宇野浩二 芥川龍之介 二十~(3)
芥川の著作年表を見ると、昭和二年の一月号には、『悠々荘』、(「サンデー毎日」)、『彼』、(「女性」)、『彼(第二)』、(「新潮」)、『玄鶴山房(一)』、(「中央公論」)、とある。
昭和二年の一月号の雑誌が出た時分には、私は、前の年の十一月の末に、芥川が、鵠沼の東家で、「新年号の小説を三つ引きうけて、もう半分ぐらい書いた、」と、眉をつりあげて、云った時は、『眉唾物』だ、と思いながらも幾らか期待もしたが、その時分には、そんな事を忘れてしまっていた。しかし、「中央公論」に、『玄鶴山房』の㈠が、雑誌で、二ペイジ半ぐらいしか出ていないのを見て、私は、自分の小説が出来なかった事を棚〔たな〕に上げて、「何だ、例のとおりだ、」と思った。『例のとおり』とは、芥川がよく一つの小説を分載することがあったからであり、『何だ』とは、いくら分載にしても、その出し方の分量があまりに少〔すく〕な過ぎるので、ちょいと軽蔑する気もちになったからである。(しかし、それは、今おもうと、あの時、⦅芥川と鵠沼で逢った時、⦆
芥川とわかれてから、鎌倉に中学校の同窓の大木という海軍中尉をたずね、大木と横須賀に行って一泊した時、構想を得た『軍港行進曲』という小説を書くための『励〔はげ〕み』になった。)
ところで、今度〔こんど〕、この年表と全集とを参照して、私は、あの時の芥川の言葉をあまり頭〔あたま〕に置き過ぎた事を、今更ながらに、恥じた、つまり、芥川のよくやる手で、あの時、芥川は、あんな事を云って、わざと、私を、おどろかし、なぶったのである、つまり、私は馬鹿を見たのである。その一〔ひと〕つの例は、あの時、芥川は、無闇〔むやみ〕に、「中央公論」、「中央公論」、と云いつづけ、「僕も、『中央公論』だけには、出すつもりだ、」「君〔きみ〕も、ほかは止〔や〕めても、『中央公論』だけは、……」などと云いながら、「中央公論」は、大事〔だいじ〕を取って、後〔あと〕まわしにして、(この雑誌には『玄鶴山房』を出すつもりで、)「サンデー毎日」に、一〔ひ〕と月〔つき〕ほど前に、みじかい楽な物(『悠々荘』)を書いてしまい、二週間ぐらい前に、これも、楽〔らく〕に書けたらしい『彼』を「新潮」に送ってしまっていたので、のうのうとして、「新年号の雑誌を三つ引きうけて、もう半分ぐらい書いたよ、」(『ヘン、どんなもんだい、』⦅と、これは、心の中で、⦆と、私に、云ったのである。
しかしこんな憎まれ口のような事を書いてしまったが、これは、私が、その時の「サンデー毎日」を見ていなかった上に、「新潮」に出た『彼』も、うかうかと、読みながしてしまったからである。それを、今度〔こんど〕、『悠々荘』と『彼』を読みなおして、私は、いたく心が寒くなるのを覚えたのである。『悠々荘』は六枚ぐらいであり『彼』は十七八杖である。極度の神経衰弱にかかっていた芥川には、二十日の間〔あいだ〕に二十三四枚ぐらいでも書いたという事は大変な苦労であったにちがいない。
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ベルは木蔦〔きづた〕の葉の中に僅に釦〔ボタン〕をあらはしてゐた。僕はそのベルの釦へ――象牙のベルの釦へ指をやつた。ベルは生憎〔あいにく〕鳴らなかつた。が、万一鳴つたとしたら、――僕は何か無気味になり、二度と押す気にはならなかつた。
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これは『悠々荘』の終りの方の一節であるが、「僕」という主人公より、読む者の方が「何か無気味」な感じがする。猶、この小説の終りに、特に、『鵠沼』と書いてあるが、鵠沼の芥川の住んでいた辺に、このような廃屋があったのであろうか。
[やぶちゃん注:私はかれこれ四十七、八年前、叔父が住んでいた鵠沼をしばしば訪れたが、私の記憶の中に、正にこんな風な廃屋が実際にあったのを覚えている。]
