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« 宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(2) | トップページ | 「イル・ポスティーノ」“Il Postino(The Postman)” »

2012/04/27

宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(3)

前回分でもその傾向があったが、この回では僕はかなり激しく筆者宇野浩二の解釈に反論批判をした注釈を附している。宇野がお好きな方には、不快の感を与えるかも知れない。しかし、僕としてはどうしても言わずには措けない部類のものなのである。僕のテクスト注は僕の孤独な感性に従った、僕が頸を傾げる対象への飽くなきオリジナル・テクスト注であり、公教育的若しくはアカデミズム的に減菌滅菌魂魄摘出処理されたあってもなくても同じのテクスト注とは訳が違うのだ。それを御承知の上、お読み頂きたい。

   *   *   *

 芥川が、新規蒔き直しのつもりで、先ず保吉物をつぎつぎに書き、『大導寺信輔の半生』と書いて行って、自ら失敗と感じ、小説の道に行き暮れた思いをした後〔あと〕で、やっとたどりついたのが『海のほとり』[大正十四年八月]である。しかし、『海のほとり』は、十年ほど前に、久米と房州の一の宮の海岸に避暑をした時の思い出を、小説風に書いたもので、ただの小品文であるが、芥川としては珍しく飾り気〔げ〕のない素直な文章で書かれてあって、否味〔いやみ〕がなく、強弁すると、これが、後の、『年末の一日』、『点鬼簿』、『蜃気楼』、その他の、筋のない小説の本〔もと〕になり、芥川がこの種類の小説を書く動磯にもなった。

 ところで、この小品の終りの方で、芥川は、日の暮れに、四人の人にあるきながら話をさせて、海蛇がいるかいないか、という話から、ながらみ[やぶちゃん注:下線部、底本では「ながらみ」に「ヽ」の傍点。以下同じ。][註―螺〔にし〕の一種]取りの話をさせる。ながらみ取りは、沖の方へ泳いで行って、何度も海の底に潜るから、もし澪〔みお〕に流されたら、十中八九は助からない。――というような話から、ながらみ取りの幽霊が出たという噂があったが、……という話が出て、それは幽霊ではなかったが、「幽霊が出るつて言つたのは磯つ臭い山のかげの卵塔場でしたし、おまけにその又ながらみ取りの死骸は蝦だらけになつて上〔あが〕つたもんですから、気味悪がつてゐたことだけは確かなんです、」という話が出る。そうして、結局、それは、海軍の兵曹上〔あが〕りの男が、宵のうちから卵塔場に張りこんでいて、幽霊の正体は、そのながらみ取りと夫婦約束をした、町の達磨茶屋〔だるまぢやや〕の女、とわかり、「唯毎晩十二時前後にながらみ取りの墓の前へ来ちや、ぼんやり立つてゐただけなんです、」というのがオチである。

[やぶちゃん注:「ながらみ」腹足綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科キサゴ亜科サラサキサゴ属ダンベイキサゴUmbonium giganteum。沖縄を除く全国の沿岸砂底に棲息する蝸牛型の巻貝。殼幅は四十センチに達し、キサゴ類では最大種。相模湾では一般的に茹でて食用に供され、関東の市場では「ナガラミ」「ナガラメ」と呼称する。光沢のある綺麗な貝で貝殻は玩具(おはじき)や装飾品とした。和名の「だんべい」とは舟荷専用の大きな川船のことで大きいことを、「きさ」とは表面の木目模様のことを言うか。

「達磨茶屋」は私娼を置いた専ら売春行為が目的の茶屋のこと。語源は、寝ては起きて起きては寝ることのよる。]

 しかし、久米のいう、「変な鬼気」のようなものが晩年の芥川の作品に最初に出たのは、この『海のほとり』の中の、「ながらみ採りの死骸は蝦だらけになつて、……」というところで、この文句には、『鬼気』という程のものは感じられないけれど、何とも云えぬ、不気味〔ぶきみ〕さが漂〔ただよ〕うている、大形〔おおぎょう〕に云えば、何ともいえぬ妖気のようなものが漂うている。そうして、この時分から、この妖気のようなものが、芥川の身に附きまとい、芥川の作品に漂うようになった。しかし、又、この頃〔ころ〕から、芥川の文章が、気味わるいほど、澄んできた、冴えてきた。

