始末片づかず。いろいろ多忙の為に弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さん[註―前に書いた「中央公論」の編輯長]がやめたのは気の毒だね。.余は拝眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。

(この手紙に書かれている事は後〔のち〕に述べる事に必要があるので、全部うつしたのである。)

 さて、この手紙の中の「あの話」とは『玄鶴山房』らしいか、これを褒めたとすると、半分ぐらい世辞である。その事は例によって後に書くことにして、私は、こんど、この手紙をよんで、芥川が、『春の夜』も、『玄鶴山房』も、「或る看護婦」から聞いた話を本〔もと〕にして書いた、という事を知って、私は、やはり、得るところがあった。

(この看護婦は、さきに引いた、大正十五年六月二十日に、芥川が、鵠沼から、小穴に出した手紙の中に、「今弟についてゐる看護婦について貰らひ、……」と書いている、あの看護婦であろう。)

 Nさんという看護婦が派出させられた家は、女隠居が一人と、その子の、雪さんという姉と清太郎という弟と、三人きりの家であったが、姉も弟も肺結核でへ弟の方が病気が重い。そうして、その弟は、木賊〔とくさ〕ばかりが繁茂している庭に面した、四畳〔じょう〕半の離れに、寝ていた。さて、ある晩、Nさんは、、氷を買いに行った帰りに、人どおりの少〔すく〕ない坂道で、後〔うしろ〕から、清太郎そっくりの青年に、抱〔だ〕きつかれた。しかし、一昨日〔おととい〕も喀血した清太郎がこんな所に出てくる筈はない、……家〔うち〕に帰ったら、清太郎は死んでいるのではないか、とまで、Nさんは、思った。ところが、帰って、離れに行つて見ると、清太郎は静かにひとり眠っていた。

 これは『春の夜』の大へん粗雑な荒筋であるが、この小説に書かれてある話は、あまりに暗く、不気味であり、書き方が冷たい。作者は、どの人物にも、同情を持っていないばかりでなく、悪意を抱いているようにさえ思われる。これは言い過ぎとしても、作者の気もちが暗い方へ暗い方へと向いているのが、この小説を、大正十五年の九月号の「文藝春秋」で、読んだ時、私は、気になって、『これはいかん、』と思ったものである。

……Nさんはこの家〔うち〕へ行つた時、何〔なに〕か妙に気の滅入〔めい〕るのを感じた。それは一〔ひと〕つには姉も弟も肺結核に罹〔かか〕つてゐた為〔ため〕であらう。けれども又一〔ひと〕つには四畳〔でふ〕半の離れの抱へこんだ、飛び石一つ打つてない庭に木賊〔とくさ〕ばかり茂つてゐた為〔ため〕である。

 この『春の夜』の初めの方の一節を読んだ時、私は、遣〔や〕る方〔かた〕ない気がした。ところが、おなじ小説の終りの方の、

 僕はこの話の終つた時、Nさんの顔を眺めたまま多少悪意のある言葉を出した。

「清太郎?――ですね。あなたはその人が好〔す〕きだつたんでせう?」

「ええ、好きでございました。」

というところを読んで、私は、索然とした、逸〔はぐ〕らかされたような気がした。しかし」又、私の考えでは」芥川は、芥川流の小説の締〔し〕め括〔くく〕りをつけるために、こういう一節を、最後に、つける癖(というより、好みのようなもの)があった。つまり、こういう『オチ』をつけるのが好きなようなところがあり、こういう『オチ』をつけねは気がすまないようなところもあった。

『オチ』といえば、この小説と、巧拙は別として、構想がいくらか似ている、殆んど同じおもむきの『玄鶴山房』にも、話はまったく違うけれど、やはり、妙な、気になる、『オチ』は附いている。つぎのような一節である。

……彼は急に険〔けは〕しい顔をし、いつかさしはじめた日の光の中にもう一度リイプクネヒトを読みはじめた。

 この最後の大学生がリイプクネヒト(K. Liebknecht)の『追憶録』を読むところが、その頃「新潮」の呼び物になっていた『創作合評会』で、(青野季吉のほかにどういう人たちが出ていたか、私には不明、)問題になって、なにもリイプクネヒトでなくても、原敬でも、東郷大将でも、あるいは、「苦楽」[註―大正十二年頃、大阪のプラトン社から出した娯楽雑誌で、主幹は山内 薫であるが、編輯は直木三十五が川口松太郎を助手にしてやった]でも、よいのだ、などという意見が出た。

 この合評の記事を読んで、芥川は、青野季吉に宛てて、次ぎのような手紙を、書いている。

(これは芥川が青野に唯一度だした手紙である。)