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棕櫚の木はつい硝子窓の外〔そと〕に木末〔こずゑ〕の葉を吹かせてゐた。その葉は文全体も揺〔ゆ〕らぎながら、細〔こま〕かに裂けた葉の先々〔さきざき〕を殆ど神経的に震はせてゐた。
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これは『彼』の中の一節である。
こういう事を、骨と皮のようになった芥川が、あの鵠沼の小〔ちい〕さい借家の二階で、しじゅう幻覚におびえながら、書いていたのである。
大正十三年の初め頃からますます健康のわるくなっていた芥川は、しだいに創作力もおとろえて来た、得意であった歴史物の種も尽きて来た。
[やぶちゃん注:よく見ると、ここは見開き右側のページの終行ながら、次が実は一行空いているのが分かった(一頁行数を数えて判明)。]
大正十三年の一月に芥川が書いた『一塊の土』は、(これもずっと前に述べたが、私はこの小説を「新潮」で読んだ時、「これは、おかしい、」と頸をひねった、「これは、芥川の小説らしくない、芥川の小説ではない、」と思ったからである、ところが、)非常に評判がよかった、それは、久しぶりで、芥川が、芥川風ではないが、おもしろい小説を書いたからでもあるけれど、すぐれた作品であったからでもある。それで、この小説を、たしか、いつも悪口をいう正宗白鳥もほめ、片岡鉄兵などは、「一塊の土と朽ち果てる運命が恐ろしいはど冷やかに客観され、必然を追つて描写されてゐる、」と述べ、「或る意味で写実の極致であらう」とまで賞讃している。
それから、もう一〔ひと〕つ、これは、小説でなく、小品であるが、『トロツコ』が、大正十一年の三月号の「大観」に出た時も、私は、「これは、……」と思った。『これは』とは、「これは、芥川の作品らしくない、」という意味である。ところが、この小品も、一般に評判よく、教科書や副教科書などに採用されている。
私が、『一塊の土』にも、『トロツコ』にも、おなじような軽〔かる〕い疑いをいだいたのは、漠然と、都会人である芥川が、(田舎というものに殆んど何の関心も興味も持っていない芥川が、)こういう題材の物を書くのは凡そ無理だ、と思ったからである、殊に、『一塊の土』のような、一〔ひ〕と昔ほど前の自然主義の作品を思わせるような、小説を、芥川が、書こうと思ったのは、書いたのは、不自然のように思われたからである、そうして、決して皮肉な意味でなく、あの絢爛な文章で波瀾に富んだ『王朝物』や『切支丹物』を書いた作者が、どうして、こんなくすんだ地味〔じみ〕な小説を……と考えたからである。
ところで、『一塊の土』が好評を博していた頃、誰いうとなく、「あれは芥川が書いたものでは ない、」という噂が立った。しかし、もとより、噂であるから、それは、いつとなく、立ち消〔ぎ〕えになった。
ところが、その頃から二十六七年後に、――昭和二十六年に、――「改造」[昭和二十六年]に出た、滝井草孝作の『純潔』という小説の中の、つぎにうつす一節を読んで、私は、『一塊の土』、その他 に対する真相のようなものを、知った。
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……この時分、芥川さんは他人の材料で書く癖も、二三あつたやうで、大正十年三月に出た田舎風景の『トロッコ』、これは、芥川さんは、私に向いて「力石君から貰ひ受けた五六枚の原稿で、書き改めたのだが、力石君は『トロッコ』を出たのを読んで、ひどく悄気〔しよげ〕てゐた。永久に俺のぢや無〔な〕うなつた、と云つてネ、大事な掌中の玉を奪はれたやうにネ」と、話し、その湯河原から出て某社の校正係と云はれる力石青年は、控へ目なおとなしい人で、その時分、澄江堂連中の一人でした。また、十三年一月に出た百姓女を描いた秀作『一塊の土』も湯河原生れの力石君の協力した材料のやうでした。この青年とは何か格別の間柄があつたのでせう。ふかい親し味があつたからこそその材料を採り上げて製作されたわけで。
