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2012/04/24

宇野浩二 芥川龍之介 二十~(4)

 芥川の同時代の大正初年に文壇に出た作家の大部分は、(むろん例外は幾つもあるが、)自分自身を題材にした作品から書きはじめた。それから、明治の末年から出発した自然主義の作家たちの大部分も、やはり、自分自身を題材にした小説から書きはじめた。

  ところが、芥川は、そのような作品を否定した小説に依って名を成し、それでつづけて来たのが、みじかい生涯の終りに近くなってから、自分自身を題材にした小説を書きはじめる事になったのだ。

 大正初年(といっても、正確に云えば、明治の末年から大正七八年まで)に文壇に出た作家(その中には芥川より先きに出た人もあり後〔あと〕から出た人もある)の中で自分自身を題材にした小説を書いた人たちは、大抵、自分が作家にならない前の事を、あるいは、自分の少年時代か青年時代かの事を、題材にした小説を書いて、文壇に登場した。そうして、それらの小説は、構想その他のために、多少は事実でない事もまじっているであろうが、大方は作者自身が経験した事を明け透けに書いたものとされていた。そうして、そういう小説によって文壇に出た勝〔すぐ〕れた作家が何人かいた。(そうして、その中に、芥川の尊敬していた、『大津順吉』の志賀直哉、『おめでたき人』の武者小路実篤、『善心悪心』の里見 弴などがいた。)

 ところが、その出発の初めから、その時分(つまり、大正五年頃から十二年頃)まで、殆んど歴史小説(か、それに近いもの)ばかり書いていた芥川には、大形〔おおぎょう〕に云えば、そのような小説(つまり、謂わゆる私小説)の書き方〔かた〕の勝手さえ殆んどわからなかった。それから、芥川は、もともと、並並〔なみなみ〕ならぬ見え坊であり、非常な気取り屋であったから、自分の事(あるいは経験)を、ありのままに、明〔あ〕け透〔す〕けに、書くなどという事は、大嫌いであった上〔うえ〕に、まったく出来ない事であった。

 しかし、今〔いま〕は、何〔なに〕か書かない訳〔わけ〕にはいかなかった。書くなら、増〔ま〕しなものを、と思った。そうして、芥川が、思案にあまった末に、書いたのが『保吉の手帳から』である。(その前に、芥川は、『おぎん』[大正十一年九月]と『おしの』[大正十二年四月]という二つの切支丹物を書いているが、両方とも、二番煎じの感じがあるだけのものである。)

 ところが、『保吉の手帳から』[大正十二年の五月号の「改造」]は、海軍機関学校につとめていた時分の思い出のようなものであるが、そこにおさめられている五つの話は、小説というより、小品であり、その小品の主人公の保吉は、作者の芥川ではなく、芥川のような人である。そうして、その小品には、保吉のほかに、いろいろな人間が出てくるが、それらの人間には殆んど血が通っているという気がしない。つまり、芥川は、題材が変っても、やはり、いやに文章に骨を折り、小道具のような物をくわしく書き、作り事のような話を一〔ひ〕と捻りも二〔ふ〕た捻りもしている。作者は面白がらせるつもりで書いているのであろうが、読む者には少しも面白くない。思い切って云うと、イヤ味で、キザで、衒学的で、結局、弊に堪えない、という感じがする、一〔ひ〕と口〔くち〕に云えば、相変らず気取っているな、と、私などには、思われるのである。

[やぶちゃん注:「弊に堪えない」とは、その持っている弊害を我慢することが出来ないほど深刻で問題である、という謂いであろう。]

『三つ子〔みつご〕の魂〔たましい〕、百まで』というか、『持った病〔やまい〕』というか、芥川は、先天的か、後天的か、大〔だい〕の見え坊であり気取り屋であったが、『気取り』は、芥川の文学で云うと、出世作となった『鼻』にもあり、『侏儒の言葉』や『西方の人』は、もとより、遺作として発表された、『或阿呆の一生』や、『闇中問答』にまで、ある。