……「新潮」の合評会の記事を読み、ちよつとこの手紙を書く気になりました。それは篇中のリイプクネヒトのことです。或人はあのリイプクネヒトは「苦楽」でも善いと言ひました。しかし「苦楽」ではわたしにはいけません。わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外や世界へ触れさせたい気もちを持つてゐました。[中略]なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました。チエホフは御承知の通り。「桜の園」の中に新時代の大学生を点出し、それを二階から転げ落ちることにしてゐます。わたしはチエホフほど新時代にあきらめ切つた笑声を与へることは出来ません。しかし又新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。リイプクネヒトは御承知の通り、あの「追憶録」の中にあるマルクスやエンゲルスと会つた時の記事の中に多少の嘆声を洩らしてゐます。わたしはわたしの大学生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです。わたしの企図は失敗だつたかもしれません。少くとも合評会の諸君には尊台を除〔のぞ〕き、何の暗示も与へなかつたやうです。それは勿論やむを得ません。しかし唯尊台にはこれだけのことを申上げたい気を生じましたから、この手紙を認〔したた〕めることにしました。

 この手紙には芥川の八分〔ぶ〕ぐらいの本音〔ほんね〕が出ている。

 さて、この芥川の手紙を読んで、青野は、手紙の返事は出さないで、『芥川龍之介と新時代』という評論を書いている。つぎに、それを抜き書きする。

……『玄鶴山房』の中にとぢ込められた悲劇の終りに、広い世間、それも動的な社会の風をちよつと迎ひ入れて、そこで悲劇の小説的浮彫〔うきぼり〕を完成させる上にも、また――これが大切な点であるが、――芥川氏に潜んだ要求を適当な形で満足させる上にも、――やはりリイプクネヒトでなくてはいけないのだ。『玄鶴山房』を読んだ時、最初にまづ私に感ぜられたのはこの点であつた。[中略]芥川氏は新時代の存在乃至到来を、何等〔なんら〕かの形で『玄鶴山房』で、暗示しないではをれなかつた。それはまた芥川氏が彼の生活の世界の傍〔そば〕に新時代の世界の存在乃至到来を認めないではをれなかつたことを意味する。[中略]『玄鶴山房』に現れてゐるところでは、新時代の存在乃至到来を静かな眼で眺めでゐると云ふだけである。[中略]彼は、新時代を認めないではをれない。そして、その新時代を静かな眼で眺めてゐるだけの素直さと聡明さと準備を持つてゐる。しかし、彼は彼の言葉をかりて言へば、『新時代と抱き合ふほどの情熱』を持つてゐないし、そんな情熱が彼のやうな生活の歴史を持つた者に持ち得るものではない。[下略]

 この青野の論は、これだけでも略〔ほぼ〕わかるように、私が先きに引いた、『玄鶴山房』の最後の、大学生がリイプクネヒトの『追憶録』を読むところについて、自分の意見を述べたものである。が、これは、嘗て全プロレタリア文壇をひきいた論客であった青野が、自分の考えから付度〔そんたく〕した論文であるから、青野流の見方にかたむいている、それに、芥川に好意を持っているところもあるので、痛い所を突いていながら『贔屓〔ひいき〕の引き倒し』とまでけゆかないが、すこし見当のはずれているところもあるように思われる。それは、その頃の芥川が、「新時代を静かな眼で眺めてゐるだけの素直さと聡明さと準備を持つて」いたか、どうか、私には、それが、疑われるからである。

 それから、芥川の手紙の中の、「その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました、」とか、「わたしはわたしの大学生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです、」とか、云うのは、これ亦〔また〕、本当にそう思ったのであろうか、与れとも、雇いつき』であろうか、と、私は、頸〔くび〕をひねるのである。ここで、ハッキリ云うと、『玄鶴山房』を略〔ほぼ〕かき終ったところで、芥川は、火葬場から帰りの馬車に乗っている大学生に、自分がちょっと愛読した、リイプクネヒトの『追憶録』を、読ましてみる気になったのである。ちょうど、幸い、リイプクネヒトは、哲学や言語学をまなんでいる、社会主義者であり、イギリスに逃れた時、マルクスにも、逢っている、そうだ、リイプクネヒトを使ってやろう、と思ったのであろう。(これはまったくシャレた趣向だ、いかにも芥川らしい気のきいた趣向だ。)

 例の「新潮」が催した『芥川龍之介研究』(座談会)で、上司小剣が、湯河原で、芥川と逢った時のことを回想して、「社会主義の話、無政府主義の話などが出て、ちよつと柄〔がら〕にないやうな気がした、」と述べた後で、「無政府主義なども可なり深いところまで考へてをられたやうで、おどろいた。ところが、後に、年表を見ると、大学の卒業論文が『ウィリアム・モリス研究』とあるので、成程〔なるほど〕と思つた。それなら、例の『ニュウズ・フロム・ノオウェア』(“News from Nowhere”)まで読んで、アナアキズムの理想社会を一〔ひ〕と通〔とほ〕り見られた筈だと思ふ、」と、述べている。