[やぶちゃん注:「力石君から貰ひ受けた」既に宇野は「十二」でこの件を仄めかしているが、原案提供者は力石〔ちからいし〕平蔵(明治三十一(一八九八)年~昭和五十(一九七五)年)で芥川龍之介に私淑、芥川の元に出入りしていた文学志望の青年であった。大正十五(一九二六)年の『文藝春秋』に載る小説「父と子と」が唯一の知られる小説である。]
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私などが今更いうまでもなく、この滝井の文章は、芥川の文学についての、実に貴重な文献である。殊に私には大へん為めになった。が、この滝井の文章の最後の「ふかい親し味があつたらこそその材料を採り上げて製作されたわけで」という文句は私には不可解である。
しかし、又、この滝井の文章を読むと、『トロッコ』の最後の、
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良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に校正の朱筆を握つてゐる。……
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という文句もわかり、ついでに、おなじ良平の出てくる『百合』[大正十一(一九二二)年]の最初の、
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良平は或雑誌社に校正の朱筆を握つてゐる。しかしそれは本意ではない。彼は少しの暇さへあれば、翻訳のマルクスを耽読してゐる。
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という一節も思い出されて、ますます面〔おも〕白い。それは、この良平が滝井の文章の中の「力石君」とすれば、芥川は、この『百合』の素材も、力石君から、貰ったか、「採り上げたか」、どちらかである、という事になるからである、それから、これも前に書いたように、後〔のち〕に、『玄鶴山房』の最後の方で、大学生に「リイプクネヒト」を読ませて、一部の人に問題をおこさせたが、すでに、その時より五年も前に、この『百合』の最初の方で、校正係に、「マルクス」を読せているナ、と思い合わせて、ほほ笑〔え〕ませるからである。
ところで、さきに引いた滝井の文章の中に、芥川が、力石から、「材料を採り上げて、……」というところがあるが、ここだけ読むと、芥川は何〔なに〕か無法な人のように思われる。しかし、それは、ちがう。
前にしはしば述べたように、芥川は、(芥川だけに限らないが、特に、)素材がないと、殆んど物の書けない人であった。誇張して云うと、芥川は、素材の選択に成功したために、文壇に出たようなところさえある。そうして、その素材とは、思いうかぶままに、順序不同に、上げると、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『古今著聞集』、『古事談』、『十訓抄』、『古事記』、『平家物語』、それから、『聊斎志異』、それから、切支丹に関する諸文献、それから、ゴオゴリ、ストリンドベルヒ、メリメ、モウパッサン、フランス、シング、ブロウニング、ポオ、その他の小説や戯曲や詩、等、等、等、である。そうして、芥川は、これらの物を素材にして小説をつくる名人であったのである。
[やぶちゃん注:「ブロウニング」イギリスの詩人Robert Browning(ロバート・ブラウニング 一八一二年~一八八九年)のこと。]