 その気取りは、『鼻』、その他の小説では、役に立ち、成功した、そうして『或阿呆の一生』にも、あるいは、『河童』にも、成功した。――

(つまり、芥川は、死ぬ時までも、気取り通し、見えを張った、という事にもなる。)

さて、芥川は、その気取りのために、『保吉の手帳から』を失敗したのであった。つまり、おなじ「回想」を取り扱っても、さきに述べた作家たちは、「回想」を殆んどありのままに、飾らない文章で、飾りなく、書いたので、その主人公は、もとより、出てくる人間に、血が通〔かよ〕い、しぜん、話が生きたのである。ところが、『保吉の手帳から』は、芥川が、前にも述べたように、これまでの歴史物その他を書く時と同じように、「回想」そのものより、まず、人工の筋を立て、その筋の通〔とお〕りに話をはこび、他の人物は、もとより、主人公の保吉にまで、ポオズを取らせ、人人にはなるべく酒落〔しゃれ〕たことを云わせる、というような書き方をしたので、失敗したのである。

 ところで、芥川は、それからも、猶、つづけて、『お時儀』、『あばばばば』、『寒さ』、『文章』、『少年』、『十円札』、と、「保吉物」を、書きつづけた。そうして、それらの作品の中には、『保吉の手帳から』とくらべると、いくらか自然な物もあったが、結局、大同小異であった。

 ところが、この連作の中で、一〔ひと〕つ、『少年』は、主人公は、やはり、保吉であるが、その保吉の少年時代の話を、わりに飾りのない文章で、要処要処を、述べてあって、ほかの作品と幾らか違うところがある。そうして、その違うところは、この『少年』と『大導寺信輔の半生』(未完)と関聯しているところもあるからである。

 四歳の保吉(つまり、芥川)が、ある日、お鶴という女中につれられて、大溝〔おおどぶ〕[両国橋の東側にあった]の往来をあるいていた時の事である。その人通〔ひとどお〕りの少ない土埃〔つちぼこり〕の乾いた道の上に、ふとい線が、三尺ばかりの幅〔はば〕をおいて、二〔ふ〕た筋〔すじ〕、道の向うへ、走っているのを指さして、突然、お鶴が、保吉に、「坊〔ぼつ〕ちやん、これを御存知ですか、考へて御覧なさい、ずつと向うまで、並んで、つづいてゐるでせう、」と云った。そう云われて、保吉は、何〔なん〕だろう、と、頸〔くび〕をひねった、何だろう、これは、いつか、幻燈で見た、蒙古の大沙漠にも、やはり、つづいているであろうか、とか、そのほか、いろいろと考えた。が、どうしても考えがつかない。それで、保吉は、とうとう癇癪をおこして、「よう、教へておくれよう、ようつてば、」と叫んだ。そこで、散散〔さんざん〕じらしていたお鶴が、やっと、説明した。

「これは車の輪の跡です。」

 これは車の輪の跡です!――保吉は呆気〔あつけ〕にとられたまま、土埃の中に断続した二〔ふた〕すぢの線を見まもつた。同時に大沙漠の空想などは蜃気楼のやうに消滅した。今は唯泥だらけの荷車が一台、寂しい彼の心の中におのづから車輪〔しやりん〕をまはしてゐる。……

 これは『少年』の中の『道の上の秘密』の終りの方の一節である。

それから、芥川は、やはり、『少年』のうちの『死』という小品の中で、四歳の保吉が、父と話をしているうちに、殺された蟻と死んだ蟻とは違う、というような理窟をこねた、という話を述べたあとで、つぎのような事を書いている。

