「新編鎌倉志卷之一」本格注作業開始
既に公開している「新編鎌倉志卷之一」は、実は最初に電子テクスト化を行なったために(先の見通しが五里霧中であった故に)、殆んど注を附していなかった。今回、最初から本格的な再注作業に入った。更に以上の作業の中で、再度、全文校訂もすることにした。作業終了分までは逐次アップする方式を採り、冒頭注の最後に(赤字表記)、何処まで完了したかを示す。
本日は「鎌倉大意」まで完了した。
« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »
既に公開している「新編鎌倉志卷之一」は、実は最初に電子テクスト化を行なったために(先の見通しが五里霧中であった故に)、殆んど注を附していなかった。今回、最初から本格的な再注作業に入った。更に以上の作業の中で、再度、全文校訂もすることにした。作業終了分までは逐次アップする方式を採り、冒頭注の最後に(赤字表記)、何処まで完了したかを示す。
本日は「鎌倉大意」まで完了した。
不時の異變心得あるべき事
寛政七卯年予が懸りにて、野田文藏御代官所武州□郡□村萬太郎といへるもの、村長に疵付ける事に付吟味せしに、萬太郎事亂心といへるにもあらざれ共、癪氣強起りし時は差詰り亂心同樣成事もありける由。親市之丞名主役いたし引負(ひきおひ)有之ゆへ、追々御代官文藏より催促の糺(ただし)ありしに、市之丞儀も差詰りたる人物にや、引負金の儀いか樣にもいたし上納いたし、悴萬太郎を賴候趣、當名主へ壹通の書置を殘し出奔して行衞不知、尤市之丞は右引負己前借金相嵩(あひかさみ)困窮せし故、退役して□□□へ名主役も讓りぬ。右□□儀も市之丞一類の事なれば、償ひの世話も五人組一同世話いたしけるが、萬太郎儀例の差詰り候心底や、市之丞來りて萬太郎家内へ返納方の相談に參りしに、理不盡に寢所より立出小刀を以疵付候事成故、右始末を尋ければ、田畑を差出し質入等の儀をも賴置候上は、名主方にていかやうにも世話をなして可相濟を、等閑(なほざり)にいたし候段心外に存(ぞんじ)、名主を殺其身自害すべきと覺悟せし由申に付、名主へ疵付候事ながら畢竟差詰り候心底よりの儀、名主の疵も數ケ所ながら淺疵にて命にかゝわり候程の事にもあらざれば、助(たすく)る筋もあるべしと留役澤左吉へ申渡委敷(くはしく)吟味いたし、十一月廿四日萬太郎は不及申、長き口書を讀聞(よみきかせ)て、口合(くちあひ)として予も出席いたし家來足輕も相詰、留役も四五人並び居て白洲の躰(てい)も威儀嚴重ならざるとも言難きに、口書半過(なかばすぎ)の比、貫太郎儀落椽(おちえん)にこれある燭臺を逆手に持、踊上りて口書を讀居候左吉へ及越に打懸り、上(うは)ハ椽へうつぶしに成り候故、予も取押へ候心得にはあらざれども、前へ進みて即時萬太郎が背へ登り、押へ居し燭臺を首筋へ懸け押へしに、有合(ありあひ)候留役家來も立懸り候間、足輕に引下ろさせ事淸けるが、左吉額月代(ひたいさかやき)へ懸け餘程の打疵出來て血走りけるゆへ、右の者療治の手當等申付畢ぬ。其節は心附ざりしが跡にて考ぬれば、右騷にて夫切(それぎ)りに成しなば奉行も痕附候抔と跡の評判も如何ゆへ、直(ぢき)に一件の者共の殘り候口書を右白洲におゐて讀聞せ口合せをせしが、是は最初は心附ざりし、扨又奉布は其任も有之事なれば、下役へ差圖すべきは、自身萬太郎へ登りしは輕々敷、怪我にてもいたし候はゞ不相濟事と批判する人もあらんとも思ひしが、又立歸りて考候へば、右一件翌日より巷の評判品々ありしに、右躰(てい)背中へ登り不差押(さしおさへざれ)ば、奉行も迯しなど風説せんは武におゐて無念成べし。能々こそ麁忽(そこつ)にもあれ萬太郎を押けるよと、今更思ひつゞけ侍る。右萬太郎は松平伊豆守殿へ申立、追て死罪に申付、事濟ける。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。本格は武辺実録物。今回は、そうした実録を意識して少し現代裁判物風の訳を心掛けた。更に言うなら、本件は公的なお白洲で発生した不祥事の、事故報告書の体(てい)を成していることにも着目して訳してある。なお、一部に錯誤としか思えない不自然な部分があるが、力技で訳してあるので、ご注意願いたい。
・「寛政七卯年予が懸りにて」当時の根岸は勘定奉行であったが、恐らくは訴訟関連を扱う公事方勘定奉行として、評定所で関八州内江戸府外の訴訟を担当していたものと思われる。
・「野田文藏」野田元清。寛政元(一七八九)年十一月御代官(底本注に拠る)。
・「癪氣強起りし時は差詰り亂心同樣成事もありける」萬太郎なる人物は、単なる癇癪持ち、短気で粗暴な性格であったととるには難しい気がする。この場合の「癪気」とは恐らく、痙攣を伴うヒステリー症状を意味し、直後に記される父親市之丞名にも同様な傾向が見られたとあり(但し、名主役を執務出来る程度には社会性が保持されていたと思われるので彼の方は単なる性格上の個人差の範囲内であったのかも知れないが、多額の借金と義務放棄による失踪という反社会性をみると、やはり異常性格の疑いは拭えない)、後半の意味不明の乱暴狼藉(何らかの関係妄想を動機としたものと私は推測する)を見ても遺伝的な性格異常若しくは萬太郎の脳の病的な器質的変性などが疑われ、少なくとも他虐傾向の強い境界性人格障害の疑いは濃厚である。
・「引負」百姓の納めた年貢を名主が着服して上納しないこと。また、その金銭のこと。(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。
・「五人組」幕府が町村に作らせた隣組組織。近隣の五戸を一組として、連帯責任で火災・盗賊・キリシタン宗門といった取り締まりや年貢の確保及び相互扶助義務を負わせた。
・「萬太郎儀例の差詰り候心底や、市之丞來りて萬太郎家内へ返納方の相談に參りしに」失踪したはずの市之丞が再登場していて、意味が通らない。一度は時制を微妙に戻して再登場させて訳してみたが、如何にも不自然で細部の齟齬が多過ぎる。そこで、取り敢えず錯文と見て、疑われるが、「市之丞來りて」の部分を、前の「引負金の儀いか樣にもいたし上納いたし、悴萬太郎を賴候趣、當名主へ壹通の書置を殘し出奔して行衞不知」の頭に移して「市之丞來りて、引負金の儀いか樣にもいたし上納いたし、悴萬太郎を賴候趣、當名主へ壹通の書置を殘し出奔して行衞不知訳した。大方の御批判をお願いしたい。
・「留役」評定所留役。勘定やその下の支配勘定から昇進してきた実務官僚。現在の最高裁判所書記官であるが、本件を見ても分かる通り、評定所での実質的な審理は彼ら留役が中心となって行っていたと思われ、現在の予審判事にも相当しよう。
・「澤左吉」沢実福(さわさねとみ)。「新訂寛政重修諸家譜」に寛政二(一七九〇)年十二月四日支配勘定より評定所留役となるとあり、『時に五十一歳』と割注があるので、本件当時は数え五十六歳(因みに根岸は五十九歳)。今の私と同年である。その後の記載がないから、彼はこの身分で致仕したようだ(この事件が理由かも知れない)――頭部をがっつりやられた日にゃ――私なら、やってらんねえゼ――
・「長き口書」「口書」は被疑者などの供述を記録したもの。供述調書。足軽以下と百姓・町人に限っていい、武士・僧侶・神官などの場合は口上(こうじょう)書きという。私はこの「長き」が上手いと思うのである。「口書」は、そもそもが供述内容の漏れがないようにするため、元来が冗長でくだくだしく長いものである。それを根岸が「長い」とわざわざ言ったのは、本件の、特に被告人萬太郎の供述調書が、度を越して『異例に長かった』ことを意味しているのではないか、と考えるのである。萬太郎はそれでなくても情緒不安定であるから、供述時間も長く、その内容も論理的に纏めにくく、長大になったであろうことは容易に想像出来る。そして問題は萬太郎の、それを凝っとお白洲に座って聞いていなければならない、彼の精神状態にある。供述調書は長かったが、しかし、所謂、論理的な辻褄を合わせるために、実際の供述とは違ってかなり意味内容が改変されていたに違いない(それはもしかすると萬太郎の処罰を軽減するために、よかれと思って澤左吉やその配下の取り調べの役人が行ったものかも知れない)。――自分が言ったことじゃない……そうじゃない……それは誰が言ったことだ!……嘘だ! 違う! お前らは俺を狂人だと思ってるだろ!……こうした萬太郎の心理と、その果てにある行動――私はこの「長き口書」が事件発生の転回点であったと思うのである。
・「口合」口書(供述調書)の確認。
・「落椽」当時の法廷に相当する「お白洲」の建物内の「公事場」の下の二段になった縁側の下側の縁側を言う。以下に、ウィキの「お白洲」から引用する。当時のお白洲は最上段に『町奉行をはじめとする役人が座る「公事場」と呼ばれる座敷が設けられており、対して最下段には「砂利敷」が設置され、その上に敷かれた莚に原告・被告らが座った。もっとも、武士(浪人を除く)や神官・僧侶・御用達町人などの特定の身分の人々は「砂利敷」には座らず』公事場から砂利敷方向に設置された二段に分かれた『座敷の縁側に座った。武士・神官・僧侶は上縁』(二段ある縁側の上側の部分)『に座ることから上者、それ以外は下縁』(二段ある縁側の下側の部分)『に座ったために下者と呼ばれた。一方、役人のうち与力は奉行より少し下がった場所に着座したが、同心は座敷・縁側に上がることは許されず、砂利敷の砂利の上に控えていた』。『お白洲には突棒・刺股・拷問用の石などが置かれた。これらは実際の使用よりも、原告・被告に対する威嚇効果のために用いられたと考えられている。なお、奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いていたことが明らかにされており、時代劇などに見られる屋外の砂利敷のお白洲は史実とは異なる』。『お白洲とは、「砂利敷」に敷かれた砂利の色に由来している。もっとも古い時代には土間がそのまま用いられており、白い砂利敷となったのは時代が下る。白い砂利を敷いたのは、白が裁判の公平さと神聖さを象徴する色であったからと言われている』ともある。根岸が実際に勤務した佐渡奉行所が現在、復元されており、私は今年二〇一二年三月に訪れて、この謂いが正しいことを実見した。
・「上(うは)ハ」の「うは」は底本のルビである。意味が取り難い。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『己(おの)れは』とあり、こちらを採る。
・「松平伊豆守殿」松平信明(まつだいらのぶあきら 宝暦十三(一七六三)年~文化十四(一八一七)年)。三河吉田藩第四代藩主、本件当時は老中首座。寛政の遺老の一人。
・「下役へ差圖すべきは」の「は」は、文法上は係助詞で詠嘆ぐらいにしかとれないが、文脈上は不自然である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは『下役へ指図すべき身分』とある。こちらを採る。
・「右一件翌日より巷の評判品々ありしに」さらりと流して書いているが、恐らくその殆どは根岸の天晴れな行動を褒め讃えたものであったであろうことは想像に難くない。
■やぶちゃん現代語訳
不足の事態による異変に際して相応の心得を持っているべき事
寛政七年卯年、公事方勘定奉行であった私の担当で、御代官野田文蔵元清殿御支配の武州某郡某村萬太郎という者に関わる、同村村長に対する傷害事件を審理した。
被告人萬太郎は、乱心発狂によるものという訳ではないようであったが、癇癪が昂じてくると、遂には一時的に狂人同様となることもある、という報告であった。
彼の親で名主を勤めていた市之丞は、引負金としか思われない年貢滞納が有意にあったため、御代官野田文蔵殿より、何度か支払方督促に関わる追及や出頭の指示があったが、この市之丞も被告人萬太郎と同様、所謂、一種の常軌を逸して『キレ易い人物』ででもあったものか、本件発生以前、或る日、現名主某のところへふらっとやって来ると、
『引負金の儀 如何なることあろうとも上納致すによって 倅萬太郎儀 宜しく頼み候』
という名主某宛の書き置き一通を残したまま出奔、行方知れずとなった。
尤も市之丞は、以上の引負金疑惑以前より、その他の多額の借財が嵩んでおり、甚だ困窮していたがために、この時点よりも前に名主を退役し、現名主某にそれを委譲している。
さて、右現名主某も市之丞の一族であったがため、一族の命運にも掛かかることであれば、名主役を譲られた何某を含む五人組一同で、市之丞名義の借財を中心とした残務処理を行わざるを得なくなった、というのが事件前のあらましである。
当該傷害事件はその直後に発生した。
現名主某は、市之丞の後継ぎである萬太郎へ、この借財関連の相談のために再三の呼び出しをしたが――彼は件の癇癪が昂じての、確信犯の拒否であったか――なしの礫であったがため、現名主某が直接、萬太郎の家へ行き、とりあえず萬太郎の家族に、失踪した市之丞の引負金返納義務の説明と、五人組で相談したところの、その現実的な支払方法についての内容を提示する段へと漕ぎつけたのであったが、その直後、萬太郎は奥の寝所から荒々しく飛び出して来たかと思うと、理不尽にも所持していた小刀を持って名主某に切り付け、傷を負わせた。
後に、その犯行に及んだ際の理由を訊問したところ、萬太郎は、
「……あの時は、五人組の方へ、失踪した父親の田畑(でんぱた)を差し出し、目ぼしい家財の質入れなども依頼しておいた故、この上は彼らが、うまく塩梅して処理してくれるものと考えていた。ところが、奥でそれとなく聴いていると、結局彼らは、いたずらに事態を放置していたばかりで、金銭の調達も代官所への新規申し入れも、何一つしていなかったことが分かった。それは私にとって甚だ心外なこととして感じられ、衝動的に怒りが昂じてきた結果、名主某を殺害し、自分も自害しようと覚悟したものである。……」
と供述している。
本件については、名主への傷害行為が既遂されているとは言え、感情の昂ぶりによる衝動的な行動であり――本人の供述するその動機には、幾分、理解出来るところもない訳ではなく――名主の受傷も複数箇所に及ぶとはいうものの、何れも浅いもので、命に関わる程のものではない――ここは逆に言えば、供述とは異なり、故意としての殺意の認定を躊躇させるものでもある――故に萬太郎の処分については、何らかの形で助けようもあるであろうと判断し、これらの私の見解を実務担当の留役である沢左吉へ申し渡し、詳しく審理することとなった。
十一月二十四日、被告人万太郎を常規通り、お白洲に出廷させ、長い口書き――今回のそれは私もしびれを切らす程に長いものであった――を萬太郎に読み聞かせる、所謂、供述調書読み上げによる内容確認の儀である口合いであったため、常規通り、私も出席した。いつもと変わらず、私の家来や足軽も詰め、留役も四、五人の者が縁に並び居、公事場から砂利敷に至るお白州の様態も普段と同じで、特に警護警戒・威儀仕様に危機管理上の問題点があったと認め得る要素は全くと言っていい程なかった。にも関わらず、口書き読み上げが半ばを過ぎた頃、万太郎が、落縁に駆け寄り、常規通り設置してあった燭台に手を掛け、それを逆手に持って縁に躍り上がり、口書きを読み上げていた左吉へ打ち懸ったかと思うと、萬太郎は、その脇にどうっとうつ伏せに倒れた。
私も、こうした場面に於いて、不心得者を直接自身で取り押さえるべき責務を持っていると思っていた訳ではなかったが、実際には咄嗟に、奥座より前へ進み出、即刻、万太郎の背部に登って押さえ、当人が未だに摑んでいた燭台をもぎ取って、それを当人の首筋へ強く押し掛け、身動き出来ないように全身を押さえつけた。――その間、数秒のことと思う。――勿論、居合わせた他の留役らや家来どもも、ほぼ同時に萬太郎におどりかかって押さえつけたので、難なく足軽によって砂利敷へと引き下ろさせて事は済んだのであるが、左吉は額から月代(さかやき)にかけて、かなり酷い打撲傷が認められ、夥しい出血もあったため、右左吉外傷の手当がまず先決と判断し、医師の救急往診を命じ、一旦、休廷として、関係者を下がらせた。
その際、実は自分では特に意識しなかったことなのであるが――本件決着後、暫くして、落ち着いて考えてみたところでは――私は、この騒ぎの中で、本件審理をこのまま中断して他日へと延期した場合、『さぞかし、奉行も傷を負ったに違いない』などという誤った噂にならぬとも限らぬ――との考えからであったと思われるが、直ちに本件関係者を再度出廷させた上、残っていた口書きを、乱闘のあった――既に血など拭き取り、平時に復させておいたお白州に於いて平常通り、厳粛に読み聞かせ、今度は滞りなく、口合いを終了した。――再度、弁明するが、以上のことは、行動したその時点では、私自身、自覚的に認識していたものではない。
さても、奉行はその任務に相応しい行動様式もあることであれば、一般的に考えれば、他者に命じて行い得る仕儀は須らく下役へ指図するべき身分ではある。さすれば、私自身が、狼藉を働いた萬太郎の背へと攀じ登ったなどということは、極めて軽率なことであり、万一、怪我などを負ったなどということにでもなったならば、これはただでは済まない――評定所機能の停止に関わる、ゆゆしき事態を惹起するところであった――などと批判する向きもあるであろうと思われたが、……また一方、翻って考えれば、かの一件については――翌日より世間にあっては、有象無象、いろいろな評判が立って御座ったが――あの事態にあって、背中へ攀じ登って押さえつけなかったならば、『――奉行も逃げたとよ――』なんどいう風評が立っては、これ、武士として無念なること、言うまでもない。……いや、確かに度を越した、軽率なる行動であったとは申せ、よくぞ――何ぞの講談の奉行の如く――まんまと、ぐいと萬太郎を押さえたことで御座った、と、今更以って、思い続けておること、頻りで御座る。……
なお、萬太郎については、松平伊豆守信明(のぶあきら)殿へ本評定所内での乱暴狼藉傷害の件、その私の処置なども漏らさず申し立てて、追って死罪が申し付けられ、一件落着と相い成った。
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之一」全テクスト化と注釈を完了した。
15日間で出来上がった。恐らく、「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」の各巻の現在までの作業で、最も早く出来上がった。既に自分で注したものからの引用が多いせいもある。がしかし、手は抜いていない。
特に今回の最後の「物産」――実はこういうパートが、僕は好きで好きでたまんないんだ。――ついつい入れ込んだ注を附して、膨大な分量になってしまった。
――とりあえず、そのマニアックなパートを御目にかけよう。
*
○物産
水仙花 十月には咲けり。
[やぶちゃん注:単子葉植物綱ユリ目ヒガンバナ科スイセン属 Narcissus。つい先日も、ニラと誤って葉を食べ、食中毒を起こした事例をニュースで読んだが、スイセンは立派な全草が有毒である。食中毒及び接触性皮膚炎を起こす。毒成分は鱗茎に多く、その主成分はリコリン(lycorine)と蓚酸(しゅうさん)カルシウム(calcium oxalate)で、致死量は十グラム、死亡例もあるから、ゆめゆめうっとりと見入って水辺の仙人、ナルシスのように、なるなかれ。]
松露 鎌倉の地所々に生ぜり。
[やぶちゃん注:菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロRhizopogon roseolus。マツ属の樹木の細根の外生菌根と共生して生育し、未成熟体を食用とするが、現在では希少である。鹿児島で育った私の亡き母は、小さな頃、山中で採るこれが好物だったと話していた。]
薫蘭 房州より出るものと同品。
[やぶちゃん注:日本産のランは日本春蘭と呼ばれるシュンランCymbidium goeringii、シュンラン属カンラン(寒蘭)Cymbidium kanran、フウラン(富貴蘭)属フウランNeofinetia falcata、長生蘭などと呼ばれるセッコク(石斛)属セッコクDendrobium moniliforme があるが、このうちで薫りの強いものは本州南部以南に植生し、初夏に花を咲かせるフウランNeofinetia falcate である。取り敢えず、フウランに同定しておく。]
柴胡 藥品、鎌倉柴胡の名あれど、多くは龜井野、長五等の野原より堀出す。
[やぶちゃん注:双子葉植物綱セリ目セリ科ミシマサイコ Bupleurum scorzonerifolium(亜種としてBupleurum falcatum var. komarowi と記載するものもあり)の根。漢方で柴胡と呼ばれる生薬であり、解熱・鎮痛作用がある。大柴胡湯(だいさいことう)・小柴胡湯・柴胡桂枝湯といったお馴染みの、多くの漢方製剤に配合されている。和名は静岡県の三島地方の柴胡がこの生薬の産地として優れていたことに由来する。「龜井野、長五」は現在の藤沢市亀井野(六会附近)と長後を言う。私が先日まで最後に勤務していた高校は長後にあった。いやさ――奇しき縁を感じたよ。]
防風 藥品なり。葉莖酒品に用ひ、味ひ上品、園蔬とせり。
[やぶちゃん注:双子葉植物綱セリ目セリ科ボウフウ Saposhnikovia seseloides 。根及び根茎を防風と呼び、漢方薬とし、発汗・解熱・鎮痛・鎮痙作用があり、十味敗毒湯・防風通聖散などの漢方製剤に用いられ、和食のツマとしても売られている。]
細辛 藥品なり。山谷所々に生ず、前庭石に添えて栽るもの。
[やぶちゃん注:双子葉植物綱ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属ウスバサイシンAsarum sieboldii(シノニム:Asiasarum sieboldii /カワリバウスバサイシンAsarum sieboldii var. cineoliferum )。根及び根茎を細辛と呼んで生薬とする。解熱・鎮痛作用があり、小青竜湯・麻黄附子細辛湯・立効散などの漢方製剤に用いられるが、近年、地上部分に含まれているアリストロキア酸による腎障害や発癌性リスクが報告されている。]
槇椎靑冬樹(モチノキ) 是は自然に山谷にあり。
[やぶちゃん注:「槇」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科Podocarpaceaeに属する樹種の総称。種名としての「マキ」はない。代表種はイヌマキ Podocarpus macrophyllus。雌花の種子の基部の丸く膨らんだ部分は花床と言われ、熟すと次第に赤くなり、多少の松脂臭があるものの、甘く食べられる。但し、種子自体には毒成分が含まれるので、食してはいけない。庭木や防風林として古くから植栽されている。
「椎」被子植物門双子葉植物綱ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis に属する、関東以西に分布するツブラジイ(コジイ)Castanopsis cuspidate 及び北方進出種であるスダジイ(ナガジイ、イタジイCastanopsis sieboldii を指す。実は縄文の昔から食用にされてきた。
「靑冬樹」、鳥や小動物・昆虫などを捕獲するのに用いた鳥黐(とりもち)の原材料となる双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキIlex integra。樹皮を数ヶ月間流水に漬け置いた後、引き上げて臼で砕き、軟らかな塊状になったものを流水で洗浄して鳥黐を造った。]
トベラ木檞(モツコク) 是も山中所々にあり。トベラの文字未考。
[やぶちゃん注:「トベラ」バラ亜綱バラ目トベラ科トベラ Pittosporum tobira 。潮風や乾燥に強く、密生した光沢のある葉を有することから観賞用や街路樹として用いられた。また民俗社会では、枝葉を切ると悪臭が発生するところから、節分にイワシの頭とともに魔除けとして戸口に掲げられた。そこから「扉の木」「扉」と呼ばれ、これが訛ってトベラとなり、学名もこれに由来している。
「木檞」双子葉植物綱ツバキ目ツバキ科モッコク Ternstroemia gymnanthera。江戸時代、造園木として珍重された江戸五木(他にアカマツ・
イトヒバ・カヤ・イヌマキ)の一つで、美しい樹様から庭木として植栽するほか、堅く美しい赤褐色を帯びた材を床柱などの建材や櫛などの木工工芸材として用いる。樹皮は褐色染料としても利用され、葉を乾燥させ煎じたものは腎臓や肝臓に利く民間薬として用いられた。]
八手 最も山中所々にあり、八手の本名未考。
[やぶちゃん注:双子葉植物綱セリ目ウコギ科ヤツデ Fatsia japonica 。葉形は掌状であるが、実は七つまたは九片の奇数で裂けており、八つに裂けることはない。参照したウィキの「ヤツデ」によれば、『学名のFatsia は日本語の「八」(古い発音で「ふぁち」、「ふぁつ」)または「八手(はっしゅ)」に由来するという』とあり、『葉を乾燥させたものは八角金盤と呼ばれる生薬になり、去痰などの薬として用いられる。しかし葉などにはヤツデサポニンという物質が含まれ、過剰摂取すると下痢や嘔吐、溶血を起こす。このため昔は蛆用の殺虫剤として用いていたこともある。古い鉄道駅の一角に栽培されていることが多いが、これはかつて汲み取り便所の蛆殺しにその葉を使っていたためである』とあり、最後の部分など、昔からの疑問に目から鱗であった。サポニン(saponin)はステロイド・ステロイドアルカロイド(窒素原子を含むステロイド)或いはトリテルペンの配糖体。水溶性で石鹸様の発泡作用を示す物質の総称で、サイカチ・ムクロジ・トチノキ・オリーブ・キキョウなどに含まれる。変わったところでは棘皮動物のナマコもこれを体内に含み、自己防御に用いている。]
琉球芋 味ひ至て甜し、是は園蔬なり。
[やぶちゃん注:双子葉植物綱ナス目ヒルガオ科サツマイモ Ipomoea batatas 。ウィキの「サツマイモ」によれば、本邦での栽培の歴史は、原産地である南アメリカ大陸のペルー熱帯地方からスペイン人やポルトガル人によって東南アジアにもたらされ、そこから中国を経て、『一六〇四年、琉球王国(現在の沖縄県)に伝わる。野國総管(明への進貢船の事務職長)が明(今日の中国福建省付近とされる)からの帰途、苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、儀間村の地頭・儀間真常が総管から苗を分けてもらい栽培に成功、痩せ地でも育つことから広まった』。その後、『一六九八年(元禄十一年)三月、種子島に伝わる。領主種子島久基(種子島氏第十九代当主、栖林公)は救荒作物として甘藷に関心を寄せ、琉球の尚貞王より甘藷一籠の寄贈を受けて家臣西村時乗に栽培法の研修を命じた。これを大瀬休左衛門が下石寺において試作し、栽培に成功したという。西之表市下石寺神社下に「日本甘藷栽培初地之碑」が建つ』。下って宝永二(一七〇五)年(一七〇九年とも)、薩摩山川の前田利右衛門が『船乗りとして琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩で栽培されるようになった』。享保十七(一七三二)年の『大飢饉により西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、サツマイモの有用性を天下に知らしめることとなった。八代将軍・徳川吉宗はサツマイモの栽培を関東に広めようと決意する。そして起用されたのが、青木昆陽であった。当時、彼は儒学者としての才能は評価されていたが、その才能を買っていた八丁堀の与力加藤枝直が、町奉行・大岡忠相に推挙、昆陽は、同じ伊藤東涯門下の先輩である松岡成章の著書『番藷録』や中国の文献を参考にして、サツマイモの効用を説いた「蕃藷考」を著し、吉宗に献上』、享保十九(一七三四)年には青木昆陽が『薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、「薩摩芋」を江戸小石川植物園、下総の幕張村(現千葉市花見川区)、上総の九十九里浜の不動堂村(現:九十九里町)において試験栽培』を始め、翌享保二十(一七三五)年に『栽培を確認。これ以後、東日本にも広く普及するようにな』ったとある。
「甜し」は「あまし」と読む。]
水漉石 是は山より切出す石にて、柔かなる石ゆへ水鉢の如くに凹に掘て、水を入ければ下へ漉水出る、砂こしにすると同。酒なとを漉に妙なり。
[やぶちゃん注:「水漉石」は「みづこしいし(みずこしいし)」と読む。まずは、木内石亭の「雲根志』補遺三編(享和元(一八〇一)年刊)の「卷之三」に載る記事を引用しておく。底本は昭和五(一九三〇)年刊の日本古典全集版を用いた。誤字と思われるものは後に〔 〕で正字を示した。
*
水漉石(みづこしいし)
水漉石(みづこしいし)は蠻人(ばんじん)船にたくはふるものにして價もつとも貴し船中水盡(みづつき)たる時潮を漉て水を取(とる)甚要用の物なり和産あることを聞ず蠻來(ばんらい)の物いまだ見ず所は産物會に其名あれど甚凝〔疑〕はししかるに濃州垂井(たるゐ)の近郷圓光寺(ゑんくわうじ)山にて堀〔掘〕出せりとて同郡市橋裏谷氏これを贈らる石質柔軟(やはらか)にて色薄白く形狀浮石(かるいし)の如くにして重し石面を窪(くぼか)にして茶酒(ちやさけ)を漉(こし)試るに忽滴るところ淸水(せいすい)なりしかれども用をなす物にあらず弄石家の慰ものなり
*
希代の石フリーク木内石亭は、ここで本邦に産しない本物の「水漉石」と、類似効果を持つ国内産の似非「水漉石」を厳密に分けているが、私にはこのいずれの「水漉石」も、現在の鉱物学で何に当たるのか、よく判らない。俗に言う「鎌倉石」の中に、スコリア質砂岩というのが含まれるが、これか? 鉱物学の専門家の御教授を乞いたい。]
稚海藻(ワカメ)、滑海藻(アラメ)、鹿尾菜(ヒジキ)
[やぶちゃん注:「稚海藻」褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメUndaria pinnatifida を代表種とするグループ。ワカメの代用種として用いられるものとしては他にヒロメUndaria undarioides・アオワカメUndaria peterseniasa のほか、アイヌワカメ属アイヌワカメAlaria praelonga・チガイソAlaria crassifolia・ホソバワカメAlaria angustaが挙げられるが、ワカメ・ヒロメ・アオワカメ以外は生息域が北方に限られている上、且つ極めて限定された地域に棲息するため、その地方での消費に止まることが多い。ワカメUndaria pinnatifida は、北海道東岸と南西諸島を除く各地沿岸と朝鮮半島の特産であり、分類学的には胞子葉と葉状体とが隔たっているか近接してるかによって前者をナンブワカメUndaria pinnatifida form. Distansとし、後者をワカメUndaria pinnatifida form. Tipicanoの2品種を挙げる場合もある。なお、ワカメ属の属名
Undaria は「皺を持つ」、アイヌワカメ属は「翼を持つ」の意である。更に伊豆半島以南の暖流域では本来、天然のワカメUndaria pinnatifidaが余り採れなかったことから、コンブ科アントクメ属のアントクメEcklominiopsis radicosaが代用品として用いられる。
「滑海藻」褐藻綱コンブ目コンブ科アラメEisenia bicyclis。種小名のbicyclis は「二輪の」で、本種の特徴である茎部の二叉とその先のハタキ状に広がる葉状体の形状からの命名である。かつては刀の小刀の柄として用いたほど、付着根とそこから伸びる茎部が極めて堅牢である。太平洋沿岸北中部(茨城県~紀伊半島)に分布し、低潮線から水深五メートル程度までを垂直分布とする。茎が二叉に分かれ、葉状体表面に強い皺が寄る。似たものに、カジメEcklonia cava とクロメ Ecklonia kurome があるが、カジメは太平洋沿岸中南部に分布し、水深二~十メートルまでを垂直分布とし、茎は一本で上部に十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るものの、葉の表面には皺が殆んどない点で区別出来、クロメは、カジメよりもやや南方に偏移する形で太平洋沿岸中南部及び日本海南部に分布し、垂直分布はカジメよりも浅く、二種が共存する海域では、カジメよりも浅い部分に住み分けする。茎は一本で上部にたはり十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るが、葉の表面には強い皺が寄っている。また、乾燥時にはカジメよりもより黒くなる。但し、クロメ Ecklonia kurome の内湾性のものは葉部が著しく広くなる等の形態変異が極めて激しく、種の検討が必要な種とされてはいる(以上の分類法等は二〇〇四年平凡社刊の田中二郎解説・中村庸夫写真の「基本284 日本の海藻」に依った)。
「鹿尾菜」褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme 。「比須木毛」(ヒズキモ)というのが古称とされ、その転訛でヒジキとなったとするが、この「ひず」という如何にも厭な発音を含む語源は不詳である。
なお、以上の博物学的叙述は、私の電子テクスト、寺島良安の「和漢三才圖會 卷九十七 藻類 苔類」で私が注したものを省略加工して示した。よろしければそちらも参照されたい。]
鎌倉海老
[やぶちゃん注:以下、私の電子テクスト、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「紅蝦」を、原文・訓読及び私の注も含めて、総て引用して注に代える。但し、一部の煩瑣な記号は省略し、注の一部を追加してある。本文中の〔 〕は私の補注。
いせゑび
かまくらゑび
紅鰕
※【音浩】 海鰕[やぶちゃん字注:※=「魚」+「高」。]
【俗云伊勢鰕
又云鎌倉鰕】[やぶちゃん字注:以上三行は、前三行下に入る。]
本綱紅鰕乃海鰕也皮殻嫩紅色前足有鉗者色如朱長
一尺許其肉可爲鱠鬚可作簪杖大者七八尺至一丈
五色鰕 閩中有之長尺餘彼人兩兩乾之謂之對鰕
仲正
夫木 今は我世をうみにすむ老ゑひのもくつか下にかゝまりそをる
△按紅鰕勢州相州多有之紫黑煮之正赤色口有四鬚
鬚長過一二尺根有硬刺殻有如鋸沙者而尖手足有
節掌指如毛尾端如花葩是稱海老以爲賀祝之肴或
謂有榮螺變成紅鰕而半螺半鰕者人徃徃見之蓋悉
不然也紅鰕腹中有子則是亦山芋變鰻之類矣
□やぶちゃんの訓読
いせゑび
かまくらゑび
紅鰕
※【音、浩。】 海鰕[やぶちゃん字注:※=「魚」+「高」。]
【俗に伊勢鰕と云ふ。又、鎌倉鰕と云ふ。】
「本綱」に、『紅鰕は乃ち海鰕なり。皮殻、嫩(のん)に紅色たり。前足に鉗(はさみ)有る者は、色、朱のごとく、長さ一尺ばかり。其の肉、鱠と爲すべし。鬚、簪杖(しんぢやう)に作るべし。大なる者、七~八尺より、一丈に至る。
五色鰕 閩中(びんちう)〔=福建省中部〕に之有り。長さ尺餘。彼の人、兩((ふた)つ兩(づ)つ之を乾かし之を對鰕(ついか)と謂ふ。』と。
「夫木」 今は我世をうみにすむ老ゑびのもくづが下にかゞまりぞをる 仲正
△按ずるに、紅鰕は勢州〔=伊勢〕・相州〔=相模〕、多く之有り。紫黑く、之を煮れば、正赤色。口に四の鬚有り。鬚長くして一~二尺に過ぐ。根に硬き刺有り、殻に鋸沙(をがくづ)のごとくなる者有りて尖り、手足に節有り、掌指は毛のごとく、尾の端、花葩(はなびら)のごとし。是、海老と稱して以て賀祝の肴と爲す。或る人謂ふ、榮螺の變じて紅鰕と成り、半螺半鰕なる者有りて、人、徃徃、之を見ると。蓋し悉く然らざるなり。紅鰕の腹中に子有ることは、則ち是も亦、山芋鰻變ずるの類か。
[やぶちゃん注:エビ亜目(抱卵亜目)イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科イセエビ Panulirus japonicusの外、本邦産種をのみ挙げるならば、カノコイセエビ Panulirus longipes、シマイセエビPanulirus penicillatus、ケブカイセエビPanulirus homarus、ゴシキエビPanulirus versicolor、ニシキエビPanulirus ornatus である。「本草綱目」の記載も、同科の仲間を指すものとして全く違和感がない。
・「鎌倉鰕」例外を注記するならば、カマクラエビは関東に於いてイセエビを指すが、和歌山南部ではイセエビ下目セミエビ科ゾウリエビ属ゾウリエビ Pariibacus japonicus を指すという(「串本高田食品株式会社」の以下のページ)。正直、これは初耳。
・「嫩に紅色たり」は、「嫩緑」が新緑の意味であり、「嫩」(中国音“nèn”。そこから音に〔ん〕を補ってみた)には別に見た目のよいさまという意味もあるから、生き生きとした鮮やかな美しい赤という意味か。薄い、という意味もあるが、イセエビとはピンとこない。
・「簪杖」かんざしの柄の部分を指すか。
・「五色鰕」はズバリ、ゴシキエビ Panulirus versicolor ととってよいであろう。古くから以下のように観賞用に剥製にされてきたものらしい。
・「對鰕」これは「喜」の字を二つシンメトリックに並べることに繋がるような慣わしであろうか。ちなみに現代中国ではクルマエビ科 Penaeidae に「対※科」[※=「虫」+「下」=蝦]の名が付けられており、単に対蝦と言った場合はクルマエビ属タイショウエビ Penaeus chinensis を指す。
・『「夫木」』は「夫木和歌抄」。鎌倉末期、延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集。
・「仲正」は源仲正(生没年未詳。仲政とも書く)。平安末期の武士、酒呑童子や土蜘蛛退治で有名なゴーストバスター源頼光の曾孫である。即ち、ひいじいさんの霊的パワーは彼の息子、鵺(ぬえ)退治の源頼政に隔世遺伝してしまい、仲正の存在はその狭間ですっかり忘れ去られている。しかし歌人としてはこの和歌に表れているような、まことにユーモラスな歌風を持つ。当該歌は「夫木和歌抄」巻廿七雑九にある。
やぶちゃん訳:今、私は、世の中倦み疲れ果ててしまい、海に住んでいる老いたエビが、哀れ、藻屑の下で腰もすっかり老い屈まって居るのと同じように、最早、惨めに隠棲しております。
・「半螺半鰕なる者有り」について私は、これはサザエ類の殻に入ったヤドカリの仲間を誤認したものと思う。ヤドカリ科 Diogenidae のオニヤドカリ属 Aniculus やヤドカリ属 Dardanus には相当に巨大で、鋏脚も立派な種や個体がおり、充分考えられることだと思うからである。
・「蓋し悉く然らざるなり……」について。彼は「巻九十六 蔓草類」の「※1※2」(ひかい・ところ)[※1=(くさかんむり)+「卑」。※2=(くさかんむり)+「解」。]=ヤマイモの項では「山芋鰻變ず」について全く語っていないし、「卷五十 河湖無鱗魚」の「鰻※3(うなぎ)」[※3=「魚」+「麗」。]=ウナギの項では「又有薯蕷又濕浸而變化鰻※3者自非情成有情者是亦不必盡然也」(又、薯蕷(やまのいも)又た濕浸されて變じて鰻※3に化する者有りと。非情より有情と成ること、是れ亦、必しも盡ごとく然るにはあらざるなり。)と述べる。この口調は、本件の最後の口調と極めて類似している。いわば、イセエビの腹の中に子があることは(観察によって明白で、彼らは通常は卵生である)、従ってこのイセエビがサザエに変化するということもまた、『山芋が鰻に変化する』というのと同じ(如何にも稀な、いや、信じがたい化生の)類なのではなかろうか、と言っているのである。ここで我々は、良安が、このような当時信じられた自然発生説的俗信に対して、冷静な自然観察者として、かなり懐疑的な視点を保持していたことを読み取るべきであると私は思うのである。
《引用終了》
私の「和漢三才図会」に少しでも興味を持たれた方は、是非、こちらにも御来駕あられたい。私の渾身のテクストの一つである。]
堅魚 或は鰹又は松魚の字をも用ゆ。古書には頑魚とかけり。幷堅魚の説は次に出す。
《堅魚の説》堅魚は江戸にて殊に賞翫するうをなり。初夏の節に至れば魚賣の聲を待得て、必ず其價の高下を論ぜず、人より先に食ひしを自賛するは、繁華の地にすめるの餘潤なれど、是は卑賤の蕩子等がする處なり。俳諧師の素堂が句に「目に靑葉山ほとゝきす初堅魚」云云。【徒然草】に、鎌倉の海にかつほといふ魚は彼さかひにもさうなきものにて、此ごろもてなすものなり。それも鎌倉の年寄の申侍りしは、此うをおのれがわかかりし世迄は、はかばか敷人の前へ出ること侍らざりき。頭は下部もくはず、切て捨侍りしものなりと申き。かやうの物も世の末になれば、上さままでも入たつはさにこそ侍れと云云。按ずるに兼好の如き物しれる人も、上古のことに疎けるにぞ。【日本月令】云、景行天皇五十三年八月、伊勢の國より轉じて東國に到り給ひ、上總、安房の浮島の宮に到らせ給ひ、御船を還し給ふ時、舳を顧に魚多く御船を追ひ來る。陪從せし磐鹿六獦命、角弭の弓を以て遊魚の中へ投入給ふに、其弭につひて出、忽數多の魚を獲給ふ。《頑魚の由來》竹て此魚を名附て頑魚と稱し給ふとあり。是今いふ堅魚と註せり。今も角を以て堅魚を釣は此時より始れる事なりとあり。按ずるに、頑魚と名附給ひしはをろかなる魚といふ事にや。扨御船より陸にあがらせ給ひければ、先に獲たる白蛤の大ひなるものと、釣得たる頑魚と件の二種のものを捧しかば、殊に譽させ給ひ悦せ給ひてもふさく、其味ひ甚淸鮮ならん、造りて供御の料とせよと宣ひしかば、无邪國造上祖大多毛比知(ムサノクニノミヤツコノカミノヲヤヲホタモヒチ)に、夫國造上組天上腹(フノクニノミヤツコノカミヲヤアマノウハハル)、天下腹(アメノシタハル)の人等に六獦命(ムツカリノミコト)下知して、膾につくらせ奉るとあり。是上古より堅魚を天子の供御に奉れる始なり。されば兼好がはかばか數人の前へ出すことなきものと書しは誤りならん歟。又云、【續日本紀】天平九年、諸國に痲疹流行せし時、同年六月、諸國へ下し給ふ官符に云、鯖(サバ)及び阿遲(アジ)等の魚幷年魚くろふべからず。乾鰒(ホシアハビ)、堅魚等は煎じ、然る時は皆良(ヨシ)とあり。堅魚と出たるは堅魚節の事なり。【日本紀】【延喜式】にも堅魚とあるは、みな堅魚節の事なることとしるべし。上世は節といふを略して堅魚といひ、今の世の兒女子は堅魚を略して節とのみいふ。或は又おからとも唱ふるは、みやこなまりの方言にや、上世より高貴の人の食料に備ふるものなり。
[やぶちゃん注:種としてのカツオKatsuwonus pelamis は、スズキ目サバ亜目サバ科カツオ属の1属1種である。但し、同定に際しては、以下の五種辺りをカツオの仲間として認識しておく必要があろうかとは思われる。
サバ科ハガツオ属ハガツオ Sarda orientalis
サバ科スマ属スマ Euthynnus affinis
サバ科イソマグロ属イソマグロ Gymnosarda unicolor(本種にはマグロの名がつくが、分類学上ハガツオに近縁。但し、魚体もカツオからそう離れていないので挙げておきたい)
サバ科ソウダガツオ属ヒラソウダガツオ Auxis thazard
サバ科ソウダガツオ属マルソウダガツオ Auxis rochei
カツオについては、私の電子テキスト「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰹」の項を参照されたい。
「餘潤」「大漢和辭典」に、ありあまるうるおい、余財、とある。金に任せた贅沢、といった意味であろうか。
「目に靑葉山ほとゝきす初堅魚」は、現在でもしばしば見られる誤りで、
目には靑葉山ほととぎす初がつを
で、初句は字余りである。
「徒然草」の以下の叙述は、第百十九段。植田の引用にしては、珍しく間違いなく(失礼!)引用しているが、最後の「上さままでも入たつはさにこそ侍れ」の「はさ」は「わざ」。ともかくも植田のこの、力を入れた兼好の鰹叙述への指弾には、私も百二十%助太刀致す! 私は丸一尾買って三枚に捌いて食うほどの大の鰹好きだからである!!