ところが、これも先きに述べたとおり、これらの物から自分にむく素材を取りつくした時分から、芥川は、おもい病気にかかったのである。そうして、病気のために、芥川は、たといよい素材が見つかっても、得意の、構想を工夫〔くふう〕する気力も、文章を練〔ね〕る気もちも、なくなった。
芥川が、力石の五六枚の原稿を書き改めたり、力石の持っていた材料を「採り上げ」たり、したのは、そういう時分であった。しかし、芥川は、さきに述べたように、世に聞こえた東西古今[この『今』には、鷗外、漱石などがはいっている]の古典や名著から、結構をまなび」自分の気に入った素材を「採り上げ」て、名作と称せられた幾つかの小説を書いてきた。されば、芥川は、いわば無名の校正係の「五六枚の原稿」や『話』を、素材に、「採り上げ」るくらいの事は、何でもない事だ、と思っていたのであろう。しかし、こういう事は、私には、経験のない事であるから、よくわからない。
大正十一年の二月十六日に、芥川が、佐佐木茂索に宛てた手紙の中に、「今夜一夜〔いちや〕に小説一篇を作つた」という文句があるが、この一夜づくりの小説が『トロツコ』である。しかし、『トロツコ』は、小説でなくて、小品である。しかし、それも、ただ書かれてある、というだけで、妙にぎくしゃくしていて、骨っぽく、何〔なに〕か痩〔や〕せている、というような感じがする。
骨っぽくて、痩せている、と云えば、この年〔とし〕の一月の「新潮」に出た、評判のよかった、『藪の中』にも、ぎくしゃくした、骨っぽい、感じがある。『藪の中』は、久しぶりで、例の『今昔物語』(巻二十九の第二十九話)から取ったもので、これも、久しぶりで、手法も、技巧も、ずいぶん工風を凝らしているが、極言すると、テエマが露骨に出すぎている。だいたい、芥川の小説は、その初期から、テエマ小説であった、唯、初期から中期へかけての、脂〔あぶら〕の乗った、小説は、独得の、修辞と技巧たっぷりの文章の方が勝っていたので、菊池の小説のように、(これは本人が『テエマ小説』、『テエマ小説』、と云いふらしたからでもあるが、)テエマ小説とは殆んど見えなかった。
[やぶちゃん注:「『今昔物語』(巻二十九の第二十九話)」は巻二十九の第二十三の誤り。それにしても――宇野は『テエマが露骨に出すぎている』とし、「藪の中」を『テエマ小説』と一刀両断にして憚らないんだけど――宇野さんよ、じゃあ、「藪の中」の『露骨』『すぎる』真相と『テエマ』とやらも、ここで一気に語って欲しかった――な――そんなに簡単明快露骨出来というのなら――後人やこの私が、こんなに喧々諤々議論するわきゃ、ねえだろが!――]
ところが、その特徴であった、美辞麗句を使わなくなった、(私は、これは、かなり重〔おも〕い病気が幾つかあったので、しぜんに、しだいに、そういう骨の折れる凝った仕事が出来なくなったのではないか、と思っている、)小説は、冬になって、木が枯れ、葉が落ちると、林の木の正体が見えてくるように、テエマ小説の正体をあらわしたのである。私は、きびしく云うと、それが、大正十一年の一月の雑誌に出た、『将軍』、『藪の中』、『俊寛』、に見られる、と思うのである。
しかし、芥川は、『トロツコ』を書いてから、これも、久しぶりで、切支丹物の『報恩記』を書いた。これは、『藪の中』が好評であったからか、(それとも別の工夫〔くふう〕が出来なかったためか、)『藪の中』と殆んど同じテエマで、構想も幾らか似ているが、『藪の中』、より一そう物語風〔ふう〕である。(芥川は、テエマ作家であると共に物語作者であった。それが一般の読者にも受ける所以であろう。)ところが、その物語は、芥川の昔ながらの好みの逆説的の面白さはあるけれど、通俗的なところもあって、手法も低調である。それに昔のような張りがない、何〔なに〕か弱弱しい感じさえする。これは切支丹物の下〔くだ〕り坂を示すものであろう。