[やぶちゃん注:「『ニュウズ・フロム・ノオウェア』(“News from Nowhere”)」は、モリスが一八九〇年に刊行した社会主義化した未来のロンドンを舞台とする一種のファンタジー小説。「ユートピアだより」と邦訳される。]

 私は、一この記事を読んだ時、妙な興味を感じた。湯河原に滞在していた芥川が、おな土地の宿屋に小剣がとまっている事を聞くと、芥川流の好奇心をおこして、(ほんの少しからかってみたい気もおこって、)未知の小剣を訪問したにちがいない、と思われるからである。学生時代に、モリスなどを読んだ芥川は、英訳のあった、リイプクネヒト、カウツキイ、あるいは、マルクス[これは、明治の末に、堺 枯川がマルクスとその思想を平明に解いたものがあって、私なども読んだことがある]、その他の本を、興味と好奇心とで、読んだにちがいない。これは、おそらく、芥川ばかりでなく、私たちの二十歳の初め頃はいわゆる社会主義思想の澎湃として起こっていた時分であったから、誰も彼も、若気の至りで、それらの本を、生嚙〔なまかじ〕りでも、読んだものである。

[やぶちゃん注:「堺 枯川」は社会主義者思想家堺利彦の号。]

(わたくし事であるが、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』は、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、十八世紀のイギリスの詩人、ウィリアム・モリスが、社会主義の理想郷を書いた、散文の夢物語である。そうして、これは、著者の友人の話となっているが、一人称で語られているので、平明に書かれていて、なかなか面白い。それで、私は、そのころ親友であった、布施延雄〔ふせのぶお〕に、この本を翻訳することをすすめた。すると、布施は、何箇月〔なんかげつ〕分か下宿代がたまっているから、「それをしたら、それが払える、」と云って、さっそく、⦅といって、まる三箇月くらいかかって、⦆その『ニュウズ・フロム・ノオウェア』の翻訳を仕上げた。

[やぶちゃん注:この布施延雄の訳本は「無何有郷だより」という題で、大正十四(一九二五)年十一月十八日至上社より刊行されている。]

 さて、その翻訳を終〔お〕えて、いそいそと私をたずねて来た布施は、いきなり、「こんどの翻訳で一ばん困ったのは、題名だよ、」と云って、つぎのような話をした。

 Nowhere 〔ノオウェア〕は Utopia 〔ユウトピア〕という意味であり、『ユウトピア』は、トマス・モアの小説『ユウトピア』[千五百十六年出版]から出た言葉であり、モアは、この小説で、ユウトピア島を仮想して、自分の理想とする共産主義の制度がこの島で行われていることを書いているのであるから、「僕は、『ノオウェア』を『理想郷』としよう、と思ったのだが、これでは、ありふれているので、叔父の関〔せき〕[関 如来という明治から大正へかけての古い美術評論家であるが、ずっと前から前進座の後援などもしている、音楽家の、関 鑑子の父である]のところへ行って、Nowhere をそのまま直訳して、『どこにも、……ない』理想というか、夢想というか、……まあ、そういう所ですが、何とか、うまい言葉がないでしょうか、と云うと、関は、腕をくんで、ちょっと頸〔くび〕をひねっていたが、やがて、『荘子』の応帝王篇に、「遊無何有之郷以処壙埌之野」というのがある。『無何有〔むかう〕』とは「何物も有ることなし」という意味だが、全体の文句は、「自然のままで、何の作為もない楽地」とか、「無為優游の地」とか、いう意味じゃ。……どうだ、『無何有郷』というのは、と云った。それで、やっと、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』を、『無何有郷だより』としたんだ、どうだ、うまいだろう。」)

[やぶちゃん注:「関 鑑子」(明治三十二(一八九九)年~昭和四十八(一九七三)年)は「せきあきこ」と読む。昭和十九(一九四八)年に結成された左翼系合唱団、中央合唱団の創立者。因みに、私の父はこの合唱団の団員であった。

「遊無何有之郷以処壙埌之野」底本では「無何有の郷に遊びて以て壙埌の野に処す」と訓ずるための返り点(一二点)が配されている。以上の訓読は「無何有〔むかう〕の郷〔さと〕に遊びて、以て壙埌〔こうろう〕の野〔や〕に処〔お〕る」と訓ずる。以下に「荘子」の「応帝王篇」の三章総てを示す。