「日本月令」「本朝月令」。明法博士惟宗公方の手になる平安中期の年中行事起源や沿革、その内容を纏めた現存最古の公事書。
「景行天皇五十三年」西暦一二三年。
「安房の浮島」国学者伴信友は安房国平群郡勝山(現在の千葉県安房郡鋸南町勝山)の浦賀水道にある浮島に比定している。
「磐鹿六獦命」磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)のこと。景行天皇の侍臣で料理の祖神とされる。以下、ウィキの「磐鹿六雁命」によれば、『大彦命の孫と伝えられ、日本書紀によれば、景行天皇は皇子・日本武尊の歿後、その東征の縁の地を歴訪したが、安房国の浮島宮に行幸したとき、侍臣の磐鹿六雁命が堅魚と白蛤を漁り、膾に調理して天皇に献上した。天皇はその料理の技を賞賛し、磐鹿六雁命に膳大伴部の姓を与え』、『その子孫の高橋氏は代々宮中の大膳職を継いだ』。『磐鹿六雁命は宮中・大膳職の醤院で醸造・調味料の神「高倍神(たかべのかみ)」として祀られていた。また、高家神社(千葉県南房総市)、高椅神社(栃木県小山市)、およびどちらかの神社から勧請を受けた各地の神社で祀られており、料理の祖神、醤油・味噌などの醸造の神として調理師や調味業者などの信仰を集めている』とある。
「白蛤」これは二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria でよい。近年の「白蛤」「シロハマグリ」という和名異名はマルスダレガイ科メルケナリア属ホンビノスガイ Mercenaria mercenaria に用いられるが、近年、魚屋にも、まま見受けられるホンビノスガイは北米大陸東海岸を原産地とし、一九九八年以降に東京湾で現認されて定着が確認された新参外来侵入種であるから、ここでは、あり得ない。
「无邪國造上祖大多毛比知……」以下、三人はすべて人名。現地の豪族で、景行天皇の食事の相伴役である。
「天平九年」西暦七三七年。
「痲疹」天然痘。特に九州地方では旱魃と重なって猖獗を窮め、消滅する郷村が出るほど、多くの民草が死んだ。都でも藤原宇合(うまかい)を始めとする藤原四家(南・北・式・京の各家)の全当主及び政界の実力者の罹患・死亡が相い次いだ。
「鯖」スズキ目サバ亜目サバ科に属するサバ属 Scomber ・グルクマ属 Rastrelliger ・ニジョウサバ属 Grammatorcynus に属する魚類の総称。通常、単に「鯖」と言えばサバ属のマサバ Scomber japonicas であるが、ここでは同族のゴマサバ Scomber australasicus も含めてよいであろう。御承知の通り、ヒスチジンを多く含むためにアレルゲンとなるヒスタミンを生じ易く、魚類アレルギーのではよく挙げられるが、ここでサバ食を禁じているのも、アレルギー反応の蕁麻疹が天然痘の症状と同一視されたからであろう。サバの博物誌は私の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鯖」を参照のこと。
「阿遲(アジ)」スズキ目スズキ亜目アジ科アジ亜科 Caranginae に属する魚の総称。一般にはマアジ Trachurus japonicus を指すが、アジ科レベルでは三〇属一五〇種を数え、多数の種が含まれる。青魚であるから、やはり魚アレルギーの一種に挙げられる。アジの博物誌は私の「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰺」を参照されたい(良安はアジを無鱗と誤認している。但し、これはアジに限った誤認ではない。リンク先を参照のこと)。
「年魚」生まれて一年で死ぬ魚の意で、アユの別名として知られるが、実は産卵後にすぐ死ぬのが実見されることの多かったことから、やはり一年で死ぬと思われていたサケの古名として「和名抄」等に載る。私はここはサケ目サケ科サケ属サケ(シロザケ)Oncorhynchus keta 及びサケ属を指していると考える。何故かと言うと、サケ類には仮性アレルゲンであるノイリンが含まれ、発疹・皮膚の掻痒感及び口腔アレルギー症候群を引き起こすことが知られているからである。サケの博物誌は「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」を参照されたい。
「乾鰒(ホシアハビ)」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis のアワビ類の加工品。羅鮑・身取り鮑などと呼び、内陸で食すために殻を取り去ったアワビを干して乾燥させたもの。アワビの博物誌は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の冒頭にある「鰒」を参照されたい。
「堅魚節」ウィキの「鰹節」の「歴史」によると、『カツオ自体は古くから日本人の食用となっており、縄文時代にはすでに食べられていた形跡がある(青森県の八戸遺跡など)。五世紀頃には干しカツオが作られていたとみられるが、これらは現在の鰹節とはかなり異なったものであったようだ(記録によるといくつかの製法があったようだが、干物に近いものであったと思われる)』。『宮下章が、『鰹節考』の中で「カツオほど古代人が貴重視したものはない。(中略)米食中心の食事が形成されて以来、カツオの煎汁だけが特に選ばれ、大豆製の発酵調味料と肩を並べていた」と述べているように、カツオが古代人にとっては最高の調味料だったといえる』。『飛鳥時代(六世紀末-七一〇年)の七〇一年には大宝律令・賦役令により、この干しカツオなど(製法が異なる「堅魚」「煮堅魚」「堅魚煎汁」に分類されている)が献納品として指定される。うち「堅魚」は、伊豆・駿河・志摩・相模・安房・紀伊・阿波・土佐・豊後・日向から献納されることとなった』。『現在の鰹節に比較的近いものが出現するのは室町時代(一三三八年-一五七三年)である。一四八九年のものとされる『四条流包丁書』の中に「花鰹」の文字があり、これはカツオ産品を削ったものと考えられることから、単なる干物ではない、かなりの硬さのものとなっていたことが想像できる』。『江戸時代に、紀州印南浦(現和歌山県日高郡印南町)の甚太郎という人物が燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(別名焙乾法)を考案し、現在の荒節に近いものが作られるようになった。焙乾法で作られた鰹節は熊野節(くまのぶし)として人気を呼び、土佐藩は藩を挙げて熊野節の製法を導入したという』。『大坂・江戸などの鰹節の消費地から遠い土佐ではカビの発生に悩まされたが、逆にカビを利用して乾燥させる方法が考案された。この改良土佐節は大坂や江戸までの長期輸送はもちろん、消費地での長期保存にも耐えることができたばかりか味もよいと評判を呼び、土佐節の全盛期を迎える。改良土佐節は燻乾法を土佐に伝えた甚太郎の故郷に教えた以外は土佐藩の秘伝とされたが、印南浦の土佐与一(とさのよいち)という人物が安永十年(一七八一年)に安房へ、享和元年(一八〇一年)に伊豆へ製法を広めてしまったほか、別の人物が薩摩にも伝えてしまい、のちに土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と呼ばれるようになる』とあって、『江戸期には国内での海運が盛んになり、九州や四国などの鰹節も江戸に運ばれるようになり、遠州(静岡)の「清水節」、薩摩の「屋久島節」などを大関とする鰹節の番付表が作成され』るまでになった。更にモルディブ起源説が示されるが、筆者同様、私も残念ながら採らない(引用中のアラビア数字は漢数字に変えた)。
「或は又おからとも唱ふるは、みやこなまりの方言にや」これは……「おかか」の誤植では……あるまいか? 因みに、子供向け(だが、侮れませんぞ)「学研教育情報資料センター 資料番号1914」に語源説の一つが示されており、宮中の女官の女房言葉として鰹節が「かか」と呼ばれており(これは鰹節を掻き削ったものの意か)、この「かか」に接頭語の「お」が付いて「おかか」となって、後に広く一般にも使用されるようになったとあるから、植田の「みやこなまり」というのは、本女房言葉起源説から言えば正しいと言える。]
松 海岸の地には松樹のよく生茂するものにて、濵風に吹れておのつから風情をなせるあり。爰も海濱ゆへむかしより松多く有しかば、和歌にもよみ合せ、松の岡といふ地名も舊く唱ふれば、松は此地の名産となせり。
[やぶちゃん注:裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Pinus。針葉樹では最も種が多く、分布域も広いが、ここではクロマツPinus thunbergii 及びアカマツ Pinus densiflora と考えられる。]
鎌倉櫻 《實朝愛翫の櫻》是は古え、大御堂の勝長寺院の境内へ實朝將軍植させられし櫻をいふ。建永二年、右府諸大名へ課せられ、其内にて珍花なるものを勝長壽院へ根こして移され、年々花盛の節に至れば渡御有て和歌の御會を催されしと、往々【東鑑】に見へたり。又京都にても此花を賞せられて鎌倉櫻と名づけ給ひしといふこと、ものに見えたり。されば當所の名産なるゆへ、今は跡かたもなけれど茲にしるせり。
[やぶちゃん注:「建永二年」建永二(一二〇七)年三月一日の「吾妻鏡」の記事に、
一日丙子。櫻梅等樹多被植北御壺。自永福寺所被引移也。
(一日丙子(ひのえね)。櫻・梅等の樹、多く北御壺へ植ゑらる。永福寺(ようふくじ)より引き移さるる所なり。)
とはあるが、私が管見した限りでは、以下に続く「右府諸大名へ課せられ、其内にて珍花なるものを勝長壽院へ根こして移され、年々花盛の節に至れば渡御有て和歌の御會を催されし」に相当する記事は見当たらない。「鎌倉廃寺事典」はこの勝長寿院について二九頁に及ぶ記載がなされており、そこには「吾妻鏡」などの諸資料に出現する勝長寿院の記事の、時系列の恐るべき詳細探索が示されるのだが、これに該当する記事はやはりない。但し、同書七〇頁に『建暦元年(一二一一)十二月二十二日にも「実朝の参詣あり、是歳末の恒規也」といっているから、『吾妻鏡』に記事がでなくても以前から行われていたのであろう。勝長寿院が義朝の廟所として年末の墓参が行われていたことを察するに足りる』とあり、ここを頻繁に実朝が参拝していたことが分かり、更に「金槐和歌集」には、この勝長寿院で詠んだと思われる梅や桜の歌が幾つかあって、特に、前書にそれが明白に示されている連続する二首、
三月すゑつかた、勝長壽院にまうでたりしに、
ある僧、山かげに隱れをるを見て、「花は。」
と問(と)ひしかば、「散りぬ。」となむ答へ
侍りしを聞て
行て見むと思しほどに散(ち)りにけりあやなの花や風たゝぬまに
さくら花咲くと見(み)しまに散にけり夢かうつゝか春のやま風
によって、ここで実朝が頻繁に花見や歌会をしていたことも分かるとは言える。本記載の典拠を知っておられる方は、是非、御一報願いたい。「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の金沢文庫の称名寺の中にある桜の名木普賢象桜の記載(正確には「八木」の項に記載)に、
普賢象櫻 堂の前、西の方にあり。八重なり。花の心中より、新緑二葉を出したり。【園太暦】に、延文二年三月十九日に。南庭へ櫻樹を渡し栽。殊絶の美花也。號鎌倉櫻とあり。按に、稱名寺に在櫻樹なるにや。昔鎌倉勝長壽院永福寺の庭前へ、櫻を多く植られ、右大臣家渡御有て櫻花を賞せられ、和歌を詠じ給ふと、往々見えたり。仍て鎌倉櫻と有は是ならん歟。又按るに、延文の頃迄有しにや。鎌倉櫻と稱せしものは、一樣ならぬ珍花なりし由。勝長壽院なとは、將軍家御所より遠からぬゆへ、正慶の兵燹にて、皆燒亡して絶たりといふ。延文の頃の櫻は、古えの※樹にや。《字注:「※」=〔上〕(くさかんむり)+〔中〕「執」+〔下〕「木」。これは恐らく「しふじゆ」「でふじゆ」と読み、「※」は木が生い茂る形容であろう(「蓻」の字義から類推した)。》
「延文」年間は南北朝の北朝方の元号で、西暦一三五六年から一三六〇年。「兵燹」は「へいせん」と読み、「燹」は野火の意で戦火・兵火を言うから、「正慶の兵燹」というのは正慶二年が元弘三(一三三三)年で鎌倉幕府の滅亡を指している。これを読むと、延文の頃まで勝長寿院(跡)に残っていたというのは、正に書かれている通り、源実朝が花見をした昔、植えられてその頃まで生い茂っていた、生き残っていた桜であり、それこそが正しく本当の鎌倉桜であったのではなかろうか、の意であろうと思われる。但し、細かいことにツッコミを言うようであるが、どうも叙述が前後しておかしくはないか? 幕府滅亡で焼燼し尽して完全に「絶た」というのなら、「延文の頃迄有」ったという伝承は嘘、ということになるのではなかろうか?――ともかくも、この勝長寿院にあった鎌倉桜について、何か別文献等に記載があるのをご存じの方、是非是非、御一報あられたい。実は、「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の当該記事をアップした直後、鎌倉に在住される鎌倉桜の保存と研究をされている方から、情報提供を乞われているのであるが、残念ながら私の知見は、これ以上の進展を見そうもない。よろしく御教授の程、お願い申し上げる。]
鎌倉攬勝考巻之一終
2012/05/29 13:15:15――グーグルを用いて「心霊写真」の検索ワードで、よほど恐ろしい写真を探していて……哀しいかな、「広場の孤独 または ネッシーの心霊写真」のアリスを見てしまった、ユニーク・アクセスのあなたが――2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、370000人目の訪問者でした――実に6年でここまで来るとは、流石に僕も予想だにしていなかった――
野人藪野直史――最早、僕のフィールドはこの世界のみ――今後とも、よろしゅう、ご贔屓の程、お願い申し上げ奉りまする――
而して――
ブログ370000アクセス記念として、HPトップからリンクの、
「――道成寺鐘中――Doujyou-ji Chronicle」
を創始、既存の
「謡曲 道成寺」
の外、
「紀伊國牟婁郡の惡しき女(「大日本國法華經驗記」より)」
「紀伊國道成寺僧寫法花救蛇語第三 (「今昔物語集 第卷十四」より)」
「紀州日高の女山伏をとり殺事(「古今辨惑實物語」より)」
浄瑠璃「日高川入相花王 眞那古庄司館の段 渡し場の段」
の新テクスト4作品を一挙公開した。この「――道成寺鐘中――Doujyou-ji Chronicle」は、道成寺関連作品を今後も増殖させるつもりである。
まずは、お楽しみあれ――
現在、ブログ・アクセス369821。明日早朝より記念テクスト公開準備に入る。今回は――道成寺ハイブリッド――だ――
「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」(やつなよせ)を公開した。鎌倉では、谷は「やと」(谷戸)と称し、地名では「~ヶ谷」(~がやつ)と読む。現在は俗に、六十六ヶ所あると言われているが、実際には最早、名を失ったものも含めると、有に百数十箇所はあるとされる。流石にこの注は疲れたが、いつか、鎌倉中の谷戸名を総て地図上に配してみたい欲望には、十二分に駆られてきた。日照時間や湿気の違いで、鎌倉では一つの谷戸の中に、例えば季節の数ヶ月分の時間差がワン・セットになってグラデーションを示す。
――鎌倉は谷戸を歩け――
これが、鎌倉の合言葉だ。
景淸塚の事
御代官を勤し三代已前の池田喜八郎西國支配の時、享保八年日向國に景淸の塚ありと聞て土老へ尋しに、宮崎郡下北方村沙汰寺といへるに寺の石碑をさして、是なる由申ければ、能々其碑を見るに、年經ぬると見へて苔むせしに、水鏡居士と彫付あり。喜八郎は和歌をも詠ける故、
世々經とも曇りやはする水鏡景淸かれとすめる心は
と書付、其邊へ出役(しゆつやく)せし手代に爲持(もたせ)、右墳墓へ手向けるを、頰骨あれて怖げ成老人、何事也やと尋る故、景淸の塚と聞て和歌を手向候由申ければ、奇特成事、我等無筆也そこにて書給はるべしとて、乞(こふ)に任せて筆取ければ、
心だにすめばかげ淸水かゞみくもらずすめる世こそ嬉しき
と言て書消て失ぬる故、其邊の草刈童に尋しに、何方の人にや不覺(おぼえざる)者の由申せしとかや。此事傳(つて)ありて武者小路公蔭聞たまひて、
ます鏡世々にくもらぬ跡とめて景淸き名を聞くもかしこし
右實蔭の歌は明和六年の比、喜八郎次男諸星明之丞在番の節の事の由。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。藤原景清(生没年不詳)は俗に悪七兵衛で知られる平家の武将。治承四(一一八〇)年に安徳天皇の滝口の武士となり、源平合戦を奮戦、壇の浦の合戦後に潜伏した後には、源頼朝に降伏して建久六(一一九五)年三月の頼朝東大寺大仏供養の日に断食して自死した(長門本「平家物語」)とも、捕縛されて鎌倉へ護送され、預けられた八田知家の邸で絶食して果てた(鎌倉の扇ヶ谷には「景清の籠」と称される岩窟がある。私の「新編鎌倉志卷之四」の「景淸籠」を参照)とも、翌建久七年の京での平知忠(知盛遺子)の乱に加わった末に行方をくらました(延慶本「平家物語」)とも伝えられる。平家残党伝説の一人として数々の説話を各地に残しており、謡曲「景清」を始めとして、後々の浄瑠璃や歌舞伎、落語に至るまで、様々な創作作品に取り上げられるトリック・スターである。本編は短い話柄の中で和歌を主体に緩急緩を見せ、更に正に謡曲の複式夢幻能を意識した構成をとったものとなっている。知られる「景清」は娘とのたまさかの邂逅を描くもので、今一本の「大仏供養」も頼朝暗殺を扱った現在能である。この話柄のような能が、あってもいい。
・「池田喜八郎」池田季隆(延宝六(一六七八)年~宝暦四(一七五四)年)。第六代将軍家宣将軍就任前から勘定役、正徳三(一七一三)年上州代官、その後、不正によって小普請に落とされるも、享保三(一七一三)年に許されて、西国筋代官に復職した模様だが、ネット上の情報によれば、享保十四(一七二九)年に、再び部下の不正により処罰を受けている(如何なる処罰内容かは不明)が、底本の鈴木氏注では宝暦元(一七五〇)年に致仕、とあるから重い処罰ではなかったものと思われる。鈴木氏は更に、『三代前とあるが、寛政当時の当主は孫の但季』であったと錯誤を指摘しておられる。
・「西國支配」底本の鈴木氏注によれば、享保三年の武鑑によれば、彼は上州の代官七人の一人で、現在の九州地方を支配していた代官は室七郎左衛門とあり、記憶違いを指摘されておられる。ネット上の情報とは大きな食い違いを示すが、私はそれを確認する資料を持ち合わせていない。どちらが正しいのか、識者の御教授を乞うものである。
・「享保八年」西暦一七二三年。以下に示した景清所縁とも言われる宮崎市生目(いきめ)神社関連のネット上の情報では、『豊後国日田の郡代』池田季隆が参拝して、本話の原歌とも思われる、
かげ淸く照らす生目の鏡山末の世までも雲らざりけり
という歌を献納したのは、元禄二(一六八九)年三月三日とする(例えば「神社探訪」という個人(御夫婦)のHPのこちらのページ)。が、元禄二(一六八九)年では池田季隆満十一歳、丸で『七人の代官』ならぬ「七人の侍」の菊千代になってしまう。この齟齬についてお分かりの方は、是非とも御教授願いたい。
・「景淸の塚」宮崎市下北方町には、現在、藤原景清廟なるものがあり、景清の墓と娘人丸の墓と伝えるものが現存する。例えば、高橋春雄氏の「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」の「謡蹟めぐり 景清 かげきよ」には、『景清はこの地にきて「源氏一門の繁栄を見るに耐えず、「この拙者の健眼が敵であるぞ」と叫んで自ら両眼を抉って投げた。その地が生目であり、生目神社に祀られている』とする(ここは全国にある景清伝説の遺跡を総攬出来る、素晴らしいページである。是非、御覧あれ)。この生目神社は同市生目亀井山にあり、この神社に纏わる伝承では『頼朝は平景清の武勇を惜しんで、自分の下に重く用いたいと思った。しかし景清は、その厚意を断って、西国に流してくれるように願った。頼朝は景清』に日向国『宮崎郡北方百町、南方百町、池内村百町、計三百石を与えた。文治二年十一月、景清は家臣の大野、黒岩、高妻、松半(まつは)、山野、旧橋(ふるはし)、重長、有半(ありわ)の諸氏を引き連れて、日向に下り、下北方古城(宮崎市)に居城』、『その地に住み着いてのち、景清は深く神仏に帰依した。下北方名田(みょうだ)、帝釈寺(たいしゃくじ)、岩戸寺、浮之城、正光寺などを建立した。静かな余生を送りたいと考えたが、過去に対する追憶や後悔、源氏が勢力をふるっている現実に対する不満などのために、煩悶(はんもん)し続けた。ついにはその苦しさから逃れるために、自分の両眼をえぐって、虚空(こくう)に投げつけた。投げられた両眼は付近の生目の地(宮崎市生目)にとどまった。現在、目の神様として知られている生目神社は、その景清の両眼を祭っているといわれている』とある(先の「神社探訪」という個人(御夫婦)のHPの日向民話集の引用より)。
・「宮崎郡下北方村沙汰寺」現在の宮崎市下北方町。ここには真言宗の古城村今福寺末の神集山沙汰寺があったが、明治三(一八七〇)年に廃絶したと伝える(「角川日本地名大辞典」に拠る)。
・「世々經とも曇りやはする水鏡景淸かれとすめる心は」「景淸かれ」は「影淸かれ」の、「すめる」は「澄む」と「住む」の掛詞。また以下の歌も同様だが、ふんだんに縁語が用いられてもいる。私の勝手な通釈。
……永い年月を経るとも、曇ることがあろうか?――いや、決して、ない――ということを私は信ずる……水鏡よ……いついつまでも、清くあれ……そう願う、それが古人の美しき心を願う……私の正直な嘘のない澄んだ心にて……その心もて、この世に住まんと切(せち)に願う……
・「心だにすめばかげ淸水かゞみくもらずすめる世こそ嬉しき」私の勝手な通釈。
……身は、宇宙のあらゆるところに、自在に住みなし……心は、あるがままに、自在に澄みきっておればこそ……水鏡に映る影も、久遠(とわ)に曇ることなど――決して、ない――曇ることなく全き澄める世に……我も住んで、おることこそ……これ、我が喜び……
なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
心だにすめばかげきよ水かゞみくもらずすめるよしぞうれしき
の表記で載る。大意は変わらない。
・「書消て」底本では「書」の右に『(搔)』の傍注を附す。
・「傳(つて)」は底本のルビ。
・「武者小路公蔭」底本には右に『(ママ)』の傍注を附す。公卿・歌人であった武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ 寛文元(一六六一)年~元文三(一七三八)年)の誤記。和歌の師でもあった当時の霊元上皇の歌壇にあって代表的歌人であった。
・「ます鏡世々にくもらぬ跡とめて景淸き名を聞くもかしこし」「ます鏡」は「真澄の鏡」の約で、和歌では「清き」「影」などの枕詞で、ややひねりを加えて用いている。私の勝手な通釈。
……年月経ても、その古えの光栄は……一抹の曇りもなく、記憶に刻まれて御座る……五百年を経た今も……忠にして誠なる景清様の御名を聞くに……畏れ多くもかしこくもまこと勿体なきことにて御座ることよ……
・「明和六年」西暦一七六九年。当時、根岸は勘定組頭であったが、直ちに江戸の根岸が聴いたというはおかしいから、これはもっとずっと後に諸星明之丞から(若しくは諸星を知れる者からの伝聞で)根岸が聴いた談話であろう。
・「諸星明之丞」諸星信豊。池田喜八郎季隆の次男で、後に諸星信方養子となった。天明四(一七六七)年に大番組頭となっている(底本鈴木氏注)。大番組頭は、江戸城警備隊隊長相当の侍大将(騎馬隊指揮官)である大番頭配下の中間管理職相当の職。
・「在番」大番衆が交替制で二条城・大坂城などの勤務に当たることをいう。
■やぶちゃん現代語訳
景清塚の事
今の池田殿の、その三代前の御代官を勤めて御座った池田喜八郎季隆殿が、西国筋支配の御代官をなさっておられた頃、享保八年のことと言う。
季隆殿、人伝てに、日向国に景清の塚ありと聞いたによって、その地へ赴き、土地の古老に尋ねてみたところ、宮崎郡下北方村沙汰寺という寺に案内(あない)され、老人はそこに御座った石碑を指して、これで御座ると申すによって、よくよくその石碑を見るに、随分に年経たものと見えて、すっかり苔むして御座ったれど、幽かに「水鏡居士」と彫付けが御座った。喜八郎は和歌をも詠む人で御座った故、
世に経とも曇りやはする水鏡景清かれとすめる心は
と書付けた歌を詠んで、後日、その辺りに出向くことになっておった部下の男に持たせ、かの墳墓に手向けさせんせしが、その男の眼前に、
――頬骨もすっかり枯瘦致いた、怖ろしげなる老人が一人――
忽然と現われ、
「――何事ぞ――」
との尋ね故、
「……景清の塚と聞いて、和歌を手向けておる……」
と、委細主人の趣きを申したところ、
「――それは奇特なる事――我らは無筆なるによって――そこもと――我らが代わりとして――お書き下されよ――」
と乞うによって、筆を執れば、
心だにすめばかげきよ水鏡曇らずすめる世こそ嬉しき
と詠んだかと思うと――老人は――ふっと、かき消えてしまった――
男は、近くで草を刈っておった童べに尋ねてみたものの、
「――どこの人や、よう、知らん――」
と答えた、とのことで御座る。……
このことあって後、和歌の名家武者小路実陰(さねかげ)様が、このことをお聞き及びになられ、
ます鏡世々に曇らぬ跡とめて景清き名を聞くもかしこし
この実蔭様の御詠のことは、明和六年の頃、喜八郎次男諸星明之丞が、二条城に在番して御座った折りのことの由で御座った。
「鎌倉攬勝考卷之一」の「地名」を公開した。本パートは小坪の和田常盛と朝夷奈義秀の兄弟相撲対決と兄遁走の絵など、なかなか楽しい。なお今回、作者植田孟縉の若宮大路に関わる距離数値の大きな誤りを発見した。仕事をしての片手間仕事であったら、恐らくは看過していたに違いない。底本の誤植でないとすれば――実に江戸の誤りを長崎で訂す――180年前の誤認を今、僕が訂している――実に、感慨深い。
今回のものは、もともと原文が異様に長い。しかし、だから二日もかかったわけでは、ない。
ちょいとこの訳には拘ったためである。
お暇な折りに、是非、僕の浄瑠璃風現代語訳を、御笑覧あれかし。
*
實情忠臣危難をまぬがる一事
明和天明の此とかや。下総國古河(こが)に豪家の百姓次郎右衞門といへるは、壹人の倅次郎吉才發怜悧成しが、年此に成て勞症ともいふべき病を受けて鬱々と暮しけるを、兩親をはじめ大きに歎き、江戸橘町に出店有りける故療治保養に差出しけるに、惡友にいざなはれて吉原町へ通ひ大金を遣ひ捨ける故、次郎右衞門大に怒り、早々村方へ呼下し一間をしつらひ嚴敷(きびしく)蟄居せしめけるに、恩愛の忍(しのび)がたく母の歎きやるかたなき故、一類打寄て次郎右衞門へ願ひ圍(かこ)ひを出しけるに、吉原町にて深く馴染ける俵屋の半蔀(はじとみ)といへるを戀こがれける故、無程鬱病を生じ又々煩けるが、近頃は心底も改(あらため)うわきなる氣色もなければ、又々打寄次郎右衞門へ江戸表へ出養生(でやうじやう)の事願ひけれども、始は得心不致(いたさざり)しが、一子を見殺しなんも無意の所爲のよし頻(しきつ)て申者有りて、又々橘町の出見世へ遣しけるに、始に替り自身升秤(ますはかり)をとりて實躰(じつてい)に家業なしける故、一類の悦び大方ならず。しかるに夏の頃也しが、又々風與惡敷にさそはれ吉原町へ至り半蔀に馴染、多分の金銀を遣ひ捨候故、次郎右衞門大に怒り早速江戸表へ出、かゝる不所存の者は家を失ふ前生の因果成べしと、一類手代共の申をも不取用(とりもちひず)舊離勘當なしけるゆへ、次郎吉も今は詮方なく、しるべとてもなければ、吉原町にて以の外目を懸し茶屋船宿のかたへ尋行しに、勘當請(うけ)し事もしれたる事なれば、古へに引かへ能き言葉をかけ候者も無之、中々半蔀抔に可引合躰(ひきあはすべきてい)ならざれば、しほしほとして衣紋坂(えもんざか)を徘徊せしに、むかし座敷へ呼び心安かりし牽頭持(たいこもち)義兵衞といへる者に出合しに、此者志厚きものにや、次郎吉が樣子を深く尋とひて、當時居住(ゐすまひ)なくば我方へ來り給へとて、己が宿へ伴ひ食事をあたへ、毎度半蔀より御身の事を尋問給へば、今宵引合可申迚(まうすべしとて)、損料にて衣類を拵へ、金子壹兩與へて俵屋へ同道せしに、半蔀が歡び大かたならず。何分御身の方に暫くかくまひ給へ、入用は我身より出さんとて親切に世話致し、義兵衞もともども介抱すれども、いつを限りと世話に可成(なるべき)も如何(いかが)なれば、奉公にてもいたし可申由ゆへ、次郎吉義兵衞相談の上、いにしへ次郎吉召仕ひし長八といへる者、麻布市兵衞町に居(をり)けるを尋て至りしが、此長八は夫婦暮(ぐらし)にて身薄(みうす)の者なれども、あく迄忠臣成者にて深くかくまひ、本店へ申なばいづれ手當も出來なんに、男氣なる者にや又は子細やありけん、一衣をぬぎて夫婦して次郎吉を介抱しけるに、義兵衞よりしらせけん、半蔀よりは度々次郎吉へ文を差越けるを、吉原よりの屆文と聞ては若旦那の身のむし成と、請取ては破り捨候樣子故、次郎吉も深く歎けども詮方なし。是は扨置き半蔀は、次郎吉ヘ音信(おとづるれど)も一度もいなせの返事だになければ深く案じ煩しが、彼義兵衞を呼て深く相談に及びしに、さ程に思ひ曲輪など缺落いたし候はゞ、大雨か大雪の日など宜かるべしと教へければ、或日大雪の降りけるに妹女郎卷篠(まきしの)へむかひ、御身數年兄弟のちなみ大方ならず、誠に我身一生の賴(たのみ)承知有之成と尋ければ、卷篠も幼年より深く世話に成りし事、いか樣の事也とも命にかへて受合(うけあは)んといゝし故、次郎吉が事を語り、此雪に紛れ曲輪を拔出で次郎吉を尋んとおもふ間、裏の方水口(みづくち)の〆(しま)りをゆるめ給はるべしと賴しかば、其姿にては遁れ出ん事かたかるべしと尋しに、兼て拵らへ置きし哉(や)、木綿の布子に麻の衣頭巾迄拵へ、此通りにて出候由申ければ、卷篠かの水口を明け置ければ、道心者の躰(てい)にて竹の子笠をかむり、夜明前右切戸より出て、大門をも難なく拔出しに咎(とがむ)る人なければ、麻布市兵衞町と尋て遙々尋行て、漸(ようやく)に長八が宅へ尋當り次郎吉を尋、長八にもしかじかと語りければ、長八もその貞節深切を感じ、元より男氣成者なれば安々と受合(うけあひ)、次郎吉一同にかくまひ置しが、兼て不勝手(ふかつて)の長八、ことに兩人の厄介何れも手助に成べき者にもなければ、朝暮の煙も立兼し故、夫婦相談の上女房を奉公に出し可申とて彼是承合せけれ共、年もはやたけぬれば遊女奉公にも出しがたく、何卒給金宜(よろしく)、勝手に成べき方をと搜しけるに、市ケ谷邊にて御先手細井金右衞門組與力にて笠原何某といへる者、妻相果(あひはて)家事の世話いたし候女子を尋ける故、右笠原方へ金弐兩弐分にて奉公濟(すみ)いたしけるが、右金も長八程なく遣ひ果しまたまた困窮、詮方なく色々心を苦しめけるが、主人の爲には盜(ぬすみ)致し候者も有之事と風與惡心出て、盜にてもせばやと次郎吉、半蔀へは用事有りて山の手迄參り候間能く能く留守し給へと言て、市ケ谷佐内坂牛込邊を夜通しあるきしが、中々盜抔可致場所もなきゆへ、うかうかと市ケ谷邊を立歸りけるが、ある與力躰の屋敷に表の塀に階子(はしご)かゝり居しゆへ、天の與(あた)へと思ひしが、我より先に盜賊と見へ立入り、大きなる風呂敷包を表へ投出し頓(やが)て階子を下りける故、後より階子共おし倒し、迯(にげ)んとするを取て押へ、某(それがし)は主人の爲(ため)金子無之(これなく)候ては難成(なりがたき)事ありて、命を捨て盜に入らんと思ひし處、今御身に廻り逢ひし也、定て盜たる金子可有之(これあるべし)、何卒貸し呉候樣、實意を顯(あらは)し歎きければ、流石盜賊ながら彼實情にや感じけん、此方へ來り給へと市ケ谷の土手へ至り、扨々御身は感ずるに餘りあり、今晩盜取候金子何程に候哉(や)數も存ぜざれ共、是を御身に與ふるなりと言ひしかば、忝(かたじけなき)段挨拶に及び、いづれ右金子主人の勘當ゆるされば一倍にして可返(かへすべき)間、住所名乘(なのり)をかたり給へと申ければ、彼盜賊答へて、何ぞ住所も有べきや、かゝる非道の生業なせば程なく刑死すべき身也、何ぞ禮に及ぶべき哉(や)と取合ざれば、左はあるべけれ共我盜賊に候共(さふらふとも)恩を請て其恩を報ざらんとひたすら申しければ、かの盜賊にある事ならば我は程なく刑死すべき間、今日を忌日として跡を吊(とむら)ひ給はるべしと、止(とむ)る袖をふり切ていづくともなく迯去りし故、長八も詮方なく、貰ひし金を改見けるに三拾五兩有りし故押戴き居たる所に、最初の盜賊盜計(ぬすみばかり)にも無之(これなく)火を附けたりしや、ありし場所の遠火事とてさはぎ燃立(もえたち)ける故、驚きて早々其場を遁れ歸る道にて、加役方を勤し金右衞門組の笠原何某通り懸り、怪敷由にて聲をかけ捕候故、品々申譯致せども不聞入(ききいれざる)故ふり切て又々迯出すを、追缺(おひかけ)て單物(ひとへもの)の袖を捕(とらへ)、糸やゆるみけん袖引ちぎられて、這々迯延(はふはふにげのび)て市兵衞町へ立歸り、彌々兩人を介抱しけるが、或日豆腐調(ととの)へに長八出しに、かの市ケ谷にて引(ひき)きられし單物へ新しく切レを縫付(つけ)着(ちやく)いたし候を、彼笠原廻り先にて見咎、彼片袖に引合(ひきあはせ)段々と詮儀して、町内組合も出て長八に於(お)き惡事致侯者に無之由強(しい)て申立けれ共、取用無之(とりもちひこれなく)入牢いたしけるゆへ、町内の者より次郎右衞門橘町の店へ通じければ、早速次郎吉半蔀は橘町へ引取、段々長八が譯もしれ、何故に橘町の店へは不通哉(つうぜざるや)、扱々是非なき次第也と、是又長八が惡事可致者に無之段日々訴ける。次郎右衞門も江戸表へ出、諸神諸佛日々のごとく足手を空に長八が命乞をなしけるとかや。佛神は正直の頭(かうべ)に宿り給ふの諺空しからず、諸神の加護也けるや、爰に不思議の事こそ出來ぬれ。長八は日々の責呵にて最早命も續べきにあらず、何れ火を付候に落可申(おちまうすべく)候、日毎に笠原何某相役高田久之丞無躰(むたい)の吟味に絶兼(たえかね)、盜に入(いり)火を附候趣に落けるが、彼(かの)長八妻は笠原何某方に勤けるが容色いやしからざる故笠原事度々戀慕して口説(くどき)けれど、夫有し由にて其心に隨はざりしに、或日笠原儀渠(なんぢ)が夫長八盜に入火を附候儀、某(それがし)が吟味にて白状いたしたれば、迚も助るべきにあらず、夫(それ)よりは我心に隨へなど醉狂の儘口説ける故、彼女大きに驚き、扨は笠原が横戀慕故に夫を無實の罪に落すならんと、町奉行依田豐前守方へ駈込願いたし候處、段々吟味の上長八儀盜賊に無之段相分り、殊に長八に金子を與(あたへ)し盜賊も其節入牢いたし居(をり)、右市ケ谷の火附其身にて長八に無之由申立、笠原高田は不正の吟味故改易に成、細井金右衞門も不念(ぶねん)の御咎にて御役御免有し由。さて又長八夫婦は次郎右衞門方へ引取、厚く賞して作大將(さくだいしやう)とやらにいたし、半蔀は受出して次郎吉が妻と成し由。次郎吉儀沈淪(ちんりん)の内恩義有し者へは逸々(いちいち)其禮を述、今に榮へ居ける由。右次郎吉直々の咄しを聞しとかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:論理的な連関は感じないが、読み終えた際の爽やかさは妙に共通している。この話、濡れ場もあり、また、主役が実は好男子次郎吉ではなく、一回の元使用人長八であって、その長八の手に汗握る波乱万丈の最終展開が眼目という、まるで浄瑠璃の五段構成にそっくりであるが、以下の注で検証したように、これは作り事ではなく、その主要なコンセプトは事実に基づいているらしい。実に面白い。善玉長兵衛と長八、悪玉笠原某と高田久之丞、絡む美形の長八女房、無名ながら愛すべきピカレスクの火つけ盗賊と、役者は十二分に揃っている。長八の奉行所での拷問責めという、観客垂涎の眼目もあればこそ、まこと、文楽の舞台にしたいというのが、実は私の正直な感想なのである。――さればこそ、今度(このたび)のやぶちゃんの現代語訳は、半端なく、凝って御座るぞ――東西東西(とざいとうざ~い)……
・「明和天明」安永を中に挟んで西暦一七六四年から一七八九年まで。明和の前が宝暦、天明の後が寛政。
・「勞症」辞書では労咳、則ち、肺結核としか記載しないが、近世物ではしばしば神経症や精神病の様態に対してもこの語を用いており(この次郎吉の話柄時制での状態と、『次郎吉儀沈淪(ちんりん)の内恩義有し者へは逸々(いちいち)其禮を述、今に榮へ居ける由。右次郎吉直々の咄しを聞しとかたりぬ』という点から見て、予後の良い一過性の心因性神経症であったと考えてよいか)。最後にから見ると、ここでもその意で採るべきであろう。岩波版の長谷川氏の注にも『肺病。また一種の神経症。』とある。
・「橘町」日本橋橘町。江戸時代初期にここに京都西本願寺別院があったが、その門前に立花を売る家が多かったことから立花町、後に橘町に改めた。現在の東日本橋の南西部分、両国と道を隔てた反対側の一画を言う。次郎右衞門の「出店」は具体的に如何なる商売かは示されていないが、次郎右衞門が豪農であることから、何らかの農作物の販売に関わる商店か問屋であった可能性が高いように思われる。
・「俵屋」天明八(一七八八)年作の山東京伝の黄表紙「時代世話二挺鼓(じだいせわにちょうつづみ)」にも登場する吉原でも評判の妓楼であった。
・「半蔀(はじとみ)」は底本のルビ。この源氏名を持った遊女は実際に吉原の俵屋にいた岩ことが、岩波版長谷川氏注の『宝暦期の細見に吉原京町一丁目俵屋小三郎(後には四郎兵衛)抱え、揚代昼夜二分として名が出る』で分かる。但し、宝暦だと冒頭の時代設定からやや厳しい気はする。但し、遊女の源氏名は継がれた場合もあるから、本話が事実譚である可能性の有力な証左の一つであることには変わりがなく、更に以下の「細井金右衞門」の注で明らかになるように、本件は明和四(一七六七)年の事件であることが明らかにされることから、まさにこの宝暦期の細見に出る「半蔀」こそが彼女である可能性が高くなるとも言える。因みに古語難読語としてしばしば出題される半蔀とは、内藤藤左衛門作の三番目物謡曲「半蔀」に基づくもので、実は源氏物語の夕顔を意識した源氏名と思われる。謡曲「半蔀」は、雲林院の僧が立花供養で夕顔の花を捧げる女の言葉により五条辺りを訪ねると、夕顔の絡まった半蔀を押し上げて夕顔の霊が現れ、源氏との昔を語って舞う、という結構である。
・「惡敷にさそはれ」底本には「惡敷」の右に『(惡友カ)』と傍注する。「惡しき(者)」と読んでも問題はないと思われるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「悪友」となっており、それで採る。
・「舊離勘當」「舊離」は、不行跡の子弟が失踪などした際、その者が残した負債の連帯責任から免れるため、親族が奉行所に届け出て、失踪者を人別帳から除名し、絶縁することを言う。現在の失踪宣告に近いか。対する「勘當」は、親が子との縁を絶つことを言い、これは正式に奉行所への届出が必要であった(この法的措置は主従・師弟関係でも有効であった)。但し、前者は、しばしば勘当と混同され、ここでも勘当の接頭語のように附帯しているものと考えてよいであろう。
・「衣紋坂」日本橋土手通り(日光街道)から吉原大門の間にあった坂でS字型を成していた。遊客がここで身なりを整えたことに由来するとされ、湾曲しているのは将軍家日光参拝など際、街道から遊廓を見通せないようにしたためという。
・「牽頭持(たいこもち)」は底本のルビ。「太鼓持」や「幇間」と書くのが普通であるが、小学館の「日本国語大辞典」には、引用例にまさに「耳嚢」のここを引いている。但し、「牽頭持」の字の意味については明らかにされていない。滑稽御愛想を言って人の気を引くのを、「頭を牽く」と言ったものか。識者の御教授を乞うものである。
・「身薄」金がないこと。貧乏。
・「身のむし成」隠喩で「身の虫なり」(御身に附く悪(あし)き虫なり)の意か。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『身のふため成』とあって『ふため』の右に『(不為)』とあって、これは「身の為にならざるなり」(御身がためにならざることなり)の意で、こちらの方が文脈からは(この後の半蔀に対する長八の誠意に満ちた行動などから)、より自然でよい。後者で採る。
・「いなせ」「否諾」「せ」は肯定の意で、①不承知か承知か。諾否。②安否。ここは②の意。
・「さ程に思ひ曲輪など缺落いたし候はゞ、大雨か大雪の日など宜かるべしと教へければ」この台詞が幇間の台詞であることを考えると、私は辛気臭い真剣な話し合いでは、逆に興が殺がれる気がする。これは幇間の洒落のめした戯れ唄や踊りのイメージで語られてこそ臨場感があると思う。例えば「思ひ曲輪」は「思ひ狂は」の掛詞のようにである。これは私の勝手な解釈である。でも面白いと自分では思っている。そもそも遊廓の中で幇間が遊女相手に、あろうことか、遊廓足抜けの指南をするという驚天動地のシークエンス、どうして凡百の映像や演出で我慢出来ようか?! 私の現代語訳では思い切った翻案訳を施してある。――御笑覧♪ 御笑覧♪
・「承知有之成」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の「承知有之哉(これあるや)」でないと台詞としておかしい。
・「水口」本来は、台所の水を汲み入れるための口を言うが、そこから台所の意。
・「朝氣」底本では「氣」の右に『(餉)』と傍注する。
・「御先手組」「卷之二」の「明君其情惡を咎給ふ事」の注参照。若年寄支配、江戸の治安維持を職掌とした。泣く子も黙る火付盗賊改方長官は、御先手組の頭が加役として兼務した。
・「細井金右衞門」細井正利(ほそいまさとし 享保二(一七一七)年~安永九(一七八九)年)。底本の鈴木氏注に、明和四(一七六七)年、彼が正に本話の事件処理に関して、役目落度のため処罰されたことが「寛政重修諸家譜」に載るとあって、原文が示されてある。以下、該当箇所を正字に変えて示す。
「明和三年六月十八日より盜賊追捕の事を役す。四年六月二十日これをゆるされ、閏九月十六日さきに放火せしものをとらへて獄に下し、罪科に處すべきむね言上にをよぶにより、なを穿鑿あるのところまさしく寃罪なるに決せり。總じて囚人を糾明することは、その情をつくし、ことにかゝりあへるものをもあまねくとひたゞすべきに、たゞに與力高田久之丞にのみまかせをきしよし、よりて久之丞を推間あるのところ、かれも罪にあたらざるとは心得ながら、もとめて放火の科にをとせしむね白状にをよぶ。しかるうへは正利がはからひ疎なるに論なし。しかのみならずこの事により、ひそかに久之丞がもとに文通し、其餘配下の同心等市店にをいて不束なる所行多かりし條、みな正利が職務にこゝろを用ふることゆるがせにして、配下の制導の等閑なるによれりとて職をうばひ、小普請に貶して逼塞せしめられ、五年正月二十七日ゆるさる。」
記述から読み取れる事件、高田久之丞という名の一致といった本記載によって、本話の信憑性は各段に上がるといってよい。それにしても――正にいつの世にも、こういった輩は絶えないものと見える。……これまさに、どこかの検察庁の不祥事そのものと同じではないか。
・「佐内坂」現在の新宿区市谷左内町の西南にある。現在は町名と同じく「左内坂」と表記される。
・「かの盜賊にある事ならば」の右には『(專經關本「彼賊さ有事ならば」)』という傍注がある。傍注の方でないと意味が通じない。
・「加役方」ある役職にある者がさらに別の職を兼務することを言う。先の「御先手組」注を参照。