その次ぎは『お富の貞操』と『六の宮の姫君』である。
『六の宮の姫君』は、(これも、)例の『今昔物語』(第十九の第五話)に依ったものであるが、この小説は、よしあしは別として、芥川が『今昔物語』から素材を取った最後の作品であり、芥川の小説らしい小説の最後の作品である。この小説は、(谷崎潤一郎も書きそうな物語で、純日本風の女が主人公になっているが、)素材とした『今昔物語』の話を、芥川は、自分の言葉と文章に書き改めただけで、ほとんどそのまま使っている。この時までに、これも先きに述べたように、芥川は、処女作以来、『今昔物語』の話の中から素材を取って、幾つかの小説を書いている。そうして、それらの小説は、唯その素材を『今昔物語』の話の中から取った、というだけで、大てい皆、『芥川の小説』になっている。それで、原作と違った面白味が十分〔じゅうぶん〕に出ている、ところが、この小説(つまり、『六の宮の姫君』)は、本〔もと〕の話(と書き方)が殊にすぐれているからでもあろうが、そうして、本〔もと〕の話の筋を殆んどそのまま使ったためであろうか、芥川のこの小説より『今昔物語』のその話の方がすぐれているところもあるのである、(例えば簡潔に書かれてあるという事だけでも。)そこで、この『六の宮の姫君』は、『今昔物語』の話に仮りに負けたとしても、これは、芥川の芥川らしい小説の最後の『火花』である、と、私は、思うのである。
それから、この年(つまり、大正十一年)の作品の中で、注臥すべき小説が一〔ひと〕つある。それは『庭』という小説である。題は『庭』である.が、この小説は、年月〔としつき〕と共に変る庭の有〔あ〕り様〔さま〕を述べながら、その庭のある旧家に住んでいる人たちの生活のうつりかわりを、手際〔てぎわ〕よく、書いたものである。この旧家に住む人たちは大〔たい〕てい癈人か廃人である。いうまでもなく、『廃人』とは「心身完〔まった〕からざるところありて、世の用をなさぬ人、世用に堪えぬ人」という程の意味であり、『癈人』とは「創痍又は不治の病〔やまい〕にかかっている人」、という程の意味である。まったく、この小説に出てくる人たちは、殆んどその通〔とお〕りで、隠居の老人、その老妻、跡つぎの癇癖〔かんぺき〕の強い長男、その病身な妻、脳黴毒のために精神病者になっている次男、行方〔ゆくえ〕不明になる三男、その他である。さて、この小説では、まず、隠居の老人が、「或る旱〔ひでり〕の烈〔はげ〕しい夏、脳溢血のため」に、頓死し、次ぎに、長男は、癆症〔ろうしょう〕(今の肺病)にかかり、唯ひとり、「夜伽〔よとぎ〕の妻に守られながら、蚊張〔かや〕の中」で、息をひきとり、長男の妻は、夫と同じ病気で、血を吐いて、死に、次男は、離れで、「誰も気づかないうちに、」死んでしまう。
この小説は、何年かの話を、何人かの風変りな人間の性格と生活を、殆んど一句一行も無駄なしに、含みのある簡潔な文章で、書かれてある。この小説は、寡聞な私の知るかぎりでは、山本健吉のほかに、ほめた人もないようであり、この小説を問題にした評論家もないようであるが、芥川の中期(あるいは、後期)の作品の中でもっともすぐれた小説の一〔ひと〕つである。こう私は信じるのである。
[やぶちゃん注:「庭」に関しては私も宇野の意見に一二〇%同意する。]
さて、私が、さきに、この作品を「注目すべき小説」である、と述べたのは、この小説は、芥川の、晩年の、『春の夜』、『玄鶴山房』、という一列の作品の一ばん初めの物であるからだ。
この世の中にあってもなくてもよいような一家、いや、極端にいえは、ない方が増しなような、癈人と廃人が主人公であるような、家族、――それが、つまり、『春の夜』の野田の家であり、『玄鶴山房』の堀越の家であり、この『庭』の中村の家である。中村の家には、肺結核の病人が二人〔ふたり〕と癈人が一人〔ひとり〕と精神病者が一人〔ひとり〕いる。野田の家にも、肺結核の病人が二人いる。堀越の家には、肺結核の病人が一人と癈人が一人いる。(癈人も、肺結核の病人も、前に述べたように、『癈人』であるが、ここでは、便宜のために、二種に分〔わ〕けた。)