天根游於殷陽、至蓼水之上、適遭無名人而問焉、曰、「請問爲天下。」。無名人曰、「去。汝鄙人也、何問之不豫也。予方將與造物者爲人、厭則又乘夫莽眇之鳥、以出六極之外、而游無何有之、以處壙埌之野。汝又何暇以治天下感予之心爲。」又複問、無名人曰。「汝游心於淡、合氣於漠、物自然而無容私焉、而天下治矣。」。

〇やぶちゃんの書き下し文

 天根、殷陽に遊び、蓼水〔れうすい〕の上〔ほと〕りに至りて、適々〔たまたま〕無名人に遭ひて焉〔こ〕れに問ひて曰く、「請ひ問ふ、天下を爲〔をさ〕むることを。」と。無名人曰く、「去れ、汝、鄙〔いや〕しき人よ。何ぞ問ふことの不豫〔ふよ〕なる。予〔われ〕、方-將〔まさ〕に造物者と人〔にん〕と爲〔な〕らんとす。厭〔あ〕かば則ち又、夫〔か〕の莽眇〔まうべう〕の鳥に乘りて、以て六極の外へ出で、而して無何有〔むかゆう〕の游び、以て壙埌〔くわうらう〕の野に處〔を〕る。汝、又、何の暇〔いとま〕ありてか天下を治むることを以て、予の心を感〔うご〕かさんと爲〔す〕るや。」と。又、複〔かさ〕ねて問ふ。無名人曰く、「汝、心を淡に游ばせ、氣を漠に合はせ、物の自然に順はせて私〔わたくし〕を容るること無くんば、而〔すなは〕ち天下、治まる。」と。

〇やぶちゃん現代語訳

 天根なる者、殷陽の地に遊び、蓼水〔りょうすい〕のほとりへと至った時、無名人と出逢った。天根は、すかさず彼に問いかけた、

「どうか、天下を治める術〔すべ〕をお教え下されい!」

と。無名人は答えて言った、

「去れ! 汚らわしき俗人よ。不快な問をしよって! 儂は今、造物主を友として遊んでおる。それに飽いたら、あの莽眇〔もうびょう〕の鳥――遙かなる鳥と名指す鳥――の背に乗り、この天地の外へと飛び出し、そうしてその無可有〔むかゆう〕の地――何処でもないところと名指す地――に遊び、壙埌〔こうろう〕の野――果てしなく広がる曠野〔あらの〕と名指す野――におろうと思うておるに。なのに、お前はまた、何に言うにことかいて、天下を治めるなんどという下らぬことで、この儂の静かな心を乱そうとするか!」

と。しかし尚も天根は最初の問いを繰り返した。されば、無名人は答えた、

「一切を捨てて心を恬淡無欲無知無心の境地に遊ばせ、生命の気を空漠虚空静寂無限に共時させ、万物流転無為自然の理に従って一切の己れを差し挟むことが無とならば――自ずと天下は治まる――。」

と。

「無為優游」「優游」はゆったりしていること、伸び伸びとしてこせつかないことの意。一切の人為を排して悠然と遊ぶこと。]

(『無何有』といえば、『万葉集』にも、「心をし無何有のさとに置きたらば藐姑射〔はこや〕の山を見まく近けむ」というのがある。これを見れば、万葉集の時代に、すでに、『無何有のさと』――つまり、『無何有郷』――という言葉があったのである。)

[やぶちゃん注:この歌は「万葉集」巻十六に詠み人知らずで載る三八五一番歌で、一般には、

 心をし無何有〔むかう〕の郷〔さと〕に置きてあらば藐姑射〔はこや〕の山を見まく近けむ

の表記。その意は、

 この心を、正しく何の作為もない無何有の境地においておくことが出来たなら――仙人の住むという姑射山〔こやさん〕とてもすぐにでも見られることであろう――

といった感じか。「藐姑射の山」はやはり「荘子」の「逍遙遊篇」の三章に現れる仙山。但し、これは本来は「藐〔とほ〕き姑射の山」の謂いであるから、訳では「姑射山」とした。]

 つまり、私のような者でも、一方では、ボオドレエル、ヴェルレエヌ、ランボオ、その他のいわゆる頽廃派の詩人たちの詩を読みながら、他方では、いま述べたように、ウィリアム・モリスの小説(さきに書いた、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』のほかに、これも、社会主義の宣伝のために書いたような『ジョン・ボオルの夢』という小説など)や、クロボトキンの、『ロシア文学の理想と現実』[これは伊東整の名訳がある]は、もとより『一革命家の思い出』、その他や、芥川が読んだと云うリイプクネヒトの、『追憶録』と、『新世界への洞察』や、それに類する本を、無方針に、手当り次第に、読んだ。まったく『手当〔てあた〕り次第』であって、凡そ『好学心』などというものではなかった。