……殺された蟻は死んだ蟻ではない。それにも関らず死んだ蟻である。この位秘密の魅力に富んだ、摑へ所のない問題はない。保吉は死を考へる度〔たび〕に、或日〔あるひ〕回向院の境内に見かけた二匹の犬を思ひ出した。あの犬は入り日の光の中に反対の方角へ顔向けたまま、一匹のやうにぢつとしてゐた。のみならず妙に厳粛だつた。死と云ふものもあの二匹の犬と何か似た所を持つてゐるのかも知れない。……

(ここで、前に書いた事を少し訂正する。それは、前に、『少年』と『大導寺信輔の半生』とが繋〔つなが〕りがあるように書いたとすれは、誤〔あやま〕りである、という事である。もしそう考えたとすれば、『少年』にも、『大導信輔の半生』にも、芥川の「郷愁」であった、少年時代に住んでいた、回向院や大溝などが出てくるからである。)

 さて、ここに引いた文章だけからでも想像できるように、『少年』におさめられでいる六篇の小品は、少年の頃の思い出を書いたものであろうが、書かれているのは、その思い出を本〔もと〕にして、作者が工夫〔くふう〕に工夫をかさねて一〔ひと〕つの筋を作り、それを凝りに凝った文章で書いたものである。そういう点では、『少年』は、作のよしあしは別として、(なかなか旨〔うま〕いものである、誠に芥川の「家の芸」であって、『トロツコ』や『一塊の土』のような借り物ではない。そうして、例の如く気取りや思わせぶりなところはあるが、作品としては、『大導信輔の半生』よりも上〔うえ〕である。

 ところで、さき引いた文章であるが、『死』の中の、犬が、「入り日の光の中に反対の方角へ「顔を向けたまま」などというところは『遣〔や〕ってるな、』と思うが、「死と云ふもの」が「あの二匹の犬と何か似た所」などと云うのは、どんなものであろうか。それから、『道の上の秘密』のなかの「今は唯泥だらけの荷車が一台、……」というところは、うまい、とは思ったが、やはり言葉の巧みさだけだ、と思っていた。ところが、久保田万太郎、久米正雄、小島政二郎、というような文学のわかる人たちが、名作と激賞している、『蜃気楼』の中に、つぎのような一節があるのを思い出して、私は、「これは……」と思いなおした。

……僕等はもうO〔オオ〕君と一しよに砂の深い路を歩〔ある〕いて行つた。路の左は砂原だつた。そこに牛車の轍〔わだち〕が二〔ふた〕すぢ、黒ぐろと斜めに通つてゐた。僕はこの深い轍に何か圧迫に近いものを感じた。逞しい天才の仕事の痕、――そんな気も迫つて来ないのではなかつた。

「まだ僕は健全ぢやないね。ああ云ふ車の痕〔あと〕を見てさへ、妙に参つてしまふんだから。」

 O君は眉をひそめたまま、何とも僕の言葉に答へなかつた。……

 前のは荷車であり、これは牛車である。前のは大正十三年五月の作であり、これは昭和二年二月の作である。

 この文章の中の、砂原は鵠沼であり、O君は小穴隆一である。

 前のは三十年も昔の事を書いたものではあるが、「寂しい彼の心の中におのづから車輪をまはしてゐる、」というのは、その時の実感を書いたものであろう。これは、この『蜃気楼』の話が半分ぐらい本当とすれは、これはこの小品を書いた時分の実感であろう。二年前の小品が荷車であり、これは牛車であるが、車の輪が道の上に残っている事は同じである。すると、『蜃気楼』の二本の線は、(この時分は、例の「筋のない小説」の説を立てていた頃であるが、やはり、)話を面白くするために、わざと入れたのかもしれない、という事にもなる。

 ところが、『蜃気楼』の前篇になっている『海のほとり』に出でくる久米が、(文学、殊に小説に理解のふかい久米が、)「まだ僕は健全ぢやないね。ああ云ふ車の痕を見てさへ、妙に参つてしまふんだから、」という言葉を見ても、作品全体に死相が漲っている、と云うのであるから、この牛車の轍は『蜃気楼』の中でもっとも注目すべき文句である、という事になるのである。