・「單物へ新しく切レを縫付(つけ)着(ちやく)いたし候を」は「單物へ新しく切れを縫付けしものを着用致し候を」ということである。
・「責呵」は「呵責」の意。
・「依田豐前守」依田政次(よだまさつぐ 元禄十六(一七〇三)年~天明三(一七八三)年)。「卷之一」の「石谷淡州狂歌の事」に既出。旗本。ここではウィキの「依田政次」から引用しておく(数字を漢数字に変えた)。『享保元年(一七一六年)、十四歳の時に八代将軍徳川吉宗に拝謁、享保十年(一七二五年)に小姓組に入り、小納戸、徒士頭と昇進し、目付になる。そこから作事奉行を経て、能勢頼一の後任として宝暦三年(一七五三年)に北町奉行に就任し、明和六年(一七六九年)まで務めた後、さらに大目付へと栄進し、同時に加増されて千百石の知行を得た。晩年は留守居役となり、大奥の監督に尽力したが、大奥の女中達と反目し、天明二年(一七八二年)に老齢を理由に致仕、翌年に死去』した。『北町奉行在任中には』尊王論者の弾圧事件と知られる『明和事件の解決に手腕を振るい、彼らに死罪、獄門、遠島などの処分を下した。他にも、札差と旗本の間で対立が生じてエスカレートした際に仲介を務め、一方で踏み倒しや不正な取立てを行う者に対しては徹底した調査を行って厳罰に処し、不正の横行を抑止することに尽力した』とある。彼の北町奉行勤務と本事件時は一致している(但し、ウィキには豊前守ではなく、『官位は和泉守』とある)。
・「改易」武士の身分を剥奪、領地・家屋敷などを没収する刑で、切腹に次ぐ重刑である。
・「不念(ぶねん)の御咎」「不念」は江戸時代の法律用語で、現在の過失犯の中で重過失に相当する。予見出来たのにも拘わらず、不注意で事件や犯罪事実が発生したと認定された様態を指す。重罰が下される。対義語は軽過失に相当する「不斗(ふと)」。
・「作大將」農家の作男の頭。冒頭にあるように次郎右衛門は下総国古河(現在の茨城県古河市)の豪農である。
・「沈淪」ひどく落魄れること。零落。
・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
忠厚によって危難を免れた事
「……東西東西(とざいとうざ~い)……「契情實忠臣蔵(けいせいぼんちゅうしんぐら)」全段……演じます大夫(たゆう)……豊竹藪之大夫……東西東西(とざいとうざ~い)、東西(とうざ~い)と……」
《古河屋敷座敷牢の段》
明和から天明頃の話、と聞いて御座る。
下総国古河(こが)に豪農の百姓で次郎右衛門と申すものが御座ったが、彼には次郎吉という、才気煥発にして怜悧なる一人息子がおった。
ところが、その次郎吉、成年になろうという砌り、世間で言うところの労症の如き病いを患い、日々鬱々として暮らして御座ったを、両親を始め、一族郎党、大いに嘆いて御座った。
さてもそこで、次郎右衛門、江戸橘町にちょいとした商いを致す出店(でみせ)を持って御座ったれば、次郎吉を江戸での療治の便(べん)や、商いをさせてみるのも、これ、気分を変えよう保養にもなろうほどに、と送り出した、と思しめされい。
ところが、次郎吉、知り逢(お)うた悪友どもに唆かされ、吉原へと通うようになり、次郎右衛門が渡いて御座った大枚の金子も、湯水の如くあっという間に使い捨ててしもうた故、次郎右衛門、これを知ると、大いに怒り、早々に次郎吉を実家へと呼び戻いて、一間を座敷牢に設(しつら)え、厳しく蟄居させてしもうた。
が、恩愛の情、忍びがたく、母ごは、この我が子の狂人の如き扱われようを嘆くこと、詮方なく、一族の者も仲に入って、次郎右衛門に懇請したによって、次郎右衛門も己が所行を幾分か後ろめたく思うて御座ったのでもあろう、直きに次郎吉を座敷牢から出だいた。
ところが次郎吉はと言えば、吉原町にて深く馴染んで御座った俵屋の半蔀(はじとみ)という女に、すっかり恋い焦がれてしもうて、程のう、重い鬱の病いを生じ、またまた煩いつく仕儀と、相い成って御座った。
しかし、暫くすると、この度(たび)は見た目も、浮かれて御座った心底も改まった様子、浮ついた気色も、これ、御座らなんだによって、またまた一族打ち寄って談合に及び、次郎右衛門へ再度、次郎吉を江戸表へ出養生(でようじょう)させることを願って御座った。
が、次郎右衛門、これ、なかなか得心致さぬ。されど、
「――一子を見殺しにせんとするは、無惨の所行じゃ!」
と頻りに申す者が御座って、次郎右衛門もしぶしぶ許諾致いて、再び次郎吉を橘町の出店へ遣わすことと、相い成って御座った。
さて、出店へ舞い戻った次郎吉、前とはうって変わって、自分から升や秤を手にし、実直に商売に勤めて御座った故、次郎右衛門一類の悦びようは、これ、尋常では御座らなんだ。
《橘町出店勘当の段》
しかるに、その年の夏のことで御座った。
不図、またしても悪友に誘われ、またしても吉原町を訪れ、またしても半蔀に馴染み、またしても大枚の金銀を使い捨ててしまった故、次郎右衛門、またしても大いに怒ったかと思うと、この度は即座に、自ずから江戸表の店に駆け込むと、次郎吉に向かって有無を言わさず、
「――かくなる出来損ないを倅れと持つは――家産を失(うしの)う前世の因果に、ほかならぬ!」
と一喝致いたかと思うと、その場に御座った親類やら手代どもの止めるも聞かず、
「――旧離勘当じゃ!――」
と吐き捨てて、次郎吉を店から追い出してしもうた。――
《吉原大門衣紋坂の段》
……さて、次郎吉、かくなっては最早致し方なく、こんな時に頼りとする方もなければ、吉原町にて殊の外目をかけて御座った茶屋や船宿なんどを訪ねる――が、こうした世界の常で、次郎吉が勘当を受けたことは、先刻承知の助、既にすっかり知れ渡って御座って――かつてに引きかえ、すってんてんの馬鹿息子に、親しげないつもの挨拶すら掛けて呉れる者も御座なく、かくなる上はなかなかに、愛しい半蔀を垣間見ん、なんどという話ですら、ない。――
そんなかんなで、悄然として衣紋坂(えもんざか)辺りを徘徊して御座ったところ、昔、半蔀との座敷へ呼んでは、心安うして御座った幇間(たいこもち)の義兵衛という者に出逢った。
――さてもこの男、蔑(さげし)まるる幇間なれど、奇特なことに、人情には厚い者ででも御座ったか――次郎吉の尋常ならざる風情を見、問い訊ね、訳を知れば、
「……ご当座、お住まいもご座らぬとなれば、儂(あっし)の浅茅が宿へ、まずは、お泊りおくんなせぇ。」
と、自分の家へ伴い、食事を与えると、徐ろに、
「……次郎吉の檀那……実はね、儂(あっし)が逢うたんびに……半蔀さん、『……次郎吉さんはどうしておりゃる……次郎吉さんのこと、あんた、知らんかぇ……』と……そりゃもう、しょっちゅう年中、責めてお尋ねになるんでげす。……されば――今宵一つ、儂(あっし)が旦那方を、お引き合わせ致しやしょう――」
と、義兵衛、言う――
《俵屋の段》
義兵衛は次郎吉を連れて、貸衣装屋にて衣裳を拵えさせ、手ずから金子一両を与えて、俵屋へと同道する。
半蔀の、悦んだの悦ばないの――
「……次郎吉の檀那のこと、どうか義兵衛殿、お前さんの方で、暫く匿っていておくんなまし。入り用の金子は、これ、あちきが出だしやんす。」
とは半蔀の言葉で御座った。
《麻布市兵衛長屋の段》
それからというもの、半蔀は俵屋の主人に隠れ、秘かに次郎吉へ真心のこもった世話を致し、義兵衛ともども次郎吉の面倒を見て御座ったが、ある時、次郎吉が、
「……いつまでも、こうして、世話になっておるというのも……如何なれば……何処ぞに……奉公にでも出ようと思う……」
と申す。
しかし――義兵衛の見たところ、如何にも弱々しく頼りなげで、「奉公」の「ほ」の字は、半蔀に「ほれた」の「ほ」しか知らぬといった様子なればこそ――次郎吉の行く末につき、更に義兵衛と委細相談の上、ともかくも、と、昔、次郎吉が召し使って御座った長八という者を、麻布市兵衛町に訪ねて御座った。
この長八なる者、夫婦(めおと)二人、如何にも貧しい暮らし振りで御座ったが、あくまで忠厚なる者にて、次郎吉を預かると、しっかりと秘かに匿って御座った。かの次郎右衛門の出店へ、かくかくしかじかと内密に申し出でれば――勿論、次郎右衛門へは内密で、であるが――取り敢えずは、なにがしかの当座入用の金子も得られたであろうに――この長八――男気のためか、はたまた、何ぞ、そうは出来ぬ過ぎぬる奉公の折りの事情でも、出店の者や次郎右衛門に対し、何ぞ御座ったものか――裸同然になるも覚悟で、夫婦して全力で、次郎吉の世話をして御座った。
また、義兵衛より知らされたのであろう、半蔀よりは、度々長八へ文が寄越されて御座ったが、それを長八は、
『――吉原からの届け文と聞きては――若旦那の御為(おんため)に、ならぬ――』
と受け取るそばから、破り捨てて御座る様子故、蔭でこれを知った次郎吉は内心、深い嘆きを抱いてはおったが、匿われた居候の身なれば、詮方なく、凝っと黙って御座ったのであった。
《雪景色吉原俵屋の段》
それはさて置き、半蔀はと言えば、次郎吉に何度も文を書いておるに、一度として、一言(ひとこと)の安否を知らせる返事さえも御座ない。されば、深く案じては、ひどう煩悶致いて御座った。
思い余った半蔀は、義兵衛を呼び、思いの丈をありのまま、ぶつけて御座った。
すると義兵衛――すっきりとした不思議に優しげな笑みを浮かべると――
「……♪チャカポコ♪チャカポコ♪チャチャチャ♪……♪さほどに思い曲輪など♪……♪思い狂わば♪……♪曲輪なぞ♪……♪駈け落ち致すが相場に候(そうろ)♪……♪曲輪を駆け落ち致すには♪……♪そうさな、大雨、大雪の♪……♪日など宜しく然るべし♪……♪チャカポコ♪チャカポコ♪チャチャチャ♪……」
と幇間の洒落節を唄(うと)うて御座った――。
それから程のう、大雪が、降った。
半蔀、妹女郎の巻篠へ向かい、
「……お前さん、この数年、お互い、二つとない姉妹の契(ちな)みを以って過いて参りやんしたのし……なれば、まことにあちき、一生の頼み……これ、承知して呉れやんすか……」
と訊ぬる。巻篠、
「……幼き日より深(ふこ)うお世話になった姐(ねえ)さんの頼み……いかさまのことなるとも……命に代えて……受け合いましょう……」
と答える。
されば――と、半蔀は次郎吉とのことを巻篠に語る。
「……この雪に紛れ……曲輪を抜け出で……次郎吉さんの元へ、参ろうと存ずれば……裏の厨(くりや)の戸締まりを……ちょいと緩めて……おかしゃんせ……」
と頼む。
「……アイ。……なれど、姐さん、そのお姿にては……遁れ出づること……難しゅう御座んせんかのし?……」
すると、半蔀、かねてより、この時のために用意しておいたものか、木綿の布子(ぬのこ)に、麻の衣と頭巾まで拵えたを、取り出だいて、
「この通りにて……曲輪を――出、ま、す――」
ときっぱりと、言うた。……
……巻篠、出て来て、かの厨の戸口の、締めて御座った鍵を開け、そのままにしておく……
……暫く致いて、道心者の体(てい)をなし、粗末な竹の子笠をかぶった半蔀、出て来る……
……夜明け前で御座る……
……半蔀、かの厨の潜り戸を抜け……
……大門をも、難なく抜け出で……
……真っ白なる雪の中……
……寒々とした薄き白無垢の姿にて……
……咎むる者とて一人もなく……
……人気のない衣紋坂……
……これ、半蔀の、下って参る……
《謠 道行》
……半蔀の……
……かくて……
……麻布の市兵衛町……
……市兵衛町へと……
……訊ね尋ね……
……遙々……
……尋ね行き行きて……
……漸く……
……市兵衛長屋の長八の……
……家(や)にぞ確かに……
……附き当たりけり……
……アア、当たりけり……
《長屋雪中の段》
半蔀は次郎吉と対面(たいめ)致し、長八にもかくかくしかじかと語りければ、根が正直者の長八、半蔀の稀なる貞節と、その情けの、いや深さに感じ入り、元より男気のある長八なれば、やすやすと受け合(お)うて、次郎吉ともども、匿い養(やしの)うことと、相い成って御座った。
《市ヶ谷屋敷端の段》
されど、兼ねてよりの赤貧の長八、殊に、かの二人の厄介、言わずもがな、匿(かくも)うて御座ればこそ、何の手助けの役にも、これ、立ち申さざれば、あっと言う間に、朝餉(あさげ)の煙も立たざる仕儀と相いなって御座った。
そこで長八夫婦は相談の上、長八の女房を奉公に出ださんことと決したが、齢いも最早過ぎぬれば、遊女奉公にも出だし難しと、女房、
「……何とか、給金よろしゅう……少しは、愛する長八さんと勝手になれるお仕事は、ないかいな……」
と捜して御座ったところ、市ヶ谷辺に御先手細井金右衛門組の与力にて笠原何某という者、妻を病いにて亡くし、家事の世話致すに相応しい女子(おなご)を捜しておる、ということ故、この笠原方へ前金二両二分にて奉公致すことと相い成り、それも成ったれど、この金も、長八、次郎吉、半蔀二人のために瞬く間に使い果たいて、またまた困窮致す仕儀と相い成る。
散々に心を苦しめ、途方に暮れた長八、
「……主人のためとなれば……盗みを致し候うも……また、ようある事じゃ……」
と、かの長八に不図、悪心の起こって――盗みでもするしか御座らぬ――と、次郎吉、半蔀へは、
「……用の向きがご座いまして、山の手まで行って参りますによって、よくよくお留守を、お頼(たの)申します。……」
とさり気なく言いて、市ヶ谷左内坂、牛込辺を夜通し歩いて御座ったが、なかなかど素人が盗みなんどの出来るような屋敷など、これ、あろうはずもなく、ぼんやりと、もと来た道を引き返し、市ヶ谷辺まで立ち戻ったところが、ある与力のと思しい屋敷の塀に、梯子が一つ掛かって御座った。さればこそ、
『――これぞ! 天の恵みじゃ!――』
とここに押し入らんと思うたが――しかし、これは玄人の盗賊の仕儀にて、既にそれらしき者、先に押し入って御座って――丁度まさに、その折り、その男、大きなる風呂敷包みを、ぽん! と表へ投げ出す――それがまた、長八の立って御座った足元へと転がる――やがて、梯子を降りて参る盗賊――
長八、すっと梯子を降りかけた盗賊の背後に忍び寄り、梯子諸共押し倒し、驚いて逃げんとするとする盗賊を取り押さえ、
「……我らは、主人の為、金子、これ、御座らねば、如何ともし難き儀の御座れば……命を捨てて盗みに入らんと思って御座ったところ……今、かくもお前さまに、ここで廻り逢(お)うた……これ、まさに巡り合わせに御座る……定めて盗みたる金が御座ろうほどに……どうか! その金――お貸し――下されぃ!……」
と、持ち前の真正直さから、奇妙に誠意を尽くいて嘆願致いたところが、流石に盗賊とは申せ、その心根とまっとうなるに感じたものか、
「……まずは……こちらへ来たり給え……」
と、盗賊は市ヶ谷の土手へと長八を誘(いざな)い、
「……さてさて……お前さんの思いにゃ、これ、すっかり心、打たれわい。……今晩、盗み取って御座った金子……これ、いか程あるやも知れぬが……これ総て……お前さんに――やろう。」
と言うた。長八、
「忝(かたじけ)い!」
と地べたに附して平服に及び、
「――何れ、右金子、主人の勘当許さるる時には、倍にしてお返し申す! どうかご住所お名前など、お教え下されぃ!……」
と申す。盗賊、
「……ちゃんちゃら、可笑しいわい! 盗賊なんどにどうして住所の御座ろうか。かかる非道の生業(なりわい)を致いておれば、ほど無(の)う、刑死となろうが、身の上。礼なんど、及ぶものには、御座らぬて……」
と取り合わず。長八、
「……そうは申さりょうが、我ら、たとえ御身の盗賊にて御座ろうとも、恩を請けて、その恩に報わずば……これ、なりませぬ!……」
と只管(ひたすら)、頼む。なれば、かの盗賊、
「……そうたって申さるるのであれば……そうさ、我ら、ほど無(の)う、刑死となろうによって――今月今夜を忌日と致いて――我らが跡――その弔(とむろ)いを、よろしゅう、お頼み申す――」
と、盗人は長八の止(とど)める袖を振り切って、何処(いずく)ともなく逃げ落ちる――。
残された長八も詮方なく、まずは、と貰った風呂敷の内なる金子を改め見れば、三十五両も御座った。
長八、いや高々と、夜空にこれを押し戴いて御座った。
――と――
……最前の盗人……これ、盗みばかりでなく、屋敷内に火をかけでも致いたので御座ったか、かの屋敷のあった辺り、
――火事じゃ!
という騒ぎの声あって、焰の燃え立つさまも見えければ、驚いて、早々にその場を遁るる。
ところが、その帰るさ……火付盗賊改方を勤めて御座った金右衛門組の――何としたことか、勿論、長八には一向に分からざれども、こは長八が女房の奉公して御座る――笠原何某、不図、通りかかり、長八を怪しんで、誰何(すいか)致すと、路に押し止める。
長八、いろいろと言い訳なんど致いたものの――みすぼらしき風体(ふうてい)、不審なる大風呂敷、やって参った方向の火事……これら総て、誰が見ても、クロ、と疑(うたご)う趣き故――聞き入れず、捕縛せんとすればこそ――
――長八、笠原を振り切って逃げ出す
――追っ驅くる笠原
――笠原、長八が単衣(ひとえ)の袖を摑む
……と……袖の糸の、古び緩んででも御座ったか、
――袖、引き千切られ
――長八、ほうほうの体にて
――市兵衛町へと立ち戻った。……
《市兵衛長屋路次(ろし)の段》
長八、かくしてこの大枚にて、いよいよ主(あるじ)次郎吉と半蔀を世話致いて御座った。
ある日のこと、長八、豆腐を買いに出るに、笠原に引き千切られた袖に、新しく端切れを縫いつけて御座った、かの単衣を来て歩いて御座ったところ、かの笠原、たまたま見廻りの途次にて見咎め、笠原、かの折りより常時持ち歩いて御座った、かの片袖端切れを取り出だいて、長八の袖の繕いとためつすがめつ、
「それ! まごうかたなき同じ品、同じ破れ目なればこそ!」
と、段々に長八を問い詰めたれば、市兵衛町町内の組合方も出張って参り、笠原に、
「――長八に限って悪事を致す者にては、これ、御座りませぬ――」
と申し立てたものの――端切れの符牒、美事に一致、かかる実証あればこそとて――全く以てお取り上げにならず、そのまま入牢と相い成って御座った。
直ぐに、町内の次郎吉の一件を知れる者より、次郎右衛門方の橘町お店(たな)へ、かくかくしかじかにて、と通じて御座った故、ことの成り行き、訳も分からず、途方に暮れて御座った次郎吉、半蔀は、早速に橘町へ引き取られた。
《橘町出店の段》
店内(みせうち)にて、段々に長八の次郎吉を匿(かくも)うて御座った趣きなんども知れるにつれ、かつて長八とも親しくして御座った手代衆は、
「……何故(なにゆえ)、我らがこの橘町のお店(たな)へ、正直に通ぜなんだものか?――さすれば、いかさまにも出来たものを――さてさて是非もない仕儀と相い成って御座ったのぅ……」
と、こちらも途方に暮れて御座ったが、取り敢えず、手代衆からも、これまた、御奉行所へ、
「――長八儀、これ、悪事を致す者にては御座らぬ――」
段、毎日のように訴え出て御座った。
そうこうする内、知らせを聞いた次郎右衛門も江戸表へ参って、己れ自ら願い出でて、長八冤罪の趣きを訴え、また、市中の諸神諸仏へも日参致いては、長八の命乞いをなして御座ったという。
《奉行所拷問蔵の段》
――「仏神は正直者の頭(こうべ)に宿り給う」――
との諺、これ、まことにて、諸神の御加護にて御座ろうか、ここに稀有の不思議が出来(しゅったい)致いた。――
「――長八儀、日々の責めに耐えかね、最早、命も続こうとも思われず……何れ、早晩……『火を点け申した』と、落ちましょうぞ……フハフハフハフハ……」
とは、笠原何某が相役高田久之丞の、笠原への言上(ごんじょう)……
……その高田が日ごとの無体(むたい)の拷問……鞭打ち、石抱き、海老責め、吊るし……責めに次ぐ責めの、その吟味、遂に耐え兼ね、長八は……
「……盗みに入りて……火を……つけ……申した……」
と嘘の自白を強要され……落ち、申した。――
《市谷笠原屋敷の段》
その間、長八が妻は、笠原何某方にずっと精勤致いて御座ったが、その容色、殊の外に美麗なればこそ、笠原こと、度々、横恋慕致いては口説いて御座ったれど、女房は、
「夫がおりまする。」
ときっぱり突き離いて、決して随わなんだ。
ある日のこと、笠原、かの女房が供した酒肴に舌鼓を打ちながら、いやらしき舌なめずりなんどして、かの女を眺め、
「……汝が夫、長八儀……今日、盗みに入って火を点けましたと……某(それがし)が吟味にて……白状致いた……されば、とても命の助かろうはずも、これ、ない……どうじゃ?……これよりは、我らが心に従え……」
なんどと、酔った勢いで口説いた。
《北町奉行所御白洲の段》
女房、これを聞いて大きに驚き、
『……さては笠原、妾へ横恋慕の故、夫を無実の罪に落といたに違いない――』
と、即座に、北町奉行依田豊前守様方へ駆込訴え致いた。
名奉行として名高い依田政次様直々、段々に再吟味がなされ、その結果、まさしく長八儀は、これ、盗賊にあらざる段、これ、相い分かったよって――
殊に、長八に金子を与えたかの盗賊も、丁度、その折り、別の科(とが)によって入牢致しおり、呼び出だされた御白洲にて、御奉行様に向かい、
「――確かに、市ヶ谷の火つけ盗賊は我らの所行にて――そこにおわす長八にては、これ、御座ない――」
と申し立てたから、これ、大騒ぎとなって御座った。
かくなればこそ、依田豊前守様は、
――長八儀証言と盗賊儀自白は、これ、真実(まこと)なること明白にして、長八儀は――冤罪
と相い決し、
――笠原儀及び高田久之丞儀は、不正の吟味、これ、あれば――改易
と相い決し、
――細井金右衛門儀は、職務怠慢にして配下の支配、等閑(なおざり)なるによって過失重く不念(ぶねん)なりとて――御役御免の上、小普請に貶(おと)し、逼塞
申し付けられた由。
……さて、無罪放免となった長八とその女房は、次郎右衛門実家へと引き取られ、手厚く褒賞を受け、長八は次郎右衛門小作の作大将とやらになって御座った。
……半蔀儀は、次郎右衛門世話によって、俵屋より正式に請け出だされ、次郎吉が妻となった、とのこと。
……また次郎吉儀は、勘当されて御座った間、恩義のあった長兵衛や巻篠らを、一人ひとり訪ね歩いては、かの折りの礼を述べ……今も古河にて次郎右衛門二代目として、栄えて恙なし、とのこと。
「……さても、右の長き伝、これ、正しく、この次郎吉本人の、直々にての話を聞いてのもの。……」
と、私の知れる人の語ったことで、御座る。
ここは今も昔もデート・スポット、僕の父母も、そして僕も「あの子」(これは複数形であることを告白する)と行った――江ノ島水族館は昭和27(1952)年に日活社長堀久作の肝煎りで企画され、昭和29(1954)年7月1日にオープンしている。則ち、この「鎌倉江の島名所カード」の中で最も新しい写真なのである。よく御覧戴きたい。現在の新江ノ島水族館とこれは同位置なのだが、現在君らがドライブする、水族館の前を通っている湘南道路――あれがないんだ――砂浜なんだ! これはオープン直後だろうか? 僕は画像の雰囲気から実は開館以前の画像ではなかろうかと深く疑っているのだが……僕のいっとう好きな水族館は永遠に江ノ島水族館なんである――
龜戸村道心者身の上の事
好事の人、春日(しゆんじつ)野行(やかう)して龜戸天神梅屋敷の邊を逍遙してある庵へ立寄りしに、奇麗に住居てあるじの道心者爐の許に茶を煮てありしに、火を乞ひ茶を無心して暫く咄しけるが、彼道心者風雅を愛するとも見へず、土地の者共不覺、住居の庵幷右屋敷も道心者の所持の由故、彼身の上を尋けるに、道心者大息を附き、さらば身の上を咄し可申、我等若き頃出家にて有しが、甲州山梨郡の産にて東禪寺の住職たりしが、公事ありて江戸表へ出風與(ふと)遊所へ通ひ、品川なる三星屋むめといへる女に深く契りて路用も遣ひ切、村方へは路用雜用の由僞りて多くの金子を掠取(かすめとり)、彼遊女の殘れる年季を金子を出し受出し、芝邊に店(たな)をかりてなを殘る金子もありしを商賣にも取付(とりつか)んと、在所へは公事不利運(ふりうん)故缺落せしと披露して暫く暮しけるが、或日外へ出(いで)し留守に、彼受出せし女房殘る金子を持て行衞不知成ぬ。我身彼女故に古郷へ歸る事もならず身を捨し處、かく見捨ぬる志の憎く腹だゝしさに、足手(あして)を空(そら)に尋けれど行衞も知れず、今更古郷へも歸り難く、死(しな)んと心を定めてうかうかと駒形堂の邊に入水せんと彳(たたず)み居たりしが、朝より暮合迄物をくはでありければ人も怪しみけるに、本所横あみ邊に住居ける向フみずの五郎八といへる親仁分(おやぢぶん)通りかゝりて尋ける故、ありの儘に語りければ、仕方こそあるべし我かたへ來るべしとて連歸り、食(めし)を焚せ飴を賣せ、何卒汝が女房を見付出すべし、見付候ても必手を出さず早々歸りしらすべしとて、所々を賣歩行(うりある)かせ、三年目に麻布市兵衞町多葉粉屋の隣、煮賣(にうり)酒屋の女房に成り居候を見出し五郎八に語りければ、夫より一兩日過て、右道心者を伴ひ五郎八儀椛町の同じ親仁分方へ至りて、我等今日市兵衞町にて喧嘩可致間、共節立入呉候樣申談(まうしだんじ)、夫より道心者を伴ひ市兵衞町へ至り、道心者は其邊へ隱し置、我等呼候迄は決て出間數(いでまじき)由申含め、彼煮賣茶屋へ入りて酒肴を好み、暫く休み居て煮賣屋の女房も立出てける時其手を捕へ、そもじに引合(ひきあはせ)候ものありとて表へ向ひ道心者を呼びける儘、早速立入て右女を捕へ、汝は大まひの金子を以身請なし不便(ふびん)を加へけるに、能くも金子迄奪ひとりて立退しと、髮の毛を手に握りて打擲(ちやうちやく)に及びけるゆへ、夫(をつと)大に驚き是は理不盡成事と憤りけるを五郎八捕て押へ、汝は人の女房をそゝなかし金子を盜ませ立退き候上は、盜賊の張本也とて同じく打擲いたしけるゆへ、近所隣家の者立集りしを、彼麹町の親分表より五郎八を見かけ是はいかなる事ぞと割て入、近所の者を押へて彼煮賣屋の亭主に向ひ、其方事此儘露顯に及(およば)ば死罪にも行(おこなは)るべし、先づ女に盜(ぬすま)せし金子は返し、内(うち)の事也、首代(くびだい)を出して扱ひ可然(しかるべし)といりわけを所の者へも語りければ、いづれも其理(ことわり)に伏し、彼女持迯(もちのがれ)し金子三十兩其外首代など號して金五拾兩程、彼煮賣屋が身上(しんしやう)をふるひ爲差出(さしいださせ)、彼道心者を連れて歸り、汝を見捨たる女なれば彼れに執心も殘るまじ、髮の毛をむしり坊主同樣になしたる上は最早遺恨も散ずぺべし、椛町の者へは我等より禮金も通し事濟たり、是よりは我方にて是迄の通り商ひいたし暮すべしとて、年年たち一年になれ共、煮賣屋が取戻せし金子を呉(くる)べき樣もなければ、萬端意氣地は尤成五郎八なれ共、如何なし呉るゝ哉(や)と怪しみけるが、暫く有て五郎八彼者を呼び、是迄辛方せし事感心せり、去(さり)ながら其方の身分中々商ひ等いたし身を持(もつ)べき者にもあらず、一旦死を極(きはめ)たる事なれば、本意をとげたる上は最早世の中に望みあるべからず、某(それがし)煮賣屋より取戻せし金子、何程に貸附け置て當時何程に成りたる間、龜戸(かめいど)に地面を買ひ置たり、地代店賃(ぢだいたなちん)にて其方一分(いちぶん)は生涯を迭らるべし、庵を立遣(たてつかは)す間出家して一生を樂に暮すべしとて、此所へ移し呉れぬ。その後五郎八も身まかりければ、彼が世話故今一身の生涯くるしからず、偏(ひとへ)に渠(かれ)が影也と朝夕五郎八が菩提を吊(とむら)ひ、月日を送りぬると語りしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。この話、今まで私とお付き合いして下さった方は、前に同じような話を読んだ記憶がおありになるであろう。実はこれ、底本注で鈴木氏も指摘しているように、「卷之一」の「山事の手段は人の非に乘ずる事」のコンセプトと酷似する。違いは主人公の急場を助け、後に詐術を弄する人物が先の者では実は悪玉、本話では実は善玉というオチの違いが、確かにそれは読後の対照的な印象の違いを生み出している。本話の方が遙かに気持ちがいいのだが、デーテイルのあまりの酷似は聊か興を殺ぐものがあり、更に捻くれて言えば、宿命的人間悪の存在を認める私なんぞは、先の救われない話柄の方が、嫌だけど、リアルだな、と思うのである。
・「龜戸天神梅屋敷」通称亀戸梅屋敷は浅草の呉服商伊勢屋彦右衛門の別荘清香庵で、往時は三百余本の梅の木が植えられ、将軍吉宗や水戸光圀も訪れた名園であった。底本注や岩波版長谷川氏注には清香庵を『百姓喜右衛門の庵号』とするが、喜右衛門は彦右衛門の何代か後の後裔で、この喜右衛門の代辺りから呉服商を廃業、ここで梅の栽培に専心したものらしい。ここは、かの傑作、歌川広重の安政四(一八五七)年作「江戸名所百景表題」「梅屋舗(やしき)」と、それを一八八七年に油絵で模写したゴッホの“Japonaiserie : l'arbre (Prunier en fleurs)”(「日本趣味・梅の花」)で世界に知られる、あの臥龍梅(光圀の命名になるが、後に吉宗によって代継梅と改名されたという)があった。この庭園は、その後、明治四十三(一九一〇)年の豪雨による隅田川の氾濫により、臥龍梅他多くの梅が枯れ、その後、工場の煤煙の影響で大正末頃には閉園された(以上の梅屋敷の情報は主に、きたろう氏のブログ「きたろう散歩(名所江戸百景を歩く)」『第5回 「亀戸梅屋舗(うめやしき)」を探査する(上)』を参照させて頂いた。リンク先には各種画像や地図が完備されている。是非、御覧あれ)。現在は、江東区亀戸三丁目の路傍にひょろっとした梅と石碑が淋しく立つのみである。
・「東禪寺」甲府市桜井町に鳳皇山東禅寺という同名の寺が現存する。武田家家臣桜井信忠を開基として寛永二(一六二五)年開山、曹洞宗。
・「公事」現在で言う民事訴訟。その審理や裁判をも含めて言う語。
・「風與」の「ふと」は底本のルビ。
・「品川なる三星屋むめ」品川宿の三星屋という女郎屋の女郎であった梅という女。
・「店」の「たな」は底本のルビ。
・「公事不利運」民事訴訟敗訴。
・「缺落」一般に「駆落・駈落」などと書いて、現在では専ら、婚姻を許されない相愛の男女が、秘かに他所へ逃れることの意で用いるが、古くは単に、秘かに逃げること、逐電や出奔の意で用いた。
・「芝」現在の東京都港区に、現在も残る町名。但し、当時の芝は遙かに広域を示すもので、東海道の発展に伴って急速に発展繁栄し、村の周辺域も含めて「芝」と呼ばれるようになった。
・「足手を空に」手足が地に着かないほど慌てふためいてあちこち走り回ること。「足を空に」「足も空に」などとも使う。
・「駒形堂」駒形堂は現在の駒形橋のたもと南側(ここは浅草の観音像が顕現し上陸した地とされる)にあった浅草寺に属する御堂。天慶五(九四二)年、円仁作馬頭観音を祀るために建てられたのが起りと伝える。関東大震災後、雷門二丁目駒形公園内に移築された。
・「本所横あみ」は、現在の東京都墨田区両国周辺。
・「食」の「めし」は底本のルビ。
・「麻布市兵衞町」現在の港区六本木。この旧市兵衛町のど真ん中に六本木ヒルズは立つ。
・「煮賣酒屋」一膳飯と酒を供する店。
・「そもじ」「其文字」と書く。「そなた」の「そ」に「もじ(文字)」を添えたもので、二人称代名詞。もと、中世には女性から目上の男性に対して用いる語であったが、近世以降になると、女性から対等か目下の男性、または男性から女性に対して用いるようになった。
・「そゝなかす」唆(そそのか)すに同じい。
・「内の事也」底本には右に『尊本コノ四字ナシ』とある。盗んだ金を返す、それは分かり切った当然のことで、という意であろう。
・「首代」首を切られる、則ち死罪の代わりに出す金の意。「首代銀(くびしろぎん)」「首銭」等とも言った。小学館の「日本国語大辞典」の「首代」引用例には、まさにここの部分が引かれている。
・「いりわけ」は「入り訳」で、込み入った事情・いきさつ・子細の意。
・「辛方」底本には「方」の右に『(抱)』の傍注を附す。
・「何程」は、意識的伏字として用いているように思われる。
・「吊ひ」既出であるが、「弔」の俗字。
■やぶちゃん現代語訳
亀戸村の道心者のその身の上の事
風雅をこととする人、ある春の一日(いちじつ)、亀戸天神や梅屋敷の辺りを逍遙して御座ったところ、とある庵を見つけて立ち寄った。小綺麗に住みなして、主(あるじ)の道心者が炉辺にて茶を煎じて御座る。煙草の火を乞い、茶を無心して、暫く話して御座ったが……どうもこの屋の主人、かくなる隠棲を致すべき風雅を愛する人とも見えず、また、どう見ても、地の者とも思えず、さり気なく尋ねて見れば……いや、確かに、住まうところの庵並びに隣接する屋敷なんども、これ、この道心者の所有のものの由なれば、不思議に思って、失礼乍ら……と、その身の上を尋ねたところが……かの道心者、
――フウっ――
と大きく溜息をつくや……
「……されば……拙者の身の上、これ、お話致しましょう。……我らは若き日は、れっきとした出家で御座った。甲州山梨郡の生まれにて、東禅寺の住職をして御座ったが、寺絡みの公事(くじ)のため、江戸表へ出でましが……なかなか思うように公事も運ばねば、無聊をかこっておりますうち……ふと……その……遊廓へ、通うようになってしもうたので御座る。……品川は三星屋の、梅という女と……その……深(ふこ)う契りを交わすことと、相いなって……檀家や村の衆の用意致いて呉れた路銀も、あっという間に使い切って……それからというもの……村方へは、路用のため、雑用のためと言うては、偽って多くの金子を掠め取る、という体たらく……かの遊女の残った年季を、その騙した金で支払って請け出し、芝辺にお店(たな)を借り、なお残った金も御座ったれば、それを元手になんぞ商売でもしようと存じ……在所へは『公事敗訴と相い成った故、我ら、最早ぬしらに遇わす顔もなければ、恥ずかしながら遁走致す』と披露して……暫くの間は……これ、言うのも恥ずかしながら、面白可笑しゅう……暮らして御座った。
ある日、我ら、外へ出でておった、その留守に……かの受けだした女房の梅が……ありったけの金子を持ち出して……行方も知れず、相いなって御座った。……この我が身は……実にこの女故に……最早、故郷(ふるさと)へは、帰ることもならざるまでに、この身を捨てたに……だのに、かくも、かの女の、我を見捨てた、その心の……憎さ、腹立しさ……足を棒にし、そこいら中、死に物狂いで訊ね廻ってはみたものの……忽然と消えて……行方も知れず。……幾ら、面の皮が厚うても……今更、故郷へ帰るなんどということも、これ、出来ず……『死のう』……と心を定めて、ふらふらと……駒形堂辺りに……入水せんと佇んで御座った。……がその日は、朝から日暮れまで、一口も物を食わずに駆け回って御座ったれば……風体(ふうてい)容貌、挙止動作……これ、尋常ならざる体(てい)なればこそ、道行く人は怪しんで御座った。
……と……
そこに、本所横網辺りに住みなして御座った『向こう見ずの五郎八(ごろっぱち)』と呼ばれた親分さんが通りかかって、
「どうしたい? 若(わけ)えの?」
と尋ねられ、ありのままに、答えました。すると、
「……まあ、やりようは、あろうというもんだぜぃ。……俺んとこへ、来いや――」
と、私を連れ帰り……
……それからというもの……
……その五郎八親分のところに寄宿致すことと相い成って……
……私は……炊事やら……飴売りやらを命ぜられ……
……日を暮らすよすがと致いて御座いました。
そうして、親分の言うことに、
「何としてもお前さんの女房を見つけ出そうじゃねえか。但し、見つけて御座っても――絶対に手を出すな。――いいか? すぐに帰って、俺に知らせるんだ、ぜ。」
と言って、飴売りとして、方々売り歩かされました。……
……さて……
……飴売り稼業を始めて、丁度、三年目のこと……
……とうとう、かの梅を……麻布市兵衛町の煙草屋の隣の煮売酒屋の……そこの女房に、なっておりましたを……
……見つけました…………
……言われた通り、何もせず、姿も見せずに、とって返し、五郎八親分に知らせましたところ……
……それから一両日過ぎて、親分は私を連れて、麹町の、同じように町を仕切って御座った別の親分さんの元へ参りますと、
「……俺は今日、市兵衛町で喧嘩をやらかそうと思う――が――その節は――どうか――仲に割って入って、お呉(く)んえねえかい?――」
と何やら意味深に談合致いて、それから私を連れて市兵衛町へと赴くと、私を梅のいる店から見えないところに隠させておいて、
「――いいか――俺がお前さんを呼び招くまでは――絶対、ここを出ちゃあ、いけねえぜ――」
と言い含めると、親分、さっさと例の煮売茶屋へと入って行く――
――親分は酒肴を頼んで、暫く酒を呑んでは肴を食いなどしているうち――
――煮売茶屋の女房梅も店の奥から出てくる――
――と――
――親分、ぱっ! と、その手を捕らえ――
「――お前さんに、引き会わせたい男が――いるんだがね――」
――と言うや――表へ向かって私の名を叫んだ――
……私は……早速、店に飛び込むと、梅を捕まえて、
「……大枚の金子を払(はろ)うて、請け出してやったに……憐れみをも、かけてやったに……よくも……よくも、なけなしの金子まで奪い取って……よくも……よくも、逃げよった……なあッ!!……」
と……私は……梅の髪をむんず握み……めちゃくちゃに……ぶちのめしました……
されば夫なる者、訳も分からず奥より走り出で、大いに驚き、
「……これは何事じゃ! 理不尽なる乱暴ではないか!」
と憤った。
――と――
五郎八親分は亭主に組み付き、土間に引き倒して押し伏せ、
「――お前さん! 人の女房をそそのかして――金子を盗ませ――手に手をとって、逃げた――この上は――あんた、盗賊の張本だぜぃ!!」
と、これもまた、ぼこぼこの目に遇わせる――。
さればこそ、隣り近所の者が、すわ何事と群がっては、騒ぎは波のように広がって参りました――
――と――
そこへ、件の麹町の親分さんが偶然の如くに通りかかった風をして、表から五郎八親分を見かけ、
「おぅおぅおぅおう! 何やってるんでぃ!」
と割って入る――この親分、馴染みの煮売酒屋の夫婦に加勢しよう集まって御座った近隣の者どもをも押し止め、五郎八親分の語る訳を、これまた、如何にも初めて聴くかの如くにして聴き終ると、徐ろに亭主に向かって、
「……お前さん、これがこのまま公けになったとならば……金品横領、不義密通、その反省の色としもなし……こりゃあ、死罪、ということになろう、のぅ。……まずは、女に盗ませた金を返すはもとより……ほかに、首代を出すのが……当然じゃろう、な……」
といった感じで諭した上、かくなった経緯(いきさつ)をその場で縷々説明致いたので、不義密通の夫婦を始めとして、その場に御座った者どもの誰もが、その理(ことわり)に伏して、結局、煮売酒屋の亭主は、梅が持ち逃げした金三十両の他に、首代などと称し金五十両ほど……これは、かの煮売酒屋夫婦の、ありったけのもので、出せるものは悉く出させたので御座った。……
五郎八親分は私を連れ帰ると、
「――奴(きゃつ)は、お前さんを見捨てた女だ。もう、あんなもんに執心も残るまい?――髪の毛を毟り、お前さんと同じ、坊主同然にしてやったからには、最早、遺恨も散じたであろ。――麹町の者へは俺から礼金を遣してある。されば――事は済んだ。……これからは、俺んとこで、これまで通り、飴売り商いなんど致いて、暮らすがよい。……」
ところが……それから半年たち、一年経っても……煮売屋の、例の取り戻した金子を呉れるような素振りも御座らねば……いえ、何事にも誰にも負けぬ意気地強固な五郎八親分なればこそ、嫉み疑うというた訳では御座らねど……まあ、その、『あの金子、一体どうして呉れるおつもりなので御座ろうか』というほどには、怪しんではおりました。
暫くたったある日のこと、五郎八親分が私を呼び、
「――これまで、飴売り商い、よう、辛抱した。――なれど、この数年、一緒に釜の飯を喰って分かったが、お前さんの人品は、こんな賤しい日銭を稼ぐ商いなんどを世過ぎと致す者にては、これ、御座ない。――さても、一度は死を決したる身なれば、本懐を遂げた上は、最早、この世には未練は、御座るまい。儂が煮売酒屋から取り戻いたあの金子は、××に、貸し付けておいたれば、今、×××両になったによって――その金で亀井戸に土地を買ってある。――長屋や屋敷もあれば、その地代と店賃(たなちん)で、お前さん一人ぐらいなら、一生食ってゆけようほどに。お前さんは、もとより道心者じゃったの――庵も建て遣わすによって、再び出家の身となって――生涯、安楽に暮らすがよかろう――」
と……此処へ住まわせて下すったので御座る。……
「……その後(のち)、五郎八親分も身罷られましたが……親分さんの、あり難いお世話によりまして……今、この一身の生涯は苦しからず……ひとえにあのお方のお蔭と、朝夕、五郎八親分さんの菩提を弔い、安穏なる月日を送って御座いまする……」
と、語ったとのことで御座る。
古風質素の事
板倉二代目周防守、年始登城可有之(これあるべく)とて、前年の暮白無垢(しろむく)古びたりとて新調を申付られ候を、家老何某承りて、白無垢新調を被仰付(おほせつけられ)候由故見分いたし候處、是迄の御小袖御古びも相見へ候得共、年始御用(おんもち)ひ計(ばかり)に新調被仰付候は如何に候由諫(いさめ)て、新調止(や)めに被致(いたされ)けると、家記にも認(したため)有之由、當周防守直々物語りにて承りける。當時諸侯に無之(これなく)候共、白無垢一ツ新調位(ぐらい)の儀、我々にても家來共へ可申聞程の事にも無之。時勢の變化はさまざま成ると記し置ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:鎧新調が店主の何気ない一言から「仕立て無用!!!」となったシーンから、小袖新調がうるさ型の爺の一言で沙汰やみとなる類感的連関がまずあり、加えて、あばら家で借金に首の回らない冴えない武家が、高価な鎧一式に拘って百五十両を倹約(というより別腹の力技で)貯めたという変な話から、殿様に衣一枚でも倹約を諫言するド吝嗇家老と変な「家記」(主家先祖の記録・家伝)でも連関する。
・「板倉二代目周防守」板倉重冬(寛文十二(一六七二)年~宝永六(一七〇九)年)。伊勢亀山藩第二代藩主。板倉家宗家第五代。板倉家では先々代の第二代当主重宗が周防守を叙任しているので、板倉家での周防守拝命二代目ということ。享年三十八で亡くなっている。この内容は本書記載時より、彼の没年で計算しても九十年近く前となる。
・「白無垢」この場合は、礼服の下に着る以下の小袖の絹仕立ての白衣。
・「小袖」ここでは大宝の衣服令で定められた、礼服の大袖の下に着る筒袖・盤領(まるえり)の衣服。
・「當周防守」板倉勝政(宝暦九(一七五九)年~文政四(一八二一)年)。備中松山藩弟四代藩主。板倉家宗家第十代。板倉家直系で重冬の曾孫。重冬の孫初代備中松山藩藩主板倉勝澄の七男。
■やぶちゃん現代語訳
古風なる質素の事
ある年の暮、板倉周防守二代目板倉重冬殿は、年始めの登城には、白無垢が如何にも古びえおると、新調をお申し付けになられたところ、家老何某はこのご指示を承るや、
「白無垢新調せよと仰せ付けになられたによって、拙者、直々に検分致いて御座ったところ、これまでの御小袖、多少の古びも見えぬでは御座らねど、年始に用いらるるためにだけ、新調をお仰せ付けらるるというは、これ――如何なものかと――存じまする――。」
とお諫め申し上げたによって、重冬殿の小袖一枚新調のお話、お沙汰やみとなさった…………と……
「……いや、まこと、そう、家伝の書にも認(したた)められて御座るでの。」
と、今の周防守、重冬殿ご子孫であらせられる、当の板倉勝政殿、直々の物語りの内にて承った話で御座る。
当節、諸侯大名にのうても、白無垢ひとつ新調するぐらいのことは、我らの身分の者でも、家来どもへいちいち断って、その考えに耳を傾けるほどのことは、御座らぬ。時世の変化というものは、これ、さまざまなるものじゃなあと感じ入ったによって、ここに記し置いた。
「鎌倉攬勝考卷之一」の「山川」を公開した。本パートの注には、かなり拘った部分がある。大船の幻の離山の古墳説は説得力がある。そもそも挿絵を御覧よ、こりゃ、どう見たって前方後円墳(私は前円後方墳の方が正しいと思うのだが)ですよ!