[やぶちゃん注:「ジョン・ボオルの夢」“A Dream of John Ball”(ジョン・ボールの夢)は、モリスがワット・タイラーの乱を題材にした一八八八年刊行の小説。]

 つまり、私のような語学のできない者でもそうであるから、語学の方でも秀才であった芥川は、おなじ『手当り次第』でも、このはかに、レエニン、トロツキイ、カウツキイ、その他のものをも読んでいたにちがいないのである。私が、或る時、このような話が出た時、「君〔きみ〕、カウツキイの『トマス・モオアと彼のユウトピア』はおもしろいね、」と云うと、芥川は、言下に、「カウツキイが息子と共著で出した、マルクスの『資本論』の英訳があるが、ごれは、通俗に書いてあるから、僕らにもわかりいいよ、」と云いはなった。(余話であるが、私は、その時分よりずっと後に、いま名を上げた人の中では、レエニンの『トルストイ論』とトロツキイの『文学と革命』を読んで、拾い物をしたような喜びを感じた。)

[やぶちゃん注:「カウツキイの『トマス・モオアと彼のユウトピア』」マルクス主義の政治理論家カウツキーの“Thomas More and his Utopia”は一八八八年の刊行。]

 私は、今、ふと、思い浮かべた、芥川が読んだと云う、ウィリアム・モリスの『ニュウズ・フロム・ノオウェア』も、『ジョン・ボオルの夢』も、両方とも、社会主義の宣伝のために書かれたものであるが、形式は美しい物語であり、殊に『ジョン・ボウルの夢』などは、ところどころ、詩がはさまれている、これは、もとより、モリスが根が詩人であるからであろうが、私などは、まず、モリスの『詩』に心を引かれたのであろう、と。

 ところで、卒業論文に、『ウィリアム・モリス研究』を書いた芥川は、(芥川も、)「詩人としてのモリスからやり出し、それから、社会改良家としてのモリスに及び、全体のモリスの研究をやるつもりだったが、だんだん時間がなくなってしまって、……」と久米が述べているから、芥川の『ウィリアム・モリス研究』はおそらく詩人としてのモリスだけを論じたものであろう。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の卒業論文『ウィリアム・モリス研究』は、関東大震災で焼失し、残念ながら我々はそれを読むことが出来ない。]

 ところで、芥川が、もっとも興味を持ったらしいモリスは、すぐれた詩人であり、たくみな美術工芸家であり、ラファエル前派の代表的な芸術家の一人であり、『玄鶴山房』の終りに使ったリイプクネヒトは、社会主義者であり、ジャアナリストであり、その著書を読んだカウツキイは社会主義者であり、トロツキイは、革命運動家であり、時事評論家であり、文芸批評家であるが、この人たちは、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、一種の浪曼主義者のようなものである。

 さきに述べた「新潮」主催の座談会『芥川龍之介研究』で、上司小剣が、芥川を「モリスとどこか似てゐやしないかといふやうな気がする、」と云ったり、「モリスはアナアキズムの詩人だから、」と云ったり、しているのは、上司〔かみつかさ〕流(あるいは、上司好〔ごの〕み)の見方〔みかた〕であるJそれは、上司が、若い時分にアナアキズムに興味をひかれた事があり、いくらかアナアキスティックな思想を含んだ作品を書いたことがあるからであろう。しかし、上司は、そういう思想に興味を持った事はあっても、決してそういう思想に深入りできない性質を持っていた。(それは、上司と殆んど同時代の、白柳秀湖に似ている。)

[やぶちゃん注:「白柳秀湖」上巻の「八」で既出であるが、ここで注しておくと、白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ 明治十七(一八八四)年~昭和二十五(一九五〇)年)は小説家・社会評論家・歴史家。早稲田大学哲学科在学中から堺利彦の影響を受け、社会主義活動を支援、明治四十(一九〇七)年に隆文館編集記者となり、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。明治四十三(一九一〇)年の大逆事件以後は社会主義思想や文学活動から離れ、社会評論や歴史研究に従事した(以上はウィキの「白柳秀湖」に拠った)。]