 作品に死相があらわれる、という言葉をつかえば、私は、くりかえし云うが、昭和二年(つまり、死んだ年)の作である、『河童』、その他より、『庭』や『春の夜』や『玄鶴山房』などであり、この『蜃気楼』とか、『海のほとり』とか、『年末の一日』とか、殊に『点鬼簿』とか、いう小品は、強いで云えば、「鬼気せまる型〔かた〕」ではないか。(こういう事については、例によって、後に述べることにして。)

 さて、大正十三年の四月と五月にかけて書いた『少年』と、同じ年の十二月に書いた『大導寺信輔の半生』とは、芥川の文学の何度目かの変り目の作品であり、枚数も、『少年』は四十五六枚であり、『大導寺信輔の半生』は三十五六枚であるから、芥川の作品としては長い方である。そうして、両方とも、自伝的な作品である。(もっとも、自伝的、と云っても、現在とは縁の遠い、機関学校時代の事や、もっと遡〔さかのぼ〕って、少年時代⦅というより、幼年時代⦆の事や、幼少年時代から大学時代までの事や、の思い出を本〔もと〕にして、それを一〔ひと〕つ一つの話にした小品であるから、半自伝的、とでも云うのであろうか。そうして、その一が「保吉物」であり、その二が『少年』であり、その三が、『大導寺信輔の半生』である。)

『保吉の手帳から』を書いたのは大正十二年五月であるが、『少年』を書きあげたのは、その翌年(つまり、大正十三年)の五月であり、『大導寺信輔の半生』を書いたのは、その年の十二月である。

 そうして、この『少年』と『大導寺信輔の半生』を書いた頃は、芥川の、作家としても、人間としても、もっとも苦〔くる〕しかった時代の一つであった。

……旅行中お金をつかひ果〔はた〕し、貧乏して居り候間今日午前、蒲原春夫君にたのみ、お店へお金百五十円ばかり拝借にやりし次第、もし午前中に同君にお金を渡されざる節は御光来の折御持参下され度、……

 これは、大正十三年五月二十八日に、芥川から、新潮社の支配人、中根駒十郎に宛てた手紙の抜萃である。

(中根駒十郎は、大正時代から昭和の初め頃まで、新潮社を創立した社長、佐藤義亮の代理を殆んど一切した。それで、その頃の大抵の作家は、多少とも、中根の世話になった。『駒十郎、役者のやうな、名をつけて、由良〔ゆら〕になつたり、吉良〔きら〕になつたり』という狂歌は、たびたび引いたが、相馬泰三の作である。)

 さて、芥川が、この手紙を書いたのは、『少年』を書いた頃である。

 ところで、芥川は、この手紙を書いてから十日〔とおか〕も立たな、いうちに、又、中根に宛てて、「この間女性改造を書かず、又々欲しきものありても買はれね故お金二百円ばかりどちらか[註―『百艸』か、『黄雀風』か]の印税の中より…」というような手紙を出している。(この手紙は、郵便でなく、使〔つかい〕に託したものである。)

 私が、殊更、このような手紙まで写したのは、(私などはこういう事は有内〔ありうち〕であると思っているが、)大方の人はこのような事を知らないであろう、と思うと共に、この時分いかに芥川が原稿が書けなくなっていたか、という事などを、示〔しめ〕したかったからである。(つまり、「壷を一〔ひと〕つ買つた」とか、「欲しきものありても、」とか、云うのは、もとより、口実なのである。)

[やぶちゃん注:「有内〔ありうち〕」は、世間によくありがちなこと、の意。]