 HやNさんに別〔わか〕れた後、僕等は格別急〔いそ〕ぎもせず、冷〔ひえ〕びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音の外に時々澄み渡〔わた〕った蟬の声も僕等の耳へ伝はつて來た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いてゐる蟬だつた。

 これは、『海のほとり』の終りの方の一節であるが、それほど勝〔すぐ〕れた文章ではないけれど、この時分までの芥川の作品の文章とくらべると、かなり違っている。簡潔で、技巧が目立たなくなっている。しかし、蟬の声の聞こえるところなどは、やはり、例の凝りに凝った『技巧』が感じられる。しかし、全体を見れば、素直に書かれているが、結局、『海のほとり』にはまだ幾らか物足りないところもあった。

 ところが、この小品より四月〔つき〕ぐらい後に出た『年末の一日』は『海のほとり』とくらべると、面目一新という観があった。それは、『海のほとり』が十年ほど前の思い出を題材にし、『年末の一日』がその時分の事を書いたためであろうか。それもある。が、そればかりではない。芥川の気もちが、しだいに切迫してきて、自分に即するものを、自分の身についたものを、書きたくなったのである、書くようになったのである。

 しかし、一方、芥川の健康は、しだいに、悪〔わる〕くなるばかりであった。

 その頃の芥川は、やがて滝つ瀬となる急流に、その滝つ瀬にしだいに近づいて行く急流に、船に棹〔さお〕さす人であった。

 こういう状態の中で、『年末の一日』、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『歯車』その他の作品が、つぎつぎに、生〔う〕まれて出たのである。

 さて、『年末の一日』は、八九枚の小品で、書かれてある事は、「年末、ある新聞社の人を案内して夏目先生のお墓まゐりをしたところ、どう道を間違へたか、行けども行けどもお墓のまへに出なかつた。墓掃除の女に訊いたりして、結局は分〔わか〕つたものゝ、その時はもうあぐねつくし、疲れ返つてゐた。そのあとその連れとわかれ、一人とぼとぼした感じに田端まで帰り、墓地裏の、八幡坂まで達したとき、たまたまそこに、その坂を上りなやんでゐる胞衣会社の車をみ出した。自分のその萎えた気もちを救ふため、無理から力を出し、ぐんぐんとその車のあとを押した」というだけの事である。(この荒筋は、久保田万太郎の『年末』という文章の中から、そっくりそのまま、借用したのである。何とうまいものではないか。)

 大体これだけの筋の物で、最後の、胞衣会社の車の後押しをするところだけが異常であるだけで、至って平凡な話である。常識的な云い方をすれば、他の作家がこういう話を書けば、問題にも何〔なに〕もならぬ作品である、もっとも、大ていの作家はこういう話は書かないであろう、という事にもなる。ところが、異常で鋭敏な神経の持ち主になっていた芥川は、こういう有り触れた事を書いて、妙に人の心を打つ小品にした、芥川の心と目が異様に鋭くなり、文章が生き生きしてきたからである、というより、芥川の異常な心が文章に通うようになったからである。(わたくし事を云うと、この小品の終りの方の、「……庚申堂を通り過ぎると、人通〔ひとどほ〕りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきつたまま、爪先〔つまさき〕ばかり見るやうに風立つた路を歩いて行つた、」などというところを読むと、私が、芥川を訪〔たず〕ねる時、その前を通った、庚申堂も、目に浮かび、更に、いくらか猫背であつた芥川が、痩せさらぼうた芥川が、癖で、いくらか俯向き加減に、その頃は場末であった、動坂の裏町を、師走〔しわす〕の夙に吹かれながら、蹌踉〔そうろう〕と、あるいている姿が、おのずから目に浮かんできて、これを書く私の目に涕が浮かんでくるのである。――それはそれとして、この一節などは実にうまい。)

 ところで、この『年末の一日』の中で、目のある批評家も、理解の深い人も、もとより、一般の人が、申し合わせたように、賞讃する、最後の、

 北風は長い坂の上から時々〔ときどき〕まつ直〔すぐ〕に吹き下〔お〕ろして来た。墓地の樹木〔じゆもく〕もその度〔たび〕にさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はかう言ふ薄暗〔うすくら〕がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた。

というところが、私には、やはり、芥川が、見得を切っているように、思われるのである。そうして、見得を切っているとすれば、仮りに、この小品(『年末の一日』)を芝居とすると、この「見得」は九十パアセントぐらいの舞台効果を上〔あ〕げている。