人には品々の癖ある事
寛政六年冬の事也し。御用を承る御具足師妙珍何某が方へ、綺羅人品とも格別ならざる武士參りて、具足一領拵(こしら)へ度(たく)、注文は如此(かくのごとく)也と書付を見せ、凡何程にて出來可致哉(いたすべきや)と尋ける故、妙珍も其人物右樣の具足可申付(まうしつくべし)とも思わざる故、凡百兩餘にては出來可致旨を答へければ、左候はゞ直(ぢき)に賴度(たのみたき)由を申ゆへ、世には品々の手段にてかたり事などいたす事もあれば氣遣敷(きづかはしき)ゆへ、いよいよ被付候はゞ職分の者へも得(とく)と聞糺(ききただし)、直段(ねだん)を極可申(きはめまうすべき)旨を申斷(まうしことわり)相返し、手代(てだい)共と相談評議しけるが、右の武士いかにも金高の武具等申付候人品にも無之、注文通には凡百兩餘にては出來も可致候へ共、百五拾金とも申候て可然(しかるべく)、旁々(かたがた)右居宅をも見屆け可然(しかるべし)と咄合候處、翌日猶又右侍罷越、彌々積りは出來候哉(や)と尋ける故、百兩餘とは凡積り申上候得共、得(とく)と御好の趣を以積り合候處、百五拾兩に候はゞ急度(きつと)念を入相仕立可申旨を申候處、左候はゞ其通り賴入(たのみいる)、早速取懸り可給(たまふべき)旨にて、手附金五拾兩相渡、證文受取罷歸(まかりかへ)り候樣子に付、尚又疑ひ候て、明日御屋敷へ罷出猶又可相伺(なほまたあひうかがふべき)旨を申、翌日所書(ところがき)の通(とほり)小石川三百坂へ罷越右屋敷を承り候處、門塀家作の樣子も甚破損の躰(てい)にて尤(もつとも)貧家と見へけるゆへ、一たびは驚き一度は疑ひながら、案内申入則(すなはち)主に對面せしに、前日參れる人にて、則取懸候趣をも申越、妙珍も類燒已來金子不手廻(ふてまはり)故、今少し内貸(うちかし)相願候趣申入けるに、隨分可差遣(さしつかはすべき)段には候得共、當時金子貮十兩は有合(ありあひ)候得共、跡三十兩は明日可相渡(あひわたすべき)由にて、右貮十兩を渡しけるゆへ請取歸り、取懸りの儀申付、さるにても不思議成儀、右屋敷近所にて承合(うけたまはりあひ)候ても、至て不勝手にて諸拂買懸(はらいかひがか)り等も不束(ふつつか)に成行候由故、何とも不審成(なる)事と思ひ居たるに、間もなく右仁(じん)罷越、彌々取懸り給候哉(や)との尋故、下鐵(したがね)其外相みせければ、此間約束の金子の由にて三十兩相渡ける故、妙珍も驚入、さてさて此節新規に御好を以て甲胃御仕立と申儀餘り無之候、御心掛乍憚(はばかりながら)感心致し申候、私職分の儀故御好通り相仕立、此上の御入用はまけ候て可差上(さしあぐべし)と申ければ、右武家以の外憤り、最早相賴間敷(あひたのむまじき)、定(さだめ)て屋敷の樣子我等が人品、右躰(てい)の大金可差出(さしだすべき)者に無之(これなし)と見候ての事に是有べし、我等は若年より武具造立(ざうりふ)の心懸にて、萬事の雜費をも差置、入用を貯(たくはへ)、此度仕立の儀申付候處、武器へ對し負け候と申す儀何とも得難其意(そのいえがたし)、最早入用も捨可申(すてまうすべき)間仕立無用の旨を申候故、妙珍も殊の外込(こま)り、誠に恐入(おそれいり)候儀、風與(ふと)申違ひに候間、殘金は引(ひき)候て仕立可差上(さしあぐべし)と相詫(わび)ければ、武具に引候との儀悦(よろこば)しからず、いづれ賴まじきとて殊の外憤り歸りける故、妙珍父子親類迄も日々三百坂の屋敷へ通ひ、手を摺り詫いたし、翌卯の正月までもいまだ不相濟(あひすまざる)由、所々にての噂也。名前は差合(さしあひ)あれば不語(かたらざる)由、我も兩三人より聞およびし事也。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。武辺物へ流れを戻した。本話はその末尾の洒落が笑話や落語にありそうな感じであるが、根岸の実際の聞書きであること、登場人物の一方が完全に特定された実在する具足製造の商業行為を行っている人間であること(これが作り話であれば営業妨害に相当する内容である)、もう一方の匿名の武士も、本話中の情報を用いれば数人に若しくはある一人の特定実在人物に同定することは必ずしも難しくないこと(こういう堅物で偏屈な武士は必ずしも珍しくないと思われる)、などを考えると実話であったと考えてもよいようにも思われる。私の好きな話柄である。
・「寛政六年」西暦一七九四年。
・「具足師妙珍」幕府御用達の甲冑製造師妙珍。底本の鈴木氏の注に、『明珍が正しい。遠祖宗徳が甲冑と鍔の名工で、子孫業をつぎ、名工多く、この一門で甲冑の製造を独占するにいたった。明珍は第三十二代宗介が近衛天皇から賜わった号であるが、一門これを称した』とある。保元の乱絡みでいわくつきの、十六歳で夭折した近衛天皇の在位は永治元(一一四二)年から久寿二(一一五五)年。武家の台頭と軌を一にして賜号を受けたというのが興味深い。
・「綺羅」「綺」は綾織りの絹布、「羅」は薄い絹布の意で、本来は美しい衣服を言う。ここでは実際のみすぼらしさを憚っての単に服装の意。
・「職分の者」この頃になると甲冑製造は工房システムでの分業であったのであろう。それぞれの部位の細工を担当する者を言う。
・「小石川三百坂」現在の文京区小石川三丁目と四丁目の境、伝通院の西にある坂。元は三貊(さんみゃく)坂と言った(この原呼称の意味は不明)。ここは播磨坂周辺に上屋敷を持っていた松平播磨守頼隆が登城の際に通った道で、松平家の仕来りで、藩主登城の際の徒歩の供侍は、まず玄関で殿にお目通りし、それから直ぐに着替えて登城の列に加わることとなっていた。徒歩侍の者は、登城の列が伝通院横のこの坂を登り切るまでに追いつけなかった場合、三百文の罰金を支払う掟となっており、そこから松平家家士がこの坂を三百坂と呼び、一般でもかく呼称されるようになった旨、懐山子の「江戸志」にある。
・「類燒」本話は寛政六(一七九四)年の出来事とするが、まさに江戸の花、寛政年間には四(一七九二)年・五年・六年と立て続けに江戸は大火に見舞われている。
・「内貸」代金の一部前払い。
・「當時金子貮十兩は有合候得共、跡三十兩は明日可相渡由」この文脈から考えると、既に内金五十両が支払われている百五十両という金額に対し、「今少し」という売手の言葉を受けて、買手が自律的に「では明日までには、総額百両耳を揃えて支払おう」と言っていることが分かる。これは恐らく当時の不文律で、通常は支払総額の2/3を内金とするのが相場だったことを示すものではあるまいか? 但し、百五十といった高額の場合はその限りではなかった、最初の五十両若しくはプラス二十の七十両で既に十分であった可能性が高い。でなければ、後日、七十プラスの三十両を主が持参した際、妙珍が「驚入」とは思えないからである。識者の御教授を乞うものである。
・「拂買懸」支払いと買い掛かり(代金後払い)。
・「下鐵」具足本体に用いるための原材料の鉄板であろう。
・「妙珍も殊の外込り」底本では「込り」の右に『(困り)』とある。
・「翌卯」翌寛政七(一七九五)年乙卯(きのとう)。
・「妙珍父子」ここで主役を演じているのは父か子か。子では役不足なので先代の父、大旦那と採りたい。子は既に店の実務を担当していた若旦那と判断した。頑是無い小さな子でも謝罪効果はあろうが、本話柄の父妙珍はどうみても老獪で若くない。
・「名前は差合あれば不語」江戸切絵図を見るとこの三百人坂には左右に二十四軒ほどの屋敷が並んでいる。こいつかな? こいつかも? なんどと夢想しつつ、切絵図を見るのも、私には楽しみの一つである。
■やぶちゃん現代語訳
人にはそれぞれに多様な性質(たち)のある事
寛政六年冬のことであったという。
幕府御用を承る御具足師妙珍何某が方へ、服装人品ともに、如何にも見栄えのせぬ武士が来店致いた。
「……具足一領、拵えたい。仕様は、かくに通りで。」
と書き付けを見せ、
「……さても、凡そ、如何程にて、仕立てられようか、の。」
と訊ねた故、妙珍も――その、かくもみすぼらしい風体(ふうてい)の者に、指し示された書付に御座るような立派な仕様の具足を誂える器量や金があろうとは思わざる故、
「……さても、凡そ、百両ほどなれば……出来ましょうか、の。」
と答えた。するとその侍、
「相い分かった。では、直ぐにとり掛って貰いたい。」
と申す。
妙珍は、そこで、
『……近頃、世間では思いもよらぬ手練手管で、とんでもない騙(かた)りなど致すこともあればこそ……この男、大いに……不審じゃ……』
と思い直し、
「……ああ、いや……さてもご正式にご注文なさるので御座れば、各々の細工職人が方へも、ご要望の仕様につき、仔細打ち合わせ聞き質(ただ)いて、正確なお値段を決めさせて頂いた上で、それをお示し申し上げますれば。」
と受注の儀はまずは留保致いて、侍には帰って貰(もろ)うた。
男が帰った後、妙珍は手代どもを集めて頭を突き合わせ、いろいろ相談評議致いた上、
「……いや……あの侍、とてもかくなる精緻な仕様の高価なる武具など、とても注文致すべき人品にては、ない。注文通りのものならば、まあ、百両余りにては出来も致そうが……百五十両、とふっかけてみても、まんざら法外な値とも言えまいtえどうじゃ?……その話方々、先方の居宅の様子なんども……それとのう探って参る、というのも、よかろうが。」
と決した。
ところが翌日、またしてもかの侍がやって参り、
「さても、見積もりは出来て御座るか?」
と訊ねるので、明珍、慇懃に、
「はい。――昨日は『百両余り』と、凡その見積もりを申し上げましたが、とくとお好みの仕様を仔細検討させて戴きましたところ、百五十両で御座いますれば、当方、請け負い申し上げ、必ずや、精魂込めてお仕立て申し上げようと存じまする。」
と申したところ、男は、
「……なれば……よし! そのように頼んだ。早速にとり掛って貰いたい。」
と、手付金五十両を支払い、当該前金領収の證文を受け取って帰って行った。
しかし――その一部始終を見て御座っても、妙珍は、未だ不審が晴れない。
「……儂が明日直かにお屋敷へ参って……なお、また……いろいろと……様子を窺ってみよう。」
と店の者に言うた。
翌日、注文書の所書きの通り、小石川三百坂へ参って、かの侍の屋敷を訪ねて見たところが、門や塀――いや、その家作全体の在り様は――これ、損壊甚だしく、文字通り、廃屋の如くにして究極の貧家――といった体たらくで御座った。
一たびはそのおぞましいばかりの棄景に驚き呆れて、一たびは『こんなところに、かくも五十両を出した武士の、住んでおろうはずもない』と深く疑念を持ちながらも、案内を乞うた。
主(あるじ)が出て来て、対面致いたところ――
確かに――前日参った侍で御座った。
妙珍は、早速に作具の用意にとり掛った旨の嘘を申し述べた上で、
「……実は拙者儀も、……先般の大火類焼以来、……そのぅ、金繰りに困って御座いましてのぅ……その、……今少し、内金を相い願いたく存じ、参上致いた次第にて御座いまする。……」
という話を持ち出してみた。すると、
「……うむ……それなりに追加の金子を差し遣わすに異存はない。ただ……ただ今は、手元のあり合わせ、これ、二十両ほどしか御座らねば……あとの三十両は、明日渡そうぞ。」
と言うたか思うと、即座にその二十両を渡いた。
店に戻った妙珍は、直ぐに手代どもに作具の準備に入ることを命じならも、
「……いや、それにしても不思議なことじゃ、……行きしなと帰りがけにも、かの屋敷の近所にてそれとのう、話を聴いてみたところでも、かの侍、至って勝手不如意にして、諸々の支払い売掛けなんども、殆んどがこれ、滞っておるとの専らの噂……それで、百両、基、百五十両の具足に、かの五十両と、この二十両をぽんと出すとは……何とも不審なることじゃ……」
と独りごちで御座った。
そのような晴れぬ思いの中で仕事をして御座った妙珍のもとへ、間もなく――侍の申した通り、正確に、その翌日のこと――かの御仁が来店致いた。
「いよいよ本格的な作具にとり掛って呉れて御座ろうかの?」
との問いであった故、幸い、届いて御座った発注した鉄素材や、その外、注文書にあったのと同じ槅(さね)や錣(しころ)の見本を見せなど致いたところ、男は満足気に、
「先般、約束の金子じゃ。」
と言って、三十両出だいた。
疑いばかりかけて御座った妙珍も――まさか、自ずと後ろめたい不要の三十両を、あの貧窮貧相なる男がちゃんと耳を揃えて持ってくるとは思いもよらねばこそ――流石に驚いて、
「……あっ……さてもさても、この天下太平の折りから、新調の具足一式を、それも美事なるご自身のお好みによる、細部仕様書まで添えてのご注文というは、これ、とんと御座らぬことにて御座いまする。――さても武士としての、そのお心懸け、憚りながら、感服仕って御座いますれば、私めも具足師、この命にかけて、お好み通りに相い仕立て申し上げますれば、――この上のお代は、負けさせて戴きますればこそ……」
と言い掛けたところが――
――かの武士、以ての外に憤って――
「……何?! 最早、頼まん! 定めて拙者が屋敷の様子、我らが人品を垣間見て、かくなるほどの大金を差し出せるような者にては――ない――と踏んだのに違いがなかろうが! 拙者、若年より不断に武具造立(ぞうりゅう)をこそ心懸けとして参り、あらゆる雑費を切り詰め、切り詰め、他に掛る金をさえもそちらに回さずに貯え、貯え、この度、ようやっと具足仕立ての儀を、貴殿に申し付けたところじゃった!……むむむ、むむむ!……その、武士の武器へ対し……『負けさせて戴く』と申すは!……何とも、貴殿の『感服』と申すその心根の真意も、これ、はかり難し!!……最早支払いたる前金七十両も、これ、捨て申せば――仕立て無用!!!」
と、戦場の名乗り宜しく、大音声にて呼ばわる。
妙珍はすっかり心を見透かされたによって殊の外に困り果て、土間に飛び降りると、地に額(ぬか)を附けんばかりに低頭した。
「……誠に、恐れ入って御座りまする!……あれは、その、……ふと、申しようを違(たご)うたに御座れば……あの、その、……残金は、……引きまして……お仕立て申し上げますれば……」
と詫び言を言うた。
――ところが――
「……何と、なッ?! 武具に、言うに言欠いて……『退(ひ)く』……となッ?! 面白うない!! 何れにせよ、もう、頼まん!!!」
と喚くや、男は、殊の外憤ったまま、ぶるぶると全身を武者震いさせて、帰って御座った。
それ故、困惑した妙珍は、後継ぎとして既に店に出て御座った子を連れ、更にはそれなりの御武家方に知れる方の御座る親類なんどまで繰り出して、お百度ならぬ三百坂の、お屋敷へと日参致いては、手を擦っては詫びを致いたものの――翌七年卯年の正月になっても――未だ、かのお武家さまのお怒りは解けず、妙珍のお店(たな)も不名誉なれども如何ともし難し、致し方なくして、全く以て困り切って御座る――というは、私の勤務先など、しばしば、いろいろな所で、もっぱらの噂となって御座る。
「……このお武家の名は……いや……差し障りがあれば名は申しますまい……。」
との由、私自身、三人もの違った者より聞き及んだ話で御座る。
辛気臭く飴のように伸びた「耳嚢」と「鎌倉攬勝考」に埋没している――と思われるのは心外じゃて――秘かなプロジェクトにも――「道成寺」絡みだ――十全に浮気しておるぞ! ともかくも、僕はエリック・ドルフィのような自在なマルチ・プレイヤーでありたいと思っているのである。乞う、御期待!
「鎌倉攬勝考卷之一」の「十井」及び「五水」(五名水)を公開した(朝の時点で「十井」を飛ばして公開していることに今気づいたので、新たに追補した)。
猫物をいふ事
寬政七年の春、牛込山伏町の何とかいへる寺院、祕藏して猫を飼ひけるが、庭に下りし鳩の心よく遊ぶを睍(ねら)ひける樣子故、和尙聲をかけ鳩を追ひ逃しけるに右猫、殘念也と物言しを和尚大に驚(おどろき)、右猫勝手の方へ逃しを押へて小束(こづか)を持、汝畜類として物をいふ事奇怪至極也、全(まつたく)化け候て人をもたぶらかしなん、一旦人語をなすうへは眞直に猶又可申、若(もし)いなみ候においては我殺生戒を破りて汝を殺(ころさ)んと憤りければ、かの猫申けるは、猫の物をいふ事我等に不限、拾年餘も生(いき)候へば都(すべ)て物は申ものにて、夫より拾四五年も過候へば神變を得候事也。併(しかしながら)右の年數命を保(たもち)候猫無之(これなき)由を申ける故、然らば汝物いふもわかりぬれど、未(いまだ)拾年の齡ひに非ずと尋(たづね)問ひしに、狐と交りて生れし猫は、其年功なくとも物いふ事也とぞ答ける故、然らば今日物いひしを外に聞ける者なし、われ暫くも飼置(かひおき)たるうへは何か苦しからん、是迄の通(とほり)可罷在(まかりあるべし)と和尙申ければ、和尙へ對し三拜をなして出行しが、其後いづちへ行しか見へざりしと、彼最寄に住める人のかたり侍る。
□やぶちゃん注
○前項連関:武辺物二本の後のティー・タイムという感じでもある。但し、連関というわけではないが、井上の立て板に水を流すような理詰めの口調と、猫の猫による猫のための猫族の語り口が何だか似ている気がして面白い。本話は妖猫譚としてよく単独でも引かれ、「耳嚢」の怪談でも一番人口に膾炙するものと思われるが、私はこの和尚との問答と、その結末が、何かしみじみとして、忘れ難く好きなのである。
・「牛込山伏町の何とかいへる寺院」牛込山伏町は現在の新宿区市谷山伏町で、非常に狭い町である。ここには現在、真宗大谷派の常敬寺という寺があるが、ここか。この寺には海老一染太郎の墓があるが、この偶然が何だか面白い。――私は小学校二年生頃、父の会社の慰安会に母と一緒に行って、司会をしていた海老一染之助・染太郎の「何かおやりになりたい方は御座いませんか?」という言葉に、真っ先に手を挙げて舞台に上がり、ハモニカで文部省唱歌の「故郷」を吹いた。――吹き終ったら、染太郎師匠が、あの金ツボまなこをぎょろつかせてにっこり笑うと、「坊ちゃん、上手いねえ! おじちゃんのお弟子になるか?」と言った(その時、染之助師匠がいつもより多く傘を回してくれたかどうかは――定かではない)。――「私はずっと、はらはらし通しだったわ」――がその思い出の、母の語り草だった。――僕の「耳嚢」である。
・「祕藏して猫を飼ひける」この「祕藏して」は、こっそりと隠しての意ではなく、大切に可愛がり育てることの意である。但し、寺社で動物を飼うことを禁ずる習慣は古くからあった。例えば密教の高野山や比叡山に行われた、女人禁制・魚肉の持込の禁止・動物の飼育の禁止(但し、一種類の動物だけは山の神の使いとして飼うことが許可され、高野山では犬が飼われた)・大きな音を立てることの禁止という四つの禁忌の中に含まれている。但し、これは殺生戒等に基づく仏教戒律とは関係がないようである。
・「睍(ねら)ひける」は底本のルビ。
・「小束」は「小柄」が正しい。日本刀の鞘の鍔の部分に付属する小刀。平時は普通のナイフのように用いるが、武器として棒状手裏剣などにもなる。
・「若(もし)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
猫がものを言う事
寛政七年の春、牛込山伏町の何とかという寺院で、一匹の猫が大切に飼われて御座った。
ある日のこと、和尚が庫裡(くり)から見ておると、この猫、庭に下りた鳩の、無心に遊んでおったを、凝っと狙って御座る様子なれば、和尚、
「喝!」
と声をかけて鳩を追いはらって逃(のが)いた……ところが……
……猫が……
……「残念なり。」……
……と……
……言うた……
――和尚、大いに驚き、この猫の庫裡裏へ逃げたを取り押さえ、小柄突きつけ、
「――汝、畜類の身にありながら、物を言うとは奇怪千万(きっかいせんばん)! 全く、化け猫となって人をも誑(たぶら)かそうものじゃ! 一旦人語を成した上は、素直に諦め白状致せい! もし――これを聞かぬとならば――我――殺生戒を破りて――汝を殺さん!」
と憤った。
……と……
……かの猫が……
……答える……
「……猫のものを言うは、我らに限ったことでは、ない……十年余も生きて御座れば……どんな猫も……ものは申すものにて……それより十四、五年も過ぎて御座れば……どんな猫も……神通力を得て御座るものじゃ……しかしながら……まず、その齢いを保てる猫は……御座らぬのぅ……」
と申す故、
「――ウム! 然らば、汝がものを言うも、尤もなることと合点致いた。が――汝、未だ十年の齢いにも届かざるは如何!――」
と一喝致いた。
……と……
「……狐と交わって生まれた猫は……これ、その年の甲を経ずとも……ものを言うものじゃ……」
との答え。
されば、和尚、
「――然らば今日、汝のものを言うたを外に聞く者は、ない。我も暫く飼いおいて参ったものなればこそ――何の不都合があろうぞ?――さても、これまで通り――この寺で――もの言わぬただの猫として――暮らすがよいぞ。」
と申したところ、
……猫は……
和尚に正対(しょうたい)三拝致いて、走り去った……。
それから……何処(いずち)へ行ったものか……とんと見えんようになった、という。
かの寺の最寄りに住む人が語った話に御座る。
井上氏格言の事
明和安永の頃、井上圖書(ずしよ)といへる御書院の組頭ありしが、或日他組の番頭なりし北條阿房守途中にて出會しに、安房守は乘輿(のりこし)、圖書は歩行(かち)にて馬を牽(ひか)せ通りしゆへ、會釋なく駕の際を通りしを、安房守より圖書番頭へ、乘輿の脇を面(おもて)を合せ通行に一向會釋なきは如何との咄を圖書聞て、五十人の御番衆の内には多分歩行にて往來の者も多く、依之途中にて番頭等へ逢(あひ)候ても見ぬふりを致候儀申合に候。是は御旗本へ途中にて逢れ候節、番頭にても下輿(げよ)下乘も可有之事、左(さ)候ば御城往來にも幾たびか下乘可有之故の儀に候。右の通りの安房守存寄に候はゞ、重ての儀組一同申合、下乘の遠慮なくひかへ候樣可申合旨申ければ、是にこまりて戲(たはぶ)れ事になして事濟ぬと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:平時の武辺物で連関。岩波版の長谷川氏の注には、『図書は礼をすれば番頭も駕籠・馬から下り返礼せねばならぬ。その煩わしさを厭わぬというのなら以後会釈をするよう申合せようといった』と解説されている。実は私の頭が鈍いのか、『番頭も駕籠・馬から下り返礼せねばならぬ』と読める部分が、何処であるかはしかと分からぬのであるが、この謂いは正に安房守がビビる核心を補強するものであることは確実だから、井上の台詞の最後に出させて貰った。
・「明和安永」西暦一七六四年から一七八一年。
・「井上圖書」井上図書頭正在(いのうえまさあり 享保十六(一七三一)年~天明七(一七八七)年)。明和四(一七六七)年御小性組頭、安永二(一七七三)年大目付、安永八(一七七九)年従五位下図書頭、天明五(一七八五)年普請奉行。ネット情報では杉本苑子の小説「冬の蝉」では硬骨漢として描かれているらしい(未読)。
・「御書院の組頭」「御書院」は書院番で将軍直属の親衛隊。六組(当初は四組)で一組の内訳は番士五十名・与力十騎・同心二十名の構成からなる。番頭は各組の指揮官で、その番頭の補佐役が組頭。
・「北條阿房守」北条安房守氏興(ほうじょううじおき 享保十五(一七三〇)年~寛政九(一七九七)年)宝暦三(一七五三)年従五位下安房守。新番頭から明和二(一七六五)年御小性組番頭、安永七(一七七八)年大番頭、天明五(一七八五)年には駿府城代となった。以上の事蹟から、本話は井上が御小性組頭となった明和四(一七六七)年から暫く経った頃で(話柄から直後とは考えられない)、井上が大目付に昇進する安永二(一七七三)年以前ということになる。一つ違いだからどちらも、三十代後半から四十歳前後である。
・「乘輿」とあるが、「輿」は駕籠のことを意味している。
■やぶちゃん現代語訳
井上氏の格言の事
明和・安永の頃、井上図書頭正在殿という御書院番組頭が御座った。
ある日、他の組の番頭であった北条安房守氏興殿と擦れ違った。この時、安房守は駕籠に乗り、図書の方は徒歩で馬を引かせての通行で御座った故、会釈せずに駕籠の脇を通った。
ところが、後日のこと、安房守より井上殿の番頭へ、
「貴殿支配の組頭井上殿じゃが……我ら番頭が乗る駕籠の脇を正面から擦れ違うに、一向、会釈も御座らぬとは、これ、如何なものか、の。」
と小言の御座ったを井上殿聞きて、
「――はて。五十人から御座る御番衆の内には、大概は徒歩立ちにて往来する者も多く、これに依って、路次(ろし)にて番頭などへ逢(お)うて御座っても、見て見ぬ振りを致すようにするが、我等が申し合わせに御座る。これは――もし、番頭御自身が、路次で御旗本に逢(お)うて御座った折りには――番頭御自身、駕籠を降り、馬を下りねばならぬ、と言うが道理――ということで御座る――さすれば、番頭御自身、御登城・江戸市中御通行の砌りには、これ、幾度も、駕籠や馬を、下りねばならぬが――道理――ということになろうと存ずる。――いや――もし、かくの通りが守るべき道理と、安房守御自身がおっしゃるので御座らば――さても、ここでしっかと組々一同申し合わせの上、遠慮のう、下乗して控えて会釈致し、当然の如、それに続くところの番頭御自身の御下乗による御挨拶を、忝(かたじけの)う、しっかとお受け申すよう――周知徹底致すが所存にて、御座る――。」
と申し上げた。
流石の安房守も、これには困り果てて、
「……い、いや、……その、あれは、の……ちょっとした冗談じゃ、て。……」
と言い紛らかいた、とかいうことで御座る。
大久保家士惇直の事
寛政五丑年三月、執政松平越中守殿浦々見分の事有て、相州根府川(ねぶかは)の御關所を通行ありしが、駕を不用(もちひず)歩行(かち)よりして右御関所へ行懸り笠を用ひられしを、御關所の番士大久保加賀守家士大木多次馬(たじま)立出、御關所に候間笠を取候樣近習の士へ斷りしゆへ、越中守殿にも其精勤を感賞ありて、加賀守へも通達有之、江戸表へも被申越(まうしこされ)しや、その書取を爰に記す、
[やぶちゃん注:以下、「書取」は底本では全体が二字下げ。なお、一部の訓読が難しいが、「書取」の原型を味わって貰うため、ここでは読みを示さず、注の方で全文再掲の上、難読語を訓じておいた。]
今日根布川御關所通行の節、風與心得違にて笠脱不申候處、番士大木多次馬笠之儀心付け候。自分心得違の儀は江戸表同列迄申達にて可有之候。勿論加賀守殿より御達筋には不及候。扨多次馬年若に相見候得共、嚴重精勤の段一段の事、加賀守殿御申付宜故之事と存候。多次馬儀心得方宜段は、御褒被掛御目ヲ可然哉に存候、此段も無急度申達候事。
右は多攻馬が其職を守る、越中不明公惇直成(なる)を稱して爰にしるし置ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。巻頭より本格的な武辺物がなかっただけに、意識的に配したものとも思われる。
・「惇直」は武士としての根岸の最も好む語で「じゆんちよく(じゅんちょく)」と読み、純粋で正直なこと。一途で正しいことを言う。
●書取訓読
今日、根布川御關所通行の節、風與(ふと)心得違(ちがひ)にて、笠、脱ぎ申さず候ふ處、番士大木多次馬、笠の儀、心付(こころづ)け候ふ。自分心得違ひの儀は江戸表同列迄申し達しにて之れ有るべく候ふ。勿論、加賀守殿より御達(おたつ)しの筋には及ばず候ふ。扨(さて)、多次馬年若に相ひ見へ候得(さふらえ)ども、嚴重精勤の段、一段の事、加賀守殿御申し付、宜しき故の事と存じ候ふ。多次馬儀、心得方(ここえかた)宜しき段は、御褒め、御目を掛られ然るべきやに存じ候ふ、此段も急度無(きつとな)く申し達し候ふ事。
・「執政松平越中守」陸奥白河藩第三代藩主松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政十二(一八二九)年)。彼は松平家の養子であって、実父は御三卿田安徳川家初代当主徳川宗武、則ち、徳川吉宗の孫に当たる。天明七(一七八七)年より寛政五(一七九三)年まで老中首座並びに将軍輔佐となって寛政の改革を実行した。寛政五(一七九三)年三月に伊豆・相模・安房・上総・下総の海防巡見を行っており、本話はその折りのものである。但し、この四ヶ月後の七月二十三日、やはり海防巡見中に突如将軍より辞職を命ぜられ、失脚している。「執政」は幕政全般を取り仕切った将軍に次ぐ老中職を指す。
・「根府川の御關所」現在の小田原市根府川のJR根府川駅を降り、急坂を少し下ったところに小田原藩の根府川関所跡がある(実際の跡は関東大震災で埋没、新幹線工事によって川床となった)。箱根の脇関所として、熱海・伊東への海辺街道の監視を行う重要な関所であった。
・「大久保加賀守」大久保忠顕(宝暦十(一七六〇)年~享和三(一八〇三)年)。小田原藩第六代藩主。参照したウィキの「大久保忠顕」には、藩財政の窮乏を懸命の引締政策で乗り切ろうとするも上手く行かず、『おまけに幕府から海防を命じられ、さらに財政は逼迫した。このため、藩の改革は長男・忠真と二宮尊徳によって受け継がれることとなる』とある。
・「同列」同輩の老中。老中の定員は四人から五人で、寛政五(一七九三)年の時点では老中首座の定信以下、松平信明・松平乗完(のりさだ)・本多忠籌(ほんだただかず)・戸田氏教(とだうじのり)らがいた。
・「急度無(きつとな)く」は、内々に、非公式にの意。
・「不明公」松平定信を指しいるが、不詳。彼の別号でには楽翁・花月翁・風月翁・白河楽翁があり、諡号は守国公であるが、「不明公」というのは見当たらない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、ここは「相公(しょうこう)」で、これは宰相の尊称。「不明」と「相」の字の類似性が深く錯字を感じさせる。「相公」で採る。
■やぶちゃん現代語訳
大久保家の惇直なる家士の事
寛政五年丑年の三月、老中松平越中守定信殿が海辺を巡見なさった。相模国根府川の御関所をお通りになられた際――この時偶々、定信殿は駕籠を用いられておらず、徒歩でかの御関所へとお入りになり、尚且つ、笠を用いられたままで御座った。すると、関所番士であった大久保加賀守忠顕殿の家士、大木多次馬がすっと立ち出で、越中守殿近習の者に向かって、
「御関所にて御座れば――笠をお取り下さいまするように――」
と断りを入れて御座った故、越中守殿、
「……これは……うむ、うっかりして御座った。」
と笠をお取りになられた――。
――後日のこと、越中守殿にはかの大木多次馬の惇直なる精勤を殊の外お褒めになられ、加賀守殿へもこのことのお達し、これ、あり――また、この話、江戸表にも伝わって御座ったればこそ――その越中守殿お達しの写しを、ここに記す。
本日、根府川御関所を通行した折り、ふとした心得違いにて笠を脱ぎ申さずに御座ったところ、貴殿番士大木多次馬、脱笠(だつりゅう)の儀につき、注意を受けて御座った。この己れの心得違いの儀に就きては、江戸表同列の老中連に対し、拙者自ら申し達することと致して御座る。されば無論、加賀守殿よりかく不埒者有ったを御達しする筋にては及ばざることに御座る。さて――この多次馬、未だ年若に見申したなれど、その惇直にして堅固厳重なる精勤の段、これ一段と優れて御座ること、主加賀守殿の御申付、これ、宜しき故のことと存じ申し上ぐる。多次馬の優れた判断力と精勤の儀に付ては、必ずお褒めおかれ、また、御目をかけられて然るべきことと存じ申し上ぐるを、この件に就きても、内々に老中連に申し達する所存にて御座る。
以上は、大木多次馬がその職分を美事に守った忠と誠と、また、越中守相公定信殿の惇直を讃えるため、ここに記しおいたもので御座る。
賤婦答歌の事
寛政四年の頃、靑山下野守家士在所より往來の折から、木曾路寢覺の里に足を休、名におふ蕎麥抔を食しけるに、給仕の女其面(おもて)に蕎麥かすといへる物多くありしを、
名にめでゝ木曾路の妹(いも)がそばかすは寢覺の床のあかにやありなん
かく詠て書付あたへければ、彼女憤りける氣色して勝手へ入しが、程なくかへしとおぼしく書付たるもの持來りし故、これを見るに、
蕎麥かすはしづが寢㒵(ねがほ)に留置(とめおき)てよい子を君に奉りぬる
とありければ、人の代りて詠たるか、當意即妙のところ感じ取はべりしと、右家士のゆかりある人咄しければ書留ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:四つ前の狂歌で連関。実話というより、太田道灌の山吹の狂歌版パロディという感じである。
・「寛政四年」西暦一七九二年。
・「靑山下野守」青山忠裕(あおやまただひろ/ただやす 明和五(一七六八)年~天保七(一八三六)年)。丹波篠山藩第四代藩主。本話柄とは関係ないが、彼は天明五(一七八五)年に家督を継いだ後、寺社奉行・若年寄・大坂城代・京都所司代といった幕閣要職を総浚いして文化元(一八〇四)年に老中に着任後、実に三十年強勤め上げた、文化文政期の幕閣の要人である。天保六(一八三五)年、隠居。
・「木曾路寢覺の里に足を休、名におふ蕎麥抔を食しける」木曽川の水流で花崗岩が侵食されて出来た木曽八景の一つ、寝覚ノ床の名物蕎麦屋として越前屋がある(蕎麦屋として現存)。そのHPの「越前屋の歴史」によれば、寛永元(一六二四)年創業、日本で三番目に古い蕎麦屋とされる。宿場の立場茶屋として栄え、訪れた北川歌麿・十返舎一九・岡本一平・前田青邨などの書画が残されており、島崎藤村の「夜明け前」にも登場する老舗である(現代語訳では私の嫌いな藤村をパロった)。
・「蕎麥かす」雀斑(そばかす/じゃくはん)。米粒の半分の薄茶・黒茶色の色素斑が、おもに目の周りや頰等の顔面部に多数できる色素沈着症の一種。雀卵斑(じゃくらんはん)とも言う。主因は遺伝的体質によるものが多く、三歳ぐらいから発症し、思春期に顕著になる。なお、体表の色素が少ない白人は紫外線に対して脆弱であり、紫外線から皮膚を守るために雀斑を形成しやすい傾向がある。「そばかす」という呼称は、ソバの実を製粉する際に出る「蕎麦殻」、則ち、「ソバのかす」が本症の色素斑と類似していることによる症名であり、「雀斑」「雀卵斑」の方は、スズメの羽にある黒斑やスズメの卵の殻にある斑紋と類似していることからの命名である。
・「名にめでゝ木曾路の妹がそばかすは寢覺の床のあかにやありなん」は、在原業平の「名にしおはばいざ言問はむみやこ鳥我が思ふ人はありやなしやと」や、三条右大臣藤原定方の「名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」をベースとした狂歌で、名勝寝覚の床と女中の蕎麦かすがくっついた女中部屋の寝床を掛け、恐らくは暗にびっくりするような雀斑に「寝覚め」も掛けている。「あか」は木曽川の水流の閼伽(あか:水)で舞台の縁語であり、更に雀斑を喩える水垢、暗に「垢抜け」ない雀斑女の田舎女の寂しさを想像して揶揄してもいよう。
――「寝覚ノ床」の名にし負うた――木曽路の娘の、その雀斑は――独り寝の淋しい寝床でついた、垢ででもあろうか……
・「蕎麥かすはしづが寢㒵に留置てよい子を君に奉りぬる」の「しづが寢㒵」は「賤が寢㒵」で卑称。文字通り、雀斑を実際の蕎麦かす(蕎麦を挽いた滓)に掛け、「よい子」を「よい娘(こ)」と「よい粉(こ)」(蕎麦粉)に掛けた。
――蕎麦かすははした女(め)であるこの私めの顔にとどめおいて――敢えてよい娘(こ)――よい蕎麦粉を――貴方様には奉りまする……
■やぶちゃん現代語訳
賤婦の返歌の事
寛政四年の頃、青山下野守の家士が、丹波篠山の在所から江戸へ往来した折りの出来事で御座るという。
――木曾路はすべて山の中である。岨(そば)づたいに行く崖の道を……数十間の深さに臨む木曾川の岸を……山の尾をめぐる谷の入り口を辿ってゆく……と……目覚めんばかりに美しき、碧水奇岩の寝覚の床が現れる――
……拙者、そこで足休めを致いて、名にし負う名代の越後屋の蕎麦をたぐって御座ったところ、その折りに給仕致いた娘、その顔が、これが、まあ、驚くべき美事に仰山なる――そばかすじゃ! そこで一首、
名にめでて木曽路の妹の蕎麦かすは寝覚の床のあかにやありなん
と詠んで書きつけたものを渡いた。
――と――
この田舎娘、何やらん、非道う憤った気色で店の奥へ入ったかと思う
――と――
程無(の)うして、返しと思しく、何やらん、書きつけたものを持ち来たって、さし出だいたのを見れば、
そばかすは賤が寝顔に留め置きてよい子を君に奉りぬる
と御座った……
「……誰か、好き者が代わって詠んだものかとも思わせる……いや、その当意即妙に、すっかり感じ入り……軽き戯れに歌(うと)うたこと、大いに恥じ入りました……。」
と本人が語ったということを、この家士に所縁(ゆかり)ある人が話したのを、私が書き留めたもので御座る。
*
連歌師滑稽の事
向秀といへる連歌師、人の夢賀の句を乞ひけるに、忘れて過ぬれば、いかにも面白く目出度事をとせちに乞ければ、歌をよみて贈りけるとぞ。
龜に櫛鶴かうがひの愁あり用に立ざる君は千代まで
□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌で直連関。
・「向秀」不詳。この号は竹林の七賢に因むか。ならば「しょうしゅう」と読む。これは江戸時代の話ではなく、もっと古い話かも知れない。
・「夢賀」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「壽賀」で、長寿の言祝ぎの謂いである。こちらを採る。
・「龜に櫛鶴かうがひの愁あり用に立ざる君は千代まで」以下、通釈しておく。
……亀は甲羅を鼈甲の櫛にされる……鶴は脛骨を髪飾りの笄(こうがい)にされる宿命的な愁いが御座る……が……正真正銘……未来永劫……何らの役に、これっぽちも……立ちは申さぬ御貴殿は……千年、万年、生きらりょうぞ! いやいや、これぞ! めでたや、のう! めでたや、のう!
■やぶちゃん現代語訳
連歌師の滑稽の和歌の事
向秀とかいう連歌師、ある時、人に長寿を祝(いお)うた一句をと乞われておったが、これ、すっかり忘れて御座ったのを、「……どうか、如何にも面白うてやがて目出度き御句を!」執拗(しつこ)く乞われたので、その場でさらりと一首を詠んで贈った、という。
亀に櫛鶴かうがいの愁あり用に立たざる君は千代まで
呪に奇功ある事
水に漬し餅或は草あんぴなど唱へ候品、あぶりこの上に乗せて燒くに、過半は右あぶりこへ附きて其樣見苦しく、詮方なきもの也。此春兒孫に燒(やき)なんとてはたきもの抔あぶりこに乗せて燒しに、かたの如く燒付ていと見苦しかりしを、召使ふ老婆是を見て、右は呪(まじな)ふ事ありとて、右あぶりこのこげ付るを淸めて片手にあぶりこを持、我天窓(あたま)の上を三度廻して、扨火に掛て焼しに、一向こげ付不申故不審に存(ぞんじ)、別のあぶりこを取寄、始は常のごとく火に掛けしに、燒付て見苦しかりし故、又淸めて頭の上を三度廻し燒けるに聊不損(いささかそんぜず)、誠に不思議成事也と老たる人に語りければ、それは承及(うけたまはりおよび)たる事也、あぶりこに不限、鐵きうの上にて肴など燒も同じ事也と語りし。天窓の上を廻すといふは、人氣を受(うく)る故の譯にもあるやらん。いづれ理外の論なるべし。
□やぶちゃん注
○前項連関:どうでもよいような吉凶占い話から如何にも実用的な呪いで連関。金属の場合、十分に高温にしてから焼くと焦げ付かないというのはよく言われる。これは附着したタンパク質が加熱されると、金属と反応して熱凝着を起こし、それが結果として鉄と対象物の接着効果を示すからであろう。さすれば、金属の温度を十分に上げて、中間の接着変性を起こしにくくさせるために綺麗に洗い上げることが、熱凝着を回避させる結果を生み、効果的であるようには思われる。更に私は、この話の「天窓の上」というのを、頭の上方ではなく、頭髪に「附けた」状態で「三度廻」すことで、頭髪の脂分が金属に付着し、被膜としての効果を持つからではないかと推測するのであるが、如何であろう?
・「水に漬し餅」餅に黴が生えないようにするために水に入れておく保存法。私が小さな頃は母が普通にそうしていたのを思い出す。それでも、黴は生えるし、腐りもする。――小学校二年生の記憶に――母が水の中で青くなった餅を、裏庭に穴を掘って埋めているのを見ていた――「あんた、こんなこと、御祖母ちゃんにだけは絶対言っちゃだめよ。」と言った――何故か、私は今も忘れない。
・「草あんぴ」草餅。「あんぴ」は「餡餅餅(あんぴんもち)」で、「餡餅」の宋音「アンピン」に由来し、餡の入った餅又は大福餅を言う。別に「あんびん」とも称す(この場合の「アンビン」は唐音で禅寺から起った語とする)。
・「あぶりこ」は「焙り籠」「炙り子」で、火鉢や囲炉裏の端で餅などを焼くための鉄製の網状のもの。必ずしも四角とは限らない。
・「はたきもの」「叩き物」身代を使い果たすことを言うので身分の低い下女などをかく呼んだ可能性もあるが、寧ろ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の「はしたもの」(召使の下女)の誤記と考えた方が自然か。
・「鐵きう」「鉄灸」若しくは「鉄弓」と書き、火の上に掛け渡して魚などを炙るのに用いる、細い鉄のや串のこと。細い鉄線を格子状に編んだものも。鉄橋・鉄架などとも言う。
■やぶちゃん現代語訳
呪(まじな)いに不思議な効き目のある事
水に漬けた餅、あるいは柔らかい草餅なんどといったものを焙(あぶ)り籠(こ)に乗せて焼くと、大半はその焙り籠に焦げついて、如何にも見苦しく、どうにも困るもので御座る。
この春も、子や孫たちのために焼こうと、召し使うておる若い下女などが、焙り籠に乗せて焼いたところ、例の如く、べっちゃりと網に焼きつき、それがまた焦げて、いかにも見た目も悪い、何とも無様な焼き餅と相成って御座った。
すると、それを見ておった、召し使(つこ)うて御座るところの、さる老女が、
「こういう時は、ちゃんと呪(まじな)いがある、て。」
と言うと、焙り籠の焦げを綺麗に削ぎ落いて清めると、片手にその炙り籠を持ち、自分の頭の天辺でするすると三度回し、さて、これを以って再び火に掛け、餅を焼いた。
――と――
一向、焦げ付くこと、これ御座らず、上手いこと、焼けた。
端で見て御座った私も不思議に思うたによって、試しに別の焙り籠を持って来させ、最初はそのまま普通に火に掛けて餅を焼いたところが――これ、やはり焦げついて見苦しいものとなったが故、さて、これをまた、老女のした如くに掃除して、頭の上で三度回して焼いたところ――いささかも、これ、焦げつかず、形も崩れず、相い成った。
さすれば、後に、
「いや、かくかくのことにて、まっこと、不思議なることで御座った。」
と、さる老人に語ったところ、
「それは先刻承知のことじゃ。焙り籠に限らず、鉄灸(てっきゅう)なんどの上で魚を焼くにても、同じことじゃて。」
――人の頭の上で回すと、人の気を金気(かねっけ)が受けて変性するとでも、言うので御座ろうか? 何にしても、いや、人知論外のことと言うべき不可思議で御座った。
*
又
鱈或は鹽引(しほびき)其外鹽肴(しほざかな)鹽ものゝ類(たぐひ)汐(しほ)を出し候に、紙を四角に切りておのへおのへおのへおのへと書て、右水の上に浮(うか)むれば立所に鹽出し候由、これ又一人のみにあらず、我知れる人一兩人語り侍る。
□やぶちゃん注
○前項連関:食品調理の呪(まじな)いで直連関。
・「鹽引」塩漬けの鮭のこと。
■やぶちゃん現代語訳
呪(まじな)いに不思議な効き目のある事 その二
鱈或いは塩漬け鮭、その他塩蔵処理した海産物、その他の陸産食品の塩蔵加工食品の塩抜きのを致す際には、紙を四角に切って、それぞれに「おのへ」「おのへ」「おのへ」「おのへ」と書いた上で、塩出しにそれらを入れた容器の水に浮かべると、これ、たちどころに塩出しが終わる。このことも、知人独りのみならず、私の知人二人までもが、語ったことで御座る。
*
鼻血を止る妙呪の事
鼻血出る人左より出れば己が左りの睾丸(かうぐわん)を握り、右なれば右の睾丸を握り、兩樣なれば兩睾を握れば、感通して立所(たちどころ)に止由。呪ふ人女なれば乳を握りて呪(まじなひ)に妙なるよし。
□やぶちゃん注
○前項連関:呪(まじな)い直連関。医学的根拠はない。以下、複数の信頼出来る耳鼻咽喉科のサイトを参考にして、正しい鼻血の止血法を示しておく。まず、衣服を緩め、気持ちを落ち着かせて、上体を起こして椅子に座らせる(これが最善である)か、何かに背を凭させて床に座る姿勢をとらせ、必ず顔をやや下に向けさせる(血液が咽喉から気管へ流入するのを防ぐためで、しばしば行われる横向きの横臥や上方を仰がせる方法は完全な誤りで、絶対に上を向かせてはならない。なお、血液を飲み込みそうな場合、嘔吐や嚥下反応を起こすことがあるので、飲み込ませずに吐かせるようにする)。 次に、親指と人刺し指で小鼻を抓んで(水に潜る時の要領で)五分から十分程度、圧迫する(殆どの鼻血は鼻中隔前方の鼻孔から一~一・五センチの位置の、粘膜表面に血管が近接分布する、小鼻の内部に当たるキーゼルバッハ部位で発生するからである。鼻梁の上部の硬い骨の部分を押さえるケースが多いが、そこでは止血効果は期待出来ない。寧ろ、上を押さえるならもっと上部の、目頭の間を圧迫するのがよい。鼻に近い動脈はこの付近を通っているからである)。この時、冷たいタオルや氷嚢などで鼻全体を冷やすことが出来ると、血管収縮によって更に効果が期待出来る(この圧迫止血を二十分以上行っても止まらない場合は、貧血症状に繋がり、単なる鼻血に留まらない他の疾患による出血の可能性があるので速やかに耳鼻咽喉科を受診する)。なお、鼻に詰め物をするのは必ずしもよいとは限らない。特に鼻紙を詰めると、抜く際に鼻腔内を更に損傷させる危険性があるので、これも行うべきではない。止むを得ず詰め物をする場合は、柔らかな布や綿を用い、且つ、奥まで詰めないようにすることが肝心である。首の後ろを叩くという方法がよくとられるが、これには止血効果がなく、その際に仰ぐ姿勢となるため、よくない。
■やぶちゃん現代語訳
鼻血を止める優れた呪(まじな)いの事
鼻血が出た人は、左の鼻腔からの出血であれば左の睾丸を握り、右の鼻腔からの出血であれば右の睾丸を握り、両鼻腔からの出血であれば両方の睾丸を握らば、たちどころに効き目の御座って止血するとのこと。因みに――呪(まじな)う被験者が女の場合は、睾丸の代わりに乳房(ちぶさ)を握れば、呪(まじな)いは同様に効果覿面という。
木星月をぬけし狂歌の事
寛政七卯の年の秋、木星月の内をぬけし事ありしを、人々品々吉凶を評して恐れ論じけるが、狂歌の名ありける橘宗仙院詠るよし。
月の内に星の一點加れば目出度文字の始なりけり
□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前の狂歌で直連関。
・「寛政七卯の年の秋、木星月の内をぬけし事ありし」これは月で木星が隠される天体現象である木星蝕を指している。中野康明氏の「こよりと木星蝕」の頁には、この「月と地球の間を木星が抜ける」などという阿呆臭い都市伝説とは違った、極めて科学的な驚くべき江戸の博物学者の姿が描かれているのである。則ち、その寛政七(一七九五)年のこと、『幕府天文方の高橋至時と間重富が夕方に道を歩いていたら、満月と木星が近接していた。二人は木星蝕が起きることを察知し、「こより」と穴あき銭で即席の振り子時計を作り、一人は木星が月に隠れる瞬間を合図し、もう一人はその時点からの振り子の振れの数を数えた』。二人は『司天台(天文台)に急いで帰り、備え付けの振り子時計で「こより振り子」の周期を校正して、蝕の開始時刻を計算』、『木星が月から現れる時刻は司天台の振り子時計で正確に測定できた』というのである。中野氏は『木星蝕を予測し、とっさに即席の振り子時計を作って観測するとは、凡庸な人間にはなかなかできることではな』く、『また、寛政時代には振り子の法則も知られており、司天台には精密な振り子時計も備え付けられていたとは、江戸時代の科学技術も大したものである』と賞讃されている。その精緻さに叫喚し共感するものである。
・「橘宗仙院」先行する「卷之三」の「橘氏狂歌の事」で、岩波版長谷川氏注に橘『元孝・元徳(もとのり)・元周(もとちか)の三代あり。奥医から御匙となる。本書に多出する吉宗の時の事とすれば延享四年(一七四七)八十四歳で没の元孝』とあったが、これは寛政七(一七九五)年のことであるから、今度は二代目元徳か三代目元周ということになる。
・「月の内に星の一點加れば目出度文字の始なりけり」「月」の字の最後に一画の星=「ヽ」を加えれば、左右が繋がって「目」の字となり、これは「目出度」(めでたき)という文字列の星の列、吉兆の「始まり」で御座ったよ、という洒落のめした言祝ぎの狂歌である。
■やぶちゃん現代語訳
木星が月を突き抜けた狂歌の事
寛政七年の秋のこと、何でも――木星が月を突き抜けた――という専らの噂で御座った。人々は、星が星を食うた、貫いたと、その不思議の意味するところの吉凶を、口々にあげつろうて御座ったが、狂歌で名を知られた橘宗仙院殿がそれを聴いて、次のように詠んで御座ったと。
月の内に星の一点加ふれば目出度き文字の始なりけり
昨日、国立劇場にて「傾城反魂香」土佐将監閑居の段・「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」酒屋の段・「壇浦兜軍記」阿古屋琴責の段を観る。
今回はこの午後の部のキャスティングが凄い。太夫三味線の筆頭無形文化財保持者である竹本住大夫と鶴澤寛治が出、人形に至っては吉田蓑助・文雀に玉女のオール・スター・キャスト。演目も演技も申し分なく、期待を裏切らない極めて高い満足度であった。一つ難点を言えば館内の冷房が不十分であったことか。
又平の「チャリ」が「チャリ」に見えない。僕は目頭が熱くなって来さえした。吃音にコンプレクスを抱いてきた弟子を、手水鉢の一刀両断で治癒してみせる土佐将監光信、僕はタルコフスキイの「鏡」の冒頭シークエンスが鮮やかにオーバー・ラップした。玉女の演ずる又平の頭(かしら)は神々しくさえあった。差別注記など不要の、如何にも健康的な芸術的感動の世界が、この「傾城反魂香」土佐将監閑居の段エンディングには――「踊っている」――私は、素直に、そう思った。
「艶容女舞衣」のお園「クドキ」、その「後ろ振り」(私は文楽で初めてエロスを感じたことを告白する)には完全にノック・アウトされた。蓑助は不世出の人形遣であるという感を新たにした。――上演中、「お園」は一秒たりとも「人形」に戻らない――悪いけれど、そう感じさせる遣い手は――私の短い文楽の鑑賞経験では、蓑助唯一人である――
(注:人形遣ばかりではない。私の演劇経験から言っても、普通の歌舞伎や新劇でも、多かれ少なかれ、たとえ名役者であろうとも、どこかで一瞬、舞台上で「素に」戻っている瞬間が存在するのだ。それは「演技をしていない」のではなく、「演技が行われていない」、続くところ次の演技へ「演技」を繫ぐという、その「演技」の連続を考えるところの、無限にゼロに近いがゼロでない「空白」の一瞬――ニュートラルな状態が、確かに、あるのだ。僕はそれを如何なる名優の芝居にあっても感ずる(寧ろ、それを何故か激しく感じてしまう俳優もいる)。それは「役者」として「演技」する者の「宿命」であると私は勝手に思っている。しかし、その一瞬とは、まさに網膜に感じられるようなものではない。だからその一瞬は、必ずしも演技の瑕疵にはならないのだ――ならないのだが――ないに越したことはないのだ――しかし、それを感じない舞台を、役者を――僕は観たことがまず、ない、のである。いや、寧ろ、それを多く感じさせる名優と呼ばれる役者は、僕にとって「上手いのになあ……だのに何故、この人の演技、僕は好きじゃ、ないんだろう?」という一種の「サブリミナル効果」としての生理的不快感となって現れるのである。)
文楽では、人形の動きが止まることは、ままある。それを言っているのでは毛頭、ない。蓑助が操る時、人形は既に人形ではなく、有機的な生命体としての「お園」となり、「娘」という名の頭(かしら)ではなく、「お園」の情念そのものとなる、ということである。存在しない「お園」の肉体が、そこに確かに血の通ったものとして立ち現れ、その脈搏が、その微妙な感情の揺らぎが、言うなら、お園の暖かな肌が、その幽かにふるえる「f分の一ゆらぎ」の肌が――まさに「女の生命の神秘の波動」が――見る者に伝わり、その思いが如何なる介在物もなしに、観客の魂にも直結するのである。
未だ文楽を見たことのない教え子諸君、蓑助の人形遣を観ないのは、一生の後悔となる――必ず、見られよ――
「壇浦兜軍記」阿古屋琴責の段は今回の三つの演目の中でも、歴史的事実を基本的に変形していない点で筋の予習なしに容易く観られる言える(言わずもがな乍ら、浄瑠璃の時代物は、通常は予習なしでは歯が立たないほど荒唐無稽驚天動地のパラレル・ワールドである。始まる前の床本の読み込みは、文楽を真に楽しむための、最低の「修業」と心得られよ)。阿古屋が琴・三味線・胡弓を弾く見せ場は無論、美味しい――が、フランス料理のフルコース・ディナーという感もあるので、午後演目の掉尾というのは少し重い――しかし、若い観客には最高のセットであろうと思う――附言すれば、岩永の火箸を用いた胡弓の「チャリ」場面(前列から三番目中央寄り左という今回の席はこれを観るにはとんでもない鬼門で、妻には全くの死角となってしまった)がその重量を払拭してくれる。
ああっ!……「娘」の……頭(かしら)が欲しい!!!