 ざっと、こういう状態の中で、芥川は、『少年』を書いたが、その頃から、芥川の創作力はますます衰えて行った、衰えて行く一方であった。しぜん、『少年』を書きあげた月〔つき〕に書いた『文反古』はつまらぬ作品であり、その次ぎに書いた『十円札』は、「保吉物」の一つであるが、楽屋落ちの話である。どのような楽屋落ちであるか、愛敬〔あいきょう〕に、その中から、ちょいと写してみよう。

……長谷〔はせ〕正雄は酒の代りに電気ブランを飲んでゐる。大友雄吉も妻子と一しよに三畳の二階を借りてゐる。松本法城も――松本法城は結婚以来、少し楽に暮らしてゐるかも知れない。しかしついこの間迄はやはり焼鳥屋へ出入〔しゆつにふ〕してゐた。

 右の一節の中の、長谷正雄は久米正雄であり、大友雄吉は、いわゆる「啓吉物」のうちの幾つかの小説の主人公に「雄吉」という名をつける、菊池 寛であり、松本法城は、『法城を護〔まも〕る人々』の作者、松岡 譲である。

 ところで、これを写して気がついたのは、お粗末な小説であることは別として、芥川がこのような平明な文章を書いている事である。

 さて、このような小説を書いた後〔あと〕で、芥川が、書いたのが、『大導寺信輔の半生』である。

『大導寺信輔の半生』がいくらか好評をうけたのは、芥川のこれまでの小説とくらべると、目先〔さき〕が変っている上に、ずっと気の乗らないような小説を書きつづけていたのが、この小説は、ときどき気息〔いき〕づかいが聞こえるほど、意気ごんでいるところが見えるからである。

[やぶちゃん注:「気息〔いき〕づかい」は、「気息」に「いき」とルビを振る。]

『大導寺信輔の半生』は、文章はきびきびしているし、部分部分(殊に最初の方)にすぐれたところはあるとしても、結局、きびしそうに見えて、作者が、主人公を甘やかし過ぎている、それが、殊に、後半に、目立つ、それから、前からの癖で、風物を書いても、人間を書いても、小細工である、それから、人間が殆んど書けていない、結局、失敗作である。(断っておくが、ここで、『小細工』と云ったのは、『小刀細工』という意味である、『小刀細工』とは、「小刀を用いてする、精微な、繊巧な、細工」という程の意味である。)

 それから、『大導寺信輔の半生』は小説ではない。

 それから、『大導寺信輔の半生』は、附記として、芥川は、「この三四倍つづけるつもりである、」と書いているが、芥川のような作家(これは決して悪〔わる〕い意味ではない)には、たといもっと長生きしたとしても、こういう種類の小説は、永久に未完で、書きつづけられなかった、と、私は、思うのである。

 しかし、私は、『大導寺信輔の半生』は、きらいではない。

……中学は彼には悪夢だつた。けれども悪夢だつたことは必〔かならず〕しも不幸とは限らなかつた。彼はその為〔ため〕に少〔すくな〕くとも孤独に堪へる性情を生じた。さもなければ彼の半生の歩〔あゆ〕みは今日〔こんにち〕よりももつと苦〔くる〕しかつたであらう。彼は彼の夢みてゐたやうに何冊かの本の著者になつた。しかし彼に与へられたものは畢竟落寞〔ひつきやうらくばく〕とした孤独だつた。この孤独に安んじた今日〔こんにち〕、――或〔あるひ〕はこの孤独に安んずるより外〔ほか〕に仕〔し〕かたのないことを知つた今日〔こんにち〕、二十年の昔をふり返つて見れば、彼を苦〔くる〕しめた中学の校舎は寧ろ美しい薔薇色〔ばらいろ〕をした薄明〔うすあか〕りの中〔なか〕に横〔よこた〕はつてゐる。

 これは、『大導寺信輔の半生』の中の、『学校』の終りの方の一節である。

 芥川は、やはり、詩人であった。

 この『落莫とした孤独』の歌をうたってから、たしか、半月後、芥川は、数え年〔どし〕、三十四歳になった。大正十四年である。

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