 ところで、ここまで書いて、ふと、この小品を芥川が大正十四年の十二月の初めに書いた事を考えて、私は、ペンをおいた。芥川が、その日常生活に於いて、(は、もとより、)その作品の中でも、しばしば」見えを張ったり、見得を切ったり、する事が、私の頭〔あたま〕にこびりついているので、この『年末の一日』の最後の一節も、さきに引いた『海のほとり』の中の一節も、芥川の見得(あるいは、技巧)ではないか、と、私は、考えたのであるが、この『年末の一日』の最後の一節の中の「まるで僕自身と闘ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた、」という所は、事実は噓であったとしても、これは、その頃の芥川の心境が、おのずから、象徴されたのではないか」――と、ペンをおいた私は、考えなおしたのである。そうして、もしこれが当っているとすれば、北風がときどき吹きおろしてくる長い坂を、痩せ衰えた芥川が、『東京胞衣〔えな〕会社』と書いた箱車の後〔あと〕を押しながら、上〔あ〕がって行くのである、――これは、云う迄もなく、さきに述べたように、芥川の心境の象徴であろう、が、何という痛痛〔いたいた〕しい象徴であろう。

[やぶちゃん注:この、『東京胞衣会社』の箱車が見得を切るための仮構であったか体験的事実であったかという拘りについて、以下の文で宇野は久保田の引用を以って仮構であったと採っている。こうした宇野の悪意ではないがものの、何とも不快な勘繰りや合点に対して、既に私の電子テクスト「年末の一日」の後注で述べものたが、ここでもそれについて注せずにはおれない。諏訪優氏の一九八六年踏青社刊「芥川龍之介の俳句を歩く」の中で、この箱車について興味深い考察をしている。即ち、一般に芥川はこの後押しする箱車に書かれた文字を何度も書いては消しして、考え抜いたに違いなく、そこに芥川らしい、文章に凝る面目があると褒める人が多い。しかし、これは実際に経験したことをありのままに書いたに違いないと私(諏訪氏)は信じるようになっている、として以下のように叙述されているのである(なお、諏訪氏は「芥川龍之介の俳句を歩く」執筆当時、田端に在住していた)。

 《引用開始》

と言うのは、同じ坂を登り下りし、このあたりの、今はないもろもろの路地を知ってたずねたりしているうちに、この八幡坂を登り芥川家の方へ右折して(坂から芥川家までは三、四分)その先を田端駅裏口へ出る崖の上に、東京胞衣会社の処理場(塚)があって、胞衣神社というちいさな社が実際にあったからである。

 胞衣は出産の際に出る廃棄物で(いわゆる水子も含まれていたと想像する)、当時はそんな処理の仕方をしていたようである。

 大正十四年の年末の心象風景を現実の田端のわびしさに重ねて成功したこの小品の決手のひとつ〝東京胞衣会社〟は、期せずして八幡坂上のそこにあったことをわたしは信じて疑わない。

 《引用終了》

とし、以下にその胞衣神社について、東京胞衣会社が経営していた事実などを考証、最後に御自身による踏査によって、『芥川龍之介が胞衣会社の箱車を押した坂は八幡坂ではなく東覚寺坂である。(「年末の一日」のその部分は「庚申堂」を通り過ぎ、「墓地裏の八幡坂の下」で箱車に出会う、から)道筋から言って東覚寺坂である』と記されている。『文学の鬼』宇野が自分の記憶と如何にもロマンティックにダブらせつつ、それでも見得を切るために「異常な」箱車を芥川は「いつものように」仮象として出現させたのだ、と言っている(宇野はこの箱車を押したことは「本当の話」とするが、それは特に以下で引用する佐々木の証言から東京胞衣会社ではなかったという例によって『鬼の首を取った』解釈をしているように思われる)と、この諏訪氏の堅実な冷徹な考証と――私は諏訪氏こそ真に鬼の眼を持った作家である、見鬼である、と言いたい。