 さて、湯河原の或る宿屋に、芥川が、二十〔はたち〕ぐらい年〔とし〕のちがう、作風も性質もちがう、未知の、上司小剣を、たずねたのは、例の、好奇心がはたらいたのか、からかうつもりであつたのか。仮りに芥川を一〔ひ〕と筋縄で行かない人物とすれは、上司も一と筋縄ぐらいでは行かない人物である。上司は、日本の社会運動家の元祖の一人である、堺 枯川につれられて、上京し、すぐ読売新聞社にはいり、その間に『平民新聞』などに寄稿しながら、作家生活をするまでに、二十三四年も、おなじ新聞社につとめていた人である、上司は、芥川より十年も前に可なり評判になった処女作(『神主』)を発表しながら、芥川が作家生活をはじめた一年後に作家生活にはいった。芥川を仮りに浪曼主義者であり詩人であったとすれば、上司はまったくその反対の人であった。芥川が、初めからしまいまで、駈〔か〕け足で、花やかな作家生活をしたとすると、上司は、はじめからしまいまで、牛の歩〔あゆ〕みのごとく、のろのろと、地味な作家生活をつづけた。

 こういう芥川が、突然、湯河原の或る宿屋に、こういう上司を、たずねて、社会主義の話や無政府主義の話などをしてから、カウツキイの話をした。ところが、その時の記録によると、上司は、「その時、独逸〔どいつ〕のカウツキイの話が出たのを、うつかり、僕は大英百科全書に社会主義の説明をしてゐたカアカツプとまちがへて、とんちんかんな返事をして、後〔あと〕で恥づかしく思つたことがある、」と述べている。そこで、芥川は、この先輩の作家を『与〔くみ〕し易〔やす〕し』と思ったのであろうか、学生時代にいくらか研究もし調〔しら〕べたこともある、ウィリアム・モリスについて、大〔おお〕いに気焔をはいたらしい、先〔さ〕きの話の後〔あと〕で、「文芸と工芸との結合七いふやうなモリスの主張も、その時の話題に上〔のぼ〕つた、」と上司が述べているからでもある。

[やぶちゃん注:「カアカツプ」“An Inquiry into Socialism”等を書いたThomas Kirkup(一八四四年~一九一二年)であろう。]

 ウィリアム・モリスは、多芸多才の人であるから、前に述べたよう町、すぐれた詩人でありながら、たくみな物語や小説も書き、その上、モリスは「美術工芸家としてもおどろくべき腕を持っていた。それで、モリスは、美術的な家具の製作や装飾意匠に努力をした、つまり、ステインド・グラス、壁画、壁掛け、絨毯、それから、刺繡、綴〔つづ〕れ織〔おり〕のような物まで造った。それから、モリスは、公共用の建築の装飾の研究などして、イギリス全土にわたる建築の美化運動まで企〔くわだ〕てた。つまり、一〔ひ〕と口〔くち〕に云うと、モリスは、自分の生活を美化すると共に、『美』を民衆の手のとどく所に置こうとしたのである。それから、モリスは、又、美術的な活字の母型や装飾縁模様などを意匠して、五十三巻の豪華版抄本を印刷した。そうして、最後に出したチョオサアの『カンタベリ物語』は豪華版ちゅうの豪華版と称されている。――つまり、湯河原の或る宿屋で芥川と上司の話題に上〔のぼ〕った、モリスの「文芸と工芸の結合」とは、こういう事を話し合ったのであろう。

 しかし、もしこういう話であれば、これは、芥川が、勢〔いきお〕い(つまり、他に勝とうと競う気力)に乗って喋〔しゃべ〕った、その場かぎりの話である。その勢いに乗った話が本〔もと〕になって、この時の座談会では、芥川は、社会主義や無政府主義に関心を持っていて、時にはアナアキスティックな気持ちで物を書いている、とか、「思想として、ちょっとニヒリスティックな、アナアキスティックだつた、」などと、云われている。が、私は、芥川の小説にそういうものを感じさせる物が幾つかあるとしても、芥川は、一〔ひと〕つの作品をつくるために、『そういうもの』を「道具」として使っていたのである、と思うのである。

 芥川が、学生時代にモリスに心を引かれたのは、社会運動家(あるいは社会運動指導者)としてのモリスではなく、詩人(あるいは芸術家)としてのモリスである。これはさすがに賢明である、なぜなら、ウィリアム・モリスは、まず第一にラファエル前派の代表的な芸術家の一人であり、つぎに美術工芸家であり、それから、社会運動家であるからである。(余話であるが、芥川より五六歳も年上〔としうえ〕であるが、事情があって、芥川が大学を卒業した頃まだ大学に籍のあった、芥川の親友であった、江口 渙は、大学に出す論文を書くために、それまで愛読していた、オスカア・ワイルドの諸作品を一所懸命に読みかえしていた。芥川が処女作[つまり、『鼻』大正五年発表]を発表した年〔とし〕から四五年も前から、「新小説」、その他に発表していた江口の小説は、その作風にちょうど合うような、いわゆる美文調の文章で書かれてあうた。)聞くところに依ると、芥川が大学に出した、『人及び芸術家としてのウィリアム・モリス』も、『詩人としてのウィリアム・モリス』も、研究というよりは、(むろん研究であるが、むしろ、)美文調で書いた伝記風〔ふう〕の文章であったそうである。