ところで、『庭』では、二人の病人も、精神病者も、死んでいるが、癈人(老妻)は生き長らえている、『春の夜』では、二人の病人は生き長らえている、『玄鶴山房』では、病人は死に、癈人は生きながらえている。――これは、作者の芥川がそのようにしたのである。
それから、『庭』の老妻は、頭瘡を病〔や〕んでいる。(『頭瘡』とは「頭上に発する一種の瘡〔かさ〕」であり、『瘡』とは「皮膚に発する腫物〔はれもの〕の総称」であり、「黴毒のこと」でもある。)ところが、この老妻の頭瘡は、その「臭気をたよりに、夜更〔よふけ〕には鼠が近寄〔ちかよ〕つて」くるような、堪えがたい臭気を発する。臭気といえば、『玄鶴山房』の初めの方にも、「忽ち妙な臭気を感じた。それは老人には珍しい肺結核の床〔とこ〕に就いてゐる玄鶴の息の匂〔にほひ〕だつた、」という一節がある。――これも、(この常人には考えもつかないような臭気も、)やはり、芥川が、創作したものである。
『庭』[これは、前に書いたように、大正十一年の作であるが]、『春の夜』、『玄鶴山房』、――この三つの小説は、くりかえし云うが、芥川の晩年の作品の中で、(小説のよしあしは別として、)特殊の位置を占〔し〕めるものである。
但し、私は、私の好みでは、このような種類の小説は嫌いであるが、そのような事は別にして、この三つの小説の中で、『庭』と『玄鶴山房』とは、一般の小説として見ても、すぐれた作品である。
(余話であるが、『玄鶴山房』が、昭和二年の二月号で完結した時、早速〔さっそく〕それを読んだ私が、芥川があそびに来た時、「あれは、実にうまいと思って、感心したが、ずいぶん気もちの悪〔わる〕い小説だね、僕は、あんな気もちの悪い陰気な小説はきらいだ、」と云うと、芥川は、「うん、」と云っただけで、すぐ、何〔なん〕ともいえぬいやアな顔をした。)
[やぶちゃん注:ここで偏執的で古典的な分類学の好きな宇野が「癈人」と「廃人」を区別しているのは――時代的差別性や宇野の個性という条件を考慮しても、これはやるべきではない言われなき差別に繋がる行為である――極めて不快な印象を与える。人はおうおうにして「嫌い」なものについて語る時、鮮やかに卑俗に差別的になるという事実を、これらは物語っていると言える。]
この考えは今でも変らないが、私は、芥川の最晩年(つまり、大正十五年の末頃から死ぬまで)の幾つかの作品の中で、極言すれば、小説らしい小説は『玄鶴山房』だけである、と思っている。そうして、もっとも評判のよい『歯車』も、世評のよい『点鬼簿』も、一部の人たちにもっとも認められている、『海のほとり』、『年末の一日』、『蜃気楼』[傍題に『或は「続海のほとり」』とあるが、まったく別の作品である]その他は、すぐれた作品ではあるが、(『歯車』だけは別としても、)小説とは別の物である、と、私は、思っている。これらのことは、例のごとく、後〔のち〕に述べるつもりである。
ところで、さきに上げた『庭』は、小穴隆一に聞いた話を本にして、芥川が、自分流に、いろいろ工夫〔くふう〕をして、書いたものであろう。
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庭は二年三年と、だんだん荒廃を加〔くは〕へて行つた。池には南京藻〔なんきんも〕が浮〔うか〕び始め、植込みには枯木が交〔まじ〕るやうになつた。その内に隠居の老人は、或旱〔ひでり〕の烈〔はげ〕しい夏、脳溢血の為〔ため〕に頓死した。頓死する四五日前、彼が焼酎を飲んでゐると、他の向うにある洗心事[註―東屋(あずまや)]へ、白い装束をした公卿〔くげ〕が一人、何度も出たりはひつたりしてゐた。少くとも彼には昼日〔ひるひ〕なか、そんな幻〔まぼろし〕が見えたのだつた。翌年は次男が春の末に、養家の金をさらつたなり、酌婦と一しよに駈落〔かけお〕ちをした。その又秋には長男の妻が、月足〔つきた〕らずの子を産〔う〕み落〔おと〕した。