狐狸のために狂死せし女の事
寛政七年の冬、小笠原家の奥に勤し女、容儀も右奥にては一二と數えけるが風與(ふと)行衞を失ひ、全(まつたく)缺落(かけおち)いたしけるならんと、其宿をも尋問(たづねとひ)けれども曾て見へざれば、輕き方と違ひ四壁嚴重の屋敷、とりどり、疑ひけるが、日數廿日程過て、同じ長局(ながつぼね)の女手水(ちやうづ)を遣ひける手水鉢の流れへ、白き手を出し貝殼にて水を汲(くむ)を見て、右女驚き氣絶せし故、同部屋は不及申、何れも缺附(かけつけ)見れば、怪敷女樣(やう)のもの椽下へ入るを見て、大勢にて差押ければ、彼行衞不知女故、湯水等を與へ尋問ひしに、始はいなみしが切に尋ければ、我等はよきよすがありて宜(よろしき)所へ緣に付(つき)、今は夫を持(もち)し由を申ゆへ、いづ方成哉と聞侍れど其答もしかじかならず。色々すかして尋ければ、さらば我住方へ伴ひ申さん迚(とて)椽の下へ入りける故、跡に付て兩三人立入りしが遙(はるか)椽下を行て一ケ所の椽下に、胡座筵など敷て古き椀茶碗を並べ、此所住家成由故、夫の名など尋しに、兼て咄せし通(とほり)の男也とて名もしかと不答、誠に狂人の有樣故、其譯役人へも斷り、宿を呼て暇を遣しけるが、兩親も悦びて早々醫薬等施し療養を加へけれど、甲斐なくして無程身まかりしとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:「稲荷」から「狐狸」、「狂歌」と狂的呪詛から「狂死」で、連関。この話柄は「耳嚢」の抜粋本等には必ずと言ってよい程引かれるもので、私も高校時代、学生雑誌の怪談特集で読んだのが最初であると記憶するのだが、私は個人的に、「耳嚢」の中で、映像として最も不気味、且つ、悲哀に満ちた一番の話として本話を挙げたいのである。……美しい女房の発狂、縁の下の愛する男との二人きりの隠れ里――幻覚を伴う重篤な統合失調症か、程無くなくなったという点からは予後の悪い何らかの器質的疾患による脳の変性か脳腫瘍等も疑われる――また例えば、心因性精神病として、その発症の原因の一つに、家内での秘やかなゴシップなどを想起してしまうと――失踪の際、真っ先に恐らく複数の者が「全缺落いたしけるならん」と考えたことがその強い可能性を示唆すると言えないか? また、彼女の『縁の下の棲家』の上は一体、誰の部屋だったのか?……なんどということまでがひどく気になってきて――猶のこと、この話は一読、私には忘れ難いものとなっているのである。
・「小笠原家」小笠原右近将監忠苗(おがさわらただみつ 延享三(一七四六)年~文化五(一八〇八)年)豊前小倉藩十万石の第五代藩主。小笠原家宗家六代。寛政三(一七九一)年、藩主となり、従四位下右近将監に叙任。
・「長局」宮中や江戸城大奥・大家に於いて、長い一棟の中を幾つもの局、女房部屋として仕切った住居。局町(つぼねまち)とも言う。
・「缺附見れば」底本には右に『(駆附け)』と傍注する。
■やぶちゃん現代語訳
狐狸のために狂死した哀れなる女の事
寛政七年の冬のこと、小笠原家右近将監忠苗(ただみつ)殿御屋敷の、奥に勤めて御座った女房――その容姿は……まず一、二を争うという女で御座ったが――ふと、行方知れずになった。
口さがない家中の者どもは、
「……あの器量じゃて、全く以てどこぞの誰かと深うなって、駆け落ち致いたに違ない……」
などと噂致いた。人を遣って実家をも尋ねさせたが、帰った様子も、これ、御座ない。ともかくも十万石の大藩の御屋敷なれば――これ、その辺の普通の武家の話とは訳が違う――四方の守り、厳重にして鼠一匹逃げ出しようも御座ない、といった造りなればこそ、家中の者どもも、なんやかやと不審を抱いて御座った。
さて、それから二十日ほど過ぎた、ある日のこと、行方不明になった女房と同じ長局(ながつぼね)に住んで御座った女房が一人、庭の手水(ちょうず)を使(つこ)うた……が……傍らの、その手水鉢へと流れておる筧(かけい)の水の流れに……ふと……目をやったところ……
――すーうっと……
――縁の下の方から……
――白い手が伸び……
――手に持った貝殻柄杓で……水を……汲んだ……
女房、
「きぇッ! エエエッツ!」
と叫び声を挙げて、その場に昏倒致いた――
――そこで、同部屋の者は言うに及ばず、家中の在の者どもも残らず駆けつけたところが、怪しき女のようなる者一人、今にも縁の下へと潜り込まんとするを見出だし、大勢にてとり押さえて御座った。
……と……
……この不審の女は……何と! かの行方知れずになって御座った女であったが故、者ども皆、吃驚仰天、ともかくも湯水なんどを与え、一体、どうしておったか、と問い質(ただ)いてみた。
女は最初、黙ったままで、口を利くのを拒んで御座った風であったが、周りが強く詰問致すうちに、
「……妾(わらわ)は……よき縁(よすが)の……御座いまして……宜しきところへ……緣(えん)づきまして……今は……夫を持って御座います……」
と申す。そこで、
「――そりゃまた、はて、何処(いずこ)じゃ!」
と聞き返せど、女の返事は一向、はっきりせぬ。そこで色々、なだめすかして尋ねてみたところが、
「……さればこそ……我が住む方へ……伴って差し上げますれば……」
……と……
――縁の下へ……
――入る……
――されば、大の大人、合わせて三人、跡について縁の下へと立ち入るという仕儀と相成った。
――庭縁から――遙かずっと先の縁の下の、ある所に――茣蓙や筵などが敷かれて御座って――そこにまた、古びた椀やら茶碗やらも並べ立ててある――女はそこまで這いずって行くと、
「……ここが……妾と夫の……住まう屋敷に……御座います……」
と平然と答える。
――従った男の一人が――顏にへばりついた気味(きび)の悪い蜘蛛の巣を拂いつつ、吐き捨てるように問うた。
「――して! その夫の名は、何と申すのじゃ!」
……と……
「……はて……それはもう……ほれ、かねて既に……お話し申し上げて御座います通りの……あの、お方で御座いまする……」
と、ぬらりくらり、遂に名もはっきりとは申さぬ。
――さても、その後(のち)の訊問にても、この女房の話は、その全てが全く以って訳が分からず、これは最早、正真正銘の狂人の有り様なればとて、既に行方不明の届を出して御座った役人へは、『かくなる仕儀にて』と委細報告の上で、この女の実家の者を呼び出だいて、暇(いとま)を遣わして御座った。
女の両親はと言えば、行方知れずの娘が戻ったと聞いて悦んだのも束の間、娘の変わり果てたうつけた貌(すがた)を見、早速に医師を呼んでは薬石なんど施し、療養につとめたものの……その甲斐ものう、哀れ、程のうして身罷った……ということで御座る。
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」で「鎌倉攬勝考卷之一」を本格始動、まずは「切通坂」まで更新、「鎌倉大概圖」画像を添付した。
狂歌滑稽の事
安永寛政の頃、狂名もとの木阿彌と名乘て狂歌を詠る賤民ありしが、麻布の稻荷へ人の形を畫て眼へ釘をさしあるをみて、
目を畫(かき)て祈らば鼻の穴二ツ耳でなければきく事はなし
と書て札を下げければ、あけの日右の人形の耳へ釘を指しける故、
眼を耳にかへすがへすもうつ釘は聾(つんぼう)程も猶きかぬなり
と亦々札を下げければ、此度は繪を止めて藁人形へ一面に釘をさしけるゆへ、
稻荷山きかぬ所に打釘はぬかにゆかりの藁の人形
と札を下げければ、其後は右の形も見ヘずなりぬと。
□やぶちゃん注
○前項連関:天誅と呪詛は一種のホワイトとブラックのマジックで連関するか。
・「安永寛政」間に天明を挟んで西暦一七七二年から一八〇一年までの二十九年間。
・「もとの木阿彌」元木網(享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。本姓は渡辺(金子とも)、通称、大野屋喜三郎。京橋北紺屋町で湯屋を営みながら狂歌師として売り出し、狂歌仲間の娘すめ(狂名智恵内子(ちえのないし)。「卷之三」の「狂歌流行の事」に既出)と夫婦となる。天明元(一七八一)年に隠居剃髪、芝西久保土器町に落栗(おちぐり)庵を構え、無報酬で狂歌指導に専念、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)や四方赤良(よものあから:大田南畝)らとともに天明狂歌の一翼を担う。和歌や国学の深い素養に基づきつつ、平明な言葉で詠んだ彼の狂歌は爆発的人気を誇った。狂歌作法書「浜のきさご」、「新古今狂歌集」(古人から当代の門人までの狂歌撰集。寛政六(一七九四)年刊)等。
・「麻布稲荷」現在、東京都港区麻布十番一丁目四番六に麻布十番稲荷神社があるが、これは、戦災後の合祀で、元は末広神社と竹長稲荷神社であった。末広神社は慶長年間(一五九六年~一六一五年)の創建で、元禄四(一六九二)年までは麻布坂下町の東方の雑式に鎮座していたが、同六(一六九四)年に永井伊賀守によって現在の坂下町四一の社域に遷座された。「青柳稲荷」「末広稲荷」と呼ばれ、明治二十(一八八七)年に末広神社と改称されている。一方、竹長稲荷神社の方は、嵯峨天皇の弘仁十三(八二三)年に慈覚大師が八咫鏡を以て武蔵国豊島郡竹千代丘(現在の鳥居坂上)に稲荷大明神を勧請したものが起源とされ、寛永元(一六二四)年に現在の麻布永坂町四十三番地に遷座された。近接するのでどちらとも言い難いが、呪詛の効力から言えば、圧倒的に古い後者、「竹長稲荷神社」に同定しておきたい。
・「目を畫(かき)て祈らば鼻の穴二ツ耳でなければきく事はなし」の歌は「人を呪わば穴二つ」の諺に引っ掛けて、
○やぶちゃん通釈
――おぞましき呪いは、あんたも呪われる――相手と自分の墓穴二つ――きっと必ず待ってるぞ――ところが目鼻も二つ穴――同じ二つの穴ならば――この絵の耳は健やかに――ぼこっと、二つ残って御座る――耳がなければ呪詛「聞かぬ」――聴こえぬなれば、さればとよ――この釘とても「効かぬ」とよ――呪詛はさっぱり「効かぬ」とよ――
といった掛詞の洒落になっている。文字通り、鼻で陰湿な恨みを笑い飛ばしているところが、強靭な批判性を持った狂歌として上手い。
・「眼を耳にかへすがへすもうつ釘は聾(つんぼう)程も猶きかぬなり」今度は耳だから、それを聾(つんぼ)に洒落て、
○やぶちゃん通釈
――何遍何度も呪詛しても――当然必然、聾(つんぼう)は――如何なるものも存じませぬ――「聞かぬ」存ぜぬ――呪詛「効かぬ」――
と前歌を受けて更に畳掛ける。「かへすがへすも」からは、呪った当人が丑の刻に再度参って目の釘を引き抜き、耳に打ち直したことを指す、と考えた方が面白いように思われる。ここでは釘が増えない方が、次のシチュエーションで読者が受ける映像的強烈さからみて、効果的であると考えるからである。
・「稻荷山きかぬ所に打釘はぬかにゆかりの藁の人形」藁人形の藁は、その原材料が稲で、糠と縁がある。更に糠と呪詛の釘が誰にも美事に「糠に釘」を連想させ、その成語を用いた、ダメ押しの狂歌となる。
○やぶちゃん通釈
――ここは竹長稲荷山――稲から取れる糠と藁――も一つ挙げれば「糠に釘」――打っても打っても「糠に釘」――やっぱりさっぱり呪詛「効かぬ」――されば、あんたのこのおぞましい――人心惑わす、とんでもない――時代遅れの呪いの呪法――結局、全然、全く以て――如何なるものにも、効きませぬ――阿呆ドアホウ馬鹿臭い――トンデモ愚劣な成しようじゃ――
と、忌まわしい呪詛者を、掛詞と縁語を重ね合わせた洒落のマシンガンで、テッテ的に笑気ガス弾で機銃掃射にしているのである。
■やぶちゃん現代語訳
狂歌滑稽の事
安永から寛政年間にかけて、狂歌の雅号を「もとの木阿弥」と称した身分賤しい狂歌師が御座った。
ある日、彼が麻布稲荷の境内に参ったところが、一本の木陰に人形(ひとがた)を描いた絵の、その眼へ釘を刺してあるのを見つけて御座った。そこで木阿弥、にんまりとして、
目を画きて祈らば鼻の穴二ツ耳でなければきく事はなし
とさらさらっと書いて、それをわざわざ御札にし、絵の傍らに下げておいた……
さても翌日のこと、木阿弥が再び参詣してみると、今度は、目からやおら引き抜かれた釘が、今度は、このその耳の辺りに打たれて御座る。そこで木阿弥、またにんまり、
眼を耳にかへすがへすもうつ釘は聾(つんぼう)程も猶きかぬなり
とさらさらっと書いて、それをまたまた御札にし、絵の傍らに下げておいた……
さても翌日になる。木阿弥が再三参詣してみると、今度は、絵をやめて――何と、藁人形が――それもその全身に夥しい釘が打たれた藁人形が、木にぶっ刺されて御座った。それを見た木阿弥、呵々と笑ろうて、
稲荷山きかぬ所に打つ釘はぬかにゆかりの藁の人形
とさらさらっと書いて、それをまたまた御札にし、絵の傍らに下げて帰った……
さてもその日翌日、藁人形は何処かへ消え去り、その稲荷での呪詛の仕儀も絶えてなくなった、ということで御座る。
「鎌倉攬勝考」巻之一のテクスト化の中で、名越切通に辿り着いた。既に「新編鎌倉志」巻之七で注しているが、今回、とんでもないものを発見したので、それを電子化して附すことにした。
それは――
僕が二十一歳の時、まだ今のように整備されていなかった名越切通を踏破して、辿り着いた「妙行寺」の小山白哲老師から「伝授」された、宇宙創造の真相を語る直筆である――今読んでみても、こりゃ、凄いわ……
*
現在はネット上で見ると美事に史跡整備がなされて、一般的なハイキング・コースにさえ指定されているようであるが、今から三十数年前は詳細な鎌倉市街地図でも「名越の切通」のルートは途中で点線になって最後には消えており、ガイドブックでも踏査は難易度が高いと記されていた。二十の時、私はとある梅雨の晴れ間に、ここの踏査を試みたことがある。意を決して古い資料にある古道痕跡の横須賀線小坪トンネル左外側を登るには登ったものの、その先には一切の踏み分け道もなく、鬱蒼とした八重葎――むんむんする草いきれの中、汗と蜘蛛の巣だらけになって小一時間山中を彷徨った。それでも時々見え隠れする地面に露出した明らかな人工の石組みに励まされた。「空峒」と思しいスリットのような鎌倉石の狭隘や掘割に出て、最後はまんだら堂に導かれ、今は取り壊された妙行寺の、拡声器で呼び込まれた(人が通ると何らかの仕掛けで分かるようになっており、住職自らがマイクで呼び込むのである)。そこで今は亡き老師小山白哲の奇体なるブッ飛んだ説法(地球儀を用いつつ、実に何億劫も前の宇宙の誕生から始まる非常に迂遠なもの)を延々と一人で聞かされた。たっぷり四十分はかかったが、頻りに質問などもしたせいか、老師には痛く気に入られ――「思うところがあったら、是非この寺へ来なさい、来る者は拒みませんぞ」――と言われたのを思い出す。そうして――「菖蒲が綺麗に咲いておる。見て行きなさい」――と言われた。……凄かった……グローブ大の、袱紗のような厚みを持った紫の大輪の菖蒲の花が、海原のように広がった紫陽花の海浮いていた……弟子らしき作業服の老人が菖蒲畑の手入れをしていたが、僕を見て――「和尚の話は退屈でしょう。よく耐えたねえ」――と声をかけられた。……そうして私は、初めて見る美事な多層のやぐら群や、住職が勝手に纏めてしまったり動かしたりした結果、史料価値が優位に下がったと噂される五輪塔群を一つ一つ眺めては、また一時間余りを過ごした。最後に寺の山門への坂の上で、和尚とさっきの御弟子が話しているのにぶつかった。聴こえてきたのは、先程の説法とは打って変わった……「テレビの撮影の予定は……」……「雑誌の取材の件じゃが……」……というひそひそ話であった。老師は、僕がまだいたのにちょっとびっくりして「まだおられたか。どうじゃった?」と聞かれ、僕が「やぐらとたいそう立派な菖蒲に感服致しました」と答えると、「そうかそうか」と微笑まれて私に合掌され会釈された――僕は生まれて初めて人に合掌と会釈を返し――山を降りた……それからすぐのことである……『鎌倉の隠れた花の寺』と称してまんだら堂の菖蒲や紫陽花が一躍ブレイク、老若男女の大集団があそこを日参するようになったのは……あそこで僕が見たのは……仙境と俗世の境の幻だったのかも知れない……今はもう……遠い遠い、懐かしい思い出である……
最後に。ただ注を再掲するのも芸がない。先日、教員を辞めて書斎の整理をするうちに、実はこの時、小山白哲老師が直筆で書いて下さった驚天動地の宇宙創造説を発見したので、それを画像と電子テクストで御紹介し、今は亡き老師を偲びたい(大きい巻紙なので、画像はずらしながら四枚で全文を示した。不遜乍ら誤字と思われるものは後に[]で正字を示させて頂いた。判読不能の字は□とした)。
[小山白哲老師 宇宙創造之説(肉筆)]
(表)
壞劫に爆発し空劫と
なる百七十二億八千万年の
生命がある 地球は成劫四月
八日に火球体化し成劫二十劫
年間は太陽が放出した
水輪が火球体の上空を雲
になって施[旋]回し成劫二十劫八十
六億四億千万年の最終に雲
爆裂的に地球に落下し
たその一せつ那に塩が発生
し水も空気も海も河も
ある地球が完生[成]
八十六億四千万年の生命がある
生物が住劫四月八日である海に
生物が住むこと八億六千四百
万年
(裏)
妙 法 蓮 華 経
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
□空輪 風輪 火輪 水輪 地輪 五輪
(ここに五輪塔の絵) 五大種
全宇宙と地球人体生物
悉を構成する
生物が住む国が
七十二桁ある
照す太陽も七十二桁
一つ一つの太陽系は
二百八十万億の諸星
がある 小山白哲
二[七]十八年七月八日
……老師よ、私が師の説法を受けたのは、七月八日のことだったのですね……あの時、二十一歳だった私は五十五になりましたが、……全宇宙に七十二桁という天文学的な数の知的生命体が生きているという老師の言葉に……私は素直に感動し、そんな愚な私をまた、気に入って下さった老師よ……また、どこかで……数十劫経ちましたなら、お逢いしとう、存じます。……
陰惡も又天誅不遁事
或駕舁辻駕に出歸り候砌、右駕の内に二三十金の金子財布にいれ有しを見出し二人にてわけとらんと言ひしが、乗りし人粗(ほぼ)所もしれたれば返し可申と相談して、壹人の棒組(ばうぐみ)我よく彼人の所をしれりとて、右金子を持て行きしが其夕暮棒組のもとへ來りて金子壹分とかあたへ、先方へ歸しければ悦び候て金貮分呉候間、半分分ケにせし由を言し故、棒組實事と思ひて不足なる禮なりと思ひながら其通りに過(すぎせ)しが、程なく彼者酒見世(さかみせ)出して、暫くは賑やかな暮しゝけるが天罰遁れざるや、棒組を欺きかへしゝ由にて不殘右金子を掠(かすめ)し程なれば、常々いかなる惡事もありけん、牛込加賀屋鋪原(はら)なりける頃、右道端に今は乞食をなして居たると、彼棒組のかたりしに、既に其乞食を見し人語りはべる。
□やぶちゃん注
○前項連関:陰徳陽報と真逆の陰悪天誅で直連関。話柄も駕籠搔きの登場で類似する。
・「二三十金」三十両ならば、現在に換算すると最低でも数百万円、駕籠搔きらの労賃基準なら恐らくは一千万円強に当たる。
・「粗(ほぼ)」は底本の編者ルビ。
・「二人にてわけとらんと言ひしが、乗りし人粗所もしれたれば返し可申と相談して、壹人の棒組我よく彼人の所をしれりとて、右金子を持て行きしが」訳では特定しなかったが、私はこの二人の台詞がどちらのものであるかが興味深い。悪事を働く動機と台詞の順列からは、
*
甲「二人にてわけとらん」
と言ひしが、
乙「乗りし人所もしれたれば返し可申」
と相談して、
甲「我よく彼人の所をしれり」
とて、右金子を持て行きし
*
となるが、これは如何にもつまらぬ。寧ろ、
*
甲「二人にてわけとらん」
と言ひしが、
乙「乗りし人所もしれたれば返し可申」
と相談して、
乙「我よく彼人の所をしれり」
とて、右金子を持て行きし
*
の方が話柄として生きる。則ち、この悪者は実は「山分けしよう」と言った甲ではなく、「返した方がいい」と如何にも分別ある諭しをする相方乙こそが悪者であったとするシークエンスの方が面白く、現実味もあるのである。
・「金貮分」一分金は一両の1/4だから、総額でも三万円から高く見積もっても八万円程度で、確かに拾った額からすれば不当に少ない。
・「牛込加賀屋鋪原なりける頃」これは、筆録時から更に本話柄の時間に立ち戻った状況解説で、底本の鈴木氏注と岩波版の長谷川氏の解説などを総合すると、現在の新宿区市谷(いちがや)加賀町で、現在の一・二丁目付近に江戸時代初期の加賀藩主前田光高夫人清泰院(水戸頼房息女、後に家光養女)の屋敷があったことからかく呼ばれた。夫人は明暦二(一六五六)年に死去、享保八(一七二三)年の火災で焼け落ちた以後は空き地となって「加賀原」とも呼ばれた。後には武家屋敷となったとあるが、さすれば本件は「加賀原」であった時代まで遡る。「卷之四」の下限は寛政八(一七九六)年夏までであるから、享保八年の間には七十三年の懸隔がある。残念ながら諸注は「後には武家屋敷となった」時期を記さない。しかし、本話が有意に過去に遡る事実であること、尚且つ、しかし「右道端に今は乞食をなして居たると、彼棒組のかたりしに、既に其乞食を見し人語りはべる」という末尾から、その乞食となった駕籠搔きを実見した人物が現に今も(若しくは最近まで)現存していた事実を示す。私が言いたいのは、この話はある(恐らくは数十年に及ぶ)有意な過去の事実譚として語られながら、その伝承者は生存しており、現在時に有機的に結びついた話柄として現在的都市伝説として機能しているという事実である。この最後のさりげない附言は、有意に古い噂話(本来、古い噂話はその古さにおいて致命的であるはずなのに)という属性を持ちながら、頗るリアルな印象を与えるように機能しているのである。
■やぶちゃん現代語訳
人知れず悪事を働くもまた天誅を逃れられぬという事
ある駕籠搔き二人、辻駕籠の客を送り終えて早仕舞いにして帰ろうとした。その時、駕籠搔きの一人がふと覗いた駕籠の中に、何と二、三十両もの金子を財布に入れたのを見つけた。
「……二人して……わ、わ、分けちまおうぜ……」
と言ったが、相方は、
「……いや、乗ったお人も屋敷の所在も、だいたいの見当は知れておる。……返した方がよかろう……」
と話合(お)うた。そこで返すことになったが、一人が、
「……幸い、儂は客人を降ろした辺りをよく知っとるから、儂が返してくるわ……」
と、かの金子を持って出かけて行ったが、夕暮れになって、相方のところへやって来て、金一分とやらを与え、
「先方へ返したところが、いや、ひどく悦んで御座っての、謝礼と言うて金二分くれたで、半分けにしょうな」
と言うたという。
片割れは、『……それにしても、あの大枚に……如何にもしょぼい礼じゃ、のぅ……』と思いつつも、相方の言うことを真に受けて、そのまま打ち過ぎて御座った。
……が……
程なくして、金を届けに行ったと言ったその相方は、急に駕籠搔き家業から足を洗うと、ちょとした呑屋なんどを開いて、如何にも派手に暮らして御座ったそうな。
……が……
……天罰は、これ、遁れられぬものなので御座ろう……相方をも欺き、返したと偽って大枚の金子を残らず掠め取って平気の平左という鉄面皮(おたんちん)なればこそ……常日頃より、どんなにか極悪の悪事をも働いて、平然と白を切っておったので御座ろう……
……かの男……
――この話、ほれ、あの牛込加賀屋敷辺りが、未だ空き地で御座った頃のことで御座る――
「奴(きゃつ)め、あの加賀原(かがっぱら)の道端で――乞食――しとるじゃ。」
と騙された元相方が語った、と――その頃、その話を彼から聞き、また実際に、その乞食となった男を見たという人が、私に語って御座った話である。
陰德陽報疑ひなき事
寬政七年夏の事なるが、靑山御先手組とか又御持組(おもちぐみ)とかの同心、御切米番(おきりまいばん)と唱へ、年番にて一組の御切米玉落(たまおち)に札差へ至りて、同心仲ケ間の御切米金を不殘受取歸りしに、遙々の道なれば歸り道に辻駕(つじかご)を借りて戾りけるが、組屋敷近く成て、駕にて歸らんも同心仲間の思はくを計りて、途中より下りて駕舁(かごかき)に別れしに、藏前にて請取りし金子、財布の儘駕の向ふへ置しが、駕に置忘れてければ驚きて早速立戾り右駕の者を尋けるが、いづちへ行けん行方もしれず。こわいかにせんと十方(とはう)に暮、身躰爰に極り死なんとせしが、まづ我宿に歸り、此譯人にかたらで死んも口惜き事と、仲ケ間の年古き者を招き、斯々の事に付死を決せし由語りければ、實(げに)もさる事ながら、まづ暫く命を全ふして右金子の行衞尋かたもあるべしと、當惑ながら死を止めて立歸りしに、翌日見知らざる侍案内を乞て對面を申入れしが、妻出て取込事ありて御目に懸り候事もいたし兼候段斷りければ彼侍のいへる、爰元の御亭主何ぞ取落されたる品は無之哉、氣遣ひ候筋には無之間對面いたし度旨申けるを、彼同心聞て早速立出で尋ければ、昨日途中より辻駕に乘りしに右駕の内に金子入とみへし財布あり。駕昇の所持とも思われざる故、密に右の内を改しに札差の仕切書付御名前も有之ゆへ持參せし由を語り、金子の高其外を尋問ひて、無相違由にて右金子を渡しければ、同心夫婦の悅び大かたならず。先(まづ)休み給へと色々引留しに、右金子返濟いたす上は我等もいか計(ばかり)悅ばしとて立歸る故、名前抔聞しかど答なくて歸りぬ。さるにても命の親ともいふべき人を唯に歸さん樣なし。然れども不言(いはざれ)ば詮方なしと、惣門の番をする男を賴み右侍の跡を附させけるに、和田倉内松平下總守屋敷へ入りぬ。依之(これによりて)右惣門の番人下總守門番に、只今御屋敷へ入りし人は御家中にて家名何と申人にやと尋ければ、下總守門番にては何か怪敷(あやしき)儀とも心得けるや、下郞の來りて名前を聞くは答へんも六ケ敷(むつかしき)とや思ひけん、不知(しらざる)由にて一向取合不申(まうさざる)故、詮方なくて右の下郞は歸りて右の同心にかたりしが、さるにても此儘捨置んも便なしとて、翌日彼同心自身(おのづ)と彼屋敷の門番所へ至り是非々々承度(うけたまはりたき)心にて、金子を落せし事幷拾ひ返して名を語らざる譯を荒增かたりて尋けれど、かゝる人心當りなき由門番人挨拶なれば、是又詮方なくて歸りしが、はるか兩三ケ月過て彼侍右の同心の元へ來りてければ、夫婦も殊の外に歡びて厚く禮を述ければ、彼侍の申しけるは我等も今日は禮に參りたる也、過し頃主人門へ兩度迄參りて我等事を尋給ふ事、幷に荒增(あらまし)咄(はなし)給ひし事を門番人より申立たる故、主人より段々尋(たづね)の上、外々の見及びの爲(ため)とて褒美有て加增を給り、前々四拾石の宛行(あてがひ)へ廿石とかの高增有之しゆへ、吹聽旁(かたがた)禮に參りたりといゝし儘、家名を切に尋問ひしがかたらずして歸りける由。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせないが、冒頭二つが『寬政七年卯六月下旬』の聞き書きで、それと話者が柳生で前項にも連関し、これが同じ「寛政七年夏の事」と時系列の連続性が認められる。
・「靑山御先手組」「御先手組」先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある(アラビア数字を漢数字に変換した)。当時、青山権太原(ごんたわら:現在の港区赤坂青山。)先手組組屋敷が多かった。
・「御持組」御持組は持筒組と持弓組に分かれ、戦時における将軍護衛の鉄砲隊と弓隊で、持筒組三組と持弓組二組で、各組には組頭一騎、与力が七騎、同心が五十五人配置された。平時は城内の西丸中仕切門(桜田門の内側の門)を警護した。
・「御切米番」「卷之一」等で既出であるが、再注しておくと、幕府の大多数の旗本・御家人は『蔵前取り』『切米取り』といって幕府の天領から収穫した米を浅草蔵前から春夏冬の年三回(二月・五月・十月)に分けて支給された。多くの場合、『蔵前取り』した米は札差という商人に手数料を支払って現金化していた。「御切米玉落に札差へ至り」とあるのは、この切米の支給を受ける旗本・御家人には支給期日が来ると『御切米請取手形』という札(ふだ)が支給され、その札を受け取り代行業者であった札差に届け出、札差は預かった札を書替役所に持参の上、そこで改めて交換札を受け取り、書替奉行の裏印を貰う。その後、札差が札旦那(切米取り)の札を八百俵単位に纏め、半紙四つ切に高・渡高(わたしだか)・石代金・札旦那名・札差屋号を記して丸めて玉にし、御蔵役所の通称『玉場』に持参した。この玉場には蓋のついた玉柄杓という曲げ物があって、役人は札差が持ち寄った玉を纏めて曲げ物の中に入れる。この曲げ物の蓋には玉が一つずつ出る穴があって、役人が柄杓を振ると、玉が落ちて出てくる仕組みになっていた。玉が落ちると、札差は玉(半紙)に書かれている名前の札旦那に代わって米や金を受け取る。そうして同時に札旦那に使いの者を走らせ、玉が落ちた旨を報知、知らせを受けた札旦那は、札差に出かけて現金化した金や現物の米を受け取るというシステムであった。そしてこの切米には組単位で支給される支給米があり、これを受け取り分配する者は組内で順番制を採っていて、それが「御切米番」であると思われる。
・「こわ」正しくは「こは」。
・「仕切書付」給与支給明細書。
・「和田倉内」外濠の最も内側にあった和田倉門。
・「松平下總守」伊勢桑名藩第四代藩主松平忠功(ただかつ 宝暦六(一七五六)年~文政十三(一八三〇)年)。
・「外々の見及び」家中の他の家士へ彼の陰徳を広く示すことをいうか。
・「宛行」禄を割り当てること。また、その禄や所領。
■やぶちゃん現代語訳
人知れず善行を積まば必ずや良き報いとなって現わるという事
寛政七年の夏のことである――が、青山御先手組だったか御持組だか、はっきりとは覚えておらぬが――その組の、さる同心が御切米番に当たって御座った。これは一年交代の――組内に支給される御切米の玉落ちを受けて、札差へ行って、組の同心連中全員の御切米金を残らず全部受け取って来る――役で御座った。
さて、その同心、仲間の御切米金を受け取って帰ったのだが――少しばかり遠方で御座ったがため――帰りには辻駕籠を雇って戻った――近くまで戻った――戻ったものの、さて、組屋敷に駕籠で乗り付けるというのは、何やらん妙に仰々しく、同心仲間に見られると何かと冷やかされるのではなかろうかと慮って――途中で降りて、駕籠搔きに別れた――が!――蔵前にて受け取って御座った金子を、財布の儘に駕籠の真向こう置いておいたのを――何としたことか、駕籠にそのまま置き忘れてしまったことに気づく――驚いて慌てて後戻り、駕籠搔きを探してみたものの、最早、何処(いずち)へ行ったものやら、行方知れずじゃ。
「……こ、これは……一体、どうしたら……」
と、この同心は途方に暮れて御座った――
『……進退……いや……この一つばかりの身体窮まれり……最早、死のう……』
と覚悟したものの、
『……取り敢えず……我が家へ帰り……そうじゃ、せめて、かくなった訳を人に懺悔せずに死ぬるも口惜しきことなれば……』
とて、組屋敷に戻って、仲間内でも年嵩の者を秘かに招くと、
「……という不甲斐なき次第につき……最早、死を決して……御座る……」
と語ったところが、
「……うう、む……げに尤もなる謂いではある……が、しかし……その……まずはじゃ……暫く命を永らえ全うしてじゃな……まあ、その、右金子の行方を探いてみるが……先決じゃろて……」
と諭され――万事休すの無為無策乍らも――その日は、自家へ立ち返った。――
ところがじゃ――翌日のこと、かの同心に見知らぬ侍が来訪して来て案内(あない)を乞うて対面を申し入れてきて御座った。妻が応対して、
「……その……只今、取り込みごとの御座いまして……お目にかかりかねますればこそ……どうか……」
と断ったところが――その侍が言う。
「……こちらの御亭主……何ぞとり落とされたる品は、これ、御座らぬかの……。ともかくも……お気遣いは御無用にて、まずは何としても御対面致したく存ずる――」
それを隣室に聞いた同心、恥も外聞もなく間髪入れず、飛び出して訪問の意を訊ねたところ、
「……昨日、帰宅の折りに辻駕籠に乗って御座ったが、その駕籠の中に、金子入と見えた財布、これ在り。どう見ても駕籠搔きの持ち物とも思われぬ故、こっそり中を改めたところが、札差の仕切書付に貴殿のお名前も御座ったればこそ、ここに持参致いた次第――」
とのこと。
その侍は同心に、金子の額や財布の形状やら中身なんどについて、幾つか尋ね問うた上で、
「うむ、間違い御座らぬ。」
と、かの金子入りの財布を懐から出して、同心に渡した。
同心夫婦の悦びようは、勿論、一通りのことでは、御座ない。
「……いや!……その!……ま、まずは……ごゆるりと、なされるがよい!……」
と、動転の中にも喜色満面で侍を引き留めたが、
「――いえ――右金子を無事にお返し致いた上は……拙者もいかばかりか悦ばしく存ずる――」
と言うが早いか、侍は問うに名さえ告げず、帰ってしまった。
「それにしても――命の恩人ともいうべきお人を、ただ帰すなんどということは――これ、あってはならぬこと……されど、お名乗りもなくば詮方のう……」
そこでかの同心、取り敢えず、すぐに出て組屋敷の門番をして御座った男に頼んで、かの侍の跡をつけさせたところ、侍は和田倉門内の松平下総守殿の屋敷へと入っていった。
そこでこの門番、かの下総守屋敷の門番に、
「只今、御屋敷へお入りになったお人は、御家中の、名を何とおっしゃるお方で御座いますか?」
と尋ねた。
ところが、下総守屋敷の門番は、かくも不躾なる相手の様子を怪しんで御座ったのか、はたまた、どこの馬の骨とも分からぬ下郎が、御家中の者の名を訊ねるに安易に答えては、何やらん面倒なことにもなるとでも思うたのか、
「知らぬ。」
と、一向、取り合わず、黙って御座った。
これにては詮方なくて、命ぜられた門番はそのままたち帰って、かの同心に、かくかくで御座った由、報告してその日は終わった。
「――それにしても――いや、このままにしておくわけにては――許されぬ――」
と翌日、かの同心は自ら、かの下総守屋敷の門番の詰所へ至り、是非に是非にと思いを込め、大枚の金子を落といたことや、それを届けて貰(もろ)うたに、どうしても名を乗っては下さらなかったことどもをあらまし説明致いて尋ねてみたものの、
「そのような人に心当たりは御座いませぬ。」
と門番は答えるばかり。これまた、致し方なく帰って御座った。
――ところが、それからかれこれ、三月ほど過ぎたある日のこと、かの恩人の侍が、同心の家にひょっこりやって来た。
同心の夫婦も殊の外喜んで、手厚く礼を述べたところが、かの侍の申すことに、
「――いや、拙者もお礼に参ったので御座る。過日、主家へ二度まで参られ、拙者のことをお尋ねになられたこと、ならびにこの度の一件のあらましを門番にお話になられたこと、このことにつき、門番より主人へ申し立てが御座っての。されば主人からも、その段につき、拙者に何度かのお尋ね、これあって――家中の外の者への模範とせんがためとて、褒美として加増を賜っての――前々よりの四十石の禄へ、その――二十石もの加増が、これ、御座った。故に、お知らせ方々、礼に参ったという次第で御座る。」
と言ったかと思うと――同心は当然、「お名前を! どうか!」と再び切望致いたので御座ったれど――またしても、名乗ることなく帰っていった、ということで御座る。
○今唱鎌倉中の村名[古へ町名に呼しも今は村名となり、地名の古き唱へは地の小名に殘れり]
雪ノ下村[小林郷山ノ内庄] 古へ鶴ケ岳の大別當所の邊より今の十二院の境内、夫より馬場小路、横小路邊までの地名にして、雪の下と稱せしか、中古以來は村名となれり。
堯惠法師【北國紀行】に、[文明十七年]彌生半ばになりぬ。東ノ常和に誘れて、扁舟に浦傳ひし又鎌倉に至り、建長、圓覺兩寺巡見して雪の下といふ所を見侍るに、門碑遺跡かづしらず。あはれなる老木の花、苔の庭に落で道を失ふかと見ゆ。
春深き跡あはれなり苔のうへの、花にのこれる雪の下道
[やぶちゃん注:「東ノ常和」東常和(とうのつねかず 康正二(一四五六)年~天文十三(一五四四)年)は武将・歌人。尭恵は当時、相模国三浦郡芦名(現・横須賀市芦名)にいた彼に古今伝授を行っている。]
浄妙寺村[小林郷] 元は大倉の内なれど、今は此邊を一村に稱して浄妙寺を村名に唱ふ。
二階壁村[小林郷] 爰も大倉の内にて、右大將家二階堂建立のころも、【東鑑】に大倉の二階堂と唱え、《二階堂寺》其後二階堂谷(ヤツ)と地の名に稱しけるか、其伽藍も廢したれと、古名を一村の名となせり。
[やぶちゃん注:編者の頭注の「二階堂寺」は「二階堂谷」の誤記であろう。永福寺をこうは呼称しない。]
十二社村[小林郷] 古えは大倉の地名なるを今は村名とすること、光觸寺の邊よりの地なり。土俗の誤りを傳へて、むかし此邊に家數十二所ありしゆへ、十二所村と唱へしといふ妄誕の説は取にたらず。此社は地の鎭神にて、既に鶴岡大別當の兼帶所なりし事は【社務職次第】に見へて、大倉の熊野堂と出たり。其比は大堂にて有し事しらる。今は衰廢し光觸寺の境内鎭守となりし小社なれど、謂れある社ゆへに後世に至りても村名に稱せり。他所にても熊野社のある地には必ず十二社(ソ)と唱ふる地名あり。時宗流の寺ある所には道場と稱する小名あるのたぐひなるべし。
西御門(ニシミカド)村[小林郷] 右大將家御所の西御門ありし舊跡ゆへ名附、東御門の在し所は是も東御門(ヒガシミカド)と唱ふ。
山ノ内村[小坂郷山ノ内庄] 巨福呂坂邊より巨福呂谷村迄の間をいふ。むかしは離山粟船村邊は勿論、吉田本郷邊迄も山ノ内なりし事ものに見へたり。今は圓覺寺總門外より西續き、巨福呂谷村を堺とする由。往古は此地に寺はなく、皆武家屋敷と村民なりしかど、今は悉く寺院内に入、上杉管領屋敷跡といふも寺地に屬す。村地とする所は僅なり。治承四年十月六日、右大將家は武藏路よ鎌倉へ着御し給ひ、同九日、大庭平太郎景能を奉行として山の内の知家事(チケジ)兼通が宅を移して、假の御亭に營作せらるゝとあり。又山ノ内を氏に稱するものは此地の産なり。建久三年三月廿日、後白河法皇の御追福の爲に、俊兼奉行し、山ノ内の地にして百ケ日の間浴室を施行せられ、往還の諸人並村民等浴すべき由、路頭に札を建られしとあり。其地今は知べからず。建仁二年十二月十九日、賴家卿山ノ内の荘へ鷹場御覧に出給ふとあり。仁治元年十月十九日、前武州[泰時]の沙汰として、山ノ内の路を造らる。この路頭嶮難にして往還の煩ひあるに依てなり。いまも道路狹く、南の方は山に接し、北の方の路傍、建長寺境内より流出る水路有て嶮隘なる道路なり。建暦三年和田亂の時、一味の山ノ内の人々廿人とあり。《北條氏の領所》其人々没收せられし地を同年に北條義時に賜ふとあれば、是より北條氏が領所と成けるゆへ、泰時に至て粟船村に常樂寺を基立し、又時賴は此地に別業を設け、建長寺、禪興寺を建立し、其子時宗圓覺寺を開基し、時賴の孫師時は浄智寺を創建し、又時宗が妻室の禪尼は松ケ岡の東慶寺を剏建せり。是所領の地なるゆへ數ケ寺院を造りし事なり。
[やぶちゃん注::「知家事」は鎌倉幕府の政所の職名。案主(あんじゅ・あんず:文書・記録等の作成保管に当たった職員。)とともに事務を分掌した。「剏建」は「そうけん」で、初めて建立する、創建に同じい。]
宗久が【都のつと】云、さてさがみの國かまくら山の内といふ所につきて、古えゆかりありし人をたづねしに、昔かたりになりぬと聞しかば、やうすみける所のさまなど見侍りて、いとゞ世のはかなさもおもひしられ侍りき。
みし人の苔の下なる跡とえば、空行月も猶かすむなり
[やぶちゃん注:「宗久」(そうきゅう 生没年未詳)は南北朝期の僧・歌人。俗名、大友頼資。豊後大友氏の一族か。応安四・建徳二(一三七一)年に九州探題となった今川貞世の使僧となった。「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」などに四首入集。その著「都のつと」は観応年間(一三五〇年~一三五二年)に彼が諸国を放浪した折りの紀行文。]
極樂寺村[小坂郷] 《常盤の里》此邊古名常盤の里とも唱へ、北條陸奥入道重時常盤に住し、康元二年の頃、極樂寺創建せしより極樂寺の名も起り、坂の名も極樂寺切通と唱ふ。建長より後の事なるゆへ【東鑑】に坂の名は見へず。
長谷村[小坂郷深澤庄] 《深澤》古へは此地深澤と唱え、大佛切通も深澤切通とも唱ふ。
坂下村[小坂郷] 極樂寺切通の坂下をいふ。
扇ケ谷村[小坂郷] 亀ケ谷の内なり。
小町村[小坂郷] 塔の辻の續き。
大町村[同上] 小町より續き両所ともに古くは町名なりし。
亂橋(ミダレハシ)村[小坂郷] 逆川邊より材木座へ續く石橋の名を村名に唱ふ。
材木座村[小坂郷] 亂橋より南の濱迄の地をいふ。昔の魚町も此地の内なり。御打入の後、鶴岳の宮殿並堂塔佛寺等迄御修營の砌、爰の海濱に諸國よりの筏木、其餘竹木を積置しより、材木座の唱へは始れるといふ。
○鎌倉中被定置町屋の名
[やぶちゃん注:標題は「鎌倉中、定め置かるる町屋の名」と訓読する。町屋は商店街のこと。]
【東鑑】云建長三年十二月三日、鎌倉在々所々町屋及賣買設之事、制禁を加ふべき由有御沙汰、今日彼所々を被定置、此外一向停止せらるべき旨、嚴密に被仰之處也、佐藤太夫判官基政、小野澤左近大夫入道光蓮等奉行す。
大倉辻・小町・大町・米町・和賀江・気和飛板山上
牛を小路に繫ぐべからず、小路を掃除致べき事云云。
其後又文永二年正月五日、小野澤左近大夫入道奉行して、鎌倉中町屋散在せしを止られ、七ケ所に町免所可定旨被仰出。
小町・大町・穀町・魚町・武藏大路下・須地賀江橋・大倉辻
以上七ケ所は治承四年十二月十二日、開巷の路を直くし、村里に號を授け給ひし頃よりの町名にして、左右に軒を双べ市肆繁榮せしも、今は村居となれり。
[やぶちゃん注:鎌倉幕府は、商業活動への社会的認識の未成熟と要塞都市としての軍事的保安理由から、建長三(一二五一)年、第五代執権北条時頼は御府内に於いては指定認可した小町屋だけが営業が出来るという商業地域限定制を採り、大町・小町・米町・亀ヶ谷の辻・和賀江(現在の材木座辺りか)・大倉の辻、気和飛坂(現・仮粧坂)山上以外での商業活動が禁止した。その後、文永二(一二六五)年にも再指定が行われて、認可地は大町・小町・魚町(いおまち)・穀町(米町)・武蔵大路下(仮粧坂若しくは亀ヶ谷坂の下周辺か)・須地賀江橋(現在の筋違橋)・大倉の辻とされている(なお、冒頭部分の「東鑑」には、底本では書名引用を示す括弧がないので補った)。以下、植田が引用している「吾妻鏡」の該当箇所を掲げて、訓読しておく。
まず、建長三(一二五一)年十二月大の、
三日戊午。鎌倉中在々處々。小町屋及賣買設之事。可加制禁之由。日來有其沙汰。今日被置彼所々。此外一向可被停止之旨。嚴密觸之被仰之處也。佐渡大夫判官基政。小野澤左近大夫入道光蓮等奉行之云云。
鎌倉中小町屋之事被定置處々
大町 小町 米町 龜谷辻 和賀江
大倉辻 氣和飛坂山上
不可繫牛於小路事
小路可致掃除事
建長三年十二月三日
○やぶちゃんの書き下し文
三日戊午。鎌倉中の在々處々の小町屋(こまちや)及び賣買の設(まう)けの事、制禁を加うふべきの由、日來其の沙汰有り。今日、彼の所々に置かる。此の外は一向に停止(ちやうじ)せるべきの旨、嚴密に之を觸れ仰せらるるの處なり。
佐渡大夫判官基政・小野澤左近大夫入道光蓮等之を奉行すと云云。
鎌倉中小町屋之事定め置かるる處々。
大町 小町 米町 龜谷(かめがやつ)の辻 和賀江
大倉の辻 氣和飛坂(けわひさか)山上
牛を小路に繋ぐべからざる事。
小路を掃除致すべき事。
建長三年十二月三日
次に文永二(一二六五)年三月大の再指定の記事。
五日甲戌。鎌倉中被止散在町屋等被免九ケ所。又堀上家前大路造屋同被停止之。且可相觸保々之旨。今日。所被仰付于地奉行人等小野澤左近大夫入道也。
町御免所之事
一所 大町 一所 小町 一所 魚町 一所 穀町 一所 武藏大路下
一所 須地賀江橋 一所 大倉辻
○やぶちゃんの書き下し文
五日甲戌。鎌倉中に散在を止めらる町屋等、九ケ所を免(ゆる)さる。又、家前の大路を堀り上げて屋を造ること、同じく之を停止せらる。且つは保々に相ひ觸るべきの旨、今日、所被仰付于地奉行人小野澤左近大夫入道也。
町の御免所の事。
一所 大町 一所 小町 一所 魚町 一所 穀町 一所 武藏大路下
一所 須地賀江橋 一所 大倉辻
「九ケ所」とあるが七ヶ所しかないが、単に「七」の誤字かも知れず、建長三年の「龜谷辻」及び「氣和飛坂山上」をはずした理由も不分明であるから、たまたまこの二箇所を書き損じたものかも知れない。
「治承四年十二月十二日、開巷の路を直くし、村里に號を授け」の部分は、治承四(一一八〇)年十二月小十二日の記事であるが、これは頼朝の新造住居への移徙(わたまし)の儀とそれに付随する鎌倉への御家人の移入居宅の造営を記す最後の、僻村であった鎌倉の大きな変容を語った部分であるから、該当箇所のみを示しておく。
閭巷直路。村里授號。加之家屋並甍。門扉輾軒云々。
○やぶちゃんの書き下し文
閭巷(りよかう)、路を直(すぐ)し、村里に號(な)を授く。之加(しかのみならず)、家屋、甍を並べ、門扉、軒を輾(きし)ると云々。]
小町 若宮小路より東大倉辻の南に續き、夷堂橋迄を小町といふ。《將軍家御所並北條氏邸址》往昔將軍家御所並北條氏の第の在し邊なり。