更に、最後に一言言わせてもらえば、「年末の一日」は宇野の言う通り、『他の作家がこういう話を書けば、問題にも何もならぬ作品であ』り、作家として安泰に生きて行こうとする『大ていの作家はこういう話は書かない』なんてことは言わずもがなな物言いである。芥川龍之介が自死せずに戦後までずっと生きていたと仮象してみればよい。「年末の一日」は、凡そ芥川龍之介の名作として残るはずが――絶対に、ない――のである。芥川龍之介が自死を覚悟しつつ本作を書き、その自死を確かに貫徹したことによってのみ、本作は名作となったのである。本作は芥川龍之介の自栽へと向かう孤独な死の道程の道標として生きたのである。いや、本来、我々の綴る作物とは、その濃淡は激しいものの、実にそういうものを何処かに内包しているものなのではあるまいか(私はそれこそが正に「文章が生きている」ということなのだと信ずるものである)。少なくとも名作とされるものは、作者の生と裁ち難く有機的に結びついているものである。だから『文学の鬼』宇野にして、こうした凡百自称文士的発言をするのは、残念なことに、読んでいて虫唾さえ走るのである。彼が確かに芥川龍之介の直近にあって彼を深く愛していたればこそ、この場面での論理的な無理解や絶望の意識への感受性の共時性のなさには、私は何とも言えず、哀しい思いが、してくるのである。]

 ところが、芥川の『或阿呆の一生』について、「最後まで美しく扮装しつづけた、」と云い、「逐に本音を吐かず、自分をむき出しにすることなしに終つた、」と述べた、[以上は、吉田精一の『芥川龍之介の芸術と生涯』で知った。――が、私も、この久保田の説に半分以上同感である]、久保田万太郎が、『年末の一日』について、先きに私が引いた、最後の一節を引用して、そのあとに、つぎのように、書いている。

[やぶちゃん注:私は1/3位同感である。]

 そして、この作[つまり、『年末の一日』]は、かうした哀しい結尾[さきに引いた最後の一節]をもつてゐる。

 十枚にもみたないであらう小品だがわたしの好きな作である。好きといふ意味はいつまでも心に残つていとしい作である。大正十四年十二月の作だから、これを書いたあと、間もなく、かれは、「点鬼簿」「玄鶴山房」を経て「河童」、を書いたのである。そして、そのあと、かれは死んだのである。……ことによると、このとき、……すでにこの時それを意識してゐたかれだつたかも知れないのである。でなくつては、「……闘ふやうに一心に箱車を押しつゞける」かれのすがたはあまりに惨〔みじ〕めである。曇つた空の下、ふきすさぶ風の中、どうしたら自分をはッきりつかむことが出来るか、どうしたらかれ自身その存在をたしかにすることが出来るか?……泣かうにももう涙の涸れた瀬戸の、空しい眼をあげてたゞ遠いゆくてをみまもるかれの頰のいかに蝮の如く冷めたかつたことよ……

 しかも、かれは、かれ自身この苦しみを飽くまではッきりさせようとした。飽くまでたゞしく伝へようとした。わたしはこれをその当時「新潮」の編輯をしてゐた佐々木千之君に聞いた。その八幡坂を上りなやんでゐた車、かれの力のかぎりをつくしてそのあとを押した箱車の、その横に広いあと口に東京胞各会社の数文字を書くまで、幾度その一行を書きかへたか知れないのだつた。胞衣会社の箱車をえてはじめてかれはかれ自身納得〔なつとく〕したのである。……わたしはこれを聞いたとき、身うちの冷え切るのを感じた。

[やぶちゃん注:「佐々木千之」(明治三十五(一九〇二)年~平成元(一九八九)年)は作家・出版人。大正一三(一九二四)年『新潮』の記者となり、同郷作家葛西善蔵と親交を持つ。後に小学館に勤務、作家としては「和井内貞行」「間宮林蔵」などの伝記作品を手掛け、昭和十八(一九四三)年には畏友の晩年を綴った「葛西善蔵」を刊行した(青森県近代文学館の記載を参考にした)。]

 これを読んで、魯鈍な私は、いろいろな事を学んだ。まず、芥川が、八幡坂を箱車を押したのは本当の話で、その箱車を何〔なん〕の箱車にしようか、と思って、それを「東京胞衣会社」と極〔き〕めるまでに、それだけに、何度も何度も書き改めたことを知って、重い辛〔つら〕い病気にかかりながら、然程〔さほど〕までの苦労をしたのか、と、私は、感激しながら、詫びる心を兼ねて、芥川に、頭〔あたま〕を下〔さ〕げた。それから、『名匠は名匠を知る』というか、久保田が、芥川の苦心に、深い同情と理解のこもった文章を書いているのを読んで、久保田も、亦、芥川ような苦心をする人にちがいない、と、思って、私は、又、感激したのである。

 しかし、結局、私は、『年末の一日』を、久保田が誉〔ほ〕める程には、買えない。

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