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これは『庭』の中の一節である。これは、『庭』が、どのような事を、どのような文章で、書かれてあるか、という見本のつもりで、うつしたのである。これは、いうまでもなくありふれた言葉であるが、一字一句抜き差しならぬ簡潔な文章である、簡潔すぎる文章である。しかし、そういう事よりも、私は、こういう事を、(このような薄気味のわるい事を、)書いた作者(芥川)の気もちを、考えて、頸〔くび〕をひねるのである。
この小説(つまり、『庭』)は、これも前に述べたかと思うが、小穴から聞いた話を本〔もと〕にして、作ったものである。もとより、小穴が芥川にどういう話をしたかはわからないが、大体〔だいたい〕この『庭』にあるような話をしたのであろうが、それには、芥川の考えた事や好みが随分はいっているにちがいない。とすれば、右の一節の中の、隠居の老人が、昼日〔ひるひ〕なか、白い装束をした公卿が、庭の池の向うにある東屋に、何度も出たりはいったりしたのを、幻〔まぼろし〕に見た、というのは、(それが小穴の話の中にあったとしても、それをこのように書いたのは、)芥川の創意である。
例の『芥川龍之介研究』[前にも書いた「新潮」主催の座談会]の中に、「鬼気といふこと」、「死の影のある作」などという題目があるが、(その座談会の記事にははっきり出ていないけれど、)一部の人は、それが、(それに近いものが、)『海のほとり』、『年末の一日』、『点鬼簿』、『蜃気楼』、『歯車』などに、出ている、と云っている。が、それは結果論であって、私は、芥川の晩年の作品に、(その他の作品にも、)「死の影のある作」はあるかも知れないが、「鬼気」のある小説などは殆んどない、と思っている、そうして、それに近いものを、強〔し〕いて(「強いて」である)上げれば、この『庭』と『春の夜』と『玄鶴山房』と、それから、調子の低いものではあるが、『温泉だより』などである。結果論といえは、廣津和郎が、『芥川龍之介研究』の座談会で、「徳田さんが『点鬼簿』を小説ぢやないといつて批評されたことがあつた。それで、僕は、大体小説ぢやないが、しかしあれは死の隣にゐるから、さういふ点から見なければならぬといふやうな事をいつて、徳田さんに対する反駁をあの頃新聞に書いたんですが、あれを読んでゐると死ぬと思つたな、」と述べている。それに対して、川端康成が、「結果論でせうが、後〔あと〕で見るとさういふ気がしますね、」と云っている。さて、その廣津の批評を読んだ芥川が、廣津に宛てて、「けふ或男が報知新聞を持つて来て君の月評を見せてくれた。近来意気が振〔ふる〕はないだけに感謝した。僕自身もあの作品[註―『点鬼簿』]はそんなに悪くないと思つてゐる。[中略]この手紙は簡単だが(又君に手紙を書くのは始めてかと思ふが、)書かずにゐられぬ気で書いたものだ、」[大正十五年十月十七日]と書いている。――私は、ここに見る友情の美しさに、いたく心を打たれた。
さて、私が、さきに『庭』を、(過褒と承知しながら、)殊更に取り上げたのは、『庭』が出た翌月に発表された『六の宮の姫君』が一般に過大に評価されたことが気に入らないからでもある、というのは、『六の宮の姫君』は、芥川らしいところが殆んど全〔まった〕くなく、(つまり、創意がなく、)全体が古〔ふる〕めかしく、よくない意味で通俗的であり、筋の運〔はこ〕びは巧みであるが有り触れており、(これは、さきに述べたように、素材にした『今昔物語』の話そのままであり、)殊に、終りの方の、先きに引いた、「何〔なに〕も、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いて参〔まゐ〕りまする、」などというところは、わざと俗な言葉をつかうと、いわゆる『殺し文句』のようなものである。(ついでに云えば、『御所桜堀河夜討〔ごしょざくらほりかわようち〕』の三段目の終りの方で、初めて逢う父の弁慶に殺される侍女信夫〔じじょしのぶ〕が死の真際〔まぎわ〕に、「もう目が見えぬ、耳が聞えぬ、」というところがあるが、両方とも、きびしく云えば『サワリ』である。)