 前にもちょっと書いたように、芥川は、散文的なところもありながら、根は詩人であった。そうして、それに故事〔こじ〕つけて云うと、佐藤春夫は、詩人的なところがありながら、根は散文的なところもある人である。そうして、文人らしいところは、形〔かたち〕はちがうが、佐藤と芥川とは共通している。(『文人』とは「詩歌書画などの道に心を寄せる人」という程の意味である。)美文を好み美文を巧みに作〔つく〕れるところも、やはり、形や気もちはちがうが、芥川と佐藤は似たところがある。

 冬とは云ひながら、物静〔ものしづか〕に晴れた日で、白〔しら〕けた河原〔かはら〕の石の間〔あひだ〕、潺湲〔せんくわん〕たる水の辺〔ほとり〕に立枯〔たちか〕れてゐる蓬〔よもぎ〕の葉を、ゆする程の風もない。川に臨〔のぞ〕んだ背〔せ〕の低い柳は、葉のない枝に飴の如く滑〔なめら〕かな日の光りをうけて、梢〔こずゑ〕にゐる鶺鴒〔せきれい〕の尾を動かすのさへ、鮮〔あざや〕かにそれと、影を街道に落〔おと〕してゐる。

[やぶちゃん注:「潺湲」は現代仮名遣で「せんかん」で、水がさらさらと流れるさまを言う。「せんえん」とも読む。]

 これは『芋粥』の初めの方の一節であるが、元慶〔がんきょう〕の末か、仁和〔にんな〕の始めか、(そんな事はどうでもよい、と作者も書いている、)の一月の五六日頃の朝、藤原利仁〔としひと〕と五位が、京都を立ち出〔い〕でて、加茂川の河原にそうて、粟田口の方へ行く街道の光景を書いてある――芥川の美文の一〔ひと〕つの見本〔みほん〕として、うつして見たのである。

 これは、説明するまでもなく、唯きれいに書いてあるだけで、つまり、「修辞を巧みにし、美しく飾りたる」文章、というだけのものである。

 ……その内〔うち〕にふと男の耳は、薄暗い窓の櫺子〔れんじ〕の中に、人のゐるらしいけはひを捉へた。男は殆〔ほとん〕ど何の気なしに、ちらりと窓を覗いて見た。

 窓の中には尼が一人〔ひとり〕、破れた筵〔むしろ〕をまとひながら、病人らしい女を介抱してゐた。女は夕ぐれの薄明〔うすあか〕りにも、無気味なほど痩せ枯れてゐるらしかつた。

 これは、『六の宮の姫君』の後〔おわり〕にちかい方〔ほう〕の一節である。

 私は、この小説を読む前に、『往生絵巻』を読んで、何ともいえぬ暗い気もちになった。そうして、この『六の宮の姫君』を読みおわった時は、「これは助〔たす〕からない、」というような気がした。

「芥川が、……こんな小説を書いている、これはよくない、……」

『往生絵巻』は、ずっと前に述べたように、「国粋」という殆んど人の知らない雑誌に出た。『六の宮の姫君』も、やはり、「表現」という三流以下の雑誌に出た。私は、この二つの小説を、雑誌に出た時に、読んだのである。どんな雑誌に出た、(か、)というような事は、もとより、問題ではない。

 ところで、『往生絵巻』は、これも先〔さ〕きに書いたように、芥川の作品としては、雑〔ざつ〕なものであるから、雑誌を読んだ時は、それほど気にならなかった。しかし、『六の宮の姫君』は、やはり、(又か、と思うほど、)いわゆる王朝物ではあるけれど、例の「何〔なに〕も、――何〔なに〕も見えませぬ。暗〔くら〕い中に風ばかり、――冷たい風はかり吹いて参〔まゐ〕りまする、」というところは、何度よんでも、私には、気もちがわるい。

 ここで、ちょっと著作年表をひらいて見ると、『芋粥』は大正五年八月の作であり、『往生絵巻』は大正十年四月の作であり、『六の宮の姫君』は大正十年八月の作である。そうして、『芋粥』も、『往生絵巻』も、『六の官の姫君』も、ついでに云えば、『好色』[大正十年作]も、『藪の中』[大正十一年一月作]も、みな、主〔おも〕に、『今昔物語』の中の話を素材にして作ったものである。