大町 小町より南に續き、夷堂橋より逆川橋迄をいふ。
[やぶちゃん注:「逆川橋」は「さかさがはばし」と読む。]
穀町[米町同所] 大町の四辻より、西は琵琶橋へ達する横町をいふ。此邊は建曆三年五月六日和田亂の時、足利義氏町の大路にて陣を張とあり。又米町辻、大町の大路にて所々合戦とあるは此邊なり。
[やぶちゃん注:これは「吾妻鏡」の建暦三(一二一三)年五月小二日の和田合戦の記事中に「又於米町辻大町大路等之切處合戰。足利三郎義氏。筑後六郎知尚。波多野中務次郎經朝。潮田三郎實季等乘勝攻凶徒矣。」(又、米町の辻、大町大路等の切處(せつしよ)に於て合戰す。足利三郎義氏、筑後六郎知尚、波多野中務次郎經朝、潮田(うしほだ)三郎實季等、勝つに乘じて凶徒を攻む。)の箇所を言うか。「切處」は戦闘時の要所の謂いであるらしい。]
魚町 今材木座の邊、漁者の住居なれば此邊の事なるべし。
[やぶちゃん注:幕末には既にこの魚町の位置同定は実は困難であったことが、この植田の書き方から分かる。]
武藏大路の下 山の内を行過て圓覺寺總門前より西の方、山の内堺にして、市場臺と巨福谷村の邊をいふ。《町免許の地》古へ町免除の地ゆへ、《市場》爰に賣買の市を立つる所なれば、今に土人市場と唱えしより、或は市場村とも稱すれど、本名は臺村と號す。依て又は市場臺村とも唱へ來れり。
[やぶちゃん注:現在の大船に台の地名として残る。「町免除」とは江戸時代の制度から推測すると、新たな商業地域を指定し、そこへ入植した者には土地を与えて商業住持の義務を与える代わりに、通常の町に課せられた租税・諸役を免除したことを言うか。]
須地賀江橋 大倉の筋違橋の事なり。
[やぶちゃん注:「筋違橋」と書いても「すじかへばし(すじかいばし)」と訓ずる。]
大倉辻 或は塔の辻とも唱へ、大倉と小町の堺の地なり。此邊には將軍家の御所並執權北條氏の館もあり。又武家の第もあり。町屋も入交れり。應永廿二年十月、上杉右衛門佐氏憲入道禪秀が謀坂の時、塔の辻は敵篝を燒て警固しけるとあるも此所なり。
[やぶちゃん注:「應永廿二年」は西暦一四一六年。これは「鎌倉大草紙」に基づき、禪秀挙兵の翌日、十月三日の記事中にある。]
昨日、国立劇場文楽公演「八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)」と「契情倭荘子(けいせいやまとぞうし)」を観た。
前者は国立劇場では実に三十二年振りの上演、更に公演二日目ということもあってか、いろいろ気になるところはあった。前半、人形遣の動きが全体に鈍く、太夫の台詞を誰が喋っているのかが伝わり難かったり、最も大力の力(りき)みの合わせが大事な漁師灘右衛門(実は軍師児島政次=後藤又兵衛)の左手が主遣いとうまく合わなかったり、果てはエンディングの壮大な書割の城壁が傾いでしまい、あわや「落城」しかけたりというトンデモ・ハプニングがあったりもしたが、しかし、いつもながらの玉女の正清(=加藤清正)の重厚にして堅実で禁欲的な遣い、「浪花入江の段」の、『すわ! こりゃ、タイタニックか?』と思わせる大船の大回転――而して何より、前段最後の悪漢北条時政(=徳川家康)の絶対悪の生理的不快感を象徴する哄笑を受けて、毒を盛られたことを知って衝撃を受けながらも、それをぐっと含んで舟唄を所望、船首に立って正清が美事に時政に対峙する絶対善の倍音の哄笑で応ずるのが、作品の大きな情感の額縁となって圧巻であった。また本作(というより本公演のような四段目と八段目のカップリングという上演方法)は、正清の嫡男主計之介(かずえのすけ)と雛絹(ひなぎぬ)の清廉にして悲恋の物語であり、一度としてひしと抱き合うこともなく、愛し合いながら別れわかれとなり、悲嘆に暮れて雛絹は喉を突きながら、正清が掲げた「南無妙法蓮華経」の御旗の下に二人の名が記されているのを見るや、潔く成仏して死出の旅路を辿るという、その悲しくも美しい姿に収斂される。最後の天主閣の正清は、その悲愴な死を予感させながら、不思議に爽やかな大団円を感じさせるのは、実は正清が見上げる登場人物と観客とが一体となって崇めるところの――武神加藤清正=武辺物のデウス・エクス・マキナに他ならないからである――と僕には思えたのである。
美しくエロティックな「契情倭荘子」は、エントロピーが極限値まで跳ね上がる奇体な物狂おしい、そして若い人形遣にしか出来ない不思議なホラー舞踏と映った。何より助国の「源太」の頭が、ここでは妙にぽてぽてしてマジ、キモ可愛いのである。
蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事
營中にて同寮の語りけるは、狐狸の怪は昔より今に至りて聞も見るも多し。ひきも怪をなすもの也。厩に住めば其馬心気衰へ終に枯骨となり、人間も床下に蟇住て其家の人うつうつと衰へ煩ふ事ありし。ある古き家に住る人、何となく煩ひて氣血衰へしに、或日雀など椽(えん)ばなに來りしに、何の事もなく椽下へ飛入て行衞不知。或は猫鼬の類椽際に居しを、椽下へわれと引入るゝ樣に入て行衞知れず。かゝる事度々ありし故、あるじ不思議に思ひ、床を離し椽下へ人を入搜しけるに、大きなる蟇窪める所に住み居たりしが、毛髮枯骨の類夥敷傍に有りし故、全ひきの仕業也と、彼ものを打殺し捨て床下を掃除なしければ、彼病人も日にまし癒へけると也。餘壯年の時、西久保の牧野方へまかりて、黄昏の時庭面を詠め居しに、春の事なるが、通例より大き成毛虫石の上を這ひ居たりしに、椽の下より蟇出て、右毛蟲よりは三尺餘も隔てし場所へ這來り、暫くありて口を明くと見へしが、三尺程先の毛虫を吸ひ引と見へて、右毛虫は蟇の口の内へ入りける。されば年經し蟇の、人氣を吸んも空言とは思はれず。又柳生氏の語りしは、上野寺院の庭にて蟇、鼬をとりし事あり。是も氣を吹かけしに鼬倒れて死せしを、土をかけて其上に蟇の登り居しゆへ、翌日右土を掘りて見しに鼬の形はとけ失しと右寺院の語りし由、咄しけるとなり。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]
但、蟇の足手の指、前へ向たるは通例也。女の禮をなす如く指先をうしろへ向ける蟇は、必怪をなすと老人語りし由、坂部能州ものがたりなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項との連関より、寧ろ、巻頭三つの虫類・鳥類関連の奇法のエピソードと蟇の持つ超常能力の連関が認められ、注でも示した通り、その中の「耳中へ蚿入りし奇法の事」の話者である柳生主膳正が再登場して強い人的連関もある。
・「蝦蟇」は「ひき」と読む。一般にはこの語は大きな蛙を全般に指す語であるが、その実態はやはり、両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエルBufo japonicus と考えてよいと思われる。ヒキガエルは洋の東西を問わず、怪をなすものとして認識されているが(キリスト教ではしばしば悪魔や魔女の化身として現れる)、これは多分にヒキガエル科Bufonidaeの多くが持つ有毒物質が誇張拡大したものと考えてよい(本話柄もその典型例と考えられる)。知られるように、彼等は後頭部にある耳腺(ここから分泌する際には激しい噴出を示す場合があり、これが例えば本話の「三尺程先の」対象を「吸ひ引」くと言ったような口から怪しい「白い」気を吐く妖蟇のイメージと結びついたと私は推測している)及び背面部に散在する疣から牛乳様の粘液を分泌するが、これは強心ステロイドであるブフォトキシンなどの複数の成分や発痛作用を持つセロトニン様の神経伝達物質等を含み(漢方では本成分の強心作用があるため、漢方では耳腺から採取したこれを乾燥したものを「蟾酥(せんそ)」と呼んで生薬とする)、ブフォトキシンの主成分であるアミン系のブフォニンは粘膜から吸収されて神経系に作用し幻覚症状を起こし(これも蝦蟇の伝説の有力な原因であろう)、ステロイド系のブフォタリンは強い心機能亢進を起こす。誤って人が口経摂取した場合は口腔内の激痛・嘔吐・下痢・腹痛・頻拍に襲われ、犬などの小動物等では心臓麻痺を起して死亡する。眼に入った場合は、処置が遅れると失明の危険性もある。こうした複数の要素が「マガマガ」しい「ガマ」の妖異を生み出す元となったように思われるのである。因みに、筑波のガマの油売りで知られる「四六のガマ」は、前足が四本指で後足が六本指のニホンヒキガエルで、ここにあるような超常能力を持ったものとしてよく引き合いに出されるが、これは奇形種ではない。ニホンヒキガエルは前足後足ともに普通に五本指であるが、前足の第一指(親指)が痕跡的な骨だけで見た目が四本に見え、後足では、逆に第一指の近くに内部に骨を持った瘤(実際に番外指と呼ばれる)が六本指に見えることに由来する。
・「同寮」底本「寮」の右に『(僚)』と傍注。
・「われと」「自と」で、自ずと、の意。
・「西久保」麻布の台地と愛宕山に挟まれた低地の呼称。現在の港区虎ノ門一帯。現在でも港区の一部の地名に残る。
・「牧野」老中を務めた寛政の遺老の一人、牧野備前守忠精(ただきよ 宝暦十(一七六〇)年~天保二(一八三一)年)。越後長岡藩第九代藩主。但し、岩波版の長谷川氏注に、『ただし備前守中屋敷は愛宕山東の愛宕下』で微妙に地域がずれることを指摘する。
・「柳生氏」先行する「耳中へ蚿入りし奇法の事」の情報提供者である旗本柳生久通。
・「女の禮をなす如く指先をうしろへ向ける」古式では座位で手をついて礼をする際、女性は指先を内側へ向けて指の背をついた。
・「坂部能州」坂部広高。底本鈴木氏注に天明三(一七八三)年に四十二歳で『養父広保の遺跡を継ぐ。八年御目付』、寛政四(一七九二)年に『大坂町奉行、従五位下能登守』となる。寛政七(一七九五)年に南町奉行となり、同八年には西丸御留守居とある。
■やぶちゃん現代語訳
蟇の怪の事 附 怪をなす蟇は別種である事
城中で同僚から聞いた話。
「狐狸の怪については昔より今に至るまで、実際に見聞きする話柄も多い。しかし、蟇(ひき)も怪をなすのである。蟇が厩舎に巣くうと……そこの馬、徐々に心気馬力が衰えて参って、遂には骨と皮となり……人の場合も屋敷の床下に蟇が巣くうと……そこに住まう人も、これ……徐々に鬱々と致いて病みつき、重く患ふこと、これ、あり。
例えば、こんな話がある。
さる古き屋敷に住める家人が、これといった理由もなく煩いついて、見るからに気色血色ともに激しく衰えていったと。ある日のこと、屋の主(あるじ)が、雀なんどの縁側の近くに飛び来たっているのを、何とのう見ておった……と……何やらん、雀が縁の下へ引き込まれるように飛び入って、そのまま出て来ずになった。そこで、暫く、よう見ておったところが……猫や鼬の類いも縁近くに居ったと思いしが……縁の下へと……ふらふらと自然と、何かに引かれるように入いっていっては……そのまま行方知れずと、相いなる……
かくなることが余りに続いたが故、主(あるじ)は不思議に思うて、人を呼び、床を剥がし、縁の下へ人を入れて捜させた……ところが……床下の底の、ぐっと窪んだ地面の真ん中に……これ、大きなる蟇が……蹲っておった……そうしてその、蟇の周りには……何やらん……獣の毛や髪の毛やら……ばらばらになった、何ぞの骨やら皮やらの類いが……これ、ほんに夥しくあったが故……今までの不思議は皆、この蟇が仕業であったと、即座に蟇を叩き殺して捨て、床下を清掃致いた。すると、かの病人も日に日に癒えたということである。」
さて、私も、壮年の時分、西久保にある牧野備前守忠精殿の屋敷を訪ねた折りのことである。黄昏時で、丁度、御屋敷の前庭を眺めて御座った――そうさ、春の日のことで御座る――ふと見ると、普通よりも大分大きなる毛虫が一匹、庭石の上を這って御座ったが、そこへ縁の下から一匹の蟇が這い出て御座ったのを見た……蟇は……そう、毛虫よりは三尺ほども離れた場所に這ってきては……そこに、凝っと……毛虫の方を向いたままに、止(とど)まって御座った……そうして……暫くすると……蟇の奴は……ぱっくり口を開いた……かと見えたが……ふと見れば……三尺ほども先の、かの毛虫を……見に見えぬ糸でもあるかの如く……吸い引くと見えて……ゆっくり……ゆっくり……かの毛虫は……遂には――すっと――蟇の口の中へと、入ってしもうた。……
かくなる私の体験からしても――年経た蟇は人の生気を吸う――というも、強ち、空言とは思われない。
また、先の柳生主膳正(かみ)久通殿の語られたことには――
――上野のさる寺院の庭にて、蟇が鼬を捕えたことがあった。その際も、蟇は鼬に触れず、専ら口から、その妖なる気を吹きかけておったが、突如、離れたところにおった鼬は昏倒、即死の体(てい)にて、さらに見ておると蟇はその鼬の遺骸に土をかけて土饅頭の如くにし、その上にやおら這い上って凝っとしておったと。翌日、見ると、既に蟇はおらず、土饅頭を掘ってみたところが、鼬の遺骸はすっかり溶け失せておったと、かの寺の者が語って御座った、と――。
[根岸附記:「但し、『蟇の後ろ足の指が前を向いているものは、普通の蟇であって妖気を操るような蟇ではない。女が正しく三つ指ついて礼をするように、後ろ足の指が皆、後ろを向いておるものは、これ、必ず怪をなす。』と古老が語った。」という話を、坂部能州広高殿が語って御座った。]
2005年7月5日のブログ開始より、この記事で4000となる。
本日より作業を始動した「鎌倉攬勝考卷之一」の電子テクスト化の「鎌倉總説」の部分を先程完成したので、それを記念してブログでプレ公開する。冒頭注も附した。
言っておくが、僕の作業はそれなりに真剣だ。以下のテクストだけで今日半日を費やした――僕は誰が何と言おうと暇じゃ、ない――これが僕の今の「野人の生態」なのである――
*
鎌倉攬勝考卷之一
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考」は幕末の文政十二(一八二九)年に植田孟縉(うえだもうしん)によって編せられた鎌倉地誌である。全十一巻(本篇九巻と附録二巻)。植田孟縉(宝暦七(一七五八)年~天保十四(一八四四)年)は本名植田十兵衛元紳、八王子千人同心組頭、本書序文には八王子戍兵学校校長ともある。「新編武蔵風土記稿」「新編相模国風土記稿」地誌編纂作業に深く関わった知見を生かして文政六(一八二三)年には多摩郡を中心とする「武蔵名勝図会」を著して昌平黌の林述斎に献上している。全体に「新編鎌倉志」(リンク先は私の電子テクストの「卷之一」)を意識しながら、その補完を常に意図しており、その文章の読み易さからも優れた鎌倉案内記と言える。特に個々のやぐらの絵なども描かれており、今は失われた往古の形状を偲ばせるよすがとなっている。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。底本では各項目の解説部分が一字下げになっているが、ブラウザでの不具合を考え、多くを無視した。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入、キャプションは私が施した。底本では殆んど行空けはないが、読み易さを考え、各項目の前後に空行を設けた。画中の本文に現われない解説も極力判読して、注でテクスト化する。句読点(特に句点)の脱落や誤りと思われる部分がしばしば見られるが、前後から私が補ったり、変更したりしてある。歴史的仮名遣の誤りも散見されるが、これはママとし、注記は附していない。踊り字「〱」等は正字に直した。疑義のある方はメールを戴ければ、確認の上、私のタイプ・ミスの場合は御連絡申し上げて訂正させて頂く。判読不明の字は「■」で示した。お分かりになる方は、是非とも御教授を乞うものである。各項目の後に私のオリジナルな注を施した。「卷九」以降(降順)の注で引用してある「吾妻鏡」は国史大系本を底本とした。既に逆順編集で第六巻から第十一巻までの電子テクスト化を終了しているが、今回の私、藪野直史の野人化を迎えて、テクスト化の順を正規に第一巻からに変更、補注も普通に行うこととした。今回より若い読者の便を考え、濁点を適宜補った。]
鎌倉攬勝考卷之一
植田孟縉君憂編輯
[やぶちゃん注:この「憂」は「力を尽くして苦労して」の意で、出版元の献辞であろう。なお、以下の「鎌倉總説」は非常に長く、最後に語注を附しても該当箇所から大きく隔たるため、適宜、途中に挿入し、読み易くするために注の前後を改行してある。]
鎌倉總説
夫鎌倉は相模國鎌倉郡の南寄にて、海岸の限に接せり。東海道戸塚驛より相距こと二里半許、又藤澤驛より巽に當り行程凡二里許、《地名傳説》【和名抄】に載る郡中七ケ所の郷名の内に、鎌倉を訓して加萬久良と証せり。又【字類抄】には鎌藏と出たり。郡名もまた郷名より起れる歟。偖里老の古くいひ傳ふる鎌倉といえる地名の濫觴は、昔大織冠鎌足公のいまだ鎌子と稱せし時、宿願有て鹿島もふでし給ふ。折ふし靈夢の感得に仍て、年ごろもたらせし鎌を爰の小林郷松ケ岡え塡め給しとなん。是より鎌倉の名顯れりといふ。此説は【詞林採葉抄】に載る處にて、鎌倉の二字の訓譯は【鎌倉志】に委敷出たれば玆に略す。又鎌足公の玄孫なる染屋太郎大夫時忠といふは、文武の御朝より聖武の御朝の神龜年中になる迄鎌倉に住し、東八ケ國の總追捕使にて東夷を鎭めたりといひ、又此人は良辨僧正父なりといふ。されども【元亨釋書】等には載ず、同書に良辨は百済姓と見へたり。又時忠といふは【續紀】其餘の國史に見へ侍らず、唯土人等が口碑に傳ふるのみ。按ずるに【採葉抄】は藤澤山の沙門由阿といえるが貞治の頃にかきたるものなれば、今よりは昔なれど、大化白雉の上古に此すれば貞治のせは遙に後世とやいふべけれ。何れのものに出たる、其引書も見えず。文武の御朝の頃、鎌足公の玄孫染屋太郎大夫時忠といふは系圖にも載せず、其頃名乘し姓名にもあらず、總追捕使などいふ官名も上古はなくて、右大將家を初とする歟。
[やぶちゃん注:「詞林採葉抄」は「詞林采葉抄」が正しく、南北朝時代の僧、釈由阿(ゆうあ)が貞治年間(一三六二年~一三六七年)に著したとされる「万葉集」注釈書。彼の居た「藤澤山」とは藤沢山清浄光寺、遊行寺のことである。]
偖其後上總介平直方も鎌倉に家居したる由を傳ふれど、直方、時方が舊跡の傳へも聞ず。源賴義朝臣はじめ相模守に任じ給ひ、當國大住郡國府の廳に下向せられし時に、直方の女を迎ひ給ひて義家朝臣などを儲給ふ。其のち右大將家いまだ伊豆の北條に謫居の頃より、直方が五代の孫時政婿に成給ひ、鎌倉に覇業を興し給ふ。最初に先組賴義朝臣勧請し給ひし若宮の舊社を再營有て、松ケ岳に宮廟を構へ給ふ。是祖宗を崇んが爲なりと云云。是もまた宿緣の報應、不思議の事にぞありける。【海道記】にいふ、[源光行が記ともいひ、又は加茂の長明が記なりともいふ。]鎌倉相模國は下界の鹿混苑、天朝の築垣州なり。武将の林をなす。萬榮の花萬にひらけ、勇士道にさかへたり、百歩の矢百たひあたり。弓は曉月に似たり、一張そはたちて胸をたをし、劒は秋の霜の如し、三尺たれて腰すさまし、勝鬪の一陣には爪を楯にして讎を雌伏し、猛豪手にしたかえて直に雄構す。干戈威をいつく敷して梟鳥あえてかけらす。誅戮にきひしくて虎をそれをなし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすまさり、貴賤臣妾の往還するおほく、むまやのみち隣をしめ、朝儀國務の理亂は萬緒の機かたかたに織なせる。[下略]
[やぶちゃん注:以上の引用は「海道記」(作者不詳。鴨長明説は全否定されている)の「序」からであるが、表記に多くの問題があるため、ここに限っては濁点などを打たず、底本のままに表記してある。
「鹿混苑」は多重ミスが重なっている。則ち「鹿混苑」は恐らく底本の誤植による「鹿澁苑」の誤りで、更に「海道記」原本の「鹿澁苑」は「麁澁苑」の誤りなのである。「麁澁苑」は「そじふをん(そじゅうおん)」と読み、仏説で帝釈天界にある四つの苑の一つで、仏法守護のための武備で充満している苑のことを言う。
「天朝の築垣州」も多重ミスが重なっている。これも恐らく底本の「築塩州」の誤植であり、更に「海道記」原本の「築鹽州」はただの「鹽州」とすべき誤りなのである。「鹽州」は白居易の詩「城鹽州」(鹽州に城す)の中に『自築鹽州十餘載』(鹽州に築くより十餘載)とあるのを誤って引用したものである。「天朝」は本邦で、白居易の詩の鹽州を鎌倉に擬え、更に詩と同じく鎌倉に強固なる武家の砦を築いて本邦の国防を図ったことを讃えているのである。
「萬榮の花萬にひらけ」の「後半は「花よろづにひらけ」と訓ずる。
「百歩の矢百たひあたり」私が参照している朝日新聞社昭和二十六(一九五一)年刊の日本古典全書版玉井耕助校注「海道記」では(本引用との異同が激しいので版本は異なるようであるが)、「百歩の柳ももたびあたる」とあり、頭注で「史記」に楚の養由基が百歩を隔てた柳の葉を射たことから、『鎌倉には弓の名人が多いこと』を謂うとある。
「一張そはたちて胸をたをし」日本古典全書版「海道記」では、「一張そばだちて胸を照し」とあり、「和漢朗詠集」等に基づく、『弓を胸の前に執りすゑた姿』とあるが、「たをし」「てらし」何れも私にはしっくりこない。
「三尺たれて腰すさまし」日本古典全書版「海道記」では、「三尺たれて腰すずし」。
「勝鬪の一陣には爪を楯にして讎を雌伏し」日本古典全書版「海道記」では、「勝鬪(しようとう)の一陣には爪を楯にして寇(あだ)をここに伏す」とし、頭注に『決死の接戦をするの意であろう』と解釈しておられる。
「猛豪手にしたかえて直に雄構す」日本古典全書版「海道記」では、「猛豪の三兵にしたがえて互に雄稱す」とし、頭注に「三兵」を『三種の兵器、弓・剱・槍。またそれを手にする兵卒』と注す。「雄稱」は名乗りであろう。これも底本の誤植が疑われる。
「干戈威をいつく敷して梟鳥あえてかけらす」日本古典全書版「海道記」では、「干戈、威、いつくしくして梟鳥(けうてう)敢えてかけらず」とある。その幕府の武の威力は、厳めしくして、猛禽も一向に羽ばたかぬ――反抗しようとする手強い賊衆どもも敢えて逆らおうとはしない、という意である。
「誅戮にきひしくて虎をそれをなし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすまさり、貴賤臣妾の往還するおほく、むまやのみち隣をしめ、朝儀國務の理亂は萬緒の機かたかたに織なせる」ここは日本古典全書版「海道記」では大きく異なるので、以下に改行して同箇所を示しておく。
誅戮、罪、きびしくして虎狼ながく絶えたり。この故に、一町の春の梢は東風にあふがれて惠をまし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすませり。貴賤臣妾の往還する多くの驛(うまや)の道、隣をしめ、朝儀國務の理亂は、萬緒の機、かたかたに織なす。
「一町の春の梢は東風にあふがれて惠をまし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすませり。」の部分は頭注で『一國の民は鎌倉の恩惠を受けて榮え、天下の萬民は鎌倉の恩惠に照らされて平和ににくらす。』と比喩を戻して通釈されている。「臣妾」は男女、「隣をしめ」は、往還の街道に宿場が絶え間なく続いていることをいい街道筋の、ひいては民の繁栄を象徴する。「朝儀」は、玉井氏の頭注によれば、本来は朝廷を指すが、ここでは実権を握っている幕府に転用して用いられており、以下の「朝儀國務の理亂は、萬緒の機、かたかたに織なす」は『幕府が亂を理(ヲサ)める國務は、萬端の諸政を、よくあやつつてゐる。』と訳されている。なお、次の「【東關紀行】云、……」以下の引用は「東関紀行」ではなく、同じく「海道記」の鎌倉遊覧からの引用の間違いであるので注意されたい。以下も表記に多くの問題があるため、濁点などを打たず、底本のままに表記してある。]
【東關紀行】云、[源親行が記]此ところの景趣はうみあり、山あり、水木たよりあり、廣きにもあらす。狹きにもあらす、街衢のちまたかたかたに通せり。實に此聚おなじ邑をなす、郷里都を論じて望みまつめつらしく、豪をえらひ賢をえらふ、門郭しきみをならへて地また賑えり。をりをり将軍の安居を垣間見れは、花堂高く押ひらひて翠簾の色喜氣をふくみ、朱欄妙にかまえて玉砌の石すへ光をみかく。春にあえる鶯の聲は好客堂上の花にあさけり、あしたを迎る龍蹄は參會門前の市に嘶ゆ。論ぜす本より春日山より出たれは貴光たかく照して、萬人みな膽仰して風塵をはらふ、威驗遠く誡て四方悉く聞におそると云云。
[やぶちゃん注:前注末尾に示した通り、これは「東關紀行」ではなく、「海道記」からの引用の錯誤。なお、「東関紀行」の作者源親行説は現在では否定され、作者未詳である。
「水木たよりあり」前の「うみあり、山あり」を受けて「水の趣き、木の風情」と受けたもの。
「街衢のちまたかたかたに通せり」「街衢」は「がいく」と読み、街。市街地の通路は縦横に通じている、の意。
「實に此聚おなじ邑をなす」日本古典全書版「海道記」では、「げにこれ聚をなし邑をなす」。「聚」も「邑」も人の集まり住む場所の謂い。
「郷里都を論じて望みまつめつらしく」この鎌倉の里の縦横無尽な街路とそこここに蝟集する街の様子は、京の都の整然とした条里制に比して、まずは珍しく観察された、の謂い。
「門郭」の「郭」は底本では(つちへん)が附くが、ユニ・コードで表記出来ないので、「海道記」の表記を用いた。
「しきみ」は「閾」で内外の境として門や戸口などの下に敷く横木を指す。敷居。戸閾(とじきみ)。
「玉砌」は「ぎよくせい(ぎょくせい)」と読み、原義は建物の入口にある玉で造ったような立派な石の階段であるが、転じて立派な建物や御殿の意。
「好客堂上の花にあさけり」日本古典全書版「海道記」では、「好客、堂上の花にさへづり」。一見すると、古典全書版が正しく、これが誤りのように見えが、「嘲る」という古語には「風月に心ひかれて声を上げて詩歌を吟ずる」という意があり、これだと鶯を擬人化して意を通ずる。
「あしたを迎る龍蹄は參會門前の市に嘶ゆ」「嘶ゆ」は「いばゆ」と読み、朝を迎え、幕府に出仕する幕臣の騎乗する駿馬は、その門前に集まってきて、力強く嘶いている、の意。
「論ぜす本より春日山より出たれは貴光たかく照して、萬人みな膽仰して」日本古典全書版「海道記」では、「論ぜす、もとより春日山より出たれば貴光高く照して、萬人みな膽仰(きんかう)す。」である。頭注で『今の將軍は藤原賴經(今年貞應二年には六歳)春日山は藤氏の祖先を祭る春日神社。春日の神德によつて萬人が將軍をあがめてゐることは言ふまでもない。』と訳す。「貞應二年」は西暦一二二三年で、この時、後の鎌倉幕府四代将軍頼経は未だ三寅(みとら)と称し、数え六歳であった。彼は二年後の嘉禄元(一二二五)年に元服、頼経と名乗り、正式な将軍宣下は、更に翌嘉禄二(一二二六)年のことであった。]
《四至地形》上世此地の界限は知べからず。
[やぶちゃん注:「界限」境界。]
【東鑑】に、四至とは東は六浦、南は小坪、西は描村、北は山ノ内と云云。
[やぶちゃん注:「四至」は四方の境界。以上の引用は「吾妻鏡」の元仁元(一二二四)年十二月小の以下の記事に基づく。
廿六日戊午。此間。疫癘流布。武州殊令驚給之處。被行四角四境鬼氣祭。可治對之由。陰陽權助國道申行之。謂四境者。東六浦。南小壷。西稻村。北山内云々。
廿六日戊午。此の間、疫癘流布す。武州、殊に驚かしめ給ふの處、四角四境鬼氣祭を行はれ、治對(じたい)すべきの由、陰陽權助國道、之を申し行ふ。四境と謂ふは、東は六浦(むつら)、南は小壷、西は稻村。北は山内と云々。
「治對」は「退治」=「対治」と同義。]
是ものに見へたるの始とするか。されども六浦は武藏國久良岐郡なれば朝夷奈切通を踰て若干行ば岩に地藏を彫附、是を國界の標とすれば鎌倉も又界限となれり。
[やぶちゃん注:「踰て」は「こえて」と訓ずる。]
小坪もまた三浦郡なり、其餘は疆域の唱へは今も相同しけり。地境の廣窄を總計するに東西は長く、南北は狹し。東は鼻缺地藏より稻村堺迄凡一里半許、北よりして南迄は山谿をこめて海岸に至り、最も凡一里程には過ず。土人いふ、此地は要害堅固の勝地にして、南は由比の海濱、西の方は靈山ケ崎より連山北の方へ押運らし、又は圓覺、建長兩寺の後山より鶴ケ岡のうしろ迄山峰續き、夫より東へ瑞泉寺の一覧亭へ押亘り、又朝夷奈切通の峰より名越、比企谷の方なる峰々へ連續して、小坪切通より海岸もて山峰をもて包たるが如し。其間々に切通を設て通路とす。中央に鶴ケ岡の宮殿を崇め祀りて将帥擁護の神と仰ぎ、萬代不易の勝地なるべしとて、將軍爰に基を起せしといひ傳ふ。地形前件の如く峰巒重々として連続するゆへに、おのづから所々狭隘の地有て、村落は山に挾れたる所なれば、谷々の名多く、山も高く聳へたるにもあらず。磐山の時しもなく大概は土山なり。石を切出す山あれど其石伊豆みかげと稱するより柔石なり。作事等に用ゆれば年経て廉々剝落す。土性は都て眞土にて、海溝に至れば砂利交りもあり。
[やぶちゃん注:「時しもなく」は古語としては聞かない。「時しもあれ」や「時しもこそあれ」で「折も折」、「折もあろうに」、「他の折りもあろうに、よりによってこの折りに」の意で、これはそれを誤用したものか。いわば、丘陵程度の山々が連なっているが、「よりによって」それらの山は殆どが良石が「なく」(=産せず)、土山ばかりである、の謂いである。
「伊豆みかげ」伊豆石でも硬質の安山岩系ではなく、凝灰岩系の軟質のものを言う。耐火性に優れ、軟らかいために加工がし易く、比較的軽いが、風化しやすい欠点がある。
「廉々」は「かどかど」と読み、部分部分の意。]
地打開けたる所は若宮小路邊をいふ。東は大倉邊に至り小町へ大町、亂橋迄大抵平坦なり。材木座のあたりは平夷なれども砂地なり。
[やぶちゃん注:「平夷」は「へいい」と読み、平らなこと。]
若宮小路より西の方龜ケ谷、佐介谷への入口を遮り、御輿の嶽の麓に隨ひ、甘繩より長谷邊まで、是も又平坦の陸田にして、東西凡十町許、南北は濱手を限り凡六七町許、古え鎌倉繁栄の頃は此あたり皆大名の第地にて有しならん。又山ノ内より西は離山或は粟船村、戸塚道、藤澤道邊は悉く水田の地なり。谷々に至ては田畠すくなく、當所は昔より洞窟多く、寺院又は民居の地も皆山際に亭宅を構へ、佛寺の境内は堂後の山麓或は山の中段に窟を鑿て、塋域として塔を建てるもあり。洞皆横穴ゆへ土室として菜薪又は雑具を入置もあり。民家もまた左の如し。所々田圃の後なる山際に洞窟數ケ所あるは古へ人の住せし舊跡なり。其洞窟を覘(ノゾ)き見る、田舎の方言にいふ赤ナメ、靑ナメといふ埴土なり。
[やぶちゃん注:「埴土」は「はにつち」若しくは単に「はに」、音読みして「しょくど」で、きめの細かい黄赤色の粘土。瓦や陶器の原料とする。赤土。前に出る「赤ナメ」は単に赤土のことであろうと思わる。「靑ナメ」は青粘土で、粒の細かい粘り気のある粘土で青色を呈し、湖の底等に溜まって形成されたケイ酸質粘土層で、別名モンモリロナイトと呼ぶものを指しているか。]
稀には岩窟もあり。又土人の方言に洞窟の事を矢倉と唱へ、或は某人の土ノ牢と稱するものも皆古ヘの穴倉なるべし。又名越を呼てなこやと唱へ、谷を谷(ヤツ)と號せり。鎌倉入口に切拔道七口とはいえども實は九ケ所あり、其道路の事は末に出しぬ。或は十橋、十井、五水なといふも次に出せり。是等は皆後世に至り土人が類を集て名附しものなり。古詠に鎌くら山とよみたるはすべての山をさしての事なるべし。又は鎌倉の里とよみしも定まれる地にもあらで、村民のすめるあたり、其地名の係る所爰かしこ、皆鎌倉の里なるべし。
[やぶちゃん注:以下の和歌引用部は底本では二字下げ。]
萬葉十四讀人しらぬ歌
多伎木許流(タキギコル)。可麻久良夜麻能(カマクラヤマノ)。許太流木乎(コタルキヲ)。麻都等奈我伊波婆(マツトナガイハバ)。古非都追夜安良牟(コヒツツヤアラム)。
[やぶちゃん注:「万葉集」巻第十四の第三四三三番歌。漢字仮名交りに書き直すと、
薪伐る鎌倉山の木埀る木を松と汝が言はば戀ひつつやあらむ
で、「薪伐る」は鎌で伐るので「鎌倉山」の枕詞、「松」は「待つ」の掛詞で、
○やぶちゃん通釈
……鎌倉山の……あなたへの思いで……重くたるんでいる木は……松だ……そう、あなたが一言……「待つわ」って君が言ってくれたなら……そうして呉れたなら……こんなに私は恋に苦しまずにいられるのに……]
同二十防人國歌 鎌倉郡上丁丸子連多麻呂[此人が郡中に住せし人なり]
奈爾波都爾(ナニハツニ) 〔余〕曾比余曾比弖(〔ヨ〕ソヒヨソヒテ) 氣布能比夜(ケフノヒヤ) 伊田弖麻可良武(イデテマカラム) 美流波々奈之爾(ミルハハナシニ)
[やぶちゃん注:二句目の万葉仮名の頭に脱落があるので〔 〕で補った。「万葉集」巻二十四の第四三三〇番歌。漢字仮名交りに書き直すと、
難波津に裝ひ裝ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに
この歌には、
右一首、鎌倉郡上丁丸子連多麻呂
二月七日、相模國防人部領使、守從五位下藤原朝臣宿奈麻呂進歌数八首。但拙劣歌五首者不取載載之。
という後書きがある。書き下すと、
右の一首は、鎌倉の郡(こほり)上丁丸子連多麻呂(かみつよぼろまろこのむらじおほまろ)
二月七日に、相模國(さがむのくに)防人部領使(ことりづかひ)、守(かみ)從五位下藤原朝臣宿奈麻呂(すくなまろ)の進(たてまつ)れる歌の數は八首。但、拙劣(つた)なき歌五首は取り載せず。
で、「上丁」は防人でも上級職であったことを示す。
○やぶちゃん通釈
難波津で軍装を万全に整え整えし……さあ、遂に今日は、その日旅立つ日となるか……見送ってくれる母もなしに……
因みに本歌は天平勝宝七(七五五)年に同定されている。
以下の、和歌の頭の書誌名は底本ではポイント落ち。濁音は意識的に補わなかった。またすべての和歌を一行に収めるために一部が割注のようになっている和歌があるが、無視して同ポイントで示した。]
家 集
忘れ草かりつむはかりなりけり、跡も留めぬ鎌倉の山[藤原公任]
[やぶちゃん注:この歌は「近江輿地志略」に載り、「かまくらやま」でも、比叡山山系の神蔵山(かまくらやま:神蔵寺山とも)を歌ったものとするので引用は錯誤である。]
家 集
なかめ行心の色も深からん、鎌くら山の春のはなその[慈鎭和尚]
家 集
かきくもりなどか音せぬ郭公、鎌倉山に道やまとゑ努[藤原實方朝臣]
[やぶちゃん注:この歌、
かき曇りなどか音せぬほととぎす鎌倉山に道やまどへる
で、「努」は誤植か。]
【續古今】
宮ばしらふとしく立て萬代に、今もさかふる鎌倉のさと[鎌倉右大臣]
【夫木】
昔にも立こそまされ民の戸の、烟にきはふ鎌倉の里[藤原基綱]
[やぶちゃん注:「藤原基綱」なる人物は恐らく後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)。藤原秀郷の流れを引く京の武士後藤基清の子。評定衆・引付衆。幕府内では将軍頼経の側近として、専ら実務官僚として働き、歌人としても知られた。]
御 集
十とせあまり五とせまても住なれて、なを忘られぬ鎌倉の里[宗尊親王]
[やぶちゃん注:下句は底本では「をな忘られぬ」とある。訂した。]
家 集
民もまた賑ひにけり秋の田を、かりておさむるかま倉の里[藤原實方朝臣]
[やぶちゃん注:底本「賑ひにけり」が「賑ひけり」とあるが、訂した。]
【北國紀行】
廿日過る頃鎌倉山をたどり行に、山徑の芝の戸に一宵の春のあらしを枕とせり、
都思ふ春の夢路もうちとけず、あなかまくらの山の嵐や[堯惠法師]
【東國陣道記】
天正十八年五月十二日鎌倉を見侍りに、兼て思ひやりしにもこえてあれたるところなれば、
古いえの跡とひ行は山人の、たき木こるてふかまくらの里[玄旨法印]
[やぶちゃん注:「東国陣道記」は、豊臣秀吉の小田原城攻略に従軍した武将で、歌人にして歌学者細川幽斎の紀行文。「玄旨法印」は幽斎の法号。]
偖此地に附たる古き文書其餘古器等も、古えのものは經歴久しき内に回祿に罹り、或は散逸せしにや更に見えざれば、往昔の事實知るべからず。右大将家の殿營の跡は禾黍の田園となり、大名の第蹟なども悉く變替し、其舊蹤もしかとわきがたく、南の御堂、二階堂、大慈寺等の大伽藍を結構し給ひしも、尋んとすれど荊棘路を遮り、其俤さえ見へずなりぬ。寺院の古刹も廢亡せしは多く、建長、圓覺の二寺は五刹の上首にて今も大刹なれど、古えに比せば猶衰廢とやいふべけれ。其他の寺堂も隨て廢し、僅に堂塔を存するのみ。唯光明寺の如きは御當家の御代となり、關東十八刹の旃檀林の班次を定められしにも、元より關東總本山とも稱すれば、紫衣檀林の上首にて是れは古へよりまされるならん。
[やぶちゃん注:「旃檀林」は「せんだんりん」と読み、全国の重点寺院(ここでは浄土宗の)を言い、「班次」は順列のこと。]
八幡宮の神廟は星霜久敷荒蕪となりしが、御打入以來御修營有て翰奐美をつくし、木鳥居を玉石に改め造られ、五ケ所ともに御造立ゆへ末代の美觀にして上世に超過せり。
[やぶちゃん注:「御打入」家康の関東入城、「翰奐」は「かんくわん(かんかん)」と読み、壮大美麗な建物。]
天喜年中、始て源賴義朝臣勧請、又義家朝臣修造せられ、又治承、建久中賴朝卿大ひなる結構有しも、年経て應永の頃より頽廢に及しを、御當家の御代に至り宮殿其餘莊嚴を加えられければ、或記にしるせし如く、舊水源すみまさりて淸流れいよいよ遺跡をうるほしけるとあるは、此事にぞありけん。
[やぶちゃん注:「天喜年中」は西暦一〇五三年から一〇五八年、「應永」は、西暦一三九四年から一四二七年、「御當家」は徳川家。]
修行精心の事
阿部家の家士何某、弓術に執心にて多年出精の處、ハヤケといふ癖起りて的にむかへば肩迄不寄(よらず)して放れ、卷藁に向ひて勝手耳を過る事なし。依之(これによつて)其師も、執心はさる事ながら、弓の稽古は思ひとまりて一向やめ候へかしと諫めしかど、朝夕此事を工夫して、我心に留んと思ふに我(われ)拳(こぶし)にて放すといへるは口惜き事也と、家に傳りし主人より賜りし古畫の屏風へ、主人紋付の衣服をかけて、是を射んには誠に人間の所爲にあらずと、右に向ひて弓を引きしに、怺(こら)へず放しければ、とても弓取事は難成き我也と、我身ながら身を恨みて、愛子を向ふへ置て是を射んに、拳を放れば我子の命を取るも不辨(わきまへざる)癖とやいふべき、左あれば我も死んとて、則弓を引、我子へ差向て暫しためらいしに、弓術執心の故哉(や)、又は恩愛は別段の事にや、いつものはやけもうせて放さゞりしが、それより絶ず修行せしに、終に右癖も止りしとや。
□やぶちゃん注
○前項連関:救急時の妙法から弓術悪癖矯正の心理学的暗示効果に基づく妙法で連関。
・「阿部家」底本鈴木氏注には安倍能登守(忍城主十万石)の他、同定候補を四家挙げておられる。
・「ハヤケ」は「早気」と書き、弓で的を射る際、中てようと思う気持ちが早って、弓の弦を引いて的を狙い(これを「会(かい)」と言う)、そして矢を放つ、その瞬間のタイミングを微妙にフライングしてしまう悪癖をいう弓道用語。但し、本件を読むに、これは一種の動作特異性を示す心因性の不随意運動や、中枢神経系障害による不随意で持続的な筋収縮に起因する運動障害であるジストニー(dystonia)等が疑われる。
・「卷藁」正式な的前ではなく、稽古用の的。
・「勝手」右手。武士用語で、馬手(めて)・妻手(めて)・苅手(かつて)・引手ともいう。因みに、左手は弓手(ゆんで)又は押手と呼ぶ。
・「我拳にて放つ」岩波版長谷川強氏の注に「拳」は『弓に矢をつがえて引きしぼった時の握り加減』とあり、放つ右手の拳ということになる。因みに、弓道では「あたり拳(こぶし)」という用語があり、これは的をイメージとして手元に引き寄せて射る、的を弓手の拳の上に移し取って射る、という射的の極意を意味する。この場合の「拳」は左手であるが、そのあたり拳を自分が十分に引き寄せずに放っているという謂いで採れば、この拳は左手の拳と採れないこともない。訳では両方で採った。
・「我子へ差向て暫しためらいしに」ここは岩波版カリフォルニア大学バークレー校本では「我子へ差向て暫くかためしに」と大きく異なる。後者の場合、「暫くかためし」は、的を狙って強く引き絞った「会」の状態の弓をそのまま暫く保ったことを謂い、こちらの方が明らかに文脈に即して自然である。訳ではこちらを採った。
■やぶちゃん現代語訳
弓道修業精進の事
阿部家の家士何某は、弓術修行に熱心で何年にも亙って不断に精進を重ねてきたので御座ったが、ある時から「早気」という悪癖を生じ、的に向かうと弓を肩まで十分に引き絞る前に矢が放たれてしまい、練習用の巻藁に向かってさえ、右手が耳を過ぎることが御座らなんだ。依って、弓の師からも、
「精進堅固なは認めよう――が――かくなった上は最早――弓の稽古は諦め、向後はきっぱり弓は――やめたが、よかろうぞ」
と諫められた――いや、見放されたが、
『……日々不断にこの会(かい)の瞬時を工夫致いて、己れの一念を以って「止めよう」と思うておるにも拘わらず……その我が両の拳が思うように働かず、勝手に弓を放ってしまうというのは……如何にも口惜しきことじゃ!』
と、さて己が屋敷に戻ると、家に代々伝わる先祖が主人から賜った古き絵描き屏風へ、主家御紋の付いた衣服を掛けて、
『これを射たらんには最早、まっこと、武士の所為にてはあらず!』
と念じて、これに向かって弓を引き絞った……
……が……
……やはり堪え切れずに、放してしまった……されば……
「……とても……とても弓取のこと……その道の成り難きは我じゃ、ッ!……」
と我が身ながら、自身を恨んで、
「……我が愛する子を向こうに据えてこれを射んとするに、それでもこの拳を矢の放るるとなれば……我が子の命を奪(うぼ)うも弁えぬ人に非ざる者の宿痾の癖でのうて、案であろう! かくあるとすれば我も死なん!」
と独り言上げすると、即座に我が子を前に立たせ、
――きゅっ!――
と弓を引き絞った――
……差向(むこ)うた我が子……
……当たり拳に引き移る……我が子の顔……
……時が立った……
これぞ弓道求道の賜物か、はたまた子の親を愛して親の子を愛する恩愛の情は格別の力を持って御座ったものか――
かねてよりの執拗(しゅうね)き早気も失せ、「会」は「会」そのままに保たれて、矢はいつまでも放たれずに男の肩に御座った――
それより、不断に修行を重ねたところ、遂に早気の癖もすっかり止んだ、ということで御座る。
小兒餅を咽へ詰めし妙法の事
小鬼の餅を喰ひて咽(のど)へ詰りくるしむ時は、鷄のとさかの血をとりて呑ませ候得ば、或ひは内へ治り又は吐事妙也。衞肅同寮の彦坂某の子、物あたり右の奇藥にて難儀をばすくひしよし。
□やぶちゃん注
○前項連関:奇なる救急法で直連関。
・「鷄のとさかの血」について、底本の鈴木棠三氏の補注では、後の浮世絵師で戯作者の暁鐘成(あかつきかねなり 寛政五(一七九三)年~万延元(一八六一)年)の書いた「雲錦随筆」には、『大根おろしのしぼり汁がきくとある』と記し、漢方系の記載を管見すると、「鶏冠血」と称して意識不明の患者の顔面にこれを万遍なく塗布すると回復するともある。鶏の血は、軽便に供給出来ることからか、原始社会の呪術ではしばしば用いられる呪具である。
・「衞肅」は底本補注で『モリヨシ。九郎左衛門。根岸鎮衛の長男』で寛政三(一七九一)年に『御小性組に入』り、その当時三十一歳とある。この親族情報から、本記載は本巻の中では最も古い部類の記載である可能性があるように思われる。
・「同寮」同僚。
・「物あたり」岩波版「まのあたり」。こちらを採る。
■やぶちゃん現代語訳
子供が餅を喉に詰まらせた際の救急法の事
子供が餅を食って、誤って喉に詰まらせて苦しむ際には、鶏の鶏冠(とさか)の血を採って呑ませて御座れば、速やかに餅は胃の腑へと入って治るか、若しくは餅を吐いて、まっこと、妙法である。我が子衛肅(もりよし)の同僚である彦坂某の子は、まさにこの妙法奇薬によって事なきを得て危急を救われたとのことである。
耳中へ蚿入りし奇法の事
右の席に柳生主膳正(しゆぜんのかみ)かたりけるは、耳中へ蚿(むかで)の入りしは、中をも損ざし苦敷ものゝ由。同人召仕の者右の苦しみ有りしに、或人の言、猫の小便をさせば右百足を殺し即効を得るの由、是を用ひしに早速快復せし由。猫の小便を取には、猫をぬりもの抔(など)の上へ捕置、生姜をすりて猫の鼻の先へすり付れば極めて小便を通ずる由。一事の奇法ゆへに爰に記し置ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:外耳への虫の侵入への施術で直連関。というより、前話の池田筑州長恵外耳道米搗虫侵入事件の談話場面からの続き。但し、今度の侵入者は、恐るべし! ムカデ、である。ムカデが睡眠中の人の鼻や耳、口の中に稀に侵入することは知っていたが、数年前のネット上で、東南アジアのさる国の婦人、かなり以前から鼻の違和感を覚えており、専門医に診てもらったところが、鼻腔内に数年(!)に亙って数センチのムカデ(この場合は真正のムカデであった)のが寄生しており、生きたムカデが彼女の鼻腔から目出度く摘出されたというショッキングなニュースを読んだことがある。これ、ホントよ!