[やぶちゃん注:「サワリ」この場合の用法は、通常の「勘所」「見どころ」の意ではなく、義太夫節で他の節〔ふし〕に触っているという意で用いられる、義太夫節以外の他流の曲節を取り入れること、卑俗な慣用句の流用という批判的な謂いである。]
このような一節とくらべると、これは、死ぬところではないが、『庭』の中の、
*
……一度掘つた池を埋めたり、松を抜いた跡へ松を植ゑたり、――さう言ふ事も度度〔たびたび〕あつた。
殊に廉一を怒〔おこ〕らせたのは、池の杭〔くひ〕を造る為に、水際の柳を伐〔き〕つた事だつた。「この柳はこの間〔あひだ〕植ゑたばつかだに。」――廉一は叔父を睨みつけた。「さうだつたかなあ。おれには何だかわからなくなつてしまつた。」――叔父は憂鬱な目をしながら、日盛〔ひざか〕りの池を見つめてゐた。
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というところは、次男の頭〔あたま〕が狂〔くる〕っているのを書いたものであるが、これは見事〔みごと〕というほかに言葉がない。
しかし、この短篇(十五六枚ぐらい)を書いてから、芥川は、『これ』という物を書かなくなった、(書けなくなったのである。)
芥川は、『庭』を出した二〔ふた〕た月〔つき〕前[大正十一年五月]に、『お富の貞操』を発表した。これは、むかし得意であった「開化物」の一〔ひと〕つで、書きはじめる前に実に周到な用意をした、それだけに、描写は、写実的に、細〔こま〕かすぎるほど細〔こま〕かかったが、未完であった。しかも、枚数はおそらく十二三枚である。私は、これを「改造」の五月号で読んだ時、こんな書き方をして、後〔あと〕はどうするのであろう、と思った。ところが、その続きは、六、七、八、と飛んで、九月号の「改造」に出た。両方あわせて二十七八枚であろうか。芥川は、もとより、短篇作家である、そうして、すぐれた短篇作家であった。しかし、『お富の貞操』は、ほめる評論家はあるけれど、部分部分の描写がうまいというだけで、(それも普通のうまさだ、)決〔けっ〕して勝れた小説とは云えない。
それから、『お富の貞操』と同じ月に出た『おぎん』も、(ついでに書けば、その翌年の四月号の「中央公論」に出た『おしの』も、)やはり、芥川がむかし得意にした「切支丹物」ではあるが、共に、昔のような魅力はなく、その作者の芥川も、既に、王朝物にも、切支丹物にも、開化物にも、興味がうすれ、魅力が感じられなくなった。それに、そういう小説を書く根気がなくなった。
芥川が、歴史物(王朝物、切支丹物、その他)を書けなくなった事は、いわゆる芥川の文学とわかれる、という事である。されば、いわゆる「保吉物」を書き出すと共に、芥川の文学はなくなった、と見るべきである。
しかし、それは、私の(私だけの)見方〔みかた〕であって、芥川は、そういう昔を題材にした小説が書けなくなると、まず、『私小説』の形で、回想の小説を、書きはじめ、それから、身辺小説のような物に、はいって行った。(すると、私の思う芥川の、⦅あるいは、芥川らしい、⦆文学より、その後の身辺小説風の作品を愛読する人が随分できた。)
さて、芥川は、回想の小説の手はじめに、まず、横須賀の機関学校につとめていた時分の思い出を、順順に、書いて行った。それが謂わゆる「保吉物」である。