 そうして、芥川の、準処女作といわれている『羅生門』も、出世作となった『鼻』も、そのころ新進作家の初舞台といわれた「新小説」に出た『芋粥』も、みな、『今昔物語』の中の話を素材にしたものである。それから、芥川は、『鼻』と『芋粥』を書いた年〔とし〕に、やはり、『今昔物語』から取った『運』と『道祖問答』を書いている。それから、その翌年[大正六年]、やはり平安朝[末期]を舞台にした『倫盗』[この小説は、作者が、失敗作と思って、単行本に入れなかった]という百二三十枚の小説を書いている。つまり、芥川は、大正四年の新秋から大正六年の初夏までの間に、いわゆる王朝物を六篇かいている、という事になる。

 それで、芥川の『王朝物』と称される作品は、初めは、物珍しかったのと、ちょいと奇抜な書き方がしてあったのと、手際〔てぎわ〕のよい、頻りに凝った文章で書かれてあったのとで、今かんがえと、買い被られたようなところもあると思われたほど、たいそう評判がよかった、十返舎一九の『東海道中藤栗毛』の中に、「さあ、評判ぢや、評判ぢや、」という文句があるが、この初期の芥川の小説は、出る毎に、「さあ、評判ぢや、評判ぢや、」と、持てはやされた観があった。

 ところで、おなじ『今昔物語』から素材を取ったものでも、原作の筋が殆んどそのまま取られているものでも、(原作の筋を殆んどそのまま取った物の方が多いけれど、それでも、)一〔ひ〕と捻りか二〔ふ〕た捻りかして、一種の美文で、(一種の美辞麗句をつらねて、)書いた作品は、(たとえば、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』、などは、)増〔ま〕しな小説になっているが、素材の話を、あまり捻らないで、(つまり、あまり工風〔くふう〕しないで、)はでな形容詞など使わないで、洒落〔しゃれ〕や皮肉を殆んど入れないで、書いた小説は、(つまり、『運』や『道祖問答』などは、)味も素〔そ〕っ気〔け〕もない、あまり面白くもない、徒〔ただ〕の昔の話になってしまうのである。

 そこで、大〔おお〕ざっぱに云うと、これまで、(芥川が書くまで、)殆んど誰〔だれ〕も気のつかなかった『今昔物語』(『宇治拾遺物語』もあるが、ほとんど『今昔物語』)の中の話を素材にして小説を書いた、という事が、芥川の大きな手柄〔てがら〕の一〔ひと〕つであり、それで、誰〔だれ〕が附けたか、『王朝物』と称せられる幾つかの小説によって、芥川は、文壇的に、(文壇的に、である、)たちまち、高名になったのであった。

 ところで、(ここでは、いわゆる『切支丹物』、については、わざと言及しない。一〔ひ〕と口〔くち〕に云えば、『王朝物』も、『切支丹物』も、芥川の文学に於いては、論じる人があれば、殆んど同じ物であるからだ、)ここで、『種〔たね〕』(あるいは『材料』)という言葉をつかうと、芥川の『王朝物』の種は、すなわち『今昔物語』の中の話であった。いうまでもなく、『今昔物語』には無数の話がはいっている。しかし、いくら無数の話があっても、芥川にむく話はそんなに数多くある筈がない。しぜん、芥川に、いかにすぐれた才能があっても、『種』の尽きてくるのは当然である。(そうして、もとより、『切支丹物』も同断である。)

 芥川は、『地獄変』でその頂上にのぼった。もっとも、『地獄変』は、ずっと前に述べたように、『宇治拾遺物語』の第三と、『十訓抄』の第六と『古今著聞集』第十一の画図第四話などに依って書いたものであろう。つまり、芥川は、『地獄変』以後は、しだいに『今昔物語』の話に気乗りがしなくなり、そこから種を無理にあさるようになったのであろう。そうして、そういう状態で書かれたのが、『往生絵巻』であり、『六の宮の姫君』である。

 たしか、『古今集』か何かの序に、「やまと歌は、人の心をたねにして、…」というような文句があったが、これは、大真面目〔おおまじめ〕で云う、芥川が、仮りに、『人の心』を種〔たね〕にしていたら、種に尽きるような事になりはしなかったか、と、私は、切〔せつ〕に、思うのである、芥川が、『人の心』でなく、『自分の心』を種にして、小説を書き出したのは、生涯の終りに近くなって、身も、心も、切羽〔せっぱ〕つまってから、であったのだ。そうして、その最初の物が、『海のほとり』か、『年末の一日』か、『点鬼簿』か。――それは、後に述べることにして、ここで、ずっと前に書いた、芥川が、鵠沼の東家で、私に、半分ぐらい約束するように、云った、新年号の雑誌の小説を、書いたかどうか、という話にうつろう。

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