・「蚿」「むかで」のルビは底本のもの。音は「ケン・ゲン」。「むかで」と訓じているが、「廣漢和辞典」には『馬蚿は、やすで。おさむし。あまびこ。』とあり、ここに並ぶ呼称は節足動物門多足亜門ムカデ上綱唇脚(ムカデ)綱
Chilopoda に属するムカデではなく、総て、「おさむし」(筬虫)も「あまびこ」(雨彦)も多足亜門ヤスデ上綱倍脚(ヤスデ)綱Diplopoda に属するヤスデ類の異称である。「オサムシ」は形状が機織の用具である「筬」(「をさ(おさ)」:竹の薄片を櫛歯状に並べて枠をつけた織目の密度を決める道具。)に似ていることから、「アマビコ」は雨後によく出現することから、他に刺激を受けた際に丸くなり習性から「ゼニムシ」(銭虫)・「エンザムシ」(円座虫)、また形状の類似から「ババムカデ」(婆百足)などと呼ばれる。恐らく、この時代、現在のようにはムカデ類とヤスデ類を区別していない(現在でも生理的に嫌悪する方は大抵、同類と見なす)ので、ムカデの訓も、あり、であろう。但し、形状は似ているものの(実際にはヤスデ類は倍脚類と称するように前三節の体節のみ一節に一対脚で四節以降の後方節は総て一節二対脚であるのに対し、ムカデ類は総て一体節一対脚で観察すれば容易に判別出来る)、ムカデのような咬害や咬毒を持たず、生物学的にも近縁関係にはない。なお、人体に侵入する可能性は家屋内への侵犯が多いムカデの方が高いと言える。ところで、「和漢三才図会」の「巻第五十四 湿性類」では「蜈蚣」(むかで)と「百足」(をさむし)として、連続して記載し、ちゃんと別種で扱っているのだが、面白いのは、その「蜈蚣」の項に以下のようにあることである。
凡性畏蜘蛛。以溺射之即斷爛也。又畏蛞蝓。不敢過所行之路。觸其身則死。又畏蝦蟇。又雞喜食蜈蚣。故人被蜈蚣毒者、蛞蝓搗塗之、雞尿桑汁白鹽皆治之。
○やぶちゃんの書き下し
凡そ、性、蜘蛛を畏る。溺(ゆばり)を以て之を射る時、即ち斷(き)れ爛(ただ)る。又、蛞蝓(なめくじ)を畏る。敢へて行く所の路を過ぎず。其の身に觸るる時は則ち死す。又、蝦蟇(ひき)を畏る。又、雞、喜んで蜈蚣を食ふ。故に人、蜈蚣に毒せらる者、蛞蝓をば搗きて之を塗り、雞の尿・桑の汁・白鹽、皆之を治す。
クモの「尿」やニワトリの「尿」が挙がっている点、本話との共通性が認められる。しかしニワトリはいいとして、クモの「いばり」は私自身、見たことがない。さればこそ、面白い。
・「柳生主膳正」は旗本柳生久通(延享二(一七四五)年~文政十一(一八二八)年)。柳生久隆長男。歴代の勘定奉行の中で最も長い期間、二十八年強勤めている。官位は玄蕃、後に従五位下主膳正に叙任されている。天明八(一七八八)年に勘定奉行上座に異動し、勝手方を担当しており、前項の寛政七年のクレジットであれば、その任にある。参照したウィキの「柳生久通」には『松平定信の近習番を務めた水野為長が市中から集めた噂を記録した『よしの冊子』によると、町奉行に就任した当初、「三代将軍・徳川家光の剣術指南役を務めた柳生一族の家系の者が町奉行になった」』と江戸市中で専らの噂となったものの、『町奉行としての仕事ぶりは、「白洲の場においては、大した知恵も出ず、衣服を取り繕ったり、帳面に書かれていることを繰り返し穿鑿したりしている」と評され、前任者の石河政武のような知恵も出せず、久通が百年勤めても石河の一年分の仕事にも及ばないとまで言われた。また、仕事に念を入れすぎるために「怪しからずめんみつ丁寧」と評され、処理に時間がかかり経費もその分余計にかかったという』とあるが、一方、『勘定奉行上座に就任した久通は、老中の松平定信には気に入られ、当時勘定奉行だった根岸鎮衛たちが申請してもなかなか承知しなかった案件を、久通に頼んで上申してもらったら、すぐに許可が下りたという。仕事には熱心であったが、同時に江戸城からの退出時間は非常に遅かった。久通の部下である御勘定たちは、奉行が帰らないので先に退出するわけにもいかず、そのために毎日のように日没後に下城することを強いられ、非常に難儀した。同僚の勘定奉行である久世広民から「もうよかろふ」と催促されても仕事を切り上げず、寛政四年(一七九二年)に定信が久世を通して「暑い時は御勘定所も早めに仕事を終えた方がいい」と伝えたところ、久通はその日は特に遅くまで仕事をし、その後も同様に遅くまで城に残って仕事を続けたと』の逸話を記している(引用中、アラビア数字は漢数字に代えた)。ここに筆者根岸鎮衛の名が登場するのも、頗る面白いではないか。
・「損ざし」はそのまま「そんざし」と読む。「ざす」は使役の助動詞「さす」で、「傷つける」「損なう」の意味のサ行四段活用の他動詞である。
・「生姜をすりて猫の鼻の先へすり付れば極めて小便を通ずる」ショウガやニンニク、タマネギなどの香辛料相当の素材が、犬猫には有意に毒性を持つことはよく知られている。ショウガが猫の強い利尿作用を持つかどうかは知らないが、この民間療法、猫にとってはとんだ受難と言えよう。
■やぶちゃん現代語訳
耳の中へ百足が入ってしまった際の変わった対処療法の事
先の池田筑州長恵殿の米搗虫耳入りの一件を、同席して御座った柳生主膳正久通殿が聴かれ、
「――拙者も虫の耳入りでは少々変わった療法を知って御座る。――」
と、語りだされた……
――そもそも、まず――耳の中にムカデが入(い)ってしまった折りには――ムカデのこと故、耳の穴を無二無三に暴れ回って傷つけるがため――これ、大層――痛う、御座る、での。――
――実は、拙者の召し使う或る者の耳に――その、まさに正真正銘、かのムカデが入っての、甚だ苦しんで御座ったじゃ。
すると、ある者が言うに、
「猫の小便(いばり)を耳に注せば、このムカデ、たちどころに死んで即効を得ること、間違いない。」
とのことじゃ。
さればこそ、まずはともかくもこれを試してみようという仕儀になって御座ったところが――まっこと、瞬く間に本復致いた、ということで御座る。
……時に、猫の小便は如何にして取るか、で御座るか? それに就きては、まず――
①猫を、塗り物なんどの椀の上に、捕えて押さえ置く。
②擂(す)り下ろいた生姜を、その猫の鼻先へたっぷり擦り付くる。
……これにて、万事、瞬時に猫は、小便(いばり)を致す、ということなので御座る……
はあん……そういうもので御座ろうか……ともかくも、極めて稀なる一事への、飛び切り変わった処方、なればこそ……ここに、記し置くもので御座る。
2年前の2010年11月の「卷之三」完了後、未着手であった「耳嚢」の「卷之四」のテクスト化を始動させる。久々なので冒頭注を附す。
*
耳囊 卷之四 根岸鎭衞
注記及び現代語訳 copyright 2012 藪野直史
[やぶちゃん注:底本は三一書房一九七〇年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものである。
以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。
底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明五(一七八五)年頃に始まり、没する前年、文化十一(一八一四)年迄の実に三十年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクは私の翻刻訳注。但し、現在、「卷之一」から「卷之三」のみ完成)、
「卷之一」の下限は天明二(一七八二)年春まで
「卷之二」の下限は天明六(一七八六)年まで
「卷之三」は前二巻の補完(日付を附した記事がない)
(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)
「卷之四」の下限は寛政八(一七九六)年夏まで(寛政七年の記事の方が多い)
「卷之五」の下限は寛政九(一七九七)年夏まで(寛政九年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)
「卷之六」の下限は文化元(一八〇四)年七月まで(但し、「卷之三」のように前2巻の補完的性格が強い)
「卷之七」の下限は文化三(一八〇六)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)
「卷之八」の下限は文化五(一八〇八)年夏まで
「卷之九」の下限は文化六(一八〇九)年夏まで
(ここで九〇〇話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、四~五年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)
「卷之十」の下限は死の前年文化十一(一八一四)年六月まで
といった凡その区分を推定されておられる。]
卷之四
耳へ虫の入りし事
寬政七年卯六月下旬、池田筑州營中にて語りけるは、夜前甚難儀せし事ありし由。其事をせちに尋ければ、燈のもとに頭を傾け居しに、耳の内へ餘程の虫と覺へ飛入りて、無躰に穴中をかき分つと思ひしが、甚いたみ絕がたく偏身中に成てくるしみける故、親族家童打寄て是を出さんとするに百計なし。兼て長屋へ來れる外科(ぐわいれう)、耳のうちへ虫の入りしを近頃取出せし事を咄しけるを彼家に覺へて、右外科の許へ申遣しける故、五更の此(ころ)彼醫師來りて樣子を見、紙よりの先へ何か膏藥をつけて耳の内へ入、痛む所迄屆きし後暫く有りて引出せしに、膏藥とけて右虫に付て出しを見れば、米つき虫と俗に呼る虫也。彼醫師に即效を賞し尋けるに、別段の藥にもあらず、萬能膏(まんのうかう)の由。一度にて不取出(とりいでざる)事もあれど、耳中の熱にて膏藥潤ひ、右虫を付て引出す由。尤油藥をさし候へ共虫を殺し候故、痛(いたみ)はさるといへども取出すにかたき由語りけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:「卷之三」掉尾とは特に連関を感じさせないが、後注で見るように、この直後に主人公の池田筑州は大目付に就任している。さすれば、この飛んで耳に入る夏の虫の珍事は、実は「卷之三」掉尾の「吉兆前証の事」の変形とも取れなくはない。
・「寬政七年卯」西暦一七九五年。
・「池田筑州」は旗本池田長恵(いけだながしげ/ながよし 延享二(一七四五)年~寛政十二(一八〇〇)年)。通称、修理。官位は従五位下筑後守で、中奥番士・小十人頭・目付を歴任して天明七(一七八七)年に京都町奉行に抜擢(ここで官位を叙任)。寛政元(一七八九)年、江戸南町奉行、寛政七(一七九五)年六月二十八日に大目付に就任している。本件は正に大目付になる直前の出来事である(当時、根岸は勘定奉行)。参照したウィキの「池田長恵」には、『豪胆な性格であり、苛烈、強引な仕置も多く、失態を犯して将軍への拝謁を禁止されたことも幾度かあったが、陰湿さのない単純明快な人物であり、煩瑣な案件にも果敢に踏み込んで大胆な措置を下すため一定以上の人望があったという。老中首座松平定信の側近である水野為長が著した『よしの冊子』によれば長恵は感情豊かでコミカルな人物であったらしく、ミスを犯して落胆しているところを定信に激励されて立ち直ったり、その定信が老中を罷免させられた際は、大声を上げて泣き叫び、鬼の目にも涙とはまさしくこのことだと評判になるなど、一喜一憂する長恵の姿が伝わっている』と長恵の人柄を伝える。その感じを訳で出したいと思う。
・「絕がたく」底本には「絕」の右に『(耐え)』とある。
・「外科」は「がいれう」(がいりょう)で、外科治療及び外科医の意。
・「彼家に覺へて」一九九一年刊の岩波文庫版「耳嚢」では、『耳の中へ虫の入りしを出せし事を近頃咄しけるを彼家士覺へて』とあり、こちらの方が素直に読める。訳ではこれを採った。
・「五更」午前三時から午前五時頃(一説に午前四時から午前六時頃)。暁から曙で、この医師も、とんでもない時間に往診を頼まれたものである(但し、旧知の先輩の細君で、昔、蛾が耳に入って半狂乱となり、深夜一時を過ぎていたけれども救急車を呼ばざるを得なかったという実話を私は聞いたことがあり、それはそれは堪え難いものであるらしい)。
・「紙より」紙縒(こよ)り。
・「米つき虫」鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae に属する昆虫の総称であるが、和名を「コメツキムシ」とする種は存在しない。「米搗虫」「叩頭虫」と書き、転倒して腹面が上になると頭と胸を仰け反るように下へ曲げて「へ」の字型となった後、急速に頭と胸を逆に起こし、その反動で飛び跳ねて正立する。この際、前胸部の腹面側にある棘状の突起が、中胸部にある窪んだ部分で受け止められるが、その瞬間にかなり有意に認識出来る「パチン」という音がする。和名はその動作と音が米搗きに類似することに由来する。擬死が知られるが、しっかり飛翔もする。本邦には約六百種が棲息する。
・「萬能膏」所謂、あらゆる腫物・外傷などに効くとする膏薬。それぞれの地方の医師や売薬業者が同様のものを製造していたものと思われるが、館山市教育委員会生涯学習課のHPには「八束の万能膏」
http://enjoy-history.boso.net/book.php?strID_Book=0017&strID_Page=013&strID_Section=02
として、『万能膏は何にでも効く万能薬で、とくに農家の人々にはアカギレによく効く膏薬として評判だった。八束村福沢(南房総市富浦町)の川崎林兵衛の先祖は医師であったといい、祖父の時代から膏薬を製造していた。明治になって売薬免許を得るとハマグリの貝殻に入れて販売し、農業が機械化してアカギレがなくなる戦後まで製造販売が続いていた』とある(リンクの通知を要求しているのでアドレス表示とした)。
・「油藥」は軟膏の別称であるから、先の「萬能膏」のようなものも含まれるが、ここは現在でも耳に虫が入った場合の救急法として知られる、通常の家庭用食料油若しくは粘度の低い(注入が容易で虫が溺れ易い)液状油薬を注している。因みに、耳鼻科のサイトなどを管見すると、これは外耳道に比して比較的小さな蟻などでは効果が期待出来るが、蛾やこのコメツキムシなどの大きさでは溺死するのに時間がかかり、逆に暴れて外耳や鼓膜を損傷する危険性があると注意を喚起している。
・「痛はさる」は「痛みは去る」である。
■やぶちゃん現代語訳
耳へ虫が入ってしまった事
寛政七年卯年六月の下旬のことで御座った。
池田筑州長恵殿が御城内で私に語ったことに、
「……いやぁ、昨夜の、甚だ難儀な目に遇(お)うて御座った……」
との由、私も興味本位でつい、こと細かに尋ねてみて御座ったところ……
……うとうとと致いて、燭台近くに頭を傾けておったところへ、飛んで火に入る……どころでは御座らぬ! 灯から耳の中へと
――ズッ!――
と、余程、大きな虫らしきものが、これ、飛び入って、の!……それがまた、無体なことに、奥へ奥へと、耳の穴を搔き分け搔き分け、ずずいずいずいと、これまた、性懲りもなく、掻き分け入るわい! と思うた……ところが……
「!!!――!!!――!!!」
……いや! その痛いの痛くないの!……全身、これ、脂汗(あぶらあせまみ)れ、七転八倒、輾転反側、如何ともし難き仕儀と相成って御座ったじゃ!……親族の者やら従僕やらが、これがまた、碌な策も御座らぬくせに浮塵子(うんか)の如く寄って集(たか)って、ああしろ、こうせい、それはあかん! これが宜しくは御座らぬか?……なんどと申してはこれを取り出さんとせしも……あぁ! 最早、万事休す!……
……と……
……以前から拙者の屋敷の長屋の知れる者のところに、よう参っておった外科医が近頃、「耳の中へ虫の入(い)ったを取り出だいた」と話しておったを幸い、家士が思い出して、機転を利かし、この外科医の元へと急患の使いを出だいて御座った……
……五更の頃、かの医師が来て、診察と相成った……
……と……
……直きに、紙縒りの先に何やらん膏薬をつけ、耳の内へとすうっと差し入れた……
……と……
……痛うてかなわん、と思うて御座った辺りまで、その紙縒りが、届いた……
……と、感じた後(あと)……
……暫くあって紙縒りを引き出せば、紙縒りの先に固まってくっ付いて御座った膏薬はすっかり溶けて、かの虫がべったりと張りついたまんまに、出て参った……これを見れば……ほれ、コメツキムシと俗に呼ばはる、あの虫じゃ!……
……拙者はもとより、家中の者どもも皆、かの医師の秘薬仁術の即効を賞讃致いて、
「貴殿の施薬致いた、その御薬は?」
と尋ねたところが、
「いや、別段、これといった医薬にては御座らぬ。普通の――万能膏――で御座る。」
と、きた。
「一度の施術では取り出だせぬことも御座るが――この度はうまく参りました。耳内部の体温によって自然、膏薬がゆっくりと溶け、粘性の高い液体となって耳中全体を潤し、それに虫が附着致いたところで、引き出すので御座る。――尤も、民間療法で知られる如く、耳に粘度の低い油薬(あぶらぐすり)を直接注(さ)しますれば虫は溺れて死にまするが――さて、この方法、虫が暴れることによって生ずる痛みを除去することには有効で御座れど、事後、耳中から当の虫の死骸を首尾よく摘出致すは――これ、難、で御座る。」
と、語って御座ったよ……
……とのことで御座った。
芥川の葬式は、七月二十七日の午後三時から、谷中斎場で、行〔おこな〕われた。谷中斎場の前の道路は狭い。しかし、斎場は可なり広い。
その狭い道路に面して、通路の両側に受付〔うけつけ〕がある。右側の受付には、天幕が張ってあって、長いテエブルにむかって、和田利彦[春陽堂の主人]、石川寅吉、久保田万太郎、島中雄作[中央公論社の社長]、小蜂八郎[元春陽堂の番頭、その時は文藝春秋社出版部長]等がひかえ、その右の記録係の席には、宮本喜久雄、窪川鶴次郎、青地喜一郎、菅 忠雄等がならび、左側の受付(常設受付)には、小島政二郎、石田幹之助、神代種亮〔こうじろたねすけ〕[荷風の『濹東綺譚』の終りの「作後贅言」の中に登場する神代帚葉はこの人である]豊島與志雄等がひかえ、その左の記録席には、大草実〔おおくさみのる〕[その頃の「文藝春秋」の辣腕記者]、堀 辰雄、中島氏、中野重治等がならんでいた。さて、これらの堂堂たる人物たちが控えている左右の受付の間〔あいだ〕の通路の、右側には、高野敬録、山本実彦[改造社の社長]、中根駒十郎[新潮社の支配人兼社長代理]等が立ち、左側には、山本有三、南部修太郎、伊藤貴麿〔たかまろ〕[その頃は新進作家、その後は童話作家]等が立っていた。さて、これらの人たちが両側に立っているところを通り抜けると、ちょっと広い明〔あ〕き地に出る。
[やぶちゃん注:翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項にある七月二十八日附『東京日日新聞』のデータによれば、会葬者は七百数十名、芥川家菩提寺である慈眼寺住職篠原智光を導師として、『先輩総代として泉鏡花』が『沈痛な声で弔文を読』み、『友人総代として菊池寛氏がたち弔文を読』んだが、菊池は『読むに先だつて既に泣いてゐた』。『文芸協会を代表して里見弴、後輩を代表して小島政二郎氏等の切々たる哀情に満てる弔文が』続き、午後五時に『式は終り、遺骸は親族知友の手で日暮里火葬場に送られた。遺骨は二十八日染井の墓地に埋葬される』とある(正確には「染井の墓地」ではなく、染井墓地の奥にある慈眼寺の墓地である)。同日附『読売新聞』では終式を『午後四時五分』とし、こちらの記事には『表通りには二千余人の人人が蝟集して個人の柩を見んと犇めき交通巡査がこの整理にあせだくであつた』と記す。
「石川寅吉」(明治二十七(一八九四)年~?)出版人。安政年間創業の版元を株式会社「興文社」にしてその代表となる。中等教科書や英語学関連書籍などを刊行、昭和二(一九二七)年には芥川龍之介と菊池寛編纂の『小学生全集』を出版して、アルス社の『日本児童文庫』と激しい販売合戦を繰り広げた。第二次世界大戦中に死亡(以上は岩波新全集の関口安義・宮坂覺の「人名解説索引」に拠った)。
「宮本喜久雄」詩人。雑誌『驢馬』同人。
「青地喜一郎」不詳。
「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた。芥川は作品集の刊行時には彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。「神代帚葉」は「こうじろそうよう」と読み、彼の雅号と思われる。「作後贅言」は「さくごぜいげん」と読み、所謂、「濹東綺譚」の作者後書き。そこで荷風の友人として登場し、明治人には人を押し退けて得をしようとする気風はなく、『それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。』と述べさせている(自宅に原本が見当たらないので引用はSAMUSHI氏の「テツガクのページ」の「荷風を読んで 墨東綺譚再読」より孫引きした)。
「中島氏」不詳。芥川龍之介の従姉の子に中島汀なる人物がおり、新全集の人名解説索引には龍之介が勉強を見ていた旨の記載があるが、この人物か。先に示した本記載のソース「二つの絵」の会葬場見取り図にも「記録係」として「中島氏」とあり、宇野自身、「中島氏」とは誰であるか分からないままに、記したものと考えてよい。
以下の後記は、底本では全体が一字下げ。先に述べた通り、この誤りは小穴隆一の「二つの絵」の会葬場見取り図の誤りをそのまま引き写した結果である。因みに、この「中野重治」は翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の脚注によれば、神崎清(明治三十七(一九〇四)年~昭和五十四(一九七九)年:評論家。昭和九(一九三四)年から明治文学談話会を主宰、機関誌『明治文学研究』した。戦時中には大逆事件を、戦後は売春問題等を手掛けた。著作は「革命伝説」「大逆事件」「戦後日本の売春問題」等。)の誤りであった。]
(後記――この時、中野重治が列席していなかったことを、この本が出てからまもなく、本人から知らされた。これがほんの一例であるように、この本に書いたことのなかに、このようなマチガイがあることは必定であるから、ここでも、この事を、迷惑のかかった方方にお詫びし、その他の事を、読者に、御諄恕を乞う。)
[やぶちゃん注:「諄恕」は「じゅんじょ」と読むのであろう。敢えて言うなら「諄々として恕する」で、くどいくらいに何度も思いやりの心で過ちを許す、の意でとれなくもないが、「日本国語大辞典」にも「廣漢和辞典」の熟語にも出現しない。正直言わせてもらえば、「諒恕」の誤植ではなかろうか。]
ところで、この明き地の右側と左側に、おなじ形〔かたち〕の大きな天幕〔てんと〕が張ってあって、両方とも、程よい所に、イスとテエブルが据えてある、つまり、『休憩所』である。そうして、その『休憩所』の接待係は、右側は、高田保、川端康成、斎藤龍太郎[その頃の文藝春秋社で、佐佐木茂索と同じくらいの位置にあった人]、藤沢清造[その一生を貧窮にくらしながら、決して人に頭をさげず、貧乏にめげず、芥川に「へんな芸術主義者だからな、」と云われ、久保田に「正義派」と云われたほど芸術一途な男で、『根津権現裏』というすぐれた長篇一冊だけ残して、昭和七年の二月、芝公園で妙な死に方をした。武田麟太郎は『根津権現裏』を激賞して居た。久保田、芥川、菊池、その他を「君〔くん〕」と呼ぶ人であった。いい人であった]等であり、左側に、犬養健[この頃は、苦労知らずの行儀のよい小説をかいた新作家で、「白樺」の傍系であった]、三宅周太郎、横光利一、中河与一等であった。
[やぶちゃん注:「三宅周太郎」(明治二十五(一八九二)年~昭和四十二(一九六七)年)は演劇評論家。堅実な歌舞伎・文楽の劇評家として知られ、文楽の興隆にも尽くした。正続とある「文楽の研究」は名著である。
「犬養健」この最後の連載時は、正に吉田内閣法務大臣として造船疑獄の自由党幹事長佐藤栄作収賄容疑での逮捕許諾請求に指揮権を発動した悪印象の直後であった。]
さて、ここを通りすぎると、いよいよ斎場である。
斎場の玄関をはいった所の、すぐ、右側には、葬儀係の、下島空谷[空谷は下島の俳号]、
香取秀真[優秀な鋳金家、子規門の歌人]鈴木氏亨[この時分、文藝春秋社の代理の一切の仕事をしていた人]、谷口喜作[うさぎやという菓子屋の主人、滝井に俳句をまなび、芥川家に出入りしていた人]等が立ち、左側には、記録係の、滝井孝作と菅 忠雄が立っていた。それから、奥の方には、右側に、喪主親族席には、菊池 寛、室生犀星、小穴隆一等が著席〔ちゃくせき〕し、左側に、会葬者席には、泉鏡花、里見 弴、その他が居ならび、すこし離れて葬儀係の、久米正雄、佐佐木茂索、小野田通平[この頃、新潮社の出版部長か]等がひかえていた。(それから喪主親族席の後〔うしろ〕の方に、広い婦人席があヶた。)
そうして、柩は、いうまでもなく、正面の、奥の、本尊の前に、安置してあった。
[やぶちゃん注:「小野田通平」とあるが、小穴の会葬場見取り図には「小野田道平」とある。いずれにしても不詳。宇野の新潮社出版部長というのは会葬係としては不自然ではない。]
この日の導師は、芥川の菩提寺である、日蓮宗、慈眼寺の住職、原 智光師であった。
[やぶちゃん注:「原 智光」は「篠原智光」の誤り。]
告別式は、午後三時から三時半までであったが、会葬した文壇の人は七百数十人であった。そうして、先輩の総代として泉 鏡花が、友人の総代として菊池 寛が、文芸家協会を代表して里見 弴が、後輩を代表して小島政二郎が、それぞれ、弔文を読んだ。これらの人たちの中で、菊池は、弔文を、読みはじめる前に啜〔すす〕り泣き、読み出してからも、一句よんでは噎〔むせ〕び泣き、また一句読んでは噦〔しゃく〕りあげ、終には声を上げて泣きながら、読みおわったので、殊に人びとを感動させた。その菊池の弔文はつぎのようなものである。
*
芥川龍之介君よ、
君が自ら選み自ら決したる死について、我等何〔われらなに〕をかいはんや。ただ我等は君が死面に平和なる微光の漂〔ただよ〕へるを見て甚だ安心したり。友よ、安らかに眠れ! 君が夫人賢なればよく遺児を養ふに堪ゆべく、我等また微力を致して、君が眠りのいやが上〔うへ〕に安らかならんことに努〔つと〕むベし、ただ悲しきは君去りて我等が身辺とみにせうでうたるを如何にせん。
[やぶちゃん注:菊池の直筆弔辞の写真を見ると、「堪ゆべく」は「堪ゆるべく」、「我等また」は「我等亦」、「眠り」は「眠」、「せうでう」は「蕭条」の表記である。最後に「友人總代 菊池寛」とある。]
*
この時の葬儀に私の紋附〔もんつき〕と羽織と著物と袴と足袋を身につけて会葬した直木三十五が、帰りに私の留守宅に寄って、タラタラ流れる汗をふきながら、「あの葬式を見ると、急に芥川の死んだのが惜しい気がした、」と、私の家の者に、云った。
この時の葬儀に会葬した帰り道で、田山花袋が、三上於菟吉に、「君、物事を詰めて考えてはいけないよ、」と云った。(三上は、この話を、私に、何度も、した)
芥川が死んでから数日後に、吉井 勇と廣津和郎が、銀座で逢った。「ほかの人が死んでも『ああ、そうか、』と思うくらいだが、芥川が死んだ時は、悲しい気がしたね、」というような事を、何度も、云い合った。
[やぶちゃん注:以下の行間のアスタリスクは底本のもの。]
*
今、こういう時から二十五六年たった、西洋流に云えば、四半世紀すぎたのである。
この頃、月〔つき〕のうちに十度ぐらい、私は、廣津と、喫茶店に、コオヒイだけを飲みに行って、文学談その他をかわす。その時、芥川の話が出ると、「芥川は、弱い男だったね、悲しい男だったね、……しかし、ああいう才能は滅多にないね、結局、あれは、不世出の才能だね、」と、(言葉はちがうが、こういう事を、)云い合うのである。そうして、二人の間に、何度、芥川の話が出ても、終局、こういう事を、云い合うのである。
[やぶちゃん注:この最後の部分を読むと――私は何故か――片山廣子(松村みね子名義)の「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」を思い出す――いや――正に「小説の鬼」を自認した宇野浩二の「芥川龍之介」という福音書は――廣子のそれと同じく――正しく自らをもミューズから遣わされた者とする――小説の使徒宇野浩二の――ルカによる福音書であった。――]
*
本篇を以って、本年1月2日から始めた宇野浩二「芥川龍之介」(原稿用紙約1000枚)の注釈附電子テクスト化を終了した。これより、下巻のHP一括化に入る。
芥川の葬式は、七月二十七日の午後三時から、谷中斎場で、行〔おこな〕われた。谷中斎場の前の道路は狭い。しかし、斎場は可なり広い。
その狭い道路に面して、通路の両側に受付〔うけつけ〕がある。右側の受付には、天幕が張ってあって、長いテエブルにむかって、和田利彦[春陽堂の主人]、石川寅吉、久保田万太郎、島中雄作[中央公論社の社長]、小蜂八郎[元春陽堂の番頭、その時は文藝春秋社出版部長]等がひかえ、その右の記録係の席には、宮本喜久雄、窪川鶴次郎、青地喜一郎、菅 忠雄等がならび、左側の受付(常設受付)には、小島政二郎、石田幹之助、神代種亮〔こうじろたねすけ〕[荷風の『濹東綺譚』の終りの「作後贅言」の中に登場する神代帚葉はこの人である]豊島與志雄等がひかえ、その左の記録席には、大草実〔おおくさみのる〕[その頃の「文藝春秋」の辣腕記者]、堀 辰雄、中島氏、中野重治等がならんでいた。さて、これらの堂堂たる人物たちが控えている左右の受付の間〔あいだ〕の通路の、右側には、高野敬録、山本実彦[改造社の社長]、中根駒十郎[新潮社の支配人兼社長代理]等が立ち、左側には、山本有三、南部修太郎、伊藤貴麿〔たかまろ〕[その頃は新進作家、その後は童話作家]等が立っていた。さて、これらの人たちが両側に立っているところを通り抜けると、ちょっと広い明〔あ〕き地に出る。
[やぶちゃん注:翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項にある七月二十八日附『東京日日新聞』のデータによれば、会葬者は七百数十名、芥川家菩提寺である慈眼寺住職篠原智光を導師として、『先輩総代として泉鏡花』が『沈痛な声で弔文を読』み、『友人総代として菊池寛氏がたち弔文を読』んだが、菊池は『読むに先だつて既に泣いてゐた』。『文芸協会を代表して里見弴、後輩を代表して小島政二郎氏等の切々たる哀情に満てる弔文が』続き、午後五時に『式は終り、遺骸は親族知友の手で日暮里火葬場に送られた。遺骨は二十八日染井の墓地に埋葬される』とある(正確には「染井の墓地」ではなく、染井墓地の奥にある慈眼寺の墓地である)。同日附『読売新聞』では終式を『午後四時五分』とし、こちらの記事には『表通りには二千余人の人人が蝟集して個人の柩を見んと犇めき交通巡査がこの整理にあせだくであつた』と記す。
「石川寅吉」(明治二十七(一八九四)年~?)出版人。安政年間創業の版元を株式会社「興文社」にしてその代表となる。中等教科書や英語学関連書籍などを刊行、昭和二(一九二七)年には芥川龍之介と菊池寛編纂の『小学生全集』を出版して、アルス社の『日本児童文庫』と激しい販売合戦を繰り広げた。第二次世界大戦中に死亡(以上は岩波新全集の関口安義・宮坂覺の「人名解説索引」に拠った)。
「宮本喜久雄」詩人。雑誌『驢馬』同人。
「青地喜一郎」不詳。
「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた。芥川は作品集の刊行時には彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。「神代帚葉」は「こうじろそうよう」と読み、彼の雅号と思われる。「作後贅言」は「さくごぜいげん」と読み、所謂、「濹東綺譚」の作者後書き。そこで荷風の友人として登場し、明治人には人を押し退けて得をしようとする気風はなく、『それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。』と述べさせている(自宅に原本が見当たらないので引用はSAMUSHI氏の「テツガクのページ」の「荷風を読んで 墨東綺譚再読」より孫引きした)。
「中島氏」不詳。芥川龍之介の従姉の子に中島汀なる人物がおり、新全集の人名解説索引には龍之介が勉強を見ていた旨の記載があるが、この人物か。先に示した本記載のソース「二つの絵」の会葬場見取り図にも「記録係」として「中島氏」とあり、宇野自身、「中島氏」とは誰であるか分からないままに、記したものと考えてよい。
以下の後記は、底本では全体が一字下げ。先に述べた通り、この誤りは小穴隆一の「二つの絵」の会葬場見取り図の誤りをそのまま引き写した結果である。因みに、この「中野重治」は翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の脚注によれば、神崎清(明治三十七(一九〇四)年~昭和五十四(一九七九)年:評論家。昭和九(一九三四)年から明治文学談話会を主宰、機関誌『明治文学研究』した。戦時中には大逆事件を、戦後は売春問題等を手掛けた。著作は「革命伝説」「大逆事件」「戦後日本の売春問題」等。)の誤りであった。]
(後記――この時、中野重治が列席していなかったことを、この本が出てからまもなく、本人から知らされた。これがほんの一例であるように、この本に書いたことのなかに、このようなマチガイがあることは必定であるから、ここでも、この事を、迷惑のかかった方方にお詫びし、その他の事を、読者に、御諄恕を乞う。)
[やぶちゃん注:「諄恕」は「じゅんじょ」と読むのであろう。敢えて言うなら「諄々として恕する」で、くどいくらいに何度も思いやりの心で過ちを許す、の意でとれなくもないが、「日本国語大辞典」にも「廣漢和辞典」の熟語にも出現しない。正直言わせてもらえば、「諒恕」の誤植ではなかろうか。]
ところで、この明き地の右側と左側に、おなじ形〔かたち〕の大きな天幕〔てんと〕が張ってあって、両方とも、程よい所に、イスとテエブルが据えてある、つまり、『休憩所』である。そうして、その『休憩所』の接待係は、右側は、高田保、川端康成、斎藤龍太郎[その頃の文藝春秋社で、佐佐木茂索と同じくらいの位置にあった人]、藤沢清造[その一生を貧窮にくらしながら、決して人に頭をさげず、貧乏にめげず、芥川に「へんな芸術主義者だからな、」と云われ、久保田に「正義派」と云われたほど芸術一途な男で、『根津権現裏』というすぐれた長篇一冊だけ残して、昭和七年の二月、芝公園で妙な死に方をした。武田麟太郎は『根津権現裏』を激賞して居た。久保田、芥川、菊池、その他を「君〔くん〕」と呼ぶ人であった。いい人であった]等であり、左側に、犬養健[この頃は、苦労知らずの行儀のよい小説をかいた新作家で、「白樺」の傍系であった]、三宅周太郎、横光利一、中河与一等であった。
[やぶちゃん注:「三宅周太郎」(明治二十五(一八九二)年~昭和四十二(一九六七)年)は演劇評論家。堅実な歌舞伎・文楽の劇評家として知られ、文楽の興隆にも尽くした。正続とある「文楽の研究」は名著である。
「犬養健」この最後の連載時は、正に吉田内閣法務大臣として造船疑獄の自由党幹事長佐藤栄作収賄容疑での逮捕許諾請求に指揮権を発動した悪印象の直後であった。]
さて、ここを通りすぎると、いよいよ斎場である。
斎場の玄関をはいった所の、すぐ、右側には、葬儀係の、下島空谷[空谷は下島の俳号]、
香取秀真[優秀な鋳金家、子規門の歌人]鈴木氏亨[この時分、文藝春秋社の代理の一切の仕事をしていた人]、谷口喜作[うさぎやという菓子屋の主人、滝井に俳句をまなび、芥川家に出入りしていた人]等が立ち、左側には、記録係の、滝井孝作と菅 忠雄が立っていた。それから、奥の方には、右側に、喪主親族席には、菊池 寛、室生犀星、小穴隆一等が著席〔ちゃくせき〕し、左側に、会葬者席には、泉鏡花、里見 弴、その他が居ならび、すこし離れて葬儀係の、久米正雄、佐佐木茂索、小野田通平[この頃、新潮社の出版部長か]等がひかえていた。(それから喪主親族席の後〔うしろ〕の方に、広い婦人席があヶた。)
そうして、柩は、いうまでもなく、正面の、奥の、本尊の前に、安置してあった。
[やぶちゃん注:「小野田通平」とあるが、小穴の会葬場見取り図には「小野田道平」とある。いずれにしても不詳。宇野の新潮社出版部長というのは会葬係としては不自然ではない。]
その翌日(つまり、七月二十五日)の都下の各新聞は、(七八種の新聞は、)その第三面の殆んど全部を、芥川の自殺に関する記事で、埋めた。(その頃、出版社の間〔あいだ〕に、書籍や雑誌の宣伝のために、新聞に一ペイジの広告をする事が、流行したが、芥川の自殺の記事の出ていた第三面は、ちょっと見た瞬間、その『二へイジ広告』か、と思われた程であった。)
[やぶちゃん注:披見した昭和二年七月二十五日附『東京日日新聞』では下部の広告欄を除くほぼ十段の一面全部を芥川龍之介自殺関連記事で埋めている。]
それは、一〔ひと〕つ一〔ひと〕つの見出しに、(例えば、『芥川龍之介氏』『劇薬自殺を遂〔と〕ぐ』『昨晩、滝野川の自宅で』『遺書四通を残す』というような文句に、)初号あるいは一号の活字をつかい、本文(例えば「二十四日午前七時市外滝野川田瑞四二五の自邸寝室で劇薬『ベロナアル』および『ヂエアール』を多量に服用して[中略]」にところどころゴシック活字をつかう、というような麗麗〔れいれい〕しい組み方で、仮りに一ペイジを六段とすれば、その六段全部に殆んど芥川の自殺に関する記事が出ていたのである。
[やぶちゃん注:ここで宇野が参照しているのは、昭和二年七月二十五日附の『東京朝日新聞』の方である。こちらは全十段の内、八段強相当を芥川龍之介自死関連に割いている。]
つまり、芥川の自殺は、このように、文壇の人たちは、もとより、世人の耳目〔じもく〕をも聳動させたのであめる。
七月二十四日の午後三時頃、家の者が、果物〔くだもの〕などを持って病院にたずねて来た時、問わず語りに、ふと、「……芥川さんが、昨夜〔ゆうべ〕、眠〔ねむ〕り薬〔ぐすり〕を飲みすぎて、……」というような言葉を、漏らした。
と、虫が知らした、と云うか、この言葉が、私に、妙に、異様に、感じられた。なにか、どきッとしたような感じをうけた。
それで、なにか予感のようなものを感じていたのか、その翌日、あの誇大な新聞の記事を見た時、もちろん、はッとしたが、それほど驚かなかった。
その日も、どんよりした暑い日で、じっとしていても、体〔からだ〕じゅうに脂汗〔あぶらあせ〕がにじみ出た。私は、すこし気がおちつくと、「芥川は死んだ、」と、しみじみ、思った。が、ふと、「僕は、うんと暑い時に死んで、みんなを困らしてやるつもりだ、」と、芥川が、目尻と頰に例のいたずらっ児〔こ〕らしい笑いをうかべて、云った事を、思い出したりした。
[やぶちゃん注:宇野浩二の渾身の作品「芥川龍之介」のコーダ、ここに窮まれりの感がある。永遠に忘れることの出来ない本作の最も美事なシーンである。]
さて、遺書は、芥川夫人、小穴隆一、菊池 寛、竹内得二[註―養父の道章の弟、つまり芥川の叔父]あての四通と、伯母のふきと甥の義敏と、別に、『或旧友へ送る手記』とである、ところが、これらの中で、芥川は、殊更に、『旧友へ送る手記』の中に、「どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せず措いてくれ給へ、」と書いているが、これは、『思わせ振〔ぶ〕り』で、実は、この原稿だけは、「死後にすぐに公表」される事を予期していたのである。(こういう所にも芥川の仕組〔しくみ〕があるので、それは、芥川が、この手記風の手紙も、『或阿呆の一生』も、菊池に託さないで、融通のきく久米に、託している事だけでも、窺われるのである。)
[やぶちゃん注:芥川龍之介の遺書は、厳密に言うと(現在、作品に数えられている「或旧友へ送る手記」を除いて考える)、宇野が挙げている「小穴隆一」宛は昭和二(一九二七)年四月七日に「歯車」脱稿後、帝国ホテルで心中平松麻素子と心中未遂をした頃に書かれたものと推測される五枚から生前遺書で、外の実際の自死直近の遺書群とは区別する必要がある。その遺書群も「芥川夫人」宛一通(+断片二通)、「わが子等に」宛一通、「菊池 寛」宛一通、「竹内得二」宛(一通?)、「伯母のふき」宛(一通?)葛巻「義敏」宛(一通?)等、小穴宛生前遺書を含めると確実に総計七通を超える数の遺書があった。その内、紛失(焼却?)も含めて芥川文宛の複数(若しくは一通の一部)の一部、竹内得二宛・芥川フキ宛・葛巻義敏宛の四通から五通が未発表(恐らくは最早公開されないか、存在しない)である。この後、宇野は遺書の内容に触れていないが、私の渾身の電子テクスト「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」及び先行する旧全集版「芥川龍之介〔遺書〕(五通)」の私の注は是非お読み戴きたい。]
さて、午後四時頃、久米は、佐佐木たちと一しょに、既に白木の台と晒木綿などの置いてある玄関をあがり、うすい掛け蒲団をかけてある既に仏〔ほとけ〕になつた旧友の枕元でしばらく目をつぶって黙禱し、それから、そこそこに、二階に、あがって行った。
永眠した芥川の顔は、顎〔あご〕のへんに少〔すこ〕しばかり不精鬚〔ぶしょうひげ〕が生えていたが、平静で、清浄〔せいじょう〕で、冴え切って神神〔こうごう〕しく見えた。
*
僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。
君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずにおいて貰ひたいと思つてゐる。
僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親をもつたものたちを如何にも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的〔やぶちゃん注:「意識的」には底本では傍点「ヽ」。〕には自己弁護をしなかつたつもりだ。
最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を剥ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。
*
これは、『或阿呆の一生』にそえた、久米正雄にあてた、手紙で、日づけは「昭和二年六月二十日」となっているから、『或阿呆の一生』を脱稿した月に、書いたものである。(実に『一糸〔し〕みだれず』という観があるではないか。)
この手紙(『或旧友へ送る手記』)と『或阿呆の一生』の原稿を、久米は、二階の座敷(芥川の書斎であった部屋)で、籐椅子〔とういす〕に腰をかけていた時、芥川家の人から、わたされた。
その頃は、小島政二郎、南部修太郎、野上豊一郎、野上弥生子、香取秀真、犬養 健、その他の人たちが、その応接間になっている座敷の中に続続とつめかけていた。
[やぶちゃん注:「犬養 健」(たける、明治二十九(一八九六)年~昭和三十五(一九六〇)年)は政治家・小説家。元首相犬養毅三男。法務大臣。長与善郎や武者小路実篤は義父の弟に当たり、彼等の影響下、白樺派の作家としてデビュー、大正十二(一九二三)年、処女作品集『一つの時代』を刊行、精緻な心理描写と繊細な感性が評価され、後に政治家に転身してからも文士の知友が多かった。昭和二十七(一九五二)年に吉田茂首相の抜擢で法務大臣に就任したが、造船疑獄における自由党幹事長佐藤栄作の収賄容疑での逮捕許諾請求を含めた強制捜査に対して重要法案審議中を理由に指揮権を発動、逮捕の無期限延期と任意捜査へと強引に切り替えさせて不評を買った。指揮権発動の翌日には法務大臣を辞任したが、この指揮権発動によって事実上の政治生命は絶たれ、この指揮権発動を理由として日本ペンクラブは彼の加入を拒否している(以上はウィキの「犬養健」を参照した)。]
久米は、ずっと後に、『或阿呆の一生』の原稿を「もう少し早くわたしてくれたら、死因などもすっきりして、別にいろいろ云われずにすんだと思うのだが、ごたごたがあってから渡されたものだから、……」と、こぼしたが、その時は、『或旧友へ送る手記』を発表すべきかどうか、というような問題などが出て、それがやっと決定する、というような状態であった。
さて、やっと菊池がついたのは、長い夏の白が暮れて、もう暗〔くら〕くなった頃であった。菊池は、遺骸の前に、長い間、だまって、うつむいて、坐っていた、が、急に立ち上がって、小走りにあるき出し、二階にあがると、皆に目もくれず、噎〔むせ〕び泣きながら、廊下の隅の籐椅子の方へ、すごすごと、あるいて行った。
菊池が着く少し前から、いろいろな新聞の記者が、おしよせて来て、これと思う人に、面会をもとめた。しかし、みな、「九時に、『竹むら』[前に書いた、六月十日頃の夜、私が高野と、芥川をたずねて行った家か]で、すべて、発表するから、」と云って、断った。
[やぶちゃん注:「竹むら」は芥川邸の近くにあった貸席。宇野の推測は恐らく誤りである。]
さて、菊池が来〔く〕ると間〔ま〕もなく、軽井沢から、室生犀星が、駈けつけた。つづいて、斎藤茂吉、土屋文明、山本有三、その他も、やって来た。それから、どこからか聞き知って来〔く〕るのも可也〔かなり〕あった。又、悔みに来た人の中には、その頃めずらしかったラジオのニュウス放送で知ったと云うのもあった。
[やぶちゃん注:日本初のラジオ放送は、先立つ二年前の大正十四(一九二五)年三月二十二日に仮放送、本放送は同年七月二十一日に開始されたばかりであった。なお、このラジオの一件の記載は小穴隆一の「二つの絵」の「芥川の死」の末尾の記載に拠るものと考えてよい。
喪主は満七歳の長男芥川比呂志が務めた。通夜の様子は『納棺は今暁四時ふみ子夫人外二三の家族ばかりでしめやかに済ませ棺を玄関突き当りの八畳間に移し、すべて仏式でねんごろなる通夜をした』とあり、位牌の戒名(後の墓碑も)は故人の遺志によって俗名のまま、白木に「芥川龍之介之靈位」とあったとする(昭和二(一九二七)年七月二十六日及び二十七日附『東京日日新聞』の記事を引いた翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き。「霊」のみ正字に改めた)。『棺のうへの写真には、頬杖に倚つて前面を凝視したものを選んである。守刀がこれに添えられてある。此処には満室の花輪の香と香水の匂が強い。花の香に酔ふもののあるくらゐに強い』(昭和二(一九二七)年九月号『改造』所収の犬養健「通夜の記」より。前記の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き)。]
さて、これから書こうとする事は、芥川が死んでからの『伝説』である。
十返舎一九が死んで、遺骸を茶毘に附すると、数道の星光が棺の中から逬〔ほとばし〕った。これは、一九が遺言して、会葬者を驚かせるために、棺の中に花火を仕掛けておく事を花火師に頼んであったからである。(ところが、この話は嘘で、これに似た話が一九の作品の中〔なか〕にあるのである。)
[やぶちゃん注:十返舎一九の荼毘花火の逸話は、出所データが不明ながら、宇野の言うような一九の作品中にあるのではなく、同時代人であった落語家初代林家正蔵(安永十・天明元(一七八一)年~天保十三(一八四二)年)のエピソードとしても知られており、実際には一九の逸話として伝えたのも正蔵であったというのが事実であるらしい。とすれば、実際には一九はやっておらず、正蔵がそうした都市伝説を高座で語り、実際に自分の葬儀でやった、というのが正しいのであろうか。識者の御教授を乞うものである。]
『伝説』とは大体こういうものであるから、私がこれから書こうと思う芥川の死後の伝説も、この一九の伝説と似たり寄ったりの物〔もの〕にちがいないから、その事を前以〔もっ〕てお断りしておく。――
芥川が自殺しそうな心配がある、と思って、芥川の内〔うち〕の人たちは警戒していたが、殊に文子夫人は鵠沼にいる時分から夜となく昼となく警戒していた。ところが、芥川はその事を十分に知っていた。さて、七月二十四日の午前六時すこし前に、文子夫人は、芥川の寝顔が不断とちがう事を、発見した。そこで、すぐ呼ばれた下島が、さっそく飛んで来て、聴診器を耳にはさんで、「蓬頭蒼顔の唯ならぬ貌」をしている芥川の寝間著〔ねまき〕の襟をかきあけると、左の懐〔ふところ〕から西洋封筒入りの手紙がはねて出た。それを、左脇にいた夫人が、はッと叫んで、手に取った。それは遺書であった。
やがて、下島が、「もう全〔まったく〕く絶望である、」と知って、近親その他の人びとに通知を出した頃は、午前七時を少〔すこ〕し過ぎていた。(その時分に、下島は、芥川の伯母から、「これは昨夜〔ゆうべ〕龍之介から、明日〔あした〕の朝になったら、先生にお渡〔わた〕ししてくれと頼まれました、」と云って、紙につつんだ物を、わたされた、それが例の『水涕や……』の句を書いた短冊である。)
さて、下島は、手続きをするのにも菊池に来てもらわねばならぬ事情があるので、文藝春秋社に電話をかけさせた。そこへ、小穴がやって来た。小穴は、下島から芥川の死んだ事を聞くと、何ともいえぬ悲痛な顔をした、が、すぐ、芥川の最後の面影を写すために、縁の近くの程よい所に画架を据えた。(小穴がその木炭でその下図〔したず〕をかいていると、その画架のまわりをうろついていた長男の比呂志が、突然、心配そうに、小穴の画布をのぞいて、「絵の具、つけるの、つけないの、」と、小穴に、云った、それで、小穴が「あとで、」と答えると、比呂志は、安心したような顔をして行ってしまったが、間〔ま〕もなく、帳面とクレオンを持って、出て来たが、帳面とクレオンを持ったまま、しずかに眠っている父の枕元に、ぼんやり立っていた、という話が残っている。その時、比呂志は、かぞえ年〔どし〕、八歳であった。)
さて、前の晩の二時頃に、芥川が、睡眠剤を飲んで、寝た、として、今朝〔けさ〕の六時すこし前に、文子夫人が、寝ている芥川が異常であるのを、知った、――と、三時、四時、五時、六時、と四時間である、「これは、」と不審に思った下島は、斎藤茂吉の睡眠剤や薬屋から取って来た薬の包み紙や日数などを、計算してみた。すると、ますます腑におちない。「そこで、奥さんや義敏君[註―芥川の姉の子、葛巻義敏]に心当〔こころあた〕りを聞いてみると、二階の机の上が怪しさうだ。すぐ上〔あが〕つて検〔しら〕べてみて、初めてその真因を摑むことが出来たのであつた、」と、下島は、書いている。
(芥川は、睡眠剤で死ねる、とは思っていなかったので、ほかの『クスリ』を用意していたのである。)
[やぶちゃん注:この下島の文章は昭和二(一九二七)年九月一日発行の『文藝春秋・芥川龍之介追悼号』に載った「芥川龍之介氏終焉の前後」からの引用である。山崎光夫氏の「藪の中の家」によれば、昭和二年八月五日の執筆年月日がクレジットされている。但し、下島はこの後にその『真因』を語っていないのである。宇野は芥川龍之介の死後、小峰病院を退院後に、以下に見るように、誰かからの伝聞によって、「ほかの『クスリ』」であるという情報を得たのであろうが(山崎氏は小島政二郎と推定しているが、私は微妙に留保したい。山崎氏が根拠として昭和三十五(一九六〇)年十二月号『小説新潮』に掲載された「芥川龍之介」の『実際、死後の彼の書斎には青酸加里が一ト罎〔びん〕あった』を挙げておられるのだが、寧ろこの部分は、その前に書かれた本宇野浩二作の「芥川龍之介」のここの叙述を下敷きにしていると考える方が自然な気がするからである)、宇野の言を俟つ前に、山崎氏が不審(というより確信)を抱くのは、下島自身が記した行動と、その文脈の最後に現れる『真因』という語の重みである。確かなことは宇野も後述するように、これはド素人であっても芥川が自死に用いた薬物が、実は現在でも公式に記されているところの睡眠剤ベロナールとジャールでは――ない――確実に死を迎えることの出来る必殺の毒物で――ある――にという、自死の『真因を摑むことが出来た』という意味でしか、読めないということである。]
*
最後に僕の工夫〔くふう〕したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。 『或る旧友へ送る手記』の内
……彼女は何〔なに〕ごともなかつたやうに時々〔ときどき〕彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎渡〔ひとびんわた〕し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言つたりした。 『或阿呆の一生』の中の『死』の内
今度こそほんとに青酸加里を手に入れたよ。一寸〔ちよつと〕、君〔きみ〕、と言つて薬屋に這入つて行つた彼を神明町の入口〔いりくち〕の角〔かど〕で其の日見た。目薬の罎よりも小さい空罎〔あきびん〕を買つて、透かしてみながら、やつとこれで入物〔いれもの〕ができたよと嬉しさうにみえてゐた。 小穴隆一の『二つの絵』の内
[やぶちゃん注:私は特に小穴の記載に着目する。それは、この証言が真実を語っているとすれば、芥川は青酸カリを裸の粉末状態で一定量入手したという事実を指しているからである。則ち、芥川龍之介が入手した際、それが入っていた容器ごと入手は出来なかったことを意味する。また、余裕のある状態なら事前に壜を用意してそれを入れるだろうから、それを入手するシチュエーションが、比較的場当たり的な状況であるか、稀なチャンスであった、だから紙包とか封筒とか家庭内にあるピル・ケースのようなものに入れざるを得なかったのではないかと私は考えるのである。なお、青酸カリは、潮解により空気中の二酸化炭素と反応して猛毒のシアン化水素(青酸ガス)を放出しながら炭酸カリウムに変化してしまう(保管するだけでも家内の者にも危険が及ぶ可能性が生ずるし、長期にわたって開放的に放置すれば毒性は容易に失われてしまう)。特に日光に当たる状態では反応が進み易いため、空気に触れず、日光に当たらないよう、飴色の密閉したガラス瓶に保管するのが普通である。]
*
右の三つの文章はみな一種の作品であるけれど、下島が「初めてその真因を摑むことが出来た」と書いているのは「(つまり、下島が芥川の机の上に見つけたのは、)『青酸加里』(つまり『シャン化カリウム』⦅Cyan 化 Kalium⦆である。いうまでもなく、この薬は、猛毒薬であるから、下島は、その『真因』を公表しなかったのであろう。
さて、下島が文藝春秋社にかけさせた電話によれば、菊池は、雑誌「婦女界」の講演のために、水戸から宇都宮の方へまわった、と云う。それで、下島は、近親の人たちと相談して、法律の手続きを取ることにした。
やがて、警察官が来て、検案や調査をはじめた。方方に電報を打って通知した。そのうちに、鎌倉から、久米正雄と佐佐木茂索と菅 忠雄が駈けつけた。それが午後四時頃であった。夏の日はまだ高かった。
[やぶちゃん注:ここで多くの読者は、もし、山崎氏や私が考えるように青酸カリによる自死であったなら、何故、それが司法解剖(変死体で犯罪の結果の致死の可能性が疑われる場合の死因究明のための剖検)なり行政解剖(死因の判明しない犯罪性のない異状死体への死因究明のための剖検)なりが警察の検死によってなされなかったのかを疑問視されるであろう。それは下島医師が死亡診断書を書くに当たって、警察当局に、睡眠剤の「劇薬『ベロナール』と『ジャール』等を多量に服用」(昭和二年七月二十五日附『東京日日新聞』)したことによる「急性心不全」(山崎氏の「藪の中の家」での死因推定)であることを語り、当時の通報を受けて芥川家を訪れた担当警部補二人が、その下島の医師証言や家族の希望などを勘案して、解剖の必要を認めないと判断したからであると考えてよい。推理小説好きの方は、それでも当時であっても、もし青酸カリの自殺だったら、それは入手経路が問題にされるはずだ、と言われるであろう。下島から、もしかするとこの時の警部補らもそれが青酸カリ自殺であることを知らされていたのかも知れない(山崎氏は真相を下島は警部補らに話していたと考えておられるようである)。しかし、この時の芥川の身内・下島・警部補らは――そしてその直後に真相を知った周辺の人々も――『真相を包みこむ文学的処理は龍之介の名誉を守る』『芥川龍之介の場合、文学こそ真実だ』――という考えで一致した、と記しておられる。私も山崎氏の推論を支持するものである。読者の中のホームズ氏は――それでも尚且つ、入手先は? と食い下がるであろう。そこは山崎氏の名推理を「藪の中の家」で堪能されたいのである。……ヒントは……龍之介の辞世の句の……「鼻の先だ」け……である……♪ふふふ♪]
(ここで、書き忘れたことを述べる。――文子夫人に宛てた遺書の中に、「絶命後は小穴君に知らせよ、」という文句があったので、さっそく小穴の所へ葛巻が走ったので、小穴が一ばん早く来た。つぎに、近くの日暮里諏訪神社前に住んでいた、久保田万太郎が飛んで来た。)
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、ここらから後は、総て宇野の実体験に基づくものではなく、総て伝聞である。宇野自身は精神病院で『死ぬか生きるかの瀬戸際』(水上勉による底本の解説)にいたのである。宇野の叙述は会葬場の配置にまで及び、驚くべき精緻を凝らすのを不審に思われる読者も居ようが、これは小穴隆一の「二つの絵」の一四一頁に載せる精密巧緻な芥川龍之介の会葬場見取り図に拠るものである。その証拠は、後文で中野重治出席の誤りが中野自身によって指摘されたとあるが、小穴のそれには、はっきりと「記録係」の位置の左端に「中野重治」と記されていることから明白である。]
七月の初めに、私は、芥川に、斎藤茂吉を紹介してもらい、斎藤茂吉の世話で、滝野川のナニガシ病院に、入院した。
[やぶちゃん注:「七月初め」前掲の通り、現在の知見では宇野の入院は六月上旬である。
「滝野川のナニガシ病院」は王子の小峰病院のこと。現在の東京都北区滝野川北端は明治通りと本郷通りを境界に王子と接する。]
私のはいった病室は六畳ぐらいで、両側が壁で、南側の一間半は、全体が窓で、四枚のガラス戸〔ど〕がはまっていて、中〔なか〕の二枚が観音開〔かんのんびら〕きになっていた。そうして、三尺ぐらいの幅の寝台が、窓にむかって右側の壁の際に、据えてあった。
私が入院した七月の初め頃はまだそれ程ではなかったが、十日頃からしだいに温度が高くなり、中頃には華氏の九十度をしばしば越えるようになり、二十日頃〔はつかごろ〕には九十二三度ぐらいになった。
[やぶちゃん注:「華氏の九十度」は摂氏三二・二度、華氏「九十二三度」は摂氏三三・三から三三・九度。]
二十日の夕方であったか、妻が、たずねて来て、その日の昼すぎに、「芥川さんが、お見えになりまして、僕は、旅の支度で忙しいので、病院までお見まいに行けないから、と、おっしゃいまして、これを持って来てくださいました、」と云って、その頃めずらしかったタオル地の寝間著〔ねまき〕と菓子箱を、風呂敷づつみの中から、取り出した。それから、芥川が、私の入院料の事から、内〔うち〕の暮らしの費用の心配までしてくれた事、「それから、宇野が、退院してから、困るような事があったら、文藝春秋社に行ったら、都合するように、菊池にたのんでありますから、と、芥川さんは、御深切に、云ってくださいました、」というような事を話してから、妻は、急に妙な顔をして、わざとらしく声をひそめて、「芥川さん、今日〔きょう〕は、めずらしく、妙に、そわそわしていらっしゃいました、」と云った。
[やぶちゃん注:「僕は、旅の支度で忙しいので」芥川龍之介の、この宇野の妻(八重)への伝言が真実だとすれば……これはドリュ・ラ・ロシェル&ルイマルの「鬼火」のアランの、正にあの台詞――「だけどもうすぐ出立〔たびだち〕だ……旅に出る……出発が送れてるんだ……気がつかなかったかい?』――ではないか! 宇野にして正に「恐ろしい」「不気味な」言葉であったはずであるが……宇野はそれを語っていない……
以下、二つの後記は底本では全体が一字下げ。]
(後記――これも、後に述べてある、芥川が世を捨てる前にいろいろな『伝説』が流布したが、その中の一つに、芥川は、死ぬ覚悟をしてからは、大へん深切にした人たちと、その反対に、わざとらしい嫌〔いや〕がらせを云って閉口させた人たちと、――二〔ふ〕た通〔とお〕りある、という『伝説』である。そうして、その後者の例として、佐多いね子(その頃は窪川いね子)が、死ぬ数日前にたずねた時、芥川が「君は心中しそくなった時にどういう気持がしたか、」と云った、というのである。この話は、いくらか『伝説』ずきの私でも、信用しない。が、おなじ窪川いね子の処女作といわれる『レストラン洛陽』を「文藝春秋」に紹介したのは芥川である、という話もある。又、窪川鶴次郎に、おなじ頃、芥川が、ほんの少しの(志だけの)経済的な援助を一度したことがある、という話もある。但し、窪川や、その友人の中野重治や堀 辰雄などが、芥川を知ったのは、室生犀星を中心として出した、主として詩の雑誌「緒馬」の同人であったからであろう。)
[やぶちゃん注:窪川いね子(佐田稲子)が、この頃に偶然、近所に住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を申し入れていたのが、七月二十一日、夫の窪川と共に芥川龍之介を来訪、七年振りの再会を果たしたが、その際、芥川は自殺未遂の経験のある稲子に詳細を訊ねたのは事実であり、伝説ではない。また、稲子は非常に困惑し、薄気味悪く感じたことは事実であるが、それは『わざとらしい嫌がらせ』ではない。芥川は稲子には終始、好感を持っていた(彼女とは男女の関係にはなかった。が、しかし、窪川と彼女の関係を知って漠然とした嫉妬心を芥川が持った可能性はあり、それを強いて『わざとらしい嫌がらせ』の可能性があると言おうなら、言えぬとは言えないが)。それは、まさに自死の三日前のことであった。]
(後記-それから、これは、誠に通俗的な『伝説』であるが、私のうろおぼえの記憶であるが、芥川が死んでからは、いろいろな『伝説』が新聞や週刊雑誌に出たが、その一つに、芥川家の女中のナニガシの話として、芥川は、伯母のところに紙につつんだ短冊をわたして、自分の部屋に帰る途中で、廊下、から名品の花瓶を庭にむかって投げつけた、というのが「ソレガシ」(週刊雑誌)に出た。それを読んだ菊池 寛が、「そんなら、芥川は、もっと三つも四つも花瓶を投げつけたら、死なずにすんだかもしれない、」と云った、誠しやかな、話も流布された。その他、これに似た『伝説』は私が聞いたり読んだりしたものでも十以上あるから、かかる伝説は数しれずあるにちがいない。)
[やぶちゃん注:これは、自死の四日前の七月二十日、伯母フキと諍いを起こして、フキが泣き出したために一度は宥めたものの、芥川自身の気持が収まらず、床の間にあった花瓶を庭石に投げつけた(宮坂年譜に昭和二年八月十四日「週刊朝日」の森梅子「芥川氏の死の前後」に基づく)という記事が誤って伝えられたもの(若しくは誤って宇野が伝え聞いたもの)であろう。]
その翌日であったか、二人の看護人が、廊下を掃除しながら、「昨日は九十三度だつたそうだが、新聞を見ると、この暑さはつづくそうだが、やりきれないね。」「いや、もっと暑くなるそうだよ、それに、もう一と月以上も、雨が降らないからね、」というような話をしていた。
ところが、その雨が、一と月と何日かぶりで、七月二十三日の夜中から、(正しく云えば、七月二十四日の午前二時頃から、)降り出した。
七月二十三日は、九十五六度の暑さが夕方までつづき、八時を過ぎて、窓の外が暗くなってからも、まだ蒸し暑かった。それで、窓を細目〔ほそめ〕にあけて、十時頃に寝た私は、夜中に、窓の外〔そと〕に、雨の降る音を、うつつに、聞いたが、窓をしめて、すぐ又、眠ってしまった。
[やぶちゃん注:金子大輔氏の「気象から考える河童忌」などによれば、気象庁天気相談所の公式なデータとして同年七月二十三日の最高気温は摂氏三五・六度、不快指数八九の猛暑日であったが、七月二十四日は最低気温二〇・七度、最高気温二六・八度という涼しさになっていたことと、暗い雲に覆われて雨が降りしきり、一四・二ミリの降水を観測していた、とある。そして金子氏は『寒冷前線が近づくと喘息の発作が起きやすい、うつ病が悪化する方が多いと話す人もいる。寒冷前線は、急激な気温低下・天候悪化などをもたらし、体にとって大きなストレスになる』として、当日の天候が芥川龍之介の自殺決行を促す一因子であった可能性を示唆されて興味深い。宇野が降雨の時間を記憶しているのも印象深いが、当時の宇野の病態を考えると、これは残念ながら、後の吉田精一の評論等に所載するデータを、自分のオリジナルな疑似記憶として取り込んでいる可能性が、残念ながら高い気がする。]
芥川は、その雨の降り出した頃、死ぬクスリを飲んで、永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった。そうして、その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は、伯母[註―養父道章の妹であり、実母ふくの姉である、芥川ふき]の寝ている枕元に来て、紙に包んだ短冊をわたしながら、「これを、明日〔あした〕の朝、下島さんに渡〔わた〕してください、先生が来た時、僕はまだ寝ているかもしれませんが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、まだ寝ているからと云って、わたして下さい、」と云った。そうして、その短冊には、『自嘲 水涕や鼻の先〔さき〕だけ暮れ残る』と書いてあった。
[やぶちゃん注:「永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった」とあるが、現在の年譜的知見では、この時刻に二階の書斎から階下に降り、文と三人の子の眠る部屋で床に就いたが、既にこの時、薬物を飲用していたとされる。「その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は……」は、現在では午前一時頃とされており、宇野の謂いはより細かいが、これは寧ろ宇野独自の情報ではなく、彼の推測(午前二時の雨の振り出し、同時刻の自殺決行という時系列から宇野が割り出した推測に過ぎないものと思われる。
以下、後記は底本では全体が一字下げ。]
(後記――この『水涕や鼻の先だけ暮れ残る』という句は、この時分に作られたものではなく、大正十二年の一月頃に作られたものである。おなじ「自嘲」という題で、おなじ頃、『元日や手を洗ひをる夕ごころ』という句がある。)
これは芥川の死ぬ前の晩から夜中へかけての『伝説』である。(『伝説』とは、英語でいう“Tradition”とすれば、「口碑または文書によって伝えられた過去の事実、あるいは、事実と信じられた事件の伝承」という程の意味である。)
[やぶちゃん注:私は「伝説」というと、“legacy”を思い浮かべるが、因みにその違いを調べてみると、“legacy”は個人から個人へ受け渡されるもの、“tradition”は民族・結社・宗派といった集団から集団に受け渡されるものであるらしい。――なるほど――これは芥川龍之介の「遺産」とは何かを考える時、面白い違いである気がした――。]
さて、こういう芥川の伝説は、寡聞な私の知っている限りでは、芥川の無二の親友であった小穴隆一の『二つの絵』の中に、もっとも多く出てくる。
そこで、芥川のいろいろな伝説を作った人を、仮りに小穴その他とすれば、小穴その他は唯『伝説』を書いただけであって、その伝説を仕組〔しく〕んだのは芥川である。芥川が、東西古今のさまざまの伝説を『種』にして、いろいろな小説を作〔つく〕った事は、私が前にくどいほど述べ、多くの人が知っているとおりである。芥川は、創造したり空想したりする才能は、乏しかったようであるが、物事を仕組むことは実に巧みであった。
ところで、芥川は、前にも述べたように、晩年になってからは、健康が弱るとともに、創作力もしだいに衰え、しまいには書くものが断片的になり、題材は幾らかちがっても、同じようなものばかり書いているような観があった。しかし、どの作品にも、何ともいえぬ哀調があり、底に切〔せつ〕ない悲しみが潜〔ひそ〕んでいる。そうして、芥川は、書く事を、死ぬ薬を飲む数時間前まで、つづけたのである。(後記――校正ずりを読みながら、ここのところを読んだ時、私は、芥川は実に『異常な人』であった、と、しみじみと思うのである。それは、この文章のなかで既に述べたように、芥川は、死ぬ前の年〔とし〕あたりから、強度の神経衰弱が高〔こう〕じて神経病者になっていた。そのほんの一つの例をあげれば、『歯車』のしまいの方の「何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。……」という文句だけでも察せられるような状態であった。それにもかかわらず、芥川が、自殺をくわだてる一二時間ほど前まで、『続西方の人』の(22)『貧しい人たちに』を、少しも乱れない文章で書きつづけた、ということに、私は、文字どおり、驚歎し、実に『異常な人』であった、と感歎するのである。)
*
「わが父よ、若〔も〕し出来るものならば、この杯〔さかづき〕をわたしからお離し下〔くだ〕さい。けれども仕〔し〕かたはないと仰有〔おつしや〕るならば、どうか御心〔みこころ〕のままになすつて下〔くだ〕さい。」
あらゆるクリストは人気〔ひとげ〕のない夜中〔よなか〕に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは「いたく憂〔うれ〕へて死ぬばかり」な彼の心もちを理解せずに橄欖の下に眠つてゐる。
*
これは『西方の人』の中の(28)「イエルサレム」の最後の一節である。(後記――口さがない人たちは、⦅あるいは、根も葉もないことを喋る連中は、⦆さきに引いた、『西方の人』の(28)のなかの、「あらゆるクリストは人気のない夜中に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは『いたく憂へて死ぬばかり』な彼の心もちを理解せず……」という文句のなかの『弟子たち』は芥川の『弟子たち』を差すのであろう、と云う。しかし、私は、この言葉は信じたくないのである。)
[やぶちゃん注:「弟子たち」宇野は例えば龍門の四天王と呼ばれた連中や、その他の芥川に師事した若い作家志望の『若者』をイメージしていると考えてよい。則ち、当然の宇野は勿論、芥川の盟友であり、『弟子』ではない。ではないが、芥川龍之介が「西方の人」と「続西方の人」で自らをキリストに擬えた時、彼は年若の後の小説家や小説家志望の若者らだけを『弟子』と認識していたのでは、無論、ない。寧ろ、彼に敵対し、彼を正しく理解出来ない、彼よりも先に自らを預言者(作家)であると自認していた者達をこそ、真の教え(芸術世界)へと導くべき『弟子』と認識していたはずである。宇野には承服出来ないであろうが――それは、宇野が芥川を、いや、寧ろ、他の小説家や大衆が芥川龍之介という稀有にして孤高の小説家を、正しく見なかった、芥川と自分との間の『一歩』の違いを理解し得なかった、と芥川龍之介自身は感じていたのである(『天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只この一歩を理解する爲には百里の半ばを九十九里とする超數學を知らなければならぬ』。「侏儒の言葉」の「天才」)。芥川龍之介は、ある意味で(少なくともその生前に於いて)芸術家としては絶対の孤高者として、絶対の孤独の中で、軍靴の音が響き始める大日本帝国の幻影の城を見上げる曠野に立ち竦まざるを得なかった。しかしにも拘らず彼は、惨めな「失敗であった」自身の一個の生と死が、無数の彼を遺伝する未来人として復活することを予言して(『わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。』(「侏儒の言葉」掉尾「民衆」)、自らを架刑したのである(リンク先は私の電子テクスト「正續完全版「西方の人」)。]
『西方の人』も、『続西方の人』も、芥川の死後、「遺稿」として、雑誌[註―「改造」の八月号と九月号]に出た。
前者は七月十日に脱稿し、後者は七月二十三日に書き上げた。つまり、芥川は、『続西方の人』の最後の章(22)「貧しい人たちに」を書いた日の翌日の未明に、死んでしまったのである。
[やぶちゃん注:私のテクストから、最終章「貧しい人たちに」を引用しておく。
22 貧しい人たちに
クリストのジヤアナリズムは貧しい人たちや奴隷を慰めることになつた。それは勿論天國などに行かうと思はない貴族や金持ちに都合の善かつた爲もあるであらう。しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつたのである。いや、彼等ばかりではない。我々も彼のジヤアナリズムの中に何か美しいものを見出してゐる。何度叩いても開かれない門のあることは我々も亦知らないわけではない。狹い門からはひることもやはり我々には必しも幸福ではないことを示してゐる。しかし彼のジヤアナリズムはいつも無花果〔いちじく〕のやうに甘みを持つてゐる。彼は實にイスラエルの民〔たみ〕の生〔う〕んだ、古今に珍らしいジヤアナリストだつた。同時に又我々人間の生んだ、古今に珍らしい天才だつた。「豫言者」は彼以後には流行してゐない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであらう。彼は十字架にかかる爲に、――ジヤアナリズム至上主義を推し立てる爲にあらゆるものを犧牲にした。ゲエテは婉曲にクリストに對する彼の輕蔑を示してゐる。丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬してゐるやうに。――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。]
芥川が、一世一代の作品、『或阿呆の一生』を書き上〔あ〕げたのは、六月二十日〔はつか〕らしいが、『或阿呆の一生』を、何〔なん〕月何日頃から、書きはじめたかは、よく分〔わ〕からない、が、五月の終り頃か六月の初め頃ではないか、と思う。
『或阿呆の一生』は、五十一章になっているが、章が変〔かわ〕るごとに、原稿用紙が改めてあるそうであるから、思いつくままに、工夫〔くふう〕に工夫〔くふう〕を凝らし、文章を練〔ね〕りに練〔ね〕って、丹念に、書いたものにちがいない。(そのために、迫力の欠けているところも随分ある。)
[やぶちゃん注:「或阿呆の一生」は松屋製ブルー二百字詰原稿用紙に書かれている。タイトルの「或阿呆の一生」は、写真版原稿によって最初、「彼の夢――自伝的エスキス――」とされ、次に「神話〔しんわ〕」というルビ付き標題となり(この時点で副題の「自伝的エスキス」がどうなったかは不明)、最後に「或阿呆の一生」となったことが分かっている。葛巻義敏は「芥川龍之介未定稿集」で本作は二度以上書き直しているのではないかという推定を示しており(宇野と同意見)、「芥川龍之介新辞典」の関口安義氏の本文脚注では、本作は久米正雄が本作の『改造』誌上への発表に際して『「脱字乃至誤字と目されるべきもの」がかなりあると言及してい』ることから、『十分に練られた作品ではな』く、『不眠症にとらわれていた芥川には、もはや作品を十分に推敲するゆとりはなかったのである』と断じている。私は――私は本作は、寧ろ十分に練られたものだと思う。――しかし、その練り方は整序する方向へではなく、芥川龍之介という謎に満ちた『神話』を創造するための、時空間を自在に行き来するような驚天動地の『練り方』であったと考えている。「或阿呆の一生」は恐らく、永遠に解けぬように創られた推理小説である。]
ところで、『或阿呆の一生』は、「自伝的エスキス」と云われているが、そういうところもあるけれど、全体から見て、『或阿呆(あるいは、或人間)の一生』という感じが殆んどない、が、芥川の晩年の「心象風景」として見れば、随所に、いたく心を打たれるものがある。
しかし、極言すれば、「いたく心を打たれる」のは、『或阿呆の一生』の最後の数章だけぐらいなもので、他の大部分は、芥川好〔ごの〕みの、逆説的な話を、機智のある話を、あるいは、アフォリズムを、気どった文章で、書いたものである。(そうして、その中には、さすがに気のきいた物もあるが、つまらないのもある。)
*
あの遺稿[註―『或阿呆の一生』]に書いてある言葉は多く短い。しかし私はちひさなふし穴のやうなあの短い言葉の一〔ひと〕つ一〔ひと〕つを通しても、君[註―芥川のこと]が感Jた精神の寂寥を覗き見る心地がした。
*
これは、島崎藤村の『芥川龍之介君のこと』[註―昭和二年の十一月号の「文藝春秋」に出た]という文章の中の一節である。
これもなかなか気どった文章である。しかし、気どり方はちがうが、おなじ気どっていても、藤村の方が意地がわるく、龍之介の方は、見え張〔は〕ってはいても、さっぱりしていて、潔いところがある。(この『芥川龍之介君のこと』は、芥川が死んでから出たのであるが、『或阿呆の一生』一章一章を「ちひさなふし穴のやうなあの短い言葉」などと書いてある、この文章を、仮りに芥川が生前に読んだとすれば、芥川は、あの青白い顔を真赤〔まっか〕にして、怒〔おこ〕ったにちがいない、私でさえ、あそこのところ読んだ時は、「この書き方〔かた〕はあんまりひど過ぎる、」と思った程であるから。)
[やぶちゃん注:以上の宇野の義憤は私と完全にシンクロする。島崎藤村「芥川龍之介君のこと」は私のブログに電子テクスト化し、注も附してあるが、これは永久にHPからのブログ・リンクである。それはこの忌まわしい文章を、芥川龍之介を愛する私として、HPの芥川龍之介と対等な頁とすることを、私が許さないからである。]
*
彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或〔ある〕古道屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つそれは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮〔くれ〕の往来をたつた一人歩〔ある〕きながら、徐〔おもむ〕ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。
*
これは、『或阿呆の一生』の最後の章にちかい、『剥製の白鳥』の一節である。
芥川は、いよいよ自分でこの世(裟婆)を捨てる、という時まで、かがやいた芸術家であった、極度の神経衰弱にかかりながら、『死ぬ薬』を飲む時吾も、決して正気〔しょうき〕を失わなかった。
されば、ここ書いた一節も、創作であるかもしれない、いや、創作であろう。しかし、創作、である、としても、この時すでに自殺を覚悟していた、とすれば、「彼は彼の、一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた」「日の暮の往来をたつた一人歩きながら、……」などというところは、文字どおり、悲痛である。
ところで、この『剥製の白鳥』は、六月二十日〔はつか〕前後に、書いたものであろう。
六月二十日、といえば、私は、日は忘れたが、六月の上旬に、芥川をたずねた。
[やぶちゃん注:以下の注で述べるが、この記憶は錯誤である可能性が高い。]
六月上旬の或る日の夜の九時頃、上野桜木町の私の家をたずねて来た、高野敬録と一しょに、芥川を、訪問することになった、「中央公論」の編輯を、滝田樗陰の下で、長い間、していたのを、半分以上自分から進んで止〔や〕めた高野を、「文藝春秋」の編輯部に、世話してくれることを、芥川に、頼むためである。(その時分の「文藝春秋」は、『看板に偽〔いつわり〕なし』という諺〔ことわざ〕どおり、文芸雑誌であり、その頃、『文壇の檜舞台』と称せられた「中央公論」に、菊池に、はじめて、小説[註―『無名作家の日記』]を、たのみに行ったのは、高野であり、それ以来、芥川や菊池その他に、「中央公論」の原稿をたのみに行ったのは、殆んど皆、高野であったから、文藝春秋社に高野ははいれるであろう、と、こう、単純に、考えたからであった。それで、その時、高野は、文藝春秋社に、はいれなかったが。)
さて、時間もおそく、その方〔ほう〕が便利であったから、桜木町の私の家から、田端の芥川の家まで、私たちは、人力車に、乗った。六月の晩としては珍しく初秋のような涼しい晩で、いや、肌寒い晩で、私は、車の上で、幾度か、単物〔ひとえもの〕の襟をかき合わせた。やがて、見なれた芥川の家の門の前に、車がついたので、玄関で声をかけると、めずらしく、夫人が出て来て、「すぐ近くにおりますから、呼んでまいりましょう、」と云った。が、私たちは、それは辞退して、「さしつかえのない所でしたら、おしえてくださいましたら……」と云って、芥川が原稿を書いているという、隠れ家の方へ、行くことにした。
その家は、自笑軒[註―芥川の家(高台)の下の狭い町の中にあった。「天然自然軒」というのが本当の名で、茶料理専門も芥川のヒイキの家であったが、芥川の歿後、何十年、毎年、祥月命日(七月二十四日)の夜、友人たちが、芥川を思い出す『河童忌』をひらいたのも、この家である]の裏あたりの、静かな一軒家であった、(と思う。なにぶん、二十四五年前に、それも、夜、一度しか行った事がない所であるから、記憶はおぼろである、が、芥川の家の方から行って、自笑軒の前を通〔とお〕り、五六間〔けん〕ほど行ったところを右にまがり、曲〔まが〕ってからまた五六間ぐらい行った右側にあった、ように、覚えている。)
[やぶちゃん注:宇野のこの記憶には、私は錯誤があると踏んでいる。何故なら、現在の年譜的事実を並べて見た時、凡そこれから書かれるような――平常な状況下に宇野浩二自身がなかった――と考えられるからである。宮坂年譜などをもとにこの前後を見ると、
●五月中下旬か
精神に変調をきたし、母や内縁の妻八重、友人の画家永瀬義郎らに伴われて箱根に静養に行くも、途中の小田原の料理屋で突然薔薇の花を食べるような奇行があり、数日で帰京する。
●五月下旬
友人広津和郎・芥川龍之介・永瀬義郎らが、宇野発狂の報を受け、奔走する。
●六月二日
芥川龍之介の紹介で斎藤茂吉が宇野を診断する(同日診察後の宇野の同行は不明)。同夜十時頃、芥川は主治医で友人の下島勲を訪れ、宇野の病態を下島医師に説明している。
●六月上旬(二日から十一日前後)